深谷市畠山と周辺の史跡めぐり

①から⑭まで巡って永田駅=秩父鉄道=武川駅を経由して①へ戻るコース
徒歩 約 6km(⑮⑯⑰は除く)



10. 川本地区の地名の変遷
11. 生沢クノ開業の地
12. 六堰 (ろくぜき)
13. 滝不動
14. 秩父鉄道
15. 双体道祖神
16. 本田城跡
17. 本田合戦



1.川本出土文化財管理センター
 川本出土文化財管理センターは深谷市内で発掘された出土品の保存管理を目的として設置され、企画展示や土器・石器作り体験教室の開催など文化財保護事業の拠点となっており、平成5年3月開所した。
 展示室にある巫女型の埴輪は市の指定文化財、お祭をしている姿を表したものとして有名になった埴輪。
馬の埴輪と人の埴輪は渋沢栄一記念館を建てる時に発掘して出てきた埴輪。
大型の土器は本田で出土したもので埼玉県内でも有数の縄文土器として知られる。
 保管室にあるものは、全体の形が判るまで修復された物が保管されている、筒型の土器は全体の1/4が有れば復元できる、いわば展示室へ行く予備軍。
上野台の割山埴輪窯跡から出土した大きな馬の埴輪が保管されていた。
花園の黒田古墳から出土した鉄製馬具は埼玉でも珍しい物の一つ。
 更に奥の部屋は復元前や復元出来なかった出土品などを保管している、7000箱ぐらい収蔵できる。 先代の見返りの松もここで保管されている。 所在地;深谷市菅沼
2.巨大サメの歯化石の産出地

 1986年、河床に露出した約1200万年前の地層から歯の化石が発見された、化石の主は、カルカロドン・メガロドン体長12mの巨大サメ。上下の歯が73本もそろったものは世界的にも例がなく、貴重な標本であることが判明した。 所在地;深谷市本田

3.植松橋

 植松橋のすぐ脇に、昭和26年(1951年)完成した冠水橋の基礎が残っている。 冠水橋が出来る前は『植松の渡し』と云う渡し船で渡っていた。 昭和46年(1971年)現在の橋に架け替えられた。 この辺りには水の流れを利用して小麦粉を引く船車と云う船が泊っていた。 高度成長期には川床の岩盤が露出するまで砂利を採取していた。 この砂利採取が川本地区を潤していた。

4.水神様

 この地域では小麦粉を引く船車や鵜飼・投網による漁業、秩父からの材木を筏で運ぶ筏師など、荒川とかかわって生活する人々が多くいた。これらの人達が、荒川での日々の活動の安全を祈って、この水神様を信仰したと伝えられている。 利根大堰で取水した水が、行田浄水場で水道水へと生まれ変り、吹上で荒川を渡り、更に水神様の近くの水道橋を渡って北上している。

