批判的書評 「イエスという男」(田川建三著  三一書房)




金哲顕

フレームで表示するにはホームの「書評」からアクセスしてください
          (Googleで検索し表示するとテンプレート式の文字ページになります)

この書評は『マルコによる福音書の新考察』と対になったものですので、ぜひそこをご参考ください。

これらと、Q&A集ページ『宗教問題へのご質問の回答欄(十字架と生贄)とで、キリスト教の本質の全貌が見える三部作になっています。

同じくQ&A集ページ『マルコによる福音書の新考察』へのご質問の回答欄もご参考ください。

まず著書の各章の展開を追いながら段落に分ける。各段落では著者の文章のまとめ的な略述やカギ括弧の引用文がある。これらの末尾の丸括弧内の数字は当該ページを示している。

書評は各章の任意の段落の下に[註]を設けてこの色の文字を使って行なう。なお批評はこの著作を著したかぎりでの著者に対してのみ向けられたものである。

はじめに(読後感)

目次

第一章 逆説的反抗者の生と死
第二章 イエスの歴史的立場
第三章 イエスの批判─ローマ帝国と政治支配者
第四章 イエスの批判─ユダヤ教支配体制に向けて
第五章 イエスの批判─社会的経済的構造に対して
第六章 宗教的熱狂と宗教批判との相克

はじめに(読後感)
田川氏は、イエスを一時洗礼者ヨハネに傾倒したナザレ出身の大工だったとし、はじめは聡明な青年としてシナゴーグ(会堂)で語ったりしたが、枠にはまらなかったので会堂から家々や屋外に出、律法学者の資格(立法者・裁判官・教師)を持ちながらも、批判的にその道を放棄したとする。イエスは鋭い直感でユダヤ教の律法主義に反発し、それに対して皮肉な態度を取り、その逆説的反抗者となる。

イエスもまた時代の子として多くのユダヤ教的思想を分け持ち、また古代資本主義的な利殖肯定思想も持っている。イエスはローマのユダヤ植民地支配問題にはあまり関心を持たず、主にユダヤ教支配層と闘った。

イエスは社会的に抑圧された者たちこそが神の国に入るのだという思想、富に対する直感的反撥を持っている。だがイエスは、皮肉屋・逆説的反逆者で、ユートピアの実現を求めた革命家でない。

イエスは自分に癒しの奇跡能力があることに自信を深め、奇跡行為を通じて大衆の熱狂を勝ち取り、またそれを通して「神の国」の近いことを自覚する。自分がそういう終末論的な「神の国」の到来に立役者として関わる「人の子」だという意識もついには持つに至る。

しかし、「病は罪よりもむしろ悪霊による」と考え、治癒奇跡を通して悪霊の首領と闘い続けることにのめりこんでいったイエスは、「神の国」というものに本格的に関心があったわけでもないし、その整然とした思想体系を持っていたのでもない。またイエスは社会革命家でもなく、またそういうプログラムを持ってもいなかった。

そして宗教的確執、とくに神殿批判が原因でローマと共謀したユダヤ教権力層によって殺された。イエスの十字架死は端的に敗北であるが、弟子たちはイエスを「復活」させ、イエスの死そのものを意義付けし、十字架贖罪観が成立した。以上が田川氏のイエス像の概観である。


こういうわけで田川氏はイエスの治癒奇跡の多くは史実とみる。ただそれは本当の奇跡ではなく、そう信じられ、そう錯覚されたにすぎないものとする。また比較的多くの譬話もイエスのものだと判断する。マルコだけでなくマタイやルカやヨハネなどの福音書の中にもイエスに関する多くの史実があるとしている。これをみると、史実性の判断ではブルトマンなどよりずっとゆるい基準を適用しているように思われる。

全般として田川氏のイエス像は田川氏自身の投影のようだ。とくに「体制からはみ出た知識人の皮肉屋で、逆説的反抗者」という点はそうだ。だれでもイエス像を描こうとすると、史的イエス像がそもそもさっぱり定かでないため、このように多かれ少なかれ自分を投影したものになる。それはたぶん私も例外ではないだろう。

とはいえイエスがどういう存在だったかは福音書やイエスに対するパウロの姿勢などからほぼはっきりする。私はそれを「マルコによる福音書」の新考察で浮き彫りにした。

史的イエス研究者は護教的である場合が多いが、その点、田川氏のように宗教を信じない研究者は護教的になることはない。だがどこかイエスに寄り添うところがある。たとえば倫理的・社会的にイエスを高く評価し、人類にとって必要だとか何とかという具合に。宗教的にイエスを評価できなければ、倫理的・社会的にそうしようとする。

これは「イエスはメシアでなく、ユダヤ教のラビ(倫理的教師)だった」との基調で語る19世紀西欧近代神学の新約聖書神学者たちに顕著に見られる傾向だ。それはいまも続いており、とくにプロフェッショナルな研究者はまさにこの研究で生計を立てているわけだから、なにほどかイエスに好意的になる他はない。

キリスト教ではなく「イエス教」を説く田川氏もそうであり、そこにまた田川氏の史的イエス像構築の際の限界も生起する。キリスト教はむろんのこと、もはやイエス教さえ無意味なのだ。つまりイエス教さえ捨て去った視点で福音書を見てみることが学問的真理のために必要なのである。

田川氏をはじめこれまでの研究者は肝心なところを見逃している。どういうわけかイエスの十字架贖罪死への道を後世の創作だと正しく判断しながらも、そのことをいつも付録のような形でほんの少し言及するだけで済ましているのだ。

これは彼らの中の啓蒙主義・合理主義が、イエスの贖罪死や奇跡一般を単に感情的に忌避させた結果なのではないだろうか? わたしはこれまで「イエスの十字架贖罪死への道」の捏造問題を主題とした福音書研究に出会ったことがない。

だがそもそも福音書というものは、イエスが自覚的に十字架贖罪死へ向けてどう生きたか、ということを目的に書かれている。「福音」(良き知らせ)とはもともとイエスの十字架贖罪死による救いのメッセージのことであり、福音書とはそれを主題とした書物という意味なのだ。

しかしこれまでの研究者はそのことにあまり注意を振り向けなかったおかげで多くの誤りを犯した。田川氏も同様である。福音書の文献批評学的研究の基本は、そもそも福音書が書かれたこの目的・主題を中心軸にしてなされなくてはならない。

つまり、「ありもしなかったイエスの自覚的な十字架贖罪死への道を福音書において創作的に描き出すために、最古の福音書である『マルコによる福音書』の記者はどういう記述行動を取ったのか?」 これを研究の中心にしなくては真実は見えてこないわけである。この研究については「マルコによる福音書」の新考察をご参考にしていただきたい。
マタイ・ルカの両福音書はそれぞれの神学に特質はあるが、この道の捏造においては忠実に『マルコによる福音書』に従っている。

第四福音書と呼ばれる「ヨハネによる福音書」はもっとも遅く書かれた福音書で、共観福音書のような十字架贖罪死による救いを唯一の中心テーマとするものではない。「ヨハネによる福音書」は、十字架上でイエスが死んで神のみもとに戻りそこからイエスが送る「助け主」なる聖霊の導きで得られる信仰(「イエスは神によってそのひとり子なるキリストとしてこの世に遣わされた」と信じること)による救いをもう一つの中心テーマとする。

十字架死はここでは贖罪死でもあるが、同時にそれによってこの世から神のみもとに戻る機会とされている。共観福音書に見られる過越しの子羊の犠牲を象徴する(いわゆる肉なるパンと血なる葡萄酒という)「最後の晩餐」もない。したがって「ヨハネによる福音書」は十字架贖罪死を唯一の中心テーマとする共観福音書とは別の系統に属する。

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)とか「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり・・・」(6:54)とか「一粒の麦が地に落ちて死ななければ・・・・」(12:24)とかに見られるように、共観福音書の中心テーマである「過越しの子羊」による十字架贖罪死信仰もむろんしっかり主張されている。そしてそういうイエスが「イエスの時」なる十字架死へと自覚的に歩む点でも共観福音書と同じである。

この捏造された道は最古の福音書である『マルコによる福音書』から始まっている。だから『マルコによる福音書』においてこの道がどのように創作されたかは、史実のイエス探求のための、全福音書をカバーする普遍的な問いになる。


最後にひとこと。私は1971年に田川氏と二度ほど会ったことがある。当時、私は在日韓国基督教総会傘下の全国青年会組織である「全協」の一委員をしていたが、そのころ民族問題が持ち上がって全協の代表委員がリコールされるという出来事が起きた。

私の主導のもとに行なわれたリコール直前に、その代表委員がちょうど国際基督教大学生で田川氏もそこで教鞭を取っていたため、その学生からリコールをやめるよう私を説得してくれと頼まれたようで、それでわざわざ田川氏が東京から大阪へ出向いてきたのだ。

在日の大阪教会で行なわれた田川氏との会見は田川氏の希望通りにはいかなかった。私が断固その依頼を断ったからである。その数年後、1975年11月22日に韓国中央情報部によって捏造された「11・22事件」が起きて、私は不当に逮捕され、確定死刑囚になり、その後13年の獄中生活を送ることになる。

この事件には田川氏もそうとう関心を持った筈である。リコール事件を含め、こういう事情が1980年に『イエスという男』という著書を田川氏が著す際になにほどか反映しないわけにはいかなかっただろうと思っている。

田川氏は私たちの民族問題の調停に失敗して思いがけなくも体面を汚されて苦い思いをし、在日の民族問題というこういう解決の見えないうるさい環境から逃れるようにして、その後アフリカのどこかへ数年間、客員教授となって赴任してしまった。

社会的正義への希求はありながらも現実からは逃避的な田川氏の政治嫌いはもともとの性格かもしれないが、そういう傾向に拍車をかけたのは我々の在日民族問題であり、またおそらく私の死刑判決などなどであろうと思っている。その政治嫌いが彼のイエス像、とくにローマの植民地支配に対してイエスがあまり問題に感じていないように描いているところなどに反映し、多くの誤りを犯させているようだ。

植民地支配者のローマはかつて朝鮮の植民地支配者だった日本帝国と通じ、そこから彼がリコール問題で関わって苦い思いをした在日朝鮮人の民族問題に通じている。田川氏は在日朝鮮人の民族問題にもう金輪際触れたくないように、そういう現実逃避的傾向から、(意識的にしろ無意識的にしろ)、イエスをローマにあまり触れさせないようにしたのではないか? 私はそういう可能性もあっただろうと想像している。

第一章 逆説的反抗者の生と死

イエスは先駆者であり、一般に歴史の先駆者である場合、同時代の体制へのナイン(否)であるがゆえに同時代からは抹殺される。イエスの場合、例外的にその思い出がキリスト教という形で残ったが、そのために制度内への抱え込みが起きた。キリスト教というものは、いつもイエスの頭を飛び越してユダヤ教のイデオロギーを継承する。
[註1]

ここには「体制は悪、反体制は善」という田川氏の図式がある。イエスは先駆者=反体制者として偉大で、弟子たちの創始したキリスト教という宗教はシステムであり、制度的・保守的・回帰的なものだとされて否定される。

これは1960年代から80年代にかけての反体制派の価値評価であって、ソ連崩壊後、社会主義が衰微した現在では、残念ながらそれほどのインパクトはない。とはいえ私は田川氏とはいささか切り口は異なるが、今でも反体制派的な立場を概ね擁護している。

それにしても宗教としての、また制度としてのキリスト教は田川氏のいうような意味で批判すべき対象なのだろうか? 彼は自分の置かれた当時の時代状況から近視眼的に見ているようだ。キリスト教という世界宗教は「制度だから問題」といって済ませることのできる単純・簡単なしろものではない。

我々の現代世界はキリスト教ヨーロッパ主導のもとに築かれた。キリスト教は大きく見ればこの二千年にわたって我々の世界史を作り上げてきた主軸なのだといえる。当然そこには良きものもあれば悪しきものもある。

それにしてもイエスが我々にとって意味ある大きな存在になったのは、ただひとえにキリスト教会がメシア=キリストとして崇拝したからではないか? それを無視してイエス(それもキリストにされる前の人間イエス)だけを英雄視するのは、田川氏の「イエス教」の誤りである。

田川氏は、「イエスは良いが、他は良くない」という考えを持っている。これはイエスを比類なく図抜けた先駆者として、際限もないほど高く評価する姿勢から出てくるもので、彼の「イエス教」の立場に由来するものである。

その「イエス教」は田川氏が福音書研究者として生計を立てており、ともかくもそういう意味でイエスのおかげで食っていけるところに根拠がある。なにか歴史的・相対的なものを時代を超えた超歴史的・絶対的なものにすると(つまり人間イエスをイエス教化すると)、それがもとで必ず判断を誤ることになる。

もし無神論者の田川氏がキリスト教を批判するだけでなく、イエスを英雄視するみずからの「イエス教」までも捨てるなら、彼の眼はさらに自由になり、多くの真理を発見するに違いない。

一人の歴史的人物やその言葉をとらえるには、「歴史とは何か」という問いに帰着するほかない。歴史事項の羅列や純粋記述のようなものは無意識の体制利害の表出である(24)。近代聖書学の福音書伝承に対する批判的研究は非常に精密度の高いもので、その限りではかなり信用に値する(25)。あれこれの作業をしてふるい分けてイエスの言葉に到達しようとするが、それによってある程度確実な言葉が同定される。

ブルトマンは様式史的研究を通してその「言葉」に到達し、それを「教え」と見、その「教え」からイメージされるイエスを永遠絶対化する。しかしそのとき福音書に留められた「言葉」は例外なく福音書を産み出した原始教会の「生の場」と結び付けられているから、「言葉」の背景となった状況はすでにその「生の場」によって潤色されたものであるとして、史実のイエスの状況から切り離されてしまう。

イエスの言葉はある歴史状況の中で確かに発せられた筈なのだ。歴史の大状況はむろん小状況も現在分かっているから、「言葉」と「状況」をつなげる可能性がある。それもどれがイエスの言葉だったかは相当確かな割合で推量できる。「それは歴史的な想像力の問題で、主観・客観という軸からではふれることのできない課題、歴史的真実にどのように肉薄できるか、という課題なのである。これは決して歴史家の勝手な主観の持ち込みでない」(29)
[註2]

田川氏のように「歴史とは何か」という問いに帰着しそこから出発するのでは、はっきりした科学的結果を保証できない歴史哲学になってしまう恐れがある。そのうえ歴史事項の羅列や純粋記述を「体制的だ」として軽視しては、さらに曖昧になってしまう。だからこそ「近代聖書学は非常に精密で信用に値する」と保証するわけである。

だが彼が、様式史的研究から出たブルトマン・ディベリウス・ボルンカムなどの、「史的イエス研究の唯一の資料である福音書からは史実のイエス像は再現できない」という結論を批判し、歴史の知られている大状況と小状況からどれがイエスの言葉だったかは相当確かな割合で推量できるとするのには、少し危険がある。

判断基準を厳しくすれば福音書に記されたほとんどが史実のイエスとつながらないものになるが、ゆるくすればグレーゾーンの多くがイエスのものだと判定されてしまうのである。このグレーゾーンに、概ね自分自身の投影である自分のイエス像のイメージに合うものがあれば、史実のイエスにつながるものだと容易に判定されてしまうのだ。

