趣味の経済学
地産地消の国 アルバニア

TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいとです   アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦するとです        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

2006年3月27日  
地産地消の国アルバニア
(1) 独立指導者エンベル・ホジャ 独立からねずみ講まで  ( 2005年12月5日 )
(2) 鎖国による地産地消 日本の農業政策は地産地消と食料輸出  ( 2005年12月12日 )
(3) 高自給率は良いことか? マスコミはどのように報道したか  ( 2005年12月19日 )
(4) 文明の進歩と外部不経済 マン・マシン・システムを考える  ( 2005年12月26日 )
(5) 地産地消を支えた独裁体制 それを何処まで報道したか  ( 2006年1月2日 )
(6) シグリミと呼ばれる秘密警察 市民監視とライバル追放  ( 2006年1月9日 )
(7) 社会主義国の異端児アルバニア 外部からの干渉に対する鎖国  ( 2006年1月16日 )
(8) 地産地消での経済成長は可能なのか 自力更生は農業中心が有利  ( 2006年1月23日 )
(9) 自給自足というアンチユートピア 『1984年』を中心に考える  ( 2006年1月30日 )
(10) 『1984年』に続く管理社会への警鐘 『われら』『1985年』など  ( 2006年2月6日 )
(11) 閉鎖地域からの優れたレポート 中国革命の現地体験報告  ( 2006年2月20日 )
(12) 拝金主義も生まれなかった社会 反資本主義のユートピア羨望  ( 2006年3月6日 )
(13) 地産地消から普通の国家へ 民主制度・市場経済への試行錯誤  ( 2006年3月20日 )
(14) 自由貿易こそが国民を豊にする アダム・スミスは生きている  ( 2006年3月27日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

(1)独立指導者エンベル・ホジャ
独立からねずみ講まで
  バルカン半島のアドリア海に面した小国=アルバニアは国際紛争の種火としての民族紛争に巻き込まれた長い歴史を持っている。 そのアルバニアが第2次大戦中からエンベル・ホジャの指導のもとにファシスト政権フランコのイタリアと戦い、大戦後独立を果たすと、独特の社会主義体制をとり、政治的・経済的に鎖国政策をとった。スターリン時代のソ連とは友好的に関係を保ったが、 スターリン死後は疎遠になり、チトーのユーゴスラビアと友好的な関係をつくる。しかしそれもほんのしばらくの間で、文革時代の中国と友好的な関係をつくると、中国以外の国とは絶縁状態になる。徹底したスターリン主義で、社会主義政策を徹底させていく。 1985年にホジャ勤労党第1書記が死去したことによって、鎖国政策は終わり世界に向かって窓を開くことになった。このHPではエンベル・ホジャ独裁時代のアルバニアを取り上げる。20世紀の鎖国政策がどのようなものであったのか?その社会主義の実態は? こうしたことを調べる内に、現代の、ある種の主張をする人たちにとっての理想郷、であったかも知れない、と思うようになった。「地産地消の国アルバニア」という表現が適しているように思えてきた。 民主制度と市場経済が進んだ日本では失ってしまった価値がアルバニアにはあったように思える。と言うよりも、反市場経済を主張する人たちの理想とする社会は、鎖国時代のアルバニアであったのかも知れない。 市場経済を批判し、「地産地消」「省エネルギー」「平等」「反公害」「自給自足」などを主張すると、その理想がアルバニアになってしまう。
 そのアルバニアは鎖国政策を捨て、自由貿易社会に参入し、民主制度を採用し、他の東欧社会主義国と同様な改革を始めたのだが、市場経済に馴れていなかった国民の大多数がねずみ講の被害にあったり、コソヴォ紛争に巻き込まれたりと、改革への道筋は平坦ではない。 そのアルバニア、ここでは「地産地消の国アルバニア」という視点で取り上げることにする。
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<バルカンの小国=アルバニア> アルバニアという国に付ける枕詞、それは「バルカンの小国」に決まる。ではどのような国なのか?外務省のHPから引用しよう。
面積 28,748km2(四国の約1.5倍)
人口 約340万人
首都 ティラナ(約50万人)
人種 アルバニア人
言語 アルバニア語
宗教 イスラム7割、正教2割、ローマカトリック1割
国祭日 11月28日(独立及び解放記念日)
略史
1912年 オスマントルコから独立
1939年 イタリアの保護領、後に併合
1944年 共産党臨時政府樹立、全土解放
1961年 ソ連と断交
1976年 中国の経済・軍事援助停止
1985年 ホッジャ勤労党第1書記死去
1990年 野党設立許可、複数政党制度入、外貨導入解禁
1991年 初の自由選挙、臨時憲法制定、米、英と国交回復、ECと外交関係、IMF、世銀、CSCE加盟
1992年 総選挙で初の非共産政権樹立、OICに加盟
1994年 PFP包括協定、PFP個別協定調印
1995年 欧州評議会に加盟
1997年 ねずみ講問題を発端とする騒乱が発生。6月の総選挙の結果、社会党を中心とする連立政権成立
1998年 新憲法制定
2000年 WTO加盟
2003年 EUとの間で安定化、連合協定(SAA)交渉を開始

外交基本方針  長年、半鎖国的な社会主義体制をとってきたアルバニアは東西冷戦の集結、東欧諸国の民主化、国内の経済情勢の悪化等の背景から、その鎖国政策を大幅に変更し、90年以降、国際社会への復帰、先進諸国・国際機関との関係強化及び安全保障の確保を基本的な外交方針としている。  NATO、EU加盟を最優先課題としている。
通貨 レク(Lek)
為替レート 1ドル=140.2レク(02年)
経済概要  92年3月に民主政権が成立し、同年7月にG24アルバニア支援国会合が開催されて以来、欧米諸国や国際機関から多くの支援を受け、経済は93年以降、徐々にではあるが改善の方向に向かってきていた。しかし、97年にねずみ講問題を発端とする騒乱が発生し、経済活動に少なからぬ影響を与えた。 その後、国際社会から支援を受けて経済活動は徐々に回復しつつあり、GDP成長率は98年以降7〜8%の高成長を続けている。治安情勢を十分安定させ、経済や社会のインフラを整備して外国からの投資を増大させていくことが大きな課題となっている。 14世紀のオスマン・トルコによる征服後、約5世紀にわたりトルコの支配下にあり、イスラム化が進んだ。 社会主義時代はホッジャ勤労党第一書記の下で独裁的な政治が行われた。 90年より東欧改革の影響を受け、民主化を開始。05年7月、任期満了に伴う議会選挙が実施された結果、野党民主党が躍進、民主党ベリシャ党首(元大統領)が新首相に就任し、8年ぶりに社会党からの政権交代が行われた。
主要産業 農業、機械工業、鉱業、製造業
GNP 61億ドル(世銀2003年)
一人当たりGDP 1,560ドル(2002年)
経済成長率 6.0%(2003年)
物価上昇率 2.4%(2003年)(2001年)
失業率 15.8%(2002年)
総貿易額 20.7億ドル(2003年) (1)輸出  3.9億ドル (2)輸入 16.8億ドル
主要貿易品目(98年) (1)輸出 繊維、建築資材、食料品 (2)輸入 機械、食料品、繊維
主要貿易相手国(98年) (1)輸出 イタリア、ギリシャ、ドイツ (2)輸入 イタリア、ギリシャ、トルコ
為替レート 1ドル=140.2レク(02年)
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<現代アルバニアの建国> 福者マザー・テレサがアルバニア出身であることはあまり知られていない。 そのバルカンの小国アルバニア、第2次大戦後エンベル・ホジャ指導のもとに独特の社会主義政策=鎖国政策をとってきた。1944年ムッソリーニのイタリアから独立を勝ち取ると、スターリンを崇拝していたホジャはアメリカをはじめ「西側帝国主義」とは外交を断絶、スターリンが指導する東側諸国と友好関係を結ぶ。 1953年にスターリンが死ぬと、その後継者でスターリン批判をしたフルシチョフとは対立し、ソ連と国交を断絶し、コメコンから脱退。1960年代には文革時代の中国と友好関係を結ぶ。1971年10月26日、国連で「中国の国連加盟と台湾の追放」を内容とした「アルバニア案」が大差で可決される。しかし1972年ニクソンの訪中を境として米中が接近すると、1978年には中国とも交流を断絶する。 ここにおいてアルバニアの鎖国は完成する。国内に何千ものトーチかを築き外敵に備える。社会主義経済を徹底し企業は国営、300万人程度の小国で自給自足経済を貫く。個人が自家用車を持つことは認められず、自動車による交通事故・排気ガス公害は皆無、物流システムができていないため「身土不二」「地産地消」は当然、株式市場はおろか民間銀行さえなかったのでマネーゲームに走る者はいない。 地域通貨信奉者が理想とする金利ゼロの社会。『スモールイズビューティフル』の世界であり、『縄暖簾社会の経済学』の世界であり、カール・ポラニーの『大転換』にしばしば登場するロバート・オーエンの世界、日本では農協関係者や生協関係者が理想とする「ロッジデール」の空想社会主義を目指す社会であった。 コミュニストは言う「宗教は麻薬である」、それを憲法に明文化した「国家は一切の宗教を認めず、人民の間における科学的現実主義世界観を鼓吹するために無神論運動を支持する」(アルバニア人民共和国憲法第37条)。
 アウタルキー(autarky)を貫き通そうとしたアルバニア、その生産設備たるや、1978年以前に中国からもたらされた貧弱なものばかり。先に豊かになれる者が出てこれない、人々皆平等に貧しくなっていく社会。貧富の差が少ない、という点においては「正義論」を貫き通した国家であった。 そしてこれはとてつもない実験でもあった。経済をこんなにめちゃくちゃに運営するとどうなるか?とてもまともな国家指導者にはできない実験だった(と、書きながら大躍進、文革時代の中国やポルポト時代のカンボジアも同じだったことに気づいた)。 この実験でアルバニアはヨーロッパの真ん中にありながら、中央アフリカ共和国の所得水準に、その経済状況が表れている。「自由貿易こそ国民を豊かにする」。アダム・スミスやリカードは正しかった。それでもWTOや貿易自由化を非難するNGOもあるらしい。自由貿易協定(FTA)も日本では強力なレントシーキングのお陰でなかなか進まない。
 そのようなアルバニア、1985年4月11日エンベル・ホジャが死亡し、ラミズ・アリアが大統領に選出されると少しずつ変化の兆しが見え始める。 徐々に鎖国政策を改め、開放経済へと政策転換する。鎖国時代には民間銀行もなく、国民は貯蓄や投資などの仕組みを知らないで過ごしてきた。開放経済、つまりごく普通の資本主義経済が始まって、1992年には民間銀行も設立された。そして政府の規制を受けない投資会社も設立された。 それまで国民は「現金はタンスにしまうもの」と考えていた。そのタンスの中にあった現金の多くは投資会社へ向かった。銀行の金利が年利19%程度のとき、投資会社の方は月利8%、高い時には3カ月で100%といった、とほうもない高金利だった。
 資本主義以前の社会、世界経済から切り離された社会、地産地消の国だったアルバニア、そこでねずみ講投資会社が倒産し、暴動がおき、政権が倒れ、無政府状態になり、6000人規模の多国籍軍により治安が維持される、という事態が発生した。
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<ねずみ講の破綻とその後の経済> ここで扱うのはエンベル・ホジャ在任中の鎖国時代ではあるが、その鎖国が原因で大きな社会問題をおこしたねずみ講のことも扱っておくことにしよう。 それは社会主義体制で、市場経済のなんたるかを知らず、いきなり市場経済に移行したために起こった悲劇であった。親の保護のもとに生活していた子どもが、いきなり一人で大人の社会に放り出されたようなものだった。成長通を怖がっていつまでも子どものままでいたのが、いきなり大人の世界に飛び込んだようなものだった。鎖国の後遺症として、ねずみ講を考えてみようと思う。
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 1997年1月半ば、ねずみ講式による投資期間の空中分解が明るみに出た。アルバニアにおけるねずみ講 (pyramid schemes) とは、投資会社を通じたインフォーマルな貯蓄と解釈できる。周知の通り、ねずみ講式では、新しい参加者が途絶えると、その拡大は不可能となる。 人口340万人程度の同国の場合、約50万人がこのねずみ講を手がけていたという。首都・ティラナ (Tiranë) では早い時期に新規の参加者を募るにはもう限界に達していた。
 預金総額は10億ドルに及んだ。10億ドルという額はアルバニアのGDPの約40%の相当する。月給100ドルほどの一般人にはての届く額であるはずがない。外国に居住するアルバニア人出稼ぎ労働者は50万人にのぼる。 恐らく彼らによる海外送金がねずみ講に流れ込んだのであろう。加えて、不動産や家畜を売却して購入した者もいた。オランダのかつてのチューリップ投資と同様である。市民は生産活動に従事せずとも、利息、すなわち現金収入を得ることができた。 市民は挙ってねずみ講に手を出した。アルバニア社会は、狂乱状態に陥った。そしれ、問題を複雑にした要因で、これは飽くまでも推測の域は出ないけれども、イタリアのマフィアがアルバニアのそれと結託して、麻薬取引などで得た金を流入させていたのではないだろうか。 非合法な金をマネーロンダリングするためにこのねずみ講が利用されていたのではなかろうか。アルバニア南部における反政府暴動が長引いた理由もここにあると推察される。ねずみ講の破綻が、イタリア・マフィアの資金を圧迫したからだ。
 しかしながら、財・サービスの供給を伴わないねずみ講の生命は短い。新規参入者が枯渇した段階で、5つの投資会社が倒産した。ラプーシュ・ジャフェーリ (Rrapush Xhaferri) やスーダ社 (Sudë) などである。ねずみ講はやはり見果てぬ夢に過ぎなかった。 アルバニア当局は、漸く規制・摘発に乗り出した。投資会社の幹部が逮捕され、法人の資産(約3億ドル)は当局が凍結した。ここにおいて、ねずみ講は名実ともに破局を迎えた。市民の貯蓄を返済することは最早不能となった。
 その反動は当局の予想を遙かに越えていた。与党・民主党が分裂の危機に瀕した。貯蓄の返済を迫って、一部のアルバニア市民は暴力に訴えた。その暴動はルシュニャ (Lushnjë) で火ぶたが切られた。それは瞬く間に全国へと広がっていった。 野党の社会党(旧労働党)が市民を扇動した。この介入が混乱を泥沼化させた。アルバニア社会は、民主化後最大の危機に瀕し、大混乱の様相を呈した。最大手の投資機関が本拠地を置いていた港町・ヴェローラ (Vlorë) では死者が出た。 また、内閣総辞職を求めて、学生たちがハンガーストライキに打って出た。ヴェローラ市民はアルバニアでも最も感情的だと言われる。パトス (Patos) では、国営石油会社・アルブペトロール (Albpetrol) の本社が放火された。政府は軍隊も出動して、これに対処した。だが、混乱は鎮静しなかった。
 確かに、投資会社は民間企業である。ところが、そのコマーシャル(CM)が国営テレビで放映されていたために、政府公認の会社だと一般市民は誤解した。社会秩序の回復を第一義的に考える当局は、市民に貯蓄を返却する旨の生命を発表した。 実際、1997年2月5日から返済が開始された。けれども、2億6,000万ドルとも推定される財政赤字の現状に鑑みると、全額を返済するのは到底無理であろう。IMF(国債通貨基金)が政府に融資する容易があると言明したが、実際に全額が返済されてしまうと、折角鎮静化していたインフレ(1996年の消費者物価上昇率は対前年比で11.5%)が再燃するだろう。
 『日本経済新聞』の為定明雄記者は、1997年1月21日付の同紙で、今回の暴動について、セルビア共和国のデモに勇気づけられた反政府デモだとし、ユーゴスラビアから飛び火したものだと断言した。つまり、アルバニアで勃発した暴動は、セルビア共和国やブルガリアにあけるデモと同じ性質のものだ、と為定氏は分析しているのである。 この見方はあまりにも単純に過ぎると判断せざるを得ない。
 第1に、今回の暴動は、飽く迄もアルバニア国内の問題である。市場経済が未成熟な同国内では、未だ投資のリスクという意味合いが理解されていない。市民の行動は政府に対する逆恨みである。
 第2に、暴動を起こせば、アルバニア政府が貯蓄を返済すると市民が思い込んだ点である。 ここに社会党が介入して、反政府デモを扇動した。極めて政治的な事件である。
 第3に、アルバニア政府がねずみ講というマネーゲームを黙認していた事実である。政府は経済力強化の一環として捉えていた。市民もまた、財・サービスの販売よりもむしろ、コミッションの受取りのみに関心があった。
 第4に、与党・民主党が依然として国全体を掌握していない。特に、地方や高齢者層では民主党支持者が相対的に少ない。ベリシャ大統領一人のカリスマ性に民主党は今でも依存している。故に、ベリシャ氏は専横的だと批判されることが多い。
 アルバニアにおける混乱をバルカン半島全体の潮流の中に位置付ける見方は、日本の読者にはわかり易いかもしれないけれど、この見方ではアルバニア社会の深層を解明することはできない。確かに、旧ユーゴスラビアが崩壊する過程において、アルバニアから武器や麻薬が密輸されていたのは事実だし、このカネがねずみ講を生み出す動機となったのもまた事実である。 しかし、暴動が発生し、長期化したのはアルバニア民族の民族性に原因がある。1996年5月の総選挙の際といい、また、今回の一連の事件といい、アルバニア人の非常に両極端な気質を如実に示すものである。民族性を無視した見解では、ことの真相を見抜くことは不可能である。
 実は、今回のねずみ講事件が表沙汰になる前に、IMFと世界銀行とがアルバニア当局に対してねずみ講の危険性について警告を発していた。せめて利率の引き下げだけでも実施するように勧告していた。1996年10月のことである。 これに対し、投資会社の社長が反論し、ねずみ講の裾野を世界に広げれば破綻しない、などと公言していた。この時、ティラナでは一時パニックになった経緯があった。IMFや世銀のスタッフは、ねずみ講がアルバニア市民にとっての唯一の多額な現金収入であることに理解を示しながらも、その危険性について投資会社に説得を試みたのである。しかし、投資機関側はこの警鐘を聞き流した。それから数ヶ月後、ねずみ講は現実に崩壊した。
 アルバニア市民のなすべきことは、安易でリスクの高いマネーゲームではなく、地道な物作り、生産活動なのだ。バブルが弾けた現在、マネーゲームは脱却し、生産活動に傾倒しなければならない。一方、当局は、フォーマルな金融市場を育成することに総力を結集すべきである。
 アルバニアでも漸く民間銀行が設立されるようになってきた。併せて、国営銀行の民営化についても議論が深まりつつある。
 民間銀行について言えば、ティラナ銀行 (Tirana Bank) がユニバーサル銀行として登場した。ヴェヴェ (VeVe) ビジネスセンターの前にオフィスを構え、資本金200万ドルで出発した。資本についてはギリシャから出資されている。主要株主は、ギリシャの投資会社・ユニコ (Unico) やギリシャの銀行・ピレアウス・ファイナンス・バンク (Pireaus Finance Bank) などが名前を連ねている。 頭取にはバイロン・ピツィリディス (Byron Pitskidis) 氏が就任した。同行は、クレジットカード業務も取り扱うユニバーサル銀行で、在ギリシャのアルバニア人出稼ぎ労働者からの送金をターゲット・マーケット(標的市場)としている。資本金を倍増する計画があり、その際には、ジロカスタル (Gkirokastër) 、ドゥラス (Durrës) 、ヴェローラ、コルツァ (Korcë) に支店を開設する予定だという。
 もう一つ、ギリシャの銀行の支店がティラナに開設された。それはアルファ・クレジット銀行 (Alra Credit Bank) と呼ばれる。資本金200万ドルで、ユニバーサル銀行としての業務を行っている。併せて、マレーシア資本による銀行も創設されることになっている。
 アルバニアの経済課題は、まずは金融市場と生産活動とを有機的に結合させることなのである。そうでないと、生産者は投資活動を円滑に遂行することができない。勢い、インフォーマルな金融市場へと生産者は走ってしまう。カネとモノの流れる道筋を整備しておくことが、アルバニア当局に課せられる責務である。 (『新生アルバニアの混乱と再生[第2版] 』から)
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<アルバニアが経験した「経済の成長痛」>  鎖国時代のアルバニアは地産地消の国であった。そのアルバニアが鎖国をやめて開国したとき経験したのが「ねずみ講」による混乱であった。マネーゲームに慣れていなくて、投資・投機といった資金運用に関して無知識であったアルバニア人、政府役人まですっかり暗示にかかってしまった。 以前にTANAKAは
グローバリゼーションによって社会は進化する▲で アルバニアのねずみ講事件は、アルバニアが世界経済の仲間入りするという大人の経済になる過程での、「成長通」だと書いた。ここでもう一度その文章を転記することにしよう。
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資本主義社会の経験不足 どこかの県の教育委員会が「高校生のアルバイト大いに結構」との方針を打ち出した、との報道があった。教育委員会も分かってきた。 セブンやファミマなどのコンビニやケンタやマクドなどのファースト・フードでバイトをすると、働くこと、「お客様は神様です」の意味が分かってくる。商売は利益を出さなければならない。趣味や社会的意義があって商売しているのではない。 大人でさえ、消費者主導の経済に不満で、消費者教育が必要だ、と主張する人もいる。神様に説教しようという大胆な主張だ。高校生のうちからバイトで資本主義の内側を知っておくといい。アルバニアの例は、幼児の頃から大人の社会を知らずに保護されていて、バイト経験もなく、年をとってからいきなり大人の資本主義社会に放り出されたようなことだった。 預金・金利・投資などの意味も分からずに、いきなり資本主義経済になってしまい、かわいそうだった。もっとも日本のような資本主義経済で生活していても、「地域通貨にインフレはない」「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」 という、資本主義社会以前の、幼児社会の経済感覚を持ったかわいそうな大人もいるようだ。マン・チャイルドと言うか、アダルト・チルドレンと表現すべきか?
成長痛を怖れ、大人になるのをいやがり、駄々をこねる 現代のラダイト運動(Luddite movement)はその主役が、社会の進化によって被害を受ける弱者ではなく、余裕のある傍観者である、という点で1810年代の運動とは違っている。現代のネッド・ラッド(Ned Ludd)(ネッド将軍ともいう)も架空の人物で、だから誰もが社会批判はするが、自分は非難されないように、言質を取られないように気を使っている。
 駄々をこねる評論家・エコノミストがいても経済のグローバル化は進む。@日本の文化=コメが広くアジアで受け入れられ、「ビッグ3の下請けになる」と怖れられた資本の自由化を乗り越え、日本経済は成長した。 Aドルが金の束縛から開放され、世界の成長通貨が供給されるようになった。Bアジア諸国は変動相場制に移行しさらに大きく成長する道が開けた。C国債償還の停止(モラトリアム)を経験しながら、大国ロシアは総身に知恵が回りかね。D社会主義から市場経済にソフト・ランディングした国もあれば、ミロシェビッツのような指導者を選んでしまった国もあった。 E天安門事件後、南巡講話で息を吹き返した白黒猫、人民元切り上げの圧力が感じられるこの頃、それでも日本のすぐそばに巨大な消費市場が生まれそうだ。期待しよう。Fアダム・スミスのような理論家は出なかったが、三貨制度のもと、一分銀は管理通貨制度、金と銀は変動相場制を操っていた江戸幕府の進んだ通貨制度。G空想社会主義のような「地産地消」を実験したアルバニア。
 「グローバル化」という言葉を使い、外国にも開かれた経済体制に移行するのを怖れ、「狭い社会に閉じ隠りたい」と駄々をこねる評論家・エコノミストが危機感を煽るが、経済は確実に進化する。今回取り上げたケース、いろんな形のショックがあったが、前に進もうとしているのは間違いない。
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<主な参考文献・引用文献>
『新生アルバニアの混乱と再生』[第2版]               中津孝司 創成社       2004. 2. 1
( 2005年12月5日 TANAKA1942b )
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(2)鎖国による地産地消
日本の農業政策は地産地消と食料輸出
  農水省が「地産地消推進検討会」を立ち上げたとのことを知り、地産地消について考えているうちに、「アルバニアこそ地産地消の国だった」と思いついた。 そこで、今回の「地産地消の国アルバニア」を始めるのだが、地産地消については以前に、「コメ自由化への試案」▲のところで<「身土不二」や「地産地消」について なるべく多くの人に味わってもらいたい>と題して書いた。地産地消とは何か?ということでその一部を引用しよう。
 身土不二(しんどふじ)という言葉がある。どういう意味かというと、山下惣一著「農の時代がやってきた」(家の光協会 1999年4月)から引用しよう。 「周知のように(でもないか?)、「身土不二」は、「身土」、人間の身体と土は「不二」、二つじゃない。つまり一体だという意味。中国の古い医書に出てくる言葉だそうで、わが国では明治30年代(1897-1906)に福井県出身の軍医・石塚左玄らが起こした「食養道運動」のスローガンとして使われ、彼らは「自分の住む土地の四里(約16キロメートル)四方でとれた旬のものを正しく」食べることを理想として提唱した。
 まだ流通が未発達の明治時代になぜそのような運動が起こったのか?たぶん多くの人たちはやむおえず「身土不二」の食生活をしていたはずだ。そう疑問を抱いたのでその筋の専門家に調べてもらたら、文明開化の影響で当時の上流階級の食生活が急速に洋風化し、それに伴って従来にはなかった病気がふえたという背景があった、ということまではわかったが、それ以上のことはわからなかった。
 「身土不二」という題名の本も読んでみたが、解説書ではなく、その原理に照らして近代栄養学を批判した内容だった。これはこれで面白かったが、当然、逆の主張もあるわけで、「このボーダレス時代に馬鹿なことを言うな。地球を一つと考えれば「身土不二」じゃないか」というわけだ。
 では「地産地消」とは?「なるべく地元で取れた農産物を食べましょう」ということになろう。 この二つの言葉、ある人たちから大変支持されているようだ。「コメ自由化反対」「遺伝子組み替え食品反対」「無農薬・低農薬食品を普及させよう」「農業は自然環境保全に役立つ」「株式会社の農地取得反対」こうした主張をする人たちが「身土不二」「地産地消」を言うようだ。
 「コメ自由化への試案」のシリーズでこのように書いていた。こうしたことから「地産地消」についての匂い、センスを感じて頂きましょう、ということで今回はアルバニアの鎖国との関係でこの「地産地消」を扱うことにした。
<地産地消とは、つまり鎖国のこと>
アルバニアは鎖国をしていた。ということは食料は自国でとれたものだけを食べていた。外国からの輸入品はなかった。 農水省の地産地消推進検討会によると、地産地消は、もともと、地域で生産されたものをその地域で消費することを意味する言葉である。 ということになる。
 その農水省が「地産地消推進検討会」を立ち上げて、地産地消を推進することになった。そこで、農水省のホームページから「地産地消推進検討会」に関する事項を引用してみよう。
地産地消推進行動計画について
1 行動計画の考え方
 地産地消の全国展開を図るためには、国、地方公共団体、農業者・農業団体、食品業者、消費者団体等が、相互に協力しながら適切な役割分担の下に主体的に取り組むことが必要である。 このためには、省内関係各課が取り組むべき施策をとりまとめた地産地消推進行動計画(以下「行動計画」という)を策定し、それに基づき、適格な工程管理を行うことが必要である。
 本行動計画は、地産地消省内連絡会として、平成17年度における地産地消推進に向けた主要な活動内容とその行程を定めたものであり、省内関係各課の地産地消推進に向けた活動の共通認識となるものである。
平成17年8月に発表された「地産地消推進検討会」から
1 消費者の農産物に対する安全安心志向の高まりや生産者の販売の多様化の取組が進中で、消費者と生産者を結び付ける「地産地消」への期待が高まっている。
 本年3月に閣議決定された「食料・農業・農村基本計画」(以下「新たな基本計画」)においても、地産地消は食料自給率の向上に向け重点的に取り組むべき事項としてその全国展開等を積極的に推進することとされている。
 このため、地産地消に取り組む農業者などの有識者による「地産地消推進検討会」を開催し、地産地消の現状と課題について議論するとともbに、今後の推進方向について検討を行った。以下は、その検討内容が速やかに」今後の施策に反映されるよう、中間的にとりまとめたものである。
(1)地産地消の位置付け
 地産地消は、もともと、地域で生産されたものをその地域で消費することを意味する言葉である。新たな基本計画では、単に地域で生産するという側面も加え、「地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物・食品を購入する機会を提供するとともに、地域の農業と関連産業の活性化を図る」と位置付けている。
 産地からの距離は、輸送コストや鮮度の面、また、地場農産物としてアピールする商品力や、子どもが農業や農産物に親近感を感じる教育力、さらには地域内の物質循環といった観点から見て、近ければ近いほど有利である。さらには地域内の物理的距離の短さにもなり、対面コミュニケーション効果もあって、消費者の「地場農産物」への愛着心や安心感が深まる。 それが地場農産物の消費を拡大し、ひいては地元の農業を応援することになる。高齢者を含めて地元農業者の営農意欲を高めさせ、農地の荒廃や捨て作りを防ぐ。 結局、地場農業を活性化させ、日本型食生活や食文化が守られ、食料自給率を高めることになる。しかし、距離に関係なく、コミュニケーションを伴う農産物の行き来を地産地消ととらえることも可能である。
 また、地産地消は、地域で自発的に盛り上がりをみせてきた活動で、教育や文化の面も含んだ多様な側面をゆうしており、固定的、画一的なものではなく、柔軟性・多様性をもった地域の相違工夫をいかしたものとなることが必要である。
 地産地消の主な取組としては、直販店や量販店での地場農産物の販売、学校給食、福祉施設、観光施設、外食・中食、加工関係での地場農産物の利用などが挙げられる
(2)地産地消の展開の経緯
 地産地消は、近くでとれたものを食べる事を基本とした考え方である。かつては農村地域では在来品種や伝統野菜の生産を行うなど伝統的に地域でとれたものを地域で嘱することが当然であり、戦後も高度成長期以前は身近なものを嘱することが一般的であった。
 ところがその後、高度成長期になって広域大量流通システムが成立した。これは、
@ 全国の交通網の発達、通信手段の整備とともに、保冷・予冷技術により、農産物の品質保持が可能となったこと
A 大量流通を可能とするための農産物の規格が整備されたこと
B 季節によって産地を変えることにより、周年的に同じ作目を供給するといったシステムが整備されてきたこと
 によるものである。
 この広域大量流通により、例えば首都圏に供給するだいこんの産地についてみると、関東一円から外延的に拡大していき、現在は、東北や北海道からの入荷が季節によっては、9割を占めるといった状況となっている。
また、高度成長期に日本の食生活が洋風化し、高度化する中にあって、広域大量流通は、
@ 多様な食材を周年的にいつでも安定的に入手できること
A 品質の一定した物を安価に入手できること
といったメリットをもたらし、食生活の向上に寄与していた。
 しかしながら、広域大量流通は消費地や消費者といった消費する場と、食品を生産する場との間の距離を拡大することになり、次ぎのような結果をもたらすことになった。
@ どこで、どのようにして生産されたものか分からない。
A 旬とか地域の食文化が失われてしまい、全国的に画一的な食文化になった
B 生産の現場では生産性の向上の追求が中心になっていた
 こうした中で1970年代には有機農産物の流通を推進する取組がしょうじた、1990年代以降原産地を明らかにするニーズの高まりの中で、順次原産地表示制度が整備されてきた。 また、2001年(平成13年)に我が国初のBSEが発生したことを契機に安全安心に対する要求が高まり、トレーサビリティシステムの整備が進められてきている。
 さらに、消費者からは食と農との距離を縮めたい、生産者と顔の見える関係をつくりたいという要求が高まってきている。
これは
@ 誰が生産したものなのかを知りたい
A どこで、どのような方法で生産されたのかを知りたい
B 生産者との興隆を深めたい
とうったことを求めているものと考えられる。
 こうした動きは世界的な潮流にもなっており、イタリアのスローフードをはじめ、アメリカのCSA (Community Supported Agriculture) や、韓国の身土不二などの運動が見られる。
 我が国においても、地産地消は、新鮮で安心な農産物を得られる等のメリットにより、各地でその取組が草の根的に盛り上がっている。
 しかしながら、1億2千万人を超える国民に食料を安定供給する必要があるとの観点に立てば、その、すべてを地場産の農産物により供給することは困難である。したがって、地産地消の活動は地場の消費者・実需者ニーズに応えるものとして、地場の生産技術条件や市場条件に見合った可能な方法で経験を積み重ねながら段階的に広げていくことが重要と考えられる。
 その場合、地産地消の概念は、必ずしも狭い地域に限定する必要はない。できるだけ近くのものを優先するのが原則であるが、周年販売や品目・品質上の品揃えを考えると、産地の地域的な範囲は柔軟な拡がりをもって考えた方がよい。最終的には我が国の全域すなわち国産農産物の全体までも射程に置くことの出来る概念だと考えられる。
 したがって、国産品を優先的に消費することを通じて、食料自給率の向上にもつながっていく考えである。このような視点に立って、行政においては、強いニーズがある地産地消を広げていくため、特に、取組が円滑に進められるようにするため、支援を行うべきである。
(3)地産地消のメリット・デメリット
 地産地消により、消費者、生産者双方に以下のようなメリットが生じると考えられる。
 まず、消費者については、
 @ 身近な場所から新鮮な農産物を得ることができる。
 A 消費者自らが生産状況等を確認でき、安心感が得られる。
 B 食と農について近親感を得るとともに、生産と消費の関わりや伝統的な食文化について、理解を深める絶好の機会となる。
 C 流通経費等の節減により安価に購入できる
  また、生産者については、
 @ 消費者との顔が見える関係により地域の消費者ニーズを的確にとらえた効率的な生産を行うことができる
 A 流通経費の節減により生産者の手取りの増加が図られ、収益性の向上が期待できる
 B 生産者が直接販売することにより、少量な産品、加工・調理品も、さらに場合によっては不揃い品や規格外品も販売可能となる。
 C 対面販売により消費者の反応や尿かが直接届き、生産者が品質改善や顧客サービスに前向きになる
 D 高齢者が生きがい、女性がやりがいを実感できるし、地域の連帯感が強まる
 E 耕作放棄地や捨て作りを防止でき、地域特産物や伝統的調理法を警鐘する等、農地や技術を保全、継承する
 一方、地産地消については、その性質上、以下のような問題点や限界もあると考えられる。
 @ 地産地消は必ずしも大量流通に適したシステムとなっていないので、コストアップ要因になりうる。特に、出荷・販売活動は、そのほとんどが労働力の追加と考えておかなければならない。それは生きがいとなる側面と負担となる側面がある。また、青果物の大型共選場を持っている地域では、その有効な活用方法の再検討も課題になる。
 A 「地産地消ならどんな地場産品でも売れる」といった安易な考え方に陥る危険がある。地場のどのような消費層に、いつ、どのような品質の農産物をいくらで販売するか、販売促進の方法は、売れ残り品はどのように処分(販売)するか、どのような大勢と方法で品質管理を行うか、誰がどのような方法で搬入・搬出をおこなうか、包装、接客、クレーム処理の方法等、「地産地消ビジネス」が持続するための販売、財務、接客等に十分な経営管理能力が求められる。 なお、組織的な地産地消が一般的であるが、その場合、どこまでが個人の裁量と責任かを明確にしておく必要がある。
 B そもそも、厳密に地場の農産物のみによってすべての品揃えを賄おうとするのは困難であるから、地産地消が農産物流通の大宗を担うといったことにはならないであろう。
 これらの問題点や限界に留意しながら、いかに地産地消の輪を広げていくかが重要である。
 この場合、地産地消を地場農産物や地元の範囲のみを対象とする狭い意味で捉えるのではなく、国産品を優先的に使用するといった広い意味で捉えることによって、「広域大量流通」対「直売所」といった対立的な概念としてではなぃ、消費者のニーズに適合するような新しいシステムを工夫していくといった発展的な概念として位置付けていくことが可能となるものと考えられる。
<農水省は農林水産物等輸出促進も政策のうち>
地産地消を促進する農水省にはもう1つの顔がある。それは日本の農水産物を世界に輸出しようとの姿勢だ。農水省の中の大臣官房国際部貿易関税課に輸出促進室があり、メールマガジンも発行している。 「地産地消」をスローガンに、地域で生産されたものをその地域で消費することを推進している農水省が、高品質で安全・安心な日本産品を世界に輸出しようと呼びかけている。 対策の1つに、「輸出阻害要因の是正」として「FTA交渉などで高関税率等の障害の撤廃をリクエスト」という項目がある。日本がコメの輸入に対して高い関税をかけていることなどはこの対象となるのかな?
