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琉球・沖縄歴史再考 <21世紀への補助線>(与儀武秀)
          御取合ウトゥイエー400年

<21世紀への補助線>(与儀武秀)
@沖縄はいつから日本か<上>国会でも帰属を質疑<中>法的根拠なく徴兵も<下>明確な必然性や根拠なく
A「風俗改良運動」/伝統的慣習 強制的に変更
Bカイロ会議/揺れ動いた沖縄の立場
C帝国と帝国主義/示唆的な世界秩序の版図
D群島の地政学<上>各島々で異なる歴史認識<下>中心史観にはない多様性
E帰属意識と自立志向/「自己決定権」模索を重ね
F近代化と沖縄女性<上>透ける「良妻賢母」思想<下>日本化の波にも消滅せず
G謝花昇像の変遷/反権力の実践に再評価
H人類館事件と現在<上>近代国家の世界認識反映<下>沖縄文化の位置問い返す
I近代沖縄の新聞と戦争<上>社会啓発と同一化の矛盾<下>引き継がれる不戦の精神
J資本主義の世界化/市場経済へ連結される
K沖縄語の位相<上>差別是正も皇民化の柱に<下>国際的に独立言語と把握
L沖縄戦の経験<上>歴史認識の「ねじれ目」に<中>根強い「住民虐殺」の記憶<下>根強い「命どぅ宝」思想
<「御取合400年」連載終了にあたって>(与儀武秀)

◇琉球・沖縄歴史再考◇第1部 近世編1〜21
◇琉球・沖縄歴史再考◇第2部 近代編22〜45


@沖縄はいつから日本か

<上>国会でも帰属を質疑

 琉球・沖縄の近世・近代史を振り返って考えると、それまで独立国だった琉球王国が、日本に強制的に伴合され、排除と包摂の紆余曲折を経た末で、今日に至っていることがあらためて浮かび上がってくる。
 1609年の「薩摩侵攻」と1879年の「琉球処分」は、その典型的な歴史的画期であり、日本への「二段階的包摂」(安良城盛昭氏)過程であるとの歴史学の指摘がそれを裏付ける。
 ところで、沖縄は一体いつから日本に帰属したのかという問題は、歴史学のテーマとしてだけではなく、その時代の沖縄を取り巻く社会状況と相まって、国会の質疑でも政治的な課題として度々取り上げられており、これまでにいくつかの政府見解が示されている。
 1997年4月の参院特別委員会で、当時参院議員の照屋覚徳氏が「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という質問を行った。これに対し、答弁に立った当時の政府担当者は「明治32年(1899年)に旧国籍法が制定された。沖縄の方々はその旧国籍法施行の前から一般に日本国籍を有するものとされていたというふうに承知している」との返答を行っている。
 国会で同質疑が行われた1997年当時は、米兵による暴行事件をきっかけに沖縄の反基地感情が高揚し、「米軍用地収容特措法」の改正が集点になった時期に当たる。
 照屋氏は自著の中で「(特措法の)法案の審議に臨んだ私の頭の中には、この国の政府はウチナーンチュ(沖縄人)を日本人として扱っているんだろうか、との疑念があった。もしかして、都合の良い時だけ日本人として扱い、都合が悪い時にはウチナーンチュとして扱っているのではないか、と思っていた」と振り返っている。
 質疑の前に、通例に従ってあらかじめ質問通告をした際には、議員からの「質問取り」のため照屋氏を訪れた法務省の担当者が、再三にわたり「ウチナーンチュはいつから日本人になったか、との質問は取り下げてもらえないか」「むつかしくて答えられません」と申し入れてきたという。
 だが結局、質疑は取り下げられず、前出のやりとりがなされた。その上で、引き続き論議は、近代沖縄の帰属とそのあり方についての根本的な関連質疑へとつながっていく。(09.06.29)


<中>法的根拠なく徴兵も

 「沖縄の人が日本人になったのはいつからか」
 1997年4月の参院特別委員会で、当時参院議員の照屋覚徳氏が行った質疑に対し、答弁に立った政府担当者は「明治32年(1899年)に旧国籍法が制定された。沖縄の方々はその旧国籍法施行の前から一般に日本国籍を有するものとされていたというふうに承知している」との返答を行っている。
 この回答を受け、照屋氏はさらに「その国籍法施行前に、明治31年(1898年)の徴兵制が施行されると、沖縄からも徴兵がされている」と強調。日本人としての法的根拠があいまいなまま、沖縄で徴兵がなされていることを指摘したが、担当者はその指摘に正面から応答することはなかった。
 周知のように、富国強兵を急ぐ明治政府は1873年(明治6年)に徴兵令を公布。沖縄の一般の人々への同令の施行(1898年)はその25年後、日清戦争の日本の勝利を受け、沖縄側が日本への同化を受け入れるようになってから実施されている。
 当時の政治家や官僚、教師ら沖縄で指導的な立場にあった人々は、国民の義務である兵役に服することで皇国臣民(天皇国家の民)の忠誠心が示せることを期待した。
 だが、徴兵の対象となる一般庶民は、検査前に逃亡したり、故意に体を傷つけるなどして、それを拒否する者が後を絶たなかった(宮古、八重山は人頭税制下にあったため徴兵実施が延期され、土地整理終了後に適用されている)。
 このことは、明治政府が1879年の琉球処分によって、強制的に琉球王国を廃した後、日本人としての法的根拠付けが間に合わない中で、沖縄の人々が混乱を伴いながら日本人(皇国臣民)として徴兵されている、ということを意味している。
 上記のような事柄は、沖縄が近代日本という統一的な国家の内部に、紆余曲折を経て組み込まれたという歴史的プロセスの一端を示しているが、このような沖縄の帰属や歴史認識の齟齬についての国会質疑は、さらに別の議員によってもなされている。(09.07.06)


<下>明確な必然性や根拠なく

 近代日本という統一的な国家内に沖縄が組み込まれた経線について、2006年3月の臨時国会では、衆院議員の鈴木宗男氏が政府の見解を質している。
 鈴木氏は琉球王国についての質疑で、「政府は明治維新の時点で琉球王国は日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」と尋ねた上で、19世紀中ごろに琉球とアメリカ、フランス、オランダとの間で締結された修好条約が法的根拠を持つ国際条約かを確認した。政府側は「沖縄については、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確か」と説明。各修好条約については「日本国としてこれら各国との間で締結した国際約束ではなく、その当時における法的性格につき政府として確定的なことを述べることは困難である」と答弁した。
 これを受け、鈴木氏は「理由を明示せずに答弁を拒否している部分があるところ、追加質問する」とした上で、「1871年にいわゆる廃藩置県が行われ、藩を撤廃する形での行政改革が行われたにもかかわらず、なぜ沖縄では(1879年に)藩が設置されたのか」「政府は、1868年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」などとあらためて質問。
 これに対し答弁では「1872年当時、沖縄において県ではなく藩が設置された理由については、承知していない」「いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである」と答えている。
 徴兵令の実施や琉球が独立国として諸外国と締結した各種国際条約の有効性など、これまでの琉球・沖縄と日本との歴史的関係の齟齬は、今日的に国会質疑の中でも度々取り上げられ議論の的となっている。
 このように考えると、沖縄が日本という国民国家に帰属しているという現在の位置づけは、明確な必然性や根拠があってたどり着いたものではなく、さまざまな歴史的紆余曲折によってもたらされた結果であることが浮かび上がってくる。(09.07.13)



