金哲顕


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書評ページの『イエスという男』(田川建三著)に対する詳細な批判的書評が、これと対になっていますので、ご参考にしてください。

なおQ&A集ページの『宗教問題へのご質問の回答欄』(十字架と生贄)を含め、これらはキリスト教の本質の全貌が見える三部作になっています。

同じくQ&A集ページの『マルコによる福音書の新考察』へのご質問の回答欄」もご参考ください。

ここでは史実のイエスを最古の福音書である「マルコによる福音書」がどのように描いたか? そこにおける捏造問題が聖書に対する文献批評学の成果を踏まえて、独自の視点から取り扱われています。この福音書の記者が秘密にいたるところで駆使した「三」の用法についても、その全貌が新機軸の切り口で新しく発見・解明され、詳しく触れられていますので、ご参考ください。キリスト教の真相・その真の起源が見えてきます。

目次
(1)はじめに
(2)ラザロの復活物語について
(3)「マルコによる福音書」におけるイエスの「口封じ」記述に対する二つの仮説
(4)「口封じ」関連箇所の列挙
(5)「マルコによる福音書」における「十字架贖罪死への道」の創作
(6)全体のまとめ(「三」の用法など)


はじめに
現代聖書学によって明らかになったように、「マルコによる福音書」は新約聖書の四つの福音書の中でもっとも古く、他の三つの福音書が直接的あるいは間接的に依存している基本文書である。「史実のイエス」を探求するための第一次資料は「マルコによる福音書」である。

新約聖書には「マルコによる福音書」より以前の最古の文書として数多くのパウロ書簡が存在するが、これらは残念なことに意図的に史実のイエスについて語ることを拒否している。

したがって「史実のイエス」研究に関しては「マルコによる福音書」研究が中心になる。それはまた「キリスト教という宗教はどのようにして成立したか」という根本問題と密接に関係している。

忘れてならないのは「マルコによる福音書」は当時の教会信徒たちを読者として書かれたもので、したがって既に確立されている教義や信条の援護や補強を目指しているということである。それはつまりそこで描かれているイエスの生涯がそれらの教義や信条によって潤色されているということを意味する。史実のイエスにたどり着くためにはその潤色を排除しなくてはならない。

新約聖書の最初に次の順序で並ぶ「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」の三つは「共観福音書」と呼ばれている。それらは並べて各章各節を比較してみると、物語の展開順序も酷似しており、またそれと同時に、そっくりな、あるいは全く同じ語順のパラグラフや句が共に観られるからである。

それは「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」が「マルコによる福音書」およびQ資料(個々のイエスの言葉を核心とし、それを浮き彫りにする短い物語集)を基本資料として利用していることに起因する。したがって「史実のイエス」研究に関してはQ資料が最大の補助資料となる。


ただしQ資料は共観福音書に対する文献批評学的研究からその存在が確定的として推測されたもので、現存するものではない。Q資料は「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」に文書的に共存しかつ「マルコによる福音書」には見られない部分だといえる。

(厳密にいえば「マルコによる福音書」とQ資料との間にはほんの少し共通する部分がある。これが両者に共通する他の伝承によるのか、「マルコによる福音書」記者の手元にQ資料の全体かその一部があったためかは定かでない)

共観福音書は全て十字架贖罪論すなわち「イエスの歩む十字架贖罪死への道」を中心テーマとするが、Q資料には受難物語がない。つまりQ資料は十字架贖罪死信仰を無視している。

奇跡信仰もそれほど好まない。イエスそれ自体を崇拝するとか贖罪のキリストとして信じるとかするのではなく、イエスの行なった「人の子」の日の近い到来を告げる宣教活動を忠実に継承し、ひたすら「人の子」なるイエスの再臨の日、終わりの日、審判の日を待ち望む。

だからQ資料は受難観や十字架理解において「マルコによる福音書」をはじめとする共観福音書と正反対の立場にあるといえる。そういうわけで仮に「マルコによる福音書」記者の手元にQ資料があったとしても、最初に福音書を書いた記者としてのあまり心に余裕のない立場から、敵性文書としてほとんど無視したのではないかと思われる。

おそらく「マルコによる福音書」の時代、Qの集団はまだ有力だったので、十字架贖罪論のキリスト教にとって危険な存在だったものの、「マタイによる福音書」や「ルカによる福音書」の時代にはすでにQの集団は衰退していて、福音書がQ文書を(取捨選択して)取り入れても十字架贖罪論のキリスト教にはもはや危険はなかったのだろう。

第四福音書と呼ばれる「ヨハネによる福音書」はもっとも遅く書かれた福音書で、共観福音書のような十字架贖罪死による救いを唯一の中心テーマとするものではない。「ヨハネによる福音書」は、十字架上でイエスが死んで神のみもとに戻りそこからイエスが送る「助け主」なる聖霊の導きで得られる信仰(「イエスは神によってそのひとり子なるキリストとしてこの世に遣わされた」と信じること)による救いをもう一つの中心テーマとする。

十字架死はここでは贖罪死でもあるが、同時にそれによってイエスがこの世から神のみもとに戻る機会とされている。共観福音書に見られる過越しの子羊の犠牲を象徴する(いわゆる肉なるパンと血なる葡萄酒という)「最後の晩餐」もない。したがって「ヨハネによる福音書」は十字架贖罪死を唯一の中心テーマとする共観福音書とは別の系統に属する。

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)とか「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり・・・」(6:54)とか「一粒の麦が地に落ちて死ななければ・・・・」(12:24)とかに見られるように、共観福音書の中心テーマである「過越しの子羊」による十字架贖罪死信仰もむろんしっかり主張されている。そしてそういうイエスが「イエスの時」なる十字架死へと自覚的に歩む点でも共観福音書と同じである。

みずから歩む十字架贖罪死への道をテーマとする「福音書」という文学類型を創始したのは「マルコによる福音書」なのだから、十字架贖罪死信仰を主張する「ヨハネによる福音書」も、「福音書」であるかぎり、多かれ少なかれ共観福音書の影響を受けているものと思われる。

そこでまず最初に「マルコによる福音書」を検討する切り口として「ラザロの復活物語」を検討して、その物語の萌芽がどのように「マルコによる福音書」に見られ、のちに「マタイによる福音書」「ルカによる福音書」および「ヨハネによる福音書」にどのような姿で受け継がれたのか、その一端を見てみることにしよう。それによって四つの福音書間の関係が少し垣間見える筈である。



ラザロの復活物語について
(1)復活物語といえばラザロの復活の話が最も有名だ。このラザロは「ヨハネによる福音書」(11章1〜54節)にしか出てこないが、彼は「ヨハネによる福音書」ではエルサレム近郊のベタニヤに住むマルタとマリアの兄弟で、おそらく彼女たちの弟として描かれている。

(2)ベタニヤのマルタとマリアの姉妹については「ルカによる福音書」の10章38節から42節に、ある村でイエスを家に迎え入れ接待に忙しい姉マルタと、イエスの足元でその話に聞き入っている妹マリアとの対比が述べられている。ここでは「ある村」とあり、それがベタニヤとは分からない。「ルカによる福音書」にはこのマリアがイエスに香油を注いだというあの有名な話は出てこない。このマリアが香油をイエスに注ぐのは「ヨハネによる福音書」においてだけである。

(3)香油の女といえば、「ルカによる福音書」の7章37〜50節に、ナイン村のあるパリサイ人の食卓で、「その村で罪の女であったものが」イエスの足を涙で濡らし、香油を塗ったという話があるが、この物語のポイントは「女の罪の性質」(売春婦)である。ここでは香油を塗ることとイエスの葬りとの関係はなく、自分の罪の赦しをひたすら求める女自身の愛と奉仕の姿がテーマである。

(4)他方、「マルコによる福音書」(14章3節から9節)では、ベタニヤのライ患者シモンの家の食卓で、「ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、イエスの頭に香油を注ぎかけた。」それが浪費論争を引き起こす。イエスはこれは「わたしの葬りの用意をするためである」と、むしろ褒める。

(5)「マタイによる福音書」(26章6節から13節)では それとほとんど全く同じ物語が述べられている。つまり「マタイによる福音書」は「マルコによる福音書」を利用している。このマタイとマルコの二つの福音書では、香油を注いだのがベタニヤの姉妹のうちのマリアだとは記されていない。


物語の構成からいえば、「ルカによる福音書」内の(2)と(3)が同じものとされ、それが、「マルコによる福音書」での物語と、それをほとんどそのまま利用した「マタイによる福音書」での物語、つまり(4)(5)と、全て同じ一つの物語と解釈されてつなぎ合わされ、そこに新たに仮想人物のラザロも加えられて、「ラザロの復活物語」として創作されたのが、「ヨハネによる福音書」での物語であるといえる。したがってラザロの復活物語は全て虚構である。

しかし最古の福音書であるそもそもの「マルコによる福音書」の5章22節にはヤイロの娘の復活物語があり、それを「マタイによる福音書」が9章18節から26節までに、(ただし「マタイによる福音書」ではヤイロだとは分からない)、「ルカによる福音書」が8章41節から56節までに、それぞれ踏襲している。

(ついでにいえば「ルカによる福音書」にはその他にその7章11節以下にナインのやもめの息子の復活物語もある。イエスはナインの町で、あるやもめの一人息子の葬送に出会ってそのやもめに深く同情し、棺に手をかけて葬列を止め、「起きなさい」と言って復活させる)

全体としてみれば、「ヨハネによる福音書」11章におけるほとんど丸々一章にわたる「ラザロの復活物語」は、もとは「マルコによる福音書」におけるヤイロの復活物語、あるいは「マルコによる福音書」が利用したもともとのそうした伝承の拡大変形版で、新たにラザロがマルタ・マリア姉妹と結び付けられ、さらにベタニヤと香油がそこに結び付けられたかたちである。

たとえばイエスの「足」に香油を塗るのは(2)の「罪の女」で、ベタニヤの「一人の女」の方は香油を「頭」に注ぐ。「ヨハネによる福音書」のマリアは(2)と同様、足に香油を塗るが、ここでは(2)のようには「女の罪の性質」がポイントではなくて、(4)と(5)に見られた浪費論争が趣旨である。

(ついでにいえば浪費論争と葬りの準備とは一対になっている)。これらをみると、いろいろな側面があちこちから折衷的に取り入れられて「ヨハネによる福音書」における「ラザロの復活物語」が創作されていることが分かる。

ラザロの復活物語は、もしそういう出来事が実際に存在していたとすれば、そのように重大なことを「マルコによる福音書」が書かないということは決してありえない。

最古の福音書の「マルコによる福音書」が書かず、さらに後の「マタイによる福音書」にも「ルカによる福音書」にもラザロの復活物語が見られないというのは、ラザロの復活物語は「ヨハネによる福音書」段階で、「マルコによる福音書」に伝わったヤイロの娘の復活物語、あるいは「ルカによる福音書」に伝わったナインのやもめの息子のそれ、あるいはその両方を拡大変形して創作された可能性が大だということである。



ところで、「マルコによる福音書」におけるヤイロの娘の復活は事実であっただろうか? 「マルコによる福音書」の5章43節には、この奇跡に対して非常に驚いた(この娘の)父母と供の者たちにイエスが、「この事をだれにも知らすな」と口封じしたことが書かれている。

「マルコによる福音書」では奇跡が行なわれた後やイエスのメシア性が明らかになったときなどに、「誰にも話すな」というイエスの口封じがたびたび見られるが、後者の口封じは聖書学では「メシアの秘密」と言われている。

その提唱者のヴレーデ(W・Wrede 1859〜1907)は、史実のイエスはラビ(ユダヤ教の教師)であってメシア意識を持っていなかったけれども、結果としてイエス死後の復活などを通じて直弟子たちはイエスがメシアであると信じるに至ったと考える。

そのことから、「マルコによる福音書」の記者は福音書の記述段階で、「なぜ直弟子たちは師の生前に史実のイエスをメシアとして知ることができなかったのか」という問題を解決しなくてはならなくなった。

その場合、「マルコによる福音書」はむろんイエス自身メシア意識を持っていなかったという事実は隠さなくてはならない。それが明るみに出ると、イエスは自覚して自己犠牲的な十字架贖罪死への道を歩いたのでないことになってしまう。メシアたる者がそんなことでは全く話にならない。

実際そういういきさつがあったためにパウロはイエスの生涯に一切触れなかったわけだし、Wredeによれば、「マルコによる福音書」の記者は、イエスは自分のメシア性をことあるごとに「この事をだれにも話すな」という具合に命じたことにしたわけである。

(ついでにいえば、あの有名なアフリカの医師で音楽家で神学者のA・シュバイツァーは、そうではなくて、史実のイエスはメシア意識を持っていて、自分がメシアであることを事実、隠そうとした、とする。)

後段に詳しい説明があるが、私はヴレーデの「メシアの秘密」仮説は誤りで、史実のイエスはメシア意識を持っていたと考える。しかもシュバイツァーの主張のようにはそれを隠そうともしなかった。史実のイエスの持っていたメシア意識は、みずからの働きを契機として起きる神の超自然的・黙示文学的・終末論的な介入によってローマ帝国が滅亡し、それによってこの世に「人の子」のメシア王国(神の国)を打ち立てる、という「政治的メシア」としてのそれであった。

当時の一般的メシア像には、

(1)ローマの植民地からユダヤを独立させる軍事闘争をやっていれば、必ず神からの助けがあるとする戦闘的で自力本願的なもの
(2)神の定めた時が来れば宇宙的な変動が起きてローマ支配はむろん一切が転覆され神の国が到来するという待望的で他力本願的なもの

の二つのタイプがあったが、ともに反ローマという点で「政治的」だった。(1)は軍事団体的で、(2)は宗教団体的である。たぶんイエスは(1)のような戦闘的な要素はそれほど持たないが、ローマへの貢納拒否などの非軍事的反ローマ活動は積極的に行なう待望型のメシア(2)を自称していたと思われる。

「自分の『神の国』宣教活動の高まりとエルサレム城内での民衆騒乱醸成が契機となって、やがて神の超越的介入があり、『神の国』が打ち立てられる」と信じていた点で、いくぶん自力本願的な(1)にも通じるところはあるが、非軍事的にローマに抵抗し、宗教宣教活動を通して既存のユダヤ教権力層と対決するという点で、あくまで他力本願的な(2)の立場に属する。なぜなら非軍事的抵抗や宗教宣教活動だけでは自力でローマや既存のユダヤ教権力を滅ぼせないからである。

ちなみに「神の国」の原語は「ヘー バシレイア トゥ セウー」(the kingdom of God )。「バシレウス」は「王」を意味するので、「バシレイア」は「国」というより「王国」つまり「王が支配する国」を意味する。

イエスのメシア意識は「人の子」としての「政治的メシア」の意識であって、十字架贖罪論の「宗教的メシア」のそれでなく、したがってイエスは十字架への道を自覚的に歩むこともなかった。イエスがみずから自覚して十字架贖罪死への道を歩んだのでないことは、以下の三つの理由証明することができる。


 まず第一の理由だが、イエスが「過越しの祭」の直中で刑死するという「偶然」がなければ、直弟子たちの目にもイエスは「過越しの子羊」のようには見えず、したがって「過越しの子羊」の観念を引き継いだ十字架の「神の子羊」として発見されることもなく、結局、その血と肉は贖罪にならないわけである。

ところが、イエスをいつ捕らえ、いつ刑死させるかはユダヤ・ローマ側官憲の決定する事柄でイエスの自由にはならない。イエスは、自由にならない自分の死期を前提に「神の子羊」の十字架死を目指して生きただろうか? そんなことは決してあり得ない。

 第二に、当時のユダヤ神学の中には「複数の義人の犠牲によって民族の罪を贖う」という思想の発展として、苦難のメシアによる民族の贖罪という思想はあるにはあったが、「過越しの子羊」として屠られた誰かの死が、民族にしろ人類にしろ、それらの罪を贖うことができるという思想などどこにも存在しなかった。

つまりいくら「過越しの祭」の直中で「過越しの子羊」のように刑死しても、「神の子羊」になるための思想的受け皿が存在しなかった。だからイエスが「神の子羊」を念頭におき十字架死を目指してその生涯を生きたというのはあり得ない。

 第三に、決定的なことには、ユダヤの律法では、「木に掛けられた者は神に呪われた者」(申命記第21章23節)なので、むしろ十字架刑はいかなる意味でも「神の子羊」を予想させるものではなかった。思想的受け皿がないだけでなく、反対に律法的に神に呪われてしまう方向へ向けて贖罪死を目指す者はいない。

 つまり、死期の決定がイエスの自由にならず、思想的受け皿もなく、律法的にはかえって神に呪われてしまうのでは、十字架の「神の子羊」へ向けてイエスが自覚的・計画的に生きた筈はないのである。

だいいち、いくら古代社会でも、動物犠牲祭儀における牛や羊や山羊などの獣の役割を、それらの獣に代わって果たそうと考えたり、思いついたり、思い立ったりする者などこの世にいるわけがない。それは「人間であることをやめて獣になり下がろう」とみずから決断することを意味するからである。

げんに旧約聖書のどこにもそのような例などは見られない。そもそも動物犠牲祭儀は、「創世記」第22章1〜14節(アブラハムは愛息イサクの代わりに一頭の雄羊を燔祭にささげる)にあるように、人間の人身御供の代用としても現われて発展してきたのだ。その逆を思いついたり、実行しようと決心したりする者などありえない。


