民主制度の限界
(18)違った立場から考えてみよう
<視野狭窄にならないために> 「外部社会に影響を与えず、参加者が楽しむ会」、はそれなりに存在意義はあるだろう。多くの市民運動や趣味の会がそうであるように、豊かな社会になると生き甲斐を求めて多くのサークルができる。親切の押し売りをしない限り誰の迷惑にもならない。 しかし「政治哲学」がそうしたレベルに見られて不満はないのだろうか?と言うのは部外者の余計な心配で、関係者はそれなりの存在意義を感じているらしい。 ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』に対する評価を少し引用し、それとは全く違った立場からの考えを書いてみることにした。
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<歴史の必然性> 政治哲学の多くの書物に登場するアイザィア・バーリン、その著作「自由論」から「歴史の必然性」と題された部分を引用しよう。政治哲学と言われる分野ではどのような議論がされているのか?どのような言葉が使われているのか?素人の読者にどれだけ分かりやすく訴えているのか? そのような意味でここに引用してみよう。
 一般に現代思想において2つの強力な主義・学説は、相対主義と決定論である。前者は、慢心した自己確信、尊大な独断論(教条主義)、道徳的自己満足への解毒剤をなすものと考えられるにもかかわらず、その根底はいちじるしく誤った経験解釈におかれている。後者は、その鎖は花で蔽われているにもかかわらず、 また高貴なストア主義の誇示や宇宙的計画の壮大・光輝にもかかわらず、全世界を牢獄として表示するのである。相対主義は、個人の抗議や道徳原理への信仰に対して、多くの世界が滅び、多くの理想が時とともに安っぽく笑うべきものとなってしまったのを見てきた人間の諦念ないし皮肉を対置する。 決定論は、生活と思想の真の、非個人的な、不変の構造がどこに見出されるかを示すことにより、われわれを正気につれ戻すのだという。前者は、それが格率、つまりわれわれに自分の限界を、また問題の複雑さをたんに思い起こさせるだけのもの、であることをやめ、ひとつの重大な世界観 Weltanschauung としてみられることを要求するとき、言葉の誤用、観念の混同、容易に暴露される論理的誤謬への依存にもとづくものとなってしまう。 後者は、検討可能な証拠が挙げられうる場合に自由な選択に対する一々の障害を指示するということ以上に進み出ると、それは神話か、理由のない形而上学的ドグマかにもとづくものであることが明らかになってしまう。両者いずれも時として、物事の本性へのより深い、より破壊的な洞察という名において説き、あるいは嚇して、人間の平常の道徳的・政治的信念を放棄させることに成功したことがあった。 しかし、これは精神症や混乱の兆候以上のなにものでもない。というのは、そのいずれの見解も、表層ないし深部の、いかなるレヴェルの人間の経験によっても支持されるようには思われないからである。では、どうしてそれらの主義・学説(しかもとくに決定論)が、他の点で明晰かつ正直なかくも多くの人々に、あれほど大きな呪縛力を及ぼしたのであろうか。 (「自由論」から)
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<「自由の正当性」から> TANAKAはこのホームページでノージックを批判しているのだが、政治哲学の分野で大きな影響を与えたのは間違いない。いくつか引用してきたが、もう一つここで引用しよう。政治哲学の分野ではどのような議論がなされているのか?イメージを感じ取ってください。
 このようなコンセンサスが崩壊していることについては、殆ど証拠を挙げるまでもないだろう。我々が今日政治的にもイデオロギー的にも不確定な世界に生きているということは、世上ふつうに観察されるところである。政治的価値体系の知的正当化は、再び真剣な企てとなっている。そればかりではない。自然法や自然権や社会契約といった、政治哲学における幾つかの伝統的観念が、墓場──かつて論理実証主義者によってそこに葬られたのだが──から発掘されることになり、今や再び多種多様な見解を支持するために用いられている。 たとえばロールズやブライアン・バリー、ノージックやドゥオーキン──最も卓抜した者だけを挙げるとして──らの最近の作品は、哲学とイデオロギーとの間の(あるいは説明と勧告との間の)あの区別、論理実証主義者と哲学や社会科学における彼らの後継者とにとってはかくも中心的であったあの区別を、多少とも不明瞭なものにしてしまった。イデオロギーという語は、経験主義社会科学の全盛期には何ほどかの軽蔑的意味合いを帯びていたものだが、実際の話、そうしたものは今は消え去っているといっても、決して過言ではないだろう。(中略)
 たとえばノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)のもつ重要性はまさしく次の点にあった、つまり、(集散主義的体制と比較して)自由市場の方が資源配分の上で効果的だという観点に立って自由主義的個人主義を擁護することから、集散主義的な介入が一群の自明と仮定されている自然権や人権に対して加える「暴力」を考察し批判することへと、注意を転じた点である。むろんのこと自由社会の理論家の中でノージックだけが、自分の主張を機械論的な社会科学によりも、むしろ倫理と人間の考察に基づかせた、というわけではないが、彼の出版に伴う反響が大きかったために、そこで為された論争は、他の同様にもっともらしい倫理学的リバタリアニズムから注意を逸らしてしまうことになった。 (「自由の正当性」から)
 ここでは、20世紀の最も有名なリバタリアン文書として、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』及びハイエクの『隷従への道』をあげている。 さらにフレデリック・バスティアの言葉を引用して次のように言っている。
 フレデリック・バスチアットの言葉によれば──もっとも彼自身は無政府主義者ではないのだが──、国家とは「それによって誰もが他人を犠牲にして生きていこうとする、壮大なる虚構」である。この観念は、本来的マルクス主義的国家論(即ち国家を所有の観点から定義する国家論)の一変種──つまり、専門家された統治活動に従事する職員が周知の階級利害とは全く異なる集団利益を次第にもつようになる、と考えるような理論──と何か共通するところがある。本来的なマルクス主義と論理的に無関係であり、それよりはずっとまともであるマルクス主義的国家論の一変種は、個人主義的アナーキストの理論とどこか似通っているのである。 (「自由の正当性」から)
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<非政治的用語による説明> このHPでは「素人さん、お断り」と言う表現で政治哲学を批判してきた。ノージックはこうしたことに何か言っていないだろうか?そう思って探してみた。次のような文章が見つかったのでここに引用することにした。
 この自然状態への論考は、政治哲学にとっての重要性に加えて、説明上の諸目的にも資することになろう。政治の領域を理解するための可能な方法は、次に挙げるだけである。@非政治的な用語によって政治の領域をすべて説明する。A非政治的なるものから生まれるが、それには還元できないものとして政治の領域を見る。つまり、非政治的な諸要素による組織の一態様であって、新規の政治的諸原則の語によってのみ理解可能となるものとしてそれを考える。 B政治の領域を完全に自足的な領域として見る。このうち最初のもののみが政治の領域全体の徹底した理解を約束するものだから、これは理論についての最も望ましい選択肢になり、不可能であることがわかっている場合にのみ放棄されるべきだと言えよう。我々は、この最も望ましい完全な説明形態を、この領域の根本的説明と呼ぶことにしよう。 (「アナーキー・国家・ユートピア」から)
 ノージック自身は非政治的な用語で説明しているつもりらしい。しかし日本語で読む限り「素人さん、お断り」の文章だ。この文章がどのような感想をもって読まれているのか、「公正無私なる見物人」になってみようとはしなかったようだ。「アダム・スミスは生きている」の立場ではない。「見えざる手=invisible hand」という表現を使っているので、アダム・スミス派かと思ったが違ったようだ。
<「道徳情操論」から> 人間というものは、これをどんなに利己的なものと考えてみても、なおその性質の中には、他人の運命に気を配って、他人の幸福を見ることが気持ちがいい、ということ以外にはなんら得るところがない場合でも、それらの人たちの幸福が自分自身にとってなくてならないもののように感じさせる何かの原理が存在することは明らかである。 憐憫または同憂は、まさにこの種の原理に属し、それは他人の不幸を直接見たり、あるいは他人の不幸について生々しい話を聞かされたりすると、それらの人々の不幸に対してただちに感ずる情緒である。他人が悲しんでいるのを見るとすぐに悲しくなるのは、なんら例証する必要のない自明の理である。なぜなら、この情操は、人間の本性における他のすべての本源的情感と同様に、徳の高い人間とか慈悲深い人間ならばあるいは鋭く感ずるかも知れないが、しかし必ずしもこれらの人々だけがこれを持つとは限らない。 極悪人や社会の掟を破った最も因業な人間といえども、全くこの情操を持たない、とは言えない。
 このように始まるアダム・スミスの「道徳情操論」、このなかでTANAKAが度々引用する「公平無私なる見物人」という言葉が出てくる部分を引用しよう。
 われわれが自分自身の行為を自然に是認したり、あるいは否認したりする場合に採用する原理は、われわれが他の人々の行為に関して同様の判断を働かせる場合に用いる原理と同一であるように思われる。われわれが他人の行為を是認したり否認したりするのは、われわれがその人の事情を十分熟知した場合に、その人の行為を支配した情操や動機に対して完全に同情できると感ずるか、あるいは出来ないと感ずるかによって決定する。これと同様の方法でもって、われわれが自分自身の行為を是認したり、否認したりするのは、われわれが自分の立場を他人の立場に置き換えて、他人の眼をもってまた他人の立場から自分の行為を眺めるとき、 われわれが自分の行為を支配した情操や動機に全面的に移入し、同情できるか、どうかということによって決定せられる。われわれはいわば自分自身の自然の立場から離れて、自分自身の情操や動機をわれわれとは相当の距離をへだてて眺めようと努力するのでなければ、決して自分自身の情操や動機を観察することもできず、また自分自身の情操や動機に関していかなる判断をも下しえない。しかるに、そうするためにわれわれは他人の眼を借りてそれらの動機を眺めようと努力するか、あるいは他の人々がそれらの情操や動機を眺めるのと同様に、それらのものを眺めるよう努力する以外に方法はない。したがって、われわれはそれらの情操や動機に関していかなる判断を下すことができようとも、 その判断は常に暗々裡の他人の判断が現在どうであるか、あるいはある種の条件の下ではそれはどういうふうであっただろうか、あるいはそれはどういうふうでなければならぬと、われわれに想像せられるか、ということとある程度の関係がなければならない。
 われわれは、すべての「公平無私なる見物人」がわれわれ自身の行為を検討するに違いないと想像せられるような方法でもって、自分自身の行為を検討すべく努力しなければならない。 もしも、自分自身を「公平無私なる見物人」の立場に置いてみて、我々がわれわれ自身の行為を支配したあらゆる情感や動機に徹底的に移入するならば、 われわれはこの想像上の公平なる裁判官の是認に同情することによって、自分自身の行為を是認する。もしもそうでなければ、われわれはこの公平なる裁判官の否認に移入して、自分の行為を断罪する。 (「道徳情操論」から)
