大江戸経済学
江戸時代の歴史観が変わりつつある
鎖国・貧農・犬公方・貨幣改鋳・3大改革・田沼政治・金貨流出・・・・・・

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが江戸時代を経済学します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が江戸時代の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

2008年8月18日更新 


……… は じ め に ………
 江戸時代の歴史観が変わりつつある。今まで常識と思われていたことが、実は違っていた、ということが最近多く見られる。代表的なことは「鎖国」という表現だ。最近では「江戸時代は鎖国をしていた」とは言わなくなっている。現代の自由貿易、グローバル社会からみれば非常に閉鎖的であったにしても「鎖国」という表現は適切でない、となっている。そのほか「田沼意次=賄賂政治家」という説が通説であったが、近年では大石慎三郎らの研究により、当時としてはかなり進んだ経済政策を行ったと再評価されている。
 日本の業界では珍しく、江戸時代の歴史に関しては歴史学の部外者が多く発言し、いままでの常識が少しづつ塗り替えられている。この江戸時代の歴史学の業界は開かれた業界で、ここへの参入が自由であるために、専門家以外も発言し、そのことによって誤った常識が訂正され始めている。 そうしたことを意識して、「江戸の歴史観が変わりつつある」と題してホームページを立ち上げることにした。ここでは、アマチュアでもあるし、特別新しい事実は提供できないだろうが、大きな歴史観の変化は捉えてみようと思う。例によってダッチロールの繰り返しになるかも知れないけれども、最後までのお付き合いのほど宜しくお願い致します。

江戸の歴史観が変わりつつある
(1)新田開拓は武将・領主の主導によってか? 大きい百姓間の所得格差・資産格差・権力格差 ( 2008年6月16日 )
(2)東福門院和子は衣装狂いだったのか? 寛永文化の賢いパトロンでありトレンドメーカー ( 2008年6月23日 )
(3)鎖国とは外国人が言い出したこと ゆるやかな情報革命であり、貿易額も無視できない ( 2008年6月30日 )
(4)「生類憐れみの令」は異常な命令か?  平和な時代になり畜生の命さえ大切に、との令  ( 2008年7月7日 )
(5)荻原秀重の貨幣改鋳という悪政か?  成長通貨の供給による経済の成長を促進した面も  ( 2008年7月14日 )
(6)大坂商人が生み出したコメ先物取引  現代日本資本主義経済よりも市場原理主義だった  ( 2008年7月21日 )
(7)なんとなく自由な田沼時代だった  市場経済の先取りには保守反動抵抗勢力が強かった  ( 2008年7月28日 )
(8)3大改革とは、保守反動勢力の動き  幕藩体制という封建制を守るため必要な反動政策]  ( 2008年8月4日 )
(9)金貨流出という異常事態の責任は?  欧米に比べ、あまりにも進んだ管理通貨制度だった  ( 2008年8月11日 )
(10)武士より百姓・町人の方が豊かだった  市場経済化の進行が幕藩体制を破壊したのだった  ( 2008年8月18日 )


趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

(1)新田開発は武将・領主の主導によってか?
 大きい百姓間の所得格差・資産格差・権力格差
<江戸時代初期の人口増は新田開拓による>  江戸時代初期の人口は約1,200万人、これが享保期(1716年から1735年)には武士・町人・農民あわせて約3,000万人になっている。この人口増には食糧(コメ)の増産が影響していることに疑問の余地はない。その食糧増産は、新田開拓によるところが大きい。戦国期末から江戸時代初期にかけて新田開発が行われ、これによりコメが増産され、食糧増産により人口が増えたと考えるのが妥当だ。では、その新田開発はどのように行われたのだろうか?今週のテーマはこうした疑問から始まる、「新田開発は武将・領主の主導によってか?」だ。
 新田開発に関しては「大坂堂島米会所」に書いたので、そこから引用してみよう
大開墾・人口増 江戸時代のコメ問題を扱うとすれば、戦国時代から江戸時代初期の「大開墾・人口増」から扱うのが妥当なようだ。多くの文献はこの時代の用水土木工事の多いことから話を始めている。へそ曲がりのTANAKA1942bもこれに関しては定番の話の進め方をしよう。そこで先ず、大石慎三郎著「江戸時代」(中公新書 1977.8)から──
つくりかえられた沖積層平野 大土木工事の時代  ”天下分け目”といわれた関ヶ原の戦い(1600=慶長5年)を中心とし、その前後約60-70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から4代将軍家綱の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を大きく変えた時代であった。ここで土木技術というのは広義のもので、それは大別して、
 (イ)鉱山開発技術──その結果日本は世界有数の金銀産出国となった。
 (ロ)築城技術──それは今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。
 (ハ)用水土木技術
の三分野に分けることができる。ここではこのなかで日本社会を変えるのにもっとも大きな役割をはたした用水土木技術について考えてみたい。
 いま土木学会で編集した「明治以前日本土木史」のなかから、古代から徳川時代の終りにあたる1867(慶応3)年までにわが国で行われた主要土木工事のなかで、用水土木関係工事を抜き出して年代別に表を作ってみると表1のようになる。
 全118件のうちで56件(47.46%)が戦国期から江戸時代初頭の約200年ほどのあいだに集中しており、なかんずく1596(慶長元)年から1672(寛文12)年まで徳川初頭77年間に42件(35.59%)とその集中度がとくに高い。つまりわが国における明治以前の用水土木工事は、戦国期から江戸時代初頭のあいだに、その半数が集中しているのである。
 しかもその内容をみると第一線級の大河川にたいする巨大土木工事がこの時期に集中しており、それまで洪水の氾濫原として放置されたままになっていた大河川下流の沖積層平野が、広大・肥沃な農耕地(主として水田)につくりかえられているのである。それはもしこれらのことがなければ、江戸時代ひいては明治移行のわが国の国土状況はないと言えるほどのものであった。
「明治以前日本土木史」 同じ「明治以前日本土木史」から集計したもので、別の表を引用してみよう。表2を見ると、河川工事は1601-1650に多く、溜池・用水路・新田開発はそれより50年後の、1651-1700に多いことが読みとれる。
表1 明治以前主要用水土木工事
年 代 この間 工事件数 百分率
-781(天応元) 781年 8件 6.78%
782(延暦元)-1191(建久2) 410年 8件 6.78%
1192(建久3)-1466(文正元) 275年 7件 5.93%
1467(応仁元)-1595(文禄4) 129年 14件 11.87%
1596(慶長元)-1672(寛文12) 77年 42件 35.59%
1673(延宝元)-1745(延享2) 73年 13件 11.02%
1746(延享3)-1867(慶応3) 122年 26件 22.03%
── ── 118件 100.0%
出典:「江戸時代」大石慎三郎 中公新書 1977年8月(23頁から引用) (土木学会編「明治以前日本土木史」岩波書店、1936 から作成)
表2 耕地開発関係土木工事件数
時期(年) 河川工事 (%) 溜池 (%) 用水路 (%) 新田開発 (%)
1550年以前 25 (20.5) 46 (12.9) 24 ( 5.5) --
1551-1600 16 (13.1) 3 ( 0.8) 11 ( 2.5) 14 ( 1.4)
1601-1650 31 (25.4) 66 (18.5) 55 (12.5) 122 (12.2)
1651-1700 13 (10.7) 93 (26.1) 121 (27.9) 220 (22.1)
1701-1750 11 ( 9.0) 27 ( 7.6) 52 (12.0) 103 (10.3)
1751-1800 12 ( 9.8) 23 ( 6.4) 31 ( 7.2) 88 ( 8.8)
1801-1868 14 (11.5) 99 (27.7) 139 (32.2) 450 (45.2)
122 (100.0) 357 (100.0) 433 (100.0) 997 (100.0)
出典:「経済社会の成立―17〜18世紀」速水融、宮本又郎編著 岩波書店 1988年11月(45頁から引用)(土木学会編「明治以前日本土木史」岩波書店、1936 から作成)
<軍事力の自由競争時代、そこでの経済的基盤> 室町幕府が崩壊し、戦国時代になると各地の武将が力を競い合う「自由競争時代」になる。武器、装備、戦略、陰謀、策略、人望などで競い合い、その基盤に経済力があった。その経済力とは、コメの生産力、金・銀鉱山、特産品、商業などであり、コメの増産には特に力が注がれた。戦国時代に新田開発が多くなったのは、軍事力の自由競争時代に勝ち抜くには、経済力増強そのためのコメ増産、そのための新田開発という強いインセンティブが働いていたためであり、大きな川を治め、沖積層平野を新田に作り替え、そこでのコメ増産という経済力を武器にする、それが戦国武将のサバイバル・ストラテジー(生き残り戦略)であった。
 戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。
 戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。
<治水が先か?利水が先か?> この時代大きな力を持った武将が、自由競争で勝ち抜くために大河川の治水工事を行い、新田を開発した。実際歴史に残るような用水工事をした武将がその後も生き残っている。この順序は、用水工事→治水工事→移住→利水工事→作付け、となる。これに対して、「そうではない、治水より利水の方が先だ」との説もある。
わが国水田の開発過程をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発が出来ない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民(あるいは士豪、小領主)による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果たすというのが普通であって、これが沖積低地開発の常道であった。この意味で利水は常に治水に先行する。それゆえ、大名による大規模な治水工事によって初めて沖積平野の開発が行われたということは、実状に合わないのである。 (速水融、宮本又郎編著『経済社会の成立―17〜18世紀』岩波書店 1988年11月 182頁から引用)
<赤米=インディカ米の導入>  今日私たち日本人が食べているのはジャポニカ米。インディカ米はチャーハンやカレーには適していると言われるが、市場で広く流通しているわけではない。ところが14世紀から19世紀にかけて、「とうぼし」(唐法師、唐干)あるいは「大唐米」「占城稲」という名の赤米種が広く作られていて、新田開発の過程で重要な役割を果たしていた。
 赤米が日本のどこで作付けされていたか?18世紀の状況では、
(1)九州・四国・紀伊半島の南部、つまり太平洋側が多かった。ここでは洪積層大地周辺の強湿田地帯で赤米が直播きされていた。農耕としてはかなり粗放的であり、しかも相当に後の時代まで(鹿児島の一部では昭和に入っても)存続する。
(2)八代、筑後、佐賀平野など干拓クリーク地帯、沖積平野の湿田や用水不足田。これらの地方では直播ではなく移植法による植え付けがなされていた。佐賀藩では1725年で、21%が赤米であった。それ以前17世紀ではこの比率はもっと高かったと思われる。
 日本で書かれた最初の農業技術書「清良記」(17世紀中頃の寛永から延宝の間に書かれたと推定される)によると、栽培される稲の品種は96あり、そのうち「太米」として次の8種が書かれている。

早太唐(はやたいとう) 白早太唐 唐法師 大唐餅 小唐餅 晩唐餅 唐稲青 野大唐

 当時「太米」は「太唐米(だいとうまい)」ともよばれ、総称として「唐法師」と言われたこともあった。これは米のなかでも、より野生に近く、したがって野生稲の色彩を保っていて、濃いあめ色の実がみのる。いわゆる「赤米」であった。
 この赤米は、米粒の細長いインディカ種で、炊きあげたのちの粘りけが少なく、食味としては日本では美味とされなかった。そのため値段は白米より安かった。ただし「清良記」は、赤米のまずさではなく、むしろ長所をあげている。「大唐餅」をのぞけば、痩せ地でもよく育つし、日照りにも強い。虫もつかない。風こぼれには弱いが、脱穀の手間がかからない。このように利点の多い稲で、おまけに飯に炊くと炊き増えする。
 農人の食して上々の稲なり。
というのが「清良記」の考えであった。
<赤米が新田開拓の先兵> さてこの赤米が戦国から江戸初期にかけて大きな意味をもつ。それは水田の面積拡大という方向に水稲生産の著しい伸長がみられた段階で、その主役を赤米が担っていたと考えられるからだ。新田は3年から5年くらいの鍬下年季の期間を決め、検地の猶予や無年貢・減免の処置にした。鍬下とは開墾途中との意味。水田は開墾してもすぐ収穫を期待できるわけではない。熟田と比べると劣悪な生産力しかなかった。そこで野生の強靱さを失っていない赤米は、この劣悪な水田で作られる主役であった。
 当時の開田は、平野部ではすでに熟田化していた丘陵寄りの部分から低湿地の河川近くの方向へ、また沿岸部干拓地では海岸近くの方へ順次工事が進められて来たと思われるので、それらの新田には多くの場合まず赤米種が作られ、その後になってその水田が漸次整備され熟田化するにつれて、従来の赤米が真米に代わり、さらにその先の低湿地の方に進んだ新開田地に赤米が作付けされるといった順序で、赤米→真米への転換が開田の順序に伴って繰り返されて来たのではないかと考えられる。すなわち、インディカ系の赤米は、沖積平野における新田開発の第1段階において「稲作のパイオニヤとしての役割」を果たしていた。
 戦国から江戸初期の新田開発は河川や河川の合流地に広く堆積した沖積地を水田化するようになる。これは大規模な工事で、しかもすぐに収穫が期待できるわけではなく、大変リスクの大きい事業であった。そう考えると、開発の順序<用水工事→注水工事→移住→利水工事→作付け>というのはリスクが大きく、すべての武将、大名がこの順序だったとは考えられない。そこで、<治水より利水の方が先だ>との説もそれなりの正当性があるようにも思えてくる。
 開発の順序、このように初めに百姓が動き、その後大名が大規模治水工事を開始した、という説。歴史というのは見方によっていろんな説が考えられる。武将・大名主導の開発というのが定説のようだが、赤米がこの時代多く生産されていた、ということに注目すると、百姓主導の新田開発説もそれらしく思えてくる。赤米のことを長々と取り上げたのは、歴史にはいろんな見方がある、ということを言いたかったからのこと。
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<百姓主導の新田開発も盛んだった>  戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。 そして、戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。
 上に書かれたことに特別大きな誤りはないと思われる。しかし、これを読むと「武将・領主が権力を用いて百姓を動員して、河川の安定工事や新田開発を行った」と思いこむことになる。しかしこの時代、武将・領主の主導ではなく、百姓が自主的に新田開発を行うのも活発だったようだ。 治水が先か?利水が先か? で取り上げたのは、「武将・領主が主導で新田開発を行ったのではない」との主張につながる。しかし、この本ではそれ以上に詳しく説明はしていない。そこで、「新田開発は武将・領主が主導で行われた。しかし、それに対する疑問も投げかけられている」というのが定説になってしまう。武将同士の争いが激しくなれば、武将主導の新田開発も行われた、と考えるべきであろう。しかし、それとは別に、百姓主導での新田開発の活発に行われた。どれほど活発であったかと言うと、インターネットで「新田開発」をキーワードに検索すると、実に多くのサイトがヒットする。ヒットしたサイトから、そこに登場する百姓の名前を抜き出して見よう。

古沢屋仁右衛門・牧野屋与四兵衛 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu21.html
折橋九郎兵衛 川合又八 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu19.html
伊東彦四郎 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu18.html
江尻茂右衛門 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu17.html
矢崎嘉十郎 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu16.html
八町村善左衛門・下村長左衛門・小竹村久右衛門 http://www.pref.toyama.jp/sections/1605/noukan/kamo/shisetsu13.html
椎名道三 http://www.maff.go.jp/nouson/sekkei/midori-ijin/19tym/19tym.htm
椎名道三 http://www.mrr.jp/~jf9hjs/dousan.htm
吉野織部之助・小川九郎兵衛 http://www.asahi-net.or.jp/~ap6y-umd/zouki.html
砂村新左衛門 http://www2.bbweb-arena.com/iaponia/
小川九郎兵衛 http://homepage3.nifty.com/kdtomi/hurusato3/hurusato3.html
横井源左衛門・金屋源兵衛・加賀屋甚兵衛 http://www.m-system.co.jp/CofeBreak/Tumori.htm
砂村新左衛門政次 http://sorairo-net.com/rekishi/yokosuka/kurihama/002.html
吉田勘兵衛 http://sorairo-net.com/rekishi/zinbutu/005/index.html
太地角右衛門頼治 http://www.cypress.ne.jp/taiji/uwano.html
鷲尾善吉 http://www.city.nagoya.jp/ku/minami/machi/meguri/nita/nagoya00000897.html
笹岡茂兵衛恒好 http://www.geocities.jp/bearhouset/Shitada_human/Sasaoka/index.htm
鈴木利左衛門春昌 http://www.ksnc.jp/kodairashoukai/suzukiinari/suzukiinari_front.htm
 上記百姓がどのように新田開発に携わったか、それはそれぞれのサイトを読んで頂きましょう。

<百姓・町人が大開発を行った>  江戸時代と中世が決定的に違う社会だと思わせる理由のひとつは、世の中に貨幣が行き渡って、あらゆる生産物が基本的に商品として生産されるようになったという点である。そして江戸時代の新しい社会の諸場面を担当したのが百姓・町人である。
 江戸時代、第1に見るべきは時代の初め全国に展開した田地の大開発である。しかもその開発は、百姓が隣地に鍬を入れたというようなものではない。開発に第3者の資金が投入されたのである。
 大開発の説明として、戦国大名が勧農策を講じたなどとした書き物に出会う。しかし大名が開発を勧めただけでは田地の開発は一歩も進まない。「経済外的」な強制力で百姓が耕地開発に従事するはずなど元々ないのである。
 さて、開発のためにはまず測量の技術者がいる。彼らが土地の高低を計り設計図を作ってくれなければ用水路も排水路もできようがない。次に、農具、鍬や鎌などを作る鍛冶屋がいる。そうした技術者や、よそから来た百姓たちを居住させるための建物がいる。その資金、賃金に充てるための資金、開発資材を整えるための資金、そうした手だて講じたとき、初めて耕地の開発が可能になる。そうした資金が整うことが、戦国末期から江戸時代初期の大土地開発の前提だということになる。
 それゆえ、背景に金銀が世の中に流通し、その金銀が開発資金に用いられることが必要であった。金銀山を開発所有した者が戦国大名となった。戦国大名が新しい世の中を作った、という意味がそこにある。
 江戸時代初頭の大名は、戦国大名の延長上にある。寛永14年(1637)2月、宮嶋作右衛門という越後高田藩の御用商人(廻船商人)が高田藩に対して1通の願書を提出した。
 一、頸城(くびき)郡下美守(しもひだもり)郷(現・頸城村)のうち、おおぶけ(大瀁)野谷地を新田に仕立て申すべき旨、毎度申し上げ候、いよい以て、拙者共に仰せつけさせられ候わば、相違なく新田に開発つかまる候
 一、新田用水の儀は、「保倉川」をとりいれ申し候、すなわち、用水普請人足など、日雇いの金銀入用は何ほどにても拙者共、自分につかまつるべく候こと
 「ふけ」というのは越後では湿地のことを言う。保倉川と海岸砂丘との間は当時浅く広い池になっていて、ところどころにある高みに数件の家があった。そうした家は集落の淵にある湿地を水田に耕してきたのであったが、いま、その大瀁野谷地のたまり水を抜いて池全体を干拓し、水田に変えようというのである。これまでも幾度となく開発の申請が藩に提出されたが、資金を藩に頼ったため、話は一歩も進まなかった。この開発の申請に際して宮嶋は、干拓をすれば田地にかける水が必要で、その用水として保倉川の水を引き上げる必要があるが、その用水路建設の普請人足などの費用は全部開発申請者が負担すること、それゆえ新田のために引く用水路については村々との間で異議が出ないように藩の方で調整してもらいたいこと、新田ができあがったら開発された田地の十分の一を慣例によって開発者に与えてもらいたいこと、もし新田が寛政しないようなことがあったら普請のために潰れた田地(用水路用に使用した田畑)の年貢は必ず開発申請者が納めること、などの条件をつけて開発を願い出たのである。その願い人の内訳は次の通りであった。
   高田上小町       宮嶋作右衛門
   上野(こうずけ)国一ノ宮 松本作兵衛
     同         茂田七右衛門
     同         茂田喜右衛門
     同         神戸三郎左衛門
                   (「宮嶋家文書」)
 宮嶋を除いてみんな上州一ノ宮(現・富岡市)の牢人者であった(頸城土地改良区『大瀁郷新田開発史』昭和50年)。(中略)
 大開発時代と言われる江戸時代の初めの50年間は、貨幣資金が初めて「資本」となって田地開発を進めた時代と言ってよい。自給自足の農民が貧困から逃れるために開墾に精を出したとか、権力からの「経済外的」な強制で農民が開発に従事させられたというのは後世につけた理屈である。 (『村からみた日本史』から)
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<百姓間の大きな所得格差・資産格差・権力格差>  「江戸時代」を取り扱うとき、「封建時代、百姓には自由が少なかった」とか「社会の動きは基本的に武士階級によって動かされた」「百姓は白米を食べる機会も少なく、アワやヒエが主食だった」などという見方が一般的になりがちだ。それは、「百姓は……」との表現で、百姓間の「格差」を無視して話しを進めるところに問題がある。江戸時代、「食うや食わずの水飲み百姓もいたし、新田開発を主導する豪農もいた」。このことを忘れはいけない、と思い、江戸時代を扱う初めに「百姓の間の所得格差・資産格差・権力格差はとれも大きかった」ということをハッキリさせたかったのと、「社会の変革に百姓が部外者であったかのような見方をしないように」と考え、ここ「新田開発」という項目で扱うことにした。
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<主な参考文献・引用文献>
『江戸時代』                 大石慎三郎 中公文庫     1977. 8.25
『田沼意次の時代』              大石慎三郎 岩波書店     2001. 6.15
『将軍と側用人の政治』            大石慎三郎 講談社      1995. 6.20
『江戸時代の先覚者たち』            山本七平 PHP研究所   1990.10.19
『歴史の見方考え方』              板倉聖宣 仮説社      1986. 4. 7
『日本史再発見』                板倉聖宣 朝日新聞社    1993. 6.25
『日本歴史入門』                板倉聖宣 仮説社      1981. 6.15
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版    1972.12.20
『近世日本の市場経済』大坂米市場分析』     宮本又郎 有斐閣      1988. 6.30
『日本経済史』経済社会の成立     速水融、宮本又郎編 岩波書店     1988.11.30
『株仲間の研究』                宮本又次 有斐閣      1938. 5 
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版    1972.12.20
『堂島米会所文献集』              島本得一 所書店      1970. 9.25
『商品先物取引の世界』            河村幹夫他 東洋経済新報社  1983.10.27
『江戸庶民の信仰と行楽』           池上真由美 同成社      2002. 4. 1
『百姓一揆とその作法』              保坂智 吉川弘文館    2002. 3. 1
『太閤検地と石高制』NHKブックス93    安良城盛昭 日本放送出版協会 1969. 7.25
『近世稲作技術史』                嵐嘉一 農山漁村文化協会 1975.11.20
『弾左衛門ー大江戸もう一つの社会』       中尾健次 解放出版社    1994.10.15
『長崎貿易』                  太田勝也 同成社      2000.12.10
『享保改革の商業政策』            大石慎三郎 吉川弘文館    1998. 2.20
『赤米のねがい』 古代からのメッセージ     安本義正 近代文芸社    1994. 3.10
『赤米・紫黒米・香り米』            猪谷富雄 農産漁村文化協会 2000. 3.31
『徳川吉宗とその時代』            大石慎三郎 中公文庫     1989. 3.10
『稲』 ものと人間の文化史86           菅洋 法政大学出版局  1998. 5. 1
『稲の日本史』                佐藤洋一郎 角川選書     2002. 6.30
『村から見た日本史』              田中圭一 ちくま新書    2002. 1.20  
『明治以前日本土木史』             土木学会 土木学会     1936. 6
( 2008年6月16日 TANAKA1942b )
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(2)東福門院和子は衣装狂いだったのか?
 寛永文化の賢いパトロンでありトレンドメーカー
<”衣装狂い”する東福門院和子=大石慎三郎『江戸時代』から>  江戸時代は幕府と朝廷との関係をめぐって2人の悲劇的な女性を生み出している。1人は幕初江戸幕府から朝廷に送り込まれた東福門院和子(とうふくもんいん まさこ)であり、いま1人は幕末段階朝廷側から江戸幕府に送り込まれた和宮親子である。ともに結婚という人生の大事を朝幕間を結ぶ鎹(かすがい)として政治的に利用されているところにその悲劇性がある。
 天下を手中におさめた徳川家康がその最後の仕上げとして朝廷に女を送り込んでその外戚になろうと考えたのは、日本の政治風土のなかではむしろ当然のことであった。2代将軍秀忠の末娘和子を後陽成天皇の第3皇子三宮(後水尾天皇)のもとに送り込もうというのがその案であった。
 天下の覇者徳川家康の胸中にそのような考えが萌しはじめたのはいつごろのことかわからないが、慶長末年ごろにはすでに朝廷側とその交渉がはじまり、後陽成天皇の内諾をとりつけていたようである。そもそも後陽成天皇の第1皇子は秀吉の在世中皇太子として予定されていたが、秀吉が世を去った4ヶ月後の慶長3年(1598)12月に急に仁和寺に入室し、第3皇子三宮がそのあとにすえられているが、そこにもすでに家康の意志が働いていたとして良いであろう。
 さて和子の入内(じゅだい)は途中大坂の陣、また徳川家康の死去などがあってのびのびになり、元和6年(1620)6月になってようやく実現している。後水尾25歳、和子14歳のときのことであった。この和子入内の状況は「東福門院入内図屏風」にその詳細が描かれている。日本の女性で彼女ほど豪華華麗な婚儀をした者はいないだろうと思わせるほどのものであるが、それは必ずしも結婚した当事者の幸福を意味するものではなかった。そもそも和子の入内そのものが外戚の地位を得るためという狙いからであったうえ、それをとおして幕府の朝廷支配を直接的なものにするという政治目的をもっていたので、それをめぐっての両者のトラブルは絶えなかった。(中略) (「江戸時代」から)
和子の入内  さて和子は元和6年5月8日江戸城を出発、同月28日に京都に着き二条城に入り、6月18日に女御の宣下があって同日入内するのだが、その儀は盛大を極め空前絶後と人々を驚かせたことは前述のとおりである。しかしこの入内をめぐって、感情的には朝幕間はかえって悪化している。(中略) (「江戸時代」から)
後水尾天皇の退位と徳川氏の虚器  後水尾天皇は歴代のなかでももっとも気性の激しい天皇の一人、しかも年も若かったのでこのような強圧的な幕府の圧迫を心よく思っていたわけではないので、和子入内にさきだって不身持を幕府から責め立てられたとき、すでに退位のことを思っていたと言われるが、このようなことが更に重なってやがて和子との婚儀の9年後の寛永6年11月突然の退位となっている。(中略) (「江戸時代」から)
御用済みになった天皇  いわば徳川氏にとって後水尾天皇は明正天皇即位の寛永6年11月段階で御用済みになったわけであるが、そのことは同じ和子についても同様であった。他人の幸、不幸の度合いを付度するのは実際は大変むつかしいことである。sぢたがって歴史家としてはできうればそのようなことは避けるべきであろうが、後水尾天皇が徳川氏のちからによって事ごとくその意志を踏みにじられて、決して幸福とは言えなかったと同様、政略に利用された和子の場合もまた後水尾同様不幸であったろう。
 後水尾天皇は早くから徳川氏に憤怒の念を持っていたことは疑いなかろうから、いわば徳川氏の朝廷圧伏の道具として送り込まれた和子に愛情をもったとは考えられない。ふしろ憎悪の念さえ持っていたろう。皇子(5歳で崩御)、皇女をもうけたのも愛情の結果というより、新しい女性への一時的な興味といったほうがより真実に近かったであろう。
 しかし後水尾天皇が在位のあいだは、それでもまだ幕府への気がねが和子におよぶことがあったろうが、退位をすればもはや遠慮はいらぬところで、後水尾の関心は数多くの他の女性に移っていったろう。また和子の生家の徳川氏とて、御用済みとなった和子に朝幕間の亀裂を恐れず肩入れすることはなかったであろう。東福門院和子は後水尾天皇退位の寛永6年11月、23歳の若さで事実上の後家・隠居の立場にまつりあげられたわけである。 (「江戸時代」から)
<「雁金屋」への莫大な注文> 東福門院和子は後水尾天皇退位の1629(寛永6)年11月、23歳の若さで事実上の後家・隠居の立場にまつりあげられ、夫からも生家からも見捨てられたこの不幸な女性は、それから死ぬまでの50年間にもわたる長い年月をなにを生き甲斐に暮らしていたのであろうか。 それは一言でいえば”衣装狂い”狂気のような着物の新調にあけくれた一生であった。東福門院和子は1678(延宝6)年6月20日に死亡するが(72歳)、この死亡する年の半年間にでも山根有三氏の計算によれば御用呉服師「雁金屋(かりがねや)」に、
  御地綸子御染縫         31反
  御地りうもんノ綸子御染縫     49反
  御地ちりめん御染縫        7反
  振袖御地りうもんノ綸子御染縫   2反
  御遣物りうもんノ綸子御染縫   10反
  御帷子御染縫          96反
をはじめとして都合340点もの衣装を注文している。そのどれも、「御地上々りうもんノりんす」「御地上々りんす」「御地上々類なし」「御地上々ちりめん」といった極上上の地のものだけである。 そしてその総代価は銀になおして150貫目におよんだとのことである(山根有三「尾形光琳について」)。いまこれを銀50匁を金1両、金1両を今日の通貨5万円として試算してみると1億5千万円という額になる。これが72歳の老婆が半年間に雁金屋という御用呉服店につくらせた衣装だからただただ驚くほかはない。 それはまさに”狂気”としか言いようがない。雁金屋のこの帳簿をみつめていると、寒気のなかに荒廃しつくした彼女の心象風景が瞼に浮かび、私はそこに鬼気といったものさえ感ずるのである。
 ちなみに彼女が入内して3年目の元和九年(1623)1年間に雁金屋につくらせた衣装は小袖45点、染物14反で金額にして都合銀7貫868匁(前記のような計算をすると787万円)であるので、彼女の”衣装狂い”は後水尾天皇退位以降、年とともにはげしくなったとすべきであろう。
 さてこれだけなら夫と生家に見放された不幸な女性の金にあかせた”衣装狂い”であって、まともな歴史など取り上げるべきことではないが、それが世界でもっとも美しいと賞賛される日本女性の和服文化と、元禄文化を、さらに日本文化を代表する尾形光琳・乾山を生み出した雁金屋と関係しているから事は重大である。もし彼女の”衣装狂い”がなかったら、あるいは今日の和服も、また尾形光琳・乾山もなかったかも知れないのである。 (「江戸時代」から)

