「11・22事件」(11・22사건)の簡単なご紹介


金哲顕

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1975年11月22日に公表された「11・22事件」は、その前年の1974年8月15日に起きた朴正熙大統領狙撃事件(文世光事件)と深く結びついています。この朴大統領狙撃事件で陸英修大統領夫人が流れ弾を頭部に受けて死亡したとされていますが、それには大きな疑義があります。本文をご覧ください。


私は1975年から1988年(ソウル・オリンピックの年)にかけて韓国の獄中で過ごしていた。皆さんの中には1975年11月22日に韓国中央情報部によって公表された、いわゆる「11・22事件」をご存知の方もおられる筈である。

当時、日本の各新聞の第1面に大きく報道されている。その事件で数多くの在日韓国人学生と在日社会人が逮捕され、同時に韓国本土の学生やキリスト教伝道師などが捕縛された。これは「在日韓国人スパイ事件」としては史上最大の事件で、この事件から在日の四人の死刑確定者が出た。私はその確定死刑囚の一人である。


ところで、韓国中央情報部が1975年11月22日に公表した「発表文」には、私のケースに関して次のように記されている。


「韓国神学大学大学院二年に在学中の間諜・金哲顕は、73年3月、日本の京都府小浜海岸を出発し、工作船便で北傀(北朝鮮のこと)の清津港から入北し、同年5月下旬までのあいだ平壌で間諜教育を受け、北傀労働党に入党し、74年4月、母国留学を仮装して韓国神学大学に入学したあと、同大学院二年の金明洙、同大学三年の田炳生、伝道師の羅涛賢などを網員として包摂し、韓国神学大学内に「反維新韓神大指導部」を構成し、74年8月から75年4月までのあいだ、前後十五回にわたって、あたかも純粋な学生たちの現実参与運動であるかのように偽装し、『維新体制撤廃』『拘束学生釈放』『維新憲法火刑式』『仮装政府打倒劇演出』など韓国神学大学内の激烈な各種反政府学生騒擾を背後煽動、背後操縦する一方、宗教界への浸透と組織拡大を企図してきた」


この「発表文」は謀略目的の完全な捏造文書だったが、むろんそのことは当時、世間には隠されていたし、むろん今も隠され続けている。そして公判過程を睨みながら、日本では大々的に救命運動が展開された。他の三名の死刑囚や私の救命のために、日本全国でカンパや署名などの活動が精力的に行われた。

私の救命嘆願のためにおよそ5万名の署名が集まった。読者の中にはそのときにカンパや署名をなさった方がおられるかも知れない。この場を借りて深く謝意を述べたい。そういうわけで、「11・22事件」については今でも多くの方々がご記憶のことと思う。

私は「11・22事件」(私の局面)の一部始終を50数万字に及ぶドキュメンタリー風の『事件の報告』に記したが、いずれ機会があれば当ホームページでご紹介したい。 『事件の報告』の目次(本稿末尾)はここをご参照いただきたい。



この「11・22事件」は当時の朴政権下で捏造されたものであって、この事件で逮捕され刑を受けた者は、(本物はむろん獄中就職組の「さくら」も含めて)全て基本的には無罪である。

例えば、私はソウル北郊の韓国神学大学(水原に所在する現「韓神大学校」)に留学していたが、1974年4月10日の留学後、金明洙・羅涛賢(以下全て実名)という韓国本土の学生にそそのかされ、ほんの留学2週間後の4月23日に北朝鮮系の地下組織を結成するよう誘導された。

まだ韓国語もろくに話せなかったときである。1976年3月以降に行われた公判中、これが日本で取り沙汰され、「事件は捏造だ」という意見が多く現れた。

むろん、獄中でも事件の真相は発覚していた。たとえば逮捕の半年前から韓国中央情報部の課長の長女(韓貞淑‥‥延世大学声学科卒で「韓一教会」聖歌隊員)が、結婚を前提とした交際を求め続けていた。逮捕直前には目つきのするどい「弟です」と自己紹介する者も話しかけてきて、バスに相乗りしてまで「姉と付き合ってください」と執拗に迫っていた。すなわち逮捕後、転向させて「二重スパイ」に仕立て上げようとしていたわけである。

さらに、獄中で、この「二重スパイ化計画」が70年初め頃に立てられたものであることが判明した。私が上部線(はじめは金貴雄、のちは金元助)の指示を受けて71年から73年にかけて工作し、73年2月末にカナダから呼び寄せて北朝鮮の地下組織に包摂したカナダ・トロントの某神学大学生の朴光福が、そもそもの初めから包摂される芝居をしていることが分かったからである。

彼は私が捕らえられる前にすでに青瓦台会計局長の妹と結婚していた。彼の父親の何回忌かの法事のときにその嫁を連れて日本の実家に戻っていた席で、私にそう告げていた。そのとき私は明け透けに言う彼を疑うには至らず、むしろ彼の業績に感心し羨ましくも思った。「君は大変な仕事をしたよ! 敵の中枢部に潜り込めたようなもんだ」と賞賛すると、「いや、彼女はその兄とは仲が悪いんだ」と苦い顔で返事していた。

さらにこんなこともある。あるとき彼は「韓国神学大学助教授の朴根遠さんはカナダ時代以来の親友で、朴憬遠内務部長官の従兄弟なんだよ」とびっくりするようなことを私に告げた。しかしそれでも明け透けな彼を疑うことはなかった。内務部長官は地方政治と韓国警察機構のトップである。つまり朴光福は情報筋に指示されて私に包摂される芝居をしたということである。

したがって韓国中央情報部は、73年3月、自ら私を北朝鮮へ送り込み、その後の74年4月、自ら留学名目のもとに韓国に引き込んで、先の金明洙・羅涛賢・田炳生の三名を通して、大学内外での激烈なデモをなさしめたわけである。当時の金正俊学長以下、韓国神学大学全体がこれに投入されたことが、いまや判明している。




実は1974年8月15日の光復節記念式典で起きた「朴正熙大統領狙撃事件(文世光事件)」もこの「11・22事件」と深くかかわっている。この二つの事件は同じ謀略計画のうちの二つの局面なのだ。この狙撃事件で陸英修大統領夫人が文世光の撃ったピストルの流れ弾に当たって死亡したということになっているけれども、これには裏がある。以下の(1)(2)(3)でご説明する。

(1)私はこの事件の起きる8か月ほど前(1973年12月中旬)、阪大卒のある後輩知人に、「文世光という名の面白い人物がこの大阪教会のすぐ近くにいます。一度会ってみませんか」と誘われ、二三度断ったが、ほぼ無理やりのように文世光宅に案内され、このとき初めて大柄な文世光の姿を見た。