イエスはたまたま過越しの祭の直中で「過越しの子羊」そっくりに殺されたので、それがきっかけで「過越しの子羊」と見られるようになり、結局「神の子羊」となった。その偶然がなければ、イエスの弟子たちの間で「十字架贖罪死」というアイデアは生まれなかった。これは原始キリスト教団によるいわば新案特許の新型のメシア像なのである。

したがってイエスは死後に彼の全くあずかり知らないところで「宗教的メシア」として信仰されるに至ったので、今度は「政治的メシア」だった史実を隠して、イエスを新たに「宗教的メシア」として登場させ、その十字架贖罪死へ意図して歩む生涯を描かなくてはならなくなった。

「宗教的メシア」は当然のことながら奇跡行為者でなくてはならない。そこで奇跡行為者としてのイエス像を新たに描き出すことになったが、史実でないそういう驚嘆すべき奇跡の出来事の多く、あるいはたまたま確かめた例のほとんどが、どうして人々の間で全く広く知られていなかったのかの理由を、イエスみずからが奇跡行為のあとなどに、「この事を誰にも知らすな」と命じたためだと、後に「マルコによる福音書」が記述したわけである。

となれば、これは架空のイエスによる架空の禁令である。そしてなかには口封じのためにかえって噂が広まったものもあるかのように「マルコによる福音書」の記者は福音書を書いた。

「口封じ」というモチーフは奇跡行為物語の他に、「宗教的メシア」(十字架贖罪死と復活のメシア)であることの秘密、いわゆるヴレーデの「メシアの秘密」の場合にも使用されているから、これは奇跡行為と「宗教的メシア」性の両者において、その虚偽性を示す共通のしるしあるいは証である可能性がある。

明白なことであるが、むろん福音書におけるさまざまな復活物語は、イエスの死後、直弟子たちの手で「十字架と復活の宗教」であるキリスト教が発生したのちに、宣教上の目的からイエスの復活物語やキリスト教における復活信仰を補強するために、あらたに創作されたものである。



「マルコによる福音書」におけるイエスの「口封じ」記述に対する二つの仮説
とりあえずイエスの「口封じ」について次の(A)と(B)の二つの仮説を提示しよう。


(A)「マルコによる福音書」が口封じでイエスのメシア性を隠そうとしたのは、「マルコによる福音書」にとってメシアとは「宗教的メシア」、十字架贖罪死へ自覚的に歩むメシアのことなので、そういう事実がそもそも存在しなかったために、いわば嘘を隠すような意味で、隠そうとした。

すなわち、「イエスは『宗教的メシア』であったのに、なぜ弟子たちはイエスの生前にそれを悟らなかったのか?」の答えとして福音書記者が編み出したテクニックとしての口封じである。(もう一つの「メシアの秘密」説)

これだけならヴレーデ説と大差ない。むろん事実はもう一つ複雑である。実は「メシアの秘密」は一貫していない。結局時が進むにつれて、ついにはイエスのメシア性は公然化するわけである。しかし最後になって公然化するメシア像は「宗教的メシア」のそれであった。

したがって、もともと実在しなかった「宗教的メシア」像だからこそ、はじめは秘密にされ、あたかももともとから存在していて徐々に開示されていったかのように記されたのだろう。このメシア像は過越しの祭の最中で「過越しの子羊」が屠られるようにイエスが処刑されてはじめて発見・発明・納得された全く新型のメシア像だったから、むろんイエスの生前には存在しなかった。

かのように」と述べたのは、もともとイエス生前には「宗教的メシア」(十字架贖罪死のメシア)など存在せず、したがって実際には、徐々にせよなんにせよ、そもそもそれが開示されていくことなどありえなかったからである。そのため弟子たちは十字架以前にはその「神の子羊」としての贖罪死の意味が分からないままでいる。

「マルコによる福音書」におけるイエスのメシア性の公然化は、たとえば、正気である乞食の盲人がイエスを「ダビデの子、イエスよ」と叫ぶとか、(旧約聖書の「ゼカリヤ書」の預言を念頭に)ろばに乗ってエルサレムに入城するとか、逮捕後、議会で(事実上宗教的な)キリストであることをみずから認めるとかなどなどである。

だが、それらの出来事そのものが事実ではないため、「架空の公然化」を「マルコによる福音書」の記者は行なっていて、あたかも「イエスははじめは弟子たちに対して秘密にしていたが、実はそもそもの初めから『宗教的メシア』として十字架への道を自覚的に歩んだのだ」という設定にしたわけである。公然化を細工することで、「マルコによる福音書」の記者は「宗教的メシア」像を事実化しようと目論んだ。


「架空の公然化」という判断は、いわゆるメシアであることに対する口封じがもともとなんらの口封じでもないことからも正しいと分かる。はじめのうち口封じを命じるのは以下の二度、それも悪霊と汚れた霊に対してだけである。すなわちイエスの正体を知っている悪霊にイエスは物言うことを許さない(1:34)。またイエスは「あなたこそ神の子です」と叫ぶ汚れた霊どもに、人にあらわさないようにと、きびしく戒める(3:11)。

ずっと後のペテロのキリスト告白(8:29)のときまで弟子たちでさえイエスがメシアであることが分からなかったわけだから、悪霊や汚れた霊が「あなたこそ神の子です」とか「いと高き神の子イエスよ」(5:7)と声高に叫んでも、横にいる弟子たちにとっては意味のないただの喚きにしか聞こえなかったわけである。

だから、イエスが悪霊や汚れた霊に「黙れ」と命じても、これは事実上口封じではない。したがって「メシアの秘密」のために「黙れ」と命じる必要もない。つまり口封じによるいわゆる「メシアの秘密」はただのポーズにすぎず、架空の公然化の前提として利用するための道具にすぎないわけである。

ただ例外がある。8章29節でペテロは、「あなたこそキリストです」と告白するが、その直後、イエスは、「自分のことは誰にも言ってはいけない」(8:30)と戒めている。この口封じは悪霊や汚れた霊に対するものではない。人間に対するものである。するとこれはどういうことなのか? 

とはいっても、それでもやはりのちに公然化してゆくわけだから、これも何らかの意図を持たせたポーズにすぎない。それはそもそもありもしなかったこのペテロのキリスト告白という出来事の嘘を暴かれないようにするためだ。つまり「このように重大な出来事がなぜ我々に伝わっていないのか?」という原始キリスト教会の初期信徒たちの質問に対して、「それはイエス自身が誰にも言うなと戒めたからだ」と答えて納得させるためである。


しかし「架空の公然化」だけがこの口封じの主な目的ではない。そもそも十字架贖罪死のメシア像は過越しの祭の直中で「過越しの子羊」が屠られるようにイエスが十字架刑で処刑されてはじめて発見・発明されえた性質のものなのだから、生前のイエスにそのようなメシア像はなかった。

しかしイエスが「政治的メシア」だったことを隠し、彼を十字架贖罪死の「宗教的メシア」として描き出そうとするマルコの立場としては、それを認めるわけにはいかず、「少なくともイエスだけは自分の将来のそのような十字架贖罪死のメシアのことが分かっていた」としなくてはならない。

それをより(擬似的に)客観化するために、悪霊や汚れた霊は知っていることにして、その知っていることを強調するためにイエスに口封じを命じさせているのである。さらにまたイエスの他に既に霊たちも知っているということによって、イエスの死後になってやっと成立しえた十字架贖罪死のメシア観を、既存化させてもいるのである。既存化させないと、イエスがそれを弟子たちに悟らせることもできない。

むろん3:11や5:7で悪霊や汚れた霊がイエスに向かって叫ぶ「神の子」という概念は、15:39でローマの百卒長が、贖罪死を果たした十字架上のイエスを見て、「まことに、この人は神の子であった」と言う描写からも分かるように、贖罪死を前提としたものなのである。贖罪死を果たしたからこそ、いまやイエスは「まことの神の子」だと定義されているわけである。


したがって「架空の公然化」の点でも、新型メシア像の「客観化・既存化」の点でも、ヴレーデ説の「メシアの秘密」説は誤っている。また史実のイエスはヴレーデの言うようには単なるラビではなく、「政治的メシア」としてメシア意識をはっきり持っていた。

口封じによる「架空の公然化」も「新型メシア像の客観化・既存化」も、もとはといえば「政治的メシア」だったイエスを隠蔽し、十字架贖罪死の「宗教的メシア」として描き出そうとする思惑から出たものだから、(A)の仮説で示したことがまるっきり間違っていたわけではない。「マルコによる福音書」の記者は「口封じ」法で嘘を隠そうとはしている。

(A)の仮説をここで訂正すると、口封じの基本はイエスが「宗教的メシア」であったかのように記したのが嘘であることを隠すためのものでも、いわんや弟子たちがそれをイエスの生前に悟らなかった理由として提示するためのものでもなく、逆にひとえにイエスが「宗教的メシア」であったことを提示し、それを強調するために利用されたテクニックなのである。



(B)
「マルコによる福音書」がイエスの奇跡行為を隠そうとしたのは、イエスが「宗教的メシア」でなく、したがって奇跡行為者でなかったため、そういう諸事実がもともと存在せず、したがって人々に認知されてもおらず、全く創作した物語だったからである。

イエスの奇跡行為がそもそも存在しなかったからこそ、あったかのように口封じの話を創作し、「それにもかかわらず噂が広まった」と「マルコによる福音書」は細工したのではないか? 「マルコによる福音書」が、「噂が広まった」と吹聴しても、もうその噂の有無について確かめる人々さえ生存していないのである。


(反論1)
「奇跡行為のうわさは口封じにも関わらず広まった」とあるから、「マルコによる福音書」も述べているように、奇跡行為はその噂が広まることで人々が押し寄せ、イエスの活動が自由にならなくなるからこそ、口封じされたと見ることもできる。

(反論2)
「マルコによる福音書」の記者は、イエスの教えを軽視し「奇跡行為を連発する異能の神人イエス」という奇跡主義的信仰の側面にのみ光を当てる当時の一傾向に対して、「そうではない。重要なのは奇跡行為とともに話されるイエスの教えなのだ」ということを示そうとして、つまりそういう視点から奇跡行為の比重を落とす目的で、口封じをしているのだ。


(反論1への再反論)
「マルコによる福音書」の書かれた時代にはもはやイエスのそういう行為が仮に実在したとしても、その噂さえ消えうせていただろうから、噂が広まったという話もほとんど何の意味もないだろう。

また「マルコによる福音書」が利用した、それ自体多くの場合非事実である諸伝承(「奇跡行為集」のようなもの)は、「マルコによる福音書」よりも時代的にさらに史実のイエスの時点に近づくが、その場合でも、情報伝達手段の限られている古代では、そうした噂を遠い現地まで出向いて確かめようにも確かめようがなかったから、ほとんどどのような捏造もできたと思われる。

さらにいえば、「マルコによる福音書」以前のそうした奇跡行為の諸伝承の一つ一つに、多くの場合すでに口封じの一節が、捏造発覚防止のために含まれていた場合もある。

一般に奇跡行為というものは、特に理性や理屈を超えたその性質上、容易に誇張されたり捏造されたりするものであり、それが教祖の奇跡行為に関わる場合は特にそうである。

信徒心理では教祖の後光を強めるための誇張も捏造も非事実ではない。だが、非信徒や新信徒やそれほど熱心でない信徒や懐疑的な信徒にとってはやはり非事実であることは、誇張や捏造をする者たちも理解しており、それゆえ誇張や捏造をするとき、やはり非信徒、とりわけ新信徒やそれほど熱心でない信徒や懐疑的な信徒たちによるその発覚を恐れもする。そこで「嘘ではない」という印象を与える文章上のテクニックがあれこれ駆使されることになる。その一つが「口封じ」だったとも考えられる。

だから、全てではないとしても、多くの場合、該当するイエスの奇跡行為がそもそも存在しなかったからこそ、あたかも存在したかのように口封じの話が創作され、「それにもかかわらずかえって噂が広まった」としたのではないか? 「噂が広まった」と吹聴しても、もうその噂の有無について確かめる人々さえ生存していない。


(反論2への再反論)

まず奇跡行為の比重を落とすために口封じを利用しているのなら、少しは奇跡行為の話の頻度を落とすべきで、あれほど次々と積極的に奇跡行為を連発するような記述をしている理由が分からなくなる。


再反論ためのさらなる材料としてここでQ資料(イエスの言葉集)を取り上げる。受難物語をテーマとする「マルコによる福音書」とは違い、Q資料には肝心の受難物語がない。「人の子の受難」という観念そのものが存在しないのである。

Q資料の各部分は「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」に、それぞれその神学的立場によって多少違ったかたちでデフォルメされながら、ともに、両福音書相互無関係に、引用されているが、両福音書末尾の受難物語の部分にくると、ぱったりと引用されなくなる。そもそも史実のイエスは十字架贖罪死への道を自覚的に歩んだことがない。だから十字架贖罪死への受難物語が存在しないという点ではQ資料は史実のイエスを反映しているといえる。

またQ資料はほとんどイエスの奇跡物語を含まない。「ベルゼベル論争」(マタイ12:22〜30 ルカ11:14〜23)や「カペナウムの百卒長」(マタイ8:5〜13 ルカ7:1〜10)に見られるように、イエスが奇跡を行なったことは認めながらも、たとえば荒野で奇跡を誘う悪魔の試みを否定する物語(マタイ4:1〜11 ルカ4:1〜13)が示すように、奇跡主義信仰には批判的である。

もし宗教団体の創始者が奇跡行為を、積極的に、連続的に、中心活動として行ったとするなら、それについての言葉も数多く残っている筈であり、民衆の間で神的権威を彼にもたらしたはずのそれらの出来事についてのイエスの言葉を、それらを集めてQ資料を作成した彼を慕う者たちがほとんど無視するということはありえない。奇跡物語をほとんど含まないというのは、Q資料が(マルコによる福音書と比べて)比較的に史実のイエスに近いという証拠であろう。

したがって史実のイエスはときおり奇跡行為を行なったという程度ではないかと思われる。そういうことから、次々と続く「マルコによる福音書」内の個々の奇跡物語に対する信憑性は非常に低くなる。

というわけで、そこにかりに「マルコによる福音書」執筆当時の奇跡主義的信仰形態に対する警鐘が「口封じ」というかたちでなされているとしても、各々の奇跡行為それ自体が多くの場合捏造であるとき、「口封じ」には「捏造事実の隠蔽」という別の機能も宛がわれうることになるわけである。

たとえば9:2〜8では山中での白く輝くイエスの変貌およびエリヤとモーセの出現などが描かれ、9節ではイエスがそれを目撃した弟子たちに、「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と命じる。この口封じは明らかにそういう事実がなかったことの証である。

つまりこれほど重大な出来事が初期教会の信徒たちの間で広く知られていなかったのは、その出来事が事実でなかったためではなく、イエスが口封じしたからだとしているわけである。口封じの「捏造事実の隠蔽」という機能がここにはっきり垣間見える。その目的が何であれ、「マルコによる福音書」が利用した奇跡行為の伝承集の個々の伝承にも、むろん全てではないが、すでに口封じの例が見られるとされている。 


ここで(B)の仮説を訂正すると、イエスは奇跡を中心として活動したのでなく、ときおり治癒奇跡を行いつつ、民衆に「神の国」の近い到来について教化したのだと思われる。ちなみに筆者は自分の個人的な経験から、自然奇跡も治癒奇跡もありうると固く信じている。奇跡現象は霊的なものでも非科学的なものでもなく、ただ現水準の人類科学でまだ説明できない広義の物理現象のことだと考えている。

ところで、それにしても贖罪死だったと信じるかどうかは別にして、イエスは事実、受難したのに、なぜQ資料には受難物語が含まれないのだろう? 