略年表
西暦 年月日 出来事
1600 慶長 5. 9.15 関ヶ原合戦
1603 慶長 8. 3.24 徳川家康が征夷大将軍となり、幕府を開く
1605 慶長10. 4.16 家康、将軍職を秀忠に譲る
1607 慶長12.10. 4 和子、2代将軍徳川秀忠の8女として生まれる
1613 慶長18. 3. 8 入内の宣旨が正式に発せられる
1614 慶長19.11.15 大阪冬の陣 20万の徳川軍が大坂城攻撃に出陣
1615 元和元. 5. 8 大坂夏の陣 豊臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡する
1616 元和 2. 4.17 徳川家康が駿府城で没 75歳
1620 元和 6. 6.18 後水尾天皇の妃として入内 和子12歳 後水尾天皇23歳
1623 元和 9.11.19 17歳で興子内親王(明正天皇)を出産
1623 元和 9. 7.27 徳川家光が将軍となる
1629 寛永 6. 7.25 紫衣事件 大徳寺の沢庵宗彭(そうほう)らは流刑に、沢庵は出羽の上ノ山(山形県上山市)へ流される。
1629 寛永 6.11. 8 後水尾天皇退位し、興子内親王が明正天皇として即位。和子は女院御所にうつり、東福門院とあらためた
1635 寛永12. 5.28 日本人の海外渡航と帰国を禁止、外国船の入港地を長崎1港に限定
1637 寛永14.10.25 島原の乱起こる
1643 寛永20.10.21 明正天皇、後光明天皇に譲位
1657 明暦 3. 7.22 江戸明暦の大火 振袖火事とも言う 死者10万人
1658 万治元 尾形光琳生まれる
1678 延宝 6. 6.15 東福門院和子崩御 享年72歳

<"伊達くらべ"の盛行>  近世初頭、鎖国前も含めてわが国の輸入品の圧倒的大部分は白糸(しらいと)と呼ばれる絹糸および絹織物であった。豪奢を好むわが国の新興支配階級に、とくにその妻子たちにこのうえもなく絹が愛好されたからである。それは急速に国民の各層にまで伝播したらしく早くも寛永19年(1642)幕法に「村役人は絹・紬・布・木綿を来てもよいが、一般百姓は布・木綿以外は着てはいけない」とあるのでわかるように、この段階には絹・紬の使用が一般農民にまでおよび始めていたことがわかる。この傾向は農民的余剰が一般的に成立して、庶民大衆の生活水準が急向上を始める4代将軍家綱の後半から5代将軍綱吉の初政時代にかけてひときわ目立つようになる。金持ちで派手好きは妻女は金にあかせ意匠をこらした衣服をつくって、それを仲間どうしで競いあった。この衣装競争のゆきつくところが、この時代を代表する社会風俗である"伊達くらべ"、つまり”衣装くらべ”であった。
 天和元年(1681)5月、綱吉が5代将軍になってまだ1年経っていないときの話である。彼が祖先の廟がある上の寛永寺に参詣したとき、上のの町を通りかかると、ひときわ見事に飾り立てて自分を迎えている女性が目についた。彼女は金の簾をたれ、金の屏風を引き回した前に、これも美しく着飾らせた8人の腰元を従えて立っていた。
 調べさせてみると浅草黒門町の町人石川六兵衛の妻だということであった。綱吉は身の程をわきまえない者、というので早速この六兵衛一家を闕所処分(財産没収のうえ追放)の刑にしているが、彼女の言い分は「自分は将軍の行列に”伊達くらべ”をしかけたまでだ」というのであるから面白い。衣装くらべも行き着くところまで行ったものである。これより先のことであるが、この石川六兵衛の妻は、江戸には自分の相手になる女性がいないというので、はるばる京都にまで”伊達くらべ”に出かけている。このときかの補の相手をしたのは、京都の小紅屋権兵衛の女房とも、那波屋十右衛門の妻女だとも言われている。
 ともかく石川六兵衛一家は前記のように闕所になったが、それは天下の将軍に”伊達くらべ”をしかけたからで、”伊達くらべ”そのものが悪いというわけではなかった。元禄の繁栄のなかでそれはますます盛んになったようである。
 たとえば尾形光琳の最大のパトロンであった銀座商人中村内蔵助の妻も、伊達女として有名であった。彼女が京都の東山で行われた衣装くらべに、尾形光琳の助言を入れて、自らは白無垢の着物に羽二重の裲襠(うちかけ)を着、その侍女たちには花のごとく美しく着飾らせたのを従えて、並み居る伊達女たちを圧倒したという話は有名である。また光琳が、江戸深川の豪商冬木屋の妻女のためにつくった”冬木小袖”は、当時の伊達の到達した美として有名である。
 東福門院和子は皇太后でもあるので、さすが自ら”伊達くらべ”に出ることはなかったが、このような”衣装狂い”のオピニオンリーダーでもあり、またそれ故に衣装製作技術の最大の育成者でもあった。そして彼女の愛願のもとで技術をみがいたのが尾形光琳の生家の雁金屋であった。 (「江戸時代」から)
*                      *                      *
<江戸時代主要な輸入品目の絹が、維新後主要な輸出品目に>  戦国末期から江戸時代初頭にかけては、わが国は世界でも有数な貴金属の産出国であった。しかしその結果得られたわが国保有金銀は、生糸、絹織物輸入の代価品として、どんどん国外に流出していったのだった。もしこの金銀産出がそのまま続けば問題はなかったのだが、ほぼ寛永の末年(1643)ころ底をつくので、後は保有金銀の消耗によって生糸は購入されていたことになる。貞享元年輸入額を制限したうえで糸割符制を復活したが、この段階になると保有金銀の底がみえはじめ、もはや輸入額を制限する以外に方法がなくなっていたのであった。
 このようにしてさしものわが国の保有金銀も衣装代として国外に流出してしまうのだが、その額を新井白石はその著『折りたく柴の記』のなかで、正確には知り難いが、慶安元年(1648)から宝永五年(1708)までの60年間に金239万7600両余、銀37万4229貫目余であると計算し、さらにその前の慶長6年(1601)から正保4年(1647)までの46年間にはその2倍あったと推定している。これでゆくと慶長6年から宝永5年までの108年間の流出したわが国の貴金属の量は金719万2800両と銀112万2687貫となり、それはわが国の慶長以降の総産出金銀の、金はその4分の1、銀はその4分の3にあたり、このままほうっておけばあと100年もすると金は半分にもなってしまい、銀にいたってはそこまでいかないうちに零になってしまうと心配している。
 東福門院和子の衣装狂いに始まった、わが国の絹製品消費の増大化は、”伊達くらべ”でさらに加速され、「鎖国」日本の経常収支赤字に大きな影響を与えることになった。これが江戸時代初期のこと。
 さて、明治維新になり「鎖国」をやめ、海外との貿易を活発化させると、絹製品が主要な輸出品目になっていた。天下太平の江戸時代に、大きな産業の変革が起きていた。絹の輸出に関しては「シルクサイト」 http://www.silk.gr.jp/kiso/transport.html を参照のこと。
<「東福門院和子の衣装狂い」が日本の絹産業を育てた>  マックス・ウェーバーによれば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」ということで、資本主義の「精神」とプロテスタンティズムの倫理の間に因果関係がある、ということになる。こうした考えと対極にあるのが、ヴェルナー・ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」、つまり「恋愛と贅沢とが資本主義を育てる」という考え方だ。
 日本の戦後の経済成長は官僚主導の統制経済でもないし、世界で最も成功した社会主義経済でもない。「日本株式会社」ではなく、「官に逆らった経営者」が出てきて、当時のヨーロッパ諸国とは違った「自由な市場経済」だった、と言うのがTANAKAの考え方だ。そして、こうした戦後の経済成長の原点である「江戸の市場経済」は、「プロテスタンティズム」でも「儒教的倫理観」でもなく「趣味と贅沢が市場経済を発展させた」であり、それは「恋愛と贅沢と資本主義」と同じ考えであり、「市場経済の基礎は江戸時代にできた」がTANAKAの考え方だ。「禁欲と資本主義」ではなくて「人々が自分の欲望を満足させようとすることによって、資本主義経済は成り立っている」とのアダム・スミスの考えや、ヴェルナー・ゾンバルトの考え方の方が経済を理解するには役立つように思える。
 江戸時代の対する見方は「封建時代」「近世」「幕藩体制」「士農工商の身分制度」であり、百姓や町人は歴史の主役ではなかったように思われている。けれども、新田開発では資金のある百姓が主役で開発した新田も多い。今週の”伊達くらべ”では商人の妻子が絹産業を育てることになった。そして、江戸の経済的発展は「趣味と贅沢」に刺激された要素が大きい。
 江戸時代は「天下太平、変化の少ない封建時代」ではなかった。百姓間では「所得格差。資産格差・権力格差」が大きく、「趣味と贅沢」が産業構造を大きく変化させた時代であった。その変化に目を向けるか、「封建時代」「近世」「幕藩体制」「士農工商の身分制度」「鎖国」などの言葉を使うことによって、実際の変化から目を背けて、安心してしまうか?このホームページでは、そうした固定観念に挑戦して、新しい見方を育てようなどという冒険に挑んでいる。ということを理解した上で、ダッチロールの続くこのHPにお付き合いのほど、宜しくお願い致します。
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<主な参考文献・引用文献>
『江戸時代』                            大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
小説『東福門院和子の涙』                      宮尾登美子 講談社       1993. 4.13 
小説『東福門院和子』                        徳永真一郎 光文社文庫     1993. 4.20 
『養源院の華 東福門院和子』                 柿花仄(ほのか) 木耳社       1997. 9.20 
歴史ロマン『火宅往来──日本史のなかの女たち』            澤田ふじ子 廣済堂出版     1990
小説『江戸の花女御 東福門院和子』                  近藤富枝 毎日新聞社     2000. 1.15
『花の行方 後水尾天皇の時代』                   北小路功光 駸々堂出版     1973. 4.15
『近世の女たち』                            松村洋 東方出版      1989. 6.15
『人物日本の女性史 徳川家の夫人たち』                円地文子 創美社       1977.10.25
『新・歴史をさわがした女たち』                    永井路子 文芸春秋社     1986.11.15
『修学院と桂離宮 後水尾天皇の生涯』 歴史と文学の旅        北小路功光 平凡社       1983. 6.15
『江戸時代史』上巻 1927(昭和2)年の復刻版           栗田元次 近藤出版社     1976.11.20 
『夢魔の寝床』伊達くらべ元禄の豪商                  多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20 
( 2008年6月23日 TANAKA1942b )
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(3)鎖国とは外国人が言い出したこと
 ゆるやかな情報革命であり、貿易高も無視できない
<第1次開国 "鎖国" =大石慎三郎『江戸時代』から>  渡来宣教師による精力的なキリスト教の布教活動に危険を感じた豊臣秀吉は、天昇5年(1587)に禁教令を発し、翌年には布教の中心地である長崎からヤソ教徒を追放する。以後この政策方針は徳川政権にも引き継がれ、元和2年(1616)には中国船以外の外国船の来航地を九州の平戸と長崎との2港に限定、さらに翌元和3年にはイスパニア(スペイン)との通交を拒否する。
 またこのころから信徒の処刑等、キリスト教徒の弾圧取締も厳しくなるが、それと並行して海外交渉にも次第に強い制限が加えられてゆく。すなわち寛永10年(1633)には奉書船以外のわが国貿易船の海外渡航を禁じ、同時に在外5年以上の日本人が帰国することが禁じられた。翌11年には長崎の町人に出島を築かせ(同13年完成)、ポルトガル人をここに移した。ついで同12年には外国船の入港、貿易をする場所を長崎1カ所に限り、日本人が海外に渡航すること、および在外日本人が帰国することを全面的に禁止した。
 翌々14年九州島原のキリシタンたちが領主の圧政に反抗して一揆を起こし(島原の乱)、幕府はその鎮圧に苦労する。この一揆が治まった翌年の寛永16年、幕府はポルトガル船の日本来航を禁止し、長崎に来てわが国と貿易できる外国をオランダと中国の2カ国のみとした。 以上でわが国の”鎖国”が完成するのだが、この鎖国は表面的にはキリスト教倫理が封建体制に矛盾することを嫌った幕府の禁教策の帰結としてたどりついた体制であるが、その背後にはオランダによる日本貿易独占の意図や、西南諸藩が対外貿易で富裕化することを恐れた幕府の貿易利潤独占策があったのだとするのが通説である。 (『江戸時代』から)
<鎖国は世界と接触する手段>  私はこの通説にあえて異をとなえる心算はないが、鎖国に対する秀吉以下の一連の政策が、西欧人の日本をメキシコ、ペルー化しようとする意図を打ち破る役割をしていることに注目しておきたい。
 戦国末期、ポルトガル船のわが国来航によって、極東の島日本ははじめて世界史に取り込まれることとなった(この段階の西欧人はメキシコ、ペルーの例でわかるように、凶暴きわまりない存在であった)。近世初頭は、世界史に取り込まれるという初体験のもとでどのように生きてゆくかという難問に、日本が必死の努力をもって対応した時代である。そして”鎖国”という体制はその解答であった。
 ”鎖国”という言葉のもつ語感から、われわれはわが国が、この行為によって諸外国に対して国を閉ざして貿易、交通さえしなかったと誤解しがちであるが、鎖国後のほうがその前よりわが国の対外貿易額は増えているのである。また江戸時代の”鎖国”なるものを誤解しないためには、国家というものはどんな時代でも密度の差異はともかくとして、必ず鎖国体制(対外管理体制)をとるものであることを承知しておく必要があろう。
 ”鎖国”とは一度取り込まれた世界史の柵(しがらみ)から、日本が離脱することではなく、圧倒的な西欧諸国との軍事力(文明力)落差のもとで、日本が主体的に世界と接触するための手段であった。つまり”鎖国”とは鎖国という方法手段によるわが国の世界への”開国”であったとすべきであろう。したがって寛永の”鎖国”こそが日本の世界への第1次開国であり、世に”開港”という言葉で呼ばれて”安政の開港”は、江戸時代という時代の錬成を経たわが国の第2次開国であったとすべきである。 (『江戸時代』から)
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<「鎖国」の誕生>  17世紀末、オランダ商館の医師として2年間日本に滞在したドイツ出身のエンベルト・ケンペルは、帰国後、アジアで観察した事柄を『廻国奇観』という大書にまとめ上げた。彼の死後の1727年、遺稿をもとに『日本史(誌)』が刊行され、ヨーロッパでの日本理解に大きな影響を与えた。ドイツ人による日本からの情報発信であった。
 特に、その『日本史(誌)』の巻末の1章は、1801年、志筑忠雄(中野柳圃)によって『鎖国論』として日本語に訳出されたことで知られている。ドイツ語版の見出しは、「日本国において正当な理由から自国民には海外出国が、外国人には渡来が禁じられ、そのうえこの国と他の世界の国々との交流が一切禁じられていることに実証」(斉藤信、ケンペル『江戸参府旅行日記』解説)というものであったが、志筑はこれを自分流に訳したのであった。板沢武雄氏によれば「鎖国」を「鎖閉」とも訳しており、「開国」に対して幾分対称語的な感覚であったという。(「鎖国および<鎖国論>について)。
 『日本誌』は本文5巻と付録からなる膨大なもので、日本への旅行記や日本の歴史、地理、政治、宗教、貿易、江戸参府旅行日記、鎖国(注ーいわゆる「鎖国論」)など多岐にわたっている。
 日本国家についての認識は次のようなものである。日本は「日の本(ひのもと)」つまり太陽の基であり、天の下という意味で天下は皇帝などを指す尊称となっていること、国は本島・九州・四国とその周辺の島嶼からなり、その守護のもとに琉球(薩摩の臣下)・朝鮮(壱岐・対馬を通じて統治)・蝦夷(松前藩を通じて将軍に服従)がある。日本の周囲には断崖絶壁が多く、海岸線には岩礁の散在する浅瀬が多く、着岸上陸が難しく、いわば天然の要塞に守られ、生活必需品は自給自足でまかなえる。 (『鎖国=ゆるやかな情報革命』から)
<諸外国への関心>  外交について徳川幕府は諸大名に対して独占的な地位を保っていた。その結果、戦国時代から安土桃山時代、徳川時代の初頭と、盛んであった諸大名の外国関係を、次第に締め上げてゆき、寛永14年(1637)の島原の乱を契機に、鎖国体制という形で統制するようになる。
 鎖国体制ができると、徳川幕府はさきに記したように、軍事力をだんだんと縮小していって、いわゆる「軍備のない国家づくり」という方向へ向かう。しかし、諸外国に対する注意が全然なされていなかったというわけではない。
 徳川幕府は、鎖国体制をつくるにあたって、オランダのみに日本との貿易を許可するが、その反対給付としてとられたのが、オランダが、世界の情勢を正確に、忠実に日本に報告するということである。
 その報告書が残っているのが、一般に「阿蘭陀風説書」と言われている。
 阿蘭陀から次の商館長が長崎に来るまでの間に起こった、諸外国の歴史的な事情を文書にして提出する。それは日本語に翻訳され、外交を担当する幕府の役人、すなわち老中たちが目を通していた。多分、当時の老中は、諸外国の状況に目を通し、日本がどうしたらいいかということに、絶えず関心を払っていたのだと考えられる。
 例えば、寛文2年(1662)には中国の明が滅んで、清になるわけだが、このころ明朝の方としては、何とか明を再興したいと、さまざまな努力をし、その一環として日本に出兵を要請する。これを明の”乞師の問題”と読んでいるが、徳川幕府はそれをいろいろ検討した結果、中国の革命および朝廷の交代に伴うトラブルには関与しないことにした。そのために、やがて明朝は滅んでいくのだが、もしこの時日本が中国問題に巻き込まれていたら、どうなっていただろうかという問題は、一度考えてみてよい問題であろう。
 結局、日本はその要請を断って、いわゆる鎖国体制という体制を守ったのである。
 そういう意味で、鎖国体制というのは、ただむやみに国を閉ざす、ということではない。世界の状況に目を配りながら、日本の行くべき道を計るという形での国の保持の仕方であって、のちの明治政権は、日本が植民地獲得競争に遅れをとったのは、江戸幕府が鎖国体制のもとで惰眠をむさぼっていたせいだとして、対外戦争にのめり込んでいくのだが、もし、明治政府が江戸時代の対外目配りの意味を理解していたら、歴史はもっと変わっていたのではないだろうか。 (『鎖国=ゆるやかな情報革命』から)
<いわゆる鎖国令>  「鎖国」については、近年、中国(明・清朝)の「海禁(海外への出入禁止)」政策との関連から、東アジアにおける日本中心のいわば「日本型華夷秩序」の思想の表れとして捉える見解がある。これは従来の、日本にとっての得失という観点から論じられた閉鎖社会としての「鎖国」論に対して提起されたもので、新しいコンセプトではあるが、本書では、幕府による対外政策の表現として「鎖国」という用語を使用する。
 徳川家光が3代将軍となった後、「鎖国」に関しては、長崎奉行宛て奉書など次々と指令が出ている。その主なものは、
 1633(寛永10)年2月28日付、17ヶ条。
  ●奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止、在留5年未満の者の帰国は許可。
  ●キリシタンを訴えた者に銀100枚。
  ●特定商人の貿易独占禁止。輸入生糸については京・堺・長崎・江戸・大坂5ヶ所の糸割符仲間に取引優先権。
 1634(寛永11)年5月28日付、17ヶ条。
  ●前回と同じ(この年、ポルトガル人を長崎・築島に移住、町人との接触を禁じ、武器類の輸出を厳禁としている)
 1635(寛永12)年5月28日付、17ヶ条。
  ●日本船の海外渡航は全面的に禁止、出国・帰国のいずれも死罪。
 1636(寛永13)年5月19日付、19ヶ条。
  ●キリシタンを訴え出た者に銀200枚または300枚。
  ●ポルトガル人の子孫は追放、残留もしくは日本に戻ってきた場合は死罪。
  ●中国船の入港も平戸・長崎・2港に限定。
 1639(寛永16)年7月5日付、3ヶ条。
  ●布教のため密入国、信者は徒党をくみ邪悪なことを企てるので誅罰。今度はポルトガル船(カレウタ船)の来航を禁止。来航した場合、船は破却、乗船者は斬罪。
 こうしてみると、ポルトガル人包囲網が着々と築かれていることがよくわかる。幕府にとって1637(寛永14)年の島原の乱は、キリシタン信仰による反乱であり、ポルトガル人追放の絶好のタイミングとなったのである(国としてのポルトガルは1580年から60年間、スペイン国王の支配下にあった)。
 ポルトガル側は直ちにマカオとゴアの政庁が連携し、1640(寛永17)年長崎に施設を特派したが、幕府は使節のほか乗組員60数名を斬首、わずかな下級船員をマカオに送り返し、鎖国令の存在を内外に示した。かくしてポルトガルとの関係は断絶した。
 同時に、東南アジアに点在した日本人町との関係も途絶え、1635(寛永12)年の渡航禁止令によって日本人の出国は全く不可能となった。当時、朱印船や奉書船を利用して東南アジア各地に移住した者は多く、マニラや交趾・フェフォ(ホイアン)・アユタなどに日本人町が形成され、多いところで居住者は3,000人に達したという(岩生成一『南洋日本町の研究』『新版朱印船貿易の研究』)。
 彼らは本来、日本から東南アジアへの情報発信を担うべき人材であったが、朱印船の活動がそうであったように日本から発信する情報もなく、まさに点在するのみであった。貿易拠点である日本人町では、朱印船やヨーロッパ船と連携しながら日本向け商品の調達を行ったりする者もいたが、こうした拠点と拠点を結んで組織的に情報を交換するという意識は薄く、日本と日本人町とを結ぶ情報ネットワークが形成されるには至らなかった。
 かくて、朱印船貿易の地盤も継承し、オランダ東インド会社の対日貿易高は飛躍的に増大、黄金期を迎えることとなる。
 こうした一連の「鎖国令」は、簡単な箇条書の形をとりながら、老中連署の様式により、国の内外に対し幕府の意志を伝えるメッセージとなった。これによって、日本からヨーロッパ諸国に対する「発信」は途絶え、日本とヨーロッパ諸国を結ぶ「公的回路」は、わずかオランダ1国に絞られていった。 (『鎖国=ゆるやかな情報革命』から)
<理解概念用語としての「鎖国」>  現在、鎖国について従来の見方が問い直され、幕藩制国家が鎖国していたか否かさえ再検討されている。その根拠は、鎖国期でも海外と交渉があったことや、「鎖国という言葉がなかった」ことなどである。 これらは鎖国否定の十分な根拠となるだろうか。鎖国とは、国債関係の制限を伴う国家体制を説明するについて、19世紀の初めに与えられた理解概念の用語である。鎖国という呼称がなかったからと言って、為政者も一般の日本人も自国の環境を鎖国と認識していなかったということはない。 19世紀にこの用語が抵抗なく受け入れられたのはそのためである。また、長崎・対馬・薩摩・松前の「4つの口」が城外に開いていたので鎖国とは言えない、という見方もある。では「口」はなぜ辺境の四ヶ所で、江戸・大坂のような政治・経済の中心の臨海大都市ではなかったのか。 日本の安寧を守るについて、ヒト・モノ・情報を管理するにに、急所となるような拠点を避けたためである。
 幕府が江戸と長崎で実施した鎖国の実務は、出入国官吏ばかりでなく、漂流・漂着者への取り調べ、海上監視、航路官吏、国境の官吏、滞日外国人の取り締まり、輸入書物の検閲、情報の分析、輸出入品に関する規制等々、領域を守り、よいものを取り入れつつ、侵略・反体制思想その他、悪しきものが日本に近づかないように、日本からも安全を脅かすようなものが出てゆかないように警戒することであった。 危機感に満ちた17世紀の方が、はるかに鎖国というにふさわしい状況だったことは、既述の通りである。 (『鎖国と国境の成立』から)
<海禁という表現はどうか?>  鎖国を海禁に言い換えるべしとする説があるが、前述の史料のように、海禁に相当する場面があったにせよ、鎖国の実態にはそぐわないところがある。 どこに違和感があるかと言えば、海禁は一国の体制を指すというより、ある体制のもとで出された特定の取り締まりを指すが、鎖国は法令による取り締まりというとりは体制そのものを指す言葉だからである。 幕藩制国家の基礎が固まってゆく過程で、幕府が理想とする対外方針を民間に徹底させるために、1630年代に長崎奉行に示した何項目かを現在鎖国令と呼んでいると思うが、これは中国の海禁令のように、政権の終了まで繰り返し発布されたり強化・緩和されたりしたものではなく、いったん決まってからは変更されず、 体制の基礎部分に取り込まれていったものである。『徳川実紀』が海禁と呼んでいるのは民間人の海外渡航禁止だけで、これは鎖国(鎖国令)の表層部分である。 (『鎖国と国境の成立』から)
*                      *                      *
<それでも、江戸時代は「鎖国」であった>  この「江戸時代の歴史観が変わりつつある」シリーズでは、今まで常識と思われていたこのに対して異論を唱えたり、「すでに評価は変わっているよ」と主張することにしている。したがって、「鎖国」を扱うとすれば「江戸時代を鎖国と表現するのは適当でない」と主張するべきかもしれないが、現在では多くの人々が「鎖国ではない」と主張し始めている。けれども、「鎖国ではない」と言いながら、では何と表現すべきか?となると説得力のある答えはない。「海禁政策」という言葉も適当とは思われない。現代や、明治維新以後に比べれば、外国との交流が大幅に制限されていたことに間違いはない。「外国との交流が全く閉ざされていた訳ではないが、強力に制限されていたのだから、鎖国という表現が適当だろう」というのがTANAKAの主張だ。つまり、「鎖国」という言葉は、全く国を閉ざした状態だけではなく、江戸時代のようなオランダ1国との交流に制限していた状態も「鎖国」と表現する、と考えると良いと思う。「鎖国」という言葉が江戸時代を完璧に表現している訳ではないが、他に適当な言葉がないので取りあえず「鎖国」という言葉を使うのが「功利的」だと言うのが、江戸時代を扱ってのTANAKAの考えだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『江戸時代』                      大石慎三郎 中公新書     1977. 8.25
『鎖国=ゆるやかな情報革命』         市村佑一+大石慎三郎 講談社現代新書  1995. 9.20
『長崎貿易』                       太田勝也 同成社      2000.12.10
『長崎の唐人貿易』           山脇悌二郎 日本歴史学会編 吉川弘文館    1964. 4.15
『近世オランダ貿易と鎖国』                八百啓介 吉川弘文館    1998.12.20
『日蘭貿易の史的研究』                  石田千尋 吉川弘文館    2004. 9.10
『日本の歴史』14鎖国                  岩生成一 中央公論社    1966. 3.15
『鎖国とシルバーロード』世界のなかのジパング       木村正弘 サイマル出版会  1989. 2.
『鎖国と国境の成立』                  武田万里子 同成社      2005. 8.10 
( 2008年6月30日 TANAKA1942b )
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(4)「生類憐れみの令」は異常な命令か?
 平和な時代になり畜生の命さえ大切に、との令  
犬公方綱吉の「生類憐れみの令」 5代将軍徳川綱吉の時代「生類憐れみの令」が出され、人の命よりも犬・猫・馬の命を大切にする法令との悪評が立っていた。実際はどうだったのだろうか?どうしてこのような法令が出されたのだろうか?それほどまでに悪い法令だったのだろうか?
 今週はこんなことをテーマに話を進めてみよう。まずは『生類憐れみの世界』と題された本からの引用。
*                      *                      *
<「生類憐れみの令」の研究> 17世紀の日本で、動物愛護令が大々的に打ち出されていたことは、同時代の世界史上でもほとんど類例を見ないものなのだが、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉の政権が触れた「生類憐れみの令」は誇りうるものであるどころか、悪政の典型とされている。人命よりも動物の保護を優先したとして、その歴史的評価はみわめて低い。その評価はここでは措くとして、この法令には人間が動物保護にどのように取り組んだらよいかを考えるさまざまな視点が内包されていて、実に興味深い歴史事象であると言えよう。
 ところが、いざ「生類憐れみの令」を調べてみると、その事実関係や歴史的評価は諸書によりさまざまであり、諸説入り乱れた研究状況を呈していることがわかる。たとえば、基本的な日本史の知識を拾得することを目的とした高等学校の教科書でさえ、この法令の発令原因として一人息子に死なれて跡継ぎに恵まれなかった綱吉が僧の隆光から「子どもがいないのは、前世の折衝の報いである。子どもが欲しければ生類憐れみを心掛け、とくに綱吉が戌年生まれであるから犬を大事にするよう」に言われという隆光進言説を採用するもの(『新選日本史B』東京書籍、1998年3月検定済、2004年4月発行)や、その発令年次についても貞享2年(1685)とするもの(『詳説日本史改訂版』山川出版社、1997年3月検定済、2003年3月発行)や特定していないもの(『日本史B』三省堂、2003年4月検定済、2004年3月発行、『日本史B新訂版』実教出版、1997年3月検定済、2003年1月発行)などさまざまであり、その歴史的評価の記述もまちまちである。
 さて、前述した隆光進言説は、著者・成立年とも不詳で、五代将軍綱吉、六代家宣、七代家継の治世を記した歴史書『三王外記』が発信源であるが、池田晃淵著の『徳川幕府時代史』(早稲田大学出版部、1907年発行)や徳富蘇峰著の『近世日本国民史』(民友社、1925年発行)に採用されて以来、広く流布することとなり、長年にわたり支持されてきた。しかし、その後の実証的な研究によっても、これを裏付ける証拠は現在までのところ見出せず、また隆光が江戸の寺院に赴任した時期と「生類憐れみの令」が発令された時期にはズレがあるとの意見もあって、最近ではこれに否定的な説が定着してきている。
 ところで、「生類憐れみの令」の研究は比較的多くの蓄積があるが、近年その見直しが積極的に進められ、新しい見解が提示されつつある。その中で、20年程前に、元禄期を中心に人間と生類との関係を政治・社会史的な視点から論じた塚本学氏の『生類をめぐる政治ー元禄のフォークロアー』(平凡社選書80、1983年)を紹介しておこう。この中で、塚本氏は、生類憐れみ政策として実施された当時の鷹・犬・牛・馬などの生類の保護や同時期に行われた鉄砲改めなどの歴史的・社会的意味を問い、この政策を打ち出した綱吉政権の意図を追求した。その結果、発令時期については「生類憐れみ令なrつものは、綱吉個人の恣意によって、あるとき突然始まったというものではないから、始期を特定するこちは難しい」という認識を示し、またこの政策の意図したところは人間を含む一切の生類を幕府の庇護・管理下に置こうとするものであると同時に、「諸国鉄砲改め令は、したがってこれを一環とする生類憐れみ政策は、徳川政権による人民武装解除策という意味を持った」とし、大名に対しては「徳川政権への臣従化を徹底させるものであった」として、「生類憐れみ政策もまた、非常に古くからの歴史の遺産と、その時代特有の条件とのうえに、展開し、また瓦解したのである」と結論づけた。全国各地の史料を博捜し、古くからの人間と動物とのかかわりの歴史を視野に入れながら、この政策の意味するところを投じの社会状況への対応として広く深く追求し、新知見を開示されたことは高く評価されよう。
 その後しばらく、塚本氏が提示した見解への目立った反論はなかっtが、山室恭子氏が『黄門さまと犬公方』(文春新書10,1998年)で批判を展開している。この中で、山室氏は、「生類憐れみ令」と正面から向き合うことを明言したうえで、その始期を貞享2年7月の「将軍の御成道筋に犬や猫が出てきてもかまわない」という法令に求め、その政策意図を「この珍奇なる政策のねらいは、跡継ぎ欲しさでも人民武装解除策でもなく、戦国以来の殺伐たる『夷秋の風俗の如き』現状を変革するために、人々の『仁心』を涵養することにこそあった」とし、「生類憐れみ令」を大きな政府へ導きための牽引車であったと結論づけた。ここでは、塚本説の批判に対する根拠をあまり明示していないことやこの法令の全国への影響を分析していないことなどの問題点をゆうしているようにも思われるが、塚本氏が提示したこの政策に内在する1つひとつの政策の歴史的評価への批判には共感できる部分が少なくない。塚本氏にしても、、山室しにしても、この法令の発令の原因と考えられてきた隆光進言説の呪縛を解き放ち、生類憐れみ政策の深層究明に果たした役割は大きく、その面会の相違がこの研究の問題点をも浮き彫りにしていると言えよう。 (『生類憐れみの世界』から)
<「生類憐れみの令」読み下し文> 江戸時代の文章に馴れる意味で【読み下し文】を読んでみましょう。
【読み下し文】
     覚
一、兼て仰せ出され候通り、生類あわれみの志、いよいよ専要に仕るべく候、今度仰せ出され候意趣は、猪鹿あれ、田畑を損ぜさし、狼は人馬犬等をも損ぜさし候故、あれ候時ばかり、鉄砲にて打たせ候ように仰せ出され候、然る処に、万一、存じ違い、生類あわれみの(心)忘れ、ぬざと打ち候者これ有り候わば、きっと曲事に申し付くべき事。
一、御領・私領にて猪鹿あれ、田畑を損じさし、或いは猿あれ、人馬犬等損ぜさし候節は、前々の通り、随分追い散らし、それにても、止み申さず候わば、御領にては御代官、手代、役人、私領にては地頭より役人ならびに目付を申し付け、小給所にては、その頭々へ相断り役人を申し付け、右の者共にきっと誓詞致させ、猪鹿狼あれ候時ばかり日切を定め、鉄砲にて打たせ、そのわけ帳面にこれを註し置き、その支配支配へきっと申し達すべく候、猪鹿狼あれ申さず候節、まぎらわしく殺生仕らず候ように堅く申し付くべく候。若し相背く者これあらば、早速、申し出で候様に、その処々んも百姓等に申し付け、みだりがましき儀候わば、訴人に罷り出て候様に兼々申し付け置くべく候。自然隠し置き、脇より相知れ候わば、当人は申さず(申すに及ばず)、その所の御代官・地頭、越度たるべき事。
 右の通り堅く相守り申すべき者也
 巳の六月日

