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1983年8月、アメリカ・テネシー州メンフィスへ行きました。 |
今から26年前、私の初めての海外旅行でした。エルヴィス・プレスリー・ファンクラブの主催で彼のお墓参りが |
目的の旅行でした。エルヴィス・プレスリーは1977年8月16日に42歳の若さで突然この世を去りました。 |
ファンクラブでは毎年ラスヴェガスで行われるエルヴィスのショーを見に行く恒例のツアーがありましたが |
彼が亡くなってからは、それに変わって命日に合わせたメモリアル・ツアーが行われることになりました。 |
中学2年生の時、ラジオから流れてきたエルヴィスの「監獄ロック」を聴いて以来、熱烈なファンになった私は |
彼のショーをぜひ見に行こうと仕事をして旅行費用を蓄えていましたが、彼の死でその夢は消えてしまいました。 |
しかしファンクラブで墓参ツアーが行われていることを会報で.知り、自分もいつか参加したいと思うようになりました。 |
そして没6年後に夢が叶いました。細かいことは忘却の彼方に消えてしまったので、自分がおぼろげに記憶して |
いることを書き、アルバムにある当時の写真をHPで見ていただくことにしました。 |
日本全国のどこかにいらっしゃるエルヴィス・プレスリーファンが見てくだされば嬉しく思います。 |
エルヴィス・アーロン・プレスリーは1935年1月8日午前4時35分頃、ミシシッピー州テュペロにある、2部屋だけの |
小さな家で双子の1人として生まれました。先に生まれた双子の兄弟ジェシーは死産でした。 |
父のヴァ―ノンは仕事に恵まれず、小作農夫、運転手などの職を転々と変えて一家の暮らしは貧しいものでした。 |
エルヴィスが13歳の時、父が職を失ったのを機に一家はテネシー州メンフィスに移り、公営住宅に転居しました。 |
エルヴィスは高校卒業後、精密金型会社に就職し次にエレクトリック社のトラック運転手になりました。 |
子どもの頃から音楽が好きでラジオ番組に出演したり、コンテストに出場して入賞していました。 |
そして11歳の誕生日に母のグラディスからギターを買ってもらい大変喜んで大事にしていました。 |
1953年、エルヴィスは母親の誕生日に自分の歌をレコードに入れてプレゼントしようとサン・スタジオを訪れ、 |
4ドル余りを払って自らのギター伴奏でアセテート盤に「マイ・ハピネス」と「心のうずく時」を録音しました。 |
そのことがエルヴィスの人生を一変させ、のちに「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれるまでになりますが、 |
その経緯はエルヴィスファンならよく知っていることなので省略します。 |
また、エルヴィスは1958年1月にアメリカ陸軍への徴兵通知を受け、一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で |
2年間勤務をしました。エルヴィスは軍在籍中に空手の黒帯を取得し、1960年3月に満期除隊した時の階級は |
軍曹でした。そしてドイツで知り合ったプリシラ・ボ−リューと1967年5月1日に結婚し、翌年の2月1日に娘のリサ・ |
マリーが誕生しました。しかしエルヴィスの昼夜逆転の生活習慣や年間数カ月の別居生活などの様々な理由で |
1973年10月3日に正式離婚しました。 |
エルヴィス・プレスリーといえば、一般の方はロックンロールを思い浮かべますが、彼はロックのほかにブルース、 |
カントリー、ゴスペルなどでも多くのヒット曲を出し、エミー賞を受賞したのはゴスペルでした。 |
敬虔なクリスチャンだったエルヴィスはスタジオでレコーディングする合間に仲間とよくゴスペルを歌っていました。 |
ところでエルヴィスは歌手よりも映画俳優になりたかったそうです。 |
1956年にヒット曲「やさしく愛して」が映画化され、それに主演したのが始まりで31本の映画に出演しました。 |
しかし映画内では必ず歌うシーンが用意されていたので、シリアスな演技派を目指していたエルヴィスは大変 |
不満に思っていたそうです。 |
その不満が歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになり、ラスヴェガスのステージや地方公演などの |
コンサート活動を精力的にこなしていくようになりました。 |
エルヴィスが亡くなる前の7年間に行ったコンサートは1,000回以上で1ケ月平均35回という殺人的な |
スケジュールでした。そのことが重圧になり、睡眠薬などの薬物を使用するまでにエルヴィスを追い詰めたのかも |
しれません。エルヴィスはステージ上で死ぬことを望んでいたとも言われますが・・・。 |
ところで、テネシー州メンフィスは人口約65万人(2000年の国勢調査)の都市で人口の半数を黒人が占めています。 |
古くから綿花の集散地として栄え、私たちが訪れた時にも町の周辺には綿畑がたくさんありました。 |
ブルースの発祥地としても有名で、ライブハウスが数多くあって夜遅くまでブルースが聞こえてくる町です。 |
エルヴィスのお墓は彼が後年20年間住んでいたグレイスランド・マンションと呼ばれる自宅の庭にあります。 |
そして今も世界中から年間約70万人のファンや観光客が訪れています。 |
<思い出のアルバムから> | ||||
ミュージック・ゲート前で記念写真 |
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グレイスランドの玄関 | 2階のエルヴィスの部屋 |