「マルコによる福音書」は、すでに直弟子たちによって十字架贖罪死と復活の宗教としてキリスト教が成立したあと、その教義を今度はイエスの生涯に投影して組み込み、そういう視点から全く別人として新たにイエスの生涯を描き出そうとした最初の本格的な試みであった。それが「福音書」という文学形式だった。

もしかするとキリスト教というのはイエスの弟子たちの中でガリラヤの漁師たちのグループ(マグダラのマリヤを含むガリラヤ湖畔派)が打ち立てたユダヤ教の一派であって、のちにパウロなどの宣教を通じて一つの世界宗教となったものなのかもしれない。

イエスの弟子たちの中には、「イエスの十字架贖罪死信仰を認めず、イエスの行なった奇跡行為にもあまり関心がない」という点でガリラヤの漁師のグループとは別系統の、のちにQ資料とつながるグループもあった可能性がある。

彼らはイエスをもっぱら「人の子」として認識しており、十字架でローマ総督に刑殺されたイエスが、生前の宣教での主張のように栄光の「人の子」としていずれ再臨し、この世を支配するに違いないと信じて、ひたすらそのときを待ち望み、今は名もすっかり忘れられた一宗派を創始したのかもしれない。Q資料から垣間見える彼らの中の預言者は、復活して今は天にあるイエスから霊感を受けて行動している。

当然のことながら、イエスはまず、生存したまま神の黙示録的な助けでいずれローマに勝利して、「人の子」としてこの世に神の国を実現できると考えていた。そしてもしもの場合を考えて、「たとえ殺されても、いずれ神の力で戻ってくる」と弟子たちにすでに語っていたと想像される。

Q資料のグループは、ガリラヤの漁師のグループとは違ってイエスそれ自体を崇拝するのでなく、イエスの立場に立ち、イエスの行なった事業を引き続き忠実に行なうことによって、イエスの「人の子」としての再臨の日、黙示録的な終末の日の到来を待ち望む。

Q資料においてもイエスの復活・高挙(昇天)はともに信じられているが、しかしそれらについてはひとことの説明もなく、単に再臨の前提としてのみ、いわば論理的に受け入れられているにすぎない。Qのグループにとっては人の子イエスの再臨が全ての関心事であった。

そういうわけでイエスの十字架死と復活についても、キリスト教を創始したガリラヤの漁師グループが展開したような神学的な深さや高さを持たなかった。しかし「幸いの教え」(〜する人たちは幸いだ)や「敵を愛せよ」(あなたがたの敵たちを愛せよ)や「黄金律」(人々からして欲しいことを人々にせよ)や「主の祈り」などなどに見られるように倫理性の高さは顕著である。

どうやらQ資料のグループはイエスが刑死したことに消極的な敗北的評価を与えているようである。十字架死を贖罪死だと信じるなら、十字架死は政治的敗北から一転して宗教的勝利となるが、Qのグループは十字架贖罪死という考えを受け入れなかったため、十字架死はどこまでも敗北としてしか見えず、したがってそこにあまり触れたくなかったのであろう。そういう事情のためにQ資料には受難物語がないのだと想像される。ちなみにQ資料には「十字架」という語が一度出てくるが、それはただ「苦難」を意味するにすぎない。

以上のようにQ資料を検討してみると、史実そのものに直結するかどうかはともかく、「マルコによる福音書」よりはQ資料の方が史実のイエスにずっと近いように思われる。しかし反ローマだったイエスの立場を歪め、イエスを容ローマ化することで、両者はともにイエスを非政治化し、本質的な点で史実のイエスから乖離している。

「マルコによる福音書」とQ資料の両者の背後には、ともに十字架死というイエスの政治的敗北による反ローマから容ローマへの転換・転向、つまり政治的メシアだったイエスの非政治化がある。

「マルコによる福音書」が十字架贖罪死を通して史実のイエスを宗教化→非政治化したとすれば、Q資料グループはイエスの「人の子」路線を踏襲したまま史実のイエスを倫理化→非政治化したともいえよう。Q資料グループの「敵を愛せよ」の淵源するところでは、どうやら「イエスを刑殺した敵なるローマ人を赦し愛すべし」というメッセージが響いているようだ。

(一応の結論)
結局、口封じは、非常に複雑微妙な要素を含むが、メシア性に関してはむろん、多くの奇跡行為に関しても、ともにそういう事実がなかったことの「しるし」かもしれない。



「口封じ」関連箇所の列挙

「マルコによる福音書」のどういう場面でイエスのこうした奇跡やメシア性に関する口封じの禁令が見られるか、全て列挙(関連文も含める)


(注)
黄色の文字で示された四つは、治癒奇跡ではあってもメシア性とは全く無関係で、奇跡そのものだけが述べられている。四つ全て口封じされているが、そのなかの二つは「かえって噂が広まった」としている。この四つのほかは全てメシア性と関係がある。

赤い太文字は治癒奇跡の場面で叫ばれるメシア性に関する言葉であるが、そのうちはじめの三つは悪霊が、最後の一つが病人その人が叫んでいる。

各欄における──に続く文章は私のコメントである。

1:21〜28では、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの漁師たちを弟子にしたあと入ったある安息日のカペナウムの会堂で、汚れた霊につかれた者が、「神の聖者です」 と叫ぶ。イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言って癒す。このイエスのうわさはたちまちガリラヤ地方にひろまる。

1:32〜34では、イエスは多くの病人や悪霊につかれた者を癒したが、悪霊どもに物言うことを許さなかった。「彼らがイエスを知っていたからである」

1:40〜45では、らい病人をイエスが癒し、「何も人に話さないように、注意しなさい」と言うが、彼はそれを盛んに言い広め、そのためイエスは公然と町に入ることができなくなった。

──つまり口封じはメシア性とは無関係で、ただ噂されると活動に差しさわりが生じるから行なっているという説明である。奇跡は公然たる場所では口封じされず、個人に対するそれは、口封じしても返って広まった、とあるから、一見奇跡行為の捏造を隠そうという意図はないようにみえるが、実はそうでない。


2:1〜12では、イエスは中風の者を「罪は許された」と宣言して癒そうとし、律法学者たちは心の中で「罪を赦せるのは神しかいない」と非難する。それに対してイエスは、「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることがあなたがたにわかるために」と、「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言う。

──これはイエスが自分を「人の子」と公言する最初の記事である。公然たる場所での癒しの奇跡行為に対しては、当然のことに口封じはない


3:11には、汚れた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言い、「イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた」とある。


4:35〜41では、イエスが風を叱って海を鎮める話が見られるが、船上の弟子たちは、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」と言う。

──これは弟子たちがイエスが人間以上のものである可能性について少し悟り始めたことを意味する。このときまではイエスがメシアであることは悪霊どもしか知らないし、イエスは悪霊どもがそれを語らないように口封じをしている。


5:1〜20にはゲラサのレギオンという悪霊つきがイエスを拝し、「いと高き神の子イエスよ」と叫ぶ。

──弟子たちはこれを聞いている筈だが、物理的な響きではないからなのか、やはり悟らない。癒されたレギオンはイエスに従おうとするが、イエスは許さず、かえってなされた出来事を人々に知らせることを薦める

5:21〜24と35〜43
に会堂司ヤイロの娘の復活物語があり、娘を復活させたあと、43節でイエスは、「だれにもこの事を知らすな」ときびしく命じる。


6:4に「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」というイエスの言葉が見られる。

──ここではイエスは自分を預言者としても見ていることになる。

6:14〜15には、「イエスは洗礼者ヨハネの蘇りだ、いやエリヤだ」という噂が広がっていて、ヘロデ王は「自分が首を切って殺したあのヨハネが蘇ったのだ」と言った、という話が見られる。

6:30〜44には五つのパンと二匹の魚で五千人の男を腹いっぱい食べさせ、残り物までたくさんあったという話、45〜52には海の上を歩くイエスを幽霊だと恐れる弟子たちの話があり、それに続けて、「彼らは心の中で、非常に驚いた。先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである」とあって、弟子たちがまだイエスのメシア性を悟らないことが示されている。


7:31〜37
では、耳が聞こえず口も利けない者を癒して、「誰にも言ってはならぬ」と口止めするが、かえって人々の間に広まる。


8:1〜10では、七つのパンで四千人の群集に満腹するまで食させ、余り物までたくさんあったという話がある。

──そこでは弟子たちが、「どこからパンを手に入れて、食べさせることができましょうか」とイエスに尋ねているが、これは先に五千人の男を食べさせた事実があるなら奇妙な質問である。だから両者とも事実でない証拠になる。

8:11ではパリサイ人が天からのしるしを求め、イエスが「今の時代には決して与えられない」と嘆息して言う。

──奇跡行為は数々なしているので、パリサイ人の求めるこの「天からのしるし」は特別に大きな天変地異を引き起こせるかということだろう。ともかくこれはイエスのメシア性と関係がある話として記されてはいるようだ。たぶん「マルコによる福音書」記者の意図する「しるし」とは十字架贖罪死そのもののことではあるまいか? 「今の時代」とは「イエスの生前」という意味だと受け取れる。

8:14〜21では、「パリサイ人とヘロデ党のパン種に注意しなさい」と述べたあと、少しのパンと魚で五千人と四千人に満腹するまで食させ余り物までたくさんあったのに、「まだ悟らないのか」とイエスが弟子たちに言う場面がある。

──これはむろん、これだけの奇跡を見ていながら自分がメシア=キリストであること、そのキリストがいずれ受難することをまだ悟らないのか、という意味であろう。

しかし常識的に考えれば、自分がキリストであることを悟らせる一番手っ取り早い方法は、自分で彼らに、「わたしはキリストだ」と言明することであろう。ただのキリストでなく「受難のキリスト」である場合には、「私はいずれ贖罪のために受難するキリストである」と言明することである。だがそれではどうして初めから弟子たちはイエスがメシアであることを知らなかったのか?という問題が起きる。

だから「マルコによる福音書」は、弟子たちははじめそれについて全く知らず、イエスが数々の奇跡とくに自然奇跡を通して、徐々にそれとなく間接的に悟らせていくように描いている。

8:22〜26で、イエスは盲人を癒し、「村にはいってはいけない」と命じて家に帰す。

──これは口封じである。

8:27〜30で、イエスは弟子たちに、人々は自分を誰だと思っているかと尋ね、弟子たちは、人々は洗礼者ヨハネ、あるいはエリヤ 、あるいは預言者の一人だと言っている、と返事する。それに対しイエスは、それではあなた方はどう思うかと訊く。

それでペテロが、「あなたこそキリストです」(8:29)と答え、イエスは自分のことを誰にも言ってはいけないと戒める(8:30)

──ここで初めて弟子たち自身もイエスがメシアであることを悟る。むろん一般の人々にはまだ隠されている。

8:31〜33では、そのあとすぐにイエスによってなされた「人の子」の受難と復活の予告に対してペテロがイエスをいさめ、それをイエスが、「サタンよ、引き下がれ」と叱る場面がある。

──ペテロの告白の直後に彼を叱る物語を載せた「マルコによる福音書」の意図は、告白は正しいが、いさめは誤りだ、ということである。すなわち、「あなたはおそらく告白のときわたしを、民衆が普通に思っているような従来型の『政治的メシア』だと誤解したであろうが、そうではなく、わたしは受難と復活のメシア、全く新型の『宗教的メシア』なんだよ」というイエスの立場を強く示すことである。

8:34〜38には、それに続けて、「だれでも自分の十字架を負うて従わなくてはならない」というイエスの言葉がある。これは「十字架」という言葉の初出で、受難の形が十字架刑であることの予告(むろん事後予告)である。


9:2〜8では、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に登ったイエスの衣が真白く輝く変貌を遂げると、エリヤとモーセが現われ、ペテロが彼らのために小屋を建てようかと恐れおののいて言う。そして終わりに雲の中から「これはわたしの愛する子」という声があった、とする記述がある。

続く9節には、そこからの下山の途中で、「このことを人の子が死人のなかからよみがえるまでは、誰にも話してはならない」というイエスの口封じがある。

──これはむろんイエスのいわゆる「メシアの秘密」でもあるが、しかし同時に、そのように決定的に重要な出来事を多くの弟子たちがそのあとずっと知らなかったのはなぜか?という疑問の事後説明をしているわけである。捏造事実の隠蔽を図る口封じの役割がここに透けて見えている。

この口封じはそういう事実がなかったことの証であるが、また変貌そのものが真白く輝く衣を着てのことで、これは葬られるときの死に装束の姿でもあるから、この段落の変貌記事は、すでに死人なのに復活したかのようにここに現われたエリヤやモーセとの出会いとともに、イエスの来るべき死と復活の間接的な表現ともなっている。だからこそ下山途中で「人の子の死人の中からのよみがえり」のことが触れられている。これはまた当時のキリスト教徒が復活現象をこのように幽霊的に・幻覚的に捉えていたことを意味してもいる。

9:10〜13では、死人の中から蘇るとはどういうことか?と弟子たちが互いに下山途中で話し合ったことが述べられ、そのあと弟子たちがイエスに、「なぜ律法学者たちはエリヤが先に来ると言っているのですか?」と訊き、それに対してイエスは洗礼者ヨハネを念頭において、「すでにエリヤは来たのだ」と答える。

──これはメシアの道備えの議論であって、イエスがメシアであることをペテロが告白したことを前提にしているが、依然として弟子たちは十字架贖罪死と復活の「宗教的メシア」の観念には至っていない。

9:30〜32では、「受難し、三日目に蘇る」とイエスが話すことに弟子たちが恐れを抱いていることが示されている。「彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた」(32)

──イエス生前には存在せず、イエス自身も知らなかった原始キリスト教団による新案特許の「イエスの十字架贖罪死への道」を弟子たちが悟れずにいるのは余りにも当然だが、それを福音書の記者は、あたかもイエスだけは知っていて、ひたすら十字架贖罪死へと自己犠牲的に歩もうとする、その悲壮な姿を描こうとしており、さらに、そういうありもしなかったイエスの行動に恐れている弟子たちの心の動きまで記している。

9:33〜37では、弟子たちの間で誰が一番偉いかという議論が持ち上がり、イエスは、「先になろうとするならば後にならねばならず、仕える者とならねばならない」「幼子を受け入れるようにわたしを受け入れる者は、わたしをつかわしたかたを受け入れるのだ」と述べる。

──誰が一番偉いかという議論は、弟子たちがイエスを「政治的メシア」としてみていたことを暗示している。これは史実のイエスの反映だろう。しかし結果としてはイエスは死後「宗教的メシア」として信仰されるに至ったので、このようなありもしなかった諭しの物語となった。

9:38〜42では、イエスの名で悪霊を追い出している者たちの行為をやめさせてはならない、という話がある。「わたしたちに反対しない者はわたしたちの味方である。だれでもキリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう」


10:32〜34では、イエスがエルサレムへの道を先頭に立って進むのを弟子たちは驚き恐れる。そういう弟子たちに、イエスは再び、エルサレムで捕らえられ、殺され、三日後に蘇るという話をする。

10:35〜45では、ヤコブとヨハネがイエスに、「栄光を受けるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」と願い、それを聞いた残り十人の弟子たちが憤慨する。

──これはイエスが「政治的メシア」だったことの痕跡であろう。だから事後的に「宗教的メシア」となった福音書のイエスは、「あなたがたは自分が何を求めているのか、分かっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるべきバプテスマを受けることができるか」(10:38)と、栄光の地位ではなく逆に十字架を背負うべきことを意味する暗示的な言葉を述べる。

そして、「あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなた方の間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(10:43〜45)と結ぶ。

これが贖罪論の初出である。しかし贖罪論の核心をなす「過越しの子羊」との関係がまだ示されておらず曖昧なままではあるが、ともかく受難の意味の最初の開示である。十字架への道をそもそも歩んだ筈のない史実のイエスには、こういう贖罪の自己犠牲的倫理観はなかった筈であり、彼は「政治的メシア」としてむしろ部下たちに輝かしい地位を約束していたであろう。

10:46以下では、エリコで盲人の乞食が多くの群集とともにあったイエスに、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」(10:47)と叫び、イエスは彼を癒す。

──ここで「ダビデの子イエスよ」と叫ぶのは、これまでのような病人の中の悪霊ではない。また「ダビデの子」とはメシアのことであって、イエスがメシアであることが、弟子たちだけが知る事柄でなく、いまやこのようにしてだんだんと公然化してゆくことになる。


11:1〜11では、イエスがろばでエルサレムへ入城し、多くの人々が「ホサナ」と叫んで迎え入れる話がある。──これはイエスがメシアであることの公然化だ。旧約聖書のゼカリヤ書9:9には、

  見よ、あなたの王はあなたの所に来る。
  彼は義なる者であって勝利を得、
  柔和であって、ろばに乗る。

 とあるのが、こういう創作的記述を産み出した。


12:1〜12で、イエスは農夫たちによって殺された、ぶどう園の主人の愛息のたとえ話をする。

──これはイエスの受難の比ゆ的予告である。

12:35〜37では、イエスは「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」と言い、「キリストはダビデの子である」という律法学者たちの考えを退けている。

──とはいえ、10:47で「ダビデの子イエスよ」と盲人の乞食(悪霊ではない)が叫んでいたから、話が矛盾している。これはいったいどういうなりゆきなのだろう? イエスがダビデの子孫であることは「マルコによる福音書」の時代あるいは「マルコによる福音書」の記者の周辺では否定されていたのか? それなら盲人の乞食の叫びの言葉は何なのか? 

