民主制度の限界
(14)ミームによって普及する学説
<新しい学説はどのように受け入れられていくか?> リチャード・ブロディは<新しいパラダイムの誕生>と題して新しい学説が受け入れられる過程を書いている。アマチュア・エコノミストは新しい学説に出会うと戸惑ってしまう。 今までに蓄積した自分の知識では判断できない場合がある。図書館で本を借りてくる。書名にひかれて借りてくるのだが、読んでもよく分からない。新しい考えらしいが、受け入れて良いものか?あるいは「トンデモ本」なのか? こうした場合、その本を含めて似たような本を借りてくる。専門的な言葉で書かれているか?一般人にも分かる言葉で書かれているか?それを判断する。 新しい考えを発表する。これは、先ず専門家に判断して貰うことだ。そのために専門用語を使い、その学問業界の語法で書く。認められ評価が定まると一般人にも分かるように、普通の言葉で書く。 専門家に認められない場合は一般人向けの本は書かない。このように考えていくと、分かりやすい文章で書かれた本は、一般人向けの本であり、専門家もその考えを認めている、と考えられる。
 このシリーズ「民主制度の限界」で「ゲームの理論」と「ミーム」を取り上げた。どちらも分かりやす文章で書かれている。著者が読者に向かって「私の考えをどうぞ理解して下さい」と言っているようだ。その態度は「お客様は神様です」に似ている。 囚人のジレンマも決して分かりにくい話ではないけれど、「指揮者とチャイコフスキー」になるとさらに面白くなる。 比較優位説も<アインシュタインの比較優位>▲になると著者の、読者に分かって貰おうとする、その熱意が感じられ、好感が持てる。
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<アマルティア・センの多数決のパラドックス> 社会を構成する個人の数をnとしよう。nは当然正の整数だが、本書全体を通じて2≦n<+∞が成立することを仮定する。N:={1,2,.,.,n}は社会構成全体の集合である。また、この社会が直面する可能性がある選択肢の集合をX とする。X を構成する個々の選択肢はx,y,z,.,.,.などで表して、本書全体を通じて3≦#X <+∞が成立することを仮定する。ただし、#X は集合X に含まれる要素の個数である。
 ここで注意を要する点は、集合X に含まれる選択肢は、必ずしも現実に選択できる《実行可能な選択肢(feasiblealternatives)》とは限らないという事実である。例えば、ある時点で行われる選挙で社会が直面する可能性がある選択肢の集合は、被選挙権をもつ人々と全体から構成される。これに対して実行可能な選択肢の集合は、立候補を表明する一部の人々から構成されるに過ぎない。 また、希少価値を有効に活用して社会的に最善な資源配分を達成しようとすれば、実行可能な選択肢の集合は、この社会に賦存する本源的な生産要素、蓄積された物的・知的資本などの制約のもとで実現可能な資源配分に限定されざるをえない。実行可能な選択肢の集合を特に明示的に表す必要がある場合には、X と区別してS,T などの記号を用いることにする。
 さて、社会を構成する人々は、それぞれの個性的な観点と利害に根差して、社会的な選択肢に対する個人的な選好をもっているはずである。ある個人iN の個人的選好は、社会が直面する可能性がある選択肢の集合X の上で定義される選好関係Ri によって表現される。その定義は簡単であり、任意の二つの社会的選択肢x,yX に対して、個人i にとってxy と少なくとも同程度に望ましいとき、そしてそのときにのみ、xRiy という論理関係──《二項関係(binary relation)》──が成立するといえばよい。 選好関係Ri に対して、本書は首尾一貫して以下の三つの《合理性(rationality)》の公理が満足されることを要求することにしたい。 (「経済学と倫理学」から
<分かろうと努力しない人は分からなくてもいいよ> 上に引用した文章は、<グー・チョキ・パーの迷走>▲で書いた、多数決のパラドックスに関するアマルティア・センの考えを書いた文章だ。 「多数決のパラドックス」とか「アローの一般不可能性定理」とか言われる、この考え方、もう十分に一般にも理解されているのだから専門用語を使う必要はないと思う。むしろ「素人さん、お断り」のカンバンのように思えてくる。こういう状況だと「ミーム」は繁殖しにくいだろうと思う。
 日本にはいろいろな所に小さな集団がある。宗教団体だったり、業界団体だったり、趣味の会だったり、市民運動だったり、ネットの掲示板の仲間だったり。そこには独特のルールがあって、独特の価値観、倫理観が支配する。独自性が強ければ強いほど団結は強くなり、排他性も強くなる。 新しくそこに参入するのを拒み、そこから抜け出すのも阻害する。しかし「その中から出ない」と心に決めれば、そこは安住の地になる。 素人さんとは違う仁義の切り方をする、怖いお兄さんたちの集団も、一度入ってしまうとそこが安住の地になってしまう。オウム真理教のように脱退させない集団もある。「土の匂いがしない」とよそ者の意見を聞かない。「農業は多面的機能が大切だ」と言って、儲かる農業を否定する。「農業は儲かりません。若い人が参入しても苦労するだけですよ。私たちも競争相手が参入しない方がいいのです。補助金は既得権者である私たちだけが頂きます」。
 参入しようとする者が、力のない者、組みしやすい者ならばいいが手強い相手だと強力に抵抗する。「コメ自由化」を叫んでも影響力のないアマチュアなら無視すればいいが、影響力のある人やそれなりの社会的地位のある人だと、周囲に働きかけて足を引っ張る。既得権者のメンツを潰す規制緩和には、抵抗力の強さを発揮する。 ときにはマスコミ業界に働きかけ論文・評論などの発表・出版の機会を狭めたりする。身近な例では、ネットの掲示板がある。気のあった仲間同士で楽しくおしゃべりを楽しんでいる掲示板、そこの考え方と違った、レベルの高い投書があると、無視したり揚げ足を取ったりして退場して貰うことも見受けられる。 外部社会に影響をあたえず、参加者が楽しむ組織・グループ・運動ならば問題はない。 <縄暖簾の経済学>▲で書いたように、インターネットは<現代人向けストレス解消の治療院>なのだから。 しかし、その運動が外部社会に働きかけて来ると摩擦が起きてくる。つまり<プライベートとパブリック>▲の区別が必要なのだ。
 日本は少子化が進む。今後学生はあまり増えない。先生の職場もリストラが進むに違いない。既得権を持つ者としては、なるべく若い競争相手が参入しないでくれた方がいい。 「教育は特殊な職業である。成果主義は馴染まない」「農業は特殊な産業である。利益追求主義になってはいけない。他の産業のように消費者主導になると自給率が下がってしまう。消費者教育が必要だ」「中小零細企業が多く、地元の産業・景気に大きな影響力持つ土木・建設業を潰してはいけない。そのためには談合も必要である」
 教育も普通の産業と理解されるようになるだろう。金を払ってくれるお客様は神様だ。「受験料・授業料を払ってくれる生徒様は神様です」となるだろう。 <教育の民営化が進む>▲では次のように書いた。 授業の内容も変わった。「学生は勉強すべきだし、授業についてこられない学生は中退してもらって結構」という理論は通らない。先生の給料を出してくれる学生に向かって、そんなことは言えない。メーカーが「我が社の製品が気に入らないなら、買ってくれなくても結構」等とは言わない。自社製品を買ってくれたお客様は大切にして、これからもお得意さまであるように、知恵を絞る。神様はどの大学がいいか?どの先生が分かりやすく教えてくれるか?当然評価する。評価する神様は学生だけではない。卒業生を受け入れる企業も採点評価する。その評価を報道するメディアも幾種類かでき、それぞれが売り上げを競っている。  英会話教室は懇切丁寧に教え、力をつけさす。教え方の悪い教室は不人気になり、生徒が減り、先生の給料が出せなくなる。大学も金を払ってくれる学生を大切にする。授業についていけない学生がいる、ということは教え方が悪いからであり、大学の恥だ、となってきた。
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<ビル・ゲイツの脅迫観念> 「市場経済は弱肉強食の社会だ」その通り。産業界では、今トップにいる企業も「われわれの次の競争相手が、どこからともなく現れて、ほとんど一夜にしてわれわれを業界から追い出すかもしれない」という恐怖心をもっている。独占禁止法で規制しなくても、トップ企業がちょっと油断をしていれば業界再編成が起きてくる。あのマイクロソフトにしてもそうだ。いつ強力なライバルが出現するか分からない。そのような緊張感をうまく表現した文章があったので引用することにした。
 マイクロソフトのストックオプションによって得られる伝説の富とはうらはらに、給与は比較的穏当だ。ソフトウェア開発担当者の初任給は、年俸およそ8万ドルで、ビル・ゲイツの給与はわずか36万9000ドル──他のワシントン州の社長と比べてもそれほど変わらない。マイクロソフトは、サラダが終わると次はデザートになるようなところである。
