仲里効 [琉球電影列伝/記憶と夢のスクランブル]

 沖縄タイムスの「文化欄」に毎週木曜日に連載された<寄稿「琉球電影列伝/記憶と夢のスクランブル」>全15回のdezital版である。ただし、「11回」に限り、天皇訪沖時に合わせ1月23日金曜日に掲載された。

(1)映画的な島/権力者からの視線/時代の欲望に曝され
(2)1930年代帝国主義の宣伝に/「南進」へ欲動を誘導
(3)『海の民』/「大東亜共栄圏」担う/破局の黙示録的世界
(4)『八月十五夜の茶屋』「屈辱」めぐる論議/占領者の独善性笑う
(5)戦後世代のねじれ、沖縄の子らに投影/民族「帰一」の再審を
(6)『沖縄の十八歳』/祖国論争に注目/高校生の「揺れ」描く
(7)『沖縄人類館』「事件」を風刺的に/近現代史鋭く射抜く
(8)『そこに光を』/病んだ帰還兵の闇/戦争の暴力を逆照射
(9)移民の二重性を叙述/『ヒア・サ・サーハイ・ヤ!』乗り継がれる主体
(10)「沖縄やくざ戦争」/転換期の混とん凝視/暴力団抗争で復帰描く
(11)『遅すぎた聖断』天皇と沖縄戦を検証/累々たる死を重ねる
(12)『謝花昇を呼ぶ時』/近現代の位相を描写/(狂気)で(正気)を撃つ
(13)『ヤマングーヌティーダ』/具志堅用高物語/「火照らせた」ものへの恋歌
(14)「無言の丘」/琉球人の台湾体験描く/第三項的な介在
(15)生のなかに甦る死/「島クトゥバで語る戦世」


(1)映画的な島/権力者からの視線/時代の欲望に曝され

 いきなりだが、沖縄は<映画的な島>である、といってみたい。そういうのは、一つのエリアとしてみれば、制作された映画の量からいって他に例がないほど際立っているからだけではなく、その質においても琉球・沖縄をめぐる映像がアクティブな要素を内在させているからである。映画の対象にされ続けた、ということは、それだけこの島々の群れに「魅力」があるということでもある。

 たしかに撮られるということは、撮られるだけの<何か>があることはいうまでもない。だが、その<何か>とは「魅力」ということだけではすまされない、<視線の政治>とかかわるものを含みもっているはずだ。視られることは曝されることでもある。この視られ、曝されることの内にはマスイメージの生産と権力の視線の布置を抜きにしては語れない。<映画的島>というときの<映画的>という言葉には、こうした二重の意味が含意されていることは忘れてはならないだろう。

 これまで琉球弧と呼ばれる島々をめぐって多くの映像が制作され、そして沖縄イメージが産出され続けてきた。例えば民俗学・言語学的な視線と関心からは「民俗と言語の宝庫」や「忘れられた日本」、「残された原日本」などの沖縄像が生まれ、「日本国民」の贖罪を代理するものとして「悲劇の島」が表象され、最近でいえば<妹の力>を変容させたような、元気なオバアをことさらにフィクショナル化したところから生まれた「長寿と癒やしの島」イメージなどで、ある。

 だが、ここで、立ち止まって視線を返してみると、それらの沖縄イメージにはその時々の時代の欲望やマスイメージの権力的な布置と無縁ではなかったことを改めて納得させられる。「原日本」や「民俗と言語の宝庫」は、周辺地域を併合し従属化していった日本の植民地主義的展開をオーソライズした「日琉同祖論」や「日鮮同祖」などの同化政策とリンクしていったし、「悲劇の島」は、沖縄戦が国体護持のための引き延ばしと住民虐殺など、近代日本の構造的暴力や皇民化・同化論を沖縄サイドから内面化し極限的に生きた「集団自決」を覆い隠しもした。「長寿と癒やしの島」はどうかといえば、明るいトロピカルな空のもと、いいようのない閉塞感に自らの身心を追い詰める男たちの際立った自殺をベールにくるんでしまう。

 映画は視線の政治を表出する。視ることは名付けることでもある。名付けることは視線の占有と結びついている。その視線の占有によって創作された沖縄イメージの代表的なものといえば「キーストーン・オブ・ザ・パシフィック」だろう。「太平洋の要石」という名付けは、軍事的・戦略的な視線なしにはありえない。そういった意味で、第6海兵師団の沖縄戦での戦闘の様子を描いたドキュメンタリー『沖縄の第6海兵師団』の冒頭のナレーション「沖縄は攻撃の対象であると同時に、カメラによって撮影される対象でもある」という言葉は象徴的ですらある。ここには視ることが軍事的な戦略のなかに組み入れられていることが言い当てられている。攻撃し勝利を収めるためには視ることにおいて優位でなければならない、といっているのである。

 『戦争と映画』の著者、ポール・ヴィリリオがいった「映画は戦争であり、戦争は映画である」というテーゼは、視線の政治への優れたアンサーであり、究極の映画論であるとみていいだろう。湾岸戦争から9・11を経て「テロとの戦争」の名のもとに行われたアフガニスタンとイラクへの軍事的暴力の行使とメディアによるイメージメーキングは、ヴィリリオのテーゼを恐ろしいまでに忠実になぞっている、はずだ。

 アジア大陸のへりから東シナ海の洋上、九州と台湾の間に弓なりに点在する琉球弧と呼ばれてきた島々は、これまで東アジアに展開した国家間の力学で幾たびかその境界を書き換えられてきた。沖縄は、いわばボーダーランドである。その地政的、歴史的な位置はまた多くの視線があつまるところでもあった。沖縄をめぐって産出された映像の群れ。琉球・沖縄を巡る映像がその時々の沖縄イメージの編成と不可分に結びついていることはいうまでもない。

 映画の光学は人々の記憶や夢や憧憬、心の迷宮を探照する。では、映画は沖縄をどのように表象してきたのか。映画は誰のために作られてきたのか。そして、われわれはどこから来て、どこへいくのか。これまで沖縄をめぐって作られた映像の森の中で考えてみたい。 <2003年10月9日>


(2)1930年代帝国主義の宣伝に/「南進」へ欲動を誘導

 現存する最も古い沖縄映画は、一九三二年に吉野二郎が監督し、日布映画社が制作した『執念の毒蛇』ということになっているが、一九三〇年代は、なぜか、沖縄をめぐる映画が一挙に量産されている。これはおそらく映画が産業として成立するシステムが確立されたということもあろうが、それよりもむしろ、映画を必要とした国家的事情があったとみた方がよいように思われる。

 「東亜新秩序の建設」や「大東亜共栄圏構想」の名のもとに、軍国日本がアジア地図を塗り替えながら、目いっぱい膨張していく帝国的ビジョンの実践とかかわっていたということである。いわばナショナルアイデンティティーづくりと「国民」を総動員していくためのイメージ戦略として映画の威力が求められたことと無関係ではなかった。

 もともと映画の誕生は、「国民」の創生と密接にかかわっていたが、映像の力が悪魔的に発揮されるのはプロパガンダにおいてであったことは、ナチスドイツの例をみるまでもなく、映画史が教えるところである。

 一九三〇年代に入って量産された沖縄をめぐる映像は、アジアに出現した唯一の近代的帝国としての日本のエスノファンダメンタリズム的な膨張主義がいかに周辺地域を編入していくかの<実験映像>的な内容を持っていたことと、沖縄芸能の独自な発展と関係していた。

 アジア・太平洋戦争が始まるまでの、ほぼ十年間に作られた琉球・沖縄映画を特徴づけるものとして二つのことが挙げられる。その一つは、大衆芸能としての沖縄芝居と結びつき、映像と実演を交互に組み合わせた「連鎖劇」として制作されたことである。ちなみに、この時期作られた「連鎖劇」は、『国難(慶長の役)』、『阿摩和利』、『屋慶名アカー』、『黄金座主』、『ウンタマギルー』などである。この映像と実演のコンビネーションとしての「連鎖劇」は、映画としての自立した表現ではないにしても、沖縄における映画の誕生をみる上で無視できないし、それは、戦後においても沖縄芝居の隆盛とともに独自な表現スタイルとして開花したことからもうなずける。

 二つめは、民俗学や民芸運動による「南島」の発見とかかわっていた。注目すべきことは、この「南島」の発見は、「南進論」という形をとった植民地主義の文脈に接続されたということである。民俗学や民芸運動のまなざしは、コロニアリズムと不可分に結びついていたということでもある。柳宗悦と式場隆三郎の監修で日本民芸協会が作った「琉球の民芸」と「琉球の風物」は、沖縄県当局との間で争われた<方言論争>で示した民芸協会の視線の映像化といえようが、古い日本の原郷性を沖縄にみたローマン的沖縄像は、やがて日本の自民族中心主義的な併合と拡張の論理の中に組み入れられ、さらに<南>へ伸びる軌道を敷設することになった。柳ら民芸協会の二作と相前後して制作された『沖縄』、『南の島・琉球』、『海の民・沖縄島物語』は、こうした日本民俗学や民芸運動によって表象された沖縄像を「南進」の系譜に反転させる様相が鮮やかに描かれている。

 わずか十四分の短編ながら『沖縄』は、いわばその原型的な映像となっている。沖縄発見の旅物語を装いつつ、人々の欲動と視線を<南>へ誘導するプロパガンダでもあるのだ。ここにはエキゾチシズムとコロニアリズムが同居する光景がある。さらに注意深く見てみると、エキゾチシズムとコロニアリズムの同居を決定づけているのが声と語りであることに気づかされるだろう。映像それ自体としてみれば、亜熱帯沖縄の自然や風物、歴史的建造物の紹介であるが、いったん声と語りが導入されることによって過剰なまでの意味を帯びさせられるのである。

 例えばそれは「王政復古とともに帝国政府は、琉球と我が国は民族的にも地理的にも、さらには言語の上でも緊密な間柄で(略)、我が帝国の版図の一部になったのであります」とか「植民地方面に移住している日本人中80%は沖縄人であります。(略)。いい換えれば、我が南の生命線は沖縄県人によって確保されているのであります」というようにである。

 この声と語りこそあの民俗学や民芸運動によって発見された「原日本」としての琉球像から立ちのぼってくるものである。南の島琉球へ向けられた視線によって創作された沖縄イメージが、帝国の声によって運ばれるとき、そこに出現するのは、<南進>のまがまがしい物語である。

 一九三〇年代に量産された沖縄をめぐる映像から伝わってくるのは、エキゾチシズムをコロニアリズムに反転させる帝国的ビジョンであり、その結び目と同時にファーストベースの役回りを振り当てられた沖縄の位置である。<2003年10月16日>


