地産地消の国
アルバニア
2006年3月27日
地産地消の国アルバニア
● (1) 独立指導者エンベル・ホジャ
独立からねずみ講まで ( 2005年12月5日 )
● (2) 鎖国による地産地消 日本の農業政策は地産地消と食料輸出 ( 2005年12月12日 )
● (3) 高自給率は良いことか? マスコミはどのように報道したか ( 2005年12月19日 )
● (4) 文明の進歩と外部不経済 マン・マシン・システムを考える ( 2005年12月26日 )
● (5) 地産地消を支えた独裁体制 それを何処まで報道したか ( 2006年1月2日 )
● (6) シグリミと呼ばれる秘密警察 市民監視とライバル追放 ( 2006年1月9日 )
● (7) 社会主義国の異端児アルバニア 外部からの干渉に対する鎖国 ( 2006年1月16日 )
● (8) 地産地消での経済成長は可能なのか 自力更生は農業中心が有利 ( 2006年1月23日 )
● (9) 自給自足というアンチユートピア 『1984年』を中心に考える ( 2006年1月30日 )
● (10) 『1984年』に続く管理社会への警鐘 『われら』『1985年』など ( 2006年2月6日 )
● (11) 閉鎖地域からの優れたレポート 中国革命の現地体験報告 ( 2006年2月20日 )
● (12) 拝金主義も生まれなかった社会 反資本主義のユートピア羨望 ( 2006年3月6日 )
● (13) 地産地消から普通の国家へ 民主制度・市場経済への試行錯誤 ( 2006年3月20日 )
● (14) 自由貿易こそが国民を豊にする アダム・スミスは生きている ( 2006年3月27日 )
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趣味の経済学
アマチュアエコノミストのすすめ
Index
%
2%インフレ目標政策失敗への途
量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
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FX、お客が損すりゃ業者は儲かる
仕組みの解明と適切な後始末を
(2011年11月1日)
(1)独立指導者エンベル・ホジャ
独立からねずみ講まで
バルカン半島のアドリア海に面した小国=アルバニアは国際紛争の種火としての民族紛争に巻き込まれた長い歴史を持っている。
そのアルバニアが第2次大戦中からエンベル・ホジャの指導のもとにファシスト政権フランコのイタリアと戦い、大戦後独立を果たすと、独特の社会主義体制をとり、政治的・経済的に鎖国政策をとった。スターリン時代のソ連とは友好的に関係を保ったが、
スターリン死後は疎遠になり、チトーのユーゴスラビアと友好的な関係をつくる。しかしそれもほんのしばらくの間で、文革時代の中国と友好的な関係をつくると、中国以外の国とは絶縁状態になる。徹底したスターリン主義で、社会主義政策を徹底させていく。
1985年にホジャ勤労党第1書記が死去したことによって、鎖国政策は終わり世界に向かって窓を開くことになった。このHPではエンベル・ホジャ独裁時代のアルバニアを取り上げる。20世紀の鎖国政策がどのようなものであったのか?その社会主義の実態は?
こうしたことを調べる内に、現代の、ある種の主張をする人たちにとっての理想郷、であったかも知れない、と思うようになった。「地産地消の国アルバニア」という表現が適しているように思えてきた。
民主制度と市場経済が進んだ日本では失ってしまった価値がアルバニアにはあったように思える。と言うよりも、反市場経済を主張する人たちの理想とする社会は、鎖国時代のアルバニアであったのかも知れない。
市場経済を批判し、「地産地消」「省エネルギー」「平等」「反公害」「自給自足」などを主張すると、その理想がアルバニアになってしまう。
そのアルバニアは鎖国政策を捨て、自由貿易社会に参入し、民主制度を採用し、他の東欧社会主義国と同様な改革を始めたのだが、市場経済に馴れていなかった国民の大多数がねずみ講の被害にあったり、コソヴォ紛争に巻き込まれたりと、改革への道筋は平坦ではない。
そのアルバニア、ここでは「地産地消の国アルバニア」という視点で取り上げることにする。
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<バルカンの小国=アルバニア>
アルバニアという国に付ける枕詞、それは「バルカンの小国」に決まる。ではどのような国なのか?外務省のHPから引用しよう。
面積 28,748km2(四国の約1.5倍)
人口 約340万人
首都 ティラナ(約50万人)
人種 アルバニア人
言語 アルバニア語
宗教 イスラム7割、正教2割、ローマカトリック1割
国祭日 11月28日(独立及び解放記念日)
略史
1912年 オスマントルコから独立
1939年 イタリアの保護領、後に併合
1944年 共産党臨時政府樹立、全土解放
1961年 ソ連と断交
1976年 中国の経済・軍事援助停止
1985年 ホッジャ勤労党第1書記死去
1990年 野党設立許可、複数政党制度入、外貨導入解禁
1991年 初の自由選挙、臨時憲法制定、米、英と国交回復、ECと外交関係、IMF、世銀、CSCE加盟
1992年 総選挙で初の非共産政権樹立、OICに加盟
1994年 PFP包括協定、PFP個別協定調印
1995年 欧州評議会に加盟
1997年 ねずみ講問題を発端とする騒乱が発生。6月の総選挙の結果、社会党を中心とする連立政権成立
