縄文文化を巡る!  
 2017年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(北海道・北東北)

八戸市・是川石器時代遺跡(是川縄文館) ≪2017年10月19日≫
  秋の東北巡りは、当初は@遺跡巡りA山行B撮影、の三行程の予定で計画しました。@については、天候などに左右されませんが、AやBについては現地に着いてからの変更は仕方ありません。今回のようなフルムーン切符を使っての旅は、予約は一月前に済ませていますから・・。今回の旅のスケジュールについては、下記に載せましたが。一番の変更点は三日目の≪城ヶ倉大橋から蔦七沼≫への変更でした。変更前は八甲田山への撮影を兼ねた山行でしたが、前日に仕入れた現地情報で断念となりました。

 昨日は、奥入瀬から八戸へ移動する際、七戸へ寄り≪二ツ森貝殻遺跡≫の見学を済ませたので、八戸では時間に余裕が出来ました。春の北海道・東北の旅の準備段階で予定していたものの断念した八戸の≪是川縄文館≫巡りが今回のメインイベントです。


【関連リンク先】 八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館


八戸市を北流する、新井田川左岸の標高10〜44mの台地上に立地する遺跡です。堀田(ほった)遺跡(縄文時代中期)、一王寺(いちおうじ)遺跡(縄文時代前〜中期)、中居(なかい)遺跡(縄文時代晩期)の総称で、中でも中居遺跡は亀ヶ岡文化を代表する遺跡の一つです。

集落の規模は、縄文時代中期や後期と比較すると小規模ですが、居住域、墓域、加工場、捨て場、祭祀場など多様な遺構が見つかっています。

中居遺跡の低湿地には沢があり、そこから捨て場が検出されました。捨て場には、トチやクルミといった木の実の殻をはじめ、獣骨や魚骨、貝類など多様な食料残滓(ざんし)が含まれています。特にトチの殻が大量に出土しており、最大80cmの厚さで堆積していました。捨て場からは、通常では腐って残らない、漆器やヤスなど植物質の道具が出土したほか、沢地ではトチのアク抜きをするための水さらし場も見つかっています。

また、花粉・種子・樹木などの分析から、集落やその周辺は、縄文人により有用植物を中心に管理され、人工林から里山を経て狩場である自然林へと繋がるような、同心円状の人為的な生態系を作り出して自然と共生していたと考えられます。

垣ノ島遺跡で登場した縄文の漆工芸技術は、道具を装飾するだけではなく、強化する目的で使われていました。是川石器時代遺跡においても、人工林や里山で、漆液を採取するためにウルシの木の管理を行い、漆液の採取時期を考慮しながら木地となる樹木を伐採・加工するなど、漆製品の高度で計画的な生産活動を読み取ることができます。



 
 
  
 ・10月15日(日)
 松山  岡山京都〜京都大学総合博物館 京都市
 
 ・10月16日(月)
 京都 東京新青森 
 青森市 
 ・10月17日(火)
 青森市   〜城ヶ倉大橋(撮影)
〜蔦温泉・蔦七沼(撮影)〜十和田湖 
 ・10月18日(水)
 十和田湖   〜奥入瀬渓流(撮影)
〜七戸町(二ツ森貝塚遺跡)〜八戸市 
 ・10月19日(木) 
 八戸市  是川石器時代遺跡(是川縄文館)  岩手県一戸町・御所野遺跡(御所野縄文博物館) 〜八戸市 
 ・10月20日(金) 
 八戸市  〜八戸市博物館〜八戸  大宮  長岡市 
 ・10月21日(土)
 長岡〜馬高縄文館〜新潟県立歴史博物館〜長岡 東京岡山  松山 
  
 
 
 上記、案内板はひっそりと掲げられていました。是川縄文館へ見学に訪れる人はいますが、埋め戻した遺跡の跡を見学に来る酔狂な人など居ないのかもしれません。また、縄文学習館も機能しているのかどうかも判らないほどひっそりとしていました。是川石器時代遺跡のパンフレットには、下記の紹介があります。


