もともと福田はシェイクスピアを譯さうとは思つてゐなかつた。落合欽吾氏との交遊の間、落合氏からシェイクスピアについて多くの知識を得てゐたが、それだけに飜譯が困難である事が判つてゐたからである。
福田は昭和二十八年九月からロックフェラー財團よりフェローシップを得て渡米した。翌二十九年四月にはイギリス、七月にはヨーロッパ大陸に渡つた。歸國は九月。
この間、福田はロンドンでシェイクスピア劇を觀てゐる。オールド・ヴィック座が、1623年に出た二折本のシェイクスピア全集を五年間で上演すると云ふ試みが始まつてをり、これを觀劇したのであつた。福田は英國の演劇を生で見て「現代人でも解る臺詞の喋り方をしてゐる」「弱強調のリズムに則つてゐて躍動感がある」事に氣附いた。私は手應へを得た、と思つた。
と『全集』第三卷の「覺書」に書いてゐる。
福田は外遊の歸途、「以後の仕事の方針」として以下の三點を定めた。
その二點めを實行し、福田は「シェイクスピア全集」を昭和三十年から河出書房より刊行し始めた。しかし、三十二年に河出書房が倒産し、刊行は一旦中絶。
少し間をおいて、昭和三十四年から新潮社より改めてシェイクスピア全集を刊行する事とした。これは昭和六十一年まで續いた。
以下の劇が飜譯された。
日本人に紹介すべきと思はれる作品から擇んで飜譯が行はれた。シェイクスピアの全作品が譯された訣ではない。
一部の作品を除いて新潮文庫に再録されてゐる。