A「風俗改良運動」 伝統的慣習 強制的に変更

 20世紀初頭まで残存した近世琉球の旧慣(土地制度や租税制度など)は、明治政府=沖縄県庁による土地整理(1899〜1903年)によって技本的な改革がなされた。
 それまで地割制(公共の田畑を共同で作付し貢祖を納める制度)だった農地は各農民の私有地とされた上で、租税を課す形に移行。琉球社会は貧幤経済の浸透により、日本国内の資本主義市場へ結びつけられていくことになる。
 ところで近代化に伴う社会の大きな変化は、土地、社会制度などの政治、経済的側面のみにとどまらなかった。
 沖縄語やハジチ(女性の手に入れ墨をする装身習俗)、カタカシラ(成人男性の結髪)などの身なり、毛遊び(若い男女の歌や踊りを交えた遊び)やユタ(霊媒)など文化的側面にも及び、伝統的な士着の風俗や慣習が次々と禁止されるようになっていった。違反者は当局による取り締まりの対象になるほか刑法上の罰則が科される場合もあり、他府県と異なる生活慣習は、強制的に変更されていく。
 このようにして、古い遺制を改革する発想は、近代化=日本化と同一視され、伝統的な慣習を次々に改めていく「風俗改良運動」へと結びついた。
しかし、士着的な慣習を否定し日本的な価値観に尺度を合わせるという発想は、伝統文化の衰退や社会的価値の序列化、差別化をもたらすものとして、近年は見直される傾向にある。
 今日では、県議会で、沖縄語を継承し普及啓発する目的で「しまくとぅばの日」が条例制定されているほか、三線や琉球芸能は沖縄の主体的文化として広く認知されるようになった。
 また、ハジチやユタ、毛遊びに伴う貞操観念など、当時の風俗改良がとりわけ女性を主眼としていたことから、激変する社会制度の中にあっても力強く生きていた女性の姿に焦点を当てた歴史研究(女性史研究)も近年は活発になされている。
 沖縄女性史家の宮城晴美さんは「風俗改良の第一波は中流階級の良妻賢母思想を主体に和装や日本語が励行された1899年(明治32年以降。第二波は一般庶民を巻き込んで戦時下の国民意識の徹底がなされた1908年(明治41年)以降」と説明。「二つの時期は性格が違うが、以前は労働力として対等だった男女の関係が社会的ヒエラルキーの中に組み込まれていくことは共通している。今後も各時代の女性の主体性の変遷を資料を通して見て行く必要がある」と話している。(09・07・20)



Bカイロ会議 揺れ動いた沖縄の立場

 中国と日本という大国の狭間で、分割案を含めて検討がなされた琉球処分後の近代沖縄の位置づけ。近世琉球においては、日中両国に「両属」し「二重朝貢」するゆるやかな関係を保ちながら独立国としての体面を維持してきたが、近代以降は領土を明確化する国民国家の枠組みによって、その帰属が排他的に確定されることになる。
 ところで、沖縄の立場がこのように国際的な利害を伴って大きく揺れ動いたのは、琉球処分後だけではない。太平洋戦争の集結を直前に控えた1943年、連合国の対日基本方針を定めるためにエジプトで開かれたカイロ会議で、沖縄の位置づけをどうするかが米国、英国、中国の間で問題になっている。
 日本の戦後処理を巡る問題で、米国のルーズベルトと英国のチャーチル、中国の蒋介石は、戦前に日本に侵略された地域は元通りにすべきだという方針を確認。同見解は43年12月に発表されたカイロ宣言に盛り込まれた(「日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ」(『日本外交年表並主要文書』下巻、外務省編から転載)。
 この「日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域」には、廃琉置県(琉球処分)によって強制的に近代日本の一部として位置づけられた沖縄が含まれており、宣言文の中に明文化されてはいないものの、会談上ではルーズベルトや蒋が沖縄の位置づけを巡って意見を交換したとされる。
 結局、戦後の沖縄は日本と分離された上で米軍に占領され、27年の統治期間を経た後、72年5月15日からふたたび日本の一地域になった。戦後沖縄は苛烈な米軍統治を経て「平和憲法」のもとへ戻るという期待をもとに「基地の全面撤去」を求めて日本への「復帰」を志向した。だが日米両政府は基地負担を沖縄に押しつけたまま「施政権返還」を強行。その結果として、今日まで軍事基地から派生する構造的な暴力は、沖縄に住む人々の日常を脅かし続けている。
 歴史の大きなうねりの中で、沖縄を取り巻く国際情勢は目まぐるしく移り変わった。その過程を読み解いていくと、今日まで沖縄のあり方を方向付けている近代国民国家の強固な枠組みとその覇権を巡るさまざまな力関係が浮かび上がってくる。(09・07・27)



C帝国と帝国主義 示唆的な世界秩序の版図

 近世琉球は東アジアの帝国として君臨していた清国の付庸国だったが、帝国主義の拡張路線をとる近代日本に組み込まれ沖縄県となった。
 ここで注意を要するのは、近世琉球が属していた明国や清国などの前近代的な「帝国」と、近代日本の「帝国主義」とは、その性格が大きく大きく異なっているという点である。
 近代(19世紀以降の)の帝国主義は、ある国家が領土的野心を持ち、軍事的な拡張政策によって、他の国家や民族を支配し、侵略する政策のことを指す。
 しかし前近代の帝国はそれとは異なり、複数の国々を支配はするものの、付庸国内の統治はあくまでその国の諸侯(統治者)が自ら行った。各国は帝国内に属してはいるが多様性、自律性を持っており、帝国の影響力は限定的で各国の独自性に一定の寛容さを持っていたのである。
 ところで、このような違いを持つ帝国と帝国主義の枠組みは、今日の世界秩序を考える上でも有効なアイデアとして言及され、近年議論となることが多い。
 イタリアの思想家アントニオ・ネグリとアメリカの比較文学者マイケル・ハートは、共著『帝国』(2001年)の中で、米国が1991年の湾岸戦争で国連の支持を得て行動した事や、自国の利益でなく世界市場と資本主義を擁護するよう振る舞った点を、新たな「帝国」の出現と説明。その上で帝国的な世界秩序への抵抗(マルチチュード)の模索について論述している。
 これに対し、批評家の柄谷行人は、ネグリ=ハートの帝国論を批判しながら2003年のイラク戦争時の単独行動主義をとる米国とヨーロッパとの対立や、世界的経済競争の激化から、現在と19世紀後半とが「帝国主義段階」として構造的に類似していることを指摘している。
 19世紀後半(1860〜70年代)にかけて確立したアメリカ、イギリス、ドイツ、日本、ロシアなどの国民国家は、帝国主義的な領土的拡張を続ける中で、世界各地でその覇権をめぐり戦争を引き起こした。
 柄谷は、現在と19世紀後半との歴史的平行性を度々説明しながら、東アジアで「20〜30年で第一次世界大戦に相当する事態が生じる」(季刊『at』4号、2006年)とも発言し、各国の覇権争いによる政治的緊張の高まりにも言及している。
 今日的な示唆を与える社会認識の枠組みとして論議される帝国論、帝国主義論。現在の沖縄を取り巻く世界秩序の版図を考える上でもヒントを与えるものとしてあらためて注目される。(09.08.03)



