(5)荻原秀重の貨幣改鋳という悪政か?
 成長通貨の供給による経済の成長を促進した面も
 今週は荻原重秀の貨幣改鋳を扱う。この政策に関しては、「悪政」との評価が多かったが、最近は見直す評価も出始めている。はじめは『徳川綱吉』と題された本からの引用を紹介しよう。
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<徳川綱吉と貨幣改鋳>   綱吉の悪政として喧伝されるのに、元禄8年(1695)8月に始まる金銀貨の改鋳があった。慶長小判が金84%余の純度であったのを、元禄小判は57%ないし59%、純度80%の慶長銀に対して元禄銀64%という。元禄10年6月発行の二朱判金は品位はなお低く、銀の方は宝永3年の改鋳で純度は50%になった。荻原重秀の策によった。慶長の古金銀を新金銀(元禄金銀)に引き替えることを命じた幕府法令は、何度も繰り返されて期限を延長している。新金銀の不人気を示すものであり、綱吉死後の家宣政権に参加した新井白石は、これを中心に重秀を厳しく弾劾した(『折たく柴の記』)。近代に入っても、水戸徳川氏旧臣として『徳川十五代史』を編した内藤耻叟(ちそう)は、幕府財政補填のためのこの改鋳を「徳川一大の稗政(ひせい・悪政)これより甚だしきはなし」と評した。ただ、幕府財政補填の意図はむろん大きかったに違いないが、全体に通貨量の増大を求める社会状況があり、これに応じた措置でもあった。一分金のほかに、その2分の1、1両に対しては8分の1の二朱表示の金貨を発行した点にも、当代の通貨需要への対応がうかがえよう。
 宝永5年閏正月には1枚10文通用の宝永通宝を鋳造して、この大銭通用を命じた。これには荻原重秀は反対で、稲垣重富の策によったという(折たく柴の記)。これもたいへん不人気で、「永久世用」と記された裏文字に反して、宝永6年正月「下々迷惑仕候由」を聞くとして通用を停止された。綱吉死去の7日後で、生類憐れみの令で人々に艱難(かんなん)のことありとして軌道修正を公示したのより早かった。大銭通用令は、全将軍家の最大の悪政と見なされていたのである。
 通貨の新鋳は、寺社造営への巨額の出費などと一連のものとして、綱吉以後の徳川政権によって否定されていったのだが、通貨についての政策で後に継承されたものもあった。藩札停止策である。荻原重秀は、通貨は瓦でも石でも政府の命によって通用するもので、金銀の純度を落としても紙幣にまさるとの考えだったと言われるが、綱吉将軍就任の少し前頃から銀札・金札などの紙幣を発行する藩が現れ、その例は増加していった。宝永4年10月の幕法は、新金銀通貨への引き替え促進を命じるのとあわせて、こうした札遣いを50日以内に停止すべきことを命じたのである。通貨需要の高まりが紙幣を流通させた時代であったのだが、通貨発行は全国政府としての幕府の権限の重要な部分であり、藩の札がそれを脅かすような事態は許されなかった。幕府が制限つきで、諸藩の札発行を認めるにいたったのは、この23年後の享保15年(1730)であった。
 綱吉自身が以上のような通貨政策にどこまで関わったか、その役割を理解したかはわからない。登用した官僚に任せておいた分野だったかも知れない。だが、そうであるにしても、それは綱吉政権の政策に違いなかった。専制君主綱吉の当面した社会状況の反映であるとともに、また綱吉の政府への不満や批判も、これらの政策を大きく対象とした。 (『徳川綱吉』から)
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荻原重秀(1658-1713)(万治元-正徳3) 時は5代将軍綱吉の時代、元禄の華やかな町人文化が咲き誇っていた頃、しかし幕府の財政は赤字続きで破綻寸前だった。 その時御側用人柳沢吉保の命を受けて、勘定組頭荻原重秀は財政再建へ取り組むことになった。そこで重秀が考えたのは貨幣改鋳だった。 慶長小判の金含有量を減らし、出目を稼ぎ、通貨を拡大すること。つまり小判10枚を回収して、これを改鋳して15枚として流通させる。これで幕府の財政は潤うと考えた。 こうした貨幣改鋳政策は4代将軍家綱の時代にも幕府内で検討されたが、時の老中土屋数直の反対「邪(よこしま)なるわざ」として葬られている。しかしこの時は、重秀のそれまでの仕事ぶりから柳沢吉保・将軍綱吉の信頼もあって実施されることになった。 これが1695(元禄8)年。
 幕府はこの改鋳の目的を「刻印が古くなって摩滅したため」と説明した。 もちろん本当の目的は品位の高い慶長小判を回収して品位を落としたものに改鋳し、出目の獲得を狙ったものだった。慶長小判が86%の金品位だったものを、56%に減じたもの。これで出目は大きく、銀の改鋳と合わせて、 全体で500万両にも及んだと試算される。
 これが幕府の財政再建に大きく貢献するのだが、もう一つの効果があった。それは通貨流通量拡大による景気刺激だった。 徳川幕府が成立し、戦国のすさんだ世から安定へ歩みだし、米の生産も伸び、豊かになり始めていた。綱吉の「生類哀れみの令」もこうした世の中の安定期から生まれたもので、単に行き過ぎた動物愛護ではなかった。
 これ以前は殺伐とした時代で、生活に困って子供を捨てたり、気に入らない子供を捨てたりすることがあったし、人間や牛馬が年老いたり病気になったりすると、まだ息のあるうちに野山に追放して自然に死ぬのを待つような風習さえあった。 屍も野ざらしのままだった。綱吉はこれらを取り締まろうとする。この時期は人間も含めた「生類」、つまり生きとし生けるもの全てを大切にし、平和を築こうとの時代だった。日本人全てが自分の「墓」を持つようになるのはこの時代からだった。こうした時代の「生類哀れみの令」であった。
 こうして世の中が安定し、生活が豊かになり、経済が拡大してくるとそれに伴った通貨も多く必要になる。 今日の経済用語で言う「成長通貨」が必要になる。重秀の貨幣改鋳はこの「成長通貨」の役割も果たしたわけだ。
 こうして幕府の財政も立ち直り、経済も順調に伸びるかのように見えたが、ここで思わぬ弊害が出てきた。それは江戸の消費物価が異常に高騰してきたことだった。
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<金・銀・銭の三貨体制> ここで江戸時代の通貨の特異性について知っておく必要がある。江戸時代の通貨は三貨体制といって、金・銀・銭の3つからなっていた。金は俗に小判と呼ばれるもので、金を主体とした鋳造通貨であり、1両は4分、1分は4朱という4進法の通貨だった。 ところが銀は金と違って、一定の純度の銀塊そのものが何匁何分(10進法)と秤で計って使われる、秤量貨幣であった。金と銀が高額貨幣であるのに対して、銭は銅(のちには鉄の場合もあった)を主材とする少額貨幣で、貫・文(一貫は1,000文)という単位で数えられていた。 いわゆる「寛永通宝」というのがそれである。
 ところで銭は全国的に通用したが、金と銀はそうではなかった。金は江戸を中心とする関東・東国経済圏で、銀は京・大阪を中心とする上方・西国経済圏で通用した。 したがって江戸の消費者物資を上方・西国から買うということは、金を基本的な通貨とする経済圏が銀を基本とする経済圏から物資を買うことになる。この場合他の条件を一定とすれば、通貨=銀に対して、通貨=金が強くなればなるほど、江戸には多くの物資が流入して来ることになる。 逆に通貨=銀に対して、通貨=金が弱くなれば江戸には物資の流入が少なくなり、江戸の消費物価が高騰することになる。そこで江戸により多くの消費物資を集めて、市民生活を安定させようと思えば、通貨=銀に対する通貨=金のレートを切り上げればいい。 あるいは通貨=金に対する通貨=銀のレートを切り下げればいい。これは今日の国際貿易における為替レートの原理と同じである。荻原重秀もそのことに気づいた。
 金・銀・銭は本来独立した別個の通貨であって、相互のレートは日々相場がたって、絶えず変動していた。 その相場が大体この程度で安定して欲しい、という公定相場を幕府が最初に決めたのは1609(慶長14)年7月のことだ。それによると、金1両は銀50匁、銭4貫となっている。しばらくはこれに近い相場の動きだったが、農民・町民が豊かになってくる寛文・延宝(1661-1681)ころには、金1両が銀60匁というのが安定相場になっていたようだった。 重秀の貨幣改鋳は小判の改鋳と同時に、銀も改鋳している。
 重秀の貨幣改鋳、初めは大きな抵抗があった。 幕府が一方的に通貨=銀に対する通貨=金の品位を下げたのだから、日本の経済を握っていた上方商人が抵抗した。重秀は1700(元禄13)年11月、幕府の支払いにあたっては金1両を従来のように銀50匁の公定相場ではなく60匁の計算にするので、世間もそれに習うように、と触れている。 それによって銀高相場を引き下げようとした。これは通貨=銀の20%の切り下げになる。通貨=金の品位が下がったうえに、さらに銀の切り下げになるので、上方商人は納得しなかった。 重秀は幾度となく幕府の政策を徹底させようと指示するが、上方商人の抵抗は収まらない。そこで今度は通貨=銀の改鋳を行う。
