地産地消の国 アルバニア


TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいとです   アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦するとです        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します
2006年3月27日  
地産地消の国アルバニア
(1) 独立指導者エンベル・ホジャ 独立からねずみ講まで  ( 2005年12月5日 )
(2) 鎖国による地産地消 日本の農業政策は地産地消と食料輸出  ( 2005年12月12日 )
(3) 高自給率は良いことか? マスコミはどのように報道したか  ( 2005年12月19日 )
(4) 文明の進歩と外部不経済 マン・マシン・システムを考える  ( 2005年12月26日 )
(5) 地産地消を支えた独裁体制 それを何処まで報道したか  ( 2006年1月2日 )
● (6) シグリミと呼ばれる秘密警察 市民監視とライバル追放  ( 2006年1月9日 )
● (7) 社会主義国の異端児アルバニア 外部からの干渉に対する鎖国  ( 2006年1月16日 )
● (8) 地産地消での経済成長は可能なのか 自力更生は農業中心が有利  ( 2006年1月23日 )
● (9) 自給自足というアンチユートピア 『1984年』を中心に考える  ( 2006年1月30日 )
● (10) 『1984年』に続く管理社会への警鐘 『われら』『1985年』など  ( 2006年2月6日 )
● (11) 閉鎖地域からの優れたレポート 中国革命の現地体験報告  ( 2006年2月20日 )
● (12) 拝金主義も生まれなかった社会 反資本主義のユートピア羨望  ( 2006年3月6日 )
● (13) 地産地消から普通の国家へ 民主制度・市場経済への試行錯誤  ( 2006年3月20日 )
● (14) 自由貿易こそが国民を豊にする アダム・スミスは生きている  ( 2006年3月27日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

(1)独立指導者エンベル・ホジャ
独立からねずみ講まで
  バルカン半島のアドリア海に面した小国=アルバニアは国際紛争の種火としての民族紛争に巻き込まれた長い歴史を持っている。 そのアルバニアが第2次大戦中からエンベル・ホジャの指導のもとにファシスト政権フランコのイタリアと戦い、大戦後独立を果たすと、独特の社会主義体制をとり、政治的・経済的に鎖国政策をとった。スターリン時代のソ連とは友好的に関係を保ったが、 スターリン死後は疎遠になり、チトーのユーゴスラビアと友好的な関係をつくる。しかしそれもほんのしばらくの間で、文革時代の中国と友好的な関係をつくると、中国以外の国とは絶縁状態になる。徹底したスターリン主義で、社会主義政策を徹底させていく。 1985年にホジャ勤労党第1書記が死去したことによって、鎖国政策は終わり世界に向かって窓を開くことになった。このHPではエンベル・ホジャ独裁時代のアルバニアを取り上げる。20世紀の鎖国政策がどのようなものであったのか?その社会主義の実態は? こうしたことを調べる内に、現代の、ある種の主張をする人たちにとっての理想郷、であったかも知れない、と思うようになった。「地産地消の国アルバニア」という表現が適しているように思えてきた。 民主制度と市場経済が進んだ日本では失ってしまった価値がアルバニアにはあったように思える。と言うよりも、反市場経済を主張する人たちの理想とする社会は、鎖国時代のアルバニアであったのかも知れない。 市場経済を批判し、「地産地消」「省エネルギー」「平等」「反公害」「自給自足」などを主張すると、その理想がアルバニアになってしまう。
 そのアルバニアは鎖国政策を捨て、自由貿易社会に参入し、民主制度を採用し、他の東欧社会主義国と同様な改革を始めたのだが、市場経済に馴れていなかった国民の大多数がねずみ講の被害にあったり、コソヴォ紛争に巻き込まれたりと、改革への道筋は平坦ではない。 そのアルバニア、ここでは「地産地消の国アルバニア」という視点で取り上げることにする。
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<バルカンの小国=アルバニア> アルバニアという国に付ける枕詞、それは「バルカンの小国」に決まる。ではどのような国なのか?外務省のHPから引用しよう。
面積 28,748km2(四国の約1.5倍)
人口 約340万人
首都 ティラナ(約50万人)
人種 アルバニア人
言語 アルバニア語
宗教 イスラム7割、正教2割、ローマカトリック1割
国祭日 11月28日(独立及び解放記念日)
略史
1912年 オスマントルコから独立
1939年 イタリアの保護領、後に併合
1944年 共産党臨時政府樹立、全土解放
1961年 ソ連と断交
1976年 中国の経済・軍事援助停止
1985年 ホッジャ勤労党第1書記死去
1990年 野党設立許可、複数政党制度入、外貨導入解禁
1991年 初の自由選挙、臨時憲法制定、米、英と国交回復、ECと外交関係、IMF、世銀、CSCE加盟
1992年 総選挙で初の非共産政権樹立、OICに加盟
1994年 PFP包括協定、PFP個別協定調印
1995年 欧州評議会に加盟
1997年 ねずみ講問題を発端とする騒乱が発生。6月の総選挙の結果、社会党を中心とする連立政権成立
1998年 新憲法制定
2000年 WTO加盟
2003年 EUとの間で安定化、連合協定(SAA)交渉を開始

外交基本方針  長年、半鎖国的な社会主義体制をとってきたアルバニアは東西冷戦の集結、東欧諸国の民主化、国内の経済情勢の悪化等の背景から、その鎖国政策を大幅に変更し、90年以降、国際社会への復帰、先進諸国・国際機関との関係強化及び安全保障の確保を基本的な外交方針としている。  NATO、EU加盟を最優先課題としている。
通貨 レク(Lek)
為替レート 1ドル=140.2レク(02年)
経済概要  92年3月に民主政権が成立し、同年7月にG24アルバニア支援国会合が開催されて以来、欧米諸国や国際機関から多くの支援を受け、経済は93年以降、徐々にではあるが改善の方向に向かってきていた。しかし、97年にねずみ講問題を発端とする騒乱が発生し、経済活動に少なからぬ影響を与えた。 その後、国際社会から支援を受けて経済活動は徐々に回復しつつあり、GDP成長率は98年以降7〜8%の高成長を続けている。治安情勢を十分安定させ、経済や社会のインフラを整備して外国からの投資を増大させていくことが大きな課題となっている。 14世紀のオスマン・トルコによる征服後、約5世紀にわたりトルコの支配下にあり、イスラム化が進んだ。 社会主義時代はホッジャ勤労党第一書記の下で独裁的な政治が行われた。 90年より東欧改革の影響を受け、民主化を開始。05年7月、任期満了に伴う議会選挙が実施された結果、野党民主党が躍進、民主党ベリシャ党首(元大統領)が新首相に就任し、8年ぶりに社会党からの政権交代が行われた。
主要産業 農業、機械工業、鉱業、製造業
GNP 61億ドル(世銀2003年)
一人当たりGDP 1,560ドル(2002年)
経済成長率 6.0%(2003年)
物価上昇率 2.4%(2003年)(2001年)
失業率 15.8%(2002年)
総貿易額 20.7億ドル(2003年) (1)輸出  3.9億ドル (2)輸入 16.8億ドル
主要貿易品目(98年) (1)輸出 繊維、建築資材、食料品 (2)輸入 機械、食料品、繊維
主要貿易相手国(98年) (1)輸出 イタリア、ギリシャ、ドイツ (2)輸入 イタリア、ギリシャ、トルコ
為替レート 1ドル=140.2レク(02年)
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<現代アルバニアの建国> 福者マザー・テレサがアルバニア出身であることはあまり知られていない。 そのバルカンの小国アルバニア、第2次大戦後エンベル・ホジャ指導のもとに独特の社会主義政策=鎖国政策をとってきた。1944年ムッソリーニのイタリアから独立を勝ち取ると、スターリンを崇拝していたホジャはアメリカをはじめ「西側帝国主義」とは外交を断絶、スターリンが指導する東側諸国と友好関係を結ぶ。 1953年にスターリンが死ぬと、その後継者でスターリン批判をしたフルシチョフとは対立し、ソ連と国交を断絶し、コメコンから脱退。1960年代には文革時代の中国と友好関係を結ぶ。1971年10月26日、国連で「中国の国連加盟と台湾の追放」を内容とした「アルバニア案」が大差で可決される。しかし1972年ニクソンの訪中を境として米中が接近すると、1978年には中国とも交流を断絶する。 ここにおいてアルバニアの鎖国は完成する。国内に何千ものトーチかを築き外敵に備える。社会主義経済を徹底し企業は国営、300万人程度の小国で自給自足経済を貫く。個人が自家用車を持つことは認められず、自動車による交通事故・排気ガス公害は皆無、物流システムができていないため「身土不二」「地産地消」は当然、株式市場はおろか民間銀行さえなかったのでマネーゲームに走る者はいない。 地域通貨信奉者が理想とする金利ゼロの社会。『スモールイズビューティフル』の世界であり、『縄暖簾社会の経済学』の世界であり、カール・ポラニーの『大転換』にしばしば登場するロバート・オーエンの世界、日本では農協関係者や生協関係者が理想とする「ロッジデール」の空想社会主義を目指す社会であった。 コミュニストは言う「宗教は麻薬である」、それを憲法に明文化した「国家は一切の宗教を認めず、人民の間における科学的現実主義世界観を鼓吹するために無神論運動を支持する」(アルバニア人民共和国憲法第37条)。
 アウタルキー(autarky)を貫き通そうとしたアルバニア、その生産設備たるや、1978年以前に中国からもたらされた貧弱なものばかり。先に豊かになれる者が出てこれない、人々皆平等に貧しくなっていく社会。貧富の差が少ない、という点においては「正義論」を貫き通した国家であった。 そしてこれはとてつもない実験でもあった。経済をこんなにめちゃくちゃに運営するとどうなるか?とてもまともな国家指導者にはできない実験だった(と、書きながら大躍進、文革時代の中国やポルポト時代のカンボジアも同じだったことに気づいた)。 この実験でアルバニアはヨーロッパの真ん中にありながら、中央アフリカ共和国の所得水準に、その経済状況が表れている。「自由貿易こそ国民を豊かにする」。アダム・スミスやリカードは正しかった。それでもWTOや貿易自由化を非難するNGOもあるらしい。自由貿易協定(FTA)も日本では強力なレントシーキングのお陰でなかなか進まない。
 そのようなアルバニア、1985年4月11日エンベル・ホジャが死亡し、ラミズ・アリアが大統領に選出されると少しずつ変化の兆しが見え始める。 徐々に鎖国政策を改め、開放経済へと政策転換する。鎖国時代には民間銀行もなく、国民は貯蓄や投資などの仕組みを知らないで過ごしてきた。開放経済、つまりごく普通の資本主義経済が始まって、1992年には民間銀行も設立された。そして政府の規制を受けない投資会社も設立された。 それまで国民は「現金はタンスにしまうもの」と考えていた。そのタンスの中にあった現金の多くは投資会社へ向かった。銀行の金利が年利19%程度のとき、投資会社の方は月利8%、高い時には3カ月で100%といった、とほうもない高金利だった。
