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片栗の花 三月二十五日 |
万葉集に「もののふの八十(やそ)をとめ等が汲みまがふ寺井のうへの かたかごの花」(大伴家持)とうたわれている可憐な花。風に揺れるすがたは、ほんとうにさんざめく乙女たちのようだ。 万葉の昔は人里近くにも咲いていたのだろうが、今はすくなくなってしまった。 庭の片栗は山奥の送電線の工事で潰されるところから採ってきた。愛らしい花から消えていってしまうように思うのはこちらのこころのせいだろうか。 片栗の根は深い。球根をちゃんと掘り出すのはなかなか大変だ。片栗粉として使えるほど採るのは随分大仕事だろうとおもう。葉も食べられると聞いたが、まだ試したことは無い。こんな壊れやすそうな花の葉を食べようという気になれない。咲くとは身を裂くことなのだ。その花の上に昨日は雹が、今日は霰が降った。 片栗の葉を打って 高いところを人は踏みたがる 片栗のかなた悲鳴と夕影と 薫 |
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春蘭 三月十八日 |
なんの世話もしないのにシュンランが我が家の庭先に今年も花をつけてくれた。別名を「ほくろ」とか「じじばば」というのも、他の花々のような若やかな華やぎとは別種の趣のせいだろう。しかし翁、媼のようだというのは美しくないということではない。花伝書のひそみに倣って、時分の花ではない、真の花をそこに見たのだろう。たしかに蘭科の花は一般に花持ちがいい。まさに闌位の花なのである。 春闌は日本に自生する蘭のなかでも地味でいつのまにか咲いては消えている、どことなく孤独な花だ。 池大雅(プロ中のプロの画家で文人というには当たらないかもしれないが)の蘭は、毅然として風に香っている。しかも一茎九花の中国蘭が多い。内面の孤高と高貴がしのばれる。 そのほのかな香りを楽しんで、酢漬けにして食べたり、塩漬けにして蘭茶などにもする。この季節の煎茶席の盛り物に長々と根を見せてつかわれたりもする。蘭の、股引をはいたような白く太い根は面白い。いかにも脆そうなこの植物の不思議な生命力を物語ってくれるようだ。 春蘭や笛盤渉(ばんしき)に聖霊会 薫 法隆寺の聖霊会(しょうりょうえ)は三月二十二日。蘇莫者(そまくしゃ)の舞はたった一人ふっと舞台にあらわれる。笛役がやはりひとり盤渉調の笛を吹く。笛をふいているのは聖徳太子、その笛に合わせて舞うのは山神だという。奇妙に孤独で狂おしい舞いに、風にゆれるシュンランの姿を連想した。 |
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藪椿 三月十日 |
椿にはたくさんの品種があるが、わたしはこの藪椿が一番好きだ。万葉集に歌われているのもきっとこの椿だろう。 「つらつら椿つらつらに」と言うとおり照葉の日につややかに輝くさまは、なるほど的礫とはこういうことかと思わせる。きりっとした花との対比も美しい。 日本海側には雪椿が自生するはずなのだが、どうもよくわからない。家の前のこの花も普通の藪椿のようだ。 人魚の肉を食べて不老不死を得た八百比丘尼の手にしていたのも椿だった。若狭の、お水送りの行われる鵜の瀬の奥が比丘尼の生まれた土地とかで、今では墓も作られている。 そのあたりの山には椿が多い。白石神社の境内は椿の原生林がほんの少し残してある。 送水会過ぎけり椿落ちやまず 薫 |
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黄連の花 三月三日 |
黄連の花はいつも雪解けの雫の音のなかに咲いている。北側の、湿気の多い日陰の場所に星のような小さな花をいつのまにか掲げている。小さな花も茎も濡れている。草の下に水が流れている。花の後かざぐるまのようなかたちの実になるのも面白い。 地味な花だけれど早春の光を集めて懸命にさいている。茎の曲線に個性があって屈みこんで見ると星の子供達のゆっくり舞っている姿のようだ。家の周りにある花はなぜかみな小さいが普通は高さ三十センチほどになるのだそうだ。根は漢方薬の健胃剤や黄色の染料としてもつかわれる。 りんりんと風の粒子の黄連に 薫 |
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紅梅 二月二十四日 |