 銀の含有量を50%、40%、32%と下げていき、ついには20%にまで及んでいる。このことは当然金銀相場にも反映し、江戸にあっては、宝永6,7年に金1両につき銀が60匁であったが、正徳元年には64-55匁、正徳2年には76-81匁までに低落した。 大阪の場合も同じで、正徳2年には金1両につき銀80匁余となっている。従来の公定相場より60%も銀を切り下げたのだから、上方・西国経済圏は大きな打撃を受けた。
 このような重秀の政策に対して新井白石が攻撃してきた。白石は重秀を「天地開闢以来の姦邪の小人」ときめつけ、6代将軍家宣に重秀の罷免要求をだすこと3度。「もしこの要求がいれられない場合は、自分は重秀を殿中で刺し殺すであろう」とまで詰め寄って、1712(正徳2)年9月11日、重秀罷免に成功する。
 重秀の実力を認め、その政策を信頼して任せていた柳沢吉保はすでに隠居し、将軍は6代将軍家宣に代わっている。ここにおいて荻原重秀の先進的な金融政策は終わることになる。白石によって勘定奉行を罷免された重秀はその翌1713(正徳3)年死没。殺害されたとの噂もある。
新井白石(1657-1725)(明暦3-享保10) は重秀の政策を批判していた。1712年、重秀を失脚させた後を受けて「改革」を行う。その方向とは、重秀の逆を行く政策だった。小判は以前の含有量に戻す。慶長小判と同じに戻したのだから量は減った。通貨流通量を減らしたのだからデフレ=不況になった。 白石の政策の基本は「倹約」。今で言う「くたばれGNP」だ。初めは町人も歓迎したが、景気が悪くなりすぐに人気がなくなった。経済政策に関して新井白石は無能であった。1716(享保元)年4月将軍家継没。同年5月白石罷免。その後吉宗の「享保の改革」が始まる。
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<日本幣制史上、初の大規模な貨幣改鋳>  元禄8年(1695)、徳川幕府は、日本の幣制史上初めての大規模な貨幣改鋳に踏み切った。財政金融市場における壮大な実験であるとともに、荻原彦次郎(重秀)の生涯においてもハイライトとなる事件であった。まず例によって、当時の幕閣および勘定所の顔ぶれを確認しておく。
  元禄8年の幕閣の顔ぶれ(西暦は就任年)
 将軍    徳川綱吉(50歳)     (1680〜)
 側用人   柳沢出羽守吉保(38歳)  武蔵川越7万2千石(1688〜、老中格、1694〜)
 老中    大久保加賀守忠朝(63歳) 相模小田原11万3千石(1677〜)
       戸田山城守忠昌(64歳)  下総佐倉7万1千石(1681〜)以前は越前守
       阿部豊後守正武(47歳)  武蔵10万石(1681〜)以前は美作守
       土屋相模守政直(55歳)  常陸土浦7万5千石(1687〜)
 若年寄   加藤佐渡守明英(44歳)  下野壬生2万5千石(1691〜)
       松平弾正忠正久(37歳)  相模甘縄2万石(1694〜)
 勘定奉行  松平美濃守重良(47歳)  (1688〜)
       稲生五郎左衛門正照(55歳)(1689〜)
       井戸三十郎良弘(61歳)  (1694〜)
 勘定吟味役 荻原彦次郎重秀(38歳)  (1687〜)
       諸星伝左衛門忠直(70歳) (1688〜)
 老中4人のうち3人は、堀田正俊暗殺当時から、引き続きずっと務めている。一方、柳沢吉保が側用人になったのは、彦次郎の勘定吟味役就任の翌年であり、老中格になったのは改鋳の前年のことだ。だから彦次郎をここまで引き上げてきたのは、柳沢吉保ではなく、3人の老中たちの誰かだったと思われる。『徳川実紀』によれば、8月11日、老中・阿部豊後守正武、若年寄・加藤佐渡守明英、そして勘定吟味役・荻原彦次郎に、貨幣改鋳を命じたとある。つまり建前上は、老中と若年寄が主管する体裁になっている。老中の中で一番若い阿部が形の上とは言え、改鋳の最高責任者を買って出ているところを見ると、彦次郎の一番よき理解者だったのではないか。
 しかしもちろん、実施責任者は彦次郎であった。幕府の右筆(書記)が書いた『甘露叢』には、次のように記されている。
 元禄八年七日
 金銀吹き直し、御用、仰せつけらる。荻原彦次郎、保木弥右衛門、正木藤右衛門、平岡市右衛門、古川武兵衛、内山新右衛門、杉岡孫八郎、小宮山友右衛門。
 右、彦次郎、指図次第、相勤めるべき旨、豊後申し渡す
 豊後守というのはもちろん、老中の阿部豊後守正武のことである。このとき、勘定吟味役の彦次郎は38歳。彦次郎の指図に従って改鋳作業に従事した勘定所のメンバーのうち、保木弥右衛門(46歳)、正木藤右衛門(47歳)、平岡市右衛門(38歳)は勘定組頭である。古川武兵衛(36歳)、内山新右衛門(30歳)、杉岡孫八郎(39歳)、小宮山友右衛門(28歳)は平の勘定であった。
 8年前の貞享4年(1687)、彦次郎は代官総検査によって、当時の勘定頭(奉行)3人と勘定吟味役1人を罷免に追い込んだ。その折りに勘定吟味役から勘定頭に昇格した佐野六右衛門も、元禄5年(1692)に、「お召し放され、御加増召し上げられ、居屋敷も召し上げられ、逼塞」という厳しい処分を受けて辞めさせられている(『柳営補任』)。佐野は、彦次郎が17歳で勘定所に召し出されたとき、一番上席の勘定組頭であった。いわば大先輩に当たる人であり、目の上の瘤のような存在でもあっただろう。その佐野を辞めさせた時点で彦次郎は、勘定所内を完全に掌握したと思われる。
 そのそちに勘定奉行や勘定吟味役に着任した人々はみな、勘定所実務には通じていない。まして前任者が厳しい処分を受けて退任させられた後だけに、彦次郎には逆わず、目立たないように日々の職務を無事こなすことに専念していたのではないだろうか。井戸と諸星は老齢なだけに、とくにそうだったと思われる。実際彼らは、貨幣改鋳という一大事件に間近で立ち会いながらもとくに歴史に名を残すことなく、10年ほど勘定奉行や吟味役を務め、その後引退したり、留守居に転出したりしている。 (『勘定奉行荻原重秀の生涯』から)
<彦次郎、勘定奉行に昇進>  改鋳作業が開始されてから4ヶ月後の元禄8年(1695)12月、彦次郎は、改鋳の功績により、いきなり千石が加増され、合計1,750石取りとなる。そして翌元禄9年、ついに勘定書最高位である勘定奉行に昇進した。同時に250石加増、都合2千石。このとき、彦次郎は39歳。平勘定出身の勘定奉行は、佐野六右衛門についで2人目である。しかし佐野の昇進が60歳と高齢で、5年で罷免されたことを考えると、実権をふるった平勘定出身の勘定奉行としては初めてだろう。『武鑑』(『本朝武林系禄図鑑』)ではこれ以後、拝領屋敷は「さるかく丁」とある。現在、集英社のビルの1つが立地する東京都千代田区猿楽町である。年末には叙任して近江守となった。以後、文献では「荻原彦次郎」ではなく「荻原近江守」と記述されるようになる。 (『勘定奉行荻原重秀の生涯』から)
荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度  「荻原秀重の貨幣改鋳という悪政か?」に関しては、以前に「荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度」と題して書いたので、こちらも参照のこと。<荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度> 
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<主な参考文献・引用文献>

『勘定奉行荻原重秀の生涯』新井白石が嫉妬した天才経済官僚 村井淳志著 集英社新書    2007. 3.21 
『江戸時代』                       大石慎三郎 中公新書     1977. 8.25
『鎖国=ゆるやかな情報革命』          市村佑一+大石慎三郎 講談社現代新書  1995. 9.20
『長崎貿易』                        太田勝也 同成社      2000.12.10
『長崎の唐人貿易』            山脇悌二郎 日本歴史学会編 吉川弘文館    1964. 4.15
『近世オランダ貿易と鎖国』                 八百啓介 吉川弘文館    1998.12.20
『日蘭貿易の史的研究』                   石田千尋 吉川弘文館    2004. 9.10
『日本の歴史』14鎖国                   岩生成一 中央公論社    1966. 3.15
『鎖国とシルバーロード』世界のなかのジパング        木村正弘 サイマル出版会  1989. 2.
