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叢書 わが沖縄

『叢書わが沖縄』谷川健一編 第6巻「沖縄の思想」

水平軸の発想
――沖縄の「共同体意識」について――

岡 本 恵 徳



(一)

 はじめに、この文章が、わたし自身の「沖縄の思想」(というものがあるとすれば)へのかかわりの過程とそのたどりついた地点を、多分に私的な体験を回想するというかたちをとおして綴ることをことわっておきたい。というのはほかでもない。かつては「沖縄」というのが、わたしにとっては息のつまる人間関係の支配するところであり停滞してすこしも動き出そうとする気配の感じられぬ後進地域であって、あらゆる可能性をとじこめるものであるかのように思われていて、だから、わたしにとって「沖縄」とは、脱出すべき不毛な地域であった。
 そして、そういうわたしが、この「沖縄」というもの、あるいは「沖縄の思想」とでもいうものに、次第に関心をいだくようになり、なにほどかの考えをまとめようと考えるにいたったのは、多くは、そういうわたし自身の個人的な沖縄脱出のこころみに由来することが多いのだから、わたしは、そういう個人的な体験をふりかえることから、筆をすすめたいと考えたのである。
 思想というものが、わたしたちに外からあたえられるのではなく、いわば、わたしたちが状況にかかわる中で、状況にどのようにたちむかうかという、主体的な営為の機軸となるものであり、そしてそれは、わたしたちが、状況をどのようにとらえ、それにどのように対処するかいうことをふくむのだし、とすれば、それは多分に個人の情念の領域にまでふみこむことによって生きてくるのだから、やはり、わたしは、わたしなりの思想というものを語るとき、それをかたちづくってきたあるものを語ることをぬきにして、語る言葉を持たないように思うのである。
 そればかりではない。「沖縄の思想」ということを考えるとき、その「思想」は体系的に論理化されたものとして、いまのところとらえることは、わたしにとって不可能であるということがある。それは、なにも「沖縄の思想」という場合にかぎらず、いわゆる「大衆の思想」などという場合にも、似たようなことがいえるのかもしれないのだが。
 多くの場合、人が具体的に生きるというのは、それは体系的な論理によるというよりも、日常のさまざまな感覚的な反応や、あるいは自分のうち側から突きあげてくる非合理な衝動によることが多い。そのことを小林秀雄ふうに、””人は観念によって死ぬことはない””と言ってしまうと、逆に、そういう感覚的な反応や、非合理な衝動に、ひとつの序列をつけ整えるという、思想のある種の機能を黙殺してしまうことになるが、しかしそこには、しばしば非合理の衝動に殉ずる日本人の生と死が、たしかに見据えられているように思うのだ。
 沖縄の人間の生と死を支配しているものが、そういう意味で、論理的に体系化されたものというより、そういう一見非合理なもの、体系化されないものであって、それを表現することばを、いまのところ持ちえていないということにも、それはあらわれているにちがいない。
 たとえば、「琉球弧」や「ヤポネシヤ」という視座を設定することによって、「過度な緊張」や「硬化」を示してきた日本文化に、あたらしい可能性をもたらすものを求めたり、多様化の方向を期待しようとする島尾敏雄氏が、沖縄のそういう文化の特質を表現するのに、「やわらかさ」や「やさしさ」などのような、感覚的なことばをもってしかいいあらわせないとしているのも、おそらくそのこととかかわっているにちがいない。
 よく引用される文章なのだが、

 あの太平洋戦争の最中私がはじめてこの列島のひとつの島に海軍部隊に属して派遣されたときに、漠然とではあるが、この島々の文化の中には本土で感じられる、緊張と硬化でこねあげられた固さがないことに気づいた。……ひとことでいうことは容易ではないがナイーブな生命力のようなものが、この琉球列島の島々の生活にはひそみ、人々の挙措のあいだに、日本本土では忘れられてしまった『やさしさ』を見つけだすことができたのである。誤解をおそれずにいえば、この島々には近代の文明に毒されない、中世もしくは古代の人間まるごとの生活が息づいていた。


 と島尾氏がいうとき、その『やさしさ』や「ナイーブな生命力のようなもの」が「近代の文明に毒されないということばと等価に位置づけられていることにみられるように、近代や現代の論理化された体系、あるいは合理性の価値基準からすれば、それからはみだしたものとして、沖縄の文化の質が、とらえられているのであって、それは「やさしさ」というような言葉でしか言いあらわせないものだと言っているのであろう。
 むろん、そうはいっても、そういう沖縄の文化やあるいはそれを支えている思想が、近代以降の、島尾氏の言葉で言えば「過度の緊張」を強いられてきた文明に毒されていないもの、近代の論理性や合理性を至高なものとする価値体系からはみだしたものであったとしても、それは、それ自体として、なんの論理性も合理性をも持たないということではない。沖縄の思想が論理以前のものであり、非合理なものである、というのは、その論理や合理が、近代の価値体系の中でのそれではない、ということであって、別の新しい視座にたつことによって、近代の「硬直」し「緊張」したものとは異った論理や合理を見出すことが可能になるものである。島尾氏や谷川健一氏の「ヤポネシヤ」の視座を設定することによって、「過度に緊張」し「硬直」した近代日本の思想の軸とは別の新しい思想の軸をつくりだそうという試みは、そのひとつの現われであろうことは、ことわるまでまでもあるまい。
 しかしながら、島尾氏にしろ谷川氏にしろさきにふれたように、「やさしさ」や「やわらかさ」などの感覚的なことばによってしか言いあらわしていないことは、言葉をかえていえば、そういう沖縄の思想というようなもののもつ論理や体系がいまだ正確に見出されていないことを示すものであって、それが、いまのところ、「過度に緊張」し「硬直」した日本の近代を超克する方向を、ひとつの可能性として予見するにとどまっていることを示しているのであろう。
 このように、沖縄の思想というものが、一見論理的な体系を持たないように見えるものであり、それを内的に支配している核が見出されていないのであるから、わたしにとっても「沖縄の思想」を考えるということは、ひとつの可能性をさぐるための手がかりを、その中に見出していくためのこころみを、ここでくり返すということにとどまるのである。
 そういうふうに言えば、しかしわたしの場合、それはいささか構えすぎてもったいをつけた言いまわしであって、正直なところ、そういうことはどうでもよいという気がしないでもない。それよりもむしろ、わたしの場合には、さきにものべたように、ひとたびは、古くさいもの、停滞してなれあいに終始する人間関係の支配する地域として脱けだしたものの、ところがじつは、否定しつづけてきたはずのそれらが、ほかならぬ自己の内側で自己を強く規定していることを意識したときに、わたしにとって、自分であたらしくとらえなおし解決しなければならないもの、としてそれはあった。
 だから、わたしとしては「沖縄の思想」というものは、過度に緊張し硬直した日本の近代に、あたらしい可能性をあたえるものだとする島尾敏雄氏や、あるいは、谷川健一氏のように、


 日本にあってしかもインターナショナルな視点をとることが可能なのは、外国直輸入の思想を手段とすることによってではない。ナショナルなもののなかにナショナリズムを破裂させる因子を発見することである。それはどうして可能か。日本列島社会に対する認識を、同質均等の歴史的空間である日本から、異質不均等の歴史空間であるヤポネシヤへの転換させることによって、つまり『日本』をヤポネシヤ化することで、それは可能なのだ(「日本読書新聞」昭和45年1月1日号)


 という問題の提起に、それはそれとして賛成もし、その鋭い立論に敬意を払うものであるが、わたしにとって問題となるものは、そのようなかたちで提起される「沖縄の思想」というよりも、むしろ、自己の内側にあって、大きく自己を規定してしているもの、あるいは、意識的・自覚的にそれを対象化しないかぎり、まるごとに自己の生きていることが確かなものになりえないような、そういうものとして、それはあったのだ。思想というものが、状況にかかわる自己の主体的な営為の機軸となるものだとすれば、多くの場合それは、軸をつらぬくために、不断に出てくる日常生活のなかでのごく些細なもののあれこれについてのこだわりを切り捨てるか、あるいは、当然ふみこまねばならぬ情念の領域へ立ち入ることをみずから制御することによって可能となることが多いのであろうが、わたしにとって、そうすることは、あまりにも自己のなかにある、ある種の空洞を大きくすることになり、自己の中の欠落する部分を黙殺することでそのまま素通りしかねない結果をまねくという意味で、そのような軸のつらぬきかたに対して、ひとつのおそれを抱いたのである。
 ということは、まさにかくあるべし、とする原理への志向と、にもかかわらずこのようにしてしか存在しない自己との亀裂を、自己のうちがわに認めなくてはならないということ、あるいは、日常の生活の水準で生きることを否定して、知的にあくまで飛翔し続けようとする志向と、にもかかわらず日常の生活の秩序に身をあわせることで生きていく存在としての自己という二重性において、自己を意識せざるをえないということである。
 そして、思想というものが、一般に言われるように、そういう日常の生活の水準を超えた、かくあるべしとする原理としてだけ機能し、かくある存在としての自己に、何らの拠りどころを持たず、何の汲みあげるものを持たないとするならば、それは真の意味での生きた思想にはならないだろうと考える。やや比楡的に言えば、自己のうちに、知識人としての自己と、大衆としての自己という二重の性格を見ることになったわけである。
 そして、本来、思想とは、かくあるという存在からの絶えざる呼びかけに柔軟に応えることで、かくあるべしという原理をふだんに強めていくものであり、したがってそれは、論理として体系化された部分においてだけでなく、情念の領域にまでふみこむことにおいて生きていくのではないか。もしそうだとするならば、そのような二重の構造をもつものを、そして多くの場合かくあるという存在と、かくあるべしとする志向の亀裂として現象するものを、どのように埋めるかということ、あるいはまた、かくあるという存在からの呼びかけに柔軟に応えるためには、かくあるという自己の存在そのもののありかたが、みきわめられなければならないということになる。
 むろんその場合、かくある存在としての自己を明らかにすることは、個人としての自己の特殊性と同時に、自己のうちにある他者と共通する性格が明らかにされなければならない。それはとくに、自己のうちにある、一種の””大衆的なすなわち日常性につきしたがう性格””について、それは問われるのであり、それが、自己の個人的な特殊性なのであるか、あるいは他者に共通するものであるかみきわめるのはきわめて困難なことではあるが、真に思想が生きていくためには、そのような試みがなされなければならないであろう。そしてそのためには、かくあるという自己の存在そのものを対象化することを通して他者と共通する要素を確認し、あるいは逆に、他者を正確に見きわめることによって、その中に自己を見出すという試みがなされねばならない。そうすることによって、かくある存在としての自己から真に生きた思想を、それが真に自己の思想であるというものを見出そうと考える。
 以上、たどたどしい歩みであるが、このような思考の過程を経て、わたしにとって問題となったのが、「沖縄の思想」である。したがって、同じように「沖縄の思想」を問うことになったとしても、それは島尾敏雄氏や谷川健一氏らの、日本の近代、「過度に緊張」し「硬直」した近代を超克するひとつの可能性を見出そうとする発想とは、ちょうど逆の発想になるので、それが偶然同じ対象を問題にしたというのは、おそらく1960年から、1970年代にかけての日本の情況がそのようなものであったといえるのかも知れない。
 それはともかく、わたしにとって「沖縄の思想」とは、そのように、自分のうちに他者と共通する要素を見出し、他者の中に自己を見出そうとする個人的な営為の結果出てきたものであり、だからそれは、冒頭にもふれたようなわたし自身の個人的な体験と切り離して考えることはできないのである。そしてそれが具体的に問われるようになったのは、1958年の上京とその後の数年の東京での生活であった。


(二)

 1958年4月、初めて上京し、東京という巨大な、そして自分が生れ育った沖縄とはあまりに異質な、そしてある意味ではわたしが志向していた「近代」がそのまま生きているように見えるそういう都市でであったさまざま出来事が、わたしを否応なしに「沖縄の思想」へと関心をむかわせたといえるのである。東京での生活がわたしにもたらした最初のものは、わたし自身が沖縄の地で生れ育った、したがって沖縄という地域のもつ特殊な性格を自分の内側に強くかかえこんでおり、自分をとりまく状況を認識する場合においても、あるいはそのような情況とどのようにかかわるかを決意する際においても、その特殊な性格によって規制されているのではないか、という疑問であった。
 上京する前、琉球大学の学生で、文芸雑誌のメンバーのひとりであり、一方、よくあるようにマルキシズムの影響を受けて学生運動に首をつっこみ、1955年の土地闘争に加わっていたわたしの場合は、観念的にはひとりのマルキシストとして、生活の面では、近代の合理主義者として生きているかにみえていた。だから、沖縄を離れて上京した大きな理由のうちのひとつには、沖縄という後進的な、非合理な生活様式の支配する土地、あるいは息苦しいまでに個人を縛りつける血縁共同体的な人間関係、そういったものから脱出しようという希望があったのである。そして、東京こそ、それとは異なったいわば「近代」そのものの生きている都市であるという意識があった。わたしのなかに、沖縄=後進地域、東京=先進地域という固定したイメージがつくられており、社会主義社会にしても、それは近代化を経てのちに実現されるもの、というような意識が強かった。そして、自分のうちにはそういったもろもろの沖縄的なものはすでに払拭されているにちがいないという幻想もあった。であるから、たとえば政治的にも、ブルジョア革命から、プロレタリア革命へ、という視軸によって自分の位置を決定するという姿勢であった。その場合は、当然、日本全体としての社会主義革命への見通しと、現実に沖縄を支配しているアメリカの軍事権力とのかかわり、いいかえれば、日本の国家権力と、アメリカの軍事権力による支配態勢との相関性が、ひとつの脈絡のうちに正当に位置づけられなければならないが、その点についてのわたしの思考は、明確ではなかった。そういう国家権力の実態について、考え方を推しすすめなければならないと考えるようになったのは、後に、わたしにとって「沖縄の思想」が対象化すべきものとして浮かびあがってきてのちのことである。それまでは、どちらかといえば、米軍の占領とその権力、暴力的支配については、それを現象的にとらえ、それに対する抵抗も、自然発生的であったし、その中で学んでいったマルキシズムは、どちらかといえば、そういうアメリカ軍の占領地支配に対する抵抗感に、論理的な根拠を与えるという程度にとどまっていた。したがって社会主義革命ということについてのイメージとアメリカの軍事支配に対する抵抗感とは、かなり短絡させらてとらえられ、ほとんど同質のものとして受け取ったり、あるいはまるっきり逆に、社会主義革命は視野のそとにほうり出され、当面のアメリカの軍事力による暴力的支配に対する抵抗が、前面にうち出されるという対応の仕方を演じていたように思う。
 これは、わたし自身の社会主義革命への道すじについての見通しを持ち得なかったということと、ブルジョワ革命からプロレタリア革命へという、いわゆる「近代」についての幻想がそうさせたのではないか、といまにして考えるのだが、そればかりではなく、50年代末の前衛的な政党のいわゆる革新路線に対する期待と信頼が強く働いていたという気もする。
 わたしの、このような「本土」と「沖縄」を対置してとらえ、沖縄の後進的なものから脱けだすために、先進的な中央と同質化しようという発想は、いま考えるとまったく誤った発想であったわけであるが、そのような誤った発想は、わたしだけでなくかなり一般にあることを、そのうちにわたしは気がつくようになった。そして、その典型的な例を、いわゆる「沖縄学」の大先輩である伊波普猷氏にみることができた。むろん、時代も、その内容において較ぶべくもないが、さきに述べたような、基本的な発想においては、共通なものがあることを見出したのである。伊波氏は、明治13年に行なわれた沖縄の廃藩置県について次のように述べている。


