深谷領の侍忍領狼籍 并 坂本忍へ使の事(成田記)

 永禄十二年(1569)越相同盟が結ばれ、深谷と成田は謙信に従った。
然し越相同盟崩壊(1571年末)と共に、成田は北条側に、深谷は依然として謙信側につき、元亀三年(1572年)頃は敵味方に別れていた。
 この年の秋、深谷の三人の若侍が忍領で酔狂の上狼藉をはたらいた事件の顛末。
 成田氏長にとって弟の泰親の妻は深谷上杉憲盛の娘をめとっている関係で、兵火はまじえなかったが、いつ戦闘状態に入っても不思議はなかった。

         〔深谷上杉氏資料集、深谷上杉顕彰会編纂より抜粋(途中かなり割愛しました)〕

 元亀三年(1572)十月の末、深谷の城主上杉左兵衛佐憲守(のりもり・憲盛)の臣江黒兵庫助、高津小次郎、萩原某といふ侍いづれも壮年にて、遊猟(ゆりゃう)として領内を経巡(へめぐ)りしか共、兎の壱ッだに獲(え)ずして忍領に越へてやうやく小鳥壱羽を打て嶋村の酒店に入る。

 是を肴として各数盃をかたむけ、酔狂の余りにや其家の鶏を鉄砲にて打つ。

 主じの男是を憤りて其非道を咎(とが)めければ、三人の侍大に怒り主じをさんざんに打擲(ちゃうちゃく)す。 此騒ぎに驚き百姓共大勢集り、その非法を糺(ただ)さんとする処、三士猶(なお)も怒り百姓二人を切殺せしに依て其騒動大方ならず。 成田家に注進するといへども、里数隔りければ。

 別府尾張守長清是を聞て、竹屋大炊助信武に士卒拾餘人を相添嶋村に差向けり。

 別府の足軽二人討れ三人は深手を負けれ共、大炊助信武は其先京家の侍にて聞ゆる剛勇なれば事共せずさんざんに戦へば、三人の若侍今は勢力尽き果、高津は某所にて討れ、江黒・萩原数ヶ所の疵を蒙(かふむ)りて終に生捕となりけり。

 上杉家より坂本民部を使として相越す、麁忽(そこつ)の挙動(ふるまい)仕出す事、憲盛誠に恥入候なり、渠等(かれら)を此方へ賜りて成敗(せいばい)仕り。

 (成田)氏長怒れる顔色にて、汝が主人上杉武衛(ぶえ・左兵衛佐の略、上杉憲盛のこと)は、家来をして我領に狼籍(らうぜき)をなさしめ、尚飽(あき)足らずや件(くだん)の賊共を取返んと欲(ほっす)る条其の意得難しと問ければ。
 民部答て申けるは、御怒は去(さる)事なれ共、三人の者共法を犯し候儀元より憲盛夢々存ぜざるに依て、今某を使として陳謝する処なり。

 氏長居丈高(ゐたけだか)になりて申けるは、汝は我に耳目なしと思ふや、元来深谷は隣城のよしみといひ、弟(成田)泰親の縁者たるがゆへ無事に立置なれば、礼を厚ふして詫すべき事なるに、汝が如き侫者(ねいしゃ)を使として無礼の言葉を吐(はか)せ、我を侮る事奇怪(きつくはい)の至なり。

 我軍一度発しなば深谷の城を踏破り、憲盛の一族を誅戮(ちうりく)せん事は炭火(たんくは)を盛(さかん)にして一毛(もう)を焼よりも猶安(なおやす)し、まづ血祭りに汝が頭を刎(はね)て軍神に備へんと威(おどし)しけれ共、民部少しも驚ず微笑(びせう)して又曰(いわ)く無礼との御咎(おとがめ)は恐入て候得共、管領家全盛の頃には上杉の家々門葉の威光ありて、関東八家の歴々も其右りに座列す。 況(いわん)や他門外様の家におゐてをや。

  今は時移り世変じて、主は臣に服し臣は君を奴隷(ぬれい)の如く辱(はずか)しめける節なれば、憲盛威もなく、勢もなく当家に及ばざるを知て不肖の某(それがし)なれ共、爰(ここ)に平伏して敢以礼を犯さず、唯御不審あれば申開くのみと、言語整々として述ければ。  氏長も坂本の利口に言込められ、尚色変じ烈火の如くせき立けるを、本庄、酒巻強(しい)て宥め、民部は次へ追立やうやう其座を静めけり。
 老臣等示談していろいろ諫(いさめ)けるゆへ、坂本を助け帰し、三人が首を刎(はね)て梟木(けいぼく)に掛られけり。

 是よりして成田、上杉不和となり上杉、成田を恨むる事深重なりとぞ。

〔時代背景〕
  永禄二年(1559)越相同盟成立に伴い北条に従っていた成田と深谷は謙信に従うことになった。 然し元亀二年(1571)越相同盟が崩壊し甲相同盟が結ばれ、成田は北条側に、深谷は依然として謙信側についていた。 この事件が起こった元亀三年(1572)頃は敵味方に別れていた。
  然し、成田氏長にとって弟の泰親の妻は上杉憲盛(深谷)の娘をめとっている関係で、兵火はまじえなかったが、いつ戦闘状態に入っても不思議はなかった。

 翌元亀四年(1573)四月上杉憲盛は北条氏と和睦した。
 同じころ、関東の大部分の大名が謙信との関係を絶ったので、怒った謙信は深谷城をはじめ、武蔵・上野・下野などの城を攻め、城下に火を放って関東から全面的に軍を撤収し越後に引き揚げた。