うつわ歳時記 季節の話題 (2001/11/11-1/13) 目次     

つらら   一月十三日

 「北国日より定めなし」と芭蕉のよんだ通り、小雪が舞うかとおもうと、雲間から急に驚くほど澄んだ光の落ちてくる、冬の一日。

小さなながれの辺に緑のまま氷に鎧われた潅木を見た。
か細い枝先にもっとか細い氷柱が少しづつ少しづつのびている。

東欧の、王様やお姫様の物語を編みこんだレース細工のように、不思議な模様を気の遠くなるような細やかさで時が編んでいる。
雲のうつろいに輝きながら、編んでは解く冬の物語。

 天地玄黄須臾をたるひのうすみどり    薫


 これはなんでしょう?抽象画?いえいえ。
ブルーベリー・ソースのジェラート?あ、ちょっと近い。
 小鳥が雪の上に食べちらかしたヒサカキの実の痕なんです。とても鮮やかな紫色.

木に生っているときのヒサカキの実は黒っぽく葉裏にびっしりついていて少々鬱陶しいけれど、雪に滲んだ色はいつ見てもはっとするほど綺麗です。

爬虫類の冷たい足を持った小鳥達、実を啄ばむときのひたぶるさ。餓えがこんなに綺麗な痕を残すとは知りませんでした。

雪の上   一月六日

 朝朝の寒禽の餓ゑさはやかに雪を汚せり汚しつくせよ

 真っ白でいるよりも汚れることは、暖かい。かな?
山里の雪の上にあるのは大概お腹をすかしたものの足跡です。

 雪汚しけり大方は食らふため      薫


水仙

十二月三十日

 北陸には珍しい快晴の一日、越前海岸までドライブしました。
ちょうど水仙が満開でした。細く開けた車の窓から水仙の物憂いような甘い匂が滑り込んできます。

 誘われてうかうかと外に出れば海からの風は冷たく激しく、断崖はきびしく、とてもゆっくり花の香りを楽しんではいられません。

 日本には本来自生しない花、シルクロードを通って、中国から渡ってきたのでしょうか。
 きびしい潮風の中にいつ、どうして根付いたのでしょう。
海になだれる断崖をうめて、「銀の台に金の盃」といわれる壊れやすそうな花をか細い茎の先に揺らしている。

 沖に雲疾し水仙の抱き重り    薫


冬苺

十二月二十三日

 冬の山道、枯れた色ばかりの中にパッと目立つ赤い色。
小さな実が寄り添って揺れている。冬苺だ。
野性の苺の仲間はいろいろあるが、このあたりで一番良く見かけるのは、蛇苺とこの冬苺だろう。

 食べて見るとたしかに苺の味がするけれど、あまり香りはなくてそう美味しいものでもない。
それでも散歩の途中でみかけるとつい立ち止まって眺める。
 柔毛のはえた蕚の襟巻を立てて小指の先ほどの小さな苺の子供達。いくつも幾つも蔓の先に固まっているのを覗き込むと、いとけないもの達のおしゃべりが聴こえてくるようだ。

一粒の日見失いそう冬苺       薫


雪吊り

 雪国の冬の風物としてあまりにも知られた雪吊り。
とはいえ、どの家でも、庭師にたのむわけではありません。

 お天気のいい昼下がり、お隣のおじいちゃんが、お庭の楓の木の雪吊りをしていました。さすがに堂に入ったものです。
黒猫のクーちゃんもおじいちゃんの手の先で新しい縄の匂をかいでいます。
このところ暖冬が続いていますが、やはり大切な庭木に雪吊りはかかせません。
 もっと背の低い潅木のたぐいはぐるぐるまきの藪巻にします。
社やお寺のまわりも雪囲いをし、お墓なども覆いをします。
北陸の冬仕度はなかなかたいへんです。

 雪吊りのききと夕空近きかな  薫  12月16日


柚子

12月9日

 庭に古い柚子の木があります。
手の届かない高い枝に残った柚子の実は、北陸の薄曇りの空のしたでも金色に輝いて小さな太陽のよう。
冬至に柚子湯をするのもきっと太陽の甦りをイメージするからでしょう。
そしてその香り。
 オレンジのような甘さの無い、ひたすらに青く秘めやかな香り。
それは柚子の木の幹にも葉にも紛れも無く刻印されていて、枯れ枝を火にくべてさえ悲しいほどに香ります。

