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叢書 わが沖縄

『叢書わが沖縄』谷川健一編 第6巻「沖縄の思想」

「非国民」の思想と論理
――沖縄における思想の自立について――

新 川  明



一、沖縄の思想

 沖縄という微細な、それでいて日本列島国家の南端から〈日本〉に対して特異性を主張している島嶼の中に、みずからの〈生〉を不可避的に繋ぎとめているわたしたちが、沖縄の存在とかかわる何らかの言葉を発するということは、とりもなおさずみずからの〈生〉の意味を問うことであり、その〈生〉がどのような姿勢で歴史の酷薄に耐え、あるいは参加しようとしているかを、みずからの〈生〉そのものに突きつけていくことにほかならない。  さらにまた、その沖縄にいて、沖縄の存在について考え、何らかの言葉を発するということは、とりもなおさず〈国家としての日本〉とのかかわりにおいて沖縄の存在の意味を問うことであり、沖縄の存在が〈国家としての日本〉に対して所有するであろう衝迫の可能性を、沖縄の存在それ自体に突きつけていくことにほかならない。  そのようなみずからの〈生〉と、その〈生〉を繋ぎとめている沖縄の存在について語ることは、沖縄の存在をして〈国家としての日本〉を撃ち、そこに際限のない毒矢を打ち込む存在たらしめるために、避けることを許されない思想的の営みとしてわたしたちが背負う業苦でもある。それは語りつぐにしては、余りにも貧しい言葉しか持たぬゆえに業苦であるわけだが、にもかかわらずそれは、一種の華やかな歓びをともなうものとしてわたしたちに所有されていることも否定することはできない。  本来、沖縄の歴史的・地理的の条件は、明らかに〈国家としての日本〉を撃つ可能性を内在させてきたのであるが、それは今日までなお具体として表出されることはなかった。  そのことはわたしたちの〈生〉そのものの怠慢としてきびしく糾弾されなければならないが、いまわたしたちは沖縄が持つ可能性を、その思想において具体として創出することによって〈国家としての日本〉を撃つ衝迫力として逆噴射し、そこに無数の毒矢を打ち込む作業に現実性を持たすことができるだろうことは疑えない。まさしくそのゆえにこそ、いま切実な実感をこめて「沖縄の思想」は語られるべきテーマとして、わたしたちの前に提示されているのであろう。  たしかに、沖縄の存在がその歴史的・地理的の条件によって、〈国家としての日本〉を撃つ衝迫力を所有し、こんごも所有しつづけるだろうことは、少くとも思想の領域で、「沖縄」を論ずる場合、ほとんど自明にひとしいことといってよい。なぜならば「沖縄の思想」という言葉が、定立した概念としてわたしたちに共有され得ているということ自体、まさにそのような沖縄の持つ可能性を動かすことのできない前提としない限り成立するはずはないだろうからである。  あるいはまた、沖縄独自の歴史風土に根ざして、いわゆる「沖縄学」と称される特異の学問領域が存立し、その存立を日本も含めて共通の了解事項として了解し合ってきたことによっても、沖縄が歴史的地理的に所有してきた可能性が、日本の他のどのような地方府県に比しても際立って存在していることを裏書きするものといえるはずだからである。  ただ「沖縄学」は、(のちに「沖縄学の父」といわれる伊波普猷に即してのべるように)沖縄の持つ、そのような可能性を掘りおこし、押し展げ、切り拓いていく方向ではなく、逆にそれを押え込む方向でその成立がはかられたものである。すなわち、沖縄近代化のためとはいえ、沖縄を日本に全的に同質化させる媒体となることをみずからに課すことによって、沖縄の存在が持つ可能性をみずから積極的に埋めてきたものであった。  そのことは、沖縄の近代史=近代思想史におけるもっとも興味をそそるテーマの一つであり、こんごおおくの人によってその批判的解明がなされるだろう。  だが、沖縄の持つ可能性について語るとき、沖縄人一般としてみた場合には、そこに多様な問題の提起とアプローチがこころみられるだろう。それはたとえば、芸術文化とか政治とか経済とか、そのような個別的なジャンルについて語るという意味で多様というのではなく、もっと根源的な意味における沖縄の存在に対する人間的なかかわり方の多様さということであるのだが、それにもかかわらずそこで画然とした区別が明確にされることはことわるまでもない。そのもっとも根底的な尺度となるものは、いうまでもなく日本に対する沖縄のかかわりについての、それぞれの歴史意識=歴史認識と、それによって分岐される各人の思想的視座である。それはマルクス主義的の史観であるのか否かというような、図式好みの人たちが往々にして用いる退屈きわまりない単純な篩い分けを指しているのではない。いうならば〈国家としての日本〉、ひいては〈国家〉それ自体――いかなる政治権力がこれを握ろうとも――とのかかわりにおいて、どれだけみずからを反権力の座に引き据えて、これと対峙しつづけることに耐えうるのか、そのための思想の柔軟と強固を、どれだけみずからの内に確保し得るのか、という点にかかっていえることである。  そのようなアプローチの姿勢の中で、わたしはみずからを心情的にも思想的にも、反権力の孤独なゲリラとして定置せしめる営みの手はじめに、まずわたしたち沖縄人の思想的退廃の源泉となっている日本志向の「復帰」思想を切開し剔出することからわたしの作業をはじめたいと思う。
 沖縄という微細な、それでいて日本列島国家の南端から〈日本〉に対して特異性を主張している島嶼の中に、みずからの〈生〉を不可避的に繋ぎとめているわたしたちが、沖縄の存在とかかわる何らかの言葉を発するということは、とりもなおさずみずからの〈生〉の意味を問うことであり、その〈生〉がどのような姿勢で歴史の酷薄に耐え、あるいは参加しようとしているかを、みずからの〈生〉そのものに突きつけていくことにほかならない。
 さらにまた、その沖縄にいて、沖縄の存在について考え、何らかの言葉を発するということは、とりもなおさず〈国家としての日本〉とのかかわりにおいて沖縄の存在の意味を問うことであり、沖縄の存在が〈国家としての日本〉に対して所有するであろう衝迫の可能性を、沖縄の存在それ自体に突きつけていくことにほかならない。
 そのようなみずからの〈生〉と、その〈生〉を繋ぎとめている沖縄の存在について語ることは、沖縄の存在をして〈国家としての日本〉を撃ち、そこに際限のない毒矢を打ち込む存在たらしめるために、避けることを許されない思想的の営みとしてわたしたちが背負う業苦でもある。それは語りつぐにしては、余りにも貧しい言葉しか持たぬゆえに業苦であるわけだが、にもかかわらずそれは、一種の華やかな歓びをともなうものとしてわたしたちに所有されていることも否定することはできない。
 本来、沖縄の歴史的・地理的の条件は、明らかに〈国家としての日本〉を撃つ可能性を内在させてきたのであるが、それは今日までなお具体として表出されることはなかった。
 そのことはわたしたちの〈生〉そのものの怠慢としてきびしく糾弾されなければならないが、いまわたしたちは沖縄が持つ可能性を、その思想において具体として創出することによって〈国家としての日本〉を撃つ衝迫力として逆噴射し、そこに無数の毒矢を打ち込む作業に現実性を持たすことができるだろうことは疑えない。まさしくそのゆえにこそ、いま切実な実感をこめて「沖縄の思想」は語られるべきテーマとして、わたしたちの前に提示されているのであろう。
 たしかに、沖縄の存在がその歴史的・地理的の条件によって、〈国家としての日本〉を撃つ衝迫力を所有し、こんごも所有しつづけるだろうことは、少くとも思想の領域で、「沖縄」を論ずる場合、ほとんど自明にひとしいことといってよい。なぜならば「沖縄の思想」という言葉が、定立した概念としてわたしたちに共有され得ているということ自体、まさにそのような沖縄の持つ可能性を動かすことのできない前提としない限り成立するはずはないだろうからである。
 あるいはまた、沖縄独自の歴史風土に根ざして、いわゆる「沖縄学」と称される特異の学問領域が存立し、その存立を日本も含めて共通の了解事項として了解し合ってきたことによっても、沖縄が歴史的地理的に所有してきた可能性が、日本の他のどのような地方府県に比しても際立って存在していることを裏書きするものといえるはずだからである。
 ただ「沖縄学」は、(のちに「沖縄学の父」といわれる伊波普猷に即してのべるように)沖縄の持つ、そのような可能性を掘りおこし、押し展げ、切り拓いていく方向ではなく、逆にそれを押え込む方向でその成立がはかられたものである。すなわち、沖縄近代化のためとはいえ、沖縄を日本に全的に同質化させる媒体となることをみずからに課すことによって、沖縄の存在が持つ可能性をみずから積極的に埋めてきたものであった。
 そのことは、沖縄の近代史=近代思想史におけるもっとも興味をそそるテーマの一つであり、こんごおおくの人によってその批判的解明がなされるだろう。
 だが、沖縄の持つ可能性について語るとき、沖縄人一般としてみた場合には、そこに多様な問題の提起とアプローチがこころみられるだろう。それはたとえば、芸術文化とか政治とか経済とか、そのような個別的なジャンルについて語るという意味で多様というのではなく、もっと根源的な意味における沖縄の存在に対する人間的なかかわり方の多様さということであるのだが、それにもかかわらずそこで画然とした区別が明確にされることはことわるまでもない。そのもっとも根底的な尺度となるものは、いうまでもなく日本に対する沖縄のかかわりについての、それぞれの歴史意識=歴史認識と、それによって分岐される各人の思想的視座である。それはマルクス主義的の史観であるのか否かというような、図式好みの人たちが往々にして用いる退屈きわまりない単純な篩い分けを指しているのではない。いうならば〈国家としての日本〉、ひいては〈国家〉それ自体――いかなる政治権力がこれを握ろうとも――とのかかわりにおいて、どれだけみずからを反権力の座に引き据えて、これと対峙しつづけることに耐えうるのか、そのための思想の柔軟と強固を、どれだけみずからの内に確保し得るのか、という点にかかっていえることである。
 そのようなアプローチの姿勢の中で、わたしはみずからを心情的にも思想的にも、反権力の孤独なゲリラとして定置せしめる営みの手はじめに、まずわたしたち沖縄人の思想的退廃の源泉となっている日本志向の「復帰」思想を切開し剔出することからわたしの作業をはじめたいと思う。


二、「復帰」思想の超克

  (1)

 沖縄の「日本復帰」とは何か、という命題は、沖縄にとって日本とは何であり、何であるのか、そしてこんご何であろうとしているのか、日本にとって沖縄は何であり、何であろうとしているのか、ということとかかわる、すぐれて思想的な問いである。そうでありながら、この問いに対する思想的な位置づけが欠落したところに、戦後沖縄の「祖国復帰」運動(「日の丸復帰」であれ「反米復帰」であれ)が成り立ってきたゆえに、今日の沖縄の思想と運動の悲劇があり喜劇がある。
 しかもそれは、単に戦後沖縄の思想と運動においてのみ顕著なものではなく、古くさかのぼって、羽地朝秀・向象賢の「日琉同祖論」をはじめ、明治期における謝花昇の民権運動、さらには伊波普猷が確立した。いわゆる「沖縄学」に到るすべての、政治理念や行動指標、学的モメントを根底のところで決定している悲劇であり喜劇であるということができる。
 謝花や伊波についてはあとにのべるが、今日の思想と運動においても、その命題が依然として深められず、たとえば「母なる祖国」としての「日本」へ帰るという、戦後沖縄の思想的出発における心情は、今日では「あるべき日本」へ帰る、というように言いかえられているにすぎない。
 「あるべき日本」とは、いうまでもなく、平和憲法の精神(非戦と世界平和を志向する)を、本来的な姿で具現している日本ということである。そしてげんざいの日本国憲法が、具体的に空洞化されている現実を踏えた上で、そのような歪められた日本の現実をより悪くする方向、あるいはより悪くする方向に利用される形での「復帰」ではなく、その歪みを正す方向、平和憲法の精神を本来的な姿に蘇生させる形での「復帰」でなければいけないということである。たとえば大城立裕の表現を借りるならば「沖縄が本土へ復帰するのではなく、沖縄と本土が同時に〈あるべき日本〉へ復帰するのでなければならない」(『現地からの報告』所収「沖縄自立の思想」)ということである。この視点は、単純な「母なる祖国」という発想の、主体性喪失の心情主義を克服するのに一定の役割りを持っているし、1969年から沖縄における「復帰」運動のスローガンとして鮮明化された「反戦復帰」思想の基盤になっているものでもある。
 しかしながら、いかに「あるべき日本」といい「反戦復帰」といっても、それがいわゆる「復帰」思想の一変種として日本ナショナリズムの射程内にあることにかわりはないし、その限りにおいてその指標とする「あるべき日本」に到達することさえおよそ不可能なことでしかないことはいうまでもない。つまり、日本志向のナショナリズムを思想的に超克しない限り、いかに「あるべき日本」を唱導しようとも、それはつまるところ空しい自転をくりかえすだけでしかないということである。なぜならば、「復帰」とは、すなわち日本同化の志向に根ざして、日本と沖縄を等質なネーションとして溶解していくということにほかならず、沖縄のわたしたちが、日本人といささかの差別もない同等の国民としての資格付与をねがう心情でしかないからである。そしてその限りにおいて、その志向するところからは、沖縄が日本に対して思想的に所有している歴史的、地理的の所産としての、国家否認の可能性は生れでることはないばかりか、むしろ国家幻想によってその萌芽は扼殺される以外にないからである。
 敗戦の混乱期をくぐり抜ける中で、沖縄にとって、そしてもちろんわたしにとっても、日本は一つのユートピアであった。それは単に沖縄が敗戦の結果、日本から切り離され、「異民族」の、しかも軍事占領権力者による支配のもとで、すべての基本的人権を抑圧されているという現実の重さからのみそうであったのではない。たとえば日本国憲法の、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(前文)という格調ある文章の限りにおいて、さらには第9条や第25条などの限りにおいて、それらの文言を完璧に具現している国家は、まさしく現代において一種のユートピアであるという点で、その文言をもって国家の存立を規定づける憲法として保持している国である日本は、かつて沖縄(人)にとってユートピアたり得たのであった。
 いうまでもなく日本が、現実に、この憲法の文言にいわれる範囲においてさえ、ユートピアであったことはないし、そうあろうと努めたこともなく、それがいわゆる戦後民主主義の虚妄としてのみ人びとに幻想されたものであることは、今日ではすでに明らかになっていることである。
 だが戦後沖縄における「祖国復帰」運動は、まさしくその虚妄を幻想するところから出発し、しかも運動を組織する側では、「血は水よりも濃い」という形の心情的ナショナリズムを煽りたてることとあわせて、「とにかく日本に復帰すれば憲法によって人権は守られ、生活は保障される。すべてはよくなるのだ」という、超論理的な日本(本土)ユートピア論をもってバラ色の夢を描くことで、一面において素朴なナショナリストであり、一面においてエゴイスティックな功利主義者でもある民衆の心情を集束してきたものであった。そしてその中心的役割りを担ってきたのが、ほかでもなく屋良朝苗(現主席)を会長とする沖縄教職員会であった。
 沖縄教職員会については、沖縄における大衆闘争の中心的担い手として、真に民主的なたたかいの実践者としての「栄光」に包まれているのだが、その果してきた「功績」だけがとくに誇大に喧伝されて、その運動が果した思想的な「罪業」については今日なおほとんど語られていない。
(教職員会に対する占領権力者やその手先き、右翼教育者団体などによる非難中傷は多かったが、いわゆる「革新」の側からの批判は皆無にひとしく、あたかもある政党の如く、その思想と運動は無謬不可侵の様相をみせて今日に至っているのである。)
 「新しい真理への近接のためにはマチガイはつきものであり、むしろマチガイを生かして前進するのが弁証法であるだろう」という、日本共産党に触れつつ鶴見俊輔がのべた指摘(『現代日本の思想』)をまつまでもなく、沖縄教職員会を今日まで無謬不可浸的の存在としてあらしめてきたことは、それが中心的存在だっただけに、沖縄における革新的大衆運動にとって最大の不幸だったといわざるを得ない。沖縄教職員会が「復帰」運動をはじめとする沖縄戦後史の流れの中で果した「功罪」について、わたしたちは必ずきびしい検証をしなければならぬ、とわたしは考える。

  (2)