(3)『海の民』/「大東亜共栄圏」担う/破局の黙示録的世界

 映画『沖縄』の<南進>の物語は、『海の民 沖縄島物語』(村田達三監督/東亜発聲映画社)でさらにあらぶる力を賦活され、生き直される。この映画は、太平洋戦争がはじまった翌年の一九四二年に制作されたものであるが、沖縄の地政学的位置や歴史的履歴がどのように帝国のコンテキストに編制され、物語化されるかということを、実にドラスチックに見せつけた。

 この映画で沖縄が大東亜共栄圏構想を担うモデルとして描かれているのである。モデル化を際立たせているのは、帝国のグラフト(接ぎ木)機能である、といってもいいだろう。当時の考えうる限りの映画の手法を駆使して作り上げているのだ。映画も含め表現活動が統制された戦時体制下の真空状態で、西欧対東洋の二分法的「文明の衝突」が演出され、アジア太平洋文明圏の優位性とその中心としての帝国日本の視線と力を誇示してあまりある。そして「古い歴史の願いを現代まで伝えた日本のもっとも優れたる島々のひとつ、沖縄島」と名指しされ、物語が創作される。

 ここに、沖縄を起点にして一編の<東亜建設の物語>が仕立て上げられる。そういった意味でもこの『海の民 沖縄島物語』は、沖縄をめぐる映画ということにとどまらず、映画史的に見ても記憶されるに値する作品となっている。それまでの沖縄に関するさまざまな情報が収集され、加工され、編制され、人々の欲望を方向づけていく。そこには、勤労、節約、忍耐、血縁などの戦時体制下の文法が計算され尽くした形で織り込まれ、驚くべき凝縮力となって、観るものをデモーニッシュな世界に誘い込む。これはまた、沖縄の言説史の編制でもあり、琉球・沖縄像の魔術的グラフトでもある。

 そのグラフト化にあたって着目されたのは、南洋方面で「殲滅的漁法」としての追い込み漁でその名をはせた海の民としての琉球人(この映画では糸満のウミンチュがモデルとなっている)のサバイブと「海外雄飛」の名のもとに海を越えた多くの移民の軌跡である。それまで狭い土地に閉じ込められていた海の民が、明治維新によって再び海外雄飛の機会を与えられ、海をネットワークにした雄飛と交易の記憶をテコにした<沖縄・琉球イニシャティブ>がイメージ戦略として実に象徴効果的に描かれているのである。

 だが一方で、『海の民 沖縄島物語』によって称揚された海のネットワークとは対照的に、沖縄的なるものを徹底して忌避し、排除したもう一つの側面があったことを忘れてはならないだろう。こうした称揚と排除は沖縄が生きたメダルの両面でもある。忌避と排除の対象になったのが沖縄の言葉であり、琉装であり、またシャーマニズムであった。『海の民 沖縄物語』のプロパガンダの裏面では、国策を体現した沖縄県当局による「共通語励行大運動」があり、「琉装全廃運動」があり、それらの話法を内面化した「創氏改名」があった。ユタの大量検挙もたびたびなされた。

 ところで、こうした沖縄像がデモーニッシュに改ざんされていくささくれだった時代にあって<吃音>と<韜晦>の話法で抗った痕跡があった。山之口貘の詩もそのひとつである。

 一九三六年に発表された「会話」は翼賛化していく時代の欲望と沖縄に対するマスイメージへのいらだちと暗いまなざしが書き込まれている。「『お国は?』と女が言った/さて、僕の国はどこなんだか、とにかく煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇三線などの連想を染めて、図案のような風俗をしているあの僕の国か!」とはじまる問答は、だが、会話の不在の詩でもあった。女の問いに、沖縄という固有名は決して口に出されることはない。このことは沖縄を出自に持つ者が置かれた複雑な心理が仄めかされているとしても、沖縄という名を声に出して表に出せばたちまちのうちに世間の偏見や定型的な沖縄イメージにからめとられてしまう。

 沖縄という固有名は、だから、最後まで隠され「ずっとむかふ」とか「南方」とか「亜熱帯」とか「赤道直下のあの近所」といった喩を重ねることになる。「図案のような風俗」の沖縄イメージに沖縄は、不在である。「僕」はいらだち、女の耳の手前でステレオタイプの沖縄像をモノローグで噛み砕く。「僕」の声は決して女の耳に届くことはない。「会話」という名の付いた会話なき会話。貘のドゥーチュイムニーは、女の背後にある当時の定型的な沖縄イメージを照らし返しもした。

 この山之口貘の吃音と韜晦は、一九三〇年代から四〇年代初めにかけて作られた沖縄をめぐる映像に対する抗いの声として読み直すことが可能である。『海の民 沖縄島物語』に「会話」をおいてみるとき、この映像が創作した<悪魔>のような物語がより鮮明になってくるだろう。

 そしてラスト、高らかに鳴り響くラッパの音とともに、「皇土の神職を奉じ、心を一つにして大東亜共栄圏の確立に精進」する拓南訓練生たちの大合唱に重なる場面は来るべき破局の時の黙示録的世界としてみても興味深い。その背後には「いざ行かん/我らの州は五大州」の碑文と当山久三の立像があった。やがて汽笛がなり、戦場へ若者たちを送り出す出船のシーンで締めくくられる。

 海の民のたくましさと海外雄飛を大東亜の悪魔にモンタージュする<沖縄島物語>は、山之口貘の韜晦と吃音が噛み砕いた沖縄像を悪魔的によみがえらせ、さらに<南>に向かってはなたれたイリュージョンであった。<2003年10月23日>


(4)『八月十五夜の茶屋』「屈辱」めぐる論議/占領者の独善性笑う

 一つの作品として公表された表現体が、それを作った作者の意図や中身を越え思わぬ波紋を広げ(問題)や(事件)となった幾つかの例を私たちは持っている。

 思いつくままにそれを挙げると、一九二六年に広津和郎が発表した「さまよえる琉球人」の中で、本を借りても返さない沖縄出身の青年が描かれ、それが琉球人は内地で少しは無責任なことをしても当然だという心理をもっていると他の琉球出身者の口から語られていることに対して、当時の沖縄青年同盟が誤解を受ける恐れがあると抗議し、広津が再収録を取り消した(事件)、そしてその六年後の三二年六月の『婦人公論』に載せた、久志芙佐子の「滅びゆく琉球女の手記」に対し、在京の沖縄県学生会や県人会が「アイヌや朝鮮人と同一されては迷惑する」とか「就職難や結婚問題にも影響する」と抗議したデキゴトなどである。

 それらの小説をめぐる(事件)は、近代日本のコロニアルな関係の中に沖縄が取り込まれたときの歪みといえようが、問題なのはむしろ(抗議)主体によって露出/隠蔽される構造そのものである。抗議/取り消し程度では回収できない、いわば、表に出されたことと隠されたことそのものを問う、もうひとつの問いが必要である。この(問いを問う)二重の言表行為によってしか、物事の根っこには踏み込めないだろう。

 ところで話は変わるが、戯曲『八月十五夜の茶屋』(事件)があったことを知っているだろうか。アメリカ占領初期の沖縄において起こったささやかな波紋である。この作品はバーン・スナイダー原作の同名の小説をジョン・パトリックが脚色し、ブロードウェイの舞台で演じられ大ヒットしたものであるが、嘉手納基地内の劇場でも上演され、その後「琉米親善」の名を借りた催しとして琉米双方から役者を募り上演しようと試みられたことがあった。しかし、描かれた沖縄観が屈辱的であるという理由で、沖縄サイドの出演者が辞退したため公演が中止されたいきさつがある。だが、あらためてあの(デキゴト)の系譜において読み直してみる時、そこには形を変えた露出と隠蔽の構造に気づかされる。

 ここで三つのことが指摘できる。その一つはアメリカの占領政策のコンテキスト(「琉米親善」というプロパガンダ)でなされたということ、あとの一つは作品外的な理由を過剰なまでに投影する/される土壌があること、これである。そのために作品そのものの価値というか、作品のバイタルな笑いや毒が隠されてしまうということである。そして三つ目は、ここからが問題になるのだが、では、『八月十五夜の茶屋』のなかで描かれた沖縄人像や沖縄観は屈辱的なのかどうかということであり、屈辱的と感じる沖縄サイドの反応である。

 映画『八月十五夜の茶屋』は、こうした(デキゴト)の系譜をあらためて考え直し、光を当てる映像として見直すことが可能である。この映画は、ダニエル・マンが監督し五六年に封切られた。アメリカ占領下の沖縄のトビキ村の民主化と自立経済再建計画を命じられた大佐やその計画を実際に任された大尉とトビキ住民の接触を風刺したコメディーである。そこには占領軍の沖縄観や沖縄住民の占領者観も書き込まれているが、この作品のエッセンスは、占領者の計画の独善性を風刺する笑いと毒にあるといえよう。例えばそれは建設する校舎の形をペンタゴンと同じ五角形にすることや沖縄南端のトビキ村を地図を反対にして北だと錯覚する大佐の勘違いなどによって示唆される。

 この映画の笑いと毒のバイタルさは(翻訳)である、といっても間違いではない。一方的で独りよがりな占領計画をことごとく改変・読み直し、逆手にとってそれを食ってしまう、したたかさがある。その改変・読み直しのコーディネーター的な役回りがマーロン・ブランド演じる(通訳)のサキニである。占領者と住民を仲介する通訳は、いわば中間者の位置にあるといえようが、この映画では中間者という位置の政治を巧みに使い分ける。彼の位置の政治の妙技は占領計画を住民に伝え、住民の意向を占領者に伝える伝達の(騙り)であろう。その(騙り)には大国に翻弄されいくつもの世替わりを潜った沖縄の歴史的経験と知恵が織り込まれており、そのことがこの映画をたんなるコメディー以上のものにしている。サキニはニュートラルな(通訳)を踏み越え、沖縄という土地の文脈を駆使する(翻訳)者である。トランスレーターであると同時にアジテーターでもある。サキニの哲学は「ポルノグラフィーはジオロジーである」という言葉に込めた文化相対主義である。つまりその土地土地によって価値観は違うということである。そこでは占領者と被占領者という類型化さえ無化し、転倒さえするのだ。

 こうしてみると、「暗黒の時代」といわれた五〇年代初期に戯曲『八月十五夜の茶屋』で描かれた沖縄観が屈辱的であるとした(事件)が、あらためて映画『八月十五夜の茶屋』によって問い直される。そしてアメリカの占領政策のプロパガンダとしてCI&E(米国民政府民間情報教育部)とUSCAR(米国民政府)が制作した「琉球ニュース」と比較してみる時、この映画の位置が際立ってくる、はずだ。

