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初秋の山道 八月二十六日 |
秋とはいえ、まだまだ草いきれの山道。 林道は村の人が時々草刈をしても、すぐにまた草に覆われてしまいます。 山上にジャズ終わりけり猫じゃらし 薫 |
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秋の水 八月十九日 |
写真は家から山道をすこし行った所の、お地蔵さんの生水(しょうず)と呼ばれている湧水です。雨の少なかったこの夏にも澄んだ水は涸れることがありませんでした。水を汲もうとした時、スズメバチが縁にとまってこぼれる水をこくりと首を垂れて呑み始めました。とても静かに真面目に飲んでいました。 始めから過ぎ去るものとして、岩の中から奔リでてくる水。水のイオンはとても変化しやすいという。外部からの刺激に敏感に反応し、そのイオンの形をしばらく保つという。それは水の記憶ではないか。水の記憶を濁らして、私はまた手に掬ぶ。秋の日の、石の匂いの水である。 往く人のみな秋水に触れにけり 薫 |
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南瓜の花 8月12日 |
苗を植えたのでもないのに、いつのまにか庭中這いまわっている南瓜の蔓。 元気な黄色の花を次々つけて。窯場のガスのレバーにまで絡み付こうという気色です。花の下には小さなピッカピカの南瓜のベイビーが、もうちゃんとできています。 ゆったりした葉のひなびた風情がいいので壷に活けようとしたら、回りのものにしっかり絡み付いていて大変でした。それでも一旦活けたら根でも生やしたように生き生きしています。生命力いっぱいの南瓜。雨上がりの光の中でちょっと渋い顔。 南瓜煮る雨に矜羯羅童子見て 薫 |
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姥百合群落 8月5日 |
杉木立の中、茗荷の藪の上に高々と花を掲げる姥百合の花また花。 巨大なアスパラガスのような蕾から壊れやすい花弁がほぐれてきます。 人の背より高い長大な茎に緑色を帯びた渋い花が風に揺れるとも見えず聳えているのに、やはり草本だから、しばらくすると消えているのが淋しい。 山姥のゆらりと立てば姥百合や 薫 |
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茗荷の緑 7月29日 |
道脇に自然のままの茗荷の藪です。雑草として刈られてもちゃんといつのまにかまた生えている。茗荷の子も採り放題です。素麺の薬味に青々した若い茗荷もおいしいもの。 そろそろ茗荷の花の咲き出すころです。淡黄色の不思議な花。花が咲いてしまうとぶかぶかになってしまって味は当然落ちます。 身をくだつとは月色に花茗荷 薫 |
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仕事をしていると、川で子供達の遊ぶ声がします。あぁ、もう夏休みなんだなぁ。毎年毎年この淵に子供達はやってきて一日中泳いだり浅瀬にダムを作ったり楽しそうです。 水よろこばす天才や夏休み 薫 7月22日 |
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葉隠れの滝 |
岩の間を奔りおりる小さな滝。 この山やすだくみどりに滝走る 薫 |
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姫蓮とモリアオガエルの卵 2001/7/8 このあと、大雨が降り、孵る前に落ちてしまいました。下にはイモリがいるというのに。(オットセイ) これは実は庭のさほど大きくもない石の水槽の景色なのです。 星合や水あをあをと卵をゆるし 薫 写真の卵だけでなく、命を受け入れる水というものを |
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清澄糸ごけ 2001/7/1 |
初めて見つけた時はサルオガセ(猿尾枷)かと思い、それは珍しいと喜んだが、どうもハイヒモゴケ科のキヨスミイトゴケらしい。しかし珍しいには違いない。右の欅の幹にもかなり上まで苔が着いていて、そんな湿ったところの風景です。(オットセイ)
最も無力なもののようでいて、どんなところでも生き抜いていく地衣類の生命力の不思議。雨の日はその緑があやしいまでに美しくみえます。 一遍上人絵伝も雨の端居かな 薫 焼物のデザインに疲れてなんとなく一遍上人絵伝を眺めていると絵巻のなかの雨の場面に目がとまりました。 |
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山紫陽花 01/6/24 |
小滝を後ろにした姿は別名のサワアジサイのほうがふさわしいかも。 山気の中に人を寄せ付けない風情に咲いていて、赤尾兜子の句 数々のものに離れて額の花 を思い出しました。数々のものってなんだったんだろうと考えさせられます。やまあじさいはなんとなく説明的なので、わたしも額の花で。 額の花枯れけりガレの壷にても おるか 紫陽花は朝露の消えないうちに切らないとすぐ首を垂れてしまいます。山紫陽花も水上げが難しい。エミール・ガレの壷にいれるより山深く咲いているほうがこの花らしいですね。 |
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