古沢屋仁右衛門・牧野屋与四兵衛 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu21.html
折橋九郎兵衛 川合又八 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu19.html
伊東彦四郎 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu18.html
江尻茂右衛門 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu17.html
矢崎嘉十郎 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu16.html
八町村善左衛門・下村長左衛門・小竹村久右衛門 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu13.html
椎名道三 http://www.maff.go.jp/nouson/sekkei/midori-ijin/19tym/19tym.htm
椎名道三 http://www.mrr.jp/~jf9hjs/dousan.htm
吉野織部之助・小川九郎兵衛 http://www.asahi-net.or.jp/~ap6y-umd/zouki.html
砂村新左衛門 http://www2.bbweb-arena.com/iaponia/
小川九郎兵衛 http://homepage3.nifty.com/kdtomi/hurusato3/hurusato3.html
横井源左衛門・金屋源兵衛・加賀屋甚兵衛 http://www.m-system.co.jp/CofeBreak/Tumori.htm
砂村新左衛門政次 http://sorairo-net.com/rekishi/yokosuka/kurihama/002.html
吉田勘兵衛 http://sorairo-net.com/rekishi/zinbutu/005/index.html
太地角右衛門頼治 http://www.cypress.ne.jp/taiji/uwano.html
鷲尾善吉 http://www.city.nagoya.jp/ku/minami/machi/meguri/nita/nagoya00000897.html
笹岡茂兵衛恒好 http://www.geocities.jp/bearhouset/Shitada_human/Sasaoka/index.htm
鈴木利左衛門春昌 http://www.ksnc.jp/kodairashoukai/suzukiinari/suzukiinari_front.htm
上記百姓がどのように新田開発に携わったか、それはそれぞれのサイトを読んで頂きましょう。
<百姓・町人が大開発を行った>
江戸時代と中世が決定的に違う社会だと思わせる理由のひとつは、世の中に貨幣が行き渡って、あらゆる生産物が基本的に商品として生産されるようになったという点である。そして江戸時代の新しい社会の諸場面を担当したのが百姓・町人である。
江戸時代、第1に見るべきは時代の初め全国に展開した田地の大開発である。しかもその開発は、百姓が隣地に鍬を入れたというようなものではない。開発に第3者の資金が投入されたのである。
大開発の説明として、戦国大名が勧農策を講じたなどとした書き物に出会う。しかし大名が開発を勧めただけでは田地の開発は一歩も進まない。「経済外的」な強制力で百姓が耕地開発に従事するはずなど元々ないのである。
さて、開発のためにはまず測量の技術者がいる。彼らが土地の高低を計り設計図を作ってくれなければ用水路も排水路もできようがない。次に、農具、鍬や鎌などを作る鍛冶屋がいる。そうした技術者や、よそから来た百姓たちを居住させるための建物がいる。その資金、賃金に充てるための資金、開発資材を整えるための資金、そうした手だて講じたとき、初めて耕地の開発が可能になる。そうした資金が整うことが、戦国末期から江戸時代初期の大土地開発の前提だということになる。
それゆえ、背景に金銀が世の中に流通し、その金銀が開発資金に用いられることが必要であった。金銀山を開発所有した者が戦国大名となった。戦国大名が新しい世の中を作った、という意味がそこにある。
江戸時代初頭の大名は、戦国大名の延長上にある。寛永14年(1637)2月、宮嶋作右衛門という越後高田藩の御用商人(廻船商人)が高田藩に対して1通の願書を提出した。
一、頸城(くびき)郡下美守(しもひだもり)郷(現・頸城村)のうち、おおぶけ(大瀁)野谷地を新田に仕立て申すべき旨、毎度申し上げ候、いよい以て、拙者共に仰せつけさせられ候わば、相違なく新田に開発つかまる候
一、新田用水の儀は、「保倉川」をとりいれ申し候、すなわち、用水普請人足など、日雇いの金銀入用は何ほどにても拙者共、自分につかまつるべく候こと
「ふけ」というのは越後では湿地のことを言う。保倉川と海岸砂丘との間は当時浅く広い池になっていて、ところどころにある高みに数件の家があった。そうした家は集落の淵にある湿地を水田に耕してきたのであったが、いま、その大瀁野谷地のたまり水を抜いて池全体を干拓し、水田に変えようというのである。これまでも幾度となく開発の申請が藩に提出されたが、資金を藩に頼ったため、話は一歩も進まなかった。この開発の申請に際して宮嶋は、干拓をすれば田地にかける水が必要で、その用水として保倉川の水を引き上げる必要があるが、その用水路建設の普請人足などの費用は全部開発申請者が負担すること、それゆえ新田のために引く用水路については村々との間で異議が出ないように藩の方で調整してもらいたいこと、新田ができあがったら開発された田地の十分の一を慣例によって開発者に与えてもらいたいこと、もし新田が寛政しないようなことがあったら普請のために潰れた田地(用水路用に使用した田畑)の年貢は必ず開発申請者が納めること、などの条件をつけて開発を願い出たのである。その願い人の内訳は次の通りであった。
高田上小町 宮嶋作右衛門
上野(こうずけ)国一ノ宮 松本作兵衛
同 茂田七右衛門
同 茂田喜右衛門
同 神戸三郎左衛門
(「宮嶋家文書」)
宮嶋を除いてみんな上州一ノ宮(現・富岡市)の牢人者であった(頸城土地改良区『大瀁郷新田開発史』昭和50年)。(中略)
大開発時代と言われる江戸時代の初めの50年間は、貨幣資金が初めて「資本」となって田地開発を進めた時代と言ってよい。自給自足の農民が貧困から逃れるために開墾に精を出したとか、権力からの「経済外的」な強制で農民が開発に従事させられたというのは後世につけた理屈である。
(『村からみた日本史』から)
* * *
<百姓間の大きな所得格差・資産格差・権力格差> 「江戸時代」を取り扱うとき、「封建時代、百姓には自由が少なかった」とか「社会の動きは基本的に武士階級によって動かされた」「百姓は白米を食べる機会も少なく、アワやヒエが主食だった」などという見方が一般的になりがちだ。それは、「百姓は……」との表現で、百姓間の「格差」を無視して話しを進めるところに問題がある。江戸時代、「食うや食わずの水飲み百姓もいたし、新田開発を主導する豪農もいた」。このことを忘れはいけない、と思い、江戸時代を扱う初めに「百姓の間の所得格差・資産格差・権力格差はとれも大きかった」ということをハッキリさせたかったのと、「社会の変革に百姓が部外者であったかのような見方をしないように」と考え、ここ「新田開発」という項目で扱うことにした。
(^o^) (^o^) (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『江戸時代』 大石慎三郎 中公文庫 1977. 8.25
『田沼意次の時代』 大石慎三郎 岩波書店 2001. 6.15
『将軍と側用人の政治』 大石慎三郎 講談社 1995. 6.20
『江戸時代の先覚者たち』 山本七平 PHP研究所 1990.10.19
『歴史の見方考え方』 板倉聖宣 仮説社 1986. 4. 7
『日本史再発見』 板倉聖宣 朝日新聞社 1993. 6.25
『日本歴史入門』 板倉聖宣 仮説社 1981. 6.15
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版 1972.12.20
『近世日本の市場経済』大坂米市場分析』 宮本又郎 有斐閣 1988. 6.30
『日本経済史』経済社会の成立 速水融、宮本又郎編 岩波書店 1988.11.30
『株仲間の研究』 宮本又次 有斐閣 1938. 5
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版 1972.12.20
『堂島米会所文献集』 島本得一 所書店 1970. 9.25
『商品先物取引の世界』 河村幹夫他 東洋経済新報社 1983.10.27
『江戸庶民の信仰と行楽』 池上真由美 同成社 2002. 4. 1
『百姓一揆とその作法』 保坂智 吉川弘文館 2002. 3. 1
『太閤検地と石高制』NHKブックス93 安良城盛昭 日本放送出版協会 1969. 7.25
『近世稲作技術史』 嵐嘉一 農山漁村文化協会 1975.11.20
『弾左衛門ー大江戸もう一つの社会』 中尾健次 解放出版社 1994.10.15
『長崎貿易』 太田勝也 同成社 2000.12.10
『享保改革の商業政策』 大石慎三郎 吉川弘文館 1998. 2.20
『赤米のねがい』 古代からのメッセージ 安本義正 近代文芸社 1994. 3.10
『赤米・紫黒米・香り米』 猪谷富雄 農産漁村文化協会 2000. 3.31
『徳川吉宗とその時代』 大石慎三郎 中公文庫 1989. 3.10
『稲』 ものと人間の文化史86 菅洋 法政大学出版局 1998. 5. 1
『稲の日本史』 佐藤洋一郎 角川選書 2002. 6.30
『村から見た日本史』 田中圭一 ちくま新書 2002. 1.20
『明治以前日本土木史』 土木学会 土木学会 1936. 6
( 2008年6月16日 TANAKA1942b )
(2)東福門院和子は衣装狂いだったのか?