後輩知人の案内に従って教会横の路地に面した文世光宅に入ると、全室の襖が取り払われていて一階は広々としていた。案内者とともに座った奥のソファからは、正面に数人の青年と熱心に語り合う若い文世光の姿が見えた。案内の知人は「あの大柄な男が文世光です」などと説明したが、どういうわけかその後三十分ほどものあいだ文世光は自分の家を訪問して待機している私たちの方を一切見なかった。

私はついに腹が立って案内の知人に「もう帰ろう」と横を向いたところ、その案内の知人そのものがどこかに姿を消してしまっていた。謀略に詳しい識者はこうしたやり方の意味(特異体験で強く記憶に留めさせる)を熟知していることだろう。「11・22事件」と「文世光狙撃事件」との「近さ」はこれで明らかだと言える。

ついでに言えば、1974年7月18日未明(朴大統領狙撃の28日前)に高津派出所から盗まれたとされている(狙撃に使われなかった)残り一丁のピストルは、のちにこの家の2階床下から発見されている。

ちなみに「文世光」の「世光」はイエス・キリストを意味する「世の光」という意味で、生野区にある在日の大阪教会の信者だった母親が名付けたと聞いている。文世光も幼いころはこの大阪教会の日曜学校に通っていた。しかもピストルと一緒に発見された『戦闘宣言』に「神への祈りの時はもはや過ぎた」とあるキリスト教的な文面を残して、朴正熙大統領狙撃の決意表明としている。

同志社大学神学部大学院を卒業した私も、この大阪教会を1メンバーとする在日の教会組織(在日大韓基督教会総会)に属し、総会認定の1神学生として韓国神学大学への留学を誘導されたキリスト教徒だったので、この大いなる謀略事件が非常に色濃くキリスト教色を帯びたものであることがわかる。

ところで奇しくも文世光の母親の名前は陸英修夫人と同じ姓の「陸末蘭」氏。「陸」氏は韓国人の姓氏のうちでも非常に珍しく、全ての陸氏はいわば遠い親戚筋にあたる。文世光は母親と同じ姓の遠い親戚筋の女性を(偶然の流れ弾で)射殺した恰好になっているが、さすがにこれは出来すぎだろう。背後に共鳴する何かがあるように匂う。

韓国の情報筋が狙撃犯として文世光に白羽の矢を立てた大きな理由の一つは、(「文世光」の名前の中の「光」を別にすれば)、両者にこの「陸」の一致があったことかもしれない。

実は「世光」の「光」に11・22事件の秘密が隠されているが、ここでは次の不思議を指摘するだけで、詳しくは触れない。その不思議とは、「光」の一字は「文世」の名前の他に、この狙撃事件の起きた「復節」記念式典にもあり、「11・22事件」の発端となった主犯の「白玉」の中にもあり、むろんあの「朴福」のなかにもある。そして私が韓国神学大学留学前に「上部線」の指示で包摂した二人のうちのもう一人である「高重」の中にもある。さらにソウル拘置所から移送されそこで様々な洗脳を受け続けた「州矯導所(刑務所)」のなかにもある、という不思議である。いずれ「11・22事件」の真相が全て明るみに出れば、(「光」の一字のこの奇妙な集中だけでなく)、大いなる謀略計画のあらゆる謎が解かれて、全世界に広く知られることになるだろう。

したがって文世光が狙撃犯として選ばれた一番大きな理由は、たまたまその名の中に「光」の一字があったためだといえる。「陸」は二番目であろう。ちなみに等しく「光」の一字を持つこれらの人物の立ち位置はもはや自明であろう。


(2)さらに私は翌年の1974年3月1日にソウルで行われた「三一節祝賀行事」に誘導され、大統領警護が全くなされていない状況を目撃させられている。このときなぜか陸英修大統領夫人は参席していない。

私は韓国神学大学留学直前に「上部線」の自称「池田」(北諜報筋上司の在日男性指導員)に民団主催のこの三一節祝賀訪問団のことを知らされ、彼の指示で、祖母・母・兄とともに参加し、朴正熙大統領の臨席する会場の二階に案内された。

驚いたことに、広々とした会場前広場でバスから降り、三々五々、両側が一本のテープで仕切られただけの「通路」をぞろぞろと歩いて二階の指定区域に座ったが、途中、警護関係者も会場関係者も姿を現さず、我々訪問団以外、誰一人いなかった! 監視も持ち物検査もないので、銃でも爆弾でも持ち込めたのだ。式典中、私は四、五十メートルほど先の真正面で演説している朴正熙大統領を見て、その無防備さに驚いた。

むろん私は数日後、日本に戻ったおり「上部線」に「銃があれば朴正熙を仕留めることができます!」とその報告をした。すると上司在日指導員のさらなる上司である日本語の下手な中年女性は、「ピストルでは仕損じるから手りゅう弾のような爆弾が良いでしょうね」という返答だった。

こういうことがあったので、その後ずっと「私のこの報告が文世光狙撃事件の直接の原因ではないか」と思い続けていたが、その後、文世光事件後の報道で、すでに昨年(1973)のうちに文世光がピストルを手に入れるために愛人と香港に旅行していたことが分かり、拍子抜けしたことを覚えている。

しかし結局のところ国家の祝賀行事で大統領狙撃事件が起きうる無警護状況の現場を事前に私は意図的に示唆されたといえよう。

誰の目にも明らかなように、大統領警護が(「三一節」と「光復節」)二度連続してこのように大ポカの「穴だらけ」というのは、むろん意図的に仕組まれたものでしかありえない。つまり朴大統領狙撃による陸英修夫人の死は計画的なものだったということだ。

私はソウルの街を疾走する朴大統領の車を見たことがあるが、そういう時でさえ街路の両側に数十メートル間隔で自動小銃を両手に抱えた警官が(歩行者の方を向いて)厳めしく警護していた。これが本来の警護。つまりこの「大ポカ」は二度とも仕組まれたものであることが明々白々である。


(3)文世光事件にかかわるもう一つは、朴正熙大統領を狙った狙撃事件で誰が死亡するか事前に示唆されていたことである。

私は1974年の4月になって韓国神学大学に留学しその寄宿舎に入ったが、そのときすでに開校していた。日本では4月開校だから韓国でもそうだとばかり思っていた。ところが韓国では3月初めに開校する。つまり三一節祝賀行事参加など本当はする暇がなく、それに参列するころには韓国神学大学に入ってすでに入寮していなくてはならなかったということである。