 『八月十五夜の茶屋』で描かれた沖縄観を屈辱的であると感じた読みとこの作品が達成した水準の乖離。この乖離とはいったい何か。映画『八月十五夜の茶屋』の笑いと毒によってアメリカ世が反照される。<2003年11月6日>


(5)戦後世代のねじれ、沖縄の子らに投影/民族「帰一」の再審を

 沖縄にとって一九五〇年代から六〇年代はどのような時代であったのか、と問うことはあまりにも漠然としすぎるだろうか。だが、少年期から青年期にその時代を送った戦後世代にとっては、時代のうねりと熱によって侵食された自我のねじれと向き合うこととつながる。

 そのねじれは時代とともに少しずつではあるがほぐれていくにしても、過ぎた季節の向こうから時おり意表をつくように現前化し、「おまえはいったいあの場所からどこまできたというのか」と詰問する。沖縄の戦後世代のある特有な体験が、たしかに時代のうねりと熱とともにあった。

 例えばそれは東峰夫の「オキナワの少年」のなかで少年がみた女たちとアメリカ兵とのやりきれないまぐわいであったり、又吉栄喜の「カーニバル闘牛大会」で描かれた少年の現実といえばいえよう。あるいは「軍用犬」のなかの青年たちの倒錯した運動であったりする。つまりひと言でいえば基地とアメリカとの接触、そこから生じる不条理感とその打ち消しとしての脱出願望である。

 ところで他方、こうした少年たちの頭と体を調律し、一つに方向づけていく強い情熱のカタチがあった。この島々が近代という文法を倒錯的に内面化した仄暗い心性から立ち上がってくるものであり、いったん沖縄戦によって死滅したかに見えたが、アメリカの占領への抵抗という形をとってリバイブされ、沖縄の戦後史を一色に塗りつぶし、方向づける矢印となった。

 沖縄の戦後史を方向づけた知と情熱のカタチは、「祖国復帰」運動によって体現され、生き直された。それは学校という聖域的な空間での司祭型の意匠をまとうとき、より純粋化され、それだけに子どもたちの心身を律し導いた。沖縄の先生たちはそれを子どもたちに投影し、沖縄の子らはそれを内面化することによって増幅させた。

 沖縄教職員会の五〇年代から六〇年代中期にかけての「教育研究集会」での実践報告には、そうした情熱の刷り込みの驚くべき様相が散見される。とりわけ際立っているのは「共通語教育」という名の言語の改造と「国民教育」という名の日本人意識の注入・育成である。そこに吹き荒れているのは単一民族への同化幻想である。改造された沖縄の子らの頭と心は作文集に編まれ、復帰運動をオーソライズするものとして備給された。子どもたちの無垢性がプロパガンダに応用され、魔術的な力を発揮する例は歴史上しばしばみられるが、『沖縄の子ら(作文は訴える)』や『沖縄の子/本土の子』『祖国の土』なども無縁ではなかった。

 そして、『沖縄-祖国への道』と『沖縄の声』『石のうた』は、沖縄の子らによって夢見られた日本への憧憬を、祖国復帰運動に接ぎ木したプロパガンダ映画である。『沖縄-祖国への道』と『沖縄の声』はいずれも南方同胞援護会が宣伝活動の一環として企画し六七年と六九年に制作したものである。ちなみに南方同胞援護会は戦争で失われた南方地域(沖縄・小笠原)への援護と「抱き取ろう、母国へ沖縄・小笠原」をスローガンにして領土回復を目指し政府の返還政策をサポートする特殊法人で、後に北方領土へも事業範囲を拡大する。『石のうた』は沖縄連や総評、日本青年団協議会や沖縄県人会などの沖縄返還運動団体の協力によって沖縄映画プロによって制作された。

 これらの映像が興味深いのは、保守と革新という違いこそあれ、アメリカ統治からの脱出の道筋を(民族の悲願)と(国民の物語)に回収していくという一点で重なっていることである。日本を(祖国)として過剰なまでにフィクション化し、その(祖国)を母に例え「異民族」支配下におかれた沖縄を「里子」として擬人化する。日本と沖縄の関係を引き離された(母子関係)とみなし、「子が母を慕うように」祖国復帰は民族的悲願とされる。『沖縄-祖国への道』では、それは日の丸への憧れとして描かれ、ハレの日の運動会で掲揚される日の丸の旗を仰ぎ見る子どもたちの表情によってクローズアップされる。

 『石のうた』はどうかといえば、強制的な分村で恋仲であった男女が生木を引き裂かれるように離れ離れになり、男を焦がれるあまり石になった悲恋伝説が引用される。ここでは日本と沖縄の関係を男女の(恋愛関係)に例え、しかも沖縄は女性性としてより不幸を付託させられるのである。

 これらが物語るものは、祖国復帰運動の中で母権的な民族共同体概念が再生されていることである。「民族的悲願」としての復帰は、左右の合弁であり、合作であるということである。しかもそれは戦前期に吹き荒れた「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」の父権的な民族共同体の形を変えたリバイバルである、とみても決してミスリーディングではないだろう。

 こうした民族同化幻想を沖縄の子らに投影した企てを最もドラスチックに描写したのが『沖縄の声』のラストシーンである。望郷の岬と呼ばれた辺戸岬の断崖に並び、二七度線で分断された水平線の向こうの祖国を仰ぎみる子どもたちとその中の一人が書いた「わたしは、大きくなったら、日本にいって、かんごふさんに、なりたい。はやく、みんな、日本人になりたい」という作文をエコーをかけリフレインさせる。このエンディングに書き込んだものこそ、あの沖縄の戦後世代の頭と体をつくり変えた(情熱)の政治である。問われなければならなかったのは、宗教的ともいえる戦前と密通した(情熱)の魔力であった。

 復帰運動は時とともに質的な変化があったとはいえ、領土を囲う球形のエスノファンダメンタリズムを超えるものではなかった。民族にひたすら帰一する矢印が招き寄せたものは一体何であったのか。沖縄の戦後世代のねじれにかけて再審されねばならない。『沖縄-祖国への道』と『沖縄の声』『石のうた』の映像は、今に呼びかけ、我を糺す。<2003年11月20日>


(6)『沖縄の十八歳』/祖国論争に注目/高校生の「揺れ」描く

 一九六五年は沖縄の戦後史にとって、太文字で印される出来事が幾つかあった。そのうちの一つ二つを拾ってみると、まず、アメリカがベトナム戦争に本格的な介入をはじめたことによって基地・沖縄の戦略的な位置が浮かびあがったことである。そして、七月に嘉手納基地を飛び立った戦略爆撃機B52が北ベトナムを爆撃、沖縄がベトナム戦争の前線基地と化した。フェンスを巡る風景が一段とミリタリーグリーンの色を濃くしていったときでもあった。

 もう一つは、戦後初めて日本の総理大臣が沖縄を訪れたことが挙げられよう。その歓迎のため、琉球政府文教局は十五万人の児童生徒の動員を計画、復帰協も大規模な祖国復帰要求請願行動に及んだ。八月十九日、沖縄を訪れた時の首相・佐藤栄作は「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、日本の戦後は終わらない」というセリフを吐いた。このセリフは、それまでのアメリカの分離統治から日米共同管理体制へターンしていくシグナルともなった。

 六五年夏。とにかく沖縄はざわめき、浮足だっていた。そうした世情の間隙を縫うようにして、美里村に住む一人の高校生が新聞に寄せた声が波紋を広げた。「私たちは日本人か?」という投書である。それは、先の二つの太文字で書かれた出来事に比べ小さなさざ波にしかすぎないが、しかし、太文字からはこぼれ落ちる沖縄の繊細な感受性を触発するものがあった。

 こういっていた。「復帰協やその他の復帰団体が毎年形式的なお祭り運動をやっているが何のためか? なぜわれわれは日本復帰をせねばならぬか? 本土復帰してなんの得があるのか?」と問い、沖縄が日本なら首相が来るのがあたりまえの事で、大騒ぎするのは沖縄が日本の一部ではないからではないかとして、「学校では、日本人、家庭では沖縄人、いったいわれわれはなんなのか? われわれは日本人なのだろうか?」と疑問を投げかけるものであった。

 この投書がきっかけで、高校生の間でいわゆる<日本人論争>が起こった。「私たちは日本人?」を批判する側の高校生は、復帰は損得に関係なく、「親元の本土に帰るため」であり、復帰運動をやることは、九十万県民の義務であり、権利である。「沖縄の九十万の人間はりっぱな日本である」「一日も早く日本に復帰する事が大切」である、とトートロジーにちかい反論をしていた。

 この<日本人論争>は、翌年には石川市の高校生の「日本は祖国ではない」とする投書で <祖国論争>へと飛び火していった。「日本は祖国ではない」とする論旨には、当時の教職員会が盛んに実践した日本人育成や復帰運動への批判が込められていた。<日本人論争>が素朴な感情のやりとりだったのに対し、<祖国論争>はアメリカ統治下の沖縄の現実への認識や琉球処分などへも言及するなど、一歩踏み込んだ<理のタタカイ>の様相さえ呈していた。

 森口豁の『沖縄の十八歳』は、こうした沖縄の高校生の間で戦わされた<日本人/祖国論争>に注目し、それを内部から描出してみせたドキュメンタリーである。戦後二十一年目の「玉砕記念日・慰霊の日」の平和行進に参加し、「悲願・祖国復帰」を訴える一人の高校生と彼を取り巻く群像を追ったものである。「祖国復帰」を願う文脈に添いつつも、沖縄の十八歳たちは、何を迷い、悩み、揺れたのか、ということを、ローキーを静かに打つように探り当てようとしている。

 ホームルームでの平和行進への参加や復帰の是非を巡るクラス討論と、慰霊の日の前夜、行進参加への最後の説得のためクラスメートの家を回った時の、そこで友人との間で交わされた会話は、さながら新聞紙上で戦わされた論争を生の声で伝えているようで、興味深い。

 『沖縄の十八歳』が優れているのは、『沖縄-祖国への道』や『沖縄の声』、それに『石のうた』などのハイトーンな復帰プロパガンダにはない、小さき者の声に耳を傾け、そこにある声の初々しさと、だが、鋭角的な断片の輝きにまなざしを返しながらすくい上げていることである。これら沖縄の十八歳の声が、たとえ大きな物語の内面化だった、としてでもである。

