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仲里効 [1972オキナワ 映像と記憶]


 未来社発行の『未来』に2004年5月1日(452)より隔月で連載されたもの。いわば「琉球電影列伝」の続編でもある。彼自身の言葉を借りれば「映像をテキストにしながら僕の『1972年論』というべきものを展開していくつもりです。」

「仲里効の仕事」

<1>回帰する声、転位のトポス(『未来』452/未来社2004.05.01)
<2>「フィフィ」と「火」の精神譜(『未来』454/未来社2004.07.01)
<3>〈エネミー〉の考古学(『未来』456/未来社2004.09.01)
<4>反乱する皮膚(『未来』459/未来社2004.12.01)

<5>明るすぎる喪の風景(『未来』461/未来社2005.02.01)
<6>巡礼と朱の×印(『未来』461/未来社2005.06.01)
<7>漂流と迂回、あるいは始まりにむかっての旅(『未来』467/未来社2005.08.01)
<8>言葉が法廷に立つ時(『未来』469/未来社2005.06.01)
<9>死に至る共同体(『未来』471/未来社2005.12.01)
<10>エディポスたちはオナリの夢をみたか(『未来』473/未来社2006.2.01)
<11>コマ虫たちの叛乱(『未来』476/未来社2006.5.01)
<12>繁茂する群島(『未来』478/未来社2006.7.01)

<12>繁茂する群島
 高嶺剛の「日本映画」の括りには収まらない、独特な映像の魅力に最初に着目したのは松田政男ではなかっただろうか。その松田が高嶺剛の映画と初めて出会ったのが、寺山修司が主宰していた東京・渋谷の天井桟敷館のシネマテークであったという。当日の上映開始時の観客席には松田ただ一人しかいなかったことが強烈な印象として残ったことを語っていた。だが何よりも、松田の魂を揺さぶったのは、その時みた『サシングァー』(1972年)と完成したばかりの『ウチナー・イミ・ムヌガタイ』(75年)の二本の作品であった。『ウチナー・イミ・ムヌガタイ』についてこんなふうに書いていた。

 やがて「沖縄夢物語(オキナワン・ドリーム・ショー)」と別称されることになる『ウチナー・イミ・ムヌガタイ』は、高嶺剛が『サシングァー』で内側へ向けた視線を外側へと解き放って、72年の本土復帰後の沖縄の風景をひたすら凝視しつづけた三時間有余の大作であった。いや、正確には高嶺剛は「風景」を凝視しつつ「風景の死臭」をこそかぎ取ろうとしたと言うべきで、ゆったりとしたカメラワークによる8ミリ映画は本土の映画人によるステレオタイプな沖縄の風景とは無縁にまさしく異貌の沖縄をのみ現前させつづけたのだ。
(「映画作家としての高嶺剛」「沖縄タイムス」1989年10月14日)
 決定的なことがいわれている、と思う。「「風景」を凝視しつつ「風景の死臭」をこそかぎ取ろうとした」こと、そして「異貌の沖縄をのみ現前させつづけた」ということである。『オキナワン・ドリーム・ショー』について何ごとかを語ろうとする時、松田政男のこの言葉が映画の核心部分に触れているだけに、語り手は容易にはその言葉の強度から逃れられないことを思い知らされる。
 『オキナワン・ドリーム・ショー』は、沖縄の「日本復帰」を挟んで1971年から74年まで、那覇、コザ、糸満、石垣などで撮影された。スタッフは撮影の高嶺と録音を担当したタルガニのたった二人だけである。ホンダのナナハンにまたがり、東と西とかの方角だけ定め、あとは行き当たりばったりで気にいった風景を撮影していったという。撮りためた15時間の8ミリフィルムを三時間にまとめたロードムービーである。この映画は高嶺自身もいうように、沖縄の風景そのものでつづられた「風景映画」である、とひとまずはいうことができる。 
 だが、ここで「風景」というとき、それはどのような内容において語られているのだろうか。高嶺において「風景」とは、沖縄の何かを象徴したりする政治的なものには決して還元されない(例えば、基地、青い海、市場であったりと象徴化されやすい風景)、ごくありふれた日常の時間帯から掬い取ったものである。風景に「核を持たせない、へそを持たせない、総称としてのそれではなく個人のまなざし」を据え、その「個人のまなざしをきっかけにして風景の等価性に切り込んでいく」(「高嶺剛−琉球・映画――ウヌガタイ」『高嶺剛映画個展カタログ』所収、1992年)ことになる。
 この「個人のまなざし」と「風景の等価性」という言い方こそ、高嶺の視点と方法の掛け値のない特徴であるといえようが、そこには、沖縄を巡る表象の政治が意識されていることを考えるとき、より生々しい意志の存在を知らされる。つまり、こういうことである。この映画が撮られた時期は、「沖縄返還・日本復帰」をめぐる転形期の沖縄が状況の先端にせりあがってきたこと、そしてその状況の尖端の熱に誘われるように多くの眼差しが沖縄に向けられ、ドキュメンタリーや劇映画が量産された。しかしそれらのほとんどは、ごく一部の例外を除き「象徴化された沖縄」でしかなかった。表象されたおびただしい映像の集積、それらは沖縄の日常や個人の眼差しと無縁なところで撮られたものであった。
 こうした沖縄表象に高嶺はじゅうぶんうんざりしていた。だからこそ「ごく普通の日常」といい、「個人のまなざし」をいい、核を持たせない「風景の等価性」をいう。それはまた 「日本復帰で燃えるなか「撮られる島」から「自ら語る島」へ」(「EDGE」第4号)という視線の政治を転位させるべく意思的な作業でもあったことを忘れてはならないだろう。沖縄は、圧倒的に「撮られる島」であり続けてきたのだ。そこには沖縄を巡る植民地主義的な視線の占有があった。「個人のまなざし」や「風景の等価性」とは、こうした占有された視線からする<表象>に抗い、「自ら語る島」のための風景そのものの叙述のありかたへの転回だとみなすべきであろう。
 ここで、いま少し高嶺の方法につきあってみたい。同じところで高嶺は、時々酒を飲みながらたった二人だけのスタッフミーティングで「映画の行い」について真剣に話し合ったことを紹介していた。その映画談義のなかからいくつか拾ってみると「風景を映画の目的で一方的に決めつけたり、理屈で考えすぎない」「カメラや録音機は、その風景固有の雰囲気を吸収する道具」「自分を放棄して、日本復帰運動に便乗し、その象徴としての風景を撮らない・撮らされない」「自分のまなざしをたかめる努力をすることを馬鹿にしない」「家族や友人知人、一見なんでもないような日常的風景でも、そんなものは映画にならない、と決めつけない」などなどである。これはまさしく「個人のまなざし」とか「象徴化されない風景」とか「風景に核をつけない」という言葉と対応するものであり、また「撮られる島」から「自ら語る島」への視線の政治を転倒させるための方法が、衒いのない言葉で言い当てられている。  
 『オキナワン・ドリーム・ショー』は、いわば、象徴化による沖縄を表象することから遠く離れて、ただひたすらに風景そのものの細部を現前化させる試みでもあるといえよう。この風景の細部の現前化においてはじめて「自ら語る島」がリアルを獲得する。そのために風景は凝視されなければならない。凝視するためにはカメラワークが選び取られる。スローモーションとワンカットワンシーンはその方法的選択なのだ。36コマのスローモーションとカットを割らない50フィートカートリッジまるまる一個分の長回し・パーンやズームをしない固定カメラという方法である。このカメラによる叙述のスタイルは視線に強く働きかける。映し出された弱スローモーションの映像は、一種独特な時間体験に誘うはずだ。スクリーンの現実は、実際の時間を緩やかに引き伸ばし、差延化された時間のなかで人物やデキゴトが細部を開いていくのである。スローモーションとは、差異化された時間による視線の呈示の形式といえまいか。
 36コマのスローモーションとワンカットワンシーンによって見る者に手渡されるのは、運動性である。見ることの審級である。そしてその見ることの審級においてはじめて風景に視覚以外の感覚が持ち込まれるのである。「風景」は<表象>されるものとしてあるのでなく、ただ<現前>として私たちの視線の前に到来する。
 例えば、この映画の最初のシーンとして呈示された高嶺の実家の近くの路地と三叉路の場面は「個人のまなざし」や「核をもたせないごくありふれた日常の風景」が、<表象>としてではなく、まぎれもない<現前>として目の前を横切っていく様相をまざまざと見せつけられるはずだ。36コマのフィルムの運動によって運ばれていくのはその路地を日々利用する老若男女であり、車であり、バス停でバスを待つ人々であり、那覇やコザの通りを往来する歩行者である。路上の日常がパーンやズームのない固定カメラでしずかに、だが揺るぎない視線でまなざされる。私たちがこの映像から経験させられるのは、風景の<現前>と<凝視>ということである。この現前と凝視によって、風景の細部が見るものの視線に自らを開くのである。
 ところで、これらの風景の連なりを見ていると、あるところである対象への強いこだわりに気づかされる。こんなシーンである。まるで黙劇のように同じ仕草を繰り返す精神に失調をきたした男、車の往来の激しい昼間の大通りを、裸足で歩く日に焼けた褐色の髪の男、あるいはコザ職業安定所の建物の前を、雨靴を履き米軍払い下げのHBT服で、自動機械のように行ったり来たりしている初老の男、さらに片足だけスリッパを履き、もう片方は裸足で長い間櫛を入れられることはなかったであろう荒れた髪の女などを撮ったシーンである。これらの男や女たちは、心の失調で現実の生活のリズムに乗り遅れたアウトサイドの住人ということになるが、高嶺はここでこんなことをいっているのだと、私には思える。つまり、風景が等価であると同様に、写し込まれたヒトやモノは風景のなかで等価である、と。
 とはいえ、この映像からもうひとつ別な呈示を読むことも可能である。なぜなら、アウトサイドに生きる人々は、日常を異化しもしているからである。日常を異化する男や女に、島成郎が「沖縄の精神病院」で指摘した、「日本復帰によって開かれた新しい頁の無惨」をみても決してオーバーではないはずだ。島は巨大な米軍基地や沖縄社会の軍事的な植民地としての構造的なゆがみに手をつけない「日本復帰」がもたらした変貌の闇に目を凝らし、観光開発による自然破壊、少年犯罪や自殺やアルコール依存、精神の病などを内側から言い当てていた。高嶺剛のカメラによって凝視されたあの風景の中の男や女は、「日本復帰」によって開かれた新しいページの無惨であり、変貌の闇に住む住人なのかもしれない。これらの映像は、沖縄を巡るいかなる象徴化によっても掬い取れない歴史のシワが書き込まれている。「風景の中に人間も政治も含まれている」ということの意味を納得させられる。
 そして、高嶺がいう<風景の中の政治>が意外なところからさり気なく呈示される。それは時を告げる声によってである。正確にいえば、挿入されたラジオ番組の状況音としての引用によってである。沖縄の人々から親しまれ、長寿番組としていまなお続けられている「民謡で今日拝なびら」の男女のパーソナリティーが、男の沖縄語と女の日本語で「ゆまんぎのアコークロー(夕暮れ時)」談義をひとしきりやったあと、ロックフェスティバルのコマーシャルが挿入されるところである。それは「73年第7回ロックフェスティバルが恩納村日航オーシャンパーク万座ビーチで、9月30日お昼12時から、バンドは沖縄で最高の人気をもつ寿、スピリットエンドのみなさん」と案内し、それから「3時半です」と時を告げる。たしかに往来する車がまだ右側通行であること、そして星条旗と日の丸がフェンスのなかで翻っている光景から、映画が撮られたのは復帰を挟む時期であることが分かるにしても、この風景の中に侵入してきた声によって時を告げられるとき、しかもロックフェスティバルが大手航空会社の私有ビーチであることを知るとき、別な意味で「日本復帰によって開かれた新しい頁の無惨さ」を気づかせもする。
 ところで、松田政男が高嶺映画に鋭く感じ取った「風景を凝視しつつ、風景の死臭を嗅ぎ取る」という評言を先に見てきたが、高嶺自身も「風景の死臭」について幾度か触れていた。が、その前になぜ『オキナワン・ドリーム・ショー』が「風景映画」でならなければならなかったかが明らかにされなければならないだろう。
 このことについて、高嶺は留学先の、それこそ日本の塊みたいな京都の風景にリアリティーを感じることができず、「留学」という合法的な家出を果たしたものの、足元がおぼつかない少年は、アイデンティティに悩むところから「沖縄の風景」がにわかに存在感を増してくることになった。「沖縄の風景を見る」こと、あるいは「沖縄の風景と対峙」することは、また高嶺が映画を自覚していくことの始まりにもなった。
 ただほんとうの問題はその先にあった。「僕は風景を見ているうちに傍観者ではなく、8ミリカメラで風景の死臭を嗅ぎ取っていきたいということを思ったんですよ。確かに8ミリフィルムはビジュアルなんだけど、見ることによってそこから匂いを嗅ぎ取っていきたいと。」(「日本のドキュメンタリー作家インタビュー 高嶺剛/聞き手:仲里効」「DOCUMENTARY BOX」22号、2003年10月)と語っていた。そして「風景の死臭」というときのその「死臭」を、沖縄戦との関連で述べていた。沖縄の土地は死体でおおわれていたこと、死は普通の風景のなかにあり、死者のマブイ(魂)が整理されずにさまよっていると思ったこと、などを指摘しつつ「そういったものを含めて、まるごとの風景をカメラで吸い取りたいと思ったわけね。だから僕はあの時映画キャメラは掃除機、みたいなものだと思ったの」とつづけていた。風景をカメラで吸い取る。だからカメラは掃除機だ、といった映画作家は果たして高嶺の前にいただろうか。吸い取ることが凝視することと決して矛盾していないことをわたしたちは納得させられるだろう。
 日本の塊のような京都で足元がおぼつかないアイデンティティの悩みから沖縄の風景に向かうわけであるが、その「風景」のなかに「死」の遍在を嗅ぎ取ったということである。ここにこの映画の特異な位相があるように思える。注目したいのは、風景を「凝視する」ことが匂いを「嗅ぎ取る」ことにもなるということである。これは矛盾というよりはむしろ、視ることを深くすることによって招き寄せた両義性というべきで、こうした両義性にこそ、リアルは住んでいるということをこの映画は伝えている。
 そして、この映画が映画として成立したあとのひとつのデキゴトについて触れなければならないだろう。当初、高嶺は方法だけ決めて作品にしようとは思わなかったことを告白していた。作りこむというよりは風景を見ることに関心の比重を置いていたのだ。だが、作品にしようと思ったきっかけは、撮影を開始してから4年目のジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』との出会いであり、もう一つは父の死であった。
 『リトアニアへの旅の追憶』は、ナチの迫害から逃れてアメリカに亡命したメカスが二十数年ぶりに故郷リトアニアに残した母親との再会を果たす旅を描いたプライベートフィルムであるが、決して映画会社からは生まれてこない、映画の約束事から解き放たれたこの映画に触発され、作品化に赴く。「生まれた家の柱一本さわりに行くとこだって映画になる」という言い方をしていた。メカス映画があれば高嶺映画だってあっていい、と思い至るのである。そのとき集積されたフィルムから物語の輪郭が立ち上がってくるのを自覚したはずである。そして、一つの場所が召還される。その場所とは、亡き父が生まれ育ったところであり、また高嶺自身の生誕の地でもあった。石垣市川平の生家を訪ね、親族や川平の自然をホームムービー風に撮影する。こうして再帰された場所によって、<脱出と帰還>の物語がその形を成す。
 この最後の生家を撮った映像は、それまでの固定カメラで、パーンやズームなしのワンカットワンシーンとは異なり、手持ちで動きながら撮影している。この手持ちで移動するカメラワークから高嶺の生々しい息遣いと心の揺れが伝わってくるのが強く印象に残る。
 川平集落に入る最初のシーンはこうなっている。街路樹の濃い影が落ちているサンゴ石灰石を砕いて敷きつめたと思われる白くまばゆい道を、歩きながらなぞっていく。「トバラーマ」の曲がゆっくりと流れるなか、歩行の揺れのぶん手持ちのカメラも揺れる。やがて、乾いた砂埃を浴びた葉叢の切れ目から青い空が見え、海の気配を感じ取ると、カメラは何かにせきたてられるように左右に大きく揺れる。風景も不安定に揺れる。それから川平湾が広がり、眠る人と斜光の中に顔をだした漆黒の牛が夢幻のように現われる。
 この終わりの始まりのシーンは、映画の物語が立ち上がったシーンということだけではなく、高嶺がこの世に生を授かった場所、つまり原景のなかに入っていく時の心の鼓動を鮮やかに伝えてもいる。そしてホームムービー風に親族の表情や手工業の名残をとどめている酒造所の内部が映し込まれていく。ここにあるのは映画によってしか成し得ない追憶の形であり、それ以上にノスタルジアを越えた肯定する力の働きである、といえよう。とりわけ植物たちを撮ったところなどは慈しむような視線が向けられている。
 ここにおいて、それまでの<凝視>する姿勢から風景の中に入るというカメラの文体の変化を伝えている。カメラはたしかに原景は存在する、ということを呈示していた。そして私たちは、高嶺の那覇市楚辺の実家の路地のはじまりの光景を思い起こすとき、この映画が失われた時を求める、追憶の記録であることに改めて気づかされるだろう。育ちの家から生まれの家への旅によって、ロードムービーとして形を成す。映画が「風景を凝視しつつ、風景の死臭を嗅ぎ取る」稀有な叙述であると同時に、亡き父の生を彩った風景へのオマージュでもあったのである。<死>は二重の意味を帯びるはずだ。
 私は、カリブ海に浮かぶフランスの植民地マルチニックの詩人エメ・セゼールの「帰郷ノート」のなかを横切っていく声や視線の力を『オキナワン・ドリーム・ショー』の風景の<現前>に見る。言語の実践と映像の実践の違いはあれ、そこに深い響き合いを感じさせられるのである。『オキナワン・ドリーム・ショー』はまた、まぎれもない、日米の合作としての植民地沖縄に出自をもった戦後世代の映画によって実践された<帰郷ノート>でもあった。<帰郷ノート>をもつことで群島は物語を繁茂させる。高嶺剛の個人のまなざしからする記憶の旅は、群島が自ら語るための文体を、ただひたすらに風景を凝視することによって獲得した稀有な作品であることに間違いはない。

<11>コマ虫たちの叛乱
 沖縄の風景を独特なカメラワークで疑視した『オキナワンドリームショー』の後、高嶺剛は『オキナワンチルダイ』にとりかかる。1976年夏からロケーションに入り、予定では半年で仕上げるつもりだったらしいが、決定稿がなかったことや変則的なスタッフの組み方、低予算などが重なりとうとう二年もかけることになったという。しかし、こうした事情があったにしても、『オキナワンチルダイ』は高嶺剛の映画にとって<その前>と<その後>を考える上で無視できない作品になっていることは間違いない。高嶺自身も「ドキュ・ドラマ」というように、ドキュメンタリーとドラマを同在させたものであるが、同時にまたドキュメンタリーから劇映画へ移行する中継点となった作品にもなっていて、高嶺の方法とサーガの原像のようなものが散りばめられている。
 こういうことがいえる。この映画のもつ個性は単なる技法上の問題にのみ限定されるものではない。一見実験的ともみえる試みを理解するには、この映画が生まれた70年代半ばから後半にかけての沖縄の状況を無視することはできないだろう。つまり、ドキュメンタリーとドラマを繋ぐ節目節目でキーワードのように「沖縄はニッポンかね? チルダイがなくなればニッポンだ」というコミカルな問答の反復は、72年の「日本復帰」とその後に沖縄が辿らされている転形期に対する高嶺の反語の意味を抜きにしては語れないということである。
 では、この映画がつくられた76年から78年とは、沖縄にとってどのような時代だったのだろうか。一言でいえば「復帰」という名の併合を遂行するために仕込まれた「華々しき宴」の後の幻滅に包み込まれていた、といってもよいだろう。沖縄の施政権返還を全国民が祝い、沖縄に対する理解を深めるとともに、遅れた社会基盤を整備することを主なねらいとして行なわれた「復帰記念植樹祭」(72年11月)、「沖縄特別国民体育大会(若夏国体)」(73年5月)、そして「沖縄国際海洋博覧会」(75年7月−76年1月)は、<復帰三大事業>などといわれ、沖縄がニッポンとなるための祝祭的なイニシエーションのような意味を帯びていた。しかしながら、その実態は植樹祭への天皇・皇后の出席や若夏国体への自衛隊参加によって、沖縄の人々の天皇制と軍隊への根強い忌避意識を宣撫するねらいがあったし、「沖縄観光の起爆剤」という鳴り物入りで喧伝された海洋博は深刻な自然への暴力や企業倒産・失業などの社会不安をもたらすことになった。
 見逃せないのは、これらの事業が「復帰不安」の回収と沖縄の国民化という側面を強くもっていたということである。なかでも「沖縄国際海洋博覧会」は、沖縄の空間を改造/破壊し、風景を一変させ、基地沖縄からリゾート沖縄(その内実は基地沖縄を隠しつつ、観光沖縄を前景化するもの)へと沖縄イメージを書き換えることを国民の物語として演出したことである。その延長に、一体化・画一化の制度的仕上げとして強行されたのが「交通処分」ともいわれた78年7月30日の交通方法変更(車両の右側通行を左側通行に)であった。
 『オキナワンチルダイ』がつくられたのは、こうした沖縄のナショナルヒストリーへの再配置としての「復帰プログラム」による劇的な変貌のただ中であり、沖縄イメージの商品化の端緒を開いた海洋博という華々しき宴の直後であった。宴の後に物語化されたトロピカルな沖縄イメージを消費するように大量の観光客が流れ込んでくるようになった。『オキナワンチルダイ』は、世替わりの政治の熱気から遠くはなれて、ただひたすらに沖縄の日常の風景を静かに凝視した『オキナワンドリームショー』とは対照的に、こうした時代への反語の毒が介在させられていた。
 そのことは「わが琉球の、神聖なるチルダイ/映画『オキナワンチルダイ』シナリオのための創作ノート」の冒頭に置かれた「小沢昭一氏への出演要請」にみることができる。ヤマトの大商社の使い走りのようなうだつの上がらない土地買い商人役は小沢昭一しかないという想定のもとに書かれた文である。
 ご存知のように日本復帰、そして琉球の大和化への一つのきっかけにしようとした海洋博を予想通りの不評の内に終わり、“さあ、沖縄はいよいよニッポンだ”と侵略者たちのざわめきと共にやってくる“素朴”な大和人〈ヤマトンチュ〉インスタントレジャー南国組が、ジャルのカバンを肩につるして、“失われたニッポンを求めて”とばかりに、互いに観光客にうんざりし合いながらも、ハードスケジュールをこなす季節が、ここ琉球の地にいよいよやってこようとしています。(中略)私達の前には、大和というものがあまりにも大きく立ちふさがっています。そこで思うに大和人は、琉球入りした場合は少なくとも「日本人宣言」をすべきではないでしょうか。お上のざわめきに便乗して“沖縄はパスポートも要らないし、便利になったワイ。どれ、一つ行ってみるか”では、あまりにも“素朴”すぎます。いや“ずる”すぎます。かって琉球人が日本入りした場合、強制的に“やらされた”様に、同様にとまではいかないかも知れませんが、“日本人宣言”をすべきです。/つきましては、誠に勝手なお願いですが、貴殿にあえてその悪役たる大和人の役で、今回の琉球映画への出演をお願い申し上げます。
(「青い海」54年、1976年)
 出演のお願いにしてはずいぶん挑発的な一文である。この「琉球映画制作集団・マルタカプロダクション」名で書かれた一文は、高嶺自身のものなのかは定かではないにしても、少なくとも「復帰に対するいらだたしさ」や「復帰の反語」という『オキナワンチルダイ』のモチーフが、有無をいわせない明快さで、大胆に語られている。ここにはだが、創作ノートのはじめに書き込まれた、高嶺自身の体験だと思われる「本土」での下宿先の善良な日本人人妻から「おきなわさーん」といわれたことからくる心的アイコンが伏線にあった。ちなみに「中略」としたところは、映画づくりにおいてヤマトやアメリカのエピゴーネンになることをいさぎよしとしない、琉球人自らの方法をもった琉球映画集団であることを闡明していた。高嶺にしてはめずらしいストレートな物言いは、これまで沖縄に向けられた視線の一方通行性と占有に向けられていた。沖縄を巡って撮られたドキュメンタリーや劇映画の類はそうした視線の占有を実証するものであり、そのことへの強い拒否が込められていたといえよう。「日本復帰」とは、一方通行の同一化のエコノミーであり、そのエコノミーを物語として消費するために都合良く沖縄を「他者化」する、二重の欺瞞がある。ここでの「他者化」とは自己像の変態なのだ。「失われたニッポン」とはそのような擬似他者化とナルシシズムの倒錯した投影でしかなかった。映像は視線の政治を表象していた。
 小沢昭一に宛てた「出演依頼」には、沖縄と日本の非対称性をはっきりさせようじゃないか、というメッセージが読み取れるはずである。そうした<非対称性>にもっとも意識的であった一人に写真家の中平卓馬がいた。1971年11月10日の沖縄返還協定批准阻止全島ゼネストにおいて一人の警察官が死亡したときに撮られた写真で「殺人罪」に問われたデッチアゲ裁判にかかわるようになった中平は、映像が国家レベルに問題にされるときの「客観性」や「合理性」を根底から問い、その幻想を解体するところまで突き詰めていくが、沖縄返還に近代の産物としてのカメラや写真の「客観性/合理性」が国家によって盗用されるメカニズムと同じものを鋭く見抜いていた。裁判闘争支援のためたびたび訪れるようになった沖縄は、自らの位置を否応なく問い、糺す。海洋博前年の74年に「解体列島」の中で書き継がれた沖縄レポートは、そんな写真家・中平卓馬の沖縄との出会いと沖縄によって試される自分の赤裸々な告白にもなっていた。

 彼ら(沖縄の人々)は「5・15沖縄返還」を第三の「琉球処分」と呼んだ。この言葉はいやおうなくヤマトンチューである私に、そしてヤマトンチューであるわれわれに耐えがたい沈黙を強いる。だが重要なことは、この「琉球処分」が決して1972年5月15日で終ったのではなく、今、現在われわれによって無意識裏においてこの「琉球処分」は行なわれつつある。

 私が訪れたNEW KOZAの廃墟には、壁一面に「ヤンキー帰れ」「沖縄万歳」という落書きと並んで「ヤマトンチュー一億せん滅」という落書きが大書されていた。それが政治的に正しいか否かはわからない。だがそれがたび重なる沖縄の「処分」「差別」に対する沖縄人のはげしい情念の噴出であることは疑いえない。