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<個の利己主義、種の利己主義> このような『アナーキー・国家・ユートピア』、そのおかしいところの本質は何なのだろう?政治哲学以外の外部の意見、「学際」という観点がなく、視野狭窄であった。ではどの見方、考え方が足りなかったのか? ここでTANAKAは<個の利己主義、種の利己主義>▲という見方をする。 「ある者を他の者のために犠牲にするのは不正だと彼は主張する。ある人物は他の人物のための資源として利用されてはならない」。しかし自然界では、個は種の犠牲になることもある。遺伝子には「個を犠牲にしても種の繁栄を図るような指令」がインプットされている。交尾した雄のカマキリがメスに食べられてしまうのは、「個の利他主義」ではなくて、「種の利己主義」と考えられる。 ある個体が種の繁栄のために、他の個体のために犠牲になる、ということは自然界にあっては異常な事ではない。人間だけが、こうした自然界の仕組みから外れているとは考えられない。人間も自然界にある生物=動物であると考えれば、「ある人物が他の人物のための資源として利用されることも遺伝子情報に組み込まれたいることもある」と考えるべきだろう。 ノージックが確信をもって言っていることが、生物学=進化論から見ると少し違っている。TANAKAが「視野狭窄だ」と言う根拠はこうしたことからだ。好奇心と遊び心をいっぱいに、政治哲学以外の分野の常識で考えると、「個の利己主義」を優先する結論は出てこない。
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<遺伝子は「個の命」より「種の繁栄」を優先する> ここでは政治哲学とは全く違った分野からの文章を引用する。ノージックの説明に関することを言っている訳ではないが、全く違った発想による文章を読むことによって、「公正無私なる見物人」に近い見方ができるのではないかと思う。人間とか、社会に対する捉え方、それとそれを説明する文章、そうしたことの違いを感じて頂きましょう。TANAKAが度々言う「センスの違い」を感じて頂きましょう。
 1960年代半ば、生物学会に革命が起こった。その先駆者となったのは、ジョージ・ウィリアムズとウィリアム・ハミルトンの2人であろう。この革命は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」という言葉で最もよく知られている。その中心となっているのは、個体が自分自身、ましてや自分の所属する集団や家族のために行動するわけではなく首尾一貫して自分の遺伝子のために行動するという考え方だ。なぜなら、個体が遺伝子のために行動する個体の子孫であることは動かしがたい事実だからだ。われわれが不妊の祖先を持つことはあり得ないのである。
 ウィリアムズとハミルトンはともにナチュラリストで、一匹狼の研究者である。アメリカ人のウィリアムズは海洋生物学者として出発した。一方、英国人のハミルトンははじめ社会昆虫を研究していた。1950年代の終わりから、1960年代初頭にかけて、まずウィリアムズが、それからハミルトンが、進化一般、とくに社会的行動に関する新たな驚くべき見解を発表した。ウィリアムズはまず、老化現象とは死は体にとってマイナスの現象であるが、生殖能力がなくなったあと体を老化させることは遺伝子にとっては意味があることなのだと示唆し、動物(そして植物も)は種や自己のためではなく、自分の遺伝子のために行動するようデザインされていると結論した。
 通常、遺伝子と生物体の利害は一致する。だが、常にというわけではない(サケは産卵の努力によって死に、ミツバチは自らの命を犠牲にして敵を針で刺す)。しばしば、遺伝子は自己の利益にために生物体に子孫のためになるような行動を要求する──だが、必ずしもそうとは言えない場合もある(たとえば、鳥は食物に困ればひなを見捨てるし、チンパンジーの母親は乳を欲しがる子供を無情のも乳離れさせる)。親類のために行動させられることもある(アリやオオカミは姉妹の子育てを助ける)。ときには、大きな集団の利益になる行動をとらされることもある(ジャコウウシは幼い子供たちを守るために肩を並べて一群のオオカミに立ち向かう)。 他の生物に不利益な行動をとらせることもある(風邪をひくと咳き込む、サルモネラ菌に感染すると下痢をするなど)。だが、常に、例外なく、生物はおのれの遺伝子あるいは遺伝子のコピーが生き残り、複製できるチャンスを広げるような行動をとるようデザインされているのである。ウィリアムズは、彼特有のぶっきらぼうな調子でこう指摘した「一般原則として、他の個体のために行動する動物を観察している現代の生物学者は、その動物が他の個体に利用されているか、あるいは巧妙に利己的なのだと考えている」
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 この考え方は2つの方向から生まれてきた。まず第1に、理論的な考え方はこうである。遺伝子が自己複製しながら自然淘汰をくぐり抜けて行くとしたら、遺伝子の生存能力を高める行動を起こされる遺伝子はそうでない遺伝子を犠牲にして繁殖していく。これは必然的結果であり、計算のうえからも明白である。それは単に複製という事実が引き出す結果なのである。同じような洞察が観察と実験からも生まれた。個体や種というレンズを通して見た場合には不可思議に思われる行動のすべてが、遺伝子というレンズを通すことにとって、突然明確な意味を持つようになったのだ。例えば、ハミルトンが意気揚々と示したように、姉妹の生殖を助ける社会的昆虫は、自力で生殖しようとする個体よりも多くの遺伝子コピーを次の世代に伝えることができるのである。 したがって、遺伝子の観点から見ると、働きアリの驚異的な利他的行動も、まったくもって純粋に利己的な行動なのである。アリのコロニーにおける無私の協力は幻想でせある。働きアリたちは、自分の子ではなく、女王が生んだ自分の姉妹に遺伝子の永遠性を託して努力していた。しかし、その行動は人間が集団のなかで上位にのし上がるためにライバルを押しのけるのと同じように、遺伝子の利己性によるものだったのである。アリもシロアリも、クロポトキンが述べたように、個体として「ホップス的戦いを放棄」しているが、アリの遺伝子は放棄していないのである。
 この生物学的革命が生物学関係者に及ぼした知的衝撃はすさまじかった。コペルニクスやダーウィンと同じく、ウィリアムズとハミルトンは人間の自尊心に屈辱的な打撃を与えたのだ。人間は動物の一種に過ぎないというだけではない。自己中心的な遺伝子の、使い捨て玩具、あるいは道具だと言うのだから。ハミルトンは、自分の肉体とゲノムが、機械というよりむしろ社会に近いものだということに気がついた瞬間のことをこう回想する。「ゲノムとは完全に均質なデータバンクであり、1つのプロジェクト──つまり、生命を維持し、子孫を生むこと──に専念する特別チームであるとこれまで考えていたが、実はそうではないことに私は気がついたのである。どちらかと言えば、エゴイストや派閥が権力争いを繰り広げる会社の会議室のようなものだ、と思えてきた…… わたしという人間は傾きかけた連合国から海外に派遣された大使のようなものなのだ。分裂した帝国の気難しい君主たちから利害の対立する命令を託されているのである」。
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 同じ考えに辿り着いた若き研究者、リチャード・ドーキンスもやはり呆然としたと言う。「我々は生存ー機械、つまり遺伝子という名の利己的分子を保存するために盲目的にプログラムされた自動操縦の乗り物なのである。わたしはこの真実を思うたびにいまだに驚きで胸がいっぱいになる。あれからもう何年ににもなるというのに、それを完全に受け入れる心の整理がまだできていないようだ」
 実際、この利己的な遺伝子という概念は、ハミルトンの説を読んだ一人の学者、ジョージ・プライスに悲劇的なインパクトを与えたのである。彼はハミルトンの殺伐とした結論──利他的行為は実は遺伝子の利己性から生じているにすぎないという説──の誤りを証明するために生物学を勉強した。だが逆に、この説が反駁の余地のないほど正しいことを証明してしまった。それどころか、彼は計算値を改善したうえに、この学説を固める貢献までしてしまったのである。プライスはハミルトンと共同研究を始めたが、精神不安の徴候を徐々に見せ始めたプライスは、慰めを宗教に求め、すべての財産を貧困者に与え、家具一つない寒々としたロンドンのアパートで自殺した。遺品のなかにはハミルトンからの手紙が何通か含まれていた。 (T注 アンドリュー・ブラウンはその著書「ダーウィン・ウォーズ」をプライスの死から書き始めている)
 もっと一般的な反応は、はやくウィリアムズやハミルトンが姿を消してくれればいいと願うことだった。「利己的な遺伝子」という言葉自体が、ホップス哲学的な響きを持っていたため、社会科学者の大部分はこの利己的な遺伝子革命に反発し、スティーブン・ジェイ・グールドやリチャード・レウォティンら伝統的な進化生物学者はこの説を攻撃し続けた。彼らもクロポトキンのように、すべての無私の行為は根本的には私利追求であるというウィリアムズやハミルトンらの説(実際には、それは誤解であることあることが、おいおい分かってくるだろう)に反発していたのである。彼らはそういう考え方は、フリードリッヒ・エンゲルスの言葉にあるように、自然の豊かさを私利私欲という冷水につけて殺してしまうと考えたのである。 (「徳の起源」第1章「遺伝子の社会」から)
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<ジョージ・プライスの死> ジョージ・プライスが、住み着いていたユーストン駅近くの空き家で自殺したのは1974年の冬だった。プライスの身元を確認したウィリアム・ハミルトンは、部屋の様子を次のように話している。
「部屋の家具は床に敷いたマットレス、いすが一脚、テーブル、そして弾薬箱が数個だけだった。オックスフォード・サーカス近くのなかなか贅沢なマンションで最初に会った時には、書類箱や調度品もいろいろ見受けられたが、最後に残っていたのは安物の衣類、プルーストの上下巻き、そしてタイプライターだけだった。彼の書いたものの大部分は、安っぽいスーツケースと数個の紙箱に納められ、残りは弾薬箱の上に散らばっていた」
 利他主義者の死の床の様子は悲惨だった。プライスとハミルトンはどちらも理論生物学者だった。これが数学的で難解な研究分野であることは想像できるだろう。ところがプライスがこの分野でなしとげた発見が、彼を絶望と死へ導いたのだ。利己主義だけが報われているように見える世界で、利他主義が栄える方法を、彼は数式で公式化したのだ。その数式は十年前にハミルトンが発見していたが、プライスが書き直したものの方がエレガントで応用範囲も広かった。彼は、いかなる選択過程であってもその方向と速度を測定できる一般的な方法を考案した。それによって、ほとんどあらゆるものをダーウィニズム的に分析することが、原則として可能になる。
 プライスはこれを発見したときにひどいショックをうけたので、何か不備な点があるに違いないと考えて研究をやり直した。そして得られたのはより一般的、より有力な結果だった。こうして完成した研究が、彼の気を狂わせた。彼の方程式は動物にも、そして人間にすらも真に自己犠牲的な行動が存在しうることを示していたが、そこのは崇高な意味は何も含まれていないことも示しているようだった。ある行動の原因となっている遺伝子を広めるのを助けるような行動だけが、非常に長期にわたって存続できるのだ。人間も動物だから、人間の利他的な能力も厳密に限定されているに違いない。また、我々がもつ残酷さ、裏切り、利己主義の能力は取り消し不能なのだ。ジョージ・プライスは代数を通して原罪の証拠を発見した。
 それまでの彼は、独断的で楽天的な無神論者だった。そして人間は、その足取りは遅く断続的で、逆行することがあっても、より優れ、より賢い存在になってゆけるのだはないか、そしてその過程には自然な限界がないだろうと、彼は望みをもっていたようだ。彼の証明はそうしたことが起こり得ないことを示し、数学のわかる生物学者が見るときわめて美しくエレガントなものだったが、それはまた美しさやエレガンスが宇宙にとって何の意味もないことを証明しているようでもあった。人間の動機は複雑で難解だから、プライスを狂気に追いやった原因を正確に断定することはできない。しかし利他主義の公式を発見したことが、彼をひどい鬱状態におとしいれたことは間違いない。そして彼はある宗教体験でそこから救い出され、それは彼を善行マニアの道へと導いていった。