5.井椋神社(いぐらじんじゃ)
 畠山氏が秩父からこの地に進出し、地名を氏とした。 この時、秩父市下吉田にある椋神社(むくじんじゃ)を勧請したと伝えられている。
 椋神社は代々秩父の守り神として尊敬されており井椋神社も畠山氏の守護神だったと推定される。
 神社の裏が鶯の瀬。 南側は重忠中興の菩提寺と伝わる満福寺、畠山館跡と合わせてこの地域が畠山重忠ゆかりの地。
 神社には宝物等は残っていない、畠山重忠は鎌倉幕府に討たれているため地元にはなにも残らなかったと思われる。
6.鶯の瀬
 畠山重忠(しげただ)が郎党の榛澤六郎成清(はんざわろくろうなりきよ)の館(岡部)へ行った帰り豪雨となり川が増水して荒川を渡れないで困っていたところ、どこからか一羽の鶯が飛んできて美しい声で鳴きながら浅瀬を教えてくれたので、無事川を渡ることが出来たと云われ、渡河が済んだ重忠が「時ならぬ 岸の小笹の うぐいすは 浅瀬たずねて 鳴き渡るらん」と詠んだと伝えられている。
 「鶯の瀬」の碑の書は、1972年から20年間埼玉県知事を務めた畑和(はたやわら)が書いたもの。
 対岸には櫛引から流れてきた武川放水路(櫛挽排水路【荒川放水路】が正しい)がみえる。
7.満福寺
 畠山重忠が壽永(じゅえい)年間(1182~1185年)再興し、菩提寺としたと伝えられている。 ここは畠山館の鬼門にあたる。
 現在の建物は江戸時代以降のもの。 観音堂には畠山重忠の守護仏の千手観音立像が安置されている。
 境内には阿弥陀三尊の立像が線刻された文明(ぶんめい)13年(1481年)銘の板碑がある。 茶釜が残っていたり、太刀が有ったと云う事だが今は見当たらないし、重忠の時代までさかのぼると特定できる物はない。
 重忠の死後、遺領は北条時政の娘であった妻に継承され、その後、足利義兼(よしかね)の六男の岩松義純(よしずみ)を養子(婚姻説もある)とすることで、かの地で名門畠山氏の家名は継承された。 そのためここ畠山には畠山氏に関わる物が残っていのではないか。
 江戸時代、宝暦(ほうれき)13年(1763年)重忠の五輪塔が境内に移されその後明治17年(1880年)になって元の場所に戻された、その跡には重忠廟と刻んだ自然石の碑が建てられている。
 その右に彰義隊士、水橋右京之亮の墓がある。 慶応4年(1868年)の紀年銘がある、この辺りまで逃れて来てここで息絶えたと伝えられている。
8.畠山重忠(しげただ)
 畠山重能(しげよし)が秩父からこの地、畠山に移り地名を氏とした。
その子重忠は長寛(ちょうかん)2年(1164年)ここで誕生したと伝えられている。
 重忠が17歳の時、源頼朝が石橋山で挙兵し関東の多くの武将が頼朝に従がったが、父重能が京都で平氏に仕えていたため「子は親に従う」と頼朝の軍勢と戦った。
 後に頼朝方に付き木曽次郎源義仲討伐、平家追討(一の谷の戦い=ひよどり越え)、奥州藤原氏討伐(阿津賀志山の戦い)などに参加し知勇兼備の武将として常に先陣を務め、鎌倉幕府創業の功臣として重きをなした。
 頼朝亡き後、幕府の権力を握ろうとした北條氏は、関東の名族で武蔵の大部分を勢力下に治めている畠山氏が邪魔な存在となり、元久(げんきゅう)2年(1205年)6月19日「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と重忠をおびき出した、畠山氏の主力は信濃や奥州へ遠征しており重忠は僅か百三十余騎で鎌倉に向かったが、二俣川で数万の軍勢に攻められ討死した。
存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄により「坂東武士の鑑」と称された畠山重忠は42才で亡くなった。
9.畠山館跡
 畠山重忠が長寛(ちょうかん)2年(1164年)ここで誕生したと伝えられる館跡で、大型の五輪塔6基が「畠山重忠墓」として、大正13年(1924年)埼玉県史跡に指定された。 五輪塔は鎌倉時代の特徴を持ち、中でも高さ160cmの中央の五輪塔が畠山重忠の墓と云われている。
宝暦(ほうれき)13年(1763年)満福寺に移されたが、明治17年(1880年)現在地に戻された。
 「新編武蔵風土記稿」に記されている井戸が、重忠産湯井戸として保存されている。
 嘉元(かげん)2年(1304年)銘の板碑や、重忠の父重能(しげよし)の墓と伝えれる自然石が残っている。
 また、一の谷のひよどり越えでの重忠の勇姿を表した銅像が地域住民の寄付により建立されている、重忠は身長180cmの当時としては大柄な体格、当時の日本古来からの馬はもう少し小型だったので背負えたかは別にしてバランスは良いのではないか。
像の脇には、重忠がこの石を持ち上げて体を鍛えたと伝わる重忠力石がある。
 館跡の北側から堀跡が発見されている。 その北から、柱を立て屋根が有ったと推定される荼毘をした跡と思われる石組み遺構が発見されている。 これだけ大きな石組みの荼毘の遺構はから、有力武将だった畠山氏の一族が火葬された跡ではないかと推定される。
10.川本地区の地名の変遷