 農水省は、日本国内では「地域で生産されたものをその地域で消費しましょう」と呼びかけて、海外では「地域で生産されたものだけでなく、いいものなら外国から買ってでも消費しましょう。日本では皆さんに喜んでもらえる農産物を沢山生産しています」と呼びかけている。 「地産地消がいいのか、悪いのか?」などの愚問は発しないこと。農水省が言いたいのは「地域で生産されたものでも、そうでないものでも、日本の農産物は良い物なのだから、日本の人も外国の人も日本の農産物を消費しましょう」と言っているのだから。 つまり日本の農水省は、生産農家を守ることを省務としているのであって、これに関しては、その通り生産農家を守る標語を掲げている。
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<憲法で借款の禁止> アルバニアは社会主義の建設を、主として自力で行うことを宣言し、憲法で「外国の経済・金融の会社その他の施設および資本主義者と修正主義者の資本主義の独占企業・国家と合同で作られたこれらのものに対して免許等特権を与えまたはこれ等のものを創設すること、ならびにこれらのものから信用の供与を受けること、はアルバニア人民社会主義共和国においてはこれを禁止する」(第28条)と規定されている。 国家計画委員会の統計局は、輸出入量、外貨準備高等のデータを1964年以降発表していない。私たちの質問に対しても明らかにしなかったが、「輸出入のバランスはほぼとれており、累積赤字はない」というのがその答えだった。この借款の禁止が、アルバニアを世界でも珍しい自給自足の国にしている。
 貿易は完全に国家の独占事業で、外国貿易省の管理の下で、産品ごとに金属鉱石輸出公団、金属鉱石輸入公団、工業製品輸出公団、工業製品輸入公団、農産物輸出公団、農産物輸入公団によって行なわれている。ユーゴスラビア、ギリシャ、イタリア等の近隣諸国、ポーランド、チェコスロバキア等の東欧諸国、それに西ドイツ、フランス等が貿易の主要相手国で、総額は4億ドル程度と推定される。
 この借款禁止は、他の東ヨーロッパ諸国と際立った対照をなしている。1960年代の半ばから70年代にかけて、冷戦の緩和とともに、他の東ヨーロッパ諸国は経済の発展を西側からの技術と資本の導入で行おうとした。しかし、運悪く73年のオイルショックに端を発した西側の不景気で、もくろんでいた西側への輸出がまったく伸びず、多額の負債だけが残ってしまったのだった。 (『現代の鎖国アルバニア』から)
アルバニア人民社会主義共和国憲法 抄

 第1条 アルバニアは人民社会主義共和国である
 第2条 アルバニア人民社会主義共和国は、すべての労働者の利益を表明し防衛するプロレタリアートの独裁の国である。アルバニア人民社会主義共和国は、アルバニア労働党を中心とする人民の結束に基盤を置き、労働者階級と労働者階級の指導の下にある協同小作農との結びつきをその基礎とする。
 第3条 アルバニア労働党は労働者階級の先導者であって国家と社会の唯一の指導的政治力である。アルバニアは人民社会主義共和国においては支配的イデオロギーはマルクス・レーニン主義である。社会主義体制のすべてはその主義はその主義に基づいてこれを開発する。
 第27条 外国貿易は国家の独占事業である。国内通商は主として国家が行い、国家はこの分野のあらゆる活動をその管理下に置く。企業の製品の販売価格および農業と畜産の製品の国家買上げ価格は国家が定める。
 第28条 外国の経済・金融の会社その他の施設および資本主義と修正主義の資本主義の独占企業・国家と合同で作られたこれらのものに対して免許等特権を与えまたこれ等のものを創設すること、ならびにこれらのものから信用の供与を受けることは、アルバニア人民社会主義共和国においてはこれを禁止する。
 第37条 国家は一切の宗教を認めず、人民の間における科学的現実主義世界観を鼓吹するために無神論運動を支持する。
 第39条 市民の権利と義務は、個人と社会主義社会の利益の調和とし、全体の利益を優先して考慮することにより、これを定める。市民の権利はその利口から分離することができないものであって、また社会主義体制に反対してこれを行使することはできない。市民の権利をさらに拡大・深化することは国に社会主義発展と密接に関連する。
 第55条 ファシスト、反民主的、宗教的、反社会主義的な性格の一切の組織の創立はこれを禁止する。 ファシスト、反民主的、宗教的、戦争商人的、反社会主義的な活動と宣伝運動および国民および人種の憎悪の扇動はこれを禁止する。
 第62条 社会主義祖国の防衛はすべての市民の最高の義務であり最大の名誉である。祖国に対する裏切り行為は最も重大な犯罪である。
 第63条 軍務と社会主義祖国の防衛のための不断の訓練はすべての市民の義務である。
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<主な参考文献・引用文献>
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』              NHK取材班 日本放送出版協会  1987. 5.20
( 2005年12月12日 TANAKA1942b )
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(3)高自給率は良いことか?
マスコミはどのように報道したか
<日本の食料自給率> 鎖国時代のアルバニアは食料自給率100%だった。では現在の日本の自給率はどの程度なのだろうか?農水省のHPから引用しよう。
平成13年度 
 米=95%(主食用は100%) 小麦=11% 豆類=5% 野菜=82% 果実=44% 鶏卵=96% 牛乳・乳製品=68% 肉類=53% 砂糖類=32% 魚介類=49%
 食料自給率とは、食べ物がどれくらい国産品でまかなわれているかを示す値のことであり、この自給率には、品目ごとの自給の度合いを示す「品目別自給率」、牛とか豚などの飼料用も含めた穀物の自給の度合いを示す「穀物自給率」、カロリー(熱量)をもとに自給の度合いを示す「供給熱量自給率」とがある。 上に書いたものは「品目別自給率」で、通常、「食料自給率40%」と言われるのは、「供給熱量自給率」だ。
 上記の他に食料・資源などの自給率を調べてみた。統計年度などに差があるので、正確な比較は難しいが、おおよそのことは理解できるだろう。
 まぐろ=46% えび=6% しいたけ=56% 穀物(食用+飼料用)=28% トウモロコシ= 0%、グレーンソルガム= 0%。石油= 0%、ウラン= 0%、天然ガス= 3% エネルギー自給率は原子力を含んで約20%、原子力を含まないで4%。
 日本でもしも食料自給率100%を目指すとしたらどうなるか?農水省のHP食料自給率の低下と食料安全保障の重要性▲と題されたところに、「国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要」 「このような私たちの食生活は、国内農地面積(476万ha(平成14年度))とその約2.5倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。このため、農産物の輸入が行われなくなってしまうような場合には、大幅な食料の不足がひき起こされることとなります」 という文章があった。こうした自給率の数字、農水省の文章を見ると、@小麦、大豆、トウモロコシ、について自給自足は絶望的になる。 Aに関しては、どのように理解していいのか迷う。農水省の方針「自給率アップ」ならば、自給率 100%にするためには、(A)国内農地面積を3.5倍にする。(B)生産性を3.5倍に、つまり単位あたりの収穫を3.5倍にすることなのだ。(C)では消費量を3.5分の1にすればいいのか?毎日3回食事をする人が1日1食にすればいい、とでも言いたいのだろうか?
 ということになってしまう。
 食料安保の観点から言えば、「食料安保のためにはリスクを分散させること。つまり供給地を多くすること。コメならば日本、アメリカ、中国、タイ、オーストラリアを供給地とすればリスクが分散できる」となる。生産力強化の観点からいえば「自由な競争を促進する。過保護政策はアルバニアのねずみ講事件のように弱い体質を作ることになる」というのがTANAKAの考えだ。
 野口悠紀雄が「自給率の低さは豊かさと安全の証」▲と書いているが、これはかなり大胆な表現で、アマチュアならともかくエコノミストは心で思っていても、なかなか口に出し難いだろう。言う人間が農業者でないと「土の匂いのしない者の意見は聞かない」という農業関係者の体質からまともにその意見を検討しようとはしない。 もっとも、それが農業界独特の倫理観かと思ったが、経済学者業界もそうらしい。日銀の人間がいくら言っても「ベースマネーの増減により、マネーサプライが増減する」という経済学の神話を疑おうとしない。 経済学者業界では「経済学者業界の匂いのしない日銀関係者の意見は聞かない」との風潮があるようだ。
 「食料自給率向上」とのかけ声を聞くと、新井白石・徳川吉宗・松平定信・水野忠邦の政策を思い浮かべる。
 理性的に考えれば「自給率の低さは豊かさと安全の証」となるのだが、この問題は信念・信仰の問題であり、経済の問題としてもセンスの違いになってしまう。
<リスク分散と自由競争> コメ輸入の自由化に伴う不安は「@もしもの時に外国に頼っていると不安だ。外国が売ってくれないかもしれない。A高齢化で農業がさらに衰退する」だろう。これに対してTANAKAの対策は次のようなものだ。コメは関税化し、初年度500%、次年度400%、次の年度300%、その次ぎの年度200%、さらにその次の年度100%とする。 さて、それからが工夫のしどころだ。100%の次ぎの年度はその前の年の輸入量によって国によって変わる。例えば前年のコメ輸入量が、全輸入量の50%の国に対しては50%の関税を、20%の国には20%の関税をかける。つまり日本に対してコメを多く輸出する国に対しては高い関税をかける、今まであまり日本に輸出してない国に対しては低い関税をかける。 こうすることによって、日本からみると供給地が多くなり、特定の国に依存する危険性が少なくなり、リスクが分散されることになる。
 「高齢化で農業がさらに衰退する」との不安に対しては、規制を緩和して産業としての農業に、参入の自由と土地保有の自由を保障することだ。現在の日本の農業は産業ではなくて公共事業になっている。 農業で儲けることが難しい。若い人が将来の生活を考えると収入が不安で参入したがらない。自由な競争を促進することによって産業として伸びていくであろう。いつまでも保護を続けていると、アルバニアで資本主義に慣れていなくて、ねずみ講に引っかかったように、結局いつまで経っても一人前になれない。 成長通を怖れて保護を続けるとこのようになってしまう。
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<マスコミは地産地消の国をどのように見たか> 資本主義の最先端をいく国のマスコミが、こうした地産地消の国アルバニアをどのように見て、どのように報道していたのか?幾つかの報道を紹介しよう。特に「地産地消の国」と捉えているものはないが、自給自足の経済体制をどのように評価し、報道していたか、関係ありそうな記事を選んでみた。
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NHK『現代の鎖国アルバニア』<石油不足の対処はマイカー禁止で> アルバニアの自給自足の経済を支えているのが、クロム鉱、ニッケル、銅、ボーキサイト、それに石油、石炭等の豊富な鉱物資源だ。なかでも戦略物資といわれるクロム鉱石は南アフリカに次ぐ産出量を誇り、アルバニア1の輸出品になっている。
 日本はアルバニアと毎年、総額1000万ドル程度の貿易をしているが、その額はここ2,3年、減少を続けている。アルバニアから何かを買う、カウンター・パーチャスをすることになる。しかし、日本の商社筋の話によると、日本が一番欲しいクロム鉱が最近、このカウンター・パーチャスの対象からはずされ、日本にとって輸入品目が非常に偏ってしまったためだということだ。 クロム鉱の世界一の産出国である南アフリカの人種対立による社会不安で、アルバニアが強気に出たのが、こうした政策の変化につながったものと見られている。
 石油の存在は、アルバニアの自給自足を支える要だ。その埋蔵量及び年間の産出量は明らかにされていないが、非公式には、年間最大300万バレルの産油能力があるとされている。油田地帯の1つに、まずチラナの南100キロ、フィエールの近郊にあるバルシュがある。ここは戦後の1950年代に開発が始まったもので、すぐ近くに78年から創業を始めたアルバニア最大の精油所がある。 このほか、第2次大戦中、イタリア軍が開発したクチョーバ油田、50年代に開発されたエルバサン近郊のチェリク油田がある。石油は完全に自給自足で、油田の開発には日本の掘削技術も導入しているということだった。
 しかし、いくら人口が少ない(現在=1976年、およそ300万)といっても、通常の国なら、この程度の石油量で国内消費をまかなえるわけがない。ちなみに、日本の石油消費量はおよそ12億バレル、アルバニアの400倍以上だ。日本の人口はアルバニアの40倍だから、日本人1人当たりアルバニア人の10倍以上の石油を消費していることになる。
 この石油の消費を押さえる最大の役割を果たしているのが、マイカー、個人車の禁止政策だ。バイクは所有が可能だが、そのバイクを含めて、国内で車両をまったく製造していないし、もちろん販売もしていない。乗用車はすべて公用のものである。外国人の車も、外交官を除いて個人のものは原則としてない。従って、アルバニア人にとって乗用車は縁のないものであり、交通手段は自分の所有するものとしては、最高級がバイク、次いで自転車ということになる。 自転車はすでに1970年代から自主生産を開始しており、チラナだけでなく全国で見かけたが、値段は800レク(約2万円)前後ということだった。これは一般の労働者の1カ月余りの給料に相当する。私たちから見れば、かなり割高という感を免れない。田舎では、今も馬が一般的な交通手段として用いられている。 (T注 TANAKAの家が、1951年新宿区内で引っ越しをしたとき、荷物を運んだのは馬車だった)
 1985年4月11日、チラナ放送は「午前2時15分、敬愛すべき我が党の指導者、エンベル・ホジャ同志が死去した」と伝え、厳かに鎮魂曲を流し始めた。この日から葬儀の行われた15日まで、アルバニアは文字通り全国民が喪に服した。 (『現代の鎖国アルバニア』から)
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『エコノミスト』<小さな国の大きな智恵> プロレタリア独裁の理論学習を全国的に展開している中国の東北、華北、華中の各地を3週間ほど歩いたあと、北京で中国民航機に乗り換え、東欧で独自の路線を歩いているアルバニアを対外文化連絡委員会の招きをうけて去る8月、2週間ほど視察した。(中略)
 中国の技術援助・資金援助による紡績工場、発電所視察の話があって、中国の援助についてアルバニア人の話が書かれている。
 アルバニアの人たちは「中国の援助は兄弟のような国際主義のものである。われわれは西欧の資本主義国や修正主義国からの援助や借款は拒否したが、中国からの支援は、これらの国ぐにからの援助とは本質的に違うものである」といっている。 中国は、「相手の国の主権を厳格に尊重し、いかなる付帯条件も絶対に要求しない、無利子か低利子の借款を与え、相手国が自力更生の方針に基づいて自立経済を発展させることができるように援助し、関係者が技術を十分に習得できるように保証する」と8原則でうたっているが、それを誠実にアルバニアで実行している。 したがってそれはアルバニアの自力更生の方針や精神となんら矛盾しないのである。どんな工場へ行っても説明にあたる責任者は必ず「この工場は中国の私心のない援助によってできあがったものです」とはっきり言う。そしてなかにはソ連の技術者はアルバニア人労働者の10倍の賃金を要求しましたが、中国の技術者はそんなことは絶対にしていません」という人もいた。 (『エコノミスト』アルバニア訪問記─小さな国の大きな智恵 から)(T注 当時のソ連と中国の人件費を比べてみると理由が分かるだろう)
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『朝日ジャーナル』<小さな国の大きな実験>  それにしても、アルバニアの発展ぶりは、私の予想をはるかにこえていた。主要道路は完全舗装され、そのうえを自転車やラバ、2頭引き馬車、かなり旧式のトラックが走り、あるいはねそべった牛や羊群がその見事な道路を占領している。 道の両側のポプラ並木の地表から1メートルぐらいが薬剤で白く塗られ、それが夜間の標識の役割をはたしている点も、中国そっくりである。腰高の自転車やラバ、トラックの間をすり抜けて、わがイタリア、フィアット製の高級観光バスが奇妙な警笛をならして疾駆していく。道ばたの子どもたちが、手を振りながらバスを追いかけてくる。 服装は質素だが、皆元気一杯である。手を振るだけではない。ゲンコツをつきだして笑顔で歓迎してくれる。チェコ国境にすみ、多くのチェコ人亡命者を見なれているオーストリア人の婦人は「ゲンコツだと、出て行け!といわれているような気がするわ」と言いながら満更でもない表情である。畑には、ヒマワリ、トウガラシ、綿、タバコ、トマト、トウモロコシなどが見渡すかぎり植えられ、水田も少なくない。灌漑設備もかなり完備しており、むだなく水が利用されるように配慮されている。 アルバニアの鉄道は、第2次大戦前、支配者であるツォグ王朝とイタリア外国資本の収奪を目的につくられたためか、単線で、しかもアドリア海中部沿岸の平野部だけ、外国とはまったく接続していない。見事な舗装道路は、この粗末な単線鉄道網によりそうようにはりめぐらされているわけだ。 (『朝日ジャーナル』東欧紀行ー小さな国の大きな実験 から)
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『中日新聞』<誇り たとえ貧しくても> 欧州で最も生活水準が低いといわれるアルバニア、個人所有の乗用車はない。せいぜい自転車だ。カメラを持ってい人もほとんどいない。主食類などの基本的な食料はあるが、肉が食卓に出るのは多分、週に1,2度だ。
 人々はテレビを通じてイタリアやギリシャの豊かな生活を知っている。しかし、特に西側の消費物資をうらやむ風ではない。
 「戦争が終わった時、われわれはなにもなかった。それに比べればいまはずいぶん良くなった。われわれは自分たちの力でそういうものを手に入れる努力をしている」
 アルバニアの人びとは西側の国との何比較ではなく、自国の40年前と現在を比べたがる。住宅、医療、農業、工業などは飛躍的に向上しているというのだ。
 住宅は田園地帯の場合、1家族が1軒の家に住んでいるようだった。しかし、都市では狭いアパートに大家族が入っているのが普通だ。
 首都ティラナで研究所勤めの知識人のアパートを訪ねた。そこには本人の家族3人と兄の家族4人、それに母親が住んでいた。この家で最も素晴らしい部屋と思われる居間に通された。
 壁と床はくすんだ茶色。壁には安物の絵が2,3枚。隅に旧式のミシンが1台。電球のかさはプラスティック製。これというものは特にない。
 台所はガス台1つと陶製の流し、洗濯機や冷蔵庫は見当たらない。トイレは倉庫と兼用で暖房用のまきが積み重ねてあった。家は狭く、家賃は少なかったが、すべては清潔できちんと整頓されていた。
 街で見かける商品は少ない。電池、電気製品、靴、服装品、衣類、せっけん、化粧品など売っているのはまれで、口紅をつけた女性にはなかなかお目にかかれない。
 たまに見かける商品は極めて値段が高く、質の悪いセーターが日本円で5200円する。ここでは月給が平均約2万円である。
 少ない収入は子供たちにしわ寄せがいく。この国の人の服装はじみでくすんだ灰色か茶系統だが、子供の服は着古した大人の服を再利用してつくられている。
 それにしても朝早くから夜遅くまで、街の通りでぶらぶらしているたくさんの男たちは何なのだろう。あちこちで見た。男たちは若者も年寄りも世代を選ばず集まって、ただおしゃべり、たばこを吸い、酒を飲み、トランプ遊びをしている。アルバニアには失業者はいないはずだが……。
 「すべてのアルバニア人は働く権利がある」という。「未来の成功を」「1990年計画の実現を」と党スローガンはいうが、妻の稼ぎか、国からの福祉金に頼って暮らしている男たちは多そうだ。
 人々の楽しみはテレビ。朝、そして夕方の散歩やお菓子のケーキぐらい。サッカー人気は高い。書店の本の半分以上はマルクス、スターリン、それにアルバニアの”偉大な指導者”ホッジャ前第一書記の関係だ。映画、演劇の大半は政治宣伝である。
 国は小さく、貧しい。しかし、アルバニアが独立を守ってきた誇りは高い。祖国が占領されたつらい思い出を持っている人にとっては、娯楽や消費財への少ないことなどは独立保持への小さな代償でしかないようだ。(ヨーロッパ総局、クレア・ドイル、写真も) (『中日新聞』1990.4.20 から)
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『文献・新聞記事からみるアルバニア』<開国後の食料暴動>  1991年12月7日の時点でアルバニア政府は「穀物の備蓄は6日分だけとなった」と明らかにした。同国の食料不足は深刻化しており、12月11日には食料暴動による放火で38人が死亡した。1992年2月25日ティラナの南東約80ぃろにあるポグラデツで食料暴動が発生し2人が死亡。
 2月27日にはティラナの南方60キロのルシュニアで群集が食料倉庫を襲撃1人が死亡、警官15人が重軽傷を負う事件が発生した。また、ルシュニアの社会党地区本部が放火され、警官隊との衝突で20人が負傷した。食料暴動は拡大の一途をたどっているように見える。
 これに対してアフメテイ首相は警察と軍の動員を指示し暴徒の鎮圧に乗り出した。1991年の総選挙によって共産主義体制が崩壊したアルバニアは「自由」を手にしたが、その代償として政治的・社会的・経済的混乱の中にたたき込まれたのである。このような状況が続けば保守派(スターリン主義者)が秩序の回復を掲げて巻き返しに出てくることも考えられる。
 「自由」という名のカオスか。「秩序」の名のもののスターリン型体制への回帰か。アルバニア情勢は総崩壊の危機を孕みながらますます混迷の度を加速している。 (『文献・新聞記事からみるアルバニア』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』              NHK取材班 日本放送出版協会     1987. 5.20
『エコノミスト アルバニア訪問記 小さな国の大きな智恵』      新井宝雄 毎日新聞社        1975. 9.16
『朝日ジャーナル 東欧紀行ー小さな国の大きな実験』         菊地昌典 朝日新聞社        1975. 9.19
『中日新聞 変化の胎動 鎖国アルバニア』           クレア・ドイル 中日新聞社        1990. 4.20
『文献・新聞記事からみるアルバニア』                大倉晴男 勁草出版サービスセンター 1992.10.15
( 2005年12月19日 TANAKA1942b )
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(4)文明の進歩と外部不経済
マン・マシン・システムを考える
<交通事故死者と自殺者> 死者の数は減っているとはいえ、交通事故は関係者に大きな悲しみを与える。社会問題としては自殺者の方が増えているのだが、突然の事故は子供やお年寄りなどの弱者が被害者になるケースが多い。 数字を探していたら2種類の統計を見つけたので、両方を掲載することにした。資料は 警視庁 のホームページからで、24時間以内死者数と30日以内死者数だ。 参考のため 自殺者 の数字も掲載した。これからは自殺者の方が大きな社会問題になるだろうが、ここでは交通事故の話から始まる。
人数\平成 5年 6年 7年 8年 9年 10年 11年 12年 13年 14年 15年 16年
24時間以内 10,942 10,649 10,679 9,942 9,640 9,211 9,006 9,066 8,747 8,326 7,702 7,358
30日以内 13,269 12,768 12,670 11,674 11,254 10,805 10,372 10,403 10,060 9,575 8,877 8,492
自殺者 21,851 21,679 22,445 23,104 24,391 32,863 33,944 31,977 31,042 32,103 34,427 32,3252
 上の表は日本の数字。アルバニアではどうかというと数字が見つからない。 分かるのは鎖国時代マイカーはなかったという事。個人所有の乗用車がなかったということは、交通事故も少なかったに違いない。日本ではそれでも年々死者が減っている。それにはコストもかかっているに違いない。 交通標識・交差点の信号の整備・充実など安全対策には費用がかかる。アルバニアのように自動車を増やさずに交通事故死者を増やさない政策と、日本のように自動車が増えるのを止めることはせずに、成長した経済の税金を投入して事故対策をはかる政策とが考えられる。 交通事故死者をこのように考えていくと、経済成長と外部不経済ということが問題だと気付く。
<豊かな文明社会の外部経済> 「地産地消の国アルバニア」は現代人にとって「アンチユートピア」であり「ユートピア」でもある。日本では農水省までが地産地消を提唱し始めている。 それには農業関係者のレントシーキングが働いているのだが、そのスローガンに共鳴する人は消費者の中にもいる。これは「日本の農業を守れ」運動であり、「国産品愛用」運動でもあるのだが、「自給率向上」や「食の安全性確保」などのスローガンに結び付いて、 消費者運動の1つになりつつある。ところで市民運動とか消費者運動を見ると1つの共通点があるようだ。それは「反科学技術」「反文明」「反市場経済」「反グローバリズム」だ。つまり経済成長に対する「外部不経済の問題提起」とも言えそうだ。 そうした「外部不経済」として現代社会に問題提起したものとして、宇沢弘文の『自動車の社会的費用』がよく知られている。以前にその「まえがき」から http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/yabunirami.html#2-6"><自動車の社会的費用>▲ として引用したので今回は「序章 自動車の反社会性」から引用しよう。
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<自動車の反社会性> 自動車の普及ほど、戦後日本の高度成長の特徴を端的にあらわしているものはないであろう。
 住宅環境は依然として貧しく、教育などの文化的施設はないようの乏しいままに放置され、医療など社会的環境にも十分な資源が投下されていない。また自然は荒廃し、都市からは緑が年々失われるままにまかせてきた。 それに反して、つぎからつぎに建設される大規模な拘束道路には膨大な資源が投下され、鉄骨をふんだんに使った頑丈そのものという構造をもつ道路桁をいたるところに見かける。人々の住む家は崩壊し、消失しても、高速道路だけはいつまでも存続しつづけるであろう。 また、狭い裏通りまで厚く舗装され、自動車運行はますます便利になってきて、人々はこぞって自動車を求め、運転することに生きがいを感じているようにみえる。その結果、自動車の保有台数は年々きわめて高い率で増え続けて、自動車および関連産業が日本経済のなかで占めるウェイトは圧倒的な大きさとなってきた。
 都市・自然環境の貧しさと自動車関連の施設に投下された社会的・私的資源の膨大さとの対照において、日本と肩を比べることのできる国は、いわゆる先進工業諸国のなかに見出すことはむつかしい。
 人々が競って自動車を購い、利用することをなにもことさら取り上げて論ずる必要はない。わたくしにはその資格もないし、その意図ももたない。各人が汗を流して得た収入をどのように使おうと、それは人それぞれの価値判断にもとずくものであって、人々が自からの嗜好にもっとも適した生活をおこなうことができるよいうこと自体、市民社会の発展のもっとも重要な契機でなければならないことは、kまさらここにくり返すまでもない。
 しかし日本の社会のように、市民の基本的生活をゆたかにするという目的のもとに道路の建設がおこなわれるというよりは、むしろ自動車通行を便利にするということに重点がおかれてきたところでは、自動車通行が市民生活に与える被害はもはや無視できないものになっている。このとき、自動車を保有し、うんてんすることは、各人が自由に自らの嗜好にもとづいて選択できるという私的な次元を超えて、社会的な観点から問題とされなければならない。
 ミシャンはその著『経済成長の代価』(都留重人監訳、岩波書店、1971年)のなけで、自動車をピストルに喩えてこの間の事情を説明しているが、自動車所有によって大きな社会的費用の発生しているときには、各人の選択の自由がどのような社会的意味をもつか、ということについても反省をせまられてくる。 (『宇沢弘文著作集第T巻』自動車の社会的費用から)
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<科学技術とどのようにつき合うか?> 社会経済システムの発達により人びとは市場経済というシステムを選択するようになった。その社会経済システムと並んで現代を象徴するのが科学技術の進歩だ。 どちらも人びとの生活を豊かにした。そして豊かになった人の中からそのシステムを批判する人が出てきた。そうしたシステムを目指している社会からはそうした批判者は出てこない。 豊かになった人の中からそのシステムを批判する人の主張を聞くと、実はアルバニアのような社会を目指して居るのではないかと感じる。このシリーズはそうしたTANAKAの感覚をもとに始めたものだ。
 経済システムの進歩と並んで科学技術の進歩のも、豊かになった社会から批判者が出始めている。そうした問題をどのように考えたらいいのだろうか?そのような視点から、科学者の立場から書かれたものがあるので、一部引用することにしよう。
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<文明の進歩と人間疎外> 文明という名の行進が狂ったように足を速めてゆく。先頭はずいぶん先の方にいっているのに、後列はまだだいぶ後のほうにいる。この行列の目的地がどこであるかはだれにもよくわからないが、先のほうにはきっと別天地があるだろうと思っている。 それにしてもこの行進は速すぎるのではないか。ほこりが立ちあがり息苦しいだけではない。行進の烈からはずれて道ばたにしゃがみこんでしまった人もあるし、何人も病気になり、頭がおかしくなった人もいる。ケンカをはじめたものもある。そればかりではない、この行進のために壮年の人も子供も何人も死んだという。 なるほど先にはいいところがあるかも知れないが、このありさまではあんまり人間がいじめられすぎている。この文明という名の行進が、逆に人間をけものにしてゆくのではないか。そんな声が行列の中から聞こえてくる。
 新聞や放送のニュースが報告する毎日のできごとはもとんど社会の暗い面だが、紙面にのらないものもまだいっぱいあるのだ。そのひとつひとつをよく見ると、どれもこれも文明のひずみのように見えてくる。しかもその大半は交通事故や公害のように機械に直接関係するものだし、経済問題や軍事問題にしても、その背景には機械の代表する現代技術が関与している。 文明の行進の速度が増してきたのももかならぬ機械のせいではないか。人間が人間を疎外するのではない。機械が人間疎外の犯人だ、そう考える人もあるだろう。しかしこの人たちも、実は機会の恩恵に浴していることは知っていると思う。今日の都市生活の中で機械と無関係なのもはありえないし、それを楽しんでいる瞬間もあるのだが、だまっていられない心情も否定できない。 機械と人間とはいったいどんなかかわりあいを持っているのか、冷静に思いをめぐらす必要がある。
 問題を取り上げてゆく態度もいろいろある。最初から色眼鏡でながめ、楽観側でものを言ったり、悲観側の告発だけでもよくないだろう。短い期間の観察だけで、先の先まで空想し、何々のあそれがあるという言い方をするのも科学的ではない。まず問題を解決するという意気込みで取り上げれば、分析の段階にいても、改造のための要素分析をすることになる。 また多くの問題は局部的なもので終わらず、複雑に社会のしくみにからんでいるのだから、それがどの程度の規模の問題であるかをはやく知ることも大切だろう。告発型の問題意識ではその一点だけで善悪をきめてゆく傾向をもつが、それは自分で解決する主体的な態度が弱いためだ。 損害賠償で事が解決するかのように思うのは大きな間違いである。それは機械と人間の問題の解決ではなくて、もめ事の解決にすぎないのだ。
 機械と人間にかかわる問題の根はきわめて深い。それは人類の行進そのものの問題なのだ。歴史的にもだいぶ前からはじまっていることだし、これからますます増加する問題なのだ。万国博覧会が「人類の進歩と調和」というテーマをきめたいきさつは知らないが、文明のゆくてに黒い雲が見えるからだ。 それをどのように避け、より高い調和を見いだすか、このテーマへの解答を万博解会場で発見することははじめから期待していなかった。問題はそれほど単純ではないからだ。会場では天に突きたつ高い塔や、奇妙な造型が人を驚かすだろうし、機械技術の新しい可能性が誇示されているが、そこに文明のやすらぎを発見することはむずかしと思う。われわれはまず大きな流れから考えてみることにしよう。
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<マン・マシン・システムでの自由と調和> 未来論の中にでてくる進歩の概念は、その価値判断からいえば、人間の自由なり可能性の拡大につながるものが多い。中には誤りを起こさないとか、静かな調和に達することを進歩とみる人もあるが、そのような状態はまだずっと先のことだと考え、積極的な若い状態にあるのが現在の人類の平均の姿のように思う。
 ところで「自由」であるが、何故そんなに自由がほしいのかと考えるとき、不自由で」あるという意識が根底にあるからだという答えがでてくる。たしかに人類は欲が深く、欲求に対して可能性が追いつかなかった。考える動物としての機械はもっぱら新しい欲求を描くことにつかわれたようだ。だいたい欲求の多いほうが指導的な立場になり権力をにぎった。そのほうが可能性が多いからである。 しかし少数の自由のために多数が不自由になれば、自由の争奪戦がはじまるのは当然のことであるし、多数を従属させなければ得られない自由であるとすれば、この争奪は常に絶えないことになる。この解決は、自由度を増加する以外に方法がなかったわけである。
 マン・マシン・システムは多数の人間の欲求を満足させる自由度を開発することができたのだが、その配分については問題が残ってrいるし、そのもかに、新しい不自由が一方では発生してきた。巨大なマン・マシン・システムを支えるための条件はかんりきびしいものであるから、その条件を守るための束縛は取り除くことができない。 得た自由と課せられる束縛の配分が、より人間的なものになるよう設計することが課題であって、果てしない自由というものはあり得ない。不自由のなかの自由、自由のための不自由とでもいうような、反対色の配合の問題があるだけである。
 調和についても人類は早くから考えてきた。ギリシャ思想の中に見られる調和論はついに数学形式(幾何学)に表現を求めていったが、黄金分割(長方形の縦横比の最も美しいときの値)を幾何学用語で表現したり、人体のプロポーションの理想的な値を考えたりしていたが、結局、美の原理は得られなかった。 感覚的にとらえた造型を式や幾何学で表現してみただけであった。地球上には重力が作用する場があって、その中での生活ではいつでも均衡という経験がつきまとうから、物体の安定や釣り合いについて自然とある感情が生まれているだろう。そこには無意識にうちに生活がむすびつき、宗教的感情まども交えて、ある美意識があったと思う。 説明できない直感であったが、その中に、相反する要素の均衡が考えられることは明白である。一方を拡大すれば他方が圧迫されるような要素である。自由と不自由、黒と白、立体の高さと幅、……一般化すれば変数X1、X2……Xnの間に全体を束縛する条件があって、その中で相対立するバランスを考えることになる。この束縛がとれてしまうともう何も定まらない。いいかえればきびしい条件の中で見出される美のようなものだ。 芸術は表現に自由が少ない中で考えられる表現である。表現が制限されていればこそ理解の上の約束が成りたつが、その約束の中で表現することはきびしさの上に考えることは、調和論の基本のように思う。