 私的なことをいわせてもらうならば、日本はわたしの母が生れた国であり、わたしがかつて「祖国復帰」運動の思想と行動に、みずからのすべての思想と行動を共鳴させてきたのは、あるいはそのような血縁的な心情も意識下の衝動としてあったかも知れない。
 いずれにせよ、かつてのわたしにとって「復帰」とは、わたしを含めて沖縄(人)の全的な解放のために避けることを許さない「たたかい」であった。
 そして事実、日本「復帰」の思想と行動は、日米による沖縄の分断支配が、その体制維持のために半永久的な様相をもって固定化されていた時には、――たとえば敗戦による日本占領直後のマッカーサー発言はもとより、アイゼンハワーは1954年の一般教書で「沖縄のわれわれの基地を無期限に保有する」といい、55年、56年の予算教書では「米国はその占領を無期限に継続する」とのべていた――そのような時には、米国軍事占領権力と、そこに示されるアメリカ帝国主義の極東戦略体制、ならびにその庇護のもとで帝国主義的な軍事国家への再生を急いでいた日本政府・自民党=日本独占資本の体制的志向に鋭く対立し、沖縄の分断支配によって成立していた両者の存立を、その内側から脅かすたたかいとして一定の力をもち得ていた。
 つまり沖縄の分断支配によって、その体制維持を不動のものにしていた日米支配層の、体制的要請に鋭く対決し、その支配の論理を根底のところで揺さぶり、くつがえすためのたたかいたり得る要素を不可避的に内在せしめていたといえるのである。日本「復帰」運動は、本来的にそのような一定の反体制的=階級的要素を運動内部に胚胎せしめていたとはいうものの、しかしそれはあくまで「異民族支配からの脱却」「同一民族として本来の姿に立ちかえる」という発想によって唱導されたナショナリズムの運動であった。だからそこでは、この運動のもつ反体制的=階級的政治性にインターナショナリズムの視野を与えて、これを発展、開花させていくのではなく、逆にそのような政治性を、「民族の悲願」とする「島ぐるみ」の、幅広い統一戦線を至上目的化した超党派主義で、扼殺する道を歩まざるを得なかった。
 それは当然のこととして、領土と主権の回復をめざすことで階級支配の永続的固定化を図る国家(日米)の国家目的に、より高い次元で合致するばかりでなく、そのような国家目的を窮極的には大衆的基盤で下から強力に補強する役割りを担わされることにしかならなかった。だから「72年沖縄返還合意」は、そのような沖縄人と、それを支持する日本国民の熾烈な民族的悲願をかなえてやったという形で投げ与えられ、支配の側がその支配を実質的に再編強化するためのまたとない“口実”をつくるのに、反体制的であったはずの側が積極的に加担してこれを支えるという悲劇的=喜劇的状況を招いたものである。
 もちろん「72年沖縄返還」によっても、支配の側の沖縄支配の構造は本質的にいささかも変っていないし、体制維持のために沖縄基地を「無期限」に占有するというアメリカの基本戦略も全く変りはない。むしろ施政権の返還による日本国軍=自衛隊の沖縄進駐によって、沖縄基地はアジア侵略安保に拡大変質した第3次の新安保体制のカナメとして、日米共同管理のもとでますますその侵略性の合理化と機能高度化が図られるのみである。
 このような支配構造の新しい展開は、それが沖縄と日本における「復帰」運動をテコにしてなされただけに、これまで積み上げてきた日本「復帰」運動は、ここで決定的な敗北と挫折をみずから立証する破目になっているところである。このように「復帰」運動が、一定期間たたかいたり得ながら、終局的にはたたかいたり得ず、日米支配層に巧妙にすくい取られて挫折していかなければならぬ必然性は、ナショナリズム運動としての「復帰」運動それ自体が、その体内に不可避的に内在させてきたものであることはいうまでもない。
 だがわたしにとって、そのことを具体的に知るには、なおかなりの時間を要することであった。
 たとえばわたしは、60年安保に前後する時期に大阪にいた。勤め先の大阪支社勤務を命じられていたためであるが、そのころつぎのような詩を書いていた。(儀間比呂志と共著の詩画集「おきなわ」・60年6月5日刊)


日本が見える
日本が見える
ここは沖縄の北の涯
那覇から三十里
辺戸岬の岩の上から
小手をかざすと
ぼくらの祖国
貧しいぼくらの祖国
日本が
そこに
貧しさと
無頼の
かたまりになって
波にうかぶ。

与論島
よろんじま!
そこは
日本の最南端
祖国のしっぽ
日本の貧しさが
集約されて
ただよう島。

日本よ
祖国よ
そこまできている日本は
ぼくらの叫びに
無頼の顔をそむけ

沖縄の海
日本の海
それを区切る
北緯27度線は
波に溶け
ジャックナイフのように
ぼくらの心に
切りつけてくる。(『日本が見える』)


 この詩は、それより7年ほど前、沖縄島の最北端、辺戸岬に立って与論島を見やりながらしばし感慨に浸った時の記憶を呼びさましつつ、60年安保前夜の大阪にいて書いたものだが、その時点でのわたしの内部における沖縄と日本のかかわり合いが比較的鮮明に描かれていると思う。
 そのころすでにわたしの中で、さきにのべたユートピアとしての日本は、その現実に足を踏み入れたことで体験的に消滅していた。さらに「母なる祖国」の心情主義も音をたてて崩れつつあった。しかしなお、「復帰」はたたかいたり得るという信念の如きものは根強く生きつづけていた。
 そしてさらに、そのような「復帰」のたたかい(すなわち沖縄問題)を、欠落させてたたかわれつつあった60年安保の日本の状況を前にして、わたしの中で日本と日本人に対する不信感と拒絶感も大きく育ちつつあった。
 いわばそのような「祖国」不信の情念と、なお「復帰」はたたかいの思想たり得るという二つの相剋する心情が、この詩編に露呈されていることが指摘できると思う。具体的にいうと「日本よ/祖国よ/そこまできている日本は/ぼくらの叫びに/無頼の顔をそむけ」というあたりだが、そこでいわれる「無頼」とか「貧しさ」とかは、いうまでもなく与論島それ自体ではなく、与論島に仮託した日本のすべてであった。その言葉にわたしは日本に対する不信感と拒絶感をこめたつもりであったが、しかしいっぽうでは「そこまできている日本は/ぼくらの叫びに/……顔をそむけ」というように、いかにも甘ったれて「祖国」にもたれかかる形でしかその拒絶感を表白し得なかった。このように相反するモチーフをないまぜにしながらも、全編を通してみると、いわば沖縄問題を全く欠落させてほとんどの運動を成立させていた日本の状況に対する一種の怨嗟に貫かれている点で、見せかけは勇ましい告発調の面相を保ちながら、内実はきわめて甘ったれた日本志向の詠嘆的モノローグに終っているといえるだろう。
 この詩を公けにしてから数年後、すでに大阪を去って、こんどは列島最南端の八重山群島に配属されて島々を歩き回っている時、北緯27度線上でおこなわれた海上大会(64年の第2回大会)のレポートを、日本の未知の人から贈られた。そしてその中に、この詩が引用されているのを発見した時のとまどいと奇妙な異和感は、いまでもはっきりと記憶に甦えらせることができる。そのレポートは、いまなお多数日本人がそうであるように、沖縄における「日本復帰」運動をきわめて純粋に眺め、しかも日本人として、沖縄と日本のたたかいの連帯を信じる善意にあふれるものであり、わたしの詩の引用も、そのような善意のさせたものであることがわかるだけに、わたしのとまどいと異和感は深く、かつ強烈だった。


 4月28日は、沖縄全人民の一致した日本との分離反対の署名をもってしてもきりはなされ、日本人としての国籍を奪いとられた怨みの日、しかし同時に、それは民族の魂が呼び起した屈辱の日であり、自分の生命を失ったが故に新しく若々しい生命によみがえるように、日本民族の誇りに燃えてよみがえり、立ち上る日なのである。(略)
 沖縄よ、世界の歴史の中でも、稀な、苦難を経、今も苦しみつづけている島々よ、その中で、世界で最もすぐれた織物、染物、陶器、踊りと歌を生み出した。日本民族の誇りの島よ、時は近ずいている。沖縄が解放され、日本に復帰する時は近ずいている。本土全体の目覚めも近い、私達はあなた方と運命を一つにしている。決してたおれることなく、その暁に向って前進しましょう。


 その文章はこのように、まさに〈日本的感性〉の典型といえるほどきわめて心情的であり、また全体の文脈からみて、おそらく党派的にも中立の人だと思われるのだが、そのナショナリズムに支えられた純粋さがいかにも無垢であるだけにやり切れず、わたしがこの詩に塗りこめたつもりの、屈折した心情を読み取ってもらえないことに苛立ちを覚えた。それはもちろんその人の責任ではなく、さきにのべたように、あくまでわたしの詩自体に見せかけの勇ましさにもかかわらず、甘ったれた日本志向の詠嘆が貫通しているという、決定的な拙劣さ=貧しさがあったために、わたしの心情が正しく伝わらなかったのであろうし、それゆえにその人もみずからの日本的感性の中に、この詩をうまく引き込むことが可能になったのであろう。
 だけど、沖縄の「復帰」悲願がいかに熾烈なものであり、その心情はあたかも「子が母を恋ふる」ようなもので、いささかの不純物も含まないと宣伝したがる人びとにとっては、やはりこの詩の中で「無頼」とか「貧しさ」という表現で日本をよんでいることは、大いに抵抗をおぼえたもののようで、その部分を削ぎ落して利用されることもあって(たとえば映画「ニライの海」?の終幕のナレーション)、それはとまどいとか異和感を通りこして、むしろ不快な感情をわたしのうちにかきたてるだけであった。
 いずれにせよ60年を前後する時期を境に、わたしの中できわめて心情的なものではあるにせよ、「母なる祖国」の幻想は急速に崩れつつあった。
 たとえばわたしの職場に、やはり日本を出生の地とする母親を持つ同僚がいたが、彼はそのことをつねに強調することでみずからを日本人と等質性をもつ存在として他人にも自分自身にも位置づけようとしている風であった。その意識は、いうまでもなく被差別感のうら返しであり、みずからを日本人と等質の存在とすることで沖縄人との異質性を明らかにし、空虚な優越を味わうという、典型的な日本コムプレックスの一形態であり、たとえば日本に転籍して改姓し、みずからが沖縄人であることを隠して、沖縄人との交際も一切やらないという、戦前には珍らしくなかった一部の在日沖縄人の生存様式とも共通する精神構造である。
 わたしはその彼に、内心ではげしい反撥と軽蔑を感じ、「おれも同様に片親がヤマトゥンチュだが、しかしおれは断じて沖縄人である」と胸の中でつぶやきつづけた。そして、家庭環境のせいで、沖縄に育ちながら沖縄口(方言)が満足にしゃべれないことに強い自己嫌悪と羞恥を覚えて、アパートに帰ると妻を相手に沖縄口の習得をはかり、職場の同僚で沖縄口のうまいのを相手にひそかにその実践をこころみたりした。そのため、敬語を必要とする目上の人に沖縄口をもって応対することは全くできないが、同輩には何んとか意思を通じさせる程度の日常語は、大阪在勤中に身につけることができた。
 思えば60年安保をはさんで前後4年の大阪生活で、わたしが得たものといえば、一つはいわゆる「母なる祖国」幻想を現実の生活体験を通して突き崩す契機を持ったことであり、もう一つは沖縄人として、その言語を、アクセントの誤りや語彙の貧しさはやむを得ないとしても、何んとか口舌にのせることができたことの二つだけといえるかも知れない。
 しかし考えてみれば、さきの日本等質性顕示癖の同僚に対してあのように反撥と軽侮を覚え、ことさらに「おれは沖縄人だ」と自分にいいきかせる一種の開き直りもまた、日本コムプレックスの変形したあらわれでしかないと、一ひねりされるかも知れない。だがしかし、このようにいっぽうに片親が日本の人間であることを殊更に強調する心情をもつ個性があり、いっぽうには殊更にそのことに反撥と侮蔑を覚える存在がいるということに、そしてさらにそのことが意識的な問題となり得るところに、やはり沖縄と日本とのかかわり方、沖縄人と日本人のかかわり方があらわれているというべきであろう。

  (3)

 このこととある程度共通する問題として、由井晶子はつぎのようなことを書いている。


 「沖縄人」という呼び名がある。それは私たち当の沖縄人が口にする限り、ごくあたり前の呼び名である。沖縄方言−−沖縄流にいえば“沖縄口”でいう「おきなわんちゅ=ウチナーンチュ」の直訳にすぎない。ところがひとたび七島灘を渡って本土つまり「大和」の人びとの口から出たとなると事情はすっかり変ってしまう。まして、沖縄土着のことばでない「琉球人」となると、手のつけようのないものとなる。(略)本土でもしも「あなたは琉球の人なんですって?」ときかれたら、まず大ていの人は「そう、沖縄出身なんだけど」と無意識のうちにいい直すだろう。もっと多くの人がムッとした表情をかくすことができないにちがいない。大阪の人が関西人と呼ばれてムッとするだろうか。長野の人が信州人と呼ばれて不愉快に思うだろうか。私たちは、沖縄の人間だけがそうであることにこだわり、ギクシャクし、自分で自分の気持をもてあます。……(月刊『たいまつ』8号「沖縄−『日本化』に抗して」)


 由井晶子が告白しているこのような屈折した沖縄人の意識構造は、沖縄人に普遍のものである。そしておおくの沖縄人は、このような心情を沖縄の後進性に由来する精神の負数として恥じるのがつねだが、わたしはここにみられるように、沖縄人が日本ならびに日本人に対して持ちつづけてきた距離感と意識の切れこそ、わたしたち沖縄人が大切にしなければならぬ沖縄土着の精神(思想)の核だと思う。
 あるいはまた、東江平之はつぎのようにのべている。


 沖縄人にとって、初対面の相手が沖縄出身であるか他府県の出身であるかが判明することは普通極めて重大なことである。沖縄出身であると判ると、地域差その他は殆ど問題にならないくらいのものになってしまう。「本土」出身者だと判明したとたん、差意識が現実の差以上のものに及ぶし、その後は、例えばその人が青森県の出身であるのか山口県の出身であるかは問題にしない。(琉球大学『人文社会科学研究』第1号「沖縄人の意識構造の研究」)


 これもさきの由井の指摘と同様に、沖縄人の意識にかかわるきわめて特徴的な現象として顕著なものである。しかもその場合、「『本土に行く』といえば、どこへ行こうがあとは問題にならない程に『本土』は全部同質的に知覚される」というように、沖縄人にとって日本(人)はことごとく同質化して対象化される。このような沖縄人の知覚現象は、東江によれば「近いものどうしは実際以上に近似して知覚されるし、違ったものは逆に実際以上に違って知覚される。(略)結局、それは『本土』と沖縄の間に大きな潜在的距離感が横たわっている事と関連する。この距離感は、一般的にいって『本土』と沖縄双方にあると言えるでしょう。また、沖縄人にとって府県間の差が問題にならないということは、沖縄と『本土』の間の知覚された距離の大きさを物語っている」(同上)ということである。
 東江が分析してみせたこのような沖縄人の日本(人)に対する「差意識」は、日本とのかかわりにおいて、〈国家としての日本〉を撃つ存在としての沖縄を考える場合に、重要な手がかりを提示しているとわたしは考える。だが東江がさらにつづけてつぎのように問題を提起している点については、問題の提示自体にいささか無理があるように思われる。


 沖縄人は……大和民族との同化に大いに努力して来た。過去80年間に沖縄人の姓が読み方において日本語化されなかったのは殆んどないといっていいくらい少い。フォルクとしての同一性は完全といえる程に認められている。それだのに、何の目的のために、何の利益のために対「本土人」という場合に差意識を抱くのだろうか。〈略〉現実隔離策の中に答えがあるのか、部外者の対沖縄人態度に理由があるのか、差意識の中に何か倒錯した適応の利益があるのか、実証的に徹底的に究明されなければならない問題である(傍点引用者)