 祈らずにはいられない衝動に駆られて祈るうちに、プライスはキリスト教が真実であると確信するようになった。それは彼がBBC放送局のすぐ北側に住んでいた頃だった。よきサマリア人のたとえを用いてイエスが説いた絶対的で無条件な利他主義が、彼の残りの人生の指標になった。彼は科学研究を放棄したえあけではなかったが、生物学においてあまり訓練は積んでいなかったので、自分の発見を奇跡と考えるようになった。その一方で彼は浮浪者、アル中患者その他様々の惨めな人々に救いの手を差し伸べた。そして自分の時間、同情、そして金──最終的にはすべての所有物──を彼らに与えた。
 無神論者で唯物論者であったころのプライスは自制できないほど熱中するたちで、キリスト教徒になってもそれは変わらなかった。彼はほどなくして、自分を受け入れてくれた牧師と争うようになった。彼は牧師が熱心さに欠けると考えたのだ。彼はけっして、普通の意味でのファンダメンタリスト(原理主義者)ではなかった。ダーウィンの進化論を完全に受け入れ、自分の公式の研究を続けた。彼は天地創造の物語を文字通り信ずることもなかった。しかし彼は一途にそして頑固にイエスの声に従った。それはまるでアリが仲間の通った道の跡をたどってゆく様子に似ていた。 (「ダーウィン・ウォーズ」一番最初のところから)
 科学者が「あの人の理論は間違っている。自分が訂正しよう」と研究を始めて「あの人の理論は正しい。訂正しようとした自分が間違っていた」と気づいたらそのショックはいかほどだろうか?自然科学だけでなく、社会科学でも、研究していく内に自分の過ちに気が付き始めたら、どんな気持ちになるだろう?とは言え、最初から最後まで迷わない研究者の方が不自然だと思う。自分の理論、思想が本当に正しいのかどうか、いつも不安になって先へ進んで行くのが自然のように思える。「民主制度の限界」などどいっぱしのテーマに取り組んで、途中で迷ったり、新しい発見をしたり、それが好奇心と遊び心いっぱいでやっていける趣味の良いところだと思う。それにしてもジョージ・プライスを死に追いやった「遺伝子」、この研究の世界に入ったら、ダラー・オークションのようになかなか抜け出せないのかも知れない。 そのような魅力と魔力があるように思えてくる。
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<主な参考文献・引用文献>
『自由論』                       アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房 1971. 1.20
『自由の正当性』                       ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社   1990. 5.15
『アナーキー・国家・ユートピア』 国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社   1985. 3.15
『道徳情操論』                          アダム・スミス 米林富男訳 未来社   1970. 4.25
『徳の起源』                         マット・リドレー 古川奈々子訳 翔泳社   2000. 6.14
『ダーウィン・ウォーズ』             アンドリュー・ブラウン 長野敬+赤松眞紀訳 青土社   2001. 5.15 
『ダーウィン以来』 進化論への招待    スティーブン・ジェイ・グールド 浦本昌紀・寺田鴻訳 早川書房  1995. 9.30
( 2004年8月30日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(19)人間も自然界の一部と考えると……
<「自由であるべき」という「個の利己主義」> イヤなことを強制されない自由、他人に迷惑をかけない限りやりたいことをやる自由。「自分は自分のために生きているのであって、他人のために犠牲になるために生きているのではない」という考え。こうした考え方は、政治哲学ではなくても、ごく普通に認められているだろう。しかし生物学での「自然界でのルール」となると、ちょっと違う。自然界では「個が生きること」よりも「種が繁栄すること」が優先される。遺伝子にそのようにプログラムが組み込まれている。生物学・進化論ではこのように自然界のルールを理解する。 種の繁栄のためには、個が犠牲になるプログラムが遺伝子には組み込まれている。しかしだからと言って「自分自身のために生きようとすることは悪いことなのか?」と問われれば、「みんなが自分自身の目標に向かって生きていくことは良いことだ」と答えたい。ではこうした「自然界の摂理」と「自由主義」のギャップはどのように解消したらいいのだろう。はっきりした答えにはならないが、「こうありたい」と「こうあるべきだ」の違いのようだ。「個人は自由であるべきだ」ではなくて「自由でありたい」なのだ。 自然界のルールでは、個人の存在はとても小さくて、周りの人たち、属する社会の犠牲になることもある。だからこそ、そうした自然界の過酷な摂理を理解したうえで、精一杯個人の自由が尊重される社会にできたらいいと思う。そういうことだろうと思う。ノージックを読んで感じるのは、こうした自然界への理解、その摂理を尊重する姿勢、あるいはその現実を認める謙虚さが感じられない。感覚の違い、センスの違いはそのような所にあるのでは無いかと思う。そこで政治哲学とは全く違う分野、生物学・進化論からの文章を、先週に引き続き引用することにした。 政治哲学の文章と、言葉の違い、読者を意識する態度の違い、そしてセンスの違い、こうした違いを感じていただければ幸いです。
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<G・ハーディンの「利他主義は存在するか」> <共有地の悲劇=The Tragedy of the Commons>や<救命艇に生きる=Living on a Lifeboat>で知られるガレット・ハーディン、その著作「サバイバル・ストラテジー」から、「利己主義」「利他主義」についての部分を引用しよう。 TANAKAが度々主張する「個の利己主義、種の利己主義」との関連で読んで頂きましょう。つまり自然界にあっては「個の利己主義」は説得力に弱い。個人の自由を主張するノージックの考え方とは、どうもセンスが違うようだ。
 メスを奪うオスのライオンは、自分が打ち負かした「前夫」の子を殺してしまう。ハヌマンラングールのオスも同じ行動をとる。ハツカネズミではブルース効果というものがあって、同じ効果がもっと非暴力的な形で現れる。つまり新しいオスの匂いを嗅ぐだけで妊娠中のメスに流産が起こり、メスは新しいオスによる受胎が可能な状態になるのである。
 これらはすべて、厳密なダーウィニズムに基づいて簡単に説明することができる。ダーウィンの理論に対するもっとも重大な誤解は、自然淘汰は種にとってよい結果をもたらすよう作用する、と思いこむことである。そうではないのである。自然淘汰は個体の生殖系列(germ line)に利益をもたらすものであって、この過程は種にとって利益となるとは限らないのである。(この重要な問題には第6章でもう一度触れることにする)。種の観点からすれば、ブルース効果は生殖過程に不効率を持ち込むことにほかならない。だが割り込んでくるオスのマウスのための生殖系列という点からすれば、ブルース効果は効率的である。それは種全体の子孫の数を減らすことによって、そのオスに殺されるに決まっている(多分そうなるであろうが)子を産むために、月満ちるまで妊娠を続ける時間と努力の無駄が省かれる、という点にある。
 大人が子供一般──自分の子供に限らず──の生存を助ける行動は、利他的なものと見なすことができるであろう。だがこれは滅多にないことである。自分の子供だけを助ける行動は、そもそもこれを利他主義と呼ぶなら「血縁利他主義」という特別の名前で呼ばなければならない。この血縁利他主義の淘汰上の価値は容易に理解できる。
 血縁利他主義は「純粋」利他主義とは明らかに違う。親がそのために犠牲になる子供というものは、一部は親自身なのである。具体的に言えば、子供の遺伝子の半分は、片方の親の遺伝子と同じである。だから自分の子のために犠牲になるという場合、この親は「半利己的」なのである。かりに半利己的な親が完全に利己的な親よりも多くの子孫を残すのであれば、純粋利己性は棄てられ、半利己性の方が選ばれるであろう。半利己的な行動は半利他的と読んでもよいわけである。遺伝的根拠のある部分的利他主義の方は純粋利他主義よりも理解しやすい。
 ダーウィンは血縁利他主義の基本的な観念をつかんでいた。しかしその意味が十分に理解されるにはさらに1世紀を要したのである。血縁利他主義という言葉をつくったのはウィリアム・D・ハミルトンで、この理論は主としてハミルトンの手になるものである。ハミルトンは動物の世界に見られる利他主義がいかに行為者の血縁の程度と関係しているかを示している。自分の損失は生命を失うといった極端なものでなくてもよいが、この極端なケースだけを考えてみると理論の構造が分かりやすいであろう。 (「サバイバル・ストラテジー」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<自然界に「福祉主義」はない>上記ガレット・ハーディンと似た立場からもう一つ引用しよう。「自由主義」「平等主義」とは全く違った考え方だ。いろんな違った立場の考えが、交雑育種法によって新種の理論が生まれるといいのだが、政治哲学の分野ではその可能性は少ない。それよりも「自家不和合性」が心配だ。
 いわゆる進化とは、自然の失敗の結果である。つまり、病気や能力喪失、あるいは突然変異がもたらした欠陥を過剰に補償するという、自然の失敗の結果なのである。正常な発達をとげた有機体はその環境にうまく適応し、その子孫の全世代にわたって安定している。だからここには次のような2つの相異なる傾向が見られるのである──ひとつは、その環境との最適な関係を見出し、安定的な形態に到達する生物、いま一つは過剰補償の連続によって生き延びているにすぎない不安定な生物である。徐々に新しい種への転換をやってのけるのはこの後者の方である。 そこで思い切ってこういうこともできよう。進化は最適者生存のせいではない。むしろ自己および子孫における一連の過剰補償を通じて新しい形態をつくりあげるのは不安定な生物であり、一方適者は、すでに達成した形態を維持するように、自己を一層適者ならしめる緩慢な修正を行う。
 自然の中では病気の動物が生き残れるチャンスはほとんどない。病気の動物が、ただ自分が生き続けるだけでなく、その子孫にも伝えられるような新しい方法を見出すのはごく稀な場合にすぎない。治療法の進歩のおかげで病人は死ぬことから免れるが、またこれによって不釣り合いに多くの欠陥遺伝子が次代に伝えられる。こういうわけで、人間は他のいかなる動物よりも急速な進化上の変化を示したのである。この加速的な進化には、家畜やペットの場合も含まれる。というのは獣医学のおかげで、それがなければ不安定だったような形態が生命を維持するからである。(中略)
※                     ※                      ※
 博愛主義者や自由主義者は無力な子供に必要なものを用意してやる親の役割を自ら買ってでる傾向がある。それによって彼らは面倒を見てもらう側の幼稚化を助長しているのである。貧乏人であろうと不具者であろうと、また差別の犠牲者であろうと、この種の非保護者に共通した性質がひとつある。何らかの形で彼らは無力な様子をしているのである。この無力ということには、鉄の肺に入っているポリオの犠牲者の場合のように現実にそうであることもあれば、高い賃金を貰っているのに、さらに多くを要求してストライキをする労働者の場合のように想像上のものに属することもある。 労働者は、自分がその労働に対して得ている以上に社会は自分のおかげをこうむっているのだから、面倒を見てくれるのが当然だ、という感情を抱くのである。(中略)
 現実には、恵まれない人間は、いかに孤立無援だとしても、実は自分の力の及ぶ範囲にその無能力をつぐなうだけの、あるいは過剰に補償するだけの力をもっているものである。例えば手を失うという自体に直面した時、足で絵を描く芸術家がいる。片脚を切断してから一本脚で滑りつづけるスキーヤーもいる。貧民窟から身を起こして産業界の大立て者になる人間もいる。これは進化の全体を通じて起こる過程であって、ここではハンディキャップを負わされた動物は補償と過剰補償によって生き残るしかない。動物界には博愛主義的機構など存在しないのである。
