滅びゆく琉球女の手記
久志 富佐子

 不幸があつて故郷へ行つて来た友達に、母の様子を訊かうと思ひ、妾は恐る恐る訪ねて行つた。妾には母があの身体で此の冬を無事に越せようとは思へなかつたのでまこと薄氷を踏む思ひだつたのだ。併し友達の洩らした言葉からは、母の例のやせ我慢だけが響いて来た。塩風に曝された友達の貌には、別に隠された色もない。その妾の友達は、琉球の疲弊について、今更に大きな吐息をついて語り出した。
 「S市では晩なぞ真暗らよ、何しろ税が高いとかで、金持ちは皆N市へ引越したがつてるんだつて、石垣は崩れ放題で、その囲の中だつて大抵畑かなんぞになつてるの。あれで、琉球第二の市ですからね、驚いたもんよ。」
 「おまけに、移民お断りと来た日には、目も当てられないわね。出稼ぎだけで、やつとかつと繋いでるだけね!」
 「全くよ!」
 妾達は暫らく故郷の話で我を忘れてゐた。
 友達は母を此方へ呼んで、大島紬の商売でもやり度いと思ふけれど、あのいれずみがねエーと思案顔だつた。いれずみではどの家庭も困らされた。稼ぎためた金で、息子を幾人も高等教育受けさせた処で、母は手の胛にしみついたいれずみの為めに、死ぬ迄故郷に置き去られねばならなかつた。ひどいのになると、孫の顔も知らずに死んで了ふでのある。息子達が出世すればする程、その母は此の故郷と云ふほんの少し自由のきく座敷牢の中に僅かなあてがひ扶持で押し込まれねばならないのだ。勿論、僅かな例外はある。朝鮮人や台湾人のやうに、自分達の風俗習慣を丸出しにして、内地で生活出来る豪胆さは琉球のインテリに出来る芸当ではない。妾し達琉球人は、此の大きな都会の中でも、常に茸かなんぞのやうに、かたまつてゐたい性質をもつてゐる。
 様々な性格の相違はあつても、琉球人と云ふ一本の線が各々の胸の寂寥を、共通にかき鳴らす点に於て、妾達は何をさておいても共鳴せずにゐられない。それでゐて、其の共鳴は決して口に出す事なく、寧ろそう云ふ話題になると、お互ひがよそよそしく目を迯らして了ふ。恰も、不具者同志が道で行き逢つた時のやうに……。
 妾達はいち早く目覚めねばならぬ民族であり乍ら、骨に迄しみついたプチブル根性が災ひして、右顧左眄しつつ体裁を繕ひ繕ひその日暮しを続けてゐるのだ。かくて永久に歴史の殿りを承つて他人の歩み荒した路を曳きずられながら生きて行くのである。暗い反省が友達の家を辞してからたち垣根に沿ふて歩く妾の胸に甦つた。妾は又、今帰りがけに×駅で待ち合はさねばならない叔父の事に思ひ及んだ。かれも亦、裸になれぬわれら社会の一人である。彼は幾つかの支店と、大学や専門学校出の、社員と、壮大な邸宅と、嬶あ天下の夫人と、嫁入り盛りの娘を持ち、しかも琉球人の琉の字も匂はせず、二十年来、東京の真中に暮らして来てゐる。
 褪せた緑色の電車は、何時の間にか×駅の入口に迄妾を運んでゐた。いつもの三等待合室でショールに顔を埋めて、三十分近く彼を待つた。大晦日の待合室には、捲ききつたぜんまいのやうに緊張した空気が漲つてゐる。誰も彼もそわそわしてゐる中で、日本髪に結ひ上げた若い女の横貌だけが、和やかな光を帯びて、何かしら又来る年のよろこびにうちふるへてゐるやうに見えた。それを見ると妾は、ふけだらけの頭をかき乍ら、猫の毛皮のやうに、年中身も心も甦つた事の無い自分が不思議な存在にさへ思はれて来るのであつた。室の隅では、汚れた丹前を来て寝転んでゐた男が、巡査の不審訊問を受けてゐた。何故貧乏人は真先きに「曲者」の視線をもつて見られねばならないのであらうか。他人事ながら、それに何等の理由もないのに妾は堪らなくむしやくしやして来る。「やあ……」ふと見ると、叔父が立つてゐた。目礼を返す妾の傍に腰かけて、彼は葉巻きをくわえる。ぎこちない会話が二分も続いたらうか――彼は「何しろ忙しいんでね……」と素気ない仕草で、何か云ひ訳でもするやうに前置きして「例のを送つて下さい……」と云ひ乍ら、がま口から十円札を取出して、目の前に置いた。「はあ……」妾も例のやうにぽつりと答へる。そんな風で話はいつも簡単に済んでしまう……。