 東江はここで、沖縄人の日本(人)に対する前記のような差意識が、何の目的で、何の利益があってのことか、と問い、そこに何か倒錯した適応の利益があるのではないかと思いめぐらしているわけだが、東江は沖縄人のこのような差意識(その意識構造)を考えるのに、余りにも時間を短く区切ることで、フォルクの同一性と意識の構造的な同化とを短絡させているのではないかと考えられるのである。
 なぜならば、意識=価値観念も含めて、人間集団(一つの種族にしろ民族にしろ)の文化の形成過程を、たかだか100年そこらの時間を視野において考えることは、およそ無意味にひとしいからである。たとえば沖縄人の文化(意識)を考えるにしても、いわばヤマトゥ(日本国)の成立以前に及ぶ、ほとんど時間を無限溯行するほど遠い昔からこの南の島々に住みついてきたわたしたちの祖先たちにまで思索の触手をのばしながら、そのような気の遠くなるほどの時間の堆積の中で形成されて今日に至っている文化(意識)を、その深層にまで踏み込んでとらえつつ考察しないかぎり、文化(意識)の累層的な複合構造の解明は、およそ不可能であるはずだからである。
 わたしの考えでは、沖縄人が日本(人)を、府県(人)の別なく丸ごと同質的に知覚する知覚現象や、その基盤となっている沖縄と日本との潜在的な距離感の大きさ、あるいはそのような潜在的距離感の大きさを前提にして成り立つ「差意識」は、まさしく沖縄がこれまで所有してきた歴史的・地理的の条件によって生成され、沖縄人の意識をその基層のところで強固に染め上げている日本に対する異質感、さらに極端にいえば「異族」感が表出したものにほかならない、と考えるのである。
 つまり、せいぜい2000年そこらの昔、大和王権による政治的統一で国家形成がなされたヤマトゥ(日本国)の成立よりも遙か以前から、そのヤマト(日本国)とは別に独自の文化圏を形成して近代に至った沖縄の歴史的・地理的の条件こそが、今日なおわたしたち沖縄人の意識に根強く承け継がれている日本(人)に対する差意識=潜在的距離感の大きさ=日本を全部同質化して対象化してしまう異質感、を形成してきたものであろう、ということである。
 歴史時代を遙かに溯って、それ以前から近代まで、日本に対する沖縄(あるいは沖縄に対する日本)の異質性=「異族」性を現実認識として知覚してきた沖縄人が、明治のいわゆる「琉球処分」のあと、80年や100年の同化への努力によって、その表層はともかく、意識の深層に深く刻印されているそれ(異質性=「異族」性)を、あたかも化学洗剤で晒した白布のようにことごとく洗い落すことが不可能なことは、けだし当然のことといえる。
 そして、そうであればこそわたしは、東江が明快に分析して明示したような、沖縄人が日本(人)に対して根強く持ちつづける「差意識」を、日本と等質化をねがう日本志向の「復帰」思想を根底のところから打ち砕き得る沖縄土着の、強靱な思想的可能性を秘めた豊饒な土壌と考えるのである。
 わたしたちはこの土壌を丹念に耕し、掘り起すことによって、そこに反ヤマトゥ=反国家の強固な堡塁を築き、それによって日本志向の「復帰」思想を破砕することができる。そして日本同一化をねがう「復帰」思想を打ち砕くことによって、反国家の拠点としての沖縄の存在を確保し、その沖縄の存在をして〈国家としての日本〉を撃つ、つまり国家解体の爆薬として日本の喉元を扼することができるだろうと考える。まさにこのために、沖縄がこれまで所有した歴史的・地理的の条件は、他のいかなる地方府県にもまして稀有の幸運と可能性を持ち合せているというべきであり、わたしたちはこの幸運なる可能性を具体として開花結実させる方向に、沖縄のすべてのたたかいの照準を絞ることを課されていると考えるのである。

  (4)

 だけど、1965年8月、佐藤首相訪沖の時、万余のデモ隊の坐り込みによって佐藤首相を宿舎に入れず、米軍基地内の施設で仮眠させたホテル包囲デモ。67年2月、教職員の争議行為、時間外政治活動の禁止、勤評などを骨子とする「教公二法」を、大衆動員による実力行使によって廃案に追いこんだ教公二法闘争。68年春闘の十割年休行使を皮切りに、70年初頭にかけて基地権力と直接対決をくりかえした一連の全軍労闘争。68年11月の主席選挙における革新共闘会議候補(屋良朝苗)の勝利。69年11月の佐藤訪米反対抗議行動、日米共同声明反対抗議行動、等々によって、沖縄のたたかいはあたかも体制変革の展望を切り拓く先兵としての相貌をもっているかに見えたが、今日沖縄のたたかいはその戦闘性と体制変革へのラジカルな方向性を急速に消滅させつつある。
 上記の諸闘争の高まりの中でみられた体制と反体制の、危機感に支えられた緊迫した緊張関係は失なわれ、その緊張関係の中で、その安定性を根底的に揺さぶられつつあった「沖縄基地」は、いまその安定性を回復し、自信に満ちた相貌をとり戻しつつあるのである。
 それはベトナム戦争の敗北と、沖縄現地におけるそれら諸闘争、とりわけ全軍労を中心とする反基地闘争の高まりで、体制のカナメとしての沖縄基地の安定性が揺さぶられつつあった60年代後半から70年初頭にかけての状況に対応しつつ、状況を先取りした体制側、とくに日本政府・自民党が打った巧みな施策が着実に効果をあらわしただけでなく、沖縄ならびに日本の既成「革新」諸政党、団体が、それぞれの思想体質に応じて、体制側の施策を補完することで、その施策の成功をより一層効果的ならしめていることに由来するものである。
 日本政府・自民党の巧みな施策とは何か。まず「70年代への歴史的選択」といわれた69年暮れの総選挙で、70年代の歴史を決定づける沖縄返還の本質=アジア侵略安保体制の確立という対決点を、「万歳! 沖縄が帰ってくる、つぎは北方領土だ」という標語をもって覆いかくし、争点不明のまま300議席を確保すると、これをもって「沖縄問題は終った」と開き直り、体制ペースの沖縄処理=新安保路線の推進を既定のものにすることに成功したことである。
 また、体制のカナメとしての沖縄基地を、その根底のところで揺さぶるたたかいの中核として、70年闘争の本質的なたたかいをたたかいつつあった全軍労闘争を、「復帰」体制づくりを先行させることで体制の“誠実な”代行者になっている屋良「革新」琉球政府の援護のもとで、「離職者対策」という体制ペースの収拾策に巻きこみ、全軍労をして休戦協定に釘づけることに成功したことである。さらには、沖縄人の長年の要求をかなえてやるという形をとって、沖縄の「国政参加」を実現し、沖縄の全政党・団体をみずからの土俵に盲目的に雪崩れこませることに成功したこと等々である。
 このような体制の施策の見事な進行を、左から補完する沖縄、日本の既成「革新」政党・団体の補完作業とは何か。すでによくいわれているように、たとえば69年暮れの総選挙で、自民党が「沖縄が帰る、つぎは北方領土だ」と領土問題を前面に出したナショナリズムで争点を逸らすのに対応して、前衛党を称する党が「日本一の富士山」をポスターに掲げて、美しき日本ナショナリズムをもって、みずからも争点を捨象してきたことである。そこでわずかに争われるのは「基地つきか基地撤去か」ということだけに沖縄問題を矮小化して、「よりよき返還」を競い合うナショナリズムの競合だけであった。
 また、安保条約の10年固定期限切れ=自動延長を前に、いわゆる公明党による言論弾圧問題の追及ということをかくれみのにすることによって、沖縄=安保問題という、より重要で決定的な問題の本質を追及することを意図的に放棄してきた前衛党と、それを許してきた日本の「革新」陣営。あるいは超党派の県民党発想の「復帰」体制づくりで、沖縄返還問題の本質を逸らす屋良「革新」政府の、幻想としての「革新性」を、みずからの組織拡張維持の手段として援護しつづける沖縄の既成「革新」諸政党・団体の思想的退廃と堕落。
 さらには、口には「日米共同声明粉砕」などと勇ましく唱えながら、まさしく現時点における「国政参加」が、粉砕するというその日米共同声明路線を、沖縄の側から「島ぐるみ」で補完するものでしかないにもかかわらず、「県民の意志を国政に反映させる」という幻想をふりまくことで、これに積極参加することに狂奔する既成「革新」諸政党・団体の、詐術的欺瞞性等々、あげていけばきりがないほどである。
 そのようなさまざまな補完作業の具体例として、いわゆる沖縄の「国政参加」問題について、その欺瞞性について考えてみよう。
 そもそも沖縄から、日本の国会に沖縄の代表を出すことを認めよ、という「国政参加」の要求は、1961年以来琉球立法院で毎年くりかえし全会一致で決議され、それは沖縄住民にも了解され、支持されてきた。
 この沖縄の要求に対して日本政府は、終始、「憲法上に疑義がある」として否定的態度をとりつづけてきたが、それは沖縄の施政権をアメリカに委ねることで成立していた安保体制のもとで、高度経済成長を図り、そのことでもって帝国主義的自立を目論んできた日本政府とそれを支える日本独占資本にとって当然のことといえた。だが、「72年沖縄返還合意」にともない、沖縄の国政参加問題は、日本政府・自民党の積極的なイニシアチブによって推進されてきた。これは明らかに、いわゆる「安保復帰」といわれる「返還」のあり方、その意味するところと深く結びついた、状況を先取りした体制側の復帰体制づくりの地均しであることに疑いはない。
 つまり、佐藤・ニクソン路線の「72年沖縄返還」のあり方に対して、沖縄現地ではげしい反対と不容認の姿勢があればこそ、きたるべき返還協定の締結とその国会承認に沖縄代表を参与させることで、返還のあり方自体に沖縄の意思を参画せしめようということにほかならない。さらには選挙戦によって促進される日本各政党・団体との系列化の中で、沖縄のたたかうエネルギーを分断しつつ、議会主義の幻想のもとで体制内にそれを埋没せしめようということにほかならない。そこで自民党沖縄県連が積極参加の姿勢をみせるのは当然すぎることながら、少くとも佐藤・ニクソン流の「返還」に反対し、抗議する「革新」党までも足並みを揃えて盲目的に積極参加の姿勢をみせ、選挙告示をまたずに保守党顔負けの事前運動に浮き身をやつした姿は、佐藤訪米にあたって警察権力の暴力的なデモ規制によって血を流したおおくの民衆に対する破康恥な裏切り以外の何物でもないといえるだろう。
 この国政参加の実現について、沖縄人民党は、「人民の戦いをこれ以上押えることができず、認めざるを得なくなるまで追いこまれたという一面をもっていると考えなければならない。だから基本的には人民の戦いの前進である。」(瀬長亀次郎委員長・70年2月17日沖縄タイムス)といい、日本社会党沖縄県本は、「憲法に与えられた当然の権利として長年要求してきたことだし、これまで不当に押えられていた権利をわれわれの戦いによつて奪還したと考える」(崎浜盛永委員長・同2月18日)と規定している。
 あるいは日本共産党は、「国政参加が実現するようになったことは、沖縄をはじめとする国民のたたかいの成果であり、その意義は大きい……」(70年5月9日「人民」、春日正一)というぐあいである。(傍点いずれも引用者)
 だが、果してそれは「戦いの成果」であるのか、果して「戦いによって奪還」したものといえるのか。むしろ「復帰」運動のナショナリズムを巧みにすくい取って新しい支配の再編強化のために「72年返還合意」を準備したのと同様に、長年の要求に巧みに応える形で、意図する「返還」のあり方に万全を期するために用意した布石にほかならないことは明白であろう。
 安保体制の変質化による新しい支配の再編強化を前提に、日米支配層がその体制的利害の一致点の上で実現した「返還合意」を、十全に補完するための「復帰体制づくり」の地均しとして、返還をまたずに国政参加を実現することは、返還合意した両者にとって不可欠の要件であり、その限りにおいて「追いこまれている」のは日米支配層ではなく、その逆であることは疑いない。
 たしかに、アメリカの軍事占領支配のもとで、その支配に根拠を与えていた対日平和条約第3条の不法性を打破するために、沖縄から年毎にくりかえされた日本国会への参政権要求は、「復帰」運動がそうであったように一定の戦闘性を持つものであった。そこに日米合意の沖縄分断支配が厳然として固定化されている現実に沖縄が立ち向っていた限りにおいてである。たとえばよく指摘されるように、沖縄において「日の丸」の旗がすぐれて「抵抗」と「たたかい」のシンボルであった時期があった。
 それが抵抗とたたかいのシンボルとして一定の戦闘性を持ち得たのは、やはりアメリカ帝国主義の沖縄支配が永久的な様相をもって現実にあり、日の丸=反米=共産主義者という占領権力者の、笑うべき超論理的発想が権威をもって民衆を弾圧していた現実があったからにほかならない。
 広場に日の丸を掲げ、日の丸のハチマキをしめて集った人びとのほとんどには、いわば素朴な日本(=母国)への幻想に深く根ざした心情と、そこから発想される「非人道的な異民族支配からの脱却」というナショナリズムしかなく、階級支配に対置する階級イデオロギーとしての共産主義思想の所有者でなかったことはいうまでもない。だがしかし、そこで日の丸を振り、ハチマキをしめている人びとの素朴な心情を離れて、その日の丸の旗やハチマキは、人びとが向き合っている状況に対して客観的に一定の戦闘性を持ち得たし、その現実の状況の中で、「日の丸=反体制」という思想的な意味さえ客観的に存在し得たものであった。
 あるいはまた、そのような歴史的な状況の中だからこそ、沖縄の教師たちが執拗な軍事権力者やそれに追随する買弁的任命政府の圧力や妨害に抗して、教育基本法の冒頭に「日本国民として……」という一句を挿入したことに戦闘性を認めることができ、さらにはその後教師たちが精力的にすすめた「国民教育」の教壇実践にも、一定の戦闘性を認めることができたものであった。
 だが、日の丸にしろ国民教育の実践にしろ、一定期間のあいだ一定の戦闘性を持ち得たとはいえ、それが言葉の正しい意味において真の戦闘性を持ち得たかというと、これは否定されなければならぬ。なぜならばそれは、所詮は「復帰」思想=異民族支配からの脱却というナショナリズムから発想されたものでしかなく、究極において戦闘性を持つどころか、逆にみずからの足元をすくう役割りをしか持たなかったことが明らかだからである。すでに状況を先取りした体制側のイニシアチブで状況が大きく転換されたいま、国民教育の実践課題がその戦闘性を喪い、新らたな実践課題(それはまさに「非国民」教育であるべきだ)の構築を迫られていることはもちろん、日の丸はそれ以前から広場からその姿を消しただけでなく、先進的な学生たちによって星条旗と共に焼き払われる事件さえみられた。
 国政参加の要求が、かつて持ち得ていた一定の戦闘性をすでに喪っていることは、国民教育や日の丸の場合と何ら変ることはない。では、そこで構想されるべき真のたたかいとは何であっただろうか。いうまでもなく佐藤・ニクソン流の「返還」に血を流して反対し抗議したたたかいの論理必然的の発展として、少くとも返還協定の締結とその国会承認まででも日本政府・自民党が掌をかえすように推進してきた国政参加を断固として拒否する闘争の構築であった。そのたたかいのみが、さきにのべた沖縄の存在が持つ体制破砕の可能性を持続的にわたしたちに確保させるとともに、70年代において予見されるあらゆる欺まん的で反人民的な支配者の意図を、その根底のところで撃ちつづける権利をわたしたちに留保するものであった。そしてその国政参加拒否の闘争は、かつての教公二法闘争をはじめとする諸闘争の体験的な教訓によって、十分に沖縄的の規模で可能性と現実性をもつものであったのである。
 しかしながら「革新」を標榜する政党は、このような闘争の構築を提議するものに対して、議会否定のトロツキストという、うす汚れたレッテルを貼ることで頬かむりし、それぞれの党派エゴイズムと我欲を露わにしつつ自民党と歩調をあわせて仕掛けられたワナに嬉々として飛びこんでいくという、思想的の荒廃と堕落を露呈させて怪しまないのが偽りのない今日の沖縄の現実の政治状況である。
 このような現実を招来したのはほかでもなく、これまで沖縄の既成「革新」諸政党・団体が、その行動指標を「日本復帰」を最大の眼目にすることでそれぞれの組織の大衆的存立基盤を確保してきたために、みずから推進してきたその運動(復帰運動)が、日米共同声明による返還合意で明らかなように、結果的には否定的な役割りをしか果さなかったにもかかわらず、その責任を正面から引き受けることを回避していることに由来する。
 返還合意やその地均し作業である国政参加の実現など、すべて「人民の戦いの前進」であり、「たたかいの成果」とすることで、責任を回避して自己正当化を図り、「祖国」幻想を媒介にして組織してきた大衆的存立基盤を、それぞれの票田としてつなぎとめることを目的化しているためでもある。
 日本における60年安保闘争がそうであったように、あるいは沖縄におけるいわゆる島ぐる土地闘争や2・4ゼネストがそうであったように、たたかいの敗北と挫折の事実は事実としてとらえ、しかもその敗北と挫折の中からきびしい反省と教訓をとり出して新たなたたかいを構想し発展させずに、ことさらに「人民のたたかいの成果」をのみ強調して民衆におもねることは、いうまでもなくそれら民衆に対する最大の侮蔑以外の何物でもない。そのような日本と沖縄における既成「革新」の悪しき習性が、いま沖縄の国政参加問題をめぐってもっとも醜悪に露出しているのである。
 ここにおいてもまた、日本志向の「復帰」思想は、沖縄の存在が持つ体制破砕の可能性を扼殺する元兇としてわたしたちの前にたちあらわれていることを知ることができるだろう。日本志向の「復帰」思想こそは、このように、沖縄が日本に対して所有する可能性(爆薬として、あるいは悪性腫瘤として)を風化させる触媒として機能しつづけるし、「革新」の仮面をつけた擬制たちが、たたかいを歪曲することを正当化するための「口実」に奉仕しつづけるのである。
 わたしが、沖縄が日本に対して持つ「差意識」=日本を丸ごと同質化して対象化する異質感=を、沖縄土着の思想的可能性を秘めた「核」として固執する意味が、そこで明らかにされてくるのではないかと思う。

  (5)