「池田」という上部線の中年男性はそうした状況を熟知したいわゆる「革命指導員」であるにも拘わらず、その事実を知らせず、三一節祝賀行事に参加させるために時期をずらし、ひと月遅れで留学させたわけである。これで三一節祝賀行事への参加が意図的な誘導であることが判明する。

問題は狙撃事件で誰が死亡するかあらかじめ示唆されていたことである。4月留学後しばらくして仏陀誕生日がやってきて、韓国中央情報部の手先だとのちに判明した金明洙から、「隣の華渓寺で釈迦の誕生を祝って何かやっているので一緒に行こう」と強く求められた。

私は線香のにおいが嫌いで仏教も好きではなく、はじめは断っていたが、つい数日前に地下組織を彼との間で結成した弱みもあって、結局、断り切れず彼に従って華渓寺に向かった。

華渓寺の境内は驚くほど華やかで、数千の提灯が頭上に並んでおり一大景観をなしていた。しばらく金明洙とともにその下を歩いて楽しんだが、そのうち飽きて本殿の大雄殿につく頃には提灯など見ていなかった。

すると突然、金明洙が大きな声をあげて、「ほら、ここに『大統領夫人 陸英修』と書かれた大きな提灯があるよ!」と指さしている。みると大雄殿の真前に高さ1・5メートルほどはある長提灯がひときわ目立ってぶら下がっていた。そこに確かに「朴大統領夫人 陸英修」とある。

もうすっかり飽きて提灯など見ていなかったので、金明洙に注意喚起されなかったなら十中八九そのまま気づかずに通り過ぎたに違いない。周りには少し小ぶりだが1メートルを超える長提灯がいくつもぶら下がっていた。つまり金明洙はわざわざ気づかせたということである。

この提灯の意味はのちの獄中で、(1)文世光宅に連れて行かれたことや(2)会場での大統領無防備状態やそのほかあれこれの意味に気づいてやっと判明した。というのも、当時の私はキリスト教神学生として汎神論的な仏教を目の敵のように思っており、日ごろ周りに、「キリスト教は復活を求める生の宗教、結婚式の宗教だが、仏教は涅槃を求める死の宗教、葬式の宗教だ」と主張していたからである。

とりわけカナダ・トロントの某神学大学生だった(韓国中央情報部の手先とのちに獄中で判明した)朴光福にはそれを強調しながらオルグしたことがある。

つまり私のこうした仏教観を知っている者たちが利用すれば、「朴大統領夫人 陸英修」とある長提灯の意味は ─ (1)(2)も考え合わせれば ─ これはこの大統領狙撃事件で誰が死ぬことになっているか私にあらかじめ示唆した出来事である、ということになる。


このことはその後の獄中で行われた数々の出来事が証拠立てている。たとえば光州矯導所(刑務所)の印刷工場に出役していたころ朴定緒という名の中年の囚人が「法廷侮辱罪で入ってきた」とみずから私に説明したあと、1年ほど獄中でずっと私に張り付いていた。

あるとき就寝時、監房内の枕もとで、「自分は高等学校もろくに出ていないが、たまたま故郷の村で幼いころ「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」と呼んでいた女性がいつの間にか大統領夫人になったもんだから、韓国中央情報部の局長になれたんだよ」と話し、「青瓦台に行くと槿恵ちゃんがいつも『オッパ! オッパ!』(お兄ちゃん! お兄ちゃん)と慕ってくれてね」と朴槿恵前大統領のこともあれこれ話していた。朴大統領一家に関するこうした話はほとんどが寝床で枕を並べて行われた。

彼は、中央情報部の局長としてどのように厳しく部下を早朝から鍛えたかなど訓練の様子についてあれこれ話し、「朴定緒(パクジョンソ 박정서)は朴正熙(パクジョンヒ 박정희)と発音がよく似てるだろう!」と自慢げに何度も話していた。それは自分がいかに朴正熙大統領と親しいかではなく、両者の名前の重ね合わせによって、自分を朴正熙大統領の代役だと考えてほしいと暗に示唆するようなものだった。そういう彼には、いかにも大物らしく、毎週のように印刷工場から所長室への呼び出しがあった。

朴定緒はどうやら私をもう一度キリスト教徒にする宗教洗脳の役割のために入ってきたようで、光州矯導所の全囚人に対して強制された宗教入信政策(数千人の全囚人をプロテスタント・カトリック・仏教のどれかの房に例外なく収監させ、礼拝や読経などそれぞれの信仰生活を強制的に行わしめる)によって設置されたプロテスタント房(16人ほど収容)のなかで、1年近くピタッと寄り添って離れなかった。

彼は、「自分はかつて亡き陸英修大統領夫人と同じく仏教徒だったが、ほれ、今はこのようにキリスト教徒になれた。君も頑張ればきっとキリスト教徒になれる!」「決心しろ! 決心しろ! 高い崖のようでも飛び降りれば何でもないことが分かる」と、讃美歌や祈りや聖書朗読の作り出す騒音の合間合間に洗脳していた。こうした雰囲気の中で私はなぜかいつも朦朧状態になっていた。


宗教入信洗脳は他の形でも行われた。実は1977年初め頃、確定死刑囚となったソウル拘置所の私のもとに何度となく訪れては教誨師のような役割を果たした梁順子なる中年女性がいた。彼女は迫りくる私の「死」を演出しつつ礼拝を強要し、入信洗脳をしていた。光州市出身だという彼女は無期囚に減刑された私が遠く光州矯導所へ移送された後もふた月に一度は訪れて、教務課長室で入信洗脳を続けた。

彼女が卒業したという光州市内のソフィア女子学院の校長で理事長の米国人老女A(名前は亡失)を紹介した後は、老女Aが事務員たちのいる教務課事務室で私に共同礼拝を強要した。小柄で一見どこかマザー・テレサ似の老女Aは、まず必ず(たぶん薬物入りの)コーヒーを飲ませ頭を朦朧状態にしたうえで、聖書を読み、説教をし、賛美歌を歌った。

このように唯物論者の元神学生の私をキリスト教徒にするために実に様々な努力がなされたわけだ。これはつまり私を再度キリスト教徒にしないと二重スパイとして利用するための転向が完成しないという意味であろう。

こうした宗教入信洗脳はおそらく(初期の獄中で韓貞淑や朴光福のことで真相が発覚することなく)、逮捕直後の韓国中央情報部地下室や獄中で転向が完成していれば不必要だったと思われる。

