制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2006-09-19
改訂
2024-03-10

福田恆存氏について(よくある質問)

人となり

福田恆存氏の生涯・思想・業績を簡單に教へて下さい
大正元年生。平成六年死去。
評論・劇作・飜譯で活躍。「人間の諸問題は全て物質的な手段で解決出來る」といつた現代人が陷り勝ちな考へ方に反對し、失はれつゝある人間性の恢復を主張した。
イデオロギー的・政治主義的な物の見方が、黨派の利益を目的としたものであるがゆゑに、屡々人間性を缺いたものとなる事を見拔き、機械的・現代的な議論が無頓着になされてしまふ風潮に警鐘を鳴らした。現代社會の樣々な問題を見る際には、人間的な物の見方こそが必要であると主張し、實踐した。
論文では逆説的な言ひ方が多用され、すぐれた事實の分析と論理展開を含みながら、多くの誤解を招いた。逆説を逆説として受容れる精神的な寛容さが日本には必要であるとして、誤解の生ずる事も承知で逆説を用ゐ、日本に逆説の受容れられる土壤を作らうと考へてゐた結果であるが、高蹈的に過ぎるとして拒絶する人も多かつた。
評論は論理的で、筆鋒鋭い論爭家として知られた。現實主義の立場をとり、夢想的な觀念論を批判する一方、精神の存在を省みない主張もまた現實主義の名に價しないとして排する立場をとる。所謂保守派に分類され、左翼・共産主義者から大變に嫌はれた一方、政治主義的な保守主義者からも疎んじられたと云ふ。晩年には執筆出來る雜誌が極端に減つたが、松原正氏によると猪木正道の壓力であると云ふ。寧ろ左派知識人の中に高く評價する人が存在し、呉智英、柄谷行人が黨派を越えて支持を表明してゐる。
平和主義論爭で一躍注目を浴びたが、後年「人間不在」の防衞論も批判した。
シェイクスピアの飜譯で知られる(第四囘讀賣文學賞受賞)。ヘミングウェイ『老人と海』はロングセラーとなつてゐるが、餘り米文學に關心はなかつた。大學院でD.H.ロレンスを專攻し、多大な影響を受けた。「チャタレイ裁判」では辯護側の證人として出廷した。
劇團雲・欅を主宰(雲分裂後は殘つた團員をまとめて劇團昴を主宰)。現代演劇協會を設立した(同協會理事長)。劇作には「龍を撫でた男」「解つてたまるか!」等の戲曲がある(小説は極めて少い)。多くの舞臺を演出した演出家でもある。
戰後の國語國字改革を激しく非難し、「國語改革の御目附役」を以て自任した。著作は、一部の例外を除いて全て正漢字正假名遣で書かれてゐる。國語改革の問題を指摘した文章は世間に多數あるが、その中でも福田氏の『私の國語教室』は名著として名高い。
千九百六十九年、京都産業大學教授に就任。千九百八十三年三月で定年退職。
福田氏の著作は何から讀めば良いですか?
活動が戲曲、評論、飜譯と多岐に亙る爲、これと一つに絞り込む事は困難です。
主要な業績は、「福田恆存全集」で主な評論と戲曲が、「福田恆存飜譯全集」で海外文學の飜譯が纏められてゐます。何れも文藝春秋刊(絶版)。
「福田恆存評論集」(麗澤大学出版会・完結)、「福田恆存戲曲集」(文藝春秋・完結)、「福田恆存対談・座談集」(玉川大学出版部・續刊中)が現在入手可能です。
『私の國語教室』は代表作の一つです。福田氏自身は後世この本だけでも讀まれてほしいと希望してゐたやうです。
シェイクスピアの飜譯は、現在でも殆どが新潮文庫で讀めます。
ちくま文庫から『私の幸福論』が出てゐます。割と入手し易いものです。
講談社文藝文庫から『福田恒存文芸論集』が出版されてゐます。新字新かな表記に改められ、内容が特殊なので、初めて讀む人には手放しでおすすめ出來ません。根本的に後の著作と思想が變つてゐる訣ではないのですが、後の文章に比べて文體に特徴があり、讀み手は初期の作品である事を意識して讀む必要があります。「日本人はレトリックに慣れる必要がある」と云ふ事で意圖的に採用された書き方なのですが、それを屡々「アンチ」の人々が曲解し、攻撃の根據とする状況が實際にはあります。「解る人」にはとても面白く讀めるものですが、誤つた讀み方を殊さら「する」人にはちよつとおすすめ出來ません。
初期の日本人作家を論じた文章は、必ずしもおすすめしません。それよりも『西歐作家論』としてまとめられた歐米作家に關する文章の方がおすすめ出來ます。但し、ジョイス論は今一つの出來です。D.ガーネット論も、作家が一流でない事を承知して讀む必要があります。
『人間・この劇的なるもの』は、演戲と個性の問題を扱ひ、屡々代表作と言はれます。新潮文庫で再刊されました(2008年)。
『藝術とはなにか』は、福田氏が自然觀・藝術觀を率直に語つた著作です。福田氏のD.H.ロレンスに關する飜譯(『默示録論』等)と合せて讀むのが良いと思ひます。
福田恆存の戲曲は、どれを讀んでも良いでせう。「解つてたまるか!」は、モデルにされた事件は古いものですが、現在でも樂しく讀めるものであるやうに思はれます。「総統いまだ死せず」は、日本文学大賞を受賞した戲曲ですが、福田氏の戲曲の中で一番最初に讀むべきものとしてはおすすめ出來ません。たまに劇團の公演があるものもありますが、事前に戲曲を一讀しておくのは良い事だと思はれます。
選集であり、既に絶版ですが、「福田恆存評論集」は「福田恆存入門」として手頃なものであつたやうに思はれます。評論に關しては主なものが網羅されてをり、古書店でも比較的容易に入手可能です。
福田氏の保守主義・保守思想について教へていただけませんか?
