縄文文化を巡る!(番外編)  

 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)・・山上の弥生遺跡

≪猿楽遺跡≫

 2016年9月17日(日)
 
 
 その遺跡の名を聞いた際、愛媛県久万高原町(当時は美川村)で以前、登山道を探しながら歩いた山の直下にある、猿楽石の場所と同一であることは、疑う余地はありませんでした。その際に≪二箟山≫へと向かった山行は、登山口を探す事から始まりましたが、その最初の山行記を以下に転載します。


≪2000年6月25日≫

 愛媛新聞の“悠々山行記”に載っているふたつの山に出掛けた。連休に登山口の偵察に行っていたので、すぐ判った。うつぎょう集落の小さな橋の手前からのぼり、横道はとらず上へ登ると廃屋があり、なお登ると林道に出合い、少し歩くと猿楽へと標識があり、すぐ大師堂があった。
 左の尾根筋を登りながら、左の植林帯を見ると生えているのは一面のフタリシズカだった。稜線に上がり、尾根を行き頂上には行けたが、下りる時気をつけないと、そのまま尾根を下りてしまいそうな感じだった。(やっぱり、少し下りすぎた。)
 猿楽あたりには蕾のササユリ、コナスビ、ウツボグサ、ヒメハギ、サワギクが咲いていた。廃屋あたりの登山道にはイナモリソウが一株咲いていたが暗くてうまく写せずボケてしまった。民家にはササユリが咲いていた。


 この遺跡の近くの集落といえば、仁淀川の支流である前川が流れる流域の山際にポツリポツリと点在する小さな集落がある黒藤川(つづらがわ)地域になります。この久万高原町を貫く仁淀川の最源流の旧面河村を流れる面河川を遡り、一方の尾根を越えると吉野川の最源流へと当たります。また、もう一方の尾根を越えると、加茂川の最源流となります。それらが流れ込む海は、それぞれ東へと吉野川は紀伊水道へと、北流する加茂川は瀬戸内海へと流れ込むこととなります。仁淀川はそれらと違う方向、つまり南方向である太平洋へと辿ることとなりますが、この方向が今回訪れる猿楽遺跡のある黒藤川と呼ばれる地域です。

 ここ猿楽遺跡へは、南の太平洋側から辿って来たものか、北の瀬戸内海側から辿って来たのかは判らないのですが、太古から受け継がれてきた道が近世の≪土佐街道≫として松山と高知とを結ぶ街道として、受け継がれてきたことは“言わずもがな”ではないでしょうか。

 四国内の足での移動は、地形的には四国山脈を源流とする大河川の中流域より上流については急流や断崖の箇所が多く、中流域より下域のゆるやかな流れを横切れる場所までは、山越えの道を利用する方が容易だと考えれます。産業革命以降の重機などによる現在の道づくりより以前の道は、今で云う杣道や登山道程度の道だったと考えます。そんな道端から発掘されたのが、今回の猿楽遺跡だと考えます。

 さて、山稜の弥生遺跡とはどういうものでしょうか?





 

 集合場所は、度々訪れている赤蔵ヶ池との案内でした。ここには、何度か相棒の撮影の際に訪れています。久万高原町の二箆(ふたつの)集落から入る道は、松山方面からだと@国道33号線を左折し、中津大橋を渡って黒藤川地区へと向かうA国道33号線の美川大橋を高知方面への直ぐ先を左折し、沢渡集落を越えて山道を行き、二箆(ふたつの)集落へと向かうB国道33号線の美川大橋の手前を面河方面へと左折し、東川地区へと右折して直ぐに県道210号線へと右折します。植林の道になると左折して、蓑川集落を目指します。瀟洒な集落を抜けると間もなく稜線を越えて、赤蔵ヶ池(あぞがいけ)への案内標識に出合い、案内通り右手へと降りると数台は駐車可能な駐車場所があります。