『徳川綱吉』                         塚本学 吉川弘文館    1998. 2.10 
( 2008年7月14日 TANAKA1942b )

(6)大坂商人が生み出したコメ先物取引
 現代日本資本主義経済よりも市場原理主義だった
 江戸時代は「封建時代」「近世」「鎖国」などの言葉で表現される。これらの言葉を使うと、現代に比べて遅れていたような印象を受ける。科学技術の進歩は江戸時代と現代とをハッキリ差別する。けれども社会の仕組みについてみると、江戸時代は一般に思われている以上に進んだところがあった。荻原重秀の「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり」との考えは管理通貨制度の考えであり、1971年8月15日のニクソン・ショックによって世界では管理通貨制度に移行するようになった。それでも、関係者は金本位制度に馴れていたため不安であり金融市場が安定するには時間がかかった。
 ここで取り上げる「大坂堂島米会所」も世界に先駆けての先物取引であった。デリバティブと言えば、資本主義経済の「負」の部分であるかのように思っている人もいる。マネーゲームという言葉さえ市場経済の負の部分であるかのように思う人もいる。大坂商人たちが編み出した「コメの先物取引」。今週はこれについて扱うことにする。 世界初の先物取引、コメの帳合い取引に関しては<大坂堂島米会所>で取り上げたので、そちらからの引用を主に話を進めよう。
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<戦国時代が終わり、コメが通貨になった>  江戸時代は「三貨制度」だった言われる。金・銀・銅が通貨として用いられていた。ところが、「コメ」も実質的な通貨でもあった。このあたりの事情を、戦国末期から振り返ってみよう。
 戦国時代、各地の天下を狙う領主たちは力を貯めつつあった。それは、農地を開拓し、コメを増産し、年貢として取り立てたコメを「城を造る。人足として働けばコメを支給する」として、農民を労働者として集めた。戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげた武将の名には、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正などが並ぶ。
 新田を開拓し、コメを増産し、これで城作りの労働者を集めた領主たち、江戸時代に入り、城作りはなくなる。労働者を集めるためのコメが必要なくなると、そのコメを大坂で売りに出すようになる。
<初期の大坂登米> 戦国時代が終わりに近づき築城ラッシュは終わる。領主・大名はコメを公共投資の原資として使うことがなくなる。百姓に築城工事の報酬としてのコメは、しかしそれだけであり、他の目的のためには金・銀・銭などの貨幣に替える必要が生じた。年貢米を貨幣に替えるために、領地内で民間の商人を使って処分し始めた。この場合は市場での取引と言うよりも、相対取引であった。相場が立っているわけでもなく、すぐに現金化出来るわけでもなかった。そこで各藩は年貢米現金に替える場所として大坂を選ぶことになる。
 各藩がどのようにして大坂登米を始めたか、いくつかの例を引いてみよう。
(1)大坂登米として古いものとしては、1614(慶長19)年に加藤肥後守忠広、黒田筑前守長政、浅野但馬守長晟、福島左衛門大夫政則などの米が8万石あった、との記録があるがこれは販売用ではなくて、大坂冬の陣に備え大坂籠城のためであったらしい。大坂に米を備蓄していただけでなく、むしろ買い入れている事からも、兵糧米であったと考えられる。 
(2)長州藩では1609(慶長14)年4月2日付の輝元書状に「年内何とぞ米大坂へ大分上せ度事」とあるように、大坂へ登米を行っていた。当時長州藩は大坂に蔵屋敷をおいていて、登米高は4万石もあったと思われるが、1697(元禄10)年には8万石にのぼっていることから、恒常的な廻米態勢が整えられたわけではなかった。
(3)細川藩では1623(元和9)年大坂登米が行われ、その量は3500-3700石前後であったらしい。これは大坂で売却されているが、当時海上運送が整備されず、運賃や損米が大きかった時代なので経済的に成り立つとは考えられない。試験的なものであったろう。
(4)佐賀藩では1605(慶長10)年に大坂に蔵屋敷を持ち、大坂登米の記録があるが、米の渡し方や蔵出しに付いての規定だけで、売却仕方や代銀処理に付いては何の定めもなかったと言われる。
 これらのことから慶長・元和期に16万石ないし4,50万石の西南諸国の領主米が大坂へ廻送されたとしても、恒常的な商品流通としてのものではなかったと考えられる。「全国市場としての大坂米市場」の成立はもう少し後の事になる。
<西国諸藩の大坂登米>少し時代が下がって、寛永中期以降の状況を見てみよう。
(1)細川藩は1629(寛永6)年に大坂払米は1万石近くになっている。この時「もみ小米ぬかましり」が入らぬよう国中に触れを出している。これは米が商品として意識され始めたためだろう。1632(寛永9)年細川氏は熊本に転封され、大坂廻米は小倉時代より地理的に不利になったが、外港の整備など廻米態勢を整え、1634(寛永11)年には4万1千石の大坂廻米の輸送能力を持ち、元禄期には3-4万石、元禄末期には8万石の大坂廻米を行うようになった。
(2)岡山藩では1669(寛文9)年に2万8千石の大坂登米を行っている。
(3)萩藩では1615(元和元)年に1万7千石、1643(寛永20)年に1万9千石、それが1653(承応2)年には5万石、元禄末には6-7万石になる。
 これらのことから、西国諸藩は寛永中期から寛文期にかけて大坂廻米を増加、定量・恒常化し、それに適合する制度や設備を整えていった。そしてこのように大坂はまず西国諸藩の領主米市場として成立しくことになる。
<北国諸藩の大坂登米>西国諸藩に比べて北国諸藩の大坂登米は少しあとになってからだった。それには河村瑞軒の西回り航路の整備も関係してくる。
(1)加賀藩では1638(寛永15)年に試験的に1千石を、1644(寛永21)年に1万石を大坂に直送している。1647(正保4)年には初めて上方船が加賀へ来航し、1691(元禄4)年には20万石を送っている。
(2)越後における西廻り海運の開始は明暦期ごろで、大坂廻米開始は高田藩が1656(明暦2)年、庄内藩は1674(延宝2)年、そして1668(寛文8)年に村上藩が江戸藩邸に送った払米代金の62%は大坂での払米代金であったというから、大坂登米が藩財政の根幹をなすようになったと言えるだろう。
(3)弘前藩の大坂登米開始は1672(寛文12)年からで、全上方廻米4万石を大坂着とするようになったのは1687(貞享4)からであると言われている。
<江戸への廻米> 江戸へ各地方から米が集まって来るようになった初めは、伊達の仙台藩からのものであった。仙台藩は東北地方有数の米生産藩であり、江戸に近いという有利な条件もあったので、百姓から年貢米以外の米を買い上げて江戸で売却する「買米仕法」を行った。このように仙台藩から江戸へ廻米されるのはほぼ1626(寛永3)年ごろと考えられる。美味な仙台米は江戸市場で大いに注目されたが、このほかに江戸には、東北、関東、中部などからも集まってきた。南部・仙台・会津・福島(越後の一部)・関八州・甲州・信州・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・美濃・伊勢などの地域が、享保期に江戸市場圏に属したと考えられている。
 大坂こそ「天下の台所」とみる考えと、江戸もそれに劣らず大きな商圏であった、との考えがある。
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<町人蔵元制> 諸藩の米が大坂に集まり始めた。未だ米市場は整っていない。諸藩は大坂登米をどのように管理し、現銀貨(大坂は銀が主要通貨)していたのだろうか? 17世紀中頃から、西国諸藩を中心に、そして少し遅れて北国諸藩が積極的に大坂登米を行うようになる。各藩により多少違うが、七公三民の年貢はそれを現銀化(現金化)しなければ武士・町人階級だけでは食べ切れない。各藩共に登米量が多くなるに従って、輸送・管理・処分方法が変わってくる。
 各藩とも大坂登米を始めた頃は、中世以来の問・問丸・座商人あるいは朱印船貿易に関係していた豪商にすべてを依頼していた。遠距離輸送手段として船、保管手段としての倉庫、士豪として船仲間・水主を支配し、各地の経済情報に明るく、商取引の方法を熟知していて、さらに相応の武力を有するなど、当時隔地間流通を担える唯一の勢力であった。しかしこれは領主の管理が行き届かず、トラブルも多く、効率も悪かった。このため領内から最終消費地までの年貢米の輸送・保管・販売を自己の計算で行うために、領内では港湾や輸送ルートの整備、コメの品質・俵こしらえの管理などを行い、大坂では水運や商取引の便の良いところに蔵屋敷を設置し、専門の官吏を派遣し、大坂で成長してきた輸送・商品取引・金融の専門業者を蔵屋敷関係商人に登用したのであった。