「ダビデの子イエスよ」と叫ぶこの盲人の乞食の話は、イエスがろばでエルサレムへ入城する話とともに、明らかにイエスがキリストであることの公然化に積極的に寄与している。いうまでもなく「キリストはダビデの子であろうか」と言うイエスは、「ダビデの子イエスよ」と叫ばれている自分がキリストであることを否定しない。

だからイエスのこの言葉は、イエスがダビデの子孫であることが曖昧だったためもあるが、なによりもダビデに反映する王としての性格、つまりキリストの「政治的メシア」性を否定し、その「宗教的メシア」性を主張しているのである。

それは、メシアとは政治的栄光でなく宗教的贖罪死を目指すものであるというこの福音書の記者の意図を表わしたもので、のちにローマの百卒長が十字架上で息を引き取ったイエスを見ながら、「まことに、この人は神の子であった」(15:39)と言うところにはっきりしている。

したがって「キリストはダビデの子であろうか」という言葉の背後には、「キリストは神の子である」という主張がある。これは人間ダビデの子と「神の子」とを対比して、キリストは「神の子」であり人間以上の存在であるという意味もむろん含む。

だが、むしろ「キリストは栄光を求める政治的メシアではなく、贖罪死を目指す宗教的メシアだ」というのが、記者がイエスに言わせたこの言葉の本当の意味なのである。そして当然「人間の子」より「神の子」が優れているように、「政治的メシア」より「宗教的メシア」が断然優れているということを含意している。

13:1〜37(13章全体)で、イエスはエルサレム神殿の崩壊を予言し、その日がいつか、どんな前兆があるか尋ねる弟子たちに、多くの者が自分がイエスだ、キリストだと名乗って惑わし、弟子たちも多くの苦しみを味わい、様々な天変地異が起る。だが、「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」などと述べる。

──これはすでに受難と復活と昇天を済ませたあとに訪れるイエスの再臨の話だから、むろん捏造である。


14:3〜9では、ベタニヤのライ病人シモンの家で一人の女が高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけ、浪費論争が起るが、イエスはこれは葬りの用意なのだと述べて女の行なったことを褒める。

──むろん受難予告の一環である。この部分については最初に「ラザロの復活物語」のところですでに触れた。

14:22〜25では、最後の晩餐の席でイエスは、パンを取って裂いて、「これはわたしのからだである」と言い、またぶどう酒を手にして、「これは多くの人のために流すわたしの契約の血である」と述べる。

──これはどちらも言葉としてあからさまには出て来ないが、近い将来「過越しの子羊」として屠られる自分自身の「神の子羊」としての意味を教えているわけである。

またこれは、10:45で、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」と記しただけでまだまだ曖昧だった「あがない」の贖罪論を、ここでほとんど完成された完全なかたちで表現した部分である。

十字架贖罪死への道を歩む「マルコによる福音書」のイエスは、ここに至って最後の秘密のベールを脱いでその「宗教的メシア」性を完全に開示する。つまりそもそも「マルコによる福音書」はこの最後の晩餐の場面に向けてイエス物語を構成し、著述してきたわけである。

これからあとの著述に必要な残り部分は、イエスが十字架に架けられて実際に「過越しの子羊」のように殺されるくだりだけである。それによって最後の晩餐の席でやっとその全貌が明らかにされた「過越しの子羊」の贖罪論つまり「神の子羊」論が、十字架贖罪死という具体的出来事として実現し、この福音書を読む者たちの納得が発効する。


14:27〜28では、イエスは、自分の逮捕後、弟子のみながつまずくこと、自分は甦って弟子たちより先にガリラヤに行くであろうことを述べる。ペテロは、「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」というが、イエスは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と告げる。

──これは最後の晩餐のときにすっかり全貌が開示されたにもかかわらず、この時に至っても弟子たちはイエスの目的である十字架の贖罪死と復活について何も悟っていないということを暗示している。


14:32〜42にはゲッセマネの園での杯の祈りの話がある。「どうかこの杯をわたしから取り除けて下さい。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(36)

──これはイエスが自覚的に歩んできた十字架贖罪死への道がそもそも神のみこころであったことを示すくだりである。むろん事実でなく捏造である。

14:61〜62では、大祭司がイエスに、「あなたはほむべき者の子、キリストであるか」と訊き、イエスは、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と答える。

──ここでイエスはユダヤ教の最高権威のいる議会という場所で、最も公然と、自分のメシア性を宣言している。公然化の極みだ。そして死後の(復活と昇天を前提とした)再臨まで間接的に予告している。


15:2では、ピラトがイエスに、「あなたがユダヤ人の王であるか」と訊き、イエスは「そのとおりである」と答えている。ピラトは、ユダヤ人たちがねたみからする非難に対して何も自己弁護しようとしないイエスに弁明を促しているし、ユダヤ人の民衆に対して、「あの人は、いったいどんな悪事をしたのか」と問うてもいる。しかし「十字架につけよ」という民衆の声に押し切られた恰好で十字架へつけるために引き渡す。

──「マルコによる福音書」は、ここでイエスの死はローマ帝国によるものでなく、ユダヤ教あるいはユダヤ人の意思による、としているが、これはむろん事実でなく捏造である。ユダヤ人の王を僭称することほど大きな反ローマの動きはないし、それだけで十分に十字架刑に値するにもかかわらず、みずからユダヤ人の王であることを認めたイエスについて、「いったいどんな悪事をしたのか」とピラトは白々しくもユダヤの民衆に問うている。

すでにキリスト教はその発生の時点で政治性を失いローマ帝国と妥協ができるようになっているので、キリスト教発生後あまり時間を経ない時に、イエス殺害の主犯としての責任をローマ人からユダヤ人に転嫁したと思われる。

15:26には、「イエスの罪状書きには『ユダヤ人の王』と、しるしてあった」とある。

──これはイエスがユダヤ人によって殺されたのでなくローマ人によって殺されたことを示している。つまりイエスはローマ帝国に抵抗する「政治的メシア」だったということである。

むろんユダヤ教権力層は「人の子」メシアを自称したイエスの異端性、安息日戒破りを初めとするユダヤ教律法に対する数々の違反や挑戦のゆえにイエスと激しく対立した。この敵対するユダヤ教権力層がイエスの逮捕・裁判・処刑に際して大きな後押しをしたとは想像しうる。

だがイエスを「ユダヤ人の王」の罪名のもとに処刑したのはあくまでもローマ総督であってユダヤ人でないから、ユダヤ権力層はせいぜいのところイエス殺害の従犯にすぎず、もしかすると直接的には従犯でさえないかもしれない。ユダヤ権力層の介入なくしてローマの兵卒がイエスを捕らえ、ローマ総督が直接裁き、ローマ軍が処刑したというのもありうる。


15:39には、「イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、『まことに、この人は神の子であった』」とある。

──一体誰が百卒長のそんなつぶやきを聞いたのだろう? むろん容ローマ的な立場からの捏造である。そしてイエスがキリストはダビデの子でないといったことの結語である。


16:1〜8では、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメとがイエスの墓に向かい、墓の中に白い衣を着た若者が座っているのを見て驚く。この若者は、「イエスが甦ってここにはおられない。ペテロなど弟子たちのところへ行って、『約束どおりイエスは先にガリラヤへ行っていて、あなたがたはそこでイエスと会える』と伝えよ」と言う。

16:8では、「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」と締めくくられている。

──「人には何も言わなかった」というのは、ペテロなどの弟子たちにも言わなかったという意味なのだろうか? ともかくこれはイエスの復活という事実がなかったことの証であろう。しかし復活信仰の発生とマグダラのマリアとの深い関係が暗示されている。



「マルコによる福音書」における「十字架贖罪死への道」の創作
ここではこれまでに述べたことを要約しつつ「十字架贖罪死への道の創作」の角度からもう一度眺めることにしよう。

「マルコによる福音書」の記者は、

イエスには十字架贖罪死という全く新型のメシア意識がもともとあったが、はじめのうち弟子たちすらイエスのメシア性を知らなかった。そのメシア性をイエスが弟子たちに気づかせようと様々な不思議、とくに自然奇跡を展開してだんだん悟らせてゆき、ペテロの告白があってついに弟子たちが気づくが、それは弟子たちが期待し想定したような、メシア王国をこの世に築く「政治的メシア」でなく、十字架贖罪死への道へと自覚的に歩む「宗教的メシア」だったので、弟子たちはその後、受難と死からの甦りを何度も繰り返し予告するイエスの言葉を理解できず、恐れ、反発し、本当はイエスの十字架と復活のときまで理解できず、また受け入れようともしなかったが、最後の晩餐の時に至ってなんとか理解できたかのように設定する。

というような基本構想のもとに福音書を書いた。

もともとイエスは「神の国は近づいた」と宣教し、ガリラヤの漁師たちに、「人間をとる漁師にしてあげよう」と誘って弟子にする。2:10ではイエスは「人の子」(これは旧約聖書のダニエル書(9:13〜14)では来るべき栄光の世界支配者として描かれ、当時、神の日に現われるメシアを意味していた言葉である)を自称する。

9:33〜34では、弟子たちの間で誰が一番偉いかという議論が持ち上がり、10:35〜37では、ヤコブとヨハネがイエスに、「栄光を受けるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」と願い、それを聞いて残り十人の弟子たちが憤慨する。すでに触れた十字架上の「ユダヤ人の王」という罪状もむろんそうだが、これらはもともとイエスの政治性を示しており、具体的にはイエスが「政治的メシア」だったことを指し示すものである。

しかし「イエスが『政治的メシア』であったためしはない」という著作目的上の前提条件下で書き進む「マルコによる福音書」では、「宗教的メシア」性を念頭においてはじめから積極的に次々とイエスの奇跡行為が描写される。

そして繰り返される奇跡行為を通じてイエスがメシアなる存在(その内容は「宗教的メシア」)であることがだんだん開示されてゆき、そのことによって、もとの政治性のかすかな痕跡すらさらにますます希薄になってゆく。と同時にそれに比例するように十字架贖罪死論が、繰り返しイエスによって予告される「十字架の受難と三日目の復活」という形で、次第に具体化しはじめる。


すでに見たようにいわゆるヴレーデの「メシアの秘密」という仮説は誤りである。「メシアの秘密」はあるにはあるが、初めの諸章を中心とした限定的なものにすぎない。というのも、なにも「マルコによる福音書」はそれを秘密にしようとはしていないからだ。

「マルコによる福音書」はむしろ秘密だったものがだんだん公然化してゆくさまを描いている。そのことでむしろその秘密性が逆に否定され、秘密にされている内容が一層公然と際立たせられている。この「秘密」と「公然化」の手法にはなにか意図的なものを感じざるをえない。

「イエス自身はメシア意識を持っていたが、はじめは弟子たちでさえイエスがメシアであることに気づかなかった」という「マルコによる福音書」の構想は、不自然である。もしイエスのメッセージの根本がそもそものはじめから十字架贖罪死と復活なら、それはいずれ人々に明かさねばならない事柄であって、そもそもの初めからそれを弟子たちや民衆たちに公言して活動してもいい筈だ。少なくともそれを弟子たちに対してすら隠すという必要はどこにあるのだろう? 

イエスの活動はみずからがメシアであることを周りに知られなければそもそも存立しえない。つまりイエスの始めた運動が(華々しい政治的勝利を約束する)メシア運動だからこそ、人々は栄光の地位を求めて弟子になったのである。だからはじめからイエスは、(「政治的メシア」としてではあるが)、「わたしはメシアだ」とみずから公言していた筈であるし、したがって弟子たちや周りの者たちに、最初から、メシアとして知られていた筈なのだ。


すでに触れたように、「マルコによる福音書」の記者が「はじめのうち弟子たちはイエスがメシアであることを悟れなかった」というふうに記述したのは、「マルコによる福音書」の記者にとってメシアとは既存の「政治的メシア」のことでなくイエス死後にはじめて成立しえた全く新型の「宗教的メシア」のことだったからである。

弟子たちはイエスがイスラエルとこの世に神の国を築く栄光の「政治的メシア」だと信じたからこそ弟子になったのだが、その夢はイエスの十字架死という敗北によって破れた。しかしたまたまイエスが「過越しの祭」の時に「過越しの子羊」のように殺されたため、思いがけなくも結果的にイエスは「神の子羊」として十字架贖罪死の「宗教的メシア」になった。

こういう事情だったため、「宗教的メシア」性については弟子たちは初めから終わりまでずっとそれに気づくことはなかった。それに気づいたのはやっとイエスが「過越しの子羊」として発見されたとき、いわゆる「復活」(この真の意味は「私の『史的イエスの実像』」の項を参照)の時のことである。だからイエス自ら自分が(十字架贖罪死を目指す)「宗教的メシア」であることに気づいていなかったわけである。

ところがそれでは十字架贖罪死への道は「偶然の結果」であって真理でも「神の計画」でもないことになってしまう。そもそもの本人であるイエスが自分の歩んだ道にさえ気づかず、自覚的に十字架贖罪死への道を歩んだのでないというのでは、人類に対するイエスの自己犠牲愛だけでなく、イエスの神の子性やメシア性まで疑われてしまう。端的に言えばキリスト教は民衆の理解と支持を得られず、とても成功しない。

だから、イエスはそもそも自分が「宗教的メシア」であることに気づいていたのだが、宗教的であれ政治的であれなんであれ、ともかくメシアであることさえ弟子たちに対してははじめのうち秘密にしていて、それを奇跡(とくに自然奇跡)などで少しずつ開示してゆき、8:31以下でついにペテロの告白に至ってメシアであることを弟子たちに悟らせる。

だが、そのとき同時に含みとして、「わたしはあなたがたの思っているような栄光の政治的メシアでなく、これから十字架贖罪死へと歩んでいく宗教的メシアなんだよ」と示す物語(受難死への道をいさめるペテロに対して「サタンよ、引きさがれ」と叫ぶイエスの物語)を「マルコによる福音書」の記者は付け加えているのだ。そこのところを引用すると、

「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきに引き寄せて、いさめはじめたので、イエスは振り返って、弟子たちをみながら、ペテロをしかって言われた、『サタンよ、引きさがれ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』。」(8:31〜33)

ペテロの告白のこの時点で初めてイエスがメシアであることが人類(その代表の弟子たち)に「しかもあからさまに」開示される。このときまでは悪霊たちしかそれに気づかなかった。


ちなみに「政治的メシア」は此岸的・肉肯定的で、勝利と栄光の思想、自己実現の思想であり、「宗教的メシア」は彼岸的・肉否定的な敗北と死、自己犠牲の思想であって、両者はほとんど正反対のメシア像である。福音書に記された崇高な人格者であるイエス像は自己犠牲的な十字架贖罪死への道を歩む、人に仕えるために来たとされる、愛の体現者である「宗教的メシア」である。しかし史実のイエスは「政治的メシア」であって、それとは全く逆だった。

私たちがこれまで想像してきた愛の人格者イエスという像は史実のイエスとは違う。史実のイエスについてはパウロは全く無視・拒絶しているし、ペテロをはじめイエスの直弟子たちもおそらく史実のイエスの全体像については語ろうとしなかった。

史実のイエスは私たちが想像してきたような、愛の心で僕(しもべ)のようにひたすら仕えようとする自己犠牲的な徳高い人格の持主などではなく、自己実現を追及する結構な野心家だったかもしれない。しかし当然のことながら人々を強く惹きつける人間性や徳性も持ち合わせていた筈である。

そういう史実のイエスを十字架贖罪死へとみずから歩む「宗教的メシア」として描き直したとき、「マルコによる福音書」は、自己犠牲と愛と奉仕のキリストとして、比類なく崇高な人格者として浮かび上がらせた。むろんそういうイエスの人物像は「マルコによる福音書」以前にすでにキリスト教会内で定着していただろう。


さて、「マルコによる福音書」でイエスが「宗教的メシア」として描かれるとき、そのほとんどが事実でないそうした類の数々の伝承(「奇跡行為集」)をつなぎあわせて次々と奇跡物語が記されてゆき、「さまざまな奇跡(治癒奇跡や自然奇跡)を絶え間なく行なうイエス」という像が形作られる。

それらの奇跡行為はイエスが「政治的メシア」でなかったことを証拠立てると同時に、「宗教的メシア」としてのイエスが人間以上の存在である「しるし」、あるいは証としての役割を果たし、イエスがキリストであることについての弟子たちの悟りの材料とされる。とくに自然奇跡はそうである。

しかしそもそもイエスは「政治的メシア」だったから、おそらく積極的にはこうした奇跡行為をなさなかったはずである。むろんメシアは神からの超越的な力の介入を得て敵なるローマ帝国に勝利する筈の者だから、たえず神からの超自然的な働きを期待したことだろう。

ところでフレイザーの『金枝篇』を見れば、とくにイギリスなどではかつて王に触れるだけで民衆のさまざまな病が癒されたという風習・伝統があったことが報告されている。こういう現象は文化人類学的に探求すれば世界のあちこちで結構見つかるに違いない。

「政治的メシア」としてはかりそめにも信じる者たちの心の中で「ユダヤ人の王」であり、また神から来た者として受け止められるべき存在でもあり、どこまでも一種の宗教性を帯びているわけであるから、イエスは、道を歩くときに民衆に触れられ、それがたまたま癒しを引き起こしたということもあったかもしれない。

そういうことがきっかけで民衆が治癒の奇跡を求めてイエスに触れようとしたかもしれず、イエスもまたそれに応えてそうした奇跡行為を幾度かは行なった可能性もある。事実、すでに触れたように治癒奇跡現象は存在すると思われるし、イエスにはあるいは事実そういう力があったのかもしれない。

また「政治的メシア」としての自分に神の超自然的な加護があることを周囲に示すために、旧約聖書でモーセ・エリヤ・エリシャなどが行なったと記されているあれこれの自然奇跡の真似事のようなことさえ幾度かは行なったかもしれない。

それらが後に、新たに創作されたものと一緒になって奇跡行為の伝承集となり、ついに「マルコによる福音書」で、「奇跡行為者としてのイエス・キリスト」という像を産むきっかけを与えたのだろうか?