 ところで東江平之が、この100年ちかく日本(人)との同化に大いに努力してきた歴史的事実を踏えながら「フォルクとしての同一性は完全といえる程に認められている」にもかかわらず、沖縄人が日本(人)に対して「差意識」を持ちつづけることは、「何か倒錯した利益があるのか」としきりに気にしている点は、さきにのべたようにさして意味のあることではない。東江が日本と沖縄のかかわり方について、このような袋小路の中で思いあぐねるのは、おそらく柳田民俗学と、それを沖縄学の中で矮小化した伊波普猷の方法と研究を、ほとんど無批判のままうけ入れることで、沖縄と日本のかかわりについての理解の範囲にしているためだとわたしは思う。
 いわずもがなのことながら、その点についてわたしたちは、こんご民族学や人類学の研究から多くの手がかりを得ることができるのだろうと考える。
 柳田民俗学と伊波普猷についてはのちにあらためて触れるとして、わたしは再びわたしの心の遍歴について若干書きすすめたいと思う。
 さきにのべたように、わたしの中の「祖国」幻想は急速に崩れつつあったが、やがて大阪を去って南の島に住み、島々を歩き回りながらみずからの思想の「核」を模索していく中で、わたしの「祖国」拒絶=国家否認の情念は、次第に確かなものとしてわたしの中で育っていった。それを簡潔にいえば、いかなる名辞をもっていようとも、日本志向の「復帰」思想をもってしては、沖縄における思想的の自立はあり得ないという「自覚」である。
 それはたとえば60年安保闘争に際して、日本の民衆のエネルギーが革命的な高揚をみせ、樺美智子の死によってさらに決定的な可能性を孕んだかに見えた時に、日本の既成革新政党、とりわけ前衛党を自称する党の政治的指導性(すなわち革命への想像力)の欠落と退廃が露呈されたことによって促進された。もちろん大阪にいたその時点では、それを具体的に明確に察知することはできず、なお多くの幻想をその党に対して寄せていた。しかし実感として肌に知覚されていたことが、時日を経るにつれて明確な形で剔出され、その証言を南島に流れ寄る乏しい出版物の行間に探し読むことで確認していくという積み重ねの中で、その「自覚」は次第に強固になっていったものだ。たとえば羽田で先進的な学生や労働者が血を流している時に、意図的に物見遊山に組織を動員するという、その他もろもろの事実の集積は、前衛を称する党の擬似前衛性についてのわたしの認識を決定していき、いったいたたかいにおける前衛とは何か、個的の位相におけるその思想的拠点をどこに求めるのか、というきわめて素朴な自問の中で、わたしの「自覚」は徐々に培養され、かつ強固になっていた。
 それは当然、沖縄におけるたたかいを基本的なところで規定している「復帰」思想についての、真剣な問い返しをわたしに迫ったし、やがて「復帰」思想に根ざすいかなる運動(闘争)も、それは変革への構想力(想像力)を誘発し、これを起爆させていく力になり得ないばかりか、逆にこれを巧妙に扼殺するものでしかないことをわたしに確信させた。
 「復帰」思想は、民衆の素朴なナショナリズムの心情と密着し、これに迎合することによって、真に変革の主体となってそのたたかいを担う民衆の革命的エネルギーを引き出していくことをしないだけでなく、むしろそれを封じ込めることで、支配の側のいわゆる国家意思としてのナショナリズムの確立を、下から補完する役割りしか担わないことを自覚的に考えないわけにはいかなくしていったのである。
 その時すでに、わたしにとってみずからの母の出生した国が日本であり、みずからの血の中に日本(人)の血が流れているという事実を意識することさえ、耐え難い恥辱であった。

  (6)

 以上のように書きすすめることに対して、たちまち数多くの批難が準備されるだろうことをわたしはよく承知している。たとえば、日本とそこに住む民衆、げんざいの日本政府ならびにそれを支える独占資本を混同し、つまり支配者としての階級と被支配者の階級を同一化して混同し、観念的に日本総体に対して沖縄の総抵抗を夢想するだけだという種類の批難である。
 すでにその見本として、沖縄に滞在したことのある日本の新聞記者や在京沖縄出身者が、「本土・沖縄の対立感情」の分析としてつぎのように沖縄を批判していることによっても、予想される批難の内容は察しがつこうというものだ。


 沖縄側は“本土”を本土国民と本土政府=国家権力=を混同して考える傾向がある。本土では国家権力と革新カラーの強い地方自治体との間には絶えず抗争があるが、沖縄側が本土不信、本土とのヒビ割れと感じているのは案外、国家権力に対する反発が多いのではないか。
 この25年間、本土の施政権が沖縄に及ばなかったために、本土政府は沖縄をはれものでもさわるような態度で接してきたが、復帰のメドがついてから政府干渉が強烈になってきた。25年の間に米国支配との闘争の反動で、本土全体を親しみの目で眺めていたこと、国家権力を概念以上にはとらえていなかったことが、いきなり干渉されてとまどっているのではないか。
 社会集団の中における差別は、本土の中にもある。未解放部落の問題がそれであり、東北地方や鹿児島地方の人々も、中央集権や関東や関西に対して潜在的な不信感があるといわれていている。
 とくに東北地方の人は、社会開発のおくれ、言語の著しい差異からある種の劣等感をもち、それが何かにつけ不満を助長させることになるという。ところが沖縄は本土の実情認識に欠けているため、本土全体が沖縄を差別していると受け止め、それをヒビ割れと感じている。
 また25年の間に独自の社会形態を保守しているとする考えが知らず知らずに働くようになっている。(後略)――
(70年5月12日『沖縄タイムス』の連載企画「沖縄と70年代」第6部「県益と国益」)


 佐藤・ニクソンの「返還合意」をうけて、これからの沖縄経済開発について、外資(石油精製事業やアルミ精錬事業など)の沖縄進出を“県益”と考える琉球政府は、これを“国益”に反するとして抑制する日本政府と対立している。この対立にみられるような沖縄と本土のズレを、右の文章は分析していっているのだが、そこで沖縄と日本の、たたかう部分の「連帯・共闘」の提唱が、暗黙の前提として踏まえられていることは、ただちに知ることができる。だが、わたしは、あとでのべるように、たたかいにおける「連帯・共闘」ということを、このような軽薄な楽天主義で発想することにくみしない。
 さらにまた、「基地にかわる産業の誘致」という大義名分をかかげて、やみくもに大型装置産業の誘致導入を県益≠セと考えて実践する琉球「革新」政府の発想も、これを容認することはできない。紙幅もないので、その点のみを明らかにすることにとどめて本題に立ちかえることにするが、右の記事はさらに、日本政府関係者(いわゆる各省の事務官僚)の沖縄観としてつぎのような報告をもしている。


 25年の間に沖縄は独自の生活圏をもち、そのために独立国家的な立場で物事をとらえる習慣がついた…。
 それは人間の習性としてやむを得ない面もあるが、沖縄住民はそれに加えて怠惰性があり、戦争の犠牲者であることをうまく利用して怠惰の中に安住しようとしている……。


 さきに東江平之が提示した「差意識」をめぐって、わたしがこころみた若干の考察でも明らかなように、右の二つの分析(沖縄人の日本ならびに日本人に対する意識のかかわり方について)は、おおくの誤りと把握の皮相性があることは明瞭である。
 しかし、それにもかかわらずいまや日本の新聞記者はもちろん日本政府の官僚たちが、沖縄人の日本(人)に対する意識の「ヒビ割れ」の根強さ、執拗さを強く意識しているということは、きわめて重要なことである。
 彼らは沖縄人の日本(人)に対する意識の「ヒビ割れ」を、25年間日本の施政から切り離されたことで生じた実情認識の欠落や、その間独自の生活圏をもってきたことで、さらにそれを守り抜こうとする保守的な意識現象として説明する。あるいは25年の独立国家的立ち場から生じた「習慣」に加えて、沖縄人本来の「怠惰性」にその原因を求めようとする。前者は、いわゆる進歩的知識人による善意の解釈であり、後者は体制者の高圧的な発想からなされる説明であるが、根底において両者の解釈に本質的な差異がないことはもちろんである。つまり両者に共通していることは、沖縄人の日本(人)に対する「差意識」を25年間の特殊条件を前提に、これを人間の習性としての保守性や怠惰性という一般論の中で単純化して開示するやり方である。
 彼らがこのように問題を単純化するということは、とくに支配の側がそうするということは、とりもなおさず彼らが、無意識的にしろ、沖縄人が日本(人)に対して持つ歴史的な「差意識」=異質感が、体制破砕の可能性(爆発力)を強く内在させていることを明敏に感知し、ひそかにおそれているからにほかならないとわたしは考える。
 さきにわたしが彼らのこのような認識が重要であるといったのはそのことを指していったのである。
 だからこそ彼らは、沖縄人の対日本「差意識」の形成が遠く歴史時代を遡る以前からの歴史的条件によって生成されてきたことを不問にしようと努める。
 25年間の「異民族分断支配」という目前の事象の中にこれを押し込めることで、反射的に沖縄から噴出してくる日本ナショナリズムに期待をかけながら、暗に沖縄と日本の同一性=等質性を強調し、その保守性と怠惰性を叱りつけることで沖縄人を「全き、よき日本人」たらしめるための段取りをさり気なく演出するのである。
 さきの日本の新聞記者たちや在日沖縄人の指摘をまつまでもなく、わたしたちがみずからのたたかいにおいて「敵」を明確にすることは重要である。沖縄のたたかいにおいて、日本政府=国家権力と被支配の階級としての日本民衆を混同しこれを同一視することの幼稚な誤りはいわれるまでもなく自明のことであろう。しかしながらそれとともに、「敵」としての国家権力(現時ではその体現者である自民党政府)を打ち破っていくための沖縄のたたかいにおいて、そのエネルギーを思想的に支えていくものは、ほかでもなく、いかなる意味においても、いかなる形においても<国家>それ自体の存在を決して容認しないという強固な国家否定の思想、すなわち「非日本国民」の思想でしかないということも、また動かし難いことであるだろう。
 すでに東江平之が、沖縄人の日本(人)に対する「差意識」の知覚現象の研究として、沖縄人にとって府県間の差が問題にならず、『本土』は全部同質的に知覚される、と心理学的に論証したことからも容易に知ることができるように、沖縄(人)にとって日本(人)とは、国家権力もその国民である被支配者・民衆も、十把ひとからげに同質のヤマトゥであり、ヤマトゥンチュである。
 沖縄(人)から発せられる土着の言葉としてのヤマトゥ(ヤマトゥンチュ)が包括する概念は、まさにそのような意味内容を備えた言葉として存在するのである。まさしくその点に、沖縄(人)の対ヤマトゥ認識の、思想的弱さがあることは争えない事実だとわたしは考えるが、しかしそれと同時に、まさしくその点にこそまた、沖縄(人)のヤマトゥ認識の思想的強さ−その強固たる可能性が深く秘められているといわなければならないと考えるのだ。
 沖縄にとってのヤマトゥとは、沖縄の存在とは別に2000年そこらの昔に大和王権によって統一されて今日に至っている日本(明治の琉球処分によって沖縄も併合され、太平洋戦争の敗北で再び分断されたが)、そのような日本それ自体の総体的な歴史認識として認識されてきたし、いまなお意識の基層において根強く認識されている。そこでは、日本内部における支配と被支配の関係は捨象され、総体的な知覚として対象化される。さきにのべた沖縄人の対ヤマトゥ認識における思想的弱さとはそこで明らかなように、日本とその国家を、階級構造として認識しないそのような対日本知覚(認識)の非科学性を指していったものにほかならない。
 だがしかし、沖縄が所有した歴史的・地理的条件の所産として、日本(人)に対して持つ根深い差意識=異質感を、国家否定の思想として内発させ、これを持続的な反国家権力のたたかいの思想的拠点とすることによって、そのような対日本知覚(認識)はすぐれて階級性を持つだけでなく、たたかいの主体がみずからの所有してきた歴史性をそのたたかいの基底に引き据えることで、真の意味の科学性を持ち得るといえるだろう。沖縄(人)の対ヤマトゥ認識における思想的の強さとはそのことにほかならない。
 たとえば東北地方や鹿児島地方の人々も、中央に対して「潜在的不信感」があるという。事実、鹿児島が今日なおヤマトゥ的=反中央的であることは、大城立裕が紹介している川越政則というひとの「鹿児島の美」という本の、つぎのような一節によっても知ることができる。


 古代隼人族の独立圏南九州が大和国家に組み込まれたのは、延歴19年(800)、薩隅両国の百姓の墾田を改めて口分田制を実施したころからであろう。ところが、そのあと、南九州は日本化の道をたどったであろうか。いや、彼らは地下茎よりたくましく半独立、半自立の風土を生きつづけ、中国大陸や琉球から呼吸をしつづけていたのであった。(略)南九州の隼人族は、中央権力、あるいは「日本」あるいは「国家」のわくの内側に、もう一つ抜きがたい自分たちの精神風土を持ちつづけてきたのであった。(略)いまの日本は、ほんものの日本人のものではない、そういう思いが歴史のさけ目で鹿児島人に流れるのだ。この国土は、もと、われわれのものだった。――古日本人であった彼ら、日本列島の祖人隼人らの心情には、いまもなおそういうはるかな思いがあるのである。(70年5月27日『沖縄タイムス』)


 大城が引用している川越というひとのこの文章が、いかにも反ヤマトゥ=反中央の気概に溢れ、鹿児島人の気骨を示して余りあることは、短い引用文によってもよく知ることができるが、その思想的視点が典型的な権力者の論理で貫かれていることもまた明らかである。そこにあるのは千数百年の昔、大和王権によって征服された隼人族の怨念と、日本は我がもの≠ニ考えるナショナリズムのみが強烈であり、その限りにおいて何の益するところもない。おそらく川越にとって意味のあるものは、天皇族にかわって隼人族が日本の主人公になれば事足りることだろうからである。象徴天皇として天皇の持つ政治的、軍事的、宗教的の、すべての権威と権力が棚上げされた現在時においても、鹿児島人が日本の中央権力を握れば、それでよいはずだからである。
 その限りでは、戦後の一時期もてはやされた九州独立論とか北海道独立論が持った共和主義的思想の積極性さえ引用文の限りにおいて認められないし、ましてや谷川雁らがこころみた「サークル村」運動が持った思想的な戦闘性など、引用文の限りでは、川越の考えも及ばないことのように見受けられる。
 だから大城のように、そのことをもって「沖縄人にはこのような薩摩隼人の気概はないだろう」などと妙な感心をすることは、けだし意味のないこととわたしには思われる。

  (7)

 それにしても、鹿児島がこのように今日なお反中央的であり、東北地方その他が同様であるとしても、沖縄(人)にとってのヤマトゥとは、そのような日本各地方の、反中央地域と人びとをすべて包括して同質的に「異族」視し総体化した「日本」それ自体である。日本のどの地方にもみられないそのような沖縄人の対ヤマトゥ知覚の特異性こそ「薩摩隼人の気概」より一層重要であり、<国家としての日本>に対して犯罪的である点において、思想的な強靱さと優位性を保つものといえるだろう。そのような土着の歴史認識としてあるヤマトゥ(ヤマトゥンチュ)に対する差意識=異質感、さらに厳密にいえば、沖縄と日本の「異族」性の発掘と主張、その持続と発展の中にこそ、ヤマトゥ(日本国)の歴史を相対化し、真に国家権力を否定し得る沖縄の自立的思想の可能性は求められなければならないし、そしてそのことこそが、今日の沖縄にとって、もっとも緊要な課題としてわたしたちに問われている思想的の問いであるといえるだろう。
 なぜならば、くりかえしのべるように、沖縄人が日本(人)に向き合う場合、その意識の基層においては、日本における階級的支配・被支配の関係をすべて捨象して、日本(人)を丸ごと同質化して知覚する。
 ということは、とりもなおさず沖縄における日本志向のナショナリズムの発現形態(「復帰」思想)も、日本における階級的支配・被支配の関係を捨象し、日本総体に向けて沖縄総体を全的に溶解させるという形で、その思想の基層を規定しつつたちあらわれることを意味するからである。
 それは、言葉の表層において、「反戦復帰」とか「完全復帰」とかいわれる、字句の如何とはかかわりないことなのだ。そしてまさしくこの点に、いわゆる「復帰」思想を思想的の問題として俎上に上げ、これを徹底的に論究しなければならぬ本質的な要諦があるのだ。そこのところに対する明確な認識を回避する時、たとえば沖縄と日本のたたかう階層の、階級的連帯という言葉が、バナナの叩き売りよろしく安易に強調されるのである。
 いわゆる卑俗な、幅広い統一論者たち、すなわち自称進歩的知識人とか、いかにも前衛を自任した者たちが、いとも気軽に「本土と沖縄」の連帯とか団結とかいう言葉を振りかざし、まき散らすのはこの時である。たとえば、つぎの言葉のように。


 沖縄の真の祖国復帰(核も毒ガスもない、アメリカのいない沖縄)を実現する道は、断固としてサンフランシスコ体制打破の旗を高くかかげてたたかい、沖縄返還を要求してたちあがっている本土の民主、平和、中立日本の建設をめざすたたかいを通じて確実に切り開くことができます。
(70年6月19日『沖縄タイムス』、「安保復帰」をどう考え、これに対処するのかという設問に対する沖縄人民党の回答)