 マイクロソフト社会は、小さな田舎町のように、地元の重要な事件で年代を数える(小さな町とは違い、事件とは、電子メールの文書だ)。長年いる社員は、マイクロソフトのけちを決定づけた瞬間は、1993年の「小エビとウィンナー」文書だと教えてくれる。テクノロジー担当筆頭重役のネーサン・マイアヴォルドが、「このところウィンナーよりも小エビの方が多くなった」という感想を述べると、人事部長のマイク・マレーが、その高めの軽食に現れる愚かな浪費に反対する文書を出した。 マイクロソフトでは、小エビはIBMのことであり、ローマの没落のことであり、軟弱になった他の大組織すべてのことだった。マイクロソフト創立25年を記念する「インサイド・アウト」という豪華本は、この企業価値体系の一面を完璧にとらえている。
 このことを忘れてしまう危険があるので一言すれば、時代に先駆けるこつは、「太る」ではない。「ハングリーである」ことだ。創造力は、幾分かの制限なしには現れない。だから資源の賢い使い方は、マイクロソフト創業以来の事業の伝統なのだ。正直なところ、その当時は他に選択はなかったが。しかしそれは、今でもわれわれの習慣に残っている。理由は単純だ。自分の才覚で生きるのではなく、富みにあぐらをかくようになれば、鋭さも失う危険があるのだ。
 この出版物は、さらに簡潔なモットーを掲げている。「過剰は成功をダメにする」。
 外部の人には、この軟弱になることへの心配は、マイクロソフト文化の中でもいちばん説明しにくい部類に入る。マイクロソフトを率いるこの人のお気に入りの主題は、昔も今も崩壊するという予感だ。「われわれが間違った決定をすれば、この25年にわたって築き上げてきたすべてが過去の歴史になりかねない」と、ビル・ゲイツは創立25周年記念式典で警告している。著書の「思考スピードの経営」(大原進訳、日本経済新聞社)では、「いつか、意欲のある新興企業がマイクロソフトを業界から追い出すだろう」と書いている。
 これはゲイツの個人的な脅迫観念ではない。スティーブ・バルマーを見てみよう。「われわれの次の競争相手が、どこからともなく現れて、ほとんど一夜にしてわれわれを業界から追い出すかもしれない」。ジェフ・レイクスは「消費者のニーズとテクノロジーの進歩についていくための改革を続けなければ、いつでも、誰からでも、この座を追われるかもしれない」。マイクロソフトは自惚れ屋かもしれないが、その自惚れのいちばんの対象は、自信過剰がないことだ。外部の人はこの論法を本気にしない。マイクロソフトは巨大な風船だ。誰かがそこに穴をあけても空気が抜けるまでには長い時間がかかる。 ただ、歴史的に見れば、ゲイツもバルマーも絶対正しい。会社が業界のトップでいられる期間は短い。技術革新によって生きる会社は、技術革新によって死ぬのだ。 (「ビル・ゲイツの面接試験」から)
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<宗教も自由市場によって栄える> 先々週カルト集団のことを取り上げた。宗教も色々あって、カルト集団だけが目立つが、昔からの宗教や新興宗教などその種類は沢山ある。カルト集団が話題になると「規制を強化せよ」との声が聞こえてきそうだ。しかし宗教は個人が自主的に選択すべきもので、なるべく規制はない方がいい。どの宗教を選ぶかは「自己責任」であるべきだ。そうした「宗教」と「市場」との関係についてゲーリー・ベッカーが書いているのでここに引用しよう。
 宗教右翼が世に訴える力を強めつつあることに対して、不安を覚える人々が多い。しかしさまざまな宗教が信者の獲得をめぐって競争する環境下に置かれ、どの宗教も国家から特別の取り扱いを受けることのないかぎり、心配することはないと私は考えている。
 競争的な環境の下では、再生派キリスト教徒であれ正統派ユダヤ教徒であれ原理主義イスラム教徒であれ、その他のグループであれ、それらの宗教は、主流の宗教に比べて人びとの精神的・倫理的欲求によりよく応えないかぎり、信者をひきつけることはできない。大方の人びとは、たとえ困難な環境下で育った場合であっても、各個人に自己のライフスタイルを決める力は備わっていると考えている。 彼らは、自らの行為に責任を持ちたいという自分たちの欲求を、宗教教義があらためたいという人びとの欲求を重視してこなかったために、より伝統的な教義を持つ原理主義グループに信者を奪われつつある。家族の崩壊やポルノグラフィ、権威に対する尊敬の欠如を、先頭に立って攻撃してきたのも原理主義者である。
 宗教に関するオープンな”市場”を立場としている国々が、米国などいくつかある。さまざまな流派や宗派が、精神面での指導やそのほかの呼びかけを通じて信者獲得競争を行っている。通常の商品の場合と同じように、競争は宗教にも有益である。なぜなら独占的な地位を占めているときより、競争の圧力があるときのほうが、宗教グループはどうすれば人びとの欲求をよりよく満たせるかを学ばざるを得ないからだ。
 競争が宗教的組織の行動に効果をおよぼすことは、200年前に「国富論 (The Wealth of Nations) 」のなかの目立たない章において、アダム・スミスが言及している。国家から特別な地位を与えられたおかげで英国国教会が英国人の欲求に対して無頓着になったことを、彼はかなりの証拠をもって論証している。また、教会指導者の怠慢と無関心をなくす唯一の方法は、特権を取り去って英国国教会をより新しい宗教との競争下におくことだと説得的に論じている。
 南米においては、カトリック教会は強大な独占的地位を失いつつあり、代わって原理主義派プロテスタントが急速に成長しつつある。その原因は、あまりにも多くのカトリック教僧侶が政治的目標にのみ関心を集中させ、人びとの精神的欲求を無視してきたことにある。第二次大戦前、日本政府は神道を補助し、他の宗教を差別した。戦後、神道の保護は廃止され、現在は何百という新しい宗教が活発に活動している。これらの宗教グループは、神道ではどう見ても満足させられなかった精神的欲求に呼びかける力を備えたのである。
 かつて共産主義国であった東欧や旧ソ連邦の現状ほど、宗教の競争上の魅力というものをよりよく示す現代の例はない。75年ものあいだソ連邦では、教会を閉鎖し宗教指導者を投獄することにより、共産主義への抵抗を弱める努力をした。共産主義は実質的に、非宗教的思想によって独占的地位を確立することを目指したのである。にもかからわず共産主義崩壊後、宗教は隆盛している。インタビューを受けたロシア人の22%以上が、自分は以前は無神論者だったけれども今は神を信じると答えている。 6000以上ものロシア正教の教会や修道院が再興し、他の宗教組織も信者の獲得活動をはじめている。
 これらの事例が示唆するところは、自由主義的な宗教グループも厳格な宗教グループも、公平な土壌で信者獲得をめぐって競争するとき、双方がともにいっそう活発で精力的になるということである。健全な競争を実現するには、どの宗教組織も国家から特別な保護や特権を受けないという、宗教信条のオープンな市場が欠かせない。 (「ベッカー教授の経済学ではこう考える」宗教も自由市場によって栄える(1996)から)
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<経済思想はセンスの違い> 今週は「ミーム」から始まって、「素人さん、お断り」とか教育産業の未来、だとか「ビル・ゲイツの脅迫観念」「宗教も自由市場によって栄える」などと話題が転々とした。書いている本人はそれなりに一本筋を通したつもりではあるけれど、多分これらについて「話題がバラバラで支離滅裂だ」「いちいち気に入らない考えを書いている」と感じた人もいるだろうし、あるいは逆に「どの考えも確かにその通りだ」と言う人もいるだろう。 「経済学は科学なのか?」と言うと神学論争になりそうなので、ここでは触れないことにするが、「真実は一つ」という捉え方はできない。「10人のエコノミストがいると、11の経済政策が提言される」などと言われる。また、論争しても結局は「考え方の違い」で終わることもある。相手を論破出来ないという事は、考え方の違い、センスの違い、ということになる。 実体経済をどのように評価して、それに対する政策を提言するか?もとになる考え方の違い、「センスの違い」という要素が大きいような気がする。「民主制度の限界」で取り扱っている問題、「TANAKAの見方は一つの見方であって、全く違う見方もある」という前提で、このシリーズを読んで下さい。
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<主な参考文献・引用文献>
『ミーム 心を操るウィルス』               リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社     1981. 1.20
『アマルティア・セン 経済学と倫理学』               鈴木興太郎、後藤玲子 実業出版    2001. 9.26
『ビル・ゲイツの面接試験』           ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社     2003. 7.15
『ベッカー教授の経済学ではこう考える』 G.S.ベッカー G.N.ベッカー 鞍谷雅敏・岡田滋行訳 東洋経済新報社 1998. 9.17
( 2004年8月2日 TANAKA1942b )
民主制度の限界
(15)もっと自由な社会制度はどうだ?
