Title9-3.GIF (2758 バイト) クロニクル 豊臣秀吉 天下統一 探究テーマ史 #205  


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織田信長が本能寺に明智光秀に殺され、毛利攻めに出向いていた羽柴秀吉は、中国大返しで明智光秀を破り、信長の後継者争いの中で柴田勝家を破り、徳川家康と和睦、九州平定、陸奥 伊達政宗などを従わせ、総仕上げとしての小田原 北条攻めにより、天下統一を成し遂げた。



 ■ クロニクル「豊臣秀吉 天下統一」  
 年 タイトル 
1582年
(天正10年6月)
 信長、武田を滅亡させ、上杉・毛利を抑える。
1582年
(天正10年12月)
 信長、本能寺で明智光秀に敗死。羽柴秀吉が光秀を討ち、後継者に。


 ■ 豊臣秀吉 天下統一 (年表詳細)  
 年 月  出来事 
1582年
(天正10年)
6月  2日未明、本能寺の変;明智光秀、13,000の兵で本能寺を包囲し、信長を殺す。
     信長の嫡男信忠も二条御所で自害。
     明智軍に従軍した本城惣右衛門が江戸時代に著した『本城惣右衛門覚書』では、本城らは京に徳川家康が来ているので、家康を討つのだと思っており、信長を討った時ですら相手が信長と思っていなかったと回想している。
     3日 羽柴秀吉に「本能寺の変」第一報が届く。
     4日 羽柴秀吉、高松城主 清水宗治の自刃をもって毛利氏と講和。”中国大返し”*2
     8日 明智光秀、近江 坂本城に入る。
     細川藤孝は上役であり、親戚でもあった明智光秀の再三の要請を断り、剃髪して田辺城に隠居、嫡男忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断る。
     本能寺の変が起こると、旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こる。織田家中の同僚である森長可、毛利長秀らが即座に領地を放棄し美濃へ帰還する中、滝川一益と河尻秀隆は甲斐の領国に留まった。
     15日;山崎の戦い;秀吉、明智光秀を討つ。
     16日;信長の死に乗じ、小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻し、滝川一益が厩橋城(現 前橋市)で迎え撃ち、18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌19日の合戦では北条勢が勝利した。滝川一益は伊勢に逃げた(その後蟄居)が、織田方での地位は急落した。
     18日、家康の甲斐横領の意図を察知した秀隆は、調略に来た本多忠政を斬殺して家康との断交の意思を明確にした。忠政の家臣の呼びかけによって結集した武田遺臣に襲撃され、河尻秀隆が討ち取られる。家康、北条氏との争奪戦を制し甲斐を領する。
     27日、清須会議;織田家の後継を信雄と信孝で争っていたが、4人の宿老~羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が中心となって、後継を三法師(信長の長男信忠の嫡男、当時3歳)に決定。
     徳川家康、清須会議の後、甲斐・信濃攻めに着手、武田遺臣らを用いた工作を開始するなど短期間で領国を拡大させる。
  7月  秀吉、山城検地を行う。
     織田家家督の問題が片付いた後、秀吉は畿内を手中に収め、同じ宿老である丹羽長秀・池田恒興を実質的麾下に置く。織田家の主導権を握った秀吉が、天下人を継いだかのような行動を取り始めたために、織田信孝はこれと反目して、同じくこれに不満を持っていた柴田勝家に接近。*wiki
  10月  15日秀吉、京の大徳寺で織田信長の葬儀を催す。
     勝家と信長の妹お市の方との婚儀が岐阜城で行われる。これを仲介したのは織田信孝だといわれるが、秀吉が仲介したとの説もある。
     柴田勝家は堀秀政を介して秀吉が清洲会議の決定に違反していると通告し、諸大名に弾劾状を送る。
     10日から15日にかけて大徳寺で秀吉自身を喪主とした信長の葬儀が大々的に行われる。織田家からは異母弟・羽柴秀勝、信長の乳兄弟でもあった池田恒興・古新親子が参加したが、当主・三法師、その後見人の信雄、信孝、宿老の勝家、滝川一益はこれに出席できず。*wiki
     羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の三宿老が、清洲会議の決定を反故にし、織田信雄を暫定的な織田家の当主として主従関係を結ぶ。後に徳川家康も賛同して信雄を支持した。*wiki
  11月  柴田勝家は前田利家を介して秀吉と一旦和睦。これは勝家の領土が雪国で、冬は行動が制限されるため。それを見抜いた秀吉は、逆に前田利家を調略。*wiki
  12月  秀吉、織田信孝が三法師を手放さないことを理由に挙兵。丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢。雪で柴田勝家が動けないままに、秀吉は長浜城の柴田勝豊(勝家の甥)を降し、信孝の岐阜城を包囲し降伏させる。*2*wiki
1583年
(天正11年)
4月  賤ケ岳の戦い;羽柴秀吉、柴田勝家を破る。勝家・夫人お市(信長妹)、越前国北庄城で自害。