 だがこの言葉たちが、言葉の正しい意味における連帯について何一つ語っていないことは、この言葉のもつ空虚なひびきによってさえ、わたしたちはこれを確認することができる。それはこの言葉たちが、言葉の正しい意味における連帯とはおよそ異質の、擬制の言葉でしかないからであろう。
 そもそも「民主、平和、中立日本の建設」などという、そのまま現在時の体制者の看板としてもそっくり通用するお題目など、犬にでも喰わしてやった方がまだしもましというものである。平和で美しい独立国「日本」などわたしたちにとってどうでもよいことであり、日本国の平和的な存立ということを、沖縄のたたかいの目的にされてしまうことなど、真っ平御免蒙らねばならないことなのだ。何のこともない、「お国のために殉じる」ことで近代戦の惨禍を一身に引き受けたさる沖縄戦の論理を、そのまま、「民主」化の衣粧をまとわせることで引き当てているにすぎないからだ。
 沖縄が歴史的に所有し、かつ、さる沖縄戦の惨禍の中で決定的に学び得たものは、ほかならぬそのような論理の否定であったはずであり、そこから導き出される沖縄のたたかいは、あえていうならば、究極においていかなる政治権力がこれを握ろうと、国家の存立それ自体を否定するものでなければならないはずのものであった。
 沖縄が持ち得たそのようなすぐれた可能性は、現実には強大なアメリカ軍事占領権力者の抑圧の中で窒息させられ、むしろ現実の状況に対するたたかいとして、日本志向の「復帰」運動が一定の有効性を持ちつつ、巨大な組織的な力として培養されて今日に至ったわけだ。すでにのべたように「復帰」のたたかいがすでにたたかいたり得ず、沖縄の存在が所有してきた体制破砕の可能性を扼殺するものであることが明確になっている現在時においてもなお、「民主、平和、中立日本の建設」などという国家幻想を振りまくことが、たたかいの前進やたたかいの連帯を意味するはずはないことは明らかであろう。
 言葉の正しい意味におけるたたかいの連帯が、たとえば70年に至ってもなおくりかえされている北緯27度線上での「海上大会」のごとき、あるいは観光ショッピングをかねた「たたかう仲間の交流」のごとき、さらには東京で時におこなわれると伝えられる社共の「一日共闘」(この言葉の何んと白々しく、いやらしいことか!)というごとき、お目出たいものであるはずもない。
 まさしくさきにのべた、沖縄から日本に対して強固な差意識=異質性を徹底的に、果しなく突きつけていくことを、すべてのたたかいの組織と実践における発想の根底に据え、<国家としての日本>の存立自体を否認していく(具体的にはたとえば「国政参加」の拒否などがあった)ということを、思想的に個的な位相において構築し、実践していく時、真の意味の沖縄と日本のたたかう部分の「連帯」は結果されるものであろう。
 「連帯」とはたたかいにおける「前提」や「目的」では決してないし、それはあくまでも沖縄(人)は沖縄(人)なりに、日本(人)は日本(人)なりにたたかう、たたかいの具体的な実践の堆積の上で確認し合う「結果」である。
 きわめて単純にいえば、そのことの認識が、政治的にも思想的にも、たたかいにおける戦闘者=実践者の、ホンモノとニセモノを分ける。


三、「日本」相対化の視点

  (1)

 奄美大島に住む作家の島尾敏雄が、西北太平洋に弧状をなしている列島国家である「日本」に対置する空間概念として、「ヤポネシア」という言葉をつくり、さらにその「ヤポネシア」の中で独自の存在を主張する存在として、奄美大島から沖縄、宮古、八重山の各群島を形づくる島嶼群に対して「琉球弧」という地理学上の名称に思想的な内容をもたせた表現を与えたことは、すでにおおく語られているように、日本列島国家を対象とする思想的の営みにきわめて多くの示唆と貴重な視点を与えてきたものである。
 これらの言葉から発想される思想的の可能性については、島尾敏雄自身が、その最初のエッセイ集『離島の幸福・離島の不幸』以来、くりかえし書きつづけているところである。たとえば「ヤポネシア」とそれにかかわる「琉球弧」についてつぎのように島尾が書くのを読む時、わたしは深い衝動にからだの内側から強くつき動かされてしまうのをどうすることもできない。


 本州や九州に住んでいた時私はしきりに大陸が気になった。シナはいうまでもなく蒙古だとか中央アジアやもっとその奥の方に想像はのびていった。しかし四囲を海でとざされた日本の島の中からぬけ出すことは出来ないだろうとあきらめていた。大陸のことを学ぶと頭の上から重いおもしをのせられ、そこで何か会得したものが次第に沈澱していく気分をもった。偶然が私を奄美にしばりつけたとき、今度は本州や九州をかつて大陸を考えた時のような気持で見ていることに気がついた。そしてぐるりをすきまなく海でとりかこまれた奄美の島の中からぬけ出すことはとても出来そうもないと考えた。でも島の方から本州や九州を学ぼうとしたとき、大陸に対したときと少しちがう反応を示すことに気がついた。頭のてっぺんから浸透してくるのではなく、あしうらのあたりからつきあげてくるようなエネルギーに動かされたことだ。(『非超現実主義的な超現実主義の覚え書』所収「ヤポネシアの根っこ」)


 「日本」とのかかわりの中で、南島についてこれまで数限りなく書かれた文章はあるが、島尾敏雄の右の一節は、単に文章美学的な意味だけでなく、文脈に溢れ出る内実の豊かさにおいて、もっとも美しい文章の一つであることはまちがいない。この島尾によってつくられた「ヤポネシア」という空間概念を思想的に発展させ、これに明確な内容を付与したのは、谷川健一が書いた「ヤポネシアとは何か」
(「日本読書新聞」70年1月1日号)の一文であった。
 それは従来のおおくの国家論が、社会科学の方法による機能的、形態的な構造分析にとどまり、科学主義の硬質な論理展開に終始するのが常であったのに対して、柔軟で豊かな想像力に支えられた独自の視点からなされた国家論として新鮮な地平を切り開くものであったとわたしは考えるのであるが、そこで谷川が「ヤポネシア」という空間概念に付与した思想的の意味づけは、日本とのかかわりで考える沖縄=琉球弧の存在の可能性について貴重な示唆と展望を与えるものであった。
 谷川によってイメージされるヤポネシアとは、「日本よりも古くかつ新しい歴史空間」であり、それはつぎのように規定される。


 「日本」は単系列の時間につながる歴史空間であるけれども、ヤポネシアは多系列の時間を総合的に所有する空間概念である。つまり日本の外にあることとヤポネシアの内にあることとはけっして矛盾しない。なぜならヤポネシアは「日本」の中にあって「日本」を相対化するからだ。私たちはナショナリズムを脱し、インターナショナルな視点をもとうとすれば、単系列の時間につながる歴史空間であるところの「日本」を否定するしかなく、「日本」を肯定するとなれば、単系列の時間の中に組み込まれるほかない道を歩まされてきた。(略)日本にあってしかもインターナショナルな視点をとることが可能なのは、外国直輸入の思想を手段とすることによってではない。ナショナルなものの中にナショナリズムを破裂させる因子を発見することである。それはどうして可能か。日本列島社会にたいする認識を、同質均等の歴史空間である日本から、異質不均等の歴史空間であるヤポネシアへと転換させることによって。つまり「日本」をヤポネシア化することで、それは可能なのだ。


 島尾敏雄の文学者らしい直感力によって提起され、谷川健一によって思想的に意味づけられた、ヤポネシアとしての「日本」把握(認識)は、多系列で異質不均等の歴史空間として日本列島国家社会をとらえかえすことで、単系列で同質均等の時間として組み立てられ、存在せしめられてきた「日本」を相対化する足場を、わたしたちに提供する。
 それはまた「弥生式文化の成立期から古墳時代にかけて統一的な民族国家を成立させた大和王権を中心とした」日本の歴史を「寸断」すること(吉本隆明「異族の論理」)に、不可欠の思想的視点を与えるものでもあろう。
 日本の民族=文化の系統起源論について、これを異系異質の種族=文化の混在、または混合したものとしてとらえ、社会人類学、文化人類学、国語学、考古学などはもちろん、日本民俗学をふくめて、その隣接諸科学に大きな影響を与えた岡正雄の民族学は、「ヤポネシア」という歴史空間概念を学的な実証で裏づけていく上で欠かすことのできない学問領域だと、わたしは思うが、その岡正雄の民族学に触発されて、さらに学的な深化が図られている日本民俗学をはじめ、その隣接諸科学のこれからの研究成果の総合を踏まえつつ、「日本」相対化の論理を構築することが、こんごさらに深められなければならぬ「ヤポネシア」の思想の課題だと思う。
 柳田国男や折口信夫によって代表される日本民俗学は、日本文化=種族の同系同質性を前提とするために、つまり「あまりにも単系列の時間の近くに自分を置いた」ために、「ヤポネシアの意識を方法論にとり入れることで、日本を相対化する論理を構成する」ことができなかった(前掲、谷川論文)し、それゆえに、日本民族=文化の系統起源論において、異系異質の文化複合としてとらえる岡民族学と鋭く対立することになって、結局、柳田、折口没後の日本民俗学が「ミクロ」的な民俗地域性の実証的研究作業にのみ自縛されて、今日大きな発展をみせない必然があったことはすでに知られるとおりのものだ。
 もちろん、日本民俗学は、こんご民族学や社会人類学との共同作業によって、柳田=折口理論の再検討に立った前進の必要を考えており、すでにそのような作業は研究者それぞれによってなされつつあると考えられるし、こんご「諸学問分野の共同作業や相互批判を通じて岡学説の批判的発展」が期待されている(『民族学からみた日本』所収「岡学説と日本民族文化の系統起源論の現段階」のシンポジウム)のであるから、思想としての「ヤポネシア」の思想も、これら諸科学の実証的深化からおおくの刺激と示唆をうけることだろうと思う。

  (2)

 沖縄に限ってみれば、わたしたちはここで当然のこととして伊波普猷を問題にすべきである。


 文化の最上層における変動も、種族ごとの固有生活の文化的な基盤にたいしては、さほどの変動をもたらすものではないという認識を無視しては、<常民>という概念自体がなりたたない。(吉本隆明『文芸』44年12月号「異族の論理」)

 歴史の彼方から存在する常民は、国家、国家意識の枠組の中にある場合でも、それの規制とは異った次元に自分の意識の中心核を従属させる。こうした常民の意識の前提に立って日本民俗学は成立した
(谷川健一、前掲論文)


 ここでいわれるように、日本民俗学は「常民」という概念を抜きにしては成り立たないが、その「常民」によって担われる日本の文化と民族を、同系同質と考えることを前提に発展してきたため、「日本」とその歴史を相対化する視点と論理を持つことが不可能になった。
 そのような日本民俗学の創始者である柳田国男によって、学的な指導と激励をうけつつ、みずからの「沖縄学」を構築してきた伊波普猷が、柳田を超えるどころか、柳田が期待した学問領域における幅を、むしろ狭める形でしかみずからの学問を結実させ得なかったことは、沖縄の存在を日本とのかかわりの
 中で考える上で、きわめて重要な問題を提起しているところである。
 伊波普猷が柳田国男の方法を、むしろ矮小化してその沖縄学を結実したということは、決して、伊波が「古琉球」以来その没するまでに残した言語学、歴史学、民俗学、その他におけるぼう大な研究成果を、精算主義的に否定し去ることを意味するものではない。その学的な業蹟は、それぞれの領域においてきわめて先駆的であったし、学術的な価値においても質的な高さを保っているといわれるが、わたしにそれを学的に批判する素養がないことはいうまでもない。だからここで問題となるのは、すぐれて思想的の問題として、伊波普猷の方法論を支えている意識=歴史認識の問題であり、その意識=歴史認識に根ざした方法論で結実された、いわゆる「沖縄学」が果した歴史的、思想的な役割りについての問い返しである。
 いわゆる「沖縄学」は、伊波普猷によって創始され、発展させられて今日に至り、さらに後続の諸研究者によって発展的に継承されているが、伊波普猷の方法論とそれを支えている歴史認識は、深く今日の思想状況をも規定しているという点で、伊波普猷とその「沖縄学」は問題にされなければならない、とわたしは考えるのである。
 柳田国男の影響をうけた伊波にとって当然のことながら、その学問的な指標は、沖縄もまた同系同質の「日本」にあって、日本と等質同根であることの実証であった。沖縄が歴史的、地理的に長く独自の独立圏を形成してきたために、みずからもそう思い、他(日本)からもまた「異族」視されていることの「誤」りを正すことに、伊波の学問的エネルギーのおおくは費やされてきた。すなわち、「琉球処分は実に迷児を父母の膝下に連れて帰った様なものであります」(『琉球史の趨勢』)として、明治政府による琉球処分でなされた沖縄の日本への併合を、「奴隷解放」と規定することで、仲原善忠の批判をはじめ今日なお多くの論議をよんでいるように、その沖縄学は日本と沖縄がいかに同根等質であるかを「文献学、言語学、及び民俗学的考証」によって解明することを主要なモチーフにしている。
 伊波のこのような日本志向、日本同化への努力が、明治国家に組み込まれることで近代へ足を踏み出した沖縄の、近代化=皇民化に果した役割りは、はかり知れないほど大きいが、その役割りが大きいだけに伊波が努力した役割りに対する問いかけもまた重くなくてはならぬ。もちろん伊波の日本同化への努力は、たとえば谷川健一が、比嘉春潮の明治末期の日記(本叢書第一巻所収)を引用しつつ、「日本との同化をめざしたと非難されている伊波の考えの底に悲哀にみちた二重意識があったことを否定できない」(本叢書第二巻解説)と指摘するように、決して単純なものではないし、その長い沖縄研究の過程で思想的の変遷もあって、画一的な非難を避けるべきことは大切なことだと思う。比嘉春潮はおよそ60年も前のその日記で伊波が「沖縄人は日本人と同一人種である」と主張する持論には「わけがある」として、つぎのように書いている。


  (明治44年4月29日)先生の考では、今の琉球人は早く日本人と同化するのが幸福を得るの道である。其為めに右の様な論をする。向象賢や蔡温、宜湾朝保と云ふ人々も、決して日本ひいきの人でない。寧ろ支那崇拝の思想を持って居た。併し万人の幸福の為めに同種族論を唱へて居た。伊波先生は勿論支那崇拝ではないが琉球人を文明人として耻ぢざる人種否或る特殊な文明を造り得た又造り得る人種として種族的自尊心を持って居られる。(傍点引用者)


 この日記は、伊波の日本志向のモチーフを理解するのに貴重な手がかりを与えてくれる。たとえば伊波のまとまった論文としては最後のものである『沖縄歴史物語(日本の縮図)』の末尾ちかくに、「沖縄諸島はわれわれの天然の国境である。米国が沖縄を保有することにつき、日本人に反対があるとは思へない。なぜなら、沖縄人は日本人ではなく、また日本人は戦争を放棄したからである」云々というマッカーサーの談話に触れて、「正に『御教条』の第一章を聯想させるもので、しかもその中には沖縄人の行くべき方向を示唆したところがある」(傍点引用者)と書いていることとも関連して、伊波の思想・方法を解明する手がかりを与えてくれると思う。
 『沖縄歴史物語』で伊波が、「沖縄人の行くべき方向」と書くのは、明らかにマッカーサーの、「沖縄人は日本人ではなく……」という部分に対応する言葉としていわれているものだけに、これは、伊波が『古琉球』以来、その学問的エネルギーのほとんどを費して積み重ねてきた「日琉同族論」と明白に矛盾するものとして多くの論議をよび、今日なお明らかにされていないところのものだ。たとえば牧港篤三は、その「伊波普猷伝」(『近世沖縄文化人列伝』所収)の中で、「戦後もごく最近、伊波普猷氏は沖縄の復帰に反対、一部にあった沖縄独立論を支持したといううわさが聞かれたことがある。果して伊波氏は独立論を唱えたであろうか」と設問しつつ、それは「何かのまちがいではないか」とつぎのように結論づけている。


 この日記は、伊波の日本志向のモチーフを理解するのに貴重な手がかりを与えてくれる。たとえば伊波のまとまった論文としては最後のものである『沖縄歴史物語(日本の縮図)』の末尾ちかくに、「沖縄諸島はわれわれの天然の国境である。米国が沖縄を保有することにつき、日本人に反対があるとは思へない。なぜなら、沖縄人は日本人ではなく、また日本人は戦争を放棄したからである」云々というマッカーサーの談話に触れて、「正に『御教条』の第一章を聯想させるもので、しかもその中には沖縄人の行くべき方向を示唆したところがある」(傍点引用者)と書いていることとも関連して、伊波の思想・方法を解明する手がかりを与えてくれると思う。
 『沖縄歴史物語』で伊波が、「沖縄人の行くべき方向」と書くのは、明らかにマッカーサーの、「沖縄人は日本人ではなく……」という部分に対応する言葉としていわれているものだけに、これは、伊波が『古琉球』以来、その学問的エネルギーのほとんどを費して積み重ねてきた「日琉同族論」と明白に矛盾するものとして多くの論議をよび、今日なお明らかにされていないところのものだ。たとえば牧港篤三は、その「伊波普猷伝」(『近世沖縄文化人列伝』所収)の中で、「戦後もごく最近、伊波普猷氏は沖縄の復帰に反対、一部にあった沖縄独立論を支持したといううわさが聞かれたことがある。果して伊波氏は独立論を唱えたであろうか」と設問しつつ、それは「何かのまちがいではないか」とつぎのように結論づけている。