三島由紀夫や西部邁、或は西尾幹二と言つた保守主義者の人々と對比されたり類似性が指摘されたりしますが、根本的な部分でさうした人々と福田氏とでは發想が異ります。彼等の保守主義が政治的なものであるのに對し、福田氏の「保守的な態度」は、文學的・文明史的な發想に基くものと言へます。福田氏の政治的な態度は「結果として政治にも注文を出す事があり得る」と云つた程度のものです。政治的な解決に飛びつくのではなく、それ以前に「國民」の態度・常識を涵養する事を目指したものと言へるでせう。
福田氏は、歴史は少しづゝ進んで行くものであり、(歴史的・歴史學的な意味で――科學的な意味・唯物論的な意味ではなく)必然的に「段階」を蹈んで行くものである、と考へてゐたやうです。それは、マルクス主義の言ふやうな必然論の主張ではなく、飽くまで歴史的な必然性と云ふ事の指摘であり、漸進論である一方、進歩を認める發想でもある、と言へます。ただ、その進歩は、飽くまで自然な進歩である事が重要だと福田氏は考へてゐました。勿論、それは理想論であり、福田氏の良く知つてゐたイギリスでさへも、決して「完全な歴史」を實現した訣ではありません。けれども、さう云ふ「理想的・自然な歴史」を想定し、それと現實の歴史とを比較考量する事で、我々は現實の歴史の進行について判斷する事が出來る。革命と云ふ現象は、さう云ふ「自然な歴史」の觀點から言へば、遲れた文明が先行する分明に一擧に追附く爲、人爲的に行はれる試みであると云ふ事になります。
「日本は近代史において、先行する西歐文明に追附く事を目的としてゐた」と福田氏は見ました。そして「その目的は現在も變つてゐない」と云ふのが、福田氏の特徴的な見方であると言へます(この點、所謂保守主義者・右翼と異り、客觀的です)。既に述べた通り、先行する文明に一擧に追附く爲に行はれるのが革命ですが、それに對して漸進主義を主張するのが福田氏です。もつとも、それは革命が屡々不合理な・非合理的な方法を採用するからであり、それに比べれば、徐々に改めて行く方が無難である、と云ふのが福田氏の發想にはあります。
「西歐に追附く爲」日本が採るべき方法として、性急な革命が危險である事を指摘しつゝ、福田氏は、「理想的な・自然な歴史」の綜合的な攝取が必要である事を主張してゐます。非常に荒つぽい纏め方ですが、西歐の歴史は、古代文明に對する反動として中世が齎され、中世に對する反動としてルネッサンスや宗教革命が生じ近世が齎された、その近世はフランス革命からロシア革命を經て徹底化される一方、第一次大戰から第二次大戰にかけて反省されるやうになつた、と、さう云ふものであると言へます。この間、歴史的に樣々な思想が發生し、それらが互ひに影響を與へ合つて、全體として西歐の近代文明が成立してゐます。その中で殊さら一つを取出して徹底化させようとする傾向が日本の思想家には多いのですが、それに福田氏は反對します。福田氏は、全體として西歐の近代文明を丸呑みする事――その爲に、西歐が近代に至るまでの過程として含んでゐる全ての思想を理解し血肉化する事、それこそ日本人が西歐化するには必要である、と主張するのです。
例へば、保守主義の思想では屡々單純に個人主義が攻撃目標となりますが、福田氏において個人主義は「個人主義を超克する大前提」として豫め理解されるべきものとなります。ですから、個人主義であると同時に、個人主義を乘越える事を、福田氏は主張します――が、それは現實には不可能な事であり、福田氏の主張も正確にはさうではありません。福田氏の主張は、保守思想家が現實の社會變革が可能であると考へるのに對して、極めて實現困難である事を承知の上で主張される理想論であると言へます。個人主義にしても、個人主義の超克にしても、福田氏は日本人が完全に理解出來るものとは考へてゐません。その點、或意味悲觀論なのですが、しかし、皮相的であつても兔に角日本人は(例へば)個人主義の理解と個人主義を乘越える發想とを同時に理解しなければ、それらを既に通り過ぎてゐる西歐に何とか追附いて行く事は出來ない、と云ふ發想です。
