2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(北海道・北東北) つがる市・縄文遺跡を辿る旅 ≪2018年5月9日〜10日≫ |
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その2 つがる市木造亀ヶ岡考古資料館 カーナビの指し示すとおりに車を走らせます。カルコからは、20分ほどで到着しました。16時には閉館するという事なので、場合によっては明日も訪れなければ・・と、玄関に入りました. 玄関を入ると正面にロビーがあり、若者が何かを探している風でしたが、何分、時間に余裕が無いので、気にも留めていませんでした。相棒が受付を済ませる間に、小生は訪問ノートに記帳を終えました。玄関でスリッパに履き替えて上がると、展示室は左手にありました。 |
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・5月7日(月) 松山 〜岡山〜東京 山形 | |
・5月8日(火) ≪山形県立博物館≫ 山形 〜仙台 〜新青森 青森 | |
・5月9日(水) ≪青森県立郷土館≫ 青森 つがる市≪木造≫ 〜鯵ヶ沢温泉(水軍の田戸) | |
・5月10日(木) ≪出来島最終氷期埋没林≫ 〜≪森田歴史民俗資料館≫〜新青森 盛岡 |
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・5月11日(金) ≪岩手県立博物館≫ 〜盛岡 〜東京 〜岡山 松山 | |
この≪亀ヶ岡考古資料館≫の展示品の大半は、“個人委託品”との札が架かっています。先に引用しているとおり、この集落の史跡≪亀ヶ岡石器時代遺跡≫と≪田小屋野貝塚≫から掘り出された遺物は、江戸時代の初期に掘り出されていた遺物であり、代々、先祖から伝わって来たものであると推測されます。近年の、教育委員会主導の“遺跡の発掘”作業=歴史遺産の検証とは一味違う発掘作業と考えられます。 そして、2005年の平成の大合併の際に、1町4村が合併し新たに“つがる市”として出発するより遥か以前、旧木造町から出土した遺物は、前述の経緯などもあって、歴史資料として整理出来兼ねている風です。 朝方、県立郷土館へ寄った際、個人所蔵の立派な遺物に出合った後だけに、非常に残念な形でした。 |
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≪注口土器≫ 於:青森県立郷土館(風韻堂コレクション) ≪亀ヶ岡石器時代遺跡≫ |
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≪展示室の様子≫ 左写真≪上下で違うものを接合した土器≫ |
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前述のとおり、朝方に≪青森県立郷土館≫の遺物を観てきているだけに、先の≪パルコ≫にしろ当館にしろ、その陳列棚に置かれている遺物には当惑しました。もちろん、大変に貴重な物であることは窺えます。しかし、XXコレクション(注:上の写真を参照)と呼ばれる個人の収集家や県の施設に飾られている遺物と見比べると、その相違は歴然としています。 小生は、出土した現地の資料館などにこそ実物を展示し、県の施設には“特別展”や“企画展”として貸し出すのが筋だと考えます。そう、≪三内丸山遺跡≫や≪是川石器時代遺跡≫のように・・。勿論、そのように出来ない諸事情についても、小生は理解しているつもりです。 今回の遺跡は、“世界遺産の申請”をする史跡(小生としては異論を挟みたくもなるのだが・・)の一つです。そんな取り組みを進めるのだったら、該当の自治体が協力して取り組むべきと考えます。“何をどうする”を最初に考える必要があります。小生の地元でも『県に持って行かれてしまう』という言葉を聞くにつけ、“呆れて、ものもいえねぇ〜”です。 写真中の≪上下で違うものを接合した土器≫などの注釈については、“畑から出て来たものを大切に持っていた”ことを窺わせる、いかにも微笑ましい限りです。 |
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≪右写真、顔の無い遮光器土偶≫ |
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pm4時の閉館なので・・と、展示室を急いで観て回る事も無く、普通に見終わっても充分に見終えることが出来る広さでした。展示室の片隅に置かれていたノートの最後に書かれていた文章に目を落とすと、きれいな字で感謝の言葉が書かれていました。その日付が今日で、女性の名が記されていました。相棒が「さっき、玄関ホールに居た人じゃない」と言います。小生はその人を男性と思いこんでいたのでした。 見学を終え玄関ホールへ出ると、件の女性がお茶を頂いていたようでした。“縄文女子”とか“埴輪女子”とか呼ばれるギャルなのでしょうか? 見終わると、今日の宿は≪鯵ヶ沢温泉 水軍の宿≫を予約しているので、一路、カーナビの導くままに走るのみでした。 |