<デモクラシーの定義> このシリーズでは「デモクラシー」を「民主制度」と訳して話を進めてきた。ではその「デモクラシー」とは何か?その定義は?となるだろう。ここでは簡単に次のように定義しておこう。
@三権分立
A代議員制
B多党政治
C言論の自由
D多数決
 先進国でも国によって違う点がある。その一番は「大統領制」だ。アメリカ、フランス、ドイツ、ロシアそれぞれ違う。しかしここではその違いを問題としない。 厳密な定義はここでは省略して、大まかなイメージだけで話を進めている、ということで理解して頂きましょう。なおここではハイエクの考え方に沿って、「デモクラシー」を「民主制度」と訳して話を進めている。「主義」と言葉を使うとすれば、「民主制度を信頼する主義」と言えば正確になる。
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<アナーキー> 上記のような民主制度、先進国はこの制度を採用している。この制度に対して一部の人は不満を持っていて、「自分たちでこの制度の欠点を補っていこう」と行動を起こす人がいる。あるいは「もっと個人の自由が保証される制度がいい」と主張する人がいる。市民運動への淡い期待▲でいくつか取り上げてみた。今回は「もっと自由を」との立場を考えてみよう。
 プルードン、バクーニン、クロポトキンと続いたアナーキズムも、スペインのアナルコサンディカリズムで袋小路に入ってしまった。 日本ではかつて「黒の手帳」という雑誌や「自由連合」という機関誌もあったが、1960年代後半にその輝きを失っていった。 現代のアナーキズムとかリバータリアンと呼ばれる立場は、こうした流れとは違うもの、と考えた方がよさそうだ。伝統のアナーキズム研究は、古典文化・古典思想の研究と考えた方がいい。今は途絶えてしまった思想の研究、ちょうどマルクス主義の研究と同じに考えればいい。
 では現代のアナーキズムはどういうものなのか?二つの考え方があると考えるのがいい。それは二つの方法論。その一つは究極の目標を立てて、つまりもっとも基本的な「自由」を実現するための方法を探る行き方。もう一つは現在の社会を一応肯定して、 それでも少しずつでも自由な社会にしようとする考え方。そして通常前者を「アナーキズム」と言い、後者は「規制緩和」と言う。
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<無政府主義はユートピアか?> アナーキズムを無政府主義と訳す。しかし現在、無政府主義を主張するアナーキストの中心になる人物はいない。袋小路に入ってしまいリーダーも出てこない。一方、無政府主義とは違ったアナーキズムが研究対象、または信仰の対象になっている。それは『アナーキー・国家・ユートピア』のロバート・ノージックだ。 ノージックは「最小国家」を擁護し、無政府主義とは違っている。現在ではかつての無政府主義はパットせず、アナーキーと言えばノージックを指すほどになっている。しかしそれでも、無名のアナーキスト、市井のアナーキストはいるし、リベラルに飽き足らなくなってアナーキーへの道を進もうとする人は絶えないようだ。そこで、まず無政府主義について考えてみよう。
 特別のリーダーがいなくても憧れる人が出てくるアナーキズム、無政府主義、ではその無政府主義はユートピアと言えるほど、理想的な社会なのだろうか?自由がいっぱいあって、人々が個性を十分に発揮できる社会なのだろうか?
 先ず一番の問題は、「体制が維持できるか?」ということだ。ノージックは「暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる」と主張する。国家がなくて人々が自由に社会を作っていたら、怖いお兄さんたちが支配する社会が出来てしまう。例えば広島では、山〇組と一〇会から交代で知事が選出されるようになるかも知れない。映画「用心棒」にあったような二つの組が支配し、抗争をくり返す村が出来るかも知れない。 「政府なんか無くても、自分たちでしっかりやっていける」と考えている人たちはいるだろうが、そうでない人もいっぱいいる。「とても自信がない」人や、「オレが支配してやろう」と思っている人など。仕切やさんは沢山いる。宗教集団、暴力集団をはじめ、内部から外部から権力を握ろうとする。それに対抗するには秩序を維持する強力な権力が必要だ。つまり、ハトばかりの社会にタカが侵入するとあっという間に支配されてしまう。ときには国家が人を殺さなくてはならない場合もある。 <国家が人を殺さねばならぬとき>▲及び <合理性のない犯罪と死刑制度>▲を参照のこと。
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<メイナード・スミス『進化とゲーム理論』> ハト社会とタカ社会については<進化的に安定な戦略>▲で書いた。 ここではこの問題を提起したメイナード・スミスの「進化とゲーム理論」から一部引用しよう。
 2匹の動物が価値Vをもった資源をめぐって戦っているところを考えてみよう。ここで「価値」というのは、個体がその資源を手に入れることによって Darwin の適応度がVだけ増加することを意味する。 資源を手に入れそこなった個体の適応度が0である必要はないことに注意を要する。たとえば、「資源」というのが好適な場所におけるナワバリだったとして、敗けた方も繁殖できるような適当な場所がそれほど好適でないにせよあったとしよう。好適な場所のナワバリで繁殖すれば残せる子供の数が平均5,そうでなければ平均3とする。このときVは 5-3=2 である。このようにVというのは勝った方の適応度の増し分であって、敗けた方の適応度が0というのではない。対戦の最中に、動物は「誇示(display)」・「挑み(escalate)」・「逃げ(retreat)」の三つの行動をとれるものとする。誇示の段階では相手を傷つけることはない。戦いを挑んでゆけば相手を傷つけることになろう。 逃げ出しは資源をあきらめて相手に譲り渡すことを意味する。
 現実の対戦を考えると、動物が各時点でとる行動の系列はたいへん複雑である。しかし、今のところ、考えている対戦において個体は二つの「戦略」のうちどちらか一方を取るものとしよう。さしあたり、特定の個体はいつも同じ戦略をとるものとする。
「タカ戦略」傷つくか相手が逃げ出すまで戦いを挑み続ける。
「ハト戦略」まず誇示する。相手が戦いを挑めばただちに逃げ出す。
 もし両者とも戦いに挑んだときには、遅かれ早かれ一方が傷つき逃げ出しを余儀なくさせられるものとする。両者ともがある程度傷つくのが自然な仮定だと思う人もあろうが、ここでは私は可能なかぎり単純なモデルを追求しているのである。傷つけば適応度がCだけ下がるとする。
 タカとハトをH(=Hawk)とD(=Dove)で表せば、表1ののような利得行列(payoff matrix)を書き下すことができる。この行列には利得(payoff)、すなわち対戦に起因する適応度の増減が記入されている。自分のとる戦略が左側に、相手のとる戦略が上側に示してある。行列を書き下すために設けた仮定は次のとおりである。
 \   H   D 
 H   (1/2)(V-C)   V 
 D 0    V/2   

(@)タカ対タカ おのおのの対戦者は相手に傷を負わせて資源(利得V)を手に入れる確率が50%、反対に傷を負ってしまう確率が50%とする。このように、タカ戦略を採用するかどうかを決める。たとえば遺伝的な要因は戦いが行われた場合に勝つか負けるかを決めることとはまったく関係ないと仮定される。あとで、第8章において、対戦者がたとえば大きさの違いなど、 戦いを挑んだときに勝敗に影響を与えるものを見て取れるようなゲームについて議論する。
(A)タカ対ハト タカが資源を手中にし、ハトは負傷する前に逃げ出す。注意して欲しいのは、ハトの欄に0が記入されているからといって、タカ集団におけるハトの適応度が0だということを意味しないことである。これは単にハトの適応度は闘争で逃げ出しても前と変わらないということである。
 前にも述べたとおり、ナワバリをめぐるこの架空の対戦では、ハトの適応度はタカとの抗争の後でも、3個体の子孫を残せると考えればよい。
(A)ハト対ハト 2匹の対戦者は同等に資源を分け合うことになる。資源が分割できないのもであれば、対戦者は誇示し合って多大な時間を浪費してしまうだろう。このような対戦は第3章で解析する。 (「進化とゲーム理論」から)
 このように話は進み、前に引用したように<進化的に安定な戦略>が展開される。
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<異質な考えを拒否する集団> 政府が無くてもやっていける社会とはどのような社会なのだろうか?答えは簡単。皆が同じ考えの集団だ。同じ考えとは、同じ政治信条、同じ価値観、または同じ宗教、誰かに洗脳された集団など。ここでは異質な価値観の持ち主は参加を拒否される。そうすることによってしか社会を維持できないからだ。 そして、異質な価値観を拒否できるならいろんな社会が存在できる。
