ー 戦国期、二百数十年間、九代に渡り深谷を治めた深谷上杉氏の時代を中心に ー
深谷上杉氏
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関東管領上杉憲顕の六男、憲英が、管領の命令により北関東の治安安定のため庁鼻和城〔こばなわ・深谷市国済寺〕に入城した。
ここに、深谷の城下町としての街づくりが着手され深谷の夜明けが始まった。
この頃は、日本歴史上、中世の幕明けで民衆の力が勃興し、産業・経済・文化の発展が著しく、また各群雄が割拠し、所領をめぐってしのぎを削って争う動乱の世の中であった。
それと共に、反面は社会の安寧・秩序のために由緒と先例が重んじられ、特に家柄・名族などに対して尊重の観念が強く、この風潮・考え方にマッチしたのが深谷上杉氏ではなかろうか。
(深谷上杉氏資料集;深谷上杉顕彰会編纂〔現 深谷上杉・郷土史研究会〕より抜粋)
深谷城築城 康正二年(1456)
「享徳の乱」の過程で築城された深谷城。
深谷古城図・発掘調査の結果、そして地籍図を基に想像を膨らませ再現を試みた。
但し、学術的な根拠が有る訳では無く、飽く迄も想像です。
深谷領の侍忍領狼籍 并 坂本忍へ使の事(成田記)元亀三年(1572)
永禄十二年(1569)越相同盟が結ばれ、深谷と成田は謙信に従った。
然し越相同盟崩壊(1571年末)と共に、成田は北条側に、深谷は依然として謙信側につき、元亀三年(1572年)頃は敵味方に別れていた。
この年の秋、深谷の三人の若侍が忍領で酔狂の上狼藉をはたらいた事件の顛末。
成田氏長にとって弟の泰親の妻は深谷上杉憲盛の娘をめとっている関係で、兵火はまじえなかったが、いつ戦闘状態に入っても不思議はなかった。
〔深谷上杉氏資料集、深谷上杉顕彰会編纂より抜粋(途中かなり割愛しました)〕
天正十六年(1588)頃の深谷を取り巻く情勢
深谷上杉顕彰会〔現 深谷上杉・郷土史研究会〕会報108号に解説記事が有ったので転用しました。
深谷上杉氏に関係した深谷市内の史跡・神社仏閣
深谷上杉・郷土史研究会から「深谷市の史跡案内」と「深谷市の神社と寺」の本が発行されました。
深谷上杉氏とその時代に関係した項目を抜き出しました。
地図をクリックすると新しいページが開きます。
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深谷上杉氏に関係した全国の史跡・神社仏閣
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深谷上杉氏に関係する史跡をピックアップしてグーグルマップにプロットしました。
詳細な場所が判らない所が有ります。