すると容易に自分の欲するイエス像が描けるわけである。つまり田川氏はグレーゾーンの多くを史実のイエスとつながるものと判定しているが、本当はどうだか分からない。だから田川氏のイエス像も史実かどうか定かではない。

たとえば田川氏は、マルコ12:1〜9のぶどう園の譬話(労働者たちはぶどう園の主人の愛息を殺して財産を自分のものにしてしまおうとするが、愛息を殺された主人は、彼らを殺し、財産を他の人々に与える)は、イエスの言葉だったと判定し、これは農民暴動の話であって、悪しき農民は罰せられるべきだというこの譬話はイエスの限界を示すものだ、と述べている。

ところが、この譬話は明らかに、「ユダヤ人たちがイエスを殺し、福音を自分たちのものにしようとしたが、神はユダヤ人たちを見捨てて福音を異邦人たちに与える」ということを言っているのであって、したがってイエス死後の福音の異邦人への伝播状況を反映したもの、つまり後世になって創作された譬話である。こういうわけで田川氏のゆるい判定基準では「歴史家の勝手な主観の持ち込み」が十分に起りうる。


私としてはどうして田川氏が福音書の記述をそれほど信用するのか訳が分からない。というのも、田川氏もまた十字架贖罪死への道をイエスが歩んだとは考えていないからである。

田川氏は358ページ以下において、十字架上でイエスは神に見捨てられたと思ったが、イエスの死後、受難物語の語り手たちによって死の意義づけが行われ、十字架贖罪観が生じた、と述べている。

いうまでもなく「マルコによる福音書」は十字架贖罪死への道を、段階を追って一段一段、計画的に・
自覚的に歩むイエスの姿を描くのが中心テーマであり、他の福音書もそれを忠実に踏襲している。すると各福音書は「みずから歩む十字架への道」という偽りの人生をイエスに歩ませたわけである。

これは例えていえば山を目指した登山家を海を目指した漁師に仕立て上げたと同じ、いやもっと正確には、大統領を目指した政治家を新宗教を目指した宗教家に仕立て上げたと同じである。

となれば不可避的に福音書におけるイエスのあれこれの物語や譬話は多かれ少なかれ信頼できないものになるだろう。控えめに言っても、いつわりの人生を描くことが中心テーマなら(枝葉末節はむろん)本筋のほとんどが虚偽・捏造だということであり、一体「マルコによる福音書」の中のどれとどれが信用できるのだろうか?と強く疑うべきところだろう。

イエスの自覚的な十字架贖罪死への道が史実でなく福音書記者たちも加担した作り話であることを認めていながら、なぜ田川氏は福音書の中の多くの記述を信用できるとするのだろう?

福音書には「イエスの言葉」として「愛」という単語はほとんどない。イエスは愛の説教者でなかった。マタイ・ルカの教義的立場から「愛」という言葉が強調され、キリスト教が「愛の宗教」というふうになった。「愛神・愛人」を律法最高の規範だとする思想は当時のユダヤ教の中で流布していたものである。

『12族長の遺言』というユダヤ教の書物があるが、原始キリスト教団の中の律法学者的修練を経た者がこの『遺言』を継承し、また教団のイデオローグとなっていた。イエスは愛神・愛人のこのような律法制度全体に批判の矢を向けたのだが、のちにイエスの弟子たち、もしくは原始教団がこれを表看板にし、自分独自の本質であるかのように言いふらした。(34)
[註3]

イエスが愛の説教者でなかったのは確かなようだ。キリスト教において愛の教説が成立したのは「神の子羊」信仰が成立したときである。「人類の罪の贖いのため、神がその独り子を十字架にかけて犠牲にした」という信仰は、「ヨハネによる福音書」にあるように、「神はその独り子を賜うほどに、この世を愛してくださった」(3:16)という記述となって現われている。これが愛の教説の根本だ。

むろんこれはすでに福音書より古いパウロ書簡にもパウロの核心をなす本質的な思想として見られる。たとえば「コリント人への第一の手紙」5:7に、「わたしたちの過越の子羊であるキリストは、すでにほふられたのだ」とあり、また、「ローマ人への手紙」5:8に、「・・・・わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」とある。

そういうわけで、イエスの十字架贖罪死を基本メッセージとする各福音書は田川氏の指摘するマタイとルカも含め、当然、愛の教説を説いているが、とりわけヨハネ宗団(ヨハネによる福音書・ヨハネ第一・第二・第三の手紙などを産み出した)に特徴的なものである。

「神は愛である」という有名なフレーズはヨハネ第一の手紙4:8〜9に、

「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はその独り子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」

として見られる。

しかしこの「神の子羊」の十字架贖罪死信仰は、イエスの死後、イエスが「過越の祭」の直中であたかも「過越の子羊」のように十字架上で殺されたという全く偶然に起きた出来事によって生起した信仰であって、したがってイエスのあずかり知らぬことだった。だからイエスが愛の説教者であった筈はない。

とはいえ、田川氏のいうように、愛神・愛人がすでに当時のユダヤ教の律法の中にあったからといって、それは非難に値するものだろうか? 愛神・愛人はもしそれが言葉だけのものでなく実践されているものであれば、宗教人ならどのような状況下にあろうとも最高度に評価されてしかるべきものだろう。田川氏は宗教人でないから評価しなくても良いのだろうか? 

だとしても宗教人であったイエスの弟子たちがこれを標榜してなにが悪いのだろう? もし問題があるとすれば、愛神・愛人論をユダヤ教から剽窃したという点だが、新約聖書のどこに自分独自の本質であるかのように剽窃したと判断できる記述が見られるのだろうか? それに、剽窃どころか、この愛がギリシア語の「アガペー」であるかぎりは、これはやはりユダヤ教の律法にはない新しい愛の概念である。

隣人愛の隣人もユダヤ教ですでに定義されていた。つまり血統としてユダヤ人でかつ信仰共同体としてもユダヤ人である隣人理解である。しかしイエスは「良きサマリヤ人」のたとえでこれを突き崩そうとした(35)。

しかし「サマリヤ人でさえこんなに良いことをする」という発想は、差別意識のウラガエシで、差別に気づいた良心的な人々が差別を克服するために最初に抱く心優しい発想だ。イエスもこの水準を超えていない。

イエスはサマリアでは活動していないし、弟子や支持者たちの中にもサマリヤ人は見当たらない(マルコ3:8)(40)。しかしガリラヤは政治経済的に自立性がもともと小さく、マカビー朝によってサマリヤよりもたやすくユダヤ化された。そういうガリラヤ系のユダヤ人としてイエスは存在し、思惟し、活動した。だからこの譬話でイエスの論点は、日常的宗教性の支配に対する反抗なのだ。

イエスは隣人の枠を決めようとしてない。隣人というものは自分の方から隣人になるものなのだといっている(42)。「敵を愛せよ」(マタイ5:44)も隣人愛の観念の背後に無意識に「敵を憎め」を伴っているから、これを直視しなければならないということである。敵を愛せよというのはもともと逆説にすぎないが、これを突き出してイエスは反抗する。皮肉をあげつらう。(45)
[註4]

田川氏は良きサマリヤ人の譬もイエスに由来するものとしているが、あとでイエスはサマリヤでは活動したことがないし、弟子や支持者たちの中にもサマリヤ人は見当たらないとも記しているほどだから、この譬話が本当にイエスのものなのかどうか、甚だ疑わしい。

愛の説教者でなかった筈のイエスが「良きサマリヤ人」の譬話をし、それを通して隣人愛の定義においてユダヤ教の殻を破り、一歩先に進んだというのも、(「サマリヤ人でさえこんなに良いことをする」という発想は、差別意識のウラガエシで、イエスもこの水準を越えていない、うんぬんはともかく)、少しこじつけのように感じられる。

「良きサマリヤ人」に見られる隣人概念のこのような広がりは、おそらくキリスト教成立後に異邦人伝道が始まってからのものであろう。異邦人が伝道対象になるほどなら、ユダヤ人からは異質と見られたサマリヤ人たちも当然伝道対象として隣人になりうる。その頃なら新しい隣人概念を示す「良きサマリヤ人」の譬話も自然だ。だとすれば、それはこの譬話がイエス死後に成立したことを示すわけである。

原始教団の禁欲共同体論は事実でない。自分の財産を教団になげうったのは二、三の例外のみである(46〜7)。これは教団の精神的な建前だった。それもクムラン教団のような荒野で実践されているものの精神的継承にすぎない。
[註5]

二、三の例外のみだというのは言い過ぎであろう。『使徒行伝』2:44には、「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有し、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」とあり、また『使徒行伝』4:32には、「信じた者の群は、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有していた」とある。

教団の慣行がそうだった。これは終末切迫信仰が機能している間は概ね実践されていた。だから単に精神的な建前に終わったのではなく、教団内の所有関係の基本は事実そうだったのだ。

『使徒行伝』5:1〜11には、アナニヤ・サッポラ夫婦が財産を売り払って一部だけを持ってきて全部のように誤魔化そうとし、ペテロに見破られて天罰で死亡するという記事がある。こういう不正があったことを記しているのは、やはりこういう慣行が広く教団内で実行されていたことの現われである。これについては[註30]でも言及しておいた。

イエスに遡りうる言葉として、「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい」(マルコ9:43)があるが、これを見ると次のことがわかる。

 (1)イエスはある種の不気味につきつめた思想的雰囲気を持っていた
 (2)こういう思想を普通の人にもつきつける
 (3)そのくせどこまで本気で言っているのかわからない
[註6]

これが事実、イエスに遡る言葉かどうかという問題はさておき、(1)(2)(3)の性質はまさに田川氏のそれを髣髴させる。これを田川氏が自分の性質をイエスに反映させていると見れば、「マルコによる福音書」にあるこの言葉がイエスに遡るという可能性は少し減る。

現代社会科学の成果である社会や国家の概念など古代のイエスの時代にはなかった。だから支配ー被支配の国家権力的総体へのイエスの反抗などというのはやりすぎである。また取税人とつきあったイエスを解釈して支配ー被支配関係を超越していたとみるのも間違いである。無意識であろうとも支配体制を肯定する気持ちがどのようにイエスの中ににじみ出ているか、また逆に、直感的な憤りにすぎないとしても、支配体制のもろもろの表現に対してどのようにイエスが抗ったか、ということを明らかにするのが、歴史的現実の中に生きた人間イエスを理解する仕方である。

「私は義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」(マルコ2:17) 「取税人や遊女の方があなた方よりも先に神の国に入る」(マタイ21:31) これらのイエスの言葉は社会秩序からのはみ出し者こそ、という立場であって、制度的な義人・倫理思想への反逆なのだ。

「義人でなく罪人が救われる、と主張することは、はなはだしい危険をはらむ。固定した真理とするとおかしくなる。しかしイエスは人類に真理をもたらした人ではない。現状を支配する「真理」を拒否する逆説的反抗者だったのだ」(58) 

99匹よりも1匹という譬にしても、これは客観的には不合理である。しかし、世の中全体が算術的合理性をもって強制してくる時に、それに抗おうとすれば、こちらも強引にそれを裏返して主張するのでなければ強い衝撃力をもてない。99よりも1!という時、全体への均衡ある配慮は失われている。暴論ですらある。だがそう叫ばなければならない時もしばしばある。逆説的反抗である(65)。そしてこういう人物は悲劇に突入する。しかし歴史を動かして来たのはさまざまな悲劇だ。
[註7]

現代における階級闘争的な支配ー被支配のトータルな把握はともかく、古代においても一般に、ローマの植民地的支配に対しては民族的な視点からする支配ー被支配のある意味でのトータルな把握は可能だったのではないか? 

「民族」というものの近代的な把握は当時存在しなかったとしても、たとえば祖先をアブラハムとするとか民族宗教の祖をモーセにするとかなど、なんらかの民族一致的なトータルな視点というものがなければ、紀元66年に熱心党などによって引き起こされたユダヤ戦争も説明できない。そこにはそれなりの国家・社会的な視点はあるだろう。

当時、イエスが近代になってやっと人類が発見した地点にすでに到達していた筈はないし、これは余りにも明らかだが、田川氏が、イエスをあまりにも時代に先んじた英雄のように想定しているため、「イエスは階級闘争的なところまでは進んでいないのだよ」というような自制をしているのではないか? 

そして田川氏がそう自制的に主張する必要は、この著作が書かれた時代の直前には存在していた。なぜなら1970年代、全国を吹き荒れた大学紛争の直中で、各地の神学大学や神学部などではイエスをマルクスになぞらえて闘争していたからである。

しかし本当は田川氏が、 現代社会科学の成果である社会や国家の概念など古代のイエスの時代にはなく、だから支配ー被支配の国家権力的総体へのイエスの反抗などというのはやりすぎである、 などといったことを改めて言うのは、実はイエスを非政治化するためなのだ。

つまりイエスにおける近代社会科学的視点の欠如を無批判に横滑りさせ、第六章「イエスの批判─ローマ帝国と政治支配者」において、 イエスは歴史社会的変革のためのプログラムを持たなかった、 というふうに後へ続けるわけである。

田川氏が、イエスは歴史社会的変革のためのプログラムを持たなかった、というようなことを言う場合、どういう意味で「歴史社会的変革」と言っているのであろう? むろん明らかに近代社会科学的なものではあるまい。しかし当時のたとえば「神の国」運動のプログラムであれば、イエスはそれなりのものは持っていたかもしれないではないか。

ところが、田川氏はのちの第六章「宗教的熱狂と宗教批判との相克で」において、 時々当時のユダヤ教の「神の国」に言及したイエスにしたところで整然とした神の国思想を持っていたのでない、 と述べることによって、「神の国」の持つ政治性からもイエスを排除してしまい、イエスをほとんど非政治化してしまう。

だから「義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」とか「取税人や遊女の方があなた方より先に神の国に入る」とか「99匹より1匹」などというように、イエスは常識の論理を意図的に逆転させ、皮肉を言い、基本的にはせいぜい制度的な社会的不義に対する単なる憤りの人、それも主に口だけの憤りの人でしかなくなる。これはまさに田川氏自身のイメージだ。

しかしたとえ嫌われ者にはなっても、口だけの人にそれほど大きな危険があるわけではあるまい。イエスが十字架の刑死という悲劇に突入したのは、第四章「イエスの批判─ユダヤ教支配体制に向けて」において示されている田川氏の見解によれば、まさしくエルサレム神殿に対する批判の言葉によるとするが、批判の言葉もそれだけではやはり口だけのものである。

とはいえ田川氏のこの見解は誤りである。神殿批判だけではそれはユダヤ教内の問題であって、それが理由でローマが、重罪政治犯などに対する正規の死刑法である十字架に架けてイエスを殺すわけがない。そこに反ローマという政治的反逆の要素がなければ、十字架刑を説明できないことになる。

ところでマルコ15:26に「イエスの罪状書きには『ユダヤ人の王』と、しるしてあった」とあるから、イエスの場合、「ユダヤ人の王」を僭称したという罪名で十字架刑が執行されているわけである。この罪状書きのことは全ての福音書(マタイ27:37 ルカ23:38 ヨハネ19:21)が記している。

おそらくこれはイエスが高度に政治的存在(たぶん「神の国」の黙示録的到来を告げる政治的メシア)だったことを示す名残りだと思われる。ユダヤ人の王を決めるのはローマ皇帝であって、それを僭称するのは高度な政治的反逆であろう。それは十分にローマの十字架刑に値するわけである。