 資本主義以前の社会、世界経済から切り離された社会、地産地消の国だったアルバニア、そこでねずみ講投資会社が倒産し、暴動がおき、政権が倒れ、無政府状態になり、6000人規模の多国籍軍により治安が維持される、という事態が発生した。
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<ねずみ講の破綻とその後の経済> ここで扱うのはエンベル・ホジャ在任中の鎖国時代ではあるが、その鎖国が原因で大きな社会問題をおこしたねずみ講のことも扱っておくことにしよう。 それは社会主義体制で、市場経済のなんたるかを知らず、いきなり市場経済に移行したために起こった悲劇であった。親の保護のもとに生活していた子どもが、いきなり一人で大人の社会に放り出されたようなものだった。成長通を怖がっていつまでも子どものままでいたのが、いきなり大人の世界に飛び込んだようなものだった。鎖国の後遺症として、ねずみ講を考えてみようと思う。
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 1997年1月半ば、ねずみ講式による投資期間の空中分解が明るみに出た。アルバニアにおけるねずみ講 (pyramid schemes) とは、投資会社を通じたインフォーマルな貯蓄と解釈できる。周知の通り、ねずみ講式では、新しい参加者が途絶えると、その拡大は不可能となる。 人口340万人程度の同国の場合、約50万人がこのねずみ講を手がけていたという。首都・ティラナ (Tiranë) では早い時期に新規の参加者を募るにはもう限界に達していた。
 預金総額は10億ドルに及んだ。10億ドルという額はアルバニアのGDPの約40%の相当する。月給100ドルほどの一般人にはての届く額であるはずがない。外国に居住するアルバニア人出稼ぎ労働者は50万人にのぼる。 恐らく彼らによる海外送金がねずみ講に流れ込んだのであろう。加えて、不動産や家畜を売却して購入した者もいた。オランダのかつてのチューリップ投資と同様である。市民は生産活動に従事せずとも、利息、すなわち現金収入を得ることができた。 市民は挙ってねずみ講に手を出した。アルバニア社会は、狂乱状態に陥った。そしれ、問題を複雑にした要因で、これは飽くまでも推測の域は出ないけれども、イタリアのマフィアがアルバニアのそれと結託して、麻薬取引などで得た金を流入させていたのではないだろうか。 非合法な金をマネーロンダリングするためにこのねずみ講が利用されていたのではなかろうか。アルバニア南部における反政府暴動が長引いた理由もここにあると推察される。ねずみ講の破綻が、イタリア・マフィアの資金を圧迫したからだ。
 しかしながら、財・サービスの供給を伴わないねずみ講の生命は短い。新規参入者が枯渇した段階で、5つの投資会社が倒産した。ラプーシュ・ジャフェーリ (Rrapush Xhaferri) やスーダ社 (Sudë) などである。ねずみ講はやはり見果てぬ夢に過ぎなかった。 アルバニア当局は、漸く規制・摘発に乗り出した。投資会社の幹部が逮捕され、法人の資産(約3億ドル)は当局が凍結した。ここにおいて、ねずみ講は名実ともに破局を迎えた。市民の貯蓄を返済することは最早不能となった。
 その反動は当局の予想を遙かに越えていた。与党・民主党が分裂の危機に瀕した。貯蓄の返済を迫って、一部のアルバニア市民は暴力に訴えた。その暴動はルシュニャ (Lushnjë) で火ぶたが切られた。それは瞬く間に全国へと広がっていった。 野党の社会党(旧労働党)が市民を扇動した。この介入が混乱を泥沼化させた。アルバニア社会は、民主化後最大の危機に瀕し、大混乱の様相を呈した。最大手の投資機関が本拠地を置いていた港町・ヴェローラ (Vlorë) では死者が出た。 また、内閣総辞職を求めて、学生たちがハンガーストライキに打って出た。ヴェローラ市民はアルバニアでも最も感情的だと言われる。パトス (Patos) では、国営石油会社・アルブペトロール (Albpetrol) の本社が放火された。政府は軍隊も出動して、これに対処した。だが、混乱は鎮静しなかった。
 確かに、投資会社は民間企業である。ところが、そのコマーシャル(CM)が国営テレビで放映されていたために、政府公認の会社だと一般市民は誤解した。社会秩序の回復を第一義的に考える当局は、市民に貯蓄を返却する旨の生命を発表した。 実際、1997年2月5日から返済が開始された。けれども、2億6,000万ドルとも推定される財政赤字の現状に鑑みると、全額を返済するのは到底無理であろう。IMF(国債通貨基金)が政府に融資する容易があると言明したが、実際に全額が返済されてしまうと、折角鎮静化していたインフレ(1996年の消費者物価上昇率は対前年比で11.5%)が再燃するだろう。
 『日本経済新聞』の為定明雄記者は、1997年1月21日付の同紙で、今回の暴動について、セルビア共和国のデモに勇気づけられた反政府デモだとし、ユーゴスラビアから飛び火したものだと断言した。つまり、アルバニアで勃発した暴動は、セルビア共和国やブルガリアにあけるデモと同じ性質のものだ、と為定氏は分析しているのである。 この見方はあまりにも単純に過ぎると判断せざるを得ない。
 第1に、今回の暴動は、飽く迄もアルバニア国内の問題である。市場経済が未成熟な同国内では、未だ投資のリスクという意味合いが理解されていない。市民の行動は政府に対する逆恨みである。
 第2に、暴動を起こせば、アルバニア政府が貯蓄を返済すると市民が思い込んだ点である。 ここに社会党が介入して、反政府デモを扇動した。極めて政治的な事件である。
 第3に、アルバニア政府がねずみ講というマネーゲームを黙認していた事実である。政府は経済力強化の一環として捉えていた。市民もまた、財・サービスの販売よりもむしろ、コミッションの受取りのみに関心があった。
 第4に、与党・民主党が依然として国全体を掌握していない。特に、地方や高齢者層では民主党支持者が相対的に少ない。ベリシャ大統領一人のカリスマ性に民主党は今でも依存している。故に、ベリシャ氏は専横的だと批判されることが多い。
 アルバニアにおける混乱をバルカン半島全体の潮流の中に位置付ける見方は、日本の読者にはわかり易いかもしれないけれど、この見方ではアルバニア社会の深層を解明することはできない。確かに、旧ユーゴスラビアが崩壊する過程において、アルバニアから武器や麻薬が密輸されていたのは事実だし、このカネがねずみ講を生み出す動機となったのもまた事実である。 しかし、暴動が発生し、長期化したのはアルバニア民族の民族性に原因がある。1996年5月の総選挙の際といい、また、今回の一連の事件といい、アルバニア人の非常に両極端な気質を如実に示すものである。民族性を無視した見解では、ことの真相を見抜くことは不可能である。
 実は、今回のねずみ講事件が表沙汰になる前に、IMFと世界銀行とがアルバニア当局に対してねずみ講の危険性について警告を発していた。せめて利率の引き下げだけでも実施するように勧告していた。1996年10月のことである。 これに対し、投資会社の社長が反論し、ねずみ講の裾野を世界に広げれば破綻しない、などと公言していた。この時、ティラナでは一時パニックになった経緯があった。IMFや世銀のスタッフは、ねずみ講がアルバニア市民にとっての唯一の多額な現金収入であることに理解を示しながらも、その危険性について投資会社に説得を試みたのである。しかし、投資機関側はこの警鐘を聞き流した。それから数ヶ月後、ねずみ講は現実に崩壊した。
 アルバニア市民のなすべきことは、安易でリスクの高いマネーゲームではなく、地道な物作り、生産活動なのだ。バブルが弾けた現在、マネーゲームは脱却し、生産活動に傾倒しなければならない。一方、当局は、フォーマルな金融市場を育成することに総力を結集すべきである。
 アルバニアでも漸く民間銀行が設立されるようになってきた。併せて、国営銀行の民営化についても議論が深まりつつある。
 民間銀行について言えば、ティラナ銀行 (Tirana Bank) がユニバーサル銀行として登場した。ヴェヴェ (VeVe) ビジネスセンターの前にオフィスを構え、資本金200万ドルで出発した。資本についてはギリシャから出資されている。主要株主は、ギリシャの投資会社・ユニコ (Unico) やギリシャの銀行・ピレアウス・ファイナンス・バンク (Pireaus Finance Bank) などが名前を連ねている。 頭取にはバイロン・ピツィリディス (Byron Pitskidis) 氏が就任した。同行は、クレジットカード業務も取り扱うユニバーサル銀行で、在ギリシャのアルバニア人出稼ぎ労働者からの送金をターゲット・マーケット(標的市場)としている。資本金を倍増する計画があり、その際には、ジロカスタル (Gkirokastër) 、ドゥラス (Durrës) 、ヴェローラ、コルツァ (Korcë) に支店を開設する予定だという。
 もう一つ、ギリシャの銀行の支店がティラナに開設された。それはアルファ・クレジット銀行 (Alra Credit Bank) と呼ばれる。資本金200万ドルで、ユニバーサル銀行としての業務を行っている。併せて、マレーシア資本による銀行も創設されることになっている。
 アルバニアの経済課題は、まずは金融市場と生産活動とを有機的に結合させることなのである。そうでないと、生産者は投資活動を円滑に遂行することができない。勢い、インフォーマルな金融市場へと生産者は走ってしまう。カネとモノの流れる道筋を整備しておくことが、アルバニア当局に課せられる責務である。 (『新生アルバニアの混乱と再生[第2版] 』から)
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<アルバニアが経験した「経済の成長痛」>  鎖国時代のアルバニアは地産地消の国であった。そのアルバニアが鎖国をやめて開国したとき経験したのが「ねずみ講」による混乱であった。マネーゲームに慣れていなくて、投資・投機といった資金運用に関して無知識であったアルバニア人、政府役人まですっかり暗示にかかってしまった。 以前にTANAKAは
グローバリゼーションによって社会は進化する▲で アルバニアのねずみ講事件は、アルバニアが世界経済の仲間入りするという大人の経済になる過程での、「成長通」だと書いた。ここでもう一度その文章を転記することにしよう。
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資本主義社会の経験不足 どこかの県の教育委員会が「高校生のアルバイト大いに結構」との方針を打ち出した、との報道があった。教育委員会も分かってきた。 セブンやファミマなどのコンビニやケンタやマクドなどのファースト・フードでバイトをすると、働くこと、「お客様は神様です」の意味が分かってくる。商売は利益を出さなければならない。趣味や社会的意義があって商売しているのではない。 大人でさえ、消費者主導の経済に不満で、消費者教育が必要だ、と主張する人もいる。神様に説教しようという大胆な主張だ。高校生のうちからバイトで資本主義の内側を知っておくといい。アルバニアの例は、幼児の頃から大人の社会を知らずに保護されていて、バイト経験もなく、年をとってからいきなり大人の資本主義社会に放り出されたようなことだった。 預金・金利・投資などの意味も分からずに、いきなり資本主義経済になってしまい、かわいそうだった。もっとも日本のような資本主義経済で生活していても、「地域通貨にインフレはない」「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」 という、資本主義社会以前の、幼児社会の経済感覚を持ったかわいそうな大人もいるようだ。マン・チャイルドと言うか、アダルト・チルドレンと表現すべきか?