 こうした声を<聞き/取る>ことと<まなざし/返す>姿勢は、例えばクラス討論の場で対立する意見の間や衆議院議長に復帰を直訴する瞬間に挟まれた数秒の沈黙によって黙示される。このわずか数秒間の沈黙のシーンこそ、<聴き/取る>ことと<まなざし/返す>ことの映像による表出であり、同時にそれは、沈黙も一つの声であるということを含意させもしていた。

 さらにその沈黙は、「サンフランシスコ条約によって勝手にアメリカの支配下に置きながら、いまさら祖国なんて、そんな祖国なんていらないよ!」と言い放った級友の復帰を拒むカウンター性も聴き取るソナーの役割を果たしている、とみるべきだろう。クラスメートの「……そんな祖国なんていらないよ!」という声の響きと重なりは、このドキュメンタリーを一つの読みに回収することなく、多様な読みへと導くようにも思える。

 復帰から三十一年、六五年から六六年かけて交わされた、若きアドレセンスの<日本人/祖国論争>など、まるでなかったかのような時勢に私たちは生きている。沖縄の十八歳の憧(あこが)れや悩み、言語化される以前の不定形の闇を忘却から奪回するとき、沖縄の戦後の履歴をまざまざと見せつけられ、今という時の居心地の悪さに気付かされるはずだ。<2003年11月27日>


(7)『沖縄人類館』「事件」を風刺的に/近現代史鋭く射抜く

 『沖縄の十八歳』のラストは、「祖国から分断されて二十一年。いつか祖国の私たちが、沖縄とともに生きようとしたとき、彼らは私たちの手の届かない遠い道を歩んでいるにちがいない」という言葉で結ばれていた。

 この結びは、沖縄をアメリカの支配下に置き去りにした「日本人」の一人としての贖罪意識のようなものと、「……そんな祖国なんて欲しくないよ!」と復帰を拒んだもう一つの声への間接話法的な応答にもなっている。

 あるいはこういってもいい。このままだと逆に沖縄から置き去りにされるかもしれないという一種の怖れに似た予感のようにも思える。このラストの語りにディレクターとしての森口豁の、一方的な沖縄病患者や沖縄奪還などを声高に叫ぶ鈍感な思い上がりにはない、含羞さえ感じとれる。

 その予感と含羞ゆえに、森口は沖縄にこだわり、沖縄と向き合い続けざるを得なかった。そして二十九本の沖縄を巡るドキュメンタリーが生まれた。一口に二十九本といっても、マスの目を過剰に気にするテレビメディア、しかもヤマトのテレビメディアの場で、重い・売れない<沖縄モノ>を生産し続けることは尋常ではなかったはずである。

 森口が作った二十九本の<沖縄モノ>は、幾つかのテーマに分けることができるが、それらのどのテーマにも属しない、というより、いくつものテーマと視線が一人の人物によって生きられた軌跡を<定点観測>風の手法で六年ごとに追った四本のドキュメンタリーを残している。<定点観測>といっても、動かない視点や自分は傷つかない位置から変化する対象を描くということではなく、撮られる相手とともに撮る側も傷つき変わる、その道ゆきも同時に写し込んでいく対位法的なドキュメントというべきだ。

 その人物の名は、内間安男。六年ごとに制作された四本とは、一九六六年の『沖縄の十八歳』を皮切りに、『熱い長い青春・ある証言から』(七二年)、『一幕一場・沖縄人類館』(七八年)、そして『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(八三年)である。それらのシリーズは、復帰を挟んだ激動の沖縄戦後史を生きた一人の人物の生きざまを通してその時々の沖縄を描いたヒューマンドキュメントになっている。

 『一幕一場・沖縄人類館』は、『沖縄の十八歳』から十二年後の内聞安男と復帰後六年、七八年の沖縄の現実が重ねられている。七八年は「最後の復帰処理」といわれ、本土との系列化・同一化の制度的完成になった「ナナ・サン・マル」交通処分が行われた年であった。その年はまた琉球処分百年にあたった。この作品はいわば、沖縄の「復帰」とは何であったのかということを、戯曲『人類館』の作品的達成と調教師役を演じる<彼>を通して浮かび上がらせようとしたのだ。

 『人類館』は、一九〇三(明治三十六)年の第五回内国勧業博覧会の学術人類館で、内地に近い異人種として、北海道のアイヌや台湾の生蕃、朝鮮人などとともに琉球人が陳列・展示された「事件」を題材にして、知念正真が戯曲化したものである。一幕一場にいくつもの時代(明治、沖縄戦期、敗戦後など)やいくつもの人物(調教師、沖縄県庁職員、日本兵、日本の政治家、教員など)やいくつもの言語(日本語、沖縄語、ウチナーヤマトグチ)が幾重にも重なり、葛藤し、反転しながら沖縄の近現代を貫く悲劇=喜劇の根源にある構造を鋭い風刺によって抉りだした。沖縄像や沖縄人像を旋回させるラジカルな言語的実践であった。

 沖縄の近現代を貫く悲劇=喜劇の根源にある構造とは、他でもない、植民地主義とそれとのシンメトリックな関係を結ぶ同化主義である。調教師↓↑沖縄県庁職員↓↑日本兵↓↑日本の政治家↓↑沖縄の先生のセリフがブーメランのように往還するのは、そうした植民地主義を同化思想によって補強し円環させる言説と生のカタチであった、といえよう。

 六六年の『沖縄の十八歳』の<彼>の情熱もその円環から決して無縁ではなかった。『一幕一場・沖縄人類館』の<彼>は『沖縄の十八歳』の<彼>を批評する。もっといえば「沖縄も同じ日本民族だから、日本に復帰すべきである」というトートロジーに亀裂を入れた級友の<反復帰>の言葉によって裏返される。

 <沖縄の十八歳>シリーズは、沖縄の戦後史を生きた内間安男という一人の戦後青春の生きざまの軌跡であると同時に、怖れに近い予感と含羞をもって沖縄と向かい合い続けた一人のドキュメンタリスト・森口豁のまなざしの対位法的実践の軌跡でもあった。

 戯曲『人類館』の重層的な言語の囲いを破るようにして放たれた「歴史が、真実くり返されるものならば、未来よ! 何もかも焼き尽くして、亡びてしまうが良い!」という矢は、沖縄の近現代史が同じことをくり返した、まさに<一幕一場>であったことを射抜いた。と同時に悲劇は実は喜劇であった、ということを思い知らせた。「ナナ・サン・マル」などとペットネームで呼ばれたもう一つの沖縄処分のため、三千人近くの警察官が那覇港に「上陸」するシーンにコミカルな「軍艦マーチ」を重ねたのも、そんな思いを想起させるものがあった。

 『一幕一場・沖縄人類館』が興味深いのは、演劇的空間を取り込むことを通して、「祖国」と「祖国」を焦がれた「沖縄」を同時に内破することを表出したことである。<2003年12月11日>


(8)『そこに光を』/病んだ帰還兵の闇/戦争の暴力を逆照射

 日米最後の戦闘となり、「アイスバーグ作戦」と名付けられた沖縄侵攻作戦のために、アメリカ軍はそれまでの太平洋戦争ではみられなかったカメラマン部隊を投入し、沖縄戦の様子を克明に記録している。それらの映像記録は、未編集のラッシュフィルムのままアメリカ国立公文書館に保存されているが、「1フィート運動の会」によってその大部分は収集されている。

 沖縄戦に関する映像は、今のところアメリカ軍が残した記録しかないことになっている。フィルムの質感と喚起力は容赦ない。その時、そこでどのような惨劇があったかをこの目で確かめられるのは、いわば「勝者」の手になる記録であり、戦争を知らない世代は、沖縄戦をフィルムという光学的な媒体を通して二次的に追・体験することができるにすぎない。

 これらのフィルムを見ていると、ある奇妙な感覚にとらわれる。この奇妙さは多分、目の体験の絶対的な拘束性とフィルムのもつ物質性のはざまで宙づりにされているということと、見ている出来事が他でもない「勝者」の記録によって、いや、「よってしか」戦争の現実/幻像に触れることができないという事情からくるものだろう。

 残された「勝者」の、しかも唯一の沖縄戦に関する映像記録。この膨大な未編集のラッシュフィルムの一つ一つのカットには、撮影したカメラマンの名前、撮影場所、日時などのIDが付されているものの、時間的な脈略があるわけではない。その上サイレントである。そうした素材は後に、一つの視点のもとにナレーションや効果音によって加工され、国威や戦意高揚のためのニュースやプロパガンダ映像として差し出される。ラッシュフィルムとは、いわば、物語化や世界観を構築する以前の、アマルガムな無音の断片の集積ということなのだ。

 そうした無音のカット群のなかから、幾つかの忘れ難い映像に接することができる。その一つに、右手を撃たれた一人のアメリカ兵が恐怖におびえた表情で逃げ出すシーンがある。明らかに戦闘恐怖に陥った兵士の姿であるが、カメラは冷徹にその一瞬を捕獲していた。「勝者の記録」を裏切ってむき出しにされた生の震え。

 一九四六年に制作されたジョン・ヒューストンの『そこに光を』は、そうした戦場でむき出しにされた生のその後の闇に迫っている。戦争神経症や精神を病んだ帰還兵の陸軍病院での治療の様子を撮ったドキュメンタリーであるが、兵士のプライバシー保護という理由で、数十年間公開が禁じられていた。

 てんかんヒステリーで歩くことさえ困難な者、恋人から送られてきた写真がきっかけで不安愁訴に悩まされた者、最後に残った親友を失い孤独に苛まれる元偵察兵、帰還船の左舷で見た飛び魚の話をしようとしてSの音に躓き、極度のきつ音に陥った兵士の、そのSの音は実はシュルルル、シュルルル、シュルルルという爆撃音の頭文字であったという病歴を持つ兵士など、第二次世界大戦で身心のバランスを失ったさまざまな症例を持つ兵士の治療過程が描かれている。治療と回復の「見事さ」に幾分の作為性を感じさせるにしても、ヒューストンが光を当てたのは、戦争の後に帰還兵が抱え込んだ荒涼とした心の荒野であった。

 この映像には沖縄戦にかかわる症例が三例でてくる。兄が沖縄で死んだ幻覚に脅かされる例と沖縄について三週間目からドモリはじめたという言語障害、そして、記憶を喪失した兵士のケースである。なかでも、記憶喪失の兵士の治療シーンは、この映画の中で最も緊迫した映像になっている。