ちなみに釈放後、当然家族は知っている筈と思い、母や兄弟に梁順子のことについて尋ねたところ、全く知らないという返事だった。獄中であれほど深く関わった彼女は私の家族に隠れて作業していたということになる。


ところであれこれの朴槿恵前大統領一家の情報をもたらした韓国中央情報部局長を自称する朴定緒は、金載圭による1979年10月26日の朴大統領暗殺直後に突然よそよそしくなり、私から離れて行った。

そもそも逮捕前に結婚を迫っていたあの韓国中央情報部課長の娘の韓貞淑も自宅に私を招待し父親と引き合わせたおり、「私はこのちょっと先の青瓦台にいる朴槿恵さんとは同い年で親しいのよ」と言っていた。後に判明したが、これは朴槿恵令嬢(当時)への導線だった。ついでに言えば、このとき見た小柄で浅黒く精悍な目つきの韓貞淑の父親は、その風貌が三一節祝賀行事会場で見たあの朴正熙大統領を否応なく彷彿とさせた。これも令嬢への導線の一つであったのだろう。

朴槿恵前大統領と私とのいろいろのさらなる暗示関係については(そうとう際どいものもあるが)ここでは触れない。どうやらそこにこそ、この大いなる巨大陰謀の核心が潜んでいるようだ。逮捕前と獄中でのこれらの朴大統領一家と私との絡みが、「朴大統領狙撃事件における陸英修夫人の死」の予告にもつながっているわけである。陸英修夫人の「死」に韓貞淑が接近したり獄中で宗教洗脳が行われているのは、陸英修夫人の「死」を前提とした何らかの大いなる作戦が実行されているということを意味する。


考えてみれば朴大統領を狙った銃弾が逸れて陸英修夫人に当たる確率は「ほとんどゼロ」に近い。仮に身体のどこかに当たったとしても致命傷になる確率も「ほぼゼロ」。「ほぼゼロ」×「ほぼゼロ」→「ほぼゼロ」。それに大統領警護システムにおけるまさかのときの治療体制も整っていた筈なのになぜいともたやすく死亡してしまうのか? 現代の先進技術であるコンピュータによる弾道シミュレーションをしてみれば、死亡の虚偽が判明する筈だ。

戦場経験のある人はなんなく分かるだろうが、よほどの場所に銃弾が当たらなければ人はなかなか死なないものなのだ。これは当時の医学水準でも言える。陸英修夫人は頭部に銃弾を受けたとされるが、それでも人はなかなか死ぬものではない。それに頭部被弾そのものも本当かどうか分からない。そもそも「ピストルでは仕損じるから手りゅう弾のような爆弾が良い」という判断があったのに、なぜピストルにしたのか? 

朴大統領狙撃事件は本当は朴大統領を亡き者にする目的でなされた事件でなく、はじめから陸英修大統領夫人の死亡を演出する事件だったと言える。華渓寺のあの提灯もそれを示している。あれもこれも吹き飛ばして誰がどれほど傷つくか死んでしまうか予想できない手りゅう弾のような爆弾なら小細工はできないので、わざわざピストルが選ばれたのだ。

それではなぜ陸英修夫人は死亡しなくてはならなかったのか? その答えは二つあり、ずっと下段で「なぜ『死』を予告したのか」の答えとして示したもののほかに、究極的には「陸英修夫人が死んで何が変わったのか?」を突き止めることで可能になるが、ここでは触れない。


全体から判断すると、この文世光狙撃事件は韓国中央情報部によってあらかじめ計画された北朝鮮がらみの一大謀略事件だったといわざるをえない。大統領夫人の「死」も組み込まれたこの大統領狙撃事件は、「11・22事件」の背後に隠蔽されてしまったある国際的な一大謀略計画の一部であったということである。

大柄の文世光はいかにも相撲取りのように大きく、あれでは高津派出所に忍び込んでピストルを盗み出すのは到底不可能だ。そもそも「光」と「陸」の二字を(当人とその母に)持つせっかくの大統領狙撃犯人が、ピストルを盗み取るときに事前に警察に捕まってしまえば大計画も水泡に帰してしまう。

したがってピストルを盗んだ犯人は文世光でなく韓国中央情報部あるいはそれと結託した日本側情報筋だということになる。つまり高津派出所のピストル盗難事件は当局の自作自演なのだ。

『事件の報告』に詳しく記したが、後宮駐韓大使夫人と懇意だと話す韓国神学大学日本人女子留学生 J や韓国神学大学韓国教会史講師の S (故人)や一時同志社大学神学部に在籍し現在は軍事評論家の O や同志社大学神学部教授の TF などなど ─ これらの人物については機会があれば実名を明かすが今は伏せておく ─ 実に多くの日本人情報筋関係者が「11・22事件」に関わっている。

したがってむろん陸英修夫人の葬儀に(異例とされながら)参列した当時の田中角栄首相も深く絡んでいることだろう。だがこの事件でピストル盗難に遭った警官の一人は、当局による自作自演の真相を隠す目的で、何も知らないまま自殺に追い込まれている。


こういうわけで陸英修大統領夫人が実際に死亡したのかどうか甚だ疑わしい。私としては死刑執行されたとされる文世光も、1979年10月26日に暗殺されたと報道されている朴正熙大統領も、本当に死んだような気がしない。芝居をしながら劇中で本当に死ぬだろうか? ちょっとありそうにない。

この度の朴槿恵前大統領の弾劾罷免過程で指摘されていた「チェ・テ・ミン(崔太敏) ─ チェ・スン・シル(崔順実)」の線からの説明、つまり文世光事件で母親(陸英修大統領夫人)を失った朴槿恵前大統領の心の空虚にうまく付け入ったチェ・テ・ミン牧師と、その父を引き継いで巫女的な力を発揮した娘チェ・スン・シル、という視点は、陸英修大統領夫人が死んではいない文世光事件の真相を隠すために、情報筋が古くから全ての関係者(むろん朴槿恵前大統領やチェ父娘も含む)に通達した情報筋公認の(韓国の国益にかなった)言い訳であろう。そういうところから朴槿恵前大統領とチェ父娘との人間関係が深まっていったのではないか。

「韓国の国益にかなう」というのは、この大謀略作戦そのものが北朝鮮の致命的な体面に触れていて、真相暴露によってその致命的な体面が傷つき、それが韓国に対する北朝鮮の攻撃姿勢(戦争突入など)に直結してしまうからである。