とはいえ、「マルコによる福音書」に記されたイエスの奇跡物語は、自然奇跡はむろん捏造だし、ヤイロの娘を復活させたという大治癒奇跡も当然そうだが、その他のささいな治癒奇跡の多くも、イエスの本性を明らかにする悪霊や病人の叫びを伴うものは、事実でないと思われる。



それでは関係箇所の全てを見ながら「マルコによる福音書」における十字架贖罪死への道の公然化過程をたどろう。既述の「口封じ関連箇所の列挙」と少しダブルところもあるがご辛抱いただきたい。

●1:11で洗礼者ヨハネから洗礼を受けるときの、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という天からの声は、ゲッセマネの園での最後の祈りを描いた14:36の「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」という十字架贖罪死受け入れの言葉と共鳴している。

●2:20に、「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」という語が見えるが、これはヨハネの弟子たちがイエスに、どうしてあなたの弟子たちは断食しないのか、と尋ねたことへの返答である。

断食をしないイエスの集団ははたして純粋な宗教集団だったのだろうか? もしかすると政治的集団でもあったことの痕跡の一つでは? イエスの集団が従来の規則などにとらわれないことがいくつか述べられているが、その性格はもともとイエスの集団が純粋の宗教集団でなく政治集団でもあったからかもしれない。

ともかく「花婿が奪い去られる日が来る」という表現は、間接的なかたちではあるが、十字架の受難の最初の予告である。当然、受難予告の初出である。とはいえ、そこに贖罪論はまだない

●3:6には、すでにパリサイ人とヘロデ党の者たちがイエスを殺害しようと相談しはじめたことが描かれている。これも受難予告であるが、こうした敵の動きは対立の激化が進む中でその後なんども繰り返される。(11:18、14:1)

●8:14〜21で、イエスは弟子たちにパリサイ人とヘロデ党のパン種への警戒を促す。譬を使ったその言葉の意味を悟れない弟子たちに対して、イエスは五千人と四千人に満腹まで食させ余り物までたくさんあった出来事を想起させ、「まだ悟らないのか」と述べる。これは、「それほどの自然奇跡を行なうことのできたことから判明するメシアである私は、いずれパリサイ人やヘロデ党の者たちによって受難するだろう」と、譬を使って非常に間接的に予告しているのであろう。

●8:29にはピリポ・カイザリアへの途上で「あなたこそキリストです」というペテロの告白があり、その直後、イエスは「このことを誰にも言ってはいけない」(8:30)と戒め、「しかもあからさまに」(8:32)、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを」弟子たちに話す(8:31〜32)。

「しかもあからさまに」と「マルコによる福音書」が記述しているのは、「マルコによる福音書」の記者が、ここではじめて、受難と復活をセットにして、はっきりとイエスに予告させているからである。しかしまだ贖罪論は現われていない

●8:32〜33では、(「マルコによる福音書」の記者はあたかも贖罪論がまだ明かされないためででもあるかのように読者に暗に訴えている)、このときイエスが予告した受難と復活の意味を弟子たちは理解できない。いさめるペテロに対してイエスは「サタンよ、引き下がれ」(8:33)と言っている。

つまりイエスがキリストであることについては弟子たちは悟れたが、どういう性格のキリストなのかは依然として悟れなかった、ということを「マルコによる福音書」の記者は主張したいわけである。

いさめるペテロへの叱責物語には、一応弟子たちがイエスを「政治的メシア」として理解してしまったところを、「そうではない。私は(十字架贖罪死の)受難の『宗教的メシア』なんだよ」と諭す目論見がある。つまり史実のイエスはそもそも「政治的メシア」だったのだが、結果的にはイエスの死後、イエスも弟子たちも全く予測できなかった「宗教的メシア」になってしまった。

しかし生前のイエスが「宗教的メシア」だった自分のことを知らなかったでは話は通らないから、「マルコによる福音書」の記者は、「イエスはそれを知っていて、そうでいながらずっと秘密にしていて、そのため、この時点でも弟子たちにはどういうメシアなのか悟れなかったし、結局、イエスのいわゆる復活のときまで悟れなかったのだが、その後も受難予告をだんだん発展させていって、最後の晩餐のときになんとか悟れたかのように設定する」というふうにせざるを得なかったわけである。

そもそもイエスが過越しの祭の直中で「過越しの子羊」が屠られるように処刑されるという出来事が起きてこそ初めて発見・発明・納得されえた十字架贖罪死のメシア像なのだから、その出来事が起きるずっと前にイエスに知られていたことにして、それをイエスの口を通して弟子たちに悟らせてゆくというのは、本当は無理な話なのである。しかし十字架贖罪死への道を自覚的に歩むイエス像を描かなければならない記者にとっては、無理でもそういうストーリーをなんとか実現しなくてはならなかった。

ところで、「マルコによる福音書」は全体で16章あり、そのほぼ中間点がこの8:29のペテロによるキリスト告白である。この福音書の記者は前半部では様々な自然奇跡を通してペテロのキリスト告白へと導き、後半部では、まず最初に、弟子たちにいまや明らかになったキリストが十字架贖罪死を目指すメシアであることを、「最後の晩餐」の場へ向けて、順を追って一つずつ開示しながら悟らせようとする。

そして最後に、全ての成就としての逮捕・裁判・処刑・埋葬・復活が描かれる。これが「マルコによる福音書」の根本構造だ。だからこそペテロのキリスト告白の直後にイエスの受難・復活予告が設定され、ペテロの諌めとイエスの叱責の場が設えられた。

この福音書の記者が「最後の晩餐」の場をひたすらめざしているのは、その晩餐における食事パターンがそのまま「過越しの子羊」の肉と血を、パンとぶどう酒として、食べる場だからである。つまり「過越しの子羊」→「神の子羊」としての贖罪死のメシア像を弟子たちに悟らせるための唯一無二最善最良の場だった。

●続けて8:34には次のようにある。

「それから群集を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従いなさい」

これは弟子たちだけでなく、このとき群集にも受難の予告をしたという設定だ。このように将来の受難が公然化してくる。ここに出てくる十字架」という言葉は初出である。むろんイエスがどういう死に方をするかその結果が分かった上で、福音書記述段階で書かれた事後的な言葉だ。しかしまだ贖罪論は出てこない

●9:2〜8には高い山でのイエスの変貌およびエリヤとモーセの出現の情景が描かれ、9節では下山途中イエスが一緒に出かけた弟子たちに、「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と命じる。

すでに述べたが、この口封じはそういう事実がなかったことの証である。また変貌のイエスの衣は白く輝くが、白い衣は葬られるときの死に装束でもあるから、この変貌の描写は、すでにずいぶん昔に死人となったエリヤやモーセとの邂逅・出会いと合わせて、イエスの死と復活の間接的な表現ともなっている。だからこそ「マルコによる福音書」の記者は下山途中のイエスに、「人の子の死人の中からのよみがえり」のことに触れさせている。

●9:12には、「イエスは言われた。『確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか」とあるが、ここで受難が旧約聖書の権威でもって預言されたものであることが示されている。

そして「マルコによる福音書」の記者は明らかに洗礼者ヨハネを念頭に置きながら、「エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」とイエスに語らせている。それは十字架への道が神によって古くから準備されているということを聖書の預言によって示し、すでにエリヤは来たのでもうすぐ自分の受難が来るという暗示なのである。

むろんこれは「マルコによる福音書」の記者が旧約預言の神的権威を利用して、読者に、「イエスの受難については神の預言があるのだから、イエスが『宗教的メシア』であったことを疑うなかれ」と、その史実性の受容を強制しているわけである。

●10:30でイエスは、「今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、またきたるべき世では永遠の生命を受ける」と述べ、受難が弟子たちにも及ぶことを匂わせているが、むろんこれは事後預言である。本当は逮捕・敗北の直前までイエスも弟子たちも神の黙示録的介入による政治的大勝利を確信していたからである。

●10:32〜34では、おおむね8:31〜32で話されたことが繰り返されている。ただここではエルサレムへの途上でイエスが先頭に立っていて、それを弟子たちが驚き怪しみ、恐れる。

「するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた。『見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」

とある。ここでもまだ贖罪論が示されていないので、弟子たちには受難と復活への道を歩もうとするイエスの態度が理解できない(ことに一応なっている)。

●10:35〜45では、ヤコブとヨハネの兄弟が、イエスが栄光を受けたとき右と左に座れるように頼み、それを知った他の十人の弟子たちが憤慨する。これはイエスがそもそも栄光の「政治的メシア」だったことの痕跡であり、それをいさめ諭すイエスの言葉は「宗教的メシア」の立場からする事後的なものである。

イエスはヤコブとヨハネの兄弟には、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」(38)と、栄光の座席どころか十字架を背負うべきことを暗示し、弟子たち全部には、偉くなりたい者はかえって仕えるものとなり、僕とならねばならないと諭す。

そして諭しの締めくくりとして最後に、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(10:45)と述べている。これが贖罪論の初出であり、受難の目的が贖罪であることが始めてここで明かされている

しかし弟子たちには何のことか分からない。まだ過越しの祭の直中で「過越しの子羊」のようにイエスが殺されるという、全く偶然に生じた出来事が起きていないからである。事実、イエスも弟子たちもその日にイエスが十字架に架けられて殺されるということは予見できなかった。

●12:1〜12まではぶどう園の主の愛息殺しに関するイエスの譬話である。ぶどう園の主は収穫の季節になって次々に僕を送るが、農夫たちは袋叩きにして空手で帰らせ、ぶどう園の主はついに愛息を送る。ところが農夫たちは跡取りを殺して財産を自分のものにするために彼を殺し、ぶどう園の外に投げ捨てる。そこでぶどう園の主は報復して彼らを殺し、ぶどう園を他の人々に与える、という内容で、そこにイエスの神の子性と受難とユダヤ人以外に与えられる福音のことが暗示的に予告されている。むろん事後的に創作された譬話である。

●12:35〜37で、イエスは、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストはダビデの子であろうかと言って、律法学者たちの考えを否定している。ところが「マルコによる福音書」においても乞食の盲人がイエスを「ダビデの子」だと叫んでいる(10:47)。

だからここでイエス自身が「キリストはダビデの子でない」と言うのは、イエスが受難のキリスト(宗教的メシア)であって栄光のキリスト(政治的メシア)でないということの別の表現だろう。同時に人間ダビデの子でなく「神の子」であるという主張でもあろう。

●13:1〜37では神殿崩壊と終わりの日のことが述べられ、弟子たちの受難が予告される(13:9)。終わりの日はむろんイエスが受難したあとに訪れる再臨の日のことで、「これらのことが起るのを見たら、人の子が戸口まで近づいてきていると知りなさい」(13:29)とある。つまり物語の上ではまだ受難も復活も昇天も起きていないのに、再臨のことが早々と預言されている。むろんイエスの死後、キリスト教宣教の時に起きた迫害やユダヤ戦争(AD66〜70)の困難な状況を反映した事後預言である。

●14:3〜9にはベタニヤのライ病人シモンの家で「ひとりの女」が高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎ、浪費論争が起きるが、イエスはそれを弔いの用意だとして褒める。これはむろん受難予告の一種である。香油は弔いのときに死体に塗る。

●14:12〜25では、場所の準備のあと過越しの食事が行なわれる。イエスはパンを取り、「取れ、これはわたしのからだである」、杯を取り、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」と述べる。10:45ではじめて明らかにされた贖罪論が、ここで過越しの食事を通して、十字架贖罪死論として、その全貌がほぼ明かされる

つまりここではじめて十字架贖罪死における「過越しの子羊」のアイデア、つまり「神の子羊」のアイデアが、(言葉としてでなく内容として)、提示されている。むろん最後の晩餐のこのような描写のすべては事後的創作である。

十字架贖罪死へと歩む全く新型のメシア像(「神の子羊」となった「過越しの子羊」)を弟子たちに悟らせようとする記者は、「過越しの子羊」の肉と血をパンとぶどう酒で代用して食する食事パターンを利用するため、この最後の晩餐の場に向けてずっとこまめに書いてきたのだが、しかしやはりいくら「これはわたしのからだ、これはわたしの血だ」とイエスに言わせても、まだイエスが過越しの祭の直中で「過越しの子羊」が屠られるように処刑されてはいないので、弟子たちにはなんことやら分からないわけである。それは記者も重々承知している。

●14:27〜28で、イエスは、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼いを打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである」と述べ、弟子たちの受難を再度予告している。これは最後の晩餐でイエスが贖罪死のメシアだと納得させたはずなのに、弟子たちはまったく悟っていなかった、という事情を示すものである。

イエスが逮捕されるや弟子たちは逃げ散った。記者はそれを「羊は散らされるであろう」というイエスの言葉で預言させているわけだ。弟子たちが逃げ散ったのが史実だったからこう記さざるを得なかったのだが、これは最後の晩餐の場へ向けて「十字架」とか「あがない」とか順序を追って一つ一つイエスの口から贖罪死のメシアであることを説明させてきて、やっとその最後の晩餐の食事パターンを利用してついに弟子たちに悟ってもらったはずなのに、やはり弟子たちは悟らなかった、ということを示している。

つまり記者は、見かけ上はともかく、厳密にいえば著述目的に失敗しているわけだ。とはいえ、なにがなんでも「政治的メシア」だったイエスを十字架贖罪死の「宗教的メシア」だったことにしなくてはならなかったから、無様な失敗作でもなんでも、見かけの上でなんとかそれなりに読めるイエス伝が必要だったわけである。

●14:32〜43までは有名なゲッセマネの園での祈りである。イエスは(十字架贖罪死という)杯を取り除けてくれるよう神に祈るが、「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と述べる。むろんこんな事実はある筈もなかった。これは事後的創作である。

その後イエスはユダの先導で現われた祭司長、律法学者、長老たちの送った群衆の手に捕らえられ、大祭司のところへ連行され、議会で裁きが行なわれるが、そのとき、「イエスが、神殿を打ち壊して、三日後に手で作られない別の神殿を建てると言った」という罪状が訴えられる。これは明らかにいわゆる受難三日後の復活を契機としたキリスト教の成立を意味している事後預言である。

大祭司はイエスがキリストかどうか尋ね、イエスは、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗ってくるのを見るであろう」と言う。これは受難・復活・昇天・再臨を先取りした言葉である。むろん「マルコによる福音書」が語らせている事後的な言葉である。

●15:1〜15で今度はピラトが裁く。だがイエスはユダヤ人が次々に訴えているのに何も答えない。「マルコによる福音書」がそうした黙するイエスを描くのは、受難にこそ贖罪という意味があるからだ。したがって、当然この場で受難を逃れようとする姿は描けない。

●15:16〜41までは、十字架に引き渡されたあとのイエスの描写である。あれこれの些細なことが旧約の預言の成就に関連付けられて次々に記されているが、すべて事後の当て込みである。

「マルコによる福音書」によれば、イエスは午前9時ごろ十字架につけられ、午後3時に息を引き取った。「マルコによる福音書」は直接触れないが、それがたまたま神殿で過越しの子羊が屠られるちょうどその時間だった。たまたま事実、時刻が一致したのか、それとも一致したかのように後に捏造されたかは定かではないが、ともかくその日に十字架に架けられて殺されたことは確かで、その偶然が「過越しの子羊」を引き継いだ「神の子羊」論、つまり十字架贖罪死論を生み出し、キリスト教を誕生させた。

●15:42〜47には、アリマタヤのヨセフが死体となったイエスを受け取って亜麻布に包み、岩墓に納め、マグダラのマリアとヨセの母マリアがその場所を見届けたと記されている。

●16:1〜8では、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメが墓にゆき、墓の中に白い衣を着た若者が座っているのを見て驚く。この若者は、イエスはよみがえってここにいないと話し、イエスは先にガリラヤに行って、かねての約束どおりそこで会える、と弟子たちに伝えるよう命じる。「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった、恐ろしかったからである」(16:8)。ここで登場する女性の数が三人であることは、「マルコによる福音書」の「三」の用法と深い関係がある。



全体のまとめ(「三」の用法など)


「マルコによる福音書」はありもしなかったイエスの十字架贖罪死への道を描いている。それがまたメインテーマともなっているから、この福音書は基本的に史実に対する捏造文書だと断定していい。

ただし「捏造」という意識は「マルコによる福音書」の記者にはなかったと思われる。それは第一に既存の伝承を利用しているためでもあり、第二に、たとえ疑わしくとも、たとえ非事実であっても、教会の立場や神の目から見ればこれこそ事実だと信じて書いているためでもある。

とはいえ「マルコによる福音書」成立に至る過程は、原始キリスト教会全体の作業としては、意図的あるいは非意図的に長い時間をかけて行なわれた捏造過程だったといえる。

捏造の判断基準・判断対象は以下の11種である。

(1)受難と復活の予告や十字架贖罪論に関係する部分
(2)ユダヤ教権力層との宗教的対立が激化してついに彼らに捕らえられ、ユダヤ人たちの要求によって処刑されたという、ローマ側の主導的な役割を捨象した部分
(3)自然奇跡に関係する部分
(4)大治癒奇跡(ヤイロの娘の復活とゲラサの悪霊つきへの治癒)(註:復活奇跡関係はイエス死後の復活信仰の反映)
(5)口封じされている出来事(いわゆる「メシアの秘密」部分と口止めされている自然奇跡および治癒奇跡
(6)旧約の預言の成就を目指している部分(11:1〜11の「ホサナ入城」はゼカリヤ書9:9の成就、15:24の衣服のくじ引きは詩篇22:18の成就などなど)
(7)確かめようのない記述(天からの声・天からの鳩・人々の内心の描写・エリヤとモーセの幻の出現・悪霊つきの叫びの内容などなど)
(8)イエス死後、キリスト教が発生してからはじめて記述できることを記している部分、あるいはそうしたところからなされている事後預言の部分
(9)譬話の部分の多く(マイナーな自称メシアだったイエスが、簡単には解き明かせない譬でいつもものごとを語ったら、民衆の誰も耳を傾けようとはしない)
(10)イエスの純宗教性を示唆している部分や彼が「宗教的メシア」であることを示そうとしている部分(たとえば11:15〜18の「宮潔め」などなども)
(11)「三」に関わる部分の多く


