深谷市針ヶ谷・櫛挽・本郷の史跡めぐり

約 5.5km


社長

 


1.弘光寺
 教王山仏母院と号す真言宗豊山派の寺院で、大和国初瀬(はせ)の長谷寺の末寺。本尊は不動明王。
 およそ1300年前、天平(てんぴょう)17年(745)、天竺(インド)の婆羅門僧であった資空阿上人(しくうあしょうにん)がこの地に来た時、大地震で多くの人が亡くなった。資空阿上人はここに草庵を建立し、仏母明王を彫って安置し霊を慰めた。以後仏母院という。
 文治(ぶんじ)年間(1185~89)源頼朝より150貫の地を寄進され、弘光寺と号した。
この時はじめて七堂伽藍を建立し、周囲に三十六坊を構え、末寺百数十ヶ寺を有した。
 京都醍醐寺所蔵の文書には、永徳(えいとく)2年(1382)「武州榛沢郡針加野村教王弘光寺灌頂道場」と記載されている。
 奈良長谷寺の十一面観音の試し彫りとして作られた十一面観音、船で利根川を上って運ばれた。
 天正9年(1581)に鉢形城主北条氏邦が弘光寺へ宛てた印判状がある。(市指定文化財)
 「針ケ谷にある仏母院屋敷は現在荒廃しているが、隠居所に進呈するので、その屋敷へ移られるように。寺に対しての諸役の立入りの禁止や、すべての年貢を免除する」というものである。
 かつて弘光寺は歴代領主に優遇されて来たが、戦国時代に至り寺の荒廃甚だしく、寺関係者がその復興を願い出だのに対し、氏邦が付与したものである。
 当時は鉢形領であった、印判状の仏母院屋敷は、今の弘光寺。
 江戸時代初期、慶安(けいあん)元年(1648)、三代将軍徳川家光の時代に三十石の御朱印を賜る。
 江戸時代後期、文化(ぶんか)元年(1804)火災に遭い、伽藍を始め古記録や漆器宝物等を焼失したため、往時の状況を知ることが出来ないのは残念。
この時、十一面観音と不動明王は持ち出されたが、不動明王は背中に火傷の跡が残っている。
 9年後の文化10年(1813)には、本堂伽藍を始め、庫裡や長屋門その他も再建した。再建されて201年目となる。
さらに終戦後、本堂を解体再建し現在に及んでいる。
二つの門が有ったが、伊勢湾台風で一つは倒壊してしまった。
本堂の杉戸絵は狩野派の絵師達によるもの。
 100種類以上の蓮の花。6月下旬から咲き始めるが色々な種類が有るので長く鑑賞できる。
2-1.弘光寺客殿(1)
 本堂の北側に建つ弘光寺客殿は天保(てんぽう)4年(1833)に建立されたもので、江戸時代の典型的な書院建築。間口七間、奥行五間の広さをもつ。屋根は寄棟で、当初は茅葺であったが現在は瓦葺となっている。
 部屋は八畳間が六部屋ある、南側の三部屋は控えの間で、北側の三部屋は茶の間・寝室・上段の間。
 四方に三尺の廊下が巡らされている。
 廊下の外側には東・南・西の三方に雨戸を立て回して、開け放せるようになっているが、現在はガラス戸が付けられている。
 廊下外側の南と西には狭い濡れ縁が付き、丹塗りの高欄が付いている。
北の廊下の外側は、二間だけ雨戸で、他は壁。
東側には濡れ縁が付くが、高欄はない。
2-2.弘光寺客殿(2)
 「茶の間」は東の部屋で、北側に床と床脇があり、茶が立てられるように炉が切られている。
 杉戸絵は、大西椿年(おおにしちんねん)の花鳥図が描かれている。
 「寝室」は茶の間との仕切りが杉戸。この部屋は密談の間とも呼ばれ、ある秘密がある。 南・西は壁で仕切られ・北は障子。
 小説家、井伏鱒二が度々訪れて、客殿に宿泊したと云う。井伏鱒二はこの杉戸絵を、「木目の抽象画的効果を十分に生かし、それを紙と見立てて描いている。当時としては別に珍しい事ではなかっただろうが、この部屋に入ると何となく気持ちがしゃんとするから妙である。」と評している。
 「上段の間」は他の部屋より床が高く、床と床脇がある付書院造り。西は廊下に面して障子。
 侵入者に襲われた時、廊下に抜ける。防御の為に廊下の一部が狭くなっており、寝室・又の名を密談の間へ抜ける。
畳の下に庭の奥、林に通じる地下の抜け道が有った。
3.鎌倉街道
 光弘寺に接した道が鎌倉街道。北は五十子(いかっこ)城に至る。
 昭和30年代の圃場整備で、一部失われているが、弘光寺に接した道は当時の鎌倉街道。

