縄文文化を巡る!  
 2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(北海道・北東北)

岩手県立博物館 ≪2018年5月7日〜11日(フルムーン5日間の旅)≫
≪2018年5月11日≫

 昨日青森から盛岡へ移動して、盛岡駅前のビジネスホテルへ宿泊しました。今日は、午後の新幹線で帰宅の予定です。そして昨日、盛岡駅についた際に駅前のバス停を確認したのでした。
 しかし昨晩、事前に準備していたバス便のプリントを確認した際、決定的勘違いに気付いたのでした。それは、県立美術館往きのループバスの時刻表だったのです。その時刻表は、“左回り”と“右回り”で、所要時間が大分違っていたので、どちら廻りを利用するのか・・だけに注意をしていたので、“美術館”と“博物館”の間違いに気付かなかったのでした。

 そんなドタバタもありましたが、昨晩のうちにその間違いに気付いたのが幸いでした。8時過ぎにチェックアウトを済ませ、コインロッカーにトランクを預けて、停留所に着きました。しかし、その停留所には複数の行き先が描かれていて、待っている若い女性に尋ねるも、どの行き先のバスに乗ったらいいのかがはっきりしません。バス案内所で尋ねると、『バスターミナル行のバスに乗って、そこで乗り換えて下さい』とのことでした。しかし、定刻(8時42分)にやって来たバスの行き先が違っています。相棒は「ここで間違いないの〜」と心配顔。

 しかし直後に、目的の行き先表示のバスがやってきました。乗車時間は30分ほどで、松園バスターミナルで乗り継ぎです。ターミナルに来ていた乗り継ぎのバスに乗ると、“博物館前バス停”へは直ぐに着きました。そして、乗り継ぎ券で料金は要りませんでした。

 バス停から博物館までは、2〜3分で着きましたが、開館時間(
9時半)まで5分程の待ち時間で、ここも、一番のりでの入館者となったのです。


【関連リンク先】 岩手県立博物館 
 
 ・5月7日(月) 松山 〜岡山〜東京 山形   
 ・5月8日(火)  ≪山形県立博物館≫ 〜山形  〜仙台  〜新青森  青森  
 ・5月9日(水)  ≪青森県立郷土館≫ 青森  つがる市≪木造≫ 〜鯵ヶ沢温泉(水軍の宿)  

 ・5月10日(木)
  ≪出木島最終氷期埋没林≫   〜≪森田歴史民俗資料館≫ 〜新青森  盛岡 
 ・5月11日(金) ≪岩手県立博物館≫〜盛岡  〜東京  〜岡山  松山  
 
 

 博物館は巨大な建物でした。玄関ホールは広大な吹き抜けとなっていて、ホール正面の階段を上がって2階の展示室へと向かいます。

 階段には、巨大な恐竜などが展示されていました。2階に上がると、左手には喫茶コーナーがあり、展示室は右手に続いていて、案内嬢がそれぞれのコーナーに居ます。


≪赤色塗彩浅鉢形土器≫
(小田島コレクション)

 
 最初の展示コーナーは、県土の誕生【地質分野】でした。ここは、以下に写真を羅列しておきます。


【地質分野】

 

 

 

 

 

 

 続いての展示コーナーは、いわての夜明け【考古分野】でした。片隅には、定番の“竪穴住居”と住居の中には縄文人らしい夫婦も居ます。

 また、萪内(しだない)遺跡の大型土偶頭部には圧倒されました。大陸の大型人型磁器(兵馬俑)を連想しますが、造られた意図は全く違っていたものと思われます。日本列島でこの土偶が造られた時期は縄文時代の後期から晩期(4000年〜2300年前)にあたります。大陸と同様に王が墓に埋葬される習慣が伝わるのは、ずっと後の弥生時代(2300年〜1700年前頃)を経て、古墳時代となってからです。また、前記、大陸の“秦始皇帝(紀元前259年〜紀元前210年)”が活躍したとされる時代は、日本での弥生時代に相当します。