是川石器時代遺跡は、中居・一王寺・堀田の三つの遺跡からなり、新井田川左岸の段丘上に立地します。前期から晩期の集落遺跡群で、日本考古学史に残る数々の発見がありました。一王寺遺跡では、細長いバケツ形の土器が大量にみつかり、「円筒土器」の名が付けられ、東北地方北部の前・中期の標識名になりました。堀田遺跡は土器とともに宋銭が出土し、縄文文化の終末年代をめぐる論争の舞台となりました。中居遺跡では、漆器をはじめ様々な植物質遺物が出土したことで、全国的に知られています。本遺跡は、長期的な集落の変遷や漆芸技術の系譜を考える上で重要な遺跡です。



≪左、一王寺遺跡≫ ≪右、中居遺跡≫

 
 展示品を見終わった後、軽食&売店で昼食の“縄文ラーメン”をいただきました。どこかの10名ほどの小学生が「体験学習」に来ていましたが、時間差で我々が食事を終わった後に、小学生の昼食時間となりました。是川縄文館の玄関横に≪是川縄文の里 MAP≫の案内があるのに気づいて、受付嬢にMAPのことを訊ねると、地図が載っているリーフレットを戴きました。小生の「歩いて行けますか?」の問いには「清水寺までは近くですが、車で廻った方が良いですね」とのこと。小生は、近くの遺跡巡りを歩きたかっただけだけど・・。結局、何の予備知識もないまま古ぼけた案内標識を当てに歩いていると、偶然にも遺跡への案内に出合ったのでした。

 上掲の看板の≪縄文学習館≫の脇には竪穴住居が建てられていました。

 それにしても、写真の如く遺跡を掘り出した後、原っぱにしておく手は無いんじゃないでしょうか?もっともっと有効に使える手もあるでしょうに。もっとも、傍らには竪穴住居が復元されていましたが・・。
 
 
≪是川縄文館≫

  
≪イマージョンシアター≫
   
 
≪うるしの美≫

漆器の美しさは、鮮やかな赤色や漆黒といわれる黒色の深い光沢にあ
り、使い込むほどにその美しさが増していくともいわれます。
漆工芸は、採取・精製・塗装・乾燥など一連の複雑な工程を必要としますが、
是川中居遺跡の低湿地からは色鮮やかな漆器が多数出土しており、
是川縄文人の生活の中には優れた漆工芸文化が広がっていました。


≪以下、各種重要文化財≫
 

 

≪左、重要文化財 木胎漆器(壺)≫
  

 ≪右、重要文化財 漆塗り樹脂製容器≫
  


≪重要文化財 漆塗り弓≫


≪左、重要文化財 漆塗り土器など≫ ≪右、重要文化財 土偶≫
 
 
 ≪是川の美≫

是川中居遺跡が営まれた縄文時代晩期には、複雑な雲形文様が描かれ
た土器や、女性を象った精巧な遮光器土偶など、装飾性にあふれた
道具が見られます。是川の美は、均整のとれた形と、精緻な装飾・文様が織
りなす優美なデザインにあり、当時の人々の洗練された感性が実現されています。

 

 

 

 
 
≪風張の美≫

風張1遺跡が営まれた縄文時代後期後半には、多彩な形の土器や祭祀具が
あり、文様には縄文の部分と縄文を磨り消した部分とのコントラスト
がみられます。土偶は立体的でポーズを表現したものもあるます。
風張の美は、発想豊かな造形と製作技術にあり、この技術力が是川の美
へ、一層洗練された形で受け継がれて来ます。


 

 

  


 

 

 
  
≪縄文の謎≫

 


≪重要文化財 弓≫


≪重要文化財 ヤス≫
【Zone3】全・中期:火山とクリと「円筒土器文化」

≪「円筒土器文化」とクリ≫

三内丸山ムラ周辺では、人の手でクリ林が作られました。

 「円筒土器文化」の大きなムラである青森市三内丸山遺跡の花粉分析では、中掫軽石(ちゅうせりかるいし)の噴火後ブナ林が衰退し、その後クリ林成立したことがわかりました。同じような状況は、青森県大矢沢野田遺跡でも明らかになりました。
 一方、人の活動がみられない田代平では、噴火によりブナ林がほぼ消滅した後、乾燥状態に強いナラ林を経て、ブナ林へとうつりかわっています。
 これらの事実から、「円筒土器文化」のムラ周辺のクリ林は人の手で作られたものとかんがえられます。三内丸山ムラでは、およそ2000年にわたってクリ林が維持されたのです。