 マン・マシン・システムの未来がバラ色であるかどうか、ただ可能性の増大することだけ考えることはできない。どのような条件を設定するか、どこめでが文明の必要条件か、それがきまってはじめて調和が考えられることになる。
 美しい造型が、機能美としてとらえられることもよく見かける思想である。動物の形の美しさも、機械の美しさも一応包含することができる原理でもある。これだけが美の原理であるとは言えないが、1つの考え方として無視できない。もし調和をこのような機能美として考えれば、マン・マシン・システムの機能について一考しなければなるまい。前述してきたように、それは巨大な生活タイであるから、その生活の機能が合理的になり、文明の条件、人間の条件を満足しながら、多くの自由度の中から、どのような組合せを選ぶかということが調和になる。 静的な均衡論より、生活体であるだけに動的な安定性(外部にきびきび応動する)の機能美が意識にのぼってくるだろう。それは墓の美しさ、記念碑の美しさではなく、生きものの美しさに近いだろう。
 自由にせよ調和にせよ、最後は人間の意識の問題だから、マン・マシンシステムの論理からだけでは結論はでない。ただ人間の意識が正常であるために、未来は何等かの方策をもつだろう。さもないと、人間の滅亡が、かつてはその興隆をもたらした大脳の同じ機能によってもたらされる可能性が充分ある。そうなると最後に求められるものはやはり人間像だということになりそうである。 (『現代技術は何を示唆するか』から)
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<異端者の存在を容認する社会> 文明という名の行進が狂ったように足を速めてゆく。その歩みを止めようとする市民運動もある。解決への取組形は2つある。@1つは、速度をゆるめずに、豊かな社会になり、その豊かさを解決への方策を探る投資資金にしようとする取組形。 Aもう1つは歩みを止めたり、あるいは逆戻りさせようとの動きだ。日本は経済を成長させ、増えた税金で交通事故対策をはかりそれなりの成果をあげている。 アルバニアはAの政策。「地産地消」で「経済を成長させなくてもいいから、外部不経済を発生させない」政策をとった。「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」政策だった。ただし、それをアルバニア国民が望んだのかどうかは分からない。エンベル・ホジャが望んだことは確かだが………
 <豊かな文明社会の外部経済>とか<文明の進歩と人間疎外>といった問題を考えるとき大切なのは、視野狭窄にならないよう心がけることだ。気心の知れた仲間だけで議論していると、思わぬ見落としが生じることがある。外部社会の人間が見ると奇妙なことでも仲間内では常識となっていることもある。 土木・建設業界では談合は当たり前のこと、一般人には分からない永田町の論理が支配する業界もある。「土の匂いのしない者の意見は聞かない」人たちもいれば、政治哲学業界では「素人さんお断り」の業界独特の用語・論法があり、外部からの議論への参入を難しくしている。経済学業界では「日銀の意見も、短資市場関係者の意見も、マル経の意見も聞かない」風潮がある。 こうした業界では物事は全会一致で決まることが多い。そこには一代雑種が生まれる可能性が少ない。
 地産地消の国アルバニアを考えるとき、なるべく多くの立場から考えてみたいと思った。世界は市場経済・民主制度をヨシとしているが、違った考えがあるかも知れない。地産地消の国アルバニアはエンベル・ホジャ指導のもとに、このグローバル・スタンダードに挑戦した国だった。
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<主な参考文献・引用文献>
『宇沢弘文著作集第T巻』 社会的共通資本と社会的費用 自動車の社会的費用 宇沢弘文 岩波書店    1994. 5.10
『マン・マシン・システムの社会』                     高木純一 三省堂     1970.11.15
( 2005年12月26日 TANAKA1942b )
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(5)地産地消を支えた独裁体制
それを何処まで報道したか
<豊かになりたい、という欲望を抑える地産地消> 日本では農水省が地産地消を押し進めている。レントシーキングが働いている。そうしなければ地産地消は推進することはできない。なぜならば、地産地消は「豊かな生活をしたい=贅沢をしたい」という欲望を抑えることによってしか推進することができないからだ。 「国産品愛用」とは「高くても、品質が悪くても、国産品を買いましょう」に等しいからだ。もし国産品が安く、良い物ならばことさらスローガンを掲げる必要はない。「地産地消」は放っておいて実現出来るものではなく、ある程度強制的でないと難しい。アルバニアで、ホジャが鎖国を推し進められたのはそれなりの、力の政策があったからだ。 それをどこまでマスコミは報道できたのだろうか。中国の文革時代、4人組の太鼓持ち的報道に専念した新聞社は、林彪の事故死をあくまでも認めようとはしなかった。そうした中国政府無批判な態度によって駐在員を引き上げなくて済んでいた。マスコミは自己保存のために独裁政府に無批判になることもある。 アルバニアの場合はどうだったのだろうか。どうも日本のマスコミは、アルバニアの裏の、暗い面は報道していなかったように思う。ここではそうした観点からいくつかの報道を引用することにした。
 初めは外交官の文章から。当然アルバニア批判は書けないし、それを批判してもしようがない。
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<未知の国への日本使節第1号として> アルバニアは、東ヨーロッパの、バルカン半島にある国である。ユーゴスラヴィア、ギリシャと国境を接し、アドリア海に面している。
 アルバニアといえば戦時中、ムッソリーニのさしがねか何かでの「アルバニア併合」以来、特に戦後は杳(よう)として、ニュースもとだえた感があった。この40年余というもの、故ホッジャ・アルバニア勤労党中央委員会第一書記(当時)のしたに、ヨーロッパにありながら、自給自足と鎖国に近い体制を維持し続けている。外部との人の往来、物の交流ともにきわめて乏しく、緊張癖のある一部の海外マスコミが、時折「ホッジャの恐怖政治」なるニュースを流す程度であった。 そしてこの国は、いまもなお深い秘密のベールに包まれている。日本人はもちろん、近隣の国々の人でさえ、アルバニアを訪れるのは希有なことというのが現状なのである。
 そうなると、未知なるがゆえに関心や好奇心が頭をもたげてくることになる。1985年4月、40年余も独裁体制をしいてきたホッジャ党第一書記の死にともなって、この国の先行きなどをうんぬんすることも多くなってきた。 たしかに、西ドイツ等、西側各方面との関係増進に、そして去る2月のベオグラードでのバルカン外相会議参加を通じ周辺諸国との接触に、薄紙をはがすがごとく、用心深く努めているが、すぐにでも基本政策の転換をみるであろうというようなせっかちな予測は、禁物と思われる。
 こんな状況下、わたしは初代駐アルバニア日本大使として1982年秋、初めて同国を公式訪問し、以来数回にわたりこの国を訪れ、国内を旅行し、各方面の人々に会ってきた。 そのためか、多くの日本人から「アルバニアとは、一体全体どんなところですか」といった質問をしきりに受ける。ここで、政治・経済、ホットな問題を抜きにして一通りの印象を述べれば、次のようになる。
多いトーチカ・少ない自動車 このように、縁あってこのところ、毎年訪れたアルバニアなる国は、実際、風変わりなところが少なくない。そこに一歩足を踏み入れた途端、外の者にとっては珍しいものが次々と目にとび込んでくる。第一印象はやはり強烈である。
 国境入りしてすぐ目につくのが、トーチカである。野っ原といわず、山の斜面といわず、あちこちに、極彩色やコンクリート肌丸出しの大小のトーチカが、高く低くニョキニョキと、頭を突き出している。どれもがこちらを物言わずジロリと睨みつけているのは、何とも異様だ。 目立たぬように年ごとに工夫されているらしいが、当局者は「いかに原水爆の世でも、国の命運、最後の決め手となるのは一対一の決戦である。これは昔も今も変わりはない」と明言する。その基本思想は健在である。
 これとは裏腹に、地方の町はいうに及ばず、首都ティラナの中心街でさえ、ほとんど見かけぬものは乗用車である。自家用車などは論外といった光景をみていると、突如として場面が、あのすがすがしかった戦前の東京へとフラッシュ・バックしたかのような錯覚にとらわれる。 それでも、このところほんの少しずつ増えているように見受けられるのが、「お国のためなど明確な目的があれば別だが、人間いちいち車に乗らなければ生きて行けぬものでもあるまい。その多寡で文明の発達度をはかる一部外国人の考えほどバカバカしいものはない」とこれまたズバリといわれたものだ。
 静かな首都、ティラナの大通りに、厳としてあたりを睥睨(へいげい)するかのように目立つのは、スターリンの立像である。マルクス、エンゲルス、レーニンなどの顔はこうした国では珍しくもないが、ここではスターリンが大いにところを得、得意気にさえみえる。
 しかし、周囲の深い木立のせいか、それとも歴史にまつわる先入観のためか、せっかくの像も何となく陰鬱な感じがする。この点、隣の広場にある15世紀中葉、アルバニア独立達成の大英雄、スケンベグの騎馬像の威風堂々ぶりと対照的である。ちなみに、ささやかなスターリン博物館があるが、これはこれでなかなか興味深い。
信用供与は一切お断り これらの銅像の見守る中、夕暮れが迫ると、どこからともなく通りに群集がくり出し、いつしか散歩する人々の渦ができる。これは、地中海、バルカン地方の風情と大同小異だが、ここでは小声と人ごみのかもし出すサワサワという音の波間をぬって、若い兵士の一団の喚声がきり込んでくるのがおもしろい。 見ると、彼らを乗せたトラックが走っており、拳を上げたり下げたり、敬礼をしたり、国防の士気を鼓舞するらしい鬨の声を上げながら通りすぎて行く。アルバニアでは、女性兵士や制服の少女の拳敬礼も珍しくない。
 国の守りとなると、まずは自給自足ということであろう。アルバニア南部、ジロカスター方面へ足をのばすと、美しい田園の至るところで、四六時中トッカントッカンとやっている油田のほか、この国は良質のクロム鉱も豊富で、農水産物にも恵まれている。だから、わが国の8パーセント程度の広さの国ながら、なるほど自給自足でやってゆけるものかとうなずける。 こうした基盤があってこそ、外からの信用供与など一切お断りというアルバニアの規定もなおのこと生きてこようというものであろう。
 もっとも、むこうの人に言わせれば「金など借りようものなら、いつ首を絞められるかわかったものではない」とのことだった。
忘れてしまった何かが こうした風物を包み込むアルバニアの、自然ばかりは何も変わりもない。訪ねるたびにわが国の「開発」以前の静かなたたずまいを思い出す。遠くに霞む山々、野火とかまどの煙たなびく優しい平野、頂きまでせり上がる段々畑、黄金色にまばゆい麦秋など、どれをとってもなつかしい。
 人々にしてもそうだ。朝な夕な、野良仕事にいそしむ老弱男女、夕闇迫る木枯らしの中、家路を急ぐ牛追いの少年、真っ暗闇のデコボコ道でパンク修理を手伝ってくれたカップル、暖炉端でワインを傾けてワイワイしゃべる果樹園の赤ら顔の爺さんたち、南端近いプトリント遺跡脇の湖岸でにわかに見事な英語でむずかしい案内役をつとめてくれた釣り人、 首都の裏道で新設にもすれちがいざまきれいなフランス語で通訳をかって出た実直そのものの青年などなど……、アルバニアの人々の飾らない顔また顔が走馬燈のようにまぶたに浮かぶ。
 人間も心の奥にあるものはいずこも同じだ。ただ、彼らの素朴な忍耐力と喜々とした勤勉ぶりに、いまや西側では忘れられてしまったかのような根元的な何かが感ぜられて、それがとくに強く心に焼きついている。 (『バルカンの余映』から)
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<徹底した「反宗教闘争」> 中国のプロレタリア文化大革命を高く評価するアルバニアは、ちょうどプロ文革に並行した第4次5ヶ年計画(1966〜70)で「革命的手段で社会主義的生産関係をいっそう改善し、都市と農村、労働者階級と農民、工業と農業、精神労働と肉体労働の差を徐々に消滅」させる大問題を、工業・農業の発展とともに主要課題としてかかげた。
 そして、8万7千人の党員と候補に対して全体の利益を優先させる運動の展開を訴え、自留地削減運動、給与制度一般からの物質的刺激の追放処置、給与の最高限度の切り下げ、所得税の廃止、山岳馳駆の集団化の促進、全国緑化運動、処女地開拓の呼びかけなどを矢継ぎ早に発した。なかでも反宗教闘争は、この国の徹底性を裏書きしている。 私が、チラナやベラートの中心街でみた教会やモスクは、すべて板が壁や窓にうちつけられ、物置き、学校、集会所に変貌していた。回教徒65%、ギリシャ正教徒25%、カトリック教徒10%といわれたアルバニアで果たしていた宗教の役割は、想像を絶する大きなものがあったであろう。
 二千数百をかぞえた回教寺院の閉鎖状況を垣間見て、私はこのアルバニアの「徹底ぶり」に驚かざるをえなかった。この反宗教闘争は、人民大衆に依拠し「自とびとをひどく無知にする時代錯誤の神秘主義や唯心論をひろめ、保持するすべての宗教上の施設や説教師から、きわめて短期間のうちに、すっかり仕事をとりあげてしまうことに成功した。 アルバニアは教会やモスクのない国、キリスト教の牧師や回教僧のいない国となった」(ホッジャの第6回党大会報告)という。僧たちは、寄生者から労働して生活する存在となった。アルバニアは世界ではじめての無神国家になったと言われている。
 事実、教会は全く機能していない。だが、永年の信仰制度は、教会閉鎖で事がすむほど単純な、底の浅いものでない事もたしかである。人民共和国の成立以来、4分の1世紀の間に、宗教の政治からの分離、土地所有その他宗教団体名義の財産没収、宗教文献の出版禁止、宗教幹部の養成廃止へとすすんできた反宗教闘争は、第5回大会(1966年11月)とホッジャの1967年2月7日演説によって決定的な段階をむかえ、各家庭からのイコン、宗教書の一掃が遂行された。 ほぼ同じころ、中国でもプロ文革の過程で旧習慣に反対し、迷信の象徴を破壊する大運動が展開されていたことを考えると、中国とアルバニアが、同じような運動を東西でおこなっていたわけになる。おそらくこの思想闘争は、きわめて先鋭な、そして複雑な形態をとったことであろうし、終局的にそれが解決したとは到底いえないのが実情であろう。 しかし、婦人の解放とか、食生活の改善とか、なにげないスローガンの内容を考えていくと、解放前のミゼラブルなアルバニア民衆の生活が、リアルな姿をとってわれわれの眼前にうかびあがってくる。宗教者たちの多くが、ツォグ王朝やファシストの下僕として働いてきた事実をアルバニア人民ほど知悉している者はいないはずであり、そのことが反宗教闘争に徹底性を賦与したことは疑問の余地がない。
 夕暮れになると、ドラス海岸は、波うちぎわを散歩する大群衆の黒い姿によって占領される。右から左へ、左から右へとただ歩くだけの散歩であるが、そこに解放されたアルバニア人民の姿が赤裸々にうつし出されている。海へ突き出たレストランから流れるジャズやフォーク・ミュージックが、暗黒のアドリア海の上を滑るようにして消えていく。
 そして、どこからか「インターナショナル」の響きが聞こえてくる。アルバニアという国は、その小ささゆえに、無視されてはならない興味ある社会主義国家なのである。(きくち まさのり・東京大学助教授) (『朝日ジャーナル』東欧紀行ー小さな国の大きな実験 から)
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<バルカンの反逆者・アルバニア> アルバニアは、こんどの旅行でわたしがはいれなかった唯一の国である。衛星国をまわっているあいだ、各地のアルバニア公館で入国手続きをくりかえしたが、結局、ダメだった。 東ベルリンでは、アルバニア大使が酒まで出して好意を示してくれたし、ソフィアでは本国の回答を得るためといって電報代をとったが、これまたムダだった。ここのところ、すっと原則的に鎖国政策をとっているとあっては、あきらめるほかはなかった。
 しかし、アルバニアについての知識やニュースは、いたるところで得られた。とくにこの国をめぐるソ連と中共の対立が白熱化したときに、私はその周辺を回っていたので、新しい情報もキャッチすることができた。それに基づいてこの国のデッサンを描いてみると、ざっとつぎのとおりである。
 アルバニアの面積は2万8千平方キロで、長野県の約2倍、人口は140万で岩手県に近い。ヨーロッパではルクセンブルグに次ぐ小さな国で、”バルカンの文化果てるところ””ヨーロッパの野蛮国”とまで言われてきたところである。有史以来、ひきつづき他国の侵略と支配をうけ、やっと独立できたのは1912年、すぐまた第1次、第2次大戦に巻き込まれ、イタリア、ドイツの占領下におかれた。国内で鉄道路線が敷かれたのは第2次大戦後のことである。
 アルバニア人は、自国のことをスキペタールといっているが、これは”岩石国”という意味である。岩ばかりで耕地が乏しいので、この国の人間の半分以上は国外に出て、近東各地を流浪し、門番、夜回りなどに雇われて生活しているものが多かった。制服めいたものを身につけて、剣や銃をおびることが何より好きで、命を捨てることも平気だという。 国内でも泥棒が多く、山また山のあいだを渡り歩き、狩猟、賭博、強盗を生業のようにしているものが、いたるところにいた。ヒゲをそることは恥辱と考えて、男はたいていヒゲもじゃだったから、他のヨーロッパ人には”野蛮人”ということになっていたわけだ。
 言語、衣服、風俗、習慣などの面でもトルコ、ギリシャ、セルビアなどのものがまじり込んでいて、民族特有のものはほとんど消え失せていた。
 独立騒ぎのとき、折柄この国を巡業中のドイツ・サーカス団の猛獣使いが、近くトルコの王子が王として迎えられることになったと聞いて、うまうまとその王子に化けて王位についたところ、5日目にバレそうになって逃げ出したという話が伝えられている。
 独立後、共和制を敷いたが、ツォーグという男が大統領になって王制に改め、自ら王位につき”バルカンの袁世凱”といわれて、一時は権力をほしいままにした。第2次大戦後は人民共和国となり、勤労党(もとの共産党)の第1書記ホッジャが首相として完全な独裁制をしいている。
 アルバニアの共産党は、フランスがつくった学校から発生したものだが、ホッジャもそこの出身である。第2次大戦中、イタリアの占領中に共産党が結成され、ユーゴのチトーの援助のもとに、地下の抵抗運動を続けたが、それほど有力なものではなかった。戦後コミンフォルムができると、チトーがアルバニアの後見人のような形となった。
 しかしアルバニアは、人種的、伝統的にユーゴといたって仲が悪い。それがユーゴを通じて、ソ連の”陪臣”いや”陪国”にされたのでは面白くない。そこでモスクワと直接結び付くチャンスをねらっていたところ、チトーが明智光秀と化し、コミンフォルムに反旗をひるがえしたので、アルバニアはモスクワの直参となり、スターリンに忠勤をむきんでることとなったのだ。
 だが、その後、ソ連の内部に大きな変化が起こった。スターリンが死んで、新しく政権の座についたフルシチョフは、性格的にも理想的にもチトーに近い男である。このことはスターリンなきあとのフルシチョフの言動によくあらわれている。
 こうなると、ホッジャにとっては面白くない。フルシチョフ、チトー、ホッジャの3角関係では、ホッジャがふられたような恰好になった。それがフルシチョフ政権に対する消極的な抵抗となり、アルバニアでは”非スターリン化”も最小限にとどめた。
 この傾向がだんだんと露骨になり、大胆になったのは、中共という新しいうしろ立てができてからである。こういう貧しい小国は、どうしてもスポンサーが必要である。中共とソ連のあいだがシックリいってないことがわかると、アルバニアはグングンと中共の方にちかづいていった。それがソ連を刺激し、中共とのミゾをますます大きくすることになった。それにこういう小国は、伝統的に遠交近攻、合従連衝政策に慣れているし、長じてもいる。
 ソ連としても、これを見のがしたのでは、大国の威信にかかわる。そこでソ連がうった手は、アルバニアの海軍基地からソ連の潜水艦が引き上げたことである。むろん、これとともにソ連からアルバニアへの経済援助もうち切られてしまった。この海軍基地は、アドリア海から地中海にかけてソ連のニラミをきかすうえに大きな役割を果たしてきたのであつが、ミサイルが発達して、そういう必要がなくなったからだという見方もある。 しかし、ソ連が一度手に入れた基地を容易に手放すものでないことは、日本の千島その他の例を見ても明らかで、アルバニアに見切りをつけたのは、よくよくのことだとも言えよう。
 一方アルバニアの方では、国内の親ソ連粛清にのり出した。さっそく政府首脳部中の親ソ連的分子10名を、新しくつくった反政府陰謀取締法案で起訴し、4人を極刑に処したが、そのなかにはモスクワの陸軍大学出身者やアルバニア海軍司令官も含まれていて、ソ連をはじめ、共産陣に大きなショックを与えた。 罪名は例によって現政府の転覆をはかり、武器を輸入し、外国に情報を提供したことになっているが、むろんほとんどデッチあげだ。しかもこの裁判は、首都チラナの映画館を法定とし、演出効果100%をねらってなされた。弁護士をつけず、第1審で刑が確定し、24時間以内に執行された。
 最近、北京で開かれた中共の人民代表大会では、中共がソ連に頭をさげた形だが、アルバニアの方はどうなるであろうか。今さらのごとく小国のみじめさを感じさせるとともに、共産主義や社会主義も資本主義と同じく「ひとつでない」ことがこれでよくわかる。(昭和37年9月 文芸春秋新社) (『大宅壮一全集22巻』から)
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<地産地消の国に憧れる視聴者> 1986年12月8日夜8時50分、NHK特集『アルバニア・鎖国の社会主義国』の放送が終了した途端、NHK特報部のあちこちの電話がいっせいに鳴り響いた。視聴者からの電話である。
 「日本もアルバニアを見習って、もっと独自性をもつべきだ」(若い学生風の男性)、「自給自足で生きられるなんて、まさに20世紀も桃源郷のようで羨ましい」(主婦)、たとえ貧しくても、あのように明るい家庭が日本にもあったはずだ。昔を思い出して懐かしかった」(63歳の男性・自営業)、オートメーションだの合理化だの便利さばかりを追求するより、額に汗して働く人たちを見て感動した」「情報化の中でしか生きられない日本から見ると、あんなに何も知らなくて暮らしているヨーロッパ人がいたなんて驚いた。 日本は知らなくていいことまで知らされすぎる」等々、視聴者からの感想はいずれもアルバニアの1シーン1シーンの中に日本の昔や現在の姿をおきかえて比較した、1つの日本批判である。
 これらの意見は、多分に日本人のノスタルジアをかきたてた興味であったり、行きすぎた日本の合理性に反発したものであろうが、それにしてもアルバニアという国には、日本やアメリカ、ヨーロッパが鎖国という特殊な条件下であればこそであり、外国の情報も何も知らされていないからこその、ある意味での純真無垢さをもっているからである。
 とはいえ、アルバニアには今、開国の兆しが少しずつ見え始めている。あまりにも世界のレベルから立ち遅れた経済の回復を迫られての、やむを得ない決断であろう。しかし、開国とともに外界の豊富な情報、贅沢な消費生活が入り込んでくる。今のアルバニアの経済体制、経済力では到底、こうした消費生活を国民に与えることはできない。アルバニア当局はその門戸を開くにしても、ゆるやかに、しかも慎重に、常に限度を守って開国を進めなければならない。
 鎖国主義にしても、今の体制はアルバニア人が選んだものだ。誰に押しつけられたものでもない(T注 エンベル・ホジャが望んだのは確かだけれど、本当にアルバニア人が望んだと言えるのだろうか?)。その体制に欠陥があるとすれば、それはアルバニア人自身で変えていくべきことなのだ。私たちの取材の実感では、開国への移行は、それほどスムースに進むとは考えられない。が、それを実行できるだけの気高い誇りと、受難の歴史をくぐり抜けてきた強い忍耐力、そして類稀なる団結力が、アルバニアにはあると断言できる。 今後、アルバニアがどの方向に進路を向けようとも、国民は一丸となって突き進むであろう。アルバニアとは、そういう国なのだ。 (『現代の鎖国アルバニア』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『バルカンの余映』 東西南北の接点 ユーゴ・アルバニアの実相  天羽民雄 恒文社          1988. 8.20
『朝日ジャーナル 東欧紀行ー小さな国の大きな実験』       菊地昌典 朝日新聞社        1975. 9.19
『大宅壮一全集22巻』                     大宅壮一 蒼洋社          1981. 2.25
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』            NHK取材班 日本放送出版協会     1987. 5.20
( 2006年1月2日 TANAKA1942b )
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(6)シグリミと呼ばれる秘密警察
市民監視とライバル追放
<西欧人の報道姿勢> 先週は日本人の見たアルバニアだった。今週は西欧人がどのように見たか?どのように報道したか?それを紹介しよう。日本人は「地産地消の国アルバニア」に自分たちが失った、古き良きのもが残っていると報道し、それに感動した人たちがいた。 今週は全く違った見方からの報道を紹介することにした。
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<シグリミの監視> アルバニアの人々との会話には、いつも目に見えない”障害”がある。
 「毎日の暮らしはいかがですか」と聞く。答えは「満足です」。「政府についてのご意見は?」「政府は国民にとって何が最善かよく知っています」。いつも同じだ。
 東欧各国で民主化への激しい動きがあった。アルバニアの人々も一連の事件は知っているはずだ。だから別の反応があってもよいはずだが、それが感じられない。
 人々は真実を語ることを恐れている。アルバニアでは、3人に1人が秘密警察「シグリミ」といわれる。うっかり話せない雰囲気が国内全体に満ち満ちている。
 この1月初めにあったというデモについて知りたかった。首都ティラナ。午後3時ごろ、1人の男子学生に会った。話を聞きたいというと「夜ならいい」という。
 「いま、ここで聞きたい」と食い下がると、「君は監視されている」と学生。
 その直後、自転車に乗った茶色の上着の男がじっとこちらを見ているのに気づいた。この男の姿を、日暮れまでに4,5回見た。学生の話は本当らしかった。
 午後9時ごろ、約束通り学生と会うことができた。
 「喫茶店か酒場に行こう」というと、「公衆の面前良くない」と学生。彼の意見に従って小さな公園のベンチに座った。
 学生は言う。
 「ホテルで話すのは1番いけない。ホテルは秘密警察だらけだ。すべての部屋の灰皿やタオル掛けに盗聴マイクが仕掛けられている」「あなたは帽子を取ってくれ。アルバニアの女性は帽子をかぶらない。 君は目立ちすぎ、外国人とすぐわかる」「カメラは隠せ。メモは取るな」
 肝心のデモの話より、学生の神経質な対応の方が興味深かった。デモもティラナとシコダルで実際に行われたのだという。学生はこう話した。
 「アルバニアは貧しい。服もシャンプーもせっけんもない。だからデモは当然、経済要求になった。政治的なものではなかった。デモを実現するために、仲間から仲間へそっと手紙を回し、電話をかけ合った。 ごく小規模のデモだった。その夜、参加者のうち15人が逮捕された。政府はこの事実を一切、明らかにしていない」
 でも 規模は500人ないし1000人だったという。
 2人で30分も話していると、公園に60歳がらみの男が現れた。学生は「秘密警察だ。話はおしまいだ」。すっかり落ちつきを失って「顔を伏せろ」とも。
 男は近寄ってきて、腰をかがめ、靴ひもを直した。
 会話の継続はもう危険だった。
 学生は立ち上がり、私もそうした。
 この国では、年寄りに対しては注意しなければならないという。年寄りは働けなくなると、秘密警察への通報によってエキストラ・マネーを稼ぐからだ。
 ホテルに戻ると、すぐに灰皿と浴室のタオル掛けの裏を懸命に点検した。何も見つからなかった。(ヨーロッパ総局、クレア・ドイル、写真も) (『文献・新聞記事からみるアルバニア』中日新聞1990年4月18日 から)
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<監視されるジャーナリスト> ちょうど旅券をめくりかけていた役人の手がとまる。大きなベレーをかむった頭があがり、2つの眼が信じられないというようにわたしを見つめる。
 「あなたはチラナに行くですって?」
 「ええ、そうなんですよ」──とスチュアデスがわりこんでくる──「このかたは明日のチラナ行きを申し込んであります」
 皮肉な微笑まじりのスチュアデスの証明も通じない。検査官は大急ぎでベレーを額の上に押し上げ、熱心にわたしの旅券をめくりだす。まもなく彼は、シキプタール人民共和国の珍しい鷲の紋章のスタンプを見つける。それでも彼は満足しない。
  *アルバニア人は自国を「シキプニー」、住民を「シキプタール」また「シキペタール」(岩登りの人)と称している。
 「でもあなたは西ドイツから来られたのでしょう?」
 語調には疑いのひびきがある。わたしがそうだと答えると、やっとこの役人には事件が落着する。彼はわたしの旅券をパチンと閉じ、頭をふりながらわたしに返す。わたしがハンガリアの通過査証を持っているかどうかは、彼にはもう関心がないように見える。
 ブタペスト空港の小さな出来事は、意味がある。ずっとまえから、西方諸国の国民はアルバニアの入国査証を手に入れることは、まったく不可能といわないにしても、難しいことであった。 ことに西側のジャーナリストの訪問は閉めだしであった。第2次世界戦争いらい、ドイツ連邦共和国の記者はだれ1人として、アルバニアに足をふみ入れる許可をもらった者はいない。自由世界の新聞通信員が、最後にアルバニア訪問を許されてから5年になる。 モスクワの勢力範囲のもっとも孤立した衛星国からのかれらの報道は、そのころまさにセンセーションであった。それいらいアルバニアはまさしく隔絶していまった。アドリア海に臨むこの荒々しい山国に何が起こっていたか、政治的な事件がどのように進行したかは、思惑にまかすほかはなかった。 その思惑は一部はアルバニアの隣国の底意のある報道やうわさ話から組たてたものである。共産主義的人民民主主義の鎖のうちもっとも小さなこの国の一環は、ヨーロッパのチベットになった。
 それだけに、1961年8月に、わたしと3人のドイツ人の同僚に、アルバニア入国だけでなく、ほとんど4週間に近い滞在の許可がチラナの役所から伝えられたのは途方もないことなのであった。 西側の外交官たちは、この意外な決定は間違いで、間もなく取り消されるだろうと思ったものである。同僚たちは、彼らのねたましい気持ちを隠そうとしなかった。東のブロックのジャーナリストたちは、チラナの役所の下したこの思いがけない、そしてこれまでの一切の伝統に反する決定にあっけにとられ、政治的陰謀だろうとの邪推が彼らの心にきざした。 彼らの多くの者は、皮肉で陰気な予言にこと寄せて、心ひそかにいだいている懸念をもらした。
 「無事に帰れるように気をつけたまえよ」とポーランドの同僚がわたしに忠告した。「アルバニアにはパンはあまりないが、そのかわり沢山のスターリンが、そしてもっと沢山の処刑隊がいる」(中略)
エンヴェルはすべての人のために すべての人はエンヴェルのために 全体主義国家ではどこでもそうであるように、最有力者のスケールと性格は、決定的な役割を演ずる。それはアルバニアにとくにあてはまる。東ヨーロッパのどの国家とも違って、アルバニア共産党は20年このかた唯一の人間によって鋳こまれてきた。 「エンヴェル・ホッジャは党であり、党はエンヴェル・ホッジャである」という公式が、いたるところで確証されている。
 いたるところにエンヴェル・ホッジャがいる。アルバニアの村でも町でも、だれ一人彼の偏在をまぬかれることはできない。都市の公園には、しゅろの梢やユーカリ樹の葉がくれに、メッキした彼の胸像が顔を出している。 広場で、また官省の建物の内外で、石膏やブロンズの彼が、臣下の営みを監視している。どんなに珍しいところにも、素朴に描かれた彼の肖像が見られる。すべての旅館とホテル、すべての学校と官省に独裁者の肖像をかけるのは、すべての全体主義国の慣例にかなっている。 しかし、海水浴場のテント張りのビール屋の傍らに、フットボール・グランドの隅のポールに、あるいは地方博物館の考古コレクションの中にある装飾としてのエンヴェルは、悪趣味が許しうる度を超えている。アジテーターは、彼らの英雄の像を張り付けようと、居住地区の壁面にあいているところがないかと眼を光らしているように見える。 コルホーズの畜舎の壁や、町のけっして豊富に飾りつけているとは言えない商店のショーウィンドーのガラスにいたるまで容赦はしない。命ぜられたあらゆる機会に、シュプレヒコールは彼の名をうたっている。(中略)
 アルバニアの共産主義的統制の模範はとなりのユーゴスラヴィアであった。チラナはベルグラードの衛星になった。チラナとモスクワの連絡は、ユーゴスラヴィアの首都を経由して行われた。ユーゴスラヴィアの同志の背面擁護によって、エンヴェル・ホッジャは自国民に対して苛酷な態度をとった。 ボリシェヴキ化を受け入れようとしないアルバニア人は、威嚇と経済的圧迫で効き目がないときには殺された。エンヴェル・ホッジャは、より頑固な反対者は「人民の敵」として特別裁判にかけた。 ソ連邦のスターリン時代に、あのように典型的であった「省略刑事訴訟法」、つまり被告の陳述なしの判決を可能にあいた、いかなる控訴をも許さないやり方が、アルバニアによって引きつがれた。
 チラナにおける共産主義支配の初期の例をいくつかあげよう。クーケス地方の共産主義反対者のグループ、つぎにクルーヤ地区のグループ、マーティ地方の反乱者は、1944年末に処刑され、1954年1月に、8名のチラナ旧アルバニア高級警察官、2月にクーチョーヴァの多数の「サボタージュ者」が処刑された。 4月に、60名の元高官、高級警察官、議員が判決を言い渡されたが、その内17名は死刑であった。くる月も、くる年も恐怖一色のうちに過ぎた。(中略)
 アルバニアの党首がどのようにこの芸当をやってのけたかは、まさにマキャヴェッリ的権力政治の模範的例である。1948年10月の内閣改造にあたり、かれはゾゼを工業相に任じた。内相として多年活動してきたことによりゾゼは、秘密警察の強力な機構をにぎっているので、これを無事にあやしておくために、ホッジャはゾゼの親友ケレンチを内相に任命した。 こうしてホッジャは、ほとんど目立たせないで、もっとも重要で危険な権力用具をゾゼからもぎ取ることに成功した。1カ月のちに、党首はゾゼに一撃を加えた。彼はゾゼの全官職を免じ、ゾゼの親友の内相を罷免した。ゾゼの支持者と推測される残りの者は、国家と党における枢要な地位を免ぜられた。 1週の後、すなわち1948年11月のはじめ、チラナにおけるアルバニア共産党第1回大会で、ゾゼは弾劾された。もし「ユーゴスラヴィア・トロッキズムの反アルバニア的・反マルクス主義的」分子がアルバニア指導部の腕のなかに身を投じなかったならば、戦後期にこっと多くのことができたであろう。 これらの「分子」は、まず第1にチトーによって騙されているのであるが、アルバニアの党内には彼から指示を受けているようなもののサークルもあるであろう。これらの裏切り者の先頭になったのはゾゼである、というのである。 党大会開催の翌日、ゾゼは逮捕された。1949年の5月に、彼は軍法会議にかけられた。審議中に、「有力なデモンストレーション」が死刑を要求した。すでに6月11日に軍法会議判士長は死刑判決を下した。