(2)に関しては、そもそも「イエスとユダヤ教徒との宗教的対立が次第に激化して、エルサレムに至ってそれが最高潮になり、ついにイエスはユダヤ教の権力者たちによって捕らえられ、ユダヤ人たちの要求によって十字架刑に処せられた」という、ローマ側の主導的な役割を全く無視した「マルコによる福音書」の基本設定それ自体が、「宗教的メシア」像に起因する捏造であろう。

たしかにイエスはユダヤ教権力層と対立したであろうが、それは宗教的対立でもあり、同時にローマの植民地支配の走狗に堕しているユダヤ教権力層との政治的対立でもあっただろうからである。

11:1〜11の「ホサナ入城」や11:15〜18の「宮潔め」などは、暗闇のゲッセマネの園でユダに接吻されそれが合図で逮捕されるという筋書きとは矛盾する。イエスはいわばお尋ね者だったから、民衆の「ホサナ」の歓呼を受けてエルサレムに公然と入城するなど決してできないことだし、またイエスを逮捕しようとしている大祭司や祭司長の手先があちこちにいるエルサレムの神殿内で、商人たちの台や腰掛をひっくり返して「宮潔め」をするなど全く不可能なことである。


ところで、(10)に関しては、「宮潔め」の他にも、すでに見たように、イエスに次々と奇跡を行なわせるとか、「メシアの秘密」の口封じテクニックによってイエスの「宗教的メシア」性を誘導し、公然化させるとか、イエスに宗教的な行為・譬話・論争・教えを行なわせるとか、様々な細工があるが、その他にも、イエスと洗礼者ヨハネとを関係付けるという方法もある。だからこそ、この福音書の最初に洗礼者ヨハネが登場する。

洗礼者ヨハネのことは、1:2〜11には洗礼者ヨハネの紹介とヨルダン川におけるイエスの受洗が、1:14には洗礼者ヨハネの逮捕のことが、2:18〜22にはイエスの弟子たちが断食しないのを洗礼者ヨハネの弟子たちが問題にしていることが、

6:14〜29にはヘロデ・アンティパス王による洗礼者ヨハネ殺害の顛末が、8:27〜28には人々がイエスをバプテスマのヨハネだとかエリヤだとか言っているということが、9:9〜13にはエリヤが洗礼者ヨハネとして既に到来して、来るべきイエスの死を予告する意味で殺された、というイエス自身による説明が、

11:27〜33には「ヨハネのバプテスマは天からか人からか」というイエスと祭司長・律法学者・長老たちとの論争が、それぞれ記されている。このように洗礼者ヨハネとイエスとの近しい関係は「奇跡行為」「メシアの秘密」と同じく第11章に至るまでほぼ全編的に行き渡っている。

「マルコによる福音書」を含む各福音書で描かれている洗礼者ヨハネは、荒野に住む超俗の宗教人で、民衆をヨルダン川に呼び寄せ、彼らに罪の悔い改めを求め、ヨルダン川の水で洗礼を施した。つまり彼は純粋な宗教人である。したがって、彼とイエスとを受洗によって接続することは、すなわちイエスを非政治的な・純粋な宗教人、いいかえれば「宗教的メシア」に仕立て上げることにつながる。

ところが注目すべきことに「マルコによる福音書」などとほぼ同時代と言って良いヨセフスの『ユダヤ古代誌』では、洗礼者ヨハネは各福音書で記されているようなヘロデ・アンティパス王の婚姻(義兄弟ヘロデ・ピリポの妻を妻とした)への非難のためではなく、政治的脅威だったためにこの王に殺害されたとされている。

別の違いもある。各福音書に出てくるその妻の名はヘロデアであるが、これはヨセフスの先の著作では、ヘロデアの娘のサロメとなっている。だから各福音書はヘロデアとその娘とを取り違えていることになる。

『ユダヤ古代誌』は歴史書なので、事実かどうかの判断については信仰の書である福音書よりはずっと信頼がおける。とすると、洗礼者ヨハネが殺害された理由もヨセフスの方が正しいと見るべきだろう。

たしかに民衆の支持と帰依が甚だ大きく、同時に多くの弟子を従えた洗礼者ヨハネは、おそらくみずからは公言しなかったが人々にメシアかも知れないと期待された一面もあったから、ヘロデ王が彼を政治的脅威として殺害したとしてもおかしくはない。

こういう視点からすると、イエスは最初こうした洗礼者ヨハネに従ったが、彼が逮捕あるいは殺害されたのでその流れ・その遺志を発展的に継承し、今度はみずから「政治的メシア」を公言して積極的に民衆の中に入って行ったとも見ることができよう。

しかしそのイエスも十字架刑で殺害されてしまうと、十字架贖罪死の「神の子羊」の発見とそれによるキリスト教の成立もあって、一部の弟子たちの間で政治から宗教への決定的な後退が起った。

そして同じく洗礼者ヨハネの弟子でその後イエスに付き従ったペテロ・アンデレなどのガリラヤ湖の漁師出身のグループが、「洗礼者ヨハネもイエスも純粋な宗教人だった」ということにし、またヘロデ・アンティパス王による洗礼者ヨハネ殺害の理由をも、政治対立的なものから婚姻非難に変更したのかもしれない。ちなみに、「ヨハネによる福音書」(1:35〜42)には洗礼者ヨハネの弟子アンデレが兄弟シモン(ペテロ)を誘ってイエスの弟子になる話が見られる。

さて、いうまでもなく、「政治的メシア」としてのイエスよりは比較的容易に純宗教化しやすい洗礼者ヨハネ像にイエスを接続すると、そこから「宗教的メシア」としてのイエス像をより容易く導き出すことができる。それが「マルコによる福音書」の冒頭に洗礼者ヨハネによるイエスの受洗の情景が置かれた理由であろう。最初にドカンと読者の目を眩ましておいてその後の捏造話の展開を容易にしようとしたのではないだろうか。



ところで、「マルコによる福音書」の記者は福音書を創作するにあたってさまざまな構成を行なっているが、そのなかで注目されるのが「三」の用法である。福音書全体をガリラヤ時代・その周辺地域時代・エルサレム時代の三つに分け、ガリラヤの海とダマスコの中間にあるピリポ・カイザリア途上でペテロが「あなたこそキリストです」と告白する場面(8:29)を、全16章ある福音書全分量のちょうど中間に、福音書全体の転換点となる出来事として置いた。

したがってイエスが「過越しの祭」の時にエルサレムに上るのは一度だけで、そのため、この福音書では、他の福音書とは違い、イエスの活動期間がせいぜい一年半そこそこの短い期間になっている。

ちなみに4世紀のシナイ写本などの最古の写本では最終章の第16章は第1節〜第8節しかなく、話も文法も唐突に終わっている。これは一般には「マルコによる福音書」の完成後間もなく写本の最終ページが失われたためではないかと解釈されている。そして第8節のところで唐突に終わるのでは不自然だからという理由で、その後、(5世紀のAおよびCの写本にすでに見られるように)、第9〜20節の部分が付け加えられたということである。ちなみに聖書の章分けは13世紀、節分けは16世紀(1551年)のことである。

この失われた部分の分量がどれほどであっても、おそらく現在の付加部分の量と大差ない筈だから、ペテロの告白の場面が全分量のほぼちょうど中間点に置かれていると考えてもいいだろう。

このペテロのキリスト告白へ向けて前半部が、その告白を促す様々な治癒奇跡・自然奇跡で構成されている。そして次にひたすら最後の晩餐の場面に向けてペテロの告白後につづく後半部の大半が、キリストが十字架贖罪死と復活のキリストであることを弟子たちに悟らせようとするイエスの様々な諭しや予告などを中心として構成されている。

そして最後の第三番目に、逮捕・裁判・処刑・埋葬・復活という福音書のハイライトの場面が描写され、生前イエスが予告していた十字架贖罪死と復活が実現する。

ところでペテロの告白が全分量のほぼちょうど半分のところにあるのは、この福音書におけるこの出来事の重要性を示すものであるが、全体の里程標としては、ペテロの告白までと、最後の晩餐までと、受難・復活という三つの部分に分けられている。建造物でたとえれば、「マルコによる福音書」はいわば三層の階段式ピラミッド状に構成されていて、最下層の土台に全体の石材のちょうど半分を、中層に残りの石材の大半を、そしてハイライトの最上層に最後に残った石材を使用しているようなものだといえよう。


「三」は全体構成においてだけでなく中間クラスの構成においても使用されており、たとえば8:31〜9:1と9:30〜9:37と10:32〜10:45には、「イエスの受難予告・弟子たちの地位要求・イエスの諭し」という三つの要素による同じ順序、同じ趣旨の物語がちょうどこのように三度だけ繰り返されてトリプレット構造になっている。ちなみに8:32の受難を目指すイエスに対するペテロの諌めも、いってみれば彼の地位要求の反映に他ならない。

またイエスの自然奇跡についても、相似の二つの奇跡が、三種つまり三度繰り返されている。すなわち自然奇跡のダブレットがトリプレットを構成している。したがって自然奇跡は全部で六つあることになる。

具体的には、4章と6章の海上の奇跡、6章と8章のパンの奇跡、9章と11章の変容の奇跡である。海上の奇跡については、4章ではイエスは海を叱って静まらせ、6章では海上を歩く。パンの奇跡については、6章では5つのパンと2匹の魚で男五千人を飽食させ、8章では7つのパンで4千人の群衆を飽食させる。

変容の奇跡については、9章では弟子たちと共に山上に登ったイエスの姿が変わり、その衣が真白く輝き、11章ではイエスに呪われたイチジクの木が枯れる。ちなみに山上のイエスの変貌もイチジクの枯死も、同じく「死」を指し示すものである。


「三」の使用は全体構成やこのような中間クラスの構成だけではなく、さらに小さなクラスの部分構成にも見られる。たとえば4章にある神の国の譬話も三つである。神の国のこうしたタイプの譬話はこの三つしかない。

またよく知られた事実であるが、この福音書の記者は「サンドイッチ用法」と呼ばれる記述法を数度使っている。「サンドイッチ用法」とは、ある物語の中間に他の物語を一つはめ込んで、全体で三つにするという方法である。

たとえば5:21からヤイロの娘の復活治癒奇跡物語が始まって5:43で終わるのであるが、中間の5:26〜34に、12年間長血を患っている女の治癒奇跡物語が挿入されている。こうした「サンドイッチ用法」も「三」の使用法の一例であることは明らかであろう。

ふつうこの用法は、この記者がそれぞれ独立した資料をつなぎ合わせて物語の前後関係や動きや史実性をかもし出そうとする手法だと解釈されているが、むろんそう解釈する場合でも、そこに「三」の含蓄するものが隠されていることを見逃してはならない。

その他にも逮捕に至るまでにイスカリオテのユダが三度登場してその準備をする。14:10〜11でこのユダはイエスを渡そうと祭司長たちのところへ行き、その後機会を窺っている。14:17〜21でイエスは最後の晩餐の席で、名前は挙げないが、この中に裏切り者がいると話し、14:43〜45でイスカリオテのユダはゲッセマネの園にいるイエスに近づき接吻して逮捕させる。

また14:32〜41に、ゲッセマネの園で逮捕直前に苦悩の祈りをしていると、彼とともにいたペテロ・ヤコブ・ヨハネの三人の弟子が三度眠り込んでイエスに起こされ諭されるというよく知られた場面がある。いうまでもなくこの三人の弟子の三度の眠り込みもまた「三」の用法によるものである。

この三人は9:2〜8では山上での変貌時にもイエスに付き従っている。そのとき主役を演じる者も、イエス・モーセ・エリヤの三人である。その場面では、「エリヤがモーセとともに現われて、イエスと語り合っていた」(9:4)と書かれている。

またこのときペテロは、「わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」(9:5)と言った、ということになっている。「三」はこのように多重に用いられる場合がたびたびである。

さらに非常に有名な話として、逮捕後にわとりが二度鳴く前に三度ペテロがイエスを知らないと言うであろうとイエスが預言し(14:30)、実際にそうなったという話(14:68、70、71)もみられる。

さらに小さなところでは、十字架処刑現場と復活現場の目撃者として三人の女(マグラダのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメ)の名が挙げられていること(15:40)(16:1)、また、「三日後の復活」が三度(8:31、9:31、10:34)、(それと全く同じ意味であるが)「三日のうちに神殿を建てる」が二度(14:58、15:29)、繰り返されている。

そのほか日本語訳では「イエスを十字架につけたのは、朝の9時ごろであった」(15:25)とあるが、この「9時ごろ」はギリシア語原文を見ると「第三時」(ホーラ・トリテー)という言葉である。

ちなみに15:34に、「そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた」とあるが、この「三時に」は原文では「第九時に」という言葉である。当時の時間を現在普通に全世界で使われている時間にして翻訳したのでこういうことになった。


こういうわけで「三」が非常に構成的な数字であることが判明する。だが、そうすると、イエスが十字架に架けられたときイエスの左右にも一人ずつ十字架に架けられた者がいたとあるのも、事実でない可能性が大きくなる

15:27では、「また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた」と書かれているが、「三」が非常に構成的な数字であるため、イエスを中心とする三つの十字架の光景も、「三」に対するこの記者の価値観や美学のなせるわざであるとみることができる。いうまでもなくこれはあの「サンドイッチ用法」によく似ている。

ついでにいえば、弟子たちが一斉にイエスの傍らから逃げ散る中でイエスのみが逮捕されたというのもちょっと不自然だろう。したがって、おそらくイエスが逮捕されるとき彼の枢要な弟子たち(たぶん逮捕されなかったガリラヤの漁師グループより上のランクの者たちで、弟子たちの中のリーダー格)も数人は逮捕され、一緒に処刑されたのではないかと考えられる。

のちにペテロを中心とするグループによって「キリスト教」なる十字架贖罪死の宗教が成立したため、原始教会内では最初期から、あたかもイエスの公生涯のはじめ以来ペテログループがイエスの弟子たちのリーダー格だったとされ、それが各福音書などにも記され、今に伝わって、すっかり疑いないものとされているが、これは非常に考えものである。

「マルコによる福音書」のように「政治的メシア」だったイエスを「宗教的メシア」として描くことは、あたかも船乗りだった人物を農民だったとしてその生涯を描くのと同じぐらいの度外れた捏造である。自分たちの崇拝対象であるイエスの生涯に対してさえこの有様だから、史実のイエスに対するこうした捏造の際、弟子たちの構成についてもとんでもない捏造が行なわれたとするのが常識であろう。

つまり福音書の中でイエスの左右の十字架に架けられていたとして記述されている者たちは実はイエスの弟子たちのリーダー格かもしれず、彼らはイエスの左右に一人ずつでなく、ずらりと五、六人ほど並んでいたかもしれない。イエスを処刑したローマ側からみれば、頭目とその主な部下たちを一緒に処刑しているというのが自然な図であろう。

とりわけイエスが十字架贖罪死を目指した「宗教的メシア」でなく、ローマによる植民地支配からのユダヤの独立と黙示録的な世界支配を目指した「政治的メシア」であったからには、彼の主な弟子たちが逮捕・処刑されずにそのまま放置されたというのはちょっと考えられない。げんに3:18には十二弟子のなかに軍事闘争路線を掲げる熱心党のシモンもいたとある。

なるべく「政治的イエス」の側面に触れたくない「マルコによる福音書」の記者が、イエスの主だった弟子たちのなかに一人の熱心党員がいたことに言及せざるを得なかったのは、おそらくこのシモンの他にも無視できない数の熱心党員が(むろんイエスとともに十字架にかけられた筈の主な弟子たちの中にも)いたからだと考えられる。その場合、イエスは熱心党員ではないが、その良き理解者だということになるだろう。

しかしイエスを十字架贖罪死の「宗教的メシア」として描きたい「マルコによる福音書」の記者は、「三」の価値観・美学から、イエスの十字架の左右に一人ずつ十字架に架けられた者がいたことにし、その政治性を剥ぎ取って、彼らをイエスの弟子たちでなく「強盗」ということにした可能性がある。

ちなみにここで「強盗」と訳されている原語は「レーステース」で、これは「強盗」の他に「暴徒」「叛徒」という意味も持っている。本来の「暴徒」「叛徒」は「スタシアステース」で、この福音書の記者は15:7でバラバを「スタシアステース」としているから、やはりこの記者は「強盗」というイメージでイエスの左右にいた者たちを描いているといえる。

ともかく、以上から、「マルコによる福音書」の記者がどれほど用意周到に、そして緻密にこの福音書を著述したかは、この「三」の用法ひとつを見ても十分納得がゆくであろう。


それではこの記者にとって「三」とはどういう数字なのであろう? 