 そしてこのコーナーは、氷河時代の終わりから縄文時代を経て、弥生時代までの遺物を展示しています。それぞれのコーナーの案内を下記に書き出します。


≪氷河期の人びと≫

 今からおよそ3万年前、重要な道具であった石器の作り方が変化しました。特にナイフ形石器はこの時代を代表する石器です。やがて、気候の温暖化にともなって植生が変化し、野牛やナイマンゾウなどがいなくなると、道具も次第に変化していきました。


≪岩手の縄文土器≫

 縄文人は、さまざまな道具を使いました。なかでも土器は、食物の煮たき・貯蔵・運搬のほか、炉や墓や祭りなどにも使われました。また土器の形や文様は、長い縄文時代の間に時期や地方によっていろいろ変化しました。そのため、年代や地方色を知る貴重な資料ともなっています。


≪埋葬と装飾品≫

 縄文人は、自然のすべてに神(精霊)がやどっており、そのたたりは恐ろしいものと考えいろいろな祀が行われました。中でも、死者の埋葬は重要な行事で、墓はムラの中に作られ、丁重に葬られました。
 また、日常生活では精霊の加護を祈り、悪霊を除くため、体を傷つけたり、いろいろな飾りを身につけました。


≪大洞文化≫

 縄文時代の末期(約3,000〜2,300年前)に東北地方を中心に発達した文化を大洞文化といいます。この名称は、大船渡市大洞貝塚の調査の結果つけられたものです。大洞文化は精巧に作られた香炉形土器や注口土器などのほか、土偶・土面などさまざまな遺物によっても古くから知られ、考古学上の一時期が与えられています。


≪弥生文化と岩手≫

 岩手にも米づくりが伝わってきました。しかし、一部の地域を除いては縄文文化の伝統が強く残っていたため、生活はあまり変化しませんでした。土器にも網目のもようがつけられており、西日本の土器とは違っています。石器は縄文時代より少なくなり、新たに稲をつむための石庖丁が使われ出しました。


≪旧石器時代≫
≪縄文人の足跡≫
 


≪石器など≫
 


≪細石器など≫
 




≪岩手の縄文文化≫
 

 

 


 

 

 

 

≪大型土偶頭部≫【萪内遺跡(しだない)】
(重要文化財)

【解説】 昭和55(1980)年、御所ダム建設に伴う発掘調査によっ
て発見されました。この資料は、縄文時代の他の土偶に比べ
非常に大型で、本来は全身像と推定されます。大きな鼻、強
く張り出した眉は、縄文人の顔の特徴をよく表わし、また、
仮面を付けた顔を表現しているともいわれています。顔面の
刺青と思われる文様や頭部、下顎の小食などによって、縄文
人の習俗を知る上でも、貴重な資料となっています。     


≪遮光器土偶≫【手代森遺跡】
(重要文化財)



 

 縄文時代までの遺物は、多量に出土している様が明らかです。それに比し、下欄に掲げた弥生文化の遺物が極端に少なくなっている点、小生の住んで居る地域(四国・愛媛)では、弥生文化が見られる遺跡から縄文の遺物が掘り出される量の比較をすると、縄文土器は少量であると感じます。まさに、東北地方の遺跡とは真逆と云えます。
 この点についての考察は、ここでは控えます。

 それにしても、遮光器土偶を見るにつけ≪亀ヶ岡文化≫の広がりには驚かされます。そして、亀ヶ岡の遮光器土偶とは、写したように“瓜二つ”なのです。当時は写真の技術もありませんし、ましてやSNSでの伝達も出来ませんでした。それなら、各地に土偶を持ち運んでいたのでしょうか。それは、どういう動機からなのでしょう。

 煮炊きや貯蔵に必要な土器類ならいざ知らず、『多産や豊穣を祈願するための儀式』のために造られた・・と考えられた土偶が、土器類と同様の価値を携えていたのだろうか、不思議でなりません。こんなことから、その時代に子孫を残すことが、いかに困難で大切に考えている事柄なのかが窺えます。


 