 1978年11月18日、南米ガイアナでジム・ジョーンズ( Jim Jones)を教祖とするカルト集団、人民寺院(Peoples Temple)の信者914人が青酸カリを使って集団自殺をした。このような集団でさえ存在できる。そして、だからこそ外部からの参入者がいると、こうした特殊な集団は普通の集団に変わっていく。もし外部からの新規参入を制限すると、いずれ自家不和合性に陥り、組織は衰退する。 無政府主義とは、外部からの異質な思想も持ち込みを拒否する事によってのみ、社会体制を維持することができる。このため内部での交雑育種法も一代雑種も期待できず、いずれは衰退する。
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<ノージック>現代のアナーキズムを考えるとき、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』が必ず取り上げられる。このHPでは<ノージックの最小国家論>▲ で取り上げた。今週は少し違った観点から取り上げてみようと思う。先ず一番に感じるのは、先週<アマルティア・センの多数決のパラドックス>でも書いたのだが、「ミームが繁殖しない」ということだ。『アナーキー・国家・ユートピア』に限らず、これを扱った本では「読者の皆さん、アマチュアでも理解できようにやさしく書くことを心がけました。どうぞ私の考えを理解してください」との姿勢がない。 ドーキンスは次のように書いている。
 われわれが無意識のうちに他人、とくに両親、両親に準じる役割を果たしている人間、あるいは崇拝している人物を真似するという事実は、誰でもよく知っている。しかし、模倣が、人間の心やヒトの脳の爆発的な膨張の進化、さらには意識的な自己とされているものの進化をさえ説明する重大な理論の基盤になりうるというのは、本当なのだろうか。模倣がわれわれの祖先をほかのすべての生物から隔てる鍵だったということはありえるのだろうか。私は決してそう考えたことはなかったが、本書におけるスーザン・ブラックモアは、人をじりじりさせるほど強力な論証をおこなっている。 (「ミーム・マシーンとしての私」から)
 ミームが繁殖するかどうかは、真似することができるかどうか?にかかっている。素人が『アナーキー・国家・ユートピア』をあたかも自分の考えであるかのように、真似して発表するだろうか?そしてそれを素人がまともに批判するだろうか?もっと分かりやすい、普通の言葉で書かないと、その考えは広まらない。ごく小さな集団内での外部からの批判を受けたくない人たちの話題に終わるだろう。それでもその集団内では、「一般人には理解出来ないかも知れないが、「最小国家」という考えこそ、個人の自由を尊重した考えだ」となるのだろう。 しかし、そこには「国民はマスコミにイメージ操作されている」「しかし、私は正しい判断ができる」と同じような思い上がりの姿勢が見えてくる。それに対して民主制度の基本はこうなる。「六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなど何も考えていないお姉ちゃんと、オレのように真剣に考えている人間も選挙では同じ一票」「最低限の税金しか払っていない貧乏人も、いっぱい払っている金持ちも同じ一票」「イメージ操作されているかのようにみえる一般人も、そのマスコミを批判する専門家も同じ一票」
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<サイエンス・フィクションのような「利己的な遺伝子」> 新しい学説が受け入れられるかどうか、それは多くの人にその考えが模倣されるかどうかにかかっている。このために多くの人に理解される必要がある。「お客様は神様です」の姿勢をとっているメーカーが、消費者に気に入られる商品を開発するように、多くの読者に理解して貰おうと、著者は苦心する。「利己的な遺伝子」も著者は苦心し、努力したようだ。それを「利己的な遺伝子」の前書きから感じられるので、一部引用しよう。
 この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどこの本は、サイエンス・フィクションではない。それは科学である。いささか陳腐かもしれないが、「小説よりも奇なり」という言葉は、私が真実について感じていることをまさに正確に表現している。われわれは生存機械──遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。 この真実に私は今なおただ驚き続けている。私は何年も前からこのことを知っていたが、到底それに完全に慣れてしまえそうにない。私の願いの一つは、他の人たちをなんとかして驚かせてみることである。
 私がこの本を書いているとき、想像上の読者が3人、私の肩越しにのぞきこんでいた。今、私は、この人々にこの本を捧げたい。3人のうちの第1は、一般的な読者、つまり門外漢である。彼のために私は、専門用語をほとんど全く使わないようにした。どうしても専門的な言葉を使わなければならないときは、きちんと定義してからにした。なぜ学術雑誌からも多くの専門用語を追放しないのか、不思議である。 私は門外漢は専門的な知識を持っていないものと見なしたが、彼が愚かであるとは見なさなかった。過度の単純化をおこないさえすれば、だれでも科学を大衆化できる。私はいくつかの微妙で複雑な考えを、数学的なことばを使わないで、しかもその本質を見失うことなしに大衆化しようと苦労した。どこまでこれに成功したか私にはわからないし、また、この本をその主題にふさわしく、面白い魅力的なものにしようという私のもう一つの野心が実を結んだかどうかもわからない。 私は、生物学はミステリー小説と同じくらい刺激的なものであるべきだと前々から思っている。生物学はまさにミステリー小説なのであるからだ。とはいえ私は、この主題が提供するはずの刺激のごくわずかな部分以上のものを伝えたとは、あえて期待していない。
 私の第2の想像上の読者は、専門家である。(中略)
 私が心に描いていた第3の読者は、門外漢から専門家へ移行中の学生である。 (「利己的な遺伝子」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『進化とゲーム理論』 ─闘争の論理─        J・メイナード・スミス 寺本英・梯正之訳 産業図書    1985. 7.12
『アナーキー・国家・ユートピア』               ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1992. 8. 6
『ノージック 所有・正義・最小国家』        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『ミーム 心を操るウィルス』                 リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社     1981. 1.20
『利己的な遺伝子』       リチャード・ドーキンス 日高敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二 紀伊国屋書店  1991. 2.28 
( 2004年8月9日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(16)アナーキズムを経済学する
<眼球の再分配> 我々は皆別々の生活を送っている。我々は別個の存在である。ノージックはこの自明の理を非常に真剣に受けとめ、そこから道徳的結論を導き出す。ある者を他の者のために犠牲にするのは不正だと彼は主張する。ある人物は他の人物のための資源として利用されてはならない。 もちろん、もし仮に私が私自身を犠牲にしたいというなら、おそらくそれは賞賛されるべき行為だろう。しかし、我々は、誰かが得るだろうというだけのために別の誰かが何らかの損失や不利益を被るよう強制してはならない、とノージックは言う。 そうすることは「人格の別個性」を無視することだ。こうした自己所有のテーゼが提示される。それは、あなたの生活、あなたの身体に起因する事柄について決定する権利をあなただけがもっている。なぜならそれらは他ならぬあなただけに所属しているのだから、というテーゼである。 このテーゼは非常にもっともらしく見え「眼球のくじ」といった例について熟考させると、これに懐疑的な人たちをもしばしば沈黙させることがことがことがて移植技術が進歩し、眼球を 100パーセントの成功率で移植することができるようになった段階を創造してみよう。 誰の眼球でも簡単に別人に移植することができる。ある人々は目に障害を持って生まれてくる。眼球のない人もいる。それでは眼球を再配分すべきだろうか。つまり、2個の健康な眼球をもった人から片方の目を取って、眼に見えない人にそれをやるべきだろうか。もちろん、自分の目を移植したいと志願する人たちもいるかもしれない。 しかし、もし十分なボランティアが得られなかったらどうしたらいいのだろうか。全国的な抽選を行って、外れた人に眼球を寄付するよう強制すべきだろうか。多くの人々にとってこれはぞっとするような話である。もちろん、皆の目が見えるとしたら、世界はよりよいものになる。 しかしだからといって眼球くじを行って眼球を再分配することは正当化されるだろうか。