それについては旧約聖書での「三」の用法を見れば大部分理解できる。「三」は「四」とおなじく古代メソポタミヤ占星術において重要視された数字で、「七」はその両者の和、「十二」はその両者の積として重要視された。ヘブライ語で(女性形の場合)、「三」は「シャーローシュ」、「四」は「アルバー」、「七」は「シェバー」、「十二」は「シェテーム・エスレー」である。

ユダヤ人の父祖アブラハムがメソポタミヤ出身でもあり、また中東地域ではメソポタミヤ由来の占星術とその世界観・価値観が長い間にわたって非常に大きな影響を及ぼしたこともあって、ユダヤ人にもその影響が見られるようになった。

しかし各数字が持つ意味は各地域の宗教観によってそれぞれ変容を受けている。唯一神信仰社会と多神教社会とでは各数字の意味が違ったものにならないわけがない。多神教社会で生れたメソポタミヤ占星術の各数字のそもそもの意味は、一神教のユダヤ教社会で当然のことながら変容を受ける。

そのことはメソポタミアのニネヴェ遺跡から発見された「ギルガメシュ叙事詩」の中のウト・ナピシュティム洪水伝説と旧約聖書「創世記」のノア洪水伝説とを比較してみればはっきりする。ノア伝説はウト・ナピシュティム伝説の改訂版であり、ユダヤ教なる一神教におけるそのバージョンなのだ。

つまりノア伝説ではウト・ナピシュティムがノアとなり、神々の一人であるエア神が唯一神ヤーウェに変じ、六日六晩の暴風雨が四十日四十夜のそれに変わり、(したがってウト・ナピシュティム伝説では七日目に洪水が退きはじめる)、箱舟が漂着するニシル山がアララト山に変更されている。


旧約聖書では「七」は七日間での世界創造、「十二」はイスラエル十二支族にその代表的な例が見られる。「四」は主に「四十日」「四十年」という姿で「試練」を意味する場合に使用されている。ノアの洪水も四十日四十夜続く。

またモーセに率いられた出エジプトの民が約束の地カナンに入るまで四十年間荒野をさ迷うことになったことが「民数記」(14:32〜34)に見られる。そこには、「しかしあなたがたは死体となってこの荒野に倒れるであろう。あなたがたの子たちは、あなたがたの死体が荒野に朽ち果てるまで四十年(アルバーイーム・シャーナー)のあいだ、荒野で羊飼となり、あなたがたの不信仰の罪を負うであろう」とある。

そして「出エジプト記」(16:35)には、「イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた」とある。「四十」のヘブライ語は「アルバーイーム」である。

この「四十」に関わる「試練」のモチーフについては、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスが四十日あるいは四十日四十夜、荒野で悪魔の試練に遭う話が「マルコによる福音書」(1:12〜13)・「マタイによる福音書」(4:1〜11)・「ルカによる福音書」(4:1〜13)に見られる。福音書は全てギリシア語(コイネー)で書かれているので「四十」は「テッセラコンタ」の語が使われている。ちなみに「三」はギリシア語で「トリア」τρια(女性形)である。


さて、問題の「三」については、たとえば「創世記」30:36に「ヤコブとの間に三日路の隔たりを設けた」とある。これはヤコブの家畜と叔父ラバンの家畜とが交じり合わないための確かな隔たりを設けたという意味である。

「歴代志上」21:12には神が罪を犯したダビデ王に対して、「三年のききんか、あるいは三ヶ月間の敗戦か、あるいは全領土にわたる三日三晩の疫病かどれかを選ぶ」ように迫る話がある。結局三日三晩の疫病が罰として下されたが、ここに出てくる「三」もダビデ王の罪に対する逃れられない「確定した」「確かな」罰という意味で使われている。

また大魚に飲み込まれ三日三晩その腹の中にいて吐き出されたという有名なヨナの物語がある。「ヨナ書」1:17には、「主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三晩その魚の腹の中にいた」とある。

これはのちに「マタイによる福音書」(16:4)と「ルカによる福音書」(11:30)で、イエスみずからがキリストである「しるし」(実は三日目の復活のこと)として示す物語に利用されている。また「ヨナ書」のこの部分は、パウロもその手紙の中で、イエスの三日後の復活を旧約聖書が預言している部分として暗に指摘している箇所である。

たとえばパウロは「コリント人への第一の手紙」(15:3)で、「すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、・・・・」と書いている。

パウロは「聖書に書いてあるとおり」とは記すが、聖書(旧約)のどこがその出典箇所なのか明らかにしない。しかしそれに相応するところは旧約聖書では唯一「ヨナ書」しかないので、彼はむろん「ヨナ書」のこの部分を想定して書いているわけである。事実パウロ以後の「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」では、すでに見たようにそれをヨナの出来事と関係づけている。

「ヨナ書」における「三日三晩」の「三」はヨナが疑いなく大魚の腹の中にいたことの確実性を示している。そしてその確実性は死後三日にしてイエスが復活したという話の確実性に受け継がれているのである。また空(から)の墓とそこでイエスの復活を告げる天使を三人の女が目撃した(16:1〜8)という内容の記述も、その「三」で復活の確かさや確実性を示そうとしているわけである。

こういうわけで「マルコによる福音書」は「三」を全体構造から微細部分に至るまで徹底的に使用し、「三」という数字が持つ「確実性」「確かさ」の印象・機能を最大限利用して、「イエスが自覚的に十字架贖罪死へ向けて生き、死に、そして復活した」という趣旨の架空の物語に「確かさ」「確実性」を与えようとしたわけである。

(ちなみに「ヨナ書」の該当部分はもともとイエスの復活を預言する目的のものでなく、脈絡の全く違う別の物語だから、これはむろん牽強付会というべきものである。だから少し気恥ずかしいのかパウロも出典を明らかにしようとしなかった。

げんに「ヨナ書」にある「三日三晩」は「丸まる三日間」という意味だが、各福音書をみると、イエスが葬られたのは早くても安息日前日の午後五時頃であり、翌日は安息日、復活はその安息日の次の日の遅くても朝五時ごろに起きたことになっている。

だから葬られていた期間は「足掛け三日」にはなるが、一晩しかない。加算すると全部でせいぜい36時間ほどしかなく、つまり「一日半」しかないわけだ。とても「三日三晩」というわけにはいかない。したがってここからも「ヨナ書」の引用は牽強付会であることが分かる)

むろんすでにあげた三度ペテロがイエスを否認するという話も、ペテロの裏切りの「確かさ」を示すためである。ペテロのこの背信行為が「確実」なだけ、それだけイエス死後のペテロを中心とする原始キリスト教団の創立がいっそう際立つわけである。

またイエスの十字架を中心に三つの十字架が並んでいるのも、イエスの十字架死が持つ贖罪力の確実性・確定性を示すためのものである。この記者にとって三つ並んだ十字架の光景はどうしても必要だった

だからイエスにむかって立っていたローマ軍の百卒長が十字架上で息をひきとったイエスを見て、『まことに、この人は神の子であった』(15:39)と述べているのである。三つ並んだ十字架処刑の目撃者・執行者である百卒長のこの言葉は、神の子イエスがローマ人を含む全人類の贖罪のために十字架で犠牲になったことの確定・確実性の宣言なのだ。


「マルコによる福音書」では「三」が単語としてあからさまに出てくることも多いが、これまで見てきたようによく分析しないと見えてこない「三」もある。簡単には読者に見えてこない「三」にどうしてこの福音書の記者は執着したのか?という問題が起りそうだが、それはいわば隠された占星術的あるいは呪術的な数秘学的効果を想定してのことであろう。

記者は「三」という数字があからさまに出てこない場合は、ほとんど全てのケースでそれをなるべく目立たないように、隠そうと細工している。名前や十字架などなどを情景的に単に三つ並べたり揃えたりもそうだが、一層巧妙な方法として、二つは類似・平行して記し、もう一つは離れたところに、あるいは少しデフォルメした形でそっと置いているのである。

たとえば8:31〜9:1と9:30〜9:37と10:32〜10:45に見える「イエスの受難予告・弟子たちの地位要求・イエスの諭し」の場合、8:31〜9:1におけるペテロのイエスへの諌めは、9:30〜9:37と10:32〜10:45に見られる弟子たちの地位要求を少しデフォルメしたものである。

山上の変貌とイチジクの枯死に関する二つの「変容の奇跡」は、それぞれ二つある「海上の奇跡」と「パンの奇跡」の場合とは違って、少し類似・平行性が崩れている。4章にある神の国の譬話も、3〜20節のものは、26〜29節と30〜32節の「神の国は・・・・・のようなものである」「神の国は・・・・・に似たものである」という表現を持つものと形がズレているし、分量も違うし、置かれている場所もだいぶ前に離れている。

イスカリオテのユダが三度現われるケースでも、最後の晩餐の場面ではその名が直接には出てこない。あのサンドイッチ用法においても、二つは類似・平行した同じ物語だが、その間に挟まれた物語は別の違ったものである。

また大構造の三区分でも、ガリラヤ時代とエルサレム時代ははっきりと区分されて多くの章節が割かれているが、中間の周辺時代には数章節分しか割かれておらず、しかも途中でイエスは何度も周辺地域からガリラヤに戻ったりしている。つまり三区分の構造が定かには見えてこない。

さらにいわゆる「石材」の使用量についても、全石材の半分をペテロのキリスト告白までに使い、残り半分のうちの大部分の石材を最後の晩餐の場面へと向かう歩みに使い、最後の残りを、逮捕・裁判・処刑・埋葬・復活という福音書のハイライトの場面に使っている。

つまり使われる石材が三区分に対してちょうど三分の一ずつになっておらず、三区分がよく見えない姿になっている。この福音書が石材使用の点で三層の階段式ピラミッド状になっていることに気づかなければ、大方の学者たちのように判然とは三つに区分できなくなる。

これらを見ると、記者はあからさまに「三」という数字を使う場合以外では、「三」の使用を悟られないように細工していることが分かる。それはつまり「三」の用法がこの福音書の全編に行き渡っているという事実を悟られまいと努力していることを意味しているのである。これは記者が、強く強く、秘術めいた数秘学的効果を想定して著述しているということの現われといえよう。

福音書をいろいろな形の「三」で構成し「三」をそこここにちりばめれば、そうした数秘学的な隠れた力が神の恵みを受けておのずと読者に働くと記者は考えたのだろう。でなければなにゆえに明に暗に「三」をこのように圧倒的に使用したのか理解できなくなる。




さて話を元に戻すと、「マルコによる福音書」が、イエスがそもそもメシア意識を持ちながらもメシアとして弟子たちの前に登場したのでないように設定したのは、一つには、この福音書の記者にとってメシアとはイエスの十字架死によってはじめて成立しえた十字架贖罪死の「宗教的メシア」だから、全く新型のメシア像であって、当然のことながら誰にも分からない性質のものだったからである。本当はイエス自身もあずかり知らない全くの新型メシアだったのだが、記者としてはそれは言えない。だからまず「イエスの心の中にしかない」としなくてはならない。

とにもかくにも、こういうことになったのは、結局のところ「政治的メシア」だった史実のイエスのことを隠蔽し、「宗教的メシア」として描き出そうとしたためである。当時一般には、メシアといえばダビデ王の子孫であり、王系、つまり政治的な色彩を帯びているものと理解されていた。

だから「もともと公然とメシアとして弟子たちの前に登場していた」と描いてしまうと、史実のイエスは「政治的メシア」だったという強い印象を与えてしまうことになる。しかし、「のちにやっと弟子たちにそれが悟れた」というストーリーにすれば、「政治的メシア」性が暗黙のうちに否定可能になる。というのも、「政治的メシア」は民衆の前にはじめからそれを自称して現われるからである。そうでなければ政治的メシア運動そのものが成り立たない。これがイエスがメシア意識を持ちながらもメシアとして弟子たちの前に登場したのでないようにマルコが設定した二番目の理由だ。

したがってイエスはもともとメシア意識(それも「宗教的メシア」意識以外ではないと設定している)を持ってはいるものの、それははじめうち弟子たちに知られておらず、イエスが自然奇跡の努力などを通じてだんだんと弟子たちに悟らせた、というふうに仕立てたのである。あたかも「秘密だった本当の事実がだんだん顕在化した」かのようにも仕組んだわけだ。

ペテロの告白がその努力の結実であるが、その告白の直後、イエスは受難と復活について予告する。これは、自分は十字架贖罪死のためのメシア(「宗教的メシア」)であって、あなたたちが今たぶん想定したような「政治的メシア」なんかではないんだよ、という表明である。

受難と復活の道をいさめるぺテロの態度がその証である。ペテロに対してイエスは「サタンよ、引きさがれ」と拒絶するが、これはペテロたちがイエスを「政治的メシア」と考えただけでなく、ずっと以前からメシアというものをそのようなものとして見てきたことを示している。

史実のイエスが「政治的メシア」として登場したという明らかな証言は、それを否定する目的で書かれたこの福音書にはほとんど存在しない。だがすでに示したようにヒントはいくつかある。


・「神の国」の到来を宣教の基本としていること
・弟子たちが将来の地位に対して話し合ったり嘆願したりしていること
・イエスがガリラヤの漁夫たちに「人間をとる漁師にしてあげよう」(1:17)と述べていること
・イエスが「人の子」と自称していること
・イエスの弟子のなかに軍事戦闘派の熱心党員がいること(3:18)
・イエスがローマ人に捕らわれ、ローマ人に裁かれ、ローマの死刑法で処刑され、罪名が「ユダヤ人の王」とあること


この六つのヒントのほかにも、

・「肉のイエス」「史実のイエス」に対する十字架贖罪論者のパウロの徹底的な意図的無視がある。
・さらに、イエスが十字架上での死の直前に発した言葉である「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)という文も大きなヒントになる。

というのも、もし十字架の贖罪がそもそもの目的であったのであれば、それは十字架でイエスが死ぬことを前提としたものであって、「お見捨てになったのですか」はおかしい。これは十字架贖罪の宗教的メシアには全くふさわしくない。むしろイエスが政治的メシアであったことのヒントであろう。マルコによる福音書の目的に合わないこの部分は、その分、否応なく史実性が高いといえる。

おそらくイエスは十字架上での死を前にして、「こんな話ではなかったのに!」と感じた。つまりイエスの信念としては、神がこのように自分を死なせる想定ではなかったということだ。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は「どうしてわたしに約束したことを裏切るのですか」であり、神の嘘をいわばなじっているわけである。この部分は他にはマタイによる福音書(27:46)にあるのみで、ルカによる福音書にもヨハネによる福音書にもない。


これらすべてを総合すれば、イエスが「政治的メシア」だった事実がほぼ見えてくる。

この結論を前提にして「マルコによる福音書」の記述を解析してゆくと、(すでに触れたあの三つの理由などから、そもそも史実のイエスには十字架贖罪死へ自ら歩む「宗教的メシア」意識など存在しなかったと判明しているので)、彼は弟子たちの前に、

(A)メシア意識が全くなかった状態
(B)「政治的メシア」意識を持った状態

この二つのうちのいずれかの状態で登場したわけである。

ともかく(A)と(B)のいずれにしても福音書を書く立場の人間には不利な事実ではある。いやしくも「神の子」のメシア・イエスにそもそもメシア意識がなかったということはとうてい書くことができない。そのようなことは匂わせてもいけない。

また死後はじめて(十字架贖罪死の)「宗教的メシア」となったキリスト教のイエスが、もとはそれとは正反対の、(そもそも将来の自分の十字架贖罪死に全く気づかなかった、したがって自覚的に十字架贖罪死への道を歩んだわけではない)「政治的メシア」だったとも書けない。

それでは史実のイエスはこの(A)と(B)二つのうちのどちらだったのだろう? 以下にそれぞれのケースを検討してみよう。


(A)そもそもイエスにはメシア意識がなかったケース

・イエスにそもそもメシア意識がなかったならば、ガリラヤという辺境の一介の貧しい大工が、かりにラビとなりどういう活動を行なっても、「ユダヤ人の王」という罪名で処刑されることはないだろう。一介の大工であった魔術的奇跡行為者あるいはラビあるいは預言者が「ユダヤ人の王」を標榜するには、ダビデ王の子孫とされるメシアを自称する以外に道はなかった筈である。

イエスをひたすら「宗教的メシア」に仕立て上げようとしている「マルコによる福音書」に、「イエスの罪状書きには『ユダヤ人の王』と、しるしてあった」という、まさに「政治的メシア」をあからさまに彷彿させる文章が記されているのは、やはりこれが否定しようのない事実だったからに相違ない。

またイエスにそもそもメシア意識がなかったならば、たとえ過越しの祭の直中で「過越しの子羊」のように殺されても、「神の子羊」として発見される可能性はなかっただろう。一介の大工であった魔術的奇跡行為者あるいはラビあるいは預言者がどういう理由で刑死したとしても、ただそれだけで終わったに違いない。

メシア意識を持ち、メシアを自称して民族の解放のためにローマやその側に立つ勢力と戦ったからこそ、刑死のとき「神の子羊」というメシア的なともいえる特別な存在に見えることにもなった。

ついでにいえば、当時メシアを自称するユダヤ人の反ローマ組織の首領たちがローマ軍との戦闘のあとたびたび捕らえられては十字架刑で処刑されていた。おそらくそのうちの誰も「神の子羊」になれなかっただろう。

それは彼らが、

(1)宗教組織の中でメシアとして自称したのではなく、
(2)エルサレムという聖なる首都で
(3)過越しの祭のときに、
(4)公式の裁判手続きを経た刑場で殺されなかったからであろう。