グレイスランドが目の前に見えるバスの発着場から専用バスに乗り邸内に入場しました。2階はプライベートエリアで |
公開されているのは1階と地下の一部でした。各部屋の入り口には太いロープが張られていてガイド役の女性が |
「この部屋でエルヴィスは時々ピアノを弾いていた」とか、「食事の時は正面のあの椅子に座っていた」などと |
説明してくれました。ツアーの仲間の半数以上は英語を理解できましたが、私のように理解できない人のために |
ファンクラブの赤沢会長が通訳してくれました。 |
リビングルーム、奥にエルヴィス愛用の白いピアノが見えます。 | ||
ダイニングルーム | ||
鏡張りのテレビルームには同時に見られるように3台のテレビが並んでいました。 | ||
レコーディングも行われたジャングルルーム | ホーム・バー | |
入隊後、ドイツで着た軍服 |
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ELVIS主演映画の台本 | ||
壁に飾られた写真や肖像画 |
邸内を見学した後は裏庭を通って別棟の「トロフィールーム」に移動しました。庭に植えられた木の数本に |
ピンクの花が咲いていました。近くに寄ってみると私の大好きな百日紅でした。もしかしたらELVISも |
優しいピンクの花が好きだったのかもしれません。 |
部屋には120枚のゴールドレコードやトロフィーなどが溢れんばかりに展示されていて目を見張りました。 |
そして映画やコンサートのビデオで見たことのある衣装もたくさん展示されていて、とても懐かしく感じました。 | ||||
プリシラとの結婚衣装 | TVスペシャルの革ジャンバー | ハワイ公演の衣装 | ||
ELVISのトレードマークにもなっていたジャンプスーツの数々 |
コンサートの映像で見たことがある豪華なマント |
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ELVISが元気だったら次のツアーで着る予定だった衣装 |
最後は目的の<メディテーション・ガーデン>にあるELVISのお墓へ。 |
祖母と両親、そして双子の兄弟ジェシーのお墓がELVISと一緒に並んでいました。 |
ファンからのプレゼントに埋もれたELVISのお墓。左手前の千羽鶴は私が持って行ったもの。 |
数々のプレゼントを見るとELVISが死後もファンの心の中に生き、愛されていることが良く分かります。 | ||
命日の16日はメデティーションガーデンの周りをファンがキャンドルを持って歩き、彼を偲びました。 | ||
邸内には牧場があり、ELVISの愛馬・ライジングサンが草を食んでいました。 |
ELVISが最後に乗っていた車 |
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愛用したオートバイ | ||
ファンが乗ってきた車 |
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ELVISになりきっている少年 |
メンフィス滞在中は数人の人と連れ立って毎日グレイスランドに行きました。 |
ある日、1人で自由に行動したくなってグレイスランド近くにたくさん並んでいる土産物店に入りました。 |
一般の観光地ではないので店員さんに日本語は全く通じませんでしたが、身振り手振りでトルコ石の入った |
指輪と稲妻ロゴのTCBペンダントを買いました。両方ともELVISがよく身に着けていたものだったので |
ぜひ欲しかったお土産でした。さてホテルに帰ろうと思った時、帰り道が全く分からなくなっていることに |
気付きました。途方にくれている時に、ツアーで一緒の白砂さんが土産物店から出てくる姿が見えました。 |
あの時は彼女が女神さまに見えて思わず走り寄りました。それも懐かしい思い出の一つです。 |
メンフィスを離れたあとは、テュペロにある生家をはじめ、彼に因んだところを訪れました。 |
最後の2日間は、映画「ブルーハワイ」の撮影などでELVISが何回も訪れていたハワイに立ち寄りました。 |
ハワイにも彼の博物館があり、着用していた衣装や身の回り品、オートバイや車などが展示されていました。 |
映画の撮影が行われた”ハナウマ・ベイ”ではシュノーケルをつけて潜り、海中の色鮮やかな魚を見たことも |
初めての経験でした。ハワイが好きだったELVISは個人的にもよく訪れていたそうで、いつも宿泊していた |
ホテルが見える浜で全員の記念写真を撮りました。 |
ELVISが通学したヒュームズ・ハイスクール | トラック運転手として勤めていた会社 | |
母へのプレゼントのレコーディングで訪れた<サン・レコード・スタジオ> | ||
テュペロにあるショットガンスタイルの生家 | ELVISがハワイに来ると宿泊していた ホテルをバックに全員の記念写真 |
もうすぐエルヴィスの誕生日の1月8日が巡ってきます。世界各地で生誕祭が行われることでしょう。 |
メンフィスへの再訪は叶いませんが、今も彼の声を聴いて胸をときめかせ、またある時は疲れた心が |
癒されています。エルヴィスに出会ったことで人生に潤いが生まれました。エルヴィスに感謝。 |
<2009年1月3日作成> |
<写 真 と ポ ス ト カ ー ド> | ||||||
ハワイで買った生写真は私の宝物になっています | ||||||
<クリックすると拡大されます> | ||||||
PC | PC | 記念切手 |