うつわ歳時記 季節の話題 (2001/9/2-11/4) 目次     

裏山の
柿の木

 

 竹やぶを背に十メートルほどの柿ノ木。
ちょうど二階の階段の窓の正面にあるので、上り下りのたびに、朝は露を纏い、夕暮れには実の燎のように西日に照るのが見える。
 ある年ムクドリが何羽も窓にぶつかって死ぬ事故があった。窓に映って、こちらにも柿の木が有ると見えたのだろう。
それ以来障子と網戸で木の全景がうつらないように工夫している。
またある年は恰幅のいいヒレンジャクの群れが枝もたわわにずっしりと止っていたこともある。

 柿の木に鳥達は楽しそうに集まってくる。
冬が終わるころ甘くなった柿を小鳥達は夢中で啄ばむ、メジロ、四十雀、ヤマガラ、ヒヨドリ、他にもいろいろ。
 大きな柿の木は小鳥の楽園のようだ。
それでもよく見ると、ちょっと大きな鳥が小さな鳥を追い払おうとしたり、取り合いもある。鳥の世界も結構せちがらいようである。

 柿の木の暮れ極楽も暮れにけり     薫


 菊の花はちょっと苦手だった。
大輪の作り上げられた仰々しさ、小菊も懸崖やらなんやらとわざとらしく端整すぎるように思えた。
塵も寄せ付けぬ風情が疲れる。
 それでも路傍に見かけたこの写真の菊はしどけなくて好きだった。葉勝に丈高いのも野性的だ。
傾きかけた日におもいおもいに身をのばしている。

 子供のころ、晩御飯の天麩羅に菊の葉を庭から採ってくるよういわれたものだ。
暗くなった庭で手で探るように形の良い葉を選んではちぎると青い香りが闇にパッと立つ。
 自分で採ったものを食べるのが嬉しくてあまり美味しいというものでもなかったが、菊の葉の天麩羅はきれいに食べた。

 食用菊は好物でむしゃむしゃたべる。花を食べるのが好きなのだ。

 枝の間の空のしたたる菊膾   薫

小菊

十月二十八日


秋の空

十月二十一日

 毎日見上げる空でも、一日として同じ空はない。
あたりまえのことだが、うれしい。
ある日風が変わって秋になった。空は夏の熱気から開放されて高く高く澄んでいる。
見慣れた山の稜線の上を雲が流れてゆく。
秋の空は他のどの季節の空よりはるかだ。

 その空の下で人は様々のお祭りを行う。
農協祭にも特別良くできたお米や野菜が飾られて、秋の収穫の後の賑わいらしい人出だ。
 そこで干拓事業のパネルを見た。潟の多い低湿地だったこのあたりの農業用地が増えたと報告されていた。
潟は役に立たないという。確かにさしあたっての利潤というものはないかもしれない。
しかしそこに生息していた生き物達、飛来した鳥たちにはかけがえのないものであったはずだ。
潟を埋めてそこに映っていた空も消したのだな。

 柴山潟干されて秋の空もまた     薫


大笑茸

十月十四日

 林道沿いに生えていた、みごとなオオワライタケ。
よく見るとにんまりしているようでしょう?
 特に嫌なにおいも無くほどよく締まっておいしそうな気もしますが、食べると大笑いするとか。本当は笑っているように見える症状を引き起こすのだそうで、相当苦しそうですね。

 川上弘美の「センセイの鞄」でセンセイの奥さんが〈何よ〉という感じでこの茸をひとかけ食べて病院に運ばれるエピソードがありました。後に手品師になってサーカスの人と駆け落ちするというとても魅力的な女性を生き生きと印象づける挿話でした。

 私はもちろん食べたことはありません。 

 このごろやのどかに帰忌のどくきのこ 

 帰忌(きこ)は暦で旅、転居、婚姻などを忌む日だそうで、出不精のわたしには毎日が帰忌日です。


白花時鳥草

十月七日

 時鳥草(ほととぎす)、この花の紫色の斑点が鳥のホトトギスの胸の斑に似ているという。しかしこれは香炉峰の雪のような白花。白楽天という別名がある。
 秋草の中にいつのまにか咲いて、今にも倒れてしまいそう。
 白い花が好きなので、白花の品種ばかり集めてしまうが、ちゃんと手入れをしたホワイト・ガーデンならともかく、荒れた庭に白ホトトギスはかなり淋しい。
 雑草にまぎれて消えてしまうのではないかと、助け起こそうとして、ふと見るとあちこちに新しい小さな株が増えている。意外にタフな花なのだ。