これらのうちどの一つが欠けてもいけない。

この四つの中ではとりわけ三番目が決定的である。むろんこれらで十分だというのではない。そのうえに、

(5)「過越しの子羊」を引き継いだ「神の子羊」として発見してくれる誰か
がいなくてはならない。


以上から(A)の可能性はほとんどない。すると消去法で(B)が正しいことになるが、次にそれを以下に検討してみよう。

(B)イエスが初めから「政治的メシア」を自称していたケース

・ペテロの告白直後にイエスは受難と復活の道を歩もうとするイエスをいさめるペテロを叱る。それは(内容から見れば)ペテロが「政治的メシア」として「あなたこそキリストです」と告白したことを暗に示している。

もっと具体的にいえば、史実のイエスは「政治的メシア」を自称していたからこのペテロの告白という出来事自体が存在せず、これは史実でない。しかし「マルコによる福音書」の記者は史実のイエスは「政治的メシア」でなく「宗教的メシア」だったと読者に対して示したいから、このペテロの告白という架空の出来事を設定したのだが、心理的にはその捏造過程で、「ペテロのそんな告白行為がそもそもあったのなら、それはむしろイエスを『政治的メシア』として告白するものになったに相違ない」という強迫観念に迫られる。それが心理的に影響し、そうした強迫観念を暗に否定するかたちでの、ペテロに対するいさめの話になった。

このときイエスは受難と復活の未来について「しかもあからさまに」(8:32)言及したのに、弟子たちはなおも将来の地位について互いに話し合い(9:34)、イエスに直接嘆願している(10:37)。これは弟子たちが、メシアとは「政治的メシア」のことであると信じ込んでいることの表れだ。

「宗教的メシア」だったことを主張したい「マルコによる福音書」がこうまでしてこれほど頻繁に「政治的メシア」性をやっきになって否定しようとするのは、そもそもイエスが「政治的メシア」として登場し、そのような存在として活動したことを逆のかたちで示していると考えることができる。そう判断できるための間接的な証拠は既に「ヒント」としていくつか挙げた。

・もしイエスが「宗教的メシア」とは正反対の「政治的メシア」でさえなければ、たとえばユダヤ教のラビ(教師)や預言者であっても、パウロはイエスの生涯における幾多の感動的な出来事を書いたに違いない。そこには「十字架贖罪死」信仰にそれほど矛盾しないそうした出来事がいくつかありえただろう。しかし全く正反対だったからそういう出来事もありえず、そのためパウロはほとんど一言も「肉のイエス」には触れなかったと見るべきだろう。

・とはいえ、なにも「政治的メシア」だったことが、ただそれだけのために史実のイエスを無視・白紙化・否定させたのではない。なによりもイエスがローマ帝国への抵抗者として処刑されてしまったことはキリスト教の宣教にとって決定的に不利なことだった。それがもう一つの理由となって「政治的メシア」としての史実のイエスは徹底的に無視・否定されていったのである。


問題は(B)が正しいとして、それがどのようにして「マルコによる福音書」のあのような「宗教的メシア」としてのイエス像になりえたのか?である

「政治的メシア」ほど「宗教的メシア」から遠いメシア像はない。栄光のメシアと刑死のメシア、権力のメシアと愛のメシア、自己実現のメシアと自己犠牲のメシア、仕えさせるメシアと仕えるメシア、戦いのメシアと平和のメシア、剣のメシアと言葉のメシア、大人とともにあるメシアと幼子とともにあるメシアなどなど、此岸的・肉肯定的と彼岸的・肉否定的な両者はほとんど正反対のメシア像である。

史実をまったく逆にしてしまわないことには、こういう180度の転換は成立しない。イエスの死後、40年(この頃「マルコによる福音書」が書かれた)のうちに果たしてそこまで逆転することが可能なのだろうか? 

・私は可能だったと考える。というのも、イエス死後になってはじめて発見されて成立した十字架贖罪死の「宗教的メシア」にとって、史実のイエスが「政治的メシア」だったということほど厄介なものはないからだ。イエスが「政治的メシア」だったなら、誰が考えてもイエスが十字架贖罪死に向けて自覚的に生きたのでないことが分かる。そのためパウロは新約聖書の中にあのように膨大な文書を残しながらも、一切「肉のイエス」に触れようとはせず、また「意図的に触れない」という立場を表明している。

むろんパウロがそうした立場を取りえたのも、ペテロなどイエスの直弟子たちの了承があったからこそであろうし、それはすなわち十字架贖罪死のキリスト教が成立した直後から、史実のイエスの「政治的メシア」性に関する部分に対する完全な無視や白紙化や徹底的な否定が行なわれたことを意味している。
(もし仮に「政治的メシア」の伝統を引き継ぐべきイエスのリーダー格の弟子たちがいたとすると、彼らはおそらくイエスとともに処刑されてしまっただろうから、ガリラヤ湖畔の漁夫出身のペテロ・ヤコブ・ヨハネといった(たぶん)中堅クラスの弟子たちによるこういう無視・白紙化・徹底的無視はずいぶん容易だった筈である。つまり180度の路線変更が一層やり易かったといえよう)
それはまたローマ帝国治下でのキリスト教の存続と発展のためにも必要だった。イエスが(処刑された反ローマ政治犯を意味する)「政治的メシア」だったとしては禁教令が出てしまう。

そういうもののなかで、原始教会の信じる十字架贖罪死への道を意図的に歩むイエスは、あるいは魔術的な奇跡行為者として、あるいはユダヤ教の知恵の教師や権威ある預言者として、あるいは黙示録的な「人の子」として思い描かれたことだろう。むろん「政治的メシア」としてのイエスは、そうしたそれぞれの側面も多かれ少なかれ持ち合わせていたから、そうした各タイプの架空の伝承も容易に生じえた。

こうして「政治的メシア」性をあからさまに示す部分を徹底的に抜き取られた各タイプの断片的なイエスの言動物語が口伝を含む様々なかたちで作られ、それらを資料としてさらにまた任意のイエス像の伝説も作られてゆく。

その多くは宣教上の必要性からあらたに創作された、イエスの言葉だったり、治癒や自然現象の奇跡を含むあれこれの行動だったり、譬話だったりしたことだろう。それらが史実のイエスから来た部分的な言動伝承とともに集められて「イエスの言葉集」や「奇跡物語集」や「譬話集」などになっていったと想像される。

だからこそ後に第二世代になって十字架贖罪死を目指すイエスの生涯の物語が必要と考えられるに至ったとき、少し無理をすれば自分たちの信仰に適合するほとんどどのようなイエス像を描くことも不可能ではなかった。

直弟子たちの手による師イエスの伝記のマニュアル本というものはそもそも原理的にありえなかったから、キリスト教が急速に拡大してゆくと、キリスト教を受け入れた人々の考え方、新たに形成されていった信者グループの思想傾向などによって、それらの人々の要求する、魔術的奇跡行為者・ラビ・預言者・「人の子」などなどのタイプの、任意の十字架贖罪死のイエス像・イエスの生涯が、不完全なかたちではあろうが、主にその混合体のかたちで何種類か形作られるようになった。

そのなかのあるものはラビ的側面が中心であったり、魔術的奇跡行為者の側面が中心であったり、預言者的側面が中心であったり、「人の子」の側面が中心であったりしただろう。

それを直弟子たちは必要に応じて、「いや、史実のイエスはこうだった」と部分的に修正できても、史実のイエスの全体像・本当の姿が浮き彫りになるほど広範囲にわたっては修正できなかった。こうしてイエスの言動に関する史実とは無関係な伝承が思いのほか数多く出来上がった。


こういう状況下では事実とはまるで正反対のメシア像・メシアの公生涯を意図的に描くことになるとしても、それがキリスト教信仰のためなら、史実のイエス像の徹底的な改変もなんの躊躇もなく行なえたであろう。

たぶん直弟子たちを含め初期のキリスト教徒にとっては、史実のイエスの「政治的メシア」性よりも、過越しの祭の直中で「過越しの子羊」のように殺されたイエスの死に様から偶然に新しく発見された「宗教的メシア」性の方が、神の真実、神の目的、神の計画だったに相違ない。つまり神はいずれ十字架贖罪死の「宗教的メシア」となるように、あらかじめ死の道を準備する目的で、イエスを「政治的メシア」として登場させ、あのように受難させたのだ、という思いである。

こう考えれば、第二世代では、今度は翻って、史実のイエスを「宗教的メシア」として描くことこそ、神のみこころにかなう、神の目から見た事柄の真実、歴史事実の正しい解釈なのだということになるだろう。するともはや躊躇なく史実のイエス像の徹底的改変が行なえるわけである。


彼らにとって残る問題は、いかにしてそれを史実であるかのように描出するかだろう。そしてそれがついに十字架贖罪死へと意図的に歩むイエスを描いた「マルコによる福音書」になった。そしてそういうイエス像を残りの各福音書も引き継いだ。

イエスが「政治的メシア」から「宗教的メシア」に変貌したことによって、今や「宗教的メシア」性を補強する意味でも、また物語上、弟子たちにメシアであることを悟らせる努力の一環としても、さらにイエスの神の子性や超自然的な権威や民衆の広範な熱狂的支持などがあったように仕組むためにも、治癒奇跡と自然奇跡の奇跡物語が、すでにあるそういう伝承の中から選択されたり、あらたに創作されたりして、まさに途切れることのないほど次々に書き込まれるようになった。

むろんこの福音書記者の「三」に対するあの数秘術的な強い傾向は、このおびただしい奇跡物語の奔流と無関係ではないだろう。奇跡を起こすイエス像が前面に押し出されるほど、「宗教的メシア」性は前景に大きく現われ、「政治的メシア」性は背後に退く


「マルコによる福音書」、あるいはキリスト教会はできればローマ世界でのキリスト教の成功のため、ローマ総督による死刑の最終決定や十字架刑の執行について黙秘したかったに違いない。それはそれだけで十分イエスの「政治的メシア」性を彷彿させるからである。

しかしなにしろその処刑による十字架贖罪死にこそ「宗教的メシア」の本質があるのだから、処刑されたこと自体は無視できない。したがって無視しなければならないのは、イエスが「政治的メシア」だったため反ローマ活動を行い、そのために処刑された、という史実の部分である。

そのためには、

一つは、そもそもイエスは「政治的メシア」でなかった
もう一つはイエス殺害の主犯としての罪はローマ人になくユダヤ人にあった

ということにしてしまう必要があった。つまり「宗教的メシア」だったイエスは、ユダヤ教徒との宗教的確執で、ユダヤ人によって殺された、という姿にしてしまうことである。

それをたぶんキリスト教を創立した直弟子たちがみずから率先して実行し、パウロもそれを受け継ぎ、のちにそのように「マルコによる福音書」が描き、他の福音書もそれに倣い、それをキリスト教会全体が継承してきたわけである。


さて、「マルコによる福音書」では、弟子たちはイエスが十字架贖罪死の「宗教的メシア」であることを、イエスの死後までどうやらちゃんと悟れずに終わる。弟子たちは生前のイエスが「十字架」という言葉をすでに使っているのを耳にし(8:34)、イエスが、「人々のあがないのために自分の命を与える」(10:45)と言うのを聞き、最後の晩餐ではそれらの完全版として、パンとぶどう酒についてそれらが自分の肉と血であると語るイエスの言葉を聴く。つまり時を追ってだんだんと十字架贖罪死の全体像がイエスの言葉によって明かされてくる。

だがそれは受難へと向かうイエス物語を、史実に反して、十字架贖罪死への生涯として無理強いして構成するための勝手な布石のようなものになってしまっていて、最後の晩餐のときにせっかくその内容が示された「過越しの子羊」や「神の子羊」に関わるその贖罪死の意味も、弟子たちはまだまだどうやら本当に悟ったわけではないようになっている。

つまり「宗教的メシア」像は、受難と復活の予告としてイエスの口からたびたび発せられるが、どうやらイエスの生きている間は弟子たちによってしっかり悟られることはない。これは史実のイエスが死ぬときまで「宗教的メシア」だったことが一度もないという事実(これはすでに言及した他の理由で確定している)の表れなのである。

なぜなら、なんども触れたが、たまたま過越しの祭の直中で十字架刑で刑死したという、後に起った全く予想外の偶然の出来事があってこそ、「過越しの子羊」に淵源するその受難の贖罪的意味(「神の子羊」)が発見されたからである。この偶然の出来事が起きなければ、イエスが十字架贖罪死のメシア、つまり「宗教的メシア」として理解されることも、崇拝されることもなかった。

最後の晩餐のときの過越しの食事パターンを利用して、イエスの手にパンとぶどう酒の杯を取らせ、「これはわたしのからだ、これはわたしの血」といくらイエスに言わせてみても、実際に過越しの祭の直中でイエスが「過越しの子羊」が屠られるように処刑されてみなければ、やはりなんのことやら分からないわけである。

だから「マルコによる福音書」もおおっぴらに、当のイエスでさえ生前気づくことのなかった「宗教的メシア」性を、弟子たちが最後の晩餐ではっきり悟ったかのようには書くことができなかった。そこのところは、悟っているようで、いないようで、というように、ずいぶん曖昧なまま記述されている。

弟子の誰かが、「あなたこそキリストです」とはっきり告白したあのペテロの言葉に準じるような、たとえば「あなたこそ贖罪死のキリストです」と語る場面はどこにもない。イエスが十字架刑で「過越しの子羊」のように殺されて始めて分かる性質のものだから、記者もそこまでは書けない。

そのために、それが曖昧なままイエスが死んで、「過越しの祭」の中であたかも「過越しの子羊」のように殺されてやっと、弟子たちにもその贖罪死的な意味が理解できたかのような、しかしなにかそうでもないような、そのような曖昧模糊とした記述にならざるをえなかったのである。


終わりにイスカリオテのユダについて少しふれておきたい。「マルコによる福音書」は、直弟子や使徒たちの死後、教会信徒たちの中で「イエスの生涯はどうであったのか」の求めに応じる必要から著述された。

著述の中心課題はむろん根本教義に関する架空のストーリー、つまり(1)「ガリラヤのイエスが『過越しの子羊』を目指して計画的・段階的に宗教活動を行い、過越しの祭の直中で十字架に掛けられて刑死することで見事にそれを成し遂げた」というストーリーであるが、同時にローマ帝国内での布教のため、(2)「十字架によるイエスの刑死にローマの責任はない」とすることが求められた。

この二つの課題を実現するためにありとあらゆる細工がなされたが、そこには数秘術的な「三」の全編的な適用もあり、数々の奇跡行為もあり、また架空人物であるイスカリオテのユダの話もある。

すでに言及したが、イスカリオテのユダは「マルコによる福音書」に三度(三場面)現れてついに大祭司たちの手にイエスを売り渡すが、これはイエスの逮捕がユダヤ人の祭司長たちによるものとする細工なのだ。そのことによってその後の裁きも刑死もユダヤ人による宗教上のものだとするストーリーが展開できる。とはいえイエスの反ローマ性は疑いようがなく、それは十字架刑というローマの極刑方式によって死刑に処されたことが示している。

ローマ帝国では広大な支配領域の至る所で反乱や反逆があり、そのための捜査機関や弾圧機構が高度に発達していた。イエスは紀元前後ガリラヤのあちこちで出没していた反ローマの自称メシアたちのうちの一人。つまりイエスもその集団もローマ帝国の熟練した捜査機関の監視と弾圧の標的であった。

したがってイエスを逮捕したいのはユダヤ人の祭司長たちよりもローマ側官憲の方であり、彼らは植民地支配者としての法的優先権を行使して事前に内部情報なども得て用意周到に準備したのち、イエスとその集団を検挙したことであろう。行き当たりばったりの逮捕劇、つまり「逃亡可能な夜に、エルサレム城外のゲッセマネの丘の園で、祭司長派の雑然とした武装群衆が、イスカリオテのユダの接吻合図でイエス一人を逮捕した」、というのはすべて虚構なのである。

イエスを逮捕したいのは祭司長派よりも彼らに対して優先捜査権のある高度に熟練したローマ側官憲であり、頭目が十字架刑相当の重罪犯であればその幹部たちも見逃せず、当然、一網打尽が図られた筈なのだ。「イエスとその幹部集団は昼間ローマの官憲によって包囲されてエルサレム城内でほとんどが逮捕され、ローマ人の法廷で集団として裁かれ、集団として十字架刑に掛けられた」というのが自然な結末であり、これが常識であろう。

しかしそのストーリーのままではイエスは反ローマ宗教組織の首魁となりローマ帝国内でキリスト教を布教できないので、イエスの逮捕→裁判→処刑の全過程でローマ人の免責物語が必要になった。このときイエスの十字架刑死の責任はユダヤ人に転嫁され、「マルコによる福音書」はそれを架空のイスカリオテのユダの裏切りストーリーで切り開いた。

むろんローマ総督ピラトの法廷で「バラバの方を赦しイエスを十字架で処刑せよ」と叫ぶユダヤ人群衆の勢いに負けて、内心イエスを赦したいピラトはやむなくイエスを十字架刑につけるために引き渡した、というバラバ物語も虚構である。

さらにイエスの左右に強盗たちの十字架もあってゴルゴダの丘に三つの十字架が立っていたという情景も「三」の数秘術による虚構。常識で判断すれば、ローマの官憲によって一網打尽にされた頭目イエスとその主な部下たちの十字架が少なくとも五つ以上はずらりと並んでいたことであろう。

福音書という「無謬」の聖典において不当にイエスの刑死の責任を転嫁されたユダヤ人は、理不尽にもその後二千年の間このことが主な一因となり、キリスト教世界で差別と抑圧と虐待を受け続けることになった。


(終わり)