 自己所有のテーゼによれば、我々は皆自分自身の身体の正当な所有者である。もし我々が眼球の再分配を強制するなら、我々はある人物のために犠牲にすることで、その権利を無視する、あるいはノージック流に言えば、侵害することになる。それは許されるべきではない。多くの人々は熟考すれば、この意味での我々の身体権が絶対であることを認めるだろう。 また、もし私が同意しない限り誰かの生命を救うだけのために誰も私の生命を取り上げることはできない。という生命権についても、同様の結論を喜んで引き出すだろう。また自己所有は自由についても結論をもっている。すなわち、私がすることは私の勝手だ、他人の権利を尊重する限り好きなように行動できる、と。 (「ノージック」から)
 ずいぶんと乱暴な喩えで、センスの悪い、品のない喩えだと思う。これで所得再分配を批判しているのなら、適切な例ではない。経済ではゼロサムゲームではないケースが多くある。資源に限りがあってそれをいかに分配するか?経済学が扱うのはそれだけではない。分配の仕方によっては利用可能な資源は前よりも多くなる場合がある。比較優位はそうした例だ。それだから経済学は面白い。そして経済学者は「比較優位」を理解して欲しいと、やさしく、分かりやすく説明する。 <アインシュタインの比較優位>▲を参照。 とは言え比較優位を理解出来ない人は結構多くいる。経済はすべて「ゼロサムゲーム」だと勘違いしている人たちが多くいる。このためWTOでも農産物の関税が下げられず、貿易自由化が進まない。経済のことが分からないだけでなく、1930年代の大恐慌から世界中が保護貿易に走り、つまり自給自足に向かい、このための経済不安が第2次大戦を引き起こした、その教訓も学んでいない。「グローバリズムという妄想」などという書物まで出版されるご時世になっている。
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<情けはヒトのためならず> カタカナで書いた「ヒト」は「他人」と「人」で意味が違ってくる。最近は「頼まれもしないのに、親切の押し売りをすると、相手のためにならないよ」との意味で使う場合もあるらしい。本来の意味は「情けをかけるということは、他人様を助けるのではなくて、自分のためになるからですよ」という意味だ。 情けをかけること、つまり他人を助けることが実は自分のためになる、とはどういうことなのか?アマチュア・エコノミストは経済面から考えることにする。
 発展途上国の都会は農村部から出稼ぎに来た人たちで溢れ、スラム街ができ物乞いする大人や子供がいっぱいいる。治安が乱れ、犯罪が多く、町は汚く、外国人が来たがらない。生活が安定しないので、公務員が賄賂を要求する。警察官でさえ交通違反のお目こぼしのため袖の下を要求する。 それでも外国人相手に富を築きつつある人もいる。こうした国で、所得税を累進制にして、豊かな人からは多く、貧しい人からは少ない税金を徴収する。その大部分は貧困層への生活支援と公共事業投資に使うとする。ノージックは「豊かな人々の所有権を国家が侵害している」と言うだろう。ところでこのような所得政策は豊かな人々にとってどのような影響があるだろうか? 公共事業のために失業率が改善され、スラム街が少しきれいになり、犯罪が減ったようだ。ビジネスで来ていた外国人に加えて、観光客も少し来るようになった。外国人相手の商売は前にも増して盛んになった。国民所得もほんの少しだが上向きになった。いままで所得税の課税基準未満だった人の中から、税金を払うほどの所得を得る人が出てきた。なんとなく明るい社会になったようだ。
 累進課税によって多くの税金を国家に強奪された富裕階級も、経済成長の恩恵を受けるようになる。貧困層のために情けをかけた結果、富裕層にもその影響が出始めたようだ。このように国家が行う所得政策が富裕層にプラスになることもある。ということを持ち出すと、「国家がやらなくて、金持ちが個人的に、任意でやればいい」との意見もあるだろう。それでも、善意の寄付金を配分したり、公共工事の投資先を選定したり、その経済効果を測定するための公務員はいた方がいいし、その人たちの給料は税金から出すことになる。 <多数決による所得再分配>▲では、所得再分配の問題点を提示したが、ここではその逆である効果について書いてみた。 つまり「最小国家以上のことは、国家による親切の押し売りだ」との考えは視野狭窄のような気がする。アナーキズムは政治哲学の分野なのかも知れないが、その分野だけでなく、経済学や生物学や育種学やゲームの理論など、外部の知恵の新規参入を促進した方がいい。そうでないと政治哲学が「外部社会に影響を与えず、参加者が楽しむ趣味の会」になってしまう。地産地消、地域通貨、フェアトレード、平和宣言都市などど同じようになり、「土の匂いのしない意見は聞かない」とか「専門用語で書かれていない意見は無視する」「素人さん、お断り」 「分かろうと努力しない人は分からなくてもいいよ」となって自家不和合性に陥るだろう。
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<ユートピアの幻想> ユートピアの幻想は多くの者にとって魅力的である。また、我々のうち最も想像力に富んだ思想家たちが、人類が最大級の充実した生き方をおくれるようなモデル社会と彼らが考えるものの構想に精力を傾けてきた。ユートピア主義の思想家たちは、彼あるいは彼女こそが人間にとって善き生の本質を初めて真に理解したのだと、それゆえこの発見により人間に本当に相応しい社会の構想が初めて可能になったのだとしばしば考える、 とノージックは指摘する。ユートピア主義者の提案の中には、自給自足の農業コミュニティーへの回帰に基礎を置くものもあれば、公民的社会に基礎を置くものもある。しかし一定の許容できるバリエーションの幅があるとはいえ、通常は単一のビジョンの中で唯一の生活様式だけが提供されることになろう。ユートピア主義者にとっては、そのような生活が完全に人間的な生、すなわち人間にとって善き生を意味するのである。
 しかし、ノージックは、人々にとって良い唯一の生といったものが存在するという考えに異を唱える。個々人は彼あるいは彼女自身の善の構想を持つだろうし、また、一つのユートピア社会であらゆる人々が幸せな、あるいは満足のゆく生活を送りうるとは考えにくい。自称ユートピア主義者の精神を集約して、ノージックは「ヴィトゲンシュタイン、エリザベス・テーラー、バートランド・ラッセル、トマス・マートン、ヨギ・ベラ、アレン・ギンスバーグ、 ハリー・ウルフソン、ソロー、ケーシー・ステンゲル、ルバヴィッチのレッペ、ピカソ、モーゼ、アインシュタイン……あなたとあなたの両親」にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する。
 「ユートピアのための枠」の背景にあるのは、人々が彼ら自身のユートピアを構想し、生きることができるような背景の記述を提示するという考えである。最小国家においては、あらゆる資源が共有される共産主義者の村をつくる集団もあってよければ、また、高度な文化の追求のためにあらゆる安楽が犠牲にされる完全主義者の社会を作ってもよい。第3の集団はモデル的な自由市場社会を作り出そうとするかもしれない、等々。 つまり、最小国家では、個々人は随意的に様々な種類のサブ国家をつくることができる。そこでは社会は資本主義に基づいて組織されるべきか、それとも社会主義の線で組織されるべきかという議論は不要になる。資本主義を好むものは資本主義国家に、社会主義を好む者は社会主義国家に住むことができる。 (「ノージック」から)
 「自由」を消極的自由と積極的自由に分けて考えるとすると、「イヤなことはされない」は消極的自由で、「やりたいことをする」は積極的自由と言える。この<ユートピアの幻想>で示されているのは積極的自由と言える。さて、この積極的的自由は誰でも平等に権利として持っている、と考えられる。ということは、怖いお兄さんたちもこの権利を持っているのだ。 お兄さんたちは「ヤクを扱う自由」「賭博の自由」があって、他のユートピアから参加者を募り利益をあげるユートピアを作る。ときにはこっそり他のユートピアへ行って荒稼ぎをしてきたりして、危なくなると自分たちに都合のいい法律を作ったユートピアへ逃げ込む。そのようなユートピアがあってもいい、ということになる。もちろんオーム真理教も復活する。山〇組や稲〇会や住〇会のユートピアも出来る。中国からこっそり入国した蛇頭ユートピアもできる。