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≪仰ぎ観る岩木山 二態≫ |
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≪つがる市の遺跡訪問≫ 2018年5月10日 ≪史跡 田小屋野貝塚≫ 北海道・北東北の縄文遺跡群サイトはコチラ ≪史跡 亀ヶ岡石器時代遺跡≫ 北海道・北東北の縄文遺跡群サイトはコチラ 昨日は≪縄文住居展示資料館(カルコ)≫と≪木造亀ヶ岡考古資料館≫を拝観するだけで時間切れとなってしまいました。こちらへ来る前に、一応の事前に学習をして来たつもりなのですが、まず、土地勘が皆無。ネットでの情報が少ない・・などなどもあって、出たとこ勝負の行程でした。 鯵ヶ沢温泉で、頂いた資料を見ると≪森田歴史民俗資料館≫のことが載っていました。そこには休館日≪月・火・木・金曜日、年末年始≫と書かれていました。『ナンテコッタイ』。そちらを先に行っていたら良かったんだ。 そして、10日の行程として≪鯵ヶ沢温泉→最終氷期埋没林→高山稲荷神社→田小屋野遺跡→亀ヶ岡石器時代遺跡→森田歴史民俗資料館→新青森≫の計画にしました。新青森(16時38分発:はやぶさ32号を利用)駅前では、レンタカーの返却を済ます必要があります。 |
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≪出木島最終氷期埋没林≫ |
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最終氷期埋没林の見物を終え、高山稲荷神社での“ミニ撮影会”を済ますと、境内の食堂で昼食を済ませ、一路、木造へと向かいます。 |
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上の案内板を道端で見つけ、道端に車をデポし、地図の該当の場所を探しますが、それらしき表示の場所(国指定史跡 田小屋野貝塚)の特定には至りませんでした。直ぐ側にある“しゃこちゃん広場”が、亀ヶ岡石器時代遺跡でしたが、遮光器土偶の石像が建っているのみでした。 右図の案内板で、この遺跡の概要は判ります。以下に転写しておきます。 史跡亀ヶ岡石器時代遺跡 国指定:1944(昭和19)年6月26日 中心年代 縄文時代晩期(紀元前1000〜300年頃) 亀ヶ岡遺跡は、その出土品のすばらしさが江戸時代より国内外に知られていました。出島を通じて遠くヨ^ロッパまで運ばれたものもあります。また、1796(寛政8)年の菅江真澄(すがえますみ)以後、明治にかけ、松浦武四郎(まつうらたけしろう)や蓑虫山人(みにむしさんじん)など、出土品に魅了された著名な好事家・知識人たちが遺跡を訪れたほか、「南総里見八犬伝」(なんそうさとみはっけんでん)の作者、滝沢馬琴(たきざわばきん)らも、江戸市中で亀ヶ岡遺跡出土品などの品評会を催したという記録が残っています。 遺跡は、住居や墓(土坑墓:どこうぼ)などがある中央の台地<亀山(かめやま)地区>と、それを囲み多くの貴重な遺物が出土した「捨て場」がある南北の低湿地<北:近江野沢(おうみのさわ)地区・南:沢根(さわね)地区>にまたがって一しています。近代以降、2010年までの間、東大の若林勝邦などにより、10数回の発掘調査が行われました。 遺跡の中心部(赤線内)は、谷を挟んで北隣にある、縄文時代前期中葉〜中期(紀元前3500〜2000年「頃)の貝塚を伴う集落、田小屋野貝塚(たこやのかいずか)とともに、1944(昭和19)年に邦史跡に指定されました。 なお、1887(明治20)年には、農作業中に左脚のない遮光器土偶(しゃこうきどぐう)が出土し、1957(昭和32)年に邦重要文化財に指定され、現在、東京国立博物館に収蔵されています。 つがる市教育委員会 |
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遺跡を後にして、今日の最終の目的地となる≪森田歴史民俗資料館≫へと向かいます。そして、ここで思いもかけない出来事に出合う事となりました。 この事が、今回の旅のメインとなる思い出として残るでしょう。 |
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