 明治22年(1889年)畠山村と本田村が合併し、畠山の「畠」と本田村の「本」を採って榛沢郡本畠村(ほんぱたむら)となる。
 また同年、田中村・上原村(かみはら)・長在家村(ながざいけ)・瀬山村(せやま)・明戸村(あけと)・菅沼村(すがぬま)の6ヶ村が合併して榛沢郡武川村となる。
 昭和30年(1955年)武川村と本畠村が合併し、武川の「川」と本畠の「本」を採って川本村となった。 その後昭和52年(1977年)町制を施行して川本町(まち)が誕生した。
平成18年(2006年)深谷市・岡部町(まち)・花園町(まち)と合併し深谷市となる。

11.生沢クノ開業の地

 元治元年(1864年)深谷町で生まれ、日本第2号の女医となった生沢クノは、川越・深谷・寄居などで開業し地方医療に尽くし、貧しい人からお金を取らなかったと云われている。 その生沢クノがここで開業していた。

12.六堰(ろくぜき)
 江戸時代初期、荒川に奈良堰・玉井堰・大麻生堰・成田堰・御正堰(みしょうぜき)・吉見堰の六つの堰が作られ六つの用水路が整備された。 
しかし渇水時には上流と下流の堰の間で水争いが起こり、洪水時には施設の流失が繰り返された。
 水争いをなくし水を安定供給するため六つの堰を統合した六堰頭首工(ろくぜきとうしゅこう)が昭和14年(1939年)完成した。
昭和14年に完成した旧六堰はスピーカーのある辺りだったので花園地区にあった。 その堰の水量を調節する水門(ローリングゲート)が保存されている。 またトラス橋は川本出土文化財管理センターで保存さてれいる。
 環境の変化に伴い新たな六堰頭首工が整備され平成18年に完成した。 新しい六堰には魚道が整備されている。 所在地;深谷市田中
13.滝不動

 滝不動は、大和国初滝小池坊(はつたきこいけぼう)が行脚の際に当地に不動明王を祀ったのが始まりと云われている。 不動堂の崖下にある滝は、不動明王の霊験があるといわれている。 ここには「瀧の渡し」と呼ばれる永田と畠山間の渡し場があった。 所在地;深谷市永田

14.秩父鉄道
 明治34年(1901年)熊谷-寄居間を開業。大正5年(1916年)秩父鉄道株式会社に改称。
大正10年(1921年)北武鉄道(ほくぶてつどう)が羽生-行田市間を開業、翌年北武鉄道を合併し、熊谷-行田間が開業。
昭和5年(1930年)羽生-三峰口間の全線が開通した。
 深谷市内に小前田駅・武川駅(明治34年(1901年)10月7日開業)、永田駅(大正2年(1913年)6月1日開業)、明戸駅(昭和60年(1985年)3月14日開業)の4駅がある。 撮影地;深谷市永田
15.双体道祖神(そうたいどうそじん)

 この道祖神は男女の二神像が手を握り合った双体道祖神で、寛政12年(1800年)村の有志により建てられた。 双体道祖神立像は川本地区内唯一の像刻塔で珍しいため文化財に指定されている。 所在地;深谷市本田

16.本田城跡
 鎌倉時代~室町時代の築城と推定され、本田氏の館跡と伝えられている。
低い丘陵の南側の緩斜面を占める長方形の台地で約4ヘクタール、空堀土塁の一部が残っている。
戦国時代には深谷城の出城であったと伝えられている。
 本田長繁(ながしげ)は深谷上杉氏九代氏憲に属し、子の長親(ながちか)は後北條氏の家臣として1580年に小田原城へ参陣している。
 本田氏は畠山重忠の重臣で、元久(げんきゅう)2年(1205年)二俣川で重忠と共に討死した本田次郎親恒(ちかつね、近常・親常)の後裔。
 所在地;深谷市本田
17.本田合戦
 室町幕府成立後も新田氏は鎌倉府攻撃のため出兵しており、応安(おうあん)3年(1370年)2月、新田方の挙兵に対抗するため、幕府は関東管領上杉朝房(よしふさ)と、畠山基国(もとくに)を将として、この付近に本陣を構え1万騎を本田一帯に布陣した。
2月10日、本田にある舟山付近で激戦が展開し、新田軍は善戦したが劣勢のため信濃へ逃れた。 所在地;深谷市本田