 是は御付紙の御文言
 猪鹿狼打ち候わば、その所に慥かに埋め置き、一切商売、食物に仕らざる様に申し付けらるべく候、右は猟師の外の事に候。
右御書付の通り、きっと相守り申すべき者也 
  元禄二年巳年7月日
 【解 説】
この法令は元禄二年(1689)6月28日に出されたもので、『徳川実紀』(徳川幕府の正史)第6篇に同意の和文が載っている。2ヶ条とも田畑を荒らす猪・鹿など人馬や犬に害をおよぼす猿に対する心得である。第1条はそれら害獣が被害を与える時だけ鉄砲を使うことを許し、第2条では第1条の心得と運用で、できるだけ追い払い、それでも被害がやまなければ支配所から相当役人を出し、誓詞を提出させた上で、日限をきめて鉄砲を使い、そのことを帳面に註し置くようにとしている。最後は「御付紙(つけがみ)の御文言」とあり、打ち倒した害獣は必ず埋めて、(毛皮や肝を)売ったり肉を食べてはならない、ただしそれを商売にする猟師を除くとしている。この文言も『徳川実紀』に「又……」と続いて出ているから、やはり6月28日に動じに発布されたもので、末尾に「7月日」とあるのは、この写を実際に発布した尼崎藩(当時青山氏、4万8千石)で発布された月を示している。 (『独習 江戸時代の古文書』から)
<『御当代記』から> 一、御当代になり、犬を御いたハり被遊候に付て、犬目付という役人、江戸中ハ不及云、果々をも見あるきて、犬をうち申候か、又あしくあたり候ものあれば、町なれば名主に断り、その者の名をきき、その翌日武士ハ支配方、町ハ町奉行よりことハりあるゆへ、所をはらハれ籠舎(ろうしゃ)する者多し、増山兵部家来の侍ハ、犬にくわれ候てその犬を切殺したる科に依て切腹す、土屋大和守家来ハ、犬にくわれ少犬を切りたる科に依て、江戸を追払せられて、大和守も延慮ニて引込、土井信濃守中間ハ、犬をたたきたる科によって扶持をはなさる。
か様のわけなるゆへ、犬に人のおぢおそるゝ事、貴人高位の如し、うちたゝく事ハさし置て、お犬様といふ、此ゆへ、日にまし犬にもおごりつきて、人をおそれず、道中に横たハりに臥て、馬にも台八(台八車)にもあそれず、下り坂におす車引、はいはいと声をかけて引にも、犬おそれずそのまま臥てあるところへ、車をとどめかねて引かけて、車の輪にてひしぎころす事あれば、その車引何人ありとも皆せいばいにあふ、もし手足をそこめる事あれバ、外科をかけて養生治療をくハふる。 (『御当代記』から)
<『徳川実紀』から>   此月令せられしは。先にも令せしごとく。ならせ給ふ御道へ犬猫出るともくるしからず。何方にならせ給ふとも。今より後つなぎをく事有るべからずとなり。」  また令せられしは。このごろ市街にて。集会し戯舞するよし聞ゆ児童盆躍のほか。市人会衆し。道にて行人をさまたげ。戯舞するものあらば。曲事たるべしとなり。 (『徳川実紀』貞享2年7月 から)
<『黄門様と犬公方』から>   拗ね者知識人に扇動されたステレオタイプの通説にさようなら。生類憐れみの令は、口やかましい指示とはうらはらに、違反者への取り締まりはごくゆるやかであった。たまさか罰せられるのは幕府の身内が主で、それも追放など軽い罪で住むことがほとんど、死罪になるのはよほど悪質なケースか、もしくは見せしめに利用される場合に限られていた。
 この時代の幕府はかなりの厳罰主義で、殺人や放火はもちろん、密通や詐欺のたぐいであっても、容赦なくどしどし死罪に処している(『御仕置裁許帳』)。そのなかにあって、生類憐れみ違反に対してのみ、ひどく寛大なわけで、それはやはり、この法令が出されたおおもとの精神が「人々仁心も出来候様に」というところにあったがゆえであろう。
 だが、これではいくら拳を振り上げてみせても、足下を見透かされることになる。いくらおっかない顔をして見せたって、先生は俺たちに手を出すことはできないのさ。生徒どもはますます増長する。犬わけ水から矢負い鴨から、お堀の鮒の大量死へ。かくて綱吉は自らがつくった泥沼の中に、もがきながら沈んでゆく。
<尾鰭をもいで>   なるほど。こうやって通説イメージをくつがえしてみて、ひとつ納得することがある。
 ずっと不思議に思ってきた。どうして生類憐れみの令は、同時代の日記類の中にほとんど姿を現さないのか。たとえば柳沢吉保による、あの大部な『楽只堂年録』、50冊の写本のなかで生類憐れみの令への言及はただ1ヶ所、159ページで引用した中野犬小屋設置の事情を説明した部分のみである。あるいは吉保の妾が著した『松蔭の日記』、御前裁判の風景を鮮やかに蘇らせてくれたあの流ちょうな筆も、ただ1行もこの法令に触れない。はたまた『隆光僧日記』、綱吉の日常をこまごまと書き綴ってくれる几帳面な僧侶も、たった1ヶ所、鳥を鉄砲で殺して死罪になった大坂の牢人(前掲死罪Fに該当する)の息子を出家させるから島流しは免除して欲しいとの嘆願を私が取り次いだ、と述べるのみである(元禄15年7月27日条)。
 不思議だった。綱吉と言えば生類憐れみの令、彼の治世は生類憐れみ一色に塗りつぶされたはずなのに、どうして吉保も隆光もこの前代未聞の政策にまったく関心を示さないのか。
 今、うっすらと答えがわかる。後代の我々が見るほどには、時代は生類憐れみ一色ではなかったのだ。たしかに法令は雨あられと降った。でも、処刑者はほとんど出なかった。どこか遠くで雷が鳴っている。受け手にしてみれば、そんな感じだったのではないか。大量に処刑者を出して、社会に大きな傷を負わせるということがなかったので、さほど熱い関心を呼ばず、よって日記にも言及されずに終わったのではないか。
 「かの与右衛門、つねずね親に不孝にこれ有り、三度勘当かうむり申し候ものにて、定めてその罪にてこれ有るべしと取り沙汰仕り候」(『元禄世間咄風聞集』)。前掲13で犬殺しを犯して磔に処せられた町人について、人々はこう噂したと言う。あいつは三度も勘当された親不孝もんだから、その報いでこうなっちまったのだろうよ。同情のかけらもない。苛烈な生類憐れみの令に対する怨嗟の声が巷に満ちていたならば、出てくるはずのない言辞である。憎しみの対象となるほどの大きな威圧感を、この法令は備えていなかったのだ。
 いっぽうで、生類憐れみの令は、その珍奇さゆえに噂の餌食になりやすい。噂は無責任に増殖し、好き勝手に尾鰭をまとい、ゆがみにゆがんで、まったく似もつかぬものへと変形してゆく。忌日を犯した不心得者を処分したはずが、幼児もろとも小塚原でばっさりという涙なしでは語れぬ話に大変身。現在、我々が手にしている生類憐れみ関係の情報は、そうしたプロセスをくぐって届けられたものなのである。
 なのに、権力者をあげつらうのが大好きな戦後史学は、さらにその尾鰭に乗って、江戸の市民は打ち水することすら許されなかったそうなと、噂にいっそうの尾鰭を付けることにいそしんできたのだから、いやはや。
 削ぎ落としてゆく。幾重にも塗り重ねられた後代の虚飾を丹念にこそげ落としてゆく。
 行く着いたのは、白い腹を見せる鮒の群がぷかぷか浮いたお堀を見下ろして、悄然と佇む老いた綱吉のすがたであった。腐臭の上を呟きがよぎる。これがついの答えか。畏れ多くも有栖川宮を退け奉って我が身が将軍の位を継いで以来、日夜奮迅の努力を重ねてきて、下々には生類を哀れむことを通じて仁心を育むようにとはからい、役人たちには儒教の奥義を講じて為政者としての自覚を促そうと、20年余も渾身の力を振り絞ってつとめてきて、これがついの答えか。
 彼の苦しみはまだまだ続く。せめてしっかりと見届けてゆこう。 (『黄門様と犬公方』から)
<碩学の誤算>   そこで、綱吉の死後百年以上経ってから編纂された『徳川実紀』は、いったいどこからこの話を仕入れてきたのか。どの史料に基づいてこのシーンを叙述したのか、その情報源を捜索してみた。 内閣文庫に何種類も蔵されている幕府の吏僚の業務日誌、あるいは系図類や法令集など、『徳川実紀』の情報源として知られているものを片っ端からめくって突き止めたのは、この話はたった1冊の書物にしか掲載されていないよいうことである。 『折りたく柴の記』である。
 新井白石なのだ。このドラマティックな話の震源地は。彼の巧みな筆づかいによって、「我身においては、長く仰せにたがふ事あるべからず。天下人民の事に至ては、存ずる所によりて、御ゆるしをかうぶるべきに候」、 私一身のことなら何でも仰せに従いますけれど、天下人民のことについては私にも信念がございますので御遺言に背きます。お許し下さい、と遺骸に向かって縷々述べ立てる家宣がいきいきと描出されている(巻中)。 『折りたく柴の記』の中にこの話を見つけた『徳川実紀』の編纂官は、大学者でありかつ家宣の側近くにあった白石の言うことなのだから、と全幅の信頼を置いて採用したのであろう。
 ただ、その際、1ヶ所だけ改変した。「廿日に御棺の前に参らせ給ひ」、白石の話では家宣の宣言は20日に行われたことになっている。それを『徳川実紀』は綱吉の死の当日の10日に持ってきた。 まだ遺骸に温もりがの残るうちの方が、より劇的にうつると計算したのであろうか。いずれにせよこれで、廃止を宣言したのも断絶なきようにと指示したのも同じ20日ということになり、先に試みた家宣変節説、家宣の施政が10日の間に軟化したと考える可能性は潰れる。
 震源地は分かった。次は信憑性である、果たして、『徳川実紀』の編纂官が判断したように、あの白石の言うことだからと全面的に信じてよいか。
 もう一度、『折りたく柴の記』を読み直してみる。と、問題の箇所は、「ある人の申せしは」で始まる大きなカギカッコの中に入ることに気づく。白石が実見したことではなく伝聞なのである。 「我には仰せもきかせ給はぬ事なれば、其事のありやなしやをばしらず。されど、我に語りし人も、うきたる事いふべき人にもあらねば、其説をここに注しぬ」、家宣公の口から直接に伺ったわけではないから、ほんとうかどうか保証はできないけれど、信頼できる筋から聞いたので、と話の終わりにちゃんと断りが入れてある。
 危ない危ない、当の白石自身が保証はできないよと逃げ口上をのべているではないか。ここで『折りたく柴の記』はどんな書物だったか、その序文を眺めておくと、
 前代の御事におよびし事共は、いとかしこけれど、世によくしれる人もなきは、をのづから伝ふる人のなかからも、わびしからまし。
 前代家宣公についての事は、たいへんもったいないけれど、世によく知っている人もおらず、後世に語り伝えられてゆくこともないのはわびしいことです。 だから僭越ながら、私が今ここに書き記しておくのです。
 自らの理想のすべてを傾けて補佐した家宣が没したあと、その家宣を少しでも後世に伝えようとの思いを込めて執筆された書物だったのである。
 ならば、その中に叙述された、あまりにも格好良すぎる、颯爽としすぎている家宣の姿、しかも筆者自身が保証はできないよと断っている話には、じゅうぶん警戒しなければなるまい。 まして、その話と明らかに違う証言が存在する以上、史実と受けとることは、とうていできないのである。
 かくて、従来信じられてきた『徳川実紀』描くところの家宣の生類憐れみの令破棄宣言は、新井白石の文飾にかかる、史実としては信頼できないものだという結論にいたる。 じっさいには、生類憐れみの令は『楽只堂年録』が伝えるように、「おだやか」に骨抜きにされたのである。
 白石にしてみれば、ほんのささやかな手向けのつもりだったのではないか。大した治績も残せないまま4年足らずの慌ただしい治世を終えてしまった家宣に、ほんのちょっとだけ花を持たせてやりたい。 そんな思いで、颯爽たる新将軍の姿が添えられたのであろう。
 そこには嘘という認識すらなかったにに違いない。既に目撃したように、儒学の古典よりも軍談を好んだ凡庸な弟子であった家宣に対して、これほど好学の君主は聞いたことがないという絶賛を捧げた白石である。 この程度の文飾は臣下として当然の礼。どのみち、家宣の指示によって生類憐れみの令が終息に向かったことに違いはないし、しかも真偽は定かでありません、と誠実に断り書きまで入れてあるのである。
 まさか、そのささやかな手向けが百年ののちに幕府の正史にまるぐと採用され、絶大な影響力を行使して綱吉の悪印象をがっちり固定してしまう結果になろうとは、いかな碩学でもできようはずはなかった。
 「をのづから伝ふる人のなからむも、わびしからまし」。今や、綱吉の呻き声が聞こえる。 (『黄門様と犬公方』から)
<前政権を批判するという常套句>   既に苦心して論証してきたように、生類憐れみの令における違反者への取り締まりはごくゆるやかで、それほど多くの罪人を出したわけではない。 塩漬け9人という生々しだについ引きずられがちだけど、これは白石が新将軍家宣の善政を際立たせるために、はめ込んだデータなのである。嘘ではないけれど、ことの全体でもない。
 『折りたく柴の記』の別の箇所には、こんな表現も見える。「一禽一獣の事のために、身極刑に陥り、族門誅に及び、その余、流竄(るざん)・放遂、人々生を安くせず、其父母・兄弟・妻子、流離散亡、凡そ幾十万人といふ事しらず」 (中略)。まつぃても「幾十万人」である。たかが禽獣ごときのためにその身は死刑にされ、一族も罰せられ、父母妻子は散り散りに。だから治世が改まった今、天下に大赦をおこなって万民に蘇生させなければならないと私は新将軍に進言したのです。本文はそう続いてゆく。
 常套句なのだ。前代を貶(おとし)めることによって当代を持ち上げるという、おなじみに手法を白石は用いているに過ぎないのだ。その常套句を切り取って、生類憐れみの令の惨害を言い募る格好の材料に使ってきた従来の説明は、もはや改められなければならない。
 「新井白石は前代の事をよく言わざる漢(おとこ)なりしが」。百数十年後の文人松浦(まつら)静山はそう評している(『甲子夜話』巻19)。前代の事をよく言わない。白石の身になれば、それもやむを得なかったろう。 凡庸な家宣を守り立てて幕政を運営してゆくためにも、また、影の薄いままに終わった家宣を、せめて追憶のなかでだけでも輝かせてやるためにも、前代の悪口はやむを得ざる方便だったのである。 (『黄門様と犬公方』から)
<もう白石流の綱吉批判はやめにしましょうよ>   積年の怨み、果たして彼はそんな感情と無縁だったのだろうか。「流離散亡、凡そ幾十万人といふ事しらず」、綱吉を糾弾する文章を一字一字刻みつけながら、今ここに旧主への報恩成るといった暗いた昴りにとらわれることはなかったろうか。疑いは消しがたい。
 そうやってなった白石史観なのだ。改めて、その脆弱さに思い至る。あの白石の言うことだから間違いない。『徳川実紀』の編纂官以来、我々はずっとそうやって歴史を組み立ててきた。白石があんなに強調しているのだから、生類憐れみの令は富んでもない悪法だったのだ。間違いない。すっかり安心して、綱吉に残虐非道のレッテルを貼って済ませてきた。
 今、そのこわばった虚像がぼろぼろ崩れる。白石は家宣の臣下という立場上、常套句として綱吉を貶(おとし)める言辞を並べたに過ぎない。 よくよく吟味すれば、額面通りに受け取ることなどとうていできない。それに、彼の胸中には、かつて綱吉から受けた仕打ちへの怨みが黒々と凝り固まっていた可能性もあるのだ。
 一犬虚に吠ゆば、万犬実を伝う。結局白石はその一犬の役回りを果たすこととなった。ただでさえ、悪口の種になりやすい生類憐れみの令である。なんてひどい後政道だろうねえ、いたいけない幼児もろともばっさりなんてさ。そんな指弾の具になりやすい素地がもともとあったところへ、碩学の一声が貫いたものだから、ほとたまりもない。 あとはごうごうたる雷同の渦で埋まる。
 注意ぶかく耳を澄ませば今でも、「其れ漢の武帝のたぐいか」、綱吉公は漢の武帝に匹敵するような大きな事績を残された方だといった同時代の評価の声を、それも政権批判をこととする辛口の書物のなかに聞くことができる(『三王外記』)。 万犬のかまびすしさに妨げられて、気づかないだけなのだ。
 白石史観に塗り込められた300年のぬばたまの夜、もう終わりにしてもよい頃ではなかろうか。打ち叩いて粉々にして、生身の綱吉とまっすぐ向きあってもよい頃ではなかろうか。 (『黄門様と犬公方』から)
<人々仁心も出来候様に>   悪いことばかりではない。ひょっとして生類憐れみの令について、発令する側にそんな認識があったのではないか。 入用金・中野犬小屋とたしかに現場はぐちゃぐちゃになってしまったけれど、でも生類憐れみ、以て人々の仁心を涵養(かんよう)して殺伐たる戦国の遺風を払おうという趣旨自体は悪いことではない。 だから、原則を変更する必要はない、むしろ、今後も憐れみ精神は「いよいよ断絶これ無き様に」、奨励し続けるべきだ。取り締まりをやめた途端に、もとの殺伐たる風潮へと逆戻りしてしまわないよう、「あわれみ候儀は、あわれみ申すべく候」、 しっかり町を刺しておかなければ。そうした配慮から出たことだったのではないか。
 なんと。びっくり仰天。もしそうなら、生類憐れみの令は弊害を伴いつつも、それなりの成果も挙げたと評価されていたことになる。「人々仁心も出来候様に」という所期の目的をある程度は果たしたと認識されていたことになる。「不仁にして夷秋の習俗の如き」世を変革したいという綱吉の熱い願いが、いくぶんかは叶えられたということになる。
 ほんとうだろうか。生類憐れみの令は完全な失敗ではなかった、それなりの成果は挙げ得たなんて、ほんとうだろうか。
 探索が始まる。誰か証言してくれないか。生類憐れみの令がおこなわれる前と後とで、不仁から仁心へ、殺伐から憐れみへ世の風潮が変化したと、そんな証言をして下さる御仁はどこぞにおられるか。 (『黄門様と犬公方』から)
<仁心の世の中に>   昔は1年に5度も7度も、それ刀よこせ鑓だなどと言い、下々も刀を差して尻端折(しりっぱしょ)りして騒ぐこおとがあったものだけど、近年はそれ刀よ鑓よと言うほどの騒ぎが全くないので、今の若いもんは家の中では丸腰で、ずいぶんと不用心なありさまだ。 まったく太平の世になったものだなあ。
 まさにこの老人が生きている間に、時代の風潮は大きく変わったのである。手打ちや試し物や刃傷沙汰が日地上茶飯事で、人々の話題も武辺(ぶへん)一辺倒だった時代から、そうした殺伐たる慣行がきれいさっぱり消滅し、儲け話や出世談義や役者の評判が関心の的となる時代へ、 まさしくこの6,70年の間に起こったのである。
 足かけ30年の及ぶ綱吉の治世は、その6,70年のど真ん中に位置する。ならば、この風潮の変化の一部は綱吉の手になるものだ、生類憐れみの令によって仁心が涵養(かんよう)されたおかげだ、殺すな、傷つけるなとさんざんぱら説教されることで人々の感覚が変わったのだと考えてはいけないだろうか。
 もちろん、戦国の世が遠くなったことも大きく影響したことには違いない。けれど、関ヶ原はここでの「6,70年以前」よりさらに5,60年も遡るのである。戦国が終わって半世紀以上も殺伐たる風潮がしっかり続いて、それがその後の半世紀でぱたっと消滅したことになる。 ならば、その原因として、時が経ったからという自然の流れのほかに、誰かがその変化を後押しした、加速したと考えてもよいのではないか。そして、その誰かとは綱吉であったと。
 そうだったのか。めまいがする。天雷に打ち叩かれて奈落の淵に沈んでいった男の姿が、にわかに、富士より大きく迫り上がってくる。なんと彼は、人々の意識を変革するという空前絶後の壮挙をひそかに成し遂げていたというのか。殺伐から慈悲へ、時代の風潮をぐるりと転換させる大仕事の影の仕掛け人だったというのか。
 見上げても、ぽつりと膨らんだ宝永山は沈黙したままである。 (『黄門様と犬公方』から)
*                      *                      *