 今回は、Bのルートで赤蔵ヶ池(あぞがいけ)へと目指しました。赤蔵ヶ池(あぞがいけ)へと入る林道の広い場所に机が置かれていましたが、姿は見えません。「受付の人は食事にでも行ったのか?」と、駐車場所まで行ったりと、暫くウロチョロ。その内に、担当の方が現れ、林道脇の広い場所に停めると良い・・との薦めで、車を林道脇に駐車して、ミニバンで現場へと向かいました。
やがて未舗装の林道長崎線へと左折するとガタガタ道となります。右手に視界が広がると、左手へと林道ササミネ線へと入り、間もなくブルーシートが張られた発掘場所に着きました。


※赤蔵ヶ池(あぞがいけ)は、愛媛県上浮穴郡久万高原町沢渡・二箆・筒城にあるため池である。2010年(平成22年)3月25日農林水産省のため池百選に選定された。



 現地調査の参加者は10名ほどでしょうか。間もなく、発掘調査を担当している愛媛大学の柴田昌児氏から、昨年から始まった発掘調査の報告や、この遺跡の可能性などの説明がありました。詳細については、以下にその要旨を引用しておきます。発掘作業には、愛媛大学と高知の大学からの参加などとの報告もありました。続いて、発掘作業の進捗などの説明を受けました。




久万高原町発掘記録集 2016


≪山稜の弥生集落 ー猿楽遺跡最新報告ー≫
            柴田昌児氏(愛媛大学)

【西日本で最も高いところにある弥生集落】
久万高原町には弥生時代の定説を覆すような標高千メートルを超える山なみに弥生遺跡が立地している。これを山稜の弥生集落と呼び、愛媛大学柴田研究室と町教育委員会は謎の解明に挑んでいる。「ええ、こんなところに弥生時代の遺跡があるなんて!」、2014年1月29日の愛媛新聞四季録の冒頭は、この言葉で始まった。これは久万高原町黒藤川にある二箆山の山稜を考古学者である長井数秋さんと初めて踏査したとき、私が思わず口から発した言葉である。「山稜の弥生集落」と題した四季録では四国山地にある弥生集落について、その謎と魅力を当時の驚きとともに書き記したのである。

(中略)

 猿楽遺跡は、試掘調査と踏査によって弥生時代早期(約2900年前)と弥生時代後期後半(約1900年前)の遺跡であることが判明、そして次の3つの調査成果を上げることができた。
@通常、農耕を生業とする弥生社会は低地を生活領域としており、標高百メートル以下の地域に多くの遺跡が立地しているのに対し、猿楽遺跡は弥生集落の立地選定原理から逸脱した西日本で最も高い位置に立地する弥生集落の一つであることがわかった。
A平野部でも出土例が少ない弥生時代早期の土器が出土したことで稲作農耕をもたらした早期弥生人の動きを探ることができる。
B弥生時代後期になると四国山間部(愛媛県南部・高知県西部)に住む弥生人は、縄文土器の伝統を残す弥生土器を使っているが、猿楽遺跡で見つかった弥生土器は、縄文土器の要素は認められず、低地で作られた弥生土器との関連が深いことがわかった。

(以下略)



上記『久万高原町発掘記録集 2016』については、コチラから 


≪左写真、猿楽石≫ ≪右写真、大師堂≫
 
 

 既述のとおり、発掘場所は林道周辺ですが、この林道は大凡、旧土佐街道に沿って付けられています。その土佐街道については、久万高原町教育委員会により“山歩きマップ”が、近年、作られています。右の写真の標石は松山市の西堀端(松山城の堀)にある“札の辻”から十二里の標石ということです。

 そして、この山の周辺は殆どが植林の山となっています。その植林の維持作業は、キャタビラの作業車で作業道を作りながら行います。この道を≪ジャガー道≫と呼ぶそうですが、このジャガー道から遺物が出現したのが始まりだそうです。発掘作業に於いて、今回の山中のように、一面に植林された場所のどのあたりにトレンチを作るのかの判断は困難なことでしょうけど、斜面が続いている場所から平らに均されているような場所こそ、該当するのでしょう。