 「深谷の史跡めぐり」の中の鎌倉街道
  *中瀬の史跡めぐり-1.鎌倉街道跡の碑
  *小前田の史跡めぐり-3.鎌倉街道

4.弁天池
 澄んだ池がある、湧き水が出ていて、小さな弁天様があった。
 この池の弁天様が、櫛挽ヶ原に住む大ムカデにまとわり付かれて困っていたところ、弘光寺の御前様の手助けにより、針ヶ谷池の龍神様に助けられたと云う民話が残っている。
 この池の湧き水を源流とした小川が針ヶ谷堀。下流で小山川に合流している。
 千年ぐらい昔、縄文時代には川に沿って遺跡が点在していた。ボートピアの近くには四十坂遺跡がある。
 隣の本郷小学校の校庭では、雨が降った後に小さな黒曜石の矢じりなどを拾う事ができたと云う事です。
5.櫛挽台地
 櫛挽台地は寄居辺りから荒川の堆積物が扇状に溜まった。東側が荒川、西側が諏訪山・山崎山の手前、上野台あたりが端で、自然が十数万年をかけて出来たのが櫛挽台地。その先が妻沼低地。
 この台地の真ん中あ辺りが櫛挽ヶ原と云われていた、江戸時代までは、近隣の農民たちの入会地で下草、落ち葉、薪炭等の供給源、また防風林として長い間利用されてきた赤松を中心にした雑木林だった。
 櫛挽野の名の起こりは、鐘撞堂山の上から見ると松林があたかも櫛を引いたように見えるからだとも言われている。
6.櫛挽開拓団
 昭和20年(1945)、終戦後、就職難と食糧難で社会は混乱した。国は「緊急開拓事業実施要領」を決定。これを受け、埼玉県においては櫛挽ヶ原など56ケ所の開拓地事業が動きだした。
中でも櫛挽ヶ原開拓地は500ヘクタールに及ぶ規模で戦後埼玉県開拓地の中で最大規模の開拓地であった。
 昭和21年6月、114戸が、翌昭和22年末までには第二次入植者として地元農家の次男・三男を中心とする128戸が入植を終え総計242戸の開拓団が結成された。
 整然と区画された開拓地は、北からの赤城おろしを防ぐため、帯状に木を残し防風林とした。
 入植者達は、毎日の生活そのものが困難を極めた。折角苦労して開墾した農地は排水が悪く雨がが降り続くと水が溜まり、また旱魃により収穫も極めて不安定であった。
 水害を改善するため「荒川放水路」計画が立案された。これは利根川に流れ込んでいた排水を荒川水系に変更する画期的事業。これにより開拓地の排水が改善され、畜産農業の振興につながり、今日の隆盛をみるようになった。
7.櫛挽台地の雨水と荒川放水路
 櫛挽台地に降った雨は、藤治川から小山川を経て利根川へ。
針ヶ谷堀から小山川を経て利根川へ。
鐘撞堂山からの水は付近の雨水を合わせ、下唐沢川から福川を通り利根川へ。
 櫛挽台地のこの辺りの雨水は現在の新幹線の高架下辺りで二つに分かれ一方は高崎線を越え岡部村へと流れ、低地で分散し菱川から福川を通り利根川へ。もう一方は上唐沢へ合流し一気に深谷の町中に流れ込んだ。
 櫛挽台地に降った雨は、下流域で年々洪水の被害を発生させ、最終的には利根川に流入した。