 それだけを切り離してみると、読む人によってはあるいは、独立論支持の気配を感じさせるかも知れないが、伊波普猷氏がこの文章を書いたころは講和条約発効以前のことであり、しかも、沖縄の戦後の実態を知らなかった当時の伊波氏が、そう書いたにしても、それをすぐ独立論に結びつけて考えることは早計であり、まちがいであろう。なぜかといえば、伊波普猷氏は一介の武弁の言行と、しかも、それが当時の国際ニュースの断片から得た知識に、全生涯をかけた民俗学、いわんや日本一体化の学問、思念をかけるほどわが伊波普猷氏が軽率だったとはとうてい思いもおよばないからである。


 だが、わたしには必ずしもそのようには受け取れない。なぜならば、さきに引いた比嘉春潮の日記が示すように、伊波の「日琉同族論」の主張は、根底のところで「同化するのが幸福を得るの道」という信念に支えられたものであったとすれば、しかも「琉球人として、……種族的自尊心を持って居られる」
 とすればなおさら、そこには日本(人)に対する沖縄(人)の決定的な異質感が前提として考えられるからである。みずからの学問的な研究成果とは根本的に矛盾するこの異質感が、敗戦によって価値観(天皇制思想に基くナショナリズム)の崩壊をみた混乱期を背景に、マッカーサーの一片の談話に触発されてはからずも噴出したとみるべきであろう。
 伊波がつづけて書いている「沖縄の帰属問題は、近く開かれる講和会議で決定されるが、……自分の運命を自分で決定することの出来ない境遇におかれてゐることを知らねばならない。彼等はその子孫に対して斯くありたいと希望することは出来ても、斯くあるべしと命令することは出来ないはずだ。といふのは、置県後僅々70年間における人心の変化を見てもうなづかれよう。……すべては後に来たる者に委ねるほか道がない」という言葉も、どのように拡大解釈しようと日本帰属を望む声ではないだろう。さらに「地球上で帝国主義が終りを告げる時、沖縄人は『にが世』から解放されて、『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る」というその結語は、折りしも日本共産党が第5回大会(1946年2月)で、「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」を発表して、「日本の天皇制帝国主義の搾取と圧迫に苦しめられた」「少数民族」であるところの沖縄人が、“アメリカ解放軍”によって“解放”され、「多年の願望たる独立と自由を獲得」したことを祝福するという歴史的事件(!)がみられた、当時の社会的、思想的状況に照らしてみても、多分に独立論的の発想から導き出されていることは否めない。しかも、伊波の日琉同族論を支えているのは「同化するのが幸福を得るの道」という思想であるとすれば、その同じ発想と論理によって、当時の日本共産党の“解放軍”規定にもあらわれているように、民主主義の守護神視されていたアメリカの庇護のもとでの沖縄独立を思い描いたとしても怪しむに足りない、といい得るだろう。
 だとすれば、伊波のこのような発想と論理は、かつて伊波自身が「沖縄人の最大欠点」として糾弾した「忘恩思想」と「娼妓主義」の事大主義を、みずから身をもって立証したものにほかならず、「沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでゐる」と排斥した「御都合主義」から、伊波自身も逃げることが不可能だったことを物語るものであろう。そもそも伊波の日琉同族論を支える「今の琉球人は早く日本人と同化するのが幸福を得るの道」という発想自体が、紛うことなく事大主義の思想である。そこで伊波が、日本同化に知的努力を投入すればするほど、同化のために否定されなければならない、とみずから主張する事大主義の思想と論理を、さらに強化してみずから体現することにしかならないという宿命的な自己矛盾を深めていくことにしかならなかった。そのような自己矛盾に引き裂かれる自己の内面世界を、冷徹な個の位相で対自化することによって、その矛盾を思想的に止揚していくという努力は、伊波において見ることはできないし、その思想体質がもともとそれを不可能にしているところに、伊波の悲劇的な限界性をみることができると思う。
 伊波の日琉同族論は、日本の民族=文化の系統起源を、種族=文化の複合という概念でとらえることをしない柳田民俗学の発想を矮小化することで成り立っている。柳田はそこで、日本の民族=文化が南から沖縄の島々を経て北上したという「北進説」をとり、沖縄に「原日本」を求めたのに対して、伊波は九州南部から南下して住みついた種族が沖縄人の祖先だと考える「南進説」を主張することで両者は対立するとはいえ、民族=文化の系統起源を単系列の概念でとらえる前提にかわりはない。しかも伊波がもつところの「同化こそ沖縄の幸福」という強い使命感に貫かれた発想と論理にとっては、日本の民族=文化を同系同質とする柳田民俗学の概念は、きわめて貴重であり、うってつけのものであった。まさにこのことによって伊波は、みずからの内部世界に抱える自己矛盾(「悲哀にみちた二重意識」)を、克服すべき対象として自覚的に悩むことなしに、ただひたすら日本同化のためにその知的エネルギーを投入することができたし、そのことによって日本国家権力の側が上から強要する皇民化政策に対応して、沖縄内部から、しかもその知的側面から積極的に皇民化を補強する役割りを担いつづけたものである。その伊波があれだけ言語学や歴史学を深めながら、ついにみずからの思想を天皇制国家の本質に切り込ませることができず、そのことによって日本に沖縄を対峙せしめ、その歴史的、地理的に所有した存在の重さをもって、日本の天皇制に支えられた歴史の優位性を相対化することが不可能であったことは、いうまでもなくそのような伊波の決定的な限界性によるものである。沖縄が歴史的に所有した日本に対する決定的な<異質感>を根底に持ちながら、その<異質感>を、天皇制国家の絶対性を突き崩す、文化の多様性として突き出していくのではなく、それとの全般的な合一化を図りつづけた伊波の思想と方法の限界性と悲惨は、近代沖縄知識人の一典型としてあるし、伊波が晩年に書いた前記『沖縄歴史物語』の末尾の部分は、伊波が背負いつづけてきたそのような悲惨をはからずも覗かせているようで、わたしは痛々しい思いなしにこれを読むことはできない。

  (3)

 伊波にみられるこのような思想の悲惨と限界性は、とりもなおさず伊波によって代表されるいわゆる「沖縄学」の、今日みられるぼう大な研究の集積を支えている人びとにも、ほぼ共通していえることはいうまでもない。だが戦後の研究者たちの中に、それを超克する学的作業を地道ながらつづけている人びとがいることも否定できず、その点でたとえば吉本隆明が前記「異族の論理」の中で、沖縄研究にかかわるすべての人びとについて、全的な否定と受け取れる発言をしているのは肯けない。
 吉本はさらに、たとえば「おもしろさうし」について、「言語学や民俗学にべつに関心を持たないものが虚心によめば、文学的にはたかだか平安末期以後の『梁塵秘抄』とか、『仏足石歌』のような宗教味をふくんだ土謡調くらいの意味しかもっていやしない」ともいっているのだが、詩人でありすぐれた思想家である吉本が、しかも日本の歴史を分断し、相対化するものとしての沖縄の存在を提起している文章の中でこのようにのべていることに、わたしは大きなおどろきと奇異を覚えずにはおれなかった。もちろん吉本が、ここでいわんとしていることは、伊波普猷に代表される「沖縄学」が、その学的なモチーフを「沖縄人も日本人である」ということに求め、その実証にすべての知的エネルギーを限定して投入するいびつな方法しか持ち得なかったことに対する皮肉であると思う。たしかに「本土の学者がエキゾチシスムを混えて<おもろさうし>は、すぐれたものだといえば、すぐ口まねして<おもろさうし>はすばらしい古典だなどと後生大事にかかえこんだままで称えだす」という風潮も、否定できず存在したものの、そのことと、<おもろさうし>が「たかだか……宗教味をふくんだ土謡調くらいの意味しかもっていやしない」ということとは、おのずから別の次元のことであろうし、現に別の次元のものである。
 なぜなら「おもろさうし」は、沖縄における神女組織の解明に欠かせない素材としての側面をもっているが、それは古代的王権と祭祀とのかかわりについて、有益な手がかりを与えるだろうからである。そして、沖縄の古代氏族共同体における神女の発生、古代的政治国家の成立と神女のかかわりを通じて、国家の起源に際して機能する宗教ならびに司祭者の機能のし方に対しても、何らかの示唆を与えずにはおかない部分を、いわゆる「おもろ歌謡」は持ち得ているだろうからである。
 さらにまた、わたしたちは、「おもろさうし」から、普遍的な意味における「文学」の発生と、その発展に関する構造的、形態的な手がかりをつかむことができるだろうし、その点で記紀歌謡も含めて日本文学が欠落させている部分を、補い得る要素をもっていることが、外間守善らの意欲的研究によって今日明らかにされつつあるからである。しかも、「おもろさうし」をこのように跡づけて解明することによって、たとえば川端康成や三島由紀夫に顕現されている日本的感性=日本人的美意識の成立を促してきた日本文学の伝統の生成と定着を、歴史的に照射することに「おもろ研究」は貴重な手がかりを与えるのではないかと考えるからである。
 吉本は、今日川端康成や三島由紀夫が体現しているいわゆる日本的感性について、その「天皇と天皇制について」(『国家の思想』解説)の中で、それが「本居宣長以後の方法にあざむかれてきた」としつつ、それは「大和王朝の支配者たちによって実現された政治体制と、そのもとでの大陸の仏教と儒教の影響下に展開された美的感性をそのまま<日本的なもの>としてよみとるということを意味している」と分析している。そしてその意味で、日本人的美意識や感性の、究極的な価値の概念が無意味であることを指摘しているが、そのように<日本的なもの>として信じこまれてきた日本人的美意識の無価値性を、実証的に解明する日本文学の発生と形成過程の研究に、「おもろさうし」が一定の示唆と手がかりを与え得るとすれば、それは決して「たかだか……宗教味をふくんだ土謡調くらい」のものでないことは歴然としてくる。今日の「おもろさうし」研究が、「本土の学者がエキゾチシスムを混えて」すばらしいということを口まねして後生大事に抱えこんでいるのでもなく、言語学や民俗学的関心の範囲をこえて「すばらしい」とすれば、まさにその点にあると、わたしは考えるからである。さらには「おもろさうし」が、日本文学が欠落させてきた<海の文学>を持っている(「日本読書新聞」69年3月17日号、谷川健一)ということなども含めて、単に文学史的の興味だけでなく、それは沖縄人と日本人の意識構造の差異、それぞれの変遷の仕方、相互のかかわり方についても、それを解きほぐす何んらかの手がかりを提示しうるものとしてわたしたちに所有されなければならないとわたしは考えるのである。
 その意味で「おもろ」は、吉本が大和王権による統一国家としての日本の歴史の優位性を「分断」するのに、かけがえのない存在理由をもつと提唱した沖縄の「古代的遺制」と同等の比重をもって語るに耐える素材であるということができるのではないか。たとえば『古事記』が日本の天皇制の解明に欠かすことの出来ない素材であるように。たまたま『古事記』の天皇解釈において、本居宣長が果した役割りと方法(吉本の「天皇と天皇制について」にくわしい)と同じような役割りを、伊波普猷はその「沖縄学」において担っているといえない。つまり本居宣長の方法と思想が、(吉本が指摘するように)今日の川端や三島に象徴されるごとく、おおくの日本人の感性を<日本人的な美意識>の中に呪縛しているように、伊波の方法と思想が色濃く「沖縄学」の研究者たちの発想と方法を呪縛したにとどまらず、今日なおおおくの沖縄人を日本志向の思想と行動に呪縛して、沖縄の日本に対する想像力に富んだ自由な発想(それは学問研究のみならず政治的にしろ、思想的にしろ、たたかいにおいてもっとも重要なことなのだが)を絶えまなく圧殺し、封じ込める役割りを担いつづけているという意味においてである。
 そこで、再び伊波に即していえば、その意識の底に「悲哀にみちた二重意識」があったとしても、伊波はそれを対自化することでみずからの思想を止揚していくことは、さきにのべたようになし得なかった。今日のわたしたちはこのような伊波の思想と方法、その集積としての「沖縄学」の歴史的負荷をどのようにとらえかえし、問いかえしていくかということを迫られているわけである。天皇制とそれに支えられた<国家としての日本>に対する冷厳な認識を捨て去ることで、日本と沖縄の同系同質を幻想する日本同化思想に、学的根拠を付与しようと生涯をかけて努力した伊波普猷は、国家体制が権力をもって強要する沖縄の皇民化政策に学的の面から揺ぎない支柱を提供してきた。しかし、そのような伊波の努力で、伊波が期待した沖縄人の「幸福」が得られるはずもなかった。さる大戦の終幕における惨めな戦争体験をもち出すまでもなく、むしろ決定的にマイナスに作用して今日に至り、今後さらにマイナスの方向にのめり込ませるものとして、沖縄の日本同化思想が存在しているということを考える時に、伊波が担った思想的な意味の重さを、わたしは決して軽く考えることはできないのである。そのことを自覚的に思想の次元でとらえかえしていくことが、とりもなおさず明日へかける沖縄の自立的な思想を構築することでもあると、わたしは考える。


四、同化志向と事大主義

  (1)

 日本における国家意識、国民意識の形成が、「明治維新」のあと政府権力による政治的、教育的、宗教的、その他の面で強権的におこなわれてきたことと同様に、沖縄人のそれもまた、明治政府の「琉球処分」によって、支配の手段として上から強権的に推進されてきたものである。
 まず民衆の教化と社会の治安に欠かせない教育制度と司法制度を、他の諸制度の改革にさきがけて改革するとともに、古来のお嶽信仰を基礎にして成り立たせていた首里王権を支える宗教的なヒエラルヒーの上層を解体した。しかしながら、それらを除く他のすべての旧慣はそのまま温存し、首里王府に代表される旧支配層を懐柔することに力が注がれてきた。そこで地租改正、府県制・郡制の施行、参政権の実施など、「廃藩置県」にともなう地方制度の改革は、意図的、政策的に遅延させる政策がとられた、このような制度的の「差別」をともなわせる跛行的な施策(皇民化政策)は、支配の徹底を図る上できわめて効果的でもあった。なぜならそれは、支配の側の意図をはるかに上回って、一見すれば反体制的とみられる運動も含めて、このような差別的施策の大きさに対応して、沖縄内部から「差別からの脱却」を強く求めさせ、沖縄の内がわから積極的な日本同化へのエネルギーを引き出すように機能するからである。
 その点、日本各地方における国民意識の形成とは著しい差異を沖縄においてみることができるし、そこに沖縄人が担った日本同化過程の特殊性をみることができるとわたしは思う。
 ところで、沖縄において上からの皇民化政策に対応する下からの日本同化への努力ということをわたしたちが考える時、わたしは単に「偏狭の陋習を打破して国民的特質を発揮し、地方的島根性を去りて国民同化を計るものなり」と、その創刊の趣旨にうたい、「極端にいえばクシャメすることまで他府県人の通りにすると云ふなり」とまでいい切って、沖縄人の日本同化推進に狂奔した、当時の『琉球新報』に拠る言論人をはじめ、そのように権力に迎合追随して露骨で醜悪な形の日本同化を唱導した階層のみならず、たとえばその『琉球新報』と参政権獲得問題をめぐって鋭く対立した謝花昇の「沖縄民権運動」、あるいは伊波普猷の「沖縄学」なども、その代表的な例証として考えなければならぬと思う。
 前者を代表する『琉球新報』は、たとえば明治31年に徴兵令が施かれると、「あらゆる美辞麗句を書き連ねて不安におののく新兵たちを激励」(大田昌秀『沖縄の民衆意識』)して、天皇とその国家に対する沖縄人の忠誠心を煽りたてたばかりでなく、日露戦争では、沖縄出身兵士の戦死者が多く出れば出るほど、「いまやわが沖縄県民は、今上陛下の臣下なり。愛国熱情の国民の一部なり」とのべて、戦死者の増大がすなわち「県民の面目をほどこす」ものであると、社説を掲げて称賛するというほどに、卑屈で倒錯した論理をもって日本同化に指導的役割りを果しつづけた。
 いっぽう後者の伊波普猷は、さきに若干のべたように「日琉同族論」の実証をみずからの学問研究の課題とし、沖縄の日本同化に学的な裏付けをすることでその強力な推進者となったし、さらに謝花昇はその民権運動において、政府権力が沖縄に対する支配と収奪を徹底させるために押しつけた「制度的差別」の打破に身を挺することで、日本人としての国民的自覚を促し、そのことによって、沖縄人の日本同化=皇民化に積極的な役割りを担ったことを見逃すことはできない。
 とくに謝花昇についてこのようにいうと、あるいはおおくの人びと(とくに進歩的と自称する公式主義者たち)は、これを、当時の歴史的な条件を顧慮せず、いたずらに今日の視点で歴史的事象を截断し、その歴史的位置づけを歪曲していると血相を変えて論難するかも知れない。だが歴史は、正しく後世=後生によって判定される、という公理に立ってわたしはあえてつぎのように問題をとらえたい。
 謝花昇のたたかいが、沖縄近代におけるもっとも突出した反体制的な運動としての位置を確保するものであることは否定できないが、反面、日本における自由民権運動がそうであったように、それが日本ナショナリズムに沖縄の民衆を統合していく役割りを担ったものであることを見落とすわけにはいかないということである。つまり日本の自由民権運動は、端的にいって、国民的忠誠心=ナショナリズム形成を前提にした反政府運動であった。