D群島の地政学

<上>各島々で異なる歴史認識

 1609年以降、島津と琉球王府との「二重支配」によって厳しい搾取に苦しめられていた宮古、八重山の島々は、琉球処分後の分島案によって一方的に沖縄本島から分割されようとした歴史を持つ。
 しかしそもそも宮古、八重山は琉球の版図内に調和的に位置づけられた地域だったと言えるのだろうか。
 宮古郷土史研究会の平良勝保氏は、八重山のオヤケアカハチが琉球王府によって討伐された1500年のアカハチ事件は「琉球による先島侵攻」とも言える出来事であり、1390年に行われた宮古島の与那覇勢頭の入貢も「公的交易の開始であって、先島の自発的服属とみるべきではない」と指摘する(3月16日付本紙「御取合G島津侵攻と先島」)。
 また同様の齟齬は奄美諸島についても指摘できる。
 薩摩侵攻の後、薩摩藩の直轄支配を受けた奄美諸島では、一定の独自性を保っていた琉球王国の版図内の島々とは異なり、厳しい黒糖収奪が行われており、薩摩も奄美諸島と琉球王国の違いを前提にしながらその統治を行っていた。
 さらに奄美大島、喜界島は薩摩侵攻以前、三山統一後を果たした琉球王府に侵攻されたという経験を持っており、沖永良部や与論島は三山統一以前から北山に支配されていたという経緯もある。
 このようなさまざまな経験から浮かび上がってくるのは、各島々によってそれぞれまったく異なった個別の歴史認識が浮かび上がるという琉球諸島の「群島性」という特徴である。
 琉球諸島は県内だけでも大小約160の島々から構成されている。自然の地理的条件によって各島々が隣接しながら海によって隔てられ、固有の成り立ちをしている。
 奄美から沖縄へとゆるやかに隣接した琉球弧の島々は、自然的、地理的な条件などから、これまではしばしば単純に「兄弟島」として一括して理解される傾向もあった。
 しかし史実が明らかにするのは、それぞれの島々がその他の島々とはまったく異なった歴史認識を持ち、それがおのおのの独自性、固有性に結びついているという特徴である。(09.08.10)


<下>中心史観にはない多様性

 大小約160の島々から構成されている琉球諸島。自然の地理的条件によって各島がゆるやかに隣接しながら固有の成り立ちをしており、それぞれの島の歴史的経験を丹念にたどっていくと、その個別性が浮かび上がってくる。
 ところで、その地域の地理的条件や位置関係が、政治的性格とさまざまなかたちで関連し、相互に結びついていることはたびたび指摘されている。
 たとえば日本は島国で、国境が海岸線という自然条件と一致するため、任意に区切られた国境の人為性・強制性が意識されにくい(例えば鎌倉時代のモンゴル軍の侵攻・元冦の敗退は、上陸の困難さや暴風雨という自然的条件に依る側面が強い)。
 一方、西欧はさまざまな覇権争いにより国境線がこれまで目まぐるしく変化しており、そのたびにごとに国土を維持し、確定するための求心的な強い力(=権力)が要請されてきた。
 逆に、国境がまるで碁盤の目のように直線的に引かれているアフリカ大陸の地図は、西洋列強による植民地政策のおぞましさを現在も刻印している。
 ひるがえって、大小さまざまな島々が緩やかに隣接しながら連なっている琉球諸島は、これまで見たように、それぞれの島がよく似た特徴を持ちながらも、さまざまな相違や明確な個別性を持っている。
 このように考えると、多様な歴史認識を持つ琉球諸島の地理的な条件は、その時々の状況によって任意に島々を領域化し、排他的に線引きをしてきた大国の意志の強さを強く印象付けると同時に、琉球王国という一元的な権力の中心史観には収斂しないような多様な社会認識の広がりをも浮かび上がらせる。
 視点の置き方によって、表裏が逆転する「メビウスの輪」のようなこの琉球諸島の地勢的な特徴は、これまでも「ヤポネシア」(日本とアジアの両義性)や「エッジ」(国家の内部と外部の両義性)などのキーワードによって、意味の偏差を伴いながら、さまざまな論者によって今日も繰り返し議論の的になっている。(09.08.17)



E帰属意識と自立志向 「自己決定権」模索を重ね

 日清戦争での日本の勝利を受け、清国による救国を待ち望んでいた琉球の旧士族層は、その期待を完全に絶たれた。以降、沖縄社会は近代日本への同化を推し進めながら、帝国主義の拡張路線をアジアへと広げる動きの一端を担うようになる。
 ところで、沖縄の事大主義的性格を表す言葉として「食を与ふる者は我が主也」という俚諺が言われるが、日清戦争以降、圧倒的力を持つ近代日本の支配を受け入れる一方で、さまざまな方策で沖縄の「自己決定権」を獲得しようとする動きも同時に現れる。
 日清戦争直後には旧王家一族(尚家)を中心に、近代日本という国家の枠組みを前提として、県知事を尚家の世襲にした上で県政運営を行おうという「公同会運動」が起こるが、その要求は受け入れられることなく、明治政府に退けたられた。
 また、沖縄戦後には「沖縄民主同盟」や「社会党」といった政治政党が、近世近代の琉球・沖縄史を総括し、日本支配からの離脱、独立を論じている。
 復帰前後にはイリノイ大学名誉教授の平恒次氏が「共和国」に準ずるような「沖縄特別自治体」設立を提言し、ジャーナリストの新川明氏、詩人の川満信一氏、文学者の岡本惠徳氏は、沖縄の日本復帰を批判的にとらえ返した、いわゆる「反復帰論」を展開。近代国家の枠組みを相対化する社会認識を示した。
 さらに、1980年代には沖縄国際大学教授(当時)の玉野井芳郎氏が、住民主権を主眼とした「沖縄自治憲章」などの自治論を考案。95年の米兵による事件をきっかけとした反基地運動の高まりは、沖縄の日本からの「独立」をめぐる議論として全県的広がりを見せた。
 こうした経緯をたどると、これまで国民国家のはざまにあり、帰属意識が大きく揺らぐ中で、さまざまな方策で沖縄社会の「自己決定権」を模索する動きがあったことが浮かび上がる。沖縄の自治や自立に対する関心の高さは、今日的にも道州制関連のシンポジウムや琉球・沖縄史の意味を問う関連シンポへの来場者の多さに現れている。(09.08.24)