 明治12年の廃藩置県は、微弱となってゐた沖縄人を改造するの好時期であったのである。思想上に於いても亦同じ現象が見られる。数百年来朱子学に中毒してゐた沖縄人は、急に多くの思想に接した。即ち活きた仏教に接し、陽明学に接し、基督教に接し、自然主義に接し、其他幾多の新思想に接した。これまた賀すべき現象ではあるまいか。かく多くの思想に接して、今後の沖縄が今迄に見ることの出来なかった個人を差出すべきは、わかりきったことである。今日となって考へて見ると、旧琉球王国は確に栄養不良であった。して見ると、半死の琉球王国が破壊されて琉球民族が蘇生したのは、寧ろ喜ぶべきことである。我々は此点に於て廃藩置県を歓迎し、明治政府を謳歌する。」(『進化論より見たる廃藩置県』傍点・引用者)


 この伊波氏のことばは『琉球人の解放』の中で、明治維新を契機とする琉球処分を、「一種の奴隷解放」だとする伊波氏自身の評価につながる。これは、1609年(慶長14年)の島津入りが、それ以前の「純然たる自主の民であり、それ故に彼らは或る程度までその天稟を発揮することができた」琉球の人間に対する植民地的支配であり、一種の奴隷的存在におとし入れるものにほかならなかったとする評価をその裏付けとして持っているのであるが、そこで彼の期待しているものは、「今迄に見ることの出来なかった個人」の誕生と、それによる「民族の蘇生」にほかならない。それは、伊波氏の長年にわたる地方への講演や、産児制限などの啓蒙を通して行なってきたさまざまな試みの中にみられる「近代」への熾烈な志向と多分共通するモティーフであったにちがいない。そういう「近代」への志向と「個人」の誕生に対する期待が熾烈であればあるほど、その実現の容易でないことからくるある種の焦燥が、たとえば薩摩の下で「三百年間の奴隷的生活に馴致されて、自分で自分を維持して行くといふ独立自営の精神が殆んど皆無になろうとしてゐる」「奴隷解放といふサーチライトを差向けられて一際まばゆく感じた。そしてこの新しい光明を忌嫌って、ひたすら従来の暗黒を恋慕ふた」(『流球人の解放』)とか、「兎に角廃藩置県で政治的圧迫は取去られたが、沖縄人は浪が打当てなくなった岸上のフヂツボのやうに困った」(『進化論より見たる沖縄の廃藩置県』)などのようなシニカルな表現を、伊波氏にとらせちがいない。
 ところで、この引用の中の「独立自営の精神」の「皆無」などという言葉は、日本の近代化の過程における国家権力の支配の実態、あるいは強力な中央集権による近代化の内実を無視したもので、いわば、「近代」そのものについての伊波氏の過度な期待がそういう把握をさせたものだと言えよう。
 むろん、伊波氏とて、日本の近代化のコースの実態がどのようなものであったかということについて、なんの洞察も持たなかったとはいえない。たとえば比嘉春潮氏はその回想の中で、


 ある時は、伊波さんは沖縄の現況になかなか卓抜な批評をされた。なにかというと、国家主義的な言辞をろうし、こうあるべきだ、ああすきだと沖縄人が日本人としての意識に欠けるというようなことをいいたがる大和人の郡長がいた。すると先生はこれを評して、国の風俗習慣はなる(become)ものであって、つくる(make)べきものではない。郡長などがおこがましくもつくろうとするのは笑うべきことだといった。さらにまた、英国の憲法はbecomeせる憲法、日本の憲法はmakeせる憲法だと断じて、日本の諸制度、民衆の利益に根ざしたものでなく、上から作った絶対的なものであることをほのめかした。(『沖縄の歳月』)


 というエピソードを紹介している。このエピソードからみると、伊波普猷氏は、日本の近代化のコースの実態がどのようなものであるかを、はっきりととらえていたとおもわれるが、しかし、「近代」そのもの、あるいは「近代の理念」に幻想的に期待をかけた伊波氏は、そういう日本の近代化の具体的なありかた、すなわち、「近代化」そのものが「国家権力」の意志のひとつの現われであって、抽象的な「近代」そのものはありえず、沖縄の人間にとっての「近代化」は、権力の集中と沖縄的特質の否定というかたちでしか存在しないという、国家権力の意志とのかかわりで「近代」をとらえることをしなかったようにみえる。
 そのことはたとえば、『琉球史の趨勢』と題する一文で、


 沖縄人にとっては支那大陸で何人が君臨してもかまはなかったのであります。康熙年間の動乱に当って、琉球の使節は清帝及び靖南王に奉る二通の上表文を持参していったとの事であります。又不断でも琉球の使節は琉球国王の印を捺した白紙を持参していざ鎌倉といふ時どちらにでも融通のきく様にしたとの事です。この紙のことを空道と申します。沖縄人は生きんが為には如何なる恥辱をも忍んだのである。『食を与ふる者ぞ我が主也』とといふ俚諺もかういふ所から出たのであらうと思ひます。


 と沖縄の人間の否定的な性格を強調して述べる一文にもあらわれている。この伊波氏の見解は一般にも支持され、たとえば琉球大学の東江平之教授は、その事実の中に事大主義と自己卑下の表裏する性格を見出し、そういう人格様式を指示する概念として「空道的人格」という言葉を用いて沖縄の人間の一つの性格を規定している。(『人文社会科学研究』第一号)
 たしかにこの事実は、ある面からいえば、「御都合主義」であり、「事大主義」と「自己卑下」をその中から見出すことは不可能ではない。しかしこういう意識を「事大主義」だと評価する評価の基準を考えてみるとき、この中にあらわれているのは、ひとつの政治権力を絶対化する視点に他ならないのである。それを「御都合主義」だとして否定するのは、たとえば「明」や「清」の政治権力が、絶対的なものであるとする固定化した評価と関連するといえるであろう。しかしながら実際には、その「空道」の中にあらわれているのは、国家や政治の体制が相対的なものであって、可変的なものにほかならないとするたくましい知恵である。おそらく、近代以前の幕藩体制の中で苛酷な収奪にあえいでいた日本の各藩の領民の知恵とそれは本質において、それほど異っていたとは思われない。ただ、そういう、いっぱんに、強権の抑圧の下でのやむをえない知恵として身につけていたような物事の処理の仕方を、ひとつの政権が制度としてとりあげざるをえなかったところに、島津と明や清のいわゆる「両属」下にあった琉球王府の悲劇をみることは可能である。
 それはともかく、こういう琉球王府の、いわばくるしまぎれの政策を「御都合主義」としてとらえ、それを「沖縄人の欠点中の最大なるもの」と評価したところに、ひるがえって伊波氏自身の「国家権力」についての理解のありかたが示されている。すなわち先に述べたように、「近代」を到達すべき目標として設定し、それが「国家権力」の抑圧の意志とわかちがたくからみあっていることを洞察することができずに「近代」の可能性を「近代」そのものととらえていた伊波氏の認識のありかたを明らかに示しているといえるだろう。そこには、島尾氏の言うように、日本の近代を「禍度に緊張」「硬直」したものととらえる視点も、谷川氏のように、「単系列につながる同質均等の歴史的空間」と否定的対象としてとらえる視点もなかった。
 わたしの場合にも、むろん同じことがいえる。先にもふれたような、沖縄を停滞的な、後進地域、古くさい血縁共同体意識の支配する地域とするそういうとらえかたの背後には、「近代」的な合理主義が支配し、誰にも拘束されずに個人がいきいきと生きていくことが可能な場所であるという東京のイメージがあったし、もし、そこに貧困と抑圧があろうとも、それは可変的なものであって、その改革は容易ではないにしても可能なのだ、という期待があった。その意味でわたしの中にある沖縄脱出の志向は、ある意味では、この伊波氏の志向するものと同じであった。むろん、伊波氏の場合は、伊波氏個人の志向にとどまらず、沖縄が、沖縄の全ての人々がどのようにすれば後進的な位置から脱け出すことが可能であるか、という切実な関心があり、そのことが伊波氏の一種の苦渋となってあらわれているということがある。そしてそれが、沖縄の後進性からの脱出を政治的・経済的な側面でとらえるよりも、人間の意識のありかた、精神主義的なものや文化的な面からとらえるとらえかたと結びついて、一種の啓蒙学としての姿勢となってあらわれてくるのである。だから、そういう伊波氏の場合と、ただひたすら、自分だけの沖縄からの脱出を図ったわたしの場合とでは、沖縄の後進性からの脱却を同じように志向していたとしても、そこには決定的な相違があったわけである。にもかかわらず、「本土」と「沖縄」とのかかわり、「本土」に対する志向としてあらわれる意識のありかたに、共通するものがあるのだから、そういう「本土」のとらえかた、すなわち沖縄を後進地域とし、「本土」を先進的な「近代」的なもののまさに生きている土地だと考えて、後進的な沖縄の風土や習俗、生活のありかたを否定して、中央と同質化することによって「近代」を獲得しようという考え方は、必ずしもわたしひとりにのみあるのではなくて、伊波氏を先達とする沖縄の一般的な「本土」志向のありかたではないか、というように考えられたのである。
 そして、「近代の理念」を幻想的に想定し、国家意志をその中にみることができずに、無謀介に、理念に近づくこころみをくりかえしてきたのが「沖縄」の近代であり、そういう意識がわたしだけでなく、「沖縄」の人たちの多くに見られるのだから、そういう意識のありかたは、それとして対象化されきわめてなければならないだろうと考えたのである。


(三)

 ところで、そのように沖縄脱出をこころみたわたしにとって、衝撃的なことは、わたしが脱け出してきたはずであるその沖縄が、実はわたし自身の内側に生きている。そしてまぎれもなくわたし自身が、沖縄の人間にほかならない、という認識であった。それは、たとえばわびしい下宿住いの一部屋でラジオから流れてくる沖縄民謡の旋律に激しく身をゆすぶられるというようなかたちでも現われた。単調で、社会の停滞的な構造をそのまま現わしているかのように見え、一種拒絶すべきものとして沖縄民謡の旋律を考えていたわたしの場合には、それはひとつの衝撃であった。そして、沖縄にいる時には、それほどの意味も持たず、それほどの感動を呼ばなかった山之口獏氏の「会話」があたらしい意味をもってよみがえってきた。


     「会話」

お国は?と女が言った
さて 僕は国はどこなんだか とにかく僕は煙草に火をつけるんだが 刺青と蛇皮線などの聯想を染めて 図案のような風俗をしているあの僕の国か!
ずっとむこう

ずっとむこうとは? と女が言った
それはずっとむこう 日本列島の南端の一寸手前なんだが 頭上に豚をのせる女がいるとか 素足で歩くとか憂鬱な方角を習慣しているあの僕の国か!
南方

南方とは? と女が言った
南方は南方 濃藍の海に住んでいるあの常夏の地帯 竜舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が 白い季節を被って寄り添うているんだが あれは日本人ではないとか 日本語は通じるかなどと話し合いながら 世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯 

アネッタイ! と女は言った
亜熱帯なんだが 僕の女よ 眼の前に見える亜熱帯が見えないんか! この僕のように 日本語の通じる日本人が 即ち亜熱帯に生まれた僕らなんだと僕はおもうんだが 酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのの同義語でも眺めるかのように 世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のある近所


 山之口獏の、この「会話」という詩は、沖縄の人間の意識、とくに「本土」との関係でそれを言う場合に、誰しも取りあげざるをえないという詩である。たとえば


 沖縄人の心理のヒダに巣喰っている複雑な意識−−劣等感と自嘲のからみ合った−−をはっきり検証できる……。そのような沖縄人の内面を端的にうたいあげたのが、沖縄出身の詩人、山之口獏の「会話」という詩だといってよかろう(『沖縄の民衆意識』)