 いずれも「朝日ジャーナル」に連載された「<解体列島17>沖縄−−忘れられゆく基地の島」から拾ったものであるが、これは、高嶺剛が一人のアクターに宛てた「出演要請」のなかでスタンディングポジションをはっきりさせようじゃないかという呼びかけへのもっとも本質的な応答となっていることは間違いない。たとえ耐えがたい沈黙を強いたとしても、写真家は解体された沖縄の風景から吹き返してくる声に傾ける。中平卓馬が写し撮ったNEW KOZAの廃墟の壁には「大和人の代理支配を許すな!!」「沖縄に真の独立を」の文字も書き添えられていた。こうした「情念」の噴出に写真家はたじろぎつつも「沖縄−−「本土」。1974年・夏。私の一眼レフならぬ肉眼レフは、はたして沖縄の何をとらえたか」と自問する。中平はやがて急性アルコール中毒で意識不明に陥り、生死の境をさまようことになるが、このことは、廃墟の壁からの矢のような視線と叫びに決して無縁ではなかったはずである。いやそれどころか廃墟の壁の叫びこそ、写真家の存在を危機に陥れたものである。中原卓馬の<肉眼レフ>と高嶺剛の<反語>は「琉球処分」の非対称性においてV字型に鋭く出会っていた。
 『オキナワンチルダイ』は「沖縄の日常的な風景のばらまく毒のようなもの」を集めたモンタージュである。とはいっても肩肘張ったやりかたではなく、あくまでも衒いや構えを解いたプラズマのような場所から、陽炎のようにゆらめく風刺を文体にしている。
 こんなことをいっていた。「「チルダイ・聖なるけだるさ」をキーワードに、「琉球原人」「平和通り裏のイラブー事情」などが、映画の中で同居するという時空間軸、形式、方法が統一されることなく、短いシーンからなるオムニバス映画である」(「チルダイ賛歌」『新沖縄文学』第43号、1979年)。確かに、70年代後半の沖縄の混沌をそのまま映体にしたようなアナーキーな漂いを伝えている。自家製オプティカルプリンターを使ってコピーを重ね意識的に粒子を荒くしたハイキーな映像は、まるでコマ虫がうごめき叛乱するようなノイズ感を見る者の眼球に焼き付ける。
 私が注目したいところは「この映画の重要なテーマである地・血の匂いを獲得する(説明ではなく)ということのためにも、演技が必要なところは思いきって役者に演じてもらった」という時の、その「演技」である。いや、その「演技」によって獲得された「地・血の匂い」のビジョンであり、質である。というのは、映画で獲得された「地・血の匂い」は、一点に集中させるような父権的なあり方ではなく、むしろ散種的であり、物語の運動のヘゲモニーは游撃的である。これには風刺という方法が関与していることは疑い得ない。ドキュメンタリーとフィクションの混在や幾つものシーンの、統一を拒むオムニバスは、そうした映像の運動の散種性と游撃性を裏付けているはずだ。そしてオムニバスを連結する結界で「オキナワはニッポンなのか? チルダイがなくなればニッポンだ」がリフレーンされ、「第三次琉球処分」の問題性を召喚し、執ようにその意味を問う。
 「チルダイ」とは「芯がぬける」とか「いやになってしまう」とか「ぼんやりした状態」を意味するウチナーグチである。いわば、南国の非生産的怠惰現象ということになろうが、高嶺はそうしたネガティブな意味を付与された「チルダイ」を「ウチナーンチュが好むと好まざるにかかわらず、どうしても避けることの出来ない、沖縄の地・血に根ざした自然現象として、ひょっとしたら沖縄の体質そのもの」として発明し直す。「チルダイ」とは国民の物語には強制接収されない亜熱帯の余剰なのだ。つまり「チルダイ」とは、「沖縄の体質」にとどまらず、物語の父権性を換骨奪胎するヘテロジーニアスな映像の方法でもあるということだ。
 では、風刺とヘテロジーニアスな方法によって獲得された「沖縄の地・血の匂い」や「沖縄の日常的な風景のばらまく毒のようなもの」をいくつか挙げてみよう。まずは、平和通りの一角で、サングラスをかけた盲目の三線弾きがトゥンタッチーすがたで「PW無情」を歌い喜捨を乞うシーンである。固定カメラで撮っているために、通りを行き交う人々は下半身しか写し込まれない。ただ子供だけは全身フレームのなかではぜている。路上を左から右へ、右から左へと通り過ぎる人の流れに「PW無情」が重なる。沖縄の戦後の時間がどのようなものであるかを映像言語でいいあてていて印象的である。
 平和通りと平行した通りの商店街では、沖縄観光に訪れた新婚のカップルと平良トミ演じるオバーのイラブー(ウミヘビ)をめぐる珍妙なやりとりがある。この会話のズレは言語現象の内部のデキゴトにとどまらず、復帰後の沖縄と「本土」との出会いの内実を示唆しているようにもみえる。
 それからこれはどうだろう。サトウキビ畑の真ん中をまっすぐのびる農道で車座になった青年たちの輪とその輪を避けるようにして歩いてくる一人の若い女性の姿が写しだされる場面である。
 青年たちは集団就職にいった時の経験や猥談に興じているが、通りかかった教師の島娘に気づき、女のヒップの形やつんとした表現の日本人気取りを揶揄したりするが、無視するように女は坂道を歩いてくる。この島青年たちの輪と島娘の対照をスローモーションでみせる。何でもないようだが、この情景はインテリ島娘と集団就職にいかざるを得なかったシマーグァーたちの身体と心情の地図をみるようで興味ぶかい。
 そして二つの「チルダイ撲滅」シーンである。琉球原人やキジムナーやチルダイ惑星からやってきた男たちが浜辺で遊び興じているところに、「チルダイ反対友の会」会長と名乗る男が、「せっかく豊見城高校や具志堅選手が頑張っているというのに、あぁ私は本土の人たちに対して非常にはずかしい。いまこそ県民一体となって、本土に追いつき、CTS産業でイモとハダシにさようなら。ナナサンマルで車は右から左へと、チルだった牛や犬や豚をいじめて、明るい豊かな島に、チルだってみだらな気持ちになるよりは……」と説教をたれるところや、昼下がりの「マルタカニュース」が「沖縄からチルダイをなくす県民の夕べ実行委員会」会長代理と名乗る男がチルダイタンメーの後頭部を殴り倒した事件を報じたところである。「犯人との独占インタビューをしたところ、現在の心情を俳句に託してみたといって、いくつか述べました。そのなかから紹介して見ますと、チルダイを忘れたときこそ日本復帰、チルダイをなくして明るい日本復帰、チルダイは本土の人に嫌われる、犬のくそ紙を添えたら人のくそ、というようなものですが、このチルダイ事件、今後の沖縄の社会情勢に微妙な影響を与えるものとあって、警察では犯人の取り扱いにもてあましているということでした」という具合にである。
 ここにはコマ虫たちの粒子が叛乱するように「沖縄の日常的な風景のばらまく毒のようなもの」が散りばめられている。そして、その裏側には中平卓馬の<肉眼レフ>が写し撮ったNEW KOZAの廃墟の落書が陰画のように重なっているはずである。

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<10>エディポスたちはオナリの夢をみたか
 1969年初夏だった、と思う。便所からもれ出てくるアンモニアの臭いが客席にもこもっている池袋駅近くの文芸座地下の暗がりでのことであった。スクリーンに映し出された南島の鮮烈な光と影、絡みつく湿気とむせ返るほどの緑に映える海に、だが、決して爽快とはいえないエロスとタナトスが重畳する今村昌平の『神々の深き欲望』を観たときの、鈍いショックと拭いがたい違和感を今でも覚えている。
 私が抱いたそのときの鈍いショックとは、架空のクラゲ島という設定とはいえ、沖縄・南島がこのように描かれていくことへの驚きであり、拭いがたい違和感とは、南をまなざす視線のなかにある政治性と使われている言語(どこかの方言と共通語)のリズムに、どうしても洋画の吹き替えを見ているような、目と耳の分裂を感じざるをえなかったということである。これは沖縄を描いた映画に共通して云えることではあるにしても、「南島」の風土の濃さや祭祀を描いているだけに、余計そのことが鼻についた。ある意味ではやむ得ないことなのかもしれないが、人々の身体表現と密接に結びついた言語の襞は、人物の陰翳にまったく異なる印象を与えてしまうのである。
 とはいえこの映画は、架空のクラゲ島を舞台にして、現代と基層、合理と不合理、共同体の掟と秩序、親子−兄妹の近親相姦とタブーなどが、南島の秘儀や秘祭のなかで幾重にも重なり複雑に絡まりあいながら性・家族・共同体・国家をめぐる創生神話を叙事的に描き上げていた、といえよう。花田清輝のように「前近代を否定的媒介にして近代を超克する」といえば、あまりにも出来すぎた図式になるが、今村昌平のプリミティブなものへの偏愛と性を通して人間の生の裸形を探求するあくなき視線の運動を見る思いがした。
 『神々の深き欲望』は戯曲『パラジ――神々と豚々』の東京部分を殺ぎ落とした。いわばもうもうひとつの〈パラジ〉とみることもできよう。長い旱魃が続き製糖工場に水を引く任をおい、東京の本社から派遣された建設会社の刈谷技師が、豊富な水源が残る御嶽に近づこうとして(御嶽の水は島の最後の水で誰も使わないことになっていて、それを侵す者には神罰が当たるとされた)、島共同体の論理によってことごとく阻まれる。彼が、第一部のラスト、真昼の白い砂浜で手のひらで乱暴に汗を拭い「ふーっ……あ、つ、い」と吐息をつき、緑色の海を見つめ、小声で漏らした「スカッとサワヤカ、コカコーラ」と、いらいらと渇きの極みで吐いたワンフレーズに唸らされ、また、ドンガマ祭の夜、ウマをいたぶっていた島の長であり製糖工場長でもある竜立元の死によって、掟や従属から解かれた根吉とウマ兄妹が前の神島をめざし舟を出すが、立元殺害の犯人とみなされ、追いかけてきた青年たちにサバニの櫂で頭部をメッタ打ちされ鮫の餌食になり、妹のウマはサバニの赤い帆柱にくくりつけられ海原を漂流するカタストロフィーの鮮烈さに、軽いめまいを覚えもした。
 だが、不意のカウンターのように私を撃ったのは、凄惨なカタストロフィーの後に出現した映像であった。「それから五年後」観光の島に変貌したとされるそこは、私が幼少期を過ごした南大東島であった。島の飛行場に胴体を揺らしながら着陸した飛行機のタラップを降りてきた観光団の先頭にエキストラとして駆り出された知人の顔とサトウキビ畑を走るシュガートレイン、断崖に囲まれたトリコ岩が建つ海岸線など、私の〈少年〉を育んだ風景と対面させられたわけなのだが、東京の地下のションベン臭い暗がりの中であったこともあって、それこそ「アッ!」と声を呑むことになった。物語の筋とは関係なく、物語の欄外で、こんな風に原景の〈島〉と対面したことに、島での記憶が封印を解かれ一挙に流れ出すのをとめることができなかった。そして「変わるのじゃ、みな変わって行くのじゃ」という立元の呪文と、島を脱出し、また島に帰還した亀太郎が「東京にいると自分が自分でないような……バラバラで……よく島の夢見ましたです」という科白が、私の内部の何かを動かすのを感じた。そうか、ひょっとすると私もまた東京の日常の中で、亀太郎の言葉をつぶやいているのかもしれないと思ったのである。亀太郎のつぶやきはまた私の内部のつぶやきでもあった。
 ところで、今村昌平は『神々の深き欲望』の前に、磯見忠彦が監督した『東シナ海』の原作を書いていた。その『東シナ海』について唐十郎は「無駄銭と無駄骨を使って、結局、常識的な目で見渡せる観光的な沖縄列島を素通りしたにすぎなかった」と手厳しい見方をし、自身を含めた内地からの擬似南下を鋭く指摘していた。そして沖縄に「日本内地の人間と沖縄人の間に成立する原罪意識や告発の幸福なる関係」でもなく、「本土復帰」を叫ぶ沖縄の精神の北上型や内地からの擬似南下でもない、別の現実を見る。それは唐自身が「沖縄の腰巻お仙」を探せという密命で沖縄にやってきたまではいいが、昼の炎天下の沖縄に立った瞬間「……の腰巻お仙」というヴォキャブラリーの投げ縄は、無惨にも成す術を失ってしまう」ところからはじめて見えてくる、アメリカ世の二十三年間に「私たちの憶測ではとうてい何も見ることの出来ない街がうずまいている」ことや「沖縄の魔物のような時間」であった。そして「沖縄のタコツボ社会とタコツボ文化を取り巻いた東シナ海が「本土へ本土へ」とざわめく波と「ステーツへ帰ろう」とひた打つ波と、そのもっとも深い所で何も云わず、願わぬ流れによってゆらめいている」ものに注目していた。
 その「願わぬ流れによってゆらめいている」ものこそ、沖縄人と米人社会の間に出来た「たそがれ地帯」(Twilight-zone)の混血の群れであり、さらにその「たそがれ地帯」からも堕ちて失語症になった不幸分子中の不幸分子なのだ。だからその分子は本土復帰を叫ぶ精神の北上型に反して、縦に割った暗部をスルスルと南下してゆくのだ。
 唐十郎の沖縄論は「米軍キャンプというどでかい空間と内地から流れてくる擬似南下の時間を咀嚼するヴァギナの奥」の胎盤を子宮後屈症のように「南下するイメージ」の喚起力にあるといえよう。むろんそれはタコツボ社会とタコツボ文化が幻想する精神の北上型とも、それを回収する内地からの擬似南下とも違うことはいうまでもない。
 さらに唐が内地と沖縄の関係に潜むロジックを「エディポス」の非行にみるとき、隠されていた構造がにわかに露出させられてくる。「愚鈍なロジック」としつつも、内地の王に対する列島のエディポスを設定しつつ、「祖国復帰」とは、エディポスがエディポスであることを忘れて、王と和解することなのだ、といってのける。そして今村昌平の進行中の『神々の深き欲望』を意識しながら「エディポスが王と和解すれば、もうエディポスは居なくなるというのであろうか。ところが、沖縄というエディポスは、幻の無数のエディポスが実在することを知っている。/それは23年間の間にこの世に出現した、そして今でも再生産中の沖縄の堕胎児たちである。これはおそらく今村昌平が石垣島で追いかけている臆病で複雑なタコツボ家系とタコツボ社会のキンチャク首を脅かしている張本人であろう。/この張本人を横目でにらまずに、タコツボ社会をとらえるだけなら、作家は何も沖縄へ行かなくてもいいように思われる」と注文をつけていた。そして唐は今村昌平や磯貝忠彦の「東シナ海」とは異なる「東シナ海」のヴィジョンを提示する。
 内地の王に対する列島のエディポスが、エディポスであることをやめることがあっても、絶対にエディポスあることをやめられぬ群れがある。この群れの無限怨恨の数学的拡大が東シナ海にはびこり、寄せては返すざわめきが「ステーツへ帰ろう」と鳴っていることは、なぜか私には、精神の北上とそれをすくってやる内地日本人の擬似南下を皮肉っているように思えてならない。/「ステーツへ帰ろう」が意識的な永久南下を志す時、東シナ海は果たして、我々の知らぬところで真赤に染まらぬであろうか。
(「呵々! 東シナ海――ぼくの沖縄論」「映画芸術」256号、1968年12月)
 唐十郎がここでいっている「ステーツへ帰ろう」とは、決して単なる帰属意識の志向性をさしているだけではむろんない。エディポスであることをやめられぬ群れやタコツボ社会からはじかれた混血や不幸分子の疎外の変数とみるべきである。これは「……の腰巻お仙」というヴォキャブラリーの投げ縄を失ったところから、その「……」という点線が示唆する失語に書き込んだ「東シナ海」の南下と矛盾しているわけではない。
 では、実際に完成した『神々の深き欲望』はどうだったのか。たしかに唐十郎がいうようにそれは「タコツボ家系のタコツボ社会のキンチャク首」といえなくもないが、「タコツボ」の深さと象徴性において映画史に残る達成を遂げていることは間違いないだろう。それに親・子の縦軸においてではなく、兄・妹の横軸において性と生をめぐる創世神話で描き上げようとしたことである。唐の早計な予断はいささか不当な感じがしないでもないが、そうした不当ともいえる予断に、逆に唐自身の沖縄論を鮮やかに示唆したことと、そのことが他でもない唐と今村の「東シナ海」と「沖縄論」の違いをはっきりさせもした。
 としても、今村昌平と唐十郎の「沖縄・南島」の違いとはなんだろう。今村が「神話と現実の接点を非常にぼかしながら、縦横無尽に行ったり来たりできるようなバックグラウンド」として沖縄を選び、神話的時間にまで遡行し原罪性を探訪したのに対し、唐十郎は、アメリカ占領下の23年間の「沖縄の魔物のような時間」に幻の無数のエディポスの永久南下を幻視する〈腰巻お仙〉と〈パラジ〉の違い、といえばいえようか。
 唐十郎が「沖縄の腰巻お仙」を探す密命の挫折の上に、「米軍キャンプというどでかい空間と、内地から流れてくるテレビの灰色の空間を飲みこみ、擬似南下する内地の時間を、もぐもぐと咀嚼する大変なヴァギナ」の奥に子宮後屈症のように胎盤を南下する無限運動を「東シナ海」に描いたことに対し、今村昌平は原作『東シナ海』の後の、架空のクラゲ島に創世神話(の死産)と原罪性を書き込んだのだ。あるいは死産に終わる創世神話へのオマージュだといってもよい。
 しかし、神話やパラジの相愛(姦)はほんとうに死んだのだろうか。よし死んだとしても、御嶽の森を均すブルドーザーによってトカゲが胴体を失っても尻尾が生きているように、あるいは、サバニのエンジンが故障で根吉・ウマの兄妹の国造りが流産した後に赤い帆柱が海原を漂うように、そして、亀太郎が妹トリ子の幻影を見たように、幻として、だが、幻であるがゆえに人々の心の中に永く生きている。だから太家でただ一人生き残った亀太郎は島に帰り、父親が何をやったか、そしてなぜ自分は父を殺したのか、その意味を考え続けざるえないのだ。ここではじめて亀太郎は唐十郎がいった内地の王と和解したエディポスが、エディポスであることをやめたとしても、絶対にエディポスをやめない群れとしての沖縄のエディポスを自覚したはずである。
 この映画はまた関係と欲望の運動をえがいてもいた。祭祀と掟による共同体の紐帯に対し立元と根吉の「戦友同士」としての結びつき、近代合理主義を表象する外来者としての刈谷技師と性のタブーのない「知恵遅れ」のトリ子の関係の葛藤や混融のあり方であり、また近親相姦でケダモノの家系として共同体からはじかれた山盛―根吉・ウマ―亀太郎・トリ子と繋がるタコツボ家系ともヤドカリ一家ともいえる太家の、ジャアジャと呼ばれた祖父と孫のトリ子/アチャと呼ばれた根吉と妹のウマ/根吉と娘のトリ子/亀太郎とトリ子と絡まり合うパラジ(親子/兄妹)のモザイク状に入り組んだ相愛・相姦という形をとった欲望の運動があった。
 ところで、1969年の沖縄は『神々の深き欲望』をどのように受け止めたのだろうか。そのことは私が首都の地下ではじめて観たときの鈍い衝撃と拭いがたい違和感を確かめ直すことにもなるが、それよりも沖縄の思想が潜ろうとした位相を測ることになるはずである。封切られてから間もなく、岡本恵徳、勝連繁雄、新川明、川満信一の4名が沖縄タイムス紙上で「映画『神々の深き欲望』を見て」という座談会をやっている。68年のキネマ旬報ベストテンで一位になったこの映画から「沖縄独自の問題」を引きずり出そうという試みである。それぞれがこの映画の何に関心を向けたのかを知ることができると同時に、1969年沖縄の状況と思想の在り処を垣間見せてくれる。
 出席者の中でこの映画に対して距離と不満を表明したのは岡本恵徳と新川明であった。とくに新川は、今村昌平が自らのテーマ追求のために祭祀を「利用」したことに強い調子で批判していた。こんなことをいっていた。「今村がみずからのテーマを表現するために、八重山の習俗や祭りを利用したことに対する必然性というものが希薄であり、ぼくにとっては、たいそう浅薄なものになっていると感じられる」とか「例えば八重山の一部地域にのこる「アカマタ祭り」を思わせる「ドンガマ祭り」を登場させる。この祭りは、映画のドラマ進行の上でも、重要な意味をもっているが、今村にとっては、あくまでも祭りは、テーマのための一つの表現材料としてつかわれるだけだから、そのためにいきおい祭りの特異性によりかかって、祭りの持つ意味が無視され、取り組みが皮相になる」と。そして次のようにいうとき、そこに八重山の島々を歩き、島と島人に刻まれた受苦や祭りや歌謡のなかに人びとの生活思想を読み取ってレポートした『南島風土記』の方法からする妥協のない対立点を提示していた。

 いくらかでも島における祭り、とくに映画で「ドンガマ祭り」というふざけた名前で描かれる「アカマタ祭り」を知り、またその祭に対する島の人たちの心情を知るものとしていえることは、ああいう形であの祭りを描かれていることは、あたかも、自分の心の中に、土足でズカズカと入りこまれたような感じでやり切れなかった。島の人たちにとっては、誇張ではなく、真実、言語に絶する苦痛を覚えることだと思う。/芸術家の、作品形象化における非情さというものは百も承知だが作品創造に際しての作家のエゴイズムは、やはりその描くべき事象(祭りであれ何んであれ)の本質の意味を、確実に、ゆがみなくとらえた上でこそ許されるべきであり、みずからのテーマ追求の表現材料の範囲で、恣意的に皮相な描写、設定のまま利用≠キるということは許せない態度だと思う。
 ここからさらに、沖縄の土着の視点からの痛烈な批判があるべきだとする。この新川の激しい調子に私は、64年8月から翌年9月までの1年余、与那国、波照間、黒島、新城島、鳩間島、西表島、小浜島、竹富島、石垣島と、八重山の島々に渡り、体得した〈島の思想〉からの異議と批判をみる、ちなみに『新南島風土記』には、映画の「ドンガマ祭り」のモデルとなった思われる新城島の「アカマタの神」に触れ、「アカマタ」を「島の根っこを支える強固なエネルギー、その文化の原点を知らしめる祭り」として、この祭りを他言してはいけないという厳しい戒律を島から出た人たちも守り、黙して語らないことに、人びとの心の中に深く根を下ろしている信仰の重さと強固な〈島の思想〉の確かな手ごたえを感じ取っていた。
 この映画の撮影にあたり、現地で反対運動があったが、そのとき新川は強く今村擁護の立場を取ったという。だが出来上がった作品にあざむかれたのだ。新川はそこにテーマのための利用主義を敏感に感じ取ったということだ。これは映画表現に限らず、これまで民俗学や言語学などでも問われた視線の占有や一方通行性、つまり「文化の横領」にも関わってくる繊細な問題である。新川明が「文化の横領」を批判した1969年の地点からやがて、反復帰・反国家の思想と練り上げられていくのを私たちは知っている。
 ところで、首都の地下の暗がりで観たこの映画に私が心を動かされたのは、亀太郎の島からの脱出と島への帰還であった。亀太郎が刈谷から島に帰ったわけを問われ「ここのほうが苦しいこと、だが、東京にいると自分が自分でないような……バラバラで……よく島の夢見ましたです」と答え「もう一度この島でオヤジが何したのか、自分が何してきたのか、よくみないと、何時までもバラバラで……困るのであります」というところがある。そう、この亀太郎の島からの脱出と島への帰還は、寺山修司も「おまえの「古事記」をこそ――『神々の深き欲望』の序」(「映画芸術」258号、1969年2月)の最後で「帰っていった亀太郎には「クラゲ島」もなくなっていたし、「東京」もなくなってしまっていた。ふりむいた男への罰は、「古事記」の中でも、黄泉の国の物語として、すっぽりと断罪されていた筈である。亀太郎、明日はどこへ行く?」と問いかけていたが、しかしほんとうに「島」も「東京」もなくなったのだろうか。そうではないはずだ。振りむくことが罰されるとしても、帰還によって自覚された亀太郎のエディポスは「島」と「東京」をもう一度生きることを意味したはずである。その場合の帰還は必ずしも物理的なそれを指すのではなく、問いの運動によって招き寄せられる精神の文体なのである。そしてそれは、唐十郎がいったエディポスがエディポスであることを忘れて王と和解する精神の擬似北上ではなく、絶対にエディポスであることをやめられぬ群れが東シナ海を真赤に染める「永久南下」運動なのだ。
 島にいると苦しくなり、東京では自分が自分でないようなバラバラ感を抱かされる、この両義性こそ亀太郎の〈脱出と帰還〉に刻み込まれたイコンのようなものであった。この脱出と帰還の両義性はまた、1969年沖縄の時代思想が抱え込んだものでもあった。
 「亀太郎、明日はどこへ行く?」――この問いかけから、沖縄の思想は、寺山修司とは異なる解答を書き込んでいった。今村昌平が祭祀や習俗、行事などをタブーや近親相姦を抑止する共同体の秩序維持の一面だけで捉えていることを指摘し、そうではない豊穣祈願などの要素があること見た岡本恵徳は、翌年、自らの内部の亀太郎を相対化しながら、沖縄における共同体の生理と論理を内視した「水平軸の発想――沖縄の共同体意識」を、川満信一は戦前と戦後に貫かれている権力の線とそれとの相補的な関係を持つ心的メカニズムを抉る「沖縄における天皇制思想」を、そして新川明は『新南島風土記』で醗酵させた「島の思想」を中継しつつ〈沖縄の異化〉を発明し直し、復帰思想を激しく撃つ「非国民の思想と論理――沖縄における思想の自立について」を著し、沖縄の思想を拓いていった。
 それらは、北からの擬似南下とエディポスがエディポスであることを忘れて、天皇と天皇の国家と和解する「祖国復帰」を同時に撃つ、断固としてあの「魔物のような時間」で育てられた沖縄のエディポスの実践にも似ていた、といえようか。

