深谷市秋元町と周辺の史跡めぐり

①から⑥まで巡って①へ戻るコース ; 約 3km


社長

  1. 光厳寺 (こうごんじ)
  2. 元誉寺(げんよじ)
  3. 金燈籠橋
  4. 秋元氏館跡
  5. 秋元氏
  6. 桜ヶ丘組石遺蹟



1.光厳寺
 光厳寺(こうごんじ)は大久保藤右衛門忠次(ただつぐ)が父、大久保九郎兵衛忠元(ただもと)の菩提を追善するために承応2年(1653)建てた。
 上野台の領主大久保家は上野台四百石、下野国など含めて九百石の徳川家直参の旗本。 大久保彦左衛門・小田原の大久保氏の同族。
 光厳寺の厳(ごん)という字、中国の呉(ご)という国の読み方で、呉音で読むと「厳」は「げん」ではなく「ごん」となり「こうごんじ」と読む。 日光の華厳の滝の「ごん」と同じ。
 このお寺は光厳寺というより『おめいこうのお寺』と昔から呼ばれていた。
漢字で書くと御命講、同じ神仏を祭る同心の集まりを講という。 命というのは命日で日蓮上人の御命日、日蓮上人の御命日に集まる同心の人達の集まりを御命講と言っていた。 10月13日がお命日、新暦になって11月13日、今は土日に行っている。 明治になってからは御会式(おえしき)と云う言い方に変わった。
 文政(ぶんせい)9年(1826)200年ぐらい前の水鉢に色々な講中(こうちゅう)が彫ってある、熊谷三ヶ尻・妻沼・本庄・大田・伊勢崎があり、広い範囲から信仰を集めていた事が伺われる。
 明治15年の火事は西から火が出て、上宿から中宿(現上柴町西の一部)まで殆ど総なめになった、このお寺で残ったのが山門と鬼子母神堂。 鬼子母神堂の柱には焦げた跡が残っている。 鬼子母神堂は修理をしたり手を入れているが、骨格そのものは寛政(かんせい)5年(1793年)220年前に建てられた。 本堂内に鬼子母神が祀られるのが一般的だが、お堂を別に設けてお祀りしているお寺は珍しい。
 本堂は大正9年に再建。
 一番古い建物は宝暦13年(1763年)250年前に創建の山門。
 本堂脇に大久保家の墓所がある。
2.元誉寺
 元誉寺(げんよじ)は秋元氏の菩提寺で、深谷秋元氏初代の秋元景朝(かげとも)が永禄(えいろく)元年(1558年)建立した。 当初は金燈籠橋の近くにあったが、秋元泰朝(やすとも)により現在地に移された。
 秋元景朝(かげとも)と長朝(ながとも)の墓があったが、秋元氏が上野国惣社に移るとき墓も移された。 最近秋元氏の供養塔が建立された。
 天明(てんめい)7年(1787年)の絵図に描かれている山門・長屋門・薬師堂が当時の位置に建っている。 天神様・お稲荷さん・雷電は無くなっている。
 山門は、瓦葺の四脚門で、扉の開閉部に肘金(ひじがね)と壷金(つぼがね)を使わないで扉の上下の軸金を埋め込み開閉するように造られている。 最近再建された門。
3.金燈籠橋
 金燈籠橋は下唐沢川に架かる橋。 町内のご年配の方に聞くと『子供の頃は麦わらを積んで堰を作って水を溜め、水浴びができた』とか、今は立派な護岸が整備されているが『昭和24年に学生アルバイトとしてプロと一緒に玉石を積んだんだ』とお話しされる方が居た。
 家康が死んだ後、日光東照宮に祭られると、その恩に報いるため秋元長朝(ながとも)が金燈籠をここで造った。
金燈籠を造ったのは、児玉の鋳物師中林仲次(なかじ)。 大きさは1丈8尺(4m95cm)、元和4年(1618年)7月7日完成したが、身分不相応として日光東照宮への奉納は叶わなかった。 そのため、長朝は上野台陣屋に庭園を築き日光東照宮に見立て金燈籠を置いた。 長朝のひ孫秋元喬知(たかとも)が元服祝に明暦4年(1658年)、群馬県の世良田東照宮に奉納した。(重要文化財に指定)
 古地図を見ると金燈籠と書かれている、これが秋元町の昔の正式な小字名だった。
4.秋元氏館跡
 古地図に金燈籠と書かれている所が、秋元町の昔の正式な小字名だった。 昔は林に囲まれ土塁跡があった。 秋元町は昭和39年に宅地として造成され生まれた、一番早い人は昭和40年1月に家を建てた。
 秋元氏は深谷上杉氏の家臣で、上野台と瀧瀬を拝領しここに館をかまえた。
当時の武士の家屋敷は館とも言うがこれらを陣屋と称している。 戦国時代の陣屋は、戦闘とはあまり関係なく、領地を統治するための所で自分達の住まい。 深谷城の中に秋元曲輪があるが、いざ戦となると深谷城に入って戦闘に備えた。
 ここは高台で土地も痩せていた、そこで秋元長朝(ながとも)は上野台を開墾し茶を栽培した。 この茶を本庄宿へ出荷するために茶売り街道を造った。 また、中山道が水没したとき裏街道としても利用できる。
 秋元氏館跡の碑は昭和39年(1964年)建てられた。 碑の文字は秋元氏十五世の秋元順朝(ゆきとも)氏、当時第五代埼玉銀行頭取だった。 撰文は山内平八氏。 書は第二代深谷市長 木村一郎氏。 この碑の建立の発起人の中に初代深谷市長の安部彦平氏の名もある。
5.秋元氏
 秋元氏は約百年間上野台と瀧瀬に領地を持っていた。
 秋元氏は藤原氏を祖とし、初代宇都宮氏となった宇都宮氏宗円(そうえん)が康平(こうへい)6年(1063年)下野国(栃木県)守護職兼宇都宮社務職を授かった。 宇都宮氏五代頼綱(よりつな)の子、泰業(やすなり)が13世紀前半、上総国秋元荘(千葉県)を領し、のちに秋元姓を名乗った。 秋元景朝(かげとも)の時、天文10年(1541年)ゆえあってこの地を去り、深谷上杉憲賢(のりかた)の家臣となって上野台・瀧瀬の二村を拝領し、岡谷加賀守・井草左衛門・上原出羽守と共に、深谷上杉氏の四天王と呼ばれた。
 天正18年(1590年)小田原の役の時、秋元長朝(ながとも)は留守居役として深谷城を守っていが、敵将前田利家・浅野長政の猛攻を察知し、杉田因幡(いなば)と謀り開城して深谷を兵火から守った。
 その後、徳川家に仕え、総社(群馬県)・谷村(山梨県)・川越(埼玉県)・山形を経て館林(群馬県)六万石で幕末を迎えた。
6.桜ヶ丘組石遺蹟
 この遺蹟は櫛引台地の先端部にあり、昭和三十年の発掘調査によって八基の石組遺構が発見され、珍しい遺蹟として注目された。
 年代は縄文時代とされているが古代の人々が祭礼に使用したのか、不明な点も多く残されている。(説明文より抜粋)