縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅・・徳島県立博物館
 2017年12月28日(木)
 年の瀬も押し迫った12月28日に開いている考古館は、四国内では徳島県立博物館しか該当しませんでした。徳島と云えば、12月9・10日に東みよし町と板野町へ訪れていましたが、今一つ、得心するところまでは行ってませんでした。
 このことは以前にも触れた事ですが、遺跡を発掘する監督省庁が≪文化庁≫であり、遺跡の発掘などの主幹は≪各級教育委員会≫であり、遺物の展示する場所が各地方自治体という住みわけになっているのが原因でしょう。
 この辺りの点については、北海道・北東北などの縄文館や、新潟県の縄文館などは、コンセプトがはっきりしていて、非常に見やすい展示館でした。先日の国の文化審査会の≪世界遺産に縄文遺跡群≫の推薦の件でもそうですが、小生は、位置づけをはっきりさせて、何にスポットライトを当てるかが必要ではと考えます



 徳島県立博物館では、丁度、≪ここまでわかった!徳島の縄文時代≫特別展が行われていましたので、常設展示の紹介に続いて後の項での紹介となります。


ここまでわかった!徳島の縄文時代
プロローグ   縄文時代とは

 人類は、氷河期をマンモスゾウやオオツノジカなどの大型動物を追って生き延びた後、土を焼きかためた器、土器を発明して煮炊きする調理法を知り、食料にできる動物・植物を増やしました。石の道具も磨いて割れにくい斧を創ることを覚えます。やがて温暖化が進み、海水面は約100m上昇したとも言われ、植生も大きく変わります。日本列島の東半分はナラなど落葉広葉樹の森がひろがり、西日本ではカシやシイのような常緑広葉樹の森が広がります。シカやイノシシのように小形ですばやい動物の狩りのために弓矢が発明されます。豊かな自然につつまれながら、野生の動物や植物を食糧とし、社会を作って暮らしたのが縄文人と呼ばれる私たちの遠い祖先です。
 近年は、「エコな生き方」の縄文人、という文明批判を込めたイメージもありますが、徳島で縄文時代のことが、どのように発見され、いままでに何が明らかになっているのか、紹介していきます。





≪左写真から館内の様子≫
  


≪左写真から順に、徳島の自然と歴史≫
   


≪左写真、日本列島の地帯構造≫ ≪右写真、チロサウルス≫
 


≪左写真、日本列島の始まり≫ ≪右写真、中央構造線≫
 


≪左写真、サヌカイト≫ ≪右写真、ナウマンゾウ(複製)≫
 

≪日本列島の誕生≫


 ≪ゾウのきた道≫

 日本列島の第四紀前期の気候は比較的温暖で、多くの亜熱帯〜暖温帯の動植物が生息していた。日本列島が大陸と陸続きになると、南アジアや中国北部に起源をもつ動物が分布を広げた。
 更新世中期になると気候がしだいに寒冷化し、寒帯や亜寒帯の動植物が日本列島に侵入し始めた。しかし、温暖な気候を好む動植物は間氷期にはまだ広く見られた。この時代になると、氷河の融解と凍結による海面の上下動により、地球上には何回もの寒い氷期と、温暖な間氷期が交互に訪れ、氷期には日本列島と中国大陸はしばしば陸続きになった。
 更新世後期の日本列島には、ナウマンゾウやヤベオオツノジカのような冷温帯の動物が多数生息した。

 


≪左写真、人類の誕生の歴史と絶滅危惧種のホモ・サビエンス≫
 


≪左写真、徳島の旧石器≫
 


 



 ≪後氷期の自然と縄文人≫

 氷河時代が終わり気候が暖かくなると、自然環境はいちじるしく変わった。人びとは、山や海へと活動の場を大きく広げていった。
 縄文人は、シカやイノシシなどを狩り、トチの実やドングリなどを集め、海岸近くではシジミ、ハマグリ、ハイガイ、カキなどの貝やクロダイ、スズキ、ヒラメなどの魚をとって生活していた。
 彼らは、岩かげやほら穴を利用したり、竪穴住居をつくって住み、自然のめぐみにたよってくらしていた。