 それはこんな場面である。医師が催眠療法で記憶喪失の原因となった沖縄の戦場に戻ろうと呼びかける。深い眠りのなかからやがて閉ざされた記憶が開封される。その兵士は激しく体を震わす、と、その時、砲撃、近づいてくるジャップ、爆発、草原を渡って運ばれる担架、もう耐えられない……沖縄の戦場でのまがまがしい記憶が切れぎれの言葉から明らかになってくる。医師の「ゴーイング・バック・トゥ・オキナワ」という声と患者の激しく震える身体とともによみがえった言葉の破片は、どのような激しい戦闘シーンよりも戦争の惨劇を想起させる。このシーンは沖縄戦の困難な記憶の分有を試みたクリス・マルケルの『レヴェル5』にも引用され、強いインパクトをもって想像力を駆り立てる。

 第二次世界大戦に参加した米陸軍の負傷者の約二割は神経・精神病患者だったという。そして、沖縄戦は太平洋戦争で最も多くの戦闘恐怖症を出した戦場であった。アメリカの第六海兵師団の沖縄における「勇敢な」戦いの軌跡を描いた『沖縄の第六海兵師団』でも、海兵隊の歴史に残る戦闘といわれ、日に十一回も攻守が入れ替わったシュガーローフの激しい戦いが描かれているが、そこでのナレーションでも「一日の戦いで千二百八十九人が精神に異常をきたした」といわざるをえなかった。

 ジョン・ヒューストンが光をあてた<そこ>とは、「異常」という言葉に内在する心の闇と迷宮だった。そして<そこ>は、あの未編集のフィルムに写し込まれた沖縄戦での兵士のむき出しの生が曝された場でもあった。戦闘場面はいっさい描かれていない『そこに光を』のモノトーンな光学は、「勝者の記録」を「記憶の考古学」として転生させ、戦争の暴力を探照する。<2003年12月18日>


(9)移民の二重性を叙述/『ヒア・サ・サーハイ・ヤ!』乗り継がれる主体

 はじめに海があった。夜明けなのか日暮れなのかは判然としないが、あかね色が残る薄明の空のもと、間断なく寄せては騒ぐ波の帯の遙か向こうにまなざしを向ける孤影が二つ。なぜか白い日傘を差し、浜辺の石に腰掛け遙か水平線の彼方に目を向けている老女と、水の帯がその消えかかる最後の際で浜辺に紋様を残す汀にそって歩み寄り、小さな背中を見せ騒ぐ水の帯と向かい合っている少女。

 この二つの孤影が目にしているのは、沖縄からぐるっと回った地球の反対側のブラジルの海である。オルガ・フテンマの短編映画『ヒア・サ・サーハイ・ヤ!』はこんな詩的喚起力に満ちた場面から語り起こされている。そしてその幾重にも重なり騒ぐ薄明の水の世界に、次のようなクレジットが書き込まれていた。

 「沖縄、日本から六百キロのところにある諸島/でも沖縄は日本/そしてそのハートはいつも沖縄人/私たち、ブラジル人として生まれた沖縄人の子孫は、この最初の両義性を受け継ぎました/それは、私たちのハートがこの二重性から逃れるまで続き、叫びが残りました」 オルガ・フテンマ。この沖縄系ブラジル二世の映像作家についてそれほど知っているわけではない。移民文化の調査研究に携わる浅野卓夫によれば、一九五一年生まれ、サンパウロ大学芸術学部卒業後はブラジル映画資料館・映像記録部門ディレクターを務め、ディアスポラ/女性/沖縄を主題とした『ヒデコの肖像』『お茶漬け』などの作品を発表。九六年から長編ドキュメンタリー『オキナワ』を企画制作中、ということである。『ヒア・サ・サーハイ・ヤ!』は、「映像と音のミュージアム」主催の第四回ビデオブラジル大賞を受賞している。

 この短編は、いわば、沖縄系移民の一世から二世へと<乗り継がれる主体>が抱懐した「二重性」を巡る映像による叙述の試みだといえよう。ドキュメンタリーではあるが、その叙述は寓意的である。<乗り継がれる主体>は二つに分節される。一つは決して画面には姿を見せないが「ノブちゃん」という少女に語りかける声と「ノブちゃん」の夢想によってたどられる。あとの一つはレジストロ市からサンパウロに移ってきたときから沖縄系コミュニティと切れてしまった青年の声によってたどられる。

 子にとって親である父や母が最初の<他者>だとしたら、移民二世にとっての最初の<他者>との関係はより複雑な様相を帯びてくる。出生の地を離れ、いくつもの海や山、川や線路を越えて言語も文化も異なる異境に住み着いた一世の多くは、出郷した土地や文化への回帰的な声を色濃く帯びるのに対し、二世たちによって<乗り継がれる主体>は、回帰を拒まれ宙づりにされる。だから「二重性」から逃れたにしても、<叫び>となって残らざるをえなかったのだ。

 オルガ・フテンマら沖縄系二世が受け継いだ<両義性/二重性>は、日本と沖縄の関係が絡み合い重なり合っているわけだが、「沖縄は日本/そしてそのハートはいつも沖縄人」とは、肯定と否定が同在している意識の地勢のようなものといってもよいだろう。

 老女と「ノブちゃん」。ここでの老女はオルガの母であり、「ノブちゃん」はオルガ自身のもう一人の私とみなしても間違いではない。だから「ノブちゃん」への語りかけと「ノブちゃん」を通した老女との関係は、ダイアローグでありモノローグでもある。そしてその語法に沖縄人コミュニティを賦活させている沖縄の歌や踊りが独特な視点で発明され直されている。

 はじめの海の映像とそっくりな絵が描かれた緞帳のあるステージの横で「ノブちゃん」が見ている沖縄の歌と踊りは、「芸能」というよりはむしろ記憶を組み立てていく行為として示唆される。歌うこと、そして踊ることによって確かめられる生の形があった。

 なぜ彼や彼女たちは歌い踊るのか。農園から逃げ、失望から逃げ、屈辱感を感じながらたどり着いた場所で、踊ることと歌うことが孤独から逃れるための唯一の選択だったとしたら、それはもはや「芸能」を越えている。

 <ヒア・サ・サーハイ・ヤ!>とは、沖縄民謡の謡と謡、リズムとリズムの間で、間を取り、二つを中継し、励まし、もり立てるはやしであるが、オルガ・フテンマはそれを移民二世の<乗り継がれる主体>の「叫び」のエンブレムとして変奏させる。そしてそこには、サンパウロというメトロポリスで、沖縄人コミュニティから切れた青年のもう一つの乗り継ぎとしての「ブラジル性」も抱懐していることは間違いないだろう。

 それにしてもこの映画には、沖縄の謡と踊り、そして海への想念が充ち満ちている。海は人と人を隔てるものでありながら回帰させもする。エンディングは、あのはじまりで老女と少女が佇んだ同じ海をバックに「鳩間節」を踊る夢のようなシーンでフェードアウトする。終わりもまた海、そして旅の歌。

 見終わった後、多くの移民たちの記憶を刻み込んだ海辺の身体表現が残像となって染みる。そのとき、この映画は父や母たち移民一世の望郷と記憶へのオマージュでもあることを納得させられる。私たちが容易にうかがい知ることができなかった、<乗り継がれる主体>の多声的な地勢図が詩的な話法で叙述されている。<2003年12月25日>


(10)「沖縄やくざ戦争」/転換期の混とん凝視/暴力団抗争で復帰描く

 一九六○年代後半から七○年代にかけて、沖縄を巡って多くの映画が産出されたが、そのなかでもひときわ異彩を放った系譜がある。「やくざ映画」である。その異貌のフィルムは沖縄の復帰を挟む転換期の裂け目に、この時期制作されたどの映画よりも深く分け入り、オキナワと波打つ時代の葛藤を描いてみせた。

 復帰直前の一九七一年に深作欣二が監督した『博徒外人部隊』は、沖縄の日本復帰という「世替わり」がどのような矛盾をかかえ、何処へ向かって行くのかを、ヤクザ映画の定型を投げ入れることで波立たせたものとみていい。

 十年間の刑を終え出所した鶴田浩二率いる小集団が、抗争に敗れ居場所を失った元の組員を集め新天地を求めて沖縄に乗り込み、そこで沖縄の暴力団の勢力地図を巧みに利用しながら、巻き込まれ、沖縄の内部で対立する一方の勢力(反ヤマトを貫くコザ派とそのボスの若山富三郎)に、付かず離れずの距離を保ちつつも、最後はかつて横浜の抗争で組を壊滅させられたヤマトから乗り込んでくる大組織と刺し違えていく様相を描いたものである。

 封切り後、この映画はコザ暴動を予感したかどうかが論じられたが、もし、それを予感させるものがあったとすれば、サングラスをかけ愁いを帯びた背広姿の鶴田浩二率いるアウトローではなく、ヤマトの大組織に殺害されるコザ派のボス若山富三郎の死にざまにあった、といってもいい。

 『博徒外人部隊』で描かれた抗争の力学をより徹底させたのが、中島貞夫監督の『沖縄やくざ戦争』(一九七六年)である。『博徒外人部隊』が復帰直前の沖縄を舞台にしているのにたいし、『沖縄やくざ戦争』は復帰とその後露になった転換期の混沌を無頼たちの内部抗争を通して描破してみせた。

 復帰を翌年に控え、本土の暴力団の沖縄進出に対抗するため、それまで那覇を勢力圏にした大城派とコザを配下に収めた国頭派の二大勢力に分立していた暴力組織は「沖縄連合琉盛会」を結成したが、表向きは一致したかに見えても、理事長二人制の危ういバランスが保たれているにすぎない。やがて国頭派内の内部対立がもとで、本土暴力団と沖縄暴力団の対立図式を変形、転位させながら、大きな抗争に発展していく様相を描いたドキュメンタリードラマである。

 この映画で、ひときわ際立った個性で凄みをみせたのは、千葉真一演じる国頭正剛である。彼は徹底した反ヤマトを貫く。「俺の目の黒いうちは、ヤマトのヤクザは見っつけ次第、タックルしてやる!」「沖縄のクニを守りたいだけだよ、文句あるか!」と烈火のごとく言葉を投げつけ、煙たがられる。那覇を勢力圏にした大城派の組員がパリッとスーツを着こなしていたのに対し、終始、米軍払い下げの杉板模様の野戦服HBTを着用、目をぎらぎらさせ、何かに怒っている。「時代はもう変わったんだから」とヒヨルもう一人の理事長大城朝光やその幹部連中からは、国頭の狂気は誇大妄想扱いされる。