成長痛を怖れ、大人になるのをいやがり、駄々をこねる 現代のラダイト運動(Luddite movement)はその主役が、社会の進化によって被害を受ける弱者ではなく、余裕のある傍観者である、という点で1810年代の運動とは違っている。現代のネッド・ラッド(Ned Ludd)(ネッド将軍ともいう)も架空の人物で、だから誰もが社会批判はするが、自分は非難されないように、言質を取られないように気を使っている。
 駄々をこねる評論家・エコノミストがいても経済のグローバル化は進む。@日本の文化=コメが広くアジアで受け入れられ、「ビッグ3の下請けになる」と怖れられた資本の自由化を乗り越え、日本経済は成長した。 Aドルが金の束縛から開放され、世界の成長通貨が供給されるようになった。Bアジア諸国は変動相場制に移行しさらに大きく成長する道が開けた。C国債償還の停止(モラトリアム)を経験しながら、大国ロシアは総身に知恵が回りかね。D社会主義から市場経済にソフト・ランディングした国もあれば、ミロシェビッツのような指導者を選んでしまった国もあった。 E天安門事件後、南巡講話で息を吹き返した白黒猫、人民元切り上げの圧力が感じられるこの頃、それでも日本のすぐそばに巨大な消費市場が生まれそうだ。期待しよう。Fアダム・スミスのような理論家は出なかったが、三貨制度のもと、一分銀は管理通貨制度、金と銀は変動相場制を操っていた江戸幕府の進んだ通貨制度。G空想社会主義のような「地産地消」を実験したアルバニア。
 「グローバル化」という言葉を使い、外国にも開かれた経済体制に移行するのを怖れ、「狭い社会に閉じ隠りたい」と駄々をこねる評論家・エコノミストが危機感を煽るが、経済は確実に進化する。今回取り上げたケース、いろんな形のショックがあったが、前に進もうとしているのは間違いない。
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<主な参考文献・引用文献>
『新生アルバニアの混乱と再生』[第2版]               中津孝司 創成社       2004. 2. 1
( 2005年12月5日 TANAKA1942b )
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(2)鎖国による地産地消
日本の農業政策は地産地消と食料輸出
  農水省が「地産地消推進検討会」を立ち上げたとのことを知り、地産地消について考えているうちに、「アルバニアこそ地産地消の国だった」と思いついた。 そこで、今回の「地産地消の国アルバニア」を始めるのだが、地産地消については以前に、「コメ自由化への試案」▲のところで<「身土不二」や「地産地消」について なるべく多くの人に味わってもらいたい>と題して書いた。地産地消とは何か?ということでその一部を引用しよう。
 身土不二(しんどふじ)という言葉がある。どういう意味かというと、山下惣一著「農の時代がやってきた」(家の光協会 1999年4月)から引用しよう。 「周知のように(でもないか?)、「身土不二」は、「身土」、人間の身体と土は「不二」、二つじゃない。つまり一体だという意味。中国の古い医書に出てくる言葉だそうで、わが国では明治30年代(1897-1906)に福井県出身の軍医・石塚左玄らが起こした「食養道運動」のスローガンとして使われ、彼らは「自分の住む土地の四里(約16キロメートル)四方でとれた旬のものを正しく」食べることを理想として提唱した。
 まだ流通が未発達の明治時代になぜそのような運動が起こったのか?たぶん多くの人たちはやむおえず「身土不二」の食生活をしていたはずだ。そう疑問を抱いたのでその筋の専門家に調べてもらたら、文明開化の影響で当時の上流階級の食生活が急速に洋風化し、それに伴って従来にはなかった病気がふえたという背景があった、ということまではわかったが、それ以上のことはわからなかった。
 「身土不二」という題名の本も読んでみたが、解説書ではなく、その原理に照らして近代栄養学を批判した内容だった。これはこれで面白かったが、当然、逆の主張もあるわけで、「このボーダレス時代に馬鹿なことを言うな。地球を一つと考えれば「身土不二」じゃないか」というわけだ。
 では「地産地消」とは?「なるべく地元で取れた農産物を食べましょう」ということになろう。 この二つの言葉、ある人たちから大変支持されているようだ。「コメ自由化反対」「遺伝子組み替え食品反対」「無農薬・低農薬食品を普及させよう」「農業は自然環境保全に役立つ」「株式会社の農地取得反対」こうした主張をする人たちが「身土不二」「地産地消」を言うようだ。
 「コメ自由化への試案」のシリーズでこのように書いていた。こうしたことから「地産地消」についての匂い、センスを感じて頂きましょう、ということで今回はアルバニアの鎖国との関係でこの「地産地消」を扱うことにした。
<地産地消とは、つまり鎖国のこと>
アルバニアは鎖国をしていた。ということは食料は自国でとれたものだけを食べていた。外国からの輸入品はなかった。 農水省の地産地消推進検討会によると、地産地消は、もともと、地域で生産されたものをその地域で消費することを意味する言葉である。 ということになる。
 その農水省が「地産地消推進検討会」を立ち上げて、地産地消を推進することになった。そこで、農水省のホームページから「地産地消推進検討会」に関する事項を引用してみよう。
地産地消推進行動計画について
1 行動計画の考え方
 地産地消の全国展開を図るためには、国、地方公共団体、農業者・農業団体、食品業者、消費者団体等が、相互に協力しながら適切な役割分担の下に主体的に取り組むことが必要である。 このためには、省内関係各課が取り組むべき施策をとりまとめた地産地消推進行動計画(以下「行動計画」という)を策定し、それに基づき、適格な工程管理を行うことが必要である。
 本行動計画は、地産地消省内連絡会として、平成17年度における地産地消推進に向けた主要な活動内容とその行程を定めたものであり、省内関係各課の地産地消推進に向けた活動の共通認識となるものである。
平成17年8月に発表された「地産地消推進検討会」から
1 消費者の農産物に対する安全安心志向の高まりや生産者の販売の多様化の取組が進中で、消費者と生産者を結び付ける「地産地消」への期待が高まっている。
 本年3月に閣議決定された「食料・農業・農村基本計画」(以下「新たな基本計画」)においても、地産地消は食料自給率の向上に向け重点的に取り組むべき事項としてその全国展開等を積極的に推進することとされている。
 このため、地産地消に取り組む農業者などの有識者による「地産地消推進検討会」を開催し、地産地消の現状と課題について議論するとともbに、今後の推進方向について検討を行った。以下は、その検討内容が速やかに」今後の施策に反映されるよう、中間的にとりまとめたものである。
(1)地産地消の位置付け
 地産地消は、もともと、地域で生産されたものをその地域で消費することを意味する言葉である。新たな基本計画では、単に地域で生産するという側面も加え、「地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物・食品を購入する機会を提供するとともに、地域の農業と関連産業の活性化を図る」と位置付けている。
 産地からの距離は、輸送コストや鮮度の面、また、地場農産物としてアピールする商品力や、子どもが農業や農産物に親近感を感じる教育力、さらには地域内の物質循環といった観点から見て、近ければ近いほど有利である。さらには地域内の物理的距離の短さにもなり、対面コミュニケーション効果もあって、消費者の「地場農産物」への愛着心や安心感が深まる。 それが地場農産物の消費を拡大し、ひいては地元の農業を応援することになる。高齢者を含めて地元農業者の営農意欲を高めさせ、農地の荒廃や捨て作りを防ぐ。 結局、地場農業を活性化させ、日本型食生活や食文化が守られ、食料自給率を高めることになる。しかし、距離に関係なく、コミュニケーションを伴う農産物の行き来を地産地消ととらえることも可能である。
 また、地産地消は、地域で自発的に盛り上がりをみせてきた活動で、教育や文化の面も含んだ多様な側面をゆうしており、固定的、画一的なものではなく、柔軟性・多様性をもった地域の相違工夫をいかしたものとなることが必要である。
 地産地消の主な取組としては、直販店や量販店での地場農産物の販売、学校給食、福祉施設、観光施設、外食・中食、加工関係での地場農産物の利用などが挙げられる
(2)地産地消の展開の経緯
 地産地消は、近くでとれたものを食べる事を基本とした考え方である。かつては農村地域では在来品種や伝統野菜の生産を行うなど伝統的に地域でとれたものを地域で嘱することが当然であり、戦後も高度成長期以前は身近なものを嘱することが一般的であった。
 ところがその後、高度成長期になって広域大量流通システムが成立した。これは、
@ 全国の交通網の発達、通信手段の整備とともに、保冷・予冷技術により、農産物の品質保持が可能となったこと
A 大量流通を可能とするための農産物の規格が整備されたこと
B 季節によって産地を変えることにより、周年的に同じ作目を供給するといったシステムが整備されてきたこと
 によるものである。
 この広域大量流通により、例えば首都圏に供給するだいこんの産地についてみると、関東一円から外延的に拡大していき、現在は、東北や北海道からの入荷が季節によっては、9割を占めるといった状況となっている。
また、高度成長期に日本の食生活が洋風化し、高度化する中にあって、広域大量流通は、
@ 多様な食材を周年的にいつでも安定的に入手できること
A 品質の一定した物を安価に入手できること
といったメリットをもたらし、食生活の向上に寄与していた。
 しかしながら、広域大量流通は消費地や消費者といった消費する場と、食品を生産する場との間の距離を拡大することになり、次ぎのような結果をもたらすことになった。
@ どこで、どのようにして生産されたものか分からない。
A 旬とか地域の食文化が失われてしまい、全国的に画一的な食文化になった
B 生産の現場では生産性の向上の追求が中心になっていた
 こうした中で1970年代には有機農産物の流通を推進する取組がしょうじた、1990年代以降原産地を明らかにするニーズの高まりの中で、順次原産地表示制度が整備されてきた。 また、2001年(平成13年)に我が国初のBSEが発生したことを契機に安全安心に対する要求が高まり、トレーサビリティシステムの整備が進められてきている。
 さらに、消費者からは食と農との距離を縮めたい、生産者と顔の見える関係をつくりたいという要求が高まってきている。
これは
@ 誰が生産したものなのかを知りたい
A どこで、どのような方法で生産されたのかを知りたい
B 生産者との興隆を深めたい
とうったことを求めているものと考えられる。
 こうした動きは世界的な潮流にもなっており、イタリアのスローフードをはじめ、アメリカのCSA (Community Supported Agriculture) や、韓国の身土不二などの運動が見られる。
 我が国においても、地産地消は、新鮮で安心な農産物を得られる等のメリットにより、各地でその取組が草の根的に盛り上がっている。
 しかしながら、1億2千万人を超える国民に食料を安定供給する必要があるとの観点に立てば、その、すべてを地場産の農産物により供給することは困難である。したがって、地産地消の活動は地場の消費者・実需者ニーズに応えるものとして、地場の生産技術条件や市場条件に見合った可能な方法で経験を積み重ねながら段階的に広げていくことが重要と考えられる。
 その場合、地産地消の概念は、必ずしも狭い地域に限定する必要はない。できるだけ近くのものを優先するのが原則であるが、周年販売や品目・品質上の品揃えを考えると、産地の地域的な範囲は柔軟な拡がりをもって考えた方がよい。最終的には我が国の全域すなわち国産農産物の全体までも射程に置くことの出来る概念だと考えられる。
 したがって、国産品を優先的に消費することを通じて、食料自給率の向上にもつながっていく考えである。このような視点に立って、行政においては、強いニーズがある地産地消を広げていくため、特に、取組が円滑に進められるようにするため、支援を行うべきである。
(3)地産地消のメリット・デメリット
 地産地消により、消費者、生産者双方に以下のようなメリットが生じると考えられる。
 まず、消費者については、
 @ 身近な場所から新鮮な農産物を得ることができる。
 A 消費者自らが生産状況等を確認でき、安心感が得られる。
 B 食と農について近親感を得るとともに、生産と消費の関わりや伝統的な食文化について、理解を深める絶好の機会となる。
 C 流通経費等の節減により安価に購入できる
  また、生産者については、
 @ 消費者との顔が見える関係により地域の消費者ニーズを的確にとらえた効率的な生産を行うことができる
 A 流通経費の節減により生産者の手取りの増加が図られ、収益性の向上が期待できる
 B 生産者が直接販売することにより、少量な産品、加工・調理品も、さらに場合によっては不揃い品や規格外品も販売可能となる。
 C 対面販売により消費者の反応や尿かが直接届き、生産者が品質改善や顧客サービスに前向きになる
 D 高齢者が生きがい、女性がやりがいを実感できるし、地域の連帯感が強まる
 E 耕作放棄地や捨て作りを防止でき、地域特産物や伝統的調理法を警鐘する等、農地や技術を保全、継承する
 一方、地産地消については、その性質上、以下のような問題点や限界もあると考えられる。
 @ 地産地消は必ずしも大量流通に適したシステムとなっていないので、コストアップ要因になりうる。特に、出荷・販売活動は、そのほとんどが労働力の追加と考えておかなければならない。それは生きがいとなる側面と負担となる側面がある。また、青果物の大型共選場を持っている地域では、その有効な活用方法の再検討も課題になる。
 A 「地産地消ならどんな地場産品でも売れる」といった安易な考え方に陥る危険がある。地場のどのような消費層に、いつ、どのような品質の農産物をいくらで販売するか、販売促進の方法は、売れ残り品はどのように処分(販売)するか、どのような大勢と方法で品質管理を行うか、誰がどのような方法で搬入・搬出をおこなうか、包装、接客、クレーム処理の方法等、「地産地消ビジネス」が持続するための販売、財務、接客等に十分な経営管理能力が求められる。 なお、組織的な地産地消が一般的であるが、その場合、どこまでが個人の裁量と責任かを明確にしておく必要がある。
 B そもそも、厳密に地場の農産物のみによってすべての品揃えを賄おうとするのは困難であるから、地産地消が農産物流通の大宗を担うといったことにはならないであろう。
 これらの問題点や限界に留意しながら、いかに地産地消の輪を広げていくかが重要である。
 この場合、地産地消を地場農産物や地元の範囲のみを対象とする狭い意味で捉えるのではなく、国産品を優先的に使用するといった広い意味で捉えることによって、「広域大量流通」対「直売所」といった対立的な概念としてではなぃ、消費者のニーズに適合するような新しいシステムを工夫していくといった発展的な概念として位置付けていくことが可能となるものと考えられる。
<農水省は農林水産物等輸出促進も政策のうち>
地産地消を促進する農水省にはもう1つの顔がある。それは日本の農水産物を世界に輸出しようとの姿勢だ。農水省の中の大臣官房国際部貿易関税課に輸出促進室があり、メールマガジンも発行している。 「地産地消」をスローガンに、地域で生産されたものをその地域で消費することを推進している農水省が、高品質で安全・安心な日本産品を世界に輸出しようと呼びかけている。 対策の1つに、「輸出阻害要因の是正」として「FTA交渉などで高関税率等の障害の撤廃をリクエスト」という項目がある。日本がコメの輸入に対して高い関税をかけていることなどはこの対象となるのかな?