 判決は即日執行された。
 ことはこの「粛正」だけにとどまらなかった。一連の著名なアルバニア共産主義指導者が、同じ刑吏に引き渡された。すべての人が「アルバニアをソ連邦から引き離し、国をベルグラードの影響下に置こう」と企てたと非難された。(中略)
 いうまでもないが、粛清は党の指導的エリートに限られたわけではない。エンヴェル・ホッジャは、1952年3月のアルバニア共産主義者の第2回党大会で、このことを明言した。ユーゴスラヴィアを社会主義陣営から排除したコミンフォルム決議以来、アルバニア党から5996名の党員および党員候補が除名された。 ホッジャは、いまや「幹部の統一」が回復され、これによって党史上の重要な一時期が終わりを告げたことを、大会に声明した。(中略)
シグリミはいたるところに スクータリでは保安機関は、特殊な措置を取らざるをえないと考えていた。ある日曜日の午前に、ただ1つ残っているアルバニア・カトリック教会堂のミサを見たいと思った。朝食のずっと前から、ホテルのホールに多勢の「私服」が顔を出した。 教会堂への途中、いやな目つきをするどく眼を働かせている一隊の人びとがわたしのあとについて来た。スクータリの保安官庁は党機関紙の『ゼリ・イ・ポプリット』から、よくその教訓を学びとった。「教権主義・ファシスト」西ドイツ国民と、アルバニアのカトリック僧侶との出会いから生ずる、すべての帰結を阻止しなければならなかったのである。
 わたしが南アルバニアのサランドを訪れたときも、「所轄」シグリミ官吏を発見することができた。私はサランドから、アルバニアの最南端でコルフ島に向かい合っている古典時代ギリシャのブスリント(ブートリント)に小舟で旅行することにした。この旅行ではコルフ海峡を通過しなければならないが、この海峡はある地点で、わずか4キロメートルの幅しかない。 航海中の保安措置は、まず第1にアルバニア人の同行者に対したもので、外国人に対してではなかった。ここでは、勤労シキプタール人の楽園に背を向ける好機があったわけである。 しかしこの場合でも、義務的な秘密警察員がモーター・ボートに潜んでいた。アルバニア人にとってはブースリントの旧蹟を訪問することは特別許可がなければできなかったのであるから、ボートにはごく僅かな乗客しかいなかった。旅行中わたしは、いったいだれが監視者かとよく考えてみた。そこには船長、運転士、組立工、サランド市アルブ・トゥーリスト・ホテルの支配人、そのほかにボーイもいた。 ちょっと見たところでは、だれ1人シグリミ所属の印象を与えるものはなかった。こんどは、いかな素人探偵の眼力もだめかと思われた。ところが偶然わたしを助けてくれた。乗組員の1人が水中に何かを発見し、総員が手すりに身をかがめた。それと同時に一陣の風がボートをかすめ、上着のすそをまくり上げた。おどろいたことに、ボートの右の尻ポケットにコルト拳銃入りのケースを見つけた。モーター・ボート上の最有力者はだれだろうという問いは、これで答えられた。
 アルバニアの巨大な監視機関は、当然のことながら、外国人「保護」だけのために作られているのではない。それはアルバニア人にも当てはまる。
 ある学生がわたしに告げた「われわれの大学にはシグリミがいっぱいです。一語一語に気をつけなければなりません。かれらは講堂に座っており、休憩時間に廊下で話をしているどのグループにでも近づきます」
 あるアルバニアの知識人が、声を潜め手を当ててわたしに打ち明けた。「ここではだれも他人を信用しません。あまりいろんなことが起こりましたから」
 恐怖が人びとの顔に書き込まれている。社会的秩序の階段を少しばかりよじ上った人びとはとくにそうである。深淵への転落の危険を冒すものは一人もいない。全体主義もモロック神にこれまでいかに多くの犠牲が捧げられたかは、誰も正確にはわからない。 国連事務局のある報告によると、1945年と1956年の間に、アルバニアでは8万人の政治的反対者が逮捕されたという。1万6千人が監獄または強制収容所で殺された。わずかな数の人口と、権力者にとって真に危険をおよぼし得るものの範囲が限られていることからみれば、これは驚くべき高い数である。1956年以後国内に生じたことについては、だれも正確なことを報知できない。
 *  モロックはセム教の神で、莫大な数の子どもを人身御供に要求する。
 ** アルバニアの人口は約140万であるから、人口の5.5パーセント以上が10年間に逮捕され1.1パーセントが殺された計算になる。
 「やっと最近になって逮捕が減りました」と、わたしの話し相手が保証した。かれはチラナの中央委員会の内部の事件を一瞥したに違いないのである。
 しかしこの暗示は、テロルの度合いと範囲についてあまり多くのことを語っていない。これまでアルバニアで起こったことは、シキプタール人をおどしてつけた。しかしシキプタール人の不安は現制度の保安である。逮捕はいつでも任意に再開することができる。それについては疑いがない。1960年はじめに、アルバニアの指導部は法令を発布した。 これによると、単なる行政処分でいかなるアルバニア市民をも拘禁し、追放することができる。いまなおこの小国に14の強制収容所があり、そこには政治犯が拘禁されている。あるときわたしは、囚人の一隊をすぐ身近かに観察することができた。東アルバニアのコリッツァからオフリド湖のポグラデツへの途上で、焦げるような真昼の灼熱のもとで、彼らは道路建設の重労働に従事していた。 いつでも発射できるように自動ピストルを持った兵士が、作業所を取り巻いていた。われわれの自動車が近づくと、囚人たちは仕事をやめた。彼らはごろごろになった服をつけて痛ましい姿に見えた。彼らがわれわれを見つめた視線は悲しげであり、また絶望的であった。 (『アルバニアの反逆』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『文献・新聞記事からみるアルバニア』 中日新聞1990年4月18日     大倉晴男 勁草出版サービスセンター 1992.10.15
『アルバニアの反逆』                ハリー・ハム 石堂清倫訳 新興出版社        1966. 6. 1
( 2006年1月9日 TANAKA1942b )
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(7)社会主義国の異端児アルバニア
外部からの干渉に対する鎖国
<平和共存か解放闘争か> 長い歴史の中で絶えず他民族からの圧力と支配を受けてきたアルバニア、エンベル・ホジャは他国との外交関係の窓口を狭め鎖国に近い状態を保っていた。 そうしたアルバニアに対する外国からの干渉は、小国アルバニアにとっては耐えがたいものであったと想像できる。そうした干渉について、社会主義陣営からの干渉と、自由主義陣営からの干渉について扱うことにした。 とくにアルバニアに対するゲリラ作戦は日本では話題になっていない。すべて失敗に終わっているのだが、小国アルバニアの治安当局にとっては強い圧力と映ったに違いない。
 初めは、アルバニア労働党の歴史から、そしてイタリア共産党トリアッチのアルバニア批判、そしてアルバニアに対するゲリラ作戦を取り上げる。
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<人民民主権力の防衛と強化> アルバニアに樹立された人民の国家権力と、国家における共産党の単独指導とは、メイリオ;済、社会、文化の領域での人民の反帝民主革命を最後まで遂行するのに必要な政治的諸条件をつくりだした。 このことは、革命が中断することなく発展して、ただちに社会主義革命に移行し、社会主義的性格の経済的社会的変革を実現することを可能にした。
 ただこの道をたどることによってのみ、民族解放戦争で勝ち取った勝利を守り、戦争が残した破壊と過去から引き継がれた後進性を取り除き、労働者が搾取と困窮から永遠に解放され、わが国の経済と文化の急速な発展のための条件を作りだすことができた。
 人民革命のいっそうの発展のために党が直面した諸任務は、第2次世界大戦につづく内外の情勢によって決定された。
 アルバニアが外国侵略者を追い出したとき、第2次世界大戦はまだ進行中であった。1945年5月9日ヒトラー・ドイツが、ついで1945年9月2日軍国主義日本が無条件降伏したのち、第2次世界大戦はようやく終了した。 (T注 1945年9月2日、東京湾に停泊した米国戦艦「ミズーリ号」上で、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが「降伏文書」に署名を行い、これによって日本の降伏が法的に確定した)
 世界には重大な変化が生じていた。ソ連は、他のいかなる国と比べてもいっそう大きな人的物的損失をこうむったにもかかわらず、戦争が終わったときには政治的軍事的により強固になっていた。ソ連の権威と国際的威信とは、著しく高まった。
 資本主義体制はその根底からゆすぶられ、弱められた。第2次世界大戦の勃発とともに始まった資本主義の全般的危機の第2段階は、なおいっそう拡大した。この危機の主要な現われは、ヨーロッパとアジアで帝国主義戦線に新しい突破口を開いた一連の革命の勝利であった。
 こうした革命の結果、ヨーロッパとアジアの一連の国ぐにで、新しい人民民主主義体制が樹立された。あらたに設立された民主政府は、社会主義的発展の道に乗り出すために基礎となった一連の政治的、経済的、社会的変革を実現した。中国における人民革命はあらたな衝撃となった。
 資本主義体制からこれらの国ぐにが離れたことは、第2次世界大戦の1つのきわめて重要な結果であった。これは、世界の力関係を社会主義に有利に根本的に変化させ、戦後の国際情勢を決定する根本的な特徴となった。
 反ファッショ人民戦争の解放的戦争性格、この戦争におけるソ連の決定的役割、および一連の国ぐにの資本主義体制からの離脱は、民族解放と反植民地主義の運動に強烈な衝撃を与えた。植民地、従属国に対する帝国主義列強の支配はぐらつき始めた。帝国主義の植民地制度の崩壊過程は全般的なものとなった。一連の新しい独立国家がアジアとアフリカに生まれた。
 残った植民地や従属国においても、帝国主義のくびきを解き放とうとする解放運動が烈しくなった。
 植民地制度の資本主義の全般的危機の第2段階のもう1つの重要な現われであった。したがって、植民地、被抑圧人民の民族解放運動の重要性は、世界社会主義革命の直接予備軍として、著しく高まった。
 世界における社会的政治的勢力の新しい配置が、革命運動の新しい段階を切り開き、世界的規模で社会主義が勝利するための一層有利な条件をつくり出した。
 戦争の終了とともに、主要な資本主義国間の力関係もまた変化した。経済的政治的発展の不均等はさらに深まり、資本主義世界体制における力の均衡をくつがえした。
 戦争のあとドイツ、日本、イタリアは一時世界市場から排除された。これらの国ぐにの経済はひどく破壊され解体された。フランスは、もはや、帝国主義強国として以前の役割を演ずることができなかった。植民地各国人民に解放戦争によって打撃を受けてイギリス帝国は解体し始め、イギリス帝国主義の力は衰えた。
 ただ、アメリカ合衆国だけが一層強大となって戦争から脱け出した。アメリカは経済的軍事的力量を著しく強め、資本主義世界の大中心となった。(中略)
フルシチョフはレーニン主義の教えを歪曲した
フルシチョフは戦争と平和に関するレーニン主義の教えを歪曲した。彼は「2つの体制の間の平和共存」をソ連およびすべての社会主義国家の外交政策の総路線にまで持ち上げた。社会主義と共産党の外交政策の基本原則はプロレタリア国際主義であって平和共存ではないとレーニンは教えたのである。それは、「ありとあらゆる帝国主義者に反対する、先進諸国の革命家および、すべての被抑圧民族との同盟」である。
 (注)V.I.レーニン「ロシア革命の対外政策」、レーニン全集第25巻、82ページ。
 フルシチョフは社会主義国と国際共産主義運動・労働運動に対して「平和共存か、歴史上かつてないほど破壊的な戦争か、であって、第3の道はない」といった選択を押しつけた。こうして、いかなる条件のもとでも、帝国主義との平和共存をおこなうために、ソ連指導部は世界的規模で階級闘争を投げ捨て、帝国主義のくびきに反対する各国人民の革命的な民族解放闘争を放棄し、社会主義国と国際共産主義運動、労働運動の側から各国人民に与えられるべき全面的援助をさし控えるという考えを広めた。 ソ連指導部は、各国人民の平和の問題の解決を世界の2つの大国、すなわち、ソ連とアメリカとの有効関係の樹立に従わせようとした。フルシチョフは「経済・文化の分野でも各国人民の平和と安全を擁護する闘争の分野でも、アメリカと有効し強力したい」、「われわれの目標はソ米関係の改善を達成することにある」と述べた。
 このように、一方で彼は、アメリカ帝国主義、すなわち、平和と自由にとって最大かつ西京の敵が略奪と侵略のたくらみをあきらめてしまったとか、社会主義国およびその他の独立国は永久に帝国主義の侵略を受けることはないといった誤った考えを広めた。しかし、このためには社会主義と資本主義の間の永久的共存を認める必要があった。なぜならば社会主義は「2つの社会体制──資本主義体制と社会主義体制の間の平和競争」を通じて世界的規模で勝利するからだというのである。 他方、フルシチョフ一味は、さまざまな国におけるアメリカの経済的軍事的優位は何らの影響も受けることはないということ、これらの国々は2つの大国による世界の分割と支配を受け入れるべきであり、巨大な経済力、軍事力、あらゆる宣伝手段や国連のような国際機構までも使って密接な強力をすすめることによって2つの羅異国が「平和を保障する」ことを受け入れるべきだ(!)ということをアメリカ帝国主義者にわからせた。 (『アルバニア労働党史第2冊分』から)
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<トリアッチ報告のアルバニア批判> スターリンの問題は、重大で深刻な問題であり、非人間的行為についての個々の告発をこえて労働・共産主義運動の基本的諸問題にかかわる問題であり、この問題について論及を避けることはできない。 それゆえ、われわれは、部分的には中国の同志たちにも支持されてアルバニアの共産主義者たちがやっていることは、誤りであり、堕落である、と考える。ソヴェトの同志たちの告発にアルバニアの同志たちが対置しているのは、言葉だけの、いかなる批判的意味もない、単なる皮相な高言にすぎない。こうしたものは、ためらうことなく撃退しなければならない。スターリンが党と国家を指導していたときにソヴェト連邦の労働者階級と諸民族が実現することに成功したことの偉大さを、否定することが、ばかげたことであるのと同様に、いかなる者もスターリンの果たした功績を否定していない。 だが、彼の個人的行動は、ある時期から、障害となり情勢全体の否定的要素となったのではなかったのか?これが、理論的究明についてもまた到達すべき結論の1つである。
 たとえば、社会主義経済の諸問題にあてられた彼の最後の著作を今日読み返してみるならば、そこには、前進するためには打破しねければならなかった保守主義の表現が見出される。こうしたことが、党の頂点において彼が意見を述べうる唯一の者となり、ついですべての者がこの意見に順応しなければならなくなったとき、いかに有害なものとならざるを得なかったかを、考えてみたまえ、これは重大な危険であって、こうした危険には注意することが必要であり、つねにこうした危険を避けることが必要である。 マルクス主義に依拠しており大衆のあいだで広範行動を先導しねければならない政党は、単頭花的組織となりおおせることはできない。このような政党は、その隊伍のなかでも、またさらにその指導諸機関のなかでも、討論、さまざまな個性の指導者の養成、たえざる意見の交換、を促進しなければならず、いかなる意見の相違に対しても決裂や処罰をもって臨んではならない。 こうしたことは、今日、われわれがこれほど成長しているときには、われわれの直面する情勢がこれほど複雑となっているときには、新しい諸問題がたえず発生しており政治的創意工夫がたえず必要となっているときには、そてだけますます必要である。 統一と団結は、活動・行動においては完全でなければならない。だが、統一と団結を作りだし維持することを可能とするのは、公然たる率直な討論だけである。
 アルバニア労働党の最近の大会で、とりわけわれわれを憤慨させ嫌悪させたものは、こうした方法が完全に無視されたということであり、党の会議が党内民主主義のあらゆる規範の軽視をともなって終始ただ1人の人間功績の性懲りもない称揚に還元されたということである。 これは、共産党の組織と発展が従うべきマルクス主義・レーニン主義の規範ではない。そうした諸条件のもとでは、最早、いかなる理論的探究も不可能であり、したがって、いかなる技術的進歩も不可能である。新しいことあるいは異なったことを言う者はだれでも、異端者と考えられる。しかも、このことはさらに、結局はすでに言われたことをくり返すことしか許容され尊重されないことになる、ということを意味する。こうして神を讃える狂信者の一派に還元されれば、いったいどうして労働者・知識人。青年のあいだから新しい諸勢力をマルクス主義の側に獲得することができようか? アルバニアの党のように権力についている党がこうした変形を受ければ、この党が権力の諸問題さえ純粋に物質力として考えるようになるのは、不可能である。これは重大な政治的誤りである。だがスターリン自身の陥った誤りの1つが、まさにこのことであったのだ。 (『スターリン主義とアルバニア問題』から)
*               *                *
<アルバニアへのゲリラ降下作戦> この頃になると、アルバニアはギリシャの共産主義ゲリラ民主軍への支援を引き揚げていたので、<<ヴァリュアブル>>の目的の1つは達成されていた。しかし、1950年6月25日、北朝鮮が予告もなく南の隣国へ侵入し、アメリカ合衆国がその紛争に巻き込まれていった。当然ながら、この最近の共産主義の自由世界への侵入の背景にもモスクワの手が見え、<<ヴァリュアブル>>をさらにあおり、人員を戦場に送り込むようOPCに圧力を与えていた。
 1950年10月、歩兵中隊4000のアルバニア人16名から成るOPCの最初のゾグ派と共和国派の混成グループが、ハイデルベルグ均衡の訓練学校でゲリラ訓練を受けることになった。 SISの訓練を受けたアルバニア人とは異なり、彼らはアルバニアにパラシュート降下することになっていたが、ごく基本的な地上訓練しか受けず、上陸の基本を教えられただけだった。 訓練機関は1カ月もなく、11月の第2週にはアテネに飛び、OPCのアジトに収容されたあと、アルバニア北部に降下した。しかし、この定説なときに、16名中8名が任務の続行を拒否し、残りのメンバーと、最後の最後で決まった志願者、以前はフランス外国人傭兵部隊に所属していたアリアズ・トプタニとが、11月10日の夜、戦時中RAFで軍務に服していたポーランド人乗組員の操縦する無標識のDCー3で飛び立った。
 アデム・グユラ率いる5名編成のグループが、マルテネシュ平原の降下地域(DZ)に、そして、もう1つのグループがルメの北東部に位置するクケス均衡に降下することになっていた。しかし、視界不良で航空機が最初のDZを見つけられそうもなかったので、フライトは中止された。 9日後に作戦任務は再開されたが、今後もDZが見つけられそうもなかった。しかも、そのときは最初のグループがそのまま降下した。グユラと3名のメンバー、サリ・ダリウ、セリ・ダチ、クセタン・ダチはみな、ティラナの北東40キロに位置するブルキーゼの近くの守に着陸した。イリアズ・トプタニが行方不明になった。地元民にかくまってもらおうとしたが、裏切られて捕らえられたとの噂が後に広まった。グループの装備の入った容器も、跡形もなくなった。
 その間、航空機はクケス方面に向かって北東に飛行していた。しかし、またしても、パイロットがデジュ地帯にあるDZを見つけられず、ふたつ目のグループも当てずっぽうで降下した。装備の容器もすぐ後で投下されたが、徒歩で6時間ほど離れたザリシュトの村に落ちた。
 アデム・グユラと3名のメンバーは、現在地もはっきりしなかったので、着陸した付近の守で夜を明かした。翌日もその場に留まっていると、午後になって、アルバニア治安隊に囲まれた。二手に分かれて隠れ場所を出て、必死で逃れようとしたが、クセタン・ダチが射殺され、セリム・ダチも捕らえられた。しかし、グユラとダリウは、ダリウが足を負傷したもののなんとか脱出した。追っ手を振り払ってから、2人はグユラの村に向かったが、ダリウの怪我もあり、また、夜に移動して昼はじっとしていなければならなかったので、なかなか進まなかった。 一方、2人は好意的な村人から、アルバニア軍が2人の到着を予測しており、降下の2日前に同地に入っていたことを聞いた。アルバニア軍は彼らがパラシュート降下するだけでなく、アデム・グユラがグループの1員であることも知っていたのだった。上陸してすぐ捕らえられなかったのは、降下する際に正確性を欠いていたからに過ぎなかったのだ。
 南のエルバサンにたどり着き、そこで2週間ほどかくまって貰ってから、グユラとダリウはアルバニアを脱出しようと、ユーゴスラヴィアに向けて出発した。東へと向かい、国境にたどり着くと、ガイドの手を借りてユーゴスラヴィアへ入り、数ヶ月の間収監された。グユラが逃亡したことを知ると、アルバニア治安部隊は報復として彼の親族をすべて収監し、その後2人を銃殺した。
 第2のグループも正確な降下ができなかったために、捕らわれずに済んだ。しかし、ザリシュトの真ん中に落ちた装備の容器が警察の警戒を強める結果となり、まもなくその一帯が警察隊で溢れた。しかし、4名のゲリラは逮捕を免れ、5日の間身を隠した後、ルメの国境地帯、そして、メンバーの1人ハリル・ネルグチの生まれ故郷の村を目指して東へ向かった。 天候が崩れて豪雪となり、4週間ほどすると、彼らは計画を変更し、1950年12月中ごろにユーゴスラヴィアに入り、ブリズレンの町へと進んだ。そこで、多くのアルバニア人志願者を勧誘して帰国し、任務を完了した。一方のOPCは、いずれのグループからも連絡がなかったので、ポーランド人乗務員をDC−3で何度か両地域の上空に飛ばして無線連絡を試みたが、いずれも失敗に終わった。
 1961年はじめ、OPCはまたも大失態を演じた。1月、OPCは43名のゲリラをアルバニア北部に投下した。しかし、すでにアルバニアの治安部隊に阻まれ、29名が殺され、残りは捕らえられた。こんな失敗を犯しても、2月にはさらに別のグループが投下され、予定されていた作戦域にたどり着き、反共レジスタンスの組織にもある程度の成功を収めた。しかし、それも長くは続かず、5月はじめには、そのグループのメンバー数人が捕まり、生き残った者はユーゴスラヴィアへと逃れたものの、逮捕され、収監された。 (『謀略と紛争の世紀』から)
*               *                *
<「鎖国」という生き残り戦略> 隣国イタリアのムッソリーニに支配され、ゲリラ作戦を援助してくれたチトーのユーゴスラビアと袂を分かち、スターリンのソ連を手本としていたら、フルシチョフは戦うことを止め「平和共存」を主張する。 文化大革命の中国こそ真の理解者と思っていたら「改革解放」を言い出す。「自由主義陣営」とは名ばかりで、何度失敗してもゲリラを送り込んでくる。アルバニアの鎖国とはこうした状況での、「生き残り戦略」であった。
 超大国ソ同盟が健在だった2大陣営対立時代に、社会主義陣営内では上記のような非難・論争が行われていた。今読み返してみれば実に意味ない、空虚な論争をしていたものだと思う。しかし当時は一国の影響力のある政党の党首でさえ、このような論争をしていたのだった。
 日本ではこうした空虚な論争に対する総括はされていない。しかしそうした曖昧さが日本の良いところなのかも知れない。過去の誤りはしつこく追求することはせず、水に流す。大東亜戦争などという誤りはさっさと忘れ、経済を成長させ豊かな社会を築いていく。そして高度成長のテンポが速すぎたなら、超低成長を続ける。 エコノミストの中には「失われた10年」などと表現する人もいるが、そんなことは気にしない。たっぷり休んで、「そろそろまた経済を成長させるか」と日本人は動き出したようだ。そうした日本人の気持ちが素直に政治に反映されるのが、日本的な民主制度の良いところのようだ。 そして、それでもアルバニアの例がありながらも「地産地消」に憧れる人がいるのも日本的な現象と言えるのだろう。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『アルバニア労働党史第2冊分』                日本アルバニア友好協会訳 東方書店      1974.12.10
『スターリン主義とアルバニア問題』                「国際評論」編集部編 合同出版社     1962. 4.20
『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』 ピーター・ハークレロード 熊谷千寿訳 原書房       2004. 4. 5
( 2006年1月16日 TANAKA1942b )
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(8)地産地消での経済成長は可能なのか
自力更生は農業中心が有利
<アルバニアから消滅したホッジャ像> 地産地消を貫き通したアルバニア、ではその経済はどうだったのだろうか?アルバニアの国民がどのように考えていたのか? その答えの1つが<アルバニアから消滅したホッジャ像>だ。以下『新生アルバニアの混乱と再生[第2版]』から引用しよう。
 1991年2月、首都・ティラナのスカンデルベグ広場のホッジャ像が市民の手によって倒壊され、ホッジャの生誕地・ジロカスタル (Gjirokastër) をはじめ全土のホッジャ像がアルバニアから消滅した。同年3月には、イタリアへの市民の大量脱出という事件が起こった。 現在の政治、経済、文化にかかわる公的な職務の主要ポストには、この民主化運動の際にベリシャ氏に貢献した人物が数多く就任している。地方から中央に抜擢された人物もいる。また、各地方で重要な地位にまで登り詰めた人物もいる。 (『新生アルバニアの混乱と再生』から)
*               *                *
<自給自足を貫くための経済の歪み> アルバニアの所有権構造は、ほぼすべて国家所有であった。1960年代半ばまでに、産業の所有形態は消滅し、1976年憲法の中で生産手段の国家所要が銘記された。 更に、私有財産も禁止されている。家畜までもが集団化されてしまった。その結果、肉の供給が大幅に低下した。アリア政権は、1985年〜87年期にブリガード地やブリガード家畜を通じた改革を打ち出したけれども、いずれも失敗に終わった。
 そこで、アリア政権は、1990年7月、私有地と家畜の私有化を農民に許可する決定を下した。これが、旧所有権構造を倒壊させる引き金となる。
 第2の構造的問題は、アルバニアの自給自足体制にある。自給自足体制には生産の多様化が要求される。国際分業とか比較優位の原則は無視される。然も、アルバニアの場合、この課題を低い技術水準の下で達成を目指さねばならなかった。 旧ソ連邦や中国からの技術は老朽化し、かつ鎖国状態だったからである。
 故に、非効率的な生産体制が余儀なくされた。生産性や価格やコストについては、全く考慮されなかった。また、重工業優先主義が採用されたために、冶金、エンジニアリング、化学といった製造業が全国に広がっていった。 しかし、これらは小国・アルバニアには不必要な分野だった。輸入抑制に起因する弊害である。つぃまり、輸出に寄与した電力と鉱物(クローム、銅、ニッケル、ボーキサイトなど)の生産を除くと、こうした政策は、経済効率よりもむしろ自給自足とイデオロギーとによって鼓舞されたものであった。 輸出部門が獲得した外貨は、非効率な産業部門に移転されてしまったのである。
 従って、食品産業や軽工業は軽視された。同時に、物的純生産の33%に匹敵し、かつ労働力の約50%を吸収していたにもかからわず、典型的な労働集約的型産業である農業にもあまり注意は払われなかった。 鎖国政策が、生産コストを度外視して、食糧の自給自足を強要したのだけれども、遂にそれを実現できなかったのである。1991年以降、アルバニアが外国からの食糧援助に過度に依存しなければならないのは、これが原因となっている。
 最後の構造問題として、工業部門のミクロレベルのそれに触れておこう。既述の通り、アルバニアでは生産の集中化と集権化とが推進されてきた。これが企業管理に重大な誤りを生み出した。独占的企業行動が国内市場を支配した。また、コンビナートや大規模プラントでは過剰人員を抱え込むこととなった。
 価格は固定化され、賃金もコントロールされた。競争については、理論面でも実践の上でも非難された。品質や生産品の多様化に対するインセンティブや動機付けは否定され、それらは協同や計画化といったキャッチ・フレーズに取って代わられた。柔軟性を備え、効率的な小規模企業は、社会主義的組織化の原理に反すると判断された。この必要性を訴える者には、修正主義者とのレッテルが貼られた。

物的純生産の構造  (単位:%)
  \ 年 1938 1950 1960 1970 1980 1983 1988 1989
工    業 3.8 7.0 18.6 28.2 43.6 43.3 46.4 44.6
農    業 93.1 73.2 37.6 34.2 32.7 34.1 31.4 32.7
建    設 0.8 3.1 6.5 7.1 6.7 7.8 6.5 6.4
生産サービス 2.3 16.7 37.3 30.5 17.0 14.8 15.7 16.3
合    計 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0
(出所)『アルバニア統計年鑑』(各年)から作成

工業総生産における重工業と軽工業の比率 (1950〜1990)  (単位:%)
 年 重 工 業 軽 工 業
1950 51.9 48.1
1960 48.9 51.1
1970 57.0 43.0
1980 64.0 36.0
1985 63.8 36.2
1986 64.8 35.2
1987 63.9 36.1
1988 63.9 36.1
1989 63.0 37.0
1990 60.2 39.8
(出所)『アルバニア統計年鑑』1991年版、146〜147ページ
マクロ経済の不均衡 1970年代末まで、アルバニア経済は、一応成長し、発展してきた。純粋な意味での資本家が存在せず、いわゆる近代化を経験しなかった同国に、命令型計画経済を移植することは容易であった。 そのメカニズムが、封建的な様相を呈するアルバニアでは機能し、かつ効力を発したのである。また、旧ソ連や中国からの援助も貢献していた。ところが、実質的な鎖国状態に突入した1980年代に入って、アルバニアの経済発展は停止し、停滞してしまう。ここではこの原因を解明することにしよう。
 重工業部門の輸入代替戦略は、供給優先政策の結果生まれたものであった。これは総需要に歪みを生じさせ、それを制約する原因となった。だが、需要は市場ではなく、固定化された計画目標によって決定された。時間が経過すると、歳入の動員メカニズムが時代遅れで、非効率的であることが露呈してしまった。 そして、歳入サイドに危機が到来した。利潤の移転が減り、企業への補助金が増大した。これが全般的は不均衡を誘発したのである。一方、歳出は歳入よりも加速して増え、中央計画では最早個人のニーズに応答できなくなってしまった。不足の経済の慢性化である。
 勿論、鎖国政策が食糧不足を生み出し、生活水準の低下を招いたことは指摘するまでもない。イデオロギー論争に端を発する旧ソ連と中国との断絶が、アルバニアを閉鎖社会へと追いやった。ただ、これは、実はホッジャという1人の粗銅者に対する個人崇拝を延命化するための結果であったことを力説しておきたい。
 加えて、1976年憲法(第28条)による外国からの借款の禁止が、同国にとって致命傷となった。更に、コメコン(セフ=経済相互援助会議)の崩壊もまた、アルバニア経済を苦しめることとなる。同国の輸出市場の大半がコメコンだったからである。 コメコン加盟諸国が西欧との取引を重視するようになると、アルバニアは外貨獲得を失ってしまい、輸入のニーズを満たせなくなったのである。貿易赤字が累積し、1991年のそれはGDP(国内総生産)の19.2%に達した。また、同年のデッド・サービス・レシオ(対輸出)は38%に」まで跳ね上がった。形状収支は1990年で9,500万ドル、1991年で11億7,000ドルの赤字を記録した。
 こうしたマクロ経済の不均衡は、政府による経済政策の失敗によるところが大きい。
 まず、財政政策から健勝しよう。財政政策は、国営部門や協同組合部門から資源を動員するために活用された。その資源は、計画経済における投資や賃金支払い、社会保障、それに企業や価格の補助金を拠出する目的で消化された。まら、この政府予算を通じた再分配の最終湖霧氷は、量的な計画を達成することであった。
 財政赤字は、外国(特に、旧ソ連邦や中国)からの援助で補填された。従って1979年以降、鎖国状態になってからは、財政赤字が累積するようになった。財政赤字を調整する方法が消滅した一方で、予算の上での投資額は膨らんでいった。
 ホッジャの死去後、1986ー87年期には引締め政策が試みられたけれども、1988ー89年期には断念されることになる。対企業補助金が積み増ししたからである。財政赤字は中央銀行の政府預金によって埋め合わされたが、それも年々減少していった。不均衡は拡大するばかりだった。
 他方通過政策は受動的で、貨幣資源を管理するためのみに適用された。金利政策は重要な役割を果たさず、然も金利は長期間不変だった。但し、1986年からは外貨預金に対する金利は、若干引き上げられた。為替相場政策は、計算目的の範囲でしか利用されなかった。当然、金融資源も個人の金融資産も存在しなかった。
 アルバニア国立銀行は、中央銀行と商業銀行の両方の機能を兼ね備えていた。1970年には、国立農業銀行が創設され、農業部門の融資業務を担当した。アルバニア商業銀行が業務を開始するのは、1991年1月になってからである。併せて、同年末にはアルバニア貯蓄銀行が切り離されて、現在の貯蓄銀行ネットワークを包括するようになった。
 極端な集権化を背景に、長年中央銀行が通貨介入を実施してきたが、財政赤字が累積し、成長率が低下し、経常収支が悪化するようになってから、通貨分野におけるマクロ経済戦略の必要性が鮮明となった。1980年〜1988年期では、GDPの年間平均名目成長率である1.1%と比較して、広義の通貨供給量は年平均で5%も伸びた。 また、それは、1988年には7.8%、1989年14.8%、1990年21%の伸びに拡大した。これが、将来のハイパー・インフレと通貨危機の元凶となる。
 通貨の化kだいを招いた最大の原因は、国営企業のソフトな予算制約にある。企業債務に対する制約はなく、金利の上限は僅か2%だったのである。それ故に、1990年の対工業企業短期融資は、対前年比で28.4%も増えた。しかし、この融資は投資に振り向けられず、過剰人員への賃金支払いに化けた。これがインフレ圧力となり、対外借り入れに依存する体質を温存化した。
 政府による所得政策は、賃金管理と厚生、教育、文化といった社会的便益の計画化に基づいていた。だが、その中心的な役割は賃金決定システムにあった。賃金システムは集権的で、厳密に管理されていた。賃金はほぼ同額で至急された。賃金が差別化されるのは、1980年以降のことである。 最低賃金は最低生活コストを基礎として設定された。1980年代の平均月給は450レク (lek) 程度だと推定されている。但し、農業部門ではそれ以下だった。1990年のそれは442テクである。
 市民革命に直面して初めて、アルバニア政府は従来の賃金政策を見直すようになる。ところが、それはインフレを無視したものだった。政府が、単にゼネストを回避する手段として、賃金を上昇させたに過ぎないのであった。 (『新生アルバニアの混乱と再生』から)
