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出来事 |
1582年
(天正10年) |
6月 |
2日未明、本能寺の変;明智光秀、13,000の兵で本能寺を包囲し、信長を殺す。 |
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信長の嫡男信忠も二条御所で自害。 |
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明智軍に従軍した本城惣右衛門が江戸時代に著した『本城惣右衛門覚書』では、本城らは京に徳川家康が来ているので、家康を討つのだと思っており、信長を討った時ですら相手が信長と思っていなかったと回想している。 |
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3日 羽柴秀吉に「本能寺の変」第一報が届く。 |
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4日 羽柴秀吉、高松城主 清水宗治の自刃をもって毛利氏と講和。”中国大返し”*2 |
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8日 明智光秀、近江 坂本城に入る。 |
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細川藤孝は上役であり、親戚でもあった明智光秀の再三の要請を断り、剃髪して田辺城に隠居、嫡男忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断る。 |
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本能寺の変が起こると、旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こる。織田家中の同僚である森長可、毛利長秀らが即座に領地を放棄し美濃へ帰還する中、滝川一益と河尻秀隆は甲斐の領国に留まった。 |
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15日;山崎の戦い;秀吉、明智光秀を討つ。 |
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16日;信長の死に乗じ、小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻し、滝川一益が厩橋城(現 前橋市)で迎え撃ち、18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌19日の合戦では北条勢が勝利した。滝川一益は伊勢に逃げた(その後蟄居)が、織田方での地位は急落した。 |
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18日、家康の甲斐横領の意図を察知した秀隆は、調略に来た本多忠政を斬殺して家康との断交の意思を明確にした。忠政の家臣の呼びかけによって結集した武田遺臣に襲撃され、河尻秀隆が討ち取られる。家康、北条氏との争奪戦を制し甲斐を領する。 |
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27日、清須会議;織田家の後継を信雄と信孝で争っていたが、4人の宿老~羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が中心となって、後継を三法師(信長の長男信忠の嫡男、当時3歳)に決定。 |
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徳川家康、清須会議の後、甲斐・信濃攻めに着手、武田遺臣らを用いた工作を開始するなど短期間で領国を拡大させる。 |
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7月 |
秀吉、山城検地を行う。 |
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織田家家督の問題が片付いた後、秀吉は畿内を手中に収め、同じ宿老である丹羽長秀・池田恒興を実質的麾下に置く。織田家の主導権を握った秀吉が、天下人を継いだかのような行動を取り始めたために、織田信孝はこれと反目して、同じくこれに不満を持っていた柴田勝家に接近。*wiki |
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10月 |
15日秀吉、京の大徳寺で織田信長の葬儀を催す。 |
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勝家と信長の妹お市の方との婚儀が岐阜城で行われる。これを仲介したのは織田信孝だといわれるが、秀吉が仲介したとの説もある。 |
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柴田勝家は堀秀政を介して秀吉が清洲会議の決定に違反していると通告し、諸大名に弾劾状を送る。 |
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10日から15日にかけて大徳寺で秀吉自身を喪主とした信長の葬儀が大々的に行われる。織田家からは異母弟・羽柴秀勝、信長の乳兄弟でもあった池田恒興・古新親子が参加したが、当主・三法師、その後見人の信雄、信孝、宿老の勝家、滝川一益はこれに出席できず。*wiki |
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羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の三宿老が、清洲会議の決定を反故にし、織田信雄を暫定的な織田家の当主として主従関係を結ぶ。後に徳川家康も賛同して信雄を支持した。*wiki |
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11月 |
柴田勝家は前田利家を介して秀吉と一旦和睦。これは勝家の領土が雪国で、冬は行動が制限されるため。それを見抜いた秀吉は、逆に前田利家を調略。*wiki |
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12月 |
秀吉、織田信孝が三法師を手放さないことを理由に挙兵。丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢。雪で柴田勝家が動けないままに、秀吉は長浜城の柴田勝豊(勝家の甥)を降し、信孝の岐阜城を包囲し降伏させる。*2*wiki |