 農水省は、日本国内では「地域で生産されたものをその地域で消費しましょう」と呼びかけて、海外では「地域で生産されたものだけでなく、いいものなら外国から買ってでも消費しましょう。日本では皆さんに喜んでもらえる農産物を沢山生産しています」と呼びかけている。 「地産地消がいいのか、悪いのか?」などの愚問は発しないこと。農水省が言いたいのは「地域で生産されたものでも、そうでないものでも、日本の農産物は良い物なのだから、日本の人も外国の人も日本の農産物を消費しましょう」と言っているのだから。 つまり日本の農水省は、生産農家を守ることを省務としているのであって、これに関しては、その通り生産農家を守る標語を掲げている。
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<憲法で借款の禁止> アルバニアは社会主義の建設を、主として自力で行うことを宣言し、憲法で「外国の経済・金融の会社その他の施設および資本主義者と修正主義者の資本主義の独占企業・国家と合同で作られたこれらのものに対して免許等特権を与えまたはこれ等のものを創設すること、ならびにこれらのものから信用の供与を受けること、はアルバニア人民社会主義共和国においてはこれを禁止する」(第28条)と規定されている。 国家計画委員会の統計局は、輸出入量、外貨準備高等のデータを1964年以降発表していない。私たちの質問に対しても明らかにしなかったが、「輸出入のバランスはほぼとれており、累積赤字はない」というのがその答えだった。この借款の禁止が、アルバニアを世界でも珍しい自給自足の国にしている。
 貿易は完全に国家の独占事業で、外国貿易省の管理の下で、産品ごとに金属鉱石輸出公団、金属鉱石輸入公団、工業製品輸出公団、工業製品輸入公団、農産物輸出公団、農産物輸入公団によって行なわれている。ユーゴスラビア、ギリシャ、イタリア等の近隣諸国、ポーランド、チェコスロバキア等の東欧諸国、それに西ドイツ、フランス等が貿易の主要相手国で、総額は4億ドル程度と推定される。
 この借款禁止は、他の東ヨーロッパ諸国と際立った対照をなしている。1960年代の半ばから70年代にかけて、冷戦の緩和とともに、他の東ヨーロッパ諸国は経済の発展を西側からの技術と資本の導入で行おうとした。しかし、運悪く73年のオイルショックに端を発した西側の不景気で、もくろんでいた西側への輸出がまったく伸びず、多額の負債だけが残ってしまったのだった。 (『現代の鎖国アルバニア』から)
アルバニア人民社会主義共和国憲法 抄

 第1条 アルバニアは人民社会主義共和国である
 第2条 アルバニア人民社会主義共和国は、すべての労働者の利益を表明し防衛するプロレタリアートの独裁の国である。アルバニア人民社会主義共和国は、アルバニア労働党を中心とする人民の結束に基盤を置き、労働者階級と労働者階級の指導の下にある協同小作農との結びつきをその基礎とする。
 第3条 アルバニア労働党は労働者階級の先導者であって国家と社会の唯一の指導的政治力である。アルバニアは人民社会主義共和国においては支配的イデオロギーはマルクス・レーニン主義である。社会主義体制のすべてはその主義はその主義に基づいてこれを開発する。
 第27条 外国貿易は国家の独占事業である。国内通商は主として国家が行い、国家はこの分野のあらゆる活動をその管理下に置く。企業の製品の販売価格および農業と畜産の製品の国家買上げ価格は国家が定める。
 第28条 外国の経済・金融の会社その他の施設および資本主義と修正主義の資本主義の独占企業・国家と合同で作られたこれらのものに対して免許等特権を与えまたこれ等のものを創設すること、ならびにこれらのものから信用の供与を受けることは、アルバニア人民社会主義共和国においてはこれを禁止する。
 第37条 国家は一切の宗教を認めず、人民の間における科学的現実主義世界観を鼓吹するために無神論運動を支持する。
 第39条 市民の権利と義務は、個人と社会主義社会の利益の調和とし、全体の利益を優先して考慮することにより、これを定める。市民の権利はその利口から分離することができないものであって、また社会主義体制に反対してこれを行使することはできない。市民の権利をさらに拡大・深化することは国に社会主義発展と密接に関連する。
 第55条 ファシスト、反民主的、宗教的、反社会主義的な性格の一切の組織の創立はこれを禁止する。 ファシスト、反民主的、宗教的、戦争商人的、反社会主義的な活動と宣伝運動および国民および人種の憎悪の扇動はこれを禁止する。
 第62条 社会主義祖国の防衛はすべての市民の最高の義務であり最大の名誉である。祖国に対する裏切り行為は最も重大な犯罪である。
 第63条 軍務と社会主義祖国の防衛のための不断の訓練はすべての市民の義務である。
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<主な参考文献・引用文献>
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』              NHK取材班 日本放送出版協会  1987. 5.20
( 2005年12月12日 TANAKA1942b )
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(3)高自給率は良いことか?
マスコミはどのように報道したか
<日本の食料自給率> 鎖国時代のアルバニアは食料自給率100%だった。では現在の日本の自給率はどの程度なのだろうか?農水省のHPから引用しよう。
平成13年度 
 米=95%(主食用は100%) 小麦=11% 豆類=5% 野菜=82% 果実=44% 鶏卵=96% 牛乳・乳製品=68% 肉類=53% 砂糖類=32% 魚介類=49%
 食料自給率とは、食べ物がどれくらい国産品でまかなわれているかを示す値のことであり、この自給率には、品目ごとの自給の度合いを示す「品目別自給率」、牛とか豚などの飼料用も含めた穀物の自給の度合いを示す「穀物自給率」、カロリー(熱量)をもとに自給の度合いを示す「供給熱量自給率」とがある。 上に書いたものは「品目別自給率」で、通常、「食料自給率40%」と言われるのは、「供給熱量自給率」だ。
 上記の他に食料・資源などの自給率を調べてみた。統計年度などに差があるので、正確な比較は難しいが、おおよそのことは理解できるだろう。
 まぐろ=46% えび=6% しいたけ=56% 穀物(食用+飼料用)=28% トウモロコシ= 0%、グレーンソルガム= 0%。石油= 0%、ウラン= 0%、天然ガス= 3% エネルギー自給率は原子力を含んで約20%、原子力を含まないで4%。
 日本でもしも食料自給率100%を目指すとしたらどうなるか?農水省のHP食料自給率の低下と食料安全保障の重要性▲と題されたところに、「国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要」 「このような私たちの食生活は、国内農地面積(476万ha(平成14年度))とその約2.5倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。このため、農産物の輸入が行われなくなってしまうような場合には、大幅な食料の不足がひき起こされることとなります」 という文章があった。こうした自給率の数字、農水省の文章を見ると、@小麦、大豆、トウモロコシ、について自給自足は絶望的になる。 Aに関しては、どのように理解していいのか迷う。農水省の方針「自給率アップ」ならば、自給率 100%にするためには、(A)国内農地面積を3.5倍にする。(B)生産性を3.5倍に、つまり単位あたりの収穫を3.5倍にすることなのだ。(C)では消費量を3.5分の1にすればいいのか?毎日3回食事をする人が1日1食にすればいい、とでも言いたいのだろうか?
 ということになってしまう。
 食料安保の観点から言えば、「食料安保のためにはリスクを分散させること。つまり供給地を多くすること。コメならば日本、アメリカ、中国、タイ、オーストラリアを供給地とすればリスクが分散できる」となる。生産力強化の観点からいえば「自由な競争を促進する。過保護政策はアルバニアのねずみ講事件のように弱い体質を作ることになる」というのがTANAKAの考えだ。
 野口悠紀雄が「自給率の低さは豊かさと安全の証」▲と書いているが、これはかなり大胆な表現で、アマチュアならともかくエコノミストは心で思っていても、なかなか口に出し難いだろう。言う人間が農業者でないと「土の匂いのしない者の意見は聞かない」という農業関係者の体質からまともにその意見を検討しようとはしない。 もっとも、それが農業界独特の倫理観かと思ったが、経済学者業界もそうらしい。日銀の人間がいくら言っても「ベースマネーの増減により、マネーサプライが増減する」という経済学の神話を疑おうとしない。 経済学者業界では「経済学者業界の匂いのしない日銀関係者の意見は聞かない」との風潮があるようだ。
 「食料自給率向上」とのかけ声を聞くと、新井白石・徳川吉宗・松平定信・水野忠邦の政策を思い浮かべる。
 理性的に考えれば「自給率の低さは豊かさと安全の証」となるのだが、この問題は信念・信仰の問題であり、経済の問題としてもセンスの違いになってしまう。
<リスク分散と自由競争> コメ輸入の自由化に伴う不安は「@もしもの時に外国に頼っていると不安だ。外国が売ってくれないかもしれない。A高齢化で農業がさらに衰退する」だろう。これに対してTANAKAの対策は次のようなものだ。コメは関税化し、初年度500%、次年度400%、次の年度300%、その次ぎの年度200%、さらにその次の年度100%とする。 さて、それからが工夫のしどころだ。100%の次ぎの年度はその前の年の輸入量によって国によって変わる。例えば前年のコメ輸入量が、全輸入量の50%の国に対しては50%の関税を、20%の国には20%の関税をかける。つまり日本に対してコメを多く輸出する国に対しては高い関税をかける、今まであまり日本に輸出してない国に対しては低い関税をかける。 こうすることによって、日本からみると供給地が多くなり、特定の国に依存する危険性が少なくなり、リスクが分散されることになる。
 「高齢化で農業がさらに衰退する」との不安に対しては、規制を緩和して産業としての農業に、参入の自由と土地保有の自由を保障することだ。現在の日本の農業は産業ではなくて公共事業になっている。 農業で儲けることが難しい。若い人が将来の生活を考えると収入が不安で参入したがらない。自由な競争を促進することによって産業として伸びていくであろう。いつまでも保護を続けていると、アルバニアで資本主義に慣れていなくて、ねずみ講に引っかかったように、結局いつまで経っても一人前になれない。 成長通を怖れて保護を続けるとこのようになってしまう。
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<マスコミは地産地消の国をどのように見たか> 資本主義の最先端をいく国のマスコミが、こうした地産地消の国アルバニアをどのように見て、どのように報道していたのか?幾つかの報道を紹介しよう。特に「地産地消の国」と捉えているものはないが、自給自足の経済体制をどのように評価し、報道していたか、関係ありそうな記事を選んでみた。
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NHK『現代の鎖国アルバニア』<石油不足の対処はマイカー禁止で> アルバニアの自給自足の経済を支えているのが、クロム鉱、ニッケル、銅、ボーキサイト、それに石油、石炭等の豊富な鉱物資源だ。なかでも戦略物資といわれるクロム鉱石は南アフリカに次ぐ産出量を誇り、アルバニア1の輸出品になっている。
 日本はアルバニアと毎年、総額1000万ドル程度の貿易をしているが、その額はここ2,3年、減少を続けている。アルバニアから何かを買う、カウンター・パーチャスをすることになる。しかし、日本の商社筋の話によると、日本が一番欲しいクロム鉱が最近、このカウンター・パーチャスの対象からはずされ、日本にとって輸入品目が非常に偏ってしまったためだということだ。 クロム鉱の世界一の産出国である南アフリカの人種対立による社会不安で、アルバニアが強気に出たのが、こうした政策の変化につながったものと見られている。