F近代化と沖縄女性

<上>透ける「良妻賢母」思想

 琉球処分によって日本という国民国家内に位置づけられた沖縄社会は、社会、政治、経済などの諸制度が大きく変化する中で、近代化にまい進することになった。
 その際、社会を発展させる方法は「日本化」することとしばしば混同され、沖縄の文化や風俗、言語を日本と「同化」することが目指された。
 そのような当時の社会的変化の中でもとりわけ重要視されていたのは、「女性」が果たす役割の大きさだった。明治政府による文明開化政策は、女子教育や家族制度の変化など、それまでの女性の地位を大きく変える制度改革ももたらした。
 沖縄では日清戦争後の1900年、師範学校内に私立高等女学校が創設され、女子教育の侵透が意図された。また日露戦争が勃発した1904年には、上中流階級を中心に、徴兵された夫や息子を支援する愛国婦人会沖縄支部が発足。その後も県内で旧来の風俗の改良のための婦人会など、多くの女性組織が次々に結成されていく。
 これらの一連の社会的動きは、婦女子の教育を侵透させながら、近代的な家庭生活、社会生活を営む上での女性の意議改革を意図したもので、旧来からあった沖縄の風俗、習慣、言語の改良を女性を主軸に促進させていこうとする狙いを持っていた。
 資本や労働力を再生産しながら、男子を忠臣義士、賢人君子として育てる良き家庭をサポートするような女性像の要請。背景には、当時の政府=沖縄県が目指していた「良妻賢母」思想が垣間見える。
 明治政府による政策は、このようにして近代日本の枠組みに編入された沖縄にも適用され、制度変革の彼が及んだ。
 沖縄女性は学問を学び、社会的な諸権利を得る一方で、国家や資本を下支えするための新たな役割も同時に要請されていくことになった。
 しかし日本化、国家化の渦中にあって、沖縄女性は、その彼に翻弄されるだけではない側面も、同時に持ち合わせていた。(09.09.21)


<下>日本化の波にも消滅せず

 明治政府による文明開化政策は、近代日本の枠組みに編入された沖縄にも適用され大きな影響を及ぼした。だが近代化が「日本化」「国家化」と同一視される渦中にあっても、一部の沖縄の女性は、その波に翻弄されない側面を持ち合わせていた。
 近代以前からの慣習として、沖縄の女性には、家族の中で火の神(ヒヌカン)と祖先の霊にかんする宗教的な力を持っているとされた。近代以後、家父長的な社会制度に移行した後もそれは継続して認知され、神性の高さ、おなり(姉妹)の力を持つ存在として、家族や親族を譲る役割として生き続けた。
 このような沖縄女性の霊力信仰は、日本化を目指す風俗改良の波を受けてなお簡単に消滅せず、土着的な基層文化を体現する独特の存在感を持っていた。
 また、1898年には、沖縄でも徴兵令がしかれた。その動きと呼応し、上中流階級を中心に、徴兵された夫や息子を支援するために愛国婦人会沖縄支部など、多くの女性組織が次々に結成されていく。しかしその一方で、夫や息子の入営を望まない女性たちの中には、拝所に詣でて身内の徴兵検査の不合格を祈るなど、「静かな抵抗」を試みる者もいたという。
 さらに、沖縄戦時の読谷村チビチリガマでは、「集団自決(強制集団死)」による80人以上の犠牲者が出たが「生きて虜囚の辱めを受けず」という皇民化思想の戦陣訓に従って、自決に踏み切ろうとする男性に対し、幼い子を持つ数人の女性がそれを制し、事前に激しい口論になったことが知られている。
 明治政府の文明開化政策は、旧来からあった沖縄の風俗、習慣、言語の改良を女性を通して行い、社会改良を目指そうとする社会的動きと結びついた。だが、近代沖縄女性のいくつかのエピソードを示すのは、沖縄の近代化の中で、「日本化」「国家化」と呼応するような女性像を逆に問い直す視角である。
 近代国民国家の論理に回収されない沖縄女性のあり方は、近代化へのまい進に無自覚に潜んでいる「権力性」「男性性」を相対化する視点を与えるものとして、今日的にも注目される。(09.10.05)

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G謝花昇像の変遷 反権力の実践に再評価

 東風平の平民出身ながら、秀才として帝国農科大学を卒業。その後、沖縄出身で初の高等官技師として郷里に戻り、沖縄政策で奈良原県政と対立した末に敗れ、狂気の人となる。
 近代沖縄の民権運動を考える際、謝花昇の存在は鮮烈で劇的な生涯と共に多くの耳目を集めてきた。これまでに発表された謝花論を見ても、その解釈の多面性が浮かび上がる。
 謝花研究の嚆矢である大里康永氏の『義人謝花昇伝─沖縄自由民権運動の記録』(1935年)は、奈良原県政の専制に対して、人民の自治権の獲得に奮闘した「義人」像を強調した。
 当時の奈良原知事が困窮した無禄士族救済のため杣山開墾計画を進めたのに対し、風水害や木材資源の枯渇により農民を苦しませるとして、強硬に反対した謝花の姿勢を強調する。
 一方、大里氏の見解を批判し、その「英雄」像を疑問視したのが、新川明氏による『異族と天皇の国家─沖縄民衆史への試み』(73年)の謝花論だった。
 新川氏は、大里氏とは逆に杣山開墾で地元農民の反発を抑えて計画を進める高圧的役人として謝花を説明。その運動は沖縄の支配権をめぐる新興エリートのもので「民衆に根ざした運動とは異質」と指摘した。
 大里、新川両氏の相違を踏まえ、79年には、早稲田大学大学院生だった田里修氏(現沖縄大学教授)が、本紙連載「東風平・謝花再考」で杣山処分の資料を詳細に分析。奈良原先制の代行者なら、なぜ謝花は解任させられたのか? と問い、「農民にも積極的に開墾に参加させた」とその活動を説明した。
 各時代の論者が問い直した謝花像だが、現在は、権力に対する反骨性や社会運動の先駆性が再評価される傾向にある。
 謝花の著作と注釈、年表を付した伊佐眞一氏の『謝花昇集』(98年)では、当時の絶大な権力である県政への批判が「倒すか倒されるかの政治闘争」だったと指摘。
 また小説家の目取真俊氏は、現在の沖縄が抱える自治権喪失などの問題が明治期と共通すると指摘。「理論追求と政治実践を同時になし得た謝花のような人物はそういるものではない」と強調している。(09.10.12)



H人類館事件と現在

<上>近代国家の世界認識反映

 1903年、大坂の「第5回内国勧業博覧会」会場外の「学術人類館」で、沖縄の遊女2人がアイヌ民族や朝鮮人とともに見せ物として展示された「人類館事件」。沖縄から強い非難が起こり、沖縄差別を象徴する出来事として今日までも言及されるが、同事件が帝国日本の領土拡張に伴い、「博覧会」で生じたことは必然性を持っている。
 19世紀半ば以降、世界各地で開催された万国博覧会は、もの珍しい技術や新奇な物品を一同に集めて行われた。他国のさまざまな文明や文化が公開され、一般に紹介する役割を果たしたが、その展示内容には近代国家の世界認識が如実に反映されていた。
 1889年のパリ万博では、会場内の集落で自国の各植民地から連行した人間を集団で生活させるという展示が初めて行われた。この植民地集落は、数十人から100人超の大規模なもので人類学的な知見から非西欧世界を社会進化論的な階梯に位置づける特徴を持っていたとされる(吉見俊哉著『博覧会の政治学』)。
 同博覧会では、「エッフェル塔」がフランス革命100周年をたたえる近代文明の象徴として紹介される一方で、その対極に位置する「未開」として植民地の人々が強調されていた。このような帝国主義の社会認識は、沖縄をその一部として組み込んだ帝国日本で開催された「内国勧業博覧会」での「人類館」の意図とも、そのまま重なり合う。
 このようにして近代の博覧会は、科学技術の発展と共に領土拡大によって新たに獲得した植民地の人間や文化を展示することで、帝国日本の「豊かさ」や「優位性」を一般の人々に啓蒙的に理解させるためのイデオロギー的な効果を担うことになった。そして、そのような博覧会が持っていたスペクタクルな政治的な機能は、今日において一般の娯楽や見せ物的な展示にまで、より広範に浸透していくことになる。(09.10.19)