 最小国家とはこうした国家群になる、ということだ。これがユートピアと言えるのだろうか?色々な個性の人間がいる、と言いながら、それでも善意の人しか想定していない。沢山の種類、と言ってもすべてはハトの社会しか想定していない。そこにタカのユートピアが出来たらどうなるか?ハトのユートピアにタカが侵入したら誰がそのタカを追い出すのか?ネズミにとってはネコが首に鈴を付けていてくれるといいのだが、では誰が鈴を付けるのか?やはりノージックは視野狭窄のようだ。
 民主制度ではどうなるか?一人一人にあった社会制度ではない。むしろその逆で「すべての人が不満を持ちつつ、それでも、この程度ならしょうがないか」と諦める社会制度だ。それだけにこの社会には雑多な人々がいる。ピカソやアインシュタインのような天才やエリザベス・テーラーやバートランド・ラッセルのような有名人も同じ町内にいるかも知れない。そのような社会に住んで見たいと多くの人が集まってくる。 (もっとも悪いヤツらも来るだろうから、それなりの警戒心は必要となり、「自己責任」が問われる社会ではある)。学問・思想の雑種強勢が期待出来るし、自家不和合性に陥る心配はない。 内部からの攪乱や、外部からの侵略にも強い。多くのヘソ曲がりがこの制度を批判するが、この制度はしぶとく進化して行く。これが「民主制度」だ。ユートピアではない。しかし現実にしっかりと根を張った、十分に機能している制度なのだ。
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<ノージック批判も「素人さん、お断り」の文章> ノージックをどのように評価するか?批判的な文章を探してみた。その一つの例をここに引用しよう。ノージックを批判しているのだが、その批判の文章も、ノージックと同じように「素人さん、お断り」の文章だ、とのTANAKAに見方を前提に読んで頂きましょう。
 一般的にいえば、ノージックによる国家の導出は、以下の3つの理由から失敗に終わっている。まず第1に、見えざる手のプロセスは、権利の譲渡を正当化する契約上の合意を構成したり生じさせたりしない。第2に、そのような権利についてのノージック自身の説明では、権利が譲渡不可能とされており、原則的にいっても、契約上の合意によって譲渡できないものとされている。 そして第3に『アナーキー・国家・ユートピア』ではいかなる人権理論の概略さえ描かれていないので、ノージックは否応なしに矛盾した自然状態を持ち出して、狭く捉えられた合理的な経済的行為者が、自らの利己主義的決定を通じて国家を生じさせると考えられるようにしなければならないのである。
 ロールズとノージックの著作における自由主義的契約論復活の試みについて私が述べた第3の点と最後の点は、その試みが内包する矛盾に対するこれらの批判から直接出てくる。それらの曖昧さや論理的矛盾は、現在の自由主義思想の危機的状況を背景にした場合、十分に理解できるものとなる。私の目的は、ロールズの公正としての正義理論とノージックによる国家の導出が、彼ら自身のタームの中で失敗に終わってしまっているのを示すことにあった。 私は結論として、彼らの理論を最もよく理解できる方法は、それらを 外部からの挑戦を受け自らの内的矛盾に苦しんでいる自由主義的諸制度の廃絶状態に対する反応と見なすことだと言いたい。つまり、それらは、伝統的に考えられてきたような政治哲学の研究というよりも、自由主義イデオロギーに対する貢献とみなされるべきなのである。それらは、それらが含んでいる仮定を説明するというよりも、ある特定の道徳的、政治的パースペクティブ、すなわち自由主義社会のパースペクティブを探求するものなのである。 しかしそれらが、自由主義社会の優れた正当化成功しているわけではない。どちらかといえば、ロールズとノージックの著作で試みられた自由主義の復活は、自由主義社会の危機に関してわれわれの理解を促進したというよりも、むしろその理解を妨げたと理解されなければならないのである。 (「自由主義論」から)
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<リバタリアンからの批判>  ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』は、国家、あるいは少なくとも保護機能に制限された最小国家を正当化する、ロック的契約論の試みの「見えざる手」版である。ノージックは無政府自由市場的な自然状態から議論を起こし、誰の権利も侵さない見えざる手過程によって、最初は支配的な保護機能として、やがて「超最小国家」へ、そして最後に最小国家へと創発するものとして、国家を描写している。
 諸々のノージック的諸段階に関する詳細な批判に着手する前に、ノージックの構想それ自体におけるいくつかの重大な誤謬について考察しよう。それらの一つ一つが、それ自体で、彼の国家正当化の試みに対する十分な反駁になろう。第1に、足跡を隠そうとするノージックの試みにもかかわらず、ノージックの巧妙な論理的構築物が史実において見られるかどうか調べるのは、大いに適切なことである。 つまり、いずれかの国家が、あるいはほとんどないしすべての国家が、ノージック的な仕方で実際に進化したかどうかを調べることである。史実によってあまりに強く基礎づけられている制度を論じるにあたり、ノージックが実在する国家の歴史についていささかも言及していないのは、それだけで重大な欠陥である。事実、ノージック的な仕方で築かれ発展した国家があるという証拠は、どのようなものであれ存在しない。それどころか、歴史的な証拠には全く異なる仕方が刻み込まれている。 すなわち、事実を辿ることのできる国家はどれも、暴力、征服、搾取の過程を経て誕生している。つまり、ノージック自身が、個人の権利が侵略されているのを認めなければならないであろう仕方で、国家は生まれてきているのである。トマス・ペインが『コモン・センス」で国王と国家の起源について述べているように、
 古代の暗いベールをとり除いて王族の起源を探るなら、初代の王は行動力のあるギャングの親分にすぎなかったことがわかるだろう。かれは野蛮な手口や悪知恵にたけていたため、侵略者たちの間で首領をいう名をもらったのだ。そして勢力を伸ばし、略奪範囲を広げることによって、おとなしい無防備な人間を脅しつけ、身の安全を図ろうとする者からしきりに貢ぎ物を巻き上げていたのだ。 
 ペインの説明に見られる「契約」がリバタリアンによって自発的合意として認知できるものではなく、強制された「みかじめ料の取立て (protection racket)」の性質を持つものである点に注意されたい。 (「自由の倫理学」から) 
 最小国家に関するノージックへの批判はまだまだ続くが、引用はここまでとする。ノージックを扱った書物のうち、その多くは「素人さん、お断り」の文章だった。そうした中で、これは比較的普通の言葉で書かれているものだと思う。それでもTANAKAは不満だ。もっと分かりやすい批判はないのだろうか?どこにもないのなら、TANAKAが挑戦してみようと思い立った。ということで、来週はTANAKA流ノージック批判にチャレンジします。乞うご期待。
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<主な参考文献・引用文献>
『グローバリズムという妄想』                  ジョン・グレイ 石塚雅彦訳 日本経済新聞社 1999. 6.25 
『ノージック 所有・正義・最小国家』       ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『自由主義論』                         ジョン・グレイ 山本貴之訳 メネルヴァ書房 2001. 7.30
『自由の倫理学』 リバタリアニズムの理論体系 M・ロスバード 森村進・森村たまき・鳥澤円訳 勁草書房    2003.11.25
( 2004年8月16日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(17)最小国家は理想社会ではない
<怖いお兄さんたちの最小国家> ノージックは「〇〇にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する」と言う。それならば、〇〇が次の人たちだったらどうだ?指定暴力団山〇組、アル・カポネ、ヒトラー、麻原彰晃、ジョン・ロールズ、市民運動家たち。つまりこの人たち及びそのシンパが最小国家を作ったらどうなるか?だ。
 自然発生的にできる保護協会はどういうものだろうか?日本では山〇組や稲〇会や住〇会が積極的に保護協会を作るだろう。歴史を振り返れば清水次郎長や国定忠治も動いたに違いない。アメリカではトゥームストンでクラントン兄弟が動きワイアット・アープ兄弟がそれを阻んだ。イタリアではゴッド・ファーザーがよく知られている。こうした保護協会が極少国家を作り、さらに最小国家に発展する。 それでは怖いお兄さんたちはどのような最小国家=ユートピア(実際にはあり得ない理想郷)を作るだろうか?アマチュアエコノミストが好奇心と遊び心をもって考えてみよう。