 こうして博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう方の人間から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。そして現実に起こることはこうである。すなわち、恩恵をほどこす方は、保護者である親の役割を引き受けることで、ほどこされる側に、自分では何も努力しなくてもその気まぐれを何でもかなえてもらえる、という子供の態度を助長するだけのことである。(中略)
 だが今日では、自分の面倒は自分で見よ、とか過剰補償とかいった生物学的見解は反動的だと見なされる。その反対に、全面的な保護や扶助の必要を説くリベラル派の反生物学的見解が進歩的だとされるのである。このこと自体が人類の進む方向をまことによく示していると言えよう。 (「マンチャイルド」から)
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<農業は人類の原罪である> 文明が発祥したとき、自給自足が神話になった。人間は文明が発祥したときそれまでとは比較にならないエネルギーを消費するようになり、さらに産業革命時にさらに消費量を増大させた。20世紀には自然環境破壊が急速に進み、公害により多くの人命が失われた。もう一つ、自然界に福祉主義はない。強い者だけが子孫を残せる。利己的な遺伝子が、個の利己主義より種の利己主義を優先させるメカニズムによって自然淘汰を行っていく。 このように、人間は自然界の摂理に逆らった社会システムを築き上げてきた。今こうした人間社会の進化について反省の声があがっている。「公害をなくそう」「自然を守ろう」「省エネ」「贅沢は敵だ」「農業の多面的機能を見直そう」。しかしこうした反省の声は、多くの反自然的行為のほんの一部でしかない。自然淘汰に関しては「ヒューマニズムの立場から、弱者を守ろう」とのアファーマティブ・アクションが作られる傾向にある。動物界には存在しない博愛主義によって、人間が本来もっていた「過剰補償能力」の発展する可能性を奪ってしまっている。
 コリン・タッジは、その著「農業は人類の原罪である=NEANDERTHALS,BANDITS AND FARMERS How Agriculture Really Began」で人類がいかに自然を破壊してきたか、特に動物、植物に関して言及している。「オーストラリア、北米大陸、南米大陸へ人類が侵入してから大型動物の絶滅が始まった」と主張し、次のように言っている。
 これらの証拠からわかるのは、大型動物を絶滅に追い込んだのは人間。これまで言われていたような気候の問題ではなく、ハンターとしての人類だったということである。もし気候に原因があるなら、大型動物よりも小型動物の方がより打撃を受けるだろう。ところが実際のところ小型の動物はほとんど無傷のまま生き残っているのだ。マウスやトガリネズミは、その小ささゆえに気候変動には弱いわけだが、人間に食べられるという心配はないのである。それにそもそも、これだけの絶滅を説明できるほどの気候変動があったという確固とした証拠はほとんどないのだ。 オーストラリアやアメリカ大陸を席捲した絶滅の第一波は更新世よりはずっと最近になっての出来事だが、マダガスカルやニュージーランド(それにハワイと他の各地)における絶滅の波も、同じプロセスの一部とみることができる。さらに、大型の草食獣とその大型捕食者が、程度の差はあれ、ほとんど時を同じくして姿を消すという一般的傾向がある。捕食者とは、北米ではサーベルキャットや大型のクマ、ニュージーランドでは、モアを獲物としていた大型の猛禽である。おそらく、草食獣が絶滅したのは狩猟のターゲットになったためであり、大型捕食者が絶滅したのはそのエサとなる動物がいなくなったからなのだろう。
 アメリカ大陸やオーストラリアで大型動物が絶滅したのは、気候の悪影響ではなくやはり人間のせいである、と考えるべきなのである。アメリカの動物は200万年人間と共存し、ユーラシア大陸の動物も50万年以上人間に接していたが、アメリカ大陸やオーストラリアの動物は人間のやり方にはまったく慣れていなかった。突然として集団で声をあげて襲って来ることもあれば、こっそり作戦のこともある。いつどこへ隠れるのがベストか知っており、そしてこれが重要な点なのだが、遠くからでも石とか槍とかの飛び道具を使って襲って来る。人間はそういう変則的なハンターなのである。
 しかし、アメリカ大陸とオーストラリアにやって来た最初の人間が余った時間で農業をし、環境を操作していたとすると、議論はより価値を増して来る。既に論じたように、そうだとすると彼らはただのハンターではなく、より破壊的なハンターだったということになるからだ。彼らはたやすく、そしておそらくは大はしゃぎで、より目立つ動物を絶滅に追い込んで行ったに違いない。
 ある程度の農業が更新世の大量絶滅にかかわっているだろうし、またそう考えれば、大量絶滅についてよりうまく説明できるのではないだろうか。 (「農業は人類の原罪である」から)
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<自然の摂理とヒューマニズム> 「人類も自然界の動物の一種」と考えると、自然界の摂理に従うべきだ、となるが、ヒューマニズムとは「自然界にあっても人類は特殊だ」との考えになる。そのためヒューマニズムでは自然界の摂理に逆らうこともある。自然界では子孫を残せないような弱いオスもヒューマニズムでは普通のオスと同じように子孫を残すことになる。自然界にあっては野生動物に病気を治す薬は用意されていない。自然界のルールとヒューマニズムをどのように調整して捉えるのか?ここでは「原理主義では解決できない。功利主義で、とりあえずこれよりいいものが見つかるまで、これで行こう」との態度がいいようだ。   
 イスラム、キリスト教、マルクス主義、オウム真理教など原理主義は多々ある。それらを信仰する人も多い。それら原理主義者も功利主義者もそれぞれ「不満を持ちながらも、この程度ならしょうがないな」と諦める妥協点を求めるのが民主制度と言える。このように考えると、ノージックの考えはそうした原理主義の一つと考えられる。ただし多くの原理主義と違って、実現性の全くない原理主義だ。イスラム、キリスト教、オウム真理教、マルクス主義はそれでもその理想を求めて試みられ、それなりに評価する人もいる。しかしノージックの考えは実験さえ行われないし、その意図も、実現への幻想さえ抱いていないようだ。それは、この考えを多くの人々に訴えようとの姿勢が全くないことから想像できる。
 人間社会は自然界の摂理をそのまま受け入れている訳ではない。しかし、自然環境、進化論との整合性など周辺科学との調和も考慮した議論を進めることが、多くの人の支持を得ることになる。そうした配慮がないことも自家不和合性に陥る要因の一つになるに違いない。コリン・タッジの意見もノージックを意識したものではないが、視野狭窄にならないために引用してみた。
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<トマス・モアの「ユートピア」> 『アナーキー・国家・ユートピア』について書いてきた。ここで「ユートピア」から引用しよう。これは16世紀前半に書かれたもので、マルクスやアダム・スミスやマンデヴィルよりも前に書かれている。しかし読んでみると、現代でもこうしたユートピアに憧れている人たちが多数いることに気が付く。「古くさい」などど言わずにもう一度読んでみたはいかがでしょうか?あんな昔にこれだけ理想的な社会を描いた人がいた、それに比べて現代人のイメージの貧弱なこと、もっともっと想像力を働かせましょうよ。ということでトマス・モアの「ユートピア」から、その一部をどうぞ。
 しかしながら、モアさん、私は思うまま、率直に申し上げるのですが、財産の私有が認められ、金銭が絶大な権力をふるう所では、国家の正しい政治と繁栄とは望むべくもありません。もっとも、正義の行われている国とは一切のものがことごとく悪人の手中に帰している国のことであり、繁栄している国とは一切のものがあげて少数者の独占に委ねられており(といっても必ずしもその連中が幸福に暮らしているわけでもありません)他の残りの者は悲惨な、乞食のような生活をしている国のことであるとすれば、勿論話は別ですが。
 ですから、私はユートピアの、つまり、すくない法律で万事が旨く円滑に運んでいる、したがって徳というものが非常に重んじられている国、しかもすべてのものが共有であるからあらゆる人が皆、あらゆる物を豊富にもっている国、かようなユートピアの人々の間に行われているいろんな優れた法令のことを深く考えさせられるのです。一方ひるがえって、次々と絶えず何か新しい法律を作っている、そのくせ碌な法律は持たないといった多くの国々、つまり自分で手に入れたものを自分の私有財産と称し、そのいわゆる私有財産なるものを享有し、守り、他人の私有財産から区別するために夥しい新しい法律を毎日作っているが、それでも充分効果はあがらないといった国々(こういった事が偽りでないということは、毎日生じては果てしなく続いている無数の論争をごらんになれば分かります)、 こういった国々をユートピアと比べて考える時、そうです、こういう種々な事柄をじっくり考えてみる時、私はプラトンの意見に賛意を表せざるをえません。そして、プラトンがすべての人が富と便益の平等な配分を享有することを規定する法律を拒否した者たちの為に、法律を作ろうとしなかったことをもっともなことと思います。プラトンの慧眼はよく、あらゆるものの平等が確立されたら、それこそ一般大衆の幸福への唯一の道であることを見抜いていたのです。そして、この平等ということは、すべての人が銘々自分の私有財産を持っている限り、決して行わるべきもないと私は考えています。いろいろな権利や口実を設けては出来るだけ多くのものをよせ集め掻き集め、ありとあらゆる富は少数の者たちだけで山分けにする、そういった国ではいくら豊富に貯えがあっても、少数の者以外にはただ欠乏と貧窮だけが残されているばかりです。 しかも多くの場合、この後者の貧乏人の方が前者、すなわち金持ちなどよりも、いっそう幸福な生活を楽しむ権利があるのです。なぜかと申しますと、金持ちは貪欲で陰険で非生産的でありますが、貧乏人は謙虚で純情で日々労働によって自分の利益そのものよりも、むしろ全体の福祉に多大の貢献をしているからです。
※                     ※                      ※
 こういうわけで、私有財産権が追放されない限り、ものの平等かつ公平な分配は行われがたく、完全な幸福もわれわれの間に確立しがたい、ということを私は深く信じて疑いません。私有財産権が続く限り、大多数の人間の背には貧乏と苦難の避くべからざる重荷がいつまでも残ることでありましょう。勿論、この重荷も多少は軽くしてやることができるかもしれない。私もそれを認めないわけではありません。しかし、全面的に取り除いてしまうということは絶対に不可能だと思います。もし法令でもできて、土地は一定の面積以上、いかなる人間といえども所有することができない、また金銭も規定された額以上貯えることができない、ということになれば、……いやさらに、国王といえども不当に強大な権力を持つことなく、人民もまたいたずらに傲慢で金持ちになることができない。官職もこれまたみだりに懇請や賄賂や贈物によって得られるということができない、つまり、官職が金銭によって売買されたり、 官吏がその職にあるために必然的に金銭上の負担を負うようなことがない、ということになれば(──金銭上の負担が重いと、つい官吏は詐欺や強奪などの手段に訴えてその損した金をとり戻そうとすることになるし、またもともと賢人によって行われなければならない官職が贈り物や賄賂などによって金持ち連中のものとなるのです)──そうです、法律によってこういうことが決まれば、ちょうど危篤の病人が日夜を分かたぬ手厚い看護によってしばらく持ち直すように、これらの悪弊も軽減されるかもしれません。しかし、それが完全に根絶され、立派な状態になる、ということは私有財産制度が存在する限り、到底望むべくもありません。よく人が一つの箇所を治そうとして他の箇所の傷口をますます悪化させるように、一方を助けようとして、一方を苦しめるというわけです。しかし、それというのも、他人から奪うのでなければ人にものを与えることができない、という欠陥があるからなのです。 (「ユートピア」から)