 と大田昌秀氏は評している。あるいはまた「差別の現実とそれにたいする沖縄青年の欝屈した抵抗感とが、たくみに表現されているといえよう」(『沖縄」比嘉春潮他著)という批評もある。
 たしかに、ここで言われる、偏見、差別、劣等感と結びつく沖縄の人々の「本土」に対する意識についての指摘はリアリティを持っている。そのことについて


 日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。……しかし、沖縄のばあいは、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、それと深く関連はしているが、沖縄にたいする一種の差別意識の問題があることを指摘しておかなければないない。というのは、沖縄にたいしては、他の日本の国土とは多少ちがって、琉球という一種の異民族、異質の文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に、歴史的にうえつけられてきているからである。そのために、沖縄=琉球にたいしては、一種の差別意識がつちかわれているのある。(比嘉春潮他著『沖縄』)


という指摘があり、一方

 どういう点で本土と沖縄の間にずれがあるか、具体的に一例をあげてみると、『差別』の問題がある。驚くべきことには、戦後24年におよんで、沖縄県のみを日本から分断して他国の軍政下に放置していながら、本土では政府・与党をはじめ、意外に多くの人びとが差別をしていることを認識していない。


として、更に


 本土からわざわざ沖縄までやって来る作家や記者のなかには、沖縄の人たちが、「本土他府県とは『差別されている』という意識をもっているのをとらえ、それはインフェリオリティ・コムプレックスからくるものだ。差別というが、本土でもことばの問題からくる差別はあるし、第一、沖縄本島でも、離島の宮古・八重山の人びとを差別しているではないか」などと、臆面もなく話したり、書いたりしている者がある。彼らは故意なのかは分らないが、沖縄が、そして沖縄県民のみが、法制度的に本土他府県人とは差別されている事実を直視しようとはしない。言いかえると、『制度上の差別』を単なる対人関係の蔑視、つまり心情問題にすりかえてしまうのである。沖縄県民が、差別について言及するのは、彼らの言う劣等感とは無関係である。法治国家の国民の権利として奪われている諸権利を回復するために、差別的な事実を指摘しているにすぎないのだ(大田昌秀『醜い日本人』傍点原文)


として、「差別」や「偏見」がいまなお存続することについて鋭く告発する発言もある。
 たしかに、事実として法制度の上でも、あるいは経済政策の上でも「本土」と沖縄の間には厳然とした差別があった。廃藩置県以後の明治政府の旧慣温存政策によって諸制度の整備ははなはだしくおくれ、たとえば地祖改正は約30年、市町制施行が約40年、衆議院議員選挙法施行が約20年ほどおくれて実施された(比嘉春潮他者『沖縄』)ことなどを示している。また、経済面でも、たとえば大正7年から大正11年にかけて、国税として国が徴収する額が年平均約464万円に対し、国費として県に支出する額が年平均132万円であり、したがって平均332万円の支払超過を沖縄は負担してきた(前掲『沖縄』)といわれる。このような諸制度の整備のおくれと、苛酷な収奪が、沖縄の停滞と「後進性」をはなはだしくしたであろうことは容易に想像されるし、このことが沖縄に対する差別として受けとられたであろうことも、容易に察せられる。
 しかしながら、このような差別政策を、そのまま劣等感と結びつけて、差別から劣等感が生じたり、あるいは差別政策そのものが劣等感を助長した根本的な原因であるかのように考えることは、かならずしも当を得ていない。それは、差別に対する拒否も可能であるし、逆にそれに対して自分たちの要求をつきつけて行くことも可能だという視点を欠落した、短絡的な思考にすぎないのである。これは、たとえば伊波普猷氏が、先に引用したように、島津入りを奴隷制的なものとして把握し、それが沖縄の人間の事大主義をつちかったのだとする考え方と基本的に同じものである。したがって、差別が結果として劣等感を生みだしたり、あるいは助長したのとするならば、むしろそれを拒絶したり、自分たちの要求をつき出すのではなく、劣等感と結びつくような方向でしか機能しなかった沖縄の人間の意識のありかたこそ問題にされなくてはならない。
 むろん、一方では、差別政策や経済的な収奪に対する抵抗がなかったわけではない。1890年代の宮古島における人頭税廃止運動や謝花昇に代表される自由民権運動などがそれである(前掲『沖縄』及び雑誌『文化評論』1969年4号参照)。そういう抵抗が存在したことは、一般的に差別を劣等感と結びつける短絡した思考の誤っていることを示すものであるが、同時に、そういう抵抗が一般化しなかったという点において、再び沖縄の人間の意識のありかたが示すものであるが問われなくてはならないことを示している。
 このような、差別=劣等感(事大主義)という考えかたはかなり一般化されており、第二次大戦における、ひめゆりや健児隊の悲劇を、それでもって説明することが多い。すなわち、あの中にみられる「愛国心」はそういう劣等感の裏返しにされたものであるという説明である。


 沖縄のすべての新聞が異口同音にくり返したことは、沖縄出身の兵士は他府県の兵士とは違う使命をになっており、それは沖縄にも『祖国のためにかくの如く忠勇の人民あり』ということを、国に殉ずることにより日本全国の人びとに知らせることだ。沖縄県人は他府県人にいかなる点でも決して劣るものでないことを『身をもって証ししなければならない』ということであった。だから戦死者が多く出れば出るほど、新聞は『いまやわが沖縄県民は今上陛下忠良の臣子なり。愛国熱情の国民の一部なり』と述べ、戦死者の増大がより一だんと県民の『面目をほどこす』と社説、で称賛した。……そのような背景から、第二次大戦におけるひめゆり部隊や鉄血勤皇隊の悲劇は、いわば不可避であった(『醜い日本人』)

と大田昌秀氏は指摘する。
 ところで、このような、差別=劣等感(事大主義)=その自己回復の意識作用としての愛国心という考え方のなかにも、やはり問題がひそんでいることは否定できない。この場合でも、劣等感からの自己回復が、たとえば文化の高さや生活の充実へとむかうのではのではなくて、なぜほかならぬ””滅私””的な「愛国心」の方向にむかわざるをえなかったか、ということが、問われなくてならないのである。
 さきにもふれたように、差別政策は権力による抑圧のひとつの方法であって、民衆を分断することで、抑圧を効果的に遂行しようとする政策である。逆に、被差別意識というのは、当然受けるべき待遇をうけることができず、不当に取り扱われているという意識であるといえるだろう。とすればここで問題となるのは“当然受けるべき待遇”や“不当に取り扱われている”というその不当性が、何に対比して、あるいは何を基準にしてそのような意識が生ずるか、ということにある。そして沖縄の人間に被差別意識があるとするならば、それは「本土」に対する被差別意識であるということになるであろう。
 ところで、自分たちのうけている待遇が正当でないという意識があるとすれば、それを是正するか甘受するか、ということになるが、それを甘受する場合には、不当を甘受することをやむをえぬと締観するわけであって、差別が劣等感に結びつくのは、自分たちの受ける不当な待遇はやむをえないと諦観するだけにとどまらず、さらに進んで、やむをえないとする根拠が自分たちの側にあるのだという意識が働らく、すなわち、東江平之教授のいう「自己卑下」がなくてはならない(前掲「人文社会科学研究」)といえるだろう。「本土」と沖縄を対立させて、沖縄の人たちに自己卑下があるのだとするならば、その自己卑下をもたらすものは、沖縄の人たちの「本土」に対する異質感がそこにあるのだと言ってさしつかえない。もしそこに同質的存在であるという意識が働らくならば、自己卑下の意識が、それほど強烈に働らくとは考えられないのである。そして更に、その異質感が、たんなる質的な相異にとどまらず、価値的な判断を含むことによって、自己卑下は決定的になる。
 すなわち、沖縄において差別が劣等感と結びついたとするならば、被差別者である沖縄の側に、差別を受ける根拠が自分たちにあるのだという意識、言葉をかえていえば、「本土」と沖縄の間に質的な差異があり、その差異は価値の上下を含み(自己卑下)、したがってそこに差別の根拠が生ずるのだとする考え方があることを示している。差別の根拠を、論理的に対象化することなく、「本土」と沖縄の文化や社会構造の質的な差異に求め、一方的にみずからの側を価値的に低いものとするところに、差別と劣等感の結びつく根拠があったといえるだろう。劣等感からの自己回復をみずからの犠牲において実現しようとしてできた「愛国心」が、いわば、国を愛するという心情面での「本土」と沖縄の質的な差異の解消を志向するかたちであらわれたのは、そこに根拠をもつのである。
 そういう沖縄の人間の意識の方向に沿って行われたのが、明治以降の所謂「皇民化教育」といわれるところの教育政策と文化政策であった。その象徴的なあらわれが、昭和15年の「方言撲滅論争」にほかならない。
 昭和15年1月に、渡沖した日本民芸協会の柳宗悦氏らが、強制的に沖縄の言語や習慣を捨てさせようとする県当局に対する批判を行なったことから発するこの論争は、いわば国民的一致のためには沖縄の地方的特質はいっさい抹殺されねばならぬ、とする政府の意志を体現したものであり、「皇民化教育」の本質を如実にあらわしたものであった。それは、日本に地方的特質の存在を許さないという決意をあらわすものであり、「本土」と沖縄の質的な相異を強調し、その質的な相異が沖縄自体の停滞と後進性の原因であるとして、したがって沖縄自体が自己の地方的特質を圧殺することによって「本土」と同質化することを要求するものであった。
 こういう支配の仕方は、おそらく植民地支配や分割支配の一般的な型であって、沖縄に対する場合に限られるわけではないが、そういう支配をスムースに受け入れたところに沖縄の問題がひそんでいる。そしてその前提となるところの「本土」と沖縄の異質性は、沖縄の風俗や習慣、言語などであり、それに対置されたのは「本土」の同質均等な「近代化」のコースであった。言葉をかえていえば、「本土」の「近代化」コースに対する沖縄の風俗、習慣、言語などの文化的特質を自己卑下的にとらえ、それをみずから否定的にとらえなおすことで、本土と同質化しようとする試みが、いわば沖縄における「近代化」にほかならないのだし、その方向を絶対化しようとしたのが国家意志としての「皇民化教育」にほかならなかったといっていい。
 沖縄の人々にとって、「本土」と同質化しようという試みが、そのようないわば「近代化」のコースであって、その「近代化」コースが国家意志によって規定させた擬制でしかないという視点を欠落したり、「本土」との同質化こそ近代化にほかならないという幻想を持つところに、たとえば、沖縄において、沖縄の後進性からの脱却を維しすすめようとした人たちの、その主観的な善意にかかわわらず、結果として権力との癒着に陥ってしまった理由もあった。
 とすれば、差別−−劣等感(事大主義)−愛国心というかたちで説かれるところの、沖縄の人間の意識のありかたを、差別政策そのもの、あるいは劣等感そのものとして問題とするのでなくて、その間に出てくる意識の屈折、あるいは発想のパターンが問われなくてはならない。すなわち「近代」の擬制を「近代」そのものと幻想し、「本土」を同質均等のものとして一般化して沖縄に対置する発想(これは人間を身うちかそうでない存在であるかによって類別する意識と無縁ではない)、さらにまた、「本土」と沖縄とのあらゆるトラブルの根拠なり原因なりを、相手の側にではなくもっぱら自己の方に見出そうとする意識(これは個人的にもよくあるかたちである)、そういう意識のありかたや発想のパターンこそ、問題とされなければならないだろう。そして、擬制としての「近代」を拒絶し、地方の異質性をそのまま生かすことに、沖縄の可能性のひとつの方向が見出せるということを考える。
 筆が思わず先ばしってしまったが、わたしがこのようなことを考えるようになったのは、山之口獏氏の詩「会話」とのふれ合いがきっかけであった。
 さきに書いたように、この詩にあらわれているのは“差別に対する抵抗感”であり、“劣等感と自嘲”の入りまじった複数で微妙な心理だとする意見が一般的であった。ということは、この詩にあらわれているのが何であれ、多くの沖縄の人たちが、そのようにこの詩を読み取っているという事実が、逆に沖縄の人たちの意識がどのようなものであるかを、まぎれもなく照らしだしている、ともいえる。だが、かならずしもそうではなくて、沖縄の人たちに「差別−劣等感」という固定したとらえかたがあって、それが実は山之口氏のこの詩を、そのように受け取らせてはいないか、という気がしたのである。
 そのように考えた根拠は、ひとつは山之口の他の詩や、彼の生涯の生活ぶりと思い較べてみるとき、山之口氏にそのような劣等感があったとは考えにくいということである。彼の詩を一貫して流れているのは、東京という都市の擬制的な「近代」のいわゆる「文明」に対する否定であって、原初的な生活、まさに生命そのものを、それに対置していたのだから、そういう山之口氏のたったひとつの詩「会話」の中に、劣等感や差別への抵抗を見出すのは、かえって誤りをおかすことになりはしないか、という気がしたのだ。
 それからもうひとつの根拠は、これはもっぱら個人的な体験にかかわることだが、わたし自身の東京での生活で、差別をうけた体験も、偏見の持ち主に出あった体験も持たないということである。むろん、個人的にそういう体験を持たなかったという事実を一般化し普偏化して、差別がなく、偏見の持ち主がいないとするのは、逆の誤りをおかすことになるのだが、そのような体験をもたないにもかかわらず、この「会話」という詩に、奇妙なひっかかりをおぼえるということがあって、そのことが、もういちど自分のなかの沖縄を考えさせる契機となったのである。
 この「会話」では、主人公は「お国は?」と問われて「おきなわ」と答えることができず、「ずっとむこう」「南方」「亜熱帯」などと答える。それをそのまま主人公の劣等感のようによみとることは可能である。多くの本で紹介されるように、事実沖縄出身者で、戸籍を東京に移して出身地をかくした人たちが多いというのだから、作者についての理解をぬきにして考えれば、そういう判断が出てくるのはやむをえないといえよう。
 たとえば、昭和7年6月号の婦人公論に久志富佐子という沖縄出身の女性の書いた『滅びゆく琉球女の手記』という作品では、立身出生のさまたげとなるというので親戚知人との交際をたち、戸籍を東京に移して琉球人であることをひたすらかくし続ける男のことが描かれており、その題名が在京の沖縄の人たちの間に問題となって、出版社が抗議されるという事実があった。(註)そしておそらく似たような事例はかなり多かったにちがいない。そういう事実から考えれば「会話」の主人公が出身地をいいしぶるのを、劣等感や差別と結びつけて考えようとするのも根拠がないわけではないのである。
 しかし、先にもふれたように、山之口貘氏の詩のモティーフの根元にあったのは、東京という都市にあらわされる擬制的な「近代」とその「文明」に対する批判であった。彼はきわめて原初的なところから、たとえば「恋人がほしい」と叫び「結婚」を考える。