 妾は、広場を横切つて行く彼の澎大な後姿が、人ごみに捲き込まれる迄見送つた。彼とあのビルディングと、事務机と封筒の山とは梅に鶯よりもうつてつけの対照ではないか。彼はそのやうなセツトの中へはめ込まれる為めに生れ出て来たやうな、典型的ビル人種である。其の後姿には、機械のやうな正確さと強さと冷やかさだけが感じられる。建物の上層にうつすらと消え残つた夕日が、妾の絶望的な心にピタリと来た。
 妾は叔父の生活のアウトラインを其の口うらから、僅かに想像するだけで、彼の妻にも娘にも一面識も無い。勿論住所も知らないし、事務所だけは電話帳で分つたが、一度訪ねて行つたきりで、態の可いお出入差し止めを喰つてゐる。勿論妾は彼に対して、何の依頼心も持つてゐないからそんなことは一向平気なのだが……。
 三人の女中、爺や、ピアノ、そして、此の、彼の継母に送る月三円の手当、その三円の手当を送る迄には、次のやうないきさつがある。

 彼が九州の或る街で除隊になつた儘、突然行方不明になつたのは、三十年も前の事であつた。永い無音信に人々は彼の存在をさへうたがつてゐた処が、どう云ふ気でか、五年前の或る日、ぶらりと故郷へ帰つて来たのである。彼は、妾の家が未だに昔のやうに栄えてゐると思つてゐたのだらう。車夫に妾の家の姓をつげて街中探しあぐね、夕方になつて、やつと、ポストのある間口二間のみすぼらしい店先きに突立つた。妾の母は腹の太い豪らさうな洋服紳士の御入来に泡を喰つて平身低頭した。常に、商品の煙草や塩の事で叱言を喰つてゐる税務署の官吏と間違へたのだつた。彼の家も亦、一門一族と共にすつかり没落して了つてゐた。耳の遠い耄碌した祖母と、彼の父の妾が、継ぎだらけの着物で、床のぬけた畳の上に住んでゐた。祖母は、人見知りする子供のやうに含羞んで、日がな一日板壁に向いたつきり、物も云はずに麻をつむぎ続けてゐた。本妻に直つたその妾ももはや顱頂部は真白になり、よその使ひ歩きや、洗濯なぞで、細々と日を送つてゐた。
 その妾は境遇に似ず純情そのものだつた。彼の父が若い頃溺愛したせいもあつたのだらうが、それもほんの数年間で、後は又夫の不身持ちから苦労のどん底へ突き落されなければならなつかつたのだ。小金を持つた年増の商売女に、色と慾とで迷ひ込み、間も無くその女を家にひきいれたのである。そして一旦本妻に直された彼女は、遂々下女にまで転落せしめられた。夜は台所わきに小さくなつて寝た。家中の着物の洗濯から御飯炊き迄、彼女一人に押しつけられて了つた。が、不平ををじつと噛みしめて誰にも訴へなかつた。そのせいか、彼女の貌は絶えず泣いてゐるやうに見受けられた。
 其のうち、叔父のすぐ下の弟が田舎で急逝したので、若い嫁と三つになる男の子がまた此の貧窮の家庭へ加へられた。彼女は心の寂莫に堪えかねてゐたので、家族の殖えたのを却つて喜んだ。嫁は機織をおり、彼女は相変わらず他人の使ひ歩きや義理の孫のお守りや、炊事やらで忙しかつた。彼女の夫は八卦見を商売にしてゐたが、さつぱりはやらないので、情婦と差し向ひで愛慾耽溺の日を送つてゐた。
 貧乏は絶えず此の複雑な一家を脅やかしつゞけた。情婦の蓄へも費ひ果たし、今は冷い現実が此の中年者の恋愛至上主義者達の間へ容赦も無く割り込んで来た。或る朝、人々は若い嫁が家出して了つた事を知つて呆然とした。それから、半年も経たぬ間に、彼女の夫が肺病で寝ついて了つたのだ、もう既に無一物だつた。