【Zone4】後期:多様な植物利用

≪環境変動と集落の有り方≫

縄文中期後半から後期にかけて、縄文ムラのさまざまな変化は、環境変動と密接な関係がありそうです。

 およそ5000年前ごろから、気候の寒冷化や海面の低下、陸域の拡大といった環境変動がおこりました。こうした変動は、生態系にも大きな影響を与えたと考えられます。縄文中期後葉のころで、トチノキ利用が拡大する時期と一致しています。
 同じ時期に八戸地域では、集落遺跡・竪穴建物跡の数が増加することがわかっています。また、遺跡の分布が広がっていきます。
 この時期のさまざまな変化は、環境変動と密接な関係がありそうです。



≪環境変動とトチノキ≫

気候が寒冷化した時期に、沢筋でトチノキ林が拡大し、資源として利用されたことがわかりました。

 神田遺跡で縄文中期後葉から後期前葉の土器を含む地層は、旧期クロスナ層という気候が寒冷化し、海面が低下した時期のものです。泥炭層からは大量のトチノキ種子が検出されたため、「トチノキ泥炭層」と呼んでいます。
 「トチノキ泥炭層」の年代測定と花粉分析によって、およそ4700〜4500年前に沢筋でトチノキ林が一気に拡大し、資源として利用されたことがわかりまし・・・トチノキ林は人が作ったものと考えられます。



 このコーナーのパネルには、上掲の円筒土器文化とクリや環境変動を初め、十和田火山や縄文海進などのパネルも展示しています。また、トチノキは、縄文中期のなかごろから利用されるようになったとのパネル展示もあります。既に触れているように、北海道・北東北の縄文遺跡群は世界遺産登録を目指していますが、過去、数年に渡って見送られ続けています。小生の住まいがある四国でも、同様に世界遺産登録を目指している文化遺産が“四国へんろ”です。小生は、四国遍路の≪四国霊場88ヶ寺と、それを結ぶへんろ道を辿る≫文化を文化・歴史遺産として登録を目指している“へんろ道”を、辿ったことが無い役所の担当者による机上の計画では、全く無意味だと感じています。現在、四国の山里がどのような状況に陥っているのか?この20年の漁村や農山村での荒廃ぶりは、長年維持されてきた遍路文化を“旅行社の金ずる”に変えこそすれ、文化の継承がおいてきぼりとなった現状があります。

 同様に、“文化の継承”を第一に位置づけられないままの“登録申請”では、その意図の底が割れてしまうものと考えます。確かに、北海道・北東北の縄文遺跡は巨大な集落跡が残され、文化的には残すべき・語るべき文化でしょう。しかし、縄文文化は日本列島に残された貴重な財産です。その北から南までの遺跡群が相互に関連し、一万年余にわたる交流が続いて来たものと考えます。その日本列島の一部を切り取って、一万年余の一時期だけに存在した集落だけに光を当てての申請には、違和感を覚えるのは私だけなのでしょうか?

 日本列島の過酷な自然条件の下、それらをから得る恵みを食料とするために誕生したと思われる縄文土器。その土器は、海産物なども煮炊きした海人を育て、堅果類のアクヌキをして生き延びた山人を育てたのでした。生き残るためにはクリやトチノキの栽培を会得した祖先。火山の噴火による降灰にも負けず、台風の直撃する狭い列島で住居を変えながら、暑い夏や雪の降る冬を生き延びらえてきました。それら過酷な自然条件の下、営々と築き上げて来た縄文文化そのものが、“遺産”として受け継がれるべき財産だと考えます。

 小生は、一部の地域や一時期に偏った“遺産申請”には異議を唱えるものです。
 
 1階の収蔵庫には、整理中と思われる遺物がぎっしりと整理棚に置かれていました。北海道・北東北の遺跡で驚くのは、その豊富な出土遺物の量です。それも、完全な形で出土される土器や土偶には驚嘆です。その土器や土偶の独創性や文化的レベルの高さが、後の浮世絵へと引き継がれていったのでは無いでしょうか。



【資料集】

北海道・北東北の縄文遺跡群リーフレットシリーズ11 「史跡是川石器時代遺跡」


 

≪国宝 合掌土偶≫




≪左、重要文化財 頬杖土偶≫ ≪右、重要文化財 土偶≫