<江戸時代の藩主と現代の百姓> 初期には豪商に一括依頼、次に藩が独自で管理販売に当たり、さらに専門業者に委託、アウト・ソーシングと変化していった。これを現代風に喩えればこうなる。コメを市場で売却して現金にしたい。しかし方法が分からない。そこで何でも分かっている業者にすべてを任せる。当時は豪商、現代は農協。どこで、誰に、いくらで売るか、すべてお任せ。当時は豪商から現銀を回収出来ないこともあった。現代では農協に任せていればそういう心配はない。しかし出荷したものがいくらで売れたのか、いつ入金になるのか直ぐには分からない。
 そこで藩主は考えた。「なるべく自前で対処しよう」と。そこで藩の役人が運送業者、保管人、販売業者をいくつか選び、使い分けようとする。現代の百姓は集荷業者をいくつか選び競争させる。どこの市場で売却すると有利か、あるいはネットを使った産直がいいか、生協などの会員制業者がメリットあるか、など研究する。
 すべてを藩の役人が指示していたが今ひとつスムーズにいかない。「餅は餅屋に任せろ」でそれぞれ専門業者を利用する。業者はブローカーからトレーダーへと変化する。つまり売買差益で利潤を上げるのではなく、口銭で儲けるようになる。現代ではどうなるだろうか?現代では集荷業者も輸送業者も競争するほど数がない。コメは自由な市場さえ整っていないし、「整えるべきだ」との主張も聞かれない。
 農協の考えは
「今後、わが国で農産物先物取引が進展していくかどうかについては、まず第一が商品の価格変動が激しいこと、第二が簡単に買い占め等ができない、ある一定程度以上の市場規模があることが先物取引が成立し得る要件となる。まさに市場原理の徹底に伴い、先物取引が必要とされるような価格変動を余儀なくされる情勢へと変化しているわけではあるが、大きな内外格差の存在等による輸入農産物の増大、コメ等の消費減退などによって農産物価格は低迷しており、。農業経営はきわめて厳しく、わが国農業の再生確保、農業の存在自体が脅かされているのであって、まずは所得安定政策が求められているのが現状である。
 すなわち、直接支払いによる所得確保対策が優先して求められているのであり、、これがあってこそ価格安定対策が生き、現在の危機を乗り越えていく展望も開けようというものである」
 「当初、農産物の先物取引の調査を始めたとき、生産者側からみて、リスク管理の一環として先物取引が利用される可能性があるのかという問題意識をもっていた。その後、調査を進める過程で、農産物の生産・流通機構・価格決定方式、農家の零細性等から判断して、現状では生産者のリスク管理のための先物取引の役割は限定されるという認識に至った」 (農林中金総合研究所編 「国内農産物の先物取引」 家の光協会 2001年4月 から引用)
<名代・蔵元・掛屋> 淀屋の米市が開かれる迄に諸藩の大坂での対応はどのように変わっていったのか、<名代・蔵元・掛屋>を中心にみてみよう。各藩が大坂登米を始めた頃、その流通を担っていたのは前の時代から各地で活躍していた士豪的商人であった。一度年貢米として集めた米を丸投げして商人に任せていた。こうしたブローカーに任せるのは経済的にメリットが少ないし、信頼も置けなかった。そこで藩が流通をコントロールしようとする。そして大坂に蔵屋敷を設置し、新しい商人から蔵元、掛屋を登用する(幕府により大名の大坂での屋敷所有は禁じられていた。そこで名義は町人の、実質は各藩のものであった)。初めの内は蔵屋敷を設置してもその運営に当たる蔵元は藩の役人が担当していた。1644(寛永21)年頃から各藩とも徐々に町人蔵元へと替わっていく。廻米量が多くなり、蔵屋敷での仕事量が多くなると商売に疎い藩役人では効率が悪くなる。そこで取引に明るい町人が起用されるようになったわけだ。
名代 大坂で屋敷を持つことを禁じられた大名が自己の蔵屋敷の名義人として指名した町人が名代であった。 蔵元とは蔵物の管理・出納にあたる者。 掛屋は蔵物代金の受領・保管・送金を担当する者であった。現代風に言えば、名代=社長、蔵元=営業部長、掛屋=財務部長とでもなるのだろうか。ただしこの構成は藩によって違い、一人三役だったり、誰かが欠けていたり、と様々だった。 さて、この営業部長に当たる町人蔵元は以前の士豪的商人と違ってブローカーではなく、トレーダーであった。ブローカーは一度藩から米を買い、自己才覚により売却しその差益を利益とする。これに対してトレーダーは売り手と買い手の間に入り売買口銭を利益とする。このように町人蔵元は、蔵米の管理・入札仲買の選定・入札立会がその主な業務となった。
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「1枚の手形、1日の内に10人の手に渡り」 1654(承応3)年、大坂町奉行所は触れを布告して、「米中買候もの、蔵元之米を買、三分一程の代銀を出し、勿論日切之約束ハ雖有之、其日限を延し、手形を順々に売候ニ付きて、米之直段高値に成候、此売買先年ハ無之候」「一枚之手形一日之内に十人之手に渡り」と、蔵屋敷で売却された米について3分の1の代銀が支払われれば、手形が発行され、これが転々と売買されるようになっていることを指摘し、これを禁止している。同じような触れは1660(万治3)年にも、1663(寛文3)年にも出している。このことから米手形の売買、米市が広く行われていたことを示している。
<米市での取引> 蔵屋敷では藩もとから米が来ると、入札の公告をし、蔵屋敷で入札を行う。落札した業者は代金(大坂なので代銀)3分の1を入れ、蔵屋敷発行の代銀受取証である米手形を受け取る。30日以内に米手形と残銀を持参して、蔵屋敷から米を受け取る。これが初期の取引形態であった。
 この取引が時代と共に少しずつ変わっていく。先ず大坂奉行所の触れにもあるように、米手形が転売されていく。そうすると、米手形の売買は米現物の需給に関係なく、投機の対象となっていく。幕府が禁止したのは、米手形が投機の対象になり、このため米の価格が騰貴していると考えたからだった。さらに米の蔵出し期限の30日が無制限に延長されていく。これは蔵元にとっても手形所有者にとっても期限はない方が良かった。さらに取引が多くなるに連れて、米手形は大坂未着米についても発行されるようになった。奉行所でもそれに気づいていて、触れの中で次のように言っている「蔵元ニ無之米を先手形を売渡し、三分一敷銀を取、連々ニ米を差のほセられ候旁も有之様」このように取引きが変化していくと、青物市場や魚市場のような現物取引の市場(いちば)から、先物取引の市場(しじょう)に性格が変化していく。それも誰か特別な人間がリードしたのではなく、市場取引に参加する商人たち、つまりマネー・ゲームのプレーヤーたちの知恵が市場での取引を進化させていったのだった。しかし奉行には理解出来なかった。だからこのような触れが何度も出されたのだったし、後に米市を禁止し、その後公認するのも、この仕組みとその利点を理解していなかったからだった。 将軍吉宗も大岡越前守忠相もこのメカニズムは理解していなかった。そうして現代でも関係者の中に理解できない人たちが多くいる。日本の農業発展のためにとても残念なことだ。
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<淀屋辰五郎>淀屋の米市について、「大阪市の歴史」から引用しよう。
 大坂の豪商として淀屋辰五郎の名前は有名である。大変な金持ちで豪奢な生活ぶりが幕府のにらむところとなり、五代目辰五郎(三郎右衛門)のとき財産を没収されたと伝えられている(淀屋の闕所)。この淀屋は山城の岡本荘出身で、岡本氏を名乗っていた。豊臣時代に初代の常安が材木商を大坂十三人町(十三軒町ともいう、のち大川町)で始め、大坂の陣では徳川家康の陣小屋を作ったとされ、その褒美として山城国八幡に土地をもらい、大坂に入る干鰯(ほしか)の運上銀を与えられたという。常安は開発町人の一人で、中之島を開発し、常安町・常安橋はその名残である。二代目三郎右衛門言当(ことまさ)は个庵(こあん)ともいい、京橋青物市場の開設や葭島(よしじま)の開発、 糸割符(いとわっぷ)の配分にも尽力した。しかし个庵の事跡として著名なものは米市である。淀屋は諸国から大坂に上がってくる諸藩の米を売りさばくことを請負う蔵元を務めていたが、北浜の店先で市を開き、これが米市場の始めとなった。この市に讃歌する人々の便宜ため私費で土佐堀川に架けたのが淀屋橋である。淀屋の米市は北浜の米市とも呼ばれ、多くの米問屋が集住していた。この北浜の米市は元禄10(1697)年ころに新たに開発された堂島新地に移り、堂島米市場として賑わうようになった。 (「大阪市の歴史」大阪市史編纂所 創元社 1999年4月 から引用)
「両人手打ちして後は、少しもこれに相違なかりき」
淀屋米市がどんなであったか?これもまた江戸時代の文を引用しよう。1688(貞享5・元禄元)年に書かれた井原西鶴の「日本永代蔵」、その中の巻1「波風静かに神通丸」からを、暉峻康隆の現代語訳で紹介しよう