寛永文化の賢いパトロンでありトレンドメーカー
<”衣装狂い”する東福門院和子=大石慎三郎『江戸時代』から>
江戸時代は幕府と朝廷との関係をめぐって2人の悲劇的な女性を生み出している。1人は幕初江戸幕府から朝廷に送り込まれた東福門院和子(とうふくもんいん まさこ)であり、いま1人は幕末段階朝廷側から江戸幕府に送り込まれた和宮親子である。ともに結婚という人生の大事を朝幕間を結ぶ鎹(かすがい)として政治的に利用されているところにその悲劇性がある。
天下を手中におさめた徳川家康がその最後の仕上げとして朝廷に女を送り込んでその外戚になろうと考えたのは、日本の政治風土のなかではむしろ当然のことであった。2代将軍秀忠の末娘和子を後陽成天皇の第3皇子三宮(後水尾天皇)のもとに送り込もうというのがその案であった。
天下の覇者徳川家康の胸中にそのような考えが萌しはじめたのはいつごろのことかわからないが、慶長末年ごろにはすでに朝廷側とその交渉がはじまり、後陽成天皇の内諾をとりつけていたようである。そもそも後陽成天皇の第1皇子は秀吉の在世中皇太子として予定されていたが、秀吉が世を去った4ヶ月後の慶長3年(1598)12月に急に仁和寺に入室し、第3皇子三宮がそのあとにすえられているが、そこにもすでに家康の意志が働いていたとして良いであろう。
さて和子の入内(じゅだい)は途中大坂の陣、また徳川家康の死去などがあってのびのびになり、元和6年(1620)6月になってようやく実現している。後水尾25歳、和子14歳のときのことであった。この和子入内の状況は「東福門院入内図屏風」にその詳細が描かれている。日本の女性で彼女ほど豪華華麗な婚儀をした者はいないだろうと思わせるほどのものであるが、それは必ずしも結婚した当事者の幸福を意味するものではなかった。そもそも和子の入内そのものが外戚の地位を得るためという狙いからであったうえ、それをとおして幕府の朝廷支配を直接的なものにするという政治目的をもっていたので、それをめぐっての両者のトラブルは絶えなかった。(中略)
(「江戸時代」から)
和子の入内
さて和子は元和6年5月8日江戸城を出発、同月28日に京都に着き二条城に入り、6月18日に女御の宣下があって同日入内するのだが、その儀は盛大を極め空前絶後と人々を驚かせたことは前述のとおりである。しかしこの入内をめぐって、感情的には朝幕間はかえって悪化している。(中略)
(「江戸時代」から)
後水尾天皇の退位と徳川氏の虚器
後水尾天皇は歴代のなかでももっとも気性の激しい天皇の一人、しかも年も若かったのでこのような強圧的な幕府の圧迫を心よく思っていたわけではないので、和子入内にさきだって不身持を幕府から責め立てられたとき、すでに退位のことを思っていたと言われるが、このようなことが更に重なってやがて和子との婚儀の9年後の寛永6年11月突然の退位となっている。(中略)
(「江戸時代」から)
御用済みになった天皇
いわば徳川氏にとって後水尾天皇は明正天皇即位の寛永6年11月段階で御用済みになったわけであるが、そのことは同じ和子についても同様であった。他人の幸、不幸の度合いを付度するのは実際は大変むつかしいことである。sぢたがって歴史家としてはできうればそのようなことは避けるべきであろうが、後水尾天皇が徳川氏のちからによって事ごとくその意志を踏みにじられて、決して幸福とは言えなかったと同様、政略に利用された和子の場合もまた後水尾同様不幸であったろう。
後水尾天皇は早くから徳川氏に憤怒の念を持っていたことは疑いなかろうから、いわば徳川氏の朝廷圧伏の道具として送り込まれた和子に愛情をもったとは考えられない。ふしろ憎悪の念さえ持っていたろう。皇子(5歳で崩御)、皇女をもうけたのも愛情の結果というより、新しい女性への一時的な興味といったほうがより真実に近かったであろう。
しかし後水尾天皇が在位のあいだは、それでもまだ幕府への気がねが和子におよぶことがあったろうが、退位をすればもはや遠慮はいらぬところで、後水尾の関心は数多くの他の女性に移っていったろう。また和子の生家の徳川氏とて、御用済みとなった和子に朝幕間の亀裂を恐れず肩入れすることはなかったであろう。東福門院和子は後水尾天皇退位の寛永6年11月、23歳の若さで事実上の後家・隠居の立場にまつりあげられたわけである。
(「江戸時代」から)
<「雁金屋」への莫大な注文>
東福門院和子は後水尾天皇退位の1629(寛永6)年11月、23歳の若さで事実上の後家・隠居の立場にまつりあげられ、夫からも生家からも見捨てられたこの不幸な女性は、それから死ぬまでの50年間にもわたる長い年月をなにを生き甲斐に暮らしていたのであろうか。
それは一言でいえば”衣装狂い”狂気のような着物の新調にあけくれた一生であった。東福門院和子は1678(延宝6)年6月20日に死亡するが(72歳)、この死亡する年の半年間にでも山根有三氏の計算によれば御用呉服師「雁金屋(かりがねや)」に、
御地綸子御染縫 31反
御地りうもんノ綸子御染縫 49反
御地ちりめん御染縫 7反
振袖御地りうもんノ綸子御染縫 2反
御遣物りうもんノ綸子御染縫 10反
御帷子御染縫 96反
をはじめとして都合340点もの衣装を注文している。そのどれも、「御地上々りうもんノりんす」「御地上々りんす」「御地上々類なし」「御地上々ちりめん」といった極上上の地のものだけである。
そしてその総代価は銀になおして150貫目におよんだとのことである(山根有三「尾形光琳について」)。いまこれを銀50匁を金1両、金1両を今日の通貨5万円として試算してみると1億5千万円という額になる。これが72歳の老婆が半年間に雁金屋という御用呉服店につくらせた衣装だからただただ驚くほかはない。
それはまさに”狂気”としか言いようがない。雁金屋のこの帳簿をみつめていると、寒気のなかに荒廃しつくした彼女の心象風景が瞼に浮かび、私はそこに鬼気といったものさえ感ずるのである。
ちなみに彼女が入内して3年目の元和九年(1623)1年間に雁金屋につくらせた衣装は小袖45点、染物14反で金額にして都合銀7貫868匁(前記のような計算をすると787万円)であるので、彼女の”衣装狂い”は後水尾天皇退位以降、年とともにはげしくなったとすべきであろう。
さてこれだけなら夫と生家に見放された不幸な女性の金にあかせた”衣装狂い”であって、まともな歴史など取り上げるべきことではないが、それが世界でもっとも美しいと賞賛される日本女性の和服文化と、元禄文化を、さらに日本文化を代表する尾形光琳・乾山を生み出した雁金屋と関係しているから事は重大である。もし彼女の”衣装狂い”がなかったら、あるいは今日の和服も、また尾形光琳・乾山もなかったかも知れないのである。
(「江戸時代」から)
略年表
西暦 |
年月日 |
出来事 |
1600 |
慶長 5. 9.15 |
関ヶ原合戦 |
1603 |
慶長 8. 3.24 |
徳川家康が征夷大将軍となり、幕府を開く |
1605 |
慶長10. 4.16 |
家康、将軍職を秀忠に譲る |
1607 |
慶長12.10. 4 |
和子、2代将軍徳川秀忠の8女として生まれる |
1613 |
慶長18. 3. 8 |
入内の宣旨が正式に発せられる |
1614 |
慶長19.11.15 |
大阪冬の陣 20万の徳川軍が大坂城攻撃に出陣 |
1615 |
元和元. 5. 8 |
大坂夏の陣 豊臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡する |
1616 |
元和 2. 4.17 |
徳川家康が駿府城で没 75歳 |
1620 |
元和 6. 6.18 |
後水尾天皇の妃として入内 和子12歳 後水尾天皇23歳 |
1623 |
元和 9.11.19 |
17歳で興子内親王(明正天皇)を出産 |
1623 |
元和 9. 7.27 |
徳川家光が将軍となる |
1629 |
寛永 6. 7.25 |
紫衣事件 大徳寺の沢庵宗彭(そうほう)らは流刑に、沢庵は出羽の上ノ山(山形県上山市)へ流される。 |
1629 |
寛永 6.11. 8 |
後水尾天皇退位し、興子内親王が明正天皇として即位。和子は女院御所にうつり、東福門院とあらためた |
1635 |
寛永12. 5.28 |
日本人の海外渡航と帰国を禁止、外国船の入港地を長崎1港に限定 |
1637 |
寛永14.10.25 |
島原の乱起こる |
1643 |
寛永20.10.21 |
明正天皇、後光明天皇に譲位 |
1657 |
明暦 3. 7.22 |
江戸明暦の大火 振袖火事とも言う 死者10万人 |
1658 |
万治元 |