またイエスに帰属するとされた先の三例(義人と罪人・取税人や遊女・99匹と1匹)がはたして史実のイエスからのものかどうかも厳密には分からないし、たとえ史実のイエスからのものだとしても、逆理を利用して皮肉としてイエスは語っている、というような、田川氏の皮肉的解釈のそれだとは限らない。

もっと政治的実践を意識したなかでの理念的なものだったのかもしれない。田川氏がイエスから政治性を剥奪しようとしたから、イエスは単なる皮肉屋のようなものに矮小化されてしまったと私は考えている。

第二章 イエスの歴史的立場
一つの思想が反抗の思想でありうるのは自己の歴史的場に対して自覚的に切り込もうとする時で、イエスの場合もそうである。イエスは超歴史的な無時間的真理とは無縁だ。イエスも時代の子だから無自覚的には当時のユダヤ教徒の常識的発言を繰り返して言っている部分もかなりあった筈である(82)。しかし自覚的には逆説的反抗をした。原始教団、特にマタイ集団は、自覚的にユダヤ倫理を取り込んでいる。
[註8]

第四章「イエスの批判─ユダヤ教支配体制に向けて」における田川氏の言葉によれば、 イエスは自分に治癒の奇跡能力があると信じていた。また 第六章「宗教的熱狂と宗教批判との相克」での田川氏の文章によれば、 イエスには宗教的にぐんぐんのめりこんでいる一点があり、それは病人の治癒で、イエスは悪霊の首領と、治癒を通して闘い続けているという考えを持っていた。

しかし明白なように、悪霊の首領と闘って病人を癒すという構図は、体制批判者としてのイエス像とスムーズにつながらない。悪霊というのはいわば形而上学的存在として超歴史的・無時間的だから、このような悪霊の首領との闘いがもしイエスの頭を占めているなら、ふつうは歴史社会的な問題、つまり体制問題にあまりイエスは関心を持たないはずである。

超歴史的・無時間的な悪霊と闘いながら、果たして自己の歴史的な場に自覚的に切り込めるのだろうか? この不調和を田川氏は説明しなくてはならない。

私はイエスが体制批判者だったということに反対はない。イエスは体制批判者どころか、神の黙示録的介入で「神の国」をもたらし、宇宙を一変させようと志した「政治的メシア」だったと考えている。(
『マルコによる福音書の新考察』のページをご参考)

田川氏は、一つの思想が反抗の思想でありうるのは自己の歴史的場に対して自覚的に切り込もうとする時で、イエスの場合もそうである、などと知的にうそぶく口先だけの体制批判者であるが、イエスは命をかけた体制変革の実践者だった。

ソロモンの栄華よりも野の花、という言葉はイエスの自然的ななごやかさへの傾斜を示す。そして、当時の大げさなローマ風の大建築に対する反感、ヘロデの神殿への反感が込められており、これが神殿を支えているユダヤ教の全宗教支配体制に向けられてゆく。イエスはローマ風の大都市には足を向けない。その周辺の小都市、村落を中心に活動する。イエスの職はマルコは大工という(マルコ6:3)。大工は石工でなく、家具・漁具・船大工などで、農業や漁業に詳しい。仕事の上で相当広範囲に歩き回ったことだろう。彼は生活上、そして思想上、宗教家でなかった。十二弟子を引きつれて宣教する姿は後世の教団の投影である。(87)
[註9]

田川氏は人工や中央への反撥をイエスの反体制性につなげるが、自然や辺境志向者としてのイエス像は田川氏の要求するイエス像の非政治性からくるものである。イエスは反体制的でなくてはならないが、非政治的でなくてはいけないわけだ。

反体制とはユダヤ教支配体制への反撥、非政治性とはローマの植民地支配への無関心を意味する。だから田川氏は第三章「イエスの批判─ローマ帝国と政治支配者」において、イエスの中心的課題はローマ支配層に対するものでない、と言うのである。

「反体制的ではあるが非政治的」というのはちょっとありそうにない。非常に不自然だ。もしイエスが大建築の神殿を通してユダヤ教支配体制に反感を抱いたのであれば、なぜローマ風大建築を通してローマ支配体制への反感を抱かなかったのか? 

政治と宗教とが一体のものとして融合している当時のユダヤ社会の中で、なぜユダヤ教支配体制批判がローマの政治支配体制批判につながらなかったのだろう? 当時のユダヤ人なら誰でも出来るのに、なぜイエスは社会的諸悪の根源のひとつとしてローマの植民地支配を見ようとはしなかったのか? 不自然このうえない。

それにしても、彼は生活上、そして思想上、宗教家ではなかったというのは一体何を言っているのだろう? 生活上、宗教家でなかったというのは大工の職業のことを言っているのか? それでは宣教中、イエスの収入はどこから来たのか? 

宣教活動から来たのであって、まさか大工の職業からではあるまい。したがってイエスは生活上では治癒の奇跡行為者として宗教家の端くれだったわけだし、同時に様々な説教や譬話をする点でも宗教家だったわけではないか。

それでは思想上、宗教家でない、とはどういう意味だろう? ユダヤ教思想の枠を離れているということだろうか? それともユダヤ教組織から離れているということだろうか? 田川氏もイエスは時代の子だからと言っているから、おそらく前者ではない。すると後者のことになる。それなら思想上、宗教家ではない、とは言わないで、組織上、宗教家ではない、というべきだろう。

それはともかく、そもそもユダヤ教組織から離れていることと宗教家でないこととは別であろう。このような用語法は非常に紛らわしい。果たしてイエスが当時のあらゆるユダヤ教組織から離れていたかどうか甚だ疑問だし、またイエスの集団それ自体が、たとえ十二弟子システムというものがまだ確立されていなかったとしても、ユダヤ教内の自然発生的な一つの宗派組織でもあったわけである。

結局、イエスは生活上、そして思想上、宗教家ではなかったというのは、無神論者で大学教員の田川氏の立場の投影なのだと思われる。

イエスの時代史的研究には二流あり、一つは宗教史的な歴史観に立つ。これはイエスを宗教家とみなす。もう一つは政治史的に歴史を見る。しかしこれは上部構造だけを見るのであって(例えば八木誠一の『イエス』)、十分な成功は期待できない。荒井献の『イエスとその時代』はM・ウェーバーの方法の焼き直しでその時代の歴史に迫りえてない(91)。土井正興の『イエス・キリスト』は彼が神学者でなくローマ史の歴史家であるため一層歴史に近づいているが、結局、神学者の描くイエスの政治的裏返しにすぎない。

熱心党は律法に対して熱心であるからこう自称したのだろう。熱心党はA.D.66〜70年の第一次ユダヤ戦争で独立軍の主力をなした民族的なラディカリストである。マルコによる福音書の中で熱心党に言及したところはただの一箇所マルコ3:18だけで、おそらくマルコの時代になって熱心党が人々の眼につきはじめ、かつてはイエスの弟子であったシモンが熱心党員になったので「熱心党のシモン」と書いたのだろう。どうあれ、イエスが熱心党に強く関与したという考えは誤りだ。一部の神学者は、弟子たち、はてはペテロまで熱心党員にしてしまい、イエスが彼らの立場を批判して彼岸的救いを指し示していると主張をしている。
[註10]

二流あるなかで田川氏自身はどれに属するのであろう? 明らかに宗教史的な方ではないだろう。すると政治史的な方だろうか? どうやらそうでもなさそうである。八木誠一氏や荒井献氏や土井正興氏をなで斬りにしているのをみると、彼らとは別の第三の新しいやり方があるのだろうか?

田川氏が「政治史的に見るのは上部構造だけを見ているのだ」といっているのは、田川氏が政治より深い下部構造(経済システム)を見ているということであろうか? しかし田川氏のこの著作にはそう言えるだけの古代ユダヤ社会の経済分析は記されていない。

さらにいえば、田川氏がイエスと熱心党との関係も認めず、またイエスが政治的にローマによって刑殺されたことも認めないのに反して、ローマ史家の土井正興氏が『イエス・キリスト』(三一新書)で熱心党とイエスとの関係を詳しく論じ、またローマの重罪犯に対する正規の死刑法である十字架刑に絡めて、イエスが「ユダヤ人の王」を僭称して、ローマの植民地支配への反逆者、「神の国」の到来を告げる黙示録的な政治的メシアとして処刑されたと主張しているのは、明らかに正しい。

土井正興氏は『イエス・キリスト』(三一書房)の149ページで、「それ(イエスの歴史的性格)は、・・・・彼が、ローマ支配をくつがえして『神の国』=『ユダヤ人の王国』を建設しようとしたメシアとして、この運動を鎮圧したローマの代官によって、ローマの刑罰たる十字架刑によって刑死したということである」と述べている。

また八木誠一氏は『イエス』(清水書院)の188ページで、「十字架刑はユダヤ式の死刑ではなく、ローマのものであり、ローマに対して反乱を起こした者がこの刑に処せられた。これは重要な事実である。イエスはローマに対する政治犯として処刑されたのである」と記している。

むろん田川氏が正しいのでなく、田川氏が無批判になで斬りにしたこれらの著者たちの方が正しい。田川氏が『イエスという男』で描いたイエスは史実のイエスとは違うわけである。

田川氏がイエスと熱心党との関係を否定するのは、熱心党がローマとの戦争であるユダヤ戦争の主力であり、まさに反ローマ勢力として政治的だったからである。もし田川氏が反ローマ政治犯としてイエスが処刑されたことを認める立場であったなら、彼はイエスと熱心党との関係をことさら目くじら立ててまで否定する必要はなかったであろう。

イエスが黙示録的な政治的メシアとしてローマによって処刑されたのであれば、たとえイエス自身は熱心党員でなかったとしても、イエスと熱心党との関係は、非常に近くなる。

マルコ8:30ではペテロの「あなたこそキリストです」に対し、イエスは沈黙を命じている。エリヤとかヨハネの蘇りとかに関連させてキリストという概念を選び取るというなということである(99)。マルコは、イエス死後ペテロを中心としたエルサレム教会のメシア論議に批判的で、こうした創作をした。マルコは、ユダヤ教宗教体制およびその中にうまく自己の宗教集団を安全に滑り込ませて生きていたペテロ一派と、エルサレム宗教体制に抗って殺されたイエスとを対比させようとしている。
[註11]

田川氏とは全く反対といってもいい別のアプローチから判断してだが、「あなたこそキリストです」というペテロの告白を「マルコによる福音書」の記者の創作だとするのは正しいと思われる。というのも、田川氏の考えとは違い、もともとイエスは「政治的メシア」として登場したので、初めから自分はメシアであると公表していた筈なのだ。

「政治的メシア」は政治的にしか機能しえず、大衆に自分がメシアであることを公然と知らしめなくてはならないからである。だから宣教開始後ずっと経ってから今さらペテロが「あなたこそキリストです」と告白するのはおかしい。

そもそも「マルコによる福音書」の記者は、イエスは十字架贖罪死への道を意図して歩んだ「宗教的メシア」ではなかったのに、原始キリスト教会発足の原因となったイエスの十字架贖罪死に対する信仰を受けて、イエスはまさしく十字架贖罪死への道を意図して自覚的に歩んだということを伝記風に示すために、福音書という文学類型を創出し、そういうイエスの生涯を創作してみせた。
イエスが十字架贖罪死への道をいかなる意味でも歩んだことがない証明はここでなされているので、ご参考いただきたい。
「マルコによる福音書」の記者が「宗教的メシア」を創作するに当たっては、始めイエスは弟子たちにも自分がメシアであることを隠していたが、宣教開始後、弟子たちに、たとえば風を叱って止ませる(4:39)、五つのパンと二匹の魚で五千人を食させる(6:30〜44)、海上を歩く(6:49)などなど、様々な自然奇跡を見せるなどして、ついにペテロのこの告白に至ったというふうに記した。

「マルコによる福音書」のなかのペテロは「あなたこそキリストです」と告白するが、この場合、福音書を読む同時代人が当時の一般常識に従って「政治的メシア」として告白していると思ってしまう恐れがあると「マルコによる福音書」の記者は憂えていて、それですぐあとに、受難と三日後の復活の未来を予告してその上でその道を歩もうとするイエスの言動と、それをいさめようとするペテロの言動とを、一対にして創作し、イエスをして、そのペテロに対し、「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱らせるのである。

これは、「あなたはおそらく一般の常識に従ってわたしを政治的メシアであると誤解して『あなたこそキリストです』と言ったのであろう。だから未来の私に起きる受難と三日後の復活の意味が分からず、その道へ歩もうとする私をいさめようとするのだ」という意味なのである。

こういう一連の問答はむろんイエスの生前には行なわれなかった。イエス死後の十字架贖罪死信仰があってこその受難と三日後の復活についてのイエスの予告であるが、この十字架贖罪死信仰とは「神の子羊」信仰であって、それは過越の祭の直中でイエスが「過越の子羊」のように殺され、イエスがまさしく「神の子羊」のように弟子たちに見えた、という全く偶然の出来事が起きて初めて成立したものだからである。

だから十字架贖罪死信仰はイエス自身でさえ全くあずかり知らない信仰なのだ。したがって、イエス死後のそういう信仰があってこそ成立するイエスとペテロとの間のキリスト告白に関わるこの話は、全体がすっかり「マルコによる福音書」の著者によってのちに創作されたものであることが明白である。

ちなみにイエスが「あなたこそキリストです」と告白したペテロに対し、「だれにもそのことを話すな」と沈黙を命じ、口止めしたのは、いわゆるヴレーデの「メシアの秘密」説(「マルコによる福音書の新考察」参照)に似た解釈ができるものである。

そもそも「マルコによる福音書」の記者は「政治的メシア」だったイエスを「宗教的メシア」だったかのようにすっかりその生涯を捏造しようとしたものだから、歴史的事実としてはペテロのそういう告白などいささかも存在しなかった。

それでその嘘を暴かれないために、「イエスが口止めしたから、ペテロのこの重大な告白が初めのうちずっと我々に伝わっていなかったのだ」という説明目的をもって、イエスに口止め、すなわち沈黙命令を出させているのである。これは田川氏の言うように「マルコによる福音書」の記者が原始教会の指導者であるペテロ一派とメシア観で対立していた証拠なのではない。

田川氏が、ユダヤ教宗教体制およびその中にうまく自己の宗教集団を安全に滑り込ませて生きていたペテロ一派と、エルサレム宗教体制に抗って殺されたイエスとをマルコは対比させようとしていると言うのは、1970年代から80年代にかけての日本で支配的だった体制ー反体制図式に過度に支配された田川氏の判断からくる一種の行き過ぎた嫌悪感のなせる誤りである。体制ー反体制という図式だけで歴史の全てを一元論的に・単線単眼的に見てはならない。

熱心党は社会主義でも現代の民族解放戦線でもない。そんなことは歴史学的にありえない。それはイデオロギー的読み込みにすぎない。熱心党は階級意識などに無意識的な超階級的な神政政治を理念にかかげる極端な民族主義の集団だ(101)。

ガリラヤのユダがA.D.6年にローマに抗してユダの乱を起こす。これはつぶされたが、後の第一次ユダヤ戦争につながるものとされる。反乱を起こしたユダは神以外の支配者を否定した。それは宗教がその建前を貫徹するなら「宗教」の枠を根源的に突き破ることを示す。これは良いが、もし反乱が成功しみずからが権力の座に着くと、「これが神の支配だ」と民衆に迫ることになる。(109)
[註12]

イデオロギー的読み込みにすぎないうんぬんというのは、イエスの政治性やイエスと熱心党との結びつきをあくまで否定しようとする田川氏の過剰反応である。だれも熱心党がそのような組織だとは言っていない。

みずから熱心党主導の第一次ユダヤ戦争にも加担しのちに『ユダヤ戦記』を著したヨセフスの『ユダヤ古代誌』によれば、
ガリラヤでユダがA.D.6年にローマがユダヤに課した人口調査(神の選民に対する侮辱や植民地収奪のための基本資料になる)に反対して決起したこと、これが熱心党の起こりとなった。熱心党はこのとき以来の組織で、その活動はガリラヤのイエスの成長期に重なる。つまり同じガリラヤだからイエスが熱心党から大きな影響を受けてもなんら不思議はない。

ところで、宗教がその建前を貫徹するなら「宗教」の枠を根源的に突き破ることを示す、と田川氏は格好よく言うが、まさに政治的メシアとして処刑された史実のイエスがそうではなかっただろうか? そして田川氏のこの言葉の意味が、宗教人としてのイエスはそれを突き破って政治にまで踏み込んだという意味でなかったのなら、田川氏のいかしたポーズのこの言葉にいったいどういう意味があるのだろう? 