若しも女を掴んだら
丸ビルの屋上や煙突のてっぺんのような高い位置によじのぼって
大声を張りあげたいのである

つかんだ
つかんだ
つかんだあ と張りあげたいのである

掴んだ女がくたばるまで打ち振って
街の横づらめがけて投げつけたいのである
僕にも女が掴めるのであるという
たったそれだけの
人並のことではあるのだが
(「若しも女を掴んだら」)

一日もはやく私は結婚したいのです
結婚すれば
私は人一倍生きていたくなるでしょう
かように私は面白い男であると私も思うのです
(「求婚の広告」)

中古の衣食住にくるまって蓑虫のようになってはいても
欲しいものは私もほんとうに欲しいのである
まっしぐらに地べたを貫いて地球の中心をめがける垂直のように
私の姿勢は一匹の女を狙っているのである
引力のような情熱にひったくられているのである
ひったくられて胸も張り裂けて手足は力だらけになって
女房女房と叫んでいるので唇が千切れ飛んでしまうのである。 
(「青空に囲まれた地球の頂点に立って」)
 このように、「欲しいものは私もほんとうに欲しいのです」と虚飾のない位置から発想する山之口貘氏にとって、いきるということは「めしを食うそのときのことなんだというように生きている」のだし、「生きているんだから/反省するとめしが咽喉につかえるんだというように地球を前にしている」(「数学」)ということからの出発であったのだ。そしてかれは

 文明ともあろう物達のどれもこれもが 夢みるひまも恋みるひまもなく 米や息などみるひまさえもなくなって
 そこにばたばたしていても文明なのか
 ああ
 かかる非文化的な文明らが現実すぎるほど群れている
(「思弁」)

と東京の「非文化的な文明」を否定する。
 このように、「生きる」という根源から出発し、「欲しいものは私もほんとうに欲しい」という欲望、自然的な虚飾を捨てた欲望の率直な表現をこころみ、「非文化的な文明」を否定しようとする山之口貘の詩的なモティーフを考えると、彼の「会話」を「差別」や「劣等感」などと直接に結びつけて考えるのは、困難だといってよい。「差別」や「劣等感」は、さきにふれたように、比較の基準、“……より劣っている”とか“……に較べて差別されている”とかいうような、そういう前提があり、それが沖縄の場合には、もっぱら地方的特質の自己否定(権力からの圧殺)と、「本土」の「近代」(それは擬制であったにもかかわらず)への同質化を志向するものとしてあらわれているのだから。それよりも、わたしは、この「会話」は彼のもうひとつの詩「存在」とその発想において共通するものがあるのではないか、と考えたのである。


 僕らが僕々言っている
 その僕とは 僕なのか
 僕が その僕なのか
 僕が僕だって 僕が僕なら 僕だって僕なのか
 僕である僕とは
 僕であるより外には仕方のない僕なのか
 おもうにそれはである
 僕のことなんか
 僕にきいてはくどくなるだけである

 なんとなればそれがである
 見さえすれば直ぐにも解る僕なんだが
 僕を見るにはそれもまた
 もう一廻りだ
 社会のあたりを廻って来いと言いたくなる


 この「存在」という詩の中でくり返されているのは、他者からとらえられた「僕」という存在と、「僕」自身のとらえた「僕」とのどうしようもないずれである。と同時に、「僕」自身がどのように「僕」をとらえようと、他者によって「僕」の存在が規定されてしまい、「僕」自身が「僕」の存在を語りえないまどろっこしさが、この詩のモティーフとなっている。そして、「僕のことなんか/僕にきいてはくどくなるだけである」とひらきなおるか、「僕を見るには……社会のあたりを廻って来い」と捨てぜりふじみた言いかたでしかいえないような、どうしようもないずれとして彼は表現している。
 「僕」がどのように自分を語り、どのように「僕」自身を表現したところで、他者のおしつける「僕」についての理解は、どうしようもないものであり、逆に言えば、他者に対して「僕」が「僕」を語りつくし、まるごと理解させることが、どれほど困難であるか、ということを、この詩はものがたっている。
 「会話」の中で、作者は「既成概念」の「寄留する」ところ、「偏見」の「眺める」ところの郷里をたずねられて、語りつくせないものを感じとったにちがいない。「僕」自身のとらえる「僕」と、他者のとらえる「僕」との間に、越えがたい溝をみいだして、それを越えるのにまどろっこしさを意識していた山之口氏にとって、「お国は?」と問いかけられて「おきなわ」とすらりと答えてすますことができるならば、それはむしろ容易なことであったろう。しかし彼はそれをしない。というより彼にはそれができないのである。
 この詩の題名は「会話」となっているのだが、中心になっているのは「女」との会話ではない。女の問いかけは、いわば「僕」がふるさとを自分の中でたしかめようとする、そのきっかけになるだけなのだ。「お国は?」と女に問いかけられて「僕」は「さて、僕の国はどこなんだか」と考えこむ。そこで出てくるのは「刺青と蛇皮線」などの「風俗」であり、「頭上に豚をのせ」たり「素足で歩」いたり「憂鬱な方角を習慣」(これは信仰と結びつきあるいは禁制と結びついて一般化した生活の様式である)したりする生活の場所であり、「竜舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物」の繁茂する自然を持ち、「唐手だの泡盛だの」の盛んな土地なのである。そしてそれらの「風俗」や「習慣」や「自然」などが、「図案のような風俗」を「連想」させたり「世間の既成概念」を「寄留」させたり「世間の偏見」たちを「眺め」させたりするのだが、ここで出てくる「風俗」や「習慣」が沖縄のものであることも否定できない。「偏見」や「既成概念」を否定することは容易である。しかしそれでは「おきなわ」とはいったい何であるのか、何であると言いうるのか。「僕」はねじれるように問いつづける。そういういわば自分の中に自分のふるさとを問いつづける、あるいは問いつづけざるをえない、という意志が、この詩の根底に流れているのである。「会話」というこの詩の「女」との会話はひとつのきっかけにすぎないのであって、そういう一種の自問自答がこの詩の中心となる。「風俗」「習慣」のどれをとりあげてみても、それは「おきなわ」であるのだが、しかしそれだけでは「おきなわ」ではない。それらのすべてをとりあげ、ことごとく言いつくすことができるのであれば、「おきなわ」をしめすことがあるいはできるかもしれないが、ことごとく言いつくしてしまうことは絶望的に不可能なのである。そういうものとして山之口貘氏にとって「おきなわ」はあるのだ。そしてその「おきなわ」は「僕」の外にあるのではなくて「僕」のうちにある。だから「僕」は「僕の女よ 眼の前に見える亜熱帯が見えないのか!」と自分自身をつきだす以外にないのだ。
 山之口貘氏の詩「会話」にあらわれている「おきなわ」について語ることの困難さは、東京で生活し「世間の既成概念」や「世間の偏見」を体験することのなかったわたしの場合にも、あった。わたしのまわりの人たちは、多くの場合「沖縄」についての偏見や誤解を持っていなかった。そして、わたしが「沖縄」について語る言葉を、そのまままっとうに受けとめてくれる、そういう人たちであった。しかし、わたしが「沖縄」について問われ、それに正確に答えようとすればするほど語りつくせない奇妙ないらだちをわたしは感じた。まともに答えようと努力すればするほど沖縄の実体は失なわれ、むなしさだけが残る。そして語られた言葉はねじまがってかたちばかりの、かたちばかりだから歪められてしまうところの、そういうものとして沖縄はあった。しかも、さきにふれたように、下宿の狭い部屋の中できいた民謡のようにはげしくゆすぶるものとして、それはまぎれもなくわたしのうちがわにあるのだ。とすれば、わたしはわたしのうちがわにある「沖縄」をみきわめなければならない。次第にそう考えるようになった。
 ちょうど、1960年のあの安保闘争の渦の中に、ひとりの学生として加っていたわたしは、樺美智子の死を国会議事堂の周辺から追われ逃げのびる中できいた。学生の一団が議事堂の前庭に入りこんだとき、政党や労働組合が、すぐその傍で“流れ解散”をしていた。そのまま事態が推移すれば、警官隊と学生との間にトラブルが起きるであろうし、まかりまちがえば流血の惨事を見るであろうことは確実に予想された。政党や労働組合は“流れ解散”をするのではなく、学生を包みこむことでまもらなくてはならない、というのがわたしの判断であった。だが事態はそのようにはならず、わたしのたっているところまで警官隊がなだれこみ、わたしは恐怖にかられて逃げのびた。そして残された学生の中に樺美智子の死があった。わたしはそのとき、政党や労働組合などの大きな組織の中にある種の「緊張」し「硬直」したもののあることに気がついた。しかしそれはまだ、政党やその他の組織そのものについての不信や疑問というものではなかった。その当時、沖縄の問題を、重要な問題として基本的な政策のひとつにかかげていたのは日本共産党であり、その党が、沖縄問題をとらえているということが、わたしの政党組織に対する信頼をつなぎとめているかのようであった。
 だが情勢が次第に複雑化し、部分核停条約をめぐって対立が生じ、原水爆禁止運動が分裂していく中で、志賀義雄氏や中野重治氏が日本共産党から除名されるという事態が起きたとき、そこにも「緊張」や「硬直」がすでに入りこんでいることを知った。わたしは沖縄に帰らなければならない、次第にそう思うようになった。東京にはなにもない、という気がしていた。ふたたび歩き始めるとすれば、沖縄から歩き始めなければならない、と次第にそう思うようになった。第二次大戦後の廃墟から次第に立ち直り、米軍の軍事支配に対して自分たちの要求をつきつけていくようにたくましくなった戦後の歴史と、運動の進展をじかに此の眼でみたい、そして自分の中にある「沖縄」になんらかのかたちで可能性があるとすれば、それはその沖縄の戦後の歴史と民衆の運動の中にひそんでいるにちがいない、それらを対象化することによって、明らかにされるだろうとそう考えるにいたったのである。
(註)この作品については、金城朝永「琉球に取材した文学」以後、すべて昭和6年、久志芙沙子「亡びゆく琉球民族の悲哀」と誤っている。


(四)

 沖縄に帰り、自分の中の沖縄を明らかにしようと考えたとき、まず最初に問題となったのは「沖縄戦」での戦争体験の問題であった。第二次大戦後の歴史と民衆の運動の基盤となりその強さも弱さもひっくるめて大きく規定しているのは戦争体験ではないか、と考えたのである。あるいは、日常の生活では明瞭にあらわれないところの意識のありかたが、たとえば極限の状況では動かしがたいものとして現われてくるということがある。そのように沖縄の人間に、きわだって他の地域の人たちと異った特質があるとするならば、それは沖縄戦の体験にあらわれているのではあるまいか、という気がした。そればかりではなく、これから先沖縄がなんらかのかたちであれみずから立っていく思想的基盤をみずからのうちにつくりだそうとするならば、その原点となるのは、沖縄戦での“戦争体験”ではないだろうか、と考えたのである。
 それは、戦争というもののもつ惨劇が、人間の立ち合う状況の中で、最も苛酷なものであり、日本のなかにあってそれが最も集中的にあらわれたのが沖縄であって、そこでは戦闘員非戦闘員の区別も、性や年齢による区別もなくすべての人間がその殺戮をまともに受けざるをえなかったという事実をふまえるけれども、そういう殺戮の事実だけをとりあげてそう考えるのではない。そういう悲惨な事実だけを言うならば、戦争とは本質的にそういうものであって、戦闘員非戦闘員の区別や性や年齢によって区別されることはありえないのだ。
 また、『ああ、ひめゆりの学徒』(仲宗根政善著)や『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編)などの多くの沖縄戦についての記録に描かれているように、自分が生きのびるために、身近かな誰かが死に追いやられるというような、あるいはまた逆に、誰かが生きのびるためには、その他の誰かが生きのびることを断念しなければならないような、そういう一種の極限状況が無数にあったし、沖縄そのものがその種の極限状況をつくりだしていたということがあり、そういう状況の記録とまともにむき合うことなしには、沖縄に住むわたしたちにとっては戦争について何も語ることができないということが確かにあるのだが、戦争体験をここで取りあげるのは、そのことだけによるのではない。
 戦争体験というものを、そのようないわば極限的な状況にたちあった人たちだけのもつ、文字通り“体験”そのものに限定して考えるならば、沖縄戦の終ったのちに自分自身を意識するようになったわたしや、戦争のあとに生をうけたいわゆる戦後世代にとっては、戦争体験について、ほとんど何も語るものを持たないといっていい。どのように想像力に恵まれていようと、そのような極限状況を想像するにはある程度の限界があるだろうし、どのような努力を払ったところで、体験そのものを戦争にたちあった人たちと、まるごとを共有することは不可能に近い。
 体験ということばを、これまで用いたように“経験”に近い意味で用いるのではなく、鶴見俊輔氏が体験の意味について、