尾形光琳生まれる |
1678 |
延宝 6. 6.15 |
東福門院和子崩御 享年72歳 |
<"伊達くらべ"の盛行>
近世初頭、鎖国前も含めてわが国の輸入品の圧倒的大部分は白糸(しらいと)と呼ばれる絹糸および絹織物であった。豪奢を好むわが国の新興支配階級に、とくにその妻子たちにこのうえもなく絹が愛好されたからである。それは急速に国民の各層にまで伝播したらしく早くも寛永19年(1642)幕法に「村役人は絹・紬・布・木綿を来てもよいが、一般百姓は布・木綿以外は着てはいけない」とあるのでわかるように、この段階には絹・紬の使用が一般農民にまでおよび始めていたことがわかる。この傾向は農民的余剰が一般的に成立して、庶民大衆の生活水準が急向上を始める4代将軍家綱の後半から5代将軍綱吉の初政時代にかけてひときわ目立つようになる。金持ちで派手好きは妻女は金にあかせ意匠をこらした衣服をつくって、それを仲間どうしで競いあった。この衣装競争のゆきつくところが、この時代を代表する社会風俗である"伊達くらべ"、つまり”衣装くらべ”であった。
天和元年(1681)5月、綱吉が5代将軍になってまだ1年経っていないときの話である。彼が祖先の廟がある上の寛永寺に参詣したとき、上のの町を通りかかると、ひときわ見事に飾り立てて自分を迎えている女性が目についた。彼女は金の簾をたれ、金の屏風を引き回した前に、これも美しく着飾らせた8人の腰元を従えて立っていた。
調べさせてみると浅草黒門町の町人石川六兵衛の妻だということであった。綱吉は身の程をわきまえない者、というので早速この六兵衛一家を闕所処分(財産没収のうえ追放)の刑にしているが、彼女の言い分は「自分は将軍の行列に”伊達くらべ”をしかけたまでだ」というのであるから面白い。衣装くらべも行き着くところまで行ったものである。これより先のことであるが、この石川六兵衛の妻は、江戸には自分の相手になる女性がいないというので、はるばる京都にまで”伊達くらべ”に出かけている。このときかの補の相手をしたのは、京都の小紅屋権兵衛の女房とも、那波屋十右衛門の妻女だとも言われている。
ともかく石川六兵衛一家は前記のように闕所になったが、それは天下の将軍に”伊達くらべ”をしかけたからで、”伊達くらべ”そのものが悪いというわけではなかった。元禄の繁栄のなかでそれはますます盛んになったようである。
たとえば尾形光琳の最大のパトロンであった銀座商人中村内蔵助の妻も、伊達女として有名であった。彼女が京都の東山で行われた衣装くらべに、尾形光琳の助言を入れて、自らは白無垢の着物に羽二重の裲襠(うちかけ)を着、その侍女たちには花のごとく美しく着飾らせたのを従えて、並み居る伊達女たちを圧倒したという話は有名である。また光琳が、江戸深川の豪商冬木屋の妻女のためにつくった”冬木小袖”は、当時の伊達の到達した美として有名である。
東福門院和子は皇太后でもあるので、さすが自ら”伊達くらべ”に出ることはなかったが、このような”衣装狂い”のオピニオンリーダーでもあり、またそれ故に衣装製作技術の最大の育成者でもあった。そして彼女の愛願のもとで技術をみがいたのが尾形光琳の生家の雁金屋であった。
(「江戸時代」から)
* * *
<江戸時代主要な輸入品目の絹が、維新後主要な輸出品目に>
戦国末期から江戸時代初頭にかけては、わが国は世界でも有数な貴金属の産出国であった。しかしその結果得られたわが国保有金銀は、生糸、絹織物輸入の代価品として、どんどん国外に流出していったのだった。もしこの金銀産出がそのまま続けば問題はなかったのだが、ほぼ寛永の末年(1643)ころ底をつくので、後は保有金銀の消耗によって生糸は購入されていたことになる。貞享元年輸入額を制限したうえで糸割符制を復活したが、この段階になると保有金銀の底がみえはじめ、もはや輸入額を制限する以外に方法がなくなっていたのであった。
このようにしてさしものわが国の保有金銀も衣装代として国外に流出してしまうのだが、その額を新井白石はその著『折りたく柴の記』のなかで、正確には知り難いが、慶安元年(1648)から宝永五年(1708)までの60年間に金239万7600両余、銀37万4229貫目余であると計算し、さらにその前の慶長6年(1601)から正保4年(1647)までの46年間にはその2倍あったと推定している。これでゆくと慶長6年から宝永5年までの108年間の流出したわが国の貴金属の量は金719万2800両と銀112万2687貫となり、それはわが国の慶長以降の総産出金銀の、金はその4分の1、銀はその4分の3にあたり、このままほうっておけばあと100年もすると金は半分にもなってしまい、銀にいたってはそこまでいかないうちに零になってしまうと心配している。
東福門院和子の衣装狂いに始まった、わが国の絹製品消費の増大化は、”伊達くらべ”でさらに加速され、「鎖国」日本の経常収支赤字に大きな影響を与えることになった。これが江戸時代初期のこと。
さて、明治維新になり「鎖国」をやめ、海外との貿易を活発化させると、絹製品が主要な輸出品目になっていた。天下太平の江戸時代に、大きな産業の変革が起きていた。絹の輸出に関しては「シルクサイト」▲ http://www.silk.gr.jp/kiso/transport.html を参照のこと。
<「東福門院和子の衣装狂い」が日本の絹産業を育てた>
マックス・ウェーバーによれば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」ということで、資本主義の「精神」とプロテスタンティズムの倫理の間に因果関係がある、ということになる。こうした考えと対極にあるのが、ヴェルナー・ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」、つまり「恋愛と贅沢とが資本主義を育てる」という考え方だ。
日本の戦後の経済成長は官僚主導の統制経済でもないし、世界で最も成功した社会主義経済でもない。「日本株式会社」ではなく、「官に逆らった経営者」が出てきて、当時のヨーロッパ諸国とは違った「自由な市場経済」だった、と言うのがTANAKAの考え方だ。そして、こうした戦後の経済成長の原点である「江戸の市場経済」は、「プロテスタンティズム」でも「儒教的倫理観」でもなく「趣味と贅沢が市場経済を発展させた」であり、それは「恋愛と贅沢と資本主義」と同じ考えであり、「市場経済の基礎は江戸時代にできた」がTANAKAの考え方だ。「禁欲と資本主義」ではなくて「人々が自分の欲望を満足させようとすることによって、資本主義経済は成り立っている」とのアダム・スミスの考えや、ヴェルナー・ゾンバルトの考え方の方が経済を理解するには役立つように思える。
江戸時代の対する見方は「封建時代」「近世」「幕藩体制」「士農工商の身分制度」であり、百姓や町人は歴史の主役ではなかったように思われている。けれども、新田開発では資金のある百姓が主役で開発した新田も多い。今週の”伊達くらべ”では商人の妻子が絹産業を育てることになった。そして、江戸の経済的発展は「趣味と贅沢」に刺激された要素が大きい。
江戸時代は「天下太平、変化の少ない封建時代」ではなかった。百姓間では「所得格差。資産格差・権力格差」が大きく、「趣味と贅沢」が産業構造を大きく変化させた時代であった。その変化に目を向けるか、「封建時代」「近世」「幕藩体制」「士農工商の身分制度」「鎖国」などの言葉を使うことによって、実際の変化から目を背けて、安心してしまうか?このホームページでは、そうした固定観念に挑戦して、新しい見方を育てようなどという冒険に挑んでいる。ということを理解した上で、ダッチロールの続くこのHPにお付き合いのほど、宜しくお願い致します。
(^o^) (^o^) (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『江戸時代』 大石慎三郎 中公新書 1977. 8.25
小説『東福門院和子の涙』 宮尾登美子 講談社 1993. 4.13
小説『東福門院和子』 徳永真一郎 光文社文庫 1993. 4.20
『養源院の華 東福門院和子』 柿花仄(ほのか) 木耳社 1997. 9.20
歴史ロマン『火宅往来──日本史のなかの女たち』 澤田ふじ子 廣済堂出版 1990
小説『江戸の花女御 東福門院和子』 近藤富枝 毎日新聞社 2000. 1.15
『花の行方 後水尾天皇の時代』 北小路功光 駸々堂出版 1973. 4.15
『近世の女たち』 松村洋 東方出版 1989. 6.15
『人物日本の女性史 徳川家の夫人たち』 円地文子 創美社 1977.10.25