 石油の存在は、アルバニアの自給自足を支える要だ。その埋蔵量及び年間の産出量は明らかにされていないが、非公式には、年間最大300万バレルの産油能力があるとされている。油田地帯の1つに、まずチラナの南100キロ、フィエールの近郊にあるバルシュがある。ここは戦後の1950年代に開発が始まったもので、すぐ近くに78年から創業を始めたアルバニア最大の精油所がある。 このほか、第2次大戦中、イタリア軍が開発したクチョーバ油田、50年代に開発されたエルバサン近郊のチェリク油田がある。石油は完全に自給自足で、油田の開発には日本の掘削技術も導入しているということだった。
 しかし、いくら人口が少ない(現在=1976年、およそ300万)といっても、通常の国なら、この程度の石油量で国内消費をまかなえるわけがない。ちなみに、日本の石油消費量はおよそ12億バレル、アルバニアの400倍以上だ。日本の人口はアルバニアの40倍だから、日本人1人当たりアルバニア人の10倍以上の石油を消費していることになる。
 この石油の消費を押さえる最大の役割を果たしているのが、マイカー、個人車の禁止政策だ。バイクは所有が可能だが、そのバイクを含めて、国内で車両をまったく製造していないし、もちろん販売もしていない。乗用車はすべて公用のものである。外国人の車も、外交官を除いて個人のものは原則としてない。従って、アルバニア人にとって乗用車は縁のないものであり、交通手段は自分の所有するものとしては、最高級がバイク、次いで自転車ということになる。 自転車はすでに1970年代から自主生産を開始しており、チラナだけでなく全国で見かけたが、値段は800レク(約2万円)前後ということだった。これは一般の労働者の1カ月余りの給料に相当する。私たちから見れば、かなり割高という感を免れない。田舎では、今も馬が一般的な交通手段として用いられている。 (T注 TANAKAの家が、1951年新宿区内で引っ越しをしたとき、荷物を運んだのは馬車だった)
 1985年4月11日、チラナ放送は「午前2時15分、敬愛すべき我が党の指導者、エンベル・ホジャ同志が死去した」と伝え、厳かに鎮魂曲を流し始めた。この日から葬儀の行われた15日まで、アルバニアは文字通り全国民が喪に服した。 (『現代の鎖国アルバニア』から)
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『エコノミスト』<小さな国の大きな智恵> プロレタリア独裁の理論学習を全国的に展開している中国の東北、華北、華中の各地を3週間ほど歩いたあと、北京で中国民航機に乗り換え、東欧で独自の路線を歩いているアルバニアを対外文化連絡委員会の招きをうけて去る8月、2週間ほど視察した。(中略)
 中国の技術援助・資金援助による紡績工場、発電所視察の話があって、中国の援助についてアルバニア人の話が書かれている。
 アルバニアの人たちは「中国の援助は兄弟のような国際主義のものである。われわれは西欧の資本主義国や修正主義国からの援助や借款は拒否したが、中国からの支援は、これらの国ぐにからの援助とは本質的に違うものである」といっている。 中国は、「相手の国の主権を厳格に尊重し、いかなる付帯条件も絶対に要求しない、無利子か低利子の借款を与え、相手国が自力更生の方針に基づいて自立経済を発展させることができるように援助し、関係者が技術を十分に習得できるように保証する」と8原則でうたっているが、それを誠実にアルバニアで実行している。 したがってそれはアルバニアの自力更生の方針や精神となんら矛盾しないのである。どんな工場へ行っても説明にあたる責任者は必ず「この工場は中国の私心のない援助によってできあがったものです」とはっきり言う。そしてなかにはソ連の技術者はアルバニア人労働者の10倍の賃金を要求しましたが、中国の技術者はそんなことは絶対にしていません」という人もいた。 (『エコノミスト』アルバニア訪問記─小さな国の大きな智恵 から)(T注 当時のソ連と中国の人件費を比べてみると理由が分かるだろう)
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『朝日ジャーナル』<小さな国の大きな実験>  それにしても、アルバニアの発展ぶりは、私の予想をはるかにこえていた。主要道路は完全舗装され、そのうえを自転車やラバ、2頭引き馬車、かなり旧式のトラックが走り、あるいはねそべった牛や羊群がその見事な道路を占領している。 道の両側のポプラ並木の地表から1メートルぐらいが薬剤で白く塗られ、それが夜間の標識の役割をはたしている点も、中国そっくりである。腰高の自転車やラバ、トラックの間をすり抜けて、わがイタリア、フィアット製の高級観光バスが奇妙な警笛をならして疾駆していく。道ばたの子どもたちが、手を振りながらバスを追いかけてくる。 服装は質素だが、皆元気一杯である。手を振るだけではない。ゲンコツをつきだして笑顔で歓迎してくれる。チェコ国境にすみ、多くのチェコ人亡命者を見なれているオーストリア人の婦人は「ゲンコツだと、出て行け!といわれているような気がするわ」と言いながら満更でもない表情である。畑には、ヒマワリ、トウガラシ、綿、タバコ、トマト、トウモロコシなどが見渡すかぎり植えられ、水田も少なくない。灌漑設備もかなり完備しており、むだなく水が利用されるように配慮されている。 アルバニアの鉄道は、第2次大戦前、支配者であるツォグ王朝とイタリア外国資本の収奪を目的につくられたためか、単線で、しかもアドリア海中部沿岸の平野部だけ、外国とはまったく接続していない。見事な舗装道路は、この粗末な単線鉄道網によりそうようにはりめぐらされているわけだ。 (『朝日ジャーナル』東欧紀行ー小さな国の大きな実験 から)
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『中日新聞』<誇り たとえ貧しくても> 欧州で最も生活水準が低いといわれるアルバニア、個人所有の乗用車はない。せいぜい自転車だ。カメラを持ってい人もほとんどいない。主食類などの基本的な食料はあるが、肉が食卓に出るのは多分、週に1,2度だ。
 人々はテレビを通じてイタリアやギリシャの豊かな生活を知っている。しかし、特に西側の消費物資をうらやむ風ではない。
 「戦争が終わった時、われわれはなにもなかった。それに比べればいまはずいぶん良くなった。われわれは自分たちの力でそういうものを手に入れる努力をしている」
 アルバニアの人びとは西側の国との何比較ではなく、自国の40年前と現在を比べたがる。住宅、医療、農業、工業などは飛躍的に向上しているというのだ。
 住宅は田園地帯の場合、1家族が1軒の家に住んでいるようだった。しかし、都市では狭いアパートに大家族が入っているのが普通だ。
 首都ティラナで研究所勤めの知識人のアパートを訪ねた。そこには本人の家族3人と兄の家族4人、それに母親が住んでいた。この家で最も素晴らしい部屋と思われる居間に通された。
 壁と床はくすんだ茶色。壁には安物の絵が2,3枚。隅に旧式のミシンが1台。電球のかさはプラスティック製。これというものは特にない。
 台所はガス台1つと陶製の流し、洗濯機や冷蔵庫は見当たらない。トイレは倉庫と兼用で暖房用のまきが積み重ねてあった。家は狭く、家賃は少なかったが、すべては清潔できちんと整頓されていた。
 街で見かける商品は少ない。電池、電気製品、靴、服装品、衣類、せっけん、化粧品など売っているのはまれで、口紅をつけた女性にはなかなかお目にかかれない。
 たまに見かける商品は極めて値段が高く、質の悪いセーターが日本円で5200円する。ここでは月給が平均約2万円である。
 少ない収入は子供たちにしわ寄せがいく。この国の人の服装はじみでくすんだ灰色か茶系統だが、子供の服は着古した大人の服を再利用してつくられている。
 それにしても朝早くから夜遅くまで、街の通りでぶらぶらしているたくさんの男たちは何なのだろう。あちこちで見た。男たちは若者も年寄りも世代を選ばず集まって、ただおしゃべり、たばこを吸い、酒を飲み、トランプ遊びをしている。アルバニアには失業者はいないはずだが……。
 「すべてのアルバニア人は働く権利がある」という。「未来の成功を」「1990年計画の実現を」と党スローガンはいうが、妻の稼ぎか、国からの福祉金に頼って暮らしている男たちは多そうだ。
 人々の楽しみはテレビ。朝、そして夕方の散歩やお菓子のケーキぐらい。サッカー人気は高い。書店の本の半分以上はマルクス、スターリン、それにアルバニアの”偉大な指導者”ホッジャ前第一書記の関係だ。映画、演劇の大半は政治宣伝である。
 国は小さく、貧しい。しかし、アルバニアが独立を守ってきた誇りは高い。祖国が占領されたつらい思い出を持っている人にとっては、娯楽や消費財への少ないことなどは独立保持への小さな代償でしかないようだ。(ヨーロッパ総局、クレア・ドイル、写真も) (『中日新聞』1990.4.20 から)
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『文献・新聞記事からみるアルバニア』<開国後の食料暴動>  1991年12月7日の時点でアルバニア政府は「穀物の備蓄は6日分だけとなった」と明らかにした。同国の食料不足は深刻化しており、12月11日には食料暴動による放火で38人が死亡した。1992年2月25日ティラナの南東約80ぃろにあるポグラデツで食料暴動が発生し2人が死亡。
 2月27日にはティラナの南方60キロのルシュニアで群集が食料倉庫を襲撃1人が死亡、警官15人が重軽傷を負う事件が発生した。また、ルシュニアの社会党地区本部が放火され、警官隊との衝突で20人が負傷した。食料暴動は拡大の一途をたどっているように見える。
 これに対してアフメテイ首相は警察と軍の動員を指示し暴徒の鎮圧に乗り出した。1991年の総選挙によって共産主義体制が崩壊したアルバニアは「自由」を手にしたが、その代償として政治的・社会的・経済的混乱の中にたたき込まれたのである。このような状況が続けば保守派(スターリン主義者)が秩序の回復を掲げて巻き返しに出てくることも考えられる。
 「自由」という名のカオスか。「秩序」の名のもののスターリン型体制への回帰か。アルバニア情勢は総崩壊の危機を孕みながらますます混迷の度を加速している。 (『文献・新聞記事からみるアルバニア』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』              NHK取材班 日本放送出版協会     1987. 5.20
『エコノミスト アルバニア訪問記 小さな国の大きな智恵』      新井宝雄 毎日新聞社        1975. 9.16
『朝日ジャーナル 東欧紀行ー小さな国の大きな実験』         菊地昌典 朝日新聞社        1975. 9.19
『中日新聞 変化の胎動 鎖国アルバニア』           クレア・ドイル 中日新聞社        1990. 4.20
『文献・新聞記事からみるアルバニア』                大倉晴男 勁草出版サービスセンター 1992.10.15
( 2005年12月19日 TANAKA1942b )
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(4)文明の進歩と外部不経済
マン・マシン・システムを考える
<交通事故死者と自殺者> 死者の数は減っているとはいえ、交通事故は関係者に大きな悲しみを与える。社会問題としては自殺者の方が増えているのだが、突然の事故は子供やお年寄りなどの弱者が被害者になるケースが多い。 数字を探していたら2種類の統計を見つけたので、両方を掲載することにした。資料は 警視庁 のホームページからで、24時間以内死者数と30日以内死者数だ。 参考のため 自殺者 の数字も掲載した。これからは自殺者の方が大きな社会問題になるだろうが、ここでは交通事故の話から始まる。
人数\平成 5年 6年 7年 8年 9年 10年 11年 12年 13年 14年 15年 16年
24時間以内 10,942 10,649 10,679 9,942 9,640 9,211 9,006 9,066 8,747 8,326 7,702 7,358
30日以内 13,269 12,768 12,670 11,674 11,254 10,805 10,372 10,403 10,060 9,575 8,877 8,492
自殺者 21,851 21,679 22,445 23,104 24,391 32,863 33,944 31,977 31,042 32,103 34,427 32,3252