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<9>死に至る共同体


 黄褐色に変色し、破れ目も目立つ一枚のガリ版刷りのビラが残されている。「沖縄返還協定粉砕」の斜体文字が2段組の真中で踊っているそのビラは、1971年5月19日の沖縄返還協定粉砕ゼネストに呼応した「沖縄返還協定粉砕/5・19ゼネスト貫徹沖縄労農集会」への結集を呼びかける内容である。沖縄青年同盟の前身沖縄青年委員会が出したものであるが、呼びかけの最後には、水道橋駅近くの中央労政会館の簡単な地図と時間が書かれ、「戦後25年、島はどう変わったか。この映画は現地でロケ、集団自決≠我々に問題提起として訴える」という短い文句がそえられた制作集団「島」のドキュメンタリー『それは島』が上映されることも囲みで紹介されていた。
 5・19ゼネストは、日米共同声明による沖縄返還に反対し返還協定粉砕を掲げて実施されようとしたもので、「沖縄返還をテコに日米安保体制の強化とアジア防衛体制への布石、自衛隊の沖縄進駐をはかろうとする本土政府に対する県民の刃=vとされた。そうしたゼネストにまで発展した沖縄現地のうねりに呼応する在日の沖縄出身学生・労働者による小さな集会と、そこで上映された渡嘉敷島の「集団自決」を扱った記録映画は、どのようなつながりがあったというのだろうか。
 1971年9月19日の返還協定粉砕の政治ストと1945年3月28日に起こった凄惨な「集団自決」。この一見奇異にみえる組み合わせを理解するためには、70年代はじめに沖縄がくぐろうとした状況の壁と襞を抜きにしては語れない。
 二つのことが挙げられる。その一つは、69年の日米共同声明による沖縄返還の内実が、軍事的植民地を解約するものではなく、沖縄基地の日米共同管理体制への移行であったことである。その現実化が自衛隊の沖縄進駐であった。沖縄の人々はいわば、25年ぶりに日本の軍隊に出会うことになったのである。そのことが沖縄戦と日本軍による沖縄住民虐殺や「集団自決」などの記憶を生々しく呼び起こすことになった。
 二つめは、国家幻想と本土との系列化・同化を求める復帰運動が、「戦争で失った領土を平和裏に取り戻した稀有な事例」としてナショナルヒストリーに横領されていく擬制の構造が露呈し、その擬制の終焉を宣告する思想と実践が「国政参加選挙拒否闘争」などを通して胎動してきたことである。復帰運動の内部ではほとんど問われることはなかった「国家」を相対化し、国家を求心する復帰運動に、戦前の公民化[皇民化?]教育や天皇制を内面化した心的メカニズてムと同一のものが引き継がれていたことを内側から踏み越える試行があった。 
 こういうことができる。皇民化教育がいきついた極限としての沖縄戦、とりわけ「集団自決」は、70年代沖縄の思想的地平においてはじめて視野の中に入ってきたということである。復帰運動の擬制の終焉を告げた沖縄の思想においてこそ沖縄の近代と現代を一望できる文体が獲得され、戦前が戦後に延命した理由が解読されたのだ。
 沖縄現地の返還協定粉砕ゼネストに呼応する在京の沖縄出身者の集会で「集団自決」を撮った記録映画を上映する一枚のビラが語っているのは、そうした沖縄の時代思想との共振であったといえよう。
 ドキュメンタリー『それは島』は、慶良間列島の渡嘉敷島で起こった「集団自決」を映画でとらえようと試みた、おそらくはじめての記録である、と一応はいうことができる。ここで「一応」という留保をつけたのは、作り手たちの意欲にもかかわらず、「集団自決」の核心に迫りえたかといえば必ずしもそうはなっていない、という理由からである。カメラは「集団自決」に入り込む手前で島民の拒絶に会い、沈黙の扉を開けるまでには至っていない。
 このドキュメンタリーは、見る者に二つの異なるフィルムの折り目が同在していることからくる奇妙な印象を抱かせる。多分それは島と島人たちの外来者へ向ける受容と拒絶の姿勢からくるものであり、それが小さくない比重でフィルムの性格を印しづけているようにも思える。としても、このドキュメントが現前化させたふたつのもののあらわれは、二元論的に振り分けられるというものではない。矛盾しながら互いに深く浸透しあう、そんな関係である。それはまた、島と島人たちの戦争と戦後のくぐりかたが縫い合わせた内在の形でもあるはずだ。
 では、島と島人たちがみせる受容と拒絶の視線は、フィルムにおいてはどのように定着されているのか。撮る側と撮られる側の親和的関係が結ばれている場面からいえば、一人の老漁師とアダンに囲まれたトタン葺き平屋で1人で暮らす老婆を撮ったところが印象に残る。カメラの眼はその二人を慈しむように凝視しているようにも感じ取れる。魚網を肩に担ぎ、白い砂浜に足跡を残しながら一人で海に入るところや、手作りの木製ミーカガン(ゴーグル)で一人黙々と追い込み漁をする場面は凛とした暮らしの叙事詩を描きあげていた。また破れたスカートで左足がくの字に変形した裸足の老婆とその老婆の映像に重なる若いときの島でのモーアシビーの様子や移民でヤマト、台湾、中国を渡り歩いたときの経験を語る声は、この島が刻んだもう一つの歴史を教えていた。淡々としたカメラワークだけに、かえってこの島を通り過ぎていった戦争の過酷さを想起させる。そしてヤモリ這う夜、一人三線を弾く男の姿に、「戦友」を歌う声の重なりは、戦争と戦後をくぐってきたこの島のイメージを織り上げているようで、強い喚起力をもっている。さらに住人のいない赤瓦の廃屋に残された教科書や位牌、日本地図、そしてアーマンやミミズの死骸を運ぶ蟻など、島に生息する小さな生きものなどを捕捉した映像は、この島の生活誌の叙景としてみることもできるが、過疎に捨てられていく島の現実に視線を導いてくれる。
 ところが、そういった島の生活誌に叙述した映像が、一転するのは「集団自決」の内部に踏み込もうとしたときである。そのとき、島びとたちはカメラに険しい拒絶の目を向けるか、身をかわす。島の集落の路上でのインタビューは、拒絶する姿を写し撮っていた。この映画を監督した間宮則夫は、島の日常レベルでの撮影はうまく遂行され、また島人たちは渡嘉敷島での一般的な戦闘状況については饒舌なぐらい語ってくれるのとは対照的に、「集団自決」の内部の問題にふれていこうとすると、口を閉ざしてうまくいかなかったことを告白していた。
 撮影スタッフが1970年9月下旬から11月下旬までの一ヶ月間、空家を借りて合宿をしながらロケーションを行なったのは、その約半年前に島と島人たちを揺るがした二つの「事件」の波紋がまだおさまらない状況のなかであった。3月28日に25年ぶりに軍民合同の慰霊祭が行なわれたことと、慰霊祭へ出席のため元海上挺進第三戦隊長赤松嘉次大尉と元隊員が来島したため那覇空港で大掛かりな阻止行動が組まれたこと、これである。『鉄の暴風』や『渡嘉敷島の戦闘概要』などで「集団自決」の「軍命」を下したとされた赤松元大尉は空港での激しい糾弾と阻止行動にあい結局渡嘉敷島へは渡れなかったが、この「事件」は沖縄戦と「集団自決」問題の根深さを人々の前に突きつけ、渡嘉敷島のみならず当時の沖縄社会に大きな波紋を投げかけた。
 『それは島』は、こうした沖縄を揺るがした「事件」の波紋が余韻を曳いて島と島人たちの表情をこわばらせていたところに敢行された。だからその波紋と島人たちの鋭敏な反応を直に受けざるを得なかったのだ。間宮もいうように「私たちが渡嘉敷島にアプローチしようとした時、島は例の赤松来県反対抗議行動のあった直後であり、島はあまりの反響の激しさに対応できないのか、極度にそのことに警戒的であった。「お前たち何を撮りに来た!」「集団自決は絶対にしゃべらんぞ!」。泡盛をあふっては噛みついてくる島人たち。また「過ぎ去ったことは過ぎ去ったこと。居間は問題ではない」という意識の流れにも私たちはぶつかった。」(「何故私たちは集団自決≠映画にするか」「新沖縄文学」第19号、1971年3月)と書いていた。
 ところで、島をゆるがした合同慰霊祭と赤松元大尉の渡島が投げかけた波紋に、撮影行為を通してスタッフが見たものは何であったのか。まず撮影の手がかりにした『渡嘉敷島の戦闘概要』(「集団自決」の記憶が生々しく残る1953年、当時の村長と校長らが中心となって発刊)は、住民を死に追いやった守備隊長赤松元大尉と守備隊への「呪詛の記録」であったが、実際に接した島人たちからはかつての兵隊を懐かしむ声は聞けても、帝国軍隊を憎む声は聞かれなかったことの落差であった。その落差に戸惑いつつ「戦闘概要≠ヘ戦時の極限状況における異常として、戦闘の想い出の生々しい時期に記されたものであり、慰霊祭≠ヘ肉親を死に追いやった元凶に対する怨念を25年という歳月のフィルターが浄化したことによっておこなわれ得たのかもしれないということだ」として、真実とは何かというジレンマを抱えさせられる。
 次に赤松嘉次元大尉の慰霊祭参加阻止行動に目を向ける。ここで間宮は、赤松嘉次元大尉の慰霊祭参加阻止行動に見たものを、住民を「集団自決」に追い込んだことに対する自己批評と歴史分析を元守備隊長に問い、それと同時に激しい糾弾と渡島阻止行動の中で争われた「集団自決」命令を下したか下さなかったかという責任の所在を、個人に帰結させることはせず、別な次元で問題のありかを探る。
 問題なのは、彼自身が「命令」であり、彼の行動そのものが「命令」である状態に当時の島が置かれていたことである。/もし赤松元大尉が命令を下さなかったなら彼に代わる他の「赤松」が下したかも知れないし、もっと大胆に言えば住民個々の意識の中に命令を下した「赤松」が存在していたかもしれないのだ。
 (「集団自決の思想――集団自決の記録「それは島」撮影後書」「青い海」1971年9月号)
 とした指摘していた。注目すべきは、島に絶対的権力として存在する守備隊長としての「赤松」の存在そのものが命令であるということと、そして島人の意識の中に存在する「赤松」を指摘したことである。この地点において、島民の合同慰霊祭と元守備隊兵士の出席、そして「集団自決」を命令した元凶とみなされた赤松元大尉の渡島阻止行動を同時に相対化する視点が獲得されているといってもいいだろう。渡嘉敷島の住民が一般論としての戦記は雄弁に語りながらも、「集団自決」については沈黙するのは、「単に悲惨な思い出を新たにすることを厭う気持ばかりではなく、自らの意識の中に「赤松」の存在を認めているからではないだろうか」と結論づけていた。
 その前に、しかし、間宮則夫は沖縄戦と沖縄の戦後を悲劇≠ニしてしかとらえてこなかったヤマト人と映画スタッフ自身の存在を問題にすることを忘れてはいなかった。いわば「集団自決」を撮る行為そのものを問うたのである。この撮ることを問う行為を映画の中に挿入していくが、それは島人たちの拒絶の姿勢によっていっそう際立ち、フィルムに緊張感を与え、ドキュメンタリーの可能性と不可能性、カメラを介在させた撮影行為の暴力性を表出しているようで興味ぶかい。カメラが島を犯す、そんな印象を抱かされる。
 「集団自決」を撮ることを問う、二重の企ての映像による表現は、こんなふうに提示される。島の集落の路上で録音機を手にしたスタッフの一人が、島人に対して突撃インタビューを仕掛ける。マイクを向けられた島民の一人は、麦わら帽子のツバを引き顔を隠すして逃げるように背を向ける。無理やりマイクを向けられた一人の婦人を、物陰から8ミリカメラを持った男が現れる。それに気づいた婦人が逃げながら思わず漏らした「あの時子供だったからわかりません。小学生だったから覚えていませんよ」という言葉をマイクは非情にも捕獲していた。かろうじて立ち止まりインタビューに応じた男は「そんなことはあまりわかりませんね」とそっけない返事を返す。「集団自決」の内部に入り込もうとするカメラに対するあからさまな拒絶。その拒絶する島は、集団自決で片腕を失った男の後ろ姿を執拗に繰り返し挿入することによって強くイメージを喚起する。
 こうした露悪的にも見えるインタビューとそれを8ミリで撮る様子をカメラで追う企ては、撮影行為自体を問うフィルムによる自己批評ということになるが、そこで提示された映像は、カメラのもつ暴力性とそうした演出のあざとさまでも写し込まずにはおれなかった。こうした撮ることを撮る、つまり撮影行為の自己批評は、むろん作り手の意図でもあるが、その意図を越えて、このドキュメンタリーの限界性を知らせてもいる。
 こうした路上で嫌がる女たちを追いかけまわすような行為は、酒に酔った男が投げつける「お前たち! そんなことを探ってどうしようというのだ!」という言葉によって撃たれる。路上の暴力的なインタビューはまた、「死に至る共同体」の内部に入り込めない苛立ちやもどかしさを表出してもいるように思えた。この苛立ちが一種の歪んだ形で現れたのが、山羊と豚のと殺シーンである。火に焼かれ黒くこげた山羊の胴体と切り落とされ岩場に置かれた頭部、四肢と口を縛りつけられた豚を二人の男が押さえつけ、一人の男が喉もとに包丁を入れ、ねじる執拗な解体シーンの生々しい映像は、どこにでもみられる島の風物誌であるが、それが「集団自決」をテーマにした、しかも渡嘉敷島で撮ったドキュメントであることによって、過剰な意味を帯びて見る者のイメージを挑発する。そのとき、離島の生活誌が一挙にカミソリや鍬やこん棒で肉親を手にかける「集団自決」の凄惨なイメージを暴力的に連想させもする。この生々しい場面は、撮影スタッフの「集団自決」の内部へ入り込めないことの深いジレンマを表現したものであるようにも思える。
 こうして映画は深いジレンマを刻印される。この刻印されたジレンマこそ、「集団自決」を撮ったはじめての映画を特徴づけ、限定づけているものである。沈黙の扉の前で迂回せざるを得なかった。結局「島とは踏み込めば踏み込むほど、とらえどころがない。いってみれば、気負い込んだ私たちは見事、島の血縁共同体的なヒエラルキーによって、他所者・旅人として、あたたかくむかえられ、丁重にあつかわれて、つつがなく追い出されてしまったような気がしてならない」と呟く以外なかった。
 映画は「島がわれわれにせまってくる」「島をつきやぶるものは」とスーパーインポーズで畳みかけるように切迫しながら、「事実関係みたいなものをはっきりさせない島の体質みたいなものはどこからくると思いますか。島自体の持つ体質としてあるんじゃないかと僕は感じられる」というスタッフの言葉が重なった、海へ出る道を抜け、島の集落と海原を俯瞰する映像で終る。
 ドキュメンタリー『それは島』が沈黙の扉の前で苛立ち、事実関係をはっきりさせない島自体の体質そのもの内部に、言葉をもって降りていったのが友利雅人の「あまりにも沖縄的な〈死〉」であった。
 友利は沖縄の悲劇の象徴として繰り返し語られてきた「ひめゆり学徒隊」や「鉄血勤皇隊」の死に対し、それを語ることが沖縄の傷や禁忌に触れる死として「ひめゆり学徒隊」の死と鋭い対照をなすものとして渡嘉敷島の「集団自決」をとらえ、『渡嘉敷島の戦闘概要』では記されなかった、村民が語ることを避けた領域に「集団自決」の本質を解く鍵の存在をみる。
 「『それは島』というドキュメンタリー映画にあらわれた村民たちの表情にはカメラに対する恐怖、憎悪のようなものさえうかがわれるのだ。村の内部の確執に触れようとする他所者に対し村民たちはしたたかな拒絶をもって報いていることはたしかなのだ。それに苛立ち、ドキュメンタリーの精神などぶっても始まらない。真相の曖昧さと、現在に至るまでつづいている村民の沈黙に対して、それを取材するということでこの集団自決といわれる陰惨な事実のアポリアを突き破ることはできないと考える。」とし、我が娘を手にかけて生き残った老父について触れ、村民の間の確執が存在するだけではなく、同一人の内部で葛藤が消しがたいものとして刻み込まれていて、加害−被害の主体が錯綜し、ねじり合わされていることに着目する。この錯綜とねじり合いに島民の沈黙があり、また全島民がその〈場〉にいたということによる否定できない暗黙の「共犯関係」を読み込んでもいた。だから、「共犯関係」において集団自決の責任追及は二重なのだ。
 赤松大尉とその部下たち、駐在巡査――もちろんこれらの者たちの責任がないわけではない。ただ、村民が自らの背負わなければならぬ重荷を転位させただけ、かれらが過剰に負わされているということは、ありうるといえるだけだ。これを想定することを避けつづけるかぎり何ごとも始まりはしない。この意味において集団自決における責任追及はいつでも二重なのである。この二重性のゆえに、村民の記録も赤松の弁明も相対化されざるをえない。
 (「あまりに沖縄的な〈死〉」「現代の眼」1971年8月号)
 「集団自決」を生き延びた体験者の内部にある加害と被害のねじり合い、共犯関係と責任の二重性。この地点から折り返す視点で眺め直すと、「死に至る共同体」には明治以降の皇民化の帰結と、軍隊と戦争によって架橋された離島の共同体の中にある国家の倒像がみえてくる。「あまりに沖縄的な〈死〉」には、逆立した国家が住んでいる。「集団自決」の沈黙の扉をひらくこととは、こうした島共同体のなかで逆立する国家の存在をあやまたず読み破ることである。ここにおいて、国家を求心する復帰運動と沖縄の近代が内面化した天皇の国家への同化幻想が分かちがたく結びついていることの要諦が理解されるのだ。友利雅人の「あまりに沖縄的な〈死〉」は、沖縄の戦後世代がどのように戦争と出会い、戦後責任へ批判的に介入するかを示した注目すべき論考になっている。
 「集団自決」と「日本復帰運動」を出会わせたのは、60年代後半から70年代はじめにかけての沖縄の思想の力であった。そしてそこにこそ「沖縄返還協定粉砕5・19ゼネスト」と呼応する在日の沖縄出身の小さな集会で『それは島』が上映された時代の文脈があった。「あまりに沖縄的な〈死〉」と『それは島』の交差するところに、われわれの内部の「赤松」が現前化される。そのとき「死に至る共同体」が歴史の逆光の中から輪郭を浮かび上がらせ、〈今〉に刻みつづける。

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<8>言葉が法廷に立つ時


 1972年2月16日、東京地方裁判所刑事十六部。その前年の11月19日、「沖縄国会」といわれた衆議院本会議場で爆竹を鳴らし、第3の琉球処分としての沖縄返還協定批准阻止と在日沖縄人への決起を呼びかけ、国会史上前例のない行動をとり、建造物侵入と威力業務妨害で起訴された沖縄青年同盟(沖青同)の3名に対する第1回公判で、人定質問がはじまった瞬間であった。「ムカセー、カイシャインヤタシガ、ナマー、ヌーンソーネン」
 不思議な響きをもった言葉が法廷に放たれ、一瞬水を打ったような静寂と緊張が走った。ほんの数秒であったが、時間が凍りついたように思えた。裁判長の顔に明らかに動揺が走ったのを傍聴席からも見て取れた。おそらく、壇上の中央に鎮座した男は、目の前で何が起こったのか理解できず、頭の中は真っ白になっていたのだろう。しばらくして、忘我の状態からふと我に返ったとばかりに、に甲高い声が無音の空間に響き渡った。
 「日本語で話しなさい、日本語で!」
 気が動転していたとしか思えなかった。その甲高い声音には戸惑いと苛立ち、法廷を侮辱されたことに対する屈辱と怒りがない交ぜにされていた。それからそこで繰り広げられた光景は、ほんの数秒前の水を打ったような静寂とは打って変わって言葉と言葉、肉体と肉体がぶつかり合う騒乱状態になった。失った威厳を必死に取り繕うかのごとく、裁判長は退廷と拘束命令を連発。終いには三被告、弁護人、傍聴人すべて退廷した後の空っぽの法廷で、たった一人残った検事が起訴状を朗読するという世にも稀なる一人芝居が演じられた。
 いわゆる沖青同の「沖縄語裁判闘争」である。この日の東京地裁でのデキゴトは、翌17日朝刊で沖縄の地元2紙は東京支社発として社会面で大きく(沖縄タイムスは7段、琉球新報は6段)取り上げていた。2紙の記事は、「沖縄語裁判」がどのように報道されたかということにとどまらず、一記者の目を通して露出した当時の時代意識を見るようで興味深い。「大荒れの初公判・国会での爆竹事件/方言では声、陳述/裁判長怒り拘束命令/次回は通訳付きで」の見出しで、沖縄タイムスは報じていた。
 やっと人定質問にはいったかと思ったとたん、こんどは被告の島添が「ムカセー、カイシャインヤタシガ、ナマー、ヌーンソーネン」と沖縄の方言がいきなりとび出し、裁判長は「日本語で答えるようにしなさい」と忠告した。すかさず島添被告はまた「ウチナーヤ二ホンどヤガヤー」と不敵な笑いを浮かべて裁判長に食ってかかった。三被告とも終始、沖縄の方言で罵声をとばし、態度をくずすなどそれこそ大胆不敵に出て「沖縄の方言を知らないで裁判ができるのか」とあざ笑い、裁判長の忠告を一蹴した。
(「沖縄タイムス」1972年2月17日朝刊)
 記事全体から見ればほんの一部分にすぎないが、ここから伝わってくるのは、悪意としかいいようがない視線である。その日、傍聴席で一部始終に立ち会った者からすれば、なるほどこんな風に見られているんだ、と妙な気分になったことを覚えている。沖縄語による発話行為と裁判長とのやりとりを「不敵な笑いを浮かべて」とか「あざ笑い」と描写するところは、法を犯した者へのステレオタイプな通念の投影であるが、問題なのは、悪意の一般性ではなく、「沖縄語裁判」が開示してみせたある精神の履歴である悪意の依って立つところには「日本復帰運動」が情熱的に体現したモノロジカルな同化主義からする対他意識を読まずにはおれない。その内部では裁判長の動転と記者の合わせ鏡のように頷き合っているはずだ。
 もう一紙の琉球新報はどうだったのか。「“沖縄方言”で紛糾−沖縄国会爆竹事件の初公判−/裁判長、弁護人に退廷命令」という見出しで報じていた。ここでは沖縄方言をダブルコーテーションで括ったところに配慮を感じさせる。
 「ウチナーグチで話したい」(被告)「日本語で話しなさい。沖縄語は日本語ではないと規定します」(裁判長)。「ナンセーンス。ウチナーグチを認めろ」(傍聴人)「その男退廷」(裁判長)−。/開廷後間もなく、被告らの人定質問が始まった。島添被告がいきなり沖縄の方言で話しはじめたため小林裁判長は「日本語で話しなさい」と強い口調で命令。三被告はかわるがわる沖縄方言で「なぜ沖縄の方言が分からないのか」「なぜ方言を使ってはいけなのか」と抗議をはじめた。意味がわからない小林裁判長はそのたびに大声で「日本語で話しなさい」「とにかくだまんなさい」の連発。珍問答の応酬に沖縄青年同盟のメンバーの多い傍聴席は爆笑。興奮した裁判長は「チバリヨ」(がんばれ)と叫んだ傍聴者に大声で「拘束」命令を下した。/いったん休憩後、裁判所が合議。日本語について「日本語とは広く一般に通用している標準語をいう。被告はその標準語を使えると判断します」と"標準語"を使うよう指示した。
(「琉球新報」1972年2月17日朝刊)
 法廷に立った3名と裁判長とのやりとりを「珍問答」としつつも、沖縄語の侵入で正気を失い慌てふためいた裁判長の姿が浮き彫りにされ、威厳を取り戻すために裁判長がすがった「日本語」の権威と「大声」、そして「拘束命令」という権力行使の顛末まで追っている。悪意の目で見た記事との違いがある。ただ、こうした違いはあったにしても、両紙に共通していえることは、3名が自らの口に乗せた言の葉を、「沖縄語(ウチナーグチ)」とはいったが、一度だって「方言」といったことはなかったにもかかわらず、なぜか「方言」と表記したことである。「方言」とすることと、「沖縄語」とすることの間には、言語学的な系譜には還元できない〈主体化〉をめぐる政治が介在しているはずである。だからこそ、記者が見逃さず書きとめた休憩をはさむその前と後での裁判長(所)の見解の変化が問題となってくるのである。
 つまり、沖縄語による陳述に動揺した裁判長が最初に口にした「日本語を話しなさい。沖縄語は日本語ではないと規定します」としたことは、日本語と沖縄語との〈裁き/裁かれる〉関係をのっぴきならない対立軸として顕現された。ところが、「休憩」と「合議」をはさんだ後「日本語とは広く一般に通用している標準語をいう」と定義づけしたことは、言語が法を呼び出し、稀に見る言語裁判に発展するはずの争点を、「標準語−方言」という言語学系譜に巧妙に囲い込み、回避していったのである。そこでは琉球諸島語は「方言」とみなされ「日本語・標準語」の下位概念として内属させられる。記者はそのことを目敏くキャッチしていた。そうした新聞が伝えた機微に鋭く感応しながら、儀間進は〈法廷に立った沖縄語〉のアクチュアリティを「そのとき、そこでなされた日本語論争は、支配者層が琉球方言をどのように位置づけてとられているか、ということを物語って余りあるけれども、そのことよりも、法廷でふいに方言を話し出すことによって、国家権力の側がもっている認識の亀裂に鋭くくさびを打ち込み、今までのような耐える姿勢ではなく、文化の側からの攻撃の武器としたことである」(「言語・文化・世界」「中央公論」1972年6月号)とまっとうに受け止めていた。
 では、ウチナーグチ裁判で一体、何がどのように問われたというのか。まずいえることは、言語そのものが法廷に立ったということである。日本の裁判史において言語そのものが法と関わった事例は、きわめて稀なことであったはずである。これは、「国家語」への一元化を仕込んでいくために採られた言語政策が、さほどの抵抗もなく成功したということを教える。むろんそうなるためには「標準語(共通語)−方言」関係が言語イデオロギーとして強力に機能したことはいうまでもない。
 沖縄語裁判闘争は、こうした「標準語(共通語)−方言」関係を裏返し、儀間進もいうように「国家権力の側がもっている認識の亀裂に鋭くくさびを打ち込んだ」のだ。言葉と法と出会わせた沖縄語の叛乱は、天皇の国家が百年をかけて成し遂げようとした沖縄併合の暴力を、一挙に現前化させもした。明治政府が他の制度的インフラに先駆けて手がけた日本人教育のための「会話伝習所」にはじまり、「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ沖縄語ヲ以ッテ談話シタル者ハ間諜トミナシ処分ス」とした沖縄戦における日本軍の命令綴り「球軍会報」まで、教育と訓化、監視と処罰を生々しく甦らせずにはおれなかった。
 1972年2月16日、東京地裁で裁判長が「日本語を話しなさい。沖縄語は日本語ではないと規定します」と断定し「標準語」使用を命じたことは、1945年4月5日沖縄戦で発せられた「標準語以外ノ使用ヲ禁ズ沖縄語ヲ以ッテ談話シタル者は間諜トミナシ処分ス」の軍指令とそのまま垂直に結びついていることを知らされる。ここに共通していることは、異言語に対する極端なまでの猜疑と恐れである。パニック状態に陥った裁判長の「大声」と沖縄語を使った者をスパイとみなした軍隊の監視の「目」は、どうみても植民地主義的な過剰反応といわざるを得ない。
 そして何よりも「法廷に立った沖縄語」によって問題にされたことは、国家への同一化を内面化し、沖縄人自ら進んで母語を捨て去っていくような主体のあり方である。日本の近代国家が沖縄に対してとった言語政策は「標準語−方言関係」のイデオロギー機能を強力に発動させ「言葉狩り」を行なったことであった。そうした言語政策を下支えしたのが権力の傘の裾野を広げた官庁と学校であった。先にも触れた「会話伝習所」での共通語教科書であった「沖縄語会話」や1940年(昭和15)の「方言論争」のきっかけとなった沖縄県学務部による「方言撲滅」運動、戦後でいえば「日本復帰運動」の中核的な存在であった沖縄教職員会が情熱を傾けた「共通語励行運動」にその草の根的な倒錯をみることができる。忘れはならないことは、ここでの言語現象が日本人・国民意識の育成と不可分に結びついていたということである。「国民」の誕生には「国語」が創作されなければならず、「国語」が生まれるために「方言」が発見されなければならなかった。「方言」は遅れた言葉、卑下すべき言葉として改める対象にされ、国家語としての標準語に位置づけられる。こうした言語に加えられた位階化の際立った事例は、沖縄の植民地性を抜きにしては語らないはずだ。
 ここにきて、フランツ・ファノンが処女作『黒い皮膚・白い仮面』の第一章で、言語への洞察からはじめたことの深い意味を知らされる。「私は、言語現象を根本的に重視するものである」という書き出しの「黒人と言語」は、植民地化された人たちの〈対他の次元〉にメスを入れていた。「植民地化された民族はすべて−言いかえれば、土着の文化の創造性を葬り去られたために、劣等コンプレックスを植え付けられた民族はすべて−文明を与える国の言語に対し、すなわち本国の文化的諸価値を自分の価値とすればするだけジャングルの奥地から抜け出たことになる。皮膚の黒さ、未開状態を否定すればするだけ、白人に近くなる」とファノンが言ったことは、沖縄に当てはめてもそれほど据わりの悪さを感じさせない。ファノンはここで言語を文化的価値として捉え、言語と植民地化された民族の主体/脱主体のありかたを問題にしたのだ。「話すとは、断固として他人に対し存在すること」であるともいっていた。
 ところで、フランス領マルチニック島を出自に持ったフランツ・ファノンが黒い皮膚の人間と植民地化された人たちの言語現象を解明し、本国の文化に位置づけられた植民地住民のコンプレックスを解き放つ試みの核心に、時と所を隔てていたとはいえ、もっとも接近したのが「日本復帰」を根本から批判した反復帰・反国家の思想だった。注目すべきなのはやはり〈対他の次元〉と〈主体〉のあり方が言語との関係で考えられていたことである。「反復帰」論の本格的な登場を告げた新川明の「非国民の思想と論理−沖縄における思想の自立について」(叢書『わが沖縄』所収、木耳社、1970年)では、復帰思想の虚妄と日本コンプレックスを自覚化し、反復帰へと至る自己史が辿られていたが、そのなかで新聞記者として大阪支社に勤務していた頃、家庭環境のせいで沖縄口が満足にしゃべれないことに強い自己嫌悪と差恥を覚え、アパートに帰ってから妻を相手に沖縄口の習得に努めたという興味深いエピソードが紹介されていた。「思えば60年安保をはさんで前後4年の大阪生活で、わたしが得たものといえば、一つはいわゆる「母なる祖国」幻想を現実の生活体験を通して突き崩す契機を持ったことであり、もう一つは沖縄人として、その言語を、アクセントの誤りや語彙の貧しさはやむを得ないとしても、なんとか口舌にのせることができたことの二つだけといえるかも知れない」といっていた。何でもないようだが、ファノンがいっていた植民地化された人々が土着文化の創造性を葬り去られたことと、植えつけられた劣等コンプレックスを解き放つ端緒を印す行為が言語現象との関わりにおいて語られているのである。いわば、沖縄口の習得は、日本同化コンプレックスからの脱出と未成の「主体」の領域に踏み出していくためには避けては通れなかった。
 そして川満信一の「ミクロ言語帯からの発想」がある。これは復帰運動批判と沖縄における「主体」の回路を言語の問題と関わらせて本格的に論じたという意味で注目すべき論考になっている。琉球諸島に細密画のように紋様を描く言語地図を「ミクロ言語帯」として、島尾敏雄が提唱した「ヤポネシア」論を手がかりに、これまでの視点を逆転し多言語主義的な可能性へと差し向ける。「日本のヤポネシア化」にとって琉球諸島のミクロ言語帯の乱脈、不統一は決してマイナス要因にはならないといっていた。
 自らの言語体験を振り返り、日本民芸協会と沖縄県学務部との間で交わされた「方言論争」を批判的に捉え返し、宮古多良間島の「一秀才」の例を挙げていた柳田国男の指摘を援用しつつ「ことばの重構造」について述べていた。
 「たとえば多良間島の一秀才は、小学校を平良の町に卒業し先ず宮古島の語を学び、師範学校時代を首里で送って、ここで沖縄本島と標準語とを学んだ」(『沖縄県の標準語教育』)と柳田国男が書いているように、場合によっては日本語(共通語)に達するまでに四重の言語障壁を突破しなければならないような、ことばの重構造というのは、そのまま支配の重構造と一つになっており、それだけに沖縄内の方言、あるいは沖縄方言と共通語の関係は、たんなる方言問題にとどまらず、多様な問題を包括している。(「ミクロ言語帯からの発想」「現代の眼」1971年1月号)
(「ミクロ言語帯からの発想」「現代の眼」1971年1月号)
 「日本語に達するまでに四重の言語障壁を突破しなければならなかった」のは川満自身でもあった。「だからこそ」と続けていう。「だからこそ、ヤポネシアという多系列の時・空間概念によって、沖縄が、さらに琉球弧の島々が、それぞれの異質性をもとに国家支配の軛をふり落すためには、いま一度、方言と標準語の関係を問い返す必要が生じてくる」とし、そこからミクロ言語の胎内の闇に降り立ち、言葉が生まれてくる初源の光景まで創造力を届かせ「ことばの社会的機能の便宜を得たかわりに、方言の拠ってきた文化と精神風土の秘境を喪失し、ミクロ言語の胎内の闇に輝くことばの生霊たちを埋め殺すとすれば、沖縄の不幸は政治の表面にみられる不幸などとはくらべものにもならないほど深いものになるはずである」と結んでいた。
 琉球弧のミクロ言語が法廷に立ったのは「ミクロ言語帯からの発想」が書かれたほぼ一年後のことであった。言葉の精霊が法廷ではぜた。「沖縄語裁判闘争」は、「ミクロ言語帯からの発想」を、状況へと転綴される実践だったといえなくもない。とはいえ、こうして言葉が法廷に立つまでには、日本語の手前で「ことばの重構造」を難題として抱えながら吃音を囲う多くの「出沖縄」の群像を忘れてはならないだろう。
 『反国家宣言−非日本列島地図完成のためのノート』(プロダクション犀、1972年)は、そうした「出沖縄」の群像にカメラを向けていた。沖縄青年同盟の「沖縄語裁判闘争」からはじまり、非日本列島地図を描くように、大阪の沖縄人集落、1972年復帰をはさむその前後の沖縄に移動、さらに八重山の台湾人移住者を訪ね、それから一挙に北へターンし、北海道のアイヌへと至る旅の記録である。このロードムービーは、川満信一の「ミクロ言語帯からの発想」との深いところでの共振があるように思える。なかでも印象に残ったのは、中学を卒業したばかり、まだどこか幼さが残る少年や少女たちが、東京の晴海埠頭に下船するシーンである。これらの集団就職の「出沖縄」たちが、タラップを降りるところからパスポートを提示しての入管手続き、埠頭に集められそれぞれの雇用先の会社が用意したマイクロバスに乗り込む表情などを写していた。
 これらの映像に奇妙なニッポン語を使う男の声がかぶせられる。「ただいま紹介になりました琉球政府東京事務所厚生労働課長の大城です。えー、皆さん、3泊4日の長い船旅、大変ありがとうでございました。なお、ご苦労さんです。皆さんの元気な顔で、就職するという意味で、皆さんの受け入れ機関である、東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県、静岡県の各県の関係機関の方々をはじめ、事業所の方々が朝の5時頃から起きて、この埠頭に待っておりました。皆さん、足許を見てください。〔中略〕次に、皆さんは、なかなかキレイな顔をしているし、少し色は黒いけれども、一冬過ぎますと、皆さんの顔色も、私のように黒くはなりませんが、もっと白くなります。ですから、よく健康に留意して、頑張っていただきとうございます」。
 それから琉球政府東京事務所厚生労働課長は、極めつけのセリフで決めるといわんばかりに「そこで、私は、皆さんと一緒に、これから労働者の歌を歌いますから、皆さん手拍子をお願いいたします。汗水を流して働く人は、その心はこんなに嬉しいことはない、そういう歌でございます」と、次第に昴ぶってくる自分の感情に煽られるように、ハンドマイクのスピーカーの声が割れるほどの大声を張り上げ「アシミジユナガチー、ハタラチュルヒトヤー、ククルウレシサヤー、ユスヌシユミー、ユスヌシユミー、ユイヤサーサー、ユスヌシユミー……」。
 歌うということではなかった。まるでアジテーションだった。海を渡り東京の埠頭に降り立った集団就職の若すぎる後輩たちへの労働教訓歌ともいえる琉球民謡「汗水節」の披露は、大城を名乗る琉球政府東京事務所厚生労働課長の精一杯の励ましのようにも聴こえた。だが、このシーンはアメリカと占領下の軍事的植民地沖縄から流れ出すアドレセンスと労働力がどのように「日本本土」の労働力市場に内属化されていくのかを写し込んでいた。
 そして、次に重なる少女の声は、あの多良間島の少年が辿った「日本語」に至る言語の階梯を思い起こさせる。もっともここでは「秀才」などではなく、中卒の出稼ぎ労働力である。それだけにいっそう「日本語/標準語」へと至る道は痛切な様相を帯びているように思えた。
 「東京で知っていることって、どういうこと?」とマイクを向けられた少女は、はにかみながらも「人が多いこと……、公害……、あと、何かな……、言葉がキレイ」と答える。すかさず「そうかね、東京の言葉ってきれいかね?」との問いかけに、「沖縄で訛りが多いから。一度行って直したと思って。自分にとって、今、言葉を直したいから」といっていた。この少女の話から見えてくるのは、つい最近まで通ったであろう学校空間で、沖縄の先生たちによって実践された「言葉狩り」の影である。
 ミクロ言語帯からヤマトに流れ出てきたこれらの出自が辿る道は、植え付けられたコンプレックスと「キタナイ」訛りがあるとみなされた母語を捨て去り、「キレイな」言葉であると幻想した「標準語/日本語」に同一化するか、それともミクロ言語帯の肢内の闇に降り立ち、言語と主体をめぐる未知に赴いていくのか、そのいずれかである。
 1972年2月16日、言葉が法廷に立った日、インタビューに答えた少女の声とその背後の無数の彼/彼女の言語の階梯は、これまでの同化主義的な線からミクロ言語帯の乱脈や凹凸をそのものとして自立させる列島化された主体のオートノミーへの道を垣間見せたはずである。法廷に立った3名の出自が沖縄本島・宮古・八重山であったこと、そして、それぞれの言葉からでの陳述を試みたこと、このことはだから象徴的でさえあった。晴海埠頭で思いもよらぬ「汗水節」で迎えられた「出沖縄」たちの〈在日〉には、「書かれざる一章」が降り積もっていた。