むろんこの大いなる謀略を執行してきた韓国と日本の情報筋当局も、みずから犯した非人道的な驚くべき不法行為が白日の下に暴かれて、大きな打撃を受けざるを得ない。


日本でその報に接した文世光による狙撃事件のあと、夏休みが終わり、私は日本からソウルに戻って陸英修夫人の真新しい青々とした一見陵墓のような墓を訪れたが、そのとき、自分を巻き込んだそのような巨大な謀略について何も感じず何も知らなかったので、陸英修大統領夫人がこの墓の中に埋葬されていることについて、露ほども疑うことはなかった。

つまり11・22事件と文世光狙撃事件はともに国家を超えた非常に巨大な謀略に関わっており、前者の「11・22事件」は私に対する転向作戦に失敗した結果生じた、その謀略の挫折形態だったと言える。そして、挫折してしまったがゆえに、陸英修夫人の「死」も、(そして結局は)朴正熙大統領の「死」も、無意味になった。

彼らの「死」は「自死」であり、朴正熙大統領は大統領職にあった絶頂期になにもかもすべてを自ら進んで捨てた、ということである。つまり全ての韓国民の自由と幸福のために自分を犠牲にしたわけだ。いつか「11・22事件」の全貌が明らかになる時が来れば、朴正熙大統領とその夫人が「自決」に至った(北朝鮮がらみの)凄まじい真相が全世界に明かされることだろう。朴正熙大統領一家はこれによって完全に崩壊した。

朴槿恵前大統領は2017年31日、13の容疑(結局は18の容疑で4月17日に起訴)で逮捕状を発付され、2017年11月現在、今や獄中にある。ちなみに朴槿恵前大統領に対する検察調査は京畿道儀旺市のソウル拘置所で日に開始された。これは検察庁からの出張の検事調査で、非常な例外措置である。「朝鮮日報」の報道によると1995年の全斗煥と盧泰愚の両大統領逮捕の時以来22年ぶりだという。

ところが私は1975年10月15日の逮捕のあと、その年の12月上旬頃にこの出張の検事調査を受けている。したがって私は一度も検察庁に行ったことがない。検事書記一人を帯同した検事(徐イン)の方からソウル市西大門区のソウル拘置所の私を訪れて、ほぼ一週間にわたって(途中、彼らの持ってきた昼食のパンと牛乳を共に食べるなどして)毎日5時間ほど検事調書を取った。

場所は保安課事務室二階の会議室で、すぐ向いに所長室がある。南山韓国中央情報部地下室でひと月近く私を尋問した韓国中央情報部捜査官Pの指示により、この所長室で数度監視もないまま一人待機させられたこともある。彼はこのソウル拘置所でも、転向に必要な最後の自白を求めて、引き続き尋問を続けた。この最後の自白がなければ転向が完成しない。

彼の催促で、二度ほど、所長仮眠室の花柄布団ベッドに、小さすぎて下腹辺りが丸見えの薄汚い囚人服を着たまま体を横たえたこともある。信じられないほどの特殊優遇であるが、ちょうどその時にうら若い女性捜査員があたかもP捜査官を探すかのようにして顔を覗かせ、私たち二人にコーヒーを持ってきている! P捜査官は「布団から出てコーヒーを飲め」と指示して、下腹辺りが丸見えの私の姿を彼女の目にさらさせた。そのあともっと奇妙奇天烈な出来事がいろいろとこの保安課事務室二階で展開されたが、それは『事件の報告』に詳しい。

さて、私は日本の刑事ドラマで「身柄を検察庁に送る」という言い方を普通に聞いていたので、検事調書を取られるとき「なぜ私を検察庁に送らないのか?」と不思議に思った。「次は送るのかな?」と考えたこともある。しかし結局「スパイ事件はみんなこうなのかもしれない」と勝手に納得してしまった。検事の出張調査はその後、大統領クラスにのみ適用されてきたものなので、ここから見ても「11・22事件」の異常な「重大さ」が分かるというものである。ついでに言えば、南山韓国中央情報部からソウル拘置所に収監されたとき、普通は不正物品搬入確認のため収監時に素っ裸にされ精密身体検査を受けるそうであるが、私はどんな身体検査も受けなかった。


私としては今に続く全ての悲惨と不幸の原因となった(と想像される)朴槿恵なる彼女の存在がいたく憎らしくもあり、懲らしめてやりたくもあるが、たとえ暗示の形ではあっても、獄中で彼女との特別な関係を示唆されていたいきさつからは、なにやら彼女が可哀そうでもある。

これで私を逮捕・収監し確定死刑囚とした朴正熙大統領、獄中で懲罰房に収容し1年間の拘束革帯で虐待した全斗煥と盧泰愚の両大統領など、11・22事件に関与した大統領たちは(朴槿恵前大統領も含め)それぞれ「死」や収監や罷免や親族の逮捕(金泳三と金大中の両大統領)などなどによって、なにほどか裁きを受けた恰好ではある。どういうわけかこの40数年でこうした結果となった。とはいえ私の冤罪は未だ晴れていない。北朝鮮がらみの重大謀略案件なので、解決は非常に困難である。しかしいずれ公文書機密解除期限が来れば、すべてが暴露されることだろう。


さて、それはともかく、朴正熙大統領狙撃事件(文世光事件)に関して、「犯人・現場・被殺者」という殺人事件の全要素があらかじめ私に予告されたことを偶然の一言で説明するのは非常に難しい。逮捕前や獄中で起きたあれこれの出来事もあるので、決して偶然などではない。

読者もここで述べられた出来事が全て事実であるならば、必ずそう判断されることだろう。そして、事実に関する記述については、(些細な思い違いを除けば)本稿のどこにも偽りはない。それは私の全人格が保証する。ただしそれぞれの事実に対する解釈については誤りがあるかもしれないが、それでも記述された事実が正しい限り「中らずと雖も遠からず」である。

それではなぜこれらの狙撃事件の全要素があらかじめ私に「暗示的に」予告されたのか? それは将来獄中で転向を成し遂げたあと事情を解き明かし、いたく感心・心服させて、私の心をしっかり捕まえるためであろう。感心・心服の程度だけ二重スパイとしてのしっかりした責任感ある役割が期待できる。

大統領夫人の「死」を予告するということは、いずれ「以前、あれもこれもそれも予告しただろう?」と私に明かす時が来るということである。その時の効果は転向の有無で全く正反対になってしまう。転向が成功していれば、それこそ私は魂を根こそぎもぎ取られることになるだろう。「大統領夫人の『死』をこのつまらない私はどのように贖えばいいのだろう?!」と慟哭し、いたく苦悩するに違いない。