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<中国の農業を中心とした自力更生> 日米欧などの経済先進国に追いつこうとした発展途上国がとった政策に2種類がある。1つはシンガポール、香港、台湾、韓国などと、アセアン諸国のとった自由貿易体制。もう1つは中国、北朝鮮などの自力更生政策。結果的には自由貿易体制が成功するのだが、中国の自力更生は農業中心に進めてきた。 革命の段階から都市労働者による革命ではなく、農村部からの革命だったせいもあるが、中国は農業を重く見た。自由貿易ではなく、鎖国政策を取るなら食糧の自給を確保しないと政権が安定しない。 アルバニアは工業を発展させようとした。それには投下資本が多量に必要になる。しかし、資本の自由化がなされなければ、外資は入って来ない。十分な資本を投下しなければ重工業は発展しない。それならば中国のように農業を中心に人民公社を作り、狭い地域での自給自足から出発すべきであった。 いずれ農業中心の自給自足の経済は発展できなくなるにしても、自力更生をスローガンにするならば中国の人民公社を、あるいはソ連のソフォーズ、コルフォーズを見習うべきであった。そのように考えて中国の事情について書かれたものを引用することにした。
 中国の報道に関しては信頼出来ないことも多い。大躍進時代の統計などは地方政府が、中央の方針に気に入られるように適当に操作した数字を報告していたらしい。中国に関してはこのような曖昧な点もあるが、それでも人民公社は農業中心の自給自足経済を目指したことには間違いないだろうと思って引用することにした。
 中国の人民公社といえば、「農業は大塞に学べ、工業は大慶に学べ」とか言われ、大塞や大慶がよく知られているが、一番初めのモデルとなったのは「「新郷県七里営人民公社」であった。 大慶に関しては華国鋒主席が次ぎのように言っている。
 かならず毛主席の革命路線と、党中央の指示を断固として遂行し、かならず階級闘争をカナメとし、党の基本路線を堅持し、「4人組」の反革命的路線を徹底的にあばき、批判し、かならず 「工業は大慶に学ぶ」 という毛主席の教えに従って大慶型の企業を普及し、修正主義を防ぎ、政治的自覚の高い、 業務にも精通した「鉄人」のような労働者の隊伍を育て、わが国の工業発展をいちだんと速め、わが国の社会主義革命と建設のすばらしい情勢をさらに発展させるために奮闘努力する決意を固めた。(「北京週報」から)
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七里営 もっとも早くできた人民公社 1958年8月6日、中国人民の偉大な指導者毛主席は湖南省の七里営人民公社を視察した。
 人民公社の入口にかかっている「新郷県七里営人民公社」の門標に目をとめ、「人民公社という名はよい」と毛主席はいった。毛主席は人民公社の製粉所、ボール・ベアリング工場、綿の試験田を視察した。 どこにいっても、毛主席は男女の公社員と親しく話をした。
 それから間もない8月29日に、中国共産党中央委員会は農村に人民公社をつくる問題についての決議を発表した。12月、中国共産党第八期中央委員会第六回総会は、人民公社についての若干の問題に関する決議を採択し、 「1つの新しい社会組織が、のぼる朝日のように、アジア東部のひろびろとした地平線上にあらわれた」と指摘した。
食糧の増産について政府はどのような措置をこうじたか 1962年、中国人民は、3年連続のきびしい自然災害と、信義にそむくソ連修正主義が協定を一方的に破棄し、専門家を引き上げたために生じた困難をのりこえて、生産の回復と発展につとめていた。 そのとき、毛主席は「農業を基礎とし、工業を導き手とする」という国民経済発展の総方針を提起した。この総方針によって中国では農業の発展を第1位におくことが保証されたのであった。 また、農業生産の面で「食糧をカナメとして、全面的な発展をはかる」方針を実行に移し、比例をたもちつつ計画的に生産をすすめた。
 そうしたのはなぜか、主な理由はつぎのとおりである。食糧は人民生活の必需品であるばかりか、いかなる事業もそれなしには、経営できない。まして、わが国の社会主義工業建設の資金は工農業による内部蓄積にたよっており、 農産物・副業生産品の販売も自国の農業にたより、工業製品の販売も国内市場にたよっている。したがって、農業の発展によってのみ工業の発展がうながされる。そのほか、自然災害や外国侵略者の不意の襲撃にそなえるためにも、われわれはある程度の食糧の貯えを必要とするからである。
 そのため、政府の各部門は人力、物力、財力、技術など各方面にわたって農業の支援につとめている。
 なかでも工業の農業支援は、主として機械の区応急による農業の装備、化学肥料、農薬などの提供である。解放前の中国には農業機械工業がなかったが、いまではほとんどの省・市・自治区にトラクター工場、小型動力機械工場などがある。 プロレタリア文化大革命いらい、各地方は鋼鉄、化学肥料、炭鉱、セメント、水力発電所など小型の工場・鉱山の経営にのりだした。これは農業支援に大きな役割をはたしている。たとえば、1971年度における地方の小型化学肥料工場の生産量は、全国化学肥料総生産量の半数以上をしめる。
 財政面では、政府は課税軽減の政策をとり、増産した分の食糧には農業税を免じ、自然災害にみまわれた人民公社や生産大隊には免税措置をとっている。そのため、農業収入にたいする農業税のしめる割合は1953年度は12%だったのが1970年度は6%というふうに年々減少している。
 そのほか、政府はまいとし多くの資金を農地水利建設に投じ、国立の銀行も低利の農業貸付金を大量に貸し付けている。
 建国いらい、政府はたびたび農産物・副業生産品の買付価格を引き上げる一方、農業に使用される生産資料の販売価格を引き下げてきた。 また、都市と農村における主な生活の必需品の価格は変動することなく安定を保っている。こうした農業援助を目的とする価格政策により、文化大革命いらい大衆が得た利益だけでも百十億元にもぼるが、なかでももっとも大きな利益を得たのは農民である。
 以上のような措置がこうじられ、全国の農村で大塞に学ぶ運動が繰り広げられたため、わが国における食糧の収穫は1962年いらい連続10年間豊作をおさめた。 (『人民中国』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『新生アルバニアの混乱と再生』[第2版]                   中津孝司 創成社       2004. 2. 1
『北京週報』 1976年12月28日号                        北京週報社     1976.12.28 
『人民中国』 1973年12月号                           人民中国雑誌社   1973.12
( 2006年1月23日 TANAKA1942b )
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(9)自給自足というアンチユートピア
『1984年』を中心に考える
<地産地消というアンチユートピア> 日本では「地産地消」はユートピアのように思われている。「地元で作られる食物を食べていれば、食品の安全性にに関しては何も心配ない」と考える人がいる。 「そうではあるが実際はだれが作ったか分からない食物を食べざるを得ない」と不安がり、「地産地消はなかなか達成されることはないが、一種の理想=ユートピアである」と考える人もいる。 しかし、ここでは「地産地消」はユートピアではなくて、アンチユートピアであると話を進めていくことになる。
 現在の反「地産地消」は誰かが指導してなったのではない。人々が市場で取引をしていくうちに自然にそうなったシステムだ。だからこれを変えるためには強制的な権力が必要になる。日本ではこうした強制的な政治体制=独裁政治に対するアレルギーな少ないが、 西欧では個人の自由を侵す政治体制に対しての危険視を強く持っている。プロレタリア独裁のソ連が誕生したとき、その独裁制に対して怖れを表現したのがジョージ・オーウェルの『1984年』であった。同じように「平等」を目指した社会に対して警告を発したのがオルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界(BRAVE NEW WORLD)』であった。
 アダム・スミスは『国富論』の中でこのように言っている。
 われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身の利益にたいするかれらの関心による。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、かれらの自愛心(セルフ・ラブ)にたいしてであり、われわれがかれらに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてである。
 もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。 だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合も、見えざる手に導かれて、自分では意図しなかった一目的を促進することになる。
 これはアダム・スミスの表現であるが、これは自然な成り行きで、ハイエクの言う「自生的秩序」もこのような考えだ。それに反して、個人の欲望を抑えるような「設計主義的」な政策を実施するには何らかの強制力が必要になる。あるいはマインド・コントロールが必要になる。 宗教団体は自然にマインド・コントロールを行い、洗脳された者だけが宗教団体に入会するから問題はないが、一般社会では、一般市民を洗脳することはできない。そこで独裁政権は権力や秘密警察を多用することになる。時には憎しみの対象を設定し国内の不満をそちらへ向けさせたりもする。現代でも、時には「日本帝国主義」や「米帝」や「靖国神社」が憎しみの対象になることもある。そうして構成員の不満をそちらに向けることによって組織の団結を図ろうとする。
 現代の日本人の感覚からすると敏感すぎるかも知れないが、ある時代、こうした独裁政権に対する敏感な危機感が高まった時期があった。そうした時代の作品である『1984年』と『すばらしい新世界』との一部をここに紹介し、個人の欲望を抑えようとする、あるいは平等を徹底させようとする社会、エンベル・ホジャが目指した社会への警告を感じて頂きましょう。
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<1984年> 4月のある晴れた寒い日で、時計は13時を打っていた。ウィンストン・スミスはいやな風を避けようと顎を胸もとに埋めながら、足早に勝利マンションのガラス・ドアから滑り込んで行ったが、さほど素早い動作でもなかったので、一陣の砂ぼこりが共に舞い込むのを防げなかった。
 廊下にはキャベツ料理とすり切れた古マットの臭気が漂っていた。突き当たりの壁には、屋内の展示用としては大きすぎる色刷りのポスターが画鋲で止めてあった。巨大な顔を描いただけで幅は1メートル以上もあった、45,6歳といった顔立ちである。豊かに黒い口髭をたくわえ、いかついうちにも目鼻の整った造りだ。 ウィンストンは階段を目指して歩いて行った。エレベーターに乗ろうと思っても無駄だった。いちばん調子のよい時でさえたまにしか動かなかったし、まして目下のところ、昼間は送電が停止されていたからである。この措置は憎悪週間を準備する節約運動の一環であった。ウィンストンの部屋は7階にあった。 39歳で、そかも右足首の上部に静脈癌性腫瘍ができている彼は、ゆっくりと階段をのぼりながら、途中で何回もひと休みをした。各階の踊り場では、エレベーターに向かい合う窓から大きな顔のポスターがにらみつけていた。見る者の動きに従って視線も動くような感じを与える例の絵柄だ。 「偉大な兄弟があなたを見守っている」絵の真下には、そんな説明がついていた。(偉大な兄弟=ビッグ・ブラザー=Big Brother)(中略)
 つぎの瞬間、油の切れた巨大な機械がきしむような身の毛もよだつような摩擦音が、ホール中央の大きなテレスクリーンから爆発的に飛び出した。歯が浮き、首筋のうしろ毛が逆立つような騒音であった。”憎悪”が始まったのである。
 いつものように人民の敵エマヌエル・ゴールドスタインの顔が画面にあらわれた。あちらこちらの席からしっしっという非難の声が起こった。小柄な薄茶色の髪をした女は恐怖と憎悪の入り交った悲鳴をあげた。 ゴールドスタインは裏切者、背教者であり、かつてその昔(どのくらい昔だか、だれも正確に覚えていなかったが)、彼は党の指導的な人物のひとりであり、それも偉大な兄弟とほとんど同等の地位にあった。 それから反革命活動に参加し、死刑の宣告を受けたが、不思議にも脱出して姿を消したのだった。”2分間憎悪”のプログラムはその日に余って違っていたが、ゴールドスタインが主要人物として登場しない番組は1つもなかった。彼は第1級の反逆者であり、党の純潔をけがした最初の人物であった。 それ以後、党に対して起こったあらゆる犯罪行為、あらゆる反逆行為、サボタージュ、異端、偏向などすべて彼の教えから直接とび出したものであった。彼はまだどこかに生き延びていて陰謀をたくらんでいるのだ。おそらく海の彼方のどこかで、資金を提供してくれる外国人の保護を受けているのであろう。 あるいは──時たま流れる噂によれば、オセアニア国内の隠れ家にさえ潜伏しているかも知れなかった。(中略)
 ”憎悪”はクライマックスに達した。ゴールドスタインの声はいよいよ羊の鳴き声よ変わり、その顔も瞬間的だが羊の顔に変じた。すると羊の顔はユーラシア軍兵士の1つにとけ込み、怖ろしい巨人となって軽機関銃を掃射しながら前進し、いまにも画面から飛び出して来そうに思われたので、前列に坐っていた人たちの中には実際に尻込みする者まで出てきた。 ところがその刹那、1人残らず深い安堵の溜息をついたことに、敵の姿が”偉大な兄弟”の黒い髪と黒い口髭の顔にとけ込んで行ったのである。いかにも力と神秘的な落着きに満ちあふれた顔は、ほとんどスクリーン一杯に広がっていった。”偉大な兄弟”が何を言ったのか誰にも聞き取れなかった。激励の言葉をひと言はふた言述べたに過ぎなかったが、砲火の最中に発せられるような言葉であって、めいめいには聞き取りにくいけれど、声が発せられたというだけで自信を回復させるものであった。 やがて”偉大な兄弟”の顔は再び消え失せ、かわって党の3スローガンが肉太の大文字で躍り出してきた。
  戦争は平和である
     自由は屈従である
      無知は力である。
(中略)
 テレスクリーンからの声が跡切れた。トランペットの澄んだ美しい音がよどんだ空気の中に漂っていった。しわがれ声が続いた。
 「皆さん!臨時ニュースを申し上げます。ただ今マラバル(インドの南西地方)前線から至急報が入電しました。わが軍は南インドで赫々たる勝利を納めたのであります。われわれがここにお伝えする作戦行動によって、戦争終結は目前に迫ったとお知らせする権限を与えられました。この至急報によりますと……」
 その後から悪いニュースが続くぞとウィンストンは思った。やはりユーラシア軍に殲滅的な打撃を与え、途方もない数の戦死者と捕虜が出たという血なまぐさい報道に続いて、来週からはチョコレートの配給が30グラムから20グラムに削減されるだろうという発表があった。(中略)
<『1984年』最後の部分から> 鋭いトランペットの吹奏が大気をつん裂いたのだ。戦況ニュースだった!勝利だ!トランペットの吹奏がニュースの選好すると、それは常に勝利を意味した。いわば電気のようなショックが店内に広がっていった。給仕たちさえ足を止めて耳をそば立てたのだった。
 トランペットの吹奏は物凄い騒音を爆発させた。すでに上ずった声がテレスクリーンからがやがや伝わっていたが、その声は聞こえ出す間もなくテレスクリーン外で涌き起こった大歓声のために掻き消されそうになった。 戦況ニュースは魔法のように街中を駆け巡って行った。テレスクリーンからやっと聞き取れたことからすると、彼は自分の予想した通りに戦況が進展したことを知った。巨大な輸送船団が秘密裏に編成されて、敵の背後から奇襲を掛けたのである。 白い矢印が敵の後方を猛然と横切ったのだった。勝利を告げる言葉が騒音の間から跡切れがちに伝わって来た。「大規模な作戦行動──完全な相互調整によって──敵を大敗させ──捕虜は50万──敵は全面的に士気阻喪──アフリカ全土の支配は──戦争終結の見通しを可能ならしめるに到った── 勝利──人類史上最大の勝利だ──勝利、勝利、勝利!」
 テーブルの下でウィンストンの脚はせわしなく動いていた。椅子の中では身動きもしなかったが、頭の中では懸命に駆け出し、街頭の群集に混って喉が破れるほど絶叫していたのである。 世界を股に掛ける巨人だ!アジア人の大群が寄せては空しく砕け散る巨岩だ!十分前──そうだ、ほんの十分前、前線からの報道が勝利を伝えるか敗北を伝えるかと思いあぐねていた時、自分の心がどんなにどっちつかずの状態にあったかを思い出してみた。 ああ、壊滅したのはユーラシア軍ばかりではなかったのだ!愛情省に連行されて以来、自分の心はがらりと変わったが、しかしこの一瞬間に到るまでは、決定的で不可欠な完治状態の変化はついぞ起こっていなかったのだ。
 テレスクリーンからの声は依然として捕虜や勝利品、殺戮に関する詳報を伝えていたが、テレスクリーン外の騒ぎはすでに幾らか収まっていた。 給仕たちはめいめいの仕事に戻りかけていた。その1人がジンの瓶を持って近付いて来た。楽しそうな夢想にふけっていたウィンストンは、ジンがグラスに満たされて行くのを見向きもしなかった。 彼は頭の中で駆け出してもいなければ、歓呼の声も上げてはいなかった。彼は愛情省に戻っていて、何もかも許された挙句に、その魂は雪のように白くなっていた。彼は公開裁判の被告席に立ち、一切を自供し、見境もなく他人を告発していた。 彼は白タイル張りの廊下を歩いていた。陽差の中を歩いているような気分であり、自分の後ろには1人の武装看守が従っていた。長い間、待ち詫びていた弾丸が、自分の頭蓋骨を貫いて行くところであった。
 彼は巨大な顔をじいっと見上げた。40年間かかって、あの黒い口髭の下に隠された微笑の意味がやっと分かったのだ。ああ、何というみじめで、不必要な誤解であったことか!ああ、愛情豊かな心に背いた、何という頑固、身勝手な離反であったことか!ジンの匂う涙が2滴、鼻筋の両側を伝わって行った。 しかしこれで良かったのだ。何もかもこれで良かったのだ。苦闘は終わりを告げたのである。彼はやっと自分に対して勝利を納めたのだった。彼は”偉大な兄弟”を愛していた。 (『1984年』終わりの部分から)
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<すばらしい新世界> わずか34階のずんぐりした灰色のびる。正面玄関の上には、「中央ロンドン人工孵化・条件反射育成所」なる名称。また盾形の中には、世界国家の「共有・均等・安定」という標語。
 1階の巨大な部屋が北を向いていた。ガラス戸の外はすっかり夏だというのに、いや、部屋そのものが熱帯的な暑さだというのに、何か寒々としていて、荒涼たる光線が窓からさし込み、だれか実験衣を着けた人の姿、鳥肌立って蒼ざめた学者先生の姿でも見えそうなものとしきりと探し求めてみても、そこらあたりに見あたるのはただ実験室用のグラスやニッケルやわびしく光る陶磁器類ばかり。 すべてが冬めいたわびしさを競っている。勤務員の上っ張りも真白で、手には蒼ざめた屍いろのゴム手袋を着けていた。光線はまづで凍てついたようで、幽霊さながらに死相をおびていた。ただ顕微鏡の黄色な円筒を反映して、そこだけ光線は何かゆたかな生き生きとした輝きをおびており、作業台のはるか彼方まで、顕微鏡の磨かれた筒に沿ってまるでバターのように生き生きした縞を列ねていた。
 扉をひらきながら所長がいった。「これが受精室です」
  300人の受精係員が、ちょうど「人工孵化・条件反射育成所」所長が部屋に入ってきたときは、みなその器具の上にかがみ込んで、ほとんど息を殺したような沈黙におちいっていた。すっかり夢中になって、われを忘れて、ただひとり唸ったり口笛を吹いたりしていた。 新たにやってきた一団の見習生たち、まだ若々しい紅顔のひよっ子たちは、そわそわと、ちょっとおずおずした様子で所長のあとにつづいた。みなめいめいにノートをたずさえていて、所長先生が何か仰せられるたびに、必死になってそれを走り書きした。 まさに最高権威からのじきじきの御伝授である。これこそまことに得がたい特権だった。中央ロンドンの人工孵化・条件反射育成所所長は、新しい見習生たちにはいつもみずから引率して各部門を案内するのを常としていた。 「ただ単に諸君に全般的な理解をあたえるためなのだよ」と所長はいつも見習生たちに説明するのだった。というのは、彼らは、いやしくもその仕事を賢明に遂行してゆこうとすれば、もちろん何らかの全般的理解はもたなければならぬのだから──ただし、もし社会の善良にして幸福な一員であろうとするならば、全般的理解はできるだけ最小限に止めておくことだ。 それは、だれしも知っているように、専門的知識は徳と幸福を増進するが、全般的知識は知的見地からいって必要やむお得ざる災害なのだから。社会の背骨(バック・ボーン)をなすのは哲人ではなくして、糸鋸師や郵便切手収集家なのである。
 「明日ともなれば」と所長はやさしさの中にもちょっとおどしつけるような調子をこめて、見習生たちに微笑みかけながらつけ加えた、「諸君は真剣な仕事にとりかかってもらわねばならぬ。諸君には概論などをもてあそんでいる暇はないのだ。ただしそれまでのところは……」
 それまでのあいだ、これは1つの特権なのだ。若者たちは気ちがいのように書き込んだ。
 背が高く、ちょっとやせてはいるが姿勢正しい所長は、部屋の中へと進んだ。彼なあごは長く、しゃべっていないときは、その厚くて派手なカーヴを描いた唇が、大きなやや出張った歯をやっとかくしていた。年よりなのか、それとも若いのか。30か、50か、それとも55か。 どうも言いあてにくかった。しかしとにかくそんなことは問題とならなかった。まさにフォード(ヘンリー・フォード、1863-1947。米国の自動車王)紀元632年、この安定の時代には、人はそんなことをたずねようなどどいう気にならないのだ。
西欧駐在総統の言葉 ムスタファ・モンド閣下!敬礼する見習生たちの眼の玉がとび出さんばかりだった。ムスタファ・モンド!西欧駐在総統!世界の10人の総統の1人。10人の1人……しかも総統は所長とならんでベンチに腰を下ろした。ではしばらくここにいらっしゃるつもりなのだ。そうだ。ここにもいらっしゃる、そしてほんとうに自分たちに向かってお話になる…… 最高権威者かたじきじきに、ほかならぬフォード様のお口から直々に。
 2人の褐色の小えび色をした子供たちが茂みから現れて、しばらく大きなびっくりしたような眼で彼らを見つめ、やがて葉蔭での遊戯へともどっていた。
 「諸君はみなおぼえているだろう」と総統はその強い深みのある声で言った。「あの美しもまた霊感に充ちた、わがフォード様のお言葉、『歴史とはデタラメなり』をおそらく忘れはすまい。歴史とはデタラメなり」総統はゆっくりとくり返した。
終わりの部分 「これを殺すのだ、殺すのだ、殺すのだ……」と野蛮人(サヴエジ)は叫びつづけた。
 するとだれかが「ジャカジャカ ドンドン」と歌い出し、たちまちにしてみなその繰り返し(リフレイン)に和して、歌いながら踊り出していた。ジャカジャカ、ドンドン、ぐるぐる、ぐるぐる廻りながら、八分の六拍子でお互いにたたき合った。ジャカジャカ、ドンドン……
 最後のヘリコプターが飛び去ったのは真夜中すぎだった。ソーマのせいで正気を失って、長時間の狂おしい官能の感溺に疲れ果てて、野蛮人(サヴェジ)はヒースの中に寝込んでいた。 目がさめたときはすでに太陽が高く昇っていた。彼はちょっと横になったままで、光に向かってふくろうのように何が何だか分からぬままに目ばたきしたが、やがて突然思い出したのだ──何もかも一切を。
「おお、神様、神様!」彼は手でその眼をおおった。
 その夜ホッグズ・バッグの峯を横切ってぶんぶんおし寄せたヘリコプターの群は、10キロの黒雲となってつづいた。昨夜の拍子をそろえてのどんちゃん騒ぎがあらゆる新聞に載ったからだ。
「野蛮人(サヴェジ)!」と、最初の到着者が機体から下りて叫んだ。
「ミスター・サヴェジ!」 
 何の答えもなかった。灯台の扉は少しばかり開いていた。みな扉をおし開けて、よろい戸を下ろしたうす暗がりの中へと入っていった。部屋の向こう側のアーチ形廊下を通して階上へ通ずる階段の裾が見えた。ちょうどアーチの頂きの下に2本の足がぶら下がっていた。
「ミスター・サヴェジ!」 
 ゆっくり、とてもゆっくり、のろのろした羅針盤の2本の指針のように、その足は右に廻転した。北、北東、東、南東、南、南南西。そこで停止して、また数秒後にはやはり同じようにゆっくりと左の方に向かって逆にまわり出した。南南西、南、東……… (『すばらしい新世界』終わりの部分から)
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<主な参考文献・引用文献>
『世界SF全集』『1984年』      ジョージオーウェル 新庄哲夫訳 早川書房 1968.10.20
( 2006年1月30日 TANAKA1942b )
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(10)『1984年』に続く管理社会への警鐘
『われら』『1985年』など
<政治経済体制に対する鋭い感性を> 『1984年』や『すばらしい新世界』は政治宣伝書=プロパガンダではなく、文学書だ。作者は政治家とは違った感覚を持っている。その感覚が大切なのだ。個人の自由を大切に考え、それが侵されようとすると鋭く警告を発する。 そうした鋭い感覚を失うと、それにつけ込んで独裁者が権力取得の機会を窺う。独裁者は自分が独裁者であるとは言わない。誰もが反対できないスローガンを掲げて、「白馬の騎士」であるかのように登場する。
 『1984年』が書かれたのは1949年、冷戦のまっただ中だった。この年、1949年10月1日に毛沢東が天安門前広場で中華人民共和国の成立を宣言している。資本主義国家の中で社会主義国家を理想の国家として「地上の楽園」のように考える人もいた。 そうした時代にジョージ・オーウェルは『1984年』を書き、多くの反響を呼んだ。そして『1984年』に続く作品が書かれた。それは『1984年』が与えた衝撃の大きさを物語ることだった。ここではそうした作品、そして『1984年』と同じような発想から書かれた作品を紹介することにしよう。 いつもと同じ、作品のごく一部です。これで作品の本質がどのようなものか、などは判断できません。これを機会に作品を読んでください。そして作者の感覚・センスを感じ取ってください。「そうしたことのきっかけにでもなれば」と思い、ここに引用します。
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<われら>  覚え書 1  要約──ある布告。最も賢明なる線。ポエム。
 今日の国策新聞にのっている記事を、一語一語そのまま書き写しておく。
 「120日後に宇宙船<<インテグラル>>の建設が完成する予定である。最初の<<インテグラル>>が宇宙空間へ高高と飛翔する偉大なる歴史的時間はせまっている。今を去る1,000年前、諸君らの英雄的な祖先は全地球を制服して単一国家の権力下においた。 さらにより光栄ある偉業が諸君の眼前にある。ガラスと電気の、火を吐く<<インテグラ>>によって、宇宙の無限の方程式がすべて積分(インテグレート)されるのである。 他の惑星に澄んでいる未知の生物は、おそらくまだ自由という野蛮な状態にとどまっていようが、諸君は理性の恵み深いくびきに彼らを従わせねばならない。数学的に正確な幸福をわれらがもたらすことを彼らが理解できぬとしたら、われらの義務は彼らを強制的に幸福にすることである。 しかしながら、武力に訴える前に、われらは言葉の威力をためしてみよう。
 恩人の名において、単一国家の全員数成員(ナンバー)に布告する──
 自ら能力ありと自負するものは、すべて、単一国家の美と偉大さに関する論文、ポエム、宣言(マニフェスト)、頌詩(オード)、その他の作品を作成せねばならぬ。
 これは<<インテグラル>>が運搬する最初の積荷となる。
 単一国家万歳!員数成員万歳!恩人万歳!
 これを書いていると頬がほてってくるのを感ずる。そうだ全世界の壮大な方程式を積分(インテグレート)するのだ、野蛮な曲線を伸ばし、真っ直ぐにす、切線・漸近線・直線に近づけるのだ。なぜなら、単一国家の線は直線だからである。偉大で神聖な、正確で賢明な直線は、最も賢明なる線なのである……。
 私はDー503号、<<インテグラル>>の製作担当者であるが、単一国家の一介の数学者にすぎない。数学になれた私のペンは、半譜音(アソナンス)や脚韻の音楽は作れない。私はただ自分に見えること、考えることを書きとめよう。 (まさにわれらなのだ。だからこの<<われら>>というのが私の覚え書の表題になるだろう)。しかしこれはわれらの生活、つまり単一国の数学的に完全なる生活の導関数なのであり、そうだとすれば、私の意志とはかかわりなく、これがおのずから一篇のポエムとなるのではなかろうか?そうなるだろうと、私は信じる、私は知っている。
 このように書いてくると、頬がほてってくるのを感ずる。これはたぶん、新しく宿った──ごく小さな、眼にも見えない──人間の鼓動を自分の内に初めて聞きとった女性に似ているのだろう。これは私であり、それと同時に私ではない。私はこれを長い月日にわたって、自分の体液、自分の血で養い育て、そののち、苦痛と共にわが身から引き離し、単一国の足下に捧げねばならない。
 だが、私は用意ができている、すべての人と同じように(あるいはほとんどすべての人と同じように)私は用意ができている。 (『われら』初めの部分から)
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<質疑応答>
 20世紀の悪夢はいつ始まったのですか?
 1945年、多くの人にはそれが終わったと見えたときに始まりました。
 どのようにして始まったのですか?
 あまり長いあいだ続きすぎた戦争をすみやかに終わらせる緊急の必要から開発された原爆が初めて使われたことによってです。ファシズムと国家と自由世界(その多くは全体主義国だったので、全部が全部、自由だったわけではありません)との衝突が終わったために、今世紀における根本的対決を実行する舞台が出来上がりました。 共産国は資本主義国と真っ向から対峙し、両陣営とも核兵器を無制限に有していました。
 その結果どうなったのです。
 その結果、1つの戦争を終結させるために使われたものが今度はまた別の戦争を始めるために使われたのです。
 1950年代の大核戦争の結果はどうなったのですか。
 西欧諸国、南北アメリカ、ソヴィエト帝国の工業中心地に原爆が投下されました。その破壊力はすさまじかったので、世界の支配エリートたちは、毛区戦争が組織社会を破壊することによって自分たちの権力維持能力をも破壊するということに気づいたのです。
 その結果、どうなったのです。
 合意の上で核時代に終止符を打ったのです。それ以後、戦争は第2次大戦中に開発された通常兵器で行われることになり、戦争は依然として行われ、しかも世界的規模で行われるのだということが当然視されました。
 大核戦争が終結したときの各国の配置状況はどんなでしたか。
 大戦の終結時には世界は3つの強国ユニットもしくは3大超国家(スーパーステイツ)に分かれていました。旧来の意味での国家(ネイション)はもはや存在していなかったのです。 オセアニアというのがアメリカ合衆国とラテン・アメリカと元英国連邦を含む帝国につけられた名前でして、その権力の中心は、確実ではありませんが、たぶん北アメリカだったでしょう。但し、このオセアニア超国家の各領土を統合するイデオロギーを開発したのは英国の知識人で、そのイデオロギーは英国社会主義(イングリッシュ・ソシアリズム)または「イングソニック」という名で知られていました。 旧来の地名はあまり意味をもたぬようになり、地名から小さな国家忠誠心や伝統文化が連想されるのは、新しい正統思想に有害だとみなされました。
 たとえば英国はどうなったのですか。
 英国は「滑走路1号」と呼び名を改められました。別に軽蔑した意味ではなく、無色透明な呼び名としてそう名づけられたのです。
 他の2つの超国家は?
 ユーラシアとイースタシアでした。ユーラシアは、ヨーロッパ大陸の全土をソ連に吸収することによって京成され、イースタシアは、中国、日本、東南アジア本土と、それから、満州、蒙古、チベットの1部分とを併合したものでした。 満州と蒙古とチベットは、ユーラシアの領土と国境を接していたので、戦争の進展の具合によってイースタシアにつくかユーラシアの側につくか、忠誠の対象が常に浮動していました。
 戦争は?
 超国家どうしの戦争は1959年に始まり、以後ずっと続いています。
 通常兵器を使っての戦争ですね。
 そのとおりです。制限された兵器と職業軍人からなる部隊が行なう戦争で、以前の近代戦の水準から見ると、軍隊はわりあい小規模です。交戦国がお互いに相手を打ち負かすことはできません。 それができたら、戦争は終わりになってしまうからです。戦争は終わってはならぬものなのです。
 どうして終わってはならぬのですか。
 戦争は平和だからです。というのはつまり、古い時代には平和が1つの生活様式であったように新しい時代には戦争が1つの生活様式になっているという意味です。生活様式でもあり、政治哲学の1面でもあるというわけです。
 ですが、何のための戦争なのなのなのですか。
 何のための戦争ではないかということをまずお話ししましょう。戦わなくてはならない具体的な理由は何もないのです。イデオロギー上の不一致も」ありません。オセアニアもユーラシアもイースタシアも共に、1党独裁制と個人の自由に対する完全な抑圧とを共通の原則と認めているのです。戦争は、相反する世界観ないしは領土拡張とは何の関係もないのです。
 でも、何のための戦争なのですか。
 戦争遂行のおもて向きの理由は、モロッコのタンジール市とコンゴのプラザヴィル市とオーストラリアのダーウィン市と香港の4地点を角(かど)とする大ざっぱに言って4辺形を成す地域を領有するということです。 この地域には、安く入手できる苦力(クーリー)の労働力が無尽蔵にあり、何億人もの男女住民が重労働と低賃金に慣れているのです。この豊富な人的資源の争奪戦は赤道直下のアフリカと中東とインド南部とマレイ諸島内で行われ、紛争地域の外へ飛び火することはあまりありません、それからまた、北極地帯でも多少の戦闘が行われています。そこには貴重な鉱物資源が埋蔵されていると信じられているからです。
 それはおもて向きの理由なのでしょ。本当の目的は何なのです。
 工業機械が生産する製品を使いつくし、工業の生産活動を続けさせると同時に、生活水準を低くおさせるためです。たっぷり食って肉体的に満足している市民、消費する物資の種類が豊富で、しかもそれを買うお金のある市民は、少数独裁政権にとっては好ましくない国民なのです。 たっぷり肉を食べている人は、政治理論という干からびた骨には見向きもしないのですから、物質的に恵まれていない人たちのほうがたやすく支配政党に対する熱狂的な献身を行うものなのです。その上さらに、忠誠心と、かつて愛国心と呼びならわされていたものとは、敵が門前に迫っていると思われるときに最もよく維持されるのです。
 その敵というのは何なのですか。
 よい質問です。先程わたしは恒久戦争と申しましたが、それは、厳密に言えば、常に同じ戦争ではありません。オセアニアは時にはユーラシアと同盟してイースタシアと戦うかと思えば、時にはイースタシアと組んでユーラシアと戦うのです。時には、同盟を結んだイースタシアとユーラシアの双方を相手に戦うこともあります。 この3者間の同盟関係または敵対関係は目まぐるしい速さで変わり、そのために、それに対応する迅速な政策の変更・調整が必要になります。ですが、公式にはこの戦争は常に同じものであると示しておくことが肝要でして、従って、いついかなるときでも敵は同じ相手でなくてはならぬのです。 或特定の時点における敵は永遠の敵であり、過去と未来を通じての敵でなくてはならぬのです。
 まさか──そんなことは不可能でしょうが。
 不可能?支配政党が集団記憶を完全に支配管理していて、記憶を書き変える──と言うより修正する──ことによって、過去を現在に合わせることが簡単にできるのですよ。現在において真実であることはこれまでも真実だったということになるのです。 真実とは現実ということです。その現実は今です、現在なのです。永遠の敵が必要である理由はほかにもまだ1つあるのですが、その点を考えるのは、もっとあとになってからのほうがよいでしょう。
 もっとあとと言うと?