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<7>漂流と迂回、あるいは始まりにむかっての旅


  『沖縄列島』から3年後の1971年、東陽一は『やさしいにっぽん人』を作った。「多様性に向かっての開かれた窓」であり、同時に1978年8月から10月の転形期の沖縄を巡る「鈍重な巡礼」でもあったドキュメンタリーから、役者の肉体と虚構の物語による沖縄との応答としての劇映画への移行は、映画作家にとってどのような表現上の転回があったのだろうか。
 『やさしいにっぽん人』の直後、東陽一は「映画『沖縄列島』から3年」という一文を書いていた。『沖縄列島』ではイメージでしかなかったものが現実となったことや『沖縄列島』の外延を地理としては東京に、思念としては映画に生きている位置をたしかめ直しながら書き綴っていたが、冒頭、埴谷雄高の『幻視のなかの政治』(未來社)から「政治の幅はつねに生活の幅より狭い。本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、屡々、生活を支配しているとひとびとから錯覚される、それが黒い死をもたらす権力をもっているからにほかならない」という言葉をエピグラフとして置いていた。それは、1969年の日米共同声明に表現された政治的カラクリをオーソライズするものとして、1971年6月17日の夜、虚偽にいろどられた沖縄返還協定の調印式のテレビ中継を見た時に抱かされた強い疑念が書かせたものであった。ここでとりわけ興味を引くのは、黒い死をともなった〈幻視のなかの政治〉を想起する形で沖縄返還調印式を見ていたことである。
『やさしいにっぽん人』のモチーフについて、こんなことをいっていた。
 『沖縄列島』に続く私自身の作品は、たとえば大江健三郎が『沖縄経験』というときに、その「経験」ということばにこめようとしているほどの内実まではまだ高められない私の沖縄「体験」を一つのモチーフとし、更にあの69年の日米共同声明にふれた時の、あのような日本語のスタイルというものへの深い疑惑を他のモチーフとしつつ、その他の様々な個体内的な動機と錯綜しながら作りあげられたフィクションであるけれども、それはまだ、とりあえず措定された、映画の全体的な変革という目標にははるかに遠い地点に置かれた一つのめじるしという自己認識をこえるものではない。
 (「映画『沖縄列島』から3年」「現代の眼」1971年8月号)
 ここで注意したいことは、日米共同声明にふれたときに感じた日本語のスタイルへの深い疑念ということであるが、その「日本語のスタイル」にこそ、あの生活の幅よりも狭いはずの政治が生活を支配する倒立が敷設されているのだ。考えてみれば、琉球処分といい、皇国防衛の「捨石」となった沖縄戦といい、戦後日本の独立と引き換えに分断され極東の軍事的「要石」となったことといい、併合と分離を反復させられた沖縄の歴史的体験はまさしく国家としての日本と日本語のスタイルに構造化された植民地主義の圧倒的なまでの実証であった、といえないだろうか。
 しかし、ここで問題にしたかったのは、ほかでもない「死」についてである。といってもその「死」は、『幻視のなかの政治』でいわれたそれとは幾分趣を異にしている。いや、その「死」は民衆の生活の底まで浚い、人々の共同の観念を吸引したという意味で、生活と政治の倒立の極限の相ともいえる。沖縄戦における「集団自決」である。
『やさしいにっぽん人』は、渡嘉敷島の集団自決を一歳の赤子の時に体験し、奇蹟的に生き延びた青年を主人公にしている。その主人公の設定に、東陽一の「沖縄体験」がどのようなものであったのかを知ることができるはずだ。それはまた、返還協定調印式のテレビ中継にみた虚偽と日米共同声明の日本語のスタイルに抱いた深い疑念と決して無縁ではない。この映画はゴダール風の論争劇への志向をみせつつ構成的実験と虚構を発条にして生活と政治を倒立させた日本語のスタイルに対する挑戦でもあるといえるはずだ。
 それはまた、「1952年のサンフランシスコ条約から71年のこの返還協定の調印まで、ほぼ20年余のあいだに、ほかならぬ私たち自身をその「生活」とするところの「日本の「政治」は、実におどろくべき早さでみごとに転生したのだ」とした、その〈転生〉の内実そのものを深く問う作業でもあったのだ。そのことは、60年代後半から70年代年代はじめにかけて噴出した様々な戦後的矛盾の諸相、たとえばそれは公害問題、在日朝鮮人問題、家庭内暴力、ベトナム戦争、社会的反乱と権力、都市に流れ込んだ無数の群像がかかえた葛藤などを、〈転生〉を拒まれ、戦争の継続としての占領を生かされてきた沖縄の、しかも「集団自決」を生き延びた一人の青年の定点を定めることのできない彷徨によって、問い直そうとしたといえよう。複数のシークエンスのコラージュの様相を呈しつつ無定形に沸騰する東京、その時空を映画で、しかもドキュメンタリーではなく虚構の力によって描こうとしたところに『やさしいにっぽん人』の表現の位相があった。
 東陽一は「映画『沖縄列島』から3年」のなかで、「3年前に沖縄に行って映画を作り、それを作ったことの外延を、地理としては東京に、思念としては映画に生きている」ともいっていたが、その〈地理としての東京〉と〈思念としての映画〉の地政学を見抜いたのは、中上健次であった。
 映画は、謝花治というたしかに沖縄とはつながってはいるのだが、はっきり肉としての沖縄をとらえることのできない、氏素性(アイデンティティ)をも確認できない青年が主人公になっている。この映画は素人のはじめての映像を使って自己表出しようとした監督や俳優たちの映画のはじまりにむかっての旅と言えようか、それとも〈シャカ〉が〈じゃはなおさむ〉になることにむかっての旅と言えようか?
 (〈特集・日本映画における沖縄の登場〉「シャカをどうする」「映画芸術」1971年3月号)
  『沖縄列島』を作ったことの外延を、それでも沖縄を出自にもつ青年を東京の時間と空間にインサートしたことと、ドキュメンタリーからフィクションへ移行したことの、避けがたい表現上の実験性が問いかけの形をとって言い当てられている。中上はその実験性を〈旅〉といった。
 ところで、では、1945年3月末、慶良間列島の渡嘉敷島での凄惨な集団自決を一歳の赤ん坊のときに体験したが記憶はなく、ただ背中に大きな傷跡を残っている謝花治を主人公にしたことで、二つの旅はどのような道筋と色あいを持つことになったのだろうか。彼は東京に出て、オートバイ屋に働いているが、主任や同僚たちからはヤマトふうに「シャカ」と呼ばれている。彼には劇団の演出助手をしているユメという恋人がいる。ユメは所属する劇団の集団自決をテーマにした劇の調査で渡嘉敷島に派遣されるが、集団自決のときカミソリで首を切られ声帯を失った女性と会って、自らも失語症に陥り、渡嘉敷島で彼女自身に何が起こったのかを劇団員にいっさい報告することはなく、そのため演出家の野口からはその責任を激しく問詰される。
 「シャカ」は、何事においても言動があいまいで、自分の意見を明確に持たない「引用魔」などと揶揄される。「シャカ」と呼ばれても、酒を飲んで酔っ払っているときだけ謝花という以外、あえて訂正を迫ることはしない。およそ意志が欠如しているとしかいえない植物的な存在として描かれている。
 だが、東京において謝花治が「シャカ」であること、そして一貫してアイマイであることこそ、ほかならぬ「沖縄の肉」を持たないシャカの「シャカ」たるゆえんなのだ。演出家の野口が「彼は自分の体験したその地獄を、意識としては何も記憶していないということと、にも拘わらず肉体そのものが、傷跡として、おそらく自分の両親たちによって受けた殺人未遂を記憶しているということによって引き裂かれている」というように、「シャカ」のアイマイさと自分の言葉をもたない「引用魔」は、その引き裂かれたことに深く起因していっても決して過言ではない。あるいは原体験が現在に生かされない深い断絶に起因している、といえばいえよう。周囲からつねに「おまえは何者か」「何がしたいのか」の態度決定を迫られつつ、アイデンティティを漂流しているし、彼自身「俺は何者であるか、何をやりたいか、オートバイが好きでオートバイ屋やっているのか、よく判らん」などと漏らす。要するに意志というものが深く隠されているのだ。だからだろう、シャカとユメは、肉体を重ねることによってそのアイマイサと失語を植物的に生きる以外ないのだ。
  「シャカ」のアイマイさとユメの失語と野口の明快なモチーフの関係を卓抜した構成で描いたのが、「斜面」のシーンである。それは「雑草の生い茂った斜面に、ユメと野口またはユメとシャカが坐って話している。会話は3人の間で続いてゆくが、ユメのそばには、いつもシャカだけか、野口たけがいる。つまり、同一空間の別時間が、同一時間として連結されている」とト書きされていた。そこで交わされる会話は、ユメが渡嘉敷島に調査で行ったときのこと、シャカが集団自決で生き残ったことを他人から教わり、古い傷跡しかのこってない体験など体験といえるのかと懐疑的になること、そしてユメが劇団を辞めたがっていることや失語症になりかけていることなどが人子状に組み合わされ、ポリフォニックな効果を引き出している。この3人の「同一空間の別時間が、同一時間として連結されている」重層的な時空は、自然な時間の流れと空間の一次元的配置を解体し、組み替える。こうしたトポロジカルな時空にこそ、ほかでもない、「1970年の東京が、1945年の沖縄慶良間列島渡嘉敷島と深くかかわっている」関係と構造があるのだ。
 もうひとついえば、野口たちの芝居を上下二段に分かれた舞台構成にしたことである。つまりここでは、同一空間に異なる二つの流れを配置することによって時間の構造が重層化されている。その上下異なる二つの流れとは、上に組まれた世界は田舎から東京への流れとして、下の世界はそれとは逆の流れで、東京の下の大きな地下道として、生まれた所へ帰る道、東京から渡嘉敷への道として設定されている。
 この劇中劇のシーンはまた、シャカの無意識とその無意識の扉を開く沖縄への帰還を暗示させる導線にもなっていて、ある意味では、中上健次が問うた「シャカが謝花治になるための旅」への出立を転回づけてもいた。その次に接続されるシャカの部屋の外と中の場面は、たしかな旅立ちを印しづけていた。ちなみに〈部屋の外〉の場面では、「シャカ、エンジンをふかして、オートバイの調子をみている。/何度も何度も、しつこく、シャカ、オートバイを点検している。/沖縄の、四ツ竹の音楽がひびきはじめる」となっている。〈部屋の中〉はどうかといえば、「シャカ、沖縄渡航用のパスポートをながめている。ベッドの上にドル紙幣が散らばっている。/シャカ、キャメラをふり返る」様子が描かれる。部屋の壁には『イージー・ライダー』のピーター・フォンダの写真があり、そこでも沖縄の歌が続いている。
 そして、「シャカが謝花治になる旅」にとって決定的な事件となったのは、ツーリングの途中激しい雷雨にあい、雨宿りのためにまぎれ込んだ草原のはずれの廃屋で、家族を皆殺しにして東北の山中から逃げてきた分裂病の殺人魔との出会いであった。ずぶぬれのシャツを脱ぐと、上半身裸になったシャカの背中の傷跡が露出する。銃口に気づき一瞬ギョッとするが、男はおもむろに銃口を立てひざに抱え込む。激しい雷雨の後の廃屋は不気味なほどの静寂にみちていた。シャカは煙草を取り出し火をつけ、使われなくなった便器の上に赤子のように背を丸めしゃがみこむ。不意に男が口をひらく。
男「わだすは、根元又三郎ですが、あんた、どなたですか」
シャカ「ぼくは……ぼくは、謝花治です」
 しばらくまた沈黙と遠雷の時間が流れ、脈絡のない途切れ途切れの会話が交わされる。そして。
 男「わだすは……何も……語れねえので……ふたつ……ふたつだけ……言います。わだすは、分裂病で、気ちげえだそうです。……きのう、この鉄砲が……よしえと……明とすえと、洋子を殺して来ました……みな……わだすの家族です……」
 男、どんよりシャカを見つめる。/シャカ、凝然と宙をみつめる。/長い間が続く。/雨の音は聞こえなくなった。シャカの耳に、遠い沖縄の歌がひびいてくる。/シャカの顔に、不思議な微笑みがうかんでいる。
 この場面は、啓示的ともいえる高い象徴性を帯びていて、この映画のモチーフの核心を描きあげているといえよう。集団自決の傷跡が剥き出しになった身体は、身体そのものにおいて男の言葉に感応する。分裂症を患った男の一家皆殺しの告発は、時を隔てた一九四五年の渡嘉敷島での惨劇の場に居合わせた一歳の〈記憶なき記憶〉の無明の闇に光をあてる。そのときはじめてあの〈斜面〉でシャカが「俺は何も知らない。ひとから教わったことと、古い傷跡しか残っていない体験など、体験といえるか」とユメにいった言葉が潜在意識から解凍され「体験」として意識化される端緒が開かれたのだ。そして自らの口からはじめて「謝花治」という名を発したこと、これである。凝然と宙をみつめ、不思議な微笑みさえ浮かべるシャカの表情はそのことを示唆しているはずだ。凝然とみつめた宙とは、一家皆殺しの惨劇と渡嘉敷島の集団自決で「自分の両親から受けた殺人未遂」を「同一空間の別時間が、同一時間として連結されている」もうひとつの〈斜面〉としてみることもできる。
 さらにその後に展開するデキゴトは、シャカの存在性を鋭く衝き上げることになった。シャカのアイマイさの奥にあるものが暴力によって開示される瞬間でもある。
 男は銃を抱えて外に飛び出す。と、その瞬間包囲した武装警官の発砲した一発の銃声が静寂を破り、男はどっと倒れこむ。シャカはかけより、男を抱き起こそうとするが、即死だった。駆け寄ってきた警官が、人質だと思い込んでいたシャカにケガはないか、声をかけるが、逆にシャカは警官におどりかかり、押し倒す。警官は倒れまぎわに引き金を引く。二発目の銃声がシャカの左腕を抉る。「貴様! 人質じゃなかったのか! 貴様、一体何者か!」とシャカを怒鳴るように詰問する。シャカは血の噴き出る腕をおさえながら叫ぶ。
「おれが何者だったら、お前ら気がすむんだ!」
 この叫びは、シャカに何者かであることを迫る態度決定の要請が、実は、一種の権力なんだということを一挙に現前化しただけではなく、つねに「何者かであれ」と命じる同僚や「集団自決の生き残り」という役割の振り当てに対する問いと糾弾が交差したところから放たれた言葉の弾道なのだ。もっといえば、何者かの役割を演じさせてやまない1970年の東京という演劇的空間への根源的な違和の表明だとみることも可能だ。シャカが暮らした1970年東京は「何者かであれ」という圧力で包囲されていた。だが、シャカは「何者かであろうとする」ことを漂流し非決定を生きる。ネガティブに語られるシャカの「アイマイさ」や「引用魔」としての存在は、してみると、意志的なものが帯びる権力性を迂回する無意識の方法だといえまいか。
 翻っていえば、東陽一が『やさしいにっぽん人』のモチーフの一つに挙げた沖縄の日本への統合を仕込んだ六九年の日米共同声明のような日本語のスタイルへの深い疑念、つまり、生活に支えられている政治が、逆に生活を支配する倒立をシャカはそのアイマイであることと、意志を不在にすることによって逆に意志的なるものの深い根拠をいいあてるのだ。日米共同声明の日本語のスタイルは、ほかでもない、「何者かであろうとした」(「異民族支配」からの脱却としての「祖国」復帰と日本国民(人)になること)沖縄の意志を併合の論理に絡めとっていくことであったのだから。「何者かであろうとする」意志が「日本語のスタイル」との共犯化を招いているということだ。このことは中上健次が問うた「謝花治」になることの旅を、もうひとくぐりして異なる回線に接続していることを要請する。
 かくして、シャカは南へと回帰する「謝花治」への旅を生きようとする。だが、帰る途上で、前輪に食い込んだ釘でパンクしたオートバイはガードレールに激突し、漏れたガソリンに引火してバイクも炎上する。路上に放り投げられたシャカはおもむろに立ち上がり、ポケットから煙草を取り出し、ゆっくりと火をつけ、ふかす、炎上する炎の向こうで炎とともに揺れているようにも見えるシャカは、一体何を思ったのだろうか。中上健次は洒落っ気を出して「とにかく映画はそこでありきたりのエンドマークは出るが、しかしそこからまだはじまりにむかっては、随分物理的な道程があることはたしかだが、河原崎長一郎も東陽一監督も、シャカをどうしようというのだろうかそれをぼくはききたい」といっていたが、ありきたりのエンドマークに書き入れたはじまりにむかっての旅は、しかし燃えさかる炎の向こうのイージー・ライダーになりそこなったシャカの顔とともに宙吊りにされたままである。
 中上健次がいった「シャカが謝花治になるための」はじまりに向かっての〈旅〉と集団自決の記憶を現存在とする覚醒の場は、だが、シャカを演じた河原崎長一郎や監督の東陽一の手の内を越えていたといわなければならない。それは沖縄の戦後思想が、戦争責任と戦後責任を介在させつつ、沖縄戦後史をひと色に染め、国家と民族の物語の円環に封じ込めた日本復帰運動を根源的に批判する言語的実践によってこそ、成し遂げられるものであったといわなければならない。沖縄の思想が到達した核心は、まさにあの生活と政治の倒立を極限までいった「集団自決」の修羅に降り立ち、そこにある沖縄のコロニアルな母斑を素手でつかみ出すことであった。コロニアルな母斑とは、「何者かであろうとする」意志的なものが、深く国家と民族を呼び寄せてしまう、目もくらむほどの逆説であり、またアポリアであった。その逆説的なるものとアポリアこそ、従属ナショナリズムとしての日本復帰運動に断たれることなく引き継がれているものであった。つまり、「集団自決」と「復帰運動」に、シンメトリックな心の働きをみていたということである。川満信一はいっていた。
 唯一の国内戦場として、集団自決や学徒動員されたものたちの玉砕をはじめ、ほとんど極限的なかたちで天皇(制)思想にうら切られた沖縄の民衆は、どうして性こりもなく、かつて天皇(制)イデオロギーに吸引されたのと同じ心的位相で本土を志向し続けるのだろうか。復帰協の運動のなかで、人々が「本土」というとき、それは「国家」や、あるいはかつての天皇(制)絶対主義に基づく「国体」といった概念乃至イメージと厳密には見分け難いものとなっている。
(「沖縄における天皇制思想」『沖縄の思想』木耳社、1970年)
 また、同じ『沖縄の思想』のなか岡本恵徳は、こんなふうにいっていた。
 そして、戦禍が直接に生活の基盤となる土地に襲いかかったから、それが一層強烈に現実化されたのだと思われる。だから状況の変化によっては、たとえば「復帰運動」のような民衆運動としても現実化する契機を持つものとしてそれは考えることもできる。誤解をおそれずにあえていえば、「慶良間列島の集団自決」と「復帰運動」は、ある意味では、ひとつのもののふたつのあらわれであったといえよう。
(「水平軸の発想−−沖縄の「共同体意識」について)
  「集団自決」と「復帰運動」が「天皇(制)イデオロギーに吸引されたのと同じ心的位相」という川満信一の読みと、「ひとつのもののふたつのあらわれであった」という岡本恵徳の読みは、沖縄の戦後思想のひとつの到達点である。ここから見ると、シャカの「アイマイさ」と「俺が何者だったら、お前ら気がすむのだ!」という叫びは、独特な陰影を帯びてくる。そしてこの地点においてこそ、沖縄の思想とシャカのはじまりに向かっての旅は、「同一空間の別時間が、同一時間」として連結される。コロニアル沖縄にとっては「何者かであろうとする」ことは、つねに国家と民族への同化圧力として機能する。だからこそ、「シャカが謝花治になるための旅」や主体と意志的なるものへ至る道は、幾つもの迂回路を通らなければならないのだ。
『やさしいにっぽん人』は、日本映画における沖縄の登場を、1970年東京をトポロジックな時空にすることで、そこを漂流するシャカのねじれた実存をそれこそ八方破りの実験で描いた。そして沖縄の思想は、コロニアル沖縄が主体を獲得しようとするときにおちいる罠を剔出し、〈やさしいにっぽん人〉にさえ成りそこなったシャカの、その成りそこなうことにこそ可能性をみた、ということができる。