≪土器と弓矢≫

 約1万2000年前、土器と弓矢が使われはじめた。このころの土器は、そこが深く、貝を煮たり、トチの実やドングリなどのアク抜きに使われた。弓矢を使うと、離れたところにいるシカやイノシシ、すばやい動きのウサギや鳥などをたやすく射止められるようになった。
 土器と弓矢の使用によって、人びとの食料は豊富になり、やがてムラが形づくられるまでになった。


≪徳島の縄文時代≫
 
≪上左写真、弓矢の登場≫

旧石器時代の終りから縄文時代のはじめ
には、木葉型尖頭器、有舌尖頭器、石鏃

などが現れる。有舌尖頭器はすぐに姿を
消すが、石鏃を使った弓矢は狩りを効率
的にし、縄文時代を代表する狩猟具とし
て長く使われた。              

 


   ≪ひろがる照葉樹林≫


 照葉樹林は、シイやカシ、ヤブツバキ、クスノキなどの常緑広葉樹を主とする林で、縄文時代になり暖かくなると、しだいに東北地方にまで広がった。徳島では、高い山地のほかはほとんど照葉樹林におおわれた。
 照葉樹林は、木の種類が多く、秋には豊かに木の実がなり、たくさんの動物が集まった。縄文人は、この林で木の実を集めたり、狩りをして数多くの食料をえていた。




 

≪以下は弥生時代以降の徳島≫
 


   


   


 
≪ここまでわかった! 徳島の縄文時代≫

 県により特色が違うものの、博物館的趣向はどこも大差がありませんでした。徳島県の近世までの歴史は、貴重な資料などの展示もありました。
 常設展示のコーナーを抜けると、向かいの小さな特別展示のコーナーです。最初のパネルにあったプロローグについては、初めの項に書き出していますので、次の二枚のパネルを以下に抜き出します。

 「縄文時代」はどう認識されてきたか
     −江戸〜明治期の研究史−

 江戸時代までは、不思議な道具として、土器や石器などは「好古趣味」的に感心を持たれました。蝦夷地(北海道)を探検した松浦武四郎や木内石亭が、土器や石器を描いた絵や文章などを残しています。長崎のオランダ商館に勤めたドイツ人医師・シーボルトも関心を持っていたことをその著書で知ることができます。
 明治になって、東京大学に招かれた動物学者モースが大森貝塚を発見、文様のある土器を「Cord marked pottery」と表現しました。それを「縄文土器」と翻訳したのが「縄文」の始めです。考古学史の最初を飾ることの多いモースと大森貝塚ですが、モースの系譜は続かず、江戸時代の「好古趣味」の伝統が近代的学問に装いを変えて土器・石器や貝塚などの研究が進んでいったと、最近では考えられています。やがて東京大学に人類学教室が設けられ、坪井正五郎などを中心に「石器時代」の研究が進められます。


  明治〜大正期、徳島の「石器時代」研究史

 徳島で、最初に「石器時代」に関心を持ったのは、18歳の鳥居龍蔵(1870〜1953)でした。鳴門市大麻町大谷の神社にあった石棒を『東京人類学会雑誌』に報告しました。鳥居は、新聞などを使って徳島の仲間たちに考古学研究を呼びかけます。応じた中のひとり笠井新也(1884〜1956)は、徳島高等女学校や脇町中学校などの教師をしながら「石器時代」の住民はアイヌ民族と考える有力な学説があり、やがて日本人の祖先「高天原族」が日本列島にやってきて、アイヌ民族は北に追いやられたと考えられていました。
 大正期になって、鳥居龍蔵は日本人の祖先「固有日本人」も「石器時代」に日本列島にやってきて、先住のアイヌ民族と棲み分けながら弥生土器などを使って暮らしていたと考え、『有史以前の日本』にまとめて出版し、当時ベストセラーになりました。




≪徳島の縄文研究の歴史≫
 

 城山貝塚の発掘調査とその影響

 鳥居龍蔵は1922(大正11)年2月に東京帝国大学助教授となり、人類学教室の主任になります。3月末に徳島に帰り大歓迎を受けます。笠井新也や井上達三(1867〜1929)前田正一(1892〜1955)、森敬介(1888〜1947)たちと県内の遺跡を見て回り、新町小学校で講演会・歓迎会を行った次の日、城山で貝塚を発見します。一度帰京した後、再び徳島に帰り発掘調査を指導します。洞窟遺跡や現在でも県内唯一の縄文人骨などが出土し、全国的にも注目を集めますが、報告書は刊行されていません。
 当時は徳島には新聞が2紙あり、競い合って報道しています。鳥居のリップサービスの影響も大きく、当時徳島に住んでいたポルトガル人文筆家モラエスをはじめ、多くの人びと
が見学に訪れ、銅鐸や古墳群の発見の記事も相次ぎます。また、発掘のまねをする人びとが増え、県保安課が注意するなど大きな社会的影響がありました。



