福田恆存氏の逝去を悼む

 きのふ福田先生の死に顔をじつと見つめてゐて、私は小林秀雄さんの表現を思ひ出した。昔、小林さんが或人に「福田恆存つて清潔な鳥みたいな人だな」と云つたらしいのである。それを当時大学生だつた私は、文芸雑誌か何かで読んで知つたのだが、たうとう先生の死に顔を眺めねばならぬ事になつて、小林さんの表現通りのお人柄だつたとつくづく思つた。

 御厚誼を受けて四十年、先生は私に嘘をおつきになつた事が一度も無い。これはちと卑怯な或いは身勝手なお振舞だなと思つた事も、これまた、ただの一度も無い。「召使にとつては英雄もただの人」といふ意味の英語の諺があるけれども、四十年間、ただの一度も弟子に弱みを見せないやうな師匠は滅多にあるものではない。

 学生時代は、屡々大磯の御宅に泊めて戴いて明け方まで話し込んだし、ロンドンでは一箇月間、同じホテルに滞在して行動を共にしたが、私にとつての先生は常に「清潔な鳥」だつた。先生は清潔なだけで無能な政治家を嫌つてをられたが、御自身は実に清潔で公平だつた。強者だつたからである。学生時代、盲人蛇に怖じず、先生の新作戯曲について五十枚程の批評文を書いてお見せした事がある。無論生意気な年頃だから、べた賞めした訳ではないし、べた賞めなんぞしたその時に破門されてゐたかも知れないが、先生は私の文章を丹念に読んで、私の批判のうち当つてゐると思はれる件りには二重丸をつけて返して下さつた。

 勿論、二重丸が沢山あつた訳ではなくて、「ここは勘違ひ」とか「これは誤字」とかいつた具合の書込みのはうが遙かに多かつたけれども、私はその時、生まれて初めて、私情を交へぬ学問の厳しさを教へられたのである。

 かういふ事もあつた。先生は清水幾太郎さんを痛烈に批判なさつた事があるのだが、清水さんも先生も保守派の「大御所」が対立しているのは国家の損失である、もしも御両所に和解する気があるのなら、私が「手打式」の御膳立てをしようと岸信介元首相が云つてゐる、清水さんのはうは快諾したが、福田さんの意向を確かめてくれないかと、私は遠山景久さんに頼まれたのである。そんな話を先生が承知なさる筈は無いと思つたが、私が代りにお断りする訳にも行かないから、遠山さんの話を先生に伝へた。すると先生はかう仰つた。「一俵の米を脱殻するとね、必ず十粒ばかりは脱殻されない殻粒が出るんだよ。僕の読者はね、その極く少数の脱殻されない殻粒なんだ。岸さん遠山さんの御好意は嬉しいが、僕が清水さんと和解して二人の和気藹々たる対談がどこかの雑誌に出たとしよう。すると、脱殻されない殻粒の僕の読者が「なぜそんな事が」と云ふだらう。物書きは読者を裏切つちやいけないんだ。

 福田先生は清水さんの短所だけでなく長所をも認めてをられた。清水さんとは私も面識があつたから、先生の清水評は実に公平で的確だと私は思つた。詰り、いささかの私怨もそこに交つてゐなかつた。清水さんも今はあの世にゐるけれども、新入りの福田先生を照れ臭さうに、けれども快く迎へて、「福田さん、あなたの批判は五重丸だつた」と云ふに相違無い。あの世では真心が通じる筈だから、必ずさういふ事になると私は信じてゐる。

 福田先生の死に顔は清潔だつた。亡くなられる半月前、病床に横たはる先生の右手をそつと握つたら先生は強く握り締めて下さつた。痩せ衰へた体の、右手だけが大きくて逞しかつた。あの逞しい右手に握られたペンが、「平和論にたいする疑問」以来、「左翼進歩派」の欺瞞をいとも鮮やかに剔抉して見せたから、全国津々浦々の全うな読者が溜飲を下げたのだが、自民党と社会党が「野合」したから、「これあもう駄目だな」と仰つて、晩年の先生は甚だ浮かぬ顔だつた。「僕の言論も結局は虚しかつたなあ」とも仰つた。

 先生が死んでしまはれて、私は淋しい。悲しいといふよりも淋しい。けれども、柳田国男によれば、日本人は「死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守る」のだといふ。私は柳田の説を信ずる。もう死んでもいい筈なんだが「どうやら神様が僕の事を忘れてしまつたらしいんだよ」と先生は仰つた。葬儀は仏式で行はれるが、先生も矢張り神道の信者だつたのだと思ふ。私も神道の信者だから、今、かうして先生の思ひ出を綴つてゐる私を、書斎の片隅から先生の霊が見守つていらつしやるやうな気がする。

 四十年もの付合ひだつたのに「御冥福を祈る」なんていふ紋切型だけは云はずに済ませたな、よし、二重丸をやらうと、先生が声を掛けて下さるやうな気がする。やがては私もあの世で先生に再会する事になる訳だが、その時にも二重丸を頂戴できるやう、先生に肖つて、学生に対しても努めて「清潔公平」に振舞はうと、不肖の弟子は思つてゐる。

 福田先生、ひとまづ、さやうなら。