 『体験』というのは、だれか自分というものがあって、その自分が自分の肉体を通して経験した、しかも、自分がその経験について目撃者としての責任を持つから、自分のなかに、その経験が思想と化してある種の遺産になって蓄積されていく性格を持っている。また、自分の持っている思想的方向性によってゆがめられていくきっかけもある。ゆがみもあり、またそのゆがみに対して責任があるというふうな『経験』の蓄積形態が、『体験だ』。
(『現代日本の思想』)


 と述べているように、経験の思想化とその蓄積されたものを体験だと考えるとしても、鶴見氏が「体験というのは私性がある」と認めるように、それが個人的な状況との出合いを核として成立するかぎり、さきに言ったような“体験の共有”は、やはり困難だといえよう。そしてそういう困難が、安田武氏や橋川文三氏などの誠実な努力にもかかわらず、戦争体験の定着がそれほど一般的だとはいえない現状をつくりだしているにちがいない。戦争を知らない世代と、いわゆる戦中派との間にひとつの断層があらわれたり、その断層がいわゆる世代論的ないろあいでもって眺められたりすることも、あるいは、戦中派から戦後派に対する“追体験”の要請でもってことが処理されたりするのも、そのひとつのあらわれだろうという気がする。
 わたしの場合も、どちらかと言えば戦争を知らない世代に属する。小学五年に敗戦をむかえたわたしにとっては、戦争とは“空腹”の記憶であり、夜空をこがした空襲の炎のいろであり、いってみれば少年の頃のたとえば魚釣りやトンボ取りと同じような回想の一駒であって、その意味では実体験としての“戦争”の悲惨とはそれほどのかかわりは持っていない。多分、大阪や東京で空襲に出あった同じ世代の人たちと較べても、沖縄のさらに南の先島で生活していたわたしは、かえって戦争から遠いところにいたと言える。だが、そういうわたしにとって、戦争体験が重要な意味をもつのは、わたし自身が沖縄の人間であり、沖縄にとって、さきにふれたように、その内実において戦争がとりわけ重要な意味を持っていると考えるからである。
 明治の廃藩置県以後の沖縄の歴史と、その中で多くの屈折を持って生きてきた沖縄の人たちの意識が、その体験の中にはっきりとあらわれているばかりでなく、敗戦後二十余年にわたるアメリカの軍事占領とその支配は、ある意味で戦争状態の継続であって、そういう状況が、更に沖縄の人たちの意識にさまざまな影響を与えてきている、ということがあるのだ。
 橋川文三氏は、かつて


 イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、太平洋戦争は、たんに年表上の歴史的過程ではなく、われわれにとっての啓示の過程として把握されるのではないか(中略)……私たちが戦争という場合、それは超越的意味をもった戦争をいうのであって、そこから普遍的なるものへの窓がひらかれるであろうことが、体験論の核心にある希望である。


と述べて、太平洋戦争における戦争体験の意味を、あたらしい歴史意識≠フ形成という点に求めた。
 この橋川氏の言葉の中にある“われわれ”を“沖縄の人々”におきかえて理解してもらってもよい。「普遍的なるものへ」の志向が沖縄という自分の生きている土地において、そして生きている土壌を対象化することを通して、実現できるかどうか、という問が、多かれ少かれ沖縄で沖縄戦の体験の意味を考えようとする若い世代にあらわれている事は、たしかなのである。
 たとえば、戦争を記憶しない世代の中で、現在、国家を相対化する思想の構築を主張したり、沖縄の自立を思想の面で図らなければならないということを説く人たちが、かなり出て来ている。これらの主張の根源にあってそれを支えているのは、かつて天皇制国家としての「本土」を志向し、「本土」と同質化しようとする努力がどのように無惨な結果を招いたか、という沖縄戦における歴史的な事実と、敗戦後の二十余年もの間、「国家」の呪縛からある程度自由であったという歴史的体験である。
 太平洋戦争は、日本にとってひとつの大きな転期となった、というのは、ある程度事実である。本質的なところではすこしもかわっていないという見解や、昭和の初期と共通する要素が現在もかなりあるという指摘もあって、戦後をどのように評価するかということについての意見の対立はあるのだが、政治や法律の制度や理念の面でも、あるいは生活の様式の面でも、太平洋戦争以前と異った面が多いということは否定できないであろう。しかしながら、そこでは国家について、同一民族、同一言語を用いる島嶼国家としての単一性については、その間に何の変質もあらわれなかった。そこでは「日本人」であることと「日本国民」ということは、そのまま同義であった。ひとつの国家にさまざまな人種がおり、さまざまな人種や民族によって一国家が形成される欧米とは異った性格を持っていた。人々は生れて、意識するとしないとにかかわらずすでに日本国民であること、それ以外の存在ではありえないことについて、言うまでもなく何の疑問も持たない。たとえどのような尖鋭的な思想の立場に身を置こうと、日本国民であるということは、それが意識の面に浮かぶことのないほど、自明の前提であった。自分が男性であり、あるいは女性であるということが自明であるように、日本国民であることは自明であった。したがって日本国とは何であり、日本国民とはどういう存在であるかということを、問われることはほとんどなかった。自分が日本国民であるということが自分自身にとってどのような意味をもつのか、という問いかけは無意味なことであった。「日本国憲法」の条文のあれこれについて、その意義や解釈は盛んに説かれ、論議がくりかえされたが、その「日本国」とは何であるかは、ほとんどきくことはなかった。さまざまな、細かい具体的なことについてはいろいろと説明はされたのだが。
 しかし、沖縄はそうではなかった。沖縄について、アメリカ軍の軍事占領とその支配のもとで沖縄は「無から出発しなければならなかった」とよく言われるが、その「何にもない」という沖縄の状況は、国家さえもあたえられていないという状況であったのだ。「本土」の人たちにとって自明の前提である、「日本国民」であるというのは、沖縄の人たちにとって決して自明ではありえなかった。それはむしろ成長していくにつれてみずから獲得していく意識であった。とりわけ戦後世代にとってはそうであったといえる。沖縄の戦後世代にとっては、日本国民であるより前に、沖縄の人間であったのだ。
 それは、戦後世代にとってばかりでなく、太平洋戦争以前の、いわゆる「皇民化教育」のなかで、沖縄の人間であることの自己否定を余儀なくさせられ、日本国民であることを強制されるなかで自己を育てあげてきた戦前・戦中の世代にとっても、沖縄戦の敗北による惨劇と、その後の国家があたえられないという状況は何らかのかたちで影響をあたえるものであったにちがいない。沖縄の人間としての自己否定と、日本国民であることを強制され、みずからも日本国民として同質化を希求して努力したあげく、戦争の惨禍にみまわれ国家を奪われたという状況は、すくなくとも、そこに国家というものと自己との間にある種の隔絶を意識せざるをえないという状況をつくりだすにちがいない。あるいは、疑いをえない前提としての日本国民であるという意識は持ちえないことになり、そこでも、何よりも沖縄の人間であるということの方がむしろ強く意識されたといえる。
 これと似たようなことは、明治の廃藩置県の際にも起きたと考えられる。島津の支配のもとにあったとはいえ、「日支両属」のもとで、偽似独立国家としてのていさいを整えていた沖縄は、廃藩置県によって、日本国に組み入れられた。それ以前から、たとえば向象賢(羽地朝秀)の著書『中山世鑑』(1650年)で展開された「日琉同祖論」などにみられるように「日本」への志向はあった(もっともこれは島津の支配下にあって、沖縄を「本土」と同質化することによって島津の収奪をやわらげようとする彼の政治的立場によってつらぬかれていると言われる。比嘉春潮著「沖縄の歴史」参照)。しかし、廃藩置県の際、沖縄の帰属をめぐって日本と清国の間に対立があり、沖縄の内部においても対立と抗争が激しかった(前掲「沖縄の歴史」)とすれば、形はかわるけれども、そのときにも日本国民であるよりもさきに、沖縄の人間であることの意識が強かったと考えてよいだろう。
 それはさきにとりあげた「愛国心」の問題にもかかわってくる。このことについて、さきにも、劣等感の裏返しとしての愛国心というのは直接的にはありえず、その間にはさまざまな意識の屈折があったことを述べたが、その場合においても、それは、「本土」と同質化することによって日本国民であることを現実のものとし、そのことによって沖縄の疎外された状況からの脱却を可能にしようとはかったものであって、日本国民であることは自明の前提ではありえなかったのである。
 以前、わたしは、沖縄戦における「ひめゆり部隊」や「鉄血勤皇隊」などの悲劇は、それが彼らの生れた土地沖縄での惨劇であったからこそ生じたのではないか、彼らの意識では国を護ることと、郷里を護ることはほとんど同じことのように意識されたのではあるまいか、と想定したことがあった。そのときわたしが考えたのは、そこに沖縄の人間の特徴的な発想のパターンがみられるのではないか、ということであったが、同時にいまひとつ考えたのは、明治以降においても、沖縄の人間にとっては何よりも沖縄の人間であることが前提であって、日本国民であるというのは、決して自明ではなかったのではないか、ということであった。だから、日本国民であろうとする努力と、郷里である沖縄を護らなければならないという決意とが、この沖縄戦の中にまさにみごとに一致したのだから、そこにあのような悲劇が現実となったにちがいないと考えたのである。
 愛国心がそうであり、その結果がいまふれたような悲劇であったというのは、つまるところ、沖縄の人間がそのまま日本国民でありえないという意識を持ち、またそういう意識を持つように強いられてきたことにある。沖縄の風俗や習慣や言語を保持したままで、沖縄の人間は日本国民でありうるのだし、またそうでなくてはならないのだという考え方はほとんど根付かなかったように見える。明治の廃藩置県以後の歴史がそれを明らかに物語っているといえよう。
 これらのことは、太平洋戦争後の沖縄の人たちにも深く痕跡を残している。沖縄の戦後体験やあるいは戦後二十余年もの歴史を論ずるとき、注目される事柄のひとつとしてあげられるものに、戦争責任の追求がなかったということがある。そして多くの場合、それは沖縄の人間の一種の被害者意識によるものと説明され糾弾される。が、この被害者意識にしても、これまで述べてきた「本土」志向と無縁ではないのだ。沖縄の被害者意識が、つねに「本土」とのかかわりにおいて発想されるということ、すなわち日本国民であることに、対峙するものとして沖縄の人間があり、そのことによって「本土」対「沖縄」という平面化した把握があって、そのために沖縄を等質化して被害者のように考える結果、「本土」に対する戦争責任の追求はあっても、沖縄内部での責任追求を不可能にしてしまうのである。戦争というのが、国家と国家の対立であることが、いわば日本国民であることから一様にはみだした沖縄の人たちに、そのように受け取られることを一層可能にしたにちがいない。
 ともあれ、明治以後戦前、戦中の、これまで述べてきたような沖縄の歴史的な状況が、沖縄戦以後の国家があたえられていない状況のなかで一層強められてきたのであり、それが現在に及んでいるのだといってよい。沖縄の人たちに対して、沖縄人意識があまりにも強すぎるという批判めいた指摘がなされることがあるのだが、こういう沖縄人意識の強さというのも、そのあたりに根拠があるといえよう。
 戦後沖縄で最もめざましい動きをしめしたものに、沖縄の伝統文化の復活と隆盛があり、また沖縄独立論≠ェその内容の無意味さにかかわらず、ある程度の心情的な共感を得ているのは、沖縄戦のさ中での日本国家の崩壊と、その後国家をあたえられなかったということで、すくなくとも自分たちの拠りどころは沖縄以外にはありえないのだという意識と、一世紀近い廃藩置県以後の歴史の記憶が結びついて出てきたのだといえるし、戦後世代が、沖縄自立の思想を考え、国家を相対化する思想を構築しなければならないと決意するその思想的な基盤は、かかって沖縄の戦争体験(戦中の愛国心と戦後の国家の空白を含めた)の中にひそんでいるといえるのである。
 以上のべてきたように、沖縄における戦争体験は、沖縄の人たちの歴史的な意識について、さらにはその存立する基盤、すなわち、自分たちは日本国民であるのか、あるいは日本国民とは何であるか、日本国とは何であるかというような自己のよってたつ基盤についての問いかけをせざるをえなくしているということにおいて、きわめて重要な意味をになっているのである。
 このように、わたしが沖縄における戦争体験の意味を考えようというのは、それが沖縄の人間の歴史意識に密接にかかわっており、それが現在の沖縄の人たちにも深刻な影響をあたえているからであるが、そればかりではなく、沖縄の人間の潜在的な部分に及ぶ意識の構造が、沖縄戦の戦争体験の中にあらわれているのではないか、と考えたのである。
 たとえば、これは沖縄戦についてふれるとき、よく引かれる実例であるが、渡嘉敷島の集団自決事件には、きわめて根源的なところで沖縄の人たちの意識のある面が、最も鋭くあらわれているといえるだろう。
 この事件は、昭和20年3月26日渡嘉敷島に米軍が上陸し、そしてその間28日から29日にかけて、島の人たち数百人が防衛隊員の持っていた手りゅう弾数個で集団自決を行ない、それでも死にえなかった人たちは棍棒で頭を打ち合ったりカミソリで頸部を切ったり、あるいは斧や鍬、鎌などを用いて自決した、という事件である。その中には老人と子供がかなりの数含まれていたという。赤松大尉以下船舶特攻隊を中心とする島の守備隊は、その間壕中に身をひそめ5月に再上陸した米軍によって追われ、8月の中旬に降伏し捕虜となった。5月から赤松隊の降伏までの間に、沖縄の人たち数人が米軍の命令で降伏勧告におもむきスパイとして銃殺されたり、斬殺されたりするということが数回も行なわれたといわれる。(沖縄タイムス編『鉄の暴風』山川泰邦『秘録沖縄戦記』参照)
 この事件は、その渡嘉敷島がどこにも脱出路を持たない孤島であって、そのうえ耕地に恵まれず食糧はふだんでも乏しいところだったという二重の悪条件の中で起きたものである。米軍の砲撃から身を護りえても、空と海を米軍によって制せられている以上、いずれ遠からず餓死するしかない、という気持が、そこでは支配していたにちがいない。むろん降伏し捕虜となることが考えられないとすればである。
 この事件が、沖縄戦についてふれるとき、よく取りあげられるのは、そこに沖縄戦におけるあらゆる状況が、集中的にあらわれていることにある。殺戮、飢餓、島民がスパイとして斬殺されること、そして集団での自決、沖縄の人たちにあたえられたあらゆる苛酷がここに集中的にあらわれている。それは、また、沖縄戦で示した沖縄の人たちのあらゆる行為とあらゆる意識がここに集約的にあらわれているということでもある。
 ということは、更にいえば、同様な条件のもとにあったならば、似たようなことは、他の島でも地域でも充分に起こりえたであろうことを示している。このことについて、いれい・たかし氏は、少年の頃の記憶を思い起しながら、同様のことが起りうる条件は他の島にもあったことを記している。(沖縄タイムス「現代をどう生きるか」3.4)
 いれい・たかし氏も言うように、渡嘉敷島の集団自決が渡嘉敷島だけの、いわば特殊の偶然的なものであったのではないといえるのだから、真に沖縄戦の体験をとらえその意味を問いつづけるためには、渡嘉敷島での集団自決は沖縄のすべての人のうえに起りえたものとして対象化されなければならないだろう。そしてその際、それは再び同様な条件に置かれるならば、わたし自身が起すかも知れぬ悲惨であるという怖れを発条とすることにおいてはじめてそれを対象化することは可能となるだろうと思う。
 ところで、その集団自決事件を、沖縄の戦後世代にとって避けることのできない思想的課題としてひきうけなければならない、と、多分最初にとなえたひとりである中里友豪氏は、その集団自決事件にあらわれている渡嘉敷島の人たちの意識を「共同体意識」と規定した。(『日本復帰の幻想』吉原公一郎編)そののち、石田郁夫氏も同様な観点から、