<江戸時代になって夫婦子どもが一緒に住むようになった>   戦国時代から江戸時代になって庶民の生活大きく変化した。木綿の普及に代表されるように生活が向上した。 そうした変化の1つに家族の生活の拠点の問題がある。江戸時代以前には、夫婦、子どもは別々のところで生活していた。このことに関して、『貧農史観を見直す』からの文章を引用することにしよう。
 戦国時代の大名たちがつくった法(分国法)を見ていると、非常に面白いことに気がつく。 どの分国法にも、多くの場合、子どもの分配を決めた項目(子供分配法)がある。例えば奥州伊達家の『塵芥集(じんかいしゅう)』という分国法を見ると、男の子は父親の主人が、女の子は母親の主人がこれを取ると決めている。 また、関東結城家の『結城家法度』を見ると、10歳〜15歳まで育てた場合は、男女を問わず、育てた方の親の主人がその子供を取っていいという規定がある。
 こういう規定があるということは、その子供の親が夫婦という形をとって同じ家に住んでいないということである。2人は夫婦であるが、夫と妻が別々の領主の支配下にあるという状況であり、夫婦が家族として1つの家に生活するという形態をとっていない。 そうであれば、このような子供配分法という法律は出てこないはずだ。
 つまり、我々庶民大衆が家族という形態を作り、夫婦、親子ともども生活するようになったのは、この分国法ができて以降、具体的には江戸時代初頭からなのである。
<「ゆたかな社会」になりつつあった綱吉時代>   綱吉時代になって日本は「ゆたかな社会」になりつつあったのだった。戦国時代、百姓・町人は戦火に怯え、無法者を取り締まるシステムもなく、あまりにも徹底した「自己責任」の社会だった。世の中が平和になり、治安が回復し、生活水準も向上し始めた。夫婦・子どもという家族が一つ家に住むようになったのは江戸時代から。綿が普及し始め庶民の生活が豊かになった。江戸時代非人頭の車善七が穢多の頭である弾左衛門に「掟証文」を差し出した、その中に、
1、盗人やキリシタンは訴えます
2、博突をする者や怪しいものをそばには置きません
3、生類を大切にし、捨子は報告します
4、槍などはもちろん、脇差しも刀も持ちません
5、木綿のほかは着ません (以下略)(『弾左衛門とその時代』から)
 という文章がある。江戸時代以前であれば、木綿を着たくても庶民には手が届かなかった。その辺りの事情については<木綿の普及が生活革命> を参照のこと。
 江戸時代になって、江戸に「車善七」が登場する。車善七とは非人の頭のことであり、非人とは現代でいうところの「ホームレス」であった。農村からあてもなく江戸に出て来て、定職もなく住所不定の人々、これらを纏めたのが、非人頭「車善七」であった。その非人に幕府が与えた仕事は、死人の処理など、普通の人々がいやがる仕事であった。このことから、「江戸時代になって農村で食えなくなった人々が多くなった」とか「幕府はこうして差別階級を作った」などと評することもできよう。しかし、見方を変えれば「江戸に行けば何とか食っていける」「その人々に幕府は仕事を与えた」との見方もできる。
 江戸社会の最も下層階層である人々を見ても、江戸時代以前と変わったことが理解できる。それは「江戸時代、ゆたかな社会になりつつあった」ということだ。このように社会が変化し始めた時代に綱吉は登場した。「ゆたかな社会になった。捨て子などはやめよう」「人の命の大切さを教えよう」「人だけでなく、犬・猫・馬など畜生の命も大切にしよう」と訴えた。
 そして、綱吉の次の権力者=新井白石は前任者を否定することによって自分のリエゾンデートル(存在意義)を示さなければならなかった。その新井白石の指示によって書かれた歴史書に従って現代人は「生類憐れみの令」を評価しているのだ。同じように、荻原重秀の貨幣改鋳に対する評価も、新井白石の指示によって書かれた歴史書に従って現代人は評価している。
 『黄門様と犬公方』の「生類憐れみの令」に対する見方が、これからの歴史観に大きな影響を与えるだろうと思う。「生類憐れみの令」に対する評価はこれからも変化し続けるに違いないと思う。そして、歴史を振り返るとき「その後の権力者によって史料が影響された可能性がある」ということに注意する必要がある、ということだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『御当代記』将軍綱吉の時代                戸田茂睡著 塚本学校注    1998.11.11
『生類憐れみの世界』                    根崎光男 同成社      2006. 4.20
『独習 江戸時代の古文書』                  北原進 雄山閣      2002. 8.20
『弾左衛門とその時代』                  塩見鮮一郎 河出文庫     2008. 1.20
『江戸の非人頭車善七』100万人大都市を「裏」で支えた男 塩見鮮一郎 三一書房     1997.11.30
『生類をめぐる政治』元禄のフォークロア            塚本学 平凡社      1993. 8. 6
『黄門様と犬公方』                     山室恭子 文春新書     1998.10.20
『徳川綱吉』                         塚本学 吉川弘文館    1998. 2.10
『貧農史観を見直す』              佐藤常雄+大石慎三郎 講談社現代新書  1995. 8.20
( 2008年7月7日 TANAKA1942b )
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(5)荻原秀重の貨幣改鋳という悪政か?
 成長通貨の供給による経済の成長を促進した面も
 今週は荻原重秀の貨幣改鋳を扱う。この政策に関しては、「悪政」との評価が多かったが、最近は見直す評価も出始めている。はじめは『徳川綱吉』と題された本からの引用を紹介しよう。
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<徳川綱吉と貨幣改鋳>  綱吉の悪政として喧伝されるのに、元禄8年(1695)8月に始まる金銀貨の改鋳があった。慶長小判が金84%余の純度であったのを、元禄小判は57%ないし59%、純度80%の慶長銀に対して元禄銀64%という。元禄10年6月発行の二朱判金は品位はなお低く、銀の方は宝永3年の改鋳で純度は50%になった。荻原重秀の策によった。慶長の古金銀を新金銀(元禄金銀)に引き替えることを命じた幕府法令は、何度も繰り返されて期限を延長している。新金銀の不人気を示すものであり、綱吉死後の家宣政権に参加した新井白石は、これを中心に重秀を厳しく弾劾した(『折たく柴の記』)。近代に入っても、水戸徳川氏旧臣として『徳川十五代史』を編した内藤耻叟(ちそう)は、幕府財政補填のためのこの改鋳を「徳川一大の稗政(ひせい・悪政)これより甚だしきはなし」と評した。ただ、幕府財政補填の意図はむろん大きかったに違いないが、全体に通貨量の増大を求める社会状況があり、これに応じた措置でもあった。一分金のほかに、その2分の1、1両に対しては8分の1の二朱表示の金貨を発行した点にも、当代の通貨需要への対応がうかがえよう。
 宝永5年閏正月には1枚10文通用の宝永通宝を鋳造して、この大銭通用を命じた。これには荻原重秀は反対で、稲垣重富の策によったという(折たく柴の記)。これもたいへん不人気で、「永久世用」と記された裏文字に反して、宝永6年正月「下々迷惑仕候由」を聞くとして通用を停止された。綱吉死去の7日後で、生類憐れみの令で人々に艱難(かんなん)のことありとして軌道修正を公示したのより早かった。大銭通用令は、全将軍家の最大の悪政と見なされていたのである。
 通貨の新鋳は、寺社造営への巨額の出費などと一連のものとして、綱吉以後の徳川政権によって否定されていったのだが、通貨についての政策で後に継承されたものもあった。藩札停止策である。荻原重秀は、通貨は瓦でも石でも政府の命によって通用するもので、金銀の純度を落としても紙幣にまさるとの考えだったと言われるが、綱吉将軍就任の少し前頃から銀札・金札などの紙幣を発行する藩が現れ、その例は増加していった。宝永4年10月の幕法は、新金銀通貨への引き替え促進を命じるのとあわせて、こうした札遣いを50日以内に停止すべきことを命じたのである。通貨需要の高まりが紙幣を流通させた時代であったのだが、通貨発行は全国政府としての幕府の権限の重要な部分であり、藩の札がそれを脅かすような事態は許されなかった。幕府が制限つきで、諸藩の札発行を認めるにいたったのは、この23年後の享保15年(1730)であった。
 綱吉自身が以上のような通貨政策にどこまで関わったか、その役割を理解したかはわからない。登用した官僚に任せておいた分野だったかも知れない。だが、そうであるにしても、それは綱吉政権の政策に違いなかった。専制君主綱吉の当面した社会状況の反映であるとともに、また綱吉の政府への不満や批判も、これらの政策を大きく対象とした。 (『徳川綱吉』から)
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荻原重秀(1658-1713)(万治元-正徳3) 時は5代将軍綱吉の時代、元禄の華やかな町人文化が咲き誇っていた頃、しかし幕府の財政は赤字続きで破綻寸前だった。 その時御側用人柳沢吉保の命を受けて、勘定組頭荻原重秀は財政再建へ取り組むことになった。そこで重秀が考えたのは貨幣改鋳だった。 慶長小判の金含有量を減らし、出目を稼ぎ、通貨を拡大すること。つまり小判10枚を回収して、これを改鋳して15枚として流通させる。これで幕府の財政は潤うと考えた。 こうした貨幣改鋳政策は4代将軍家綱の時代にも幕府内で検討されたが、時の老中土屋数直の反対「邪(よこしま)なるわざ」として葬られている。しかしこの時は、重秀のそれまでの仕事ぶりから柳沢吉保・将軍綱吉の信頼もあって実施されることになった。 これが1695(元禄8)年。
 幕府はこの改鋳の目的を「刻印が古くなって摩滅したため」と説明した。 もちろん本当の目的は品位の高い慶長小判を回収して品位を落としたものに改鋳し、出目の獲得を狙ったものだった。慶長小判が86%の金品位だったものを、56%に減じたもの。これで出目は大きく、銀の改鋳と合わせて、 全体で500万両にも及んだと試算される。
 これが幕府の財政再建に大きく貢献するのだが、もう一つの効果があった。それは通貨流通量拡大による景気刺激だった。 徳川幕府が成立し、戦国のすさんだ世から安定へ歩みだし、米の生産も伸び、豊かになり始めていた。綱吉の「生類哀れみの令」もこうした世の中の安定期から生まれたもので、単に行き過ぎた動物愛護ではなかった。
 これ以前は殺伐とした時代で、生活に困って子供を捨てたり、気に入らない子供を捨てたりすることがあったし、人間や牛馬が年老いたり病気になったりすると、まだ息のあるうちに野山に追放して自然に死ぬのを待つような風習さえあった。 屍も野ざらしのままだった。綱吉はこれらを取り締まろうとする。この時期は人間も含めた「生類」、つまり生きとし生けるもの全てを大切にし、平和を築こうとの時代だった。日本人全てが自分の「墓」を持つようになるのはこの時代からだった。こうした時代の「生類哀れみの令」であった。
 こうして世の中が安定し、生活が豊かになり、経済が拡大してくるとそれに伴った通貨も多く必要になる。 今日の経済用語で言う「成長通貨」が必要になる。重秀の貨幣改鋳はこの「成長通貨」の役割も果たしたわけだ。
 こうして幕府の財政も立ち直り、経済も順調に伸びるかのように見えたが、ここで思わぬ弊害が出てきた。それは江戸の消費物価が異常に高騰してきたことだった。
*                      *                      *
<金・銀・銭の三貨体制> ここで江戸時代の通貨の特異性について知っておく必要がある。江戸時代の通貨は三貨体制といって、金・銀・銭の3つからなっていた。金は俗に小判と呼ばれるもので、金を主体とした鋳造通貨であり、1両は4分、1分は4朱という4進法の通貨だった。 ところが銀は金と違って、一定の純度の銀塊そのものが何匁何分(10進法)と秤で計って使われる、秤量貨幣であった。金と銀が高額貨幣であるのに対して、銭は銅(のちには鉄の場合もあった)を主材とする少額貨幣で、貫・文(一貫は1,000文)という単位で数えられていた。 いわゆる「寛永通宝」というのがそれである。
 ところで銭は全国的に通用したが、金と銀はそうではなかった。金は江戸を中心とする関東・東国経済圏で、銀は京・大阪を中心とする上方・西国経済圏で通用した。 したがって江戸の消費者物資を上方・西国から買うということは、金を基本的な通貨とする経済圏が銀を基本とする経済圏から物資を買うことになる。この場合他の条件を一定とすれば、通貨=銀に対して、通貨=金が強くなればなるほど、江戸には多くの物資が流入して来ることになる。 逆に通貨=銀に対して、通貨=金が弱くなれば江戸には物資の流入が少なくなり、江戸の消費物価が高騰することになる。そこで江戸により多くの消費物資を集めて、市民生活を安定させようと思えば、通貨=銀に対する通貨=金のレートを切り上げればいい。 あるいは通貨=金に対する通貨=銀のレートを切り下げればいい。これは今日の国際貿易における為替レートの原理と同じである。荻原重秀もそのことに気づいた。
 金・銀・銭は本来独立した別個の通貨であって、相互のレートは日々相場がたって、絶えず変動していた。 その相場が大体この程度で安定して欲しい、という公定相場を幕府が最初に決めたのは1609(慶長14)年7月のことだ。それによると、金1両は銀50匁、銭4貫となっている。しばらくはこれに近い相場の動きだったが、農民・町民が豊かになってくる寛文・延宝(1661-1681)ころには、金1両が銀60匁というのが安定相場になっていたようだった。 重秀の貨幣改鋳は小判の改鋳と同時に、銀も改鋳している。
 重秀の貨幣改鋳、初めは大きな抵抗があった。 幕府が一方的に通貨=銀に対する通貨=金の品位を下げたのだから、日本の経済を握っていた上方商人が抵抗した。重秀は1700(元禄13)年11月、幕府の支払いにあたっては金1両を従来のように銀50匁の公定相場ではなく60匁の計算にするので、世間もそれに習うように、と触れている。 それによって銀高相場を引き下げようとした。これは通貨=銀の20%の切り下げになる。通貨=金の品位が下がったうえに、さらに銀の切り下げになるので、上方商人は納得しなかった。 重秀は幾度となく幕府の政策を徹底させようと指示するが、上方商人の抵抗は収まらない。そこで今度は通貨=銀の改鋳を行う。
 銀の含有量を50%、40%、32%と下げていき、ついには20%にまで及んでいる。このことは当然金銀相場にも反映し、江戸にあっては、宝永6,7年に金1両につき銀が60匁であったが、正徳元年には64-55匁、正徳2年には76-81匁までに低落した。 大阪の場合も同じで、正徳2年には金1両につき銀80匁余となっている。従来の公定相場より60%も銀を切り下げたのだから、上方・西国経済圏は大きな打撃を受けた。
 このような重秀の政策に対して新井白石が攻撃してきた。白石は重秀を「天地開闢以来の姦邪の小人」ときめつけ、6代将軍家宣に重秀の罷免要求をだすこと3度。「もしこの要求がいれられない場合は、自分は重秀を殿中で刺し殺すであろう」とまで詰め寄って、1712(正徳2)年9月11日、重秀罷免に成功する。
 重秀の実力を認め、その政策を信頼して任せていた柳沢吉保はすでに隠居し、将軍は6代将軍家宣に代わっている。ここにおいて荻原重秀の先進的な金融政策は終わることになる。白石によって勘定奉行を罷免された重秀はその翌1713(正徳3)年死没。殺害されたとの噂もある。
新井白石(1657-1725)(明暦3-享保10) は重秀の政策を批判していた。1712年、重秀を失脚させた後を受けて「改革」を行う。その方向とは、重秀の逆を行く政策だった。小判は以前の含有量に戻す。慶長小判と同じに戻したのだから量は減った。通貨流通量を減らしたのだからデフレ=不況になった。 白石の政策の基本は「倹約」。今で言う「くたばれGNP」だ。初めは町人も歓迎したが、景気が悪くなりすぐに人気がなくなった。経済政策に関して新井白石は無能であった。1716(享保元)年4月将軍家継没。同年5月白石罷免。その後吉宗の「享保の改革」が始まる。
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<日本幣制史上、初の大規模な貨幣改鋳>  元禄8年(1695)、徳川幕府は、日本の幣制史上初めての大規模な貨幣改鋳に踏み切った。財政金融市場における壮大な実験であるとともに、荻原彦次郎(重秀)の生涯においてもハイライトとなる事件であった。まず例によって、当時の幕閣および勘定所の顔ぶれを確認しておく。
  元禄8年の幕閣の顔ぶれ(西暦は就任年)
 将軍    徳川綱吉(50歳)     (1680〜)
 側用人   柳沢出羽守吉保(38歳)  武蔵川越7万2千石(1688〜、老中格、1694〜)
 老中    大久保加賀守忠朝(63歳) 相模小田原11万3千石(1677〜)
       戸田山城守忠昌(64歳)  下総佐倉7万1千石(1681〜)以前は越前守
       阿部豊後守正武(47歳)  武蔵10万石(1681〜)以前は美作守
       土屋相模守政直(55歳)  常陸土浦7万5千石(1687〜)
 若年寄   加藤佐渡守明英(44歳)  下野壬生2万5千石(1691〜)
       松平弾正忠正久(37歳)  相模甘縄2万石(1694〜)
 勘定奉行  松平美濃守重良(47歳)  (1688〜)
       稲生五郎左衛門正照(55歳)(1689〜)
       井戸三十郎良弘(61歳)  (1694〜)
 勘定吟味役 荻原彦次郎重秀(38歳)  (1687〜)
       諸星伝左衛門忠直(70歳) (1688〜)
 老中4人のうち3人は、堀田正俊暗殺当時から、引き続きずっと務めている。一方、柳沢吉保が側用人になったのは、彦次郎の勘定吟味役就任の翌年であり、老中格になったのは改鋳の前年のことだ。だから彦次郎をここまで引き上げてきたのは、柳沢吉保ではなく、3人の老中たちの誰かだったと思われる。『徳川実紀』によれば、8月11日、老中・阿部豊後守正武、若年寄・加藤佐渡守明英、そして勘定吟味役・荻原彦次郎に、貨幣改鋳を命じたとある。つまり建前上は、老中と若年寄が主管する体裁になっている。老中の中で一番若い阿部が形の上とは言え、改鋳の最高責任者を買って出ているところを見ると、彦次郎の一番よき理解者だったのではないか。
 しかしもちろん、実施責任者は彦次郎であった。幕府の右筆(書記)が書いた『甘露叢』には、次のように記されている。
 元禄八年七日
 金銀吹き直し、御用、仰せつけらる。荻原彦次郎、保木弥右衛門、正木藤右衛門、平岡市右衛門、古川武兵衛、内山新右衛門、杉岡孫八郎、小宮山友右衛門。
 右、彦次郎、指図次第、相勤めるべき旨、豊後申し渡す
 豊後守というのはもちろん、老中の阿部豊後守正武のことである。このとき、勘定吟味役の彦次郎は38歳。彦次郎の指図に従って改鋳作業に従事した勘定所のメンバーのうち、保木弥右衛門(46歳)、正木藤右衛門(47歳)、平岡市右衛門(38歳)は勘定組頭である。古川武兵衛(36歳)、内山新右衛門(30歳)、杉岡孫八郎(39歳)、小宮山友右衛門(28歳)は平の勘定であった。
 8年前の貞享4年(1687)、彦次郎は代官総検査によって、当時の勘定頭(奉行)3人と勘定吟味役1人を罷免に追い込んだ。その折りに勘定吟味役から勘定頭に昇格した佐野六右衛門も、元禄5年(1692)に、「お召し放され、御加増召し上げられ、居屋敷も召し上げられ、逼塞」という厳しい処分を受けて辞めさせられている(『柳営補任』)。佐野は、彦次郎が17歳で勘定所に召し出されたとき、一番上席の勘定組頭であった。いわば大先輩に当たる人であり、目の上の瘤のような存在でもあっただろう。その佐野を辞めさせた時点で彦次郎は、勘定所内を完全に掌握したと思われる。
 そのそちに勘定奉行や勘定吟味役に着任した人々はみな、勘定所実務には通じていない。まして前任者が厳しい処分を受けて退任させられた後だけに、彦次郎には逆わず、目立たないように日々の職務を無事こなすことに専念していたのではないだろうか。井戸と諸星は老齢なだけに、とくにそうだったと思われる。実際彼らは、貨幣改鋳という一大事件に間近で立ち会いながらもとくに歴史に名を残すことなく、10年ほど勘定奉行や吟味役を務め、その後引退したり、留守居に転出したりしている。 (『勘定奉行荻原重秀の生涯』から)
<彦次郎、勘定奉行に昇進>  改鋳作業が開始されてから4ヶ月後の元禄8年(1695)12月、彦次郎は、改鋳の功績により、いきなり千石が加増され、合計1,750石取りとなる。そして翌元禄9年、ついに勘定書最高位である勘定奉行に昇進した。同時に250石加増、都合2千石。このとき、彦次郎は39歳。平勘定出身の勘定奉行は、佐野六右衛門についで2人目である。しかし佐野の昇進が60歳と高齢で、5年で罷免されたことを考えると、実権をふるった平勘定出身の勘定奉行としては初めてだろう。『武鑑』(『本朝武林系禄図鑑』)ではこれ以後、拝領屋敷は「さるかく丁」とある。現在、集英社のビルの1つが立地する東京都千代田区猿楽町である。年末には叙任して近江守となった。以後、文献では「荻原彦次郎」ではなく「荻原近江守」と記述されるようになる。 (『勘定奉行荻原重秀の生涯』から)
荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度  「荻原秀重の貨幣改鋳という悪政か?」に関しては、以前に「荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度」と題して書いたので、こちらも参照のこと。<荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度> 
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<主な参考文献・引用文献>
『勘定奉行荻原重秀の生涯』新井白石が嫉妬した天才経済官僚 村井淳志著 集英社新書    2007. 3.21 
『江戸時代』                       大石慎三郎 中公新書     1977. 8.25
『鎖国=ゆるやかな情報革命』          市村佑一+大石慎三郎 講談社現代新書  1995. 9.20
『長崎貿易』                        太田勝也 同成社      2000.12.10
『長崎の唐人貿易』            山脇悌二郎 日本歴史学会編 吉川弘文館    1964. 4.15
『近世オランダ貿易と鎖国』                 八百啓介 吉川弘文館    1998.12.20
『日蘭貿易の史的研究』                   石田千尋 吉川弘文館    2004. 9.10
『日本の歴史』14鎖国                   岩生成一 中央公論社    1966. 3.15
『鎖国とシルバーロード』世界のなかのジパング        木村正弘 サイマル出版会  1989. 2.
『徳川綱吉』                         塚本学 吉川弘文館    1998. 2.10 
( 2008年7月14日 TANAKA1942b )
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(6)大坂商人が生み出したコメ先物取引
 現代日本資本主義経済よりも市場原理主義だった
 江戸時代は「封建時代」「近世」「鎖国」などの言葉で表現される。これらの言葉を使うと、現代に比べて遅れていたような印象を受ける。科学技術の進歩は江戸時代と現代とをハッキリ差別する。けれども社会の仕組みについてみると、江戸時代は一般に思われている以上に進んだところがあった。荻原重秀の「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり」との考えは管理通貨制度の考えであり、1971年8月15日のニクソン・ショックによって世界では管理通貨制度に移行するようになった。それでも、関係者は金本位制度に馴れていたため不安であり金融市場が安定するには時間がかかった。
 ここで取り上げる「大坂堂島米会所」も世界に先駆けての先物取引であった。デリバティブと言えば、資本主義経済の「負」の部分であるかのように思っている人もいる。マネーゲームという言葉さえ市場経済の負の部分であるかのように思う人もいる。大坂商人たちが編み出した「コメの先物取引」。今週はこれについて扱うことにする。 世界初の先物取引、コメの帳合い取引に関しては<大坂堂島米会所>で取り上げたので、そちらからの引用を主に話を進めよう。
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<戦国時代が終わり、コメが通貨になった>  江戸時代は「三貨制度」だった言われる。金・銀・銅が通貨として用いられていた。ところが、「コメ」も実質的な通貨でもあった。このあたりの事情を、戦国末期から振り返ってみよう。
 戦国時代、各地の天下を狙う領主たちは力を貯めつつあった。それは、農地を開拓し、コメを増産し、年貢として取り立てたコメを「城を造る。人足として働けばコメを支給する」として、農民を労働者として集めた。戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげた武将の名には、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正などが並ぶ。
 新田を開拓し、コメを増産し、これで城作りの労働者を集めた領主たち、江戸時代に入り、城作りはなくなる。労働者を集めるためのコメが必要なくなると、そのコメを大坂で売りに出すようになる。
<初期の大坂登米> 戦国時代が終わりに近づき築城ラッシュは終わる。領主・大名はコメを公共投資の原資として使うことがなくなる。百姓に築城工事の報酬としてのコメは、しかしそれだけであり、他の目的のためには金・銀・銭などの貨幣に替える必要が生じた。年貢米を貨幣に替えるために、領地内で民間の商人を使って処分し始めた。この場合は市場での取引と言うよりも、相対取引であった。相場が立っているわけでもなく、すぐに現金化出来るわけでもなかった。そこで各藩は年貢米現金に替える場所として大坂を選ぶことになる。
 各藩がどのようにして大坂登米を始めたか、いくつかの例を引いてみよう。
(1)大坂登米として古いものとしては、1614(慶長19)年に加藤肥後守忠広、黒田筑前守長政、浅野但馬守長晟、福島左衛門大夫政則などの米が8万石あった、との記録があるがこれは販売用ではなくて、大坂冬の陣に備え大坂籠城のためであったらしい。大坂に米を備蓄していただけでなく、むしろ買い入れている事からも、兵糧米であったと考えられる。 
(2)長州藩では1609(慶長14)年4月2日付の輝元書状に「年内何とぞ米大坂へ大分上せ度事」とあるように、大坂へ登米を行っていた。当時長州藩は大坂に蔵屋敷をおいていて、登米高は4万石もあったと思われるが、1697(元禄10)年には8万石にのぼっていることから、恒常的な廻米態勢が整えられたわけではなかった。
(3)細川藩では1623(元和9)年大坂登米が行われ、その量は3500-3700石前後であったらしい。これは大坂で売却されているが、当時海上運送が整備されず、運賃や損米が大きかった時代なので経済的に成り立つとは考えられない。試験的なものであったろう。
(4)佐賀藩では1605(慶長10)年に大坂に蔵屋敷を持ち、大坂登米の記録があるが、米の渡し方や蔵出しに付いての規定だけで、売却仕方や代銀処理に付いては何の定めもなかったと言われる。
 これらのことから慶長・元和期に16万石ないし4,50万石の西南諸国の領主米が大坂へ廻送されたとしても、恒常的な商品流通としてのものではなかったと考えられる。「全国市場としての大坂米市場」の成立はもう少し後の事になる。
<西国諸藩の大坂登米>少し時代が下がって、寛永中期以降の状況を見てみよう。
(1)細川藩は1629(寛永6)年に大坂払米は1万石近くになっている。この時「もみ小米ぬかましり」が入らぬよう国中に触れを出している。これは米が商品として意識され始めたためだろう。1632(寛永9)年細川氏は熊本に転封され、大坂廻米は小倉時代より地理的に不利になったが、外港の整備など廻米態勢を整え、1634(寛永11)年には4万1千石の大坂廻米の輸送能力を持ち、元禄期には3-4万石、元禄末期には8万石の大坂廻米を行うようになった。
(2)岡山藩では1669(寛文9)年に2万8千石の大坂登米を行っている。
(3)萩藩では1615(元和元)年に1万7千石、1643(寛永20)年に1万9千石、それが1653(承応2)年には5万石、元禄末には6-7万石になる。
 これらのことから、西国諸藩は寛永中期から寛文期にかけて大坂廻米を増加、定量・恒常化し、それに適合する制度や設備を整えていった。そしてこのように大坂はまず西国諸藩の領主米市場として成立しくことになる。
<北国諸藩の大坂登米>西国諸藩に比べて北国諸藩の大坂登米は少しあとになってからだった。それには河村瑞軒の西回り航路の整備も関係してくる。
(1)加賀藩では1638(寛永15)年に試験的に1千石を、1644(寛永21)年に1万石を大坂に直送している。1647(正保4)年には初めて上方船が加賀へ来航し、1691(元禄4)年には20万石を送っている。
(2)越後における西廻り海運の開始は明暦期ごろで、大坂廻米開始は高田藩が1656(明暦2)年、庄内藩は1674(延宝2)年、そして1668(寛文8)年に村上藩が江戸藩邸に送った払米代金の62%は大坂での払米代金であったというから、大坂登米が藩財政の根幹をなすようになったと言えるだろう。
(3)弘前藩の大坂登米開始は1672(寛文12)年からで、全上方廻米4万石を大坂着とするようになったのは1687(貞享4)からであると言われている。
<江戸への廻米> 江戸へ各地方から米が集まって来るようになった初めは、伊達の仙台藩からのものであった。仙台藩は東北地方有数の米生産藩であり、江戸に近いという有利な条件もあったので、百姓から年貢米以外の米を買い上げて江戸で売却する「買米仕法」を行った。このように仙台藩から江戸へ廻米されるのはほぼ1626(寛永3)年ごろと考えられる。美味な仙台米は江戸市場で大いに注目されたが、このほかに江戸には、東北、関東、中部などからも集まってきた。南部・仙台・会津・福島(越後の一部)・関八州・甲州・信州・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・美濃・伊勢などの地域が、享保期に江戸市場圏に属したと考えられている。
 大坂こそ「天下の台所」とみる考えと、江戸もそれに劣らず大きな商圏であった、との考えがある。
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<町人蔵元制> 諸藩の米が大坂に集まり始めた。未だ米市場は整っていない。諸藩は大坂登米をどのように管理し、現銀貨(大坂は銀が主要通貨)していたのだろうか? 17世紀中頃から、西国諸藩を中心に、そして少し遅れて北国諸藩が積極的に大坂登米を行うようになる。各藩により多少違うが、七公三民の年貢はそれを現銀化(現金化)しなければ武士・町人階級だけでは食べ切れない。各藩共に登米量が多くなるに従って、輸送・管理・処分方法が変わってくる。
 各藩とも大坂登米を始めた頃は、中世以来の問・問丸・座商人あるいは朱印船貿易に関係していた豪商にすべてを依頼していた。遠距離輸送手段として船、保管手段としての倉庫、士豪として船仲間・水主を支配し、各地の経済情報に明るく、商取引の方法を熟知していて、さらに相応の武力を有するなど、当時隔地間流通を担える唯一の勢力であった。しかしこれは領主の管理が行き届かず、トラブルも多く、効率も悪かった。このため領内から最終消費地までの年貢米の輸送・保管・販売を自己の計算で行うために、領内では港湾や輸送ルートの整備、コメの品質・俵こしらえの管理などを行い、大坂では水運や商取引の便の良いところに蔵屋敷を設置し、専門の官吏を派遣し、大坂で成長してきた輸送・商品取引・金融の専門業者を蔵屋敷関係商人に登用したのであった。
<江戸時代の藩主と現代の百姓> 初期には豪商に一括依頼、次に藩が独自で管理販売に当たり、さらに専門業者に委託、アウト・ソーシングと変化していった。これを現代風に喩えればこうなる。コメを市場で売却して現金にしたい。しかし方法が分からない。そこで何でも分かっている業者にすべてを任せる。当時は豪商、現代は農協。どこで、誰に、いくらで売るか、すべてお任せ。当時は豪商から現銀を回収出来ないこともあった。現代では農協に任せていればそういう心配はない。しかし出荷したものがいくらで売れたのか、いつ入金になるのか直ぐには分からない。
 そこで藩主は考えた。「なるべく自前で対処しよう」と。そこで藩の役人が運送業者、保管人、販売業者をいくつか選び、使い分けようとする。現代の百姓は集荷業者をいくつか選び競争させる。どこの市場で売却すると有利か、あるいはネットを使った産直がいいか、生協などの会員制業者がメリットあるか、など研究する。
 すべてを藩の役人が指示していたが今ひとつスムーズにいかない。「餅は餅屋に任せろ」でそれぞれ専門業者を利用する。業者はブローカーからトレーダーへと変化する。つまり売買差益で利潤を上げるのではなく、口銭で儲けるようになる。現代ではどうなるだろうか?現代では集荷業者も輸送業者も競争するほど数がない。コメは自由な市場さえ整っていないし、「整えるべきだ」との主張も聞かれない。
 農協の考えは
「今後、わが国で農産物先物取引が進展していくかどうかについては、まず第一が商品の価格変動が激しいこと、第二が簡単に買い占め等ができない、ある一定程度以上の市場規模があることが先物取引が成立し得る要件となる。まさに市場原理の徹底に伴い、先物取引が必要とされるような価格変動を余儀なくされる情勢へと変化しているわけではあるが、大きな内外格差の存在等による輸入農産物の増大、コメ等の消費減退などによって農産物価格は低迷しており、。農業経営はきわめて厳しく、わが国農業の再生確保、農業の存在自体が脅かされているのであって、まずは所得安定政策が求められているのが現状である。
 すなわち、直接支払いによる所得確保対策が優先して求められているのであり、、これがあってこそ価格安定対策が生き、現在の危機を乗り越えていく展望も開けようというものである」
 「当初、農産物の先物取引の調査を始めたとき、生産者側からみて、リスク管理の一環として先物取引が利用される可能性があるのかという問題意識をもっていた。その後、調査を進める過程で、農産物の生産・流通機構・価格決定方式、農家の零細性等から判断して、現状では生産者のリスク管理のための先物取引の役割は限定されるという認識に至った」 (農林中金総合研究所編 「国内農産物の先物取引」 家の光協会 2001年4月 から引用)
<名代・蔵元・掛屋> 淀屋の米市が開かれる迄に諸藩の大坂での対応はどのように変わっていったのか、<名代・蔵元・掛屋>を中心にみてみよう。各藩が大坂登米を始めた頃、その流通を担っていたのは前の時代から各地で活躍していた士豪的商人であった。一度年貢米として集めた米を丸投げして商人に任せていた。こうしたブローカーに任せるのは経済的にメリットが少ないし、信頼も置けなかった。そこで藩が流通をコントロールしようとする。そして大坂に蔵屋敷を設置し、新しい商人から蔵元、掛屋を登用する(幕府により大名の大坂での屋敷所有は禁じられていた。そこで名義は町人の、実質は各藩のものであった)。初めの内は蔵屋敷を設置してもその運営に当たる蔵元は藩の役人が担当していた。1644(寛永21)年頃から各藩とも徐々に町人蔵元へと替わっていく。廻米量が多くなり、蔵屋敷での仕事量が多くなると商売に疎い藩役人では効率が悪くなる。そこで取引に明るい町人が起用されるようになったわけだ。
名代 大坂で屋敷を持つことを禁じられた大名が自己の蔵屋敷の名義人として指名した町人が名代であった。 蔵元とは蔵物の管理・出納にあたる者。 掛屋は蔵物代金の受領・保管・送金を担当する者であった。現代風に言えば、名代=社長、蔵元=営業部長、掛屋=財務部長とでもなるのだろうか。ただしこの構成は藩によって違い、一人三役だったり、誰かが欠けていたり、と様々だった。 さて、この営業部長に当たる町人蔵元は以前の士豪的商人と違ってブローカーではなく、トレーダーであった。ブローカーは一度藩から米を買い、自己才覚により売却しその差益を利益とする。これに対してトレーダーは売り手と買い手の間に入り売買口銭を利益とする。このように町人蔵元は、蔵米の管理・入札仲買の選定・入札立会がその主な業務となった。
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「1枚の手形、1日の内に10人の手に渡り」 1654(承応3)年、大坂町奉行所は触れを布告して、「米中買候もの、蔵元之米を買、三分一程の代銀を出し、勿論日切之約束ハ雖有之、其日限を延し、手形を順々に売候ニ付きて、米之直段高値に成候、此売買先年ハ無之候」「一枚之手形一日之内に十人之手に渡り」と、蔵屋敷で売却された米について3分の1の代銀が支払われれば、手形が発行され、これが転々と売買されるようになっていることを指摘し、これを禁止している。同じような触れは1660(万治3)年にも、1663(寛文3)年にも出している。このことから米手形の売買、米市が広く行われていたことを示している。
<米市での取引> 蔵屋敷では藩もとから米が来ると、入札の公告をし、蔵屋敷で入札を行う。落札した業者は代金(大坂なので代銀)3分の1を入れ、蔵屋敷発行の代銀受取証である米手形を受け取る。30日以内に米手形と残銀を持参して、蔵屋敷から米を受け取る。これが初期の取引形態であった。
 この取引が時代と共に少しずつ変わっていく。先ず大坂奉行所の触れにもあるように、米手形が転売されていく。そうすると、米手形の売買は米現物の需給に関係なく、投機の対象となっていく。幕府が禁止したのは、米手形が投機の対象になり、このため米の価格が騰貴していると考えたからだった。さらに米の蔵出し期限の30日が無制限に延長されていく。これは蔵元にとっても手形所有者にとっても期限はない方が良かった。さらに取引が多くなるに連れて、米手形は大坂未着米についても発行されるようになった。奉行所でもそれに気づいていて、触れの中で次のように言っている「蔵元ニ無之米を先手形を売渡し、三分一敷銀を取、連々ニ米を差のほセられ候旁も有之様」このように取引きが変化していくと、青物市場や魚市場のような現物取引の市場(いちば)から、先物取引の市場(しじょう)に性格が変化していく。それも誰か特別な人間がリードしたのではなく、市場取引に参加する商人たち、つまりマネー・ゲームのプレーヤーたちの知恵が市場での取引を進化させていったのだった。しかし奉行には理解出来なかった。だからこのような触れが何度も出されたのだったし、後に米市を禁止し、その後公認するのも、この仕組みとその利点を理解していなかったからだった。 将軍吉宗も大岡越前守忠相もこのメカニズムは理解していなかった。そうして現代でも関係者の中に理解できない人たちが多くいる。日本の農業発展のためにとても残念なことだ。
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<淀屋辰五郎>淀屋の米市について、「大阪市の歴史」から引用しよう。
 大坂の豪商として淀屋辰五郎の名前は有名である。大変な金持ちで豪奢な生活ぶりが幕府のにらむところとなり、五代目辰五郎(三郎右衛門)のとき財産を没収されたと伝えられている(淀屋の闕所)。この淀屋は山城の岡本荘出身で、岡本氏を名乗っていた。豊臣時代に初代の常安が材木商を大坂十三人町(十三軒町ともいう、のち大川町)で始め、大坂の陣では徳川家康の陣小屋を作ったとされ、その褒美として山城国八幡に土地をもらい、大坂に入る干鰯(ほしか)の運上銀を与えられたという。常安は開発町人の一人で、中之島を開発し、常安町・常安橋はその名残である。二代目三郎右衛門言当(ことまさ)は个庵(こあん)ともいい、京橋青物市場の開設や葭島(よしじま)の開発、 糸割符(いとわっぷ)の配分にも尽力した。しかし个庵の事跡として著名なものは米市である。淀屋は諸国から大坂に上がってくる諸藩の米を売りさばくことを請負う蔵元を務めていたが、北浜の店先で市を開き、これが米市場の始めとなった。この市に讃歌する人々の便宜ため私費で土佐堀川に架けたのが淀屋橋である。淀屋の米市は北浜の米市とも呼ばれ、多くの米問屋が集住していた。この北浜の米市は元禄10(1697)年ころに新たに開発された堂島新地に移り、堂島米市場として賑わうようになった。 (「大阪市の歴史」大阪市史編纂所 創元社 1999年4月 から引用)
「両人手打ちして後は、少しもこれに相違なかりき」
淀屋米市がどんなであったか?これもまた江戸時代の文を引用しよう。1688(貞享5・元禄元)年に書かれた井原西鶴の「日本永代蔵」、その中の巻1「波風静かに神通丸」からを、暉峻康隆の現代語訳で紹介しよう
 いったい北浜の米市は、大坂が日本一の港だからこそ、 ちょっとのまに五万貫目の立会い商い(現物なしの取引 差金取引)もできるのである。その米は蔵々に山と積みかさね、商人(あきんど)たちは夕べの嵐につけ朝(あした)の雨につけ、日和(ひより)に気をくばり、雲の立ち方を考え、前夜の思惑で売る人もあり、買う人もある。一石についてのわずかな相場の上がり下がりをあらそい、山のように群衆し、たがいに顔を見知った人には、千石万石の米をも売買するのだが、いったん契約の手打ちをした後は、すこしもそれに違反することがない。世間では金銀の貸し借りをするには、借用証書に保証人の印判をおし「何時なりとも御用次第に相渡し申すべく候」などど定めたことでさえ、その約束をのばし、訴訟沙汰になることが多い。それなのにこの米市では、あてにもならぬ雲行きをあてにして契約をたがえず、約束の日限どおりに損得かまわず取引をすますのは、日本第一の大商人の太っ腹をしめすもので、またそれだけ派手な暮らしをしているのである。
 難波橋(なにわばし 下流に中之島・北浜の河岸が見渡せる)から西を見渡した風景はさまざまで、数千軒の問屋が棟をならべ、白壁は雪の曙になさり、杉なり(三角形のこと)に積み上げた俵は、 あたかも山がそのまま動くように人馬につけて送ると、大道がとどろき、地雷が破裂したかのようである。上荷船(うわにぶね 20石積み)や茶船(10石積みの川船)がかぎりなく川波にうかんでいるさまは、秋の柳の枯葉がちらばっているようである。先を争って米刺(こめざし 俵米の品質を調べるため、俵に突き刺し米を取り出す七寸余の竹筒)をふりまわす若い者の勢いは、虎臥す竹の林と見え、大福帳は雲のようにひるがえり、算盤をはじく音は霰がたばしるようである。天秤の針口をたたく(針の動きを調節するため、天秤中央上部の針口=針の平均を示す所を小槌でたたく)音は、昼夜十二時を告げる鐘の響きにまさり、家々の威勢に暖簾もひるがえっている。 (井原西鶴 「日本永代蔵」1688(貞享5)年1月刊  暉峻康隆訳 小学館 1992年4月 巻1「波風静かに神通丸」から引用)
<寄場・会所・消合場> 1730(享保15)年8月13日、大坂の堂島米会所の設立が幕府によって認められた。場所は北区堂島浜1丁目、大阪全日空ビルと新ダイビルのあたり。堂島川に沿ってこちら側と対岸、いまの日銀と大阪市役所あたりには諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。
 ここは寄場(立会場)、会所(事務所)、消合場(精算所)の3つから成り立っていた。寄場は狭い小屋建てで、東の方が正米取引寄場、中央が帳合米寄場、西の方が石建米商いの場、となっていた。この小屋は事務所の様なもので、実際の取引は堂島川に沿った浜通りの道を占拠して行われていた。かつての淀屋米市でも取引に伴う雑踏・騒音が幕府から注意を受けていた。
 この寄り場から二筋ほど北の船大工町に会所(事務所)と消合場(精算所)があり、そこを中心に五百件を超える米商人が軒を連ねていた。ここは現代の大阪ではちょうど北の繁華街、曾根崎新地あたり一帯であった。
<組織と運営>
会所の役員には米方年行司・同月行司・加役・戎講・水方などがあった。このうち米方年行司は現代風に言えば、取引所の理事に、株式会社の役員に相当する役職で、毎日会所へ出勤して市場秩序の維持、売買取引事務の総轄、仲買株札の管理などにあたるとともに、町奉行からの触れの伝達、町奉行への届出、訴えなどにおいて浜方(堂島)を代表して折衝にあたった。第一回目の米方年行司は津軽屋彦兵衛・加島屋久右衛門・俵屋喜兵衛・升屋平右衛門・久宝屋太兵衛の五名であった。
 「難波の春」では次のように言っている。米方年行司は、堂嶋米仲買株の者の内より、人物よき年功の者を、仲間一統にて選み出す事にて、明きのある時は、仲間内、入札して、札の多き者を定め、奉行所へ訴え出で、聞済みを受けて、年行司になる事にて、尤、これは、古株の正米商ひをするものの内より、選み出す事とぞ。四人にて順々年番を勤む。外に加役三人あり、人数は時に寄り、不同もあれど加役とも、六七人に限るよし。仲買一統より、袴摺料、世話料を出す事なり。米方の事は、年行司とても、自儘の取計ひならず、何事も仲間一統示談の上、取計らふ様に、取極はよく立てたる物とぞ。
 会所の運営は建物米となった蔵屋敷と米方両替からの寄付銀によって賄われていた。建物米とは名目的な建米を設けて、それを基準に米価を決めていくためのもので、この場合多く四蔵と言われる中国米・広島米・肥後米・筑前米が建物米となり、この建物米を貯蔵した蔵屋敷から仲買に銀500枚を贈与することになっていた。この四蔵のほか加賀米も夏建物であったが、これらとは他のものと異なって、その費用の贈与はなかった。これはかつて米仲買惣代らが江戸に滞在したとき金銭上の援助を受けたことに報いるためと言われている。一度受けた恩義は長く大切にする、大坂商人のよき習いと言えよう。
<堂島米仲買株>
1731(享保16)年12月、堂島米仲買株が幕府により公認され、享保17年4月および20年7月にも第二次、第三次の公認が行われた。株数については諸説あり、「浜方記録」は第1回と第2回それぞれ500枚、第3回300枚、合計1300枚としているが、「米商旧記」は第1回451枚、第2回538枚、第3回362枚、合計1351枚としている。1732(享保17)年2月には米方両替株50枚が公許された。このように享保末年(1736)頃までに堂島米会所の組織は次第に整うようになった。株数1300枚ということはトレーダーだけでなく、ローカルズも多くいたわけで、この点は現代日本の取引所よりもシカゴのそれに近いシステムだ。
 米仲買株について「難波の春」から引用しよう。帳合米相場は、享保17年(1732)壬子二月、正米直段下直過ぐるに付、相場引立のため、株数千軒御免になり、同十九寅年、三百軒之有り、仕法は、年中口の上の相対のみにて、米百石に付き、敷銀凡金二歩か三歩程出せば、米を売付、買付する姿にて、勝負商ひする事なり。此敷銀は、米値段高下ありて、素人の方に損のある時、差引すべき積りにて、取りて置く証拠銀なり。此売買の度毎に、口銭百石に付、二匁五分づつ、出入にて五匁づつ、仲買へ請う取る事の由。
 次のような文もある。米仲買株は、前に云ふごとくにて、むかしは千三百軒なれども、追々減じて、文化の頃、堂島に八百九十軒程、江戸堀に五十軒、道頓堀に三十軒あるよし。其内堂島仲買も四組に分かれる。其一は正米商ひ、二は帳合延商ひ、三は虎市、四はこそ市、右四組へ道頓堀、江戸堀は別格なれども、是を一組として、都合五組なり。株札の表は、皆株仲買にて、名目は同様なれども、商売の仕方は、前にあるごとく、皆同じからず。此五組にて、正米相場の株を重とす。堂島四組は、冥加運上等の事なし。外一組は、前に記すごとし。都て、大坂へ積み廻はす諸国の産物、皆問屋仲買小売等の次第あれども、米に限り、しかと取り締りたる問屋のなきは、蔵屋敷を問屋の姿とせしものにもあるべきかと云ひし。
 このように株数が減ったということは、新規参入が保証されていたということだ。1980年代、株式相場が右肩上がりを続けていた頃、、東京証券取引所では外国会社の枠が少ない、と問題になっていた。新規参入が厳しかったわけだ。ということは、江戸時代の大坂は「日本株式会社」よりも自由な市場経済だったということになる。
<入替両替> 米会所で米切手担保に資金融資する入替両替となると大坂でも相当な資金力のあった者に限られた。この入替両替(証券担保の金融機関)としては、鴻池屋庄兵衛・加島屋作次郎・加島屋作五郎・米屋伊太郎・天王寺屋弥七・島屋利右衛門の6人であったことが知られている。なかでも鴻池屋庄兵衛と加島屋作五郎はこのうちでも大手として知られている。
 会所の運営は建物米となった蔵屋敷と米方両替からの寄付銀によって賄われていた。建物米とは名目的な建米を設けて、それを基準に米価を決めていくためのもので、この場合多く四蔵と言われる中国米・広島米・肥後米・筑前米が建物米となり、この建物米を貯蔵した蔵屋敷から仲買に銀500枚を贈与することになっていた。この四蔵のほか加賀米も夏建物であったが、これらとは他のものと異なって、その費用の贈与はなかった。これはかつて米仲買惣代らが江戸に滞在したとき金銭上の援助を受けたことに報いるためと言われている。一度受けた恩義は長く大切にする、大坂商人のよき習いと言えよう。
<現代の市場参加社数>
この仲買株数1,300とは多いのだろうか?少ないのだろうか?オランダやイギリスの先物取引の詳しい事が分からないので比べようがない。そこで現代日本の市場を見ると次のようになる。東京証券取引所、総合取引参加者=113社。国際先物等取引参加者=87社。東京穀物商品取引所、農産物市場及び砂糖市場参加者=43社。農産物市場参加者=34社。 参加者が多ければいいってもんじゃあないけれど、人口1億2千万人の現代、人口3千万人程度の江戸時代、大坂商人のコメに賭けるエネルギーのすぐさに驚かされる。官に逆らいながら米会所は開設された。現代ではどうだろう?空売り規制だとか、PKOだとか、市場関係者からの抵抗はなかったのだろうか?この業界では「官に逆らった経営者」はいなかったのだろうか?
<米市での取引> 蔵屋敷では藩もとから米が来ると、入札の公告をし、蔵屋敷で入札を行う。落札した業者は代金(大坂なので代銀)3分の1を入れ、蔵屋敷発行の代銀受取証である米手形を受け取る。30日以内に米手形と残銀を持参して、蔵屋敷から米を受け取る。これが初期の取引形態であった。
 この取引が時代と共に少しずつ変わっていく。先ず大坂奉行所の触れにもあるように、米手形が転売されていく。そうすると、米手形の売買は米現物の需給に関係なく、投機の対象となっていく。幕府が禁止したのは、米手形が投機の対象になり、このため米の価格が騰貴していると考えたからだった。さらに米の蔵出し期限の30日が無制限に延長されていく。これは蔵元にとっても手形所有者にとっても期限はない方が良かった。さらに取引が多くなるに連れて、米手形は大坂未着米についても発行されるようになった。奉行所でもそれに気づいていて、触れの中で次のように言っている「蔵元ニ無之米を先手形を売渡し、三分一敷銀を取、連々ニ米を差のほセられ候旁も有之様」このように取引きが変化していくと、青物市場や魚市場のような現物取引の市場(いちば)から、先物取引の市場(しじょう)に性格が変化していく。それも誰か特別な人間がリードしたのではなく、市場取引に参加する商人たち、つまりマネー・ゲームのプレーヤーたちの知恵が市場での取引を進化させていったのだった。しかし奉行には理解出来なかった。だからこのような触れが何度も出されたのだったし、後に米市を禁止し、その後公認するのも、この仕組みとその利点を理解していなかったからだった。 将軍吉宗も大岡越前守忠相もこのメカニズムは理解していなかった。そうして現代でも関係者の中に理解できない人たちが多くいる。日本の農業発展のためにとても残念なことだ。
<取引の仕組み> 正米商内とは1年を春(1月8日〜4月28日)、夏(5月7日〜10月9日)、冬(10月17日〜12月28日)の3期に分けて、蔵屋敷が発行する米切手を米仲買間で取引するもので、毎日午前10時から正午まで開かれた。建物米には肥前・肥後・中国・筑前・広島・加賀米が米仲買の入札により選定されることになっていたが、夏には北国米の加賀米が選ばれるのを通例とした。正米取引に参加できる者は公認の米仲買株を有する者に限られ、正米方と呼ばれた。売買は切手1枚、すなわち10石を単位とし、100石以上を「丸物」商内、100石未満を「端物」と言った。代銀・米切手の授受はもともと即日受渡しを原則としたが、寛政以降4日以内となった。このように正米商内は米切手の実物取引であり、実需取引・投機取引双方に利用されるものであった。つまり、米問屋の買(売)注文を受けた米仲買が正米商内で米切手を売買する場合と、仲買の投機目的で売買する場合とがあった。米仲買を通じて正米商内に参加するものは口銭を払うことになっていた。「芦政秘録」では丸物商内で100石につき銀10匁、端物商内で10石につき銀1匁5分としているが、「八木のはなし」では100石につき銀2匁5分としている。この違いは時代によって変化したと考えられる。
 淀屋米市では蔵屋敷に代銀の3分の1だけ支払えば、米手形を手にし、これを売買することができた。堂島米会所では全額となり、会所での米切手・代銀の授受期限は4日以内と短かったので、資金を持たずに投機目的で米切手を購入することは難しかった。そこで、こうした投機家に米切手を担保にとって、現銀を融通する信用機関として生まれたのが入替両替であった。この入替両替は大きな資金を必要とし、十人につぐ大両替であった。入替両替は100石につき銀300匁ないし500匁の敷銀を預かり、さらに貸付銀には利子が付いた。利率は3月1日から10月末までは銀1貫目につき日歩1分2〜7厘、11月から翌年2月末までは銀1貫目につき日歩2分5厘であったという。冬季に利率が高かったのは新米の出回り期にあたり、米購入のための資金需要が高まるためであった。米価が高くなれば入替両替に担保に入れてある米切手を場右客し、それによって借銀を返済する借り手もあったし、また米価が下落した時には質物の米切手を流してしまう借り手があり、この場合には入替両替は質にとった米切手を市場で売却し、それによって元利の決済を行った。また「八木のはなし」には、米価高値のとき質物米切手を売却し、利益を得ようとする入替両替もあったらしい。かつて日本の市場でも、客からの預かり証券を無断で売却する、という不正があったが、あれは江戸時代の米取引を勉強した成果なのだろうか? 取引状況をもう少し詳しく見てみよう。堂島川に沿った浜通りの道を占拠して、朝の8時から帳合流商内が始まっている。2時間の間に今日の相場が形作られつつある。その流れに沿って正米商内でも価格が提示される。2時間の間米仲買の競り合う声がやかましい。事情を知らない者が見たら仲買たちが喧嘩しているように見えるだろう。正午にその日の取引が終わると、消合場での手続きが待っている。ここで米仲買は今日の取引を報告し、必要なら入替で資金を借りる。米切手と代銀との受け渡しは4日以内と決まっていた。さて米取引はここだけではなかった。江戸堀、道頓堀でも取引が行われていた。堂島での取引内容が即刻伝えられ、その相場を元に取引が行われた。競馬、競輪に喩えると解りやすい。つまり江戸堀や道頓堀に場外馬券・車券売場があったわけだ。JRA職員も堂島米会所を研究し、その仕組みを現代に生かしていた訳だ。このように堂島米会所は時代をワープして大きな影響力を発揮しているようだ。
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<現代農業に帳合い取引を応用すると>淀屋の米市について、「大阪市の歴史」から引用しよう。
 ここで発想を変えて、現代に帳合い取引を導入したらどうなるかを考えてみよう。かつて、<キャベツ帳合取引所はいかがでしょうか?>と題して書いたものから転用してみよう。
 今様米帳合取引所がコメ作り農家の期待通り順調に働き始めた。難しい経済用語=ボラティリティーだとかブラック・ショールズ式など分からなくても、農協に替わってコメ集荷業者がそれぞれの農家に合った戦略を選んでくれる。コメ作り農家田中さんも、そんな業者の営業マンから指導を受けているうちに、自分でも戦略を立てられるようになった。 今は単なる農家の親睦団体となった「農協」の会合で自慢話をするうちに、キャベツ農家の小泉さんがその話に興味を持つようになった。「コメで安定収入が得られるなら、キャベツだってできるんじゃあないだろうか?」そこでこの村出身で、今は東京の証券会社で働いている、竹中君をお盆休みに村へ呼び戻し、研究会を開くことにした。その研究会の成果をここで発表することにしよう。
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   キャベツの出荷価格は最低1Kg60円から 200円まで乱高下した。そこで生産農家の収入を安定させたい、との発想で「キャベツ帳合取引所」設立の構想を練り上げてみた。取引所は新たに設立するのもいいが、例えば東京都中央卸売市場の9つあるうちの1つ、太田市場を民営化するのもいいだろう。国鉄も専売公社も電電公社も民営化して良くなった。 中央卸売市場全部を民営化するとなると既得権者の抵抗も大きいだろうから、今回はとりあえず1つだけ民営化する。そこでは今までの業務はそのままに、新たにキャベツの帳合取引部門を設立する。
 現物取引は今まで通りとする。先物取引およびオプション取引は満期日の半年前から売買を始める。 先物は満期日=現物を取り引きする2営業日前の13時に締め切り15時にその結果を発表する。つまりこうだ、 8月31日を満期日とする先物は 8月29日の13時に売買を締め切り、15時にその結果を発表する。その結果とは 8月31日には取引価格幾らの物が何枚予定されているか、 ということだ。その価格の高低、数量の多少によって31日に出荷する量を農家は調整することができる。
 オプションは満期日の1営業日前(この場合は30日)の13時に締め切り、15時に発表する。これにより 8月30日15時には翌日 8月31日の先物とオプションの取引予約の数量が発表される。それを見てから翌日の出荷量を決めることができる。当然満期日まで常に売買高は公表される。その数字を見ながら先物とオプションの売買が行われる。生産農家はその数字を見ながら作付け面積を決める。このようにキャベツ生産の初期の頃から数字を見ながら出荷の向けての生産調整をするので無駄が少なくなる。
 前回のコメと同じように収入を予想してみよう。
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<与件> キャベツ作り農家小泉さん、1日の出荷 400Kg。10Kgを1枚と表現して、40枚。生産者価格が1Kg60円、80円、 100円、 150円、 200円の場合の収入を計算する。
<第4の戦略> すべて現物取引とする。いままでの出荷方法だ。 
60円の場合は24,000円。
80円の場合は32,000円。
100円の場合は40,000円。
150円の場合は60,000円。
200円の場合は80,000円。
<第5の戦略> 200枚を80円で先渡しで売り。100枚を70円でプットを買っておく。(70円で売る権利を買っておく)この場合の手数料=プレミアムを500円と仮定する。残り100枚は現物売りとする。
60円の場合。先渡し分16,000円。現物取引分6,000円。プットを行使して6,500円。全部で28,500円。
80円の場合。先渡し分16,000円。現物取引分8,000円。プットを行使して6,500円。全部で30,500円。
100円の場合。先渡し分16,000円。プットを行使せず現物取引分19,500円(手数料500円)全部で35,500円。
150円の場合。先渡し分16,000円。プットを行使せず現物取引分29,500円(手数料500円)全部で45,500円。
200円の場合。先渡し分16,000円。プットを行使せず現物取引分39,500円(手数料500円)全部で55,500円。
<与件>
生産者価格    60円     80円      100円    150円    200円    高低差
第4の戦略 24,000円  32,000円   40,000円  60,000円  80,000円  56,000円
第5の戦略 28,500円  30,500円   35,500円  45,500円  55,500円  27,000円
 ここでは田中さんのコメ戦略、第1の戦略と第3の戦略を真似て戦略を立ててみた。
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<スケジュール調整と権利の売買> キャベツの場合は現時点から半年先までの先物・オプションの数字が公表される。これによって生産調整・出荷調整ができやすくなる。さらに、小泉さんが10月の第1週目に先物売りとプットを買っていたが、第2週目に延ばしたとなった時、これを売って10月第2週目の権利を買うことができる。
<裁定取引・スワップ> 東京帳合取引所太田市場が好評なので、仙台、名古屋、京都、大阪、福岡など各地に帳合取引所ができる。キャベツ作り農家はインターネットを使い各地の売り買い状況を見ながら出荷時期と出荷先を選択する。同じ時期の太田市場のプットと名古屋市場のプットを交換したりもする。 権利の売買を通じて、時期や取引市場を交換することができるようになる。それはちょうど裁定取引やスワップに似た取引になる。ここにおいて農産物が8代将軍徳川吉宗の時代から、やっと現代資本主義社会の取引に進化する。労働集約産業から知識集約産業に変化しようとする。35才以下の金融工学の専門家も農産物取引から、広くアグリビジネス一般に参入し始める。かつて農村部から都会の競争社会に飛び込んで行った若者もその成功者の一部が出身地に戻り始める。農村社会に変化の兆しが見え始めたようだ。
<種は播かれた> インターネット野菜取引市場はテスト運営が始まったようだ。生産者と販売業者を会員として、ネットを使って入札を行う。よく考えてみればネットオークションなのだ。こちらはすでにいくつかの運営組織ができ実際に活動している。大きな違いはC2C(Consumer to Cconsumer)かB2B(Business to Business)かだが、ネットオークションではB2Cもあるようだから、ノーハウは蓄積されているはずだ。
 ロジステックからの進出とネットオークションからの進出と、それに商社とソフト会社が組み合わさって発足するだろう。システムや資金には大きなネックはないだろうが、問題は生産者にそれだけの意欲があるかどうかだ。日本の農業システムは零細であることをよしとしている。企業が農地を購入するのに規制があるように、大企業を敵視する信仰があるようだ。このため新しい商品開発やシステム開発への投資資金が乏しい。特に外部からの投資に対するアレルギーが強い。都市部、都会人、大企業、外国資本などを嫌い、全てを内部処理しようとする。 ここにも尊農攘夷意識が強く表れている。しかし、いろいろ制度上の問題を抱えながらも、どこかがスタートすればすぐそれに続くシステムができるに違いない。この文を書いているその時間に、どこかで誰かがキーボードに向かって企画書を打ち込んでいるに違いない。どうかTANAKA1942bがこの文を発表する前には発表しないで欲しい。その位いつ計画が発表されてもおかしくない状況だと思う。
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<現代よりも進んだデリバティブ取引>  「正米取引」は現代で言うところの「先物取引」。「先渡し取引」よりも投機性は高いし、価格安定への効果も大きい。 「消合場」は現代の「クリアリング・ハウス」であり、取引市場での取引相手の信用リスクを軽減するシステムであった。そして 1995年10月、大和証券がミニ株取引を最初に始めた。堂島では「虎市米相場」と呼ばれた取引があって、場外馬券売場のようなもの。あるいは黙認されたノミ屋、としての機能を果たしていた。 米仲買の妻子下女杯にまで普及していた「コメの投機取引」は現代の株式投機よりも庶民に普及していたのかも知れない。帳合米取引では、現米や代銀総額を用意する必要がなく、わずかな敷銀と手数料(分銀)を納めるだけで、取引に参加できたから、ヘッジ(掛繋ぎ)取引を目的とするものには適いていた。 これは現代の「FX取引」で使われる「レバレッジ効果」が期待できる制度であった。日本社会は21世紀になってようやく江戸時代のデリバティブ取引が普及し始めたようだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『国内農産物の先物取引』            農林中金総合研究所編 家の光協会    2001. 4
『大阪市の歴史』                   大阪市史編纂所 創元社      1999. 4
『日本永代蔵』1688(貞享5)年1月刊            暉峻康隆訳 小学館      1992. 4
『堂島米会所文献集』「難波の春」             島本得一編 所書店      1970. 9
( 2008年7月21日 TANAKA1942b )
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(7)なんとなく自由な田沼時代だった
 市場経済の先取りには保守反動抵抗勢力が強かった
  田沼意次が賄賂政治家だったと長く信じられていた。辻善之助著『田沼時代』で賄賂政治家田沼意次が決定的になった。 その後大石慎三郎がこれを批判し、「田沼意次は賄賂政治家ではない」と主張し、現代ではこの考え方が支持されている。 ここでは、まず田沼批判から話を始めることにしよう。
<田沼時代の政治=辻善之助著『田沼時代』>  田沼の威勢の盛んであったことを記している物は頗る多い。ここには、その2,3の例を挙げて見よう。安永年間のことであるが、意次の下屋敷が稲荷堀にできた。普請が出来上がって一覧して後、 池を見て誠に立派にできた、この内に鯉または鮒の類を入れたら面白かろうと言った。その後登城して帰って来て見たところが、誰かがどこから持来たのか、鮒だの鯉が何時の間にかそこに入っておった。 田沼の威勢によって推薦せられた者は、やはり虎の威を仮る狐で、その者の勢いまた盛んであった。時の将軍徳川家治は画が好きであったので、田沼は狩野栄川院典信(かのうえいせんいんみちのぶ)という者を薦めた。 その後またその子の養川院惟信も将軍に召し抱えられて、父子相列んで幕府につかえ、ためにその生存中は栄川院及び養川院の画といえば、非常に相場の高い物であった。 ところがこれが死んでからは、画人という者は一般に死後は相場の上がるものであるのに、この2人に限っては、相場が下がったという。それは田沼に推薦せられておった人であるが故に、その光りによって、生存中は画が高かったのだということである。
 平生田沼の家へご機嫌伺いに行く者は大層な者であった。『甲子夜話』(かっしやわ)を書いた松浦静山が20歳頃、田沼の家へご機嫌伺いに行ったことがある。 そのときのことを記してあるのに、松浦は田沼の屋敷に出て、大勝手の方に入って行った。そこの部屋は大方30余畳も敷ける処であった。大抵の老中方の屋敷というものは、一列に並んで障子など背(うしろ)にして坐っているのが通例であるがが、 田沼の屋敷は、両側に居並んで、それでもなお人数が余るので、後にまたその間に幾筋か並んで、なおそれでも人が余って、またそのしたの横に居並んで、なおその余る座敷の外側に幾人も並ぶという風である。 その外側にいる人は、主人が出て来ても顔が見えない位である。その人の多いことがこれでも思遺(おもいや)られる。さて、主人が出てきて、客に逢う時にも、外(ほか)では主人とよほど客と離れて坐って挨拶するのであるが、 田沼は多人数溢れているので、漸々と主人の座から2、3尺も明けて坐るような有様で、主客互に顔を接せんばかりである。繁盛とは言いながら、また無礼とも言う可き有様であった。 いずれも刀は座敷の次の間に脱いで置くのである。が、座敷の次に幾十振とも知れず、刀が列んで、あたかも海波を描けるが如くであった。 また或時には田沼の公用人三浦圧二という者に用を頼んで、取次を以て主人の面会日に三浦に逢いたいという事を申し出たところが、ただ今御目に懸りましょう、しかしながら表の方へ出ますると、御客の方から取り巻かれるから、なかなか急に謁見叶い難い。 何とぞ潜(ひそ)かに別席へお入り下さいというので、松浦は別席に案内せられて逢うた事がある。陪臣の身でありながら、堂々たる大名を扱うこと此(かく)の如きの有様であるのは、誠に世に稀なる事である。 この松浦の通った処は、大勝手の方ばかりであって、その外、中勝手、親類勝手、表座敷等、それぞれ皆格によって逢う所の席が違うので、定めてその辺もこれと同じような有様であろうと思えば、その時分の田沼の威勢というのは、誠に思半(おもいなか)ばに過ぎる事である。 「然れども不義の富貴、誠に浮雲の如くなりき」とは、松浦静山が漏らしたるところの溜息である。 ( 辻善之助『田沼時代』から)
<田沼時代の政治=辻善之助著『田沼時代』>  田沼へ諸家から贈るところの品物は皆様々の意匠を凝らして、心を尽くして贈ったものである。或時には中秋の晩に、島台(しまだい)などを贈る。これにも負けず劣らず趣向を凝らした内に、 或家の進物は、小さな青竹の監(かご)に溌溂たる大鱚7,8つに、少しの野菜をあしらってそれに青柚子1つ付けて、その柚に後藤の彫刻に係(かか)る萩薄(はぎすすき)の模様のある柄の小刀で以て、その柚子を貫いてあった。 後藤の彫ったところの小刀は、天下の逸品であって、その価は数十金に当るものであった。また或家のは、大きな竹監(かご)に鮪2尾入れてあった。これはその頃よほど類の少ない物で、頗る興味を添えたことであった。 また或時に田沼が暑気中で臥せておったところへ、御機嫌伺いに来た使が田沼の家来に、この頃は何を玩(もてあそ)びたまうかと尋ねたところが、 近頃は岩石菖(いわせきしょう)の盆を枕辺に置いて観られると答えたので、それより2,3日の間に、諸家から各種の岩石菖を大小となく持ち込んで、大きな座敷2つばかりは、隙間もなく列(なら)べ立てて取扱にも倦(あぐ)んだという。 ( 辻善之助『田沼時代』から)
<徳富蘇峰=『田沼時代』刊行について>  田沼時代は、いかに史家の賞賛せんとするも、その汚れかつ濁りたる時代であることを、看過する訳には参らない。 いかに田沼が一代の政治家であったとしても、その世を毒し、風を壊りたる罪悪は、到底これを払拭し得べきものではない。
 されど彼は幕政中において、小人中の偉物であった。彼は群小政治家中、その手腕は決して尋常ではなかった。 もし彼にして自ら検束し、かつ部下を検束し、その才器を良き方面に用いたらんには、彼はまことに一代の能臣というべきものであったであろう。 惜しむらくは彼は、士君子の教養を欠き、ただ功利一遍の動物として、その卓越したる才器を誤用した。