『新・歴史をさわがした女たち』 永井路子 文芸春秋社 1986.11.15
『修学院と桂離宮 後水尾天皇の生涯』 歴史と文学の旅 北小路功光 平凡社 1983. 6.15
『江戸時代史』上巻 1927(昭和2)年の復刻版 栗田元次 近藤出版社 1976.11.20
『夢魔の寝床』伊達くらべ元禄の豪商 多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20
( 2008年6月23日 TANAKA1942b )
(3)鎖国とは外国人が言い出したこと
ゆるやかな情報革命であり、貿易高も無視できない
<第1次開国 "鎖国" =大石慎三郎『江戸時代』から>
渡来宣教師による精力的なキリスト教の布教活動に危険を感じた豊臣秀吉は、天昇5年(1587)に禁教令を発し、翌年には布教の中心地である長崎からヤソ教徒を追放する。以後この政策方針は徳川政権にも引き継がれ、元和2年(1616)には中国船以外の外国船の来航地を九州の平戸と長崎との2港に限定、さらに翌元和3年にはイスパニア(スペイン)との通交を拒否する。
またこのころから信徒の処刑等、キリスト教徒の弾圧取締も厳しくなるが、それと並行して海外交渉にも次第に強い制限が加えられてゆく。すなわち寛永10年(1633)には奉書船以外のわが国貿易船の海外渡航を禁じ、同時に在外5年以上の日本人が帰国することが禁じられた。翌11年には長崎の町人に出島を築かせ(同13年完成)、ポルトガル人をここに移した。ついで同12年には外国船の入港、貿易をする場所を長崎1カ所に限り、日本人が海外に渡航すること、および在外日本人が帰国することを全面的に禁止した。
翌々14年九州島原のキリシタンたちが領主の圧政に反抗して一揆を起こし(島原の乱)、幕府はその鎮圧に苦労する。この一揆が治まった翌年の寛永16年、幕府はポルトガル船の日本来航を禁止し、長崎に来てわが国と貿易できる外国をオランダと中国の2カ国のみとした。 以上でわが国の”鎖国”が完成するのだが、この鎖国は表面的にはキリスト教倫理が封建体制に矛盾することを嫌った幕府の禁教策の帰結としてたどりついた体制であるが、その背後にはオランダによる日本貿易独占の意図や、西南諸藩が対外貿易で富裕化することを恐れた幕府の貿易利潤独占策があったのだとするのが通説である。
(『江戸時代』から)
<鎖国は世界と接触する手段>
私はこの通説にあえて異をとなえる心算はないが、鎖国に対する秀吉以下の一連の政策が、西欧人の日本をメキシコ、ペルー化しようとする意図を打ち破る役割をしていることに注目しておきたい。
戦国末期、ポルトガル船のわが国来航によって、極東の島日本ははじめて世界史に取り込まれることとなった(この段階の西欧人はメキシコ、ペルーの例でわかるように、凶暴きわまりない存在であった)。近世初頭は、世界史に取り込まれるという初体験のもとでどのように生きてゆくかという難問に、日本が必死の努力をもって対応した時代である。そして”鎖国”という体制はその解答であった。
”鎖国”という言葉のもつ語感から、われわれはわが国が、この行為によって諸外国に対して国を閉ざして貿易、交通さえしなかったと誤解しがちであるが、鎖国後のほうがその前よりわが国の対外貿易額は増えているのである。また江戸時代の”鎖国”なるものを誤解しないためには、国家というものはどんな時代でも密度の差異はともかくとして、必ず鎖国体制(対外管理体制)をとるものであることを承知しておく必要があろう。
”鎖国”とは一度取り込まれた世界史の柵(しがらみ)から、日本が離脱することではなく、圧倒的な西欧諸国との軍事力(文明力)落差のもとで、日本が主体的に世界と接触するための手段であった。つまり”鎖国”とは鎖国という方法手段によるわが国の世界への”開国”であったとすべきであろう。したがって寛永の”鎖国”こそが日本の世界への第1次開国であり、世に”開港”という言葉で呼ばれて”安政の開港”は、江戸時代という時代の錬成を経たわが国の第2次開国であったとすべきである。
(『江戸時代』から)
* * *
<「鎖国」の誕生>
17世紀末、オランダ商館の医師として2年間日本に滞在したドイツ出身のエンベルト・ケンペルは、帰国後、アジアで観察した事柄を『廻国奇観』という大書にまとめ上げた。彼の死後の1727年、遺稿をもとに『日本史(誌)』が刊行され、ヨーロッパでの日本理解に大きな影響を与えた。ドイツ人による日本からの情報発信であった。
特に、その『日本史(誌)』の巻末の1章は、1801年、志筑忠雄(中野柳圃)によって『鎖国論』として日本語に訳出されたことで知られている。ドイツ語版の見出しは、「日本国において正当な理由から自国民には海外出国が、外国人には渡来が禁じられ、そのうえこの国と他の世界の国々との交流が一切禁じられていることに実証」(斉藤信、ケンペル『江戸参府旅行日記』解説)というものであったが、志筑はこれを自分流に訳したのであった。板沢武雄氏によれば「鎖国」を「鎖閉」とも訳しており、「開国」に対して幾分対称語的な感覚であったという。(「鎖国および<鎖国論>について)。
『日本誌』は本文5巻と付録からなる膨大なもので、日本への旅行記や日本の歴史、地理、政治、宗教、貿易、江戸参府旅行日記、鎖国(注ーいわゆる「鎖国論」)など多岐にわたっている。
日本国家についての認識は次のようなものである。日本は「日の本(ひのもと)」つまり太陽の基であり、天の下という意味で天下は皇帝などを指す尊称となっていること、国は本島・九州・四国とその周辺の島嶼からなり、その守護のもとに琉球(薩摩の臣下)・朝鮮(壱岐・対馬を通じて統治)・蝦夷(松前藩を通じて将軍に服従)がある。日本の周囲には断崖絶壁が多く、海岸線には岩礁の散在する浅瀬が多く、着岸上陸が難しく、いわば天然の要塞に守られ、生活必需品は自給自足でまかなえる。
(『鎖国=ゆるやかな情報革命』から)
<諸外国への関心>
外交について徳川幕府は諸大名に対して独占的な地位を保っていた。その結果、戦国時代から安土桃山時代、徳川時代の初頭と、盛んであった諸大名の外国関係を、次第に締め上げてゆき、寛永14年(1637)の島原の乱を契機に、鎖国体制という形で統制するようになる。
鎖国体制ができると、徳川幕府はさきに記したように、軍事力をだんだんと縮小していって、いわゆる「軍備のない国家づくり」という方向へ向かう。しかし、諸外国に対する注意が全然なされていなかったというわけではない。
徳川幕府は、鎖国体制をつくるにあたって、オランダのみに日本との貿易を許可するが、その反対給付としてとられたのが、オランダが、世界の情勢を正確に、忠実に日本に報告するということである。
その報告書が残っているのが、一般に「阿蘭陀風説書」と言われている。
阿蘭陀から次の商館長が長崎に来るまでの間に起こった、諸外国の歴史的な事情を文書にして提出する。それは日本語に翻訳され、外交を担当する幕府の役人、すなわち老中たちが目を通していた。多分、当時の老中は、諸外国の状況に目を通し、日本がどうしたらいいかということに、絶えず関心を払っていたのだと考えられる。
例えば、寛文2年(1662)には中国の明が滅んで、清になるわけだが、このころ明朝の方としては、何とか明を再興したいと、さまざまな努力をし、その一環として日本に出兵を要請する。これを明の”乞師の問題”と読んでいるが、徳川幕府はそれをいろいろ検討した結果、中国の革命および朝廷の交代に伴うトラブルには関与しないことにした。そのために、やがて明朝は滅んでいくのだが、もしこの時日本が中国問題に巻き込まれていたら、どうなっていただろうかという問題は、一度考えてみてよい問題であろう。
結局、日本はその要請を断って、いわゆる鎖国体制という体制を守ったのである。
そういう意味で、鎖国体制というのは、ただむやみに国を閉ざす、ということではない。世界の状況に目を配りながら、日本の行くべき道を計るという形での国の保持の仕方であって、のちの明治政権は、日本が植民地獲得競争に遅れをとったのは、江戸幕府が鎖国体制のもとで惰眠をむさぼっていたせいだとして、対外戦争にのめり込んでいくのだが、もし、明治政府が江戸時代の対外目配りの意味を理解していたら、歴史はもっと変わっていたのではないだろうか。
(『鎖国=ゆるやかな情報革命』から)
<いわゆる鎖国令>
「鎖国」については、近年、中国(明・清朝)の「海禁(海外への出入禁止)」政策との関連から、東アジアにおける日本中心のいわば「日本型華夷秩序」の思想の表れとして捉える見解がある。これは従来の、日本にとっての得失という観点から論じられた閉鎖社会としての「鎖国」論に対して提起されたもので、新しいコンセプトではあるが、本書では、幕府による対外政策の表現として「鎖国」という用語を使用する。