 暫らくすると情婦も亦此の困窮の一家を見棄てゝ逃げ出して了つてゐた。残されたのは、幼い子と肺病の夫と、耄碌した九十近い祖母と、老境に入りかけた彼女とだつた。彼女は黙々と力のある限り働いたが、それは焼石に水だつた。泣いてゐるやうな表情をして親類縁者を片つ端しから、助力を乞ふために廻り歩いたが、何処も似たり寄つたりの暮しで如何すること事も出来なかつた。時偶二十銭、三十銭と呉れる金で子供好きの彼女は、食ふ物も食はずに孫のために菓子を買ひ、夫に買薬を買つて帰つた。着物は親戚のお古を頂戴してすましてゐたので、みるみる雑巾のやうに裾や肩が垂れ下つた。すると、見兼ねた誰かしらが、また着古したものを恵んでやるのだつた。意地も張りも無くなり、どんな物でも恵んでやりさへすれば、子供のやうに喜ぶ彼女だつた。
 それが哀しい彼女の習性となつてしまつたのだ。
 祖母と孫と病人だけに外米のお粥を炊き、彼女はさつま芋を、一度に煮て置いて五日も六日もそれ許り食べた。孫は何処へ出掛けるにもおぶつて出たが「黒砂糖頂戴ようよう」と背中で反つくり返つて泣き叫ぶ時、彼女自身も胸をかきむしられるやうで「よしよし可愛想に可愛想に」と、おろおろ声でなだめながら遂に自分も泣き出し了ふのであつた。それ以外に、彼女に慰めの手段は無かった。菓子と云ふものを締め切って、黒砂糖をねだるその孫が彼女にはどんなにいぢらしく思へたであらう。常に泣いた表情の彼女がその孫に向ふ時だけは、僅かに笑ひに似たものを見出す事が出来た。そんな或日、夫は窮乏の中に死んで行つた。運命は、転落する石にも似てゐる。転り出したら何処で停まるのか――それを知つてゐるのは多分神様だけだ。夫の死は彼女にとつて少くとも物質的に肩の軽くなる思ひであつたが、彼女の只一つ希望、それも血の繋らない、その孫が、急性腸カタルで病みついた時には、世の中が一時に真暗になつてしまつた。彼女は狂人のやうになつて医者を頼み歩いた。既に、半ば理性を失つてゐる彼女は好いと云はれゝば、どんな迷信じみた事でもやつてのけた。重体の子にむやみと甘い物を食べさせたがつた。あたかも、不断の栄養不良の償ひでもつけるかのやうに――。いかなるものといへども、彼女の、この妄動を停める事は不可能だ。彼女にしてみれば、甘い物一つ食べさせずに死なせることが此の上もない苦痛であり、それ許りが傷心の種になつてゐたのだから――。
 その孫は、遂に泣き狂ふ彼女を残して、死んで行つた。暫らくの間彼女は魂を奪われた白痴のやうに放心して、虚空をみつめてゐた。道を歩く時は、常に目を足下に落し、長い事、結ばないまげががくりとうしろに垂れ下つてゐた。何曜日かの映画の替りで、街を流して行くヂンタ楽隊はかつては彼女を孫と共に、薄汚い露路口に躍り出させたものだが、今ではいたづらに涙線をつく憎らしい存在になつて了つた。彼女の泣いたやうな表情は、ますます深刻になり、絶えず死の誘惑と闘つてゐる複雑な動揺さへ見られた。不運の連続の中で、馬耳東風的存在は祖母であつた。息子の死にも平然と構へ、曽孫が死んでもにやにや笑つてすました。只むやみと盛んなのは食慾だけだつた。朝御飯がすんで五分と経たないのに又朝飯を要求するのだつた。叔父が帰省したのはさう云ふ生活の中にであつた。

 彼はその家に寝起きするのを嫌つて、いくらかましな私の家へ寝泊りした。
 二間間口の傾いた店と、六畳一間の間取りだつたが、私が小学校教師で田舎へ行つてゐたので、その一間は、どうにか叔父の為めに役立てる事が出来た。母は彼を伴つて、親類廻りに出向いたが、何処も此処も、あか茶けてぶくぶくした畳と缺けた湯呑み茶碗が、彼を待ち受けてゐた。そして話と云へば、梅雨期のやうにじめついたおしひしがれた民族の歎声許りだつた。石垣は崩れ、ぺんぺん草が生え、老人許りがむやみと多かつた。彼はその悲惨な故郷の有様に胸を打たれるよりも先づうんざりして了つたらしい。二十日も経たない中にそこそこに、故郷を棄てゝ行つた。出発の日も、再び何処も知らせずに。そうして別れ際に、かう云ひすてるのだつた。「僕の籍はね、×県へ移してありますから、実は、誰も此方の者だつてこと知らないのです。立派なところと取引きをしてゐるし、店には大学出なんかも沢山つかつてゐるので琉球人だなんて知られると万事、都合が悪いのでね。家内にも実は、別府へ行くと云つて出て来たやうなわけですから、そのおつもりで……」