 専制政府のもとにおいては真に国民的な忠誠は成立しないというものであったといいかえてもよいであろう。少くとも、立志社、愛国社をはじめ、各地に勃興した政社の趣意書を見るかぎり、そのほとんどが(略)国民的忠誠心(=愛国心)培養の基礎が民権の拡張にあるという立場をとっている。いわばそこには、民権の主張と国権の主張とが奇妙な共棲関係によって結ばれており、そのかぎりでいえば、容易に一方から他方への転換が生じるような構造が含まれていた。
(『近代日本社会思想史1』所収、橋川文三「忠誠意識の変容」)


 謝花昇の民権運動は、いわば制度的な差別としてなされた国による沖縄の参政権拒否と、その口実になっている地方制度改革の遅延策に対する「差別撤廃運動」としてあった限りにおいて、それは差別をともなわせることでより効果的にすすめられた皇民化=日本同化を、差別からの脱却という形で沖縄の内側から補完していく役割りをもつものであったことは否めない。それは謝花昇の民権運動だけがそうであるということではなく、国家とナショナリズムの否認に立たない、いかなる差別撤廃運動も、それはさらに大きく国家とナショナリズムに包摂されていき、国家体制を根底的に変革するたたかいにはなり得ない論理必然性を、その運動自体が運動内部に内在させていることを意味する。
 日本の民権運動が崩壊した原因は、「弾圧政策とともに、政府のがわの意識的な国権主義が、民権派の中にあったいわゆる『国権のための民権』の傾向を強化し、それが民権派の思想的・組織的統一を掘りくずしたことにある。(略)中江兆民らごく少数の分子を例外とする彼らは、明治憲法体制そのものに対する疑惑も批判も全く持ち合わせなかった」(前掲『近代日本社会思想史』所収、岩井忠熊「明治国家の思想構造」)という点にあったように、謝花昇らの民権運動の展開と挫折もまた、まさしく日本ナショナリズム否定=国家否認の思想的前提に立たない差別撤廃運動だったこと、それ自体の中に敗北の要因を内在させていた。
 謝花昇が杣山問題をめぐる反権力闘争で、直接的な利害関係にあり、しかも変革の担い手であるべき農民層を組織することができずに敗北し、やがてその延長として、県民の利益を擁護し、民衆の権利を伸長するには「参政権」の獲得以外にないとして議会主義に転換しながら、そこでもやはり決定的な敗北を喫したすえ、ついに狂死せざるを得なかったのは、そのような思想的の弱さと限界性を余すところなく示していると思う。
 謝花のこのような思想的脆弱性と限界性について、これを沖縄の近代化、すなわち皇民化政策=天皇制国家に対する忠誠心の一元的統合という問題とかかわらせて考察することの重要性をわたしは痛感するだけでなく、謝花の敗北と挫折を、権力者知事・奈良原繁の間断ない弾圧、奈良原と結託する『琉球新報』に拠って、謝花らの運動に仮借ない攻撃を加えた旧支配層出身言論人との力関係における圧倒的な劣勢、あるいは沖縄社会の後進性と事大主義にのみ、その敗北と挫折の原因をみる、沖縄で一般になっている定説は、きわめて非科学的であるだけでなく、それこそ歴史を歪げて謝花の歴史的位置づけをこころみるものだとわたしは考える。
 謝花昇は、日本の自由民権運動の解体期にあたる明治15年(1882)から同24年にかけて東京に遊学し、その間、中江兆民やその門下の幸徳秋水、木下尚江、岩佐作太郎ら、日本近代の反逆的思想家たちと接して思想的影響をうけたといわれる。それが具体的にどういうものであったのか、今のところ語ってくれる資料はないにもかかわらず、沖縄における謝花昇論では、往々にして謝花が、中江や幸徳らに接触したということだけで、中江や幸徳らの思想をそのまま謝花に比定して語るという風潮が一般である。
 だがわたしは、両者のあいだに根源的な発想の隔絶があり、謝花の思想の内実は直接に接した中江や幸徳の思想系列にではなく、むしろ板垣らいわゆる民権右派のそれに入るのではないかと想定する。このような沖縄民権運動の思想系譜の、厳密な思想史的探求を欠落させ、単純に心情的に美化した歴史的な位置づけをこころみる沖縄近代史研究の一般的風潮は、早急に克服されなければならないと思う。
 そこで当然のことながら、謝花昇の民権運動が沖縄近代の皇民化政策に下からの補完作業として機能した役割りについても、冷厳にとらえかえさねばいけないし、謝花を単純に「悲劇の英雄」視する通説は、まず否定されなければならないと考えるのだ。
 ところで、沖縄近代における皇民化政策とは、いうまでもなく天皇制国家としての日本と、その天皇へ、沖縄人の忠誠意識を一元的に統合することであった。
 幕藩体制の解体(「明治維新」)に際して、人びとの忠誠意識の転位(藩主から天皇へ、自藩から日本国へ)が、著しく困難であったことは、日本各地においても際立っており、今日わたしたちは、日本近代史や維新史の実証的研究におけるおおくのすぐれた研究者たちの研究成果によってそれを知ることができる。
 しかし、歴史的、地理的に日本と全く別個の、独自の文化圏として存在しつづけてきた沖縄において、それがより一層困難で、かつ混乱したことはいうまでもなく、比嘉春潮『沖縄の歴史』、G・H・カー『琉球の歴史』、大田昌秀『沖縄の民衆意識』などの叙述の中に、わたしたちは数多くその例証を見出すことができる。
 それにもかかわらずその沖縄が、マスコミずれをした評論家に「動物的忠誠心」と冷笑されるほどまでに忠誠意識の濃密な地域となり、いまなお日本志向の「復帰」幻想を超克し得ないのはどういうわけだろうか。
 いわゆる孤島性=辺境性によって生じる外界渇仰の意識作用にその最大の要因はあるのだろうか。

  (2)

 伊波普猷が日本を相対化し得る意識をその方法論に持ち得なかったことは、その師・柳田国男の限界性とそのまま共通しているし、しかも伊波は、柳田のそれをさらに同心円的に矮小化した形でその沖縄学を成立させていることはさきも触れた。その柳田が伊波について語っている言葉に、「沖縄のすぐれた学者であった伊波普猷君など、王朝時代、藩制時代を経て明治になった当座の、明るくなった気持を主として書こうとしていたのではないかと思う。私はさらにもう一つ前の三朝三代にさかのぼって、それ以後のことをずっと勉強しなければならないのではないかと考えている」(『故郷70年』)という部分があるが、これは柳田と伊波の視野の違いを示す好例ということができよう。この点に関連して益田勝実は、「主として文献時代以後の文化と、現在としての民俗の研究をしてきた『古琉球』以来の伊波に対し、それらの資料を生かして、三山分立時代からそれ以前の、それも常民生活を中心に考えていこうと望んでいた、〈原琉球〉をめざす柳田の志向をよく示している」といい、さらに、「そういう〈原日本〉の探求のための〈原琉球〉へは、伊波普猷は進めなかった。伊波の前には、あまりにも未調査・未研究の、民俗としての〈現沖縄〉、文化遺産としての〈古琉球〉がありすぎた。それが郷土人の宿命として、まず看過できなかったのである。しかも、かれは、沖縄を、いつでも本土から遠く離れて生活と文化の貧困にあえぐ郷土として背負い、その現状の認識と救済のために発言する使命に縛られていた。〈原日本〉が視野に入らず、〈原琉球〉の研究が副次的ならざるを得なかった」(『民俗の思想』解説)と指摘しているが、これは柳田を矮小化した伊波の方法を語って十分である。
 しかも柳田民俗学の思想と方法の限界が、つぎのようなものであるとすれば、それを矮小化した伊波普猷が、天皇制国家としての日本を相対化し得る視点と方法を持ち得なかったのは理の当然というべきだといえよう。
 すなわち柳田国男の限界性は、中村哲がその『柳田国男の思想』で指摘しているようにつぎの二点にこれをみることができる。


 すべて日本の信仰が氏神信仰に原型を見出すとして一ぬりにしているのである。ここに柳田国男の民俗学が多神的祖先崇拝と普遍的な太陽神としての伊勢信仰との関係を連続的なものとして理解し、その対立の面を追究しようとはしない方法論上の問題がある。(略)政治国家の宗教である伊勢信仰と、土着の民間側の祖先崇拝との対立が、政治的支配の問題を解く鍵であるかとみられるにもかかわらず、視点をその方向から外してしまっているというところに柳田国男の思想をみることができる。


 「本土から遠く離れて生活と文化の貧困にあえぐ郷土の、現状の認識と救済のために発言する使命に縛られ、苦悩する」ことをみずからに課していた伊波普猷にとって、一日も早く全き日本人になることが「幸福を得るの道」であるにも拘らず、その国民意識の低さから、いつまでも差別的な扱いをうけている沖縄人は、まことにもどかしく歯がゆい限りのものであった。
 そこで沖縄人の「事大主義」と「御都合主義」は、伊波にとってもっとも我慢のならぬところで、それを糾弾し、摘発することで、国民意識(=忠誠意識)の育成を強く主張するのであった。伊波によれば、沖縄人の生存様式とその意識において、「最大の欠点」となっているのは「忘恩思想」であり、「思ふにこれは100年来の境遇が然らしめたのであらう」と、つぎのように説く。


 沖縄に於いては古来主権者の交迭が頻繁であった為に、生存せんがためには一日も早く旧主人の恩を忘れて新主人の徳を頒するのが気がきいてゐるといふ事になったのである。加之、久しく日支両帝国の間に介在してゐたので、自然二股膏薬主義を取らなければならないようになったのである。「上り日ど拝みゆる、下り日や拝まぬ」といふ沖縄の俚諺は能くこの辺の消息をもたらしてゐる。実に沖縄人に取っては沖縄で何人が君臨しても、支那で何人が君臨しても、かまはなかったのである。明、清の代り目に当って支那に使した沖縄の使節の如き、清帝と明帝とに奉る二通りの上奏文を持参して行ったとの事である。不断でも支那に行く沖縄の使節は琉球国王の印を捺した白紙を用意してゐて、いざ鎌倉といふ時にどちらにも融通のきくやうにしたとの事である。この印を捺した白紙の事を空道といひ伝へて居る。(略)『食を与ふる者は我が主也』といふ俚諺もかういふ所から来たのであらう。沖縄人は生存せんがためには、いやいやながら娼妓主義を奉じなければならなかったのである。実にこういふ存在こそは悲惨なる存在といふべきものであらう。この御都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでゐる。……これ沖縄教育家の研究すべき大問題である」(『古琉球』)


 沖縄人のこのような生存様式と意識については、近年東江平之、大田昌秀によっても究明がこころみられたところだ。そこで東江は、これを「空道的人格」と名付け「確固たる主義信条をもたず、ただ強大なものに追従して姑息な存在の維持を希う事大主義」と規定し、これを形成した歴史的および社会的条件の主な点として (1)相対的に弱小民族であった事 (2)宗教または絶対主義的道徳の欠如 (3)「侵略的」文明文化の影響をあげた。(63年7月22日、沖縄タイムス「沖縄人の意識構造――その研究法の一試案」)
 そしてそのような「空道的生活様式は外へは事大主義、内へは自己卑下となって表現される」し、その事大主義と自己卑下は「適切な適応の機構を備えている」ことを、心理学の方法で分析してみせた。(前掲、『琉大人文社会科学研究』)
 いっぽう大田は、「沖縄人の心理のヒダに巣喰っている複雑な意識――劣等感と自嘲のからみ合った――」を、沖縄近代の新聞資料の整理分析によって検証したが(『沖縄の民衆意識』)、わたしたちに問われているのは、そのような沖縄人の意識と生存様式を、沖縄の自立的な思想の構築とのかかわりで、どのようにとらえかえしていくかということであろう。一例としてあげれば、たとえば「ムヌクユスド、ワーウシュウ」(物呉ゆすど我御主)という俚諺について、伊波普猷が全く否定的な例証とした解釈が一般となっていることに対して、大城立裕がこれに反撥し、この言葉には禅譲放伐、とくに放伐≠フ思想があるとし、「原典をゆがめてしまった現代人の心情のほうに問題がある」と問題を提起したように。(『現地からの報告』所収「物呉ゆすど……」一考)
 もちろんわたしは、大城がそこで、禅譲放伐の思想を支えている封建的な支配者の論理と、この俚諺がもつもう一つの側面(後述)までもそのまま肯定していることを認めることはできない。すなわち大城はこの言葉を「ことに『民に人間らしい生活をさせえない国王は追放してもよいのだ』という放伐≠ツまり民主革命の謳歌である」と考えた上で、「あつかいようによっては、真の民主日本≠フ建設にも貢献する言葉であるかもしれないものを」と提議しているわけだが、少くともこの言葉の中に近代的な「民主革命」の思想を比定して考えることは当らないばかりか、この言葉にそのような解釈を付与することは、支配と被支配の関係における階級的な視点を欠落させることであり、支配者の論理にうまく乗せられてしまうだけでしかないだろう。
 つまりこの言葉を発するとき、たとえば安里大親は大城のいうように“放伐”の思想をもってしたと仮定しても、そこでは王と民という支配と被支配の関係は天与のものとして完全に捨象されている。しかもこの言葉は、東江平之がつとに指摘したように「完全に相手次第の適用様式」として、自己の事大主義を弁解するものとしての機能をはっきり備えているとすればなお更のことである。すなわち一面において放伐≠フ思想も認められるとはいえ、それよりもこの言葉は、少くとも安里大親以後においては、どのような支配にも適応し、しかもその支配に追従することの正当性を自ずから納得することで自己の精神の安定を得る、自己防衛の「口実」として機能してきたことは否めない。
 この言葉が、そのような事大主義の弁解として機能して今日に至ったということは、それをそのように機能させた被支配者民衆の側にも問題があり、それはまた沖縄人の意識形成にかかわるところの、すぐれて思想的な問題として探求されるべき課題の一つである。
 前にわたしも、この言葉の一面にある一定の積極性(放伐≠フ思想)を強調したい余りに、大城の解釈をほぼ全面的に支持したことがあるが(70年1月5日沖縄タイムス)、そのような、更に大きな否定的な要素を考えると、いきおい前言を訂正しなければならぬと考えている。この言葉に現代的な意味における変革の思想を仮託することはおよそ無意味であるからだ。
 しかしながら大城が、この言葉に関して「原典をゆがめてしまった現代人の心情のほうに問題がある」(傍点引用者)と指摘する、その限りにおいて正しい指摘だと考えるし、大城が指摘するところも含めて、この言葉をこのように定着せしめてきた沖縄人の意識形成の思想史的意味をさぐることで、沖縄の自立的な思想を切り拓いていく一つの手がかりにすることは大切なことだと思う。

  (3)

 現実の沖縄の民衆は、さきにのべたように日本(人)に対する根深い差意識=距離感を基層にして形成された文化(=意識)を持続的に所有して今日に至りながら、近代化の過程で急速に天皇制国家としての「日本」に組み込まれ、天皇制文化(=意識)に丸ごと包摂されていった。
 それはすでにのべたように、制度的差別の押しつけと、それによって補強された日本人の対沖縄差別観念に対応して、沖縄内部の言論機関、民権運動、沖縄学をはじめ、もろもろの思想や運動、学問的作業に至るまで、相互補完的に支え合う形の、積極的同化志向=皇民化志向によって招来されたものである。
 その結果、沖縄(人)は、少くともその意識の表層においては、「動物的忠誠心」を冷笑されたほどに、日本国家の中でもっとも濃密に、天皇制思想=日本国民意識に染め上げられた地域として今日に至っている。
 たたかいの広場からは、すでに「日の丸」は消えたとはいえ、たとえば政府高官の来訪に際しては、いまなお盛んな「日の丸」の歓迎風景がみられて体制者を感激させる国民意識=愛国心の発揚がみられることは、かつて「琉球処分」のあとの近代化=皇民化過程で著しい混乱と困難性があり、あるいはいまなお意識の基層を規定する対日本「差意識」=異質感が根深く存在することがウソのようでさえある。
 このような国民意識の生成と持続は、さきにのべたように、戦後沖縄の政治的、社会的状況の中で「日本国民」たろうとすることが一定の戦闘性を持ち、教育の場においても積極的にそれ(国民意識)が鼓吹されてきたためである。



