縄文文化を巡る!  
 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・徳島編)
矢野遺跡
 2018年4月20日(金)




 徳島市国府町の矢野遺跡は、鮎喰川と吉野川に挟まれた四国山地の端っこに位置しています。つまり、眼前には、広大な平野部が広がっていて、背後の山へと分け入ると、四国山地へと繋がっています。その地理的条件こそが、縄文遺跡から弥生以降の時代へと繋がる遺跡であるものと云えます。

 このような地理的条件にある遺跡は、四国内の他地域の複合遺跡とも共通しているものです。以下に、『レキシル とくしま』のwebサイトから引用します。



徳島県立埋蔵文化財総合センター「レキシルとくしま」オフィシャルサイト

矢野遺跡(縄文時代)

キーワード

西日本最大級の縄文時代集落

概要

現在の地表面から2〜4m下層より発見された低地性の集落。1994年(平成6年)〜1998年(平成10年)にかけて行われた道路建設に伴う発掘調査により、竪穴住居跡19棟などの遺構が検出された。

 土器と石器に水銀朱が付いていたが、多くは朱の精製時についたものと見られており、朱の精製としては全国的に見ても古い段階のものである。遺物には、土器(深鉢・鉢・浅鉢・双耳壷)、石器(石鏃・石匙・石錘・石斧・磨石・台石など)がある。土器の表面はヘラ描の区画に縄文で埋めた文様によって華麗に飾られる(磨消縄文)。遺物の中で特殊なものに石棒・円柱状土製品・亀形土製品があり、特に土製仮面が注目される。顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある。

 西日本でも有数の遺構と遺物に恵まれた縄文時代の集落である。

 
徳島市立考古資料館

 

 

 

   

  


 ≪縄文時代≫

今から約1万年前、寒冷な気候は温暖化へと向かい。
日本列島の自然がもつ豊かさと多様性の基盤ができあがりました。
以後、八千年あまりにおよぶ狩猟・漁労・採集を中心
とする生活で、人々は自然の恵みを最大限に利用し、自
然に対しておごり高ぶることなく、豊かでたくましい独自
の文化を創造しました。               


≪鳥居龍蔵と城山貝塚≫

1922年、日本の民俗学・考古学・人類学の先駆者とし
て著名な鳥居龍蔵博士により城山貝塚が調査されました。 
 貝塚は城山山麓の洞穴や岩陰で確認され、縄文土器の
ほか、ハマグリ・カキなどの貝類や貝製装身具、さらには埋
葬人骨も発見されています。              
 展示模型は城山貝塚(3号)周辺での、人々のくらしを
想像復元したものです。               


≪三谷遺跡の貝塚≫

 三谷遺跡はかつて眉山の山麓で繁栄した集落遺跡で、
今から2200〜2300年前の貝塚が発見されています。
貝塚からは捨てられたおびただしい量の土器や石器、
骨角器や装身具、食料として利用した魚貝類や鳥獣類の遺骸、
埋葬されたイヌも見つかりました。            
生活遺物が大量に発見される貝塚には、人々の文化史が
埋め込まれています。                 


 上記、遺物が見つかった三谷遺跡は眉山の麓の徳島平野に位置します。その貝塚は縄文晩期という事ですが、弥生時代の初期ともいえる時期でしょう。そのことは、その遺跡の位置にあります。眉山の麓や城山という近くに適当な条件の場所があるにも関わらず、ましてや水田を耕していないにも関わらず、わざわざ平野部に住居を構える理由が判然とはしませんねぇ〜。当然、水田稲作の普及以降の日本列島に於いては、その当初から現在日本列島の住居環境とは大きくは変わらないのでしょう。
 そして、城山貝塚についてですが、遺跡が所在する城山は大河・吉野川が紀伊水道へ流れ込む河口域の広大なデルタ地域にある三角州に所在します。城山の標高は60m程度です。現在の吉野川からは2km程度(旧来、旧吉野川と呼ばれる流域と、現在の人工的な流れとは違っているように、当時の本流が何処らあたりかは分かりかねます)であり、現在の海岸線からは5km程度でしょうか。