 怖いお兄さんたちの作る最小国家では、例えばカジノを組の独占事業とする。大麻・マリファナなどの薬物の販売許可を組に独占的に与える。他の最小国家とは犯人引き渡し条約を結ばない。 他の最小国家から観光名義の客が来訪し、組は莫大な利益をあげる。経常収支は常に黒字。経常収支はカジノと薬物で稼ぐので、自国通貨が高くなっても輸入品が安くなるだけ、経済的には何も困ることはない。国民(=組員)は近隣の最小国家へ出向き荒仕事をして、警察に目を付けられてヤバくなると、自国へ逃げ込む。犯人引き渡し条約を結んでいないので、自国から出なければ逮捕される心配はない。
 こうした場合周辺国家は圧力をかけないのだろうか?自由貿易に徹していれば効果はあるが、保護貿易、自給自足を目指していると効果はない。かと言って軍事的圧力はかけられない。どの最小国家も他国に圧力をかけられるほどの軍事力を持たないし、組員は即ち軍人になり、ここは最強の軍事大国になるからだ。 経済的圧力に関して言えば、江戸時代、田沼の時代、浅間山の噴火による飢饉が思い起こされる。1783(天明3)年7月8日、浅間山は大噴火を起こした。噴煙が空を覆い、東北地方は冷害になり、コメ不足を起こした。各地で餓死者が出た。しかし松平定信藩主の白河藩だけは例外で死者は出なかった。藩主松平定信が諸藩から前もってコメを買い占めていたからだ。幕府の実力者田沼意次は各藩にコメの買い占めをしないように伝えたが、強制力はなかった。 小判があってもコメがなく飢え死にする者さえ出た、と言われている。こうした場合、周辺諸藩は白河藩に圧力をかけることは出来なかったのだろうか?軍事的には不可能。幕府が許さないし、農民も反対する。現代でも、アフガニスタン、イラクへのアメリカの軍事行動には大きな反対運動が起きる。ミャンマーへの経済的圧力には批判は出ない。周辺諸藩が白河藩に圧力をかけられるとしたら、出津・入津(輸出入)が多くなければならない。 コメ以外に綿、魚、野菜などの交易が盛んで、各藩が経済的に頼り合っていれば経済制裁も効果がある。しかし当時はそれほど各藩の経済は頼り合ってはいなかった。この飢饉を「人災」と言う人もいる。それは「当時から市場経済だったからだ」との主張がある。それは経済を知らない人の考えで、事実は逆。松平定信が買い占めをやっても、自由な市場が整っていれば(ヤミ市場でもいい)、必要な所=高く買ってくれる所へコメは行く。そして周辺諸藩の経済的圧力も効果が期待できた。
 組員の中に経済学に興味を持つ人間が出てくると、こうした仕組みが分かってきて、周辺最小国家から経済的圧力をかけられないような貿易体制を取る。つまり生活必需品の自給率を高くすることだ。こうすればモンロー主義も押し通せる。周辺最小国家がどうなろうと、組員には影響がない。 食糧自給率が高いことで、この国へに信頼は高い。日本では「食糧自給率を上げよう」と叫べば誰も反対はしない。こうして組員中心の最小国家は繁栄していく。最も成功した最小国家として世間の注目を浴びることになる。
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<市民運動家たちの最小国家> 各種市民運動の参加者が作る最小国家はどのようなものなるだろうか?地産地消、地域通貨、フェアトレード、ジュビリー2000、WTO反対、憲法9条を守る会など。こうした運動に参加した人たちも積極的に保護協会を作り、最小国家へと発展させる。
憲法 日本国憲法と同じ「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と制定された。そして自衛隊も設置された。一部のオールド・リベラリストは「非武装・中立」を主張したが賛成者は少なかった。日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 Treaty of mutual cooperation and security between Japan and the United States of America )は締結されなかった。 これにより、日本国軍隊(自衛隊)はアメリカとの協議を必要とせず、単独で軍事行動を起こせるようになった。かつて日英条約を結んでいた日本は、これを破棄し、アジアで英国と対立する軍事行動を起こすようになった。最小国家もアメリカとは協議なしで、つまりパックス・アメリカーナとは無関係に軍事行動が起こせるようになった。最小国家の人々はアメリカとの関係が薄らいだことを喜んだが、周辺国家はアメリカの牽制が効かなくなったことに不安を覚えるようになった。 憲法は具体的な法律、というよりも精神的な目標になった。「憲法9条の精神を大切に」の合い言葉から、「世界人類が平和でありますように」といった新興宗教のような言葉も並んだ。このためその解釈をめぐって論争が起きた。また「自衛隊の存在そのものが憲法違反ではないか?」との異議も出た。しかしそれらの論争は、政治哲学と同じ「素人さん、お断り」の論争で、一部の人たちの「論争趣味の会」に終始した。 「在日国連平和維持軍」の構想は、「憲法9条の精神に反する」との理由にならない理由で無視された。
貿易 貿易政策に関しては基本政策が定まらなかった。「フェアトレード派」は自由貿易を主張したが、「WTO反対派」は「自由貿易は先進国の大企業・多国籍企業を利するだけだ」と反対した。そしてこの最小国家は、「基本的に先進国だが、途上国側に立って経済外交を進めるべきだ」と主張した。それに対して「それでは国益を放棄し、利他主義国家になるのか?」との反論も出たが、結局うやむやになった。 「自由貿易こそが国民を豊にする」という経済学の常識が理解できなかった。
地産地消 この地方では昔から、農産物の品種改良が盛んであった。江戸時代には百姓だけでなく、武士、町人も「好奇心と遊び心」をもって、花や金魚の品種改良を楽しんでいた。その伝統を生かして、農産物の輸出に力を注いだ。しかし一方で「地産地消派」も動いた。このため周辺国も地産地消を唱え、この国からの農産物を輸入を制限し始めた。「身近な土地で取れた農産物を食べたい」との思いが、「だからお宅の国からの農産物は買わないよ」に結びつき、 主要な輸出産業になると思われていた農業が、地産地消の跳ね返りで衰退し始めた。「農業は先進国型産業である」という経済学の常識が理解できなかった。
地域通貨 こちらは国家設立当初は元気が良かった。「今までの経験が十分に生かせる」と勢い込んで、各地で地域通貨が発行され、それを扱う銀行もできた。しかしここの銀行では、預金に金利が付かず、銀行からの融資にも金利は付かなかった。このため。預金者は銀行へ預ける代わりにタンス預金を始めた。 銀行の融資活動が停滞したので、自己資金のない人は新規事業が起こせなくなった。自己資金を持たない者は「高い金利でもいいから貸して下さい。それ以上の利益を上げる自信があります」、「たとえシャイロックのような金貸しでも現れて欲しい」と言うようになった。 しかし地域通貨の主催者たちは「シルビオ・ゲゼルが言うように、お金は老化しなければならないのだから、金利を取ってはいけないのだ」と言い、貸付金利ゼロを主張した。 この結果、銀行の信用創造は低下し、通貨流通量は減り、さらに流通速度は低下した。これらのことが重なり経済は低迷し、デフレスパイラルに陥った。しかし地域通貨派はこれを理解出来なかった。 「地域通貨ではインフレはない」と主張していた政策担当者は、「デフレは価格が下がることなので、良いことだ」と言うようになった。「インフレはいついかなる場合も、貨幣的現象である」という経済学の常識が理解できなかった。
死刑制度 この国では死刑制度が廃止され、仮釈放ナシの長期懲役・無期懲役が定められた。このため殺人を犯して50年の懲役・仮釈放ナシが定まったとする、この囚人が刑務所で殺人を犯すと、さらに50年の懲役・仮釈放ナシが追加される。つまり100年の懲役になる。さらに殺人を犯すと、合計150年の懲役になる。人間、そんなに長くは生きられない。これでは「死んでも地獄で100年は暮らすことになるぞ」との脅しにならない、脅しだった。 そしてこの刑法では、仮釈放がないので、刑務所で模範囚になろう、とのインセンティブは働かず、刑務所内は殺伐とした雰囲気だった。さらに現場の警察官のなかに不満が高まり、逮捕のとき抵抗する容疑者はその場で処刑=容赦なく射殺されるようになった。こうしたことを「簡易死刑執行(summary execution)」と言う。
市民運動 政策上の問題が起こると、署名運動が活発に行われ、デモも盛んだった。このため議会の存在感は薄れた。犯罪に対する市民の追求も厳しくなり、政治的な犯罪に対しては、市民運動が追求し、容疑者に赤い三角帽子を被らせて町を引き回すことも始まった。若者は「造反有理」を叫んでいる。政策決定および裁判が、議会・裁判所から、市民運動に移った。三権分立の原則がブレ始めた。最小国家運営派は「直接民主主義に近づいた」と誇らしげに語った。しかしそれは同時に「民主制度が破産する」始まりでもあった。