田川氏は一方で「これは良いが」と肯定はするものの、もし反乱が成功すれば神制政治を敷かれてしまう、と恐れるのは、政治的メシアとしてのイエス像を否定する彼の立場からくるものであろう。

パリサイ人(在家の宗教運動家で律法学者の大きな派閥、最高貴族層のサドカイ人よりも下位)にはシャンマイ系とヒレル系があり、前者は民族主義的、後者は国際的・親ローマ的だった。前者がユダの乱に結びついている。熱心党もこの線上にあろう。しかし第一次ユダヤ戦争ではヒレル系が生き残り、それ以後のユダヤ教はヒレル派一色になり、残された資料もその視点から描かれたものである(110)。

イエスはガリラヤ人であったためローマの人頭税を払う必要はなかったものの、様々な名目でのエルサレムからの税金は払わされていた。神殿税その他である。当然、エルサレム宗教支配層に対する反感がある。カイザルのものはカイザルへ・・・・というのも、彼岸と此岸との区別を意味しているのでなく、皮肉として言っているので、カイザルへの人頭税と神殿税の両方に皮肉の眼差しを送っているのだ(114〜5)。
[註13]

神殿税でイエスに反感があったのなら、ローマの植民地統治による様々な形態の収奪に対してイエスは反感を抱かずにすむものだろうか。イエスはローマの人頭税を払わずに済んだから反ローマの必要はなかったのか? それならイエスはユダヤ全体の利害に背を向け、ガリラヤ人であることの僥倖のためだけで反ローマの姿勢を取らなかったことになる。これでは「良きサマリヤ人の譬話」によって示された筈の隣人愛もなにもあったものではない。

マルコ12:17に「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」という記述があって、その前後の物語も含め、マタイとルカの各福音書がそれぞれそれをそっくりそのまま利用している。それは、ローマと闘って処刑された政治的メシアとしてのイエスの立場ではなく、十字架贖罪死の宗教的メシアとしてのイエスを信じる立場から記されたものである。

キリスト教はイエスの反ローマ性をひたすら隠しローマ世界に適応しようとしていたから、そういう姿勢がここにこのような物語として福音書に描かれるに至ったのだ。つまり「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」は史実のイエスの言葉ではない。

むしろ反対に、「ルカによる福音書」23:2によれば、逮捕後イエスはローマ総督ピラトの前で、「わたしたちは、この人が、国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」と訴えられている。

史実のイエスは、「ユダヤ人の王」という罪名で処刑された事情を考えてみても、事実、「自分こそ王なるキリストだ」と公然と主張したであろうし、またもう一つの訴因である「貢をカイザルに治めることを禁じ」という方も、おそらく事実だっただろう。それは田川氏のいうような「皮肉の眼差し」というような薄っぺらなものでなく、反ローマに命を懸けた政治的姿勢だったのだ。

第三章 イエスの批判─ ローマ帝国と政治支配者
イエスの中心的課題はローマ支配層に対するものでなく、民衆の生活に密着したユダヤ教に対する闘いだった。「古代の民衆にとって権力者の横暴や戦争による被害は自然の災害のように思えた」(120)。そして災難を受けた者は罪の応報と語られた。イエスは罪の応報とは考えなかったが、権力の横暴を一つの自然災害のように思っていた(121)。
[註14]

ここにイエスを非政治化・非反ローマ化させようとする田川氏の姿勢が鮮明に現われている。そしてこういう見方が根本的に誤っていることは、これまでの[註]で読者は納得された筈である。

古代の民衆にとって権力者の横暴や戦争被害がもし地震や台風と同じ自然災害のように思えたなら、どうして第一次ユダヤ戦争のような反ローマの抵抗軍事闘争が起き得たのだろう? またその他さまざまな政治に対する民衆闘争がありえたのだろう? 古代史をひも解けば、ローマ帝国にも、古代イスラエルにも、古代エジプトにも、その他どこにでも、民衆のこうした硬軟の政治闘争は、それこそ数え切れないほど無数に存在する。

ローマ支配は自然力のようなもので抵抗不能のように思えた、イエスもそうだった、という田川氏のこういった暴論は、ただひとえにイエスを非政治化・非反ローマ化したいがためのものである。

なぜ田川氏はこうまでしてイエスを非政治化・非反ローマ化したいのであろう? このように情けない現状肯定者のイエスにいったい何が望めるというのだろう? イエスはローマというどうにもならない大いなる敵は諦めて、ユダヤ教体制というより小さな敵を相手にしたのか? これが田川氏に「イエス教」を掲げさせた英雄の姿なのか? 

災難不幸の小因を責める者は大因をも責める。誰でもユダヤ教支配体制に対して現状否定なら、それと結託していたローマ支配体制に対しても現状否定になるのではないか? とりわけローマの支配体制は異教(皇帝を神の一人とする)を信じる異民族支配体制だから一層そう言えよう。これが自然であろうと思う。

これらの間を区別して、一方は肯定、他方は否定というのは非常に不自然な綱渡りだ。その肯定も無様な諦念型で、また否定でさえもたかだか皮肉抵抗型というのも情けないイエスの姿である。

田川氏によれば、イエスは一般常識とは違って災難を罪の応報とは考えず、権力の横暴という災難を自然災害のように思っていたそうだが、よく考えると災難を罪の応報と考える方が人間に改悛・改善の道があるので、自然災害と考えるよりはより良い状態へ向けてもっと人々に実践を促すだろう。

田川氏は、イエスが災難を罪の応報でないと考えたことで、民衆の常識レベルを革命的に凌駕しているかのように描こうとしているが、結局は横暴自然災害論者のイエスは、民衆の改善努力をあざ笑っていることになる。このようなイエスなど一般民衆以下だと言っていい。

「もう一つの頬を向けよ」というイエスの言葉は、すでにQ資料において、「敵を愛せよ」と結び付けられている。ともに人間として可能なことではないのに、原始教団は寛容の精神として理解しようとしている。しかしこれは実践不可能な道徳的美言にすぎない。たとえ努力した人が多少いたとしても。イエスはやぶれかぶれの皮肉で言っている。なぐる者にはもっとなぐられてやれ。上着をとるなら下着もやれ、一里行かされたらもう一里行ってやれ(125)。しかしイエスはこれを忍従すべき自然災害のようなレベルで考えている(126)。
[註15]

自然災害論者であれば、こうした忍従もあるだろう。しかし「もう一つの頬を向けよ」や「敵を愛せよ」などなどはイエスの言葉でなく、イエス死後にキリスト教を宣教する上で原始教会の取った倫理戦略なのである。このような忍従が信徒獲得に必要で非常に大きな効果があったからこそ、これらは高度な倫理戦略となった。

むろんここで愛の対象となる敵には、形而上学的な究極の敵であるサタンやユダヤ教支配層の祭司・律法学者や異教の聖職者などは含まれない。愛の対象となる敵は彼らの手先ではあるが原始キリスト教会の宣教対象でもある民衆レベルの敵のことである。

「敵を愛せよ」はマタイ5:44とルカ6:27、35に全く同じギリシア語句(アガパテ トゥース エクスルース ヒュモーン)として見られるが、そのギリシア語原文の直訳は、「敵を愛せよ」でも巷間に流布された「あなたの敵を愛せよ」(汝の敵を愛せよ)でもなく、「あなたがたの敵たちを愛せよ」である。

だから愛の対象である敵は個人の敵ではなく教会の敵であり、敵は単独ではなく複数で、したがってこの句の意味は「今のところ教会の敵となっている民衆を愛せよ」ということである。個人道徳としては非常に困難でも組織方針としてはやれることもある。

だからこれは破れかぶれでも皮肉でも何でもない。実践嫌悪症の田川氏だけがそう言っているのである。


ちなみに、「あなたがたの敵たちを愛せよ」が「あなたの敵を愛せよ」というように訳されて極度に個人道徳化したのは、おそらく原典のギリシア語聖書がフランス語やドイツ語や英語に翻訳された時からであろうと思われる。

この聖句はラテン語訳聖書では diligite inimicos vestros であるが、vestros はギリシア語のヒュモーンと同じく「あなたがたの」の意味であり、また diligite(原形はdiligo ─ 高く評価する・愛する)も二人称複数に対する命令法だから、これは正確にギリシア語原文を翻訳している。

しかし「君の・おまえの」「君たちの・おまえたちの」という表現でなく「あなたの」「あなたがたの」と丁寧表現されると、フランス語( Aimez vos ennemis )の vos は「あなた」と「あなたがた」を、またドイツ語(Lieben Sie Ihre Feinde )の Ihreも「あなた」と「あなたがた」を意味するので、(動詞命令法ともども)ともに単複同形となり、区別ができなくなる。

さらに英語( Love your enemies )の場合はそもそも(通常表現と丁寧表現の区別もなくて) your しかなく、その your が単複同形なので区別の糸口さえ存在しない。そういうわけでフランス語やドイツ語や(とくに)英語では個人道徳化しやすいことになる。

米国キリスト教宣教組織諸派の強い影響を受けて育った日本・朝鮮におけるキリスト教は、(とくに)この点で強大な個人道徳的偏向を受けざるを得なかった。 Love や your の問題だけでなく enemies もまた、日本語・朝鮮語では「敵たち」でなく単に「敵」・「ウォンス」(enemy )と訳され、ついに「あなた
愛せよ」「ノ・ウォンス・サランハラ」となった。日本語を生活語とし英語とフランス語から強い影響を受けた田川氏もまた、やはりこうした偏向を免れなかったといえよう。

イエスに革命的勇者でなかったとなじっても仕方ない(127)。イエスには歴史社会変革のプログラムはない。「あるのは、いつまでも続く怨嗟と反抗である。そこにイエスの長所と短所がある」(132)
[註16]

イエスを革命的勇者でないようにしたのは、田川氏の責任である。イエスに歴史社会変革のプログラムがないのは田川氏の創作のせいである。それにしても、いつまでも続く怨嗟と反抗という構図のどこに長所があるのだろう? これは陰湿な口先だけのイエスのイメージだ。

イエスはどんな形であるにしろ権力者になるな。なるなら奴隷たれという。これはいつも抽象的倫理に化する危険がある。「あなたがたの間では」という言葉が付け加わることによって、教会と社会の二元論につながってゆくというイエスの責任が生じている。しかしイエスをそこまで責めるのは酷で、そういうたった一人のイエスを2000年かかっても克服し得なかった人類の歴史の方がよほど罪は重い。

イエス時代のパレスチナは奴隷が大都市以外では非常に少なかった。ユダヤ社会では昔から、僕(しもべ)は下僕の意味であり、「奴隷」ではなかった。イエスが「奴隷たれ」と言ったとしてもギリシア語でなくアラム語・ヘブライ語であろうし、それは「下僕」という意味である。

これがパウロに至るとギリシア語の意味での「奴隷」ということになる(138〜9)。パウロは奴隷でないみずからの立場から、「奴隷は奴隷のままいろ」と言ったが、イエスは搾取される者の位置から権力者になるなと言った(139)。

「下僕」の対語としては神やキリストとしての「主」があるが、これは主人と従僕、君主と家来という社会関係の投影だ(141)。本来「主」と訳すのは誤りで、「御主人様」とか「君主」「主人」という訳が正しい。ヨーロッパキリスト教左翼などは、封建的な「御主人様」は受け入れられないので、真正の未来などと言い換えて、神の延命をはかる(141)。絶対神信仰は、支配秩序の温存の機能も万人平等への進歩性の機能をも持ち、キリスト教は二機能を出し入れして長い歴史を生き抜いた(142)。
[註17]

「しもべたれ」という言葉はイエスに由来するものではない。たとえば「マルコによる福音書」9:33〜37には、弟子たちの間で誰が一番偉いかで論争があったのを知って、イエスは、「だれでも一番先になろうと思うならば、一番後になり、みんなに仕える者とならねばならない」というくだりがある。

また同じく10:35〜45には、またもや弟子のヤコブ・ヨハネの兄弟がイエスに、神の国が到来したら、「ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」と願い、それを知って憤慨した他の弟子たちも集めて、イエスが、異邦人の支配者のように偉ぶらないで、「あなたがたの間では偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべて人の僕(しもべ)とならねばならない」と言う部分がある。

政治的メシアだった史実のイエスとは正反対に、宗教的メシアとして十字架贖罪死への道を自覚して歩むイエス像を捏造して描こうとする「マルコによる福音書」に、弟子たちのこのような地位要求の話が載っているのは、史実のイエスが政治的メシアだったことの痕跡なのである。その痕跡を「マルコによる福音書」の記者は、逆にイエスが宗教的メシアだった証拠として利用しようとした。

「政治的メシア」ほど「宗教的メシア」から遠いメシア像はない。栄光のメシアと刑死のメシア、権力のメシアと愛のメシア、自己実現のメシアと自己犠牲のメシア、仕えさせるメシアと仕えるメシア、戦いのメシアと平和のメシア、剣のメシアと言葉のメシア、大人とともにあるメシアと幼子とともにあるメシアなどなど、両者はほとんど正反対のメシア像である。

「マルコによる福音書」の記者が弟子たちの地位要求の話を引き合いに出し、それをイエスが戒めているのは、史実のイエスが政治的メシアだったことを否定し、「実は宗教的メシアだったんですよ」と訴える細工なのである。

もしイエスが十字架贖罪死を目指す宗教的メシアだったとすれば、どう考えても主要な弟子たちの全てあるいは大半が地位要求しているのはおかしい。中枢をなす弟子たちの全てあるいは大半が地位要求しているということは、紛れもなくイエスが政治的メシアだったことの痕跡であり、その証明であろう。