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<6>巡礼と朱の×印



 「この映画で語られるすべてのことがらは、1968年8月から10月までの三ヶ月間に撮影された」とはじめにインポーズされた東陽一監督の『沖縄列島』は、転形期の沖縄の断面を描いたドキュメンタリーだといえよう。はじめにインポーズされた「三ヶ月」には、沖縄が置かれていた政治性と撮影クルーのロケーションがある制約のもとで遂行されなければならなかった、ということを仄めかしていた。当時の沖縄は渡航制限下にあり、観光ビザでしか入ることが出来ず、しかも三ヶ月を越えて滞在することは許されなかった。むろん面倒くさい手続きさえ厭わなければ延長は可能だとしても、「三ヶ月」というあえての書き込みに、東陽一は映画と沖縄の出会いの意味というか、ドキュメンタリーの(存在と時間)を刻み込もうとした、といえば穿ち過ぎだろうか。
 たしかに『沖縄列島』は、沖縄にとっての〈1968〉年とは何か、ということをドキュメンタリーの〈存在と時間〉において考えさせてくれる。フィルムの運動で運ばれてゆく複数のイメージと声は、まぎれもない1968年の沖縄の時と沖縄という場がみせるレアな表情であることにかわりはない。黒木和雄がいうように、これは「ただひたすらに鈍重なまでに沖縄の島々を巡礼して歩く」映画であり、と同時に「多様性に向かって開かれた窓」であるといえよう。ここでの〈巡礼〉という言い方には、沖縄に対する一種の贖罪の翳りを嗅ぎ取っていたことがうかがえる。プロローグに布置された声は、そんな東陽一の贖罪の構えと翳りを強く印象づけるものがあった。
 それは日本の戦後の起源が隠した、というよりも、起源に構造化された日本による沖縄に対する〈罪〉を暴き出し、「あんたはどうなんだ」と迫るものであった。「あんたはね、アメリカが私たちを苦しめていると思うのか。あなた方がアメリカを頼んで来てね、わしらをひどいめに会わしておるんだよ。……戦争、だれがやったのか。(中略)日本の政府とかね、日本の国民はね、私たちをアメリカに売りはらったか……恥さらしだよ。」と詰問する声は、のっけから観る者を息苦しくさせただけではなく、東たちのフィルムの運動を方向付け、規定したにちがいない。このことは映画にとって必ずしも幸福な出立ではなかったが、『沖縄列島』のよさも限界も、はじめに贖罪の法門をくぐってしまったことに関係している、といえよう。こうした東陽一の「鈍重なまでの巡礼」の意味を看破したのは川田洋だったかもしれない。川田はヤマトから沖縄へ視線を向けるときに足をすくわれる沖縄のもつ〈観光地性〉に触れ、『沖縄列島』の〈巡礼〉に潜む眼差しの性格を、「日本ドキュメンタリスト・ユニオン」=NDUの『モトシンカカランヌー』が、自らの視野をレンズのアパーチュアに限定したことと比較していっていた。
 ヤマトから〈沖縄〉へ視線を向けるとき、この「観光地」性に足をすくわれない保証は誰にもない。ビジネスであろうが「闘争」であろうが、訪れる人々をいやおうなく「観光客」にしたてあげてしまう圧力が、あの群島には確実に存在する。東プロの『沖縄列島』は、最も水準の高い左翼観光映画であり、〈みにくい日本人〉・大江健三郎は、その映画に姿を見せた若い観光バス・ガイドに一目会いたいとコザの市中をうろついた。おそらく「観光客」としての規定性から完全にまぬがれえた沖縄訪問者がいるとすれば、この数年の間にかぞえられるのは防衛庁長官中曽根と、第三次琉球処分官山中だけだったのではあるまいか。/権力者は、まさにその権力者として持つ意志の力によって「観光客」たることからまぬがれたのだ。だとすれば、「観光客」から脱出しようとするなら権力者の階級性とサシでわたりあうに足る階級性を身に帯びるか、さもなければ一人の〈生活者〉として沖縄の〈生活〉へのめりこんでゆくしかない。
(「〈国境〉と女たちの夜明け」「映画批評」1971年7月号)
 なかなか興味ぶかいことがいわれている。『沖縄列島』を「最も水準の高い左翼観光映画」というキツイ評言は、黒木の「鈍重なまでの巡礼」という言い方と対応しているが、もとをただせば贖罪の構えに行き着くはずだ。川田はさらに視線のあり方を問題にして「沖縄列島を真上からにらみすえて、革命または反革命のためにそこに降り立つかさもなければ、社会空間の底の底に澱む暗部の中へ潜行してその底点からすべての上層を透視するか、いずれかだ。上からか、それとも真下からか、なのだ。そこをずっこけて横から投げられた視線は、どんな角度をもとうが一切が「観光客」のものとしてひとつにたばねられてしまう」と、いい足していた。だが、とあえていえば、「最も水準の高い左翼観光映画」という評言が本質をついていたとしても、この映画を貶めているだけなのかといえば、必ずしもそうとだけはいえまい。なぜなら、東陽一はほかならぬ自らの視野をレンズのアパーチュアに限定することを放棄することによって、「横から投げられた視線」を獲得し、沖縄列島を横断することを可能にしたといえるからである。このことは川田洋の指摘を、違った角度から考えてみることを要請する。「左翼観光映画」と感じさせるのは、実は「映像」それ自体の問題というよりは、映像を運び、意味づけ、フレーミングする「語り」に大きく左右されているように思えるのだ。ここにはドキュメンタリーの方法に関わる、何か重要な問題があるように思えてならない。ちなみにナレーションを消して見ると、登場した人物の声と映像の持つ喚起力に逆に驚かされる。ということは、映像を意味づける説明的なナレーションにこそ、あの「鈍重なまでの巡礼」と密通した「高級な左翼性」が住み着いている、といえまいか。
 『沖縄列島』の視線は〈生活者〉のそれではない。むろん、権力を巡る〈革命/反革命〉者のそれでもない。あえていえば、移動者の〈動体視力〉とでもいえばいえようか。そしてそれは、上からでもなく、下からでもなく、まぎれもない横からの視線なのだ。定点を定めず、止まることはない。この移動する視線が、沖縄の政治と生活の幅や有名、無名の群像を捕捉することが出来たということは間違いないだろう。スクリーンそのものが窓となり、1968年の変転するデキゴトや人物や風景が残像となって網膜を流れる。沖縄「列島」の沖縄〈列像〉ともいうべき群れなす映体が、そこにはある。
 これらのアメリカ占領下の沖縄列像から、忘れがたい幾つかの情景を挙げてみたい。
 まず一つ目は、コザ高校の運動会を追ったシーンである。少女たちの裸の脚が歩いていく、その先のポールに日の丸の旗が翻り、足踏みする列の中に黒人との混血の少女や、白人との混血の少女がフォークダンスの輪の中で踊っている映像に、「祖国という言葉が/もの憂く心に響くころ/青空のまぶしさが/ちかちかと心にさすころ/マッチ箱につめられた人々が/あがく事を忘れるのだ/(中略)祖国という言葉が/もの憂く心に響くころ」という詩を朗読する少女の声がオーバーボイスされる。この声には1968年・沖縄の社会意識の流動化が予感されている。
 2つ目は、人影のないコザのセンター通りのショーウインドーの中に、富士山の写真をバックにした「一体化で早期復帰を」のスローガンの下、満面に笑顔をたたえた日本国首相佐藤栄作が、沖縄自民党の主席公選候補である西銘順治の手を高く掲げている選挙ポスターがフォーカスされる場面。そして演劇集団・創造のメンバーで普段は観光バスのガイドをしている少女が、北緯27度線で隔てられた与論島の島影が見える辺戸岬で、将来何をするか尋ねられ、「将来、あ、そうか、来年の9月頃、ええと、本土に旅行したい。一度雪も見たいしね」と答えた後、これもまた富士山を使った「COLGATEを買って本土へ行こう!/6名さまを抽選により本土観光旅行にご招待」(「COLGATE」とはコルゲート歯磨きのこと)という広告ポスターが画面いっぱいを占めるところである。それから画面は、復帰協会長の喜屋武真栄が「過ぐる沖縄戦で、沖縄96万の県民は、その意志に反して、祖国から断ち切られた訳でありますが、私たちはその沖縄県民を、1日も早く祖国に戻したい、戻りたいという事で……/この復帰協の基本目標は、まず第一に、沖縄県民は日本国民の民族独立と、沖縄県民の主権回復の先頭に立つ……」とコメントするシーンに転綴される。この2つのポスターと2つのコメントが含意するのは、蔓延する「祖国」幻想とそれが政治と経済、右と左を問わず資源として盗用されていることである。一方が民族・国民の物語を生産するそれとして、もう一方はコマーシャリズムの剰余の文脈においてである。
 3つ目は、羊歯の茂ったひめゆりの塔の暗い洞穴の内部にカメラが降りたシーンに注目したい。暗いガマの中にはまだ小銃弾や軍靴が転がっている。カメラは壁の襞をなめる。そこにひめゆり学徒隊の生き残りの「……この手榴弾一つで、一緒に死のうって、皆こうして抱いてね、信管抜こうとしている時に、この政善先生がね、あの、今あんたが死んだらね、……日本人の血はね、ただわたし達16名しかこの……沖縄には残っていないかも知れないと。この16名がね、今から日本人の血を残して、そして、日本、日本の教育をするためにね、日本人教育するために大切な16名かもしれないからね、死なないでくれと言って、わたしの手榴弾をね、とめられたわけ……」という声が生き物のように流れる。ガマのなかに差し込んだ光をなぞるように、カメラが這い上がって中天を仰ぐ、と、ハレーションする光が無数の失となって降り注ぐ。このシークエンスは、暗い洞穴のなかで起こった惨劇を知ることができるだけではなく、沖縄戦をくぐった声がどのように生き延び、戦後に接続されていったかを伝えていて印象深い。
 つまりこういうことである。ひめゆり学徒隊の生き残りの証言は、沖縄の戦後が戦前の断絶の上に新たな文体で立ち上げられたのではなく、意匠を変えた再生であるということを生々しく伝えている。死をぎりぎりのところで生に反転させ、延命させたのが皇民化教育と同化教育によって形成された心的メカニズムであったという痛烈な逆説を、ここに見る。まさしくこのカラクリこそ、「祖国復帰運動」の母型となったものであり、戦争責任や戦後責任を不在にした空道≠ナあり、また沖縄県祖国復帰協議会会長・喜屋武真栄のコメントに聞いた空疎なナショナリズムの出自でもあったのだ。
 4つ目は、沖縄が繋がった、あるいは沖縄に流入した〈アジア〉である。「黒い殺し屋」といわれた戦略爆撃機B52や戦場の生々しい痕跡が残るスクラップの集積、那覇軍港に寄港した原子力潜水艦と被爆した潜水夫の身体は、沖縄が極東の軍事的なキーストーンであることによって投げ込まれた被害と加害の重層する光景だとみていい。東陽一は軍事的キーストーンの暴力性を、B52の圧倒的な出撃シーンの始終を真下から180度の角度で追ったカメラワークによって提示してみせた。誘導灯にそってフェンスの向こうから黒い機影が姿をみせ、上空を覆い尽くしながらゆっくりと水平線のかなたに消えていく、その瞬間、天と地が逆転し、黒い機影が海兵の下になった映像が出現する。この天・地が反転する映像に、私たちの視線のパラダイムは揺らぎ、沖縄とベトナムの関係を否応なく想起させられる。そして八重山のパイン工場で働く台湾からの若い出稼ぎ女工たちを追ったところである。パイナップルの「目取り」をする台湾からの若い出稼ぎ女工たちの、はにかんだ顔から足元に〈ティルト・ダウン〉するレンズの動きは、労働とエロスを写し込み、そこにアメリカ占領下の沖縄に流入した〈南北問題〉のグラデーションを描き入れている。
*
 『沖縄列島』は、動体視力によって〈1968年・沖縄〉の群像を捕獲した。だが、皮肉な言い方になるが、そうしたイメージの力はフィルムの運動を意味づける映画内部の「語り」においてというよりは、むしろ映画の外部で実践された〈1968年〉を巡る言語の争闘を介入させることによってこそよく理解できるように思えるのだ。『沖縄列島』とほぼ同時期に刊行された『沖縄・本土復帰の幻想』(三一書房、1968年)は、そんな沖縄の〈1968〉の核心を顕現させる言語的実践であった。
 この書に収められた伊礼孝の「沖縄から透視される「祖国」」と、伊礼を含め川満信一、中里友豪、真栄城啓介、嶺井政和ら5名によって行われた白熱する討論「沖縄にとって「本土」とは何か」は、その前年11月の日米共同声明で、小笠原諸島の日本復帰が合意され、沖縄については両3年以内に日米双方が満足しうる返還が実現されることが明らかになったことを背景にして、沖縄の戦後史を検証し、「沖縄にとって復帰する本土とは何か」、「祖国とは何か」が問われ、復帰運動の心情と論理を真正面から議論の俎上にのせている。ここでのポレミークな言葉の強度は、まさに時代のリミットで沖縄の思想がどのような格闘を強いられているかを教えてくれるばかりか、『沖縄列島』の「語り」に侵入し、フィルムの運動とじか談判する。例えば、「祖国」という言葉がもの憂く心に響いたコザ高校の少女の声や、暗いガマのなかでのひめゆり学徒隊の生き残りの証言は、言語の争闘を参照系として持つことにおいてこそ、その核心を顕わす。伊礼孝は本土の友人への手紙という形式をとった論考の初めに「国家は人から愛されたりするはずのない冷酷なものだが、国家よりほかにないから、人は国家を愛さないわけにはいかなくなる。これが現代人の受けている精神的拷問である」というシモーヌ・ヴェイユの言葉を援用しながら、「沖縄にとって、もはや「祖国」とは日本しかありえないということ、これ以上の精神的拷問がありましょうか。これを拷問として感受しつつ、なお「祖国復帰闘争」の必然性、その内実を究明しなければならない時点に、沖縄の私たちは立たされています」と、アンビバレントともいえる胸の内を披瀝し、次のように書き継いでいた。
 50年代における屈辱のなかから私たちがもとめてきたのは、まぎれもなく薩摩の侵入以来、支配と搾取を重ねられつづけることによって、その近代化・帝国主義的発展をあがなってきた祖国日本≠セったわけです。/「人から愛されてもふしぎのないものをことごとく殺し、ほろぼしてしま」った日本国を、祖国≠ニしてもとめてきたのです。アメリカ軍の支配権力があまりにも強力であるため、それに対抗するためには、同じように「強い」日本国家を背後にすることが必要だったと言えましょうか。いずれにしろ、「沖縄県民」にとって、これ以上の「精神的拷問」はほかにありません。
 「祖国」が日本以外ないということを「精神的拷問」として感受しつつ、なお「祖国復帰闘争」を闘うことの両義的な意味を生きること、ここに沖縄の〈1968〉のぎりぎりのラインが引かれているといえる。伊礼のこの論考は、その年の11月に実施される初めての琉球政府主席公選選挙を強く意識して書かれていたことは間違いない。主席公選をどう位置づけるかは、「祖国」復帰運動の評価と密接に関わっていた。伊礼において論理化されたのは、それ自体、日米支配権力の矛盾のあらわれとしてあった主席公選で「革新主席」を誕生させることによって70年安保・沖縄闘争へと追撃戦をになえる「抵抗政府」や「自立政府」を実現させる構想であった。
 だが、日本を「祖国」とすることを「精神的拷問」としつつ、なお「祖国復帰」に賭けるという思考は、美しいスラングにしか過ぎなかった。沖縄の〈1968〉的状況の先端で問題とされたのは、「祖国」への幻想の尻尾の始末をどうするにかかっていた。伊礼孝と川満信一の対立は、復帰運動の臨界に書き込まれた二つの極でもある、といえよう。「抵抗政府」の樹立と追撃戦論をとなえる伊礼に対し、川満はそこにアポリアを嗅ぎ分け「意識された棄権」を提起する。復帰運動の限界を見定め、その内部で質的転換を図るか、それとも祖国幻想を内破し、異種の声を想像/創造できるか、妥協はなかった。沖縄の〈1968〉とは、「国家論」を介在させた「祖国」の透視と「本土復帰の幻想」が否定命題として思想化されていく、まさしく転形を画した年となった。
 川満信一は翌69年に「転換期に立つ沖縄闘争――復帰のスローガンを捨てよ!」で「沖縄の闘争はこれまでの民族主義を払拭し、新たな地点へ自らを押し出さざるを得ない情勢に直面している。いわば沖縄の「復帰運動」はギリギリのところで自己否定を迫られており、いま一度「沖縄の思想」あるいは「沖縄の精神」の独立を必要としているといえる」とし、「復帰拒否」・「返還阻止」の思想を、激しく累乗するように織り上げていく。「島(U)」で、川満信一の言語は、黙示録的な気配を漂わせながら1968年を螺旋状にくぐる。
おお おまえのいじけた足どりと歌声は
どんな私刑よりも耐えがたい
幻の祖国などどこにもないから
幻の海深く沈もう そして激しい渦巻になろう
船も寄せつけぬ龍巻となろう

奔流するかとみせかけては 簡易水道の蛇口から滴り落ちる
空道≠フ慣いよ
おまえの引きずる時間の屍を葬るために
ぼくの中のあらゆる水道管は壊される
叛乱のときは深夜の窓に熟れ
襲撃の拠点に鮮やかな朱の×印はふえていく
明ければまた それらの建物や風景の傍らを
恥辱とむなしさを伏せて歩むだろう
それでも島よ
おまえの恥部には朱の×印を刻み続ける
 60年代末、情況の裂け目に身を晒した詩が孕んだ思想。侵犯されつづけた沖縄の歴史に「1巻のブルーフィルム」を読み、恥部に刻んだ「朱の×印」こそ、沖縄の〈1968〉のリミットで立ち上げられた〈ノンの思想〉なのだ。
 ドキュメンタリー『沖縄列島』は、1968年8月から10月までの3ヶ月、沖縄の島々を巡り群像を産出した。多様性に向かって開かれた〈窓〉から、私たちの網膜は幾つかの断片の輝きと鋭角を記憶する。だからこそ、映画『沖縄列島』と言語的実践『沖縄・本土復帰の幻想』は〈1968年・沖縄〉の先端で交差することができたのだ。
 「映画は転結した、だが沖縄の現実は転結したか」(黒木和雄)――東陽一の〈巡礼〉の後に一つの問いが残る。伊礼孝が夢を仮託した「抵抗政府」は、祖国復帰幻想を抱懐していたがゆえに、現実によって裏切られた。沖縄戦後史の総決算といわれ、1968年から69年のダイナミズムの繋辞になるはずだった「2・4ゼネスト」は、ほかならぬ祖国復帰運動の象微的存在であった屋良「革新政権」自身の手によって葬られ、幻に終わった。一方が復帰運動の質的転換と革新主席誕生に、「抵抗政府」や「追撃戦」の希望をみたことに対し、他方は「民族主義を基幹とする復帰運動は屋良政権の確立によって決着をつけられた」ことをみた。川満信一の「朱の×印」は、転結しない流動を掻き分けるストロークとなり、狂おしいまでに状況の熱を帯びていった。そして「最も水準の高い左翼観光映画」と揶揄された東陽一の〈巡礼〉は、「複雑なかげり」をフィルムの運動の余白に疎外した。それゆえに、ドキュメンタリーとは異なる映像の審級として『やさしいにっぽん人』は作られなければならなかったのだ。