 1535年7月6日、国王ヘンリ8世の怒りに触れ、断頭台の露と消えたサー・トマス・モアに黙とう。 DIV align=center>(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『サバイバル・ストラテジー』              ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社   1983. 4.20
『マン・チャイルド』 人間幼稚化の構造 ダビッド・ジョナス、ドリス・クライン 竹内靖雄訳 竹内書房新社1984. 7.10
『農業は人類の原罪である』 シリーズ「進化論の現在」    コリン・タッジ 竹内久美子訳 新潮社   2002.10.20 
『ユートピア』                         トマス・モア 平井正穂訳 岩波書店  1994. 9.16 
( 2004年9月6日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(20)「素人さん、大歓迎」の論法
<リバタリアンはどうだ> 自由主義としてノージックを取り上げ、批判してきた。もう一人、アナーキーとは言わずに「リバタリアン」とか「アナルコ・キャピタリズム」と呼ばれるデイビッド・フリードマンはどうなのか? それに加えて父親のミルトン・フリードマンのこともリバタリアンと呼ぶ人もいるようなので、一緒に考えてみよう。そしてさらにこれらの人に影響を与えたフォン・ミーゼスとハイエクの文章も引用し、これらの考え方、その主張の仕方、政治哲学とのセンスの違いを感じ取って頂きましょう。
<インフレーションの誘惑> キャビアの供給がジャガイモの供給と同じくらい豊富であったとしたら、キャビアの価格──すなわち、キャビアと貨幣の交換比率ないしキャビアと他の商品の交換比率──は、かなり、変化することでしょう。そうなると、今日よりもずっと少ない犠牲で、キャビアを手にするのとができるでしょう。同様に、貨幣が増えると、貨幣一単位の購買力が減少します。したがって、この貨幣一単位と交換に入手できる商品の数量も減少します。
 16世紀に、金や銀の資源がアメリカで発見され採掘されたとき、膨大な量の貴金属がヨーロッパへ運ばれました。このように貨幣量が増大した結果、価格を全般的上昇させる傾向をもたらしました。同様に、今日、政府が紙幣の数量を増大させますと、その結果、貨幣一単位の購買力が低下し始め、したがって、価格が上昇します。これがインフレーションと呼ばれています。不幸なことに、他の諸国のみならず米国でも、インフレーションの原因は、貨幣数量の増加にあるのではなくて、価格の騰貴にあると考える人があります。 (「自由への決断」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<価格という「情報」こそ複雑化した社会で力を発揮する>  現代の技術革新が計画を不可避にさせるという主張には、また別の意味も含まれている。すなわち、現代の産業文明がきわめて複雑化してきたので、中央集権的計画以外では効果的に処理しえない新たな問題が生まれている、ということである。これはある意味で正しい──ただしそれが主張しているほど広い範囲にわたってではないが。たとえば、現代の都市問題の多くが、過密化がもたらす一連の問題と同様、競争によっては適切に解決できないことは、わかりきった事実である。 けれども、中央集権計画の必要性の根拠を現代文明の複雑化に求める人々が、大きな関心を寄せているのは、都市問題の対策といった「公益事業」ではない。彼らの多くが暗に主張しているのは、経済プロセス全体の見取り図がますます分かりにくくなっているために、社会生活が混乱をきたすことのないよう、何らかの中央当局による総合的調整が必要だ、ということである。
 だが、このような主張は、競争の働きをまったく誤解していることから生まれている。競争は、比較的単純な条件で効力を発揮するのではなく、まったく逆であり、現代の分業社会が複雑であればあるだけ、競争こそが、唯一、そういった調整を適切に実現する手段となるのである。
 状況が単純であるなら、一人の人間あるいは一つの委員会が、関連するすべての事実を効率的に把握し、有効な統制や計画を行うことは簡単だろう。しかし、考慮せねばならぬ要因があまりにも多くなり、おおまかな見取り図さえ描けなくなった状況では、分権化は避けえない。そうして、分権化が進められると、それぞれをいかにして調整していくかという問題が起こる。つまり、分権化されたそれぞれの当事者が、彼らだけが知りうる事実に従って独自に行動するに任せ、なお、それぞれの計画が相互に調和するような調整は、いかにしたら可能かという問題である。
 きわめて多くの個人が行う決定が、それぞれどれくらいの重要性を持っているかを判断することは、誰にもできないことであるからこそ、分権化は必要となる。そう考えれば、個々の決定の総合的調整が「意図的な統制」でできるはずもないことは明らかだ。調整が唯一可能になるのは、ある機構が、それぞれの決定者に、自分の決定と他人の決定とがどうやったらうまく折り合うかという情報を伝えることによってである。ところが、どんな単一のセンターも、様々な商品の需要・供給状態に常に影響を与える諸々の変化を、細部に至るまですべて把握したり、それらの情報を即座に収集し広範に伝達したりすることは、 まったく不可能であるため、諸個人の活動が相互にどのような影響を生み出しているかを自動的に記録し、同時に、諸個人がどんな決定をしたかという結果を明らかにし、またそれに従って諸個人が決定を下していくためのガイドとなるうような、何らかの記録装置が必要になる。
 一見不可能に思われるような機能、他のどんなシステムも請け合うことのできぬこの働きを、まったく見事に果たしているのが、競争体制における「価格機構」なのである。この価格機構のおかげで、企業家は、需給に影響をおよぼす変動要素より数としてははるかに少ない、いくつかの価格の動きを見守るだけで──ちょうどエンジニアがいくつかのダイヤルのメーターを見るだけでいいのと同様に──自分の活動と他者の活動を調節することができるのである。ここで重要なことは、価格機構が十分に機能するのは、競争が広範にうまく行われている場合、つまり、個々の生産者が価格変化を受け入れ、それをコントロールすることがない、という条件が満たされた場合のみだ、という点である。
 経済の全体が複雑になればなるほど、われわれはますます諸個人による知識の分業に頼らざるを得なくなる。そして諸個人の独立した営みは、それを遂行するために必要な情報を提供してくれる、この価格機構という非人格的なメカニズムによって、総合的に調整されるのである。
 もしかりに、産業体制の発達のために意図的な中央統制に頼らざるを得なかったとしたら、産業体制は、今日のように、分化し、複雑化し、柔軟性に富んだものにならなかっただろう、と言っても決して誇張ではない。経済的な問題と分業と価格機構の自動調整によって解決していく方法に比べれば、中央統制という、一見分かりやすい方法は信じがたいほど硬直的で、原始的で、範囲の限られたものでしかない。現代のこの文明が存立できるようになったのは、分業がかくも広く行われるようになったことのおかげである。なぜそれが可能になったのかと言えば、分業が意図的に作り出される必要がなかったからであり、前もって計画されるような範囲をはるかに超えて分業が拡大されるような方向へ、 人類が危うい足取りでではあれ、進んできたからである。だから、現代文明がさらに複雑になればなるほど、中央統制が必要になるのではなく、逆に、意図的な統制に頼らない方法を用いることがより重要になってくるのである。 (「隷属への道」から)
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<『選択の自由』> この書の最後の章で、ローズと私とは「流れは変わり始めた」と宣言した。しかしその際に、「(このようなかつての体制に対する=訳者)反動は結局のところ短命に終わり、しばらくの時間を置いて、改めていっそう巨大な政府へ向けての反動傾向が、再び発生することになるかもしれない」と警告した。では、この書の初版が出版されてから20年後の、現在の状況はどうなっているか。
 人びとの世論のレベルでは、状況は極めて明らかだ。「ベルリンの壁」の1989年における崩壊と東西ドイツの1990年における再統一、そしてソ連邦の1991年における解体とは、経済を組織化するために二つの対照的なやり方に対する、約70年間に及んだ実験に劇的な決着をもたらした。すなわち、「上からの命令体制」対「下から上への体制」、「中央びよる計画と管理の体制」対「民間市場社会体制」、もっとありふれた表現に従えば「社会主義対資本主義」の実験の決着だ。
 しかもこの実験の決着は、実はそれ以前のもっと小さな規模における数多くの同様な実験によって既に下されていた。つまり、香港と台湾対中国本土、西独対東独、韓国対北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)などにおける実験によってだ。しかし、これらの決着を世間一般の知恵とするためには、「ベルリンの壁」の崩壊とソ連邦の解体という、劇的な事件の発生が必要だった。
 そのおかげで、今では、中央計画体制はまさしく『隷従への道』に他ならないことが、当然のことと受け取られている。この『隷従への道』(西山千明訳、春秋社)は、1944年に出版されたF.A.ハイエク教授のすばらしい挑戦的な書のタイトルだった。こういう考え方は、ローズと私とが1962年に『資本主義と自由』を出版したときには、まだごく少数派の意見でしあかなかったうえ、1980年にこの『選択の自由』が出版されたときでさえ、少し増えてはいたものの、相変わらず少数派の考えにすぎなかった。しかし今では、世間一般の常識的世論にとなっている。
 しかし、世論の基礎にある人びとの考えとは、まったく別物であることがしばしばである。しかも実際の政治の面ではさらに状況が複雑になる。西側の先進諸国であは、第二次大戦後の数十年間に、政府のの役割の急速な増大や、国民所得における政府支出の急激な増加が、戦前の「福祉国家体制」と「ケインズ経済学派」の見解によって、強力に促進された。この「選択の自由」の最後の章でわれわれが予告した世論の転換も、政府の増大を鈍化させはしたが、これを逆転させるまでには至らなかった。世論の変化が、常に旧来の慣性からの脱出が至難な実際の政府の動きに対して影響を与えるには、長期の時間を必要とする。 例えば第二次大戦後における急速な各種の「社会化」は、戦前における集団主義に向けての世論の転換を反映した結果だった。同様にここ数年間における「しのびよる」ないし「よどんでいる」社会主義の発生は、先記した第二次大戦直後における世論の変化の、初期の影響を反映している。したげって将来における「非社会化」は、ソ連邦の崩壊によって強化された世論の変化の成熟した影響を反映して、やがて必ず発生することになるだろう。
 それにしても、世論の変化は、以前に後進的だった世界に対しては、はるかにもっと劇的な影響を与えてきた。この点は残存している最大で明白に共産主義国家である中国において、ぴったりあてはまる。1970年代の後期にケ小平によってなされた「市場改革」の導入は、その効果として農業における私有化をもたらし、この分野での産出を劇的に増加させた。さらにこの成果は他の諸分野でも、この「共産主義国家」に、ますます市場経済的諸要素を導入させることとなった。この中国での経済分野における自由の増大は、まだ限られてはいるものの、中国の様相をかなり急速に変化させてきている。この状況は「自由な経済」に対するわれわれの信頼を、ますます強固なものにしてくれる。