徳川家光が3代将軍となった後、「鎖国」に関しては、長崎奉行宛て奉書など次々と指令が出ている。その主なものは、
1633(寛永10)年2月28日付、17ヶ条。
●奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止、在留5年未満の者の帰国は許可。
●キリシタンを訴えた者に銀100枚。
●特定商人の貿易独占禁止。輸入生糸については京・堺・長崎・江戸・大坂5ヶ所の糸割符仲間に取引優先権。
1634(寛永11)年5月28日付、17ヶ条。
●前回と同じ(この年、ポルトガル人を長崎・築島に移住、町人との接触を禁じ、武器類の輸出を厳禁としている)
1635(寛永12)年5月28日付、17ヶ条。
●日本船の海外渡航は全面的に禁止、出国・帰国のいずれも死罪。
1636(寛永13)年5月19日付、19ヶ条。
●キリシタンを訴え出た者に銀200枚または300枚。
●ポルトガル人の子孫は追放、残留もしくは日本に戻ってきた場合は死罪。
●中国船の入港も平戸・長崎・2港に限定。
1639(寛永16)年7月5日付、3ヶ条。
●布教のため密入国、信者は徒党をくみ邪悪なことを企てるので誅罰。今度はポルトガル船(カレウタ船)の来航を禁止。来航した場合、船は破却、乗船者は斬罪。
こうしてみると、ポルトガル人包囲網が着々と築かれていることがよくわかる。幕府にとって1637(寛永14)年の島原の乱は、キリシタン信仰による反乱であり、ポルトガル人追放の絶好のタイミングとなったのである(国としてのポルトガルは1580年から60年間、スペイン国王の支配下にあった)。
ポルトガル側は直ちにマカオとゴアの政庁が連携し、1640(寛永17)年長崎に施設を特派したが、幕府は使節のほか乗組員60数名を斬首、わずかな下級船員をマカオに送り返し、鎖国令の存在を内外に示した。かくしてポルトガルとの関係は断絶した。
同時に、東南アジアに点在した日本人町との関係も途絶え、1635(寛永12)年の渡航禁止令によって日本人の出国は全く不可能となった。当時、朱印船や奉書船を利用して東南アジア各地に移住した者は多く、マニラや交趾・フェフォ(ホイアン)・アユタなどに日本人町が形成され、多いところで居住者は3,000人に達したという(岩生成一『南洋日本町の研究』『新版朱印船貿易の研究』)。
彼らは本来、日本から東南アジアへの情報発信を担うべき人材であったが、朱印船の活動がそうであったように日本から発信する情報もなく、まさに点在するのみであった。貿易拠点である日本人町では、朱印船やヨーロッパ船と連携しながら日本向け商品の調達を行ったりする者もいたが、こうした拠点と拠点を結んで組織的に情報を交換するという意識は薄く、日本と日本人町とを結ぶ情報ネットワークが形成されるには至らなかった。
かくて、朱印船貿易の地盤も継承し、オランダ東インド会社の対日貿易高は飛躍的に増大、黄金期を迎えることとなる。
こうした一連の「鎖国令」は、簡単な箇条書の形をとりながら、老中連署の様式により、国の内外に対し幕府の意志を伝えるメッセージとなった。これによって、日本からヨーロッパ諸国に対する「発信」は途絶え、日本とヨーロッパ諸国を結ぶ「公的回路」は、わずかオランダ1国に絞られていった。
(『鎖国=ゆるやかな情報革命』から)
<理解概念用語としての「鎖国」>
現在、鎖国について従来の見方が問い直され、幕藩制国家が鎖国していたか否かさえ再検討されている。その根拠は、鎖国期でも海外と交渉があったことや、「鎖国という言葉がなかった」ことなどである。
これらは鎖国否定の十分な根拠となるだろうか。鎖国とは、国債関係の制限を伴う国家体制を説明するについて、19世紀の初めに与えられた理解概念の用語である。鎖国という呼称がなかったからと言って、為政者も一般の日本人も自国の環境を鎖国と認識していなかったということはない。
19世紀にこの用語が抵抗なく受け入れられたのはそのためである。また、長崎・対馬・薩摩・松前の「4つの口」が城外に開いていたので鎖国とは言えない、という見方もある。では「口」はなぜ辺境の四ヶ所で、江戸・大坂のような政治・経済の中心の臨海大都市ではなかったのか。
日本の安寧を守るについて、ヒト・モノ・情報を管理するにに、急所となるような拠点を避けたためである。
幕府が江戸と長崎で実施した鎖国の実務は、出入国官吏ばかりでなく、漂流・漂着者への取り調べ、海上監視、航路官吏、国境の官吏、滞日外国人の取り締まり、輸入書物の検閲、情報の分析、輸出入品に関する規制等々、領域を守り、よいものを取り入れつつ、侵略・反体制思想その他、悪しきものが日本に近づかないように、日本からも安全を脅かすようなものが出てゆかないように警戒することであった。
危機感に満ちた17世紀の方が、はるかに鎖国というにふさわしい状況だったことは、既述の通りである。
(『鎖国と国境の成立』から)
<海禁という表現はどうか?>
鎖国を海禁に言い換えるべしとする説があるが、前述の史料のように、海禁に相当する場面があったにせよ、鎖国の実態にはそぐわないところがある。
どこに違和感があるかと言えば、海禁は一国の体制を指すというより、ある体制のもとで出された特定の取り締まりを指すが、鎖国は法令による取り締まりというとりは体制そのものを指す言葉だからである。
幕藩制国家の基礎が固まってゆく過程で、幕府が理想とする対外方針を民間に徹底させるために、1630年代に長崎奉行に示した何項目かを現在鎖国令と呼んでいると思うが、これは中国の海禁令のように、政権の終了まで繰り返し発布されたり強化・緩和されたりしたものではなく、いったん決まってからは変更されず、
体制の基礎部分に取り込まれていったものである。『徳川実紀』が海禁と呼んでいるのは民間人の海外渡航禁止だけで、これは鎖国(鎖国令)の表層部分である。
(『鎖国と国境の成立』から)
* * *
<それでも、江戸時代は「鎖国」であった>
この「江戸時代の歴史観が変わりつつある」シリーズでは、今まで常識と思われていたこのに対して異論を唱えたり、「すでに評価は変わっているよ」と主張することにしている。したがって、「鎖国」を扱うとすれば「江戸時代を鎖国と表現するのは適当でない」と主張するべきかもしれないが、現在では多くの人々が「鎖国ではない」と主張し始めている。けれども、「鎖国ではない」と言いながら、では何と表現すべきか?となると説得力のある答えはない。「海禁政策」という言葉も適当とは思われない。現代や、明治維新以後に比べれば、外国との交流が大幅に制限されていたことに間違いはない。「外国との交流が全く閉ざされていた訳ではないが、強力に制限されていたのだから、鎖国という表現が適当だろう」というのがTANAKAの主張だ。つまり、「鎖国」という言葉は、全く国を閉ざした状態だけではなく、江戸時代のようなオランダ1国との交流に制限していた状態も「鎖国」と表現する、と考えると良いと思う。「鎖国」という言葉が江戸時代を完璧に表現している訳ではないが、他に適当な言葉がないので取りあえず「鎖国」という言葉を使うのが「功利的」だと言うのが、江戸時代を扱ってのTANAKAの考えだ。
(^o^) (^o^) (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『江戸時代』 大石慎三郎 中公新書 1977. 8.25
『鎖国=ゆるやかな情報革命』 市村佑一+大石慎三郎 講談社現代新書 1995. 9.20
『長崎貿易』 太田勝也 同成社 2000.12.10
『長崎の唐人貿易』 山脇悌二郎 日本歴史学会編 吉川弘文館 1964. 4.15
『近世オランダ貿易と鎖国』 八百啓介 吉川弘文館 1998.12.20
『日蘭貿易の史的研究』 石田千尋 吉川弘文館 2004. 9.10
『日本の歴史』14鎖国 岩生成一 中央公論社 1966. 3.15
『鎖国とシルバーロード』世界のなかのジパング 木村正弘 サイマル出版会 1989. 2.
『鎖国と国境の成立』 武田万里子 同成社 2005. 8.10
( 2008年6月30日 TANAKA1942b )
(4)「生類憐れみの令」は異常な命令か?
平和な時代になり畜生の命さえ大切に、との令
犬公方綱吉の「生類憐れみの令」
5代将軍徳川綱吉の時代「生類憐れみの令」が出され、人の命よりも犬・猫・馬の命を大切にする法令との悪評が立っていた。実際はどうだったのだろうか?どうしてこのような法令が出されたのだろうか?それほどまでに悪い法令だったのだろうか?