 小生の考察、≪愛媛の古代≫はコチラから 


【AMS法による区分】

  草創期  15,000〜12,000年前
  早期    12,000〜7,000年前
  前期    7,000〜5,500年前
  中期    5,500〜4,500年前
  後期    4,500〜3,300年前
  晩期    3,300〜2,800年前



 上記展示の遺跡とは違って、考古資料館の建つ≪矢野遺跡≫のある地は、“気延山”の麓にあたります。また、上記オフィシャルサイトの言う『西日本でも有数の遺構と遺物に恵まれた縄文時代の集落である』という遺跡の位置は、水田稲作の只中に在る住居跡と思われます。遺跡から縄文土器などが出土していてもです。縄文時代と弥生時代とは、XX革命で隔てられている訳ではありません。そうなんです、“文化大革命”が起きたものでは無いのです。弥生文化が始まるには、その前には縄文文化の存在が有ります。

 縄文文化と弥生文化の違いは、どういう種類の土器を使っていたかで区別するのではありません。それらを隔てるベース(土台)は、雑穀類や堅果類から水田稲作への変更することこそが、その違いであると小生は考えます。勿論、魚介類や狩猟による獲物については、旧石器の時代から現在まで変わらない食物です。つまり、主食が肉類から堅果へと変わって、現在まで続く水田稲作による米食へと移り変わっていくのが≪旧石器時代→縄文時代→弥生時代≫の変遷と云えます。


≪土製仮面 矢野遺跡≫
県指定有形文化財




 上記“土製仮面”については、“北海道・北東北”の遺跡群を尋ねる中で同様の仮面類を見て来ていたのですが、先日、小生の住む地域で≪特別展≫が行われました。また、上の写真は昨年暮れに訪れた≪徳島県立博物館≫に展示されていました。
 特別展の様子はコチラから 


 

≪弥生時代の農具≫
 

   

≪弥生時代の工具≫
 

   

≪弥生土器≫
 

 


≪古墳時代以降≫
 

 

 さて、弥生時代以降についてはその詳細は省きますが、時代によって掘り出された遺物の多少があるのは、その場所にどのくらいの時期、どのくらいの規模の人たちが住んで居たかに依るものでしょう。短期間で移動するのと長期間に渡って住んで居るのとの比較は縄文時代の一万数千年と、弥生時代以降の二千年とを比べることの愚かさは言うまでもありません。

 勿論、縄文後期以前の住居の痕跡については、平野地や扇状地からは見出せないのが必然でしょう。そのことは、当時の生活様式や生活実態からも言えることで、各年代による住居跡がそのことを明白に物語っています。ちなみに、小生の懸案でもある『西日本に於ける、縄文後期以前の集落は少ないのか?』の疑問については、引き続いて追い求めます。


 小生の住む四国地方に於いて、上述の如く縄文後期以前の集落跡が発掘されない訳を考える上で、“高地性集落”という言葉に出合いました。以下は、wikipediaからの抜粋です。

≪高地性集落≫

高地性集落(こうちせいしゅうらく)は、日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差がある、標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。

まず、高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。



 この高地性集落は、弥生中期以降の島嶼部に限っての集落のことを指して言っています。その事は、小生が目にしている≪データベース『えひめの記憶』≫にも記されています。
 上記については、コチラから 


 しかし、上記の目的とは違う趣旨の集落が四国の山中に存在しました。それらの集落の詳細については、まだまだ未解明の点などもあり、以降の宿題でもあります。

 先日、縄文時代に先駆ける旧石器時代から縄文時代にかけての生活跡が山中から発掘されたのでした。未だ瀬戸内海が海化していない時代の事、何故、山の中へ分け入ったのでしょうか。また、その遺跡からは、縄文人が使ったと思われる“落とし穴”も見つかっています。その様子は、コチラから 


 また、前記≪高地性集落≫については、愛媛県・久万高原町の“猿楽遺跡”の例があります。
その様子は、コチラから