 もちろん、中国の現状は依然として「自由社会」からはるかに遠いが、それでも中国の住民たちは、毛沢東の支配下にあった時代よりも、今やはるかに自由であり、富を持っている。その上、政治の分野を別にすれば、人びとは他のあらゆる次元においてますます自由になっている。いや、政治の分野でさえ、いっそう多くの農村において、特定のいくつかの官僚職は、選挙によって任命されるようになっている点で明白なように、政治的自由が増大していく最初の小さな兆候が現れている。もちろん中国が真の自由社会になるためには、はるかにもっと変化しなければならないことは言うまでもない。それにしても中国は明らかに正しい方向へと動いていっている。 (「選択の自由」文庫本への著者のはしがき2002.4.2 から)
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<『政府からの自由』>ミルトン・フリードマンはプレイボーイ誌の読者に経済学をわかりやすく話している。「素人さん、大歓迎」の姿勢だ。プレイボーイ誌記者とのインタビューの文章を引用しよう。
プレイボーイ インフレは、なぜ、いつまでも解決できない問題なのでしょうか。
フリードマン いや、技術的に言えば、インフレを止めることはそんなに難しくないんですよ。問題なのは、インフレになると好影響が先に出てきて、悪影響があとになることです。酒と同じですよ。インフレになり始めの数ヶ月あるいは数年というのは、ちょうど2,3杯ひっかけたときみたいに、いい気分のものなんです。使えるお金は増えるし、物価の上昇はまだひどくないし。ところが、物価が本格的に上がり始めると、これはもう二日酔いみたいに苦しい。もちろん、一口にインフレに苦しむといっても、人によって程度の差があるのも問題ですね。一般に、政治的な発言力をもたない層、貧しい人や年金などで暮らしている人がいちばんの被害者です。 その一方で、インフレの影響をまったく受けない人や、インフレで大儲けする人もいるわけです。
 さて、インフレ退治に乗り出すと、今度は困ったことに、すぐに悪い影響が出てくる。失業者はふえる。金利は上がる。資金繰りは苦しくなる。とにかく不快なことばかりで、それを通り過ぎると、価格上昇が止まったことの良い影響は出てこない。治療中のこの苦しい期間を、迎え酒に頼らずにどうやって乗り切るか、それが問題ですね。 インフレ退治でいちばん困るのは、しばらくすると治療より病気の方が楽だと皆が思い始めることなんです。治療に成功すれば、経済成長と価格の安定の両立だって夢ではないのに、そこのところが分からない。ニクソンのときに見たとおり、治療などうっちゃって、また病気に戻りたいというすさまじい圧力が市民の側から起こってくるのです。いつまでも酩酊状態でいたいんですね。(中略)
プレイボーイ 連邦準備制度がどうやってインフレを起こすのですか。これは、言ってみれば政府の銀行に過ぎないでしょう。
フリードマン 「すぎない」と言っても、結構いろんなことができるのですよ。連邦準備制度は政府の銀行ですから、お金を作り出す、つまり印刷する権限をもっているわけで、お金が多すぎる事こそインフレが起こる原因なのですから。
 連邦準備制度がなぜインフレの元凶であるのか。それを多少なりとも理解するには、まず、この制度にどんな権限が与えられているかを知っておく必要がありますね。一つは紙幣を印刷する権限です。あなたのポケットに入っているお金は、ほとんどこうして印刷された、連邦準備紙幣と言われるものです。また、市中銀行に預金をすることもできますが、これは結果的には紙幣を印刷するのと変わりません。ほかに、銀行に信用を供与することもできますし、加盟銀行の預金準備率を定めることができます。この預金準備率というのは、各銀行が自分のところで預かっているお金1ドルにつき、どれだけを現金で保有し、あるいは連邦準備銀行に預け入れておかなければならないかを定める数字です。準備率が高くなれば、それだけ銀行が貸し出せるお金の量が少なくなりますし、 逆に低くなればサイダセルお金の量は増えます。
 こういう権限をもつ連邦準備制度理事会は、通貨と預金を合わせて、いつもでれだけの貨幣が国内に流通しているかをにらみ、それを増やしたり減らしたりしているわけです。理事は大統領によって任命され、上院の承認を受けますが、ほとんどが名のある金融問題の専門家です。しかし、どんなに有能な人たちであるにしても、これは少人数のグループに任せるには、いかにほ大きすぎる権限であると言わなければなりません。過去60年の間、彼らは、経済の動向を予測し、それを平坦な成長の道にとどめておこうと努力してきました。私はアメリカの貨幣史を研究し、それについて本を書いたこともありますが、連邦準備制度が創立されてからあとと、南北戦争から1914年までを比べてみると、創立後のほうに深刻な経済危機が多いという結論を得ました。 二つの大戦中という特殊な時期を除いても、連邦準備制度は、経済の安定を他発という使命をうまく果たしているとは言えません。
プレイボーイ なぜそうなのでしょう。
フリードマン 基本的には、人間から構成される制度であって、規制だけで成り立っているのではないと言うことですね。人間は過ちを犯します。制度を運営する人々は、私が先にも言ったように、最善の決定を下しているのだと思います。彼らも正しいことをしたいのです。ところが、私たちの知識というものは不完全でして、ときにはすべての事実を入手していないこともありますし、ある事実だけを過大に見てしまうことだってあります。大不況が起こったとき、連邦準備制度は通貨残高を実に3分の1も激減させてしまいました。 もちろん、彼らには彼らなりの立派な理由があったのでしょうが、通貨残高の減少こそ、まさにやったはならないことだったのです。国中の銀行が軒並み休業に追い込まれているというのに、連邦準備制度は割引率を上げました。割引率というのは、要するに各銀行への貸し出し利率のことで、これが高くなったのですからたまりません。銀行の倒産が一挙に増加しました。確かに、連邦準備制度があってもなくても、1930年代には経済不況が避けられなかったかも知れません。しあkし、この制度がその巨大な権限によって、ただでだえ悪い状況をいっそう悪化させたりしなければ、あれほどの大不況にはならなかったのではないでしょうか。(中略)
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プレイボーイ おっしゃるとおり、最低賃金法が非生産的な法律だったとしても、原則として、貧しい人のために政府が介入する必要はあるのではないでしょうか。何しろ自由放任といえば、昔から「苦汁労働工場」と呼ばれる搾取工場や自動労働と同義語になっています。そういった酷い状態は、社会立法によってはじめて取り除かれたのではなかったのですか。
フリードマン 搾取工場や児童労働は、自由放任経済の結果ではなく、貧困のなせる業と言ったほうが正しいでしょう。今日でも社会福祉関係の法律だけは完備しながら、極度の貧困にあるために、依然、悲惨な労働条件にあえいであるような国が世界にいくつもあります。アメリカにいるわれわれが、もはやその種の貧困に苦しまなくていいのは、まさに自由企業制度のもとで裕福になれたからです。
 誰でも口を開けば、自由放任経済には心がないなどど言います。しかし、アメリカで民間の慈善活動が最も盛んだったのはいつだと思いますか。19世紀ですよ。非営利病院の建設運動が大きな盛り上がりを見せましたし、海外への伝道も盛んでした。図書館普及運動が展開されたのもこの頃なら、動物虐待防止協会が作られたのもこの頃です。庶民が、わずかな所得しかなかった人たちが、生活水準と地位を飛躍的に向上させたのもこの頃です。何百万という移民の群れが、それこそ自分の肉体以外には何も持たずに外国からやってきて、自らの労働で生活水準を大幅に高めることができた時代でした。
 私の母は14歳でこの国にやってきました。あなた方が言うところの「苦汁労働工場」でお針子として働いたわけですが、しかし搾取的であれ何であれ、そういう工場があって、そこで仕事を得られたからこそアメリカに渡って来ることができたのです。それに、母は生涯そこで働き続けたわけではありません。母にとって、搾取工場は一時しのぎの場所だったのですし、それは、ほかの人々も同じだったでしょう。それに酷いとは言っても、もと住んでいた国での生活よりは数等よかったことを忘れてはいけません。今の人は、自由放任経済なんてと小馬鹿にしますが、そうやって嘲っていられるのは、当の自由放任経済のおかげなのです。 19世紀に最低賃金法があったり、福祉国家の罠があちこちに仕掛けられたりしていたら、おそらく『プレイボーイ』の読者の半数はまったく存在しないか、ポーランドやハンガリーといったどこかの国で生まれていたことでしょう。『プレイボーイ』を読むなんて思いもよらない状態になっていただろうと思いますよ。 (「政府からの自由」から)
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<豊かな人々は一層豊豊かになり、貧しい人々も一層豊になる> 機械の使用や分業が進につれてその分だけ、労働時間の増加によってであれ、一定時間に要求される労働の増加や機械の速度の増加によってであれ、労働の量も増加する。 下層の中産階級……これらはすべてプロレタリアート階級に転落する。……機械がほとんどどこでも賃金を同じ低いレベルに下げるからである。 現代の労働者は、産業の進歩と伴に向上するどころか、逆に自分自身の階級の生存の条件よりも下へ下へと沈んでゆく。(マルクスとエンゲルス『共産党宣言』)
 私有財産制度への反対の多くは、そのような制度が過去にもたらした影響についての通俗的な信念からきているが、そのような信念は大部分が歴史的な証拠の支持を受けないものである。マルクスは充分に科学者らしかったから、 証明か反証がなされうるような、将来についての予言をした。不幸なことに、マルクス主義者はマルクスの予言が間違っていたと分かったずっと後になっても彼の理論を信じ続けている。
 マルクスの予言の一つは、豊かな人々は一層豊かになり、貧しい人々は一層貧しくなり、中産階級は次第に消滅し、労働者階級は窮乏する、というものだった。歴史上の資本主義社会の趨勢はほとんど正反対だった。貧しい人々は豊かになった。 中産階級はおびただしく拡大し、今やその中には、かつて労働者階級に分類されていた職業の人々もたくさん含まれている。絶対的な基準では、豊かな人々も一層豊かになったが、豊かな人々と貧しい人々の間のギャップは、極めて不十分な統計から判断できる限りでは、徐々に小さくなってきたように見える。
 現代の多くのリベラルは、マルクスの予言は自由放任資本主義については十分正確だったが、強力な労働組合とか最低賃金法とか累進的所得税とかいったリベラルな制度のおかげで実現しなかった、と主張する。
 起こったかもしれないことについての言明を反駁することは難しい。我々は次のことに注意することができる。全般的な生活水準の向上も、不平等の減少も、多かれ少なかれ資本主義的なさまざまな異なった社会の中で、長期にわたって、かなり着実に生じてきたように思われる、ということである。 累進的な所得税の累進的な部分はごくわずかな収入しか集めておらず、キャピタル・ゲインによる富の蓄積に対してほとんど何の影響も与えてこなかった。最低賃金法の主たる効果は、非熟練労働者がしばしばいかなる使用者にとっても最低賃金に値しないので、その職を失う、ということであるように見える。 (この効果は、非白人ティーンエイジャーの失業率が最低賃金の上昇の後、常に劇的に上昇するということに表れる)。私は前の章で、リベラル派の手段は貧しい人々に利益を与えるのではなくて彼らを害し、不平等を減少ではなくて増大させる傾向があると、と論じた。もしこのことが過去において真実だったならば、我々が経験してきた平等の増大は、そのような手段のゆえではなくて、それにもかかわらず起きたのである。
 同じ議論の別のヴァージョンは、大不況は自由放任資本主義の真の表現であって、我々がそれから救われたのは自由放任を捨ててケインズ政策をとったからだ、と言うものである。この点の論争は単に一冊の本ではなく膨大な文献に及ぶ。数十年ものあいだ、それは経済学者の間で中心的な主題だった。 反ケインズ主義の面を見たい人は、その一つの例をフリードマンとシュワーツの『大不況』の中に見出せる。この著者たちは自由放任ではなくて銀行業への政府の介入によって引き起こされたのであって、そのような介入がなかったら生じなかっただろう、と論じている。