 香りの底には、どこか逸楽的なものが秘められています
が、柚子の香の深さすくよかさは、聖人のごとく、ありふれたきつねうどんも柚子の一かけが錬金術のように高貴な食べ物に変身させてくれます。

 
ゆふづつや柚子緑金の香のゆるび     薫


落ち葉道

12月2日

 山の奥へと上っていく黄葉の道。
銀杏落ち葉の厚く積もった細いその道。
昼なのにこんなに暗い道は何処へ通じているのか。

 藍古九谷の皿にもしばしばえがかれている銀杏の葉は、
いかにもはらはらと散る時のためにデザインされたような形をしている。
枯れ葉の不思議にしなやかで拾えば指に阿る手触りも、太古から生き残った銀杏の木の生命力をかんじさせる。

 人麻呂に、黄葉のなかに亡くなった女性が迷っているという歌があった。黄色は黄泉に通ずるのか。
薄明るく妖しい黄落の道。

  黄落やふいに稗田阿礼のこと    薫


焚き火

11月25日

 裏庭で、焚き火をします。
枯れ葉や剪定した枝など、この季節焚くものにはことかきません。萩を刈った日の焚き火は大きな火になります。
この日は菊を焚きました。

 菊焚いて香を訝しむごとくゐる     おるか

 この句は自分でもよくわかりません。
菊を焚けば菊の香りがします。「薔薇の木に薔薇の花咲く」と同じくあたりまえです。
ひめやかでしんとした菊の香り。萎れかけたころますます高く匂ます。火に投じても尚一層つよく。

 菊という姿をこえて、菊の魂のようなものが、しずかに移ってくるような気がします。
香りとはなんだろうとよく思います。
香りの底にはなにか悲しいものがあるような、それが時に妖しくもみえて、不思議にこころ誘われるのです。


冬の紅葉

11月18日

 立冬を過ぎたといっても、このあたりの里山の紅葉は、いまがさかりだ。 林道を少し登った橋の上からこの大楓をみおろすと、枝のむこうにちいさな滝があって、山気が迫ってくる。流れに沿ってゆくと谷川の自然という庭師の石組みは変化に富んで、見飽くことがない。 あちこちの落ち込みにはイワナがひそんでいたものだ。

 とは言うものの足元に目を落せば、釣り人の残したらしいゴミや切れた釣り糸などがあって悲しくなる。不法投棄らしきゴミも散見する。

 橋に立つたびに、流れの上に枝を広けた一本の木の美しさに驚き、人間の落し物の醜さに悄然とする。

 若冲の鳥の目ひそむ紅葉かな   薫

 伊藤若冲(1716〜1800)画家。見ること描くことに憑かれた人だろう。若冲の鳥の目は皆見開かれて、こちらのやわな”人間性”なぞというものを突き破ってくる。

 この紅葉は川にかぶさっていて、橋の上から上流に向って撮りました。向こう側は、ちょっとした滝になっていて、そこで釣った岩魚が、僕のこの川での記録です。9寸(ほぼ27cm)でした。川の大きさにしては、ちょっとした大物です。(オットセイ)


冬の川

十一月十一日

 家はこの川の流れ出てきた山の奥にあります。
遠くに見える村落のはずれです。
真直ぐに仕切られてなんだか流れてゆきたくなさそうな川。
小さな流れはすこし濁っていますが、ウグイが泳いでいます。
平地に出て初めてゆっくりと雲を映している川。
これから町に出ればますます濁ってゆくのでしょう。

 十年も前に、一度、たったいっぴきだけさくら鱒が海からこの川を遡って産卵にきたことがありました。
一匹だけ上流の淵の手前の川砂に産卵場を作り、次ぎの朝一匹だけで死んでいました。

 風景の中を流れていく水は生き物のように表情を変えて見飽きることがありません。
冬の川はとくによく空の色を映すような気がします。

 川浪や冬の日雲母(きらら)刷くごとし     薫