前述の柴田氏は『猿楽遺跡のような山稜の弥生集落の形成要因を探っていくことが弥生時代の社会像や日本の歴史を見直すことにつながることは間違いない』と述べています。


 今後の発掘調査と、周辺での新たな発見などに期待するものです。

 
 2017年9月16日(日)

 昨年に続いて、猿楽遺跡の現地説明会の案内が届きました。久万高原教育委員会からの案内は翌週にも上黒岩第2岩陰遺跡での現地説明会と共に、『発掘作業にも参加しませんか?』の案内も同封されていました。小生は、発掘作業の手伝いは出来ませんが、現地説明会には参加を予定しました。

 この3連休に台風18号が日本列島を直撃するようで、朝から風雨が酷くなっていたので、久万高原町の教育委員会へ連絡すると「こちらは、風も雨も大したことありません。担当の者は現地へ行きました」との返事、「携帯で連絡を取ってみますか?」と担当者の連絡先を教わったのだが、生憎、つながらなかったので現地へ出向くこととしました。

 出発時、松山平野では「この先、風雨はどうなるのだろう」と不安でしたが、久万高原町に入ると嘘のように風も吹いていなくて、雨も止んできたようでした。いつものように、旧美川村の道の駅に寄って説明会が開催される現地へと向かいました。途中の蓑川の瀟洒な集落では、既に稲刈りが終わっていました。
 
                                    
      

  
 

 集合場所には集合時間の少し前に着いたので、誰も居ません。暫し待つ間、乗用車が2台到着しました。そして、間もなくミニバンが到着し運転手は学芸員さんでした。小生らの車は林道脇にデポし、昨年同様、デコボコの林道を走る事10分余りでモスグリーンシートの現場に到着。


 今年は昨年にとは違う方向にトレンチを掘っていました。今回掘った少し南側のトレンチからは、遺物は見つからなかったということで、埋め戻されていましたが、昨年のトレンチから東向きに延ばしたトレンチからは、遺物が掘り出されていました。
 

≪愛媛大学 最先端研究紹介 infinity≫として、柴田先生の紹介があり、転載します。


2016.06.27

海と山の考古学 埋蔵文化財調査室 / 准教授 柴田 昌児 / 専門:考古学

 

瀬戸内海の古代船と山稜の弥生集落

 私は瀬戸内海の辺りで生まれ、海がある景観を見て育ってきました。海産物料理などの「食」は言うに及ばず、潮の「香り」やさざ波の「調べ」など、匂いや音にまで海を感じて生きてきたのです。このように普段はとくに意識することはありませんが、私たちが育った海や川や山などの自然環境は、いつも身近にあり、知らず知らずのうちに生活の中に溶け込んでいるのです。これは、いにしへの人々の生活や社会にも当てはまることではないでしょうか。

 私は、こうした視点に立って弥生時代から古墳時代(約三千年から千五百年前)の日本列島及び東アジアにおける海域沿岸社会の多様性を解明するため、おもに考古学的手法を用いながら「土器製塩からみた王権と地域社会」、「古代木造船と海運技術の研究」、「高位置立地弥生集落の実証的研究」の3つの柱を主軸に研究を展開しています。

 

研究の特色

 人とモノは移動します。人は効率よくモノを運ぶために様々な運搬具を作り、物質文化として発展させてきました。人は水上運搬具として船を作り、飛躍的に物流を活性化することができました。奈良時代前後の遣唐使や遣新羅使、江戸時代の朝鮮通信使など、朝鮮半島や大陸とつなぐ文化や物流の原動力が海(瀬戸内海)にあることは今も昔も変わりません。古代木造船の構造を復元し、瀬戸内海における海上活動の実態を明らかにすることで、沿岸部で生活した古代人の実像を浮き彫りにすることができるのです。