 櫛挽ヶ原の雨水を集める上唐沢川を、高崎線に沿った新しい堀を開削し、下唐沢川に合流させ、深谷町内への流入を低減させ。更には合流した唐沢の下流域・福川は容量不足で洪水となるので、福川には合流させずに、小山川へ直結する堀を新たに開削した。
この唐沢堀放水路事業は昭和7年(1932)に竣工した。
 しかし、櫛挽台地の中央部と東部の雨水を集める唐沢川沿岸部は相変わらず洪水の被害を受けていた。また櫛挽ヶ原開拓地は緩やかな傾斜と、波状起伏の狭間で各所に水が溜まり易く雨が降り続くと農地が冠水し、収穫が不安定だった。
 これら雨水の一部を荒川に放水する櫛挽ヶ原地区幹線排水路(通称;荒川放水路)が計画された。藤沢・武川・花園の三村を通り排水を利根川水系から荒川水系へ変更するもので。耕地を潰される地域や、荒川が氾濫する恐れがあるとして荒川沿岸地区の反対に遭いながらも。耕地を潰される地域への新たな農業用水の整備や、荒川護岸の増強などを条件に荒川放水路は昭和22年(1947)着工し、昭和28年竣工した。
 その後排水路の整備や、玉淀ダムからの農業用水路などが整備されている。
8.東京第二陸軍造兵廠櫛挽製造所と幻の鉄道
 第2次世界大戦中の昭和18年(1943)夏、戦局の悪化と本土空襲に伴い兵器の増産と疎開の両面の意味合いから東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の疎開先として櫛挽、原郷、明戸に軍需工場が作られた。
 深谷製作所櫛引製造所は350棟余りの建物が500ヘクタールに及ぶ櫛挽ヶ原の原野に隠れるように建てられた。
 ここでは主に高射砲や迫撃砲に使われる火薬が作られた。
 これらの工場群へ軍需物資を運搬するために深谷駅から引き込み線が建設され、昭和19年7月15日に開通した。
 深谷駅から今の植木センター付近まで4駅のプラツトホームが設けられた。
 JR八高線に接続する計画であったが、終戦を迎えたため廃線となる。
 当時の建物跡が畑の中に残っている。
9.古墳群
 この一帯には、諏訪山古墳群、西山古墳群、千光寺古墳群、茶臼山古墳群、大明神古墳群、狢山古墳群など、旧石器~平安時代の遺跡が多数ある。
 山崎山と諏訪山の間、標高86.2mの通称狢山と呼ばれる山の中腹に、狢山祭祀遺跡がある。
 1950年ころ、山林を開墾中に、古墳時代の祭祀に用いられた人形、馬、武具、杵などの土製模造品が出土したことから、狢山祭祀遺跡の名が付けられた。
 5世紀後半のものと推定されており、埼玉県選定重要遺跡に指定されている。
 この狢山には6基の古墳が確認されており、最も大きいものは、長辺20m、短辺18mの方形墳。
10.藤治川
 山の麓に藤治川が流れている。
 戦国時代、城主用土新左衛門が毎年堀削し改修に努めた。
 藤田の郷を治めるにはこの川を治める、の意味で藤治川と命名したと伝えられる。