 いったい北浜の米市は、大坂が日本一の港だからこそ、 ちょっとのまに五万貫目の立会い商い(現物なしの取引 差金取引)もできるのである。その米は蔵々に山と積みかさね、商人(あきんど)たちは夕べの嵐につけ朝(あした)の雨につけ、日和(ひより)に気をくばり、雲の立ち方を考え、前夜の思惑で売る人もあり、買う人もある。一石についてのわずかな相場の上がり下がりをあらそい、山のように群衆し、たがいに顔を見知った人には、千石万石の米をも売買するのだが、いったん契約の手打ちをした後は、すこしもそれに違反することがない。世間では金銀の貸し借りをするには、借用証書に保証人の印判をおし「何時なりとも御用次第に相渡し申すべく候」などど定めたことでさえ、その約束をのばし、訴訟沙汰になることが多い。それなのにこの米市では、あてにもならぬ雲行きをあてにして契約をたがえず、約束の日限どおりに損得かまわず取引をすますのは、日本第一の大商人の太っ腹をしめすもので、またそれだけ派手な暮らしをしているのである。
 難波橋(なにわばし 下流に中之島・北浜の河岸が見渡せる)から西を見渡した風景はさまざまで、数千軒の問屋が棟をならべ、白壁は雪の曙になさり、杉なり(三角形のこと)に積み上げた俵は、 あたかも山がそのまま動くように人馬につけて送ると、大道がとどろき、地雷が破裂したかのようである。上荷船(うわにぶね 20石積み)や茶船(10石積みの川船)がかぎりなく川波にうかんでいるさまは、秋の柳の枯葉がちらばっているようである。先を争って米刺(こめざし 俵米の品質を調べるため、俵に突き刺し米を取り出す七寸余の竹筒)をふりまわす若い者の勢いは、虎臥す竹の林と見え、大福帳は雲のようにひるがえり、算盤をはじく音は霰がたばしるようである。天秤の針口をたたく(針の動きを調節するため、天秤中央上部の針口=針の平均を示す所を小槌でたたく)音は、昼夜十二時を告げる鐘の響きにまさり、家々の威勢に暖簾もひるがえっている。 (井原西鶴 「日本永代蔵」1688(貞享5)年1月刊  暉峻康隆訳 小学館 1992年4月 巻1「波風静かに神通丸」から引用)
<寄場・会所・消合場> 1730(享保15)年8月13日、大坂の堂島米会所の設立が幕府によって認められた。場所は北区堂島浜1丁目、大阪全日空ビルと新ダイビルのあたり。堂島川に沿ってこちら側と対岸、いまの日銀と大阪市役所あたりには諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。
 ここは寄場(立会場)、会所(事務所)、消合場(精算所)の3つから成り立っていた。寄場は狭い小屋建てで、東の方が正米取引寄場、中央が帳合米寄場、西の方が石建米商いの場、となっていた。この小屋は事務所の様なもので、実際の取引は堂島川に沿った浜通りの道を占拠して行われていた。かつての淀屋米市でも取引に伴う雑踏・騒音が幕府から注意を受けていた。
 この寄り場から二筋ほど北の船大工町に会所(事務所)と消合場(精算所)があり、そこを中心に五百件を超える米商人が軒を連ねていた。ここは現代の大阪ではちょうど北の繁華街、曾根崎新地あたり一帯であった。
<組織と運営>
会所の役員には米方年行司・同月行司・加役・戎講・水方などがあった。このうち米方年行司は現代風に言えば、取引所の理事に、株式会社の役員に相当する役職で、毎日会所へ出勤して市場秩序の維持、売買取引事務の総轄、仲買株札の管理などにあたるとともに、町奉行からの触れの伝達、町奉行への届出、訴えなどにおいて浜方(堂島)を代表して折衝にあたった。第一回目の米方年行司は津軽屋彦兵衛・加島屋久右衛門・俵屋喜兵衛・升屋平右衛門・久宝屋太兵衛の五名であった。
 「難波の春」では次のように言っている。米方年行司は、堂嶋米仲買株の者の内より、人物よき年功の者を、仲間一統にて選み出す事にて、明きのある時は、仲間内、入札して、札の多き者を定め、奉行所へ訴え出で、聞済みを受けて、年行司になる事にて、尤、これは、古株の正米商ひをするものの内より、選み出す事とぞ。四人にて順々年番を勤む。外に加役三人あり、人数は時に寄り、不同もあれど加役とも、六七人に限るよし。仲買一統より、袴摺料、世話料を出す事なり。米方の事は、年行司とても、自儘の取計ひならず、何事も仲間一統示談の上、取計らふ様に、取極はよく立てたる物とぞ。
 会所の運営は建物米となった蔵屋敷と米方両替からの寄付銀によって賄われていた。建物米とは名目的な建米を設けて、それを基準に米価を決めていくためのもので、この場合多く四蔵と言われる中国米・広島米・肥後米・筑前米が建物米となり、この建物米を貯蔵した蔵屋敷から仲買に銀500枚を贈与することになっていた。この四蔵のほか加賀米も夏建物であったが、これらとは他のものと異なって、その費用の贈与はな
<堂島米仲買株>
1731(享保16)年12月、堂島米仲買株が幕府により公認され、享保17年4月および20年7月にも第二次、第三次の公認が行われた。株数については諸説あり、「浜方記録」は第1回と第2回それぞれ500枚、第3回300枚、合計1300枚としているが、「米商旧記」は第1回451枚、第2回538枚、第3回362枚、合計1351枚としている。1732(享保17)年2月には米方両替株50枚が公許された。このように享保末年(1736)頃までに堂島米会所の組織は次第に整うようになった。株数1300枚ということはトレーダーだけでなく、ローカルズも多くいたわけで、この点は現代日本の取引所よりもシカゴのそれに近いシステムだ。
 米仲買株について「難波の春」から引用しよう。帳合米相場は、享保17年(1732)壬子二月、正米直段下直過ぐるに付、相場引立のため、株数千軒御免になり、同十九寅年、三百軒之有り、仕法は、年中口の上の相対のみにて、米百石に付き、敷銀凡金二歩か三歩程出せば、米を売付、買付する姿にて、勝負商ひする事なり。此敷銀は、米値段高下ありて、素人の方に損のある時、差引すべき積りにて、取りて置く証拠銀なり。此売買の度毎に、口銭百石に付、二匁五分づつ、出入にて五匁づつ、仲買へ請う取る事の由。
 次のような文もある。米仲買株は、前に云ふごとくにて、むかしは千三百軒なれども、追々減じて、文化の頃、堂島に八百九十軒程、江戸堀に五十軒、道頓堀に三十軒あるよし。其内堂島仲買も四組に分かれる。其一は正米商ひ、二は帳合延商ひ、三は虎市、四はこそ市、右四組へ道頓堀、江戸堀は別格なれども、是を一組として、都合五組なり。株札の表は、皆株仲買にて、名目は同様なれども、商売の仕方は、前にあるごとく、皆同じからず。此五組にて、正米相場の株を重とす。堂島四組は、冥加運上等の事なし。外一組は、前に記すごとし。都て、大坂へ積み廻はす諸国の産物、皆問屋仲買小売等の次第あれども、米に限り、しかと取り締りたる問屋のなきは、蔵屋敷を問屋の姿とせしものにもあるべきかと云ひし。
 このように株数が減ったということは、新規参入が保証されていたということだ。1980年代、株式相場が右肩上がりを続けていた頃、、東京証券取引所では外国会社の枠が少ない、と問題になっていた。新規参入が厳しかったわけだ。ということは、江戸時代の大坂は「日本株式会社」よりも自由な市場経済だったということになる。
<入替両替> 米会所で米切手担保に資金融資する入替両替となると大坂でも相当な資金力のあった者に限られた。この入替両替(証券担保の金融機関)としては、鴻池屋庄兵衛・加島屋作次郎・加島屋作五郎・米屋伊太郎・天王寺屋弥七・島屋利右衛門の6人であったことが知られている。なかでも鴻池屋庄兵衛と加島屋作五郎はこのうちでも大手として知られている。
 会所の運営は建物米となった蔵屋敷と米方両替からの寄付銀によって賄われていた。建物米とは名目的な建米を設けて、それを基準に米価を決めていくためのもので、この場合多く四蔵と言われる中国米・広島米・肥後米・筑前米が建物米となり、この建物米を貯蔵した蔵屋敷から仲買に銀500枚を贈与することになっていた。この四蔵のほか加賀米も夏建物であったが、これらとは他のものと異なって、その費用の贈与はなかった。これはかつて米仲買惣代らが江戸に滞在したとき金銭上の援助を受けたことに報いるためと言われている。一度受けた恩義は長く大切にする、大坂商人のよき習いと言えよう。
<現代の市場参加社数>
この仲買株数1,300とは多いのだろうか?少ないのだろうか?オランダやイギリスの先物取引の詳しい事が分からないので比べようがない。そこで現代日本の市場を見ると次のようになる。東京証券取引所、総合取引参加者=113社。国際先物等取引参加者=87社。東京穀物商品取引所、農産物市場及び砂糖市場参加者=43社。農産物市場参加者=34社。 参加者が多ければいいってもんじゃあないけれど、人口1億2千万人の現代、人口3千万人程度の江戸時代、大坂商人のコメに賭けるエネルギーのすぐさに驚かされる。官に逆らいながら米会所は開設された。現代ではどうだろう?空売り規制だとか、PKOだとか、市場関係者からの抵抗はなかったのだろうか?この業界では「官に逆らった経営者」はいなかったのだろうか?