 国頭正剛の内部には自分でも抑えがたい怒りが渦巻いている。その抑制の利かない怒りが彼を煽り、死へと追い込んでいく。弟分の松方弘樹ふんする中里英雄がいった「兄貴もコザもすっかり変わってしまった。まるで真っ暗闇の中でもがいているような気がする」という言葉は、国頭の抑制の利かない怒りの熱風がどこから吹き上がってくるかを言い当てている。国頭がもがいた真っ暗闇は復帰という世替わりの混沌に起因するといえようが、だが、その真っ暗闇の向こうにはさらに深い闇があった。

 この映画が興味深いのは、暴力組織の抗争を通して沖縄の戦後とその出自となった沖縄戦まで視線を届かせているところにある。国頭正剛から中里英雄に引き継がれ、転位される反時代的なテロリズムは、こうした重層的な闇を出自にしている、といっても決して言い過ぎではない。物語の節目節目では琉球民謡「PW無情」がソロで歌われたり、バックに流れていた。

 国頭正剛はそれこそ沖縄をマンガタミーしたのだ。沖縄ナショナリストである。彼を死に至らしめたのは、そのアナクロニズムとも見紛う反時代性にあったが、しかし、ほんとうの理由は沖縄戦の暴力の記憶を身体化していたからである。彼は反ヤマト/反時代性の狂区を果てまでたどった.その狂区は「PW無情」に刻印された沖縄戦の記憶にあった。彼の身体には沖縄戦の記憶と捕虜の悲哀が溜め込まれ、そこから抑制の利かない暴力の熱風が吹き上げてくる。

 そして、一人の沖縄ナショナリストの死の後に沖縄が書き込んだのは、本土との一体化・格差是正という名の統合の文体であった。手打ち式を演じたのはヤクザ組織だけではなかった。企業から政党、あらゆる組織をふくめ四十七番目の支部となった。復帰後も「真の復帰の実現」などと幻想を引き延ばし、矛盾を隠蔽してきた沖縄県祖国復帰協議会が解散したのは一九七七年であった。

 沖縄ヤクザ戦争は、市民社会の法の臨界で沖縄の裂け目を身体化し、血で血を洗う抗争で代理し表象してみせた。抑え難いテロルの熱風に煽られ、復帰前後の転換期のオキナワの乱流を駆け抜けた国頭正剛〜中里英雄があらがったのは、実は、沖縄を編入する<グラフト国家>だったのだ。

 『博徒外人部隊』がコザ暴動を予感したものとすれば、ここにもう一つの問いが残る。果たして『沖縄やくざ戦争』は、一九八○年代の「琉球共和社会憲法」を予感しただろうか。<2004年1月15日>


(11)『遅すぎた聖断』天皇と沖縄戦を検証/累々たる死を重ねる

 日曜の朝、まだ眠気が残るまなこで新聞を広げ、「それ」を目にした途端、アイエー、ヤーフンヌ……ちょっとオーバーに聞こえるかも知れないが「ウタ・サンシンまでぃん、ムル、サッタルバスイ!?」という思いに駆られた。とうとうここまできてしまったのである。

 「それ」とは、「国立劇場おきなわ」の開場を祝って掲載された一ページカラーの全面広告のことである。斜めの格子模様に囲まれた建物を仰ぎ見るような写真に「威風堂々」のキャッチコピーが配され、下段には初日から千秋楽までの開場記念公演スケジュールの案内がある。沖縄振興策の一環として提案され、沖縄サミットが開催された二〇〇〇年に着工されたそれは、組踊をはじめ、沖縄民謡や沖縄芝居、そして島々の民俗芸能まで含め沖縄芸能の殿堂ということになっている。

 だが、この「国立劇場おきなわ」を、沖縄の文化編制の政治というところまで視野を伸ばし考え直してみると、等閑に付せない幾つかの問題に突き当たる。「国立」の冠を載せた「威風堂々」の殿堂は、昨年十二月の天皇誕生日の会見をよみがえらせた。と同時に、唐突な言い方になるが、大城立裕が『休息のエネルギー』(一九八七年刊)で紹介していた、五十歳代のユタ(とおぼしき)女性の言葉を思い起こさせた。

 その女性は、当時、教育庁文化担当参事という職にあった大城に「もしもし、文化財保護委員会ですか……あのですね。日本の天皇が琉球音楽を盗もうとしていますが、どうしたらよいのでしようか」と容易ならぬ声音で相談を持ち掛けてきたという。私が日曜の朝に抱いた感想は、実はこのユタ(とおぼしき)の女性の危惧と重なっている。

 どうかしている、と思わないでほしい。「日本の天皇が琉球音楽を盗もう」としていることにチムワサワサした女性の言葉は、現在進行形で浸透している沖縄を巡る権力と文化の地政学的布置について思いを寄せるとき、アキレスの腱に注意を喚起する。もっとも今、現に、私たちの目の前で繰り広げられている文化編制の政治は「文化侵略」というハードランディングというよりは、沖縄内部の幻想を取り込みつつ「編入」や「接合」という形をとったソフトランディングによるより巧妙な内属化を促すような性格をもっているように思える。

 そのソフトランディングのイメージメーカーとなっているのは、昭和のエンペラー裕仁天皇から代わった明仁天皇の肖像と言動といえようが、それに加え、三十年余をかけた<復帰プログラム>の国家的遂行によって沖縄の天皇(制)や自衛隊に対する<抗体>が薄められ、均されたことに起因している、といえよう。

 『遅すぎた聖断-検証・沖縄戦への道』というテレビドキュメンタリーを知っているだろうか。琉球放送が一九八八年に製作した特番である。それまで沖縄の土を踏んだことのなかった天皇を招き「沖縄戦の記憶を精算しよう」とした国と県の共同プロジェク卜・海邦国体の折り、あらためて天皇と沖縄戦との関係を検証した力作である(実際は病に斃れ、昭和天皇が沖縄を訪れることはなかった)。

 番組は「玉音放送」からフェードインしていくが、天皇名代として来沖した皇太子が、摩文仁で遺族を前にして「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害をこうむり、住民を含めたあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大な苦労を余儀なくされてきたことを思い、深い悲しみと痛みを覚えます」という天皇の「お言葉」を導入部においている。

 冒頭のこの言葉が、どのように生々しい歴史的な事実と流された血を覆い隠し、戦争の責任主体を不問にした空虚な美文であるかを、事実を丹念にたどることによって明らかにしてみせた。天皇の戦争への関与を縦糸に、沖縄守備軍の作戦計画、日本軍の沖縄住民観、皇民化教育と戦争被害の関係などを複数の横糸にしながら、沖縄戦記録フィルムや側近が残した史資料、第32軍作戦参謀八原博通の残されたテープ、歴史学者や戦史研究家のインタビュー、アメリカの国威高揚フィルムなどで、沖縄戦の時間的な推移の、その節目節目での「聖断」の審級を炙り出している。

 こうした絡み合う複数の糸をたどって明らかにされたことは、沖縄戦が本土決戦を引き延ばすための戦略的持久戦であったこと、「聖断」の隠されたモチーフが「皇土の防衛と国体の護持」であったこと、さらに<遅すぎた聖断>によってアジア太平洋や沖縄で累々たる死を重ねたことである。

 そしてラスト。宮内庁御用掛・寺崎英成から外交顧問シーボルトを通して国務省に伝達された「天皇はアメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望する」という「天皇メッセージ」でフェードアウトする。象徴天皇のメッセージは「国体」を延命させ、日米安保と沖縄占頑の原像となったということである。

 昭和から平成に世は変わり、昭和のエンペラーの後を継いだ明仁天皇は、ついに沖縄を訪れることはなかった老王が、死の床で「思わざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを」と歌に詠んだその「つとめ」を代行するかのように<約束の地>沖縄をまなざし祭りごとの節目に足を運ぶ。

 「国立劇場おきなわ」のこけら落としの鑑賞と宮古・八重山まで足を踏み入れる「行幸」は何を意味するだろうか。今、私たちが目にしている光景は、平成天皇の肖像を沖縄の文化編制と内属化のリーディングイメージとしつつ、それによって敷設された「国民統合」へのトランジェットマイルに<抗体>をなくし、喜び勇んで参入しようとする沖縄の姿である。どうやら、ここ沖縄は象徴天皇(制)の<象徴効果>の実験場にして結節点になっているようだ。

 想像してみてもいい。あのキンピカの殿堂でユンタやジラバ、「懐かしき故郷」や「PW無情」や「南洋浜千鳥」が歌われることを。ユタ(とおぼしき)女性のチムワサワサー声が聞こえてくるようだ。

 「もしもし……あのですね。日本の天皇が琉球音楽を盗もうとしていますが、どうしたらよいのでしょうか」<2004年1月23日>


(12)『謝花昇を呼ぶ時』/近現代の位相を描写/(狂気)で(正気)を撃つ

 沖縄をめぐる映像を出来るだけ多く見ることと、制作されはしたもののこれまで日の目を見ずに埋もれた映像を掘り起こしていく作業をやっているうちに、幾つかの興味深い作品の存在を知ることができた。富本実の『1975年 OKINAWAヌ夏』と『謝花昇を呼ぶ時』もそうだった。まだ見ぬその作品の作り手の所在を確かめ、見たい、とリクエストしたところ、本人自身が試写をセットしてくれた。

 かつてはBCストリートと呼ばれ、Aサインの看板を掲げアメリカ兵相手のバーやキャバレーが軒を連ねにぎわいをみせていたが、世替わりの後、化粧を施し外づらは変えたもののうまくいかず、週末だというのに閑散とした通りの一室であった。それでも、寂しげな表情の奥にアメリカ世の記憶の漂いを感じさせる暗室のような暗がりで、流れた三十年の時を一挙に巻き戻し、復帰後間もない迷走する時代の声と顔と対面することになった。

 『1975年 OKINAWAヌ夏』はそうではなかったが、『謝花昇を呼ぶ時』はイタミがひどかった。コマをうまく噛むことが出来ない映写機がちぎれたフィルムを飛ばしながらカタカタカタ……と乾いた音をたてるたびに映像は上下に激しく震えた。だが、乱舞するコマの震えがかえってこの作品の性格に合っているようで不思議な気分にさせられた。その震えのなかから現れたのは、明治三十年代を激しく駆け抜け、「沖縄民権運動の父」として伝説化された謝花昇の「人と思想」をめぐる三人の応答である。

 その男「コチンダガンチョー」。応答する三人とは、一九三○年に『義人謝花昇伝』によって当時の奈良原知事や沖縄人特権階級への闘いを挑んだ英雄的な謝花像を最初につくった大里康永と、その大里が定着させた謝花像を一九四九年の『戯曲謝花昇伝』で終戦直後のアメリカ占領下の沖縄に重ね継承した池宮城秀意である。そして、あとの一人が、六○年代後半から七○年代初めにかけて高揚する復帰運動のなかで偶像化した謝花昇を『異族と天皇の国家』で批判した新川明である。

