縄文文化を巡る!  
「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅・・八戸市博物館
2017年10月20日(金)

 秋の東北巡りは、当初は@遺跡巡りA山行B撮影、の三行程の予定で計画しました。@については、天候などに左右されませんが、AやBについては現地に着いてからの変更は仕方ありません。今回のようなフルムーン切符を使っての旅は、予約は一月前に済ませていますから・・。今回の旅のスケジュールについては、下記に載せましたが。一番の変更点は三日目の≪城ヶ倉大橋から蔦七沼≫への変更でした。変更前は八甲田山への撮影を兼ねた山行でしたが、前日に仕入れた現地情報で断念となりました。


 一昨日、昨日と予定外に事が進み、今日は、午後の新幹線を乗り継いで新潟県の長岡まで行くだけとなったので、随分と余裕の眼覚めとなりました。昨晩、相棒から「東北地方の海にも寄ってみたいネ」との要請が・・。

 朝食を済ませ、ナビには“八戸市水産科学館”を設定したのです。その訳は、八戸の海岸は種差海岸という文字が見えましたので、ナビに入力しようとしても受け付けてくれなかったからです。30分ほど行くと、海岸沿いの道になって、ちょっとした展望所のような場所で車を停めました。

 私たちが海を眺めている間、ドライブに来た県外ナンバーの車などが立ち寄って行きました。もちろん、何年か前の津波の跡などは判りませんでした。さて、引き返す先の目的地は≪八戸市博物館≫とナビに入れました。ナビは、間もなく往きとは違う道を選んでいました。
 
 ナビに従って進むと、開館時間から間もなく到着しました。さて、私たちの興味は主に【考古展示室】に限られます。博物館では、このコーナーを以下のように紹介しています。


≪縄文時代(約13,000年〜2,300年前)≫

 今から約1万3千年前に、縄文時代が始まりました。床を掘り下げ、まわりを草で囲んだ家に住み、シカやイノシシなどの獣(けもの)や魚・貝、木の実などをとって暮らしていました。

 縄文時代に発明された弓矢と土器が、生活を豊かにしました。弓矢で獲物をたくさんとれるようになりましたし、土器で煮て食べることができるようになり、栄養をたくさんとれるようになったからです。

≪縄文土器について≫

 ほとんどの土器の表面に、縄をおしつけた文様がついているところから、縄文時代という名称になりました。縄の文様が何を意味しているのかは謎です。
 柔らかい粘土で形をつくり、焼いてかたくして器を作る技術で、人類が長生きをできるようになりました。
 土器は、なべ・容器・食器などの役目をしました。


縄文時代は約1万年間も続きましたので、その間には土器の形にも変化がありました。

≪草創期(約12,000年〜9,000年前)≫
土器が発明されました。縄の文様はまだつけられておらず、木や貝などの物をおしつけた文様がつけられています。


≪早期(約9,000年〜6,000年前)≫
縄の文様がつけられはじめ、とんがり底の土器が多く作られました。土器に貝を押し当てて文様がつけられています。


≪前期(約6,000年〜5,000年前)≫
平らな底がつくようになりました。


≪中期(約5,000年〜4,000年前)≫
ひも状の飾りをつけたりするようになりました。


≪後期(約4,000年〜3,000年前)≫
椀・皿・きゅうす型など、様々な形の土器が作られるようになりました。


≪晩期(約3,000年〜2,300年前)≫
形の種類が多く、きれいな文様がつけられるようになりました。また、“うるし”を塗る赤色の土器も多く作られました。


 上記は、小生がこの≪縄文コーナー≫で扱う歴史区分表とは少々異なる歴史区分ですが、ここ八戸での出土物などや、東北地方などの出土物などの影響もあるのでしょうか。もっとも、小生が採用している年代区分表についても、学界でも異論があるようですし、ここでは、小生の独断で採用しているということでお許し頂きましょう。
 

≪縄文早期〜晩期の各種土器≫

 

≪石器など≫
 

 


 
 

≪キノコ形土製品≫(縄文時代後期)
 



キノコの形を粘土でまねて作り、焼き上げたものをいいます。
北海道内部から東北地方南部にかけて出土し、垂れるものや平らな
もの、くぼんでいるものなどいろいろな形があります。
キノコには、食用キノコと毒キノコがあり、キノコ狩りをするときに、
食用キノコの形や大きさの見本としたのではないでしょうか。
みなさんは、どんな名前のキノコに見えますか。
 

 
 

 

 

 ≪甕棺墓(かめかんぼ)≫ (重要文化財)