<米市での取引> 蔵屋敷では藩もとから米が来ると、入札の公告をし、蔵屋敷で入札を行う。落札した業者は代金(大坂なので代銀)3分の1を入れ、蔵屋敷発行の代銀受取証である米手形を受け取る。30日以内に米手形と残銀を持参して、蔵屋敷から米を受け取る。これが初期の取引形態であった。
 この取引が時代と共に少しずつ変わっていく。先ず大坂奉行所の触れにもあるように、米手形が転売されていく。そうすると、米手形の売買は米現物の需給に関係なく、投機の対象となっていく。幕府が禁止したのは、米手形が投機の対象になり、このため米の価格が騰貴していると考えたからだった。さらに米の蔵出し期限の30日が無制限に延長されていく。これは蔵元にとっても手形所有者にとっても期限はない方が良かった。さらに取引が多くなるに連れて、米手形は大坂未着米についても発行されるようになった。奉行所でもそれに気づいていて、触れの中で次のように言っている「蔵元ニ無之米を先手形を売渡し、三分一敷銀を取、連々ニ米を差のほセられ候旁も有之様」このように取引きが変化していくと、青物市場や魚市場のような現物取引の市場(いちば)から、先物取引の市場(しじょう)に性格が変化していく。それも誰か特別な人間がリードしたのではなく、市場取引に参加する商人たち、つまりマネー・ゲームのプレーヤーたちの知恵が市場での取引を進化させていったのだった。しかし奉行には理解出来なかった。だからこのような触れが何度も出されたのだったし、後に米市を禁止し、その後公認するのも、この仕組みとその利点を理解していなかったからだった。 将軍吉宗も大岡越前守忠相もこのメカニズムは理解していなかった。そうして現代でも関係者の中に理解できない人たちが多くいる。日本の農業発展のためにとても残念なことだ。
<取引の仕組み> 正米商内とは1年を春(1月8日〜4月28日)、夏(5月7日〜10月9日)、冬(10月17日〜12月28日)の3期に分けて、蔵屋敷が発行する米切手を米仲買間で取引するもので、毎日午前10時から正午まで開かれた。建物米には肥前・肥後・中国・筑前・広島・加賀米が米仲買の入札により選定されることになっていたが、夏には北国米の加賀米が選ばれるのを通例とした。正米取引に参加できる者は公認の米仲買株を有する者に限られ、正米方と呼ばれた。売買は切手1枚、すなわち10石を単位とし、100石以上を「丸物」商内、100石未満を「端物」と言った。代銀・米切手の授受はもともと即日受渡しを原則としたが、寛政以降4日以内となった。このように正米商内は米切手の実物取引であり、実需取引・投機取引双方に利用されるものであった。つまり、米問屋の買(売)注文を受けた米仲買が正米商内で米切手を売買する場合と、仲買の投機目的で売買する場合とがあった。米仲買を通じて正米商内に参加するものは口銭を払うことになっていた。「芦政秘録」では丸物商内で100石につき銀10匁、端物商内で10石につき銀1匁5分としているが、「八木のはなし」では100石につき銀2匁5分としている。この違いは時代によって変化したと考えられる。
 淀屋米市では蔵屋敷に代銀の3分の1だけ支払えば、米手形を手にし、これを売買することができた。堂島米会所では全額となり、会所での米切手・代銀の授受期限は4日以内と短かったので、資金を持たずに投機目的で米切手を購入することは難しかった。そこで、こうした投機家に米切手を担保にとって、現銀を融通する信用機関として生まれたのが入替両替であった。この入替両替は大きな資金を必要とし、十人につぐ大両替であった。入替両替は100石につき銀300匁ないし500匁の敷銀を預かり、さらに貸付銀には利子が付いた。利率は3月1日から10月末までは銀1貫目につき日歩1分2〜7厘、11月から翌年2月末までは銀1貫目につき日歩2分5厘であったという。冬季に利率が高かったのは新米の出回り期にあたり、米購入のための資金需要が高まるためであった。米価が高くなれば入替両替に担保に入れてある米切手を場右客し、それによって借銀を返済する借り手もあったし、また米価が下落した時には質物の米切手を流してしまう借り手があり、この場合には入替両替は質にとった米切手を市場で売却し、それによって元利の決済を行った。また「八木のはなし」には、米価高値のとき質物米切手を売却し、利益を得ようとする入替両替もあったらしい。かつて日本の市場でも、客からの預かり証券を無断で売却する、という不正があったが、あれは江戸時代の米取引を勉強した成果なのだろうか? 取引状況をもう少し詳しく見てみよう。堂島川に沿った浜通りの道を占拠して、朝の8時から帳合流商内が始まっている。2時間の間に今日の相場が形作られつつある。その流れに沿って正米商内でも価格が提示される。2時間の間米仲買の競り合う声がやかましい。事情を知らない者が見たら仲買たちが喧嘩しているように見えるだろう。正午にその日の取引が終わると、消合場での手続きが待っている。ここで米仲買は今日の取引を報告し、必要なら入替で資金を借りる。米切手と代銀との受け渡しは4日以内と決まっていた。さて米取引はここだけではなかった。江戸堀、道頓堀でも取引が行われていた。堂島での取引内容が即刻伝えられ、その相場を元に取引が行われた。競馬、競輪に喩えると解りやすい。つまり江戸堀や道頓堀に場外馬券・車券売場があったわけだ。JRA職員も堂島米会所を研究し、その仕組みを現代に生かしていた訳だ。このように堂島米会所は時代をワープして大きな影響力を発揮しているようだ。
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<現代農業に帳合い取引を応用すると>淀屋の米市について、「大阪市の歴史」から引用しよう。
 ここで発想を変えて、現代に帳合い取引を導入したらどうなるかを考えてみよう。かつて、<キャベツ帳合取引所はいかがでしょうか?>と題して書いたものから転用してみよう。
 今様米帳合取引所がコメ作り農家の期待通り順調に働き始めた。難しい経済用語=ボラティリティーだとかブラック・ショールズ式など分からなくても、農協に替わってコメ集荷業者がそれぞれの農家に合った戦略を選んでくれる。コメ作り農家田中さんも、そんな業者の営業マンから指導を受けているうちに、自分でも戦略を立てられるようになった。 今は単なる農家の親睦団体となった「農協」の会合で自慢話をするうちに、キャベツ農家の小泉さんがその話に興味を持つようになった。「コメで安定収入が得られるなら、キャベツだってできるんじゃあないだろうか?」そこでこの村出身で、今は東京の証券会社で働いている、竹中君をお盆休みに村へ呼び戻し、研究会を開くことにした。その研究会の成果をここで発表することにしよう。
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   キャベツの出荷価格は最低1Kg60円から 200円まで乱高下した。そこで生産農家の収入を安定させたい、との発想で「キャベツ帳合取引所」設立の構想を練り上げてみた。取引所は新たに設立するのもいいが、例えば東京都中央卸売市場の9つあるうちの1つ、太田市場を民営化するのもいいだろう。国鉄も専売公社も電電公社も民営化して良くなった。 中央卸売市場全部を民営化するとなると既得権者の抵抗も大きいだろうから、今回はとりあえず1つだけ民営化する。そこでは今までの業務はそのままに、新たにキャベツの帳合取引部門を設立する。
 現物取引は今まで通りとする。先物取引およびオプション取引は満期日の半年前から売買を始める。 先物は満期日=現物を取り引きする2営業日前の13時に締め切り15時にその結果を発表する。つまりこうだ、 8月31日を満期日とする先物は 8月29日の13時に売買を締め切り、15時にその結果を発表する。その結果とは 8月31日には取引価格幾らの物が何枚予定されているか、 ということだ。その価格の高低、数量の多少によって31日に出荷する量を農家は調整することができる。
 オプションは満期日の1営業日前(この場合は30日)の13時に締め切り、15時に発表する。これにより 8月30日15時には翌日 8月31日の先物とオプションの取引予約の数量が発表される。それを見てから翌日の出荷量を決めることができる。当然満期日まで常に売買高は公表される。その数字を見ながら先物とオプションの売買が行われる。生産農家はその数字を見ながら作付け面積を決める。このようにキャベツ生産の初期の頃から数字を見ながら出荷の向けての生産調整をするので無駄が少なくなる。
 前回のコメと同じように収入を予想してみよう。
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<与件> キャベツ作り農家小泉さん、1日の出荷 400Kg。10Kgを1枚と表現して、40枚。生産者価格が1Kg60円、80円、 100円、 150円、 200円の場合の収入を計算する。
<第4の戦略> すべて現物取引とする。いままでの出荷方法だ。 
60円の場合は24,000円。
80円の場合は32,000円。
100円の場合は40,000円。
150円の場合は60,000円。
200円の場合は80,000円。
<第5の戦略> 200枚を80円で先渡しで売り。100枚を70円でプットを買っておく。(70円で売る権利を買っておく)この場合の手数料=プレミアムを500円と仮定する。残り100枚は現物売りとする。
60円の場合。先渡し分16,000円。現物取引分6,000円。プットを行使して6,500円。全部で28,500円。
80円の場合。先渡し分16,000円。現物取引分8,000円。プットを行使して6,500円。全部で30,500円。
100円の場合。先渡し分16,000円。プットを行使せず現物取引分19,500円(手数料500円)全部で35,500円。
150円の場合。先渡し分16,000円。プットを行使せず現物取引分29,500円(手数料500円)全部で45,500円。
200円の場合。先渡し分16,000円。プットを行使せず現物取引分39,500円(手数料500円)全部で55,500円。
<与件>
生産者価格    60円     80円      100円    150円    200円    高低差
第4の戦略 24,000円  32,000円   40,000円  60,000円  80,000円  56,000円
第5の戦略 28,500円  30,500円   35,500円  45,500円  55,500円  27,000円
 ここでは田中さんのコメ戦略、第1の戦略と第3の戦略を真似て戦略を立ててみた。