今週はこんなことをテーマに話を進めてみよう。まずは『生類憐れみの世界』と題された本からの引用。
* * *
<「生類憐れみの令」の研究>
17世紀の日本で、動物愛護令が大々的に打ち出されていたことは、同時代の世界史上でもほとんど類例を見ないものなのだが、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉の政権が触れた「生類憐れみの令」は誇りうるものであるどころか、悪政の典型とされている。人命よりも動物の保護を優先したとして、その歴史的評価はみわめて低い。その評価はここでは措くとして、この法令には人間が動物保護にどのように取り組んだらよいかを考えるさまざまな視点が内包されていて、実に興味深い歴史事象であると言えよう。
ところが、いざ「生類憐れみの令」を調べてみると、その事実関係や歴史的評価は諸書によりさまざまであり、諸説入り乱れた研究状況を呈していることがわかる。たとえば、基本的な日本史の知識を拾得することを目的とした高等学校の教科書でさえ、この法令の発令原因として一人息子に死なれて跡継ぎに恵まれなかった綱吉が僧の隆光から「子どもがいないのは、前世の折衝の報いである。子どもが欲しければ生類憐れみを心掛け、とくに綱吉が戌年生まれであるから犬を大事にするよう」に言われという隆光進言説を採用するもの(『新選日本史B』東京書籍、1998年3月検定済、2004年4月発行)や、その発令年次についても貞享2年(1685)とするもの(『詳説日本史改訂版』山川出版社、1997年3月検定済、2003年3月発行)や特定していないもの(『日本史B』三省堂、2003年4月検定済、2004年3月発行、『日本史B新訂版』実教出版、1997年3月検定済、2003年1月発行)などさまざまであり、その歴史的評価の記述もまちまちである。
さて、前述した隆光進言説は、著者・成立年とも不詳で、五代将軍綱吉、六代家宣、七代家継の治世を記した歴史書『三王外記』が発信源であるが、池田晃淵著の『徳川幕府時代史』(早稲田大学出版部、1907年発行)や徳富蘇峰著の『近世日本国民史』(民友社、1925年発行)に採用されて以来、広く流布することとなり、長年にわたり支持されてきた。しかし、その後の実証的な研究によっても、これを裏付ける証拠は現在までのところ見出せず、また隆光が江戸の寺院に赴任した時期と「生類憐れみの令」が発令された時期にはズレがあるとの意見もあって、最近ではこれに否定的な説が定着してきている。
ところで、「生類憐れみの令」の研究は比較的多くの蓄積があるが、近年その見直しが積極的に進められ、新しい見解が提示されつつある。その中で、20年程前に、元禄期を中心に人間と生類との関係を政治・社会史的な視点から論じた塚本学氏の『生類をめぐる政治ー元禄のフォークロアー』(平凡社選書80、1983年)を紹介しておこう。この中で、塚本氏は、生類憐れみ政策として実施された当時の鷹・犬・牛・馬などの生類の保護や同時期に行われた鉄砲改めなどの歴史的・社会的意味を問い、この政策を打ち出した綱吉政権の意図を追求した。その結果、発令時期については「生類憐れみ令なrつものは、綱吉個人の恣意によって、あるとき突然始まったというものではないから、始期を特定するこちは難しい」という認識を示し、またこの政策の意図したところは人間を含む一切の生類を幕府の庇護・管理下に置こうとするものであると同時に、「諸国鉄砲改め令は、したがってこれを一環とする生類憐れみ政策は、徳川政権による人民武装解除策という意味を持った」とし、大名に対しては「徳川政権への臣従化を徹底させるものであった」として、「生類憐れみ政策もまた、非常に古くからの歴史の遺産と、その時代特有の条件とのうえに、展開し、また瓦解したのである」と結論づけた。全国各地の史料を博捜し、古くからの人間と動物とのかかわりの歴史を視野に入れながら、この政策の意味するところを投じの社会状況への対応として広く深く追求し、新知見を開示されたことは高く評価されよう。
その後しばらく、塚本氏が提示した見解への目立った反論はなかっtが、山室恭子氏が『黄門さまと犬公方』(文春新書10,1998年)で批判を展開している。この中で、山室氏は、「生類憐れみ令」と正面から向き合うことを明言したうえで、その始期を貞享2年7月の「将軍の御成道筋に犬や猫が出てきてもかまわない」という法令に求め、その政策意図を「この珍奇なる政策のねらいは、跡継ぎ欲しさでも人民武装解除策でもなく、戦国以来の殺伐たる『夷秋の風俗の如き』現状を変革するために、人々の『仁心』を涵養することにこそあった」とし、「生類憐れみ令」を大きな政府へ導きための牽引車であったと結論づけた。ここでは、塚本説の批判に対する根拠をあまり明示していないことやこの法令の全国への影響を分析していないことなどの問題点をゆうしているようにも思われるが、塚本氏が提示したこの政策に内在する1つひとつの政策の歴史的評価への批判には共感できる部分が少なくない。塚本氏にしても、、山室しにしても、この法令の発令の原因と考えられてきた隆光進言説の呪縛を解き放ち、生類憐れみ政策の深層究明に果たした役割は大きく、その面会の相違がこの研究の問題点をも浮き彫りにしていると言えよう。
(『生類憐れみの世界』から)
<「生類憐れみの令」読み下し文>
江戸時代の文章に馴れる意味で【読み下し文】を読んでみましょう。
【読み下し文】
覚
一、兼て仰せ出され候通り、生類あわれみの志、いよいよ専要に仕るべく候、今度仰せ出され候意趣は、猪鹿あれ、田畑を損ぜさし、狼は人馬犬等をも損ぜさし候故、あれ候時ばかり、鉄砲にて打たせ候ように仰せ出され候、然る処に、万一、存じ違い、生類あわれみの(心)忘れ、ぬざと打ち候者これ有り候わば、きっと曲事に申し付くべき事。
一、御領・私領にて猪鹿あれ、田畑を損じさし、或いは猿あれ、人馬犬等損ぜさし候節は、前々の通り、随分追い散らし、それにても、止み申さず候わば、御領にては御代官、手代、役人、私領にては地頭より役人ならびに目付を申し付け、小給所にては、その頭々へ相断り役人を申し付け、右の者共にきっと誓詞致させ、猪鹿狼あれ候時ばかり日切を定め、鉄砲にて打たせ、そのわけ帳面にこれを註し置き、その支配支配へきっと申し達すべく候、猪鹿狼あれ申さず候節、まぎらわしく殺生仕らず候ように堅く申し付くべく候。若し相背く者これあらば、早速、申し出で候様に、その処々んも百姓等に申し付け、みだりがましき儀候わば、訴人に罷り出て候様に兼々申し付け置くべく候。自然隠し置き、脇より相知れ候わば、当人は申さず(申すに及ばず)、その所の御代官・地頭、越度たるべき事。
右の通り堅く相守り申すべき者也
巳の六月日
是は御付紙の御文言
猪鹿狼打ち候わば、その所に慥かに埋め置き、一切商売、食物に仕らざる様に申し付けらるべく候、右は猟師の外の事に候。
右御書付の通り、きっと相守り申すべき者也
元禄二年巳年7月日
【解 説】
この法令は元禄二年(1689)6月28日に出されたもので、『徳川実紀』(徳川幕府の正史)第6篇に同意の和文が載っている。2ヶ条とも田畑を荒らす猪・鹿など人馬や犬に害をおよぼす猿に対する心得である。第1条はそれら害獣が被害を与える時だけ鉄砲を使うことを許し、第2条では第1条の心得と運用で、できるだけ追い払い、それでも被害がやまなければ支配所から相当役人を出し、誓詞を提出させた上で、日限をきめて鉄砲を使い、そのことを帳面に註し置くようにとしている。最後は「御付紙(つけがみ)の御文言」とあり、打ち倒した害獣は必ず埋めて、(毛皮や肝を)売ったり肉を食べてはならない、ただしそれを商売にする猟師を除くとしている。この文言も『徳川実紀』に「又……」と続いて出ているから、やはり6月28日に動じに発布されたもので、末尾に「7月日」とあるのは、この写を実際に発布した尼崎藩(当時青山氏、4万8千石)で発布された月を示している。
(『独習 江戸時代の古文書』から)
<『御当代記』から>
一、御当代になり、犬を御いたハり被遊候に付て、犬目付という役人、江戸中ハ不及云、果々をも見あるきて、犬をうち申候か、又あしくあたり候ものあれば、町なれば名主に断り、その者の名をきき、その翌日武士ハ支配方、町ハ町奉行よりことハりあるゆへ、所をはらハれ籠舎(ろうしゃ)する者多し、増山兵部家来の侍ハ、犬にくわれ候てその犬を切殺したる科に依て切腹す、土屋大和守家来ハ、犬にくわれ少犬を切りたる科に依て、江戸を追払せられて、大和守も延慮ニて引込、土井信濃守中間ハ、犬をたたきたる科によって扶持をはなさる。