かうした發想に基いて、演劇にしても、平和論にしても、或は國語問題に關する提言にしても、福田氏は、日本人の物質的・現實的な生き方許りでなく、精神的な生き方に焦點を當てて、語つてゐるやうに思はれます。
なほ、日本の西歐化に對して、消滅しつゝある日本的なものについても、福田氏は意識的であり、目配りを忘れてゐません。此處では詳細に論じません。
福田さんは何んな宗教を信じてゐたのでせうか。
特に何教の信者であつたと云ふ訣ではないと思ひます。
キリスト教のカトリックには強い關心をいだいてゐたと言へますが、その關心は、知的興味の類でないにしても、飽くまで「知るべき對象」としての關心の域に留まる物に過ぎないでせう。カトリックは、福田氏にとつては、理解すべき他者としての西歐人が信ずる宗教・近代の西歐人が反撥する對象としての宗教と云ふ事で、自らの物とは考へられなかつたに違ひありません。ただ、日本人にとつて異質の存在であるキリスト教が、日本を支配しつゝある近代と云ふものの根柢にある事を強く意識してゐた事は慥かです。福田氏には、さうしたキリスト教を、單純に排撃するのでなく、一面的・皮相的であつても、理解し、受容れる事によつて、なんとか超克したい、と云ふ意志が感じられます。尤も、その超克が「可能である」とまでは考へられなかつたのであり、それゆゑ福田氏は何うしてもキリスト教への信仰と云ふ物を持てなかつた、と言ふ事も出來ます。ロレンスの「死んだ男」を譯してゐるのを見ても判る通り、福田氏には「神の子としてのイエス・キリスト」と云ふ認識・信仰はありません。
「私は天を信ずる」と云つた發言があつたとも傳へられますし、また、福田氏を「神道の信者であつた」と松原正氏が評したのを佐伯彰一氏が眞に受けた事もありますが、儒教や神道の(文字通りの意味での)信者であつたと言ふ事も出來ないでせう。孔子を聖賢として崇めると言つた態度は、福田氏にはありません。「孔子教團」と云ふものがあつたとしても、そこでの孔子の態度は人間的なものであつたのだらうと福田氏は考へてゐたやうです。福田氏の孔子の理解が儒教の正しい理解か何うかは檢討の餘地がありますが、それが誤解であつても誤解の仕方に福田氏らしさが顯はれてゐる事は否定出來ません。
飽くまで常識的である事を自らの立場とした福田氏ですから、一般的な日本人の「無宗教」の態度を自らも取つてゐたと言つて良いと思ひます。ただ、其處には一種のヒューマニズム=人間主義があり、人間に對する信頼と云ふものがあつたやうです。

書誌・刊本

福田氏の○○と云ふ本を手に入れたいのですが、何處で手に入りますか?
多くの著書の初刊本は絶版です。さう云ふ本は古本屋さんで探す必要があります。(當方は古書の探索を受附けてゐません、惡しからず)
現在も新刊で入手可能な本は、Amazon.co.jp ホーム:等のオンライン書店、或は御近所の本屋さんで注文すれば、手に入れられます。
新潮社から「著作集」「評論集」が、文藝春秋から「全集」「飜譯全集」が出てゐましたが絶版です。麗澤大學出版會から新しい「評論集」が刊行され、主な著作は讀めるやうになりました。文藝春秋からは「戲曲集」が刊行され、戲曲と共に演劇論も纏められてゐます。玉川大学出版部からは「対談・座談集」が刊行中されました。
福田氏の人物を知るには何んなものを參照すれば良いのですか?