債権放棄 この最小国家には旧日本国から引き継いだ、最貧国に対する債権があった。政府関係の債権はパリクラブで、民間の債権はロンドンクラブで協議されていたが、この最小国はパリクラブでの債権放棄を宣言し、他国へも、これに同調するよう呼びかけた。政府の動きに同調して民間金融機関でも最貧国への債権放棄を検討する動きが出た。それに対して株主有志から異議が唱えられた。「そんなことしたら特別背任で訴えるぞ」との脅しもあった。 それでも銀行経営者の中には債権放棄を検討しているようだった。このため銀行の自己資本率低下を懸念して、銀行株が低下し始めた。その他の経済動向と連動して、この最小国家の株価は低迷を続けた。この国では株式の「カラ売り」が規制されていたため、株の続落に歯止めが掛からなかった。他国の金融機関はこうした動きを見て、いずれ債権放棄が要請されるのではないかと懸念し、重債務国への投資を制限し始めた。投資が途絶えたため最貧国の経済は成長する道を失った。「経済を成長させるためには、それ相応の投資が必要だ」という経済学の常識が理解できなかった。
トービン税 グローバリゼーション反対運動のスローガンの1つである「トービン税(外国為替市場の取引に課税し、それを最貧国の支援のために使おうというもの)の導入」が決定した。本来は外国通貨への投機を少なくし、為替レート安定のため、国際的に実施されるべき税制だったが、諸外国の賛同が得られないので単独で実施することになった。結果はどうなったか?非常に低い税率(0.01%)だったが、一般の投資家は手を引き始めた。企業・投資会社・デイトレーダーたちは国外へ逃げ、タックスヘイブンの諸外国で取引するようになった。相場の動きは、小さな値動きに反応せず、荒っぽい値動きになった。市場参加者が減ったことにより、少額の投資金額で値を動かせるように思えてきた。 株の仕手戦に似た値動きが見られるようになった。こうした動きは数学の「大数の定理」をイメージすれば理解出来るのだが、市民運動家にはこの動きは予想できなかったし、どういう意味があるのかも理解できなかった。 「市場の取引は、参加者が多くなることによって、より安定した取引になる」という経済学の常識が理解できなかった。
食糧自給率向上 「食糧安保のためにも食糧自給率を向上させよう」とのスローガンが採用された。このため第3次産業、第2次産業から第1次産業に人材、資金、資源などが移っていった。産業構造の変化に伴って、この国の産業生産性が低下した。「経済成長とは生産性の向上である」という経済学の常識が理解できなかった。なおコメを自給しようとの運動が活発になるとどうなるかは<自給自足の神話>▲を参照のこと。
少年犯罪 少年・少女の凶悪犯罪は国民の生活水準とはあまり関係がないようだ。十分豊かな社会になったにも関わらず、少年・少女の凶悪犯罪は減らなかった。これに対して教育者の対応は「命の尊さを学ぼう」ということで、犯罪を犯した子供の具体的な生活環境や担任教師の指導方法などは問題にされなかった。一時代前は、社会の問題として個々のケースを取り上げなかったが、現在ではさらに問題を抽象的な扱いにした、まるで宗教のような対応になった。 具体的な対策は何も提案されず、議論もされず、解決策は何も生まれない。こうした状況に若者は絶望し、他の最小国家へ移民するものが出始めた。怖いお兄さんたちの社会や、ジョン・ロールズの最小国家や、麻原彰晃のユートピアへ移り住む若者が増えてきた。親と子供が別々の国籍を持つ、ということが珍しくなくなってきた。「個人が自由に生きようとする、その自由が尊重されるようになった」と、ノージック信奉者は誇らしげに胸を張った。親と子供が別々の価値観を持って、別々の社会で生活する、というナチスのヒトラーユーゲント、旧ソ連のコムソモール、ピオネール、中国の紅衛兵、民主カンプチア時代のサハコーの現代版になった。 こうした青少年組織がどれほど「権力者に奉仕する組織」であったか、最小国家運営者は理解できなかった。
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<ジョン・ロールズの最小国家> ジョン・ロールズが中心になって最小国家を作るとどのようなユートピアができるだろう?ノージックは最小国家から拡張国家へ次のように定義している。
第1 侵略行為から市民を守ることに関わる政府部門があり、防衛庁は国外の侵略者から市民を保護する。警察や裁判所は市民をお互いから守る。最小国家ではこのために税金を集めることを容認する。
第2 多様な公共サービスを供給する政府部門もある。道路、消防、図書館など、生活向上のための部門。ただしこれに税金を使うことは許されない(有志が寄付するのかな?)。
第3 病気、貧困、失業対策など福祉政策担当部門。ノージックはこの部門は不当だ、と言う。
第4 検閲、義務教育など市民の生活に干渉する部門。この部門も不当だと言う。
 上記はノージックの考えだが、ジョン・ロールズが最小国家を作ったら、これとは全く違う国家を作るだろう。それは福祉国家で、多数のアファーマティブ・アクションを作る。特に年金制度には力を入れる。所得による格差をなくすために、現在の日本と同じ賦課方式を採用する。年金制度は2種類あって、@賦課方式とか確定給付型年金と呼ばれる方式。 これは現役世代が年金生活者の面倒を見る方式で、経済が成長するか、若い世代の人口が増えるか、が必要になる。日本のように高度成長が期待できず、少子化が進む社会ではいずれ破綻する。A確定拠出型年金。これは若いときから各自の自己責任において積み立てていく方式。最高限度は定めるがその範囲内で拠出金額を決める。このため若いときから積み立てた金額の大小によって、第二の人生になって年金を貰うときに、その金額に大きな差が生じる。「結果平等主義者」は確定拠出型年金──「401K」とも呼ばれる──に反対する。「正義論」信奉者は当然反対する。
 このためジョン・ロールズが主催する最小国家は現在の日本と同じ賦課方式を採用する。そうしなければ筋が通らない。賦課方式を維持するには経済を成長させるか、現役人口を増やすかだ。経済を成長させれば所得格差が生じる。格差を広げずに経済を成長させることは不可能。とすれば人口を増やす他はない。「生めよ増やせよ」と政府が号令をかけても豊になると少子化が進む。豊かな社会を目指さず、国民を貧困状態におけば、人口は増える。あるいは移民をどんどん受け入れる。ただしこの場合、移民許可基準を甘くするから、悪いヤツ、ゴッドファーザーの身内も移民してくる。 あるいは、移民者の貧富の差が大きいかもしれない。だとすれば、入国した時点で財産をすべて没収して、必要な物だけ再分配する。これは日本で、オーム真理教をはじめいくつかの新興宗教ですでに採用済みなので、実施はスムーズに行われる………。ノージックはどのような最小国家が出来ると考えたのだろうか?どうしてこのような最小国家がユートピアなのだろう?それともそこまでは考えられなかったのだろうか?周囲に経済学に関心のある人はいなかったのだろうか?それでもノージックを論じた書物は多い。それらの著者はどのような最小国家は想像したのだろうか?どうしても最小国家が理想社会だとは考えられない。
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<主な参考文献・引用文献>
『徹底討論 グローバリゼーション 賛成反対』 スーザン・ジョージVSマーティン・ウルフ 杉村昌昭訳 作品社   2002.11. 2
『利潤か人間か』 グローバル化の実体 新しい社会運動                  北沢洋子 コモンズ  2003. 3.15
『ノージック 所有・正義・最小国家』          ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房  1994. 7. 8
『アナーキー・国家・ユートピア』 上 国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社   1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』 下 国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社   1989. 4.15 
『自由論』                         アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房 1971. 1. 2
( 2004年8月23日 TANAKA1942b )
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