つまり大統領夫人の「死」は、将来、私に対して獄中で行われる(数々の死の恐怖による)転向作業や洗脳工作の代償でもあるのだ。転向や洗脳に伴う地獄の苦悩を、大統領夫人という国母の「死」で納得してもらうということである。

そうなってこそ、私の決死の覚悟が定まり、大いなる国際謀略で計画されていた「北朝鮮覆滅」やその他の大計画が成功する。そのためにこそ、わざわざ自らの手で私を北朝鮮に密航させ、スパイ教育を受けさせ、朝鮮労働党に入党させたわけである。

むろん国母の「死」によって実現できる「ある事柄」のためにこそ、国母の「死」が策定された。それが同時に転向と洗脳に伴う地獄の苦悩・苦痛に対する贖いや償いになっているわけである。この「ある事柄」こそ「陸英修夫人が死んで何が変わったのか?」の答えになる。

詳しいことは全文50数万字に及ぶ『事件の報告』に記されている。今は触れることのできない究極の謎、読者の知りたいあらゆる謎も、そこで解明されている。本稿末尾にその目次を掲載したが、いずれ機会があれば全文をご紹介したい。




さて、ここで本稿冒頭の「発表文」の話に戻るが、むろん1975年の11・22事件公表当時の韓国におけるキリスト教民主勢力の旗頭であった(当の韓国神学大学の)安炳茂文東煥の二教授や延世大学の徐南同組織神学教授、いわゆる「解職三教授」(当時、大学内での民主化闘争の責任を追及され朴政権によって教授職を解かれた三教授)も、実はこの謀略に深くかかわっていた。当時の代表的な野党民主人士だった金泳三氏と金大中氏も(それぞれプロテスタントとカトリックの政治代表として)絡んでいる。

私の留学期間当時は民主化デモが韓国全土に燃え広がって、日本の新聞紙上でも朴正熙政権の「3月危機」「4月危機」が叫ばれていた政権の危急時だった。それにも拘わらず、韓国中央情報部は、自分自身で、韓国神学大学における十五回にわたる激烈な官製デモを、金明洙・羅涛賢・田炳生を通して行なっていたわけである。

韓国中央情報部はこのようにして私の「架空の大罪」を構築し、逮捕後に行なわねばならない転向のためのしっかりした確固不動の「死の脅迫材料」を作った。もし転向させることができなければ、「二重スパイ」に改造できない。そのようなことは万に一つもあってはならない。そのための「十五回にもわたる激烈な各種反政府学生騒擾」だったということである。

本稿冒頭の「発表文」にある『維新体制撤廃』『拘束学生釈放』『維新憲法火刑式』『仮装政府打倒劇演出』などなどを掲げたデモは、私の指示で行なったものというより、金明洙と田炳生の両名が勝手にどんどんやったことなのだ。つまり韓国中央情報部が自分でせっせと行なったわけである。以上から判断して、この「二重スパイ化計画」は少なくとも朴正熙政権そのものの存亡に関わるほどの、非常に大規模なものだったことが分かる。

ちなみに「十五回の反政府学生騒擾」とあるが、これは本当に十五回だったという意味ではない。何度であるかは尋問中も私に確認しなかった。もともと金明洙と田炳生の両名が私の知らないうちに勝手にどんどんやったので、何回かなど分かりようもない。つまりこれは韓国中央情報部が自分で決めた数字なのだ。なぜかこの「十五」は韓国中央情報部が決定した私の逮捕日(1975年10月15日)にもある。



さて、獄中で韓貞淑や朴光福のことを通して私にその目論見の真相を知られた韓国中央情報部は、それまでの「二重スパイ」化工作をいったん諦めて、内容をいささか修正し、死刑を含む長期拘留策(このとき「」の一字のある州矯導所への道も準備されたと思われる)に切り替えた。そのため彼らの手下であった上記の学生たちを急遽私の共犯に仕立て上げ、虚偽の「検事調書」や偽りの「起訴状」を作り上げて、一緒に裁かざるをえなくなった。

また中年の手下二人(城北署刑事と情報部課長)を、本来独房である筈の政治犯の私の房に入房させた。そして法廷で真相を暴露されないよう、あらゆる物理・薬物的洗脳工作を施し、十分準備したうえで、やっと公判を開いたわけである。

逮捕から公判まですでに5ヶ月ほどが経過しており、第一回公判日そのものも、二度、予告なしに延期された。獄中で私への洗脳工作がまだ十分整っていなかったからだった。

公判そのものも虚偽に満ちていた。法廷で私は毎回薬物を飲まされ、頭が朦朧とした状態だった。母校・同志社大学神学部の教授も、「これは薬物裁判ではないか」と当時の「救援会ニュース」に書いている。

共犯として逮捕された上記の金明洙と羅涛賢と田炳生の三学生も、獄中で一緒になった三度の機会に、「それほど心配する必要はない。せいぜい刑期は2年そこそこだろう」とか、「全てはぼくたちに責任がある。ぼくたちの責任にしてくれ」などと泣き落とし策を弄して懐柔していた。

獄中で未決の共犯同士がこのように同席すること自体、本来あり得ないことだが、中央情報部の指しがねで拘置所や法廷の刑務官たちがそのような場を作っていたのである。

そういう懐柔を目的とした柔軟策と同時に、中央情報部は、独房に入ってきた手下の二人を通じて、「暴露すると家族を抹殺するぞ」「言うことを聞かないと、お前も普通のかたちでは死ねないぞ」という脅迫も隠然と行っていた。

たとえば太平洋戦争の分厚い写真集(これは大部の「太平洋戦争」シリーズ本のうちの一巻だった)を開いて、手足や頭部が吹き飛び内臓の流れ出た兵士たちの死骸写真をあれこれ覗き込みながら、それとなくぶつぶつうそぶくわけである。これらの写真は日本では合法的に見ることのできない類の残酷写真だった。



第一審の地方法院の公判は第一回から第九回まで行われ、第九回の判決公判で、私には「死刑」、金明洙には「無期懲役」、羅涛賢には「懲役5年」、田炳生には「懲役10年」の刑が宣告された。

驚いたことに第一回から第八回までの公判では、法廷はいつも二百人ほどの傍聴人で満席だったにもかかわらず、予告されていた5月12日の判決公判日が、突然5月14日に延期され、第九回公判の判決法廷には家族や知人が誰一人おらず、傍聴席には韓国神学大学の学生が十数人いただけだったのである。

いや実を言うと、他に全く見知らぬ(ちょっと垢抜けた)一人の中年女性が学生たちの横にいて、なぜか退廷の際に私に話しかけようとしていた。それに裁判官が三人(そのうちの一人は女性)正面にいたが、なんと、いつもはいた
検事と弁護人の姿はどこにもなかった 