 上の表は日本の数字。アルバニアではどうかというと数字が見つからない。 分かるのは鎖国時代マイカーはなかったという事。個人所有の乗用車がなかったということは、交通事故も少なかったに違いない。日本ではそれでも年々死者が減っている。それにはコストもかかっているに違いない。 交通標識・交差点の信号の整備・充実など安全対策には費用がかかる。アルバニアのように自動車を増やさずに交通事故死者を増やさない政策と、日本のように自動車が増えるのを止めることはせずに、成長した経済の税金を投入して事故対策をはかる政策とが考えられる。 交通事故死者をこのように考えていくと、経済成長と外部不経済ということが問題だと気付く。
<豊かな文明社会の外部経済> 「地産地消の国アルバニア」は現代人にとって「アンチユートピア」であり「ユートピア」でもある。日本では農水省までが地産地消を提唱し始めている。 それには農業関係者のレントシーキングが働いているのだが、そのスローガンに共鳴する人は消費者の中にもいる。これは「日本の農業を守れ」運動であり、「国産品愛用」運動でもあるのだが、「自給率向上」や「食の安全性確保」などのスローガンに結び付いて、 消費者運動の1つになりつつある。ところで市民運動とか消費者運動を見ると1つの共通点があるようだ。それは「反科学技術」「反文明」「反市場経済」「反グローバリズム」だ。つまり経済成長に対する「外部不経済の問題提起」とも言えそうだ。 そうした「外部不経済」として現代社会に問題提起したものとして、宇沢弘文の『自動車の社会的費用』がよく知られている。以前にその「まえがき」から http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/yabunirami.html#2-6"><自動車の社会的費用>▲ として引用したので今回は「序章 自動車の反社会性」から引用しよう。
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<自動車の反社会性> 自動車の普及ほど、戦後日本の高度成長の特徴を端的にあらわしているものはないであろう。
 住宅環境は依然として貧しく、教育などの文化的施設はないようの乏しいままに放置され、医療など社会的環境にも十分な資源が投下されていない。また自然は荒廃し、都市からは緑が年々失われるままにまかせてきた。 それに反して、つぎからつぎに建設される大規模な拘束道路には膨大な資源が投下され、鉄骨をふんだんに使った頑丈そのものという構造をもつ道路桁をいたるところに見かける。人々の住む家は崩壊し、消失しても、高速道路だけはいつまでも存続しつづけるであろう。 また、狭い裏通りまで厚く舗装され、自動車運行はますます便利になってきて、人々はこぞって自動車を求め、運転することに生きがいを感じているようにみえる。その結果、自動車の保有台数は年々きわめて高い率で増え続けて、自動車および関連産業が日本経済のなかで占めるウェイトは圧倒的な大きさとなってきた。
 都市・自然環境の貧しさと自動車関連の施設に投下された社会的・私的資源の膨大さとの対照において、日本と肩を比べることのできる国は、いわゆる先進工業諸国のなかに見出すことはむつかしい。
 人々が競って自動車を購い、利用することをなにもことさら取り上げて論ずる必要はない。わたくしにはその資格もないし、その意図ももたない。各人が汗を流して得た収入をどのように使おうと、それは人それぞれの価値判断にもとずくものであって、人々が自からの嗜好にもっとも適した生活をおこなうことができるよいうこと自体、市民社会の発展のもっとも重要な契機でなければならないことは、kまさらここにくり返すまでもない。
 しかし日本の社会のように、市民の基本的生活をゆたかにするという目的のもとに道路の建設がおこなわれるというよりは、むしろ自動車通行を便利にするということに重点がおかれてきたところでは、自動車通行が市民生活に与える被害はもはや無視できないものになっている。このとき、自動車を保有し、うんてんすることは、各人が自由に自らの嗜好にもとづいて選択できるという私的な次元を超えて、社会的な観点から問題とされなければならない。
 ミシャンはその著『経済成長の代価』(都留重人監訳、岩波書店、1971年)のなけで、自動車をピストルに喩えてこの間の事情を説明しているが、自動車所有によって大きな社会的費用の発生しているときには、各人の選択の自由がどのような社会的意味をもつか、ということについても反省をせまられてくる。 (『宇沢弘文著作集第T巻』自動車の社会的費用から)
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<科学技術とどのようにつき合うか?> 社会経済システムの発達により人びとは市場経済というシステムを選択するようになった。その社会経済システムと並んで現代を象徴するのが科学技術の進歩だ。 どちらも人びとの生活を豊かにした。そして豊かになった人の中からそのシステムを批判する人が出てきた。そうしたシステムを目指している社会からはそうした批判者は出てこない。 豊かになった人の中からそのシステムを批判する人の主張を聞くと、実はアルバニアのような社会を目指して居るのではないかと感じる。このシリーズはそうしたTANAKAの感覚をもとに始めたものだ。
 経済システムの進歩と並んで科学技術の進歩のも、豊かになった社会から批判者が出始めている。そうした問題をどのように考えたらいいのだろうか?そのような視点から、科学者の立場から書かれたものがあるので、一部引用することにしよう。
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<文明の進歩と人間疎外> 文明という名の行進が狂ったように足を速めてゆく。先頭はずいぶん先の方にいっているのに、後列はまだだいぶ後のほうにいる。この行列の目的地がどこであるかはだれにもよくわからないが、先のほうにはきっと別天地があるだろうと思っている。 それにしてもこの行進は速すぎるのではないか。ほこりが立ちあがり息苦しいだけではない。行進の烈からはずれて道ばたにしゃがみこんでしまった人もあるし、何人も病気になり、頭がおかしくなった人もいる。ケンカをはじめたものもある。そればかりではない、この行進のために壮年の人も子供も何人も死んだという。 なるほど先にはいいところがあるかも知れないが、このありさまではあんまり人間がいじめられすぎている。この文明という名の行進が、逆に人間をけものにしてゆくのではないか。そんな声が行列の中から聞こえてくる。
 新聞や放送のニュースが報告する毎日のできごとはもとんど社会の暗い面だが、紙面にのらないものもまだいっぱいあるのだ。そのひとつひとつをよく見ると、どれもこれも文明のひずみのように見えてくる。しかもその大半は交通事故や公害のように機械に直接関係するものだし、経済問題や軍事問題にしても、その背景には機械の代表する現代技術が関与している。 文明の行進の速度が増してきたのももかならぬ機械のせいではないか。人間が人間を疎外するのではない。機械が人間疎外の犯人だ、そう考える人もあるだろう。しかしこの人たちも、実は機会の恩恵に浴していることは知っていると思う。今日の都市生活の中で機械と無関係なのもはありえないし、それを楽しんでいる瞬間もあるのだが、だまっていられない心情も否定できない。 機械と人間とはいったいどんなかかわりあいを持っているのか、冷静に思いをめぐらす必要がある。
 問題を取り上げてゆく態度もいろいろある。最初から色眼鏡でながめ、楽観側でものを言ったり、悲観側の告発だけでもよくないだろう。短い期間の観察だけで、先の先まで空想し、何々のあそれがあるという言い方をするのも科学的ではない。まず問題を解決するという意気込みで取り上げれば、分析の段階にいても、改造のための要素分析をすることになる。 また多くの問題は局部的なもので終わらず、複雑に社会のしくみにからんでいるのだから、それがどの程度の規模の問題であるかをはやく知ることも大切だろう。告発型の問題意識ではその一点だけで善悪をきめてゆく傾向をもつが、それは自分で解決する主体的な態度が弱いためだ。 損害賠償で事が解決するかのように思うのは大きな間違いである。それは機械と人間の問題の解決ではなくて、もめ事の解決にすぎないのだ。
 機械と人間にかかわる問題の根はきわめて深い。それは人類の行進そのものの問題なのだ。歴史的にもだいぶ前からはじまっていることだし、これからますます増加する問題なのだ。万国博覧会が「人類の進歩と調和」というテーマをきめたいきさつは知らないが、文明のゆくてに黒い雲が見えるからだ。 それをどのように避け、より高い調和を見いだすか、このテーマへの解答を万博解会場で発見することははじめから期待していなかった。問題はそれほど単純ではないからだ。会場では天に突きたつ高い塔や、奇妙な造型が人を驚かすだろうし、機械技術の新しい可能性が誇示されているが、そこに文明のやすらぎを発見することはむずかしと思う。われわれはまず大きな流れから考えてみることにしよう。
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<マン・マシン・システムでの自由と調和> 未来論の中にでてくる進歩の概念は、その価値判断からいえば、人間の自由なり可能性の拡大につながるものが多い。中には誤りを起こさないとか、静かな調和に達することを進歩とみる人もあるが、そのような状態はまだずっと先のことだと考え、積極的な若い状態にあるのが現在の人類の平均の姿のように思う。
 ところで「自由」であるが、何故そんなに自由がほしいのかと考えるとき、不自由で」あるという意識が根底にあるからだという答えがでてくる。たしかに人類は欲が深く、欲求に対して可能性が追いつかなかった。考える動物としての機械はもっぱら新しい欲求を描くことにつかわれたようだ。だいたい欲求の多いほうが指導的な立場になり権力をにぎった。そのほうが可能性が多いからである。 しかし少数の自由のために多数が不自由になれば、自由の争奪戦がはじまるのは当然のことであるし、多数を従属させなければ得られない自由であるとすれば、この争奪は常に絶えないことになる。この解決は、自由度を増加する以外に方法がなかったわけである。
 マン・マシン・システムは多数の人間の欲求を満足させる自由度を開発することができたのだが、その配分については問題が残ってrいるし、そのもかに、新しい不自由が一方では発生してきた。巨大なマン・マシン・システムを支えるための条件はかんりきびしいものであるから、その条件を守るための束縛は取り除くことができない。 得た自由と課せられる束縛の配分が、より人間的なものになるよう設計することが課題であって、果てしない自由というものはあり得ない。不自由のなかの自由、自由のための不自由とでもいうような、反対色の配合の問題があるだけである。
 調和についても人類は早くから考えてきた。ギリシャ思想の中に見られる調和論はついに数学形式(幾何学)に表現を求めていったが、黄金分割(長方形の縦横比の最も美しいときの値)を幾何学用語で表現したり、人体のプロポーションの理想的な値を考えたりしていたが、結局、美の原理は得られなかった。 感覚的にとらえた造型を式や幾何学で表現してみただけであった。地球上には重力が作用する場があって、その中での生活ではいつでも均衡という経験がつきまとうから、物体の安定や釣り合いについて自然とある感情が生まれているだろう。そこには無意識にうちに生活がむすびつき、宗教的感情まども交えて、ある美意識があったと思う。 説明できない直感であったが、その中に、相反する要素の均衡が考えられることは明白である。一方を拡大すれば他方が圧迫されるような要素である。自由と不自由、黒と白、立体の高さと幅、……一般化すれば変数X1、X2……Xnの間に全体を束縛する条件があって、その中で相対立するバランスを考えることになる。この束縛がとれてしまうともう何も定まらない。いいかえればきびしい条件の中で見出される美のようなものだ。 芸術は表現に自由が少ない中で考えられる表現である。表現が制限されていればこそ理解の上の約束が成りたつが、その約束の中で表現することはきびしさの上に考えることは、調和論の基本のように思う。
 マン・マシン・システムの未来がバラ色であるかどうか、ただ可能性の増大することだけ考えることはできない。どのような条件を設定するか、どこめでが文明の必要条件か、それがきまってはじめて調和が考えられることになる。
