福田さんがこの本で繰り返し説いてゐるのは、
- 文字は決して發音をそのまま寫すものでなく、意味を寫すものである。
- その觀點に立てば、舊カナづかひは決して習得に困難なものでない。
- 逆に表音主義は國語の音韻體系を根本から破壞するだらう。
- 狂信的なカナモジ、ローマ字論者が國語審議會を獨占して、國語を取り返しのつかぬ混亂におとし入れつつある。
等の諸點である。福田さんはこれを、いろんな例を引いて、たくみに論證してみせる。國語審議會の表音主義者の「隠謀」を暴露してみせるあたりは、ドラマティック且つスリリングでさへある。
IIIは右表にある通り、最初の三篇が『私の國語教室』から採つたものであるが、そこでは主として假名遣の問題を扱つてゐるので、漢字についての私見を補足する意味で「言葉と文字」を附け加へた。「國語問題の背景」の(五)「漢字の存在理由」及び第六卷「附合ふといふ事」と併讀して戴きたい。しかし、世間一般が考へてゐるのとは反對に、漢字問題よりは假名遣問題の方が重大である。なぜなら、第一に、漢字制限や音訓整理の方は始めから無理があり、現にその制限は破られつつあるからである。第二に、假名遣の表音化は國語の語義、語法、文法の根幹を破壞するからである。最後の「陪審員に訴ふ」は國字改惡運動の政治的小細工を暴露する爲に書いたもので、評論集に收めるには聊か品の無いものであるが、さういふ事もせずにはゐられぬほど低級な世界で國語國字が處理されてゐる事を知つて戴きたいのである。今後、私の仕事がどういふ方向に進むにせよ、私の目の黒いうちは、國語問題目附役の仕事だけは手放さない。私が自ら「私の仕事」と稱するものに全く無關心な人も、また第六卷の樣な政治的發言にしか興味を懷かぬ人も、せめて國語問題についてだけは私に附合つて載きたい。明治以來、日本の近代化の過程において、僅かに吾々の手に殘された日本固有のものと言へば、日本の自然と歴史と、そしてこの國語しか無いのである。
卷末の「覺書四」に以下の指摘がある。
……築島裕氏……は最近、中公新書の一つとして、「歴史的仮名遣い──その成立と特徴」といふ本を「現代かなづかい」で出してゐるが、その冒頭に師の時枝先生を懷しみ、先生はその歴史的假名遣しか用ゐず、自分もまたその例に倣つてゐるといふ、その人が「現代かなづかい」を用ゐ、「歴史的假名遣」について一體何が書きたかつたのであらう。
戰後の國語政策は人體實驗をやる以上の暴擧だつた、と云ふ帶の惹句は、時枝氏による推薦文からの引用。
原文の「明か」(単行本・ 新潮文庫・中公文庫)を本文庫はすべて「明らか」に改竄してゐる。
『倉皇』も『蒼惶』のはうが相應しいと思ひます。
第五章「国語音韻の特質」の「五 音便の表記」の項で引用されてゐる新井無二郎の文章(文春文庫版〔272頁−273頁〕)は、同氏の論文「史的假名遣の根本原理と發音式謬妄論」(昭和31年6月25日駒沢大学図書館謄字印刷部発行・非売品)9−10頁にある。
第五章は本書の初出誌『聲』には無く、単行本で初めて登場したが、それ以後今回の文春文庫版まで一貫して、新井氏の文章のうち「息を吹いて發する音」の箇所が「息を發する音」と引用され、「吹いて」が脱落してゐる。
新井氏が福田氏にこの論文を送付する際に「吹いて」を削除した可能性がなくもないが、駒沢大学図書館が所蔵する論文〔謄写刷〕では「息を吹いて發する音」となつてゐる。文春文庫版272頁-4行にも「吹き出す気息の音」とあるから、福田氏側が「吹いて」を脱落した可能性が高い。
〈狐〉に據る書評もウェブで讀めるが、終りの二つの段落が餘計。