<下>沖縄文化の位置問い返す

 沖縄人が見せ物として展示された1903年、大阪での「人類館事件」。その展示は科学技術の成果と共に、植民地の人間や文化を展示することで、帝国日本の「豊かさ」や「優位性」を広く周知させる効果を持っていた。博覧会が持っていたこのような文化表象の社会的・政治的効果は、今日、一般の娯楽や見せ物的な展示にまで、より広範に浸透している。
 例えば、沖縄を舞台としたテレビドラマや映画のヒットにともない、2000年の沖縄サミット前後には、琉球芸能や首里城のきらびやかな建築などの沖縄イメージがとりわけ強調された。しかし、異国情緒をまとい国内外のまなざしに応えながら流通した沖縄文化は、米軍基地から派生する事件・事故など、現実のシビアな政治的、社会問題を排除し、沖縄の現状を商業的なイメージとしてのみ流通=消費する傾向があるとして、しばしば批判されている。
 このような沖縄イメージの中にあってあらためて注目されるのは、人類館事件をモチーフに創作され、04年、17年ぶりにリバイバル上演された演劇「人類館」(作・知念正真)の存在である。場面ごとに役者が入れ替わり、沖縄近代史のさまざま側面を描く同演劇は、久方ぶりの再演に際しても古びることなく、差別や権力のあり方を自覚的に問い直すものとして話題を呼んだ。
 作者の知念氏は、「戦後60年どころか、人類館事件から102年たった今も、何も変わっていない。あえて変わったものがあるとすれば、いまや、沖縄全体が人類館になってしまったということではないだろうか」(05年6月8日、本紙文化面)と強調している。
 近代国民国家の文化表象の効果を気付かせる人類館事件。沖縄文化の置かれた位置をあらためてとらえ返し、考える上でも、私たちに今日的な意義を投げかけている。(09.10.26)




I近代沖縄の新聞と戦争

<上>社会啓発と同一化の矛盾

 土地整理や公教育の開始など、さまざまな制度改革が進む近代沖縄。その中で、直面する政治や時代状況に対して人々が積極的に意見を主張する新しい媒体「新聞」が登場し、社会意識の形成に大きな役割を果たすことになった。
 1893年に創刊された沖縄初の新聞「琉球新報」(現在の「琉球新報」とは別)を皮切りに、本土留学を経験した新進気鋭の知識人を中心として、次々にさまざまな新聞が発刊された。
 当時の新聞は、政治的な論説をメーンとして自らの主義主張を積極的に前面に押し出す、いわゆる「大新聞」の性格を持っている。発行主体となる社会集団が自らの政治的な立場を明確にしながら、発刊と廃刊、分裂や統合を繰り返していた。
 それらの新聞の中でもとりわけ大きな存在感を持っていたのは、首里の旧士族や支配層が中心になって発行された「琉球新報」だった。財政的にも安定し継続して発刊された同紙は、沖縄の社会啓発を進めながら日本への同化を強く主張。沖縄社会をけん引する大きな力になっていく。
 当時の沖縄は、強制的に日本という国民国家の一部に位置づけられながら、後発的に近代化を推し進めなければならない状況にあった。近代以前の沖縄の歴史や文化は好奇のまなざしにさらされながら、排除の対象になっていた。
 同紙が行っていた日本国家への積極的な「同化」の主張を振り返ってみると、自らが置かれた歴史的困難さを背景に、沖縄の主体性を模索しながら、社会啓発を目指そうとする焦燥感と、その実現のために日本という国民国家へ同一化しようとする矛盾した思いが感じられる。
 しかし、そのような社会啓発への使命感は、次第に日本の帝国主義的な拡張路線と一体化。農民化教育にまい進しながら、戦意高揚を推し進め、戦争への積極的な役割を果たす動きと軌を1にしていく。(09.11.02)


<下>引き継がれる不戦の精神

 近代以降日本という国民国家の一部に組み込まれ、後発的に近代化を推し進めた沖縄で、「新聞」という新たな媒体は、政治や時代状況に対し人々が多様な意見を主張する役割を担って登場した。
 しかし、沖縄社会を啓蒙的に発展させたいという思いに裏打ちされた言論活動は、日本への同化を推し進めながら、帝国主義的拡張路線と相まって、次第に戦争遂行の積極的な役割を果たすようになる。
 近代草創期の沖縄の新聞は、創刊や分裂、廃刊を繰り返していた。しかし1940年に発刊されていた「琉球新報」「沖縄朝日新聞」「沖縄日報」の3紙が、新聞用紙の入手難や言論統制の意図に伴い、政府・軍部の「1県1紙統合令」によって、強制的に「沖縄新報」1紙のみに統合された。
 戦時下の紙面に目を通すと、南洋群島などでの日本軍勝利を大々的に伝える記事と共に、「死中に活あり」「冷静沈着に この一大試練に勝て」などの見出しが踊り、戦時中、戦意高揚の役割を積極的に担った近代沖縄の新聞の姿が浮かび上がる。
 財戦後、壮絶な地上戦によって焦土と化した沖縄で活動を再開した新聞人は、自身が戦争に加担したという自責の念を抱えながらも、郷土復興への思いを新たにし、新聞製作を再開することになる。
 沖縄タイムス社の初代社長で、戦前は「沖縄朝日新聞」「沖縄新報」に務めていた故高嶺朝光は、戦後の新聞再発刊時を回顧し「ジャーナリストの戦争責任は、私たちみんなが同等に負わねばならなかった」「厳密にいうと沖縄の指導者みんなが戦犯であり、さらに戦争被害者にもなったわけであるから、その反省に立って、やり直したい」(「新聞50年」高嶺朝光著)と、その思いを吐露している。
 沖縄戦に対する強い反省の思いから、不戦への誓いをたてて再出発した戦後沖縄の新聞発行。その精神は、現在の沖縄タイムスの紙面作りにも引き継がれている。(09.11.09)