さらに、いつもは法廷に一緒にいた「共犯」の金明洙・羅涛賢・田炳生の姿もなかった! だから彼らは別の機会に判決を受けたことになる。したがって、(偽裁判と思っていたので気にも留めていなかったが)、彼らの量刑について私は釈放されるまで知らなかった。

死刑が決まる判決法廷だというのに、
新聞記者一人いなかった。また、どういうわけか毎回傍聴にきていた在日韓国教会系や、とりわけ同志社系の救援組織の代表たちの姿もなかった。

第九回判決公判日が突然二日延期されたのは、その数日前に、獄中で同房していた韓国中央情報部の手下たちと私が諍いを起こしたためである。私は「判決法廷で全てを暴露する」と彼らに宣言したわけであった。それを彼らはこのような細工で乗り切ったのである。

家族もいつ抹殺されるかもしれなかったし、同房者や刑務官による暴力も行われ、あれやこれやで私は抵抗を諦めざるを得なかった。



驚いたことに家族は三回開かれた第二審の高等法院の法廷にも一度として姿を見せなかった。むろんその判決法廷にも家族の姿はなかった。13年後に釈放されてから、私は母や兄などに、「判決法廷のときなぜ来なかったのか?」と尋ねたところ、母にも兄にもどういうわけかその日の記憶がないのである! 韓国中央情報部は韓国を訪れる家族に対してまで洗脳工作をしていたといえよう。

この高等法院でもやはり(三回とも)検事と弁護人の姿はなかった。捏造の「11・22事件」の発端となった白玉光とその関連者たちは主犯・共犯としてともに法廷にあって目前で審理や判決を受けたのに、私の「共犯」三名は第一審の判決法廷同様ずっと姿を見せなかった!

しかも高等法院は合議法廷なのに、裁判官はどういうわけか男性一人だけだった。この裁判官は普通の背広姿をしていて、第一審の地方法院で三人の裁判官が着ていた法服も着用していなかった。

また、法廷はまるで簡易裁判所であるかのように傍聴席もなく、本来傍聴席である筈の席が待機中の様々な事件の被告たち四、五十人で満席だった。私もそこで待機させられていたので、白玉光とその共犯たちが裁かれているのを目撃することになったわけである。しかも入れ代わり立ち代り各事件の傍聴人たちが押し合いへし合い傍らの空きスペースに入ってくるので、法廷はずっと市場や火事場のように騒がしかった。そして高等法院だというのに裁判官はろくに調べもせず、まるで交通違反切符を切るかのように即決で次々に死刑判決を下していた。 

それにしても、韓国中央情報部によって懐柔されそこに取り込まれていた在日韓国教会系の救援組織の方は仕方ないとしても、どうして多くの恩師を含む同志社系の救援組織は、一人の愛弟子がむざむざ不法に殺されていくというのに、このように異常な判決法廷を取り沙汰しなかったのだろう? 

なぜ恩師たちはそのためにこそ、それまでの公判があったその一番大事な判決法廷に来ようとしなかったのか? あるいはどういうわけで来れなかったのか? このような異常な判決法廷のありさまこそ、私の無罪を疑いもなく立証し、私を救援・救命しうる大きな材料になった筈なのに。

たとえば当時の1976年5月11日の神戸新聞には「真相への関心高まる」「法廷での証言詳しくすぎて不自然?」「ナゾ残しあす判決(ソウル地裁)」と大見出しで報道しているほどなのだ。

おかげで獄中13年間、ずっと彼らを韓国中央情報部側に寝返ったものだと思いつづけてきた。釈放後に至っても、そういう彼らに問いただすこともできないでいる。当時の同志社系救援組織の代表や関係者がもしこのページを読んでいるなら、どうか説明していただきたいものである。



さて、第一審の判決法廷が終わるまで、私は家族との接見を一切許可されなかった。そういうわけで、不法にもおよそ七ヶ月の間、私は接見も手紙も禁止された異常な状況下に置かれていた。

第一審の死刑判決が下りた後、同房者が入れ替わり、自称、「韓国法務部長官の息子」なる「黄なにがし」という者も私の房に軽微な罪で入ってきて、何かと細工をしていたことがある。彼は法学者の父親のことをよく語った。また私より四、五歳若い彼は、顎でずっと年長の刑務官たちを指図し、「先生」と呼ばれて、自由に房を出入りしていた。

また第一審判決後やっと許されて家族との接見に向かう途中、「かつてこの朴政権下で無任所長官を務めた」と話す中年男性の未決囚に、あたかもそうした地位が私にもあり得るような話であれこれしつこく纏わりつかれたこともある。

とにかく第二審の判決が76年7月14日に宣告され、私には「死刑」、金明洙には「懲役10年」、羅涛賢には「懲役2年」、田炳生には「懲役5年」が宣告された。その後、これが1976年12月27日、第三審の大法院(最高裁判所)の書類審査で確定した。私は確定死刑囚になったわけである。むろん法廷にいなかった共犯三名の第二審と第三審の判決内容(量刑)は獄中では知りようもなかった。



釈放後分かったことであるが、共犯三名はその後すぐさま、あるいはしばらくして釈放され、金明洙はもとの韓国神学大学の大学院に復学し、そこを卒業してドイツ・ハンブルグ大学の新約神学博士過程に留学した。その数年後、博士号を取得して帰国し、釜山神学大学の助教授となり、そのあと釜山市内の「キョンソン大学」の助教授に転出した。その後は調べていないので不明である。

「間諜罪」で実刑判決を受けた韓国本土の者は、本人はむろん、家族でさえ国外に出られないのが大原則で、これは今も基本的に変わらない。博士課程留学など全く論外である。

だから、これ一つでも、彼らが韓国中央情報部の手下だったことが判明する。これについては、私が1995年11月に韓国を訪問した際、ソウルの「韓国基督教歴史研究所」の金承台研究員も理解し、納得してくれた。

そういうわけで、あたかも彼らを私の共犯のように記述した「検事調書」も「起訴状」も、全て捏造だったことが分かる。つまり法廷手続き上、この事件は成立しない。法廷に検事も弁護人もいない裁判が合法だろうか? 偽裁判と言うほかない。

法の観点からみれば、当局は私を逮捕・拘留・尋問・起訴・裁判したのでなく、不法に拉致・監禁・詐偽・脅迫・虐待したうえで冤罪構築したということになる。1975年10月15日の拉致(いわゆる逮捕)以来、どの時点でも逮捕状の執行はなかった。