 時代の変わり目に沖縄では謝花昇が呼ばれた。と同時に、謝花昇を呼ぶ時は、沖縄人の生き方が問われた。母親と友人からの借金で作ったという十五分の短編『1975年 OKINAWAヌ夏』は、「コレカラ沖縄ハドウナルダロウ」という不安をテコに、海洋博のオープニングセレモニーに皇太子が来沖する意味と来沖に揺れる沖縄の夏の断面をスピード感のある切迫した画面構成で描いてみせた。『謝花昇を呼ぶ時』は、「反権力」に生き、狂死した一人の男の生きざまとそれへの評価を通して沖縄の近現代の位相をより踏み込んで描写している。

 アーカイブ映像を引用しながら、大里康永・池宮城秀意/新川明のインタビューと構成的なナレーション、そして富本白身のモノローグが交差し反響し合う。興味深いのは、構成的な声が、例えば「大里、池宮城、新川氏の時代的背景を考えると、英雄謝花像は生まれるべきして生まれ、受け継がれるべくして受け継がれ、批判されるべくして批判された」というように、いわばドキュメントの筋道を俯瞰し客観化するのに比べ、作者自身の独言は、謝花の狂気が仮託されていることである。これは多分に限られた予算と少人数のスタッフという制作上の都合からくるものであったにしても、言葉を引きちぎって投げつけるような監督自らのモノローグは、映像の叙述に刺のように介入する。こうした刺のような声の介入は、このドキュメンタリーをよい意味でこわ張らせもする。

 例えばこんなふうにである。「ウチナーンチュよ、奈良原繁を知っているか。よくもこんなヤツが知事となったもんだ。幕末の野蛮人め。沖縄を植民地か何かのつもりでいる」とか「同志は散りじりになり、私はすべてを失った。ウチナーンチュよ立て、奈良原切るべし.ウチナーンチュよ、ウチナーンチュよ……」と。まるで謝花の(狂気)に憑依されたとしかいいようがない激しいトーンでたたみかける。

 この一人称の語りは、謝花の運動のなかに沖縄の運動の原点をみる歴史観に対し、杣山問題や参政権獲得運動を検証しつつ、それが皇民化による国家的な統合を内部から補う「国権のための民権」ととらえ、批判した新川明の謝花昇論の白眉ともいえる「狂気もて撃たしめよ」で叙述された(狂気)に相通じるものがあるように思える。天皇の国家に同化する(正気)の謝花を、財産も地位も仲間も失って職を求めて山口県に行く途中の神戸駅頭で発狂し、廃人同様で故郷に帰り、東風平村の四辻で宿敵ナラハラを呪詛する(狂気)の謝花によって撃たしめたのである。

 Aサイン時代の記憶を寂しさの奥に漂わせる通りの一室の暗がりではじめて二本の映像を見たとき、フィルムによる叙述の喚起力と限界について考えさせられた。フィルムが捕獲した新川明の四十歳代の鋭角と、だが、とつとつとした声は、映像では語られなかった外なる書字を黙示する。

 謝花昇によって生きられた天皇の国家への同一化を引き継いだ復帰運動の(正気)が、実現した復帰とその後に招き寄せたものは一体何であったのか。想像の共同体・ニッポンがナショナルアイデンティティーの我有化の度合いをますます強めつつある現在、モノクロームのフィルムの近傍から「ふたたび、三たび、そしてくりかえし、くりかえし、私たちはみずからの内なる狂気の謝花をもって、正気の謝花を撃たしめなければならぬのだ」という声が三十年の時を超え語りかけてくる。<2004年1月29日>


(13)『ヤマングーヌティーダ』/具志堅用高物語/「火照らせた」ものへの恋歌

 一九七六年十月十日、その夜テレビの中で目撃したドラマに、思わず「シタイヒャー!」と快哉を叫ばなかった沖縄の人はいなかったはずである。当時無名の具志堅用高がわずか九戦目にして挑んだタイトルマッチで、「リトルフォアマン」などと呼ばれこのクラスでは無敵を誇ったドミニカ出身のホワン・グスマンを、七ラウンドKOで破りWBA世界J・フライ級チャンピオンの座についた時のことである。

 何でも、刻々と迫る試合前の控室で「ニーニー、ウトゥルサヌ」とかいって恐れをなし、今にも逃げ出さんばかりの具志堅を、そのニーニー(と慕われたトレーナー)は「ヌーヤン、カンパチヤー、タックルサリンドー」とどやし、リングに上がらせたというエピソードがあるほど、相手は22戦18KOを誇る鉄人であった。それだけにそのKO劇は鮮烈だった。

 具志堅用高は一つの<事件>であった。むろん、そういうのにはわけがある。具志堅の世界王座奪取(とその後の十三連続防衛記録までの具志堅の言動)は、スポーツの世界の話題にとどまらず、七○年代後半から八○年代初めにかけて沖縄がくぐろうとしていた文化・社会現象にもフラッシュバックしたからである。

 例えばこれは話題にされすぎて手垢にまみれたきらいはあるが、父親の職業を聞かれ「海を歩いています」(「海アッチャー」の超越論的和訳)とか家紋を問われ「ブロックです」(「家紋」を「家門」と思い込む亜熱帯的風景観)とこたえスポーツ記者を煙に巻いたように、予想もできないところから放たれ、標準日本語の言語的秩序を脱構築するオーラルな<言の葉>は、沖縄がかかえたコンプレックスやモヤモヤを吹き飛ばした。それは、知念正真が同じころ『人類館』で試みた言語的な実験ともつながるものがあった。無意識であったにせよ、具志堅はそれをもとのフットワークで実践していたのだ。

 人々は具志堅用高に沖縄の現在を重ね、そこに一陣の風をみた。東京で映画のベンキョウをしながらウツウツとした生活をおくっていた謝花謙もその一人だった。「大学がある練馬区江古田駅近くの小さなラーメン屋のカウンターで、一人ラーメンをすすりながら、天井近くに置かれたテレビで具志堅の初防衛戦を見ていた。…パンチを受けても怖がらず、ひたすら前へ前へと突き進む具志堅の姿に次第に顔が火照ってきて、呆然としていた。卒業制作を何にしようか、シナリオ提出の期限が日々迫る中、あせっていた私は、これしかない!と即決していた」と語っていた。

 七七年のことである。『ヤマングーヌティーダ』はこうして生まれた。火照り、呆然とした、その「火照り」は、おそらく同じ大学でシネアストを志す富本実が『1975年OKINAWAヌ夏』を作ったときの「コレカラ沖縄ハドウナルダロウ」という不安や『謝花昇を呼ぶ時』の<謝花昇>を呼ぶ意味について考えたことと決して無関係ではなかった、はずだ。

 『ヤマングーヌティーダ』は、石垣島から沖縄本島の高校に進学し、ボクシングをやっている島の先輩の紹介で上原康恒やフリッパー上原などの世界ランカーを育てた上原兄弟の長兄・上原勝栄と出会い、ユーフルヤーで住み込みながらボクシングの修業を積み、やがて高校チャンピオンになり、プロの世界に入るまでを描いた、いわば<具志堅用高物語>である。

 出演者は、沖縄芝居の平良トミと北村三郎以外すべてズブのシロウトである。そのためか具志堅のキャラクター、というか、あの身体のシャープさと語りの朴訥さの宇宙的落差が醸し出す、えも言えぬ魅力を表現するのに成功しているとは決して言い難いが、このドラマの中で圧倒的な存在感を示したのは、本人自身が演じたユーフルヤーの主人・上原勝栄の野人のような言動である。

 具志堅を体重計に載せ「ガジャングヮーやっさー」とか、ふろ掃除で具志堅のへっぴり腰をみて自ら模範を示すように腰を落とし「用高、ウングトゥさねーパンチ力やちかんどー」とか、「獲物を追い詰めるように鋭く相手を追い詰めるところからはじめるんだよ、鋭く」とか、プロ入りを拒む具志堅を張り倒し「クサブックヮーヒャー!」とかなんとかいって、いつも上半身裸でマチワラを突いたり、しごきあげたり、闘う気構えを叩き込む。

 具志堅用高の身体のキレとキャラクターは、おそらくこの海人と空手使いが合体したような褐色の身心の持ち主・上原勝栄の存在とユーフルヤーという場なくしてはあり得なかったと確信させるのにじゅうぶんである。

 とはいえ、見逃してはならないのは、謝花謙がこのドラマに、復帰前後の激動する沖縄の様子を伝える映像や歴史的声を重ね、具志堅用高という傑出したボクサーの身体表現を生んだ沖縄の時代を書き込んだことである。フィルムに写し込まれた七七年の石垣島や那覇の叙景が目に染みる。

 そしてエンディング。東京のジムでのスパーリングやシャドーボクシング、日本武道館近くの坂道を駆ける具志堅用高本人の実写を挿入しながら、<ヤマングー>を育んだ石垣島の風景に「月ぬ美しや」を重ねることによって、作者自身を「火照らせた」ものへのラブソングを歌いあげている。

 <ヤマングー>とは、わんぱくとか悪ガキを意味する八重山コトバである。具志堅のような日本(語)的定型に収まらない<ヤマングー>を、今どきの沖縄にはもう存在しないのかもしれない。もし、いるとすれば、それはCoccoの歌に流れている、といえようか。<2004年2月5日>


(14)「無言の丘」/琉球人の台湾体験描く/第三項的な介在

 昨年リリースされた大工哲弘の『蓬莱行』に「台湾行き数え歌」が収められている。竹富島から憧れの台湾に渡り、定職を得て家族を呼び寄せるまでを数え歌にしたものである。夢がかなえられていく筋立てとは対照的な哀愁を帯びた沖縄民謡のトラディショナルな曲調が、かえってこの歌の背後の闇を伝えているようでなかなかに味わい深い。

 十番まである歌詞の全部は紹介できないが、そのなかから任意に拾ってみよう。

 一つとせ 人々羨む台湾へ/婦人処女の区別なく/赴くところは台湾ぞ
 四つとせ 世の中開けてありがたや/台湾行きて働けば/もらう月給は十五円
 七つとせ 波の上より無事に着き/台北市内に来て見れば/一目見ゆるは総督府
 十つとせ とうとう仕事も定まって/親子呼び寄せ台湾へ/ここぞわれらの故郷ぞ