 親類縁者の人々は、立身出世したこの身内を憧れて、つきあつてゆき度いと思つても、無理矢理に諦めさせられるよりしかたがなかつた。桟橋迄見送るのも迷惑がつて、彼の方から断つた。只一時も早く、此のたこの脚のやうに纏ひつく係累なるものを切離して出発して了ひ度いと云つた態度だつた。妾は叔父の帰省した事も出発した事も知らずにゐた、後でぐち交りに、母からきかされた。小学校を卒へたゞけの叔父が、苦労で築き上げた事業をまもるために、小細工を弄する心情は、妾には如何にも隣れに思はれた。母の住む街から、就職先きの村へ帰る途すがら、汚れた幌馬車の中でゆられる儘に、何かなし「滅びゆく孤島」と云ふ思ひをしみじみ考へさせられた。
 夕暮の風景は、此の島の持つ感情そのものだつた。見るからに、瘠せたごろごろの土に甘藷のかづらが這ひ、あとはひよろ長い甘蔗の林と、赤松の並木、そてつの群生、老爺の顎鬚みたいに白くさんさんと垂れ下るガヂマルの気根、赤く大きくゆれ乍ら丘陵の彼方へ沈みゆく夕日没落の美が、ひたひたと潮のやうに妾の胸にしみ渡つた。ぽつりぽつりと、時間を区切つて行く馬の脚音に、絡みつくやうな御者の吹声がまことに似つかはしい没落の伴奏であつた。「ダルユ、ウラミトテ、ナチユガハマチドリ アワン チリナサヤ ワニントモニ」と云ふのだつだがそれを訳すると「誰を恨んで浜千鳥は泣いてゐるのだらう。あゝ、此の辛い気持ち、千鳥に誘はれて泣けて来る」立続けに御者は唄つた「月ミリバ昔ヌ 月ヤスガ カワテ行クムヌヤ、人ヌクゝル……」
 幸住むと人の云ふ、或は、頭うなだれ帰り来る。ポール・ブツシエの詩が、断れ断れにきいてゐる妾の頭の中で明滅した。琉球の多くの唄には、人の胸の悲痛をかきむしらずには置かぬ哀調があつた。さも無くば、ナンセンスな歌詞と、やけくそなジヤズにも似た節とが組み合つて出来てゐる。
 何百年来の被圧追民族が、うつ積した感情が、このやうな芸術を、産み出したのかも知れなかつた。妾は此の夕暮れの風景を好む。此の没落の美と呼応する、妾自身の中に潜む何物かに憧れを抱いた。  (つづく)
(『婦人公論』1932年6月号)

『滅びゆく琉球女の手記』についての釋明文

 六月号婦人公論に掲載して頂きました私の文章につきまして、沖縄県学生会前会長と会長がお見えになりまして、ひどくお叱りを蒙り、ぜひ婦人公論誌上で謝罪せよとの事ですから、こゝに、釈明文をのせて頂きます。先づお二方の主意は、かう故郷の事を洗ひざらひ書き立てられては、甚だ迷惑の至りだから黙ってゐろ。又、あの中に出て来る一人物(叔父と称せられた者)のためには、皆がさうだと誤解され勝ちだから、謝罪しろとの申出でありましたが、此の点、妾しは何も嘘八百を並べた訳ではなし、又、沖縄全部が、出世する、あの人物のやうになります。と書いて覚えもありませんから、どうもお気にやうな謝罪の言葉がみつからないのを、残念に存じます。学生代表のお話ではあの文に使用した民族と云ふ語に、ひどく神経を尖らしてゐられる様子で、アイヌや朝鮮人と同一視されては迷惑するとの事でしたが今の時代に、アイヌ人種だの、朝鮮人だの、大和民族だのと、態々段階を築いて、その何番目かの上位に陣どつて、優越を感じようとする御意見には、如何しても、私は同感する事が出来ません。(此の考へは恐らく代表者だけの御意見だらうと存じますが)