 彼が賄賂の問屋(といや)であったことは、本書中これを特筆している。今更繰り返すには及ばない。されどこれがために、害を全社会に被らせたる一事は、さらに大なる罪悪といわねばならない。 その部下勘定奉行松本伊豆守・赤井越前守などの放埒もまたはなはだしきものがあった。当時より芸妓を買い取り、麗服を著(つ)けしめ、これを函に入れ、上書を人形として、進物に差し出したるものありという。 活ける京人形の進物とは、このことであろう。
 田沼の妾は元小禄の時、ある揚弓場に出でたる女を召したるにて、後に千賀道有(ちがどうゆう)を仮親となしたり。此が為めに道有は囚獄の医者から新たに召し出されて、侍医法眼(じいほうげん)に命ぜられ、 浜町に二千坪(約6,600平方メートル)程の屋敷を貰ひ、家屋・庭園善美を極め、夏月納涼の座敷は、天井へガラスを張り、其の中に金魚を蓄へたり。 田沼妾宿下(やどさが)りの節は、右屋敷へ諸大名其の他の者共、美味・珍味を贈り、坐に満てり、町屋敷も18ヶ所程所有せり。(五月雨艸紙=さみだれそうし)
 また当時賄賂の相場としては、
 天明・安永の頃は、田沼候執政にて、権門賄賂の甚だしく行はれて、賢愚を問はず、風潮一に此れに赴きたるが、其の折りには、長崎奉行は二千両、御目付は占領といふ、賄賂の相場立ちしと申す位なり。 此の時吉原町にままごとといふ音信物を調(ととの)ふる家ありし由。是は五尺(約151.5センチメートル)程の押入れ子棚様の物出来、其の中に飲食物・吸物・さしみ・口取り、其の外種々の種科より、包丁・まな板までも仕込みあり。 花月の夜、雨雪の窓に開ければ、忽ち座を賑はす為め、権家へ送与して、媚びを取るの具なるが、大抵7,8両位より14,5両までの値段なりし由。(五月雨艸紙=さみだれそうし)
 かかる勢いにて一世を風靡したれば、美河武士の士気などというものが、爪の垢ほどもなくなったのも、決して不思議はあるまい。 ( 徳富蘇峰『田沼時代』から)
<中瀬勝太郎=『江戸時代の賄賂秘史』>  田沼意次が幕府260余年を通じて賄賂に関する最大の大家であったことは、世人がひとしく知るところである。 彼の言として、広く人口に膾炙している言葉がある。いわく、
 『金銀は人の命にも替え難き宝である。其宝を贈りて御奉公を願ふ程の人は、其の志上に忠なる事は勿論である。故に志の厚薄は贈物の多少によって知られる』
 これは果たして本人が言ったのか、あるいは後人が枯れの平素の行動から見て付会したのであるかよくわからないが、一般には彼の言として伝えられている。
 『余日々登城して国家の為めに辛労す、一刻と雖も安き心がない、只退朝の時、我屋敷の長廊下に、諸家よりの贈物が、夥多しく山と積まれたのを見る時は、初めて一日の辛労を忘れ、気も静々する』 (天明夜話集、江都見聞録)
 とも言ったという。
 当時幕府には、田沼の上に大老として彦根中将すなわち云い井伊掃部頭があった。しかし彼は田沼の傀儡に過ぎず、幕府一切の施設は、田沼一人の方寸により割り出されたものである。 したがって日毎夜毎に枯れの屋敷に膝行頓首して訪問する者の数は知れず、その門前は柳沢の場合と同様市をなしたとのことである。
 人々は彼のためにどんなものを持って行けば気に入られるかと苦心し、珍しいもの、彼の好きそうなものは金銀の高をいとわず買い求めて贈った。 当時のありとあらゆる珍しいものが、ほとんど田沼の家へ集まったとさえ言われるほどである。 ( 中瀬勝太郎『江戸時代の賄賂秘史』から)
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<権力者によって書き換えられた歴史>  荻原重秀は貨幣改鋳により幕府の財政を立て直し、成長通貨を供給し、当時の経済を立て直した。
 このような重秀の政策に対して新井白石が攻撃してきた。白石は重秀を「天地開闢以来の姦邪の小人」ときめつけ、6代将軍家宣に重秀の罷免要求をだすこと3度。「もしこの要求がいれられない場合は、自分は重秀を殿中で刺し殺すであろう」とまで詰め寄って、1712(正徳2)年9月11日、重秀罷免に成功する。
 荻原重秀を追い落とした新井白石は、さらに自分の政策を正当化するために荻原重秀を徹底的に悪く言った。このため荻原重秀は歴史上貨幣改鋳という悪政を実行した幕臣として伝えられることになった。
 新井白石は8代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」に関しても、徹底して「悪政」として後世に伝えようとし、人々はそれを信じていた、すなわち「生類憐れみの令、という前代未聞の悪政」として。
 明治維新になり、明治政権は徳川幕府政権を批判してこそ自分たちの存在理由が成り立つため、「江戸時代農民は満足にコメを食べる事さえ出来ないほど貧しかった」という「貧農史観」を植え付けようとしてかなり成功した。 現代でも「江戸時代の農民の主食はアワやヒエであり、コメはハレのとき、特別なときにしか食べられなかった」と信じている人もいる。
 このことに関しては<百姓がコメを食べなかったら、収穫されたコメは誰が食べたのか?>を参照のこと。
 「大東亜戦争」が終わったあと、戦争の名前が「太平洋戦争」と変わり、日本の歴史も変えられた。
 新井白石と同じように、田沼意次を追い落とした松平定信もやはり、田沼意次を賄賂政治家として後世に伝えようとし、つい最近までそれは成功していた。 上に引用した徳富蘇峰の言うように「 田沼時代は、いかに史家の賞賛せんとするも、その汚れかつ濁りたる時代であることを、看過する訳には参らない。いかに田沼が一代の政治家であったとしても、その世を毒し、風を壊りたる罪悪は、到底これを払拭し得べきものではない。」は多くの人に信じられていた。
 後の権力者の都合のいいように書き換えられ、「田沼意次は賄賂政治家である」との歴史を見直すきっかけをつくったのは、大石慎三郎であった。そこで、大石慎三郎『田沼意次の時代』からその辺の事情についての部分を引用することにしよう。
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<大石慎三郎=『田沼意次の時代』>  江戸時代の三大改革といえば、享保の改革・寛政の改革・天保の改革、三大飢饉といえば、享保の飢饉・天明の飢饉・天保の飢饉というように、日本人は古来三大何々と大物を3つ抜き出して数えたてるのが好きである。 近頃そのような傾向が少し希薄になっているので、そうであったと言うべきかも知れないが、この伝からいって日本史の三大悪人というのも、あったわけである。 弓削道鏡・足利尊氏・田沼意次の3人である。しかし前の2人は昭和20(1945)年の配線によって皇国史観が亡んだため評価が変わり、後に残ったのは田沼意次の1人となった。 彼は大変賄賂を好み、賄賂によって政治を左右する腐敗した日本史上最悪の政治家として描かれ続けた。そしてどの日本史の教科書にも、それを風刺する図柄として辻善之助著『田沼時代』所収の「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図が、 のせられ続けたものである(大正4年、日本学術普及会刊『田沼時代』17頁、岩波文庫『田沼時代』24頁、今後同書を引用する場合は岩波文庫版を用いる)。 「まいない鳥」の図には、、「この鳥金花山に巣を喰う、名をまいない鳥という、常に金銀を喰う事おびただし、恵み少き時は、けんもほろろにして寄りつかず。但しこの鳥駕籠は腰黒なり」という説明がついており、「まいないつぶれ」の図には、 「この虫常は丸之内にはい廻る。皆人銭だせ、金だせまいないつぶれという」とある。
 もちろん私自身も、戦前戦後にかけて日本歴史の教育を受けたものであるが、大学を卒業して研究者の生活をはじめてからも、田沼意次は賄賂好きの腐敗した政治家として教えられ、またそのような記事を読み続け、同時に「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図を見てきた。 そのうちに奇妙なことがあるのに気がついた。「まいないつぶれ」が背中にしょっている、丸に十の紋所である。「丸に十の字」といえば誰知らぬ者もない九州島津氏の紋所であり、田沼の紋所は「七曜」の紋所である。 これはおかしい、ひとつ調べてみる必要があるのではなかろうか。
 こんなことを思いついたのが、たしか昭和30年代の中頃であったが、当時は私は8代将軍吉宗の享保の改革の研究に熱中しており、とうてい田沼時代に重点を移すなど当分できそうにもなかった。 それでもとりあえず先学が、田沼意次は日本史でも例をみないほど賄賂好きの政治家であるとした説の、根拠とした史料を原本にあたって1つずつ検討してみることとした。 ところが意外なことがわかり、それを「田沼意次に関する従来の史料の信憑性について」という論文にまとめて発表した(『日本歴史』昭和43年2月号)。するとそれまで20種あれば20種、 すべての高校教科書に挿絵としてのせられていた、「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図が、潮が干くようにいつの間にか全部消えてしまった。 ( 大石慎三郎『田沼意次の時代』から)
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<田沼意次の「市場経済化」は抵抗勢力によって挫折した>  田沼意次の政策は、自由経済であり、それを保障する自由な社会であった。それはしかし同時に幕藩体制を弱体化する政策でもあった。 幕藩体制という封建制度を維持するために、田沼の市場経済、自由な社会、は潰さなければならなかった。そうした旧勢力ともう1つ、別の力(一橋家)が松平定信を動かし、その動きの中で佐野正言(まさこと)が田沼意知を江戸城内で刺殺することになった。
 江戸時代の3大改革の1つである「寛政の改革」は、このようにして反田沼の筆頭、松平定信によって始められることになった。
 田沼意次の政策に関しては<改革に燃えた幕臣経済官僚の夢>を参照のこと。
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<主な参考文献・引用文献>
『田沼時代』                       辻善之助 岩波文庫     1980. 3.17
『江戸時代の賄賂秘史』                 中瀬勝太郎 築地書館     1989.12. 1
『田沼時代』近代日本国民史                徳富蘇峰 講談社      1983. 7.10
『江戸幕府・破産への道』貨幣改鋳のツケ          三上隆三 日本放送出版協会 1991.12.20
『田沼意次の時代』                   大石慎三郎 岩波文庫     2001. 6.15
( 2008年7月28日 TANAKA1942b )
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(8)3大改革とは、保守反動勢力の動き
 幕藩体制という封建制を守るため必要な反動政策
<享保の改革・寛政の改革・天保の改革>  今週は江戸時代の3大改革を扱う。3大改革とは次のことを言う。
 @8代将軍徳川吉宗が行った改革=享保の改革
 A老中松平定信が行った改革=寛政の改革
 B老中首座水野忠邦が行った改革=天保の改革
 これらの改革を簡単におさらいしてみよう。
享保の改革  8代将軍徳川吉宗【(貞享元年10月21日(1684.11.17)〜寛延4年6月20日(1751.7.12)】【将軍在任 享保元年(1716)〜延享2年(1745)】が行った政治。
 徳川幕府が開かれて、直接生産活動に従事しない武士階級が政治の実権を握った。権力は握ったが生産部門は農民・町人受け持つことになった。 当時の生産活動は農業が主であった。その農業、戦国時代からみれば治安が安定し、農業を初めとする生産活動の専念出来るようになった。 生産性も向上し、所得は向上する。商人・職人の生活も安定してくる。経済は成長する。荻原重秀の貨幣改鋳により「成長通貨」が供給され、経済成長を助けることになる。 しかし、新井白石の反成長政策により経済は停滞する。幕府の財政も赤字が続く。こうした状況で吉宗が8代将軍に就任する。
 江戸時代は3貨制度と言われる。金・銀・銅が貴金属貨幣として通用していた。そうしてもう1つ、コメが貨幣の役割を果たしていた。 江戸では「金」が通貨として通用し、大坂では「銀」が通貨として通用し、庶民の生活では全国一律に「銭」=「銅貨」が通用していた。そして、武士はコメを給料として支給されていた。
 吉宗の時代、初めの内はコメの価格が高くなり、吉宗や大岡忠相(ただすけ)(江戸南町奉行)が諸物価の価格安定に苦労する。祖Rのコメの価格がすぐに下がり始める。これは武士の給料が下がることを意味する。
 吉宗は幕府の財政改善とコメ価格の安定を中心幕府の制度を改革する。そうした改革を称して「享保の改革」と言う。 改革の具体的な政策は次の通り==米価安定策 目安箱の設置 町火消組の創設 町奉行所の機構改革 仲間組合の結成による物価安定策 小石川養生所の設立 都市下層民対策 風俗の取締り 鷹場制度の復活 行楽地の整備 全国人口調査 司法改革 貨幣政策 奢侈品の禁止 新田開発 税制改革
 これらの内容は<野暮将軍吉宗が格闘した享保改革>に書いたのでそちらを参照のこと。
寛政の改革  老中松平定信【(宝暦8年12月27日(1759.12.27)〜(文政12年5月13日(1829.6.14)】 【老中在任 天明6年(1786)〜寛政5年(1793)】は老中田沼意次に対する反動勢力の象徴として登場した。その政策は反田沼一色であった。
 田沼が規制を緩和し市場経済を発展させようとしたのに対し、松平定信は、大坂などの大商人を豊かにする政策として否定、経済活動を規制した。 結果として経済は停滞し、庶民の指示は失われ失脚する。主な政策は次の通り。
棄捐令(きえんれい) 当時、旗本・御家人などが町人から借金をし、それが累積し返済が困難になっていた。 このため、1784年(天明4年)以前の借金は債務免除とし、それ以後のものは低利返済とした。これが1789年(寛政元年)9月のこと。 これにより帳消しにされた武士の債務は約120万両(現在の金額に換算して約1兆円)であったといわれ、幕府の年間支出とほぼ同額だったと言われている。
 この棄捐により債権者である札差しは以後武士に金を貸さなくなり、武士はかえって生活が苦しくなった。このことを現代に置き換えて考えれば、一部の運動かが主張している「アフリカ諸国への再建を帳消しにせよ」を考えると理解しやすい。 債務を帳消しにすれば、民間の金融機関は以後アフリカ諸国への投資をしなくなる。従って「アフリカ諸国の債務を帳消しにせよ」との主張は、「今後アフリカ諸国への融資をしなくても良い」との主張と同じになり、経済成長を阻害することになる。
旧里帰農令 田沼時代、農村から江戸に多くの人が移り住んできた。農村部では生活出来ない、という見方もあるが、 経済が成長し江戸へ来れば何とか生活出来る状況であった。松平定信は「旧里帰農令」を発し、こうした人々を農村部に帰るよう奨励した。
人足寄場 犯罪者の更正を主な目的とした収容施設。火付盗賊改方長官である長谷川平蔵が松平定信に提案して設置されることになった。 寛政元年(1789)提言され、寛政2年2月に仮小屋が完成。この施設は明治維新により廃止。
囲米(かこいまい) コメの不作など、万一の事態に備えて幕府や諸藩などが予め穀物を貯蔵しておく制度。 天明の飢饉に対して、松平定信は他藩からの穀物を買い占め、白河藩は被害が少なかった。囲籾(かこいもみ)・囲穀(いこく)・置き米(おきごめ)などとも言う。
七分積金(しちぶつみきん) 一種の倹約令で、江戸町方に命じた積立制度。 町入用を節約するとどの程度になるか調べ、節約分3.7万両のうちの7分にあたる2.6万両を毎年積み立てるよう指示した。 寛政4年(1792)3月に、向柳原に江戸町会所と囲籾蔵12棟が設置され、七分積金の運営が開始されることになった。
猿屋町御貸付金会所(さるやちょうおかしつけきんかいしょ) 松平定信の棄捐令により、債権者である多くの札差しの不満を抑えるため、 札差しの救済機関。浅草猿屋町(現在の台東区浅草橋3丁目付近)に設置された。札差しという金融機関に対する救済機関であると同時に、監督機関でもあり、幕府の財政窮迫時には頼りに出来る機関でもあった。 このため、この会所は江戸幕府崩壊まで継続し続けることになった。
寛政異学の禁 朱子学を幕府承認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止した。 これによって諸藩も従い、朱子学の他は異学として禁止されるようになる。
処士横断の禁 田沼時代の自由な学問の時代から、一転して幕府に対する批判を禁じた。蘭学を公的機関から徹底廃止し、蘭学者を公職から追放した。 さらに、倹約の徹底や、風紀の粛清など市民社会への規制を強化した。さらに出版統制により洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。
天保の改革  老中水野忠邦【(寛政6年6月23日(1794.7.19)〜(嘉永4年2月10日(1851.3.12)】 【老中首座在任  天保10年(1839)〜天保14年(1843)】改革は忠邦の腹心の鳥居耀蔵らとともに推進され、水野が退陣するまでの約3年間行われた。
 江戸時代後期、化政文化(かせいぶんか)と呼ばれる華やかな庶民文化が栄えた時期がある。それは文化・文政期(1804年〜1829年)を中心とする江戸時代後期に発展した町人文化であり、 天保の改革はそうした庶民文化が、贅沢につながるとして、綱紀粛正を中心に行われた。つまり、「江戸時代、趣味と贅沢と市場経済を推進した」という見方からすれば、経済を停滞させる改革であった。
 主な政策は次の通り。
綱紀粛正 倹約令を施行し、風俗取締りで芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。 歌舞伎の廃絶まで考慮されたが、そこまでに至らなかったのは北町奉行遠山景元の進言によるものと言われている。
株仲間の解散 元禄時代もそうであったが、この時代、化政文化と呼ばれる庶民分ががさかえた、ということは経済が成長した時期であり諸物価は高騰した。 物価上昇に対して、原因を株仲間の存在に求めた天保の改革では、株仲間の解散が大きな重点政策であった。けれども、この政策は失敗に終わった。経済活動の中心的存在であった、株仲間を解散させたことによって、流通機構はがたがたになり、混乱し、その結果物価は乱高下することとなった。
上知令 江戸や大坂周辺の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、幕府の行政機構を強化使用とした、 しかしこれには反対が強く実際は実施されなかった。
金利政策 棄捐令・相対済令の公布とともに、一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げ、武士のみならず民衆の救済にもあたろうとした。 しかし、松平定信の時と同じように、貸し主が貸し渋りを起こすようになり、かえって金融活動は停滞し武士・町人は苦しむことになった。日本では、このように2度も経験している「棄捐令」、しかし、同じことを、アフリカの債務国のために「先進国は債権を放棄せよ」と叫ぶNGOもあるようだ。
人返し令 松平差定信の「旧里帰農令」と同じ発想。士農工商という職業選択の自由を奪う制度を強化しようとする政策。江戸時代、市場経済化が進み、労働人口の移動も多くなってきた。 それを阻止しようとする政策だったので、農村部では労働人過剰、都市部では人で不足になった。
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<三大改革を理解するために』>  常識的には、江戸時代の幕府政治の上で、大きな改革が3度あったと言われている。それらは8代将軍徳川吉宗の行った享保期の政治と老中松平定信の行った寛政期の政治、 さらに天保期の老中水野忠邦の行った政治を言い、改革として明瞭に意識され断行せられた政治上の転換をとくに意味している。今日では、そのそれぞれに対して、享保の改革・寛政の改革・天保の改革という名称で呼びならわすのが通例になっているのである。
 いずれの場合にも共通して言えるのは、それらの改革の出発点となっている点をみると、幕政を担当している当面の責任者がきわめて深刻化した幕府財政をその窮迫の状態から立て直し、これと関連して幕政全般の建て直しを考慮する必要に迫られ、 それを断行するところに特徴がある。3大改革はいずれも改革を実施し財政危機を回避しようとするにあたって前段階の政治の在り方を反省し、その批判のもとに明確に意識して、 政治の変更を試みようとした側面を持っている。いま3大改革を考えるにあたって、従来からの慣例のように、幕府の財政危機という側面から取り上げることより、始めて、改革の全般の性格を問題にしたいと思う。 もっとも、普通に幕府の財政危機とその克服だけを、単に3大改革の歴史的な意義のすべてのごとくに説明して、それで済ませてしまうようなものもいるけれども、3大改革としてとくに歴史上に大きな意味をもっているのは、決して財政上の問題をその財政収支面だけを考えて片づけてしまうことはできないはずである。 いかに財政の収入を図ろうとしても、それだけでは財政問題は解決できないことは明らかである。このために、われわれは幕府の財政意識を招来したのは一体何かを考えておく必要がある。 財政危機といっても、幕府の権力の基礎になっているのは封建社会の全般にわたって社会構造の変質をきたし、それが構造的な危機を招来し、典型的には幕府の財政危機として現れたものに過ぎないことを承知しておく必要がある。 このために、3大改革を取り扱う基本的な視点として、単に財政危機のしく面のみならず、幕藩制封建社会の構造的危機の問題として取り扱う必要がある。
 そこではいかなる形で、封建的諸関係の間に矛盾が形成され、激化するに至ったかを承知しておくことが重要となる。すくなくとも社会の発展が一定の段階に達すれば、古い政治体制がそのままでは存続し得ないような事態に至るのは当然であろう。 このために古い政治体制を崩さないようにするためには、特別の補強策が必要であり、それが新しく発生した歴史的条件を排除し得るだけの幕府権力をもっていて従来の体制を十分に強化し得るような政策を取り得るか、または新しい事態に対応して、それに沿ったような形で、幕府権力を強化しようとするかのいずれかである。 今日江戸時代の歴史を考えるにあたって、3大改革というものがとくに重要な意味をもって取り上げられるのは、徳川幕府を支えていたふずのその権力の基礎に、重大な期kが発生し、政治機構なり、具体的な政治のあり方に、転換がなされなけでば従来の政治体制が存続できないことが認識されたことに基づく政治改革であったからである。 もちろん、それらの改革は当然一定の歴史的な発展によって生じた階級関係の対立と激化に基づき、支配者側としての階級的な立場から要請された行為である。 すなわち、将軍または代理者が将軍の上意のよって行うという形式をとっている。その限りでは、改革を担当する政治家というものも階級的な要求に基づいて直面する事態を危機として意識し、それに対して行動しているものでもある。 ( 津田秀夫『江戸時代の三大改革』から)
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<吉宗の享保の改革>  吉宗が将軍になったころの幕府は、2つの大きな問題を抱えていた。1つは政治体制の問題であり、、いま1つは経済体制の問題であった。 家康時代、主として人材にたよって築き上げられた徳川幕府体制も、2代秀忠を経て3代家光の時代には守勢ろなり、人材より組織による政治が重要になった。 このため家光時代の中ごろ、老中以下の情勢組織がほぼ完成、以後幕政は議とより組織によって運営されるようになった。 しかし時が下って5代将軍綱吉のころになると、身分制度を基礎とする組織だけでは政治を運営することができなくなった。社会が複雑化し、政治が単純でなくなったからである。 ここで出てきたのが、側用人という変則制度による人材政治であった。しかし、この政治体制も6代家宣、7代家継と続くうちに、身分制度にもとづき、正規行政機関にいる譜代門閥層の不満は爆発寸前になった。
 吉宗は側用人政治をやめて、老中以下の正規官職の機能を回復させ、これら不満をなだめた。しかし享保という時代は家柄がよいというだけで政治ができる時代はとっくに過ぎていたので御側用取次という名の側用人を置いて、これに実質上の政治を任せた。 有馬氏倫(うじのり)と加納久道の2人であるが、彼らの存在は老中といえどこれを恐れ、はばかるというほどであった。とくに有馬氏倫は「人ににくがる者、人喰い犬と有馬兵庫頭」といわれたほどである。
 つまり吉宗の時代も側用人政治だったのである。一方、幕政から経済というもっとも重要な部門だけはずし、ここに特にそのために登用した人材を配置することで、組織政治と人材政治の統合に成功した。足高制(あしだかせい)の採用と、法制の整備とは、この統合をより効果あらしめるものであった。
 政治体制についてみると、封建領主としての幕制は、はじめは農政1本であった。しかし4代将軍家綱のころに、新しい商業が台頭すると、政治も従来のように単純なものでは間に合わなくなった。綱吉時代の柳沢吉保・荻原重秀の政治は、ともかくこの新しい商業を、政治の中に取り込もうと試みたものであった。 しかし必ずしも成功せず、農政重視の保守派の反撃も強かった。新井白石の政治は、この農政重視の保守派を代弁したものであった。が、貨幣政策の失敗でわかるように、時代の新しい流れは無視できるものではなかった。
 吉宗政治の課題は、この2つを1つの政治の中に、なんとか統合することであった。そして、その試みは成功している。ここで幕制は、新しい商業をもその体制に抱き込んだのである。 彼が「幕府中興の祖」と言われるのは、このためである。
 しかし、幕府を直接の攻撃目標とする、農民一揆や都市騒擾で代表されるような庶民の台頭に対しては、必ずしも有効な手を打てたわけではない。都市問題・物価問題は新しいやっかいな問題であった。またこのころから、幕府からの藩の自立が見え始める。 一度禁止していた藩独自の通貨である藩札の使用を、1730(享保15)年再び認めるようになったのもその現れである。
 このような問題は、当時の幕府の力と、その体制の固さから見れば、まだほとんど気にするほどのものではなかった。しかし吉宗の後を継いだ9代家重、10代家治の時代には、これが幕藩体制を揺るがし始めるのである。 ( 『徳川吉宗と江戸の改革』から)
<3大改革とは何だったのか?>  これまで述べてきたことにより、われわれは貨幣経済が実物経済に追いつき追い越した時期を寛文年間とした。そのことの上にあって徒花(あだばな)として開花したものが今成金の出現であり、今に語り継がれるその浪費のかずかずである。 その1,2を紹介してみよう。
 江戸の石川屋六兵衛の妻は、京都での衣裳くらべに勝ったほどの美貌と財産に恵まれた人物であるが、同人が元和元年(1681)に綱吉の寛永寺参詣の行列を、金の簾(すだれ)をおろし名香をたいた部屋から見物したので、身分をわきまえぬ贅をほしいままにしたと咎められ、前財産の没収・所払いの刑を受けた。あるいは、
   価千両で 客止めの 札を貼り
と言われているように、紀(伊)国屋文左衛門は遊郭吉原の全おいらん・女郎を1,000両で、それも3回にわたって買い切ったことで有名である。 真偽のほどは別として、当時の1,000両は約1,500人が1年間の生命を維持する米を購入する力を持っていた。あるいはこれまた真偽は別として、
   紀国屋 みかんのように 金を撒(ま)き
と川柳にあるように、廓内の道路の雪を手と足で消し去ると約束し、裸足のものに限り拾った貨幣を与えると宣言し、遊郭2階から道路上へ小粒金貨・銅貨を撒いたという。手足の体温でゆきを溶かしたわけである。
 これら貨幣の浪費の、江戸に対する大坂での代表は淀屋辰五郎であろうか。淀屋は、自宅前の広場で開いた米相場で産をなし、自宅横の土佐堀川に自力で架橋した。これを世間が淀屋橋と呼んだところから、淀屋の名は地名となって現在に残っている。 その5代目が宝永2年(1705)に闕所の刑(土地・家屋・財産などを没収する)に処せられた。理由はさだかではない。とはいえ当時の噂では、庭に唐・天竺の樹を植え、数奇をこらした座敷には四方に珍しいビイドロの障子をたて、天井もビイドロを張りつめ水をこれにたたえ金魚を放ち、金の丼鉢で飯を食い、コメの買い占めをしたからという。没収された財産目録によると、巨額の金銀銅の蓄財のみならず、同様に巨額の大名・武士・公卿への貸金があった。これからみると、大坂では経済意識が進んでいたためであろうか、同じ成金でもいささか趣が異なる。幕府の処置も、単なる成り上がり者を押さえ込むというよりは、武士階級への蚕食をくい止めるという政治的要因が強いように思われる。
 これらのエピソードは、身分万能をうたう封建制に対して、貨幣万能をうたう近代制の挑戦とみることもできよう。米遣いを追い越した金遣いの経済は、その後も発展の歩みを止めなかったので、その後も再三にわたり、身分万能主義、米遣い経済からの反撃が行われることになる。この主要なものが3大改革と呼ばれる享保の治・寛政の治・天保の治である。
 特に享保の治は将軍自身が先頭に立って、家康の時代に帰れと号令をかけ、米将軍」のニック・ネームを貰うほど米価安定に心を砕き、米遣い経済の復活を試みたわけである。あるいは農村から都市への人口流入を阻止して農業人口の確保につとめ、米遣い経済への復帰を目指す松平定信の寛政改革は、その一環として旗本・御家人の債務救済を目的とする寛政元年(1789)の棄損令を出したが、それは借金の棒引きによって一応の効果を上げたものの、札差の倒産や彼らの貸金への警戒心を深め、逆に以降における金融の道を失った旗本らは哀れにも家計を一層困窮に追いやる結果となった。質素倹約令・上知令。棄損令を内容とする水野忠邦の天保の改革も軌を一にするものであった。
 これらのものは金遣いのルールを暴力的に拒否する一時的反動であったに過ぎない。大は政治の改革から小は町人の贅沢に対する処置まで、そのすべての寄るところは富裕化の進む庶民に対する貧窮化傾向にあるもののヒガミ根性もさりながら、根本をなすものは幕府自身、というよりは武士階級全体が政治的目的で法制化された参勤交代による巨大出費や、私生活の高貴志向など、貨幣経済の流れに身を委ねるのあまり露呈した財政・家計の赤字化、窮迫化のゆえである。「今の世の諸侯は大も小も皆首を垂れて町人に無心をいひ、江戸・京都・大坂其外処々の富商を憑で、其続け計にて世を渡る。……諸侯すら然也。況んや薄禄の士太夫をや」(太宰春台『経済禄』)とあるように、諸侯は大坂で掛屋(かけや)、旗本・御家人は江戸で札差にそれぞれ融資を受け、借金の泥沼に足を引き込まれたのである。
 もとより幕府はその赤字財政を手放しのまま眺めていたのではない。貨幣経済の流れの沿って赤字解消のための努力をした。幕府のとったその赤字対策とその結果については章を改めて述べることとする。 ( 『江戸幕府・破産への道』から)
*                      *                      *
<幕藩体制の土台を揺るがす社会変化>  幕藩体制の土台は、@武士階級が一番強い立場にある「士農工商」という階級制度。A農業を産業の基礎とする経済制度。
 この2つの土台が緩んだことによって改革が行われたことになる。享保の改革に関しては上記のような肯定的な見方もあるが、手直しは一時的なものでしかなかった。 幕府の財政改革として登場した定免法(じょうめんほう)であったが、これは農産物がたくさん採れればその分農民の取り分が多くなる。これによって、農民のインセンティブは刺激され、年貢を納めるためのコメ作りから、産業としてのコメ作りになった。 このことは、年貢として必要な分以上のコメが商品として流通することになった、と同時に農民がコメ作ると通して貨幣経済に組み込まれていこことになった。 農民のコメ作り意欲が増すことによって、農民は収入が増え、コメの流通が増えることによって、コメの流通価格が下がる。これは、コメを給料として貰っている武士階級の収入が減ることを意味する。 税制改革として登場した検見法であったが、実際は、農民の収入を増やし、貨幣経済を普及させ、武士階級の収入を減少させ、一番強い立場にあった武士階級が経済的に弱い立場になっていった。
 江戸時代初期、農村部では、食料をはじめ農耕具なども自給自足であった。農村部での、農業をはじめとする産業の生産性が向上することによって、時給自足経済から商品経済へと変わっていった。 コメを給料とする武士階級にとって貨幣経済は収入の減少にとどまらず、経済に動きに対して影響力を失うことになっていく。
 このような社会構造の変化に対して、「享保の改革」は手直しをして幕藩体制を維持しようとし、一時的には効果があった。しかし根本的な改革にはなっていない。幕藩体制がこうした社会構造の変化とは違った制度によって維持される体制であったからだ。 したがって、こうした社会構造の変化に対して一時的に幕藩体制を維持しようとする意図は成功したと言えるかも知れない。
 寛政の改革は「反田沼政治」と見れば理解し易い。田沼時代は、社会構造の変化を権力的に統制しようとはせず、社会・経済市場の動きに対する規制を緩め、自由な変化を認めようとした政治であった。 これに対して松平定信は、@武士階級が一番強い立場にある「士農工商」という階級制度を維持し、A農業を産業の基礎とする経済制度を取り戻そうとした、「改革」であった。 そしてこれには大坂の大手商業資本が支援することとなった。そしてこの「反田沼改革」を正当化するために、田沼意次を「賄賂政治」として批判することになり、この批判を、批判せず、「田沼意次は賄賂政治だ」という宣伝文句を現代まで伝えることになってしまった。
 結局、松平定信は失脚し、「寛政の改革」は失敗し、その後ろに控えていた力が、実際の力を握ることになった。
 社会構造の変化は幕府の意図とは無関係に進んでいく。豊かになった、武士以外の人々は生活を楽しみ「贅沢は素敵だ」を実感することになる。 この変化を止め、幕藩体制という封建制度を維持しようと、老中水野忠邦は「天保の改革」を行う。しかし、この改革でも社会構造を変化を止めることはできない。 結局身内の幕臣からの批判もあって失敗し、このまま幕末へと時代が進むことになった。
 このように、江戸時代の3代改革とは、「保守反動勢力の助けを借りて、幕藩体制という封建制を守るため必要な反動政策であった」ということなのだと言える。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『江戸時代の三大改革』                   津田秀夫 弘文堂      1956. 1.25 
『徳川吉宗と江戸の改革』                 大石慎三郎 講談社学術文庫  1995. 9.10
( 2008年8月4日 TANAKA1942b )
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(9)金貨流出という異常事態の責任は?
 欧米に比べ、あまりにも進んだ管理通貨制度だった
 今週は幕末の金流出を扱う。「どのようにして金が流出したか」、については多くの書物に書かれているが、「なぜ日本だけ金銀交換比率が違ったのか?」という金融経済学的な観点からの説明は見あたらない。 TANAKAの見方は「日本の金融システムがあまりにも進んだものだったために起きた悲劇」というものだ。まず、どのような状況であったのか、『江戸幕府・破産への道』から引用することにしよう。
<浦賀沖のペリー艦隊>  盗人にも三分の理、という俚諺があるように、社会的出来事は100パーセントの善とか悪というような一方的性格のものはなく、正反対のもの・矛盾するものを同時にもっているのが通常である。 「君子危うきに近寄らず」と一方では言い、他方では「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と言う。嘉永6年(1853)に軍艦4隻のデモンストレーションとともに、日本開国を求めて浦賀沖にやってきたM.C.ペリーの場合も同じであった。
 一方では、
  泰平の 夢をさます 蒸気船(上喜撰という茶の名柄とかける)
   たった四杯(船四隻を四はいとも言い、これと茶四杯とかける)で 夜も眠れず
 と、鎖国の日本社会に大きな衝撃を与え国民を不安のドン底に陥れた。しかし、他方では泰平にともなう遊興に走り、「御旗本御家人年来困窮御救被下度、銘々古具足着用の具足等所持之者一人も御座候様子に御座候」 (『大日本古文書──幕末外国関係文書』)という一般的状況で、
  武具馬具屋 アメリカさまと そっといい
と稼ぎ秋到来とばかりに喜ぶ死の商人もいたわけである。だがこの事件は全体として見れば、いろいろな社会問題・摩擦を引き起こし、喜びよりは圧倒的に苦しみを与えたことは確かである。 その1つが貨幣をめぐる経済摩擦である。
 ペリーはアメリカ大統領・フィルモアの国書を将軍にまで提出したものの、それへの返答は翌年との約束で、浦賀を引き上げ琉球へと去った。 翌嘉永7年早々に、今度は軍艦7隻を引き連れ神奈川沖に投錨。そして和親条約の締結に成功した。これを足場に安政5年(1858)には修好通商条約、つまりアメリカの初志である日本開国を完全に実現したことは周知の通りである。
 貿易を商人する安政5年の通商条約は当然のこと、その前段階の嘉永7年の和親条約によっても、アメリカの捕鯨船(更には計画中の中国への定期航路に対する、ハワイに続く石炭補給地確保の狙いもあった)などの日本寄港を認めるわけで、 その時には、以降の航行に必要な燃料・生鮮食料品・飲料水等の供給が義務づけられる。ここに欧米貨幣との接触が生じるわけで、幕府にとっては彼らから受け取る貨幣の評価、すなわち彼我貨幣の交換レートが決定することが緊急課題となる。
 しかし当時の外国貨幣研究文献としては、青木文蔵撰『和蘭貨幣考』(寛保2年<1742>)、朽木昌綱撰『西洋銭譜』(天明7年<1787>)、安南・ロシア貨幣にも言及する草間直方『三貨図彙』(文化12年<1815>)などもあるにはあったものの、これらは同好仲間の趣味的水準を出るものではなく、 実用性に乏しいものであった。幕府はこの問題については、そもそもから取りかからねばならないということである。
 そこで幕府は、嘉永6年にペリーが浦賀沖にきた時、碇泊中のアメリカ艦隊に供給した食糧等の必需物資の代金として受け取った約350ドルの金銀銅貨を急遽江戸の金銀座に持ち込み、そこで分析測定した。その結果をもとに彼我貨幣の交換レートを以下のように算定した。
 @金貨1ドル=通用銀8匁3分6厘
 A銀貨1ドル=通用銀16匁
 B銅貨1ドル=銭1600文
このレートは嘉永7年5月に、下田の了仙寺における会談で下田奉行支配頭の黒川嘉平衛から提案され、アメリカ側代表として出ていた艦隊主計官がこれを受け入れた。日米にこれから発生する経済問題・摩擦の核となるのが銀貨であるので、このAの銀貨レートについて詳述したい。 ( 『江戸幕府・破産への道』から)
<国際通貨メキシコ・ドル銀貨>  洋銀と言えば、今日ではニッケルと銅の合金であるジャーマン・シルバーと呼ぶものを指すのが通常であるが、幕末時では欧米人から受け取った、アメリカ・メキシコ・イギリス領香港などで鋳造された銀貨の総称であった。 この洋銀群の中にあって圧倒的多数を占めるものはメキシコ・ドル銀貨であった。
 16世紀に展開されたスペイン帝国の植民地政策は、その地に大学までも設立するという、いわば分家ないし半独立国を建設するようなユニークなものであった。 その1つとして、スペイン領植民地で掘り出された銀は、その多くが本国の貨幣法規定によりその地で銀貨に鋳造された。それが本国のカルロス・ドルとならぶメキシコ・ドル、ボリビア・ドル、チリ・ドル、ペルー・ドル、ニカラグア・ドルなどの銀貨である。
 その中で、産銀量の豊富さによる大量鋳造はもとより、400年間にわずか5.9パーセントの低下のみという良き品位の保持によって、メキシコ・ドル銀貨(以下メキシコ・ドルと略す)が特に広く普及し、太平洋沿岸諸国の国際通貨として活躍し、以降の貿易銀の手本になった。 一時期にはアメリカ合衆国の法貨にすらなった。ちなみにメキシコは現在でも世界有数の産銀国であり、昭和39(1964)の第18回 東京オリンピック記念の1000円・100円銀貨用の銀もメキシコから輸入されたものである。
 このような理由で洋銀はメキシコ・ドルが代表することとなり、洋銀がメキシコ・ドルの別称の観を呈するようになる。ところで、メキシコ・ドルのドルはダラー(Dollar)の訛りではなくて半和製語である。アイアン(Iron)をアイロン、レディオ(Radio)をラジオというように、明治・大正期までの外来語の発音は、ドイツ語にも作用されたこともあって綴じられた文字そのものに拘泥することが多かった。 それに従ってDollarはDo-l-la-rと分解されてドルラルと呼ばれた。それを前提にして、テレビジョンがテレビになるようにドルと略称されることになる。 ( 『江戸幕府・破産への道』から)
<銀素材として評価>  供給された物資の代金としてアメリカ艦隊から支払われたメキシコ・ドルを中心とする金銀貨の評価にあたり、幕府は双替(そうがえ)相場を採用した。 鉱山から掘り出された山出し金銀を買い上げたり、逆に細工物の素材として金銀地金を売却する場合、それに適用する金銀地金の売買相場が双替相場である。 したがって双替相場の採用は、異国の金銀を貨幣そのものとしてではなく、単なる金銀地金として取り扱うということである。そして、外国金銀銅貨を双替相場で評価し、それぞれのもつ価格を日本貨幣によって示すことになる。
 双替相場は純金に対しては1匁につき、純銀に対しては10匁について、その時の通用銀=丁銀によってそれぞれの評価額を表示する。例えば純金1匁あるいは純銀10匁が通用銀で22匁の場合には、これを22双という。 表示銀目にしたのは、丁銀の計量体系が十進法であり、端数や微小表示に金貨よりも優れているからである。なお、双替の名称はははもとの金銀量が銀目で幾層(=双)倍替になるということに由来するものという。
 アメリカ艦隊から購入日本物資への支払いに使用された1ドル銀貨は、量目7.12匁で品位865のものであった。洋銀代表格のメキシコ・ドルは量目7.2匁の品位898である。 両者の比較からも明白のように、アメリカ海軍の紳士たちも同じ人の子、旅の恥はかきすてとばかりに、良質のメキシコ・ドルは温存して悪貨ばかりをよって日本につかませたのである。 このことは、当時のアメリカの一般的意識からすれば、まさか自分の手渡した銀貨が日本における高度の科学水準で精査されるとは想像だにしなかったということによるものであるが、人間味ゆたかなエピソードではある。 ( 『江戸幕府・破産への道』から)
<小判流出の原理>  海外圧力によって成立をみた1対5という似而非日本比価が、当時の1対15という国際比価の前に出現することになる。両者の大きな落差が一分銀への底なし需要を作り出すことになる。 ただしそれは日本への悪貨=洋銀の流入、日本からの良質=小判の流出というグレシャム法則を作動させる触媒となるのである。
 いま100ドルの洋銀が持ち込まれたとしよう。それを同種同量の原則によって311枚の一分銀に交換し、更にそれで77両3分の小判を入手したとすれば、132.5匁の金を得ることになる。 これをアメリカ金貨1ドル=純金0.4匁で計算すると、331ドル相当となる。100ドルを日本に持ち込むだけで、比価差と呼ばれるものによって331ドルの収入、つまり231パーセントの利益をあげることができるという寸法である。
 他方、入手した小判は海外、この場合はさしあたり上海・香港の金市場で売却しない限り利潤は実現せず、また更なる日本貨幣からの収益入手の行動に出ることもできなので、陸続と小判がこれらの金市場に出現することになる。 需要を一定とすれば、小判売却=供給の増大は当然にその価格の下落となる。
 洋銀と一分銀の交換が不変であっても、小判商人からの小判仕入価格の上昇と、他方における上海・香港金市場での小判販売価格の低下という両方からの締め付け、つまりコスト・アップと販売価格の下落とによって収益は大幅に減少することになる。 それでも正規の通商、つまり茶・絹などの貿易による利潤とは比較にならない利益、最低でも1回につきほぼ100パーセントもの利潤が実際に入手できた。その限り、洋銀の流入・小判の流出は絶えることがないわけである。 ( 『江戸幕府・破産への道』から)
*                      *                      *
  幕末に日本から金が大量に流出した。そのメカニズムについては以前に書いたのでその文章を引用しよう。 <幕末、金貨の大量流出>から。
<1ドル銀貨と1分銀の交換比率>  鎖国していた国が国際社会に参加していくとき、国際ルールがわからなくてトラブルを起こしたりすることがある。「国際社会に参加し、自由な貿易制度のもとで国民は豊かになっていく」と分かっていても既得権者の抵抗が強い場合や、ルールに不慣れのためトラブルを起こすこともある。 それでも、そうした試練を克服しながら一国の経済が開放経済へと向かい、国民生活は豊かになっていく。そうした場合の出来事を中心に「グローバリゼーションによって社会は進化する」と題して取り上げてきた。今回は日本が鎖国をやめ、諸国との貿易を積極的に始めたときのこと。 日本の貨幣制度と、世界の貨幣制度との違いから、日本の金が大量に流出したことを扱う。このケースでは、日本の制度が遅れていたからではなくて、実は日本の制度が欧米諸国よりもあまりにも進みすぎていらから起こった、という変わったケースを扱う。
 1853(安政元)年、ペリーが来訪し、翌年日米和親条約(日本國米利堅合衆國和親條約)を締結。アメリカの通貨であるメキシコドル銀貨と日本の通貨である1分銀と、1対1の交換比率にするとの条約を締結する。2年後の1856年に、日本総領事に任命されたタウンゼント・ハリスが玉泉寺にアメリカ総領事館を設置し、ペリーが結んだ条約の通貨交換比率を改訂するよう要求する。 その交換比率とは、1ドル銀貨1枚と1分銀3枚で交換する、というものだった。
<ハリスの主張>ハリスの主張の根拠は<同種同量>だった。「1ドル銀貨と1分銀、それぞれに含まれる銀の量が同じになるように交換比率をめるべきだ」「1ドル銀貨には銀が27グラム、1分銀には銀が8.6グラム。1分銀3枚で銀25.8グラム。その差の1.2分ラムは日本側の手数料とすれば、1ドル銀貨1枚と1分銀3枚で交換する、のが公平である」
 さてこの交換比率で日米間の通貨を交換するとどうなるか?単純化した例を示そう。日本では1両=1分銀4枚という交換比率になっていた。そこでハリスが1ドル銀貨4枚(4ドル)を用意する。これを日本で1分銀と交換する。すると12枚の1分銀が手に入る。この12枚の1分銀は日本で3両の金貨になる。この金貨を上海に持ち出し、そこでの相場で交換すると11ドルになる。 こうしてドル銀貨を場所を変えて交換すると、元手の4ドルが3倍近くになる。この裁定取引、実際には旅費、その他の諸費用がかかるが、それでも2倍程度にはなった。ハリスにとっては実に美味い条約だった。
<同種同価値の交換> なぜこのようなことになるのか?どうして一見公平な交換比率なのに、ハリスにとって美味い条約なのか?それは金と銀との交換比率が日本と諸外国とで違っていたからだ。従って、同種同量ではなく、同種同価値で考えると答えは違ってくる。
 2種類の貨幣を交換しようとする場合、同じ価値のものを交換する。これは当然なことだ。問題はメキシコドル、1ドルと日本の1分銀何枚とが同じ価値か?ということだ。  当時世界の物価に大きな差はなかった。それは金貨で評価した世界の物価に大きな差はなかった、ということだ。金貨で評価した物価に差はなかった。ただしその金貨と補助通貨である銀貨との交換比率は同じではなかった。それもアメリカ・ヨーロッパは大差はなく、日本だけが違っていた。 日本では金貨1両と1分銀4枚とが交換比率だった。金貨1両で買えるものは、銀貨4分で買えるということ。ところがアメリカでは日本の金貨1両で買えるものは、メキシコドル3.5ドルであった。つまり貨幣の価値としては1分銀4枚=メキシコドル銀貨3.5枚、であった。この条件で日本側に支払う交換手数料を10〜20%とすれば、ペリーと結んだ条約、 「アメリカの通貨であるメキシコドル銀貨と日本の通貨である1分銀と、1対1の交換比率にするとの条約」が正しい交換比率であった。同種同価値ではこのようになった。
<金銀含有量を調べる>同種同価値の交換について、同じことを具体的な数字を使って検証してみよう。
日本では金1両と1分銀4枚とが等価で、金1両=銀4分だった。この1分銀には8.6グラムの銀が、金1両には6.4グラムの金が含まれていた。 ∴銀8.6gX4=34.4gと金6.4gが同価値。34.4÷6.4=5.375。金と銀の比率は5.375。約5。
アメリカでは1ドル銀貨は銀27グラムで、金1ドルは金1.8グラムだった。∴銀27gと金1.8gが同価値。27÷1.8=15。金と銀の比率は15。
 この時代世界の物価に大差はなかった。ということは、金1グラムで買えるものは世界中どこでもあまり変わりはなかった、ということ。内外価格格差はなかったと考えればいい。 この場合、金を単位に考える。そうすると1両=金6.4g。1ドル=金1.8g。∴2両=金12.8g。7ドル=金12.6g。∴同質同量ではなく同質同価値で評価すると、2両=金12.8bg=1分銀8枚銀68.8g≒7ドル=金12.6g=1ドル銀貨7枚銀189g。金の価値が世界共通ならば、1分銀8枚と1ドル銀貨7枚が同価値となる。幕府が主張した「1対1の交換比率」は正しかった。
<なぜ日本では銀の価値が高いのか?>金と銀の比率、日本では約5,アメリカでは15。つまり日本での銀68.8gとアメリカでの銀189gが同じ価値だった。なぜ銀貨の価値は違ったのか?次の2つの要因が考えられる。
諸外国に比べて、日本は金安銀高であった。つまり銀地金の価値が高かった。
1分銀という通貨が、その含まれている銀の量に見合う価値よりも高い価値を持つ「貨幣」として通用させられていた。つまり日本では、1分銀はそこに含まれる貴金属量で価値を決められていたのでばはく、「補助貨幣」だったわけだ。 たとえば今、10円銅貨を持ってきて、「どこかの国の銅貨と銅の含有量が同じになるように交換したい」と言っても通用しない、それと似たような理屈だ。 ということは、荻原重秀の考えが生きていたのだろうか?新井白石に追い落とされた荻原重秀は慶長小判を改鋳した。これを批判する「慶長小判を改鋳するは、邪なるわざ」に対する重秀の答え「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」 このように貨幣を貴金属としてではなく、「信用に裏付けられた貨幣」と考えていたことで、それは「金本位制」ではなく「管理通貨制度」の考えだった。重秀以降も金本位制は維持されていき、明治維新後も兌換紙幣発行という形で金本位制は続く。日本が金本位制を捨てるのは、1931(昭和6)年12月高橋是清が大蔵大臣になったとき。しかその後もアメリカのドルは、1オンス35ドルで交換される。これが1971年8月まで続く。実に200年以上も前に重秀は管理通貨制度を考えていたことになる。アダム・スミスが「国富論」を出版したのが1776年、日本で翻訳されたのが1882年。ヨーロッパで経済の問題が「倫理学」から独立しやっと「経済学」ができた頃だ。 そのような荻原重秀の「管理通貨制度」の考えが新井白石によって壊されたのだが、銀貨を貴金属としてではなく、信用に裏付けられた貨幣として使っていた。荻原重秀の存在自体忘れ去られていたであろう幕末に、その考え方=「信用に裏付けられた貨幣」が生きていたわけだ。
<なぜ同種同量の交換になったのか?>
交渉にあたったハリスがこうした「信用に裏付けられた貨幣」ということを理解していなかった。しかし幕臣の説明には耳を貸さず、武力攻撃をちらつかせながら強引に自分の主張を押し通した。これに対して幕臣側も弱腰で十分に説得しなかった。このためハリスの主張が通った。これを短く表現すると次のようになる。
 幕末の日本は金銀複本位制を脱して金本位制へと進みつつあったのに、依然として金銀複本位制にとどまっていた「遅れた」アメリカからやってきたハリスには、それを見抜く力がなかった。それゆえ、ハリスは補助貨幣にすぎない1分銀と銀ドルとの同量交換という暴論をおしつけて恥じるところがなかったのである。 (『大系日本の歴史』12開国と維新  から)
<思いっきり仕組みを簡単に説明すると> 日本では金1グラムと銀5グラムが交換できるとしよう。外国では金1グラムと銀15グラムが交換できるとしよう。 この場合、外国で金1グラムを銀15グラムと交換して日本に持ち込んだ場合を考えてみる。そうすると、この人は日本で銀15グラムを金3グラムと交換できる。 そこで、この金3グラムを上海や香港などで銀と交換すると、この金3グラムが銀45グラムになる。この銀45グラムを日本に持ち込む、金15グラムと交換できる。 このようにして、日本から金を持ち出し、銀を持ち込むことによって、金銀交換差益を得ることができる。
 ではなぜ外国では金1グラムと銀15グラムの交換比率なのに、日本では金1グラムと銀5グラムの交換比率なのか?ここに金融経済学で扱う、「金本位制」と「管理通貨制度」の違いがある。
 金融経済学のおさらい 貨幣の役割として次の3つが挙げられる。
 @価値の尺度の基準 
 A価値の保存・蓄積 
 B交換の媒介 
 こうした条件を満たすものとして、貴金属、主に金銀が用いられてきた。江戸時代、江戸では金が使われ、大坂では銀が使われ、それよりも小さな単位としての貨幣として、全国で銅貨が使われていた。 この時代、外国でも金や銀が貨幣として使われていた。そして、その貨幣としての価値は、金銀それぞれ貴金属としての価値が基準になっていた。この貴金属としての価値は日本も諸外国もそれほど違いはなかった。 したがって、日本がこのまま貴金属の価値を基準として貨幣を使っていれば幕末に金流出という事態は起こらなかった。しかし、日本では、この「貴金属の価値を基準に貨幣の価値を決める」ということに修正が加えられていた。
 江戸時代、江戸では金が、大坂では銀が貨幣として使われていた。したがって金銀の交換価値が変化すると江戸と大坂の商売が面倒になる。江戸の金と大坂の銀とは、日本の「円」とアメリカの「ドル」のような交換関係、変動為替関係になる。 そこで、金を基準貨幣とし、銀を補助貨幣とし、その交換比率を固定する、ということが試みられた。現代に例えれば自国の通貨をアメリカドルに固定するのと同じ制度だ。
 明和2年(1765)田沼意次は、勘定吟味役の川井久敬を遣い、「明和五匁銀」を発行させた。これは計量通貨ではなく、金1両に対して「明和五匁銀」12枚で交換できるよう固定された貨幣であった。 しかし、これは普及せず、安永元年(1772)に「明和南鐐」と呼ばれる銀貨を発行する。これは金で鋳造されている二朱金と同一通貨であり、実体は「明和五匁銀」の理念をさらに進めて、 これは「銀で造った金貨」であった。ちなみに明治時代の兌換紙幣は「紙で作った金貨」と言えよう。
 日本ではこのように金銀銅貨が使われていたが、完全に貴金属としての価値が貨幣の価値として通用していたわけではない。このような、「紙で作った金貨」「銀で作った金貨」のようなシステムが受け入れられる下地はすでに元禄時代に作られていた。
 元禄8年(1695)荻原重秀は貨幣改鋳を行った。これは慶長小判が86%の金品位だったものを、56%に減じたもの。これで出目は大きく、銀の改鋳と合わせて、全体で500万両にも及んだと試算される。 この改鋳を批判する声、「慶長小判を改鋳するは、邪なるわざ」に対する重秀の答えは「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり」 であった、 これは、たとえ紙であっても、銀であっても、瓦礫であっても、あるいは原価23円程度の1万円紙幣であっても、政府が「これが貨幣だ」と言って、その政府が信用されていれば通貨として流通するということだ。 この「管理通貨制度」の考えに基づいて世界が動き出したのは、19712年8月15日のニクソン・ショックからであった。
 幕末の金流出は日本にとって大きな痛手であった。そして、その原因は日本の金融制度があまりにも進んでいたために起こった悲劇であった。
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<主な参考文献・引用文献>
『大君の通貨』幕末「円ドル」戦争             佐藤雅美 文芸春秋社     2000. 4.20
『江戸幕府・破産への道』貨幣改鋳のツケ          三上隆三 日本放送出版協会  1991.12.20
『江戸の貨幣物語』                    三上隆三 東洋経済新報社   1996. 3.14
『家康くんの経済学入門』                 内田勝晴 ちくま新書     2001. 5.20
『日本経済の事件簿』 開国から石油危機まで        武田晴人 新曜社       1995.12. 8
『貨幣の日本史』                     東野治之 朝日新聞社     1997. 3.25
『大系日本の歴史』12開国と維新             石井寛治 小学館ライブラリー 1993. 6.20
( 2008年8月11日 TANAKA1942b )
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(10)武士より百姓・町人の方が豊かだった
 市場経済化の進行が幕藩体制を破壊したのだった
  <新田開拓は武将・領主の主導によってか?>から始まった「江戸の歴史観が変わりつつある」シリーズ、今週が最終回です。特別大きく歴史観を変えたとは思わないけれど、それぞれ少しニュアンスが違った見方をしたつもりですがいかがでしょうか?さて、最終回は<武士より百姓・町人の方が豊かだった>と題して、江戸時代の農民・町人など庶民は結構豊かだった、と話を進めていくことにした。
<江戸時代の人は21世を想像もしていない>  江戸時代のことを考えるとき、江戸時代の人は21世紀のことは想像もしていない、ということを忘れたはならない。「江戸時代は封建時代で百姓には自由がなかった」「百姓は自分で作ったコメを食べることもできず、アワやヒエばかり食べていた」などという見方が出てくることがある。21世紀の現代と比べれば、生活必需品はお粗末だし、「自由」とか「平等」などという観念も当時は普及していなかった。現代と比べれば、不便で、不自由な時代であったことに間違いはない。けれども、これは21世紀、」現代から見た江戸時代。けれども江戸時代の人は21世紀、現代を想像もしていなかった。歴史を考えるとすれば、かこの歴史と比べてどうか?を考えたはずだ。戦国時代と比べれば江戸時代は平和で豊かな時代であった。江戸時代も所期から、中期、後期となるに従って、町人、百姓、庶民は豊かになっていった。武士の地位はたしかに支配階級ではあったが、相対的にその生活水準は庶民と比べれば落ちていった。 徳川幕府の崩壊の大きな原因は、支配階級である武士よりも、被支配階級の法が豊かになってしまった、ということが考えられる。そうした逆転について考えていないために、封建時代、武士以外には自由も、豊かになる機会も奪われたていた、という結論になってしまう。
 このシリーズ最終回、「武士より百姓・町人の方が豊かだった」というタイトルでいくつかの本からこれに関係するような文章を引用することにしよう。
*                      *                      *
<女工はほんとうに悲惨だったのだろうか?> 明治32年(1899)、横山源之助が『日本の下層社会』という本を著した。横山は著書の中で製糸女工について次のように述べている。
 足利・桐生を辞して前橋に至り、製糸職工に接し、更に織物職工より甚だしきに驚ける也。労働時間の如き、忙しきときは、朝床を出でて、直(ただち)に業に服し、夜業12時に及ぶこと稀ならず。食物はワリ麦6分に米4分、寝室は豚小屋に類して醜陋(しゅうろう)見るべからず(中略)しかして、1カ年支払う賃銀は20円を出ざるなり。
 こうした記録にもとづいて横山は、
 女子労働者の多くは、苦しい家計を助けるために出稼ぎにきた小作農などの下層農家の子女であり、欧米人と比べると、はるかに低い賃金で、厳しい労働に従事していた。 紡績業では、2交代制の昼夜業が行われ、製糸業では労働時間は15時間程度、時には18時間に及ぶこともあった。
 と嘆く。それを読んだ学生は、女工たちの悲惨を知り、女工たちへの同情で心をあつくしたのであった。
 昭和27年(1952)、学生であったわたしは、第2次対戦前の出稼ぎ女性について知るために、新潟県刈羽郡上小国へ聞き取り調査に行ったことがある。刈羽地方は戦前に製糸・紡績女工を多く出した地域であった。信越本線の「塚山」という駅で汽車を降り、そこから乗り合い自動車で谷間(たにあい)の曲がりくねった道をがたがたと進む。道すがら田畑で働くたくさんの人を見た。人々はみんな裸足で水田に入り鍬をふるっていた。その風景を眺めながら、小学校を終えたばかりの少女たちが峠を越えて出稼ぎに行く姿と、それを見送って手を振る貧しい身なりの父母の姿を頭に描いた。
 そしてわたしは、この村で意外な「女工哀史」に出会ったのである。
 月給をもらって、自分の欲しかった着物を買ったときの喜びは格別でした。それから工場は休みがあるでしょ、休みの日には誰に気兼ねすることもなく友だちと町へ遊びに行きました。紡績へ行っていたときが人生で一番自由なときでした。
 年老いたその女性はさらに言葉をついで、「寄宿舎には電気がついていますし、食べ物も家で食べるよりははるかに良かったですもん」と語った。
 紡績工場に出稼ぎに行った女性たちの感想は、わたしが描いていた「女工哀史」の世界とはまったく別のものであった。
 低賃金と長時間労働のもとで働かされているのは客観的な事実であるはずなのに、目の前には、自分の欲しい着物を買った喜びに浸っている女性たちがいたのである。そのときわたしが出した結論は、彼女たちは資本家にだまされているのだ、という単純明快なものであった。調査参加者の誰もがそう思っていた。
<労働者は資本家に搾取されているのだろうか?> 大学を出て高等学校の教師になって、昭和56年に佐渡相川町稲鯨(いなくじら)を調査に訪れたことがあった。そのとき高野さんと岩崎さんという2人の女性から出稼ぎの話を聞いた。
 稲鯨は江戸時代のはじめ紀州御坊の岩崎村から佐渡へやって来た人たちが開いた漁村で、岩崎を姓とする家が多かった。高野さんは明治42年の生まれで、13歳のとき滋賀県の紡績工場に働きに行き、4年間そこで働いた。岩崎さんは明治41年生まれで同じく彦根の紡績工場で2年間働いた。そののち岩崎さんは佐渡に帰り、今度は漁に出かける人たちといっしょに番屋の「飯たき」として青森県の下北へ行った。函館のあいむかいに「大畑(おおはた)」という村はあった。そこに番屋を借りて、親方以下7人の若衆が住み込んでイカ漁をし、それを干しイカに加工した。干しイカは函館へ運ばれて行った。
 下北での飯たきの仕事はほんとに楽しゅうございました。なにせ、自分がとったお金で、自分のもんが買えましたからのう。稲鯨へ帰らんで、まだしばらくそこで働いていたいと思いましたが、親の言いつけで仕方なく村に帰りましたがさ。
 学生のとき「労働者はみんな資本家にだまされていた」というまとめをしたことを思い出して、さて、それでよいかと考え始めたのは、この漁師の村で2人の話を聞いてからである。
 私はこれまで、小学校を出たばかりの少女たちが紡績工場におくり込まれ1日15時間もの労働を強制されたことを、「欧米と比べるとはるかに低い賃金できびしい労働に従事させられていた」とだけ理解していた。しかし、そう考えただけではそのむこうに悪徳資本家の顔しか見えてこない。
 考えてみれば、紡績女工の悲惨は女工たちだけの問題にとどまるものではない。同じとき村には、薄明かりの中で起き出し霜を踏んで野良に出かけ、日が沈んで星を抱いて帰るという農民の生活があった。きびしい労働に従事していたのは女工たちだけでなく、農民も職工も、労働に従事するすべての日本人が長時間労働と低い賃金のもとで苦しい生活にあえいでいたのである。それゆえ、女子たちは自らの長時間労働や低賃金について特別に思い悩むところがなかったのである。
 わたしたちはそこのところを考えることなしに、当時の先進国との直接比較によって問題を論じたから、女工たちに限りない同情を寄せ、かつ労働者の覚醒を議論することになったのである。しかしこのような論理の組立方自体が勝者の理屈かも知れない。こんにちでも世界各地には低賃金と長時間の労働に従事している人々が存在する。そんな人たちに向かって、「だまされている」とか「目覚めよ」と言うことが妥当なことなのかどうか。わたしにはそれは、いささか非歴史的な行為のように思えてくるのである。
 最も重要なことは、家を出て工場へ出稼ぎに行った女性たちが、自らの力で「家」(家族制度)からの解放を体験したという事実ではなかったのか。「家」から出て自らの手で金を握りしめ、それで自分の欲しいものを買いに行った女性たちの喜びにこそ目を注ぐべきではなかったか。
 そのことを認識することが、歴史を正論という勝者の観念から現実に引きも戻す第1歩なのである。 ( 『百姓の江戸時代』から)
<食足りて衣料革命> 人間の日常生活に不可欠な衣食住においては、人間が生存するために必要な一定の主食としての食料が確保されてはじめて、衣・住への充実に目が注がれるようになる。江戸時代の食生活は、胃袋を満たすための米麦などの穀物の量的確保はもちろんのころ、主食だけでなく副食も多様化し、庶民の間でも酒・茶・煙草などの嗜好品も広く普及するようになった。これらの消費はいずれも、庶民生活の向上を背景にしていることは言うまでもない。
 こうして、衣・住においても江戸時代初頭には、庶民衣料の原材料が麻から綿へと転換した。また、高級織物の原材料であった白糸(生糸)の中国からの輸入禁止にともなって、国内の養蚕業が興隆し、江戸時代経済における衣料の産業部門が急速に発展した。綿作の拡大と養蚕業の発展、それに伴う綿・絹置物の展開は、藍・紅花など の染料作物の需要を大幅に増加させた。
 綿は熱帯作物で高温と十分な日照時間を必要とする。日本へは室町時代中期ごろ伝えられた。江戸時代の綿作は当初畿内・山陽道筋が栽培の中心であった。摂津・河内国のの村々では綿作付率が最盛期に全耕地の70パーセント、水田の50パーセントにも及び、福山藩でも全耕地の30パーセントに達した。これは京都・大坂・江戸という巨大市場を控え、地方補給として干鰯(ほしか)・油粕(あぶらかす)などが施肥され、他作物よりも収益性の高い商品作物であったからである。
 関東の綿作は畑地に限られ、主に河川沿いの砂地に作付けされたが、畿内に比して品質が劣り、反当収量(1反歩当たりの生産量)も畿内の半分くらいであった。綿作畿内・山陽道・関東の地域だけでなく、信濃国の善光寺など山間平地まで拡大した。
 しかし、、綿作は多量の労働力と肥料を必要とし、所用労働力が稲作の2倍、肥料も稲作の2倍かかり、肥料価格の上昇や綿価の下落による経営の不安定性を持っていた。このために、伯耆(ほうき)国弓ヶ浜半島では、魚肥と隠岐国産の藻葉を肥料に用い、畿内に比して反当収量は低いものの、それを肥料の低価格で補い、先進綿作地を上回る収益をあげた。綿作地の産地間移動がみられたのである。 ( 『貧農史観を見直す』から)
<養蚕技術の改良> 養蚕とは農家が桑を栽培し、蚕を飼い、繭を生産することを指すが、蚕種の製造、生糸の製糸業、絹布の織布業まで一連の作業工程をも意味する。
 幕府は主として銀の海外流出を防止するために、貞亨2年(1685)に白糸輸入量の制限を実施した。このため国内産生糸の需要が激増し、それまで養蚕地域の中心であった西国から東山道・東北などの東国に主産地が形成されるようになった。
 養蚕技術はそれぞれの作業に改良が加えられ、江戸時代初期には春蚕のみの年1回であったが、中期は夏蚕が、幕末期には信濃国では秋蚕が始められ、蚕の飼育日数も大幅に短縮された。また、蚕の資料となる蚕の育苗法も改良され、桑専用の桑畑まで仕立てられるようになった。
 養蚕業と綿作は幕末期にまったく異なる道を歩むことになる。綿作は江戸時代に高度な商品生産の展開をみたものの、安政の開港後の外国産綿織物の大量輸入によって急速に衰退する。一方、養蚕は、開港が国内産の蚕種・生糸をこれまでの国内市場向けから世界市場へと進出させることになり、近代日本の外貨獲得の最重要産業部門となったのである。 ( 『貧農史観を見直す』から)
<農産加工業の発展が重要なポイント> 幕府は享保改革の経済政策の一環として、江戸の物価引き下げを確実なものにするために、享保8年(1723)に大坂から江戸に向けて舟積みされた米・水油・酒・醤油・炭・薪・魚油・塩・味噌・木綿についての商品流通の実体調査を行った。これら11品目は、すでに江戸市中の生活必需品となっており、そのほとんどが第2次産品に属する加工品である。
 こうした日常生活物資における加工品の製造すなわち農産加工業が、江戸時代産業の重要な一翼を担っていたことは疑いない。江戸時代の農産加工業は多様な形態をもっており、畜産物・林産物・水産物などの加工も含む。
 たとえば、紡織業は綿・麻・繭を主原料にして衣服に加工した産業分野であり、醸造業は米・麦・大豆などを原料にして酒・酢・醤油・味噌などに加工した産業分野、製糸業は楮(こうぞ)・三椏(みつまた)などの樹皮から和紙を製造した産業分野、採油業は荏(え)・菜種・綿実などの油料作物から主として燈油を製造した加工業である。さらに、人間の存在に不可欠な調味料である塩の製造業、櫨(はぜのき)と漆の実を搾った製蝋業、甘藷から砂糖を製造した製糖業、食料の保存と加工を行った食品加工業などがある。
 最も小規模な農産加工業は、農民が田畑で栽培した農産物を自家用に加工した自給生産である。逆に最も大規模な農産加工業は、ひとつの作業場に多くの労働者を集め、一連の作業工程を分業によって組織化したいわゆるマニュファクチュア(工場制手工業)である。具体的には、幕末期における桐生・足利んどの絹織物業、尾西・和泉などの綿織物業、摂津の伊丹・灘五郷と関東の銚子・野田などの醸造業、西国諸藩の製蝋業・搾油業・織物業などの藩営マニュファクチュアなどである。
 また、両者の中間的存在としては、農民の農閑余業あるいは地主・富裕農などによる農産加工を専業化農村家内工業、商人・問屋などの商人資本による問屋制家内工業がある。
 これらの農産加工業の動力源は、その規模の代償にかかわらず、一部の産業分野で用いられている畜力と水力を除いては、ほとんどが人間の肉体労働に依存しており、職人の手仕事に代表されるような手工業である。
 しかも農産加工業の労働手段は鉄製の道具などはきわめて少なく、大部分は桶・樽などの木製器具が主体となっており、職人が長年の経験と熟練を重ねて、職人自身が直接に労働手段に手を触れて調節し、第2次産品の製造に従事した。江戸時代の農産加工業は職人の手労働と木製器具との結合による等身大の在来技術といえる。 ( 『貧農史観を見直す』から)