実際のところ当局は合法的な裁判をしたくても、できなかったのだ。二重スパイにすべきせっかくの虎の子を合法的な前科者にはできない。それでは永遠に一種の傷物になってしまうからである。

そもそも私に何の罪もないわけだし、文世光事件で大統領夫人を「死亡」させてまで、将来、獄中で行われる転向工作や洗脳作業に伴う地獄の苦しみの代償を(前もって)私に支払っているほどなのだから、合法的な裁判で合法的な前科者には到底できない。もともと偽裁判しかできなかったのだ。

韓国法務部と裁判所は(当時の)徳寿宮前の正規の裁判所建物群内の地方法院や高等法院の法廷で、不法な偽裁判を行ったわけである。法を守る司法みずから司法システムそのもの(法そのもの)を不法に蹂躙したということだ。このようなことはおそらく世界史上はじめてのことと思われる。

とはいえ、獄中にある私は13年間、なにも抵抗できなかった。いずれ時が熟すれば、私は韓国社会に再審請求という手段でこの事件を問題提起する必要があるのかもしれない。しかし実際は偽裁判で偽判決が宣告されたにすぎないわけだから、法的には初審そのものも存在せず、再審も必要ない

そもそも偽法廷を運営した韓国の法廷が再審請求を認める筈もなく、また仮に再審となっても半世紀近く国家権力を動員して真相を隠蔽し続けてきた相手側はその強大な力で多数の偽証人を立てて反論するだろうから到底勝てる見込みがないだけでなく、おそらく結審まで十年以上かかることになる。なによりも韓国の法廷そのものが犯罪集団の一翼なのだから、その法廷にその法廷自身が犯した犯罪を訴えても意味はない。

2018年4月16日、ある日本の友人が(足に重度の障害のある)初対面の在日韓国人のK氏を帯同して私の自宅を訪れたことがあった。K氏はその際、私の記した本稿サイト(「『11・22事件』の簡単なご紹介」)を読んだとし、その内容を否定しないことで概ね肯定していることを示しながら、「自分は不法に逮捕されてこのように身障者となり再審請求してかなりの賠償金を得た」と話し、さらに「今の文在寅政権の幾人かの長官たちとも親しい」と告げ、再審請求すれば何らかの道があるかのような誘導を行っていた。私は「再審請求はのちに無罪の証拠が出てきて行われるもので、政府や法廷が自己の謀略による冤罪事件として初めから無罪であることを知っている場合に行われるものではない」と言う立場から拒否した。むろん相手の再審請求ルートに乗せられて真相が闇に葬られることを危惧したわけである。

私としては韓国政府がみずから全てを公表し謝罪してくれるのを望むばかりである。それ以外に解決の道はない。でなければ仮に「再審」となっても敗北へ向けて10年ほどの無意味な法廷闘争を強いられるか、いつか関連極秘公文書の解禁日が来てその時に初めて露になるか、私の死後に露になるかであろう。それでは私には遅すぎる。

最後に、韓国政府はこうした重大内容の「11・22事件」がまるで存在などしなかったかのように細工するため、事件の本舞台だったソウル市道峰区の「韓国神学大学」を水原市に移して「韓神大学校」と改名させ、徳寿宮前にあった地方法院・高等法院・大法院などの裁判所群を瑞草区瑞草洞に新築して移転させ、「ソウル拘置所」をソウル市西大門区から儀旺市に移し、南山山麓にあった「韓国中央情報部」を瑞草区内谷洞に移して「国家安全企画部」や「国家情報院」などに換名している、ということを付記しておきたい。

洗脳・虐待の主舞台となりほぼ11年間不法に監禁収容された(1971年新築開所の)州矯導所も、2015年に老朽化が理由で光州広域市北区の文興洞から同じ北区のサムカク地域に移転された。ちなみに私が収監されていた光州矯導所(文興洞)は、1980年5月の光州事件における戒厳軍(第三空輸旅団)の駐屯地であり市民軍との激戦地でもあって「5・18史跡22号」に指定されている。軍の記録によればここで30人近い市民軍の犠牲者が出た。この光州事件も実は「11・22事件」と切っても切れない関連があるが、それについては『事件の報告』の最終章第一節(光州大虐殺事件)に記されている。




『事件の報告』の目次


とりあえず『事件の報告』の目次だけを掲載します。いずれ機会があれば全文(50数万字)を載せたいと思います。
名前はすべて実名です。数字はページを表します。



第一部 事件の前史

第一章  包摂

(1)初めに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
(2)「大作戦」の不思議な源・・・・・・・・・・・・・・・7
(3)金貴雄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25

第二章  北朝鮮へ

(1)「音」のない声・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
(2)悪がきたち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50
(3)「党の宝」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61

第三章  日本にて

(1)在日指導員「池田」・・・・・・・・・・・・・・・・・・76
(2)「崔京植は崔忠植の兄ではないか?」・・・87
(3)文世光宅への奇妙な招待・・・・・・・・・・・・・97

第四章  韓国へ

(1)韓国神学大学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111
(2)韓国からの逃亡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・127
(3)文世光事件・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・143

第五章  「南朝鮮革命総責」

(1)校内デモ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・153
(2)「南朝鮮革命総責」・・・・・・・・・・・・・・・・・168
(3)韓一教会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・179

第六章  罠

(1)「韓国教会史」講師・・・・・・・・・・・・・・・・・193
(2)女作戦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・207
(3)金芝河ノーベル賞受賞作戦と警牧室・・・222


第二部 獄中にて

第七章  逮捕と尋問

(1)白玉光・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・241
(2)地下室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・253
(3)六何原則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・262

第八章  奇妙な獄中調査

(1)型ご飯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・275
(2)「11・22事件」公表さる・・・・・・・・・・・・・293
(3)検事調書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・305

第九章  発覚

(1)筆記道具・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・315
(2)「解放神学」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・324
(3)同房者たち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・335

第十章  偽装法廷

(1)公判開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・347
(2)判決法廷に家族がいない!・・・・・・・・・・357
(3)「黄」法務部長官の息子・・・・・・・・・・・・・367

第十一章  その後の獄中

(1)ソウル拘置所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・380
(2)光州矯導所第三工場・・・・・・・・・・・・・・・・389
(3)朴正熙大統領暗殺さる・・・・・・・・・・・・・・・400

第十二章  究極目的

(1)光州大虐殺事件・・・・・・・・・・・・・・・・・・・413
(2)光州矯導所第三舎懲罰房・・・・・・・・・・・422
(3)全貌発覚・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・432