 「イングソニック」の本当の目的がちゃんとお分かりになってから、という意味です。 (アントニイ・バージェス『1985年』初めの部分から)
*               *                *
<ビッグ・ブラザーの死去にかんする医師団の公式報告書> 1985年1月3日、ロンドン──ビッグ・ブラザーの健康状態回復のために召集された国家特別医師団は下記のとおり報告する。 前年の12月2日に、特定の内蔵のある種の機能障害に関する一時的不快がビッグ・ブラザーを襲った。国家特別医師団は、患者の症状改善のために右腕と左脚を一時的に切り離させた。同時に左肝臓を一時的に遮断するための処置がなされた。
 ビッグ・ブラザーの症状はその後安定し、タイムズの社説を読ませて聞くまでになった。だがふたたび悪化したため、社会的職務担当者を加えて総勢250人を数えるにいたった特別医師団は、われらの愛する指導者の左脚も一時的に切断することを決めた。
 この手術およびその後の輸血の効果は明らかに認められ、われらの指導者は若い日の闘争の歌を聞きながらやがて睡りにおちた。
 壊疸を起こした左腕を切断したのち、ビッグ・ブラザーはラジオを通じて3分間訓辞を行い、ユーラシアの野蛮な海賊的戦闘機に対してオセアニア空軍が折しもおさめた勝利を祝う戦勝祝賀行事を、ビッグ・ブラザーの一時的不快をはばかることなく挙行するようオセアニア国民に求めた。 右腕の一時的遮断によって症状は改善された。12月5日には状態に変化はみられなかった。12月6日危篤状態、12月7日危篤状態のまま変化なし、12月8日危篤状態変化なし、12月9日、医師団の全員一致の決定により患者の左腕が切断された。
 12月10日0時32分いっとき不快を訴えたのちビッグ・ブラザーは世を去った。
 この時オセアニア史上1960年以降はじめて採決が行われたことは周知のとおりである。この記録にしたがえば、ビッグ・ブラザーには左手が1本余分にあったことになってしまうが、あるいは実際に2本左手があったのだろうか?── 史学者註(4行目に右腕と左脚を一時的に切り離させた」とあり、さらに数行後に「左脚も一時的に切断……」と記されているのも、あきらかにおかしい。これは公文書の誤読であろうか、それとも史学者の転記ミスであろうか。──訳者付記) (ジェルジ・ダロス『1985年』初めの部分から)
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<イヴァーン・デニーソヴィッチの一日> 午前5時、いつものように、起床の鐘が鳴った──本部の建物のそばにつるしてあるレールを、ハンマーでたたくのだ。その断続的なひびきは、指2本の厚さに水の張ったガラス越しに、弱々しく伝わったが、じきに静かになった。寒かったし、看守にしても、いやでも手を振り回していたくはなかったのだ。
 そのひびきはやんだが、窓の向こうは、シューホフ(イヴァーン・デニーソヴィッチ・シューホフ)が用便桶の方へたっていった真夜中と同じく、いぜん闇また闇だった。だが、3つの黄色い常夜燈が、窓に光りを投げていた。2つは立入禁止地帯、1つはラーゲル構内だ。
 どうしたのか、バラックの鍵をあけにもやって来なかったし、当番たちが用便桶を棒でかついで、運び出す音も聞こえなかった。
 シューホフはこれまで寝すごしたことはなく、いつも起床の鐘とともに起きた──作業に出る前の点呼までに、公のものでない自分の時間が、1時間半ばかりあったからだ、ラーゲルの生活を知っている者なら、いつも内職かせぎができるのだ。 古い裏地で指なし手袋の覆いをだれかに縫ってやるとか、金持ちの班員が靴の山のまわりで選り分けるために足ぶみなどしないように、直接そのベッドへ乾いたフェルト長靴を持っていってやるとか、あるいは、とかく用事のある差入保管所へひと走りして、そこで掃除をするとか、何かを持ち運んでやるとか、あるいは、食堂へ出かけて、テーブルから皿を集め、それを山とかかえて食器洗い場へ持ってゆくのも── 食い物にありつけるのだが、これは志願者が多くて、どうにもならない。ただかんじんなことは──皿に残っているものがあると、こらえきれずに、皿をなめるようになるということだ。ところが、シューホフは自分の最初の班長クジューミンの言葉を、強く心にとどめていた。 古参の海千山千のラーゲル男で、1943年ごろすでに12年間もぶちこまれていたのだが、戦線から送りこまれてきた自分の斑の補充の者たちに、いつだったか、草木1つはえてない森の中の空き地で、焚火にあたりながら、こう話してくれたものだ。
 「なあ、みんな、ここじゃ弱肉強食なんだ。だが、人間はここでも生きているんだ。ラーゲルでくたばるやつはといえば、皿をなめるやつとか、医務室を当てにするやつとか、保安部員のところに仲間を密告しにいくやつなんだ」
 保安部員のことについては、もちろん、班長は口ぎたなくののしった。一方、その密告する連中といえば、自分を大切にするんだが、それはもっぱら、他人に皿を流させて──身の安全をはかっているのだ。
 いつもシューホフは、起床の鐘とともに起きたのだが、きょうは起きなかった。きのうからずっと気分が悪かった。寒気ともつかず、からだの痛みともつかなかった。夜中も暖まらなかった。夢うつつの中で、すっかり病気になったかとも、いくらかよくなったかとも思われたりした。どうにも、朝になるのがいやだった。
 だが、朝はちゃんとやってきた。 (『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』初めの部分から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『われら』                             ザミャーチン 川端香男里訳 岩波文庫 1992. 1.16
『1985年』                       アントニイ・バージェス 中村保男訳 サンリオ 1979. 8. 5
『1985年』 続ジョージ・オーウェル「1984年」      ジェルジ・ダロス 野村美紀子訳 拓殖書房 1984.10.20
『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』          アー・ソルジェニーツィン 稲田定雄訳 角川文庫 1966.12.20 
( 2006年2月6日 TANAKA1942b )
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(11)閉鎖地域からの優れたレポート
中国革命の現地体験報告
<アルバニアにはなかった優れたレポート> 鎖国時代のアルバニア報道に関しては、中日新聞ヨーロッパ総局、クレア・ドイルの『シグリミの監視』やハリー・ハムの『アルバニアの反逆』があるが、他にはまともな報告はない。 日本人の報告は一面しか見ていない。中国の文革時代に提灯記事を書いていた特派員と同じ姿勢だと感じた。同じように閉鎖的であった中国、抗日戦線時代と文革時代に現地で中国人と一緒に汗を流し取材し、報道した優れたレポートがある。 毛沢東時代の中国、文革時代の中国を批判することは容易い、けれどもその時代に現地で取材し、報道した優れたレポートがあったことも忘れてはならない。そうした思いから中国報道の一部をここで紹介することにした。
 はじめは抗日時代、延安時代の中国共産党のレポート。エドガー・スノー、アグネス・スメドレー、ニム・ウェールズの著作。当時共産党支配地域は国民党によって封鎖されていて、その実情は中国国内でさえ知られていなかった。著者は身の危険をも感じながら取材し、それを発表した。
 次は中国での医療活動にあたったノーマン・ベチューンとJ・S・ホーンを扱った著作。どちらもそれに序文を寄せている人も無視できないので紹介することにした。
 最後はプロレタリア文化大革命時代に中国に留学した若い日本人のレポート。
 これらの著作は当事国、中国の人が書いたものではないが、著者は決して傍観者ではなかった。それだけに読む者の心を揺さぶる。アルバニアに関してはこのような優れたレポートはない。日本人の書いたものも、傍観者が表面をちょっと触ってみた程度の突っ込みの浅いものでしかなかった。 短い引用ではあるけれど、これらが優れたレポートであることは感じて頂けると思いここに引用することにした。
*               *                *
<赤軍の成長──『中国の赤い星』エドガー・スノー> 毛沢東の説明はようやく「個人の歴史」の範疇をこえ出し、大運動の流れの中に見分けのつかぬほど姿を没しはじめた。この運動の中で、かれは依然として主要な役割を演じていたとはいえ、一個の人物としてのかれをもはや明瞭に見分けることはできなくなった。 今では「私」ではなくて「われわれ」である。もはや毛沢東ではなく赤軍である。もはや単純な生活の経験についての主観的な印象ではなくて、歴史の資料としての集団の人類の運命の変化に関した傍観者による客観的な記録である。
 かれの歴史が終わりに近づいてくると、私にとってはかれ自身について質問することがますます必要になってきた。かれは当時何をしていたか、かれはどんな地位をその時担当していたのだろうか。あれこれの事態にたいするかれの態度はいかなるものであったか。そして私の質問は、生い立ちのこの最後の章に書かれているような事柄について、かれに語らせることになった。
「徐々に赤軍の大衆との協力に改善が行われ、軍紀は強化され、そして組織上の新しい技術が発展しました。いたる所で農民は自発的に革命を援助しはじめました。すでに井崗山のころから赤軍は3つの単純な軍紀規則をその戦士たちに課していました。 それは次の3つです。命令には敏速に服従すること、および地主からはいかなるものも没収しないこと、および地主から没収したすべての財産はただちに直接政府に引渡しその処分をまかせること。 1928年の会議ののち、農民の支持をうけいれるために力強い努力がなされ、上にあげた3つにさらに8つの規則がつけ加えられました。それは次のようなものでした。
  1、人家を離れる時には、すべての戸をもとどおりにすること(注1)
  2,自分の寝た藁莚は巻いてかえすこと
  3,人民にたいして礼儀を厚くし、丁寧にし、できるだけかれらを助けること
  4,借りたものはすべて返却すること
  5,こわしたものはすべて弁償すること
  6,農民とのすべての取引にあたって誠実であること
  7,買ったものにはすべて代金を払うこと
  8,衛生を重んじ、とくに便所を建てる場合には人家から十分の距離を離すこと
 「最後の二つの規則は林彪がつけ加えたものです。この8つの項目はますます成果をあげて実行され、今日でも赤軍兵士の規範であり、かれらはこれを暗記したり復唱したりしています(注2)。 このほかに赤軍に3つの義務が主要な目的として教えられています。第1は、死を賭して敵と闘うこと、2,大衆を武装させること、3,闘争を援助するために醵金すること。
  注1 この規則はその表面にあらわれるほど合点のいかないものではない。中国の家屋の木製の戸は容易に引き離すことができ、しばしば夜にはとりはずされ、木片を横ににて即座の寝床に使われるのである。
 注2 毎日赤軍の軍歌としても歌われている。 (『中国の赤い星』から)
*               *                *
<周恩来──『目覚めへの旅』エドガー・スノー> 家屋のたち並ぶ路地へくると、襟に赤線が入った色あせた灰色、または青の制服をまとった連中が数名あらわれた。
「よくいらっしゃいました」と1人が中国語で話しかけた。「お茶でも召し上がりませんか」各自の自己紹介で、彼らはみな将校であることが分かった。 <<茶>>とはただの白湯で貧乏な紅軍は<<白茶>>と呼んでいた。本物の茶は、この周辺ではめったにない贅沢品であった。間もなくやせ型の男があらわれた。 軍人らしくかかとを合わせ、赤星のついたあせた帽子に指をつけ敬礼し、濃いまゆげの下に輝く大きな黒い目で私をみつめた。中国人にしては珍しく、髭におおわれたその顔がほころび、白い歯がみえるほど親しみ深い笑みがひろがっていた。
 「ハロー、誰をお尋ねですか。私がここの司令官です」彼は英語で話した。「私は周恩来といいます」
 蒋介石が8万ドルの報酬を約束したのはこの男の首である。当時紅軍東部戦線の司令官であった周は、それから13年後に<<中華人民共和国>>の初代首相となった。彼の司令部に案内されたが、半分洞窟の小さな一室で、腰掛けが1,2脚と、金属性の書類函が床においてあった。 <<炉>>と称するベッドにも用い、またオンドルにもまる粘土で造った長方形の台の上には書類が散らばっていた。
 「貴方が中国に友好的な信頼のおけるジャーナリストで、本当のことを言ってもよい間違いのない人だという報告を受けとっています」と、彼はあまりうまくない英語で話した。「貴方の御覧になるそのままを書いて頂ければよい。私たちが求めるのはそれだけです。調査なさるにあらゆる援助を惜しみません」
 私と周は夜遅くまで話し、ほとんどの質問に対して彼は率直に答えた。片目の紅軍通信部主任李クオヌンと周の参謀長葉剣英が一時同席したが、李は後に北京政府外務部副長官となり、葉は国府の敗北が決定的となった戦闘の紅軍総司令となった男である。
 周恩来は当時紅軍支配下にあった地域の大ざっぱな地図をかき、彼らの軍事および政治計画について説明した。内戦を打ち切り、他の軍隊と<<統一戦線>>を結成して日本に抵抗するのが主要な目標であったのである。
 「では革命はやめてしまうのですか」と私はきいた。
 「いやそうではありません。革命をやめるのではなく、進めるのです。抗日戦争をすることによって革命勢力は政権につくことができるでしょう」では蒋介石はどうなるのか。「抗日戦争の初日が蒋介石失脚のはじまりを意味するでしょう」と彼は予言した。 (『目覚めへの旅』から)
*               *                *
<西安事件──『中国の歌ごえ』アグネス・スメドレー> 1936年、私はまた病気になって、友だちと相談した結果、藍衣社の暴漢たちに襲われる心配のない唯一の場所をえらびだした。それは、青年元帥張学良に治められている西安であった。(中略)
 12月9日、北平(北京)で始まった抗日学生運動記念日に、何千という西安の学生生徒たちは、国歌を歌い、国民的統一を呼びかけるビラをくばりながら、西安の市街を行進した。彼らは蒋介石総統に、内戦を停止し、綏遠で日本軍と戦っている傳作儀将軍を援助するように請願する予定であった。 ところが警察は、総統から指令をうけた政府主席の命令でデモを攻撃し、その結果、満州軍の指揮官の息子の2少年がケガをした。西安の空気は険悪になった。(中略)
 私は12月11日のあの運命的な夜に西安でおこった事件の詳細を知りつくすことは、ついにできなかった。私が知りえたことは、その晩、夜通し、張学良元帥、楊虎城将軍、その幕僚高級将校たちが会議をしたことと、曉方になって、孫大尉という青年将校に指揮された部隊が、臨潼の寺を包囲したということである。 総統の護衛兵30名と、その指揮官であった蒋介石の甥とは殺された。総統は、寝間着をきたまま、山に逃れ、積み石のかげに隠れているところを、孫大尉に見つけられてしまった。 蒋介石は孫大尉に、「おれはおまえの最高指令だぞ!」と言った。孫大尉が後で話したところによると、彼はそのとき、ていねいに叩頭してから、こう答えた「そして、閣下はわれわれの捕虜でもあります!」
 総統は、岩で足をケガしていたので、孫大尉は彼を背なかにおぶって山を下り、西安にいる張学良元帥と楊虎城将軍にひきわたした。
 その晩、私は眠ることができずに、服をちゃんと着たまま、部屋のなかを歩きまわっていた。私が窓のところに寄って、暁方の最初の光を眺めているとき、、機関銃が連続してはげしく射ちだされる音と、小銃の炸裂音とがきこえてた。「ああ、このことなんだわ!」と私は考えた。「藍衣社がいよいよ暴動をおこしたんだわ!」 しかし、ホテルのなかを人が駆けていく足音がして、やがてしわがれた叫び声と、うわずった声がきこえてきたときには、私の心臓はほとんど鼓動するのをやめてしまった。小銃を射撃する音がどこか近くでしたと思うと、不吉な叫び声やドアを開けたてする音といっしょに、ガラスのわれる音が一段と音高く聞こえてきた。 もの音には、どれにも危険と死のひびきがこもっていた。女の金切り声、男の叫び声、自動車の走り出す爆音。
 誰かが銃床で、私の部屋のドアをたたいた。自分が殺されるのに手を貸してやるのはいやだったので、3発の弾丸がドアの板を割り、ガラスがものすごい音をたてて飛び散ったときに、私は部屋の隅っこに後ずさった。「日本人!」という叫び終えを耳にすると、私はおそろしさでドキドキしながら考えた。 私は、やっとこれだけの中国語を思い出して言った。「私、日本人ではありません。私、アメリカ人です!」 (『中国の歌ごえ』から)
*               *                *
<起ちあがる中華ソビエト共和国──『中国紅軍は前進する』アグネス・スメドレー> ソビエト地区の村や町の通りを、大きな銅鑼をならしながら人々はふれ歩いた。
 「今晩、日が沈む時刻から、ポンパイ広場で大衆集会があるよ!全員集まれ!(くりかえし)」
 紅軍のラッパ手は、ソビエト地区を見渡せる丘の上に立って、もう全員が大衆集会の召集ラッパだと知っているメロディを吹きならした。
 いたるところの大衆集会には、多数の人々が集まり、男女の講演者が立ち上がってしゃべった。
 「兄弟同士諸君──俺たちは、第1回ソビエト大会を3度も延期しなければならなかった。白軍との戦闘が次ぎから次ぎと続いたて、戦わなければならなかったからだ。白色勢力はわれわれの大会開催の計画を知り、これが、中国の民衆を奴隷の状態にしばりつけている腐敗堕落した制度にたいする挑戦であることを知った。 あらゆるろころで中国人民を呼びさます進軍ラッパになることも知った。彼らは、わが国数百万の勤労大衆が進歩的な、自由な、文化的な生活に向かって進む新しい自由な制度をつくりだすことをみな気づかせるのを恐れているのだ」
 「いまや、国民党、帝国主義者の第三次侵略は、彼らの敗北のうちに終わりをつげた。われわれはあらゆるところで勝利した。白軍は何百という村を焼き払い、20万人以上の民衆を殺した。6千人の紅軍兵士がこの戦闘でたおれた。しかし、われわれは勝利を得たのだ。われわれは荒廃した土地を再建し、第1回ソビエト大会を召集している。 大会は11月7日、瑞金で開催され臨時の中華ソビエト政府を設立するだろう」
 「あらゆる民衆組織、労働組合でも、農民同盟でも、婦人、青年、反帝国主義の連盟であろうとも、また、紅軍や、紅軍内の兵士委員会などのすべての組織は、この大会をめざして準備をととのえるべきだ。諸君は代表を選出し、瑞金に派遣するよう準備しなければならない」
 「大会のための準備というのは、たくさんのことを意味している。われわれは戦闘で勝っただけでなく、内部の経済事情を再建し強化しなければならない。これから数週間のうちに、大会に提出する決議と法律の草案を研究し討議しなければならない。 土地草案、労働法、憲法、経済法、財政法、その他の草案はわれわれのあらゆる新聞や雑誌に印刷されることになっている。あらゆるソビエトや民衆組織ではこの法律の草案を はり出さなければならない。諸君はそれぞれの組織で集会をもち、これらを読み聞かせ、研究討議しなければならない。会議が開かれたとき、諸君の代表はあらゆるソビエト地区内の状態や問題について報告する用意をすべきだ。 決議や法律の内容を完全に理解し、それにたいする修正とか、追加とか自分たちの態度を発表できるように準備しなければならない」
 大会準備がすすむと、中国各地のソビエト地区は、熱狂の波におそわれた。壁新聞やソビエトのあらゆる新聞や雑誌は、大会にニュースやそこで上程される問題でうまった。1週1週とたつにつれて、民衆は集会に集まり研究会を開いた。何千万という男女、青年が討議し、論争し、勉学した。
 大会は、中国人民の生活のなかで、これまで起こったことの最大の出来事になるはずだった。それは、何十万という人々が生命をなげうった、何年間にもわたるおそろしい争いの最後の到達点であった。人々のなすべきことは、1927年以来百万の男女が支配階級に殺されたという事実を学ぶことであった。 国民党や帝国主義支配下の諸都市において、知識分子や労働者の虐殺はおそるべきものがあり、村で農民を殺すことは日常茶飯事だったのだ。さらに何万という人々が、国民党や帝国主義者に捕らえられた。
 第1回ソビエト大会は、ソビエト建設に命を捧げた人々の礎のうえに立ち、中華ソビエト共和国は彼らをしのぶ記念碑となるだろう。 (『中国紅軍は前進する』から)
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<彭徳懐司令──『人民中国の夜明け』ニム・ウェールズ> 中国の何百万の人たちのあいだにおける革命の発生は、今日、世界でもっとも興味ぶかい現象の1つであり、中国の共産主義者たちによってこのカメレオンのような革命に形式と方向があたえられて以来、それは最大の国際的な、社会および政治上の重要性を持つ闘争となった。 この歴史的な瞬間に中国にいたということは、人間解放の最強部隊の1つの前進運動にふれたということである。私は中国に1931年に着いた。ちょうど中華ソビエト共和国が樹立される数週間前であった。この対抗政権がつくられるやいなや、はげしい内戦の火蓋が切られ、それは1936年12月12日の西安事件にいたるまで終わることがなかった戦いであった。
 階級闘争の全期間を通じて、もっとも幻想的な物語がこの中華ソビエトについて語られた。驚嘆すべきソビエト運動の性格について正確な情報を持たないものが、中国を理解できないことは明らかであるが、しかも1936年に、私の夫エドガー・スノーがついに9年間の新封鎖を破るまでは、外部の観察者は包囲されたソビエト領土に入り込むことができなかったのである。 私自身も、かれがそこにいるあいだソビエト地区に入ることを望んで、1936年9月にこの新世界への私の最初の探検遠征を試みた。しかし、この遠征は失敗した。それというもの、新しい掃共作戦が開始され、まもなく西北地方の国民党軍の反乱においてその頂点に達する緊迫した情勢が、急速にクライマックスに近づいていたからである。 西安事件のあいだじゅう、西北は封鎖されていたが、西安の門がふたたび旅行者のために開かれるとただちに、私は第2回目の試みをおこなった。私は、反乱東北軍が、包囲された都市から撤退した直後の1937年4月21日に北京をたち、ジャーナリストがソビエト地区に入り込むのを阻止するように命じられていた西安警察の目を盗んで、4月30日に彭徳懐の赤軍司令部に到着した。 私は、歴史資料を集めたり、毎日のように傑出した共産党指導者たちのだれかと話し合ったりして、4カ月を赤い根拠地、延安ですごした。 洪水や戦争に足どめされて、私は10月中旬まで北京のわが家に帰らなかったので、全遠征はおよそ半年にわたったのであった。
 それは私にとっては発見の旅であった。──世界でもっとも古い、そしてもっとも変化のなかった文明の心臓に新しい世界を創造しつつある、あたらしい心とあたらしい人民の。(中略)
 私を雲陽にある彭徳懐総司令部につれていった車は、ダッジの新型大型乗用車で、プロレタリアの前線にこんな豪華な車があるのを見て驚異を感じた。
 「あなたがたは、こんなブルジョア車をどこで手に入れたのですか?」迎えにきた1人の赤軍政治局員に私はきいた。
 「張学良が他の2台といっしょに彭徳懐にくれたのですよ」という答えだった。「われわれには、いま、トラックが約20台ほどあります」
 「私は車ごと来ましたよ」と赤星帽をかぶった運転手が歯をむいて笑いながら言った。「私は張学良の運転手の1人でした。そして女房もいっしょに来ました。双十二(西安事件)のあとで、東北人がたくさん、赤軍に加入して来ましたよ」(中略)
 やがて少女は私を大きな祠堂に連れて行ったが、そこには前線宣伝部主任の陸定一が、私と話しをしようと待っていた。かれはたいそう上手に英語を話し、赤軍に来てくれたことを心から歓迎してくれた。かれはすでに西安における私の事件を知っていた──共産党のラジオ通信はじつに驚くべきものがあった。 かれは宣伝部長として、「新聞関係」の責任者で、夫のスノウが赤軍にいたとき、あちこち案内をしてくれた人であった。かれは夫スノウの著書がいつ発刊されるかを知りたがって、出版されたらぜひ1冊寄贈するよう約束してくれといった。(中略)
 午後になって、有名な彭徳懐司令が正式に私を訪問してくれた。かれは握手しながらからかうように私をながめ、無駄話で時間を費やさなかった。いっさいの歓迎の言葉は部下にまかせ、そのやりとりが終わるのを待って、自分の話を始めようとしていた。 かれのこの無愛想な態度にもかかわらず、あるいはそのためにかえって、この赤軍中の戦闘的な湖南人のナンバー・ワンを、私は共産主義者のなかでももっとも興味ある魅力ある人物だと思った。
 夕食をともにしたあとで、彭徳懐はきたるべき抗日戦争の戦術と戦略について語った。彭司令はそのときすでに、きたるべき戦争の詳細にわたる計画を胸中に描いていたのだった。
 彭徳懐の地位は、ソビエト区の会議では、毛沢東および朱徳につぐものであった。毛は後方にあって指令する神秘的な「天才」と認められている一方、長老格の朱徳はすでに伝説中の人物となっている今日では、彭徳懐は軍隊生活に最も接近していて、常に野戦司令として前線に活躍し、あるいは第1方面軍を指揮したり、あるいは赤軍総司令朱徳を代理したりしていた。 彭は元国民党軍隊の司令であったが、1928年7月に反乱を起こして、湖南の平江を占領し、部下もろとも赤軍に加入したのである。1930年に湖南の首府、長沙を攻略して以来、かれの名は一躍有名になった。 (『人民中国の夜明け』から)
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<新中国はベチューン博士を決して忘却しない──『ノーマン・ベチューンの偉大なる生涯』宋慶齢の序> 私たちの世界は、過去の世界に比べれば、非常に複雑になっています。高度に発達したコミュニケーションのために、地球や人間社会のどんなところに起きた事件も、相互に密接に関連しています。孤立した災害というものはありえません。全体の進歩に役立たないような進歩もありえません。
 この状況は人間の精神にも反映しています。人間精神の内容もまた、その広がりにおいて、複雑さにおいて、世界的なものになりました。自己の人民と国家の福祉を求める人にとって、自己の立場を向こう三軒両隣りとの関係だけで考えるのは充分ではありません。さまざまな世界的潮流が私たち一人ひとりを取りまいていますので、私たちが自分たちの未来になんらかの影響を与えるとすれば、それはこの潮流に乗り入り、それに貢献することによってなされるのです。 今日、人間精神の前におかれている最高の任務は、退化と死の力を理解し、それに反抗し、すべての人間のより充実した生活のために、現世界が私たちに提供している可能性、過去の世界では提供されたことのない、この可能性を強化し現実化することです。
 いかなる時代においても、英雄とはそれぞれの時代がすべての人に投げかけている課題を、並なみならぬ献身、決意、勇気、熟練をもってなし遂げる人のことです。今日、これらの課題は世界的なものになっています。ですから近代の英雄は──彼が自国で活動しようと、外国で活動しようと──歴史的回顧をまたずとも、すでに現時点において世界的英雄なのです。
 ノーマン・ベチューンはこのような英雄でした。彼は3つの国々で生活し、活動し、闘いました。故国カナダで、ナチズムとファシズムの暗黒政治に対する、最初の壮大な人民の抵抗に加わって闘うためにすべての国から先見の明をもつ人が集まったスペインで、彼はまた中国では、日本の軍事ファシストがすでに征服したものとしてはかない夢を託した地域で、ゲリラ軍が民族的自由と民主主義の新基地を確保し建設するのを助け、やがて全中国を解放することになる強力な人民軍を私たちが鍛錬するのに力を借しました。 より広い意味において、かれは民族および人民の抑圧に対して闘うすべての人びとに所属しています。
 ノーマン・ベチューンは医師であり、その職業によって、その範囲内で、また自分のもっとも得意とする武器を用いて闘いました。彼はかれの科学の分野における専門家であり、先駆者でした──自分の武器を常に鋭く磨きあげていたのです。反ファシズムと反帝国主義闘争の前衛のために、彼はその偉大な技能を、意識的に、断固として捧げたのです。 彼にとってファシズムは、人類に対するこのうえもない害悪を宿す病気であり、何千万人の人間の心身を破壊する疫病であり、また人間の価値を否定することによって人間の健康、活力、生長を扱うようにまで生長したもろもろの科学を否定しさるものでした。
 ノーマン・ベチューンが日本軍の砲火のもとで中国学生に教えた技術の価値は、その使用目的によって決定されています。ドイツと日本はともに技術の高度に発達した国ですが、人類進歩の敵によって指導されたために、その科学と技能はただ人類に不幸をもたらしただけでした。 人民のための闘士は最高度の技術的熟練を習得する義務をもっています。なぜならかれらの手中においてのみ、技術は真に人類に役立つからです。
 ノーマン・ベチューン博士は戦場に血液銀行をもたらした最初の医者でした。彼の輸血作業は、スペイン共和国のために闘う何百人もの生命を救いました。 中国で彼は「医師諸君!負傷兵のもとへ!彼らの来診を待ってはならない」というスローガンを打ちだし、それを実行しました。スペインとは全面的に異なり、そかもそこよりも遙かに後れた環境の中で、彼はゲリラ医療隊を組織し、何万人かの裁量の、もっとも勇敢なものたちの生命をそれによって救ったのでした。 彼の計画と実践は医学上の造詣と経験にもとづくばかりではなく、軍事、政治の研究と人民戦争の前線で得た経験に支えられていました。スペインおよび中国でのノーマン・ベチューンは、戦場における医学の前衛でした。
 彼はこの闘争の条件、戦略、技術および地勢を完全に掌握していました。家庭およびその将来のために、他の自由人と肩をならべて戦う自由人としての医療従事者から何を期待できるかを彼は知っていました。 医師、看護人、看護助手──彼が訓練したこれらの人たちは、自分たちを単なる技術的な補助人員としてではなく、戦闘部門にいる人たちと同様に、責任と重要性をもつ任務を帯びた、第一線の兵士と見なすことを学びました。
 その課題を深く理解したうえで、どんな医師にも処理できないような条件のもとで、ベチューン博士はこれらの仕事を完遂したのでした。いっしょに働く人たちや、その言葉についてはほとんど予備知識をもたずに、またその燃えるような確信と鉄の意志を別にすれば、結核で痛めつけられた身体には力が残っていなかったのに、彼は中国でももっとも未開な地域にある山中の村落で、これらの仕事をなし遂げたのでした。
 世界に対する広い理解は彼の力の源泉でもあり、また同じ位に心を痛めつけるような環境をものともせずに活動したダミアン神父とかラブラドールの医師グレンフェルなどの医学上の英雄の仕事に比べて、ベチューン博士の仕事はそれら以上に普遍的な意義があったのです。
 ベチューン博士を殺したのは何でしょうか?ベチューン博士はファシズムと反動に反対する闘争に、その情熱、技能、力量を傾けつくし、そのなかで倒れたのです。かれが活動していた地方は日本軍によって封鎖されていただけではありません。 それは前々から人民戦争を闘うよりはむしろ勝利を危うくしたほうがよいと心掛けていた蒋介石反動政府によっても封鎖されていました。ベチューンが味方した兵士たちは武器弾薬のみならず、負傷兵を治療する医薬品においてすら全くお話にならない欠乏をしのんでいました。負傷兵は現代的な薬剤を欠いていたために、感染によって死んでいきました。
 ベチューンは敗血病で死亡しました。これは、ゴム手袋なしで手術をしたり、治療用のスルファ剤がなかった結果でした。
 ベチューン博士が創設した国際和平病院は現在新しい状況のものに活動しています。中国はもはや自由なのです。しかし、ベチューンの死後、かれが指令した後継者、スペインで彼と共に働いたことのあるキッシュ博士は蒋介石の封鎖のために、その職務につくことができませんでした。 インド医療隊のコトニス博士がベチューン博士の病院のうちの1つの管理を引受けて、その任務に精力的に遂行しましたが、やがてその職に殉じました。またもや彼に施すべき薬品が手許になかったからです。
 ベチューン博士とコトニス博士は、もし封鎖がなかったならば、今日まで生き残り、全世界の自由な人民のために闘っているであろう多くの犠牲者たちの中の2人です。
 これまでにこの現代の英雄の生涯を知ることのできた人たちよりも、はるかに多くの人びとに、ノーマン・ベチューン博士の生涯を紹介することは私にとってこのうえない喜びです。 博士は自由のための闘争におけるすべての人民の利害の連帯を見事に象徴しているのです。彼の生と死と遺産は、私にとってとりわけ近しいものでした。民族解放の人民戦争において、彼が成し遂げた偉大な業績のためばかりでなく、私が議長を勤めている中国福祉連盟での私自身の活動のためにもそうなのです。 連盟はベチューン和平病院および彼の業績と記憶とを引き継いでいるベチューン医学学校組織網の維持と確保を方針としています。
 新中国はベチューン博士を決して忘却しないでしょう。彼は私たちが自由になるのを助けた人びとのなかの1人でした。かれの業績と記憶は永久に私たちとともにあります。 (『医師ノーマン・ベチューンの偉大なる生涯』から宋慶齢の序)
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<原著者の日本語版への序文──『はだしの医者とともに』J・S・ホーン> 中華人民共和国において、私が人びととともに働き、ともに暮らした15年間の一部を略述した本書が日本語に翻訳されることは、喜びにたえない。日本人民と中国人民とは、民族的にも血縁関係にある。両国人民とも、人類の芸術科学の宝庫を豊富にする役割を果たした。勤勉で有能な両国人民は、幾世紀もの間、隣人同士の平和的な関係にあり、文化的歴史的伝統を互いに交流させてきた。
 ところが20世紀前半に、日本の支配者たちは中国に対して、恐るべき侵略戦争を開始し、言語に絶する苦しみを中国人民に与えた。今日でも、この残虐な侵略行為は、幾十万の中国人民の肉体および精神に傷跡をとどめている。
 しかし、禍は転じて福となりうるものである。
 侵略者を撃退する闘争を行うなかから、中国人民は生まれ変わったのであった。彼らは力を増し、団結はゆるぎないものとなった。労農人民の支持を得、人民に依拠した、中国共産党とその指導下にある人民解放軍は、天才的指導者、毛沢東の領導のもとに、中国に勝利をもたらした。
 中国人民のたたかいの目標は、ひとり侵略者の放遂のみにとどまらず、中国国内の寄生的搾取階級の根絶にもおよび、新たな社会主義共和国設立から22年を経るうちに、中国人民は、毛主席の言葉どおり、まさしく自立したのであった。多大なエネルギーと能力を駆使し、中国人民は、旧社会の苦悩、貧困、後進性を克服し、社会主義体制をうち立てた。このはずみのついた進歩を恒常的なものとする措置は、とりわけ、文化大革命の間につぎつぎとうち固められた。
 この道は平らな道ではなかった。
 中国の内外の敵は、陰に陽に、あらゆる方策を講じ、中国人民の団結をくつがえし、中国を屈服させようと試みた。
 彼らの画策は無に帰した。 
 弱体で、不統一で、病人の中国が、世界中の侵略国家から、競ってついばまれた時代は、永久に去ったのである。
 今日中国は、活気にあふれた強力な国家となり、経済力も増し、世界情勢におよぼす影響力も上昇の一途をたどっている。
 しかし、中国の政治家がくり返し強調しているように、また、解放後の中国の歴史とそれを主導している思想からも明らかなように、他の国々を支配したり、圧迫したりする超大国にはならないであろう。
 近い国も遠い国も、大国も小国も、どのような国も中国を恐れる必要はない。中国は、過去に中国を無視していた国々も含め、あらゆる国と友好関係を結ぼうとしている。 あらゆる階層の中国人民との接触を通じて、私が感を深くしたのは、中国人民は、どの国の人民にも尊敬の念を抱いており、一般人民とその政府との間に明確な一線を画しているということであった。
 しかし、中国が友好を求めているとはいえ、自国の内政問題に干渉したり、威嚇政策をふりかざしてくる国を許すことはないであろう。このような国々は、やがてこういった行き方の不毛性と危険性とを感知するであろう。
 私が医師であるため、医療の領域での体験に本書の大部分が費やされている。しかし、中国の全体像をその中に反映させる努力も忘れなかったつもりである。 したがって、医療関係者のみならず一般に人びとにも読んで頂けると思う。医療はあらゆる人にとって関心事である。人はみな健康でありたいと願っており、医学的な忠告をまったく必要としない人はいない。 そのうえ、中国の医療労働者の一般の労農人民との連帯は、他のどの国の医療労働者と比べても、はるかに緊密である。炭鉱労働者と医師との間の、財政的社会的格差は小さく、それも解消されつつある。
 本書に価値がるとすれば、それらはすべて、私が目にし参加する幸運に浴した諸々の進歩が、人びとをふるい立たせずにはおかないことによるものである。また、本書の多くの欠陥は、どれも私自身に責任がある。
 本書が、現代の中国社会を読者が理解するための一助となり、日本人民の中国人民に対する友誼を促進することになれば、これに勝る喜びはない。 また、正常な外交関係、互恵、相互の尊敬に基づいた日中間の友好政策実現に努力することが、日本の国益にかなっていると先進的な日本人民に何らかの力となることを、熱烈に期待している。
   1972年1月                 ロンドンにて  ジョシュア・S・ホーン
(『はだしの医者とともに』から「原著者の日本語版への序文」)
<感動的なこの1冊──『はだしの医者とともに』エドガー・スノーの序文> ジョシュア・ホーン医師は中国において15年間を外科医、教師、そしてまた農村医療労働者としてすごし、その間の回想を、きわめて内容ゆたかで感動的な1冊の著書にまとめた。
 ゆたかな奉仕精神の持ち主である著者は、内外両面における一大革命のよって生まれ変わった中国人民に捧げる思慮ある賛辞とは対照的に、自分自身を見つめる目はいつも謙虚さと率直さとに貫かれていることが、この著作を通じてうかがえる。
 彼自身、貧乏な少年時代を送り、イギリスにおいて苦学して医学を修めた。学生時代は成績優秀で、卒業と同時にケンブリッジの講師となった。教授としての地位が約束されていたにもかかわらず、彼は医療活動を通じて貧しい人びとの解放になんらか役立つことを望み、その地位を捨てたのである。 彼は政治的な確信をもつヒューマニストであり、職業的な行為を通じて活動できる場を求めていた。イギリス陸軍の軍医であった第2次大戦終了後、バーミンガム病院の優秀な外傷専門外科医となった。ついで1954年、彼は中国に働く場を求めて、家族と共にイギリスを離れ、古い歴史を持ち、それゆえにこそ革命後の驚くべき変革をとげつつある社会に住みついたのである。(中略)