そういうわけで、「権力者にならず、しもべたれ」という忍従論理は田川氏のいうようには史実のイエスから来たものではない。だから「あなたがたの間では」ということから発生した教会と社会との倫理的二元論はイエスの責任でなく原始教会の責任であり、したがって、イエスをそこまで責めるのは酷だ、とわざわざ心配してあげる必要はない。また人類の歴史が2000年もそういうイエスを克服できなかった罪を責められているが、これは無用の断罪である。

「しもべたれ」というのが史実のイエスから来たものでないなら、田川氏の「奴隷」はギリシア語やアラム語やヘブライ語でどうのこうのというくだりも読むに値しない。

田川氏は、絶対神信仰は支配秩序の温存の機能も万人平等への進歩性の機能をも持ち、キリスト教は二機能を出し入れして長い歴史を生き抜いたと述べているが、それが非難に値するものだろうか? 完全無欠・永遠不滅の組織などは存在しない。どのような組織もいったん成立すると、生き抜くためにあれこれ努力するものだから、取り立てていうほどのことではない。

「イエス教」の田川氏は個人としてのイエスを前面に押し立てて宗教体制としてのキリスト教を否定するが、(極端な仮定として、かりにイエスが事実「神の子」だったとしても)、キリスト教なくしてイエスなどなにほどのものであろう? イエスが「神の子」であることを信じもしないのに、「イエス教」などとんでもないことだ。

政治的メシアを自称してローマと戦った一人のまあまあ優れた人間がたまたま過越(すぎこし)の祭の直中で殺されたために「神の子羊」として崇められるに至り、それで福音書において「神の子」という一際大きな存在として、その生き様が捏造されたに過ぎないのだ。

「イエス」という名前が人類史上最大の名前になったのは、ひとえにイエスの処刑時にたまたま起きたその偶然の出来事のおかげであり、その偶然に対するイエスの努力など微塵も存在しないのである。

イエスも古代的な社会的投影としての神観念の中にいた。しかし神の前では君主たりとも無力であり、彼らの資産も神からの借り物だという思想をもっていた。(142)
[註18]

だからといってどうなのだ? イエスが田川氏のいうような体たらくでは、こういう思想を持っていたとしても意味がない。

イエスの譬話。譬話は容易に状況から抽象しうる。そして別の状況に転用しうる。だからイエスの譬話の本来の意味はそのまま伝わってこない。イエスの基本思想や行動を定めながら一つひとつの譬話の意味やあやを想定するほかない。(149)

[註19]

どの部分がイエスに由来するかについては、田川氏の判断基準がゆるすぎて、はたして正しくイエスの譬話を史実のイエスと関連付けてその意味やあやを想定できるのかどうか、すこぶるあやしい。

第四章 イエスの批判─ユダヤ教支配体制に向けて
キリスト教は、十字架を美しげな装飾として飾り、麗々しく祭壇の上に「聖書」を金箔をつけて並べておくことによって、まさにイエスの思い出を骨抜きにし、神棚にまつりあげてしまった。もしもイエスのような男が不要な良い社会になるなら、イエスの思い出など消え去っても良い(158)。預言者の墓を建てて飾り立て自分たちを絶対的権威に仕立て上げるな。おまえらが殺した旧約の預言者のようになれ。
[註20]

信者なら宗教を創始した教祖を教団より高く祭上げようとする気持ちは理解できないでもないが、信者でない田川氏がこのように高く祭上げようとするのは彼の反体制イデオロギーのためであろう。

それにしても十字架贖罪死の「宗教的メシア」でもなく、また宇宙や社会秩序を一変させる「政治的メシア」でもないなら、たとえ田川氏のいうように倫理的・社会的に優れていたとしても、イエスは「イエス教」を打ち立てねばやまないような程度にまで優れているのだろうか? 

注意すべきは、その田川氏の描くイエス像というものも客観的なものでなく、彼好みの、彼の投影でもあるイエス像にすぎない。これこそ一種の自己神格化でなくて一体何なのだろう?

イエスがどこにも存在しない男になったのは、彼の死後、教会が彼を「神の子羊」として信仰したからである。そのためにイエスは人類史に決定的な影響を与えることになったし、彼の思い出が重要なものと考えられるようになったのだ。

自分は命を賭けたことは何一つしないのに、おまえらが殺した旧約の預言者のようになれ、と吼えるのは、少しいかがなものか?

イエスは旧約書についての相当程度の知識にもかかわらず、律法学者(立法者・裁判官・教育者)として立ち振る舞う意思がなかった。イエスの言葉には旧約の引用は僅かである(158〜9)。

律法学者は宗教家というよりも社会制度的なもので、法律と教育を通して民衆を支配管理していた。イエスの時代、会堂(シナゴグ)が発展し、神殿宗教から、律法学者による民衆の法律的・宗教イデオロギー的管理支配の宗教となっていたので、ユダヤ教はA.D.70年にエルサレム神殿が崩壊せられた時もそれほど大きな打撃を受けなかった(160)。

シナゴグではテクストが読み上げられ、当時の民衆はヘブライ語を理解できなくなっていたので、パレスチナではアラム語に、ヘレニズム諸都市ではギリシア語に翻訳されたうえで、解説する説教がなされた。これは現在のプロテスタント教会礼拝の主要部分に対応している。

 イエスははじめは聡明な青年としてシナゴグで語ったりしたが、枠にはまらなかったので会堂から家々や屋外に出、律法学者の資格を持ちながらも、批判的にその道を放棄した(161)。イエスの目指したのは宗教復興でも原点回帰でも預言者の伝統を継ぐことでもなかった。
[註21]

田川氏は、イエスが律法学者の資格を持っていたとしているが、その根拠はイエスがシナゴグで説教をしていることと、人々に「ラビ」(先生)と呼ばれていることだろう。ところが、「マルコによる福音書」6:1〜6には、郷里に帰ったイエスがシナゴグで教える風景が次のように描かれている。

「そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、『この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。またこの人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行なわれているのは、どうしてか。この人は大工ではないか」(6:2〜3)

これを見ればイエスが律法学者としての正規の修練を経た者でないことが十分推察される。イエスが「ラビ」と呼ばれていることについても、これはいわば我々が誰かを教育機関の教師であるかないかにかかわらず知的に尊敬する意味で「先生」と呼ぶことがあるのと良く似たものだ。ただユダヤ教の律法知識については民衆にそれなりに認められていなければならないだろう。

当時、シナゴグでの説教は正規のラビでない一般の人でもできた。このような民衆的な「先生」でもシナゴグで説教できたのである。なにも律法学者の「元ラビ」だからできたのではない。

田川氏の描くイエスはユダヤ教組織からの脱会者で、もはや正規のラビではなく、そういう立場で活動しているわけである。これはキリスト教会を脱会して、大学教育で牧師の資格を持ちうる程度の知識を持ちながらも牧師にはならず、にもかかわらず独自の「イエス教」を教会外で説きまわる田川氏の投影だと思われる。

田川氏の目指したのは、田川氏の描いたイエスと同様に、宗教復興でも原点回帰でも預言者の伝統を継ぐことでもなかった。

律法学者は制度的に裁判官の役割を果たすことによっては報酬をもらえなかった。したがって裕福な連中であった。律法学者の成立は、商業の発展がもたらした経済的余剰がつくりだした(167)。

パウロなどからある人々は律法学者は職人、手工業者としているが、パウロも含めて社会的身分として律法学者がそれらであったのではない(168)。欧米神学者たちが律法学者を貧民出身や小市民階級視したがるのも、イエスは貧者や小市民をも、支配者とともに批判した超階級的視点に立つと考えたいからだ(168)。現代的階級意識を古代人の世界に持ち込むのは誤りだ。しかし「階級的利害の現実が人々の意識に反映していなかったと思い込むのも無茶だろう」(169)。

律法学者は教育からは収入があった。「一般にパリサイ派律法学者は、都市ブルジョア(不在地主や都市商工者)の意識を表現していた」(171)。シャンマイ派は農業ブルジョア─反ローマ、ヒレル派は商業ブルジョア─国際派(親ローマ)だった。

律法学者は、宗教的汚れ、安息日、祈り、その他、生活にゆとりがあるので厳守できたが、民衆に同じようにそれを押し付けて重荷を背負わせた(172)。汚れ問題は祭司の行動の問題であったが、パリサイ派が俗人でありながら祭司以上の厳格さを追及したおかげで、「汚れ」の問題は俗世間にも一般化されるいきおいだった。

パリサイ派は在家の敬虔主義的宗教運動であり、誰でもなれるので、即律法学者ではない。律法学者にはサドカイ派とパリサイ派がおり、パリサイ派の中でも律法の特別な修練を受けた者だ。律法学者は祭司ではない。
[註22]

歴史学的な情報だけなのでここでは批評を少しは控えることにする。ただ、階級闘争の概念を古代人の世界に持ち込んではいけないし、階級的利害を全く無視してもいけない、というのは、反ユダヤ教体制はいいが、反ローマは諦めよ、という田川氏の自己矛盾や不徹底さの類から来るものだろう。

だれも近代になって発見された階級史観を古代人の世界に持ち込もうなどとはしていない。この自己矛盾や不徹底さは、実践を伴わない口先だけの「先駆者」の宿命だ。

田川氏の反体制的な姿勢自体は評価できる。田川氏が敵対した者たちに対しては、当時私も敵として闘っていた。しかし社会主義的・社会正義的なことを口ではひけらかしておきながら、そのくせ社会的改革実践の一歩手前で、急に怯えて足を引っ込める不徹底さと自己矛盾には、(とりわけ彼の描く誤ったイエス像によってそれを正当化しているからには)、厳しい批判の矢を放たなくてはならない。

イエスと「弟子」との間でラビ的師弟関係がどれだけ用いられたかは不明である(174)。原始教団成立後は弟子概念は組織化する。
[註23]

師が生きている時と死んだ後では宗教組織は激変する。組織化や教義化が始まり、硬直したものになってゆく。これはこれで仕方ないではないか?

イエスの律法批判は、イエスも時代の子だったから、いつも徹底していたわけではない。しかし時としては律法をくつがえす視点にまで直感が及んでいた。イエスの反撥は直感的である。しかし直感的反撥はものごとの基礎にある大きな力であり、この感覚を正直に表現するところから全ては始まる。
[註24]

イエスが律法を覆したのか、イエスを十字架贖罪死の宗教的メシアとして信じ、そのことでユダヤ教の範疇から飛び出してしまったキリスト教という後に世界宗教になった宗教が、ユダヤ教の律法体系を覆したのか? こういう問いかけをすれば、イエスはどこまでも基本的にはユダヤ教の律法の枠内で生き死にし、原始キリスト教会こそがユダヤ教の律法体系を覆したのだと言わなくてはならない。

つまり律法を止揚するような福音書内のイエスの言動は、ほとんどが原始教会のスタンスからのものであろう。田川氏のいうイエスの直感など、田川氏のイエス像と同じぐらい、あまり当てにならない。

「すべて外から人の中にはいって、ひとをけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである」(マルコ7:15)という考えの中に、精神主義をみるのはマルコだが、イエスがもし人間の世の悪は人間が作り出すという意味で言ったのなら、これは近代唯物論の一歩手前である。近代唯物論の出発点の一つは、人間の根本は人間であるという点であった(186)。
[註25]

マルコ7:15の言葉をもって近代唯物論の一歩手前であるなど、とんだたわ言である。階級史観を古代人の世界に持ち込んではならないとうるさく忠告する田川氏の言葉とも思われない。

田川氏はここでイエスのベクトルがあたかも唯物論志向であるかのような小細工をしている。田川氏は無神論者でかつ唯物論者であるのかもしれないが、イエスはそのどちらでもない。

むろん田川氏の期待とは裏腹に、これはイエスに由来する言葉ではない。この譬話の解釈はすぐあとの7:19でなされている。そこにはイエスの次のような言葉がある。

「すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚しえないことがわからないのか。それは人の心の中にはいるのでなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」

そしてそのすぐあとに「マルコによる福音書」は、「イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた」と結んでいる。つまりこれは宗教上の食べ物のタブーに関する話であって、『使徒行伝』10章から11章をみるとこの問題で異邦人のコルネリオのことが記されている。

原始教会は異邦人伝道のときに「割礼」と「食物」のことで大きな試練に突き当たり、食物のことでは(『使徒行伝』の上記部分によると)ペテロが見た夢を利用してやっとのことでタブーが解かれその自由が決定された。食物の自由はこのときからのものであり、イエス段階からのものではない。だからマルコ7:15のイエスの言葉は史実のイエスに遡るものではない。

ところで、のちに第六章で悪霊の首領と闘って病を癒すことにのめり込んでゆくイエスの姿が描かれるが、田川氏のこういう視点ではおそらく、人間の善は神が、人間の悪は悪霊が作り出すものだ、とイエスは考えていた、ということになってしまいはしないだろうか?

安息日の手萎えの癒し場面でイエスは「安息日に人間を救うのは当然」と言っている。当時のパリサイ派も、人間の生命は安息日の掟を超えると言っているから、イエスの言葉はイエス独自のものでない。しかし癒しがこのように生命にかかわる緊急時でない時に、この言葉を使うのは大袈裟で反撥をくらうことだ。しかしそのためにイエスの姿勢がよくわかる。

また弟子たちが麦をもみほぐして口に入れて食べているのを安息日戒に反するといってやられた時、イエスはまた大袈裟に「安息日は人間のためにある。人間が安息日のためにあるのではない」と反撥する。ここにもイエスの姿勢がうかがえる。
[註26]

大袈裟な極端を目の前に突きつけて皮肉と反抗の眼差しを向けるというイエス像は田川氏の創作であり、田川氏が「イエスの姿勢がうかがえる」と指摘する場合は、その話が史実のイエスに遡るかどうかはさておき、すべて自分自身をイエスに投影したものであって、したがって彼の目には至極自然なものとして「イエスの姿がうかがえる」ようになるわけである。

政治的メシアだったイエスは基本的にはユダヤ教の枠内で生き死にしたであろうが、安息日についてはパリサイ派自身のこのような柔軟な解釈もあることだし、「安息日は人間のためにある。人間が安息日のためにあるのではない」と一般のパリサイ派よりもっと柔軟な解釈をした可能性はある。

しかしそれもユダヤ教の優れた律法学者の言いそうな言葉なので、イエス独自のものだとは言い切れない。それにまたそれは田川氏のいうような皮肉極端提示の姿勢のものではない。もっと政治的実践を目指したものである。

イエスは奇跡能力が自分にあると思い込んでいた。こういう宗教行為は一種の気合みたいなもので、高まる興奮の中で、「うまく直ったか、直ったと本人も周囲もそのときは錯覚したか、そういうものだ」(190)

マタイやルカになると、安息日は人間のためにあるという思考にたじろぎを覚え削除し、「人の子は安息日の主である」とだけにとどめている(193)。
[註27]

イエスは錯覚して自分に治癒の奇跡能力があると信じていたというのが田川氏の想定である。錯覚しながら奇跡を連発しそこに自分を入れ込む程度にまでピントのぼけた者が、二千年後のこの時代に「イエス教」を掲げさせるほどの英雄にされるというのも、ちょっと理解できない。

それはともかく、昔から王などの衣や影に触れると病が治るということが世界中のあちこちにもあったことだし、政治的メシアを志してそれを公表しているイエスにもそういう類の偶然の出来事があって、民衆から奇跡の治癒を求められたかも知れず、イエスはときおり奇跡の治癒行為のようなことを不本意ながら行なっていたかもしれない。