か様のわけなるゆへ、犬に人のおぢおそるゝ事、貴人高位の如し、うちたゝく事ハさし置て、お犬様といふ、此ゆへ、日にまし犬にもおごりつきて、人をおそれず、道中に横たハりに臥て、馬にも台八(台八車)にもあそれず、下り坂におす車引、はいはいと声をかけて引にも、犬おそれずそのまま臥てあるところへ、車をとどめかねて引かけて、車の輪にてひしぎころす事あれば、その車引何人ありとも皆せいばいにあふ、もし手足をそこめる事あれバ、外科をかけて養生治療をくハふる。
(『御当代記』から)
<『徳川実紀』から>
此月令せられしは。先にも令せしごとく。ならせ給ふ御道へ犬猫出るともくるしからず。何方にならせ給ふとも。今より後つなぎをく事有るべからずとなり。」
また令せられしは。このごろ市街にて。集会し戯舞するよし聞ゆ児童盆躍のほか。市人会衆し。道にて行人をさまたげ。戯舞するものあらば。曲事たるべしとなり。
(『徳川実紀』貞享2年7月 から)
<『黄門様と犬公方』から>
拗ね者知識人に扇動されたステレオタイプの通説にさようなら。生類憐れみの令は、口やかましい指示とはうらはらに、違反者への取り締まりはごくゆるやかであった。たまさか罰せられるのは幕府の身内が主で、それも追放など軽い罪で住むことがほとんど、死罪になるのはよほど悪質なケースか、もしくは見せしめに利用される場合に限られていた。
この時代の幕府はかなりの厳罰主義で、殺人や放火はもちろん、密通や詐欺のたぐいであっても、容赦なくどしどし死罪に処している(『御仕置裁許帳』)。そのなかにあって、生類憐れみ違反に対してのみ、ひどく寛大なわけで、それはやはり、この法令が出されたおおもとの精神が「人々仁心も出来候様に」というところにあったがゆえであろう。
だが、これではいくら拳を振り上げてみせても、足下を見透かされることになる。いくらおっかない顔をして見せたって、先生は俺たちに手を出すことはできないのさ。生徒どもはますます増長する。犬わけ水から矢負い鴨から、お堀の鮒の大量死へ。かくて綱吉は自らがつくった泥沼の中に、もがきながら沈んでゆく。
<尾鰭をもいで>
なるほど。こうやって通説イメージをくつがえしてみて、ひとつ納得することがある。
ずっと不思議に思ってきた。どうして生類憐れみの令は、同時代の日記類の中にほとんど姿を現さないのか。たとえば柳沢吉保による、あの大部な『楽只堂年録』、50冊の写本のなかで生類憐れみの令への言及はただ1ヶ所、159ページで引用した中野犬小屋設置の事情を説明した部分のみである。あるいは吉保の妾が著した『松蔭の日記』、御前裁判の風景を鮮やかに蘇らせてくれたあの流ちょうな筆も、ただ1行もこの法令に触れない。はたまた『隆光僧日記』、綱吉の日常をこまごまと書き綴ってくれる几帳面な僧侶も、たった1ヶ所、鳥を鉄砲で殺して死罪になった大坂の牢人(前掲死罪Fに該当する)の息子を出家させるから島流しは免除して欲しいとの嘆願を私が取り次いだ、と述べるのみである(元禄15年7月27日条)。
不思議だった。綱吉と言えば生類憐れみの令、彼の治世は生類憐れみ一色に塗りつぶされたはずなのに、どうして吉保も隆光もこの前代未聞の政策にまったく関心を示さないのか。
今、うっすらと答えがわかる。後代の我々が見るほどには、時代は生類憐れみ一色ではなかったのだ。たしかに法令は雨あられと降った。でも、処刑者はほとんど出なかった。どこか遠くで雷が鳴っている。受け手にしてみれば、そんな感じだったのではないか。大量に処刑者を出して、社会に大きな傷を負わせるということがなかったので、さほど熱い関心を呼ばず、よって日記にも言及されずに終わったのではないか。
「かの与右衛門、つねずね親に不孝にこれ有り、三度勘当かうむり申し候ものにて、定めてその罪にてこれ有るべしと取り沙汰仕り候」(『元禄世間咄風聞集』)。前掲13で犬殺しを犯して磔に処せられた町人について、人々はこう噂したと言う。あいつは三度も勘当された親不孝もんだから、その報いでこうなっちまったのだろうよ。同情のかけらもない。苛烈な生類憐れみの令に対する怨嗟の声が巷に満ちていたならば、出てくるはずのない言辞である。憎しみの対象となるほどの大きな威圧感を、この法令は備えていなかったのだ。
いっぽうで、生類憐れみの令は、その珍奇さゆえに噂の餌食になりやすい。噂は無責任に増殖し、好き勝手に尾鰭をまとい、ゆがみにゆがんで、まったく似もつかぬものへと変形してゆく。忌日を犯した不心得者を処分したはずが、幼児もろとも小塚原でばっさりという涙なしでは語れぬ話に大変身。現在、我々が手にしている生類憐れみ関係の情報は、そうしたプロセスをくぐって届けられたものなのである。
なのに、権力者をあげつらうのが大好きな戦後史学は、さらにその尾鰭に乗って、江戸の市民は打ち水することすら許されなかったそうなと、噂にいっそうの尾鰭を付けることにいそしんできたのだから、いやはや。
削ぎ落としてゆく。幾重にも塗り重ねられた後代の虚飾を丹念にこそげ落としてゆく。
行く着いたのは、白い腹を見せる鮒の群がぷかぷか浮いたお堀を見下ろして、悄然と佇む老いた綱吉のすがたであった。腐臭の上を呟きがよぎる。これがついの答えか。畏れ多くも有栖川宮を退け奉って我が身が将軍の位を継いで以来、日夜奮迅の努力を重ねてきて、下々には生類を哀れむことを通じて仁心を育むようにとはからい、役人たちには儒教の奥義を講じて為政者としての自覚を促そうと、20年余も渾身の力を振り絞ってつとめてきて、これがついの答えか。
彼の苦しみはまだまだ続く。せめてしっかりと見届けてゆこう。
(『黄門様と犬公方』から)
<碩学の誤算>
そこで、綱吉の死後百年以上経ってから編纂された『徳川実紀』は、いったいどこからこの話を仕入れてきたのか。どの史料に基づいてこのシーンを叙述したのか、その情報源を捜索してみた。
内閣文庫に何種類も蔵されている幕府の吏僚の業務日誌、あるいは系図類や法令集など、『徳川実紀』の情報源として知られているものを片っ端からめくって突き止めたのは、この話はたった1冊の書物にしか掲載されていないよいうことである。
『折りたく柴の記』である。
新井白石なのだ。このドラマティックな話の震源地は。彼の巧みな筆づかいによって、「我身においては、長く仰せにたがふ事あるべからず。天下人民の事に至ては、存ずる所によりて、御ゆるしをかうぶるべきに候」、
私一身のことなら何でも仰せに従いますけれど、天下人民のことについては私にも信念がございますので御遺言に背きます。お許し下さい、と遺骸に向かって縷々述べ立てる家宣がいきいきと描出されている(巻中)。
『折りたく柴の記』の中にこの話を見つけた『徳川実紀』の編纂官は、大学者でありかつ家宣の側近くにあった白石の言うことなのだから、と全幅の信頼を置いて採用したのであろう。
ただ、その際、1ヶ所だけ改変した。「廿日に御棺の前に参らせ給ひ」、白石の話では家宣の宣言は20日に行われたことになっている。それを『徳川実紀』は綱吉の死の当日の10日に持ってきた。
まだ遺骸に温もりがの残るうちの方が、より劇的にうつると計算したのであろうか。いずれにせよこれで、廃止を宣言したのも断絶なきようにと指示したのも同じ20日ということになり、先に試みた家宣変節説、家宣の施政が10日の間に軟化したと考える可能性は潰れる。
震源地は分かった。次は信憑性である、果たして、『徳川実紀』の編纂官が判断したように、あの白石の言うことだからと全面的に信じてよいか。
もう一度、『折りたく柴の記』を読み直してみる。と、問題の箇所は、「ある人の申せしは」で始まる大きなカギカッコの中に入ることに気づく。白石が実見したことではなく伝聞なのである。
「我には仰せもきかせ給はぬ事なれば、其事のありやなしやをばしらず。されど、我に語りし人も、うきたる事いふべき人にもあらねば、其説をここに注しぬ」、家宣公の口から直接に伺ったわけではないから、ほんとうかどうか保証はできないけれど、信頼できる筋から聞いたので、と話の終わりにちゃんと断りが入れてある。
危ない危ない、当の白石自身が保証はできないよと逃げ口上をのべているではないか。ここで『折りたく柴の記』はどんな書物だったか、その序文を眺めておくと、
前代の御事におよびし事共は、いとかしこけれど、世によくしれる人もなきは、をのづから伝ふる人のなかからも、わびしからまし。
前代家宣公についての事は、たいへんもったいないけれど、世によく知っている人もおらず、後世に語り伝えられてゆくこともないのはわびしいことです。
だから僭越ながら、私が今ここに書き記しておくのです。
自らの理想のすべてを傾けて補佐した家宣が没したあと、その家宣を少しでも後世に伝えようとの思いを込めて執筆された書物だったのである。
ならば、その中に叙述された、あまりにも格好良すぎる、颯爽としすぎている家宣の姿、しかも筆者自身が保証はできないよと断っている話には、じゅうぶん警戒しなければなるまい。