 美しい造型が、機能美としてとらえられることもよく見かける思想である。動物の形の美しさも、機械の美しさも一応包含することができる原理でもある。これだけが美の原理であるとは言えないが、1つの考え方として無視できない。もし調和をこのような機能美として考えれば、マン・マシン・システムの機能について一考しなければなるまい。前述してきたように、それは巨大な生活タイであるから、その生活の機能が合理的になり、文明の条件、人間の条件を満足しながら、多くの自由度の中から、どのような組合せを選ぶかということが調和になる。 静的な均衡論より、生活体であるだけに動的な安定性(外部にきびきび応動する)の機能美が意識にのぼってくるだろう。それは墓の美しさ、記念碑の美しさではなく、生きものの美しさに近いだろう。
 自由にせよ調和にせよ、最後は人間の意識の問題だから、マン・マシンシステムの論理からだけでは結論はでない。ただ人間の意識が正常であるために、未来は何等かの方策をもつだろう。さもないと、人間の滅亡が、かつてはその興隆をもたらした大脳の同じ機能によってもたらされる可能性が充分ある。そうなると最後に求められるものはやはり人間像だということになりそうである。 (『現代技術は何を示唆するか』から)
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<異端者の存在を容認する社会> 文明という名の行進が狂ったように足を速めてゆく。その歩みを止めようとする市民運動もある。解決への取組形は2つある。@1つは、速度をゆるめずに、豊かな社会になり、その豊かさを解決への方策を探る投資資金にしようとする取組形。 Aもう1つは歩みを止めたり、あるいは逆戻りさせようとの動きだ。日本は経済を成長させ、増えた税金で交通事故対策をはかりそれなりの成果をあげている。 アルバニアはAの政策。「地産地消」で「経済を成長させなくてもいいから、外部不経済を発生させない」政策をとった。「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」政策だった。ただし、それをアルバニア国民が望んだのかどうかは分からない。エンベル・ホジャが望んだことは確かだが………
 <豊かな文明社会の外部経済>とか<文明の進歩と人間疎外>といった問題を考えるとき大切なのは、視野狭窄にならないよう心がけることだ。気心の知れた仲間だけで議論していると、思わぬ見落としが生じることがある。外部社会の人間が見ると奇妙なことでも仲間内では常識となっていることもある。 土木・建設業界では談合は当たり前のこと、一般人には分からない永田町の論理が支配する業界もある。「土の匂いのしない者の意見は聞かない」人たちもいれば、政治哲学業界では「素人さんお断り」の業界独特の用語・論法があり、外部からの議論への参入を難しくしている。経済学業界では「日銀の意見も、短資市場関係者の意見も、マル経の意見も聞かない」風潮がある。 こうした業界では物事は全会一致で決まることが多い。そこには一代雑種が生まれる可能性が少ない。
 地産地消の国アルバニアを考えるとき、なるべく多くの立場から考えてみたいと思った。世界は市場経済・民主制度をヨシとしているが、違った考えがあるかも知れない。地産地消の国アルバニアはエンベル・ホジャ指導のもとに、このグローバル・スタンダードに挑戦した国だった。
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<主な参考文献・引用文献>
『宇沢弘文著作集第T巻』 社会的共通資本と社会的費用 自動車の社会的費用 宇沢弘文 岩波書店    1994. 5.10
『マン・マシン・システムの社会』                     高木純一 三省堂     1970.11.15
( 2005年12月26日 TANAKA1942b )
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(5)地産地消を支えた独裁体制
それを何処まで報道したか
<豊かになりたい、という欲望を抑える地産地消> 日本では農水省が地産地消を押し進めている。レントシーキングが働いている。そうしなければ地産地消は推進することはできない。なぜならば、地産地消は「豊かな生活をしたい=贅沢をしたい」という欲望を抑えることによってしか推進することができないからだ。 「国産品愛用」とは「高くても、品質が悪くても、国産品を買いましょう」に等しいからだ。もし国産品が安く、良い物ならばことさらスローガンを掲げる必要はない。「地産地消」は放っておいて実現出来るものではなく、ある程度強制的でないと難しい。アルバニアで、ホジャが鎖国を推し進められたのはそれなりの、力の政策があったからだ。 それをどこまでマスコミは報道できたのだろうか。中国の文革時代、4人組の太鼓持ち的報道に専念した新聞社は、林彪の事故死をあくまでも認めようとはしなかった。そうした中国政府無批判な態度によって駐在員を引き上げなくて済んでいた。マスコミは自己保存のために独裁政府に無批判になることもある。 アルバニアの場合はどうだったのだろうか。どうも日本のマスコミは、アルバニアの裏の、暗い面は報道していなかったように思う。ここではそうした観点からいくつかの報道を引用することにした。
 初めは外交官の文章から。当然アルバニア批判は書けないし、それを批判してもしようがない。
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<未知の国への日本使節第1号として> アルバニアは、東ヨーロッパの、バルカン半島にある国である。ユーゴスラヴィア、ギリシャと国境を接し、アドリア海に面している。
 アルバニアといえば戦時中、ムッソリーニのさしがねか何かでの「アルバニア併合」以来、特に戦後は杳(よう)として、ニュースもとだえた感があった。この40年余というもの、故ホッジャ・アルバニア勤労党中央委員会第一書記(当時)のしたに、ヨーロッパにありながら、自給自足と鎖国に近い体制を維持し続けている。外部との人の往来、物の交流ともにきわめて乏しく、緊張癖のある一部の海外マスコミが、時折「ホッジャの恐怖政治」なるニュースを流す程度であった。 そしてこの国は、いまもなお深い秘密のベールに包まれている。日本人はもちろん、近隣の国々の人でさえ、アルバニアを訪れるのは希有なことというのが現状なのである。
 そうなると、未知なるがゆえに関心や好奇心が頭をもたげてくることになる。1985年4月、40年余も独裁体制をしいてきたホッジャ党第一書記の死にともなって、この国の先行きなどをうんぬんすることも多くなってきた。 たしかに、西ドイツ等、西側各方面との関係増進に、そして去る2月のベオグラードでのバルカン外相会議参加を通じ周辺諸国との接触に、薄紙をはがすがごとく、用心深く努めているが、すぐにでも基本政策の転換をみるであろうというようなせっかちな予測は、禁物と思われる。
 こんな状況下、わたしは初代駐アルバニア日本大使として1982年秋、初めて同国を公式訪問し、以来数回にわたりこの国を訪れ、国内を旅行し、各方面の人々に会ってきた。 そのためか、多くの日本人から「アルバニアとは、一体全体どんなところですか」といった質問をしきりに受ける。ここで、政治・経済、ホットな問題を抜きにして一通りの印象を述べれば、次のようになる。
多いトーチカ・少ない自動車 このように、縁あってこのところ、毎年訪れたアルバニアなる国は、実際、風変わりなところが少なくない。そこに一歩足を踏み入れた途端、外の者にとっては珍しいものが次々と目にとび込んでくる。第一印象はやはり強烈である。
 国境入りしてすぐ目につくのが、トーチカである。野っ原といわず、山の斜面といわず、あちこちに、極彩色やコンクリート肌丸出しの大小のトーチカが、高く低くニョキニョキと、頭を突き出している。どれもがこちらを物言わずジロリと睨みつけているのは、何とも異様だ。 目立たぬように年ごとに工夫されているらしいが、当局者は「いかに原水爆の世でも、国の命運、最後の決め手となるのは一対一の決戦である。これは昔も今も変わりはない」と明言する。その基本思想は健在である。
 これとは裏腹に、地方の町はいうに及ばず、首都ティラナの中心街でさえ、ほとんど見かけぬものは乗用車である。自家用車などは論外といった光景をみていると、突如として場面が、あのすがすがしかった戦前の東京へとフラッシュ・バックしたかのような錯覚にとらわれる。 それでも、このところほんの少しずつ増えているように見受けられるのが、「お国のためなど明確な目的があれば別だが、人間いちいち車に乗らなければ生きて行けぬものでもあるまい。その多寡で文明の発達度をはかる一部外国人の考えほどバカバカしいものはない」とこれまたズバリといわれたものだ。
 静かな首都、ティラナの大通りに、厳としてあたりを睥睨(へいげい)するかのように目立つのは、スターリンの立像である。マルクス、エンゲルス、レーニンなどの顔はこうした国では珍しくもないが、ここではスターリンが大いにところを得、得意気にさえみえる。
 しかし、周囲の深い木立のせいか、それとも歴史にまつわる先入観のためか、せっかくの像も何となく陰鬱な感じがする。この点、隣の広場にある15世紀中葉、アルバニア独立達成の大英雄、スケンベグの騎馬像の威風堂々ぶりと対照的である。ちなみに、ささやかなスターリン博物館があるが、これはこれでなかなか興味深い。
信用供与は一切お断り これらの銅像の見守る中、夕暮れが迫ると、どこからともなく通りに群集がくり出し、いつしか散歩する人々の渦ができる。これは、地中海、バルカン地方の風情と大同小異だが、ここでは小声と人ごみのかもし出すサワサワという音の波間をぬって、若い兵士の一団の喚声がきり込んでくるのがおもしろい。 見ると、彼らを乗せたトラックが走っており、拳を上げたり下げたり、敬礼をしたり、国防の士気を鼓舞するらしい鬨の声を上げながら通りすぎて行く。アルバニアでは、女性兵士や制服の少女の拳敬礼も珍しくない。
 国の守りとなると、まずは自給自足ということであろう。アルバニア南部、ジロカスター方面へ足をのばすと、美しい田園の至るところで、四六時中トッカントッカンとやっている油田のほか、この国は良質のクロム鉱も豊富で、農水産物にも恵まれている。だから、わが国の8パーセント程度の広さの国ながら、なるほど自給自足でやってゆけるものかとうなずける。 こうした基盤があってこそ、外からの信用供与など一切お断りというアルバニアの規定もなおのこと生きてこようというものであろう。
 もっとも、むこうの人に言わせれば「金など借りようものなら、いつ首を絞められるかわかったものではない」とのことだった。
忘れてしまった何かが こうした風物を包み込むアルバニアの、自然ばかりは何も変わりもない。訪ねるたびにわが国の「開発」以前の静かなたたずまいを思い出す。遠くに霞む山々、野火とかまどの煙たなびく優しい平野、頂きまでせり上がる段々畑、黄金色にまばゆい麦秋など、どれをとってもなつかしい。
 人々にしてもそうだ。朝な夕な、野良仕事にいそしむ老弱男女、夕闇迫る木枯らしの中、家路を急ぐ牛追いの少年、真っ暗闇のデコボコ道でパンク修理を手伝ってくれたカップル、暖炉端でワインを傾けてワイワイしゃべる果樹園の赤ら顔の爺さんたち、南端近いプトリント遺跡脇の湖岸でにわかに見事な英語でむずかしい案内役をつとめてくれた釣り人、 首都の裏道で新設にもすれちがいざまきれいなフランス語で通訳をかって出た実直そのものの青年などなど……、アルバニアの人々の飾らない顔また顔が走馬燈のようにまぶたに浮かぶ。
 人間も心の奥にあるものはいずこも同じだ。ただ、彼らの素朴な忍耐力と喜々とした勤勉ぶりに、いまや西側では忘れられてしまったかのような根元的な何かが感ぜられて、それがとくに強く心に焼きついている。 (『バルカンの余映』から)
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<徹底した「反宗教闘争」> 中国のプロレタリア文化大革命を高く評価するアルバニアは、ちょうどプロ文革に並行した第4次5ヶ年計画(1966〜70)で「革命的手段で社会主義的生産関係をいっそう改善し、都市と農村、労働者階級と農民、工業と農業、精神労働と肉体労働の差を徐々に消滅」させる大問題を、工業・農業の発展とともに主要課題としてかかげた。
 そして、8万7千人の党員と候補に対して全体の利益を優先させる運動の展開を訴え、自留地削減運動、給与制度一般からの物質的刺激の追放処置、給与の最高限度の切り下げ、所得税の廃止、山岳馳駆の集団化の促進、全国緑化運動、処女地開拓の呼びかけなどを矢継ぎ早に発した。なかでも反宗教闘争は、この国の徹底性を裏書きしている。 私が、チラナやベラートの中心街でみた教会やモスクは、すべて板が壁や窓にうちつけられ、物置き、学校、集会所に変貌していた。回教徒65%、ギリシャ正教徒25%、カトリック教徒10%といわれたアルバニアで果たしていた宗教の役割は、想像を絶する大きなものがあったであろう。