     秀吉、加賀に進み前田利家、佐々成政らを帰順させる。*2
  5月  織田信雄、尾張で柴田勝家側に立った織田信孝を自害させる。*2
  8月  秀吉、大坂城築城を開始(1585年完成)。
  この年  旧武田領の甲斐・信濃・上野(一部)をめぐり、徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈する。依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)・駿河・遠江・三河(碧海郡(矢作川以西)を除く)の5か国を領有する大大名へとのし上がった。
1584年
(天正12年)
3月  徳川家康、尾張の清洲城で織田信雄と会い、羽柴秀吉と敵対する。*2
4月  小牧・長久手の戦い;徳川家康・織田信雄、羽柴秀吉を破る。
  6月  ポルトガル船、平戸に来航。
  12月  秀吉、家康と和睦。
 1585年
(天正13年)
4月  秀吉、高野山を帰順させ、武装解除させる。*2
  6月  羽柴秀長(秀吉の弟)、四国の長曾我部元親攻めに向かう。*2
  7月  羽柴秀吉、関白となる。*2
     長曾我部元親が降伏(秀吉、四国平定)。*2
  9月  羽柴秀吉、豊臣姓を賜る。*2
1586年
(天正14年)
5月  徳川家康、朝日姫(秀吉の妹)を正室(継室)にむかえる。*2
  8月  豊臣秀吉、黒田義孝・小早川隆景らに九州攻めを命じる。*2
  10月  秀吉、大政所(秀吉の母)を人質として徳川家康におくる。*2
     島津義久、大友氏攻撃のため日向に出陣。*2
     徳川家康、諸将らと大坂城で豊臣秀吉に謁見。*2
  12月  豊臣秀吉、惣無事令を発する。*2 ■■■ 日本の合戦年表 ■■■(P155)
     島津家久、豊臣方の仙谷秀久・長曾我部信親らを豊後の戸次川で破る。*2
1587年
(天正15年)
3月  豊臣秀吉、九州 島津討伐のため大坂城を出立。*2
  4月  豊臣秀吉、日向の根白坂で島津義久らを破る。*2
  5月  島津義久、豊臣秀吉に降伏;豊臣秀吉 九州平定。*2
  6月  豊臣秀吉、九州の国分けを行う。*2
     秀吉、バテレン追放令を発布。京の南蛮時などを取り壊す。*2
 1588年 7月  秀吉、刀狩令・海賊取締令を出す。*2
  8月  島津義久、豊臣秀吉の命により琉球王国に日本への服属を促す。*2
1589年 7月  秀吉、信濃 真田正幸に上野 沼田領の1/3を北条氏に渡すよう命じる。*2
  9月  秀吉、妻子を京に住まわせるよう諸将に命じる。*2
  11月  秀吉、約定に反して真田氏の名胡桃城を奪取した北条氏に誅伐を通告。*2
1590年  1月  秀吉、陸奥の伊達政宗に参陣を催促。
  3月  秀吉、相模の北条氏討伐のため小田原城に向けて聚楽第を出陣。*2
  4月  秀吉、北条氏が籠城する小田原城を包囲。*2
  6月  伊達政宗、小田原陣中の秀吉のもとを訪れ、臣従することを奏上。*2
  7月  小田原城の北条氏直が降伏。(豊臣秀吉の全国統一
     秀吉、徳川家康に北条氏の所領である関東への移封を命じる。*2
  8月  徳川家康、江戸城に入る。*2
  9月  秀吉、京に戻る。*2
1591年 2月  千利休、秀吉の命により自害。
  8月  秀吉、翌年の朝鮮出兵を発表。諸将に肥前名護屋城の造営を命じる。*2
   12月  豊臣秀次(秀吉の甥)が関白となる。
1592年 1月  秀吉、3月からの朝鮮出兵を諸将に命じる。*2
     秀吉、琉球を島津氏の与力とする。*2
  3月  秀吉、大軍を朝鮮半島におくる;文禄の役 はじまる。*2
  4月  肥後の小西行長ら第一軍が釜山に到着。
     秀吉、肥後 名護屋城に到着。*2
  5月  小西行長、加藤清正らが漢城を攻める。*2■■■日本の合戦年表■■■
  6月  小西行長、黒田長政らが平壌を攻める。*2
  9月  小西行長、明の沈惟敬と会い講和を結ぶ(50日間の休戦)。*2
1593年 1月  小西行長、明の李如松の攻撃を受け平壌を脱出。*2
  4月  小西行長らが沈惟敬と会い、講和使節の派遣を約束。*2
     小西行長らが漢城を脱出。*2
  6月  豊臣秀吉、明の使節に和平7か条を提示(文禄の役集結)。*2
1594年 8月  豊臣秀吉、伏見城に移る。*2
1595年 1月  小西行長と陳雲が協議するも決裂。*2
  7月  秀吉、豊臣秀次を高野山に蟄居させる。*2
     豊臣秀次、高野山で自害。*2
     秀吉、徳川家康・前田利家ら諸将に子の拾(秀頼)への忠誠を誓う起請文を提出させる。*2
1596年 1月  小西行長、明の副使 沈惟敬を連れて日本に向かう。*2
  6月  沈惟敬、伏見城で豊臣秀吉に謁見。
  9月  明の正使が豊臣秀吉に謁見。金印・冠服を授け、天子(皇帝)の言葉を告げたが、秀吉はその言葉に激怒。再び朝鮮に出兵することを決める。
     

資料    『世界史大年表』 石橋秀雄他
 *1 『日本史年表・地図』 (吉川弘文館)
 *2 『日本の合戦年表』 (地人館編著 朝日新聞出版)
 *3 『信長公記』



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