 「国体観念」の権威が確立し、これと相容れない考え方が徹底的に撲滅されてしまった明治後半以後には、そのような思想の流れ(たとえば福沢諭吉の慶応義塾に発した非勤皇主義の共和主義思想=引用者註)がかつて存在したという記憶さえ人工的に消し去られ……。


 家永三郎がその「天皇制批判の伝統」(『歴史家のみた日本文化』所収)でのべているような状態が、沖縄の国民意識の形成と持続の中で、いま進行しつつあるとみることができるわけであり、これはきわめて憂慮すべきことだと思う。その状態は、アメリカ軍事占領支配下の戦後沖縄で、母なる日本を幻想する「祖国復帰」運動の中で、さらに決定的に、その運動自体によって、人工的に培養されてきたことを、わたしたちは苦渋と痛苦のうちに確認することができる。たとえば吉本がいうところの、天皇(制)に支えられた日本歴史の優位性を分断する「遺制」が、もっとも色濃く残存している地域である八重山の石垣島で、「72年沖縄返還」の伏線としてなされた佐藤首相の来島(1965年8月)を、盛大に日の丸で迎え、送ったあと、島の指導的地位にあるおおくの人びとがつぎのように話し合っていたことをわたしは確認している。
 「石垣島をこのように日の丸で包むのは、これからあと考えられない。おそらくただ一つの例外として考えられるのは、天皇陛下か皇太子殿下が御来島された場合であろう。陛下の御来島は御年の関係でのぞめないから、皇太子と美智子妃殿下をお迎えするように、みんなで考えたいものだ」と。
 明治の琉球処分をめぐって、清国政府からの抗議にあった明治政府が、日清通商条約の改約と引き換えに宮古、八重山を清国に分譲するという「分島条約」を提案した歴史事実はよく知られている。これは清国皇帝の裁可を得るのみという段階までいきながら清国の対内対外情勢によって自然消滅したが、もし議定通りの条約が成立しておれば、八重山の人びとはもちろん清国国民となり、今日では台湾政府のもとにあって、「皇太子殿下をお迎えしたい」という意識など、カケラほども持ち合わさなかっただろうことは疑えない。
 1879年(明治12)年の琉球処分のあと僅々100年足らずのうちに完全に天皇(制)思想に染め上げられた姿をそこにみることができるし、それだけに上からの皇民化政策の強さに対応する下からの同化志向が、いかに激しく沖縄人の中でなされてきたかを知ることができる。いうまでもなく天皇(制)思想の本質は、「天皇の権威はもちろん、天皇の存在自体といえども必ずしも天皇制の本質ではないのであって、天皇制的な人間の結びつき方、そこに天皇制の本質があるのであろう」(家永・前掲論文)という命題に示されているように、それはそれを支えてきた人びとの意識構造の問題として把握されなければならない重要な側面をもっている。
 家永の思想を深く知るわけでもないからその思想の全べてを肯定する事も否定することもわたしにはできないわけだが、少くとも家永が「天皇制の基礎が、天皇の存在自体よりも根深いものであるということは、天皇制的人間関係が、およそ皇室とは縁のない、いたるところに現象する点からも理解できる。それはときには、天皇制に反逆する人々の間にさえ現象していない、とは言い切れないのである。天皇制否定をスローガンとする政党に天皇制的な傾向がなかった、とはたして断言できるだろうか」(前掲論文)と指摘する限りにおいて、それは天皇制思想の沖縄における今日的発現形態としての日本同化志向、すなわち「復帰」思想を破砕するのに、一つの確かな視点をわたしたちに与えてくれるものだと思う。
 ところで、わたしがくりかえし日本同化志向=「復帰」思想の超克をいい、日本相対化のために、日本と沖縄の異質性=「異族」性を強調することに対して、これを日本ナショナリズムの裏返しとしての、しかもそれを沖縄ナショナリズムに矮小化したところの、琉球独立論の思想系列と、同一視される危険があるように思われる。沖縄が歴史的、地理的に所有した日本との異質性と「異族」性をもって、日本を相対化する思想が、退嬰的に開花する時、それはいわゆる琉球ナショナリズムの顕現として琉球独立論に結びつくことはいうまでもなく、すでに琉球政府文化財保護委員長を勤めたことのある山里永吉や同じく文化財保護委員会専門委員であった真栄田義見らが「沖縄人の沖縄」を主張することで、かつての琉球王国の再現を夢みる言動を展開させていたのがそれだ。それは今日の時点でいえば、敗戦後アメリカ軍事占領下の一国的な社会形態の中で、その存立を保証されてきた政治的、経済的な諸機構と基盤を温存する目的に結びつくもので、政治的、社会的には昨年11月の日米首脳会談を前に顕在化した「琉球議会」「沖縄人の沖縄をつくる会」の理念と行動になってあらわれていた。
 その運動についてわたしは、「アメリカ軍事占領支配の植民地的状況における一国経済的な保護の中で、経済的自立を保証されたグループが、その既得権の温存を図るために、日本が沖縄に対して押しつけつづけた『差別』と『収奪』の歴史に対する住民の素朴な心情的怨念をくすぐりつつ運動の組織化をねらったものである。(しかし「72年返還」を日米支配層が合意すると、その既得権を守るためにマイナスとなるその運動は、雲散霧消してしまう必然性があり)、……恐らくかつての軍国日本で、より狂信的な国粋主義者だったものが、敗戦後いち早くアメリカ一辺倒の親米派になったごとく、その本質的な体制依存の体質は、『返還』という名前のバスに乗りおくれないために、もっとも忠誠な体制者となることが十分に予想される」(70年1月6日、沖縄タイムス)と書いたことがあるが、その予想は的中した。たとえば日本政府総理府長官に鹿児島出身の山中貞則が就き、「薩州300年にわたる琉球支配を懺悔」して沖縄のために働きたい、と発言することで沖縄人の被差別感=被害者意識に根ざした日本への不信感と拒否反応を慰撫しつつ、沖縄援助費の予算獲得で実力者ぶりをみせると、つい2、3ヶ月前まで「沖縄人の沖縄をつくる会」などに名を連ねていた実業家たちが、自ずからの企業利益を守るためにすかさず「中山長官後援会」をつくるのに血道をあげ、早くも次期内閣改造での留任を運動するなど日本政府密着の姿勢を表明してさきほどの独立論的な言辞はカケラほども見せないという豹変ぶりをみせたものだ。
 わたしのいう、日本相対化のための沖縄の異質性=異族性の主張が、それらの人びとにみられた退行的な独立論発想の琉球ナショナリズムと無縁であることはいうまでもない。それは〈国家としての日本〉を破砕するための思想的拠点として、――つまり現在の国家体制(日米安保体制に支えられた)を成り立たせるために不可欠の要件となっている沖縄の存在の内側から、〈国家としての日本〉を突き刺し、その国家体制を破砕するエネルギーを噴出させていくために、日本との決定的な異質性=異族性をつき出していくことによって同化思想で培養される国家幻想を打ちすえるという意味においていっているのである。しかも沖縄は、その歴史的、地理的条件によって、日本列島国家の中にあって、右のような可能性を所有している唯一の地域として稀有の幸運を所有している、ということなのである。その意味においていまわたしたち沖縄人が課されていることは、すべての日本同化志向、〈国家としての日本〉に寄せる「復帰」の思想=忠誠意識を、沖縄が歴史的、地理的に所有してきた異質性=「異族」性によって扼殺する作業を、思想運動(闘争)としてはじめなければならぬということだ。
 わたしたちにとって〈国家〉とは何であるのか。それはたとえば、かつて沖縄に差別と収奪を強い、太平洋戦争末期に未曾有の惨禍を沖縄に強制した天皇制絶対主義国家だといわれるのが一般なのだけど、あるいは戦後、みずからの「独立」と「経済的繁栄」とを引きかえに、沖縄をアメリカ帝国主義の極東侵略拠点として、アメリカ軍事占領支配のもとに委ねた日本国というのが常であるわけだが、それでもなお、民衆のひとりとしてのわたしたちは、〈国家〉それ自体を具体としてみずからの肌に知覚することはできない。それは〈国家〉が、「たんに被支配階級を支配し、抑圧するための実体的な政治機構であるにとどまら」ず、「それは実体的な抑圧機構であると同時に、人間の存在全体に意味づけと方向づけを付与する価値体系であり、人間の思考や情緒、行動のすべてを規制する存在様式でさえある」(大沢正道『反国家と自由の思想』)と考えられる以上、けだし当然のことといわなければならない。
 そのような〈国家〉、〈国家としての日本〉を破砕するのに、わたしたちはまず〈国家〉それ自体を、みずからの射程の中で明確な映像を結ぶ一つの具体として引き据えることを迫られるが、その作業は何によって可能となるのだろうか。
 とりもなおさず、これまでくりかえしのべてきたように、沖縄が歴史的、地理的に所有してきた日本との異質性=「異族」性を、際限もなく日本に突きつけてゆくことによってそれは可能性を持ちはじめる。つまり、日本との決定的な異質性=「異族」性を無限に沖縄から突き出してゆくとき、〈国家〉という実体的な抑圧機構であると同時に、人間の存在全体を規定する正体不明の魔性の怪物は、相対化された具体として、はじめてわたしたちの意識の中で映像を結びはじめるのである。
 その時わたしたちは、はじめて〈国家〉、〈国家としての日本〉を、思想的にだけでなく、生活感覚的にもはっきりとこれを相対化し、〈国家〉のもつ価値体系、それに対応してわたしたちを規定する価値観の呪縛からみずからを解き放つことができ、わたしたち沖縄人の前に〈国家としての日本〉は、否定すべき具体としてその姿をあらわしてくるのである。
 〈国家〉がわたしたちにとって、否定すべき具体として知覚されるのは、まさにその時であり、わたしたちの存在(沖縄の存在)は、そこで〈国家としての日本〉にとって、深くその体内に射込まれた毒矢となり、きわめて悪性な腫瘤となるだろう。あたかも壊疸のように、〈国家としての日本〉を内側から腐蝕し、これを爆破する可能性を持つ地域となるだろう。さきにのべたように、沖縄の歴史的地理的の条件は、このために、日本の他の地域にもまして得難い存在としての幸運を、沖縄に所有させているのだが、これを左右を問わず「復帰」思想=日本同化志向で、無毒化≠キることは、到底許せることではないということである。
 その意味では、歴然とした体制者の思想と行動は「敵」としての姿が明確であるだけに問題はないが、たとえば「核も基地もない沖縄の完全復帰」による「平和日本の建設」という大義名分を掲げて、日本ナショナリズムの中に、沖縄の持つそのような可能性を溶解し、無毒化することを、「たたかい」の名において推しすすめる「革新」の相貌をもつ擬制の思想と運動を、わたしたちはもっとも注意深く警戒し、これを破砕していくことによって、沖縄の思想的可能性を育てたいと思う。
 過去25年の帝国主義アメリカにかわって、いま再び日本とその国家権力は、政治的にも経済的にも沖縄(人)を蹂躙することで、アジアにおける帝国主義的侵略者として肥大化することが、予見されるが、あえて逆説的にいえば、その足場としての沖縄におけるその蹂躙が、より徹底的であることがのぞましいほどである。そこにたとえば、日本志向の「復帰」思想で、「平和日本の建設」をたたかいとり得るというごとき虚妄の幻想を撒布しつづける、いわゆる「革新」勢力が一定の勢力を持ち、現在時の屋良「革新」政府のごとく、あるいはそれをそれぞれの党派的エゴイズムに根ざした打算をもって支える「革新共闘会議」のように、「革新」の相貌をもって沖縄のたたかいを体制内化する存在が存在しつづけるということは、たたかいを歪曲し、鈍磨させる緩衝器として機能しつづけるのみであるからだ。
 国家権力とその走狗たちによる、政治的、経済的な圧倒的な専横と蹂躙による沖縄に対する新しい形での徹底的な収奪と抑圧は、沖縄(人)を再び破滅的な被抑圧者として苦渋と悲惨の底に突き落し、呻吟させることだろう。しかしその時こそ沖縄(人)が、こんどこそ〈国家としての日本〉の、国家権力それ自体のすさまじく冷酷な本性をいや応なく知覚させられるにちがいない。単にその国家権力を支える独占資本のそれだけでなく、どのような形にせよ国家権力それ自体の、苛烈な本性を、生活感覚的にも知覚させられるにちがいない。沖縄(人)はその時、ようやくその意識の基層を規定している「日本」に対する決定的な異質感を、実感として甦らせ、みずからをそこに落し込めた日本志向の「復帰」思想の欺瞞性と反人民性、具体的に気づくことを期待するほかはないのである。
 その時、沖縄(人)が、〈国家としての日本〉に対して、本当の意味でのたたかいに目覚めざるを得ない状況の到来を意味するし、被抑圧の歴史を歩みつづけた沖縄(人)が、〈国家〉に対する執拗な加害者としてみずからを転化させ得る時もである。沖縄(人)がこのようにいま再び、みずからが幻想した「母なる祖国」の徹底的な蹂躙と抑圧に身をさらすという、地獄の底に身を落すことによってしか、みずから歴史的に所有してきたたたかいの本来的な可能性を、みずからの手に取り戻すことができないとすれば、思えば愚かしくも悲しいことである。
 しかもその時、当然のこととして政治的にも経済的にも、もろもろの痛苦と果てしない混乱が沖縄(人)のたたかう部分に招来されることだろう。
 が、その痛苦と混乱の中で、「革新」の面相をもって沖縄(人)のたたかいの可能性を、〈国家としての日本〉に埋没させてきた擬制たちの仮面は容赦なく剥ぎ落され、言葉の正しい意味における「変革」の担い手たち――いうまでもなくそれは日本との決定的な異質感に立つ無告の民衆たちなのだが――は、混乱と痛苦の中からその真実の姿をあらわしてくるにちがいない。


追記(一)本稿を書き終えてから、沖縄歴史研究会による共同研究『沖縄の歴史と民衆』が刊行され、同書で仲地哲夫が「伊波普猷論党書」を発表しているのを読んだ。それはこれまで伊波普猷に関してなされたいくつかの論考を整理分析しつつ、とくに伊波の否定的側面について述べたものである。まことに軽率なことながら、わたしは伊波について仲地が引用紹介しているほどの論考があることを知らなかった。それらを踏まえた上でなされた仲地の論文は、いうならば現在の沖縄近代史研究のレベルを示すものと考えられるわけだが、残念ながらわたしはそれによって本稿で触れた伊波普猷に関する考察に、とくに附加すべきものを見出すことはできなかった。むしろ伊波の「沖縄学」と、いわゆる天皇制国家形成=沖縄近代化の過程とのかかわりについての考察には物足りなさを覚えたほどであった。あるいは、伊波と対比して称揚される謝花昇の民権運動のとらえ方についても同様であった。これらについてはいずれ機会をあらためて書きたいと思う。
  (二)本稿の中で、屋良「革新」政府の非革新性=体制癒着性=反人民性について、具体的にこれを論証するには時間的にも紙幅の面でも余裕がなかった。脱稿後、この点についての論証をこころみた仲宗根勇の「変革の核としての沖縄」(『現代の眼』45年7月号)を読んだが、これは現在わたしたちが持ち得たもっとも確かな論考といえる。わたしが論及できなかったその部分を補う意味で併読してもらえればと思う。同論文でもいっているように、屋良「革新」政府とこれを支える「革新」諸政党・団体の擬似革新性に対する認識――それらに対する不信と絶望が根強く拡がりつつあり、それは体制変革のバネになる大衆反乱型の民衆運動を生み出す基盤として存在しているのだが、具体的な運動(闘争)として噴出するまでには至っていない。その限りでは、拡がりつつある不信と絶望をも、まだ政治的にも思想的にも力とはなり得ないが、こんごそれが内発的に噴出する契機は、沖縄に軍事基地が存在する限り、たえず在りつづけることは確かなことである。あるいは「返還」実現後、おそらく急速に「復帰」思想に根ざした運動が内在させた欺瞞性に目醒める中で、それは噴出をはじめるかも知れない。いずれにせよその点に、わたしも含めて沖縄(人)に問われている課題があることはまちがいない。
  (三)「72年沖縄返還合意」を契機にして新しい展開をみせた状況に対して沖縄が当面している問題について、わたしの勤め先の新聞社では「沖縄と70年代」と題するキャンペーンをおこなった。そこでわたしが執筆した部分と本稿の記述のあいだに部分的に若干の重複があるが、それは現在のわたしが関心を集中させているテーマの範囲からして避けることができないものであった。特に記して大方の了解を得たいと思う。



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