≪弥生文化と岩手≫

 

 


注:文中の歴史年代については、小生は以下のように統一して使用しています。

【AMS法による区分】

  草創期  15,000〜12,000年前
  早期    12,000〜7,000年前
  前期     7,000〜5,500年前
  中期     5,500〜4,500年前
  後期     4,500〜3,300年前
  晩期     3,300〜2,800年前



 小生は、昨年来の“北海道・東北の旅”以前は東北地方を訪れたことが無くて、東北各県の地理的状況の詳細を把握出来ていませんでした。また、山形市や盛岡市が日本列島の山中にあるという認識はありませんでした。それは、小生の住む四国の都市部が、それぞれに瀬戸内海側と太平洋側に所在するからだと思います。

 今回訪れた、JR山形駅辺りでも標高130m程度です。日本海からは直線距離で80km、太平洋まで60km程度でしょう。これを身近な四国に当てはめますと、JR阿波池田駅辺りで、標高120m程度です。瀬戸内海からは、直線距離で20km、太平洋まで55kmで紀伊水道までは約70kmです。そして、前者は最上川が造る河岸段丘が発達した場所に位置しています。一方、後者は吉野川が造る河岸段丘上に在ります。そして、今回訪れている盛岡は、標高は約120m程度で、太平洋までは75km、日本海までは95kmという山中に位置しています。また前記と同様、北上川という大河の流れる河岸段丘に位置しています。そして、岩手県の面積は、愛媛県と高知県と香川県とを合した面積よりも広いということです。

 ここ盛岡から、50kmほど北上すると昨年訪れた御所野遺跡があります。何故、このような例を出したのかについては、その遺跡の地理的な場所についての考察です。同時に、現在の日本列島での気候風土と当時とでは、変わっているのは知られていますので、単純に比較は出来ません。しかし、縄文晩期に於いて水田稲作が導入される際、その土地の条件が適応しているかどうかが第一条件だと考えます。

 今回の遺跡巡りでは、上記『水田稲作が、どのように受け入れられたのだろう』との小生の、常々疑問に感じている点を改めて考える旅でもありました。


 


 

 どこの博物館でも、弥生以降の展示には時間はさけません。考古部門では、不完全燃焼のような展示品のまま、展示室を一通り見て回ったのですが、帰宅後、ネットで改めて展示室の様子を確認すると、≪いわて文化史 展示室≫のコーナーに≪考古 歴史 民俗≫がありました。

 ここには、
≪いわて文化史展示室では、岩手の人びとの生活に密着した資料を三つの部門で構成しています。
 考古部門では、岩手の土器の変遷(へんせん)や北上山系の洞穴(どうけつ)遺跡(いせき)の出土品、岩手町の豊岡(とよおか)遺跡(いせき)などについて紹介しています。≫
との紹介があります。

 “なんとも、準備不足の旅だったことか”と、後悔はいつもの事です。

 

 博物館を出る際に相棒が「盛岡駅までのバスの時刻表はありませんか?」と、受付嬢に貰っていました。その際に、小生は「市内に、他には遺物などを展示している施設は無いでしょうか?」に「駅の近くに盛岡市営の“遺跡の学び館”という施設があります」との応えでした。勿論、今回は時間の都合もあって、寄る事は出来ませんが、情報としてインプットしておきます。

 上記、盛岡市営の“遺跡の学び館”はコチラから 

 さて、時刻表を確認すると20分毎で次は11時丁度でした。博物館前のバス停の時刻を確認するまでもなく、「ターミナルまで急ごう」と相棒に云い、急ぎ足で歩きます。交差点を曲がり、すぐ先にターミナルがある・・と思っていましたが、少し先でした。『もう少しで到着』というところで、バスがターミナルに入って行きました。そのバスが“盛岡駅前行”のバスでした。何とか無事に間に合ってバスに乗れ、駅前で昼食をとり帰りの新幹線に乗り込むと、予定通りに深夜の帰宅でした。

 さて、次回はどの新幹線を利用することとなるのでしょうか。