むろんそれは現実の政治課題から目を背けさせるような頻度の行為ではなかっただろう。したがって奇跡の治癒行為を行なったとしても、田川氏のようにそれに入れ込むようなことは絶対に無かったといっていい。入れ込んでしまうほどでは現実への厳しい目配りが衰え、社会的・政治的改革へのスタンスは失われてしまう。

イエスがユダヤ教批判をこの程度でやめれば生命は狙われなかったかもしれないが、エルサレム神殿批判までやることで死は決定的になった。神殿にはサンヘドリン(最高法院)があり、ローマは内政は地元有力者に任せていたので神殿を中心とする宗教貴族たちは、実質上の最高権力者層であった。

「この建物の巨大に感激しているのか。この神殿は破壊しつくされて、最後の一個の石までも他の石の上に積み残ることはない」(マルコ13:1)。イエスのこういう路線でステパノは殺されたが、この路線を捨ててエルサレム神殿崇拝を支持した初期エルサレムキリスト教徒たちは生き延びた。マルコも初期教団のイエスのこの言葉に対する困惑を反映して、「その代わり手でつくったのではない別の神殿を三日の後に建てるであろう」と変更した(197)。

宮潔めといわれる神殿内の鳩売りや両替店をひっくり返す出来事も事実だったかどうかは分からないが、それでもこれはイエスの神殿批判=サンヘドリンを中枢とするユダヤ教制搾取批判を表すものである(203)。
[註28]

政治的メシアでなく、治癒奇跡に入れ込む人物が、ユダヤ教体制を批判するばかりでなく、神殿批判まで繰り広げたというのは、少し納得できない。それにマルコ13:1の神殿破壊の預言はイエスのものでない。これは第一次ユダヤ戦争の結果、A.D.70年に神殿が事実崩壊したのを受けた事後預言的な言葉である。

これはイエスの言葉でないので、田川氏が考えたようには、「マルコによる福音書」の記者は、「その代わり手でつくったのではない別の神殿を三日の後に建てるであろう」などと変更を加える必要はいささかもなかった。あれもこれも「マルコによる福音書」の記者が同時になした創作だからである。

もともとこの言葉は共観福音書研究において「マルコによる福音書」がいつ頃書かれたかを決定する最大の情報源なのだから、これをイエスの言葉に帰するのは大きな誤りであろう。

宮潔め(マルコ11:15〜18)の記述と([註35]の対応箇所に出てくる)貧しいやもめの神殿への2レプタの献金に対する高評価(マルコ12:41〜44)の記述は、(「体制ー反体制」図式に毒された田川氏以外の)誰が考えても神殿重視の話であろう。神殿を大切に思うからこその宮潔めであり、また、「たとえ小額でも貧しい者には大変な額であり、したがって心からなされた精一杯の神殿への献金なのだ」という高評価である。

事実かどうかはともかく福音書にこうしたイエスの神殿重視の姿勢が伝えられていることや、とりわけイエスの死直後の使徒たちの神殿を背景とした行動から、イエスは決して神殿批判などしなかったと私は思っている。

イエスは「神の国」の黙示録的到来を期待してローマと闘ったのであって、ユダヤ教そのものと闘ったのではない。「神の国」思想もまたユダヤ教思想の一部だからである。

イエスはユダヤ教内部の批判勢力の一人として、より良いユダヤ教を求めてパリサイ派やサドカイ派などと論争を繰り広げたかもしれないが、ユダヤ教そのものを否定したわけではない。

だからイエス死後にペテロ一派がもとのユダヤ教へ回帰したという田川氏の批判は当たらない。この路線を捨ててエルサレム神殿崇拝を支持した初期エルサレムキリスト教徒たちは生き延びた、などと言うのは、田川氏の体制ー反体制一元論の過剰適用による大間違いである。

第五章 イエスの批判─社会的経済的構造に対して
イエスは政治的・宗教的・社会的権力者に抗った(206)。午前、正午、午後などから働いたぶどう園の日雇い労働者に対して、同じ賃金を払ったという譬話は、運も能力と考えると、ここには「能力に応じて働き、必要に応じて消費する」という考えがある。イエスに今日的な社会的平等の概念はなくても、おのずとこれに一致している。この譬話一つでも、イエスは世界史的に巨大な存在だ(209)。しかし平等賃金を地主の慈善に寄らしめているという限界がある。
[註29]

田川氏が、イエスは政治的・宗教的・社会的権力者に抗ったというのは、重みがないだけでなく、なかば偽りである。田川氏の描くイエスはローマが関連する政治には関わろうとしないからだ。

当時のユダヤ社会のあらゆる矛盾の最大の元凶であったローマの植民地支配を自然災害視し、ローマに対して批判的視点や行動を持たないイエスにどのような期待が持てるというのであろう。

一方で時間給制を破る平等賃金の譬話でイエスを、意味もなく「運も能力のうちだと考えると」と付け足して、「この譬話一つでも世界史的に巨大な存在だ」と持ち上げるかと思えば、他方で、平等賃金を地主の恩恵に寄らしめているという点でイエスの限界があるとする。田川氏は勝手にイエスをあれこれ操り、こねくり回していて、これでは少し白けてしまう。

当時の農業社会の基本的な労働力は日雇い労働者だ。イェレミアスは『イエスとその時代』で、この譬話を、あぶれ者は怠慢で、しかも神は、同じ賃金を与えるほど慈悲深いと解釈する。

労働者は「貧民」に乏しいなかからパンを与える。労働者の子は落穂ひろいをしてはいけない。それは「貧民」のために残されるべきだ、こういうユダヤ社会の連帯意識が、近代の共産思想における労働者の連帯の意識となって現われるという関係(223)。
[註30]

田川氏は、 原始教団の禁欲共同体論は事実でない。自分の財産を教団になげうったのは二、三の例外のみである、と軽視したが、『使徒行伝』に記載された原始教会の共産主義的共同体観は、そのような二、三の例外といったものでないことは、すでに[註5]で言及しておいた。どうやら共産主義的共同所有はクムラン教団を含むエッセネ派にもあったらしく、その宗団においてすでに実践されていたことからも、そう言えよう。

そういう禁欲主義的な共産思想がエッセネ派からキリスト教へと伝播し、それが西洋キリスト教社会の歴史のなかで発展して、ついにユダヤ人マルクスの共産主義思想として結実した、という一面はあるようだ。だからここで田川氏が述べていることは、多少誇張はあるとしても、あながち全部間違いだとは言い切れない。

福音書に出てくる比喩的物語を、譬話(パラブル)と比喩(アレゴリー)に分けて、前者のみイエスの真作で、後者は全て教団の創作だという方法は、すでに19世紀末、A・ユーリッヒャーによって確立された図式で概ね正しいが、これをあまり割り切りすぎるといけない。(228)
[註31]

ユーリッヒャーが何をしたかはともかく、田川氏の判断基準が生ぬるくて、史実のイエスに帰着しないものまで、自分の好みに合うものはどんどん史実のイエスに遡るものとしているのは、すでにすっかり確認済みである。

パラブルやアレゴリーなどの区別をしたり、区別しすぎたりという問題以前の問題として、イエスは政治的メシアだったので、私には、弟子たちでさえその度にあとでイエスにその謎解きを頼まなくてはならないような、謎々のような譬話をしたようには思えない。そのようなことをすれば民衆は困惑し退屈して去ってしまう。

譬話のかなりの部分は原始教会内での活動や宣教の必要などから創作されたものだろう。原始教会内ではイエスは「神の子羊」「神の子」「メシア」としてすでにその神的権威が確立されているので、倦まず弛まず謎々を解く努力をする民衆がいるわけである。

そういう民衆信者にとっては、謎々は教祖イエスの神秘的な権威を高めこそすれ、貶めることはない。つまり譬話というのは、そういう状況下で創作された可能性が大きいということである。

マルコ12:1〜9(ぶどう園の主の跡取り殺し)は、農民暴動の譬話で、イエスはこれらを悪しき農民として罰せられるべきだとしている。これもイエスの限界だろう。タラントの話(マタイ・ルカ)は、初歩的な資本主義の精神そのものではないか(232)。小金をもったら商売にまわして利殖の手立てを講じなければならない、そうしないのは悪だ・・・・? これは古代資本主義の思想だ(235)。

イエスは必ずしも資本増殖を善として語ろうとしているのでなく、預けられたものを十分活用し繁栄させるべきだという教訓を語っているにすぎない(234)。また町や村の支配者たちは繁栄させることができないと首になるという意外に素朴な古代人の支配者観が表現されているにすぎない(235)。しかし資本増殖の言葉で表現したので、古代資本主義の精神を時代の子として疑うことなく分け持ってしまった(235)。
[註32]

農民暴動をマルクス主義の「ドイツ農民戦争」の観点で見れば、収奪され搾取された階級として、その暴動は正当化される。おそらく田川氏はそうした類の観点からこの譬話を見ているようだ。

これをみると田川氏は階級闘争史観を持っていて、それをここで適用している。そしてその史観に至らないイエスを「限界がある」と判断している。しかしこれは、そもそもそのことで誰か古代人が、限界があるとかないとかで、咎められたり賞賛されたりする次元の問題だろうか? 

イエスは常人でないから構わないのだろうか? そんなことはないだろう。階級闘争史観を古代人の世界に持ち込んではいけないと小うるさくいいながら、それをやっているのは田川氏自身ではないだろうか?

古代人の世界に階級闘争史観を持ち込まないという原則を守るなら、イエスがその当時の価値判断にしたがってあれこれ社会内部の価値付けをしても自然なわけだ。

それはイエスの限界ではなく、時代の限界なのである。だから田川氏のように、古代資本主義の精神を時代の子として疑うことなく分け持ってしまった、と大騒ぎする性質のものではない。

イエスがタラントの譬話で利殖を評価しても、それを現代的規範から評価対象にすべきではないし、そのことでイエスをことさら現代的視線から、預けられたものの活用教訓だ、なんだかんだと、弁護する必要もない。

田川氏は自分の「イエス教」にとらわれるから、イエスがなにか歴史的諸条件や制約を超えて現代にまで永遠の価値を持つかのような、こんな突飛な間違いを犯すことになるのだ。

もし田川氏の考える通りイエスが「神の子」でなければ、このような男はいくらいくつかの点でたまたま少し優れていようと「ワノブゼム」(one of them)で無視してもいいわけである。それなのに、どういうわけか、高く高く、まるで神の子であるかのように祭上げてしまっている。

イエスは古代人の常識の世界にまずは居る。その場合も皮肉を持っている。そしてときとして分水嶺に登りつめ、時には踏み越える。踏み越えたとき、彼は逆説的反逆者になる。(236〜7)
[註33]

こういうイエス像が田川氏の投影であり、史実のイエスとはいかなる関係もないことは、これまでの[註]ですでに明らかであろう。

ルカ16:1〜8(不正な家令)の譬話は、小作人の負債証書を書き直させ、その小作人たちを、自分が首になったあとの生活のよりどころにさせようとした話で、主人はこの家令を最後にほめている。うらには、この家令は小作人たちの負担を軽減するために主人の財産を勝手に処理していたという考えがある。この話の伝承者も現在のブルジョア意識の反映者も、不正な家令を誉める結末にずっと悩み続けてきた。しかしこの話は当時の小作人農夫たちには小気味良く受け取られたであろう(244)
[註34]

「不正な家令」の譬話は最古の福音書である「マルコによる福音書」にはなく、「ルカによる福音書」にしかない。これだけでイエスの譬話でないとは言えないが、一般に「ルカによる福音書」は貧者に対して非常に同情的で、「マタイによる福音書」では、山上の垂訓で、「こころの貧しいものは幸いである、天国は彼らのものである」(5:3)とあるのが、「ルカによる福音書」では、「あなたがた貧しい人たちはさいわいだ。神の国はあなたがたのものである」(6:20)となっている。

つまり「マタイによる福音書」が貧しさを「こころの貧しさ」としたのに対し、「ルカによる福音書」は端的に「経済的な貧しさ」としているのである。これは両福音書全体を通じての特徴ある違いだ。

果たしてどちらがイエスに由来する考えだろうか? どちらかを選べと言われれば、わたしは「ルカによる福音書」の方を考えているが、どちらもイエスに起因しない可能性もある。

ともかく田川氏はここで「イエス教」の主人公のイエスが、家令が結果としては小作人に有利な、主人に対しては反利殖めいた行動をしたことを肯定しているので、イエスのポイントが少し上がり、ちょっと溜飲が下がったようである。

しかし田川氏のいうようには、この譬話のうらに小作人救済というモチーフは存在しない。イエスが結論的に言うのは、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」(16:9)ということであって、アナロジーで言われている対象はあくまでも家令の未来であって、小作人の救済ではないのである。これで田川氏のイエスのポイントが少し下がったのではないだろうか?

社会的に抑圧された者たちこそが神の国に入るのだというイエスの思想、そして富に対する直感的反撥。金持ちが地獄におち、貧乏人のラザロが天国に入り、両者がかわす対話の譬話(ルカ16:19〜23)は、古代社会に一般的な因果応報の思想であり、金持ちが倉を改増築して浮かれようとしているのに、死ねば貯めこんだものはなんのためかというルカ12:16〜20の譬話では、金持ちに対する金持ちであるがゆえの嫌悪感が直裁に現われている。(246)

金持ちが多くを賽銭箱に投げ入れ、貧しい女がレプタ貨幣二つを投げ入れる(マルコ12:41〜44 ルカ21:1〜4)。イエスは言う。彼女は乏しい中から自分の持っている一切を投げ入れたのだから金持ちよりもっと多くを入れたのだと。こんな話は、他の宗教にも一つや二つあるし、機能としては貧者からの資財の吸収といったところだが、イエスが神殿宗教に組しなかった姿勢から言ったとするなら、ここには貧しいものの方が救われるという思想が盛られている(247〜8)。だがイエスは、皮肉屋・逆説的反逆者で、ユートピアの実現を求めた革命家でない(248)。
[註35]

社会的に抑圧された者たちこそ神の国に入るのだという思想は、経済的な意味での貧しき者に天国を約束する「ルカによる福音書」に顕著である。田川氏が富に直感的に反撥するイエス像を説明するために援用した部分も、その多くが「ルカによる福音書」からのものだ。「ルカによる福音書」はまた、「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(16:13)とも述べ、神と悪魔を対比するように、神と富とを対比している。

私は、「ルカによる福音書」もまた他の福音書と同様に、「マルコによる福音書」を踏襲して、十字架贖罪死への道を意識的に歩んだ、というありもしなかったイエス像を描いている点で、史実のイエスを偽っていると結論している。ただし「マルコによる福音書」ほどには十字架贖罪論に執着していない。

そのぶん、「ルカによる福音書」には「マルコによる福音書」や他の福音書が無視し排除した史実のイエスからのいくつかの伝承が、こうした貧しいものへの暖かい目、富む者への厳しい目として伝わっているのではないかと思っている。これらは政治的メシアだったイエスの言葉としては相応しい。

金持ちが多くを、貧しい女がレプタ貨幣を二枚投げ入れた話で、田川氏はイエスが神殿宗教に組しなかった姿勢から言ったとするなら、と条件をつけて、ここには貧しいものの方が救われるという思想が盛られているとする。