木の花は濃きも薄きも紅梅、と枕草子にある。散歩の途中でみかけたこの木はとても淡い色だった。菜畑の残雪の上に、ほのぼのと薄紅の花冠をかかげて、春のことぶれのように立っている。トゥで立ったバレリーナのように。 風はまだ冷たく細い幹が寒そうだ。それなのに蕾を裂いて咲き出さなければならない。こんな山影に、誰に見られるでもなくて。ただ時がきて咲いている。それがどうしてこんなに美しいのか。 うぶすなや紅梅の隅ふるへをり 薫 |
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沫雪 二月十七日 |
春めくかと思えば、また雪になる二月の空。融けやすい泡雪が枝をしずる音をきいたことがありますか?窓から眺めていると、杉林のあちこちで雪が滑りおちては枝を揺らしています。音というより静けさのなかに響きだけが伝わってくるような、かすかなかすかなざわめき。 雪の後の空はやわらかそうです。そして二月の日の光は他のどの季節よりも、率直に木の幹に落ちてくる。林のなかの空間は枝から零れる雫でキラキラしています。 幹に触れれば濡れている。幹の周りから、まあるく雪が融けて山中が水の輝きの中にふるえています。水とはなんと美しいものなのでしょう。私の中の水も浄化されるようなきがします。木々を濡らしては消えてゆく二月の雪。 沫雪やしづかに鳥の落すもの 薫 |
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雪解 二月十日 |
琳派の絵のようでしょう?この画面。実は右下は白い雪が残っているのです。とびとびの若緑は芹の芽。雪の下でかなり成長しています。暖冬傾向の昨今ですから、雪が消えて地面が現れたからと言って、それほど特別な感慨もなくなりましたが、小さな草の新しい緑を目にするのはうれしいものです。 ひたすら芽吹くすがたはどれもみな可愛くて、雑草とわかっているものでも、しばらくはそのまま眺めていたくなります。 去る二月五日は東大寺の修二会をはじめた実忠の忌、といわれています。雪深い若狭の寺でもお水送りまで行はつづけられています。奈良へ流れてゆくという遠敷(おにゅう)川も雪解水ににごっていることでしょう。一面の残雪の中、古い寺寺を回ったときのことが思い出されます。雪は地面に近いほうからはげしく融けていて神宮寺の山門から本堂に至る道は雪解の響きに満たされていました。 天地にしどろもどろの雪間草 おるか |
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雪折れ 二月三日 |
冬の間、撓うだけ撓っては雪を振り払っていた枝や竹が立春のこの時期、雨交じりの重い雪に耐え切れなくて折れてしまう。窓の外にいつも眺めていた欅が倒れたのも去年のいまごろだった。遠雷のような音がした。竹が折れる時もバーンとかなり大きな音がする。夜中に遠く近く竹の折れる音を聞いているのは、寒さが身にしみていやなものだ。 天使の窒フように白く野山を覆っていた雪が消えると、その下は折れた木の枝や崩れた岩、小鳥の屍などの、累々とひろがる一年で最も荒れ果てた山の景だ。 一竿の竹折れて春はじまりぬ 薫 |
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蝋梅 |
雪の日の庭に咲いた蝋梅の花。真直ぐな枝から、その名の通り蝋細工のような花が咲きいでてくる不思議。透き通った質感の花びらはいかにも壊れやすそうで、雪の重さにも砕けてしまいそうだ。 蝋梅や氷の花を天に吊り 薫 |
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冬木の芽 |
湖北の風景が好きで時々出かける。いつも、なぜか冬の日が多い。木之本で高速道路を降り尾上港まではすぐだ。遠く伊吹山が新雪に輝いている。湖面を吹く風は荒く、鳰の群れがかなり高い濤を乗り越え乗り越えして揺られているのが、いかにも健気なふうで可愛い。枯れた葭のなかを小鳥の群れが移っていく。廃船が枯れ色と一つになって、砂に埋もれている。長く伸びた砂州に冬木の列が細い影を曳いている。 単調な景色は、自分は今までよく生きたろうかとか、取り返しのつかない思い出とかを、考えさせる。風が冬木をざわざわ揺らす。冬木の芽がほんのりと明るい。何処からか、音楽が聞こえる。 冬木の芽人に耳翼といふつばさ 薫 1/20 |
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