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<スケジュール調整と権利の売買> キャベツの場合は現時点から半年先までの先物・オプションの数字が公表される。これによって生産調整・出荷調整ができやすくなる。さらに、小泉さんが10月の第1週目に先物売りとプットを買っていたが、第2週目に延ばしたとなった時、これを売って10月第2週目の権利を買うことができる。
<裁定取引・スワップ> 東京帳合取引所太田市場が好評なので、仙台、名古屋、京都、大阪、福岡など各地に帳合取引所ができる。キャベツ作り農家はインターネットを使い各地の売り買い状況を見ながら出荷時期と出荷先を選択する。同じ時期の太田市場のプットと名古屋市場のプットを交換したりもする。 権利の売買を通じて、時期や取引市場を交換することができるようになる。それはちょうど裁定取引やスワップに似た取引になる。ここにおいて農産物が8代将軍徳川吉宗の時代から、やっと現代資本主義社会の取引に進化する。労働集約産業から知識集約産業に変化しようとする。35才以下の金融工学の専門家も農産物取引から、広くアグリビジネス一般に参入し始める。かつて農村部から都会の競争社会に飛び込んで行った若者もその成功者の一部が出身地に戻り始める。農村社会に変化の兆しが見え始めたようだ。
<種は播かれた> インターネット野菜取引市場はテスト運営が始まったようだ。生産者と販売業者を会員として、ネットを使って入札を行う。よく考えてみればネットオークションなのだ。こちらはすでにいくつかの運営組織ができ実際に活動している。大きな違いはC2C(Consumer to Cconsumer)かB2B(Business to Business)かだが、ネットオークションではB2Cもあるようだから、ノーハウは蓄積されているはずだ。
 ロジステックからの進出とネットオークションからの進出と、それに商社とソフト会社が組み合わさって発足するだろう。システムや資金には大きなネックはないだろうが、問題は生産者にそれだけの意欲があるかどうかだ。日本の農業システムは零細であることをよしとしている。企業が農地を購入するのに規制があるように、大企業を敵視する信仰があるようだ。このため新しい商品開発やシステム開発への投資資金が乏しい。特に外部からの投資に対するアレルギーが強い。都市部、都会人、大企業、外国資本などを嫌い、全てを内部処理しようとする。 ここにも尊農攘夷意識が強く表れている。しかし、いろいろ制度上の問題を抱えながらも、どこかがスタートすればすぐそれに続くシステムができるに違いない。この文を書いているその時間に、どこかで誰かがキーボードに向かって企画書を打ち込んでいるに違いない。どうかTANAKA1942bがこの文を発表する前には発表しないで欲しい。その位いつ計画が発表されてもおかしくない状況だと思う。
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<現代よりも進んだデリバティブ取引>  「正米取引」は現代で言うところの「先物取引」。「先渡し取引」よりも投機性は高いし、価格安定への効果も大きい。 「消合場」は現代の「クリアリング・ハウス」であり、取引市場での取引相手の信用リスクを軽減するシステムであった。そして 1995年10月、大和証券がミニ株取引を最初に始めた。堂島では「虎市米相場」と呼ばれた取引があって、場外馬券売場のようなもの。あるいは黙認されたノミ屋、としての機能を果たしていた。 米仲買の妻子下女杯にまで普及していた「コメの投機取引」は現代の株式投機よりも庶民に普及していたのかも知れない。帳合米取引では、現米や代銀総額を用意する必要がなく、わずかな敷銀と手数料(分銀)を納めるだけで、取引に参加できたから、ヘッジ(掛繋ぎ)取引を目的とするものには適いていた。 これは現代の「FX取引」で使われる「レバレッジ効果」が期待できる制度であった。日本社会は21世紀になってようやく江戸時代のデリバティブ取引が普及し始めたようだ。
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<主な参考文献・引用文献>

『国内農産物の先物取引』            農林中金総合研究所編 家の光協会    2001. 4
『大阪市の歴史』                   大阪市史編纂所 創元社      1999. 4
『日本永代蔵』1688(貞享5)年1月刊            暉峻康隆訳 小学館      1992. 4
『堂島米会所文献集』「難波の春」             島本得一編 所書店      1970. 9
( 2008年7月21日 TANAKA1942b )

(7)なんとなく自由な田沼時代だった
 市場経済の先取りには保守反動抵抗勢力が強かった
  田沼意次が賄賂政治家だったと長く信じられていた。辻善之助著『田沼時代』で賄賂政治家田沼意次が決定的になった。 その後大石慎三郎がこれを批判し、「田沼意次は賄賂政治家ではない」と主張し、現代ではこの考え方が支持されている。 ここでは、まず田沼批判から話を始めることにしよう。
<田沼時代の政治=辻善之助著『田沼時代』>  田沼の威勢の盛んであったことを記している物は頗る多い。ここには、その2,3の例を挙げて見よう。安永年間のことであるが、意次の下屋敷が稲荷堀にできた。普請が出来上がって一覧して後、 池を見て誠に立派にできた、この内に鯉または鮒の類を入れたら面白かろうと言った。その後登城して帰って来て見たところが、誰かがどこから持来たのか、鮒だの鯉が何時の間にかそこに入っておった。 田沼の威勢によって推薦せられた者は、やはり虎の威を仮る狐で、その者の勢いまた盛んであった。時の将軍徳川家治は画が好きであったので、田沼は狩野栄川院典信(かのうえいせんいんみちのぶ)という者を薦めた。 その後またその子の養川院惟信も将軍に召し抱えられて、父子相列んで幕府につかえ、ためにその生存中は栄川院及び養川院の画といえば、非常に相場の高い物であった。 ところがこれが死んでからは、画人という者は一般に死後は相場の上がるものであるのに、この2人に限っては、相場が下がったという。それは田沼に推薦せられておった人であるが故に、その光りによって、生存中は画が高かったのだということである。
 平生田沼の家へご機嫌伺いに行く者は大層な者であった。『甲子夜話』(かっしやわ)を書いた松浦静山が20歳頃、田沼の家へご機嫌伺いに行ったことがある。 そのときのことを記してあるのに、松浦は田沼の屋敷に出て、大勝手の方に入って行った。そこの部屋は大方30余畳も敷ける処であった。大抵の老中方の屋敷というものは、一列に並んで障子など背(うしろ)にして坐っているのが通例であるがが、 田沼の屋敷は、両側に居並んで、それでもなお人数が余るので、後にまたその間に幾筋か並んで、なおそれでも人が余って、またそのしたの横に居並んで、なおその余る座敷の外側に幾人も並ぶという風である。 その外側にいる人は、主人が出て来ても顔が見えない位である。その人の多いことがこれでも思遺(おもいや)られる。さて、主人が出てきて、客に逢う時にも、外(ほか)では主人とよほど客と離れて坐って挨拶するのであるが、 田沼は多人数溢れているので、漸々と主人の座から2、3尺も明けて坐るような有様で、主客互に顔を接せんばかりである。繁盛とは言いながら、また無礼とも言う可き有様であった。 いずれも刀は座敷の次の間に脱いで置くのである。が、座敷の次に幾十振とも知れず、刀が列んで、あたかも海波を描けるが如くであった。 また或時には田沼の公用人三浦圧二という者に用を頼んで、取次を以て主人の面会日に三浦に逢いたいという事を申し出たところが、ただ今御目に懸りましょう、しかしながら表の方へ出ますると、御客の方から取り巻かれるから、なかなか急に謁見叶い難い。 何とぞ潜(ひそ)かに別席へお入り下さいというので、松浦は別席に案内せられて逢うた事がある。陪臣の身でありながら、堂々たる大名を扱うこと此(かく)の如きの有様であるのは、誠に世に稀なる事である。 この松浦の通った処は、大勝手の方ばかりであって、その外、中勝手、親類勝手、表座敷等、それぞれ皆格によって逢う所の席が違うので、定めてその辺もこれと同じような有様であろうと思えば、その時分の田沼の威勢というのは、誠に思半(おもいなか)ばに過ぎる事である。 「然れども不義の富貴、誠に浮雲の如くなりき」とは、松浦静山が漏らしたるところの溜息である。 ( 辻善之助『田沼時代』から)
<田沼時代の政治=辻善之助著『田沼時代』>  田沼へ諸家から贈るところの品物は皆様々の意匠を凝らして、心を尽くして贈ったものである。或時には中秋の晩に、島台(しまだい)などを贈る。これにも負けず劣らず趣向を凝らした内に、 或家の進物は、小さな青竹の監(かご)に溌溂たる大鱚7,8つに、少しの野菜をあしらってそれに青柚子1つ付けて、その柚に後藤の彫刻に係(かか)る萩薄(はぎすすき)の模様のある柄の小刀で以て、その柚子を貫いてあった。 後藤の彫ったところの小刀は、天下の逸品であって、その価は数十金に当るものであった。また或家のは、大きな竹監(かご)に鮪2尾入れてあった。これはその頃よほど類の少ない物で、頗る興味を添えたことであった。 また或時に田沼が暑気中で臥せておったところへ、御機嫌伺いに来た使が田沼の家来に、この頃は何を玩(もてあそ)びたまうかと尋ねたところが、 近頃は岩石菖(いわせきしょう)の盆を枕辺に置いて観られると答えたので、それより2,3日の間に、諸家から各種の岩石菖を大小となく持ち込んで、大きな座敷2つばかりは、隙間もなく列(なら)べ立てて取扱にも倦(あぐ)んだという。 ( 辻善之助『田沼時代』から)
<徳富蘇峰=『田沼時代』刊行について>  田沼時代は、いかに史家の賞賛せんとするも、その汚れかつ濁りたる時代であることを、看過する訳には参らない。 いかに田沼が一代の政治家であったとしても、その世を毒し、風を壊りたる罪悪は、到底これを払拭し得べきものではない。
 されど彼は幕政中において、小人中の偉物であった。彼は群小政治家中、その手腕は決して尋常ではなかった。 もし彼にして自ら検束し、かつ部下を検束し、その才器を良き方面に用いたらんには、彼はまことに一代の能臣というべきものであったであろう。 惜しむらくは彼は、士君子の教養を欠き、ただ功利一遍の動物として、その卓越したる才器を誤用した。
 彼が賄賂の問屋(といや)であったことは、本書中これを特筆している。今更繰り返すには及ばない。されどこれがために、害を全社会に被らせたる一事は、さらに大なる罪悪といわねばならない。 その部下勘定奉行松本伊豆守・赤井越前守などの放埒もまたはなはだしきものがあった。当時より芸妓を買い取り、麗服を著(つ)けしめ、これを函に入れ、上書を人形として、進物に差し出したるものありという。 活ける京人形の進物とは、このことであろう。