J資本主義の世界化 市場経済へ連結される

 アメリカやイギリス、日本、スペインなど、19世紀に対外的な拡張政策をとった帝国主義国は、いずれも資本主義経済が発達した国々だった。新たな領土や資源の獲得を求めた対外拡張の背景には、さらなる利益拡大を目指す資本の運動の要請がある。
 帝国主義国では、資本制経済の発達により国内市場が飽和状態になると、資本の投下先として新たな市場(領土)の必要性が高まった。こうして近代国家の一部に組み込まれた地域では、共同体を個(私的所有を可能にする最小単位)へと還元しながら、市場経済内へと再編成する大きな変化がもたらされる。
 琉球処分後の沖縄でも、1899年の土地整理と共に農地の私的所有が認められ、農民以外の士族にも税負担が課されるようになる。市場経済の浸透によって、自給自足的な農作物以外にサトウキビなどの換金作物が栽培され、商品交換が一般化。
 旧支配から解放された農民は自らの土地を持つ自作農家となったが、租税に苦しむ零細農家は自らの土地を売り地主に雇われる小作農に転身。こうして沖縄でも自由な労働契約が一般化する一方、次第に大地主と無産階級との格差が生じた。
 一連の過程はアメリカの社会学者、I・ウォーラースティンの「このシステム(15世紀末西欧で生まれた資本主義─筆者註)は、その後も、ときの経過にともなって空間的に拡大し続け、19世紀末までには地球全体を覆うに至ったが、今日もなお全地球をカヴァーしたままである」(『史的システムとしての資本主義』)との指摘を裏付ける。
 近代的な経済制度の浸透とともに世界的な市場経済へと連結された沖縄。沖縄戦、本土復帰を経て、所得水準の増加や社会資本の整備が進んだ一方、新自由主義的な経済政策による所得や地域間の格差拡大、不安定雇用の増加や金融不安など、グローバリゼーションに起因する今日的な課題にも密接に関係づけられている。(09.11.16)




K沖縄語の位相

<上>差別是正も皇民化の柱に

 琉球処分以降、日本という国民国家内に位置づけられ、後発的に近代化を推し進めなければならなかった沖縄社会にとって、沖縄語という士着的な言語は、公権力から抑圧され、排除される対象とみなされた。公教育の開始当初から、沖縄の伝統的習俗を前近代的な悪習と見なす風俗改良運動、日本への同化政策と軌を1にして、沖縄語が禁止され、標準語を用いることが奨励されていく。
 そのような過程にあって、沖縄学の泰斗である伊波普猷が主張した日琉同祖論(日本と琉球の人種・文化がもともと同じという考え方)は、民俗や人種的学識と共に、言語学の知見を援用しながら、日本語と沖縄語が「同語根のものである」と強調した。
 「琉球人の先祖に就いて」「P音考」(『古琉球』所収)などの論考で伊波は、琉球諸島の言語と日本の古語の類似性を説明した上で、「琉球人は直ちに日本人と同人種になる」としている。
 伊波の日琉同祖論は、アカデミックな理論である以上に、当時の沖縄社会の啓蒙的に発展させる意識と結びついている。その見解は、日本からの沖縄に対する差別や偏見を是正する効果を果たすと同時に、皇民化の支柱としての側面も持ち合わせていた。
 このように学問的知識が精緻に理論化されることとは異なった位相で、社会的・政治的な役割や影響力を担った例は、ほかにもある。
 たとえば、明治期の日本では日琉同祖論と同様、征韓論の台頭と共に「日鮮同祖論」が主張され、歴史学や言語学によって日本人と朝鮮人の祖先は同じであることが理論的に「証明」されていた。
 このように考えると、言語などの対象をどのように位置づけ、考えるかという学問的認識の仕方には、価値中立的で客観的な様相とは裏腹に、それを認識する当事者の社会的立場や歴史的な位置が如実に反映されるという性格が浮かび上がってくる。(09.11.23)


<下>国際的に独立言語と把握

 伊波普猷は、琉球諸島の言語と日本の古語の類似性を指摘することで「日琉同祖論」を理論化し、沖縄の日本への同化を基礎づける役割を担った。ところで、今日では伊波とは異なる視点から、沖縄語の独自性、個別性を強調する見解が示されている。
 ドイツから沖縄を訪れ、与那国島の言語調査を行っている琉球大学客員研究員のパトリック・ハインリッヒ氏は、言語学者の服部四郎による言語年代学の分析手法(系統が同じ言語が分化する際、千年ごとに14%の共通語彙がなくなる特徴を利用して、ある言語が共通祖語から分岐した年代を考察する方法)から、沖縄と東京で話される言語の地域差が、英語とドイツ語の隅たりとほぼ同等だと指摘。
 「日本語と琉球語の間隅は非常に大きい。沖縄各地で話されている言葉は(標準語に対する周辺的な言語である)『方言』ではなく、一つの地域言語としてとらえることが可能だ」と強調する。
 また、ユネスコ(国連教育科学文化機関)は今年2月、世界で約2500の言語が消滅の危機にあるとの調査結果を発表する際、琉球諸島の各地で使用される言語を「沖縄語」「国頭語」「宮古語」「奄美語」「八重山語」「与那国語」という名称で、それぞれ1個の独立した言語(個別言語)として把握。
 「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」とした上で、前述の各言語のほか、琉球語の下位方言も消滅の危機度が高いと説明している。
 19世紀、近代国民国家の成立期においては、言語、民族、宗教などの均一性を前提に国内単一のナショナリティーが意識された。しかし今日の沖縄語の独自性の理解から垣間見えるのは、ひとつの言語を当該地域の伝統や文化と密接にかかわる社会的知識として理解し、自立した圏域として考えうるという視点である。(09.11.30)




L沖縄戦の経験

<上>歴史認識の「ねじれ目」に

 沖縄タイムスが2000年元旦に掲載した100人の有識者がこの100年で「沖縄で最も重大な出来事」というアンケート結果で1位となったのは、「沖縄戦(第2次世界大戦・15年戦争)」だった。沖縄の歴史を考える上で、沖縄戦は依然として大きな意味を持ち、現在を考える上でも不可欠な経験として人々に意識されている。
 琉球処分後、日本という国民国家内に位置づけられたことで、後発的に近代化を推し進めなければならなくなった沖縄は、日本への積極的な同化を推し進め、皇国巨民としてまい進することによって、社会が発展すると考えた。
 しかし、その結果もたらされたのは、壮絶な沖縄戦の経験であり、多くの一般住民を巻き込む悲惨な地上戦闘によって、沖縄は焦土と化した。こうしてもたらされた逆説的な帰結は、戦後を経て今なお、沖縄社会に癒やされることのない深い傷跡を残している。
 これまで沖縄戦に対する歴史認識は、主に沖縄戦後史のスタートとして位置づけられ、人々に意識されてきた。同視点からは戦後の米軍統治から復帰を経て現在まで継続する過重な基地負担の現状を規定する「起点」として、沖縄戦がとらえられている。
 しかし、薩摩侵攻400年、琉球処分130年という視点から、近世・近代史を振り返った場合、沖縄戦の経験は、日本という近代国民国家の一部として位置づけられ、同化政策、皇民化教育にまい進したことの「帰結」としてあることが浮かび上がってくる。
 近世琉球から近代沖縄、そして戦後沖縄から現在の沖縄社会まで、400年間を連ねる時空間。そのただ中で、歴史認識の「ねじれ目」のような位置を占める沖縄戦の存在は、遠い過去である琉球・沖縄史の再吟味が、単に郷土史の趣味的な回顧ではなく、近代国民国家の一部に位置づけられた沖縄の現状を問うことと同義であることをあらためて私たちに気付かせる。(09.12.07)