 ホーン医師は疑いもなく毛沢東思想の威力を信ずるものであるが、彼は毛沢東思想によって奇跡が起こったなどという主張をしているわけではない。彼の著作は、批判の書ではないが、彼は仕事上での種々の困難な条件、周囲の物質的貧困について、率直に述べている。
 「しかし私の経験によれば、ほとんどの中国人は、自分たちを貧しいとは思っていない。……中国人民は私が出合ったいかなる国の人びとよりも、豊かな文化生活を営んでおり、より理路整然とした思想をもっており、有意義な余暇をすごし、自分たちがなにを目指しているか、そしてそれを実現するにはなにをなすべきかをより明確に理解している。 それゆえに、彼らはゆたかであり、貧しくはない。」と記している。明らかに、ホーン医師は中国に行って物質的なものを得たわけではないが、彼自身はっきりと感じているように、中国における彼の経験の成果は「ゆたかであり、けっして貧しくはなかった。」のである。
(『はだしの医者とともに』からエドガー・スノーの序文)
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<百年来の自然災害──『青春の北京』西園寺一晃> 1958年の大躍進と人民公社化運動の興奮した気分が漂っている59年、中国は百年来といわれる大自然災害に見舞われた。
 その年、北京では雨らしい雨はほとんど降らず、すべての水分が一度に吸い取られてしまったような大旱魃に襲われた。北京以外でも全国的に、あるいは旱魃、あるいは水害、あるいは虫害、あるいは寒波、雹(ひょう)害というような被害を受けた。大自然はその戦力を総動員して弱冠10歳の新生中国と誕生したばかりの人民公社に襲いかかった。
 ふだんは満々と水をたたえている北京郊外の十三陵ダムはそのゴツゴツした水底を人目にさらした。人民公社の灌漑用地はほとんど干上がり、乾ききった畑面は無数の亀裂を生じた。必死に大地にしがみつく農作物は生気を失い、濃緑から黄緑に、そして黄土色に変色し、ついにはひからびて死んでいった。
 当時、各新聞は詳細に各地の状況を報道し、全国人民が一致団結し、この困難と闘うよう呼びかけた。新聞報道で知るだけでも、災害の規模はあまりにも大きかった。被害地区はほとんど中国全土といってよかったし、大災害を受けた耕地は3分の2とも4分の3とも言われた。 また、災害の長期性という点でも稀にみるもので、半年が1年になり、2年になり、そしてまた年が明けても天候は一向に中国人民に味方しなかった。さらに災害の多様性から見ても前述のように旱魃、水害から、虫害、雹害にいたるまで、あらゆるものが重なり、それが連続的に襲ってきた。
 町にも、校内にも重苦しい空気が流れだした。たしかに<危機>と言ってよかった。6億人民(当時はそう言っていた)の住む大国、それもまだ農業国の域を脱していない中国にとって、長期にわたり農業作物の3分の2以上が破滅的な打撃を受けるということは正に危機だった。
 ぼくは自然の怖ろしさをこれほど目のあたりに見たことはない。ふだんでも塵の多い所だが、この時はカラカラに乾いた砂塵が特にひどかった。道も、家の屋根もやけに黄色かった。森さえ黄色く見えた。ぼくは黄色い町を見ながら無気味な重圧を感じた。何かとてつもない大きな禍いが迫ってくるような焦りと苛立たしさにさいなまれた。
 困難は実生活の中にも容赦なく入りこんできた。食糧事情の悪化、綿製品の欠乏が目立った。いつもは山積みされた白菜、大根、ネギ、そのほかぼくなど見たこともないような珍しい野菜で埋まってしまう野菜市場は、入荷不足から段々小さくなっていったし、牛や豚の肉塊が山のように積まれてあって、 いつでも好きな所を青龍刀のような大包丁でバサッ、バサッと切ってくれる肉屋さんも、3日のうち1日は店を閉めるようになった。魚屋も、他の食料品店も同じだった。この模様と反比例するように、食品店前に並ぶ人たちの列は長くなった。
プロ文革と抗災闘争 抗災闘争は文字通り6億人民が心をあわせて行った。少しでも食料事情をよくさせようと、木の葉を原料に人造肉を造る試みもされた。原料の木の葉を採りにゆく、長い竹ザオを持った学生たちの列がよく見受けられた。雑草の中でも食用になるものは野菜と混ぜて食べた。 たしかに食べるものは以前よりずっと粗末になった。しかし人びとの心は決して貧しくなかった。
 これは後に聞いた話だが、このような苦しい最中でも、敵の不意討的な侵略や不慮の事態に備えて、数年分の食料は貯蔵庫に積まれてあったと言う。このことは多くの労働者・農民は知っていたと言う。 そして自ら守っていたと言うのだ。ぼくは唖然としてしまった。このことを証明するかのように大災害が過ぎ去った後、時どき非常に古い米が配給された。これはきっと困難の時期、じっと我慢して貯蔵庫に眠っていたにちがいない。もっとも苦しかった時中国人民は巌に宣言していた。
「われわれはいつでも侵略してきた敵を迎え撃つ用意ができている」
 ぼくはこの時中国の真の底力を知った。この時以来ぼくには中国人民の「言ったことはかならず実行する」という心が実感として理解出来た。
 しかし、これも後で知ったことだが、プロレタリア文化大革命の中で暴かれた数々の事実もあったのだ。それは修正主義に冒され、革命を忘れ、人民大衆から離れてしまった一部の指導幹部たちが困難に耐えられなくなり、勝手に食糧貯蔵庫を開け、自分と自分の仲間の分をこっそり持ち出していたのだ。 党と政府の中枢部にさえそのような者がいたという。証拠も挙がった、証人も出た。白状した人民公社の幹部もいた。6億人民が一致団結して、苦しい抗災闘争をしているというのに、大衆は自ら配給量を減らし、木の葉まで食べて頑張っているというのに、自分たちは<権力>を利用し、不正を行い、人民大衆の困難を横目で見ながら山海の珍味を食べていたとは。 職権を悪用しての汚職が中国でも存在していたのだ。ぼくは今更ながら権力というものの測り知れない巨大な力を感じた。文化大革命の中で権力をめぐって革命造反派と修正主義実権派が死闘をくりかえしたのは当然のことなのだ。 もし文化大革命が起こらず、党と政府と軍のすべての権力を修正主義者が握ってしまったとしたらどうなっていただろうか。きっと中国もソ連と同じ道をたどったであろう。そうなればベトナム人民支援のデモに対する騎馬警官による弾圧も、失業も、投機分子、闇ドル買い、売春婦の氾濫もモスクワだけでなく北京でも当然起こっただろう。 チェコ事件のアジア版もおそらく中国によって引き起こされただろう。考えるだけでも怖ろしいことが当然起こるのだ。そしてその要素は人民大衆の根強い連帯とかけ離れたところに少しずつ生まれつつあったのだ。 これらを考える時その毒草を徹底的につみ取った文化大革命の意味がよくわかる。
 抗災闘争の模様はぼくにとってあまりにも刺激的であり、衝撃と驚異の連続だった。ぼくなどはとてもおこがましくて中国の人たちと共に抗災闘争を行ったなどと言えない。 ただオロオロしながら近くでそれを見ていたにすぎない。しかしその光景はブルジョワ社会からやって来たひ弱で無知なぼくに社会主義中国を赤裸々な形で見つめさせるに充分であった。 そしてぼくがその中で感じたことは自分には到底出来ない、今のままの自分では中国の人たちと同じようには絶対出来ない、それが出来るには、本当に中国の人と一緒にやるためには今の自分を変えるしかないということだった。 そして学友たちの姿を見ながら自分を変えねばならない、少しずつでも学友たちに近づかなければならないと痛感したのだった。 (『青春の北京』から)
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<バレエと文革と青春──『ぼくの北京留学』林道紀> 1965年(昭和40年)11月1日、ぼくは北京芭蕾(バレエ)舞踏学校に入学するために北京に到着した。いらい3年11カ月12日。1969年9月12日に北京をはなれて帰国の途についた。 いま思いかえしてみると、「なんだ、4年そこそこだったのか」と、もう一度、数えなおしてみる。それほど”ながい”年月だったのである。なにしろ、ぼくにとって、北京は生まれてはじめての土地であり、見るものきくもの学ぶもの、すべてが異質のものだった。(中略)
 ぼくがバレエを習ったのは、12歳からである。両親は、ゆくゆくはモスクワのボリショイ劇場付属バレエ学校に留学させるつもりでいた。ぼくもそのつもりでロシア語を勉強していたのだが、それが突然、北京芭蕾(バレエ)舞踏学校へ行くことになったのは、次の理由からである。
 その1つは、たびたびソ連に行ったことのある祖父がこういったのである。
「こんな子どもをモスクワへやったら非行少年になることまちがいない」
 この意見に父が同意した。もう1つは、政治問題である。フルシチョフいらいのソ連の政治から、祖父も父もソ連の芸術をみる目が変わってきた。
「ありゃ修正主義なんてものじゃないよ。ソ連のバレエは、もともとツァールの宮廷から生まれたものを、いくらか手直ししているにすぎないのだ。修正主義以前だよ」
 そういって「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」などに、あいかわらずしがみついているソ連のバレエを手ひどく批判していたし、ソ連の人びととのつきあいも、だんだん冷たくなってきていた。(中略)
 父は1960年、東京・世田谷に「チャイコフスキー記念・東京バレエ学校」というのを設立し、経営していた。一時は生徒数250人を数え、女優の栗原小巻さんも第1回目の卒業生である。 先生には、ボリショイから来たワルラーモフ氏、メッセル女史などがいた。また父の制作により、アイヌ民話を主題にした日本のグランド・バレエ「まりも」を在校生で上演し、文部大臣賞なども受賞した。
 ぼくがバレエを習うようになったのは、ソ連の教師が「生徒には女性は多いのだが、男の子どもがいなくてはこまる。息子さんに習わせたらどうだ」
 という、ごく単純なことからだった。最初はイヤでイヤで、逃げだしてばかりいた。やっと腰を入れて習うつもりになったのは、2年ほどたってからである。(中略)
学校にも文革の波が
{6月13日 文化大革命} 
 パパ、ママへ。
 学校はたいへんなことになった。レッスンは先週からストップ。文化大革命の学習会と「大字報」書きで、授業はまったくできなくなってしまった。 スゴイ階級闘争がはじまったんだ。労働者や農民や兵士が立ち上がって、「防衛共産党毛主席」の大闘争が日に日にたかまってきた、と新聞やラジオが伝えている。
 学校のなかでも闘争が行われている。生徒による学校当局と教師への批判もはじまって、そのことを書いた「大字報」が張りだされる。先生と生徒の集会がつづいている。 その集会でどんなことが討論されているのか教えてくてない。きいても、だれも話してくれない。ぼくと馬継安の2人は、外国人だから中国の問題には関係ない、と集会には参加させてもらえないんだ。 それどころか先週なかばからは、学校じゅうに張られた大字報も見てはいけないというのだ。
 仕方がないから、ぼくと馬継安の2人きりでレッスンをつづけている。馬継安が、腰が痛いから休むというときは、ぼくは1人でやっている。
 きょうは日曜日、1人きりのレッスンもおわり、宿舎に帰って馬継安と勉強したり、陶然亭公園のプールへ行ったりした。まるっきり仲間はずれにされてしまった。いくら外国人だって、事情くらいよく教えてこれたっていいと思う。
 北京バレエ団でも、闘争が激しくなったので松山バレエ団の人たちは宿舎から別のところに移された、といってました。困っているんじゃないかしら。ことばもわからないだろうし、北京のこともよく知らないだろう。会いにいってみようかと思っています。
 今夜は、上海バレエ学校の「白毛女」の北京での楽日(最後の日)なんで、これから馬継安と2人ででかけます。再見。
芸術活動は階級闘争
{1月10日 芸術家の進路} 
 ぼくは、いつものように、からだづくりと語文、読書。ピアノのかわりにアコーディオンを弾いて音楽の勉強をしている。
 学校の空気は非常に緊張している。資産階級反動路線にたいする批判──劉少奇、ケ小平らの反革命路線との闘争の一応の総括のための学習が、熱心につづいている。これは、去年からつづいていて、ぼくもずっと参加していいる。
 学習の内容はね、去年の11月28日の大集会での周恩来首相、陳伯達・江青両同志の文学・芸術界に関する演説の研究と討論だ。この学習への参加は、留学2年目のぼくにとって画期的なことになりそうだ。というのは、ぼく自身の1年間の頭脳の整理でもあるからだ。
 ぼくがいままでハッキリと理解できなかったいろんな問題に、3人の演説は明快に回答を与えてくれているのがうれしい。
 学校内の闘争が激しくなって、ぼくたち外国人2人が途方にくれていたとき工作隊がやってきた。そのおかげで闘争はおさまり、そのうえ、ぼくたちは特別な待遇をうけて、すっかりいい気持ちになって勉強していると、こんどは突然、党命令で工作隊が引き揚げた。 闘争は以前よりも激しくなった。そのあたりの事情など、きいてみるとナルホドと思ったけれども、やっぱりなにか胸につかえるものがあった。ほんとうに工作隊が反動路線につながっていたのかなあって。
 江青女史は次のようにいっているんだね。
 「プロレタリア文化大革命では、工作隊を派遣するという形態は誤りであり、わけても工作隊の工作内容は誤っていました。彼らは闘争の矛先を資本主義の道を歩む党内の一握りの実権派および反動的な学術権威者に向けようとせず、革命的な学生に向けたのです。
  闘争の矛先をどこに向けるか──このことは、原則的な是非の問題です。これはマルクス・レーニン主義、毛沢東思想の原則的な問題です。われわれの毛沢東は、すでに今年(1966年)の6月、大急ぎで工作組を派遣する必要はないといわれました。しかし、ある同志は、毛主席の指示を仰がずに、大急ぎで工作組を派遣しました。 しかし、指摘しなければならないこととして、問題は工作組という形態にあるのではなくて、その方針・政策にあるということです」
 そうか、そうだったのか、と理解できるよね。また、江青女史は、芸術活動は階級闘争でもある、といっているんだよ。
 「われわれの文学・芸術が社会主義の経済的土台に適応できないなら、それは、どうしても社会主義の経済的土台を破壊することになるだろう」
 こういわれると、京劇やバレエや交響曲の改革がどんなに大切かわかる。「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」などが、ソ連の資本主義への逆もどりにどんなにい大きな働きをしているかがわかる。中国に来る前のぼくは、そんなことはなにも知らなかった。ただ夢中でとんだりはねたりしていた。いわば芸術至上主義だよね。それがいかに反動的、反革命的かがわかったよ。
 周恩来首相もこういっている。
 「毛主席の文学・芸術の方向は、とりもなおさず全世界の革命的文学・芸術の方向です。
 文学・芸術界は、いままで長期にわたって、一握りの反革命修正主義分子の支配のもとで毛主席の文学・芸術思想と革命路線に抵抗し、修正主義の毒素をまきちらし、資本主義復活の世論をつくりあげる彼らの主要な陣地になってきました。
 わたしたちは、かならずプロレタリア文化大革命のなかで、断固として、この文学・芸術界に根を張る反党、反社会主義、反毛沢東思想の一握りのブルジョア階級の右翼分子を1人残らずあばきだし、彼らを打ち倒し、鼻つまみものにし、たたきつぶさなければなりません」
 中国の文学・芸術界が、これから進もうとしている方向がよくわかるよね、パパ。 (『ぼくの北京留学』から)
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<30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない> ウィンストン・チャーチルの言い方を借りれば、「こうしたレポートを30歳前に読んで、社会主義者でないものはハートがない」と言える。
 毛沢東は聖人ではないし、多くの誤りを犯した。何度か行われた「整風運動」は権力闘争で敵対者を追い落とすことであったし、「百花繚乱、百家争鳴」は批判すべき者が最初から定めてあったし、「大躍進運動」は失敗であったし、「文革」も大きな混乱を招きその後の経済発展の足を引っ張るものだった。 そうした試行錯誤の中国革命であったが、その中で精いっぱいハートを燃やし続けた人びとが多くいた、そしてそうした人びとのレポートは読む人に感動を与える。 アルバニアにはそうしたレポートがない。エンベル・ホジャ以外の人が取り上げられていない。1人の独裁者しか登場しない。まるで「地上の楽園」北朝鮮のようだ。だから鎖国が徹底して行われたのだろう。地産地消を徹底するにはアルバニアや北朝鮮を見習うのがよさそうだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『中国の赤い星』                    エドガー・スノー 宇佐美誠次郎訳 筑摩書房   1964. 9.20
『目覚めへの旅』                      エドガー・スノー 松岡洋子訳 紀伊国屋書店 1964. 9.20
『中国の歌ごえ』                    アグネス・スメドレー 高杉一郎訳 みすず書房  1957. 3.10
『中国紅軍は前進する』                  アグネス・スメドレー 中理子訳 東邦出版社  1971.12.15
『人民中国の夜明け』                    ニム・ウェールズ 浅野雄三訳 新興出版   1971. 9.25
『医師ノーマン・ベチューンの偉大なる生涯』テッド・アラン/シドニー・ゴードン 浅野雄三訳 東邦出版社  1971.12.15
『はだしの医者とともに』イギリス人医師のみた中国医療の15年 J・S・ホーン 香坂隆夫訳 東方書店   1972. 2.20
『青春の北京』北京留学の十年                         西園寺一晃 中公文庫   1973.10.10
『ぼくの北京留学』バレエと文革と青春                       林道紀 講談社    1972. 5.24
( 2006年2月20日 TANAKA1942b )
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(12)拝金主義も生まれなかった社会
反資本主義のユートピア羨望
<ねずみ講に免疫性のなかったアルバニア> 1991年アルバニアはねずみ講で揺れていた。国民の多くが引っかかった、ということはねずみ講の仕組みも、危険性も意識していなかったということだ。 社会主義経済体制で金融のことは分からなかった、そして国民だけでなく政府役人もねずみ講のリスクを理解していなかった。
 こうしたアルバニア経済に対して2つの違った評価がある。1つは「拝金主義に汚染されていない、平等な社会だ」というプラスの評価。もう1つは「結局全ての人が平等に貧しくなる社会だ」というマイナスの評価。
 経済が成長して国民が豊になるには、ときには経済の「成長痛」とも言うべき経験をすることもある。アルバニアのねずみ講事件はそうした「成長痛」だったと考えるのがいい。それに関しては以前に <資本主義社会の経験不足>▲ と題して次のように書いた。
<資本主義社会の経験不足>
どこかの県の教育委員会が「高校生のアルバイト大いに結構」との方針を打ち出した、との報道があった。教育委員会も分かってきた。 セブンやファミマなどのコンビニやケンタやマクドなどのファースト・フードでバイトをすると、働くこと、「お客様は神様です」の意味が分かってくる。商売は利益を出さなければならない。趣味や社会的意義があって商売しているのではない。 大人でさえ、消費者主導の経済に不満で、消費者教育が必要だ、と主張する人もいる。神様に説教しようという大胆な主張だ。高校生のうちからバイトで資本主義の内側を知っておくといい。アルバニアの例は、幼児の頃から大人の社会を知らずに保護されていて、バイト経験もなく、年をとってからいきなり大人の資本主義社会に放り出されたようなことだった。 預金・金利・投資などの意味も分からずに、いきなり資本主義経済になってしまい、かわいそうだった。もっとも日本のような資本主義経済で生活していても、「地域通貨にインフレはない」「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」 という、資本主義社会以前の、幼児社会の経済感覚を持ったかわいそうな大人もいるようだ。マン・チャイルドと言うか、アダルト・チルドレンと表現すべきか?
<成長痛を怖れ、大人になるのをいやがり、駄々をこねる>
現代のラダイト運動(Luddite movement)はその主役が、社会の進化によって被害を受ける弱者ではなく、余裕のある傍観者である、という点で1810年代の運動とは違っている。現代のネッド・ラッド(Ned Ludd)(ネッド将軍ともいう)も架空の人物で、だから誰もが社会批判はするが、自分は非難されないように、言質を取られないように気を使っている。
 駄々をこねる評論家・エコノミストがいても経済のグローバル化は進む。@日本の文化=コメが広くアジアで受け入れられ、「ビッグ3の下請けになる」と怖れられた資本の自由化を乗り越え、日本経済は成長した。 Aドルが金の束縛から開放され、世界の成長通貨が供給されるようになった。Bアジア諸国は変動相場制に移行しさらに大きく成長する道が開けた。C国債償還の停止(モラトリアム)を経験しながら、大国ロシアは総身に知恵が回りかね。D社会主義から市場経済にソフト・ランディングした国もあれば、ミロシェビッツのような指導者を選んでしまった国もあった。 E天安門事件後、南巡講話で息を吹き返した白黒猫、人民元切り上げの圧力が感じられるこの頃、それでも日本のすぐそばに巨大な消費市場が生まれそうだ。期待しよう。Fアダム・スミスのような理論家は出なかったが、三貨制度のもと、一分銀は管理通貨制度、金と銀は変動相場制を操っていた江戸幕府の進んだ通貨制度。G空想社会主義のような「地産地消」を実験したアルバニア。
 「グローバル化」という言葉を使い、外国にも開かれた経済体制に移行するのを怖れ、「狭い社会に閉じ隠りたい」と駄々をこねる評論家・エコノミストが危機感を煽るが、経済は確実に進化する。今回取り上げたケース、いろんな形のショックがあったが、前に進もうとしているのは間違いない。
<社会主義国の銀行制度> 地産地消の国アルバニアでは拝金主義はなかった。投資信託はないし、株取引もないし、いわんやデイトレーダーなんて想像もつかなかったろう。ではどのような金融システムだったのだろうか?地産地消の国アルバニアの金融制度に関しては資料がない。そこで東ヨーロッパの金融制度の関する資料から想像するしかない。ということで、東欧社会主義国の金融制度に関する文献から一部引用することにしよう。
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<財政金融のしくみ> 東欧諸国に経済は、社会主義を理念とした計画経済体制の国々である。 しかしながら、同じ理念を持つユーゴスラビアのごとく、西側の経済制度を大幅に混入した国とは様相を異にしている。もっとも、ユーゴスラビアを除く東欧諸国でも経済改革後、経済効果を高めるため金融機能の活用をはかり、また部分的に市場機能を導入した国々もあった。 しかし、経済改革前における東欧諸国の財政金融をめぐる経済の仕組みが、経済改革後も基本となっており、それがどのような仕組みになっているかについて見てみよう。
 東欧諸国の経済は、国民経済計画により運営され、現在各国とも5ヶ年の国民経済計画(従来は国によりそれよりも短い短期の計画もあった)が建てられており、その実施にあたっては計画に関し立法措置がとられている。この5ヶ年計画は、また、その間年次ごとの計画も建てられ、5ヶ年計画の目標を達成するための調整が行われる。 しかし、年次計画の調整によって5ヶ年計画の目標が改められねばならないことは余り生じないが、それが生じることは西側における景気変動による経済調整に相応するものであることが考えられないこともない。経済計画の立案にあたるのが中央の計画機関であり、 その実施にあたっては、中央の計画当局は、計画にもられた生産高目標をその生産にたずさわる国営企業に下達する。国営企業に下達される、かかる諸目標は、国営企業にとって行政的な拘束性のあるものである。
 したがって、東欧諸国の経済は物量計画中心に運営されているが、その計画達成を裏付けるために資金計画が建てられている。資金計画は、国家予算、信用計画および現金計画より成っており、国家予算と信用計画の所管は大蔵省であり、一方、現金計画の所管は銀行制度の中核である中央銀行、すなわち国立銀行である。 経済改革前においては、東欧諸国の国民経済に必要な設備はほとんど国家予算資金から無償で交付されていたので、資金計画の中心は国家予算であり、信用計画については諸銀行から取りまとめた国立銀行により提出される資料、情報に基づいて大蔵省において策定されていた。
 また、東欧諸国の経済は、社会主義化経済部門と非社会主義化経済部門に分かれ、社会主義化部門は国営企業、共同組合から成り、一方、非社会主義化経済部門は個人や個人企業から構成されている。非社会主義化部門は個人部門ともわれ、国民経済における役割はきわめて小さいのに対し、国民経済活動の大宋は社会主義化部門で占められており、しかも社会主義化経済部門における主役は国営企業である。
 国家予算の主要な収入源は、国営企業からの利潤納付と国営企業が生産物を販売する際に取引段階で賦課される取引税とである。一方、個人部門から納入される個人所得税等の国家予算収入に占めるウェイトはきわめて小さい。これらを財源に国民経済の発展に必要なプロジェクトに対し国家予算から無償で資金交付が行われていた。
 次に、国営企業、銀行および国家予算のあいだにおける資金的な流れを要約して示してみよう。すなわち国営企業を新設する場合、まず国家予算から新設企業に必要な設備資金および企業操業に必要な運転資金が、投資銀行を通じて無償で交付される。この場合、投資銀行は財政資金を企業に流す資金の整理機関に過ぎず、西側の意味する銀行とは異なる。また、企業が生産活動を行うようになって、一時的に、ないしは季節的に手許資金に不足をきたす場合には、企業は取引先の国立銀行から融資を仰ぐこととなる。 東欧の国立銀行は、前述のごとく中央銀行であるが、同時に企業と取引する商業銀行的な業務も兼ねており、上記の国立銀行の企業に対する融資は、国家予算からの資金交付と違って、金利が付され、企業は返済を要する。 ただし、経済改革前においては、金利は低利で、かつ固定的であって、経済改革後、金利が活用されるようになったのとは事情を異にしている。かくして、企業は生産活動を行ない、生産された製品を販売して取引税を納め、決算後生じた利潤から一定の内部留保を行ったのち、残余の利潤を政府に納入するといった仕組みになっている。
 国営企業等を擁する社会主義化経済部門における相互間の取引決済は、企業等が開設する国立銀行支店の決済口座を通じ振替指図書によって行なわれる。したがって、企業等は、現金について必要最小限を手許に置くだけで事足りるようになっている。
 以上にみられるように、東欧諸国においては、各国共通して国立銀行が国際的な相互決済、清算機関であり、企業間信用が禁止されているため国立銀行が社会主義化経済部門における唯一の短期信用供与機関であるほか、国立銀行が中央銀行として発券業務を行なうとともに、商業銀行的業務等をも行なうマンモス銀行であることが顕著な特徴である。
 一方、個人部門は、ごく小規模な清算企業のほかポーランドのような東欧の中でも特に多い個人農業も含むが、その部門の主役は個人である労働者たちなのである。労働者は働いている国営企業から賃金として現金を受け取り、これで生活に必要な消費財を購入する一方、個人部門専業の金融機関である国家貯蓄銀行に預金する。 貯蓄銀行の預金には定期的な預金もあり、また、普通預金もあり預金については金利が付される。個人はどこの貯蓄銀行でも預金でき、非居住者も預金が可能である。また、個人に支払う公共料金について、貯蓄銀行の預金口座から定期的に引き落とすこともできる。こうした制度が東欧の国々において早くから発達したのは、次の理由によるものである。 すなわち前述のとおり、社会主義化経済部門における決済がほとんど振替え決済で行われていることのほか、政府としては、国民経済に対する投融資資金の充実化を図る見地、国民の流動的な資金をできるだけ吸い上げる必要があり、このため貯蓄銀行における個人の振替支払方式により預金の増強に努めようとしたことなどによるものである。
 また、現金取引は、消費財を国営の販売店、コルホーズ農民等から現金で購入する個人中心に行われている。したがって、個人部門が資金計画の中の現金計画に特に密接な関係がある。かかる現金計画に基づくマネー・サプライは、指標としての重要性が西側先進諸国ほど高くない。 ちなみに、東欧諸国においては、国民総生産の概念がなく、また、国民所得の内容が西側と同一でないが、国民所得に占める通貨発行高の割合を見てみると、東欧の国の場合、西側先進国に比してかなり低率であった。
 以上にみられるごとく、東欧諸国における銀行制度はきわめて簡素化されており、社会主義化経済部門に対応する国立銀行および融資銀行(国によって農業銀行が設けられているところもある)、一方、個人部門に対応する国家貯蓄銀行(総じて戦前の郵便貯蓄制度を母体に設立されている)から成っている。 (『東欧諸国の銀行制度と金融管理』から)
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<未公開株のうま味は誰も知らなかった> エンベル・ホジャの死後、鎖国をやめ普通の国家になろうとしたアルバニアで、政府は国営企業の民営化に備えて、1995年に国民に民営化バウチャーを配布した。これは将来民営化された場合、その株を買う権利のバウチャーなので、未公開株を国民に配布したようなものだった。 そして1996年には証券取引所を開設し、さらに証券市場への投資促進をねらって英国系の投資信託会社にライセンスを与えた。
 しかし、民営化バウチャーで国営企業の株式を購入したアルバニア人はほとんどいなかった。大多数の国民は、将来性のない国営企業の株式に投資するなど論外であるとして、路上のブローカーたちに額面価格の1割程度の値段で売りとばしてしまった。もしアルバニアが日本の近くの国で、日本人が自由に入国でき、情報も豊富であったなら、 多くの日本人がバウチャーを買い求めていただろう。投資・投機などについてアルバニア国民は無知であった。そして1997年にはねずみ講が破綻したのであった。
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<NHK特集の地産地消> アルバニアをどのように見るか?NHKの放送に対して多くの反響があり、アルバニアに憧れるかのような意見があったという。その意見を再録してみよう。<地産地消の国に憧れる視聴者>
 1986年12月8日夜8時50分、NHK特集『アルバニア・鎖国の社会主義国』の放送が終了した途端、NHK特報部のあちこちの電話がいっせいに鳴り響いた。視聴者からの電話である。
 「日本もアルバニアを見習って、もっと独自性をもつべきだ」(若い学生風の男性)、「自給自足で生きられるなんて、まさに20世紀も桃源郷のようで羨ましい」(主婦)、たとえ貧しくても、あのように明るい家庭が日本にもあったはずだ。昔を思い出して懐かしかった」(63歳の男性・自営業)、オートメーションだの合理化だの便利さばかりを追求するより、額に汗して働く人たちを見て感動した」「情報化の中でしか生きられない日本から見ると、あんなに何も知らなくて暮らしているヨーロッパ人がいたなんて驚いた。日本は知らなくていいことまで知らされすぎる」等々、視聴者からの感想はいずれもアルバニアの1シーン1シーンの中に日本の昔や現在の姿をおきかえて比較した、1つの日本批判である。
 これらの意見は、多分に日本人のノスタルジアをかきたてた興味であったり、行きすぎた日本の合理性に反発したものであろうが、それにしてもアルバニアという国には、日本やアメリカ、ヨーロッパが鎖国という特殊な条件下であればこそであり、外国の情報も何も知らされていないからこその、ある意味での純真無垢さをもっているからである。 (『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』から)
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<日本人が好むユートピアの世界> アルバニアのような、すべての国民が平等に貧しくなる社会に対して「格差の少ない社会」「拝見主義者のいない社会」「ITバブルとは縁のない社会」「自給自足・地産地消の社会」と言って憧れる人も多くいるようだ。NHK特集『アルバニア・鎖国の社会主義国』はそのような人を満足させる番組であったし、制作者もそのような考え方・イデオロギーの人だったようだ。NHKは民放のようにスポンサーのご機嫌取りは必要ない。 もし、外部から注文が入れば「政治家が圧力をかけた」と叫べばいいので、制作者は思いっきり自己主張ができる。NHK特集『アルバニア・鎖国の社会主義国』はそうした番組であった。
 そのようなイデオロギー、地産地消の徹底した考え方は、その原型が「ユートピア」にあると思う。そこで「ユートピア」から一部引用し、その感覚・センスを感じて頂きましょう。
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今日われわれが、軽蔑するわずかの人間に押しつける農業は万人共通の職業 ひとつの仕事は、すべての人に男女の別なく、ひとりの例外もなく課せられており、それは農業です。 農業についてはすべてのひとが子どものころから教えこまれ、一部には学校での理論教育を通じ、一部には都会周辺の農村地帯に連れ出されて遊びがてらに教えこまれます。(遊びがてら)といっても傍観しながらではなく、体力錬成の機会として実習しながら教えこまれます。 農業{いま申したように、これはみなに共通(の職業)です}のほかに、だれもがなにか1つのものを自分の職能として覚えます。 それは普通、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、錠前職、または大工職です。ほかには、言及するのにするほど多数の人が従事している職業はありません。 (製服職もありません)というのも、衣服は、性別や、既婚未婚の別がわかるようになっているほか、全島を通じ、あらゆる年齢層にわたり同じ形をしているからです。 見た目に不快でなく、体の動きが楽なようにできており、寒さ暑さどちらにも適しています。各家庭がこの衣服を自分たちで作ります。ところで、さっきあげた職業のうちどれか1つは、男だけでなく女でも習います。 女は弱者として軽い仕事をします。たいてい羊毛や亜麻織りです。男にはほかの、もっと骨の折れる仕事が回されます。一般には、だれでも父親の職業を習わせます。というのは多くのひとは自然の性向で父親の職業につきたがるからです。 しかしほかの職業に心をひかれるものがあれば、そのひとは自分の好む職業にたずさわっている世帯に養子として転入させられます。そのさい彼の実父だけでなく役人たちも当人が重厚で名望ある実父長のところに移籍されるよう配慮します。 もしだれかが1つの職業を修得したあとで、さらに別の職業を習いたければ、それも同様なやりかたで許されます。両方の職業を身につけたいならば、市が1つの職業のほうを他の職業より必要とするというような事情がないかぎり、当人はどちらでも好きな仕事をします。
怠け者はこの社会から追放される 部族長の主な、あるいはほとんど唯一の任務は、怠けて座りこんでいる者が一人もいないように、皆が自分の職業に勤勉にたずさわるように、しかも荷役の動物のように朝早くから夜おそくまで絶えず働き続けて疲労しきったりすることはないようにと注意、監督することです。 そのような労働は奴隷的酷使よりなお悪いからです。しかし、それが、ユートピア人以外のほとんどすべての労働者の生活状態なのです。彼ら(ユートピア人)は夜も含めて1日を24時間に等分し、そのうち6時間だけを仕事にあてます。そのうち3時間は午前中、引き続いて昼食をとりに出かけ、あとの午後2時間休憩し、そのあと3時間をまた労働にあて、夕食の時間になるところできりあげます。 彼らは1日の最初の時間を正午から数えますから、8時頃に床につくわけです。睡眠は8時間とります。
衣服費削減法 衣服についても、彼らがほんのわずかの労力しか費やしていなしことに注目してください。まず、かれらは、仕事をしているあいだはなめし皮か毛皮の質素な服を着ており、これは7年間もちこたえます。外出するときにはその上に外套をひっかけ、それで下の粗末な服をかくします。 この外套は島じゅうどこでも同じ一色、つまり生地本来の自然色で作られています。ですから、ほかのところに比べると、あそこでは毛織物がきわめてわずかで足り、その値段もたいへん安いのです。 しかし亜麻地のほうがもっと労力をかけずに作れるので毛織物よりよく用いられます。彼らが注意するのは、亜麻の場合には白いということ、毛の場合には清潔であるということだけで、織り糸の質が上等かどうかということなどは勘定に入りません。 それゆえ、ほかのところでは一人のために種々の色の毛織の服が4,5着と、同数の絹の下着があっても十分でなく、そしてもっとやかましい人には10着あってもまだ足りることはないのですが、おそこでは誰でも大体2年間に1着の服があれば満足しています。 事実、それ以上欲しがる理由はありませんし、たとえそれ以上もらっても、普通以上に防寒の役にたつわけでもなく、衣服のおかげでもっとエレガントに見えるなどということもまったくありません。 (『ユートピア』から)
現代に生きているユートピア思想 トマス・モアの『ユートピア』は1516年に出版されている。ほぼ500年も前に書かれたものだ。そんなに古いものではあるが、日本ではその思想・価値観は根強く人の心の中に定着しているようだ。地産地消の国・アルバニアに憧れるのはトマス・モアの『ユートピア』を理想の社会と考えているからだ。 ここの引用したのはほんの一部でしかないが、それでも現代に通じる価値観が書かれている。そのユートピアを目指したかのように見えたのが地産地消の国・アルバニアであった。もっとも実態はエンベル・ホジャの独裁国であることを見えないように、理由をつけて地産地消を徹底させていたわけではあるが……。