だが、ここではむしろ神殿宗教を評価するイエスの姿勢が見られるとすべきだろう。なぜなら神殿への献金を、金額ではなく神殿に対する心の思いの大きさで評価しようとしているからである。田川氏がイエスをユダヤ教体制と対峙させ、ついには神殿と対立させ、それを死刑の原因としているのは誤りである。

そしてこれまでの[註]ですっかり明らかになったように、イエスは田川氏のいうような、田川氏そっくりの、口先だけの皮肉屋・逆説的反逆者ではなく、「神の国」というユートピアを求めた「政治的メシア」としての革命家だった。

第六章 宗教的熱狂と宗教批判との相克
宗教的熱狂は、現実離れしているから、本人が自覚していようと、半ば無意識にそれを自覚することを避けていようと、必ずや無理に宙空を飛ぼうとする不安と、そこから来る迷いと絶望とに同時に裏打ちされている(250)。こんなところに整合的な体系的宗教思想を求めようというのが誤りだ(251)。
[註36]

田川氏のいうような治癒奇跡にのめり込むイエスなら、よくいっても単なる宗教的熱狂者にすぎず、整合的な体系的宗教思想を構築するのは難しかったであろう。そして「神の国」思想もまたそういうイエスにとってはあまり価値がないようになる筈だ。

田川氏はすぐあとで、「神の国」に言及していたイエスにしろ整然とした神の国思想はなかったと言っているが、これは先に、イエスには社会変革のプログラムはない、と言い切ったことの別の表現である。これについてはすでにこれまでの
[註]で批評しておいた。

近代主義の学問を通過した「批判的」学者たち(西ドイツを主とする今日の学界の主流)は、イエスは自分をメシアと考えなかったとするが、護教的に、イエスは実質的にメシア像に対応する生を生きたと主張する。しかしこれは無理なことで、こんな異常な生を無自覚に生きれるわけがない(254)。1950年代後半から60年代にかけての「史的イエス論争」はこの詭弁の競い合いにすぎない。(255)
[註37]

近代科学や近代啓蒙思想の影響を受けた19世紀の近代神学は聖書における一切の超自然現象を認めない。それでイエスを奇跡行為者でもメシアでも神の子でもなく、単なるラビ、つまりユダヤ教の倫理的教師だとする傾向が強い。これはある意味で現代神学にも及んでいる。

田川氏はこういう事情をここで述べているのであるが、その上で、実質的にメシア的内容の生を生き抜きながらイエスにメシア意識がなかったというのは無理な話だというわけである。

すぐあとで明らかになるが、田川氏は、治癒行為にのめり込んだイエスは自分のその能力に自信を持ち、それで「神の国」が到来しつつあると感じ、ついには自分をダニエル書的な「人の子」と思うに至り、黙示録的出来事の立役者ではないかと思うに至るとする。

田川氏は、「イエスは自分をメシアだと思った」とは明言しないが、実質的にそう主張しているわけである。それが、実質的にメシア的内容の生を生き抜きながらイエスにメシア意識がなかったというのは無理な話だ、と言ったことの意味である。

20世紀キリスト教神学はイエスの思想の中心に「神の国」思想をみようとし、イエスの全言葉や行動をそれに関連付けるが、これは観念論的誤りだ(257)。時々当時のユダヤ教の「神の国」に言及したイエスにしたところで整然とした神の国思想を持っていたのでない。
[註38]

イエスに反ローマの政治性を見ようとしない田川氏は、必然的に「神の国」思想を過小評価することになる。田川氏はイエスに整然とした「神の国」思想がなかったのをどのようにして知ったのであろう? それに一体どれほどの体系なら整然としていると判断できるのだろう? どれ以下だから整然としていないのか? 

福音書には「神の国」の譬話がふんだんにある。田川氏は多くの譬話をイエスのものだとしているが、譬話程度では整然としないのか? 譬話で語れるほどなら、自分のうちでは十分に内容が整理されているのではないだろうか?

そもそも田川氏の描く治癒奇跡にのめり込むようなイエスには、理性を超えたその超自然的現象への熱狂のために、思想体系化は無理であろう。だから田川氏はイエスに整然とした思想体系がないと判断したに違いない。勝手なイエス像による勝手な判断である。

イェレミアスは、ラビ的ユダヤ教の中に当時神の国思想が少しみられるだけで、この思想は一般的なものでなかったとしているが、こういう神の支配の思想は、カディシュの祈りや『モーセの昇天』などですでにみられる。イエスも良く知られている神の国思想を前提にして自分の考えを提示するという形を取っているところがある。『モーセの昇天』(イエス活動直前頃)は、神の終末論的介入でイスラエル民族の世界支配が樹立されるという思想を表現している。神が王で、イスラエル民族はこの王国を担う。神の国のくびきを負う(262)。
[註39]

田川氏のこの著作にはイェレミアスからの引用がたびたび見られる。彼のイエス像には好都合なのだろうか? ここでも、当時「神の国」思想は一般的でなかったという彼の言葉を利用している。

しかしもしイェレミアスの言うのが正しかったとすれば、熱心党とそれによる民族を挙げたユダヤ戦争はどうして起きたのだろう? これらは神の終末論的介入でローマが倒され、イスラエル民族の世界支配が実現するという「神の国」信仰のもとで起きているのである。

田川氏のこうした誤った傾向は、すべてイエスを反ローマ運動と無縁な存在にしようという意図から出ている。田川氏は、 イエスも良く知られている神の国思想を前提にして自分の考えを提示するという形を取っているところがある、 という言い方で、たまたまイエスが「神の国」思想と関係したかのように述べているが、それは違う。イエスとは「神の国」思想の伝播者であり、イエスの意識の中ではまさに彼は来るべき「神の国」の主人公なのである。

「マルコによる福音書」の1:15に記されているイエスの宣教第一声は、「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」である。この最古の福音書はすでにイエスに史実とは異なる偽りの生涯を歩ませたが、このようにところどころ史実も残っている。


このくびきを負うことは、律法実践の厳格主義に至り、洗礼者ヨハネの超階級的審判と呪いとなる。ここにヨハネの民衆的人気があった。しかしヨハネはどこまでも荒野の孤高の修道者だ。イエスは一度ヨハネのもとに身を投ずるが禁欲主義とは180度異なる方向へ向かう。(266)
[註40]

洗礼者ヨハネは当時非常な有名人で、イエスとは違い同時代の歴史書や文書にもその名が見られる。そのヨハネがこのように「神の国」と厳格な律法主義で民衆的人気があったのなら、「神の国」思想はイェレミアスの言葉とは裏腹に、当時相当普遍的に見られた思想だったわけである。

原始キリスト教全般はイエスの頭を飛び越して、洗礼者ヨハネの発言ややり方をおのれの宗教儀礼や宗教思想として取り込んでいった。たとえば洗礼、悔い改め、罪の赦しなどである(267)。イエスは「罪」という言葉をあまり使わず「負い目」という言葉を使い、この世の全ての人間は神に対して借財しているという思想へ歩み出ている。これは罪という陰湿な概念からへだたりがある(269〜70)。
[註41]

またもや、「イエスのみが良く、他は悪い」という「イエス教」のチャートからくるあの一面的な体制ー反体制図式の適用である。原始教会はイエスの頭を飛び越してもとのユダヤ教体制に戻った、という類のものだ。

とくにのちの教会儀礼の基礎となった洗礼・悔い改め・罪の赦しなどに直接関わっているから、田川氏には見逃せないものとなる。しかしイエスや弟子たちが洗礼者ヨハネから何かを学び取り、それをさまざまに活かしていったということが責められることであろうか? 


イエスはカペナウムで運び込まれた中風に対して、病を癒すのに罪の赦しを宣言する。病を治すために罪の赦しを宣言するのはこの時限りだ。これは、周りや本人が罪のために病にかかっていると思われているという事情をイエスが勘案し治療効果の上からも意味があったし、律法学者たちへの批判的立場を示す意味もあった。「あなたの罪は赦された」こうまで言い切れるのは、イエスは自身ただの人間でないという意識があった筈である(274)。
[註42]

「病を治すために罪の赦しを宣言するのはこの時限りだ」に対しては、「福音書では」という但し書きが必要だ。本当はどうだったのだろう。

ところで、イエス自身は、病は人間の罪によるというよりは悪霊のせいだと信じていた、というのが田川氏の考えである。しかし民衆は病は罪によると考えていて、イエスはその点で一般常識を超えていたと田川氏は主張したい。

しかし[註14]でも批評したように、罪によるとするなら改悛・改善の可能性はあるが、悪霊によるとするのでは民衆の状況改善意欲をそいでしまう。したがってこの点では一般常識を超えたイエスよりも民衆常識の方が優れているといえる。

イエスは自分がただの人間でないと意識していたことがここで述べられているが、これは先に、田川氏が、実質的にメシア的内容の生を生きながらイエスにメシア意識がなかったというのは無理な話だ、という内容で述べたことの裏づけの最初の一つである。

イエスとヨハネは禁欲問題では正反対だ。しかし両極端は一脈通ずる。パリサイ人や律法学者たちはヨハネのような極端が出るとついていけず悪霊にとりつかれているなどといい、イエスのように飲み食いすると取税人と罪人の仲間だという。イエスもまた敬虔ぶる人々にはヨハネをだしにして皮肉ったことだろう(279〜80)。何の権威があって、とイエスが問われると、イエスはヨハネの権威は神からか人からかと逆襲している(280〜1)。

イエスは権力者やその家族の私生活について興味を示さない。イエスの抗っていたのはそういう権力者を頂点とする支配構造から産み出されたもの、日雇いの賃金、小作人の借金等々だ。(289) 権力頂点の人物はスーパーマンでないから、権力構造の上で茶番を踊らされている狐か操り人形でしかない(290)。
[註43]

極端を提示して皮肉の一発、というのが田川氏のイエス像である。だから一般常識からみて両極端のイエスと洗礼者ヨハネのこのような関わり方は、彼にとっては小気味いい筈だ。

それはともかく、イエスが権力者の私生活に無関心でありながら、その支配構造から産み出されたものだけに批判的であったというのは、どうも自然ではない。これは、イエスは最大の元凶であるローマには目をつぶり、より小さな元凶のユダヤ教支配体制には批判的であった、という田川氏のパターンにぴったりだ。

災難不幸の小因を責める者は大因をも責める。これが自然ではないだろうか? 田川氏の小因だけに挑むイエスはチンケな男に見える。権力頂点にいる者をスーパーマンでないただの権力構造の操り人形だと言い切ってしまっていいものだろうか? これではイエスにも田川氏にも何も期待できない。

神の国は、取税人、売春婦、貧しい者が今や収奪されない安心の場、こういう人たちと比べて律法をつきつめた洗礼者ヨハネは最も小さい。「神の国はあなた達の中にある」(ルカ17:21)の「中」は、「手の届く範囲」という意味である(306)。それはよそを見ずに自分たちの現実の可能性を信じろというイエスの意図だ。

ヨハネの時から天国を暴力で奪い取ろうとする者たちがいる(マタイ11:12)というのは、イエスの苦行道的ヨハネ派に対する批判である(309〜10)。イエスは神の国を本質的なものとは考えてない。当時の強烈な宗教イデオロギーのため、はすかいに言及しているにすぎない(311)。神の国思想についても、イエスは宗教家でなく、宗教批判者だ。(312)
[註44]

「神の国はあなた達の中にある」(ルカ17:21)は、神の国はいつ来るのかと人に尋ねられてイエスが答えた言葉として記されている。しかしこれはイエスに遡る言葉ではない。

原始キリスト教会はすぐにイエスの再臨、つまり神の国の終末論的到来があるものと信じていたが、なかなかやって来ない。そこで終末遅延のための答えが必要になった。それがこのような神の国の心的在化である。

そういう意味で言っているのを、社会派を演じる田川氏が、「」の解釈を新しくして外在化させ、それを「可能性」として未来に置いているのである。田川氏の解釈も悪くはないが、しかしそれはもともとの意味ではない。

「神の国」思想はイエスにとって大きな比重を占めるものでないと主張した田川氏が、イエスの立場から洗礼者ヨハネを「神の国」思想を基準にして批判しているのはちょっと理解できない。

ここでまたもや、イエスは「神の国」を本質的なものとは考えてない、と述べている。先にイェレミアスを利用して、当時「神の国」思想は局部的なものだったとしていたが、それはここで述べている、当時の強烈なイデオロギー、という言葉と矛盾する。

田川氏は、イエスは当時の強い風潮に押されてやむなく「神の国」思想について語ったかのように述べているが、このような考え方についてはこれまでの[註]ですっかり批評が済んでいる。

田川氏が、 神の国の思想についてもイエスは宗教家でなく、宗教批判者だ、 というのはどういう意味だろう? 田川氏の用語法は少し厄介だ。神の国の思想に関しても何に関しても、イエスは明らかに宗教人だから宗教批判者ではない。

イエスが宗教的にぐんぐんのめりこんでいる一点があるが、それは病人の治癒だ。「もしも私が神の指でもって悪霊を追い出しているのだとすれば、神の国はあなた方のもとに来たのである」(ルカ11:20 マタイ12:28)。当時は悪霊がとりついて精神神経系統その他の病気が起ると考えられていた。イエスの癒しはこの種のものが多いが、イエスは自分のそんな能力と治癒の出来事から自信を持ち、神の国が到来しつつあると考えた(313〜4)。 

当時ローマ植民地ユダヤ人のガリラヤ支配などから精神的重圧が大きく、この種の病気が多く、それは内臓疾患を経て多くの病気になって現われる。ライ病といっても今日のそれでなく、慢性の皮膚病のことを言っていたので、この範疇に入るものだろう。イエスの癒したライ病もこの手のものだ(315〜6)。これは現代人にはありうる出来事だが、イエスを含めた当時の人々には「奇跡」と映る。それゆえ、宗教的熱狂につながる。奇跡待望が奇跡をつくりあげる。とくに強大な植民地支配下で呻吟する人々に(318〜9)。 たまたま起った偶然に錯覚の上乗せがあって待望者に奇跡と思わせるということがままある。(320) 
[註45]

田川氏は、先に、周りや本人が罪のために病にかかっていると思われているという事情をイエスが勘案し、治療効果の上からもイエスが「あなたの罪は赦された」と言ったことに意味があったと述べて、一般民衆常識は病の原因は罪の方にあり、悪霊の方にあるとしたのではないと主張していたが、ここでは、当時は悪霊がとりついて精神神経系統その他の病気が起ると考えられていた、と述べていて、全く逆になっている。

田川氏はイエスの行なった治癒奇跡はイエスも含めた人々の錯覚や思い違いに由来するもので、本当の超自然的な奇跡ではないと考えている。田川氏は近代神学者たちと同じく超自然現象を一切認めない。

しかし私が体験したところ(「私の個人的な超常現象体験」のページをご参照)では、超常現象や超自然現象のようなものは実在する。とはいえ、政治的メシアだったイエスが治癒奇跡を真の超自然現象として行なったかどうかは分からない。

田川氏はここで、治癒奇跡に自信を深めたイエスは、それを通して「神の国」が到来しつつあると考えた、とする。「神の国」の到来とは世界と宇宙が黙示録的に一変することである。それの近い到来を考えただけで他の一切が二次的なものになり、つまらなくなるほどのものだ。