 資本主義は不可避的に大衆の窮乏化に至ると信ずる人々はほとんどいない。そのテーゼに反する証拠は圧倒的すぎる。しかし相対的な不平等ははるかに判断しにくい。そして資本主義は放っておかれると収入の不平等を拡大すると考える人々は多い。なぜか?彼らの議論は本質的には、金持ちの資本家は自分の金銭を投資して一層多くの金銭を得るというものである。 その子供たちが金銭を相続してこのプロセスをくり返す。資本家はますます豊かになる。彼らはどうかしてその高い収入を労働者から取り上げているに違いない。労働者が財貨を「真に生産」し、金持ちがそれを消費する。それゆえ労働者は一層貧しくなっていくに違いない。この議論によれば労働者は絶対的な基準で貧しくなっていくようだが、その議論を行う人たちは、一般的な経済的進歩が万人を豊かにするから窮乏化は相対的なものにすぎない、と想定する傾向がある。 (「自由のためのメカニズム」から)
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<タカ、ハト、粗野な喧嘩> 第1章で私は、経済学と進化論的生物学との間に見られる密接な関連について一例を挙げた。バーでの口論について私が行った説明はその別例である。それは社会学者が「タカ、ハト均衡」と呼ぶものを人間について考えたものと同じである。
 好戦的であるかどうかという点についてだけしか相違点のない2種類の鳥がいると仮定しよう。その2匹の鳥が一つしかない餌を見つけたとする。「タカ」は必ず戦いを挑み、「ハト」は必ず身を引く、ほとんどすべての鳥がハトだったら、タカであることは有利だろう。なぜなら、タカはほとんどいつも争う必要もなく餌を手に入れられるからである。タカがハトよりも餌を集めるのが得意なら、タカはハトより雛を生み育てることに成功する確率が高く、したがってタカの数は増すだろう。
 タカの数が増えるに従って、タカであることの利益は低下する。敵が他のタカであることがますます多くなり、その結果餌の奪い合いが行われて、餌の価値よりも受ける損害の方が大きくなる。ハトに対するタカの比率がある一定の高さになると、両戦略の成功の確率がちょうど釣り合う均衡が達成される。
 タカを押しの強い性格の人に置き換えれば、そこに見られる論理はまったく同じになる。ほとんど誰も攻撃的戦術をとらなければ、それは有利な戦術となり、次第に多くの人がその戦術をとるようになる。そうすると命に関わる喧嘩が起こる危険が高くなって、非常に男性的な男である利益は低下する。押しの一手の敵から受ける損失が、後に引くことを知っている敵から得られる利得とちょうど釣り合う均衡が達成される。すなわち、タカとハト、男性的な男と弱虫男という相互に代替的戦術が持つ利益は等しくなる。 (「日常生活を経済学する」から)
<徳行の経済学> これまで本書では、人間の間の繋がりは、ほとんどの動物の間に見られる繋がりと同様に非自発的なものだと過程してきた。すなわち、英雄的な男らしい男はもともとあなたの周りにいるのであって、つき合おうとしてわざわざあなたが選んだのではあに。その限りでは、押しの強い性格を持つことは、そうした性格の人が多すぎない限り利点がある。
 だが、共同事業者、雇用主・従業員関係といった自発的な繋がりについてな、このようなことは当てはまらない。誰かを協力者に選ぼうとする場合には、押しの強い人はリストかの一番下に下げられる。だから職を得られ見込みが減ったり、結婚できるチャンスが少なくなる。
 自発的なつき合いが行われる社会では、それと異なる戦術をとる方が得をする。思いやりがあり、礼儀正しい人として知られた者、決して他人を利己的に利用しない人、誰も見てなくても決して盗みをしないような人──これらの人は雇用主、従業員、共同経営者、あるいは配偶者として望ましい人物である。他の人たちが正しくその人の性格を読みとっている限り、良い男だろうと自分を鍛えることは、その人にとって自分中心に考えても利益になる。正直な人を雇うことは、窃盗を働かれる費用だけでなく、窃盗を防ぐ費用も節約でき、その節約額は正直な人を雇うことは、正直な人と不正直な人が受ける報酬の差となって表れる。
 この場合にも、理由こそ異なれ、タカ・ハト均衡に似たようなことが考えられる。もしほとんどすべての人たちが正直者であったら、特定の人物がどれほど正直かということに多大な関心を払う必要はなく、したがって、正直者のふりをしながら悪事をうまくやれると思うときには人をだます、猫っかぶり戦術がうまく行くのだ。猫っかぶり屋の数が増えるに連れて、他の人たちが彼らを見分けるために注意を払うようになる。両方の戦術から得られる利益が等しくなったとき、正直者に対する猫っかぶり屋の均衡比率が達成される。
 なぜ人々が良い子になっているのか、あるいはそうでないのかを理解するためのこうしたやり方には、興味深い示唆が見られる。悪人、すなわち押しの強い人間であることは、人々の間の繋がりが非自発的である場合には得である。善人であることは、繋がりが自発的である場合には得である。人々の繋がりが自発的な社会のほうが、非自発的な社会よりも相対的に正直で高圧的でない善良な人が多いと考えられる。 (「日常生活を経済学する」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『自由への決断』               ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 村田稔雄訳 広文社      1980.12.25
『隷属への道』                 フリードリッヒ・A・ハイエク 西山千明訳 春秋社      1992.10.20
『選択の自由』 自立社会への挑戦              M&R.フリードマン 西山千明訳 日経ビジネス文庫 2002. 6. 1
『政府からの自由』                 ミルトン・フリードマン 西山千明監修 中央公論社    1984. 2.10
『自由のためのメカニズム』アナルコ・キャピタリズムへの道案内 D.フリードマン 森村進他訳 勁草書房     2003.11.25
『日常生活を経済学する』                   D.フリードマン 上原一男訳 日本経済新聞社  1999.11.17
( 2004年9月13日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(21)もっと平等な社会制度はどうだ?
<結果平等主義は支持されなくなった> ハートが燃える20才代には、反体制であることがカッコーイイと思われていたこともあった。「反体制」「リベラル」「社会主義」、多くの人がこうした言葉に幻想を抱き、誰もがこうした主義を支持していると思いこんでいた。このような20才代から、年齢を重ねて40才代になっても、50才代になってもリベラルであり続ける人もいる。 こうした人たちは、世の中が不平等であることに憤り続けている。「市場原理主義が間違っている」、「そうした経済体制を許している政治制度を変えなければならない」、「不平等を許さない社会制度を作りあげることこそ「正義」である」。 こうした考えがごく少数にではあるが根強く支持されている。「同一労働、同一賃金」とのスローガンは、このような人たちの内、特に「brain」を持たない人たちが唱えている。 このような結果平等主義は、「一生懸命働いても、適当にさぼっていても、同じ給料」となり「仕事は、休まず、遅れず、働かず」となる。日本では、戦後一時期マルクス経済学が幅を利かせていた時期があって、そうした時期、あるいはそのころ経済学を学んだ人の中には、このような結果平等主義から抜け出せない人もいるらしい。 高度成長を経て、経済成長が国民を豊かにした、この経験を実感した日本では、こうした結果平等主義は大衆の支持を得られなくなっている。日本の有権者は経済問題に対して賢くなっている。一部の思い上がり者が「国民はマスコミに操作されている」とか「国民の意識が変わらなければ日本は良くならない」などと言う。 民主制度では、どのような人間も選挙では平等な一票。その一票の結果生まれた制度は、国民の意思を表現している、として認めていかなければ制度は運用できない。 「同一労働、同一賃金」ではなく「成果主義」が次第に採用されていく現在、これは有権者が支持しているからだ、と考えていい。もしそうでないなら、政権は代わっている。
 「結果平等主義」「社会主義」が支持されなくなっても、それでも「平等」を求める声はなくならない。ときには「羨望と平等」との観点から捉えた方がいいような主張もあるが、それでも「平等信仰」はなくならない。 結果平等主義が支持されないと分かっていても、「スタートラインは平等であるべきだ」との意見は根強い。「親の資産の差によって、子供の将来が違ってくる」との考えは支持されやすい。こうした考えが、子供を平等に扱おうとして、子供平等主義が主張される。学校教育でなるべく差別をなくそうとして、悪平等主義が実施される。 運動会で、平等主義を徹底させて徒競走の順位を付けなかったり、テストの成績も生徒皆同じ点数にしたりする。公立学校もこうした平等主義の影響がある。かつて学校へ行けないほど貧しい家庭があった時代は、教育の最低ラインを引き上げるために、公立学校の存在理由があった。 最近では、公立小学校も自由競争の時代になってきた。公立小学校の校長は学校運営と同時に、生徒勧誘も考えなければならなくなった。生徒や父兄に自分の学校の良さをアピール出来ないと生徒が集まらない。一般の企業では既に長く経験していること、「お客様は神様です」が教育の分野でも浸透してきた。 教育の現場では、このように自由競争の良さが認められてきたが、それでも「親が金持ちか、貧乏人かで子供の将来が違ってくる」との主張には反論しにくい情勢になっている。
 こうした平等主義の具体的な政策となると、「親が金持ちでも、貧乏人でも子供は同じに扱われるべきだ」となり、具体的には、「子供は国家の財産」として親から隔離して教育するとか、あるいは相続税を高率にして、親の財産を子供に相続させない税制にするか?だ。 「子供は国家の財産」として親から隔離して教育する政策は、かつての社会主義国家で試みられてきたし、現代日本では一部の信仰宗教に受け継がれている。権力者がその権力を維持するには効果的な政策ではあるが、それだけに現代では支持されないだろう。 かつてナチスのヒトラーユーゲント、旧ソ連のコムソモール、ピオネール、中国の紅衛兵、民主カンプチア時代のサハコーなどがあった。 それだけ有権者はそうした教育制度の怖ろしさに気付くようになっている。 はっきりとその怖ろしさを指摘出来なくても、「子供は国家の財産として親から隔離して教育する、との制度は、何か裏がある。なんとなく怪しいぞ」との感覚を持つようになっている。
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<子供は皆同じスタートラインに立たせるべきか?> 「親が金持ちか、貧乏人か、で子供の将来は違ってくる。だから、子供の将来性についての差別をなくすために、親から子供への遺産相続を制限すべきだ」との主張が出てくる。 子供が成長する過程での教育が将来成人したときの職業や収入に影響がある、との考えはおおむね認められている。教育に金をかけるのは、将来に対する投資で、それは大人になってからその投資効果が出てくる。つまり教育に金をかけると大人になってから、良い職業に就ける可能性が出てくる。「だから子供の教育には金をかけよう」 と多くの人が思い始めている。
 子供の将来を考えて、相続税を高率にして、皆が経済的に同じスタートラインに立てるようにすべきなのだろうか?こうした問題を考えている内に、ちょっと違った方向から考えてみようと思い立った。それは、「子供の立場」からではなくて、「親の立場」から考えてみよう、との方向だ。 相続税を高率にして、子供は皆経済的には同じスタートラインに立てるとしよう。この場合親の立場はどうなるだろうか? 「自分が死んだ後のことなど、自分の人生には関係ないから、どうでもいい」「だから相続税は高率でも低率でも、どちらでもいい」。はたして人はこのように考えるのだろうか?違うと思う。
 「一生懸命働いているお父さん、なぜそんなに無理してまで働くのですか?」「それほど出世したいのですか?」「人生もっとのんびり生きたらどうですか?」
 一生懸命働いているお父さんは、何と答えますか?