<贅沢な木綿が庶民の普段着に> 江戸時代になって木綿が普及し始めた。そのことがどんなに庶民の生活を豊かにしたか、<木綿の普及が生活革命>で取り扱ったのでそちらを参照していただきましょう。その木綿が江戸時代になって贅沢品から庶民の普段着になった。そのことに関しては<「ゆたかな社会」になりつつあった綱吉時代>を参照のこと。非人頭の車善七が穢多の頭である弾左衛門に「掟証文」を差し出した、その中に「5、木綿のほかは着ません」とあったというから、江戸時代の庶民の生活向上はとても大きかったと言える。
<綱吉の時代に世の中が大きく変わった> この生類憐れみ存続宣言は異例である。町方に出された指示でも、「生類之儀、向後御構(きょうこうおかまい)これ無く候。尤もあわれみ候儀は、あわれみ申すべき候」、生類のことについて今後取り締まりはおこなわないけれど、あわれむことは、きちんとあわれむように、と釘が刺されている(『江戸町触集成』4200号)。
 なぜだろう。さんざん世間を騒がせた生類憐れみ、この際すっぱりやめます。徳川政権は本日から生まれ変わります、とやったほうが、新政をアピールするのにはるかに効果的なはずなのに、どうして「いよいよ断絶これ無き様に」だの「あわれみ候儀は、あわれみ申すべく候」だのと、ぐずぐずと歯切れの悪い保留を付けるようなことをしたのだろう。
 悪いことばかりではない。ひょっとして生類憐れみの令について、発令する側にそんな認識があったのではないか。 入用金・中野犬小屋とたしかに現場はぐちゃぐちゃになってしまったけれど、でも生類を憐れみ、以て人々の仁心を涵養して殺伐たる戦国の遺風を払おうという趣旨自体は悪いことではない。だから、原則を変更する必要はない。むしろ、今後も憐れみ精神は「いよいよ断絶これ無き様に」、奨励し続けるべきだ。取り締まりをやめたとたんに、もとの殺伐たる風潮へと逆戻りしてしまわないよう、「あわれみ候儀は、あわれみ申すべく候」、しっかり釘を刺しておかなければ、そうした配慮から出たことだったのではないか。
 なんと。びっくり仰天。もしそうなら、生類憐れみの令は弊害を伴いつつも、それなりの成果も挙げたと評価されていたことになる。「人々仁心も出来候様に」という所期の目的をある程度は果たしたと認識されていたことになる。「不仁にして夷狄の習俗の如き」世を変革したいという綱吉の熱い願いが、いくぶんかは叶えられたということになる。
 本当だろうか。生類憐れみの令は完全な失敗ではなかった。それなりの成果は挙げ得たなんて、ほんとうだろうか。
 探索が始まる。誰か証言してくれないか。生類憐れみの令が行われる前と後では、不仁から仁心へ、殺伐から憐れみへの世の風潮が変化したと、そんな証言をして下さる御仁はどこぞにおられぬか。 ( 『黄門様と犬公方』から)
<大逆転> はい、私が。手を挙げて下さったのは、なんと新井白石先生である。
おまえに与えた刀は樋とを斬った刀なのだよ。ある日、父が白石に語ったという。