 飢餓が、まだ極限にいきつかなかつたときに、渡嘉敷島の集団自決は行われたのであるから、日本軍隊の「口べらし」のための虐殺では、少なくともなかつたようだ。沖縄本島から、さらにへだてられた、この孤島の、屈折した『忠誠心』と、共同体の生理が、この悲劇を生み出したと、私は考える(「沖縄この現実」)


と述べている。
 この引用文の前半の「日本軍隊の……虐殺」であるかどうか、すなわち島の守備隊長であった赤松大尉の命令による自決であったかどうか、ということについては見解の対立があり、(赤松元大尉自身は「命令は下さなかった」と否定している)、その事実認定は、この自決事件の評価に大きくかかわってくることは否めない。ついでに言えば石田郁夫氏のこの論理は正しくないので、「飢餓」が極限にいきついていたかどうか、という事実でもって、命令が下されたかどうかを判断することはできない。遠からず飢餓が極限にいきつくであろうことがたしかであること、その際に島をどれだけ持ちこたえることができるかという状況判断によっては、飢餓状況に陥る以前に「口べらし」を考えることはありうる。島を可能な限り守備していくところに守備隊長の責任がかかっているとすれば、赤松大尉が食糧の乏しいこの島で食糧の確保を至上命令としてその為に「口べらし」を考えたということは、充分ありうることなのだ。
 それはともかく、中里氏や石田郁夫氏のいうように、この集団自決事件を支えていたものが、一面「共同体」の意識(あるいは生理)であったことはたしかであると思われる。たとえ命令が下されたにせよ、あるいは下されなかったにせよ、そういう「共同体」的なものが大きく作用しなかったならば、あのようなかたちでの集団による自決というようなことは、起らなかったにちがいない。むろん、命令が下されなかったならば、あのような事件が起らなかったという可能性はありうる。隣の阿嘉島では、似たような条件におかれながら、集団自決という悲惨は起らなかったのだから。しかし反面、沖縄本島南部においても、追いつめられた人たちが集団自決のみちをえらんだという事実もあるのだし、何としてでも生きのびなければならないという意識とそのための努力を放棄して、親や子供をみずからの手によって死に追いやるという心情のうちには、やはり「共同体」的なものが働いていたといわざるをえないだろう。
 ところで、もしそうだとするならば、わたしたちは、その「共同体」的なものを対象化することによって、始めて渡嘉敷島の悲劇とその根元にあるものをとらえなおさなければならないだろうということになる。
 石田郁夫氏は、その「共同体的生理」を、


 一発の手榴弾に、親族一統が折り重なるイメージは、私をおびやかす。一家心中ならぬ、その門中の心中は、どのような序列で手榴弾への距離をさだめたのだろうか。錯乱のなかでも、いや、錯乱のなかでこそ、家族と門中の秩序はひきしめられた。


 というイメージでもって描きだす。この石田氏のイメージは、彼が実際に渡嘉敷島に渡り、そこで出合った人たちやその間に体験したさまざまな出来事によって支えられているかにみえる。そしてたとえば渡嘉敷島の自決についての記録に、「村内の有力者たちを免責することによって、共同体の和をはかる作為が」加えられているのではないか、と考えたり、「この極小の単位で生活するための止むを得ない方便として、赤松と駐在の二人、外部の人間で、外部へ去っていった二人にすべての責任をおっかぶせ、この血縁共同体の傷をおおったのではないか」と考えたりするのである。そしてそれらの考えをふまえたうえで、


 沖縄の戦争体験論の精巧なミニチュアが、この離島にある。戦争に協力した主体の検討にまで至らず、戦争責任論を、そこまで思想的、人間的につきとめることがなくすべて日本軍の悪業の被害者として自分を位置づけることにのみ熱心だった沖縄の戦後の問題の、むごたらしい縮図がここにある(「沖縄この現実」)


と言いきっている。むろん、石田氏自身ことわっているように、沖縄県民が戦争の最大の被害者であること、また、被害者意識からのみ発言するのではない人たちのいることをも認めるのだが、しかし、それを認めたうえで、なおかつ、石田氏は前記のように、沖縄の戦後の問題の縮図を、渡嘉敷島にみるわけである。
 たしかに、この石田氏の言葉は鋭いと思う。大城立裕氏がその作品「神島」で鋭く告発したような、日常の生活の平穏の中に、戦争の惨禍を埋没させようとするそういう意識に対する告発の内容と共通する鋭さをもっている。また、戦争責任論を「思想的、人間的につきとめることがな」かったという戦後の問題を、「共同体の生理」にさかのぼってとらえようとする視点にも、たしかなものがあると考える。
 この石田氏の言葉の鋭さを鋭さとして認めるが、しかしそこにひとつの疑問を持たざるをえないように思う。すなわち、「共同体の生理」というのは、かならずそのような方向にのみ機能する生理なのであろうか、ということである。あるいは、戦争責任論を「思想的、人間的につきとめる」という場合に、石田氏の持っているイメージは、具体的にどういうものであるかわからないということである。「共同体の生理」や「共同体意識」というのは、外部の力とのかかわりについて、一定の方向のみに機能する性格を本来的にあたえられているのではない。もともと持っているのは、内部的に機能するもので、自分たちの生命を護り、生活をすこしでもゆたかにしようとする性格であって、それがどのようにあらわれるかは、もっぱらその共同体に加えられる諸条件(自然的・社会的)とのかかわりにおいてであるといえる。石田氏の述べるように「一発の手榴弾に、親族一統が折り重なるイメージ」で集団自決をみるならば、それは無惨だとしか言いようのない事件である。しかし、その自決に追いこまれた人たちの意識のなかには“他のすべての人が死んでいくなかで、自分だけひとり生き残ることはできない”のだとする意識や、あるいはまた、“自分が死んでのちに残された子供や老人が、更にこれ以上の苛酷を背負わなければならないのならば共に死を選ぶことがよりよいのだ”という意識がはたらいていたにちがいないのだ。とすれば、そういう“自分だけ生きのびたとしても他の全ての人が死んだならば、もはやそこには本当の、「生」などありえない”とする意識を、それ自体正しくないと否定する根拠はどこにもない。むしろ逆に、事件を“共同体の生理”によるとすることで否定する論理が、究極のところ“たとえ誰が死んだとしてもおのれのみ生きよう”とする論理によるのであるならば、その論理は、逆に“共同体の生理”によって痛烈に撃たれるであろう。というのは、“たとえ誰がどのような目にあおうとも、おのれのみよければ、すべてよし”とすることに価値を置き、それがいわば「個人の尊厳」を認める唯一の立場であるかのように考えられてきた結果が、現代のあらゆる悲惨をうみだしているのだとするならば、究極においてそのような論理と結びつくかたちで行なわれる“共同体的生理”批判は、どのようなかたちであれ、有効性をもちえないといってよい。
 本来、共に生きる方向に働らく共同体の生理が、外的な条件によって歪められたとき、それが逆に、現実における死を共にえらぶことによって、幻想的に“共生”を得ようとしたのがこの事件であった。だから問題は、“共生”へとむかう共同体の内部で働らく力を、共同体自体の自己否定の方向に機能させた諸条件と、そういう条件を、あらがい難い宿命のようなものに認識した共同体成員の認識のありかたにひそんでいたといえるだろう。むろん、そういう認識のありかたは「共同体の生理」によって大きく規定されているにはちがいないのだが、それは「共同体の生理」そのものから必然的に生れるものではなく、共同体の歴史的体験と、共同体を構成する成員の歴史意識によってどのようにでもかわりうるものである。だから、渡嘉敷島の悲劇の真の原因は、「共同体的生理」にあるといってしまうと誤りをおかしかねない。むしろ戦争≠不可避な宿命のように受けとり、それを相対化することができずに、島が孤立しているというような自然的条件と、共同体に加えられる権力の意志や戦争≠ネどを同じように考え、あらがい難いものとした共同体成員の認識のありかたに原因は求められなければならず、「共同体の生理」をそのような方向に巧みに機能させた支配のありかたこそ問われなければならないといえよう。
 わたしが、「共同体の生理」をこのように考えたのは、渡嘉敷島の事件に示されるように「共同体の生理」は機能することもあるが、必ずしもそればかりではなく、それが沖縄の戦後二十余年もの大衆運動としての祖国の「復帰運動」の基盤となっているのではないかと考えたからでもある。
 沖縄戦での敗戦と、その後二十余年もの戦後の体験は、沖縄の人たちにとって、何よりも沖縄の人間であることを通してしか生きられぬことを意味した。そこには、戦争と戦後の苛酷な運命を共有するものとしての“共生”の意識が強く働いたといっていい。しかしながら同時に、敗戦と戦後の体験は、その「共同体」に加えられる外的な諸条件が、社会的なものであって、可変的なものであることを自覚させたものである。先にふれたように、人間を生れながらに規定している国家でさえ、自然的な条件(いかにもそのように見える)のように絶対的なものではないこと、さらにその自然的条件そのものさえある程度かえうるものであることを沖縄の人々は理解した。戦場でのアメリカ軍の物量による破壊の記憶はなまなましいものであったのである。あたらしい支配者であるアメリカ人は、沖縄の人たちに苛酷な支配を行なったが、沖縄の人たちが、自分たちが自分たちであることによって共生≠オうるのだということを意識しえたことによって、その支配は徐々に後退せざるをえなかったのである。「祖国復帰運動」を支えていたのは、単純な「本土志向」ではなかったと考える。それを支えていたのは、沖縄の人間が沖縄の人間であることを出発点としたところの、だから自分たちが自分たちであることによって、自分たちを自分たちで支えないかぎり、生きぬくことをえない、という“共同体的本質”であり、国家をも権力をも社会的な条件として相対化しえたところに、「復帰運動」のエネルギーを触発する契機がひそんでいたといえる。そして、自分たちの手でどうにかしなければならないのだという共生≠フ希求が、直接民主々義的な運動形態としてあらわれたと考える。「復帰運動」は、沖縄の人たちにとっては、一種の疎外された状況からの自己回復の運動であった。そしてそういう「共同体的生理」に拠りどころを持った自己回復運動の組織化される過程において設定された論理が「異民族支配からの脱却」であり、「祖国復帰」にほかならない。「復帰運動」が「共同体的生理」にもとづく自然発生的な「自己回復運動」にそのまま載せられ流されていって「共同体的生理」の機能や構造を正確にとらえなおすなかで組織化されるのではなく、また「祖国」についての認識を深めるなかで運動の論理をうちたてていかなかったところに、現在「復帰運動」のありかたについてのさまざまな論議をまきおこす原因があったのである。
 もともと「国家」(祖国)や「異民族」という観念は、日常生活においては、それほど現実的なものとして存在するわけではない。今日をどのようにすごし、明日またどのようにむかえるかという日常性のなかでは、それはどうでもよい。たとえば、個人的なふれあいの中では、「異民族」であることは、それほど問題とはならないのである。だが、そういう日常的な生活の秩序をおびやかすもの、あるいは現実的に疎外される状況が立ちあらわれたとき、その根拠として「異民族」が措定されたのである。そして、そういう日常生活の危機が個人的なものでなく、「共同体の存在」そのものに加えられるとき、日常生活における異質感が異常に増幅され、「異民族支配」という論理が成立するといってよい。「復帰運動」のなかで「異民族の支配からの脱却」が、ひとつの運動目標として設定されたとき、それは日常生活の感覚(アメリカに対する異質感や危機感)が「共同体的生理」において増幅されたものを、そのまま表現に定着したものにすぎなかった。その反面、そういう日常生活の面での危機を救抜するものとして「祖国」が幻想的に美化されることになり、その意味で思想として論理性を欠くものとなったといえるだろう。
 「復帰運動」のかつての発展は、そのような、生活の次元における危機感と、アメリカに対する異質感という「共同体的生理」の機能する方向に沿って運動を組織化しえたところにあったが、72年返還をむかえ、新しい国家体制への組み込みが現実化されようとするとき、その組織化の指標は有効性を持たなくなっている。日常生活における危機感は、巧妙な支配の形態をとることによって隠蔽せられ、支配に対する抵抗の核となりえた「異質感」は、明治以後の歴史にみられたように、「進歩への幻想」とひきかえに、同質化の方向での自己否定として解消することが要求されてくるであろうことは明らかなのである。
 ところで、こういうあたらしい支配の形態に対する抵抗の原理として、「階級的視座の確立」が要求されるということがある。そのことは、原理的に正しい問題の提起のしかたであるが、しかしそれが、これまで述べてきたように、過去において強烈に機能し、現に復帰運動の中でも機能している「共同体的生理」の機能と構造を正確に対象化することを通してなされないかぎり、その理論は沖縄に生き、定着することはすくないのであり、かつて成功したような国家からの支配、「共同体的生理」の機能を巧妙にとらえたかたちで行なわれる新しい支配を阻止する力となりえないと考える。
 沖縄に帰り、「沖縄」を自分のなかでたしかめようとして、沖縄戦における「戦争体験」と「戦後体験」の軸としての復帰運動を自分なりに考えてみた結果、そこで出あったのは、このような、現在まさに生きていて、人々を強く規定している「共同体的生理」であった。そしてこのような「共同体的生理」を対象化することによって、わたしは、わたしの中にある沖縄≠フ特質をとらえることができると考えたのである。「沖縄の思想」というものがもしなりたつのだとするならば、そういう、いまだ論理化されない、情念の領域に多く潜んでいるかにみえるそういう「共同体的生理」をとらえなおすことから出発しなければならないだろうと考える。
 みずから獲得し内面化した論理(思想)でもって生きるということが、たとえば、自己の中にあるそういう情念や、日常的な感覚の中で生きて働らいている「共同体的生理」を黙殺したり、あるいは拒絶することを意味するならば、多分、そういう生き方は、遠からず自分が拒絶してきたそれらのものから、手ひどい復讐を受けることになるにちがいない。というよりも、そういうかたちで獲得された論理は、どのような状況においても生きていく「思想」としての強靭さを持ちえないだろうという気がするのである。