 代表の方々は我々を差別待遇して侮辱するものだといきまいて居られたが、その語はそつくりその儘、アイヌや朝鮮の方々に人種的差別をつけるやうなものではないかと思われます。妾自身は、沖縄県人が、アイヌ人種でもよし、大和民族でもよし、どつちにしろの境遇的には多少歪められたにしても、人間としての価値と、本質的には、何らの差別も無い、お互ひに東洋人だと信じて居ります。さう云う見解から、民族と云う語を軽い意味で使用したのでございまして、従つて、妾自身もその一人でございますから、ゆめゆめ侮辱などと云ふ気持ちで書いたものではございません。とは云へ、あの文章にもあつた通り無理解な人達の為めに、一種の淋しさを味つた事は事実ですが、そして妾自身、懸命に云ひ繕つて来た過去を持つて居りますが、さうした努力は、無駄に神経が病的に立たせ何時暴露するか暴露するかと気をつかふ結果、神経が病的になり、卑屈に陥る許りだと覚つて(自分では覚つたつもりですが)考へを更めました。何も妾達は無理解な人達にこびへつらふ為に自分自身迄、卑屈な者になり下がる必要はないと妾は思つてゐます。妾達か如何程隠さうとした処で、現に…‥(色々の出版物の例を挙げようと思ひましたけれども、これ又、沖縄の風俗を宣伝する事になり、お叱りを受けるだらうと思ひますから止めます)学生代表のお話しによると、外に対しては故郷の風俗習慣を、なるたけカムフラージする事に努め、中に向かつては、風俗習慣の改良を、声に大きくして叫んでゐられる由であつたが、妾自身は、異つた風俗習慣、必ずしも一概に卑しむべきでなく、又排斥すべきものではないと信じて居ります。その風俗習慣を生み出す迄には、交通、気候、殊に経済等に影響せられた点が多いのでせうから、妾達の先祖も当今の大学の方々に比べて、そんなに淺薄な考へも持つてゐなかつたらうと思ひます。
 又学生代表の方は、妾の文章が就職難や結婚問題にも影響するからと仰言つていらしたが、むしろ、就職難の邪魔をするのは、その卑屈な態度ではないでせうか。資本家の方達でも、今の時世に、そんな差別待遇をつけて排斥したら、どのやうな結果をひき起すかと云ふ事位は百も御承知でせう。妾みたいな無教養な女の魂の訴へを、必死になつてもみ潰さうとなさるよりも、正々堂々と、そんな事位で差別待遇をつける資本家の方へでもぶつかつていらしたらどんなものでせう。
 沖縄人だって、兵役その他の義務を背負はされてゐるのですから。又結婚問題なぞでもそんな無理算段をして、此方でお嫁さんをお貰ひになり、生涯家族引き連れて帰省する事も出来ないと云ふやうな仕儀に立至るよりも何も彼も明けすけに打明けてお貰ひになるなり、又それで来てくれないお嫁さんならば、いつその事断念して、すべてを捧げて待ちうけてくれる故郷の娘さんでもお貰ひになつたら……と、これは老婆心までに……。
 妾は、故郷の事をあしざまに書いたつもりはなくて、文化に毒されない琉球の人間が、どんなに純情であるかを書いたつもりですから、どうぞ、さうあわてずに、よく考へて頂き度いと思ひます。でも、妾のあけすけの文章が、社会的地位を獲得しておいでになる皆様には、そんなにも強く響いたのかと、今更乍ら、恐れ入つて居ります。さう云ふ点、深くお詫び申し上げます。地位ある方々許りが叫びわめき、下々の者や無学者は、何によらず御尤もと承つてゐる沖縄の常として、妾のやうな無教養な女が、一人前の口を利いたりして、さぞかし心外でございませうけれど上に立つ方達の御都合次第で、我々迄うまく丸め込まれて引張り廻されたんでは浮ばれません。尚、あの文章にありました年代や場所についてはその方々の御迷惑を考へて、多少、変更してありますから、何卒そのおつもりでお読み下さいませ。
(『婦人公論』1932年7月号)

久志富佐子(くし・ふさこ)
 1903?−86。那覇市生まれ。県立第一高等女学校卒。小学校の教員を経て、上京する。最初の結婚で二人の子供をもうけたが離婚。その後、愛知県出身の医者と再婚し、名古屋に移る。『婦人公論』に発表した「滅びゆく琉球女の手記」が波紋を呼び、同誌に「釈明文」を寄せた。
(『沖縄文学選』2003勉誠出版より)