<中>根強い「住民虐殺」の記憶

 日本という近代国民国家の内部に位置づけられ、後発的に近代化を推し進めなければならなかった沖縄社会にとって、日本への同化政策にまい進し、皇国臣民として積極的に戦争に加担することは、近代化を実現するための証であるような意味を持った。
 しかし、そのようにして社会の発展を志向した沖縄は、沖縄戦の壮絶な地上戦闘によって逆に焦土と化した。
 一般住民は日本軍から同じ国民どころか、しばしば「非国民」「スパイ」とみなされ、沖縄語の使用や避難壕からの追い出しなどによって虐殺の対象となった。沖縄戦研究の一説によると、その数は「数千人」にのぼるとも言われる(安仁屋政昭氏「意見書 沖縄戦における住民の被害」)。
 国民化にまい進し、日本への積極的な同化を推し進めた末の極限=沖縄戦において、反転してもたらされた逆説的な帰結。
 その経験は、しばしば国家の来歴や成り立ちを物語り、日本人という国民の同胞意識を強化する「ナショナルヒストリー」や「殉国美談」的な物語には決して回収されることのない出来事として、今日まで沖縄の人々に強く意識されている。
 「反日的になってはいけない」との当時の県知事の発言をきっかけに、沖縄戦時、住民に銃剣を向ける日本兵の展示模型の内容が変更され、批判が集中した県平和祈念資料館の展示問題。
 また、高校の歴史教科書検定で、文部科学省が沖縄戦のいわゆる「集団自決(強制集団死)」について、日本軍が強制したとの記述を削除し、県内で反発が高まった教科書検定問題。
 国民国家のナショナルヒストリーとは著しい齟齬をきたすこれら沖縄の「土地の記憶」の強固さは、400年のを経て現在に至るまで、排除と包摂の紆余曲折を経ながら、日本という近代国民国家の一部に位置づけられてきた沖縄社会のあり方をあらためて浮かび上がらせる。(09.12.21)


<下>根強い「命どぅ宝」思想

 日本という国民国家への同化を差し進め、社会を発展させようとした沖縄は、沖縄戦による破滅という逆説的な帰結にたどり着いた。
 米軍の攻撃のみならず、日本軍による避難壕からの一般人の追いだしや泣き叫ぶ乳幼児の殺害、沖縄語使用による非国民視や住民虐殺。その経験は「軍隊は住民を守らない」「命どぅ宝」などの教訓として今日まで語り継がれ、平和の思いの象徴として人々に共有されている。
 ところで、このような「命どぅ宝」などの俚諺は時折、出所経歴や根拠が不明確でありながら安易に流通していると指摘されることがある。そこでは、これらのキーワードが、昔から沖縄の反戦平和の地であったかのような「フィクション」を補強するものとみなされ、否定的なものとして言及される。
 これに対して、近現代思想史研究の屋嘉比収氏は、史実性があいまいとされる「命どぅ宝」という言葉の来歴を系譜的に考察。「命どぅ宝」が文章中の言葉として知りうる範囲で確認できるのは、1970年代前半の「沖縄戦体験記の聞き取り調査を通じて、沖縄戦研究者の大城将保氏が書いた論考『戦後体験は継承しうるか』が初出である」と指摘する。
 その上で、82年の文部省による教科書検定で高校歴史教科書から沖縄戦の日本軍による「住民虐殺」の記述削除以降、戦争体験者らの憤りや反発の中から、新聞紙上で頻繁に「命どぅ宝」という言葉が登場する経緯を説明。「たしかに、その出所経歴が不明で曖昧」だが、「戦後沖縄の状況、とりわけ『復帰』後の沖縄を取り巻く状況と深く関わって登場し使用されている」とその根拠性を見据えた上で、実証性だけでは裁断できない沖縄の平和への願いを体現した言葉として、その理念を捉え直している「歴史を眼差す位置─『命どぅ宝』という発見」。
 沖縄戦に裏打ちされた反戦平和の教訓は、米軍統治の末に日本復帰を経てなお過重な基地負担を強いられている沖縄の現状と相まって、現在も強い存在感を持っている。(2009.12.28)

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<「御取合400年」連載終了にあたって>

<上>近世と近代複眼的検討/沖縄の将来像にも示唆

 2009年が薩摩侵攻400年、琉球処分130年の大きな歴史的節目にあたることに伴い、沖縄タイムスでは今年初めから毎週1ページ、通年企画として「御取合400年 琉球・沖縄歴史再考」を連載してきた。第1部の「近世琉球」と第2部の「近代沖縄」の歴史的な歩みを複眼的に検討することで浮かび上がる論点は、今日の沖縄社会を取り巻く現状や将来像を考える上でも、さまざまな示唆を与えるものと思う。(学芸部・与儀武秀)

 同連載では、近世琉球、近代沖縄の歴史的な経緯を踏まえながら、今日的な研究の成果も踏まえ、同時に一般の読者にも分かりやすく沖縄の歩みを紹介することを意図し、テーマごとに、第一線で活躍する歴史研究者や文化関係者に原稿を執筆していただいた。

対照性

 同連載をあらためて通読した上で、整理できるポイントは大きく3点あると考えられる。
 第1点は、近世琉球と近代沖縄の特徴の対照性である。中国と日本という2つの大国の支配を受けながらも、独立国として存続していた琉球王国。その存在の背景には東アジアの冊封体制という国際秩序があり、ゆるやかな宗主国と附庸国の広域的なゾーニングが、琉球の存在を裏付けていた(第1部E侵攻と日明関係、KL「唐・大和の御取り合い」の実相)。
 しかし、近代沖縄においてはその様相は一変した。とりわけ琉球救国の期待がかかった清国が日清戦争で敗れて以降は、自らの存在を排他的なラインで定める国民国家のフレームによってその所属が確定的に決められ、日本への同化政策によって中央集権的な制度や価値観が強要される(第2部KL近代沖縄と久志芙沙子、NO「人類館」の射程 沖縄の桎梏)。
 連載の中でたびたび浮き彫りになる近世琉球と近代沖縄とのコントラストの違いは鮮明である。このような対照性は、近世琉球と近代沖縄をそれぞれ個別に見ている際には気がつきにくく、双方を同時に見据えることによってクリアになる特徴である。

主体性

 第2点は、近世琉球の主体性の問題である。
 薩摩侵攻直後、琉球と距離を置こうとする明国に働きかけ、冊封体制を維持した交渉力(第1部AB薩摩の琉球侵攻と東アジア)。琉球処分後に日清間で持ち上がった琉球の分島案を廃棄に追い込んだ林世功ら脱清人らの琉球復国の強い働きかけ(第2部E琉球救国運動)。「江戸立ち」などの際、徳川幕藩体制下ながらも「異国」としての側面を強調し、独自性を保った戦略性(第1部HI琉球使節の「江戸立」)。
 これらの事例は、近世琉球が大国のもとで、単に従属的な関係に拘束されていたのではなく、小国でありながらも日中のはざまで埋没せず、したたかに外交交渉を行い、一定の存在感を持っていたことを明らかにする。
 従来まで近世琉球に対しては、主に「この戦争(薩摩侵攻−筆者註)の結果、薩摩と琉球との関係は、兄弟の関係より主従の関係に代わった」(伊波普猷「島津氏の征服と両属政策」)と、従属的位置に置かれていたことを強調する理解がなされていた。だが近年の近世琉球史研究においては、逆に「小国寡民」的な戦略性が見直されていることがうかがえ、ここでも近代沖縄の国家主義的な同化志向を相対化するような、近世琉球の独自性が浮かび上がる。