発掘調査の時、土器を取り上げると、
中から人骨がでてきました。これはおと
なの女性のものです。



≪死者をまつる≫

縄文時代の人びともまた、死をおそれ、死者に対しては礼をつくし、あつく埋葬しまし
た。三戸郡五戸町薬師前遺跡で発見された3個の土器の中にはそれぞれ人骨がおさめられ
ていました。これは甕棺墓といって、遺体が白骨化してからあらためて土器に遺骨をおさ
めて埋葬したものです。この遺跡の人骨は保存状態が良く、改葬にあたって頭の骨から順
に丁重に土器におさめられた様子が良くわかります。


 
 展示物の中で、最も歓心したのは『キノコ形土製品』です。この“キノコ狩り”については、今春の“北海道・北東北の旅”の際に、小生が経験している西日本地域では経験し得ない風習に接っしていました。それは、道が街中を外れると所構わず車を停めているのです。少し山間に入ると、道路に置かれたままの車にも出合いました。そんな車の傍に、熟年の夫婦が春の恵みを採る姿を見掛けたのです。
 そして、秋の恵みと云えばキノコですが、ここに展示されている“キノコ形土製品”は西日本地域では作らないものと考えます。この辺りからも、地方によって食生活の違いを窺うことができます。それは、海辺の近くとか川や湖の近くとか、山間での生活であるとかだけじゃ〜無くて、海産物にしろ山の恵みや山菜類にしろ、東北地方と西日本以南では違っていて当然のことです。

 それにしても、食べれるキノコの土製品とは大いに歓心しました。未だ知識の乏しいだろう子供でも採取出来るって事。
 
  
 ・10月15日(日)
 松山  岡山京都〜京都大学総合博物館 京都市
 
 ・10月16日(月) 
 京都 東京新青森 
 青森市 
 ・10月17日(火)
 青森市   〜城ヶ倉大橋(撮影)
〜蔦温泉・蔦七沼(撮影)〜十和田湖 
 ・10月18日(水)
 十和田湖   〜奥入瀬渓流(撮影)
〜七戸町(二ツ森貝塚遺跡)〜八戸市 
 ・10月19日(木) 
 八戸市  是川石器時代遺跡(是川縄文館)  岩手県一戸町・御所野遺跡(御所野縄文博物館) 八戸市 
 ・10月20日(金)
 八戸市  〜八戸市博物館〜八戸  大宮  長岡 
 ・10月21日(土)
 長岡〜馬高縄文館〜新潟県立歴史博物館〜長岡 東京岡山  松山 
   
 
 私たちの興味があるのは、考古スペースだけなので古墳以降近世までの資料の展示はさ〜っと終わります。そんなこともあって、随分早く見終わりました。そこで、受付時に案内された≪史跡 根城の広場≫の案内を、ボランティアの『史跡ガイド』にお願いしたのです。

【史跡 根城の広場】

 根城は、建武元年(1334年)に南部師行(なんぶもろゆき)により築城された城です。
 寛永4年(1627年)に領地替えにより使われなくなるまでの約300年間、八戸地方の中心でした。

 根城跡は、昭和16年に国史跡に指定されました。
 その後、昭和53年から約11年間掛けて、発掘調査及び整備事業が進められました。

 史跡の主要部分は、平成6年10月「史跡 根城の広場」として公園化されており、本丸跡には、発掘調査の成果をもとに、安土桃山時代の根城の様子が復原整備されています。

 主殿と呼ばれる当主が儀式を執り行った建物を中心に、工房(こうぼう)・板蔵(いたくら)・納屋(なや)・馬屋(うまや)などが復原されており、内部に入れば、正月の儀式の様子や、いろいろな道具類などを見ることができます。
 


 約一時間ほどの案内でしたが、主殿に飾られていた≪国宝≫には驚きました。写真のように、櫛引八幡宮の「赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)」と、「白糸威褄取鎧(しろいとおどしつまどりよろい)」と併せ、昨日の是川縄文館で見た≪合掌土偶≫で青森県にある三つの国宝が見れたということでした。

 これらの国宝については、あちらこちらの美術館などに貸し出されている場合も多く、実物にお目に掛かれるのは運でしょうか。勿論、【国宝展】などと呼ぶ特別展へ行けば見れるのでしょうけどね。


 ボランティアガイドの方に「近くに昼食が取れるところはありますか?」と、教えてもらう。食事を終えると、レンタカーのガソリン補給を終え駅前のレンタカー会社へ寄って、新幹線の時間には余裕で着きました。八戸からは大宮で新幹線を乗り換えて、長岡が最終目的地です。明日が今回の旅の最終日となりました。