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<主な参考文献・引用文献>
『東欧諸国の銀行制度と金融管理』 アジア経済調査研究双書237     田中壽雄 アジア経済研究所 1976.10.18
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』                NHK取材班 日本放送出版協会 1987. 5.20
『ユートピア』                     トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫     1978.11.10
( 2006年3月6日 TANAKA1942b )
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(13) 地産地消から普通の国家へ
民主制度・市場経済への試行錯誤
<エンベル・ホジャ以後のアルバニア> 「地産地消の国アルバニア」が変わりつつある。民主制度・市場経済というごく普通の国のシステムに移行し始めている。 そうした変化を、経済を中心に見てみよう。
<資本主義国アルバニア> アルバニアはこのとき、冷戦時代に「東側」に属した多くの国々と同様、市場経済への急速な移行の途上にあった。 その上アルバニアが独特なのは、10年前アルバニア労働党一党独裁体制が崩壊したそのときまで、いわゆる鎖国政策を敷いていたという事情である。
 第1次大戦、第2次大戦と、数々他国から侵入を受けたアルバニアでは、エンベル・ホジャなどの共産主義者がパルチザン闘争を展開、1944年エンベル・ホジャは、アルバニア全土を解放、翌年1月アルバニア人民社会主義共和国樹立を宣告した。
 ホジャは首相辞任後も労働党第一書記として85年の死去まで、頑固で朴直な社会主義独裁路線を強化、ユーゴスラビア、ソ連、中国をつぎつぎに修正主義と批判し、国交を絶っていった。
 76年人民議会で可決制定された憲法には、つぎのようにある。
 第28条 外国の経済・金融の会社その他の施設および資本主義者と修正主義者の資本主義の独占企業・国家と合同で作られたこれらのものに対して免許特権を与え、またこれらのものを創設すること、ならびにこれらのものから信用の供与をうけることは、アルバニア人民社会主義共和国においてはこれを禁止する。
 こうしたアルバニアの、世界でもまれな鎖国自給自足経済は、1990年末から91年にかけて、音を立ててくずれた。東欧革命の余波を浴び、人民が全土でホジャ像を倒した。アルバニアは社会主義体制を放棄、市場経済の導入に踏みきった。
 しかし、長い間市場経済を敵視してきた歴史的経験がある。また、折しも90年代半ばの国際経済は、ヘッジファンド全盛、ホットマネー飛び交う時代だった(ねずみ講式投資破綻事件の97年は、タイのバーツ危機と同年の出来事である)。 いわば資本主義にうぶだったアルバニアが学んだ市場経済とは、このような時代のものだったのである。
 いま、アルバニアの首都ティラナの中心にあるスカンデルベウ広場には、闇の両替屋が100人近くたむろしていて、街よく人に声をかけている。 私たちが彼らを撮影しようとすると、ある両替屋は、カメラに自慢げに両替行為を撮影させ、こういった。
「これが資本主義ってんだろ」
 資本主義アルバニアは、いまだ混迷の中ににある。
 かつてスカンデルベウ広場の中央に屹立していたホジャ像は、いまは台座部分のぐにゃりと屈曲した鉄骨が残るばかりである。広場周辺にあったレーニン像もスターリン像ももうない。唯一あるのは、15世紀オスマン帝国を25年間撃退したアルバニア人の民族的英雄スカンデルベウの騎馬像だけである。
 アルバニアはいま、民族の強い絆をよりどころに難局打開をめざしている。広場の風景はそういう事実を象徴していた。そしてこういう民族意識への収斂は、コソボ問題を考えるとき、非常に重要な要因でもあった。
 コソボ紛争というと、旧ユーゴスラビア国境内の力学ばかりに目がいきがちだが、コソボのアルバニア系住民の背後にいるアルバニア共和国のアルバニア人380万人は、対立するセルビア人にとって相当な脅威であった。
 そればかりではなく、双方に住むアルバニア人の統一をめざす大アルバニア主義の高揚は、アルバニア全体のパワーバランスを大きく変更する激変のきっかけとなる。民族統一を念願とするアルバニア人の心情は、それだけで他面ヨーロッパの火薬なのだ。 (『環地中海』から)
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<自家用車の増えた首都ティラナ> 夕刻、ティラナに到着して、自家用車が目立つのに驚いた。労働党が孤立政策をとっていた時代、市民は自家用車の所有を禁じられていた。2年前、ティラナに来た時は、年代物の中国製バスが黒煙を吐き出して走っているだけで、乗用車といえば、役所の公用車ぐらいだった。 そのバスも、かつて中ソ対立の時代、中国側に接近していたこの国に援助されたものらしい。その後、中国とも袂を分かってしまったため、パーツの供給が途絶え、窓ガラスなどほとんどなくなっていた。
 それが、どうだろう。ベンツ、フィアットなど、いずれも中古車ではあるが、西欧製の車があふれているではないか。なかには、ナンバープレートのない車も。ナンバーの発行を待ち切れないドライバーがいるらしい。
 夜8時にグジミ君と通訳の教師スパルタクスさんがロビーに姿を見せた。ティラナには最近、個人経営のレストランやカフェが出現したというので、そんなレストランに1つに案内してもらった。2年前には、まともに営業しているレストランなぞ1軒もなかった。
 ホテルから徒歩数分のレストラン「ルゴバ」。セルビアのコソボ州にある地名からとった名前らしい。店内にはビニールのシートを被せた4人掛けのテーブルが7卓ほど並んでいた。あまり高級とは言えないが、カウンターの奥に並んだ洋酒棚には西側のあらゆる種類の酒が並んでいた。
 私とグジミ君は食前酒にラキアとドイツの缶ビールを、古代ローマの剣奴の英雄の名に似合わず、下戸のスパルタクスさんはコーラを注文した。食事は赤ワインに各自牛肉、ブタ肉、ソーセージのミックス・グリルと野菜サラダをとった。まずまずの味だ。これで3人分合わせ1000レク、ざっと2000円である。もっとも、教師の月給2100レクに比べれば、べらぼうに高いことになる。 (『バルカン危機の構図』から)
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<新生アルバニアの誕生> 第2次大戦後のアルバニアは、エンヴェル・ホッジャの表面的なスターリン崇拝に支配されていた。彼は1985年に死去した。旧ソ連においてゴルバチョフ政権が誕生した約1カ月後のことである。
 全世界はアルバニアの変化を期待したけれども、やはりアルバニアは、正確にはホッジャの後任のラミズ・アリア (Ramiz Alia) もまた変化よりも継続を重視した。ゴルバチョフ (Gorbachev) のペレストロイカ (perestroika) をブルジョワ修正主義だと非難し、グラースノスチ (glasnost') をブルジョワ・イデオロギーの導入だと中傷した。
 ところが、国際環境の激変がアルバニアに変化の必要性を突きつけた。特に、ルーマニアのクーデター (1989年12月) は強烈だった。労働党は経済、政治、社会における微調整に着手せざるを得なかった。1990年からは、アリア自身が改革派に転身して、政治と経済の改革に取り組んだ。
 市民レベルでは、弾圧に怯えながらも、草の根運動が展開された。一部の市民は海外脱出を試みた。あその際にも当局は軍隊を使用しなかった(できなかった)。 度重なるデモンストレーションに直面して、当局はとうとう非共産党系政党を合法化した。そこから野党・民主党が出現した。1990年12月12日のことである。その時の中心人物が、現大統領のサリ・ベリシャ (Saki Berisha) であり、グラムズ・パシュコ (Gramoz Pashko) である。但し、意見の対立からベリシャ氏はパシュコ氏を追い出してしまった。 ベリシャ氏は元々、非妥協的な人物である。1991年1月5日には、党機関紙『リリンディヤ・デモクラティケ (Rilindja Demokratike)』を創刊した。
 1991年2月、首都・ティラナのスカンデルベグ広場のホッジャ像が市民の手によって倒壊され、ホッジャの生誕地・ジロカスタル (Gjirokastër) をはじめ全土のホッジャ像がアルバニアから消滅した。同年3月には、イタリアへの市民の大量脱出という事件が起こった。現在の政治、経済、文化にかかわる公的な職務の主要ポストにあ、この民主化運動の際にベリシャ氏に貢献した人物が数多く就任している。地方から中央に抜擢された人物もいる。また、各地方で重要な地位にまで登りつめた人物もいる。
 さて、1991年3月31日には予定通り複数政党制による総選挙が実施された。そして、連立政権が樹立された。しかしながら、政治は首尾良く運営されなかった。同年12月には民主党が連立政権から離脱した。民主党は再選挙の実施を求めた。
 1992年3月には再度、総選挙が行われ、今度は民主党が圧勝した。加えて、大統領職については、アリア氏からベリシャ氏にバトンタッチすることを人民議会が決議した。ただ、統一地方選挙では、都市部では民主党が勝ったものの、農村部では社会党(旧労働党)が優勢だった。また、グラモズ・パシュコ氏は、民主党の専制的性質を批判したため、民主党を除名された。民主党は優秀な経済ブレーンを失った。パシュコ氏は、内外の学術論文集を通じて、民主党による経済政策をことごとく批判してきている。
 1996年秋の統一地方選挙においては、民主党が優勢だったけれども、これは幻の経済的繁栄、生活水準の向上に支えられた結果だった。つまり、ねずみ講式投資が破綻すると同時に、現金収入が途絶え、実物経済の重要性を遅ればせながら悟るようになる。
 民主党政権は、NATO (北大西洋条約機構) に接近し、全方向外交を展開していく。ただ、NATO の平和のためのパートナーシップに参加したことを受けて、大アルバニアの誕生はほぼ実現不可能となった。 NATOが国境の変更を望まないからである。併せて、西側からの援助を獲得することに動いた。アルバニア経済は以前よりも良くなったのは確かだけれども、それは海外援助、外国直接投資、海外送金(移転収入)に過度に依存していた。これからは実物経済の向上に課題の焦点が移っていく。 (『新生アルバニアの混乱と再生[第2版]』から)
<自給自足の行き詰まり> 自給自足経済の確立を追求してきたアルバニアは、国際分業や比較優位の法則を完全に無視していた。つまり、多様な財の生産を極めて低い技術水準で達成しなければならなかったのである。 然も、既述の通り、大規模国営企業による独占の下で重工業が重視されていた。ここでは不必要な財まで大量に生産された。投資と供給に依存する経済構造だったのである。勢い、農業は軽視された。先程も触れたように、18991年以降暫くの間、外国からの食料援助に依存しなければならない状況に陥ったのはその証拠である。 農業を含めて、アルバニアで経済活動が活性化しなかったのは、個人に対する経済的なモチベーション(動機付け)やインセンティブ(経済的刺激)が一切無かったからである。あるのは、経済活動を促進せよ、とのキャッチ・フレーズばかりであった。
 併せて、アルバニアでは、中小企業が皆無であった。需要の側面を無視したが故に、中小企業は不必要であると判断された。従って、個人や中小企業を対象とした金融システムは育成されなかった。 国営大企業が赤字を計上した場合、国庫から補助金の形で補填された。金融システムは全然機能していなかった。
 要するに、アルバニアでは需要やニーズが完全に無視されていたのである。存在したのは供給のみであった。典型的な不足の経済体制である。これらがあらゆる不均衡を生み出した。国際経済との関係も稀薄であたために、国内の不均衡を是正する手段にも事欠いていた。アルバニア経済は縮小する一方であった。
 アルバニアの民主党政権は、こうした初期条件下で経済変革に着手せねばならなかったのである。このような閉鎖経済路線を貫徹した国家は、世界でも非常に珍しい。北朝鮮でさえ国際社会から援助を受け入れてきているし、対外貿易も継続されている。
 ただ、アルバニアも北朝鮮と同様に一種の分断国家である。コソボにアルバニア系住民が居住するからだ。分断国家を外部から攻撃の対象とすることは、戦略上極めて難しい。北朝鮮が韓国と異なる民族の国であれば、アメリカが既に攻撃の対象としていることだろう。 イラクのフセイン政権やアフガニスタンのタリバン政権と同じ運命を辿っているはずである。
 アルバニアもアメリカによる攻撃の対象とはならなかった。アルバニアは内部崩壊したのである。この点ではルーマニアと酷似している。だが、その初期条件はルーマニアよりも厳しいものであった。初期条件の側面だけを取り上げれば、現在の北朝鮮と同様であると判断できよう。
 ともあれ、アルバニアの経済変革は無からの出発であった。であるが故に、ドラスティックな展開を遂げた。そこから様々な歪みが生じた。その歪みが大きいが故に、挫折するのも早かった。この過程を経て、アルバニアは漸く真の変革に着手できるに至っていると考えられる。
 アルバニア人特有の民族性も考慮する必要がある。既に述べたように、アルバニアは被侵略、独裁政権、全体主義、鎖国を繰り返す歴史を積み上げてきた。それは内外の勢力との対決と抵抗の連続でもあった。 これにアルバニア人は主として武力によって対応してきた。それ故に、アルバニア人は民主的に問題を処理、解決する能力を身につけることができなかったのである。結果、非常に極端な行動へと走ってしまう傾向がある。 加えて、抑圧から解放された勢いで、自由主義や市場経済を単なる無法行為だと勝手に決め付けてしまった。彼らには民主的な法の支配、法治国家が求められる。
 併せて、アルバニアで変革に着手された直後、バルカン半島全体が紛争地域と化してしまった。その主な原因は旧ユーゴスラビアの分裂にある。そこからボスニア内戦やコソボ紛争が勃発した。こうした外部環境が、アルバニアの経済変革に対する足枷となった側面を否定することはできない。 それが武器の密輸を主軸とする地下経済の温床に繁がったからである。アルバニア社会が安定軌道に乗ったのは、ここ数年のことである。コソボ紛争が終結したことと無関係では決してない。バルカン半島の安定とアルバニアの経済発展には、正の相関関係がる。 (『新生アルバニアの混乱と再生[第2版]』から)
<再出発の方向> 2000年7月には、世界貿易機関(WTO)への加盟が認められた。2001年のマケドニアにおける民族紛争では、同国のアルバニア系住民がアルバニア本国との統合による大アルバニアの樹立を主張したが、アルバニア当局はこれを明確に否定した。 現在の国境線を尊重する方針を貫いている。国際社会との協調姿勢を鮮明にした証左だと診断できよう。因みに、本国のアルバニア人は、表面的にはともかく、本音の部分ではコソボやマケドニアのアルバニア系住民のことを蔑視している。大アルバニアの創設は断じて有り得ない。
 さて、2001年においても6.5%の実質成長を遂げることができた。本格的に経済が回復したと言える。02年の経済成長率は6.0%であった。01年のインフレ率は2.8%と、インフレも抑制できるようになった。失業率は18%と高いけれども、最悪期を脱出している。農業のみならず、建設業や観光業を含むサービス産業が経済成長に貢献できるに至っている。現在でも建設ラッシュが続いている。 (『新生アルバニアの混乱と再生[第2版]』から)
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<アルバニアは地産地消をやめ、日本は地産地消を進める> エンベル・ホジャの独裁政治を正当化するために、鎖国政策・地産地消をとってきたアルバニアが普通の国になろうとしている。ねずみ講やコソヴォ紛争など厳しい成長通を味わったアルバニア、試行錯誤を重ねながらも民主制度・市場経済体制へと成長しつつある。
 一方、経済大国日本では役所が音頭取りをして、地産地消・自給率向上・閉鎖経済を進めようとしている。しかし「笛吹けども踊らず」。生産者が日本市場に海外からの参入を防ぐためにやっきになってトレーサビリティーなどの言葉を使ってレントシーキングよろしく役所に働きかけているが、実績は上がらない。 日本は豊になり、生活を脅かすような問題がなくなって、時間と社会に対して目を向けることができるようになって、市民運動が盛んになった。こうして、生産者と社会に対して発言したい人が共同で「地産地消」を主張するようになった。豊になった日本経済は「自生的秩序」が働いて、こうした運動があってもさらに豊になるように成長していく。 そして、役所に働きかけて地産地消を進めよう、との動きとは反対の動きが出始めている。 それは、地産地消のような閉鎖的な経済ではなくて、日本人が日本を飛び出して農産物を作ろう、との動きになっている。 その考えの趣旨は次ぎのようなものだ。
 「南米ウルグアイでのコメ生産には大きな可能性がある。風土・経営条件の整ったウルグアイで"Made by Japanese"による良質日本米生産に取り組めば、欧米やアジアの短・中粒種市場を席巻することも不可能ではない。日本の農業もトヨタやホンダと同様に世界ブランドになれるのだ」
 日本の農業が元気になるためには、農業に従事して豊かな生活ができるようになることが大切だ。農業が儲かるとなれば、若い人が参入してくる。 「農業は儲かりそうだ、それなら将来結婚しても妻子に不自由はさせなくて済む。オレも農業をやってみようか」と若い参入者が増える。競争者・若いライバルが増えても心配はない。商店街に例えれば、隣の店、ライバル店が儲かり始めたということは、商店街に人並みが戻って来たことなので、これからは工夫次第で儲けられる。つまり現在の農家にとってもプラスになる。 そして、「脱・敗北主義の日本農業」とか日本農業を守る「攻め」の戦略的思考 といったセンスこそこれからの日本農業に必要になるだろう。
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<主な参考文献・引用文献>
『環地中海』                     NHK「地中海」プロジェクト 日本放送出版協会 2001. 6.30
『バルカン危機の構図』                      今井克・三浦元博 恒文社      1993.10.25
『新生アルバニアの混乱と再生』[第2版]                  中津孝司 創成社      2004. 2. 1
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』                 NHK取材班 日本放送出版協会 1987. 5.20
( 2006年3月20日 TANAKA1942b )
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(14) 自由貿易こそが国民を豊にする
アダム・スミスは生きている
<自給自足の神話> 「地産地消」「自給率向上」といったスローガンは「核兵器廃絶」「世界人類が平和でありますように」「憲法9条を守れ」などと同じように、誰もが反対しにくくて、それでいてそのスローガンが達成されることはない。 従って、いつまでの同じスローガンを叫んでいられる。そこで、もしもそのスローガンが達成されたらどうなるか、ということが考えられたことはないが、それを想像してみると面白い。 そうした達成されることが無いようなスローガンが、もしも達成されたらどうなるか?自給自足に関しては 自供自足の神話▲ と題して、 「東京都民はコメを自給すべきだ」という公約で都知事が当選したらどうなるだろうか?を書いた。東京都民がコメを自給し始めると、現在の経済システムが根本から崩れてくる。核兵器が一時的にでも世界からなくなると、核抑止力がなくなり、現在核兵器を持っていない国の中から核開発を行う国が続発する。
 各国が自由貿易を尊重し、比較優位の原則に基づいて経済を発展させることによって、各国の国民が豊になる、ということは経済学の常識ではあるが、それに反対する人は多い。利権に絡んで、既得権を守るために反対する業界人や、農業団体の支持を受けているエコノミストの中にも、「自由貿易反対」「比較優位理論は農業には適さない」といった主張もある。
 そうした人たちは、その主張が多数派になることはない、と確信しているから主張するのであって、もしも、その主張が達成されそうだとなったら、困ってしまうだろう。東京都民がコメを自給し始めたらどうなるか?核兵器が一時的にでもなくなったらどうなるか?憲法9条が実現され自衛隊がなくなったらどうなるか? そうした主張の説得力の弱さについては 軍事不介入の政治経済学▲ と題して書いた。また、多くの反対意見が出るところが民主制度の健全性を示す指標だ、ということに関しては 民主制度の限界▲ と題して書いた。
 そうして「地産地消」「自給率向上」といったスローガンが達成されたらどうなるか?「地産地消の国アルバニア」がどうなったのか? 比較生産説といえばリカードとなるのだが、そうした誤った主張に対する「分業」「自由貿易」「市場尊重」の考え方はアダム・スミスから始まる。 そこで「地産地消の国アルバニア」の最後はアダム・スミスからの引用で締めることにしよう。
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<アダム・スミス 『国富論』> アダム・スミスは、1759年に『道徳情操論』を、1776年に『国富論』を出版している。 ここでは、「ピン作りの分業」「われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身の利益にたいするかれらの関心による」そして「公平無私なる見物人」について書いている部分を引用した。 民主制度・市場経済を理解、信頼するにはこれらのアダム・スミスの文章を理解することが肝要だと思い引用することにした。
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分業には作業の分割と職業の分化があり、それらは労働の生産力を増進させる最大の原因である。 労働の生産力における最大の改善と、どの方向にであれ労働をふりむけたりする場合の熟練、技能、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる。
 社会全般の仕事に対する分業の高価を比較的容易に理解するには、どれか、特定の製造業(マニュファクチャー)をとって、そこで分業がどんなふうに行われているかを考察してみるのがよいだろう。世間では、分業がいちばん進んでいるのは、いくつかの、まったくとるにたりない小さな製造業だということになっている。 これはおそらく、こういった製造業のほうが、もっと重要度の高い他の製造業に比べて、実際に分業の度合いが進んでいるかたではなく、これらのとるにたりない小さい製造業は、ごく少数の人々のわずかな欲求を満たすためにものであって、従業員の総数もとうぜん少なく、さまざまな部門の仕事に従事している人々を同一の作業場に集めているので、見る者の一望のもとにおくことが可能だからであろう。 これに反して、大規模の製造業は、大多数の人々の巨大な欲望を満たすためにある。そこでは、さまざまな部門の仕事にどれも多数の従業員が働いているので、これらの人々を同一の作業場に集めることは不可能である。 単一の部門で働いている従業員は見えても、その部門以外の人々をも同時に見ることは滅多にないというわけである。 それゆえ、この種の製造業では、それよりも小規模な製造業に比べて、たとえ作業は実際上はるかに多数の部分い分割されていても、その分割は、それほど目立つことがないので、したがってまた、観察されることもずっと少なかったのである。
 そこで、ここに一例として、とるにたりない小さな製造業ではあるけれど、その分業がしばしば世人の注目を集めたピン作りの仕事をとってみよう。 この仕事(分業にとってそれは1つの独立の職業となった。)のための教育を受けておらず、またそこで使用される機械類(その発明を引き起こしたのも、同じくこの分業であろう)の使用法にも通じていない職人は、精いっぱい働いても、おそらく1日に1本のピンを作ることもできなかろうし、 20本を作ることなど、まずありえないであろう。ところが、現在、この仕事が行われている仕方をみると、作業全体が1つの特殊な職業であるばかりでなく、多くの部門に分割されていて、その大部分も同じように特殊な職業なのである。 ある者は針金を引き伸ばし、次の者はそれをまっすぐにし、3人目がこれを切り、4人目がそれをとがらせ、5人目は頭部をつけるためにその先端を磨く、頭部を作るにも、2つか3つの別々の作業が必要で、それを取り付けるのも特別の仕事であるし、ピンを白く光らせるのも、また別の仕事である。 ピンを紙に包むのさえ、それだけで1つの職業なのである。このようにして、ピン作りという重要な仕事は、約18の別々の作業に分割されていて、ある仕事場では、そうした作業がすべて別々の人手によって行われる。 もっとも、他の仕事場ではそれらの2つか3つを、同一人が行うこともある。私はこの種の小さい仕事場を見たことがあるが、そこではわずか10人が仕事に従事しているだけで、したがって、そのうち幾人かは、2つか3つの別の作業を兼ねていた。 彼らはたいへん貧しくて、必要な機械類も不十分にしか用意されていなかった。それでも精出して働けば、1日に約12ポンドのピンを全員で作ることができた。1ポンドのピンといえば、中型のもので4千本以上になる。 してみると、これらの10人は、1日に4万8千本以上のピンを自分たちで製造でくたわけである。つまり各人は、4万8千本のピンの10分の1を作るとして、1人あたり1日4800本のピンを作るものとみてさしつかえない。 だが、もしかれら全員がそれぞれ別々に働き、まただれも、この特別の仕事のための訓練を受けていなかったならば、かれらは1人あたり1日に20本のピンどころか、1本のピンさえも作ることはできなかったであろう。 言い換えると彼らは、さまざまな作業の適切な分割と結合によって現在達成できる量の240分の1はおろか、その4800分の1さえも、まず作り得なかったであろう。 (『国富論』第1章「分業について」から)
*               *                *
分業は、人間の本性にのみ見出される交換という性向から生じる  文明社会では、人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに、全生涯をつうじてわずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。 ほかのたいていの動物はどれも、ひとたび成熟すると、完全に独立してしまい、他の生き物の助けを必要としなくなる。ところが人間は、仲間の助けをほとんどいつも必要としている。だが、その助けを仲間の博愛心にのみ期待してみてもむだである。 むしろそれよりも、もしかれが、自分に有利となるように仲間の自愛心を刺激することができる。そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが、仲間自身の利益にもなるのだということを、仲間に示すことができるなら、そのほうがずっと目的を達しやすい。 他人にある種の取引を申し出る者はだれでも右のように提案するのである。私の欲しいものを下さい。そうすればあなたの望むこれをあげましょう。というのが、すべてのこういう申し出の意味なのであり、こういうふうにしてわれわれが自分たちの必要としている他人の好意の大部分をたがいに受け取り合うのである。
 われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身の利益にたいするかれらの関心による。 われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、かれらの自愛心(セルフ・ラブ)にたいしてであり、われわれがかれらに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてである。
 同朋市民の博愛心に主としてたよろうとするのは、乞食をおいてほかにない。乞食ですら、それにすっかりたよることはしない。なるほど、好意ある二とたちの慈善によって、この乞食が生きてゆくのに必要なもののすべてが用意されるかもしれない。 だが、たとえこうしたやり方で、かれの必要とする生活必需品のすべてが結果ととのえられるとしても、かれの望みどおりに必需品がととのえられるわけでもないし、またそうできるものでもない。 かれがそのつど必要とするものの大部分は、他の人たちの場合と同じく、合意により、交易により、購買によって、充足されるのである。かれは、ある人がくれる貨幣で食事を買う。かれは、別の人が恵んでくれを古着を、もっとよく自分にあう古着と交換したり、一夜の宿や食事と交換したり、または必要におうじて衣食住のどれかを買うことのできる貨幣と交換したりするのである。 (『国富論』「第2章 分業をひきおこす原理について」から)
*               *                *
自己是認と自己否認の原理について われわれが自分自身の行為を自然に是認したり否認したりする場合に採用する原理は、われわれが他の人々の行為に関して同様の判断を働かせる場合に用いる原理と同一であるように思われる。 われわれが他人の行為を是認したり否認したりするのは、われわれがその人の事情を充分熟知した場合に、その人の行為を支配した情操や動機に対して完全に同情できると感ずるか、あるいはできないと感ずるかによって決定する。 これと同様の方法でもって、われわれが自分自身の行為を是認したり、否認したりするのは、われわれが自分の立場を他人立場に置き換えて、他人の眼をもって他人に立場から自分の行為を眺めるとき、われわれが自分の行為を支配した情操や動機に全面的に移入し、同情できるか、どうかということによって決定せられる。 われわれはいわば自分自身の自然の立場から離れて、自分自身の情操や動機をわれわれとは相当の距離をへだてて眺めようと努力するのでなければ、決して自分自身の情操や動機を観察することもできず、また自分自身の情操や動機に関していかなる判断をも下し得ない。 しかるに、そうするためにはわれわれは他人の眼を籍りてそれらの情操や動機を眺めようと努力するか、あるいは他の人がそれらの情操や動機を眺めるのと同様にそれらのものを眺めるように努力する以外には方法はない。
 したがって、われわれはそれらの情操や動機に関していかなる判断を下すことができようとも、その判断は常に暗々裡に他人の判断が現在どうであるか、あるいはある種の条件の下ではそれはどういうふうであっただろうか、あるいはそれはどういうふうでなければならぬとわれわれに想像せられるか、ということとある程度関係がなければならない。 われわれはすべての 公平無私なる見物人 がわれわれ自身の行為を検討するに違いないと想像せられるような方法でもって、自分自身の行為を検討すべく努力しなければならない。 もしも、自分自身を 公平無私なる見物人 の立場においてのみ、われわれがわれわれ自身の行為を支配したあらゆる上巻や動機に徹底的に移入するならば、われわれはこの想像上の公平なる裁判官の是認に同情することによって、自分自身の行為を是認する。 もしもそうでなければ、われわれはこの 公平無私なる裁判官 の否認に移入して、自分の行為を断罪する。 (『道徳情操論』第3部第1章「自己是認と自己否認の原理について」から)
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<主な参考文献・引用文献>  「地産地消の国アルバニア」シリーズで参考にしたり、引用した文献です。
『新生アルバニアの混乱と再生』[第2版]                        中津孝司 創成社   2004. 2. 1
『新生アルバニアの混乱と再生』                            中津孝司 創成社   1997.11.20
『アルバニア現代史』                                 中津孝司 晃洋書房  1991.11.20
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』                    NHK取材班 日本放送出版協会 1987. 5.20
『エコノミスト アルバニア訪問記』 小さな国の大きな智恵               新井宝雄 毎日新聞社 1975. 9.16
『朝日ジャーナル 東欧紀行ー小さな国の大きな実験』                  菊地昌典 朝日新聞社 1975. 9.19
『中日新聞 変化の胎動 鎖国アルバニア』                    クレア・ドイル 中日新聞社 1990. 4.20
『文献・新聞記事からみるアルバニア』                  大倉晴男 勁草出版サービスセンター 1992.10.15
『双頭のワシの国アルバニア』                             秋岡家栄 三省堂   1977. 8.25
『宇沢弘文著作集第T巻 社会的共通資本と社会的費用 自動車の社会的費用』       宇沢弘文 岩波書店  1994. 5.10
『マン・マシン・システムの社会』                           高木純一 三省堂   1970.11.15
『バルカンの余映 東西南北の接点 ユーゴ・アルバニアの実相』             天羽民雄 恒文社   1988. 8.20
『アルバニア小頃』                                  鈴木正行 新風社   1997. 2.18
『朝日ジャーナル 東欧紀行ー小さな国の大きな実験』                  菊地昌典 朝日新聞社 1975. 9.19
『大宅壮一全集22巻』                                大宅壮一 蒼洋社   1981. 2.25
『アルバニアの反逆』                         ハリー・ハム 石堂清倫訳 新興出版社 1966. 6. 1
『アルバニア労働党史第2冊分』                    日本アルバニア友好協会訳 東方書店  1974.12.10
『スターリン主義とアルバニア問題』                    「国際評論」編集部編 合同出版社 1962. 4.20
『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』     ピーター・ハークレロード 熊谷千寿訳 原書房   2004. 4. 5
『北京週報』 1976年12月28日号                        北京週報社      1976.12.28
『人民中国』 1973年12月号                           人民中国雑誌社    1973.12
『世界SF全集』『1984年』                ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳 早川書房  1968.10.20
『われら』                             ザミャーチン 川端香男里訳 岩波文庫  1992. 1.16
『1985年』                       アントニイ・バージェス 中村保男訳 サンリオ  1979. 8. 5
『1985年』続ジョージ・オーウェル「1984年」       ジェルジ・ダロス 野村美紀子訳 拓殖書房  1984.10.20
『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』          アー・ソルジェニーツィン 稲田定雄訳 角川文庫  1966.12.20
『中国の赤い星』                       エドガー・スノー 宇佐美誠次郎訳 筑摩書房  1964. 9.20
『目覚めへの旅』                         エドガー・スノー 松岡洋子訳 紀伊国屋書店1964. 9.20
『中国の歌ごえ』                       アグネス・スメドレー 高杉一郎訳 みすず書房 1957. 3.10
『中国紅軍は前進する』                     アグネス・スメドレー 中理子訳 東邦出版社 1971.12.15
『人民中国の夜明け』                       ニム・ウェールズ 浅野雄三訳 新興出版  1971. 9.25
『医師ノーマン・ベチューンの偉大なる生涯』   テッド・アラン/シドニー・ゴードン 浅野雄三訳 東邦出版社 1971.12.15
『はだしの医者とともに』イギリス人医師のみた中国医療の15年    J・S・ホーン 香坂隆夫訳 東方書店  1972. 2.20
『青春の北京』北京留学の十年                            西園寺一晃 中公文庫  1973.10.10
『ぼくの北京留学』バレエと文革と青春                          林道紀 講談社   1972. 5.24
『東欧諸国の銀行制度と金融管理』アジア経済調査研究双書237          田中壽雄 アジア経済研究所 1976.10.18
『ユートピア』                            トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫  1978.11.10
『環地中海』                        NHK「地中海」プロジェクト 日本放送出版協会 2001. 6.30
『バルカン危機の構図』                            今井克・三浦元博 恒文社   1993.10.25
『迷信の見えざる手』アダム・スミスは生きている                    竹内靖雄 講談社   1993. 9.30
『国富論』                            アダム・スミス 大河内一男訳 中央公論社 1978. 4.10
『道徳情操論』                           アダム・スミス 米林富男訳 未来社   1969.10.30
( 2006年3月27日 TANAKA1942b )