福田氏自身の著作に當るのが基本ですが、福田氏について書かれた文獻に當つて自分の主觀を相對化する事も必要です。
川久保剛『ミネルヴァ日本評伝選 福田恆存 人間は弱い』(ミネルヴァ書房)
福田恆存の生涯を順に追ひながら、その主張を概觀する評傳。非常に叮嚀に調べてある、と云ふ印象です。他では見られない資料も掲載してゐます。最初に接すべき文獻としておすすめできますが、よく讀み込んでゐる讀者にも興味深い内容が含まれてゐます。
土屋道雄『福田恆存と戦後の時代 保守の精神とは何か』(日本教文社)
土屋氏はもと自衞官で、國語問題協議會で福田氏を手傳つた人物。本書はまとまつた内容の福田論としては最初のもので、基本文獻と呼べるもの。著者の知る「私人」としての福田恆存も描かれてゐて、興味深い本です。
井尻千男『劇的なる精神 福田恆存』(日本教文社/徳間書店・徳間文庫「教養シリーズ」)
福田氏の思想に絡めて著者の思想を語つたもの。基本文獻。
中村保男『絶對の探究 福田恆存の軌跡』(麗澤大學出版會)
飜譯における福田氏の一番弟子だつた中村氏。福田氏の思想・信條を叮嚀に説明してゐます。
松原正「福田恆存氏の逝去を悼む」
松原正「福田恆存の思ひ出」(國語問題協議會講演/國語問題協議會會誌「國語國字」(平成十七年四月二十日發行・第百八十三號)に筆記が掲載)
演劇・英文學・文明批評において近い立場にあつた松原氏。生前の福田氏のプライヴェートな生活までも知つてをり、「福田氏の事を論ずる積りはない」――「第三者の立場から論ずる」事は愼む、としながらも、福田氏の思想の本質に迫る鋭い批評が見られます。また、松原氏の批評は、福田氏も認めたもので、福田氏を理解する上で參考になると思はれます。
浜崎洋介『福田恆存 思想の<かたち> イロニー・演戯・言葉』(新曜社)
福田恆存の思想を體系的に扱つた評論。よく見かける福田批判もとりあげて檢討・再反論を試みてゐます。福田氏の個別の主張について、それだけで考へるのでなく、その據つて來る源泉の根本思想を探り、福田思想の全體としての姿を明かにしようとしてゐます。好意的な思想研究として良く出來てゐます。
前田嘉則『文學の救ひ――福田恆存の言説と行爲と――』(郁朋社)
主に初期の文學論をベースに「人間の生き方」を福田恆存から學ばうとするもの。よく纏まつてゐます。福田恆存氏のシェイクスピア劇の飜譯は見事なものだと思つてゐるし、福田氏の演劇論にもおほむね贊成なのだが、例へば『平和の理念』(新潮社)や『日米兩國民に訴へる』(高木書房)などに述べられてゐる福田氏の保守反動的な政治的信條にはとてもついてゆけない、と告白した演劇好きの青年らしき氣配が見え隱れてゐるのには注意が必要ではあります。野嵜はこの本の著者・前田氏に、ネットで煮え湯を飲まされた事があります。
遠藤浩一『福田恆存と三島由紀夫』(麗澤大学出版会)
持丸博・佐藤松男『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』(文藝春秋)
「同じ保守派」ながら大いに發想の異る二人を比較して、その思想の特徴を際立たせようと云ふ試み。
竹内洋『革新幻想の戰後史』
「平和論の進め方についての疑問」「解つてたまるか!」が――そして「保守反動」の福田恆存が――出現した「戦後」と云ふ時代を論じてゐます。
呉智英
福田恆存氏を「保守思想家」として高く評價してゐる左派知識人の一人。「素晴らしく頭の良い敵」として福田氏を評價してゐます。福田氏の批判的な研究が出來る筈の人ですが、まとまつた福田論はありません。
西尾幹二、西部邁
「保守主義者」として福田恆存を評價しようとする人々。基本的に政治的な物の見方をする人達なので、福田氏に「保守主義者としての缺陷」も見出さうとしてゐます。
福田和也
案外まともな評價をしてゐます。
坪内祐三
體驗に基く報告は參考に出來ます。
その他の福田論
福田恆存への言及で、取敢ず見附けられた文獻類を纏めてゐます。ここに記載されてゐないものも多數あります。評價は樣々。毀譽襃貶喧しい。
福田氏/D.H.ロレンス/T.S.エリオット/シェイクスピアについて研究してゐます。福田氏が飜譯に使つた底本を調べたいのですが、何か御存じではありませんか?
當方は、必ずしも英文學を專門に研究してゐるわけではないので、詳しい情報を提供出來ません。殆どの場合、福田氏が出版時、あとがきや解説に記した情報しか、當方も知りません。
大學生・大學院生の方は、先づ御擔當の英文學の先生に、或は大學の圖書館に御尋ねになるとよろしいかと存じます。
福田氏/D.H.ロレンス/T.S.エリオット/シェイクスピアについて研究してゐます。福田氏が飜譯に使つた底本を手に入れたいのですが、何か御存じではありませんか?
かなり古い時期の刊本である事が多いので、「全く同じ版」を手に入れるのには苦勞するでせう。洋書を扱つてゐる古本屋さんに尋ねるのがよろしいかと存じます。例へば、神保町には、洋書專門の古書店として、北沢書店や小川図書等があります。正直に申しますが、學生さんが個人で入手するには高價ではないでせうか。矢張り先づ、學校の先生に相談すべきだと思ひます。