(五)

 わたしは、これまで、わたし自身の私的な回想をたどりながら、わたしがどのように「沖縄の思想」とよべるものを考えるようになったか、というその契機になったものを取りあげて記してみた。そしてその結果、わたしが、「沖縄の思想」を考えるとき、その中心になるのは、「共同体的生理」にほかならないということにようやく思い至ったことを述べた。わたしにとって「沖縄の思想」を考えることは、沖縄の歴史の中で、多く沖縄の人たちを規制し、いまなお生き続けている「共同体的生理」を対象化することなのである。したがって問題は、そういう「共同体的生理」の構造と、その機能をどのように考えるか、ということにかかってくるように思う。
 ところで、わたしは、そういうことを専門に研究するものでもなければ、その領域についての研究書を読んでいるわけでもないので、そのことについて発言する資格を持っていない。したがって、「共同体」一般について、その構造と機能を述べることはできない。
 だが、わたしは、現に「共同体的生理」が生きて働らいている社会に住んでいる人間として、また、自分のなかにそれがたしかにあることを認めざるをえないのであるから、わたしは、自分の身のまわりにあり、自分の内にもあるそれを対象化することを通して“沖縄における共同体的生理の機能と構造“について、思いついたことどもを、ひとつの仮説として提示したいと考える。
 「共同体」は、血縁によるもの、地縁によるものなど、さまざまな形態をとっているので、そこに機能する「共同体的生理」も、さまざまなあらわれかたをするにちがいないが、基本的には、それは、その「共同体」に帰属する人間の日常的な意識乃至行動を規制するものとして機能するといえるだろう。つまり、個人が意識的・無意識的にとる行為の原理、あるいは個人の行為の是非を判断する価値の基準が、内面的な規範となったところの<神>や主体的に獲得した論理(思想)ではなく、その個人の帰属するところの「共同体」の意志にもとづく場合、そこに機能するものを「共同体的意識」あるいは「共同体的生理」と呼んでさしつかえないと考える。そこでは、個人の生活は「共同体的意識」にもとづくのであるから、「共同体」の存続がその行為や判断の前提となり、それにしたがって「共同体的意識」や「共同体的生理」は機能する。
 とすれば、そこでは「共同体」と「個人」がどのようにかかわるか、ということ、あるいは「個人的意志」が「共同体的意志」にどのように上昇し、「共同体的意志」がどのように下降して「個人的意志」として現実化されるか、ということが問題となる。
 ところで、「共同体的意識」というのは「共同体」を離れては存在しないものであり、「共同体」というのは、内面化された絶対的な規範としての<神>や、<思想>とはちがって、具体的な存在であり、日常生活の次元での相互の人間どうしのかかわりであるから、「共同体的意識」は、個人の日常的な具体性の面で主として機能するものだといえる。そして、「共同体」の中で個人は、身近かな具体的な存在である他者とのかかわりの中に、「共同体」と自己とのかかわりを見出していくのであるから、自己の行為や判断も、現実的には、身近かな具体的な存在である他者とのかかわりのなかで決定される。そういう、具体的な人間関係のなかで、「共同体的意識」は現実化するのである。
 ヨーロッパのように、絶対的な規範として<神>が措定される社会においては、個人はその<神>とのかかわりで自己の存在を確認することができるであろうし、また自から獲得し内面化した論理(思想)によって生きる人間の場合にも、具体的な行為や判断の基盤となる自己確認は、自己の獲得した思想とのかかわりでもってそれはなされるであろう。同じ「共同体」社会でも、古代におけるように「共同体的意志」が<神>として現実化されるならば、その<神>とのかかわりでもって自己をとらえることができるであろう。ところが、絶対的規範としての<神>も、「共同体的意志」の現実化されたものとしての<神>も持ちえない現在の「共同体」においては、個人は具体的な人間関係のなかにおいてしか自己をとらえることはできない。そこでは、他の共同体成員とのかかわりのなかで、自己はどのような「位置」(親しいかどうか)をしめており、他の成員との間にどのような「距離」(親疎の度合いなど)を持っているか、ということによって、自己を外からとらえることによって確認するのである。帰属する「共同体」がかわれば、「位置」も「距離」もかわるのであり、個人は、そういう、さまざまな「位置」「距離」の複合したところで自己を確かめるわけである。
 「共同体」の中で、自己を、そのような「位置」と「距離」という具体的な他の成員とのかかわりでとらえるということは、逆に、他の成員をもそのようなかかわりの中でとらえかえすことになる。つまり、他者は自己からの「位置」(自己とどのようなかかわりを持つか)と「距離」(かかわりの度合がどのようなものであるか)によってとらえられるのである。「共同体」は、そのような「位置」と「距離」をもってかかわり合うさまざまな人間の集団であるが、個人を軸にとらえなおせば、自己のまわりに、一定の「位置」と「距離」を持った他者の拡がり(自己を中心とする同心円ふうな拡がり)として実感されるといえよう。そこでは、人間関係は、支配・被支配などの上下関係としてよりも、「位置」と「距離」が自分に近接しているかどうかのかかわりとして、より強く機能しているようにみえる。そして次第にそれが遠い方へと拡がる同心円ふうに意識されるのである。人間関係はまず同じ共同体に属しているかどうかによってとらえられ、更に、同じ村に属しているかどうか、同じ島に属しているかどうか、というような横へのかかわりにおいて意識されているといえるだろう。
 このように、横へのかかわりにおいて人間関係をとらえようとする発想のしかたを、わたしはかりに、“水平軸の発想”と名付けたが、そういう“水平軸”に機能する意識によって支えられる「共同体的意志」も、やはり同じように「水平軸」の方向で機能するかのようにみえる。すなわち、一つの「共同体」は他の「共同体」とのかかわりにおいて、みずからの意志を決定する。他の「共同体」に対するときに、「共同体」の成員はより強く帰属意識がかきたてられるのであるが、他の「共同体」に対するかかわりかたも、より身近かな「位置」と「距離」を有する「共同体」から、次第により遠いものへと同心円ふうな拡がりでもってとらえられているといえよう。
 そういう水平軸に機能する意識のもとでは、共同体の相違、あるいは共同体相互のかかわりのなかでの「位置」と「距離」は、大きくいえば、地理的な距離と、生活様式などの文化的な質の差としてとらえられる。すなわち、地理的に近接するものほど相互に深いかかわりを持ち、文化的な質の類似するものほどより近接したものとして意識される。地理的に隔っている共同体に対して、近接している共同体相互のかかわりがより強く意識され、文化的に質の相違が大きいものに対して類似する共同体がより身近かに意識されるということになるのである。沖縄のように、地理的な状況によって共同体が隔絶され、さらに「島」というふうに相互に隔絶されているという条件が、地理的な距離と文化的な質の相違とを重ねたところの構造として共同体相互のかかわりをとらえさせる原因となっているように考えられる。沖縄の中で、とりわけ「宮古島」が問題となるのは、文化的な質の相違がその中で独特なものと意識されるからであり、「本土」が、地理的にも文化的にも距離があるのだから、「本土」に対してより強く「沖縄」(おれたちの島)ということが意識されることになる。米軍の支配に対する抵抗が力を持ちえたのも、それの支配の構造をとらえたということによるよりも、「異民族支配」という言葉で示されるような異質感に根拠を持っていることがひとつの理由となるといえよう。
 石田郁夫氏は、かつて沖縄についてのルポルタージュの中で“被差別の中の差別”として、「本土」から差別されている沖縄が、更にその中で差別を生みだしていることを指摘し、そのことを「共同体的生理」とつなげて論じたことがある。たしかに、現象としてそういう差別があることは否定できないのであり、その差別をうみだす基盤が「共同体的生理」にひそんでいることはその指摘の通りであるといえる。この“被差別のなかの差別”は、しかし「共同体的生理」の本質的な機能ではなく、そういう方向で支配したところの権力構造の問題として、考えられなければならないと思う。すなわち、権力からの抑圧が「共同体」にかかり、それが「共同体」の存続にまでかかわってくるとき、共同体は自己防衛の為に、その抑圧を肩がわりする対象を見いだそうと図るのである。そしてその場合、肩がわりの対象としては、「位置」の上でも「距離」の上でも、よりかかわりのすくない共同体で、肩がわりの可能な共同体へと抑圧をずらしていくのであり、その肩がわりの根拠が、「被差別のなかの差別」として現実化される。そこでは、地理的な距離のへだたりや、文化的な質の差(民度の低さなども含めて)があらためて強調されることになる。「共同体的生理」は本来差別を生みだす根拠ではないので、共同体に加えられる外的な力が共同体自体において克服しうる場合には、むろんそういう差別というのは、殆んど起らないと考えてよいだろう。
 これまで述べてきたように、「共同体」とその中での個人とのかかわりが、共同体への帰属意識を核としており、具体的な人間の相互のかかわりのなかで個人はとらえられるのだとすれば、そういう個人の行為を決定するものは、一種の“秩序感覚”だと考えられる。個人の行為の是非が判断されるのは、その行為自体の是非が判断されるのでなく、その行為が、身近かな人間との具体的なかかわりの障害となるかどうかが問われ、それによって是非が判断されるといってよい。人間の相互のかかわりというのは、その対象との「位置」や「距離」によって相違するのであるから、その中ではたらく判断もちがうのであって、行為の是非はそういう具体性の中で問われてくる。したがって、個人の行為を支配するのは一貫した論理ではなく、その場の条件によって変化するいわば「秩序感覚」とでも呼ぶようなものであるといえよう。身近かな他者とのかかわりの中ではたらく「秩序感覚」の崩壊は、具体的な日常生活における一種の障害としてあらわれてくるのであるから、行為の是非はその「秩序感覚」にさしさわらない範囲にあるかどうかによって決定されるのである。さらに、そういうようなかたちで形成される「秩序感覚」は、個人のかかわる対象との「位置」や「距離」によって異なってくるのであり、疎遠な人に対するよりも身近かな人間に対してより強く働くし、その為、全然かかわりのない人間に対する場合には、その感覚さえ成立しないので、どのような行為も許容されるということが出てくる。身近かな人に対する時ほど「恥」の意識は強まり、逆に、「旅の恥はかきすて」られるのである。
 したがって、個人の行為の是非を判断する基準は相対的なものであり、現在的なものとなる。過去においてとられた行為は、そういうかかわりの中で成立した「秩序感覚」によって支えられたものであって、人間相互のかかわりのありかたの変化した現在では、また別の秩序感覚が成立するわけで、したがって、過去と現在とでは状況が異るのだから、「過去は水に流される」ということになる。過去の行為の責任を問うことが、現在のかかわりの中ではたらいている秩序感覚を崩壊させかねないのであれば、責任を追及することは逆に誤った結果を招くと判断され、そこに一種の寛容が生まれるといってよい。
 また、人間相互のかかわりのなかではたらく秩序感覚によって、個人の行為の是非がはかられる場合、その行為は論理的な根拠を持たないのだから、多くは相互に抑制されたものとして、ときには自己規制をともなったものとしてあらわれる。“相手に対する思いやり”としてあるいは“迷惑をかけぬ”というかたちで抑制されて出てくる行為は、いわば“あいて”と“おのれ”との間に生ずる秩序感覚にもとづいた行為にほかならないので、それは相手の立場を傷つけないということと同時に、相手とおのれとの間にある秩序のバランスをくずすまいとする配慮のあらわれにほかならないといえるのである。
 このように、「共同体」における「個人」の行為は、いわば具体的な人間のかかわりのなかではたらく一種の「秩序感覚」にもとづくわけであるが、そういう個人の場合と「共同体的意志」にもとづく行為はやはり同じようなかたちであらわれるといえよう。
 「共同体的意志」は、もともと「共同体」の存続を本質的な前提とする。したがってそれはさまざまな現われかたをするのであるが、その現われかたはどのようなかたちであれ、共同体の各々の成員の意識が上昇し現実化したものであるといえよう。たとえ、それが擬制的なものだとしても、みかけではそのようなかたちがとられる。そしていったん「共同体的意志」として上昇し現実化したものが、逆に下降して共同体成員の各々の行為を、一種の規範として支配するものと考えられる。