 弥生社会は農耕を主な生業としており、その生活領域は水田可耕地付近の低地であることが定説です。またその一方で標高300メートル前後の丘陵上にも弥生時代の遺跡が展開していることが知られており、古くから軍事的な役割を持った高地性集落として注目されてきました。私はこうした丘陵上の遺跡には軍事的機能を持った高地性集落と、農耕や狩猟などの生業を行いながら丘陵に住む「山住みの集落」があることを指摘しました。さらに、最近では久万高原町の標高1100m前後の山稜に立地する猿楽遺跡を調査し、西日本で最も高い位置に立地する弥生集落の一つであることを明らかにしました。

 
      弥生時代の遺跡を発掘する         四国山地の山稜には弥生集落が点在している

研究の魅力

 考古学者である私にとって、遺跡や出土遺物は人間の様々な活動が残した痕跡であり、当時の社会や歴史を復元する重要な研究題材です。「海」と「山」に視座を置いて、遺跡や出土遺物を見つめ直す研究は、今まで明らかにすることができなかった新たな歴史像を導き出すことができます。つまり、フィールド調査に出かけ、遺跡を発掘したり、出土遺物を分析したりすることで、物質文化を解明し、社会や人間活動の実態に迫ることができるのが、考古学の最大の魅力なのです。

 
      猿楽遺跡から出土した打製石器          猿楽遺跡から出土した弥生土器

 

今後の展望

 研究成果は、地域資源の活用にも新たな視点を見出すことができます。現代、瀬戸内海は、架橋や鉄道によって、陸路として往来することができるようになり、サイクリングや自家用車で瀬戸内海を観光する機会が増え、海上交通から乖離する傾向があります。四国山地の交通網も大型道路に収斂する傾向にあり、その沿線から離れた山間部は深刻な過疎が問題となっています。こうした現状を踏まえ、海と山の視点に着目した考古学的研究成果は、歴史的景観がどのように移ろい、現代に至っているのかを改めて認識する機会となり、またその足跡を辿ることが過去と現在をつなげ、未来を展望することにつながります。海と山の考古学は、海と山のエコツーリズムへと昇華することが期待できるのです。

 

この研究を志望する方へのメッセージ

 大学時代、私は研究室の仲間とともに発掘調査に参加し、研究調査報告書の作成に関わることができました。小さな石器や土器の破片を手掛かりに当時の人々の暮らしを読み解いていくことが、とにかく楽しかったことを今でも鮮明に覚えています。この楽しさこそが私の研究の原点です。考古学は物質文化から人間活動の変化を研究する学問です。発見から仮説を立て、その要因や過程を解明し、歴史の実像を導き出す醍醐味がそこにあります。みなさんも考古学を味わってみませんか。

  
 

 最終の項に柴田先生の言葉を転用しましたが、小生が縄文文化について“疑問”と思っているのと同様の視点で弥生集落の研究をしていることには、共感を憶えるものです。『遺跡や出土遺物は人間の様々な活動が残した痕跡であり、当時の社会や歴史を復元する重要な研究題材です。「海」と「山」に視座を置いて、遺跡や出土遺物を見つめ直す研究は、今まで明らかにすることができなかった新たな歴史像を導き出すことができます」と、標高1000mを越える場所での生活の謎に迫ります。

 小生が縄文文化を追っている中、何故、北海道・東北地方で縄文の大集落が興り、集落が忽然と消えてしまったのか。それは、その集落の地域と年代(日本列島のどの地域で、温暖な時期なのか寒冷へと向かうのか)などが関連するでしょう。それによって、食料事情が変わってくるでしょうし、それらの食料が得られなくなったとしたら、条件の整った他の場所へと移動するのは必然でしょう。

 稲作の水田を利用する以前の、前述の柴田先生の研究材料も同様に、祖先の居住まいを推し量るべく考察はまだまだ続きます。