もしそれが到来するのをイエスが感じ取っていたなら、田川氏のいうようには、イエスが「神の国」思想についてあまり重要視しなかったとは考えられない。それはそれが近々到来すると考えただけで、全てを凌駕する思想なのである。

奇跡は熱狂を引き起こし相互に高まってゆく。そして大衆的暴動の可能性も持っている。イエスが十字架刑になったのも、こういう奇跡信仰にのっとった大衆の熱狂的人気のためだ(323)。こういう熱狂の中で奇跡信仰は増幅し、根も葉もない作り話も流通する(323)。
[註46]

治癒奇跡の呼び起こした大衆的人気と熱狂が大衆暴動を起こす可能性があり、そこにイエスの神殿批判が加わったためにイエスは十字架にかけられた、という田川説は、全くの誤りである。それならイエスはユダヤ人による石打ちの刑で殺されたことだろう。これでは到底、イエスが「ユダヤ人の王」という罪名で、ローマの重罪犯に対する正規の処刑法である十字架刑で処刑されたことの説明がつかない。

すぐあとで明らかになるが、田川氏によれば、イエスの入れ込んだ治癒奇跡は悪霊の首領との闘いだった。悪霊は超歴史社会的存在であって、これとの闘いに打ち込む者が現実社会の構造的矛盾にするどい目を注ぎ、社会的支配体制に真っ向から命を賭けて闘うというのは、どう考えても不自然で納得がゆかない。

治癒奇跡は現実の矛盾を覆い隠す。それは病の自然的・社会的原因を隠蔽する。治癒奇跡は現実の論理にしたがって現実を具体的に改変するという方向とは正反対で、いわば現実を無視し、その論理を超越して問題を解決してしまう。そして結果としては矛盾した現実を肯定してしまう。昔から奇跡行為者やその信奉者に保守主義者が多いのはそのせいであろう。

田川氏は「マルコによる福音書」が作り上げた「宗教的メシア」としてのイエス像にすっかり騙されてしまっている。「マルコによる福音書」の記者は「政治的メシア」だった史実のイエスを改変し、その痕跡をできるだけ消去しながら、イエスをありもしなかった十字架贖罪死への道を意図して歩んだ「宗教的メシア」として描いた。

そのとき「宗教的メシア」であったと強く印象づけるために、ありもしなかった多くの奇跡行為を次々にイエスに行なわせることになったわけである。それを真に受けて、田川氏はイエスを治癒奇跡行為者とし、治癒奇跡に入れ込んでいたとした。

盲人の癒し(マルコ8:22 10:46〜52) 聾者癒し(マルコ7:31〜37) 代理者が治癒の依頼に来る二つの話(マルコ7:24〜30 マタイ8:5〜13)などは創作と思われる(323)。死人の復活(ルカ9:11 ヨハネ11:1〜44)は創作度がより高く、それを一歩荒唐無稽なところまで押し進めれば自然奇跡に至る。当時の人々には癒しの出来事と自然奇跡の風説とを区別できない。共に信じてしまうだろう(323)。 
[註47]

判定基準のゆるい田川氏でさえ「創作」だというからには、それらはきっと創作に違いない。誰彼の死人の復活の話は全て、イエスが死んでから十字架贖罪死信仰と復活信仰が成立して原始教会が樹立された後に、創作的にイエスの生涯のなかに挿入されたものだ。 

自然奇跡も治癒奇跡も、超自然的現象という点では同じ質のものだから、片方ができればもう片方もできると考えるのが常識だろう。とはいえ、自然奇跡の方が断然大きな奇跡と考えられていた。

「マルコによる福音書」によれば、イエスはメシアとしての「しるし」を求められて大きな自然奇跡力を要求されたこともあり、また弟子たちがイエスが常人でなく、ついにキリストだと悟るに至るのも、イエスの治癒奇跡ではなく、風を叱って止ませるとか、水の上を歩くとか、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させるなどの自然奇跡によっている。

「私にはサタンが稲妻のように天から落ちるのが見えた」(ルカ10:18)。イエスは悪霊の首領と、治癒を通して闘い続けているという考えを持っていた。また婚宴での花婿という言葉でもしかすると自分自身を終末論的立役者と思い込んでいたかもしれない(326)。これも宗教的熱狂へとイエスを突き動かした。

奇跡の癒しの体験が、神の国のはじまりだと考えていた可能性がある。冷酷な現実よりも意識の方が過大になって、喜びあふれて突っ走る。やがてぽっきり折れることを知りつつ。

ぽっきり挫折するのでなければ、異常なまま固着し、そこから高揚気分のみは消え失せ、陰湿な宗教集団の教義へと流れ着く。イエスは熱狂に支配されたが、おそろしく醒めた目でおのれの周囲の現実を見据えて前進している(329)。
[註48]

田川氏が、婚宴での花婿という言葉でもしかすると自分自身を終末論的立役者と思い込んでいたかもしれない、というのは、先に彼が、実質的にメシア的内容の生を生きながらイエスにメシア意識がなかったというのは無理な話だ、という内容で述べたことの裏づけの二番目である。

自分が終末論的立役者でまさに「神の国」が到来しつつあると考えていた者が、「神の国」思想を軽視していた可能性はあるだろうか?

喜びあふれて突っ走るイエスは自分がぽっきり折れることを知っていたのだろうか? まさに「神の国」が到来しつつあると感じ、自分がその終末論的立役者かもしれないと思っていたのに?

ぽっきり折れてそれでおしまいにならずに、弟子たちが原始教団を打ち立てたのが田川氏には気に食わないようである。しかしそれでおしまいになっていたら、田川氏の「イエス教」もありえなかったであろう。

田川氏は、生前のイエスの宗教的熱狂とその挫折後の陰湿な宗教教団とを対比させているが、私には、田川氏の喜びあふれて突っ走る軽はずみな熱狂的イエスに比べて、原始教会の方が醒めた目で世界を見ているように思われる。

おそろしく醒めた目で見ているのはイエスではなく原始教団であろう。なぜなら田川氏が描くイエス像は初期教団が福音書を通して描いたイエス像だからである。


「人の子」という概念がイエスの言葉のなかにしか出てこないのは、イエスが語ったという証明である(332)。イエスははじめはダニエル的人の子を自分と同一視せず、審判宣言の時、人の子が来臨して審くという趣旨で語っているにすぎないが、のちに怒りに任せていわば実質的に同化させている。
[註49]

「人の子」という言葉は伝統的に否応なく旧約聖書のダニエル書的な意味合いを持っていた。だから自分の代名詞としてその言葉を使いながらダニエル的な人の子と自分とを同一視しないのは、相当おかしい。ダニエル書の7:13〜14には次のような文章がある。

  見よ、人の子のような者が、
  天の雲に乗ってきて、
  日の老いたる者のもとに来ると、
  その前に導かれた。
  彼に主権と光栄と国とを賜い、
  諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。
  その主権は永遠の主権であって、
  なくなることがなく、
  その国は滅びることがない。

田川氏はなるべくイエスを「神の国」思想と非常に関係の深いこのダニエル書的な「人の子」の概念から引き離したいので、イエスははじめはそれと自分を同一視せず、あとで怒りに任せていわば実質的に同化させた、としているわけだ。なんともちゃちな小細工だ。

しかしこれほど大事な存在を怒りに任せて自分と同一視させうるものだろうか? たとえばある人が突然怒りに任せて自分と神を同一視してしまうということがあるのだろうか? そのようなことは絶対にない。もともとそういう考えが自分の内部にあるから、怒りに任せても酒に任せても、そういう考えが顕在化するに至るのである。

ともかくこれは先に彼が、実質的にメシア的内容の生を生きながらイエスにメシア意識がなかったというのは無理な話だ、という内容で述べたことの裏づけの三番目である。

「この姦悪で罪深い時代において、私と私の言葉を恥じる者がいれば、人の子が父の栄光をもって聖なる御使い達を従えて来臨する時には、そのものを恥じることになろう」(マルコ8:38)。イエスの絶大な自信、しかし自己絶対化ではない。この自信は、信奉者をしてイエスを神的存在化させた。ここまでゆけばイエス→キリスト・メシアはもう一歩しかない(341)。

このようにイエスがキリスト教の教祖になったのはイエスの言動に原因の一端がある。イエス自身、そういう動きへの歯止めをしておくべきだったというのは過度の要求で、これは人の世の避け難い皮肉と思うべきだ(342)。イエスの自信は人間として当然の生き方を主張するというところから生まれる(343)。
[註50]

上のマルコ8:38のような意識を持ったイエスが、「神の国」思想にそれほど興味を持たなかったとは到底思えない。田川氏の言葉によれば、そのことでイエスが絶大な自信を得ているから、なおさらのことであろう。

ところで自分がダニエル書的な「人の子」で「神の国」や黙示録的終末の立役者だと考えていたなら、その自分を何らかの形で絶対化しないわけにはいかない。田川氏はイエスを絶対化したのは信奉者たちだったと主張するが、それはイエスを弁護しようとする彼の誤りである。

史実のイエスは自分を政治的メシアだったと信じていたし、その時点で自分を絶対化していた。だがその思いは一旦は十字架刑で頓挫した。しかしイエスは過越の祭の直中であたかも「過越の子羊」と同じように殺されたので、新たに「神の子羊」として発見され、そう信じられるようになった。

このとき、以前の「政治的メシア」とは違った「宗教的メシア」の次元で再びイエスは絶対化された。この二度目の絶対化は史実のイエスとは関係がない。田川氏はいずれにしてもイエスは自己を絶対化していないと主張する筈だが、イエスは生前、「政治的メシア」であったときに自己を絶対化しているのである。

田川氏の大きな間違いだが、イエスがキリスト教の教祖となったこととイエスの言動とはほとんど関係がない。イエスの全くあずかり知らないところで、つまりイエスが過越の祭の直中で「過越の子羊」のように殺されたという全く予見不可能な偶然によって、イエスはキリスト教の「神の子羊」となり、教祖とされたのである。だから、田川氏が、イエス自身教祖に担ぎ上げられないように歯止めをしておくべきだったうんぬんというのは、全く要らぬ心配であり要求である。

「人の子」には「一人の人間」という意味が重なっている。だからイエスが「人の子」という時、終末論的な意味とともに、一人の当たり前な人間が罪の赦しを宣言してなんで悪いのか、という意識も重なっている(343)。
[註51]

すでに述べたように「人の子」には抜きがたくダニエル書的な意味合いが含まれている。だからこそイエスに罪の赦しを宣言できると思わせたのであって、どうして田川氏がいうように一人の普通の人間が勝手に人間の宗教的な罪、神に対する罪を赦せるだろうか? ここで「罪」と言われているのは社会的なそれではなく、宗教的な罪、律法に対する罪、神に対する罪なのだ。 

イエスは自分の言動が死につながると自覚して当然だから、受難予告のようなものをしたことは考えられる(350)。十字架刑はローマ正規の死刑法でローマの関与が大きいことを示す。ユダヤ教支配層とローマとの共謀なのだ。しかし教団は罪人の宗教としてキリスト教をローマ治下の世界で宣教し得ないので、ローマ(ピラト)の手がなるべく関係していなかったかのように修正していった。
[註52]

ここで田川氏はイエスが十字架刑で殺された事実を否定できないものだから、ローマの関与があったことをしぶしぶでも認めざるを得ない。しかしそれは主犯であるユダヤ教権力層の従犯としてであるにすぎない。

たとえ従犯であったとしても、ローマ世界でキリスト教を宣教してゆくためには、原始教会はピラトの責任を免除してやる必要があったというわけだ。しかし本当はローマが主犯だったからこそ、宣教上の戦略としてことさらのごとくピラトの責任を問わないようにしたのである。

たとえばマルコ15:1〜15と、それを踏襲したマタイ27:11〜26およびルカ23:1〜26で、イエスはローマ総督ピラトに「あなたはユダヤ人の王なのか?」と訊かれ「そのとおりである」と答えている。

ユダヤ人の王を決めるのはローマ皇帝の専権事項だから、ユダヤ人の王を自称して活動するだけで充分に十字架刑に値する。これはローマ皇帝殺傷未遂罪に次ぐほどの反乱・反逆の大罪である。

むろんこの「ユダヤ人の王」の支配する「神の国」が、心の中のものである(ルカ17:20〜22)とか、あの世のものである(ヨハネ福音書18:36)とかいうのは、十字架贖罪信仰を創始した原始教会による思想であって、史実のイエスの思想ではない。それは主要な弟子たちのあの地位要求をみても分かる。

本当ならピラトはイエスのこの言葉を受けてその場で死刑を宣告すべきであった。にも拘わらず、これらの共観福音書はピラトをして、白々しくも、「あの人はいったい、どんな悪事をしたのか」とユダヤの民衆に対して問わしめている。

そしてことさらのごとくイエスを放免したいピラトを描き抜き、最後にはユダヤの民衆に「イエスを十字架につけよ」と叫ばせ、その結果やむなくイエスに十字架刑が執行されたという姿にして、イエス殺害の罪をローマ人から無理やりユダヤ人に転嫁している。

むろん田川氏の非政治的・非反ローマ的なイエス像は今までの[註]からもその誤りが明白であろう。


弾圧の死に希望があるとすれば、死に至るまでの当人の活動と、その死の意義を生かそうとする後の人々の活動にしかない。死の出来事そのものに意味を見ようとするのは誤りで、死は悲惨な敗北にすぎない。イエスも神に見捨てられたと思ったのだ(358〜9)。ところが受難物語の語り手たちはこの死に際したイエスの無残な意識から目をそむけ、イエスを「復活」させた。そしてイエスの死の意義づけがはじまり、十字架贖罪観が成立する。イエスは十字架にかかって死ぬために生きた、と。
[註53]

田川氏は死そのものは悲惨な敗北で無意味だと述べ、原始教団がそれを十字架贖罪信仰として意味づけしたことを批判している。そして生前のイエスの活動や、死にまで至ったその活動の意味を見出すように薦める。

田川氏はどのような活動があるから生前のイエスにそれほどの大きな意味があるというのだろう? 皮肉屋で、口先だけが達者な、ユダヤ教に対して極端提示好きの逆説的反抗者で、治癒奇跡に錯覚して溺れていた者が、それほど有意味なのか? 

言っておくがイエスが我々にとって無視できない大きな存在となり、名前となったのは、キリスト教があの偶然を機縁として彼を「神の子羊」として崇めるに至ったからである。そこにはイエスの働きや活動など何一つない。

田川氏は受難物語の語り手たち、つまり各福音書記者たちは、イエスをまず「復活」させ、それから死の意義づけをして十字架贖罪観が成立した、としている。しかしこれは間違っている。

イエスの復活というなんらかの体験や情報があって十字架贖罪観が成立したのではなく、イエスがたまたま過越の祭の直中であたかも「過越の子羊」のように殺されて、それで「神の子羊」として発見されたこと、このことが「復活」より先なのだ。

イエスは「政治的メシア」としては無残に十字架刑で敗北死したが、「神の子羊」として新たに発見され、「宗教的メシア」として見事に復活を遂げた。この復活こそがそもそも「復活」という出来事の根源的な意味だったのだ。つまりこうした復活なくしてイエスのあのような「復活」信仰は生まれなかったということである。
(了)