  現在は鐘撞堂山山麓の人造湖、円良田湖を水源とし、トンネルを通して用土の中央を流れ、やがて小山川に合流し利根川に入る。

11.菅沼小大膳供養塔
 菅沼小大膳は三河国(愛知県)設楽郡菅沼(額田郡出身とも)出身で徳川家康に仕え、長篠の合戦などで数々の勲功により徳川の家臣に抜てきされた。
 天正18年(1590)徳川家康の関東入国に伴い、上野国吉井(現高崎市)に2万石の領地を賜り、吉井城主となった。
そして旧本郷村も領地として支配し、この地に陣屋を構えた。
 江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」には『陣屋蹟、村ノ西ノ方ニアリ、木ノ下卜云、御入国ノ後菅沼小大膳定利忍城ヲ預カリシコトアリ、ソノ時此所二陣屋ヲ造リシト云、堀ノアト少シク遺レリ、又傍ノ林中二石碑アレド文字ハナシ』と記される。
 現在は陣屋の遺構は残っていないが、「文字はなし」と記された石碑は、定光院の南西の畑の中に建っている。
 岡部町郷土文化会の調査により文字が判明し、菅沼定利没後旧領民たちが、定利の徳を慕ってその冥福を祈り、建立した供養碑であることが明らかになった。
 供養碑の日付は、慶長6年(1601)辛丑(かのとうし)年6月22日と刻まれているそうであるが、定利が没したのは慶長7年10月22日である、それよりも一年以上早くこの石碑が建立されているこになる。
 真相は不明であるが、家督相続など何か有ったのではないかとも推察される。
定利には子が無く、徳川家康の長女・亀姫の子、奥平忠政を養子として迎えていたが、定利の死後忠政は養子を解消し奥平に戻って奥平家の家督を継いでいる。これにより菅沼家は絶えてしまい、旧領上野国吉井は天領となってしまった。
 一方飛び地の本郷の旧領地は菅沼氏と縁の深い花井伊賀守定清が継ぎ、この地を代々支配し、明治維新を迎えた。
 奥平家の事情はどうであったか?
 上野国小幡藩(群馬県)3万石の奥平信昌は家康の長女亀姫との間に4男1女をもうけた。家康の男孫に当たる次男と四男は家康の養子となり、三男忠政は菅沼定利の養子となる。
 供養碑の日付、慶長6年3月、奥平家に動きが有った、関ヶ原の戦功により美濃加納10万石与えられた。一方、長男家昌は家康の最年長の男孫だった事と関係してか、12月下野宇都宮10万石を与えられた。
このため、奥平信昌が拝領した美濃加納藩を継ぐべき宗家の嫡男が居なくなってしまったのは大きな誤算。
 奥平信昌は美濃加納藩10万石を継がせるため養子縁組を解消し忠政を連れ戻すごたごたが丁度慶長6・7年頃だったのではないだろうか?
 これにより菅沼家は絶えてしまい、旧領上野国吉井は天領となってしまった。
一方飛び地の本郷の旧領地は菅沼氏と縁の深い花井伊賀守定清が継ぎ、この地を代々支配し、明治維新を迎えた。
12.常光院・旧地頭花井家累代の墓
 定光院は菅沼小大膳が開基した。
 菅沼小大膳定利の没後、本郷の地は旗本花井伊賀守定清が継いだ。
定光院の北東には、花井氏の陣屋が有ったと云われ、定光院の裏手にあった池を「陣屋池」と称したのは、その名残と推測される。
 花井定清は、本郷村450石、榛沢新田村50石、合計500石、その後元禄3年(1690)花井助左衛門の代に200石の分家を出し、以後花井家は本家300石、分家200石で、明治維新までの260年以上にわたり支配が続いた。
 花井定清は、寛永15年(1638)に没し、定光院に宝鏡印塔形の石塔が建てられている。
以来、定光院は花井家の菩提寺となり、花井家代々の墓が建てられた。
 15代花井潜蔵の代に明治維新を迎え、幕府の大政奉還により花井家は所領を失ったため、一旦江戸屋敷に戻った。
 当時隠居の身であった14代当主吉十郎は、一人本郷村に戻り、本郷村で代々名主を務めた飯野善一郎家に転がり込んだ。
吉十郎は死ぬまで丁髯は切らず、プライドだけは高かった様であるが、飯野家は居候の吉十郎を昔の殿様時代と同様に、大事にもてなしたという。
 76歳で没した吉十郎は、飯野家により菩提寺である定光院に手厚く葬られた。
戒名も殿様の格式を備えた「花光院殿春山永晶居士」(読みは合っているか?です)を与えられた。
 花井氏の陣屋址は耕地整理で痕跡を残していない。
13.延命地蔵

享保(きょうほう・きょうほ)5年(1720)、今から300年ぐらい前に建立されたと云う。
 この延命地蔵尊の覆い屋が立派なレンガ造り。上敷免にあった「日本煉瓦製造」のレンガが使われていると云う事です。

14.藤田神社
 『新編武蔵風土記稿』によると「藤田郷寄居村の聖天を勧請せしものゆへ、この社号ありと云、されど寄居村正龍寺の旧記に、康邦夫婦及び先祖政行の三霊を神に祀り、用土城西北の藤樹の下に三社を建立し、藤田大明神と唱ふと、是当社のことなるべし」と記している。
 これにある聖天というのは、藤田郷十二か村の惣鎮守である聖天宮のことで、永享(えいきょう)6年(1434)の「藤田宗員寄進状」(相州文書)によると、北武蔵の名族藤田氏に厚く崇敬されていたことがわかる。藤田氏ゆかりの者が聖天宮の神と藤田氏一門の霊を祀ったのであろう。
 藤田神社が、現在地の飯玉神社の境内地に遷座したのは、明治41年(1908)のことで飯玉神社はこの折、藤田神社の末社となっている。