 
 

 昭和期前半の「縄文式文化の時代」

 鳥居龍蔵の「固有日本人」説は大正時代に一世を風靡しましたが、このころから考古学者の発掘調査は精緻なものとなり、「アイヌ」ではなく「縄文式文化」、「固有日本人」ではなく「弥生式文化」と呼ばれるようになり、前後関係で考えられるようになります。
 それを決定的にしたひとつが、縄文土器や弥生土器の編年です。土器の形や文様の特色を組み合わせたセットを「型式」または「様式」と呼んで、相対的な前後関係を考える研究、つまり編年が進みました。鳥居の弟子・山内清男が縄文土器、京都大学の小林行雄が弥生土器の編年を行い、その後の研究のモデルになりました。
 同じ頃、山内と小松島市櫛淵町出身の歴史学者・喜田貞吉のあいだで、日本の石器時代の終末時期をめぐって、雑誌『ミネルヴァ』誌上で論争が交わされ、考古学史上に残るミネルヴァ論争と呼ばれています。
 県内では、『史跡名勝天然記念物調査報告』が刊行され、『川内村史』で貝塚の情報がまとめられましたが、活発とは言えない状況でした。


 昭和期後半、
 「縄文式文化時代」から「縄文時代」へ

 アジア太平洋戦争後、静岡県登呂遺跡の発掘などをきっかけに、日本の考古学者は活発に調査・研究が行われました。縄文時代の研究も盛んに行われましたが、出土人骨に残る飢餓線などを根拠に、狩猟採集による不安定な生活が強調されて、貧しく過酷で呪術的な時代とのイメージがありました。また1960年代から次第に「縄文時代」という用語が一般化していきました。
 県内では、1953(昭和28)年9月に上板町神宅で大山中学校七条勝教諭と社会科クラブの中学生によって縄文土器が発見されました。しかし、縄文時代の調査・研究とも低調で、1964(昭和39)年に刊行された『徳島県史』第一巻には、縄文土器が確実に出土した遺跡がわずか6ヶ所しかありませんでした。
 昭和40年代から昭和の終わりまでは、徳島県博物館・同支社大学。県教育委員会など各期間により少しずつ調査が進められ、基礎的な資料が整っていきます。1990(平成2)年に会館した当館の展示はこの頃までも資料をもとに構成されています。


 平成期の「縄文時代」

 平成期前半は、全国的に公共事業の事前発掘調査のピークで、青森県三内丸山遺跡など広大な面積の調査によって、大規模な集落、直径1mもの栗の材を使った高い建物や、栗の実の大きさがそろっていることから栽培の可能性が考えられるなど、「豊かな狩猟採集民・縄文人」がイメージされていきました。
 県内でも、県教育委員会は、高速道路の建設に対応するため1989(平成元)年に財団法人徳島県埋蔵文化財センターを設立して、大規模な調査ができる体制を整えました。その結果、各時代とも爆発的に資料が増加し、縄文時代の遺跡も、広範囲に、深い地層まで確認が進み、これまで予想されなかった発見が相次ぎました。
 また、県内の各市町村も埋蔵文化財の専門職員を採用して、丁寧に発掘調査を行い、徳島大学は埋蔵文化財調査室を設置して学内の調査を綿密に行うことで、縄文時代関係の資料は増加しました。
 文化の森に開館した当館は、大規模な公共事業の少ない県南那賀川流域で地表面の石器や土器を採集する分布調査を行って、大きな成果を上げています。



≪徳島の縄文遺跡の出土遺物≫
 

 


 

 以下、壁面パネルには、「徳島の縄文時代」「住まいのかたち」「石器でくらしを読む」「縄文人の胃袋」「心を読む −第二の道具−」と、縄文の人びとの当時の暮らしを振り返っています。



≪左写真 加茂谷川岩陰遺跡≫ ≪徳島県下の縄文遺跡≫
 

≪右写真、矢野遺跡 矢野K式土器≫
 

≪右写真、矢野遺跡 土製仮面など≫