群島性

 第3点は、琉球諸島の各島々によってまったく異なる歴史認識が浮かび上がるという「郡島性」である。
 薩摩侵攻以降、島津と琉球王府との二重支配によって厳しい役人の中間搾取に苦しめられていた宮古、八重山は、琉球処分後の分島案によって分割されようとした歴史を持つ(第1部G島津侵攻と先島、第2部FG分島案と宮古・八重山)。
 また、薩摩藩の直轄支配を受けた奄美諸島では、一定の独自性を保っていた琉球王国の版図内の島々とは異なり、過酷な黒糖収奪が行われており、薩摩も奄美諸島と琉球王国の違いを前提にして統治を行っていた(第1部O薩摩侵攻と奄美諸島)。さらに、奄美大島、喜界島は、薩摩侵攻以前、琉球王府の軍勢によって攻められたという経験も持っている。
 奄美から沖縄へとゆるやかに隣接した琉球弧の島々は、自然的、地理的な条件からしばしば情緒的に「兄弟島」として一括して理解される傾向もある。しかし史実が明らかにするのは、それぞれの島々がその他の島々とはまったく異なった歴史認識を持ち、それがおのおのの独自性、固有性に結びついているという特徴である。
 それぞれ似てはいるが、同時に注意深く見ると明確な個別性が浮かび上がる「家族的類似」とでもいうべきさまざまな相違は、琉球王国という一元的な権力の中心史観には決して収斂しないような社会認識の広がりを強く印象付ける。(2009.12.28)


<下>国家との関係 問い直す/沖縄の切迫感が顕在化

 節目の年に琉球、沖縄の歴史を振り返り、議論しようという機運が高まり、各地でシンポジウムや講演会が相次いで開催された1年だった。歴史研究者以外の一般の人々も含めて、薩摩侵攻400年のテーマが高い関心を喚起した背景にはどのような要因があるのだろうか。(学芸部・与儀武秀)

ヒント提示

 豊見山和行氏(琉球大学教授)がまとめた資料によると、2009年に行われた琉球侵攻400年関連のシンポや講演会などの関連イベントは、主なもので計37件を数える。この数は毎月3回余りのペースであり、県内外のどこかで今年1年毎週のように400年の歴史が議論されたということになる。
 中国・北京や韓国・ソウルなど、海外で行われた関連シンポの開催は東アジアへ与えた同事象の影響の大きさを物語るが、とりわけ沖縄、奄美諸島では一般の参加者も加わって、活発な意見交換が行われた。
 前回、本紙連載「御取合400年〜琉球・沖縄歴史再考」を振り返りながら、その内容を踏まえ論点を整理したが、同テーマが広く関心を持って受け止められていることには、明確な根拠があるように思われる。
 排他的な国境のフレームを相対化する東アジア地域のゾーニングにしろ、中央集権に回収されない小国寡民的な戦略的主体性にしろ、中心化や代表制とは異なる群島的な社会認識の広がりにしろ、薩摩侵攻400年と琉球処分130年を複眼的にとらえて得られた3つの論点は、まず何よりも、日本という近代国民国家の一部に位置づけられた沖縄が置かれた現状を問い直すヒントを提示するものであり、固定化した枠組みをとらえ直し、今後の沖縄社会の新たな可能性を模索する示唆を私たちに与えるものとなっている。

社会的関心

 薩摩侵攻400年の節目を考えようとする際、しばしば耳にした指摘に「薩摩(=日本)に対する被害者意識を越えることが必要だ」「過去の遺恨に固執せず『未来志向』で歴史を考えるべきだ」といった意見があった。確かに、立場の相違や視点の違いを踏まえながら歴史事象を認識し、将来像を見据えることは重要であり、薩摩侵攻や琉球処分を振り返る際にも不可欠な姿勢であると考えられる。
 しかしその一方で、今年1年を通じて関連シンポジウムや講演会、各種イベントなどを取材しながら無視できないと感じたのは、薩摩侵攻400年に対する問題関心が、「相互交流」や「未来志向」という口当たりの良いキーワードには解消されないような、ある種の強い「切迫感」を帯ながら、しばしば人々の間で議論の対象になっているということだった。
 そこから恒間見えるのは、「400年」を検証する問題関心が、単に郷土史の趣味的な回顧意識からではなく、むしろ現在の沖縄が置かれた現状を問い直し、とらえ返そうとする強い衝動によって要請されたものであり、きわめて今日的な社会の危機感を踏まえた上で発動されているということだった。
 とりわけ、ここ数年の沖縄を取り巻く社会事象を見ても、そのような危機感が共有されている根拠は明確だと思える。
 沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故の際は、県内の大きな衝動と憤りとは対象的に、本土メディアや世論は事故に冷淡であり、事故直後に上京した稲嶺恵一前知事や伊波洋一市長に対し、当時の小泉純一郎首相は夏休みを優先し、面会もしなかった。
 高校の歴史教科書の検定で、文部科学省が沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」について、日本軍が強制したとの記述を削除した問題では県内で一斉に反発が強まり、2007年9月29日の県民大会では、与野党の枠を超え、県民総ぐるみの意思が示されたが、政権交代後も「集団自決」の記述からは「軍の強制」が削除されたままだ。
 普天間飛行場の移設問題では、県外、国外移設を公言していた民主党、鳩山由紀夫首相は政権交代後も辺野古移設の可能性を否定せず、国内メディアや国内世論は、県内移設反対という県民世論よりも、しばしば日米合意(現行案)を優先させようとしているように見える。

打開を模索

 このように、日本という国家と沖縄社会のあつれきが立て続けに生じる現状で、沖縄が日本という国家の一部に位置づけられていることはそもそもどういうことか、その関係を歴史を検証し、根本的に問い直そうという切迫感が高まることは、ある意味で当然のことと思える。
 米軍ヘリ墜落事故や教科書検定問題、普天間移設問題など、例示したのはこの数年の事柄だが、しかしその事例は、単発的事象がたまたま「ここ数年」に現れたイレギュラーな事態なのだろうか。それとも、それはむしろ、日本という国家と沖縄という社会にとって、継続的に繰り返されてきた構造的問題の反復なのだろうか。この素朴だか根本的な疑問が「400年」という時空間を根本的に問い直そうという機運を後押ししている意識にほかならないのではないだろうか。
 その切迫感は「未来志向」「相互交流」という言葉で簡単に退けるには、あまりにも切実な根拠を持っているように思える。薩摩侵攻400年、琉球処分130年の社会的関心の高さが逆に照射しているのは、沖縄の現状の困難さとその打開を模索しようとする危機意識の顕在化であることを強く感じた。(2009.12.29)


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