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<5>明るすぎる喪の風景


 日本復帰直後の沖縄にロケを敢行し、その年の八月に封切られた大島渚の『夏の妹』を最初に観たときの戸惑いが、今でも頭をかすめるときがある。というのも、国家と父性、風景と反逆、性と犯罪、死刑と朝鮮人問題など、日本のフレームを饒舌とも言える話法で求心的に問い詰めていった大島渚のフィルモグラフィからみて『夏の妹』はずいぶん趣を異にしているように思えたからである。
 むろん、ディスカッション・ドラマの手法や猥歌や猥談などを攻撃的に挿入したブラックユーモアなど、大島的文法は随所に見られるものの、それ以前の映像にはない乾いた明るさが虚無のようにフィルムの表層に点綴されているように思えたのである。多分それは、大島渚に訪れた表現上の転回からくることなのかもしれない。常に時代のアクチュアリティに鋭敏に応答し、映像によって時代を煽り、サインを送り続けた一人の映画人が、安田講堂の陥落や自衛隊市谷駐屯地に立てこもり決起を促した三島由紀夫の割腹自決、そして連合赤軍内部で演じられた大量リンチ殺害事件によって、変革が潰え去ったことと戦後の死を宣告された、という強い思いを抱かされたからに違いない。『夏の妹』の前年につくった『儀式』は、「早すぎた日本の戦後の総括」ともいわれたが、『夏の妹』はそのエピローグとして位置づけられる作品だとみなすことが可能であろう。
『夏の妹』が封切られた後、竹中労は厳しい評価を下していた。「大島渚について評価を改める、“沖縄の安定を予感する”『夏の妹』という作品に私は断乎不同意である。無可有であろうと叛乱の先触れを、アジテーションという我々(NDU・私)の主張に、いうならば『夏の妹』は予定不調和である、ゆえに、私は創造者・大島渚と決別すべきであると考える」(「映画批評」1972年8月号)と。竹中によって『夏の妹』は〈沖縄の安定を予感する〉作品とみなされた。この「予感」や「叛乱の先触れ」という言い方には、その前年に撮られた深作欣二の『博徒外人部隊』(とNDUの『モトシンカカランヌー』や『アルジェの戦い』を作ったジッロ・ポンテコルボの『ケマダの戦い』)が意識されていたことは間違いない。「1970年12月20日未明、コザ市で暴動が発生して時点で、深作欣二はこの作品を編集し終わっていたはずである。だが、彼はよくやった。ここには、みごとに“暴動”の予見が結集している」(「映画批評」71年3月号)と書いていた。本土組織暴力団の沖縄への乗り込みという構図に仮託して日本復帰の内実を痛烈にえぐり出した、というわけである。
 竹中労が『夏の妹』に沖縄の安定を予感し、それとの決別をいい、叛乱の先触れを構想するその先には、ポンテコルボがカリブ海の架空の島ケマダに展開した革命のイメージを沖縄に描いていた。ケマダは沖縄であり、「吾ら、ケマダに拮抗しうるか?」を問う。大島渚の『夏の妹』と竹中労の叛乱のイメージは根本的にすれ違う。大島は日本のラディカリズムの死と戦後のエピローグを印すものとして沖縄の日本復帰をみたが、竹中はなお復帰前後の激動にケマダに拮抗する素材を求めた。
 1972年5月15日、沖縄は日本に「復帰」した。「復帰」とは私にとって敗北であった。この認識は揺るぎなかった。ここで「復帰」というときの内実は、沖縄の軍事的植民地状態はそのままにしての日本国家による「併合」を意味した。むろんそれは施政権がアメリカから日本に移動したということにとどまるものではなかった。「復帰」の上に「真の」とか「反戦」とか「平和憲法」とかを接ぎ木し、同化主義の差延化を図る復帰思想のさまざまな意匠は、私たちにとっては越境の対象でなければならなかった。問題の要は復帰思想そのものだった。復帰思考の原基に根づき、近代と戦後の時空を縦断して還流する国家・民族へと同一化する共同性。それはまた、起源論争や方言論争、帰属論争や戦争責任論争などをめぐって繰り返し立ち現れてきた。沖縄の戦後世代の最もアクティブな試行には、そうした沖縄を巡るプロブレマティークにおいて復帰思想の原基を問い糺し、国家と同化主義の円環の外へ越え出ようとする思想の営みがあった。
 友利雅人の「あまりに沖縄的な〈死〉」は、そんな沖縄の戦後世代の最も良質な思想の軌跡であり、タタカイの戦場をあやまたず言い当てていた。友利は、現に、今、進行形で展開されている復帰運動に沖縄戦における集団自決という死に至る共同性と同型の構造を読み取り、共同体と国家の架橋の意味を問う。「この架橋の過程が沖縄にとってもつ意味を明らかにすることは、たんに戦争体験論とか責任論の問題ということではない。それは薩摩侵攻以来の琉球、そして日本近代国家と沖縄の歴史的な関係の暗部を切開することにつながっていくはずである」とする。思えば私たち沖縄の戦後世代が到達した反復帰・叛国家は「日本近代国家と沖縄の歴史的な関係の暗部を切開する」ことによって拓かれた思考の地平だとも言えよう。だからこそ、「国家指向、いわば死ぬことによって日本国民として生きるという共同性のパラドックスは、集団自決と復帰運動の暗部に、断れることなく流れ続けてきた」ところにタタカイの戦場をおいたのだ。
集団自決は、われわれにとって負の遺産である。そして復帰思想―運動もまた負の遺産である。国家にとりつかれた存在たる琉球・沖縄は島の根底にまで下降するのでなければ、その歴史を転倒することは不可能であるように思われる。アンチ・シュタートとしての沖縄――それがどのような形をとって現われるかはだれにとっても視えてはいないが、われわれにとってここで問題なのは、あれこれのプログラムではなく、国家に収斂していく共同性の回路を断つことである。その方法がみえてくるとき、はじめてわれわれは沖縄としての沖縄に向き合うであろう。
(友利雅人「あまりに沖縄的な〈死〉」「現代の眼」一九七一年八月号)
 1972年5月15日、その日は雨だった。どうしようもない虚脱感が私を噛んだ。雨は首都の風景を濡らし、我れらの「アンチ・シュタートとしての沖縄」を灰色の路上に鎮めた。これから訪れるであろう復帰プログラムの有象無象を想像すると、ただやりきれない思いだけが残った。私の虚脱と敗北のメンタルは、日本の戦後的抵抗を銃をもって越えようとした連合赤軍が、自閉の果てに「死へのイデオロギー」に捕捉され、リンチで多くの同志たちを死に至らしめた真実をみせつけられたときの衝撃にも起因していたが、それよりもむしろ、友利雅人がいう「あまりに沖縄的な〈死〉」をついに撃ち損じてしまった、ということからくるものであった。1972年5月15日とは、国家に収斂していく共同性の回路を断つことができず、日本の版図に閉じていくことを印した負のクロニクルとして記憶されなければならない。『夏の妹』は、そうした敗北の心象に働きかけてきた。「アンチ・シュタートとしての沖縄」の座礁の上に、やがて書き込まれるであろう奇妙に明るい風景を予感させもした。
*
 大島渚は、自分が韓国や沖縄のことに関わるのは日本(人)としての枠を突破したいからだというふうなことを言っていた。その言い草を信じるとすれば、『夏の妹』も日本(人)の枠組を突破する試みである、と見ることが出来るであろう。真実、この映画には、果たしえたかどうかは別とすれば、そんな大島の企てが散見できる。戦争責任と戦後体験、日本の戦後と沖縄の占領、日本の復帰などを巡る問題群が、復帰直後の沖縄を舞台に三つの世代の絡み合いと重なり合う劇として描かれている。
 三つの世代の三つの劇とは何か。一つ目は戦争に深く関与した世代で、「沖縄に殺されにきた」日本の男(桜田拓三/殿山泰司)と「殺す値打ちのある日本人をひとりさがす」沖縄の男(照屋林徳/戸浦六宏)として登場させられる。二つ目は、少年時代に戦争を経験し、日本と沖縄の進路を決定した1952年の日米講和条約と日米安保条約が締結された転換期に沖縄から日本へ留学した国吉真幸(佐藤慶)と同じ大学に在籍した菊地浩佑(小松方正)、そして国吉に妹として紹介された大村ツル(小山明子)の世代。三名はかつて奇妙な関係でつながった経歴をもっている。学生運動に身を投じて投獄された国吉が出所するある暑い夏の夜、菊地は半ば暴力的にツル関係を結ぶ。そのことをツルの口から知らされたため「こいつのタネに先につかれちゃかなわない。もしついていたとしたら、せめてゴチャマゼにしよう」と国吉もツルと「やる」。国吉は今では沖縄県警の幹部になり、菊地はその世界では勇名を馳せる判事になっている。ツルはホテルを経営していたが引退し奥武島で生活する、何やら巫女の資質の持ち主のようである。そして三つ目は、国吉と菊地のどちらも父親の可能性を持つ大村鶴男(石橋正次)と鶴男の妹になるかもしれない中学生の菊地素直子(栗田ひろみ)、素直子のピアノの家庭教師で、菊地の妻となることが約束された小藤田桃子(リリィ)たち戦後世代である。鶴男は昼は観光客に沖縄語を一語百円で教え小銭を稼ぎ、夜は歓楽街で流しをしている。
 物語は、菊池家の庭で見た桃子を妹の素直子と勘違いした大村鶴男が素直子に宛てた一通の手紙に呼ばれて、素直子が兄を探す沖縄への旅に出る所からはじまる。素直子の兄探しの旅が磁力になってさまざまな出自と関係の網目が一つの場に引き寄せれ、暴かれ、明らかにされていく。
 私は『夏の妹』を二つの理由で注目してみたい。その一つは物語の時間の構造である。映画は1972年5月の復帰直後の沖縄でクランクインし、物語も同時進行的に展開する。なぜ、復帰直後の沖縄だったのか。それはたまたまそうなった、というほどのことなのかもしれないが、ただ、〈その時〉に作られたということ、いや、〈その時〉を選択したとという事実は、ことのほか重要な意味を帯びてくるように思われたのだ。そのことが象徴的に示されるのは、真実(鶴男と桃子の疑似兄妹相姦)を見てしまった素直子が「畜生!沖縄なんか日本に帰って来なきゃよかったんだ!」と叫ぶところである。大島渚はこの一行を言いたいがためにこの映画を作ったと思わせるほどである。
 あとの一つは、沖縄の「日本復帰」を尋常ならぬ視点で読み取っていることである。大島は「日本復帰」にメロドラマの構造を鋭く見抜いていた。長部日出雄は「沖縄の本土復帰の前後にメロドラマの構造を見てとった作者は、パロディによる批評といった方法をとらず、メロドラマの基本的な骨法をすこぶるまっとうに踏むことによって、逆にその感傷的で通俗的な幻想性を明らかにしようとしたのであろう。この着目は正確であったと思う。なぜなら、いまや沖縄は真の日本に気づきつつあるけれども、日本はまだ真の沖縄(琉球)を見出していないようにおもわれるからである」(「アートシアター」96号、1972年8月)と指摘していた。「カン違いに始まり、スレ違いを経て、別れに終わる」この映画が基本的に誤解と錯覚から生まれるメロドラマの骨法を踏んでいるというのだ。
 これまで沖縄の日本復帰運動と本土の沖縄返還運動において、日本と沖縄は血縁や男女の関係のスペクタクルとして布置されてきた。「民族意識の昂揚および国民感情の育成」を、運動方針にかかげた復帰協の「民族意識」や「国民感情」は、引き裂かれた母と子、恋する男女が一つに結ばれる心的メカニズムに擬せられた。つまり日本と沖縄の関係が親と子と見立てられ「抱き取る/抱き取られる」和合のセレモニーとして表象される。こうした祖国復帰運動と沖縄返還運動の通俗的な幻想性をメロドラマの骨法でもって揺すぶってみせたのだ。
 肝心な点は、親と子、恋する男と女を、兄と妹の関係に組み換えたことである。しかもここでは沖縄の兄と日本の妹として転倒させたのである。なぜか。復帰運動をイデオロギー的に支えた日琉同祖論に仕組まれた血統のうそっぽさを曝してみせたかったのだ。さらにいえば、この〈対の構造〉の組み換えは、素直子の義母になる女を妹と思う勘違いが、疑似的な兄妹相姦の様相を呈することで物語の迷路を深くさせられるのである。親子の血のメタファーで成立した復帰運動の幻想性を兄・妹関係に転倒し、兄妹相姦の劇を介入させたのは、もっともらしい共同性に亀裂を入れることと、復帰後に訪れる新たなるメロドラマを感じ取っていたからであろう。『夏の妹』は、時を隔てた二つの夏の二つの疑似的な兄妹相姦の劇としても読める。
 素直子、ぼくの妹。素直子、とつぜんこんな高校生のラブレターのような呼び方をされて君は不愉快になったかもしれない。しかし、この妹という言葉はぼくの血が呼んでいるのです。ぼくの名は大村鶴男。ぼくの身体には、もしかすると君と同じ菊池浩佑氏の血が流れているかもしれない。ぼくは小さい時から父はいないものと思って来たが、ある日母にそのことを問うた時、母は父である可能性のある人の名をふたつ上げました。その一人があなたのお父さまでした。……素直子、ぼくの妹。ぼくは君のお父様やぼくの母なんかのこと、そういう前の時代の人たちのことなんかについてはもう何も言ったりしたりする気はないんだ。ただ、君を妹と呼びたい。そして、できればぼくが生まれ育った沖縄で君に優しくしてあげたい。よかったら、夏休みになったら沖縄へ来ないか。
 沖縄の兄(かもしれない)・大村鶴男から日本の妹(かもしれない)・素直子へ宛てた手紙の一部である。ここには大島が企てた幻想性の転倒と復帰後の沖縄で演じられるもうひとつの劇が、兄から妹への「高校生のラブレター」のような手紙で仄めかされている。兄妹相姦を予感させもするが、実際にはそれは素直子の義母となる予定の桃子によって代理されることになる。そもそもの始まりは鶴男が桃子を素直子と勘違いしたことであった。桃子は鶴男が素直子に宛てた「高校生のラブレター」のような最初の一通だけ残し、その後に届いた手紙はすべて彼女によって処理された。大村鶴男と菊地素直子の出会いを阻み、勘違いとすれ違いと別れをコントロールし、素直子の兄探しを横領しつつ代行する桃子の存在によってドラマはコロニアルな沖縄を巡る複数の劇が誘発されるのだ。
 りりィが演じる桃子とは、日本と沖縄の関係を操るアメリカの謂いだとみていい。あるいは日本の戦後を規定した〈アメリカナイゼーション〉の人格化だと見ることも可能である。配役に思い切った形式化と象徴化をほどこす大島の話法からすればそうした読み取りがあながち的外れとは思えない。日本の戦後に浸透し、日本人と日本国家のあり方を規定した〈アメリカナイゼーション〉、もっと大胆に読み直せば、日米安保の性的メタファーといえなくもない。素直子の父と兄を逆説的に犯し、メロドラマをコーディネートしたのはほかでもない彼女だったのだから。
 とすると、この映画で示された日本復帰に〈メロドラマの構造〉を見抜いた卓抜な視点に、もうひとつの視点が導入される。想像するに、大島渚の沖縄の日本復帰観は、「アメリカナイゼーションは日本の内部に深く浸透している。その日本に復帰したのだ。沖縄は、アメリカから脱しようとして、もう一つのアメリカに組み込まれることになる」とした東松照明の日本復帰に対する見方がイメージされていたのではないか。実際、「勘違い、すれ違い、別れ」に終わる〈メロドラマの構造〉は、日米のダブルとしてのりりィが演じた桃子の存在によって、愛憎紙一重の矛盾の統一体としての〈アメリカナイゼーション〉を介在させながら複雑な様相を帯びてくる。大島の思惑は、沖縄の復帰を巡って日米が繰り広げた関係のスペクタクルを性的メタファーによって暴き攪拌することであったといえよう。
 あとひとつ、〈白〉から覚醒について触れなければならないだろう。大島は「死の風景」についてたびたび言及している。「『夏の妹』は、極端にいうと、死んでいるんですね、みんな。亡霊の映画なんです。みんな死んでいるですよ。白い着物を着てね。沖縄に行ったということも関係があると思う。」(『大島渚1960』青土社、1993年)といっていた。また、「琉球新報」(1999年12月28日)に寄せた「沖縄、それから……」という一文では「72年に沖縄で『夏の妹』を撮ったとき、みずから気づいて愕然とした。登場人物はみな喪服を着ている。死の衣装をまとっているのである。つまり、私は自分と仲間たちを既に死んでいる人間として自覚していたのだ。ほんの二、三年前、初めて沖縄へ来た私は、この土地から新たな日本革命の狼煙を上げようと思っていたのに」と告白していた。
 『夏の妹』を「亡霊の映画」といい、この映画を覆う〈白〉に「死」と「喪」を嗅ぎ取り、ほんの二、三年前までは、この土地から「新たな日本革命の狼煙」を上げようと思っていた大島が、自分と仲間たちを既に死んでいる人間としてみなしたのにはどのような理由があったのか。おそらく、大島渚において映画的実践が一つの円環を閉じたことというであり、そのことと「日本復帰」によって沖縄の戦後史が円環を閉じたこと見事に重なったということであろう。登場人物が白の衣装で一堂に会する料亭と白い砂浜でのディスカッション・ドラマの「白い喪の風景」は、『日本春歌考』の冒頭、雪が降るなかを黒服の一団が黒い日の丸を掲げ無言のままデモ行進する「黒い喪の風景」に匹敵する印象的な映像となっている。『夏の妹』の〈白〉は、沖縄に夢見た「革命の狼煙」への弔いの批評だったといえよう。同じ喪の風景でも黒が白に反転していることに注目したい。
 そしてラスト、鶴男から「おれ、ほんとの大村鶴男だよ」と告げられても、別れのテープが風に流れる船上から「そんな嘘、沖縄語で言ってみろ!スータンはね。もっと力をつけて、またここへ来て、ほんとうの大村鶴男と会うんだァ!」と素直子は律儀にも言い放つ。ふと視線を返した向こうに、海上に浮かぶ一隻の小舟の上で殺す男と殺される男が対座し、やがて立ち上がって組み合い、一人の男が海に突き落とされる。シナリオには「どちらが、どちらをつきおとしたかわからないが、一人が海に沈んでしまった」とあるが突き落とされ、一人が海に沈んでしまったのは殺す側の沖縄の男だった。このシーンは、超ロングで逆光を背にした影の運動として捕獲されている。殺される側と殺す側の逆転に、ポスト復帰においても変わらない関係と本土との同化・一体化を突き進む沖縄の未来像が幻視されているようにも思える。
 「畜生!沖縄なんか日本に帰って来なきゃよかったんだ!」という叫びは、復帰直後の沖縄の時空に書き込まれたメロドラマと白い喪の風景に一瞬の亀裂を入れ、友利雅人が「あまりに沖縄的な〈死〉」で導き出した「アンチ・シュタートとしての沖縄」は、復帰後の明るい時間の海を漂流し続けたままである。1972年5月の雨の記憶と8月の白い喪の風景は、時を巡り私の現在に長すぎる影を落としている。

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<4> 反乱する皮膚


 1970年12月20日の遅い朝だった。明け方にわずかに仮眠をとっただけの寝ぼけマナコでトイレに立ち、部屋に戻ろうとしたときだった。何かただならぬ声音が寮の廊下を駆け抜けた、と思った。まだ完全には目覚めてはいない頭の中にそれは「オキナワデ、カクメイガ、オコッタゾー!」と過巻いた。寄宿生の一人に、眠りを妨げられた寮生たちがにわかにざわめきたったが、「カクメイ」なるものが「コザ暴動」だと分かったのはしばらく経ってからであった。
 「われら南の島の灯たらん」という思いを込めて命名された、東京の狛江市にある沖縄出身の男子学生寮「南灯寮」でのデキゴトであった。木造二階建てで、戦前は軍需工場の工員寮だったという。沖縄がまだヤマトの視野の中に入ることがなかった1950年代初期、在本土沖縄県学生会の帰省活動のなかから生まれたルポルタージュ『祖国なき沖縄』は、「南灯寮」とそこに寄宿した若きオキナワたちの存在が少なくない役割を果たしたといわれている。
 『祖国なき沖縄』は、1954年に初版が出され、68年に再版されている。1952年4月のサンフランシスコ講和条約の発効によって沖縄がアメリカの分離統治下に置かれ、その翌年の11月に訪沖したニクソン副大統領が「共産主義の脅威があるかぎり沖縄を保有する」と言明、そのまた翌年の54年1月にはアイゼンハワー大統領が一般教書で「沖縄の無期限保有」を宣言したことを背景に、「これらの措置にたいし、沖縄県民の祖国復帰の希求の一表現」であったと初版の監修者は再版あたっての「あとがき」で述べていた。
 この書はいわば、復帰運動の原型的な情熱の形を示しているといえるが、書名となった〈祖国なき沖縄〉という言葉は、沖縄のままならぬ境遇を想起させ、母なる「祖国」とみなした日本を回復する願望を表明するものとして、その後長く復帰運動の幻想を運ぶキーワードにもなった。この書を編んだ沖縄県学生会は、1952年に結成され、本土における沖縄返還運動の一翼をにない、67年には全国的統一組織として在本土沖縄県学生会連絡会議(通称沖学連)となり、活動目的の最初に「祖国復帰のためにたたかう」ことがかかげられている。
 ところで、「祖国復帰のためにたたかう」をうたい、沖学連が結成され『祖国なき沖縄』が再版されたその年に、それらとは一線を画す別形の想像力が胎動してきた。沖縄闘争学生委員会(通称沖闘委)や、当初は沖縄出身大学生の研究サークル的な活動から、後に集団就職で本土に渡ってきた青年達が雇い主によってパスポートを取り上げられ、移動・転職の自由を奪われた問題などへの関与を通して実践体として転生した沖縄青年委員会(通称沖青委、後に沖縄青年同盟)は、「祖国復帰運動」への批判を通して沖縄の自立と解放への道を模索していった。
 こうした批判的ストリームが形成される背景には、1967年の佐藤・ジョンソン声明によって、それまでのアメリカによる分離統治から日米共同管理体制へ舵を切ることによって、復帰運動の心情と論理を日米両政府のイニシアティブで編制し直すレールが敷かれたという政治状況の変化もあったが、それよりも〈若きオキナワ〉たちが学生としてであれ、集団就職としてであれ、ヤマトの日々の体験によって引き起こされる葛藤を、それまでの〈祖国なき沖縄〉の情熱の形とは異なる流路を求める実存的要請があったということである。
 〈若きオキナワ〉たちはヤマトに渡る前は〈おきなわの子ら〉として、「祖国復帰運動」の担い手たちの国民教育・日本人(語)教育の情熱のローラー作戦によって言語や知覚の改造の対象とされてきた。だが、実際の本土体験によって、それが仮装でしかなかったことを知らされる。それはあたかも被植民地民が植民地本国に足を踏み入れることによって抱え込んだやっかいな知覚の迷宮のようなものに似ていた。図式的になることを恐れず、フランツ・ファノンの「黒い皮膚・白い仮面」のひそみに倣ってあえていえば「沖縄の皮膚・日本の仮面」とでもなろうが、まさに〈おきなわの子ら〉がまとった意匠が生体験によって剥離し、打ち消そうにも打ち消すことが出来ない皮膚の反乱のように受け止められたということである。
 ファノンにとって皮膚は染色体であった。だが、我・われにとってそれは知覚の地政学のようなものであった。ただそこに共通するものがあるとすれば、コロニアル/インペリアルな関係を乱数として引き受けてしまう心象の形といえようか。例えばそれはこんな声をしてやってきた。
 四〇日間も暮らした本土。東京の生活を通じて、常に死の意識の底にうごめいていたものは、沖縄であった。(中略)オキナワ、あまりにもオキナワ人らしいボク。日本人というには、あまりにもオキナワ的なボク。オキナワ的思惟方法。オキナワ的現実認識。オキナワ的存在形態とその把握。そうだ、ボクは、あまりにもオキナワ的すぎるようだ。ボクにとって、オキナワは、自分の影である。現実的に私の精神的表現であるオキナワ。私の故郷オキナワ。私がオキナワでなくなったとき、私は何になるか。日本人か国籍不明(正体不明)か。私の生みの親であり、もう一つの私であるオキナワ。私からオキナワがなくなる時があるか。私は、世界人であるべきであり、オキナワ人であってはいけないか。世界をオキナワからみてはいけないか。
 中屋幸吉が1962年7月29日から9月10日まで過ごした東京で書き綴った「あまりにも沖縄人である僕−−上京日誌」の最後の日付を持つメモである。鹿児島から沖縄へ帰る船上で記されたこのモノローグは、中屋幸吉にとって転位への句読点となったというだけではなく、在日の沖縄出身者の〈オキナワ〉への旅と復帰幻想からの脱出の声ともなった。
 中屋幸吉の船上の独白を、実際に私(たち)が知るのはまだ少し後のこと(『名前を立って歩け−中屋幸吉遺稿集・沖縄戦後世代の軌跡』が発行されたのは1972年6月)であったが、「あまりにもオキナワ的なボク」は、60年代後半から70年代初めにかけての在日の〈若きオキナワ〉たちに確実に散種され、反乱する皮膚となって復帰運動の論理を内破し情況の熱を孕んでいった。「南灯寮」は、「論争の南灯寮」ともいわれたように、沖縄出身学生たちの沖縄へ寄せる思いの錯綜する坩堝でもあった。そのゆえに、80名を越す〈若きオキナワ〉たちが集団で生活するそこは、実践組織にとっては格好の〈オルグ〉の対象と〈細胞〉を育てるねらいどころとされた。
 あの「カクメイ」騒動があった朝も、そんな〈オルグ〉の一日だった。当時私は、沖縄問題研究会〈海邦〉からかかわり、実践組織となった沖縄青年委員会になってもずるずると居座り続けたが、そこで「復帰」を行動的にラディカルにしただけの沖縄奪還を主張するグループとの確執から沖縄青年委員会〈海邦〉を名のり、反復帰・沖縄自立の旗色を鮮明にしていった。そのためのいわば理論誌のようなものの必要に迫られ「われら南の島の灯たらん」に奇宿する〈細胞〉の部屋で寝泊まりしながら、数名の主だったメンバーとカンカンガクガクの日々に明け暮れていた、というわけである。
 いっぱしの工作者気取りで出入りしていた「南灯寮」での「カクメイ」騒動から間もない年が変った1971年1月のある日、カンカンガクガクと路上の騒乱に疲れた身心を映画館の暗がりに滑り込ませた。そこで思いもかけない光景を目撃する。それは、コザの街を赤くこがした炎のゆらぎがフィルムの運動を通して現前化したように思えたのだ。
 正月興行として封切られていた深作欣二の『博徒外人部隊』である。沖縄戦のスティグマを思わせる若山富三郎が演じた片腕の大男の、コザの路地の闇をたっぷりと吸い込んだ形相と、沖縄の遺恨を噛みしめるような抑制された、だが、ドスの利いた太い声に、胸に高鳴るものを感じた。その生きざま/死にざまは、中屋幸吉の船上のモノローグや〈若きオキナワ〉たちの皮膚の反乱を、大胆に拡張し暴力の相で表出してみせた。
 私がスクリーンでみたものは、〈祖国なき沖縄〉の声とはまったく異なる声の質であり、それまでの日本と沖縄の幻想婚を棄却し、葛藤と抗争のスパークルとして描破していた。ここで言う日本と沖縄の幻想婚とは、沖縄戦を本土決戦の捨て石としたことや沖縄を切り離しアメリカの占領に置くことによって戦後を築き上げたことからくるヤマトの側の贖罪意識と、そうしたことへの差別告発やそれでも熱く焦がれる「祖国」とみなす沖縄の幻想の結びつきのことである、その凭れ合いが復帰を「民族的悲願」や「国民的課題」という擬制の共同性築き上げていったのだ。『博徒外人部隊』は、そうした贖罪意識・差別告発のコンプレックスとを無縁のダークサイドで、ヤマトから流れたアウトローと沖縄の地勢から立ち上がるエージェントの抗争と分有(の逃し)として動かしたところがある。異なる二つの戦後の出会いと葛藤としてである。「おれたちの履歴書」、「おれたちの縄張り」、「おれたちの仇敵」の三部で構成されていて、10年ぶりに出所した元浜村組代貸の郡司益夫(鶴田浩二)が、かつての舎弟たちを廃屋になっている組事務所に集め、ある企てを話す場面は、抗争を演出する2つの異なる戦後の相関図を書き込んでもいた。
 ある企てとは、沖縄で新しくやりなおすことであった。組も縄張りも失い、今ではくすぶりながらどうにか生き延びているだけの身の上をぼやき、オッサンと慕われた由利徹が、終戦後のどさくさ時代を懐かしむところで、すかさず鶴田浩二が応える。「そんな場所ならねぇことはない。終戦後みてぇに、新しく縄張りをつくるのにうってつけの場所なら、日本にただ一つ残っている」といい、懐から沖縄地図を取り出し、「ここだ」と名指す。不意の地図に、「おきなわ−」と憧憬とも溜息ともとれる声音が一同の口を衝いて出る。郡司が言うには、ムショに沖縄出身の新入りがいて、そいつの話を聞いてイケルと踏み、「もちろんヤバいことはヤバい。このままドブ泥みたいに沈んでいくよりは、そっちのヤバいほうに賭けた。それでみんなに来てもらった」というわけである。廃屋でくべた焚火はこの集団の夢を再起させるメタファーにもなっていた。
 この場面は、アウトロー集団がかつてを回復するためのドリームプレイスとして沖縄が眼差されたということだが、ここで、渡辺武信が深作欣二の『血染めの代紋』(70年)や『博徒外人部隊』について指摘していた「・戦後・理念との一体化」と「・戦後・の消滅を示す風景」について考えないわけにはいかない。「やくざ同士が戦後の荒野の中だけに許された自由を利用してつくりだした組織が、ある理想化の過程を経て・戦後・理念と一体化し、これが、着流し映画の・家・に似た役割を果たしている。ここでは言わば整然とした象徴体系の欠如した荒廃そのものが、・戦後・の象徴として働いている。かくして自分たちの組織が、社会全体の秩序の回復によって圧殺されていく時、ヒーローがそれに殉じて死ぬのは必然でありその死はたいていの場合、・戦後・の消滅を示す風景によって、痛ましくも逆説的に償われるのだ」(「任侠映画の変質と退潮」『映画的神話の再興』所収、未來社、1979年)ということである。
 郡司の企図はいわば、沖縄という時空によって「戦後の荒野の中だけに許された自由」を賦活し、組織をリバイブすることであったととれる。言葉を換えて言えば、こういうことになろう。すなわち、郡司が大東会へ殴り込む始まりの伏線は、任侠映画のルーティーンからすれば、物語を締めくくるカタストロフィーでなければならなかった。だが、『博徒外人部隊』はエンディング(にすべきところ)をオープニングに置いた。終わったところから始まる物語。ここにこの映画が沖縄が介在することによって導き出した劇の独特な位相を読まずにはおれない。深作はそれを〈流れること〉と暴力の即物性によって描いた。
 むろん、それだけではない。郡司をして沖縄を呼ばしめるものは、桜の代紋にしょっぴかれるとき、泣いてすがった女が沖縄出身で、入獄中に「私を探さないで下さい」と書いたハガキを寄こし何処へとも知れず消えた女へのリビドーがあったという解釈を拒むことはできない。
 ここで、郡司が「ヤバいほうに賭けた」といった「ヤバさ」について考えてみたい。それは終戦直後の横浜がそうであったように、縄張りを巡って血で血を洗う抗争への予感ととれるが、しかしそうしたやくざ抗争に回収できない沖縄の未知なるものへの怖れの触知としてもとれる。そのことは第二部の「おれたちの縄張り」で明らかにされるが、それはまた、この映画を『博徒外人部隊』と名付けた深作の沖縄像を語ってもいた。縄張りを巡る抗争が、やくざ同士のそれとしてだけではなく、ヤマトと沖縄のインペリアル/コロニアルな記憶が絡んでくることであった。
 郡司たちが沖縄に仮託したと思い込んだものは、ほんとうは「残された唯一の終戦後」ではなく〈外部〉だったということなのかもしれない。深作欣二は沖縄を〈異族〉として描いた。いや、描かざるを得なかった。そしてその〈異族性〉は「タックルス」や「ヤマトンチュ」という言葉に込められた殺意のベクトルとなって投げ返された。
 例えば、片腕の大男でコザのボス与那原が郡司に凄むところがある。
与那原 「ヤマトンチューに沖縄でデカいツラはさせない。ここは俺たちのとシマやさ。」
郡 司 「だれのシマだと関係ねぇ。力づくでぶんだくる。それだけだ。」
 このやりとりはなかなかに興味深い。郡司にとって沖縄は「戦後の荒野の中だけに許された自由」がなければならず、そこではただ力づくだけが倫理として信じられる。ところが、与那原の構えには明治の琉球処分以来の被虐の記憶が潜在させられている。それから、この無頼の集団が沖縄の異族性を身をもって知らさせられるのは、沖縄の路地の闇の奥においてであった。
 与那原の実の弟狂犬ジルー(今井健二)たちの襲撃にあって関(渡瀬恒彦)とオッサンを失い、売春街の一角のバーでシケ酒を飲んでいるときのことである。路地の奥から老婆が歌う哀調を帯びた琉球民謡が流れてくる。沖縄から南洋に移民にいった男たちの歌であったが、その歌詞の意味はもちろん彼らに分かるはずはなかった。それどころか、感情に絡みついてくる哀感に苛立ち、たまらなくなった鮫島(室田日出男)が「うるさーい。ワカンネー、ひと言だってワカンネー! 日本の歌を歌え、日本の歌をヨー!」と路地の奥に向かってどやしつける。そばにいた尾崎(小池朝雄)がなだめるように、「やーるーぞー見ておれ、口には出さぬ。肚におさめた一途な事を−……」と畠山みどりの「出世街道」を二人で歌いだす。
 ただ、ひとり郡司だけは〈流れる者〉の触覚で出稼ぎ移民の歌に感応した。ふとしたきっかけで知り合うことになる、郡司のもとを去った女とそっくりの娼婦の部屋で、再び流れてきたその歌「南洋小唄」を「今の俺たちにぴったりのような気がする」といい、歌の意味を女によって知らされる。だが、別の夜、女は沖縄の男たちの出稼ぎの歌を、「いつの日か、女の下の口がものを言えば、これまでのアワレ、すべて語り尽くすだろう」と替え歌にする。「ムトゥシンカカランヌー」(元手のかからない商売という意味で、娼婦を言う)の歌にして返したのである。『博徒外人部隊』の物語性は、二つの線の対位法的組み合わせになっているとみていいだろう。その一つは、終戦後の自由さが残されているただひとつの場所としての沖縄に仮託した夢が、狂犬ジルーとコザのボス・片腕の大男の与那原兄弟によって突きつけられた〈異族としての沖縄〉と出会い、それとの抗争と、抗争を演じた者のみに許された分有が日本復帰による沖縄の統合を拒む男たちの暴力の劇として描かれるラインである。
 あとの一つは、郡司を沖縄に赴かせたかつての女への隠された思慕が、沖縄の路地の奥とそこに生きる「ムトゥシンカンカランヌー」に出会うことによって〈無所有の闇〉とまぐわう線である。沖縄に仮託した夢は〈異族としての沖縄〉によって自らの〈外人〉性を自覚させられ、路地の奥の「ムトゥシンカカランヌ−」の〈無所有の闇〉によってより深く混乱し、苛立ち、そして流れた。片腕の大男与那原が体現した〈異族としての沖縄〉の殺意は、女の「下の口」と対になっていることは間違いない。
 封切後、しきりにコザ暴動を予感したかどうかが論じられた。はっきりさせておきたいことは、この映画が沖縄に流れてきた「おれたち」の視点で語られていたにしても、暴動の予見の結晶は、日本の戦後の風景の外部で、歴史を逆なでにする片腕の男の生きざま/死にざまの強度と路地の闇の奥の「ムトゥシンカカランヌ−」の語り尽くせないアワレを呑み込んだ無所有の「下の口」においてである。だが、もし、アウトローたちの言動にコザ暴動に接続される線があるとしたら、それは片腕の男の壮絶な死に「妙な具合だ。俺はこいつと一緒に大東会と戦いたいと思いはじめたところだった」と呟く、その呟きのうちに分有された〈異族性〉と「南洋小唄」のエレジーの共和圏に感応した〈流れること〉の倫理においてなのかもしれない。『博徒外人部隊』は、郡司たちの生きた戦後(の消滅)と与那原たちの生きた戦後(その片腕が含意した戦争の記憶と占領の継続としての終わらない戦後)を交差させた。そして「整然とした象徴体系の欠如した荒廃そのもの」を生きる無頼たちの暴力は、沖縄の〈異族性〉の浸入によって担保された。だからこそ「おれたち」の仇敵・大東会を沖縄の地で相討つことができたのだ。
 1971年の冬、スクリーンで繰り広げられたフィルムの運動の終り、遂行された反逆の後の路上に、飛び散った真っ赤な鮮血は沖縄の図像を結晶させた。そしてその鮮血が結晶した沖縄地図の向こうに、たしかに私の反乱する皮膚は沖縄戦後史の臨界で火柱が立つ幻をみた、と思った。