 増殖す白時鳥草缶偏     薫

缶偏(ほとぎへん)。ほとぎとは口は小さく胴のふくらんだ器のこと。
ほとぎ偏に曇ならビン・徳利のこと。尊ならお酒をいれる甕のこと。そんな具合に器作りのメモには缶偏の字が書き散らされていく。


 遠くからはあるように見え、近づくと形がみえない帚木という木とは、何がもとになった伝説なのだろう。

 「その原や伏屋におふるははきぎのありとて行けどあはぬ君かな」(古今集)と、ははきぎははっきりしない、あまり嬉しくないものあつかいだ。

 でも私は帚木が好き。巨大なペンギンの雛みたいな格好はかわいい。夏の涼しげな淡い緑も美しいが、少し肌寒くなったある日、片側からほんのりと色づいている姿は、いじらしいような風情がある。

 ほうきぐさだからもちろん箒にもなるし、その実、とんぶりも大好きだ。
 それなのに、なぜか家の庭には生えてくれない。
苗をもらって喜んで川沿いの日当たりの良い所に植えた時など数日後に大雨で流されてしまった。
 どこにでもあるように見えて手に入らない帚木は私には確かに、ありとて行けどあはぬ君である。

 まどろみの頬や帚木紅葉して    薫

帚木の薄紅葉

九月三十日


露草

九月二十三日

 「帰るべもなきいにしへをそは露草の花のいろ」と歌われた露草のそのはるかな青。天空の色、光の青。手に取れないものの輝き。
 午後になるともう不機嫌な珠にまるまってしまう。
でもその珠のラピスラズリの色も花にまさるとも劣らず美しいと思う。萎ることもまた良し、だろうか。

 古代エジプトの王墓を飾る黄金とラピスラズリ。黄金は不壊のラピスラズリは再生の象徴といわれるが、露草の珠もまさに栄養分が再吸収されて再生に使われるのだそうだ。

 青は往古にはただ茫漠としたはっきりと定め難いものを指した。また古九谷青といえば現在の青緑に近い真夏の森の輝く濃みどりを指す。
 露草の青は染め付かずに消えてしまうので染織の下書きにつかわれるが、そのはかなさが地上にあることを悲しむ青という色の不思議そのもののように思われる。

夢の夢のゆくへ露草明かりかな   薫


穂芒

九月十六日

 

 暑く長かった夏が去りふと振り返るともう芒の穂がゆれています。
 徒然草にも、海の潮は沖から満ちてはこない。岸を振り返るとすでにみちている、と人生の過ぎ往く速さを書いてありますが、秋もそのようにいつのまにかすっかり酣になっているのでした。

 このあたりでは丁度今が芒の見頃です。
銀色の穂があちらをむいたりこちらをむいたり思い思いに揺れている。
 小さな谷の一角でも穂に出るのが少し早いもののんびりなものと色々です。
 無限の変化と多様性。それが命の姿かと思います。そしてそれは、美しい。
皆一様に同じ方を向くのは不気味です。

 穂芒の風にそむくは美しき   薫


酢橘(すだち)

九月九日

 徳島の友人が毎年送ってくれる酢橘。
小さくて固く締まってまん丸で、南国の木陰のような濃いみどり。
 その香りの清冽なこと。二つに切ってしぼれば指が痛いほど鋭く香る。
柚子の香より若く、悲しみさえ感じられるほど青い香り。

 さわやかな酸を焼き魚や鍋物やうどんに振れば、美味しいけれどちょっと淋しい。

大鍋のてんやわんやには秘めやかすぎる香りのようで。

この世の食卓には、あまりに綺麗な食べ物のようで。

 濃みどりのすだち木霊の香りかな  薫  


草の穂

九月二日

 村はずれの山の端に弥生時代から平安初期の住居のあとが発掘されたのは去年のことです。
川床の跡に沿って、小さな掘建て柱の穴がほつほつと並んでいました。
炉だったものかやや大きな丸い穴、土器の破片がいっぱいの穴。かなり長い時代にわたる、ささやかな家居の痕跡。
 山や川のたたずまいは現在とそう変わらないようだと発掘作業をしていた女性が言っていました。
その当時の人々は、川の音や虫の音になにを思ったのでしょう。

今その場所は埋め戻されて一面の稲科の雑草が風にゆれているばかりです。

 天地根源造茫茫草の絮     薫