まして、その話と明らかに違う証言が存在する以上、史実と受けとることは、とうていできないのである。
かくて、従来信じられてきた『徳川実紀』描くところの家宣の生類憐れみの令破棄宣言は、新井白石の文飾にかかる、史実としては信頼できないものだという結論にいたる。
じっさいには、生類憐れみの令は『楽只堂年録』が伝えるように、「おだやか」に骨抜きにされたのである。
白石にしてみれば、ほんのささやかな手向けのつもりだったのではないか。大した治績も残せないまま4年足らずの慌ただしい治世を終えてしまった家宣に、ほんのちょっとだけ花を持たせてやりたい。
そんな思いで、颯爽たる新将軍の姿が添えられたのであろう。
そこには嘘という認識すらなかったにに違いない。既に目撃したように、儒学の古典よりも軍談を好んだ凡庸な弟子であった家宣に対して、これほど好学の君主は聞いたことがないという絶賛を捧げた白石である。
この程度の文飾は臣下として当然の礼。どのみち、家宣の指示によって生類憐れみの令が終息に向かったことに違いはないし、しかも真偽は定かでありません、と誠実に断り書きまで入れてあるのである。
まさか、そのささやかな手向けが百年ののちに幕府の正史にまるぐと採用され、絶大な影響力を行使して綱吉の悪印象をがっちり固定してしまう結果になろうとは、いかな碩学でもできようはずはなかった。
「をのづから伝ふる人のなからむも、わびしからまし」。今や、綱吉の呻き声が聞こえる。
(『黄門様と犬公方』から)
<前政権を批判するという常套句>
既に苦心して論証してきたように、生類憐れみの令における違反者への取り締まりはごくゆるやかで、それほど多くの罪人を出したわけではない。
塩漬け9人という生々しだについ引きずられがちだけど、これは白石が新将軍家宣の善政を際立たせるために、はめ込んだデータなのである。嘘ではないけれど、ことの全体でもない。
『折りたく柴の記』の別の箇所には、こんな表現も見える。「一禽一獣の事のために、身極刑に陥り、族門誅に及び、その余、流竄(るざん)・放遂、人々生を安くせず、其父母・兄弟・妻子、流離散亡、凡そ幾十万人といふ事しらず」
(中略)。まつぃても「幾十万人」である。たかが禽獣ごときのためにその身は死刑にされ、一族も罰せられ、父母妻子は散り散りに。だから治世が改まった今、天下に大赦をおこなって万民に蘇生させなければならないと私は新将軍に進言したのです。本文はそう続いてゆく。
常套句なのだ。前代を貶(おとし)めることによって当代を持ち上げるという、おなじみに手法を白石は用いているに過ぎないのだ。その常套句を切り取って、生類憐れみの令の惨害を言い募る格好の材料に使ってきた従来の説明は、もはや改められなければならない。
「新井白石は前代の事をよく言わざる漢(おとこ)なりしが」。百数十年後の文人松浦(まつら)静山はそう評している(『甲子夜話』巻19)。前代の事をよく言わない。白石の身になれば、それもやむを得なかったろう。
凡庸な家宣を守り立てて幕政を運営してゆくためにも、また、影の薄いままに終わった家宣を、せめて追憶のなかでだけでも輝かせてやるためにも、前代の悪口はやむを得ざる方便だったのである。
(『黄門様と犬公方』から)
<もう白石流の綱吉批判はやめにしましょうよ>
積年の怨み、果たして彼はそんな感情と無縁だったのだろうか。「流離散亡、凡そ幾十万人といふ事しらず」、綱吉を糾弾する文章を一字一字刻みつけながら、今ここに旧主への報恩成るといった暗いた昴りにとらわれることはなかったろうか。疑いは消しがたい。
そうやってなった白石史観なのだ。改めて、その脆弱さに思い至る。あの白石の言うことだから間違いない。『徳川実紀』の編纂官以来、我々はずっとそうやって歴史を組み立ててきた。白石があんなに強調しているのだから、生類憐れみの令は富んでもない悪法だったのだ。間違いない。すっかり安心して、綱吉に残虐非道のレッテルを貼って済ませてきた。
今、そのこわばった虚像がぼろぼろ崩れる。白石は家宣の臣下という立場上、常套句として綱吉を貶(おとし)める言辞を並べたに過ぎない。
よくよく吟味すれば、額面通りに受け取ることなどとうていできない。それに、彼の胸中には、かつて綱吉から受けた仕打ちへの怨みが黒々と凝り固まっていた可能性もあるのだ。
一犬虚に吠ゆば、万犬実を伝う。結局白石はその一犬の役回りを果たすこととなった。ただでさえ、悪口の種になりやすい生類憐れみの令である。なんてひどい後政道だろうねえ、いたいけない幼児もろともばっさりなんてさ。そんな指弾の具になりやすい素地がもともとあったところへ、碩学の一声が貫いたものだから、ほとたまりもない。
あとはごうごうたる雷同の渦で埋まる。
注意ぶかく耳を澄ませば今でも、「其れ漢の武帝のたぐいか」、綱吉公は漢の武帝に匹敵するような大きな事績を残された方だといった同時代の評価の声を、それも政権批判をこととする辛口の書物のなかに聞くことができる(『三王外記』)。
万犬のかまびすしさに妨げられて、気づかないだけなのだ。
白石史観に塗り込められた300年のぬばたまの夜、もう終わりにしてもよい頃ではなかろうか。打ち叩いて粉々にして、生身の綱吉とまっすぐ向きあってもよい頃ではなかろうか。
(『黄門様と犬公方』から)
<人々仁心も出来候様に>
悪いことばかりではない。ひょっとして生類憐れみの令について、発令する側にそんな認識があったのではないか。
入用金・中野犬小屋とたしかに現場はぐちゃぐちゃになってしまったけれど、でも生類憐れみ、以て人々の仁心を涵養(かんよう)して殺伐たる戦国の遺風を払おうという趣旨自体は悪いことではない。
だから、原則を変更する必要はない、むしろ、今後も憐れみ精神は「いよいよ断絶これ無き様に」、奨励し続けるべきだ。取り締まりをやめた途端に、もとの殺伐たる風潮へと逆戻りしてしまわないよう、「あわれみ候儀は、あわれみ申すべく候」、
しっかり町を刺しておかなければ。そうした配慮から出たことだったのではないか。
なんと。びっくり仰天。もしそうなら、生類憐れみの令は弊害を伴いつつも、それなりの成果も挙げたと評価されていたことになる。「人々仁心も出来候様に」という所期の目的をある程度は果たしたと認識されていたことになる。「不仁にして夷秋の習俗の如き」世を変革したいという綱吉の熱い願いが、いくぶんかは叶えられたということになる。
ほんとうだろうか。生類憐れみの令は完全な失敗ではなかった、それなりの成果は挙げ得たなんて、ほんとうだろうか。
探索が始まる。誰か証言してくれないか。生類憐れみの令がおこなわれる前と後とで、不仁から仁心へ、殺伐から憐れみへ世の風潮が変化したと、そんな証言をして下さる御仁はどこぞにおられるか。
(『黄門様と犬公方』から)
<仁心の世の中に>
昔は1年に5度も7度も、それ刀よこせ鑓だなどと言い、下々も刀を差して尻端折(しりっぱしょ)りして騒ぐこおとがあったものだけど、近年はそれ刀よ鑓よと言うほどの騒ぎが全くないので、今の若いもんは家の中では丸腰で、ずいぶんと不用心なありさまだ。
まったく太平の世になったものだなあ。
まさにこの老人が生きている間に、時代の風潮は大きく変わったのである。手打ちや試し物や刃傷沙汰が日地上茶飯事で、人々の話題も武辺(ぶへん)一辺倒だった時代から、そうした殺伐たる慣行がきれいさっぱり消滅し、儲け話や出世談義や役者の評判が関心の的となる時代へ、
まさしくこの6,70年の間に起こったのである。
足かけ30年の及ぶ綱吉の治世は、その6,70年のど真ん中に位置する。ならば、この風潮の変化の一部は綱吉の手になるものだ、生類憐れみの令によって仁心が涵養(かんよう)されたおかげだ、殺すな、傷つけるなとさんざんぱら説教されることで人々の感覚が変わったのだと考えてはいけないだろうか。
もちろん、戦国の世が遠くなったことも大きく影響したことには違いない。けれど、関ヶ原はここでの「6,70年以前」よりさらに5,60年も遡るのである。戦国が終わって半世紀以上も殺伐たる風潮がしっかり続いて、それがその後の半世紀でぱたっと消滅したことになる。
ならば、その原因として、時が経ったからという自然の流れのほかに、誰かがその変化を後押しした、加速したと考えてもよいのではないか。そして、その誰かとは綱吉であったと。
そうだったのか。めまいがする。天雷に打ち叩かれて奈落の淵に沈んでいった男の姿が、にわかに、富士より大きく迫り上がってくる。なんと彼は、人々の意識を変革するという空前絶後の壮挙をひそかに成し遂げていたというのか。殺伐から慈悲へ、時代の風潮をぐるりと転換させる大仕事の影の仕掛け人だったというのか。
見上げても、ぽつりと膨らんだ宝永山は沈黙したままである。
(『黄門様と犬公方』から)