 田沼の妾は元小禄の時、ある揚弓場に出でたる女を召したるにて、後に千賀道有(ちがどうゆう)を仮親となしたり。此が為めに道有は囚獄の医者から新たに召し出されて、侍医法眼(じいほうげん)に命ぜられ、 浜町に二千坪(約6,600平方メートル)程の屋敷を貰ひ、家屋・庭園善美を極め、夏月納涼の座敷は、天井へガラスを張り、其の中に金魚を蓄へたり。 田沼妾宿下(やどさが)りの節は、右屋敷へ諸大名其の他の者共、美味・珍味を贈り、坐に満てり、町屋敷も18ヶ所程所有せり。(五月雨艸紙=さみだれそうし)
 また当時賄賂の相場としては、
 天明・安永の頃は、田沼候執政にて、権門賄賂の甚だしく行はれて、賢愚を問はず、風潮一に此れに赴きたるが、其の折りには、長崎奉行は二千両、御目付は占領といふ、賄賂の相場立ちしと申す位なり。 此の時吉原町にままごとといふ音信物を調(ととの)ふる家ありし由。是は五尺(約151.5センチメートル)程の押入れ子棚様の物出来、其の中に飲食物・吸物・さしみ・口取り、其の外種々の種科より、包丁・まな板までも仕込みあり。 花月の夜、雨雪の窓に開ければ、忽ち座を賑はす為め、権家へ送与して、媚びを取るの具なるが、大抵7,8両位より14,5両までの値段なりし由。(五月雨艸紙=さみだれそうし)
 かかる勢いにて一世を風靡したれば、美河武士の士気などというものが、爪の垢ほどもなくなったのも、決して不思議はあるまい。 ( 徳富蘇峰『田沼時代』から)
<中瀬勝太郎=『江戸時代の賄賂秘史』>  田沼意次が幕府260余年を通じて賄賂に関する最大の大家であったことは、世人がひとしく知るところである。 彼の言として、広く人口に膾炙している言葉がある。いわく、
 『金銀は人の命にも替え難き宝である。其宝を贈りて御奉公を願ふ程の人は、其の志上に忠なる事は勿論である。故に志の厚薄は贈物の多少によって知られる』
 これは果たして本人が言ったのか、あるいは後人が枯れの平素の行動から見て付会したのであるかよくわからないが、一般には彼の言として伝えられている。
 『余日々登城して国家の為めに辛労す、一刻と雖も安き心がない、只退朝の時、我屋敷の長廊下に、諸家よりの贈物が、夥多しく山と積まれたのを見る時は、初めて一日の辛労を忘れ、気も静々する』 (天明夜話集、江都見聞録)
 とも言ったという。
 当時幕府には、田沼の上に大老として彦根中将すなわち云い井伊掃部頭があった。しかし彼は田沼の傀儡に過ぎず、幕府一切の施設は、田沼一人の方寸により割り出されたものである。 したがって日毎夜毎に枯れの屋敷に膝行頓首して訪問する者の数は知れず、その門前は柳沢の場合と同様市をなしたとのことである。
 人々は彼のためにどんなものを持って行けば気に入られるかと苦心し、珍しいもの、彼の好きそうなものは金銀の高をいとわず買い求めて贈った。 当時のありとあらゆる珍しいものが、ほとんど田沼の家へ集まったとさえ言われるほどである。 ( 中瀬勝太郎『江戸時代の賄賂秘史』から)
*                      *                      *
<権力者によって書き換えられた歴史>  荻原重秀は貨幣改鋳により幕府の財政を立て直し、成長通貨を供給し、当時の経済を立て直した。
 このような重秀の政策に対して新井白石が攻撃してきた。白石は重秀を「天地開闢以来の姦邪の小人」ときめつけ、6代将軍家宣に重秀の罷免要求をだすこと3度。「もしこの要求がいれられない場合は、自分は重秀を殿中で刺し殺すであろう」とまで詰め寄って、1712(正徳2)年9月11日、重秀罷免に成功する。
 荻原重秀を追い落とした新井白石は、さらに自分の政策を正当化するために荻原重秀を徹底的に悪く言った。このため荻原重秀は歴史上貨幣改鋳という悪政を実行した幕臣として伝えられることになった。
 新井白石は8代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」に関しても、徹底して「悪政」として後世に伝えようとし、人々はそれを信じていた、すなわち「生類憐れみの令、という前代未聞の悪政」として。
 明治維新になり、明治政権は徳川幕府政権を批判してこそ自分たちの存在理由が成り立つため、「江戸時代農民は満足にコメを食べる事さえ出来ないほど貧しかった」という「貧農史観」を植え付けようとしてかなり成功した。 現代でも「江戸時代の農民の主食はアワやヒエであり、コメはハレのとき、特別なときにしか食べられなかった」と信じている人もいる。
 このことに関しては<百姓がコメを食べなかったら、収穫されたコメは誰が食べたのか?>を参照のこと。
 「大東亜戦争」が終わったあと、戦争の名前が「太平洋戦争」と変わり、日本の歴史も変えられた。
 新井白石と同じように、田沼意次を追い落とした松平定信もやはり、田沼意次を賄賂政治家として後世に伝えようとし、つい最近までそれは成功していた。 上に引用した徳富蘇峰の言うように「 田沼時代は、いかに史家の賞賛せんとするも、その汚れかつ濁りたる時代であることを、看過する訳には参らない。いかに田沼が一代の政治家であったとしても、その世を毒し、風を壊りたる罪悪は、到底これを払拭し得べきものではない。」は多くの人に信じられていた。
 後の権力者の都合のいいように書き換えられ、「田沼意次は賄賂政治家である」との歴史を見直すきっかけをつくったのは、大石慎三郎であった。そこで、大石慎三郎『田沼意次の時代』からその辺の事情についての部分を引用することにしよう。
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<大石慎三郎=『田沼意次の時代』>  江戸時代の三大改革といえば、享保の改革・寛政の改革・天保の改革、三大飢饉といえば、享保の飢饉・天明の飢饉・天保の飢饉というように、日本人は古来三大何々と大物を3つ抜き出して数えたてるのが好きである。 近頃そのような傾向が少し希薄になっているので、そうであったと言うべきかも知れないが、この伝からいって日本史の三大悪人というのも、あったわけである。 弓削道鏡・足利尊氏・田沼意次の3人である。しかし前の2人は昭和20(1945)年の配線によって皇国史観が亡んだため評価が変わり、後に残ったのは田沼意次の1人となった。 彼は大変賄賂を好み、賄賂によって政治を左右する腐敗した日本史上最悪の政治家として描かれ続けた。そしてどの日本史の教科書にも、それを風刺する図柄として辻善之助著『田沼時代』所収の「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図が、 のせられ続けたものである(大正4年、日本学術普及会刊『田沼時代』17頁、岩波文庫『田沼時代』24頁、今後同書を引用する場合は岩波文庫版を用いる)。 「まいない鳥」の図には、、「この鳥金花山に巣を喰う、名をまいない鳥という、常に金銀を喰う事おびただし、恵み少き時は、けんもほろろにして寄りつかず。但しこの鳥駕籠は腰黒なり」という説明がついており、「まいないつぶれ」の図には、 「この虫常は丸之内にはい廻る。皆人銭だせ、金だせまいないつぶれという」とある。
 もちろん私自身も、戦前戦後にかけて日本歴史の教育を受けたものであるが、大学を卒業して研究者の生活をはじめてからも、田沼意次は賄賂好きの腐敗した政治家として教えられ、またそのような記事を読み続け、同時に「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図を見てきた。 そのうちに奇妙なことがあるのに気がついた。「まいないつぶれ」が背中にしょっている、丸に十の紋所である。「丸に十の字」といえば誰知らぬ者もない九州島津氏の紋所であり、田沼の紋所は「七曜」の紋所である。 これはおかしい、ひとつ調べてみる必要があるのではなかろうか。
 こんなことを思いついたのが、たしか昭和30年代の中頃であったが、当時は私は8代将軍吉宗の享保の改革の研究に熱中しており、とうてい田沼時代に重点を移すなど当分できそうにもなかった。 それでもとりあえず先学が、田沼意次は日本史でも例をみないほど賄賂好きの政治家であるとした説の、根拠とした史料を原本にあたって1つずつ検討してみることとした。 ところが意外なことがわかり、それを「田沼意次に関する従来の史料の信憑性について」という論文にまとめて発表した(『日本歴史』昭和43年2月号)。するとそれまで20種あれば20種、 すべての高校教科書に挿絵としてのせられていた、「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図が、潮が干くようにいつの間にか全部消えてしまった。 ( 大石慎三郎『田沼意次の時代』から)
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<田沼意次の「市場経済化」は抵抗勢力によって挫折した>  田沼意次の政策は、自由経済であり、それを保障する自由な社会であった。それはしかし同時に幕藩体制を弱体化する政策でもあった。 幕藩体制という封建制度を維持するために、田沼の市場経済、自由な社会、は潰さなければならなかった。そうした旧勢力ともう1つ、別の力(一橋家)が松平定信を動かし、その動きの中で佐野正言(まさこと)が田沼意知を江戸城内で刺殺することになった。
 江戸時代の3大改革の1つである「寛政の改革」は、このようにして反田沼の筆頭、松平定信によって始められることになった。
 田沼意次の政策に関しては<改革に燃えた幕臣経済官僚の夢>を参照のこと。
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<主な参考文献・引用文献>

『田沼時代』                       辻善之助 岩波文庫     1980. 3.17
『江戸時代の賄賂秘史』                 中瀬勝太郎 築地書館     1989.12. 1
『田沼時代』近代日本国民史                徳富蘇峰 講談社      1983. 7.10
『江戸幕府・破産への道』貨幣改鋳のツケ          三上隆三 日本放送出版協会 1991.12.20
『田沼意次の時代』                   大石慎三郎 岩波文庫     2001. 6.15
( 2008年7月28日 TANAKA1942b )
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