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<3> 〈エネミー〉の考古学


  映画化に必要な条件がほぼ揃っていたとして、いざクランクインの階段でオクラ入りになった映画はそう珍しいことではない。流産した理由もさまざまであろう。だが、描かれた対象があまりにもその時代や社会を成り立たせている生々しい領域に触れているということが理由だとすれば問題は複雑だ。
 笠原和夫の手になる『沖縄進撃作戦』(1975年執筆)もそんな問題作の一つであった。「これは沖縄のね……要するに、岸信介が朴正熈とフィリピンのマルコスの提携という形で、沖縄を含めて反共デルタ地帯というのをつくろうとしてたんですよ。ところが、沖縄には沖縄連合旭琉会という地元の組があって、これが岸信介のいうことを聞かないわけだ。で、その旭琉会を押さえるということで、東声会−東亜友愛事業組合のナンバー2で宜保俊夫さんという空手の名手がいましてね、この人が沖縄でいろいろ動くわけですよ。それが沖縄やくざ戦争の元で、紛争が起きるわけでね。そういう話をひっくるめて沖縄の激動を書いたんだけど、(……)宜保さんは沖縄の東映の小屋主でもあるんだよ(笑)。で、(岡田茂さんが)「そんなのアレしたらエラいこったぞ。俺は命がいくつあっても足りないから、頼むからやめてくれ」って言うんで、せっかくホンができたんだけど、「お前、泣いてくれ」って言わわれて(笑)」と、流れた事情をアカしていた(『昭和の劇』太田出版、2002年。荒井晴彦とスガ秀実の共同インタビュー)。
 『沖縄進撃作戦』は、敗戦後の「戦果アギヤー」から出発した「遊人」たちが、やがて組織暴力として纏まり、四次にわたる凄絶な抗争を通して沖縄の戦後の「激動」を描いたシナリオである。その容赦ない剥き出しの暴力によって沖縄の戦後社会の澱みや熱を鋭く抉りだす。沖縄戦から米軍占領(その現実は沖縄にとっては軍事的植民地として、また日本にとっては潜在主権という国際法上の抜け道で繋ぎ止められていた〈海外県〉として)を経て「日本復帰」へと至る軌跡が、パフォーマティブな暴力のクロニクルとして刻まれている。それはあたかもフランツ・ファノンが言った「マニ教的な善悪二元論」とそれを廃棄するものとしての暴力の「ブーメラン運動」とも呼ぶべき往還に似ている。ここで注意して欲しいのは、沖縄におけるそれは、日本のやくざ社会の定型に収まるものではなく、日本の戦後社会の外部――アメリカ占領下で生まれ、独自に展開したということである。
 『破滅の美学』(笠原和夫著、ちくま文庫、2004年)のなかに収められた「遊人」のなかでこんなことを言っていた。
 沖縄に〈暴力〉があるとしたら、まさしく戦争が生んだ荒廃以外のなにものでもなく、そのエネルギーの根源は「沖縄ナショナリズム」(=沖縄独立)にある。それが、昭和47年の本土復帰を機に〈暴力〉は〈任侠〉に擦り替えられ、沖縄ナショナリズムは〈チャンとした御家庭〉の天皇制を支えるヤマトンチュウ(本土)のナショナリズムに組み込まれざるを得なくなった。この郷土愛の二重性が、近代沖縄のやくざ戦争のイニシエーター(初発因子)であった。その悲劇の代表的人物が、昭和49年10月、宜野湾市のナイトクラブで3発の銃弾を浴びて殺された新城喜史である。
 『沖縄進撃作戦』は強力な個性の持ち主で、沖縄ナショナリストの新城喜史をモデルにした国上英雄とその弟分の石川健吉を軸にして繰り広げられる。まさに暴力のブーメラン運動といってよい。むろんその運動のイニシエーターは、笠原がいう「沖縄ナショナリズム」と「ヤマトンチュウ(本土)のナショナリズム」の二重性であった。その二重性に割って入り、沖縄を東アジア反共デルタ地帯にすることを目論んだのは、沖縄における最初の右翼団体で、脚本では「愛国同盟沖縄支部」支部長の小波本信永であった。小波本は本土暴力団の沖縄進撃を防止するために統一した沖縄連合琉栄会の分裂を工作し、理事長で沖縄ナショナリストの国上英雄を死に至らせた影の人的な存在ということになっている。こうみてくると『沖縄進撃作戦』が最もイタイところを衝いていることがうかがえる。笠原和夫が造型した人物像と沖縄ナショナリズムの指向線があまりにも状況の熱を孕み、反共デルタを破りかねないほどリミットに近づいたということであろう。
 先に引用した「遊人」の冒頭で、笠原は摩文仁の丘でたびたび見かけた〈奇妙な風景〉について触れていた。石垣に囲まれ、庭先の草花も咲き誇っているのに人の住んでいる気配が全くない屋敷が其処彼処に点在していて、それが沖縄戦で一家全滅した家だと知られた時である。「不意に、荒野を吹きわたる風が唸りを立てて肌を刺してくるような戦慄から、凄まじいまでの暴力を身体化した国上英雄が生まれたといえよう。唸りを立てて荒野を吹きわたる風はまた、国上のバイオレンスの内部で鳴ってもいたはずだ。
 そして戦争が生んだ荒廃から地熱のように立ち上がってくる〈暴力〉は、『沖縄進撃作戦』では独特な筋肉のエコノミーとして屈曲されられる。沖縄人女性律子が二人のMPによってレイプされるシーンがそれだ。二人のMPによるレイプを見届けた後、国上は弟分の石川にたいし「体で汚されたもんは体で、清めてやるしかない」とドヤしつけ、自らはMPを殺害する行為におよぶ。石川は石川であっけにとられるが、国上に言われた通り女と重なる。女は後に売春街にいるところを引き取られ石川の女房となる。このシークエンスは国上の〈暴力の思想〉が内に持つ筋肉の夢や震えをニヒリズムすれすれのところで掬い上げているように思える。「毒をもって毒を制する」式のやり口を反転させた。都合の良い屁理屈にもみえる清めと治療の暴力は、「個々人の水準においては、暴力は解毒作用を持つ」とファノンが言う時の「解毒作用」とどこか繋がるところがないだろう。
 戦争の荒廃から立ち上がってくる〈暴力〉とその根源にある沖縄ナショナリズムとは、一体どのような信憑をとるものなのか。国上英雄にとっては例えばこんな行為として身体化される。

塩屋「何をする!」
 気色ばんで詰め寄ろうと塩屋と青年たちを、石川が立ちはだかって制する。
 国上、着ていたいつもの野戦服の上衣を脱ぎ、雨戸に拡げて掛けると、片手の拇指を割れたウイスキー瓶の角で切り、その血で、上衣の背に大きく「PW」と書く。
国上「これが俺たちの旗だ!」
 日の丸を焚火の中に投ずる。
 シン――となる一座の青年たち。
 燃え尽きてゆく「日の丸」。「PW」の血文字。
 これは石川を伴って国上の故郷である沖縄である沖縄北部のある村に立ち寄った日の夜、「祖国復帰期成同盟山原支部」の若い男女が村の木立の奥で焚火を囲っての秘密集会で、雨戸に張りつけられた「日の丸」を引っぱがすにシーンであるが、国上が体現した沖縄ナショナリズムの出自を鮮やかに描写してもいる。この場合の時代背景となっている1950年代の初期は、戦争の混乱から立ち直り始めていく反面、朝鮮戦争とサンフランシスコ条約の発効で、日本の「独立」とひきかえに沖縄がアメリカ占領下に置かれ、極東の不沈空母、弾薬庫、慰安所と化し、その不条理からの脱出として日本が「祖国」として幻想されていく時期でもある。
 「PW」とは捕虜のことである。国上はこの〈捕虜〉であることに一貫してこだわる。なぜか。少なくとも3つのことがいえる。その1つは、国上英雄と石川健吉が「スイーザ(兄貴)・ウットー(弟分)」のチョウーデー(兄弟分)の契りを結ぶのが捕虜時代の留置所であったことである。血文字が含意するところである。この国上・石川のカップリングは物語を逢う縦糸となり、連累する。国上の死の後、石川が乗り移るように暴力の原光景に立ち返ることからも分かる。
 二つ目は「捕虜収容所」から解放されたとしても、日米の合作によって生まれた沖縄の戦後は、依然として〈捕われの身〉であることに変わりはない、ということが意識されている。それは「頭に捩り鉢巻、HBTファッションと言われる米軍野戦服、脚絆づき軍靴」という彼のコスチュームが時に場所を選ばずその一転張りだということと、国上がたびたび吐く「俺は戦争やっているんだ!」という太い意志のラインによって示唆される。
 したがって三つ目は、〈捕らわれの身〉を解き放つ暴力と沖縄ナショナリズムは、アメリカと日本、そして日本に同化する「祖国復帰」運動と敵対せざるを得ない。沖縄の現実はいわばコロニアルなそれであり、依存コンプレックスと劣等コンプレックスの裏返しでしかない「日の丸」と「祖国復帰運動」は、国上にとっては〈エネミー〉とみなされなければならない。野戦服の背は血文字で書いた「PW」を掲げ、「これが俺たちの旗だ!」というテンションは、国上英雄のバイタルさと沖縄ナショナリズムの、いわば戸籍謄本のようなものである、といってよいだろう。
 ここにきて、暴力のブーメラン運動を起動させる〈暴力の暴力〉としての〈対抗暴力〉の問題が浮上してくる。『沖縄進撃作戦』にまさに〈対抗暴力〉の絡み合う劇とみなすことができる。事実、このシナリオには物語の節目節目で国上が吐く〈エネミー〉という言葉が目に付く。数えただけでも5つの場面で出てくるが、その中からワンシーンだけ拾ってみる。
石川「兄貴、小波本先生に受けた恩を忘れてはおらんだろうね」
国上「忘れてはおらんさ。おらんが、義理に義理、エネミーはエネミーだからな」
石川「エネミー……?」
国上「小波本さんの愛国同盟がやっとることは、沖縄人の土をアメリカに売る手伝いだ」
石川「そんなことは先生だって判ってる。先生は、本土復帰を早める為に、今はジッと辛抱してアメリカと争わんようにと努めておられるんだ」
国上「詰まらん辛抱だよ!アメリカが帰ったら、今度は本土に沖縄の土を売るつもりか」
石川「本土に復帰しないで何処に帰るんだ!?」
国上「沖縄は沖縄へ帰りゃえヽ」
石川「兄貴……兄貴の考えは判らんでもないが、現実を考えてみてくれ。兄貴のやり方でアメリカや本土と対抗出来ると思ってるのか?」
 米軍基地拡張のための強制接収に反対する農民を応援する左翼を、小波本信永を沖縄支部長とする愛国同盟がおさえにかかったのに対し、国上らが左翼を尻押し、愛国同盟と真面目からぶつかった事件を石川が問いただす場面である。
 国上の口から吐きだされる〈エネミー〉が、どのような構造をもっているのかということと、「PW」の血文字を原光景にした国上の沖縄ナショナリズムが導入した敵対性の力学が明らかにされている。「PW」の血文字がここでは「沖縄の土」に置き換えられ、「沖縄は沖縄へ帰りゃえヽ」という場所からアメリカとそのアメリカと手を結んだ本土が〈エネミー〉として対象化されているのだ。沖縄を反共デルタに築きあげようとする天皇制ナショナリズムと敵対せざるをえないことが頷けるというものだ。別のところでは「本土人はアメリカと講和条約を結んで手を組んだ。アメリカはエネミーだ。だから本土人もエネミーだ」ともいっていた。まぎれもないこれは、コロニアルな状況における「マニ教的二元論」とそれを廃絶するひとつの回路としての沖縄ナショナリズムがカウンターバイオレンスとして構造化されている、といっても過言ではないだろう。
 そして国上英雄が体現した対抗暴力のブーメラン運動は、四次の内部抗争を経て復帰を挟む世替わりの激動期に沖縄進撃作戦を目論む〈エネミー〉と真正面から対峙することになる。
 笠原和夫の『沖縄進撃作戦』を原典にして、1976年に中島貞夫が監督して製作された『沖縄やくざ作戦』(脚本:高田宏治・神波史男)は、石川の「現実を考えてみてくれ。兄貴のやり方でアメリカや本土と対抗出来ると思っているのか?」という問いに、山原派と那覇派を糾合し、本土の組織暴力団の沖縄進撃に対抗する「沖縄連合琉盛会」が立ち上げられるところからはじまる。
 「沖縄連合琉盛会」(『沖縄進撃作戦』では「沖縄連合琉栄会」)の結成から、千葉真一扮する国頭正剛と松方弘樹扮する中里英雄(『沖縄進撃作戦』では「国上英雄」と「石川健吉」)のカップリングが、観光目的で沖縄進出をうかがう本土暴力団を国頭が殺害したのがもとで、その収拾に動いた中里がヤマトのヤツラと手を組んだとみなされ、激怒した国頭が兄弟の緑を切ることや、中里が入獄中、国頭の参謀的な存在にのし上がった地井武男扮する石川隆信との確執からくる中里の舎弟の凄まじいリンチがきっかけとなって内部抗争に発展し、国頭の殺害をターニングポイントにした乱反射する抗争が描かれている。
 ここでの抗争のイニシエーターは、「沖縄ナショナリズム」と天皇制を支える「ナショナリズム」、つまり〈暴力〉と〈任?〉の二重性であることに変りはないが、しかし、映画化のための妥協からか、笠原和夫の脚本での映画化がオクラ入りした理由である愛国同盟沖縄支部の存在と分派工作は省かれている。
 中里派の国頭殺害の背景には、本土暴力団の沖縄進出の思惑と世術が働いていた。本土暴力団の沖縄進出に対抗するために連合したときの精神にこだわり「俺の目の黒いうちはヤマトのやつらを見かけたらタタッコロしてやる!」と凄む国頭の苛烈な沖縄ナショナリズムを疎ましく思う集合意識の変節があった。「時代は変ったんだから」という大勢に囲繞され、国頭の沖縄ナショナリズムは次代に孤立し、その分より尖鋭化と激しさを増幅されていく。「兄貴もコザの街もずいぶんと変ってしまった。まるで暗闇の中でもがいているようだ」と洩らす中里英雄の述懐は、この間の事情をよく伝えている。〈任?〉ナショナリズムにとって沖縄ナショナリズムの〈エネミー〉の哲学は「誇大妄想」とか「キチガイ」にしか映らなかった。
 とはいえ、『沖縄やくざ戦争』のアクチュアリティは、72年の日本復帰を挟む世替わり期の沖縄の葛藤を〈暴力の思想〉によって表出してみせたところにある。そのテンションの高さは、ほかでもない、国頭正剛の沖縄ナショナリズムが帯電させカウンターバイオレンスの熱と孤高さによって裏付けられる。本土復帰後「系列化しないのはオリオンビールと社会大衆等と旭琉会だけだ」とアイロニカルに言われたが、とりわけこの映画のモデルともなった旭琉会のそれは異彩をはなっていた。復帰運動という形を沖縄の戦後的抵抗が、結局のところ国家の統合を下支えする同化主義の閾を出るものではなく、政党や労組、企業や行政組織、お金や道路、政治の先端から生活の末端まであらゆる領域に及んだ本土との一体化・系列化の奔流のなかで、「俺はただ、このクニを守りたいだけだ」という沖縄ナショナリズムが演じた抵抗線と孤高さが今更ながら際立ってくる。
 思うに国上英雄/国頭正剛とは「マニ教的二元論」を果てまで辿ったアクターであり〈暴力の思想〉なのだ。その生きざま/死にざまは、コロニアルオキナワを身体化し内側から波たたせた。国上/国頭の死によって「沖縄ナショナリズム」は天皇制を支える「ヤマトンチュウのナショナリズム」に取り込まれ、〈暴力〉が〈任?〉に擦り替えられた。国上英雄/国頭正剛(そのモデルとなった新城喜史)は、復帰後の沖縄にとって「早く忘れてしまいたい、あの忌まわしい〈戦後〉そのものだ」のだ。
 だが、『沖縄進撃作戦』と『沖縄やくざ戦争』は、終わったときからはじまるセンソウを書き込んでいる。中里英雄が国頭正剛の命をトルこととひきかえに提示した条件は、ことごとく〈任?〉ナショナリズムによって裏切られ、中里派は本土暴力団と盃を交わし系列化を果たした琉盛会と全面抗争に入るのだが、山原に追い詰められ、亀甲墓の内部に立てこもり反撃のチャンスをうかがう。その立てこもった亀甲墓の内部で中里の視線はブーメランのごとくあの場所に還る。あの場所とは、「これが俺たちの旗だ!」として掲げた血文字のPWである。弟分の一人とラーメンを啜る中里英雄が、ふと何かを思い出すような表情で箸を止めると、バックに長柄の斧をもって暴れる国頭の映像とともに琉球民謡「PW無情」が静かに流れる。このシーンはこの映画のライトモチーフを映像言語として表現して傑出している。
 笠原和夫は至近距離から三発の銃弾を浴びて即死した国上英雄の見開かれたままの瞳から伝わり落ちる一滴の涙を添えた。中島貞子は死の直前、国頭に「PW無情」を歌わせた。そしてラスト。手打ち式を済ませた関西広域暴力団旭会の組長・梅津義明と琉盛会のマヌーバー翁長信康がヨットで釣を楽しんでいるところに、まるで国頭正剛が乗り移ったようなコスチュームで疾走するモーターボートから中里英雄が軽機関銃を乱射する。海と空が溶け合う水平線の彼方から渡ってくるように「PW無情」の三線のソロがテテン、テンと重なる。
 国頭正剛から中里英雄に乗り継がれる暴力の連累。『沖縄やくざ戦争』で描かれた〈暴力〉は、また、「だからこそ現地人の夢は筋肉の夢、行動の夢、攻撃の夢となる(……)原住民は夜の9時から朝の6時まで、自己を解放することをやめない」とファノンが言ったような植民地化された人々の筋肉の夢や震えの運動でもあった。二人のアクターの暴力のクロニクルとブーメラン運動は、「夜の9時から朝の6時までの自己解放」と「筋肉のあいだに沈澱する攻撃性」を、白昼のもとに露出させ、沖縄ナショナリズムの〈エネミー〉の考古学を状況に熱に書き込んだ。

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<2> 「フィフィ」と「火」の精神譜


 その男を知っていたわけではないが、その突然の生の切断は私に強いひっかかりと解き明かすべき<なぜ?>を残した。己の来し方や行く末について少しでも思いを巡らすときなど、どこからともなく忍び込んで濃い気配のように私を問い、そして糾す。見も知らぬ他人の自死が、我が事のように近くにいると感じるのはなぜだろうか。それは多分に男が抱え込んだ時代精神ということに関係しているということであろう。近くにいる、ということがたとえこちらの勝手で不遜な思い込みであったにしても、その自死の事実が、あの時代の最も深いところを衝いているように思えるからである。
 男の死因はあのときも謎であり、今もその謎が解き明かされたわけではない。ただ、選び取った死に場所と死を刻んだ日付が何事かを黙示する。
 男の名は上原安隆、沖縄石川市東恩納出身。二十六年の生を切断した場所は東京都千代田区永田町一丁目、つまり、日本国の立法府国会議事堂の正門。一九七三年五月二十日のことであった。その日、愛用のナナハンのバイクで国会正門の鉄扉に時速八十キロの猛スピードで突っ込み激突死した。翌朝の朝刊(朝日新聞)には「事故?自殺?ナゾの暴走」という見出しで報じていた。
 私が<激突死>にある特別な関心を抱かされたのは、選び取った死に場所と日付とともに、彼の死に<身捨つるほどの何か>をみたからである。一九七三年五月二十日といえば、沖縄が日本に「復帰」してちょうど一年目にあたる。その一年半前の一九七一年十月二十日、彼が激突死した正門の鉄扉の向こうの「沖縄国会」と呼ばれた本会議場で、沖縄青年同盟の三名が爆竹を鳴らし第三の琉球処分としての復帰・返還を拒否すべく「全ての在日沖縄人は決起せよ」と呼びかけた檄文を撒き、「日本が沖縄を裁くことは出来ない」として国会史上例のない行動をとった。
 あの行動とこの激突死。檄文と無言。彼が国会内の行為を知っていたかどうかはわからない。仮に知っていたとしても二つを繋ぐ因果があったかどうかさえ分からない。ただ、彼と彼らを繋ぐものがあったとしたら、沖縄の地熱を身体化し、自分では制御できない<何か>によって日常の閾を越えようとした超越論的な行為、といえばいえようか。彼はその<何か>に駆り立てられ、身を投げた。彼らは時代の不可逆を背負った。
 一人の男の死の<なぜ?>に接近できるのは<身捨つるほどの何か>とその<背後の闇>を感受できるかどうかにかかっているといえよう。
 森口豁の『激突死』(一九七八年五月二十一日放送、日本テレビ製作)は、上原安隆という一人の青年の死の<なぜ?>に迫り、忘却からその死の意味を掬い上げたドキュメンタリーである。森口もまた、上原安隆の死に衝かれ、心を動かされた者の一人であった。一人の男を死に駆り立てた<なぜ?>を訊ねることによって、沖縄とあの時代の襞に触れようとしたのだ。「彼の死から五年経った今も心のどこかにこの死がひっかかって離れない。上原君は、なぜ国会議事堂に体当たりしたのか。彼の死が沖縄の日本復帰からちょうど一年目に当るのは偶然なのか。」という問いをテコにして、上原が一九七一年に上京するまでの十年ほど過ごした基地の街コザで同じ時代の空気を吸い、彼の死を歌にしたフォーク歌手の海勢頭豊を伴い、一人の沖縄出身の青年が切り結んだ人と場所を訪ね、「激突死」と時代の意味を探索する。少年期を過ごした金武町喜瀬武原、高校を卒業して電気工やタクシードライバーやAサインバーのボーイなどの職業に就いていたコザの夜、上京後タクシーの運転手から最後に就職した川崎の運送会社、死を選んだ国会の正門などに足を運ぶ。そして、川崎の沖縄出身者やアパートの家主、沖縄に帰った運送会社の元同僚、コザのクラブ経営者、幼いころからの友人、血を分けた双子の兄弟の兄安房などから証言を引き出す。
 こうした人と場所の交叉から浮かび上がってくるのは、オートバイが好きで、おとなしく真面目なタイプ、当時流行ったゴーゴーやツイストを外人より上手に踊り女の子たちを喜ばす陽気な青年、絵を描いたりギターを弾いたり本を読むのが好きな物静かなタイプの青年像である。しかし、他方、「いつも自分のくに(沖縄)に誇りを持って」いて「誰かが、沖縄に対する批判をするとすぐぶちまけるような/何だか……毎日反発しているような」怒れる沖縄青年像の一面も見せる。
 人は誰でも関係の結び方や度合いによって己の見られ方が微妙にズレ、あるときはまったく相反することを一度や二度は経験するものなのである。上原安隆の場合もまた例外ではない。だが、とあえてここでいえば、誰でもない上原安隆にしかないハートの形があるはずだ。「誰かが、沖縄に対する批判をするとすぐぶちまけ」「毎日反発しているような」怒りとも哀しみともつかない心的機縁。おそらくそれは自分でも制御できない不定形な塊となって彼の身心を衝き続けたのであろう。
 こうした心の機縁は、他でもない彼と同じ一つの血を分けた双子の兄弟の兄安房の韜晦によって、いや、韜晦によってのみ示唆されなければならなかった。ディレクターの「なぜ安隆君がああいう死に方をしたと思いますか?」という問いに答えていた。

安房 そうねぇ僕はね、彼の死んだ場所が場所で、国会議事堂でしょう? ……(理由は)本人しか分からないけど、彼は僕の分身、つまり双子であるし、人よりは分かるから……、僕は(国会の前に)立ってね、ずいぶん考えたんですよ。なぜ死んだかと。/第三者から言えばね、一時的な自殺行為とか交通事故みたいな形で捉えられる気がしてね。だけど決してそうではないと僕は思ったんですよ、その時。……僕らは育ちが……沖縄でしょう、で彼はそういう政治的な問題にもある程度興味を持っていたし……。自分は何もしなくても中央権力からいつも拘束されているような、そういう気持もあったしね。
 「死者の眼」(森敦『意味の変容』)の冒頭に出て来る二人の男の謎めいた会話である。三十数年前、この幾つもの坂が流れ込んだ都市の中の小さな谷間に、幾たびか紛れ込んだことがあった。だがあのとき、そこには池もなければ冗談めかした遊歩道もなかった。ただ木々に囲まれ剥き出しの土だけの愛想のない広場にしかすぎなかった。あの日々、無数の汚れた靴が剥き出しの土を踏み締め、谷底からいくつもの叫び声が斜面を駆け昇り、駆け降り激しく谺していた。たしかに、この谷底は「死者の眼」が視たように壺中の天だったかもしれない。
 日本の首都を<帝都>のイメージで思い描くようになったのはいつの頃からだったろうか。思うにそれは、一九六〇年代の後半から七〇年代のはじめにかけての社会的反乱が垣間見せた裂け目と、北一輝の『日本改造法案大綱』や『国家改造案原理大綱』のエートスを果てまで辿ろうとして、首都を戒厳令下においた二・二六事件の反乱軍将校たちが書き残した遺書に接してからのことであったように思う。いや、それより私の<亜熱帯>がこの国とこの都市に紛れ込むことによって引き起こされた時間と空間の錯乱からくるものであった、といったほうがより真実に近い。なぜこのようなことが起こるのか。そしてその錯乱にはいかなる根拠があったというのか。
 私の<亜熱帯>、そして私の<オキナワ>。それは地図の中に書き込まれだ九州と台湾との間に花綵のように点在する島々の群れの空間名ではない。それよりもむしろ、これらの島々の葛藤の形と地政学的な想像力に関わる名だといった方がいい。これまでこの群島は日本の膨張主義的な近代や日米最後の戦場、そしてこの勝者と敗者が合作した戦後と占領の舞台となり、ずいぶん長い間、国家と国家の力学の狭間でその力学を<間・主体>として身体化せざるを得なかった。だから国民と国家を成り立たせる主権や領土の球形の内面を持つことを拒まれ、インペリアル/コロニアルな関係の乱数として点綴されてきたのだ。コロニアルはインペリアルによって多元的に関係づけられる。まさしく私の<亜熱帯>と<オキナワ>は、インペリアルによって関係づけられる自己定位や自己係留の葛藤やもつれ、横断や超越においてこそ語られなければならかったのだ。
 群島とは、実は、球形の内面を持たない<はざま>のエージェントなのだ。私の身体が問いかけてくるもの、私の意識が糺してくるもの、例えばそれはカリブ海に点在する諸島の、植民地本国に対する抵抗と諸島にひしめく組織片の合力としてのネグリチュードやクレオール性。
 「死者の眼」の謎めいた「全体概念」と「世界」は、こんな幾何学をもって二重の謎をかける。
 任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。
 こんなことも言っていた。
安房 決してね、犬死にみたいな死に方ではなかったんじゃないか……。僕は僕なりに、事故現場も見たし、そして彼が住んだ東京や川崎にも行ってね。/……彼は何かを訴えたかった、そして母もそれは多分納得してくれたと僕は思うね。/警察側もね「単なる事故じゃない」と。僕もまた「単なる事故では済ませない」と思ったしね。