 むかし隣人の加藤という16歳の侍が、若党を成敗したしたしたことあっての。加藤が2階にいて主従が言い争う声が高く、けしからぬこだと思っているうちに、加藤がはしごを駆け降りる音が聞こえてきた。すわ一大事と刀をつかんで馳せ向かうと、加藤がすでに一刀斬ったものの、細腕で斬れなかったのか、かの従者が包丁を手に主人に立ち向かっているところであった。そこで、私が刀を引き抜きざまに斬ったところ、そいつの肩から斜めに、前にあった青磁の鉢もろとも切り離した。とどめを刺せよと言い捨てて、刀の血を拭い、鞘におさめて帰ってきたものさ。その刀なのだから、大切にしろよ。 (『折りたく柴の記』巻上)

 ぎょええ、父上から拝領したこの刀は父上が人をお斬りになされた刀なのか、と後ずさりするほど白石は腰抜けではなかったろうが、父の武勇伝を目をまるくして聞き、詳細に書きとめている。加藤は白石より40歳ほど年上だったと説明されているから、この惨劇が起きたのは寛永9年(1632)前後、3大将軍家光の治世という計算となる。その頃には口喧嘩の果てに主人が若党を手打ちにすることが当たり前のように行われ、そして白石がこの書もついを著した享保元年(1716)、8代将軍吉宗の治世には、そんな風潮はきれいになくなっていた。だから、こうしてもの珍しげに採録されたのだと、そう理解してよいのではないか。
 ならばこれは、寛永9年 から享保元年までの80年ほどの間に、世の風潮が変化したことの1つの証言として読めることになる。
 白石の父はほかにも、他家から受けた恥辱を雪(そそ)ぐため「7日がうちに、3たびまで人きりて」、相手の家の侍を7日の間に3人も斬り殺して逐電した豪の者もあったことよなどと懐かしげに語っており、白石や綱吉らの親の世代までは、すぐに刃傷沙汰に及び、しかもそれをよしとする猛々しい風潮が、たしかに存在していたことを窺わせる。
 それが近頃はすっかり変わってしもうて。次は、そう嘆く老人にご登場いただこう。