 二千数百をかぞえた回教寺院の閉鎖状況を垣間見て、私はこのアルバニアの「徹底ぶり」に驚かざるをえなかった。この反宗教闘争は、人民大衆に依拠し「自とびとをひどく無知にする時代錯誤の神秘主義や唯心論をひろめ、保持するすべての宗教上の施設や説教師から、きわめて短期間のうちに、すっかり仕事をとりあげてしまうことに成功した。 アルバニアは教会やモスクのない国、キリスト教の牧師や回教僧のいない国となった」(ホッジャの第6回党大会報告)という。僧たちは、寄生者から労働して生活する存在となった。アルバニアは世界ではじめての無神国家になったと言われている。
 事実、教会は全く機能していない。だが、永年の信仰制度は、教会閉鎖で事がすむほど単純な、底の浅いものでない事もたしかである。人民共和国の成立以来、4分の1世紀の間に、宗教の政治からの分離、土地所有その他宗教団体名義の財産没収、宗教文献の出版禁止、宗教幹部の養成廃止へとすすんできた反宗教闘争は、第5回大会(1966年11月)とホッジャの1967年2月7日演説によって決定的な段階をむかえ、各家庭からのイコン、宗教書の一掃が遂行された。 ほぼ同じころ、中国でもプロ文革の過程で旧習慣に反対し、迷信の象徴を破壊する大運動が展開されていたことを考えると、中国とアルバニアが、同じような運動を東西でおこなっていたわけになる。おそらくこの思想闘争は、きわめて先鋭な、そして複雑な形態をとったことであろうし、終局的にそれが解決したとは到底いえないのが実情であろう。 しかし、婦人の解放とか、食生活の改善とか、なにげないスローガンの内容を考えていくと、解放前のミゼラブルなアルバニア民衆の生活が、リアルな姿をとってわれわれの眼前にうかびあがってくる。宗教者たちの多くが、ツォグ王朝やファシストの下僕として働いてきた事実をアルバニア人民ほど知悉している者はいないはずであり、そのことが反宗教闘争に徹底性を賦与したことは疑問の余地がない。
 夕暮れになると、ドラス海岸は、波うちぎわを散歩する大群衆の黒い姿によって占領される。右から左へ、左から右へとただ歩くだけの散歩であるが、そこに解放されたアルバニア人民の姿が赤裸々にうつし出されている。海へ突き出たレストランから流れるジャズやフォーク・ミュージックが、暗黒のアドリア海の上を滑るようにして消えていく。
 そして、どこからか「インターナショナル」の響きが聞こえてくる。アルバニアという国は、その小ささゆえに、無視されてはならない興味ある社会主義国家なのである。(きくち まさのり・東京大学助教授) (『朝日ジャーナル』東欧紀行ー小さな国の大きな実験 から)
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<バルカンの反逆者・アルバニア> アルバニアは、こんどの旅行でわたしがはいれなかった唯一の国である。衛星国をまわっているあいだ、各地のアルバニア公館で入国手続きをくりかえしたが、結局、ダメだった。 東ベルリンでは、アルバニア大使が酒まで出して好意を示してくれたし、ソフィアでは本国の回答を得るためといって電報代をとったが、これまたムダだった。ここのところ、すっと原則的に鎖国政策をとっているとあっては、あきらめるほかはなかった。
 しかし、アルバニアについての知識やニュースは、いたるところで得られた。とくにこの国をめぐるソ連と中共の対立が白熱化したときに、私はその周辺を回っていたので、新しい情報もキャッチすることができた。それに基づいてこの国のデッサンを描いてみると、ざっとつぎのとおりである。
 アルバニアの面積は2万8千平方キロで、長野県の約2倍、人口は140万で岩手県に近い。ヨーロッパではルクセンブルグに次ぐ小さな国で、”バルカンの文化果てるところ””ヨーロッパの野蛮国”とまで言われてきたところである。有史以来、ひきつづき他国の侵略と支配をうけ、やっと独立できたのは1912年、すぐまた第1次、第2次大戦に巻き込まれ、イタリア、ドイツの占領下におかれた。国内で鉄道路線が敷かれたのは第2次大戦後のことである。
 アルバニア人は、自国のことをスキペタールといっているが、これは”岩石国”という意味である。岩ばかりで耕地が乏しいので、この国の人間の半分以上は国外に出て、近東各地を流浪し、門番、夜回りなどに雇われて生活しているものが多かった。制服めいたものを身につけて、剣や銃をおびることが何より好きで、命を捨てることも平気だという。 国内でも泥棒が多く、山また山のあいだを渡り歩き、狩猟、賭博、強盗を生業のようにしているものが、いたるところにいた。ヒゲをそることは恥辱と考えて、男はたいていヒゲもじゃだったから、他のヨーロッパ人には”野蛮人”ということになっていたわけだ。
 言語、衣服、風俗、習慣などの面でもトルコ、ギリシャ、セルビアなどのものがまじり込んでいて、民族特有のものはほとんど消え失せていた。
 独立騒ぎのとき、折柄この国を巡業中のドイツ・サーカス団の猛獣使いが、近くトルコの王子が王として迎えられることになったと聞いて、うまうまとその王子に化けて王位についたところ、5日目にバレそうになって逃げ出したという話が伝えられている。
 独立後、共和制を敷いたが、ツォーグという男が大統領になって王制に改め、自ら王位につき”バルカンの袁世凱”といわれて、一時は権力をほしいままにした。第2次大戦後は人民共和国となり、勤労党(もとの共産党)の第1書記ホッジャが首相として完全な独裁制をしいている。
 アルバニアの共産党は、フランスがつくった学校から発生したものだが、ホッジャもそこの出身である。第2次大戦中、イタリアの占領中に共産党が結成され、ユーゴのチトーの援助のもとに、地下の抵抗運動を続けたが、それほど有力なものではなかった。戦後コミンフォルムができると、チトーがアルバニアの後見人のような形となった。
 しかしアルバニアは、人種的、伝統的にユーゴといたって仲が悪い。それがユーゴを通じて、ソ連の”陪臣”いや”陪国”にされたのでは面白くない。そこでモスクワと直接結び付くチャンスをねらっていたところ、チトーが明智光秀と化し、コミンフォルムに反旗をひるがえしたので、アルバニアはモスクワの直参となり、スターリンに忠勤をむきんでることとなったのだ。
 だが、その後、ソ連の内部に大きな変化が起こった。スターリンが死んで、新しく政権の座についたフルシチョフは、性格的にも理想的にもチトーに近い男である。このことはスターリンなきあとのフルシチョフの言動によくあらわれている。
 こうなると、ホッジャにとっては面白くない。フルシチョフ、チトー、ホッジャの3角関係では、ホッジャがふられたような恰好になった。それがフルシチョフ政権に対する消極的な抵抗となり、アルバニアでは”非スターリン化”も最小限にとどめた。
 この傾向がだんだんと露骨になり、大胆になったのは、中共という新しいうしろ立てができてからである。こういう貧しい小国は、どうしてもスポンサーが必要である。中共とソ連のあいだがシックリいってないことがわかると、アルバニアはグングンと中共の方にちかづいていった。それがソ連を刺激し、中共とのミゾをますます大きくすることになった。それにこういう小国は、伝統的に遠交近攻、合従連衝政策に慣れているし、長じてもいる。
 ソ連としても、これを見のがしたのでは、大国の威信にかかわる。そこでソ連がうった手は、アルバニアの海軍基地からソ連の潜水艦が引き上げたことである。むろん、これとともにソ連からアルバニアへの経済援助もうち切られてしまった。この海軍基地は、アドリア海から地中海にかけてソ連のニラミをきかすうえに大きな役割を果たしてきたのであつが、ミサイルが発達して、そういう必要がなくなったからだという見方もある。 しかし、ソ連が一度手に入れた基地を容易に手放すものでないことは、日本の千島その他の例を見ても明らかで、アルバニアに見切りをつけたのは、よくよくのことだとも言えよう。
 一方アルバニアの方では、国内の親ソ連粛清にのり出した。さっそく政府首脳部中の親ソ連的分子10名を、新しくつくった反政府陰謀取締法案で起訴し、4人を極刑に処したが、そのなかにはモスクワの陸軍大学出身者やアルバニア海軍司令官も含まれていて、ソ連をはじめ、共産陣に大きなショックを与えた。 罪名は例によって現政府の転覆をはかり、武器を輸入し、外国に情報を提供したことになっているが、むろんほとんどデッチあげだ。しかもこの裁判は、首都チラナの映画館を法定とし、演出効果100%をねらってなされた。弁護士をつけず、第1審で刑が確定し、24時間以内に執行された。
 最近、北京で開かれた中共の人民代表大会では、中共がソ連に頭をさげた形だが、アルバニアの方はどうなるであろうか。今さらのごとく小国のみじめさを感じさせるとともに、共産主義や社会主義も資本主義と同じく「ひとつでない」ことがこれでよくわかる。(昭和37年9月 文芸春秋新社) (『大宅壮一全集22巻』から)
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<地産地消の国に憧れる視聴者> 1986年12月8日夜8時50分、NHK特集『アルバニア・鎖国の社会主義国』の放送が終了した途端、NHK特報部のあちこちの電話がいっせいに鳴り響いた。視聴者からの電話である。
 「日本もアルバニアを見習って、もっと独自性をもつべきだ」(若い学生風の男性)、「自給自足で生きられるなんて、まさに20世紀も桃源郷のようで羨ましい」(主婦)、たとえ貧しくても、あのように明るい家庭が日本にもあったはずだ。昔を思い出して懐かしかった」(63歳の男性・自営業)、オートメーションだの合理化だの便利さばかりを追求するより、額に汗して働く人たちを見て感動した」「情報化の中でしか生きられない日本から見ると、あんなに何も知らなくて暮らしているヨーロッパ人がいたなんて驚いた。 日本は知らなくていいことまで知らされすぎる」等々、視聴者からの感想はいずれもアルバニアの1シーン1シーンの中に日本の昔や現在の姿をおきかえて比較した、1つの日本批判である。
 これらの意見は、多分に日本人のノスタルジアをかきたてた興味であったり、行きすぎた日本の合理性に反発したものであろうが、それにしてもアルバニアという国には、日本やアメリカ、ヨーロッパが鎖国という特殊な条件下であればこそであり、外国の情報も何も知らされていないからこその、ある意味での純真無垢さをもっているからである。
 とはいえ、アルバニアには今、開国の兆しが少しずつ見え始めている。あまりにも世界のレベルから立ち遅れた経済の回復を迫られての、やむを得ない決断であろう。しかし、開国とともに外界の豊富な情報、贅沢な消費生活が入り込んでくる。今のアルバニアの経済体制、経済力では到底、こうした消費生活を国民に与えることはできない。アルバニア当局はその門戸を開くにしても、ゆるやかに、しかも慎重に、常に限度を守って開国を進めなければならない。
 鎖国主義にしても、今の体制はアルバニア人が選んだものだ。誰に押しつけられたものでもない(T注 エンベル・ホジャが望んだのは確かだけれど、本当にアルバニア人が望んだと言えるのだろうか?)。その体制に欠陥があるとすれば、それはアルバニア人自身で変えていくべきことなのだ。私たちの取材の実感では、開国への移行は、それほどスムースに進むとは考えられない。が、それを実行できるだけの気高い誇りと、受難の歴史をくぐり抜けてきた強い忍耐力、そして類稀なる団結力が、アルバニアにはあると断言できる。 今後、アルバニアがどの方向に進路を向けようとも、国民は一丸となって突き進むであろう。アルバニアとは、そういう国なのだ。 (『現代の鎖国アルバニア』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『バルカンの余映』 東西南北の接点 ユーゴ・アルバニアの実相  天羽民雄 恒文社          1988. 8.20
『朝日ジャーナル 東欧紀行ー小さな国の大きな実験』       菊地昌典 朝日新聞社        1975. 9.19
『大宅壮一全集22巻』                     大宅壮一 蒼洋社          1981. 2.25
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』            NHK取材班 日本放送出版協会     1987. 5.20
( 2006年1月2日 TANAKA1942b )