 ところで、さきにふれたように、共同体における個人において、相互の具体的なかかわりのうちに自己を位置づけ、そのかかわりのなかで生ずる「秩序感覚」にもとづいて行為の是非は判断されるのであるから、「共同体的意志」は、そういうかかわりの中で生みだされる「秩序感覚」の複合としての性格を持つ。というのは、共同体に帰属する個人の意志が、「秩序感覚」にもとづくものであって、一種の自己規制≠ともなって外化されるのであるから、そういう個人の意志のかかわりのなかで浮上する「共同体的意志」そのものも一種の「個人的意志」の平衡と複合によって成立するのであり、同時に、共同体成員の平衡化された「秩序感覚」の複合体としての性格をまぬがれえないのである。
 このようにして形成される「共同体的意志」は、共同体に帰属する個人の“秩序感覚”に支えられた意志の上昇し複合したものであるから、そのなかにあって個人が、「共同体的意志」の中に“みずからの意志”を見出し、「共同体的意志」を「個人的意志」の昇華されたものと幻想するのは容易である。共同体のなかに階層分離が明瞭にあらわれ、「共同体的意志」が偽制にほかならぬことが明らかであっても、支配者が、その支配の意志を、「共同体的意志」と幻想させることによって、共同体内部に貫徹することが可能になるのは、その辺に根拠があるのだし、共同体成員の側においても、権力の意志を「共同体的意志」と意識的に幻想する(意識を転換する)ことによって、スムースに受容することになる。沖縄の近代化の過程において、沖縄的なものを異質なものとして自己否定し、「本土」と同質化しようとこころみたのは、いわば「国家」の意志を「沖縄の進歩」「後進性からの脱却」に転換するという操作によって「共同体的意志」として幻想することが可能であったからである。「国家」の意志は、そのような幻想を沖縄の民衆にもたせるように機能したのであり、民衆の側の苛酷な状況から脱却しようとする願望が、さらにその支配の意志の現実化を容易にしたといえよう。
 このような、「共同体的意志」が“秩序感覚”の複合体としての性格を持っているということは、「共同体的意志」が、共同体に帰属する個人を規制する際にも、具体的な個人の相互のかかわりを通してあらわれるという特質としてあらわれる。個人の行動が、内在する論理に根拠をもつところの判断によって規定されるのではなく、具体的な人間の相互のかかわりの中で、一種の平衡的な感覚としてあらわれる秩序感覚≠ノよるのであるから、それらの複合体としての性格を持つ「共同体的意志」も、それに反することは、具体的な相互のかかわりの中にある“秩序感覚”を否定し、ひいては、その人間関係をきずつけるものとして受けとめられ、結果として“自己規制”や隠微なかたちであらわれる“相互規制”として個人の行動を支配するのである。
 このことは逆にいえば、具体的な個人の相互のかかわりによって、各々の個人が支えられるという現実があり(遠い親戚より近くの他人)、そういう日常的な現実を否定することがかなわぬ以上、各々の人間は、それぞれの秩序感覚、ひいては「共同体的意志」に呪縛されることによって生きなければならないことを示している。その意味では、「共同体」における「共同性」は、そのような日常の生活に現われやすいところの、いわば「自然的な生」の共同性にもとづくものであり、それが、具体的な相互のかかわりにおいて社会的なものへと転ずる契機として現実化されるところに、個人を支配する力を持っているのだといえるであろう。
 ところで、このような「共同体的生理」の機能を、巧妙に捉えて支配しようとこころみたのが沖縄に対する廃藩置県以後の政策であったといえよう。それは、“自然的存在”として意識されていた「日本人」意識を、“共同体的存在”としての「日本国民」という意識に改変しようとするこころみであったといえる。これまで述べてきた皇民化教育は、沖縄をいわば「共同体的意志」の現実化されたものとしての「天皇」を頂点とする「共同体」に組み込む工作であったのであり、そのために沖縄のもつさまざまな特質は、「異質」なものとして自己否定を強制されるに至ったのである。むろん、それに見合うだけのものが「進歩」と「先進化」というかたちであたえられ、そのため沖縄の側にも「共同体的意志」として「日本国」の「国家意志」をみずからのものとしようとする試みが可能となったといえるだろう。そして、いったん「共同体的意志」として定立された「国家意志」は、「共同体的生理」にもとづいて機能し、いわば、具体的な相互のかかわりにおいて生ずる“秩序感覚”に沿って下降し、具体的な人間関係の秩序を崩壊せしめまいとする各個人の努力によって支えられていった。
 皇民化教育とならんで、「在来の宗教を弾圧し或いは変革することによって、日本の国家理念の下につくられた日本宗教に移行せしめ、その宗教を通して、琉球人を日本国家および日本精神の下に統合する」(鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』)こころみが行われたり、「島内各学校の天皇、皇后陛下の御真影の御下賜は、1889年(明治22年)にはじまった。それらの御真影は、たんなる写真としてでなく、念入りな儀式をもって出し入れされる半神格化したものとして取り扱われた」(ジョージ・H・ケアー『琉球の歴史』。大田昌秀『沖縄の民衆意識』より再引)のも、いわば、各々の共同体における「共同体的意志」を収斂し、整序することによって「国家的意志」の貫徹を図ったものだといえよう。各々の共同体において、その共同体の願望や意志を現実化する契機として、あるいは共同体の核として「神」が生きている限り、おそらく新らしく共同体に外部から入りこむところの「天皇」は共同体の成員をその内部から支配することは不可能であるのだから、これまで各々の共同体が保持し、各々の人間の内部で生きていた「神」は否定されなければならなかったのであろう。というよりも、在来の「神」をどのように「天皇」のもとに吸引し、「天皇」を「共同体的意志」の発現者として民衆を内部から支配する規範となしうるか、ということが、より大きな関心事であったと言えるだろう。
 たとえば、明治22年の6月には、波之上宮を国幣中社として国の宗教政策の中に系列化しようとする動きがあり、23年にはそれが「官幣小社」として実現しているが、それ以前の政府の沖縄に対する政策の中には教育制度を取り入れたこと以外には目立った政策はなく、そういう宗教政策が、教育制度に引き続いて重要視されていたこと。あるいはまた、明治43年に県社として「沖縄神社」の設立が目論まれていて、そこで、琉球国の国祖と目される「舜天」と「源為朝」を祭神にしようとしているのである。この点について鳥越憲三郎氏は、「かかる祭神を認めた経緯の中には純然たる琉球の国王或は神話上の人物のみでは我国との宗教的・民族的関係をもたないので、源為朝はただ伝説上の人物で何等歴史的な確証を認め得ないものではあるが、これをわざわざ主神とし、舜天・尚泰の両国王を配したのである」と述べている。このような、明治政府の沖縄に対する政策は、先にもふれたように、共同体における共同性、核としての「神」を、どのように「天皇」の中に収斂し、「天皇」によっていかに各々の共同体における各々の成員を、内面から支配するかという、近代の日本の国家意志の如実なあらわれであり、「天皇」の意志として現実化される「国家意志」をどのように「共同体的意志」として幻想させうるか、という意図のあらわれであったといえる。宗教政策の中で、地方における「のろ」を残存せしめ、それを利用しようと図ったことや、あるいは「新しい神社は、古くからの沖縄固有の由緒ある社に隣り合わせて建てさせた」(大田昌秀『沖縄の民衆意識』)ことも、共同体の“秩序感覚”をそのまま温存し、「共同体的意志」の内実を換骨奪胎することによって、支配を容易にすることを図ったとみることもできよう。
 このように、明治以後の政府の沖縄に対する政策は、「共同体的生理」の機能に沿って支配していくところにその特質があったと考えられるが、このことはかならずしも沖縄にたいするだけではなく、「本土」の各地方においてもみることができる。神島二郎氏は著書「近代日本の精神構造」で、この問題を追求している。したがって、このような支配の構造は、沖縄だけではなく全国的な対比の中で、より詳細に検討されなくてはならないのであって、これを「沖縄」の特徴的な支配として即断することは避けなければならないだろう。だが、沖縄においては、そういう「共同体的生理」がかなり強固に生き続け、共同体に帰属する成員を、内面から強固に規制していたのであるから、天皇制の支配の構造や原理がより典型的にみられるのであり、沖縄の特質を除いて考えても、日本の近代以後の天皇の「共同体的意志」としての上昇過程を、そこに具体的にみることができるのではないかと考える。
 さて、以上のように、明治以後の沖縄の支配は、「共同体的生理」にもとづくものであったと考えられるが、その支配が、それでは民衆の底辺にまで貫徹されたか、ということになると、わたしはすこし疑問を持っている。たしかにある程度は現実にそれが貫徹されたと考えるが、それは根底にまでは達していなかったのではないか、と考えるのである。これまで、多くは、それが底辺にいたるまで貫徹されたものであるかのようにみて、その証拠としてたとえば大宅壮一によって言われた「動物的忠誠心」のような愛国心が指摘されてきた。このことについては、先にもふれたように、それは必ずしも「愛国心」というようなかたちでとらえられるものではなく、むしろ「共同体」を支える基盤である土地に、戦禍が襲ってきたからであり、いわば「共同体」の存立の危機が直接にあったからではないか、と考えるのである。
 つまり、天皇制がイデオロギーとして支配したのは、丸山真男氏の言うように、「中間階級」の「第一類型」に属する「亜インテリ階級」であって、民衆の内面を呪縛しえたとは思われない(『日本ファッシズムの思想と運動』)。にもかかわらず、それが今述べたような「愛国心」とみまがう行為を示した原因は、民衆の行為の規範となるところの“秩序感覚”に支えられた“共同体的意志”として天皇が機能しえたところにあったと考えるのである。そして、戦禍が直接に生活の基盤となる土地に襲いかかったから、それが一層強烈に現実化されたのだと思われる。だから、状況の変化によっては、たとえば「復帰運動」のような民衆運動としても現実化する契機を持つものとしてそれは考えることもできる。誤解をおそれずあえていえば、「慶良間島の集団自決事件」と「復帰運動」は、ある意味では、ひとつのもののふたつのあらわれであったといえよう。
 このことについては、すでにふれたのであるから、ここでくりかえしのべる煩は避けたい。ただ、わたしがここでのべたいのは、「共同体的生理」というのは、まさにその「生理」という言葉どおり生きて動いているものであって、もののように固定して存在するものではないということである。だから、それはどのようにもあらわれるものであって、頭から否定的にのみとらえられないだろうということでもある。「共同体的本質」というのは、近代の行きつくところが「自分だけ生きのびよう」とするのに対して、「自分たち」が「ともに生きのびなければならない」という意識を提示することもであると考える。とすれば、「共同体的生理」に沿って機能する権力の支配とそれをそのまま受容しようとする「秩序感覚」をどのように否定し、「ともに生きよう」とする意志を、どのように具体性において生かしうるかということを、あらたな課題としなければならないだろうと考える。そして、その中で「自立」とは何であるか、ということがあらためて問われなければならないだろうと思うのである。
 とりとめない文章となってしまったが、最後に、最近耳にしたエピソードを紹介して、この稿の結びにしたい。沖縄から集団就職したひとりの少女がいる。労働基準法で定められた基準をこえて働らかされているのだが、彼女は歯を食いしばってそれにたえている。小さな町工場のことである。社長の命令に反抗することもしない。ただひたすら身を粉にして働らいている。彼女を、そのはげしい労働に耐えさせているのはなにか。それは「沖縄から出てくる後輩のために」という意識である。「もし自分が怠けると、沖縄の人はみんなそうだと思われる。そうなるとこれから出てくるであろう後輩たちが可哀想だ」という意識が、彼女を支えているのである。そういう彼女に、8時間労働や労働者の権利を説いても、彼女はうけつけない。
 彼女の労働者意識の低さを指摘するのはたやすい。彼女の誠心誠意の努力が、更に抑圧や差別を助長し、労働者の権利をなしくずしにしていくことを説くのも容易である。だが、わたしは、彼女のひたむきな心情を否定してしまうことはできない。彼女の意識の低さのみをあげつらうさかしらもとりたくない。ただ、いまだ彼女を納得させる論理を持ちえない自分の無力をなげくのである。
 わたしにとっての「沖縄の思想」というのは、けっきょく、このように具体的に生きて働らいている少女の意識、そして幾分自分のなかにもあるところのそういう意識を対象化し、論理化することを通して現実となるものであろうと考えるのであり、そのためのわたしの目標となるものであると考えているのである。



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