 他人に語るというよりは、自分に言い聞かせるように言葉を一つ一つ?みしめながら訥々と弟の死を巡る。決して明快な語りとはいえないが、語り難きを語り起こすような、だが、それでもなお<何か>が韜晦のうちに確信されている。印象的なのは、言葉と言葉を繋ぐ間に寄せては返す漣の弱拍のように<……>が静かに鳴っているところである。その沈黙において、自らを踏み破った分身の強拍の最も深いところに触れているようにも思える。
 ここで仄めかされているのは、国会議事堂が還元不可能な場として選び取られたということであり、そのことによって「中央権力からの拘束」や「沖縄」が反照される。遺品として残された黒のヘルメットの真中に残された鉄扉の格子模様の生々しい痕跡は、激突死のすさまじさを物語ってあまりあるが、「中央権力から拘束」された「沖縄」への死を賭して彫り込まれたイコンのようにさえ思える。
 血を分けた分身との見えざる対話。森口豁はそんな対話の行間に潜む<……>/沈黙の声を聴き取る耳と行間を読み取る目を持つ数少ないテレビディレクターの一人である。そしてその<……>に、一人の沖縄出身者の<激突死>の背後にある時代の文脈を読み取っていく。
 <なぜ?>に促され人と場所を訪ねるうちに、やがて兄安房が韜晦のうちにくるんだ思いも寄らない事実が判明する。上原安隆が米兵相手のクラブでボーイをしていた一九七〇年十二月二十日、コザの街が火をまとった「コザ暴動」で逮捕・起訴された一人であったということである。
 「コザ暴動」は、酒に酔ったアメリカ兵が引き起こした交通事故処理に当たっていたMPが犯人のアメリカ兵を逃がしたことに民衆が怒り、アメリカ軍人軍属のイエローナンバー車やMPカーに次々と火を放ち、ペンタゴンと永田町を震撼させた、米軍政に対する沖縄人の鬱積した不満が一挙に爆発した戦後最大の騒乱であった。火を放たれた米人車両は七三台にも及び、膨れ上がった民衆の怒りはベース内や軍司令部まで向けられようとした。
 暴動を捕獲した映像には路上で赤く燃え上がる車両や乗用車から引きずり出されたアメリカ兵が群衆に制裁を受けるシーンとともに喚声と拍手、指笛に交じって「沖縄はどうしたらいいのか!沖縄人も人間じゃないか、バカヤロー、この沖縄の涙が分かるかお前らは。」とか「殺してやれー! どうして沖縄人が、あんた、車に引かれて殺されても、無罪とはないぜ。タタッコロセー。」「なんでMPをかばうか。沖縄人をかばってくれよ。バッカロー、何ヶ年我慢したか。二十五年もね、沖縄は可哀想ではないか。」という激しい声がボイスオーバーされている。群衆はイエローナンバーの車両に火を放ち、己の心に火を放ったのだ。
 赤く燃え上がる映像にシャウトした声はまた上原安隆のものでもあったのだ。コザを赤く焦がす火を放ち、石礫を放った群衆の中にゴーゴーやツイストを外人よりも上手に踊る上原安隆がいたのである。古ぼけた手書きの起訴状には「建造物以外への放火」の罪名と上原安隆の名があった。

 桐山襲の小説『聖なる夜 聖なる穴』は一九七〇年十二月二十日深夜の「コザ暴動」とその五年後の一九七五年、沖縄国際海洋博覧会の開会式に出席のため来沖した皇太子夫婦の目の前で、暗い穴から火炎瓶が投げつけられた「ひめゆりの塔事件」に触発されて書かれたものである。沖縄民権の父とされ復帰運動で偶像化された謝花昇と同じ名前を持ち、一九六〇年代の後半から七〇年代初めにかけての首都の反乱で機動隊のジュラルミンの楯で顎を砕かれ、全ての歯を失い失意のうちに沖縄に戻った「もう一人のジャハナ」が、沖縄戦の惨劇の場となった暗いガマの中で天皇の国家を下から支えた謝花の<正気>ではなく、全てを失い神戸駅頭で発狂し、廃人同然になって帰郷した謝花の<狂気>を生きなおし、皇太子がひめゆりの塔の前に立つ、まさにその瞬間、暗い洞穴から躍り出て自らに火を放ち命を絶つ青年の一日と、丘の上の売春宿で働く不思議な少女が「コザ暴動」を幻視(聴)した一夜を描いた物語である。この二つの<一日(一夜)>に、幾つもの昼と夜が重なり、沖縄の百年の記憶と遺恨がポリフォニックな想像力によって描写されている。
 青年と少女はたった一夜を共にするにしか過ぎないが、全ての失われた歯を少女によって蘇生させられる<妹の力>の寓意ともいえる不思議な交感が、少女のもとに通い詰めるようになったヤマトの技師との会話の中に挿入されていた。一九七〇年十二月二十日の深夜、丘の上の売春宿で交わされる少女とヤマト人の技師の会話には、二つの戦後の違いを耳と眼のメタファーで表出している。少女は窓の外に<声>を聴く。だが、技師はそれを聴く耳をもたない。
「声、声なんて聞えないよ。誰の声も聴こえない。……きみの耳はどうかしているんじゃないか? 窓の外は完全な夜だ。路地を流れていく足音だって、もう途絶えてしまった……全く、きみはときどき変なことを言うな。風もないのに風が吹いていると言ったり、何も聴こえないのに声が聞こえるといったり。」
「あんたは大和人だから聴こえないのよ。でも、あたしにははっきりと聴こえるわ。遠くの声……いま、何かが壊れる音がしたわ……大勢の人たちが駆けてゆく……ああ、フィフィが聴こえるわ」
「フィフィ?」
「指笛のことよ。(中略)ああ、たくさんのフィフィが聴こえるわ。大勢の兄さんたちが、目に見えないものを奮い立たせようとしているんだわ」
 ここではある越えがたい決定的な落差が示唆されている。技師にはどんなに耳を澄ましても声も風の音も聴くことはできない。ただ汚れた夜の町が丘の下にぼんやり霞んでいるだけにすぎないといい、少女が風の中に聴いた幾つものフィフィや大勢の人たちが駆けていく足音を「幻聴」としかみない。
 そしてあと一つ。
「火よ!」
「何だって?(中略)いったい何が見えるというんだ、裸のままのきみの二つの眼に−−」
「火よ、火が燃え始めたわ!」

 聴こえないものを聴き、見えないものを見る。それを「幻聴」や「幻視」というなら、他でもないその幻を聴く耳と、幻を見る眼があるかないかによってヒトやモノやコトの見方が違う。桐山襲は丘の上の会話の背後に、沖縄とヤマトの二つの戦後の非対称性を含意させているようにも思える。幻を聴く耳と幻を見る眼、それが「聖なる穴」と「聖なる夜」の<聖なる>というあえての言い添えがいわんとすることでもある。少女が窓の外に聴いた、目に見えないものを奮い立たせる「たくさんのフィフィ」や「大勢の人たちが駆けていく足音」そして「火!」とは『激突死』の中の赤く燃え上がる炎の映像にボイスオーバーした「沖縄はどうしたらいいのか! 沖縄人も人間じゃないか、バカヤロー、この沖縄の涙が分かるかお前らは。」という声と共振する。
 そして、その「フィフィ」と「火」は上原安隆のものであり、また暗い穴洞から躍り出て自らの身を焼いた「呪われたジャハナ」のものでもあった。見えないものに促され火を我がものにする<何か>。それは上原安隆の血を分けた双子の兄安房が韜晦の内に仄めかした沈黙の<……>に息づいているものでもあった。「コザ暴動」とは上原安隆にとって、上京したその後の上原安隆にとって何だったのか。彼の幼い頃からの友人は「会うたびにその話しはちょくちょく出てきた」こと、また「自分の過去には沖縄っていう背景があるもんで、本当に嫌だなって、塞いでいたんです。コザ事件に参加したことについては内面は誇りに思っていたんですが、裁判とかいろいろあってやっぱり怖かったんでしょうね。」と話していた。この友人の言葉は「コザ暴動」の後に安隆が抱きしめた「フィフィ」と「火」のありかを伝えていて興味深い。誇りと嫌悪と怖れ、この矛盾する心的機縁こそ彼のヤマトの日々だった。
 上原安隆が抱きしめたその後の「フィフィ」と「火」は、彼が沖縄を離れ「日本復帰」を挟む本土体験によって変奏させられる。というよりも。「コザ暴動」で放たれた火の対象は、イエローナンバーにのみ限定されるものではなかった。暴動の渦中、礫のように投げられた声の中の「二十五年も我慢したのだ」というときの、<二十五年>はアメリカの占領ということと同時に、アメリカが沖縄を占領し続けることを望むとした「天皇メッセージ」を始原にした日本国家の意志の関与があったのだ。だから「フィフィ」と「火」可能性としての「もう一つのコザ暴動」「未来のコザ暴動」が内懐されていたといえよう。丘の上の少女とヤマト人技師の噛み合わない会話にはそのことを暗示させるものがあった。「フィフィ」と「火」はまた、暗い穴の中で「ジャハナ」が想起する沖縄の百年の記憶から吹き上げてくるものでもあった。
 上原安隆の生身の<激突死>と森口豁のドキュメンタリー『激突死』、そして桐山襲の『聖なる夜、聖なる穴』。現実とドキュメンタリーと小説的想像力が重なるところに、一人の青年の死の<なぜ?>が浮かび上がり、そこに「フィフィ」と「火」の精神譜が書き込まれる。
 森口豁は一人の沖縄出身の青年が死に場所として選んだ国会と一九七三年五月二十日という日付が単なる偶然ではなく、覚悟の上での行動だったことを読み取る。ドキュメンタリー『激突死』を作り上げた直後に書かれた「なぜ沖縄か〜一沖縄青年の生と死で考える〜」(「マスコミ市民」一九七八年九月)では、復帰しても変らない沖縄の現実と人々のやりきれなさやヤマトのマスコミや運動の言説から沖縄の「お」の字も見えなくなったことを挙げていた。そしてコザ暴動から三十年目、上原安隆の「激突死」から二十七年目の「たった一人のコザ暴動/喜瀬武原・東京・そして今」(「琉球新報」二〇〇〇年一二月二十日)では、上原安隆の死が「交通事故死」ではなく、「コザ」と「国会議事堂」を貫ぬいた、たった一人で敢行した「コザ暴動」であったことを沖縄の戦後史と復帰後の文脈で拾い直し掬い上げて見せた。
 ドキュメンタリー『激突死』は、国会議事堂へ向かって猛スピードで走るバイクから見た震える画像に「♪♪俺の孤独の道はここ迄来たんだよ/突っ走れ 突っ走れ/気狂いじみた野郎たちの/胸の正気の扉をぶち破れ/ワーォー!」というたたきつける歌声が矢となってフェードアウトする。時速八十キロに加速していくアクセルを絞り込みながら、ヤマトの日々で抱きしめていた「たくさんのフィフィ」と「火」を首都の空へ解き放った。彼は己の心に火を放ち、二十七年の生を内破した。内破することによって沖縄の日本への「復帰」の限界を越え、その向こうを見た。「毎日反発している」彼の<在日>もまた決して凪の中に囲われてはいなかった。
 上原安隆という名のあまりにも戦後的な生と死。一九七三年五月二十日の「たったひとりのコザ暴動」に釣り合うだけの表出を、私たちは、今、持ちえているわけではない。

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<1> 回帰する声、転位のトポス
 おお、私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!
                     フランツ・ファノン


 春に向かって身支度を整えはじめた季節のリズムをしばし狂わすように、鋭い寒波が戻った三月のはじめだった。前日は粉雪がちらちらと空から舞い落ちていたが、その日は恐ろしく晴れ渡っていた。亜熱帯の光や風に弛んだ皮膚の細胞がキリキリと締め上げられる。
 駅の改札を出て右に階段を上りつめると、記憶の街がかつての乱雑さをすっかり消し去り、端正な方形で夕暮れの光を斜めに浴びて陰翳を濃くしている。右手にゆるやかなカーヴを描いて伸びている土手に上り、まだ芽吹くには早すぎる裸の枝を広げた桜並木の尽きるところを左に折れ、そのまままっすぐ坂道を降りきった十字路の一角にその広場はあった。人工の池や公衆トイレや短い遊歩道がしつらえられた小奇麗にすました空間は、冗談のようなメルヘンに思えた。
 円形にかたどられた灰色の水を覗くと、無数の裸の枝といましがた点いたばかりの青白い街灯とビルディングの影が小刻みに震えていた。いくつもの坂が集まる谷底の、そのまた小さな人工の水の円は、まるで壺中の天を思わせた。明るさと暗さが溶け合うつかのま、見上げるのではなく、覗き込むように見下ろすことによってそこに現われた世界。溜め池の中でマダラ模様の水の生き物がうごめく。斜面を降りてくる風に水面が半円を描くように細かい皺を寄せる。決して流れることはない水の上を風が流れる。それはとどまることを知らない風の呟きのようにも思えた。いや、ひょっとするとここは、風の墓場だったのかもしれない。
 と、どこからか一つの声が耳元を打った。

 大きいというわけじゃないが、ここは謂わば壺中の天だね。
 「壺中の天? 成程なァ。まさに世界だ」世界? おなじことだが、ぼくらは全体概念を形づくっていると呼んでいるんだよ。
 「死者の眼」(森敦『意味の変容』)の冒頭に出て来る二人の男の謎めいた会話である。三十数年前、この幾つもの坂が流れ込んだ都市の中の小さな谷間に、幾たびか紛れ込んだことがあった。だがあのとき、そこには池もなければ冗談めかした遊歩道もなかった。ただ木々に囲まれ剥き出しの土だけの愛想のない広場にしかすぎなかった。あの日々、無数の汚れた靴が剥き出しの土を踏み締め、谷底からいくつもの叫び声が斜面を駆け昇り、駆け降り激しく谺していた。たしかに、この谷底は「死者の眼」が視たように壺中の天だったかもしれない。
 日本の首都を<帝都>のイメージで思い描くようになったのはいつの頃からだったろうか。思うにそれは、一九六〇年代の後半から七〇年代のはじめにかけての社会的反乱が垣間見せた裂け目と、北一輝の『日本改造法案大綱』や『国家改造案原理大綱』のエートスを果てまで辿ろうとして、首都を戒厳令下においた二・二六事件の反乱軍将校たちが書き残した遺書に接してからのことであったように思う。いや、それより私の<亜熱帯>がこの国とこの都市に紛れ込むことによって引き起こされた時間と空間の錯乱からくるものであった、といったほうがより真実に近い。なぜこのようなことが起こるのか。そしてその錯乱にはいかなる根拠があったというのか。
 私の<亜熱帯>、そして私の<オキナワ>。それは地図の中に書き込まれだ九州と台湾との間に花綵のように点在する島々の群れの空間名ではない。それよりもむしろ、これらの島々の葛藤の形と地政学的な想像力に関わる名だといった方がいい。これまでこの群島は日本の膨張主義的な近代や日米最後の戦場、そしてこの勝者と敗者が合作した戦後と占領の舞台となり、ずいぶん長い間、国家と国家の力学の狭間でその力学を<間・主体>として身体化せざるを得なかった。だから国民と国家を成り立たせる主権や領土の球形の内面を持つことを拒まれ、インペリアル/コロニアルな関係の乱数として点綴されてきたのだ。コロニアルはインペリアルによって多元的に関係づけられる。まさしく私の<亜熱帯>と<オキナワ>は、インペリアルによって関係づけられる自己定位や自己係留の葛藤やもつれ、横断や超越においてこそ語られなければならかったのだ。
 群島とは、実は、球形の内面を持たない<はざま>のエージェントなのだ。私の身体が問いかけてくるもの、私の意識が糺してくるもの、例えばそれはカリブ海に点在する諸島の、植民地本国に対する抵抗と諸島にひしめく組織片の合力としてのネグリチュードやクレオール性。
 「死者の眼」の謎めいた「全体概念」と「世界」は、こんな幾何学をもって二重の謎をかける。
 任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。
 ここでの「全体概念」は二種類存在することなっている。一つは、内部としてのそれである。その内部は境界がそれに属せざる領域であるがゆえに無辺際の領域としての全体概念となる、という。あとのひとつは、内部+境界+外部としての全体概念である、という。何と、この幾何学は、インペリアル/コロニアルとして関係づけられる近代の世界化を導くはじまりの思考だったのだ。「任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く」、その<任意>を司るものは、帝国の恣意的な権力であり、それによって確定される円周を巡って国民の創生や国家建設の物語、そしてそのふさ縁を飾る領土的思考が形づくられるというわけである。とすれば、国民や国家としての球形の内面をもたない<あいだ>と<はざま>を生きる島々の群れは、境界において動詞化される実在の位相といっても過言ではない。
 そう、境界、そして外部。境界が属する外部。私の<亜熱帯>と<オキナワ>は<帝都>でひとつのトポロジーとなったということである。あの時間と空間の錯乱はこのトポロジーに関係していた。<天皇をもって天皇を諫める>すこぶる危険で、パンドクシカルな二・二六反乱の「国家改造」や戦後体制のフレームを揺さぶったラディカリズムが、境界がそれに属しない内部でのそれであったとすれば、私の<亜熱帯>と<オキナワ>は、境界がそれに属するところの外部を転轍して見せた、ということである。<帝都>の谷底の壺中の天に谺した「世界」は、同じ「世界」でも似て非なるものであったのだ。
 「沖縄返還」「沖縄奪還」「沖縄解放」「沖縄自治政府」「沖縄労農政府」「沖縄特別県制構想」「海南道の思想」「沖縄独立」「沖縄自立」などなど、六〇年代後半から七〇年代はじめにかけての状況に書き込まれた有象無象の政治的沖縄表象。それらは任意の半径を以て描かれた円周を境界として二つに分かれた世界への多元的な関与の形だったといえないだろうか。
 夜の闇がすっかり地表を充たす。円い水の鏡が闇に溶け、ただ街灯だけが一輪の月となって漆黒の水面に浮かぶ。もうそこは壺中の天でさえない。水の生き物が身を翻して月に跳ねた。瞬間、鱗が鈍く光った。時間と空間が闇夜にゆっくりと反転しながら、封印されたドキュメントを開封する。



 1971年10月19日。「沖縄国会」と呼ばれ、沖縄返還協定と復帰特別法の採決を促す施政方針演説に立った首相の演説が始まった、まさにその瞬間、爆竹が弾ける音とともに無数のアジビラが花びらのように舞って落ちた。それは「潜在主権」という国際法上のマジックによって繋ぎ止めていた沖縄を領土として可視化し、球形の内面に統合しようとする政治的スペクタクルへのカウンター行為でもあったのだ。アジビラは花びらのように軽かったにしても、狂おしいまでの言語の争闘の決意に漲っていた。「すべての在日沖縄人は団結して決起せよ」。一行が立ち上げられ、それから。
 われわれは問いたい!議会制民主主義の名のもとに日本が沖縄の命運を決定するができるのかと。
 沖縄の歴史は、つねにそうであったように薩摩の武力的併合以来、よそ者・侵略者達が刻みこんだ苛借ない搾取と収奪の軌跡であった。三度にわたる「世替り」は、そのたびごとに沖縄を分離したり併合したりした。明治の琉球処分は、日本の近代化の為、沖縄を「国内植民地=属領」化しソテツ地獄に落しこめた。戦後、第二の琉球処分では壊滅的打撃をこうむった日本資本主義の再生とひきかえに分離され、アメリカ帝国主義の軍事監獄にたたきこまれ四半世紀にもわたり奴隷的存在を強要せしめられた。そして今度の日米共同声明にもとづく七二年沖縄返還は、日本帝国主義の対外膨張のため沖縄を併合しようとするものである。
 われわれは、はっきりと断言する。
 日本が沖縄を裁くことはできないのだと。
 事態は七二年返還をめぐって象徴的に進行している。
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 もはや、とうすいの時代は終わった。あれ程までに復帰運動の生成から発展の過程おいて熱狂の眼差でもって語られた「祖国日本」が、帝国主義然としたその真姿をあらわにするとき、復帰運動は自らを沖縄戦後史の墓標として発現しようとしている。
 沖縄は、今、生みの苦しみの只中にある。第三の琉球処分の激動の渦中で、わが沖縄はその激動の波しぶきを新生への“うぶ湯”にすることができるのか。それとも激動は、沖縄の新たなる"絶望"を生み落すものなのか。
 明らかに沖縄の内部で一つの時代が滅びようにとしている。……それは、もはや、かつての幻想を追い求める心情的、他律的なのではなく"自立した変革主体"としての自らの階級的力量に立脚し、現実と対決する"さめた者"としての位置からの模索である。
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 全ての在日沖縄人は今こそ勇気を立ち上がれ。「祖国」への幻想を打ち切り終りなき闘いを準備せよ。
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 沖縄返還協定批准を阻止せよ!
 七二年返還を粉砕せよ!日本−沖縄解放の歴史の分岐がここに問われている。
 全ての沖縄人は団結して決起せよ!
1971年10月19日 沖縄青年同盟行動隊
 爆竹という祝祭の小道具の散乱と「檄文」の乱舞。まさにこれは一つのスキャンダルであった。あえてスキャンダルを引き受けることによって、統合の儀式としての「沖縄国会」の「スペクタクルをスペクタクルでもって撃とうとした」演劇的行為でもあったのだ。だが、ここには「檄文」という言語の亢進と激発において、転形期のエートスや地政学的な想像力や歴史認識が表出されていることを忘れてはなるまい。
 七二年の「復帰」を<第三の琉球処分>と認識し、明治の琉球処分にはじまり、沖縄をめぐって反復される併合・分離・再併合の円環に対して敢行したカウンター行為。それは同時に、想像の共同体ニッポンの球形の内部を「祖国」として幻想化し、それとのシンメトリックな関係を結ぶもう一つの疑似内部としての「復帰運動」へも向けられていた。そして「在日沖縄人」という自己表象は、内部に折り込まれることによって現前化した境界と<間・主体>化された身体の表出だといえよう。
 これはさらに次のように追言されならばならない。国民や国家、主権や領土をあらしめる円周は、円周に属しない境界を内部化することによって二重化され、円はねじれて8の字型に変形する。そのとき、境界は8の字型の結び目としての交点になり、それによって取り込まれつつ排除される両義性をおわされるということだ。内にあって内にあらず、外のようで外にあらず、内部と外部が重層化されるのだ。「在日沖縄人」という表象とは、こうした奇妙な実存の別名といえなくもない。「死者の眼」の謎めいた幾何学が<在日>において亢進され、更新される。あの「檄文」は8の字になった境界の叫びだったのだ。
 一九七一年一〇月一九日。<帝都>の秋に花びらのように舞い、散り、無辺際の内部に消えたオキナワンシャウト。だが、何を隠そう、あの時以来、この一枚のスキャンダルによって私の<群島>は宙吊りにされたままである。


 『それぞれの15年』という琉球放送が1987年に制作したテレビの特番があった。激動の世替わりとしての「復帰」を高校三年の時に迎えた群像が、「その時」をどのように体験しその後の15年を生きたのかを追ったドキュメンタリーである。「復帰」直前に行われた学級討論会の映像が番組の導入としておかれているが、このシーンは少なくともドキュメントの推力になっているだけではなく、登場する九名のその後を反照する鏡の役目をもになっている。
 黒板には「沖縄の祖国復帰」と「自衛隊の沖縄配備」の文字が板書されていた。教室に入ったカメラは二人の白熱した応答に向けられる。
K 沖縄県民がほんとうに日本に帰りたいという帰りたいという感情でもって五月一五日、返還されるところまできたと思うんですよ。で、自衛隊問題が持ち上がっているが、復帰してから……現実論として考えた場合、阻止することは不可能だと思う。
N 今度の返還をどのようにとらわれているわけ? 施政権返還そのものとしてとらえるわけ? 自衛隊配備と五月一五日の返還は別個の問題か! 自衛隊の沖縄配備は五月一五日の本質なんだろう。五月一五日返還を認めたうえでの自衛隊沖縄配備の闘いだったら、むしろ政府がやっていることを一切認めてしまう。
K 君が五月一五日を否定しても、五月一五日は来るんだろう!
N 来るから僕らはそれに対して反対の意思表示をしないのか! 君がそれを認めることは、自衛隊配備をいくら闘おうたって、五月一五日によって、法的にも内実ともならされいくわけだろう。
 「沖縄の祖国復帰」と「自衛隊の沖縄配備」をめぐって、段階を踏んだ現実的対応を主張するKと超越論的に反対すべきであるとするN。この二人の激しい応酬は、沖縄の日本への復帰・返還が沖縄の18歳たちにどのように受けとめられたかということだけではなく、復帰に回収された戦後とその後沖縄が辿った時間の原型をも示唆していた。
 また九名の語りの合間に、5月15日の復帰の日の二つの表情と自衛隊第一混成団が戦後はじめて沖縄に足を踏み入れた様子を資料映像としてインサートしている。二つの表情のその一つは、最後の琉球政府主席にして戦後最初の沖縄県知事でもある屋良朝苗が燕尾服姿で「宣言。1952年4月1日に設立された琉球政府は、1972年5月14日をもって解散し、昭和47年5月15日、ここに沖縄県が発足したことを高らかに宣言します」と、宣言文を読み上げた「新沖縄県発足式典」である。西暦を元号に変え、琉球政府を沖縄県に変えた宣言文は、復帰運動の夢の果てを、ある意味では象徴的に表現したものであった。復帰運動を描いたドキュメンタリーには、母なる祖国へ抱き取られる夢想を、日の丸とともに日本地図の図像化を言語でもって認定し、「復帰」を国民の物語として代理する行為だったといえよう。
 あとのひとつは、「新沖縄県発足式典」のすぐ隣の与儀公園で、どしゃぶりの雨のなか開催された自衛隊配備や軍用地契約などに反対する「沖縄処分」抗議総決起集会の映像である。同じ日の同じ時刻の、内と外で演じられた対照的な二つの表情。
 『それぞれの15年』に登場する一人は、「その日」を回想していた。
 5・15は、今、今、と時計を見ながら、夜一人で眠れなくて、無力感とか、大人は何を感じているんだろうかとか、私にどういう権利が与えられたら食い止められるのかとか、そういうことを考えながら過ごしてきました。……首里高校の制服を着たままで与儀公園に参加したんです。学生がいて先生方がいて、いろいろな人たちがいろいろな主張をしている。火炎瓶が燃えて血みどろになっている学生を見て、もう涙が出て体が動かなくなった。なんで沖縄県民同士がけんかしなくちゃいけないのか、それを凝視して体が動かなくなって……復帰運動の先頭にいた屋良先生がなぜこの雨の中にいないで、あっちの市民会館にいるのか、それが疑問だった。
 どしゃ降りの雨の日の「沖縄処分」に抗議する集会の中にいた一人の女子高校生の、その目が凝視し、その身体が鋭く感応したことは、今、刻々と迫りくる時と「復帰」という指導的観念がもはや統合機能を喪失してしまったことから生まれた裂け目である、といえよう。彼女の身体は、いわばセンサーである。そのセンサーは凝固するという反応によって「沖縄処分」としての「復帰」の本質を射貫いている。彼女の目が見た血、動かなくなった体は、燕尾服を着たかつての復帰運動のシンボル的存在が高らかに宣言した「新沖縄県」の虚妄を衝いてあまりある。
 『それぞれの15年』は、歴史の歯車と一人一人の実存がスパークしながら重なり、すれ違い、その後の生の歩みにいかに影を落としているかを知らせる。
 「沖縄の復帰への思いを、うまい具合に掠め取って自分たちの都合のいいように利用した。どうしようもないものにぶつかってきたというのが実感ですね。僕らのエネルギーがとてつもなく大きいものにすべて吸収されていった。」(公務員・男性)
 「復帰の十日ほど前の連休に、生まれてはじめて本土の土を踏んだ。本土に行く前は絶望感だけだった。船の中で気持がだんだん変ってきた。鹿児島で線路を見たとき、これが本土か、日本に帰るんだという実感が湧いてきて気持が吹っ切れた。」(理学療養士・男性)
 「はっきりいって、復帰運動は幻想でしかなかった。夢を与えただけで、その夢はかなえられなかった。施政権が日本に移っただけでアメリカ軍は厳然と存在している。ただ、あの運動の中にあれほどのめりこんでいったのか自分でもわからない。あの運動のなにが自分をひきつけるものがあったのか、もうちょと時間が経たなければ分からない。」(会社員・男性)
 「復帰は日本国民になるという帰属する場所ができる。奄美大島出身だから外人登録をしなくてすむ、そういうような煩わしさから解放されるという意味で、私にとっては復帰は必要だった。私の中の沖縄は、日本国沖縄県ですね。」(学習熟講師・女性)
 15年の時を経ることによって語り得ることと、15年の歳月をもってしてもなお語り得ぬことがある。1972年を巡って声と声が交叉し、反照する。1972年とは、沖縄の戦後世代にとって、歴史と体験を不断に問いにかける、回帰と転位の磁場のようなものである。記憶の閾に問いつづける身体があった。

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