 「出世したいなんて考えていませんよ。ただ、子供には楽をさせてあげたいのです」、「周りの子供がディズニーランドへ行ったと言えば、うちの子供も行かせてあげたいし、おしゃれもさせてあげたいでしょう」「できれば子供の将来のために、不動産も残してあげたいと思っています」。
 このような答えが返って来るのではないだろうか。 それはとても自然なことで、「その考えは良くない」とは誰も言えない。親が子供のことを思って働き、金を貯め、それを遺産として残そうとする、この行為は自然で制限するのは無理がある。
 「大人になってからの所得格差はしょうがないとしても、子供のスタートラインは同じにすべきだ」との主張を実施すると、相続税を高率にして、このような普通のお父さんの気持ちを踏みにじる政策を実行することになる。 もしそうなったら、お父さんたちどうする?「子供のためにと思って自分にむち打って働いてきたけれど、相続税でみんな取られてしまうなら、無理して働いてもしょうがない」となる。日本の高度成長を支えてきたお父さんたちがいなくなる。 働くインセンティブが一つなくなる。スタートライン平等主義を主張する人たちは、子供のためにと自分の体にむち打って働いてきた事がなかったのだろうか?子供を思う気持ちはこうしたお父さんとは違ったものだったのだろうか?それとも本当は自分の体にむち打って働かなくても生きていけたのではないだろうか? つまり、本当は嫉妬心から言うのではなくて、疲れた体に「子供のためだ」と言い聞かせながら働いたことがないから、そのように言うのではないだろうか?「子供のために」との自分を叱咤する言葉を奪うのはあまりにも残酷だと思う。働く意欲を失わせることだと思う。
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<政治学も経済学も常識を大切に> 今週はごく常識的な話から始めることにした。経済学も政治学も政治哲学も常識を大切にすべきだと思う。専門家も素人も同じ一票、という民主制度では常識を無視しては政策が実行されない。「国民は間違っている」との発想から生まれる政策は支持されない。 「素人さん、お断り」と専門家だけに訴える学説は政策として実行される事はない。ノージックは自分の考えが政策として実行される可能性がないことを前提として「アナーキー・国家・ユートピア」を出版したのだろう。しかし、「素人さん」ではない人たちが本気になってノージックを解説し始めた。 ノージックとしても「あれは冗談でした」とは言えなくなったのだろう。ノージックはそうだとしても、「もっと平等な社会制度」を主張する人はどうなのだろう?こちらの主張に関しても、常識を無視しては有権者に支持される事はない。そこで、まず常識的な判断から始めることにした。つまり「スタートライン平等主義は親心に逆らっている」と言うことになる。 民主制度では、司令塔が「贅沢は敵だ」と言っても、庶民は「贅沢は素敵だ」と言い返す社会だ。一部の人が「日本経済は市場原理主義に基づく弱肉強食の醜い社会だ」と批判しても、多くの人は「それでも資源の有効利用にはこの制度が今のところ最適だ。これ以上の制度が考えられない現在では、とりあえずこの民主制度と市場経済の制度を採用するのがいい」と言って、この制度を維持することになる。 一部の識者が「功利主義」と非難しても、有権者の投票の結果は民主制度と市場経済の組合せを選択する。民主制度では、このように常識を大切に考えなければ、単なる空論になってしまう。ある主張が正しいのか、間違っているのか?迷った時に自分の常識を十分に活用すると結構正解が得られるのだと思う。そして、その常識を生かす社会制度が民主制度であり、市場経済なのだと思う。 つまり、一般普通人の常識が生かされる社会で、普通人にとって住み易い社会なのだ、と言えそうだ。
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<実際の税率はどうなっているか?> 日本では、相続税も所得税も累進性が弱くなっている。「金持ちからは所得税も相続税もいっぱい取ろう」との姿勢から、「なるべく税率はフラットにしよう」と変わっている。それは次の表を見るとハッキリする。 つまり、日本の有権者はこうした税制改正に抵抗しないということは、「所得格差が大きすぎる。金持ちからはいっぱい税金を取るべきだ」とは考えていない、ということだ。「日本では所得格差が広がっている」と批判する人は少数者だと言える。 民主制度を支持すると言うことは、有権者の意見をこのように理解することになる。
平成15年度から相続税の税率が改正された。その改正前の税率表
各法廷相続人の取得金額 税率 控除額
〜800万円 10% 0万円
〜1,600万円 15% 40万円
〜3,000万円 20% 120万円
〜5,000万円 25% 270万円
〜1億万円 30% 520万円
〜2億万円 40% 1,520万円
〜20億万円 60% 7,520万円
20億万円超 70% 27,520万円
平成15年度から相続税の税率が改正された。その改正後の税率表
各法廷相続人の取得金額 税率 控除額
〜1,000万円 10% 0万円
〜3,000万円 15% 50万円
〜5,000万円 20% 200万円
〜1億万円 30% 700万円
〜3億万円 40% 1,700万円
3億万円超 50% 4,700万円
所得税の税率構造の推移
所得税の税率構造の推移
  49年 59年 62年 63年 元 年 7 年 11年
税  率 %  万円 %  万円 %  万円
10 10.5 10.5 10 10(〜 300) 10(〜 330) 10(〜 330)
12 12 12 20 20(〜 600) 20(〜 900) 20(〜 900)
14 14 16 30 30(〜1,000) 30(〜1,800) 30(〜1,800)
16 17 20 40 40(〜2,000) 40(〜3,000) 37(1,800〜)
18 21 25 50 50(2,000〜) 50(3,000〜)  
21 25 30 60      
24 30 35        
27 35 40        
30 40 45        
34 45 50        
38 50 55        
42 55 60        
46 60          
50 65          
55 70          
60            
65            
70            
75            
住民税の最高税率 18 18 18 16 15 15 13
住民税と合わせた
最高税率
93
(注1)
88
(注1)
78 76 65 65 50
税率の刻み数
(住民税の税率の刻み数)
19
(13)
15
(14)
12
(14)
6
(7)
5
(3)
5
(3)
4
(3)
(注)49年及び59年については賦課制限がある。 財務省のホームページから
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<利己的な遺伝子はなんと言うかな?> スタートライン平等主義は常識で判断するとおかしな論理だ、と批判してきた。もう少し違った方向から見てみよう。それは「利己的な遺伝子はなんと言うかな?」との発想だ。 親が競争して子供に多くの遺産を残そうとする行為、これを生物学的観点から見るとどうなるだろうか?利己的な遺伝子は何と言うだろうか? 自然界のルールで、親の生活力の強さが子供に影響を与えることはどういう意味があるのだろうか?
 このように考えていくと、「スタートライン平等主義は自然界のルールに反している」となる。遺伝子は利己的であり、その個体を犠牲にしてでも種を繁栄させようとする。 そのためには、強い親こそが、子孫を残していって欲しいことになる。全ての親が平等に子孫を残すべきだとは考えていない。「弱い親は子孫を残さなくてもいい」「強い親だけが子孫を残せばいいいい」「そのために、弱い親から生まれた子供が子孫を残す可能性が少なくなってもいい」となる。
 人間社会にこれをそのまま適応させるのは残酷だが、しかし、他の親と競争してでも自分の子供に楽をさせたい、との気持ちは自然な気持ちとして尊重すべきだと思う。 こうした競争心が人間社会を進化させてきた。もちろん「進化」とは「進歩」だけではなく、「退化」の面もあるとしてもだ。ダーウィン主義の基本的考え「自然淘汰」を認めると、この考えは自然に受け入れられる。 従ってアメリカである程度の影響力を持っている「反進化論主義者」はこれを認めたくないかもしれない。つまり、スタートライン平等主義は反進化論、創造論を支持する人には受け入れられることは考えられる。 そうなると、これは経済学、政治学、政治哲学、生物学から神学論争になってしまうので、これ以上は突っ込まないことにしよう。
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<人間社会は不平等なのが自然な状態らしい> 不平等を認めるということは、宙に浮いて不安定な状態を自然だと認めることに似ている。「どうもおさまりの悪い考え方だ」と不満を言う人も出るだろうが、経済学ではあまり不自然ではない。 「完全雇用とは想像上の状態で、実際はいつも不完全雇用の状態だ」は認められる。そこで「自然失業率」という言葉も使われるようになる。「パレート最適」もそうだ。実際にはパレート最適の状態とはあまりなくて、それに近づこうとしている状態は多い。 「完全自由競争市場も実際にはない」と考えた方がいい。それでも経済学のモデルとして「完全自由競争市場」を想定して話を進める。そこで「反市場主義者」は「ありもしない完全競争市場を想定している経済学は信じられない」と言うことになる。 「すべての人が不満を持ちながら、それでもこの程度ならしょうがないか、と諦める妥協点を見つけるのが民主制度だ」との考えも、人によっては「落ち着かない考えで、支持できない」と言うだろう。 こうした点で「原理主義」と「功利主義」の違いがハッキリしてくる。
 結果平等主義もスタートライン平等主義も、どちらの平等主義も現実の社会を見てみると、あまり採用したくない考えだ。 それでも平等主義に対する幻想はつきない。いろいろなかたちで平等主義が主張される。そうしたなかで、政治哲学の分野で注目されているのがジョン・ロールズの「正義論」だ。 マルクス主義が忘れ去られようとしている現在、こちらはそれに代わる平等主義として、注目されているようだ。これを無視する常識人も多いだろうが、これまで突っ込んで考えてきた行きがかりじょう、「正義論」にも取り組んで見ようと思う。と言うことで、来週もご期待ください。
( 2004年9月20日 TANAKA1942b )
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