 この「台湾行き数え歌」が歌われた昭和初期の植民地台湾は、八重山・宮古群島の人々にとっては貧しい境遇から脱出する「蓬莱の島」として憧れのまなざしが向けられた。とりわけ、与那国や竹富、石垣などから十代から二十代初めの婦女子をはじめ多くの若者たちが台湾に渡り、日本人家庭の住み込み女中や丁稚奉公、旅館や飲食店の店員などの職を得て現金収入を得たようである。

 とはいえ、「蓬莱の島」台湾は、「一目見ゆるは総督府」というフレーズにも象徴されるように日本の植民地支配下にあった。貧しさからの脱出を試みた人々に幾ばくかの潤いをもたらしたにしても、植民地的現実から決して自由であったわけではない。この「台湾行き数え歌」からは、言葉にされた経験以上に歌われなかったもう一つの移動の記憶を想起させるものがある。

 王童監督の『無言の丘』(一九九三年制作)は、そんな<出沖縄>の軌跡と琉球(人)の台湾体験を描いた残酷なまでに美しい映像である。一九二○年代の日本植民地下の台湾で日本人経営の金鉱山を巡って、地をはう民衆のひりひりするような接触と領有の植民地的人間ジオラマが表出されている。

 貧しい農民の兄弟、阿助と阿-が、村の古老から聞かされた蛙の形をした金山から舞い落ちる金粉で潤った農民の「黄金伝説」に促されるように地主の元から逃れ、藤田組の経営する金鉱山で働く。その金鉱山を舞台にして、日本人鉱山長を頂点とした植民地的監視と処罰のもと、兄弟が落ち着いた下宿先の気丈な寡婦・阿桑、貧しさから逃れ一獲千金を夢見て台湾各地から集まった労働者、鉱山労働者のわずかな賃金や盗んだ金を巻き上げる娼館「万里香」、その娼館で丁稚とし働く日本人と台湾人との間に生まれた「雑種」の少年、そして娼館の住み込み女中として働く琉球から身売りされてきた富美子などの群像が織りなす人間模様を描き上げている。

 決して一筋縄ではいかない物語構造を持つが、二人の兄弟が思いを寄せる寡婦にして私娼・阿桑の生活の底をはうような現実主義の哀しいまでの逞しさと、琉球人・富美子の無垢(処女)性が汚れに至る失墜の過程が物語の結び目になっている。琉球人・富美子は、いわば、<内国植民地的身体性>を負わされるが、そのことが植民地本国人としての日本(人)と台湾(人)の関係に第三項的に介在し、それによってコロニアル=インペリアルな関係が複雑に彩色され重層化される。

 富美子は台湾人鉱夫からは色の白い「日本人の娘」として欲望の対象にされるが、日本人鉱山長からは「琉球人」として見下される。富美子が心を許す「雑種」の少年だけは彼女の境界性というか、<内国植民地>的位相を分別する。

 この映画で印象深いのは、冒頭と最後のシークエンスである。地主から逃れた兄弟が、金蛙山の近くの菜の花が咲き乱れる海の見える丘の石積の塀で、琉球民謡を口ずさむ富美子の姿に見とれるはじまりの場面と、鉱山の爆破事故で兄を亡くしぼうぜん自失した阿-が、同じように黄金色の菜の花が咲き乱れる丘で、富美子と結ばれるおわりのシーンである。

 この黄金の花の咲く丘で二人は日本語と中国語で会話する。通じるはずのない異言語。だが、二人には通じ合っている。富美子が琉球からこの丘に来たときの父の話や年に二回菜の花を植えたこと、ここには二人の死者が埋葬されていて、「無縁の丘」といわれていることを知らされる。「無言の丘」は「無緑の丘」でもあったのだが、その「無縁の丘」で二人は結ばれる。

 王童はこのシークエンスをリアリズムを踏み破ったトポロジックな場として設営し、植民地台湾における民衆間の対話の不可能性と可能性の極みを描き上げようとする。「無言の丘」は「無縁の丘」であるが、「無縁の丘」はまた「有縁の丘」ともなる。この<転位の転位>は、だから寓意によってのみ越えられるものだ。

 一九八七年の戒厳令解除後、台湾では侯孝賢の『悲情城市』や『戯夢人生』、呉念真の『多桑』などに見られるように、ニューシネマの担い手たちによって、、日本植民地時代や「光復」後の「二・二八事件」などの記憶を掘り起こし再審/再定義する試みが精力的になされた。王童の『無言の丘』もそうした試みに属するものと見てよい。

 だが、ここで目を凝らさなければならないのは、台湾ニューシネマの想像力/創造力によって琉球(人)の記憶と体験が分有されたことの意味である。台湾二ユーシネマの応答する力が、琉球・沖縄を介在させ、東アジアにおける記憶をめぐるタタカイの新たな位相を浮かび上がらせたのだ。

 大工哲弘・苗子の掛け合いで歌われる「台湾行き数え歌」の哀調を聞き取る耳が試されているということでもある。 <2004年2月12日>


(15)生のなかに甦る死/「島クトゥバで語る戦世」

100人の告発なき告発

 沖縄戦を生き延びてきた人々の体験を活字にした証言録の類は少なくない。そしてそれらのほとんどは「標準語」によって聴き取られ、「共通日本語」に置き換えられたものである。これには島々の言葉が文字記述には適してないというもっともらしい理由と、ミクロな言語帯の閉域から共通の理解の場に引きだしていくためには、標準語に翻訳し、置き換えざるを得ない、というこれまたもっともらしい言い訳があるようだ。

 だが、幾分かの濃淡はあったにしても、イクサ世を生きてきた人々の圧倒的多数がその時、その場で使っていた言葉はそれぞれの島々の言葉であった、はずである。それに沖縄をめぐって展開された国(家)語による地域言語の駆逐と編制ということも考え合わせると、コトはそう単純ではない。しかも人間の生き死にかかわったイクサ世の体験談となれば、なおさらのことである。

 琉球弧を記録する会が制作した『島クトゥバで語る戦世』は、これまで誰もが気付きつつも避けてきた、というか、見て見ぬふりをしてきた島々の言葉の履歴に思いを返しつつ、<言語にとって証言とは何か>という問題を一拳に浮かび上がらせた。沖縄本島や宮古、八重山などのイクサ世を生き延びた話者が、それぞれの体験をそれぞれのシマ言葉で語った六時間からなる映像記録である。

 では、なぜ「島クトゥバ」なのか。琉球弧を記録する会のそもそものはじまりには、滅びゆく琉球弧の祭や言葉を記録するには「今しかない」という危機意識があった。が、それ以前の読谷村『楚辺誌<戦争編>』の聴き取りの体験が原点になっているらしい。

 そのとき、写真と録音テープで聴き取りに立ち会った比嘉豊光はこんなことをいっていた。いったん『楚辺誌』として文字化されると、まるで昨日のように生き生きと自分の体験を語ってくれたオジーやオバーの「声や表情が時計が止まったようにものの見事に消えた」ことや「言葉が共通語に置き換えられると、その文字から表情が消えた」と。また、比嘉とともに共同制作者でもある村山友江は「体験者は四十数年前のことを話すのである。それを昨日、今日の出来事のように話し出す。(中略)記憶の中から紐を手繰り出すかのように、そしておもしろいほどの記憶が溢れ出てくるのである。私は一種のマジックにかかったような、はたまた自分の身体から離脱した魂がその記憶の中に溶け込んだような錯覚に陥った」と語っていた。

 二人の言葉には、この映像記録を理解するうえで見逃せない三つのことがいわれている。その一つは、普段はめったに話すことのない戦争体験を、それこそあふれ出るように話す場と関係が成立しているということである。それを可能にしたのがほかならぬ島クトゥバであり、その島々の言葉を通して記録する側が<声>を発見させられたことである。二つ目は、集合的な記憶と共ぶれする自らの内なる声に覚醒させられたことである。三つ目は、感覚や情動の襞まで掬いあげ、記録にとどめおくのに写真や文字記述に代わる別のメディアの必要性が自覚化されている。

 そして、六巻六時間からなる映像による記録『島クトゥバで語る戦世』が生まれた。証言番号が付された話者は、防衛隊や兵隊に徴用された者もいるがそのほとんどは「一般住民」である。シナリオがあるわけではない。効果を狙うテクニカルな仕掛けが施されているわけでもない。いや、時と場を得てあふれ出る言霊の前では小ざかしいテクニックや修辞は無用であるということだ。

 印象深いのは、告発の姿勢が皆無とはいわないまでも、語りに自己劇化や衒いがないことである。語られた内容が悲惨でないということでは決してない。親や子や兄弟姉妹を戦闘や集団自決やマラリアなどで失い、自らもその身体に深く傷を負った事実はじゅうぶんに酷くつらいことに違いないが、イクサ場のあれやこれやの細部や襞が島々の言葉によって現前化されるだけである。

 カメラはいっさいのテクニックを排し、ひたすら話者の声を聴き取り、凝視する。その聴き取り、凝視する深さまがまた観る者の耳を鋭くし、目を深くする。そのとき私たちは、告発なきところにより根源的な告発を、今という時間に現前化したかつてを、生のなかに甦る死を、声のなかの声を聴き取ることになるだろう。あるいは、村山友江のように自分の身体から離脱した魂が記憶の中に溶け込んでいく錯覚を覚えるだろうか。

 それぞれの巻の導入とエンディングに添えられている「終戦数え歌」「艦砲ぬ食ぇーぬくさー」「屋嘉節」「姫百合の歌」「戦数え歌」「敗戦数え歌」などの島ウタがまた味わい深い。なかでも第二巻の「艦砲ぬ食ぇーぬくさー」はこのドキュメントの紋様を特徴づけているといえよう。生き残った者すべては艦砲射撃の食い残しだという、生存の零度の声音こそこの記録の基調の低音なのだ。

 国(家)語に囲い込まれることなく、日に日をつなぎ、時の時を巡ってきた沖縄の言葉はどこへ向かおうとしているのだろうか。「言葉が一つ消滅することによって、人間の想像界の一部が永久に失われる」といったのはエドゥアール・グリッサンであったが、あらゆる標準化や陳腐化を拒む百人の百の言葉による証言記録『島クトゥバで語る戦世』が戦後六十年を前にして生まれたことは、暗示的にすら思える。

 記録は記録以上の何かである。<言語にとって証言とは何か>という問いから<記憶のタタカイにとって言語とは何か>というもう一つの問いが生まれなければならない。国(家)語から遠く離れたトポフォリックな想像界で、死者を生かす思想は、不断に発明され直さなければならないということでもある。<2004年2月26日>(おわり)