 6,70年前までは奉公人が少しでも悪事を働けば、その場で手討ちにしたものじゃ。逃亡すれば捜し出して刀の試し物にしたので、1ヶ月に2度3度はあちこちの家で試し物があり、下々の作法もよく、刀や脇差しの切れ味をみるのにも便利であった。それが賃年は、悪事を働く者がおらぬのか、あるいは主人が慈悲深くなったのか、とんとなくなってしまったことよ。 (むかしむかし物語)

 うわあ。のけぞりつつも数字を押さえてゆくと、この老人は当年81歳の武士、昔のことを聞きたがる子供らのためにと、享保7年(1722)にこの書物を著している。綱吉がが没して13年後にあたる。そして試し物がばさばさあったという「6,70年以前」は、4代家綱の治世の前期、綱吉が登場する20年ほど前ということになる。綱吉の治世30年間を中にはさんだ6,70年ほどの間に、「主人慈悲にてか透き止む」、手討ちや試し物がすっぱり姿を消すという大きな風潮の変化があったというのだ。「慈悲」、まさしく綱吉が推奨してやまなかった徳目ではないか。
 血ぐさい試し物が姿を消して、けれど、けっこうなことだとは決して口にしないのが、古今変わらぬ頑固老人の性癖である。若い頃に自分が染まった価値観が絶対なのだ。こんな愚痴も開陳される。

 昔は大身小身ともに、振る舞いや夜噺で集まった折りの話題は、かつての合戦の話、先祖の手柄、あるいは当節の武道武芸の品定め、刀脇差しについての蘊蓄、喧嘩口論の顛末、男色の噂、やわらかいところで茶の湯の話、せいぜいそんなものであった。それが近頃はすっかり変わってしもうて、食い物の話、遊興の話や損得勘定について、分別をした者は立身の自慢話、おとなしい者は碁や将棋や俳句、若者は浄瑠璃・三味線、役者の評判といった具合で、武道の話などまったく出ない。

 いや、嘆かわしいことじゃ、と仰せられるのをはいはいとすなおに来ていると、さらに、

 昔は1年に5度も7度も、それ刀よこせ鑓だなどと言い、下々も刀を差して尻端折りして騒ぐことがあったものだけれど、近年はそれ刀よ鑓よと言うほどの騒ぎが全くないので、今の若いもんは家の中では丸腰で、ずいぶんと不用心なありさまだ。まったく太平の世になったものだなあ。

 まさにこの老人が生きている間に、時代の風潮は大きく変わったのである。手討ちや試し物や刃傷沙汰が日常茶飯事で、人々の話題も武辺一辺倒だった時代から、そうした殺伐たる慣行がきれいさっぱり消滅し、儲け話や出世談や役者の評判が関心の的となる時代へ。そんな大転換が、まさしくこの6,70年の間に起こったのである。
 足かけ30年に及ぶ綱吉の治世は、その6,70年のど真ん中に位置する。ならば、この風潮の変化の一部は綱吉の手になるものだ。生類憐れみの令によって仁心が涵養(かんよう)されたおかげだ、殺すな、傷つけるなとさんざんぱら説教されることで人々の感覚が変わったのだと考えてはいけないだろうか。
 もちろん、戦国の世が遠くなったことも大きく影響したには違いない。けれど、関ヶ原はここでの「6,70年以前」よりさらに5,60年も遡るのである。戦国が終わって半世紀以上も殺伐たる風潮がしっかり続いて、それがその後の半世紀でぱたっと消滅したことになる。ならば、その原因として、時が経ったからという自然の流れの他に、誰かがその変化を後押しした、加速したと考えてもよいのではないか。そして、そのい誰かとは綱吉であったと。
 そうだったのか。めまいがする。天雷に打ち叩かれて奈落の淵に沈んでいった男の姿が、にわかに、富士より大きく迫り上がってくる。なんと彼は、人々の意識を変革するという空前絶後の壮挙を密かに成し遂げていたというのか。殺伐から慈悲へ、時代の風潮をぐるりと転換させる大仕事の影の仕掛け人だったというのか。
 見上げても、ぽつりと膨らんだ宝永山が沈黙したままである。 ( 『黄門様と犬公方』から)
<最後までつき合って頂き、ありがとうございました> 『資本主義は江戸で生まれた』という見方がある。『恋愛と贅沢と資本主義』は恋愛と贅沢が資本主義を発展させた、という見方もある。江戸時代の『貧農史観を見直す』と言う人もいる。江戸時代はそれほど遠い昔のことではないようでありながら、その後日本の政治は何度かその目指す方向を変えることになった。このため、前政権を批判することによって現政権の存在理由をハッキリさせる意味からも、前政権を批判し、歴史上の評価に政権の意向を反映するようなこともあった。そのため、21世紀の現代、江戸時代を評価するとき、その後の政権に影響された価値観によって評価するようなことが起きた。そうしたことを考慮せず、誤った歴史観が現代に生きて残ってしまったこともあるようだ。今回のシリーズはそうした歴史観に少し「おかしいよ」と忠告することができたとすれば、シリーズの意図が達成されたものと思う。いつもながら、右へ左へのダッチロール、それに最後まおつき合いして頂いただき、本当にありがとうございました。
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<主な参考文献・引用文献>
『百姓の江戸時代』                     田中圭一 ちくま新書    2000.11.20
『貧農史観を見直す』              佐藤常雄+大石慎三郎 講談社現代新書  1995. 8.20
『黄門様と犬公方』                     山室恭子 文春新書     1998.10.20
( 2008年8月18日 TANAKA1942b )
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