1998年 新憲法制定
2000年 WTO加盟
2003年 EUとの間で安定化、連合協定(SAA)交渉を開始
外交基本方針 長年、半鎖国的な社会主義体制をとってきたアルバニアは東西冷戦の集結、東欧諸国の民主化、国内の経済情勢の悪化等の背景から、その鎖国政策を大幅に変更し、90年以降、国際社会への復帰、先進諸国・国際機関との関係強化及び安全保障の確保を基本的な外交方針としている。
NATO、EU加盟を最優先課題としている。
通貨 レク(Lek)
為替レート 1ドル=140.2レク(02年)
経済概要 92年3月に民主政権が成立し、同年7月にG24アルバニア支援国会合が開催されて以来、欧米諸国や国際機関から多くの支援を受け、経済は93年以降、徐々にではあるが改善の方向に向かってきていた。しかし、97年にねずみ講問題を発端とする騒乱が発生し、経済活動に少なからぬ影響を与えた。
その後、国際社会から支援を受けて経済活動は徐々に回復しつつあり、GDP成長率は98年以降7〜8%の高成長を続けている。治安情勢を十分安定させ、経済や社会のインフラを整備して外国からの投資を増大させていくことが大きな課題となっている。
14世紀のオスマン・トルコによる征服後、約5世紀にわたりトルコの支配下にあり、イスラム化が進んだ。
社会主義時代はホッジャ勤労党第一書記の下で独裁的な政治が行われた。
90年より東欧改革の影響を受け、民主化を開始。05年7月、任期満了に伴う議会選挙が実施された結果、野党民主党が躍進、民主党ベリシャ党首(元大統領)が新首相に就任し、8年ぶりに社会党からの政権交代が行われた。
主要産業 農業、機械工業、鉱業、製造業
GNP 61億ドル(世銀2003年)
一人当たりGDP 1,560ドル(2002年)
経済成長率 6.0%(2003年)
物価上昇率 2.4%(2003年)(2001年)
失業率 15.8%(2002年)
総貿易額 20.7億ドル(2003年)
(1)輸出 3.9億ドル
(2)輸入 16.8億ドル
主要貿易品目(98年) (1)輸出 繊維、建築資材、食料品
(2)輸入 機械、食料品、繊維
主要貿易相手国(98年) (1)輸出 イタリア、ギリシャ、ドイツ
(2)輸入 イタリア、ギリシャ、トルコ
為替レート 1ドル=140.2レク(02年)
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<現代アルバニアの建国>
福者マザー・テレサがアルバニア出身であることはあまり知られていない。
そのバルカンの小国アルバニア、第2次大戦後エンベル・ホジャ指導のもとに独特の社会主義政策=鎖国政策をとってきた。1944年ムッソリーニのイタリアから独立を勝ち取ると、スターリンを崇拝していたホジャはアメリカをはじめ「西側帝国主義」とは外交を断絶、スターリンが指導する東側諸国と友好関係を結ぶ。
1953年にスターリンが死ぬと、その後継者でスターリン批判をしたフルシチョフとは対立し、ソ連と国交を断絶し、コメコンから脱退。1960年代には文革時代の中国と友好関係を結ぶ。1971年10月26日、国連で「中国の国連加盟と台湾の追放」を内容とした「アルバニア案」が大差で可決される。しかし1972年ニクソンの訪中を境として米中が接近すると、1978年には中国とも交流を断絶する。
ここにおいてアルバニアの鎖国は完成する。国内に何千ものトーチかを築き外敵に備える。社会主義経済を徹底し企業は国営、300万人程度の小国で自給自足経済を貫く。個人が自家用車を持つことは認められず、自動車による交通事故・排気ガス公害は皆無、物流システムができていないため「身土不二」「地産地消」は当然、株式市場はおろか民間銀行さえなかったのでマネーゲームに走る者はいない。
地域通貨信奉者が理想とする金利ゼロの社会。『スモールイズビューティフル』の世界であり、『縄暖簾社会の経済学』の世界であり、カール・ポラニーの『大転換』にしばしば登場するロバート・オーエンの世界、日本では農協関係者や生協関係者が理想とする「ロッジデール」の空想社会主義を目指す社会であった。
コミュニストは言う「宗教は麻薬である」、それを憲法に明文化した「国家は一切の宗教を認めず、人民の間における科学的現実主義世界観を鼓吹するために無神論運動を支持する」(アルバニア人民共和国憲法第37条)。
アウタルキー(autarky)を貫き通そうとしたアルバニア、その生産設備たるや、1978年以前に中国からもたらされた貧弱なものばかり。先に豊かになれる者が出てこれない、人々皆平等に貧しくなっていく社会。貧富の差が少ない、という点においては「正義論」を貫き通した国家であった。
そしてこれはとてつもない実験でもあった。経済をこんなにめちゃくちゃに運営するとどうなるか?とてもまともな国家指導者にはできない実験だった(と、書きながら大躍進、文革時代の中国やポルポト時代のカンボジアも同じだったことに気づいた)。
この実験でアルバニアはヨーロッパの真ん中にありながら、中央アフリカ共和国の所得水準に、その経済状況が表れている。「自由貿易こそ国民を豊かにする」。アダム・スミスやリカードは正しかった。それでもWTOや貿易自由化を非難するNGOもあるらしい。自由貿易協定(FTA)も日本では強力なレントシーキングのお陰でなかなか進まない。
そのようなアルバニア、1985年4月11日エンベル・ホジャが死亡し、ラミズ・アリアが大統領に選出されると少しずつ変化の兆しが見え始める。
徐々に鎖国政策を改め、開放経済へと政策転換する。鎖国時代には民間銀行もなく、国民は貯蓄や投資などの仕組みを知らないで過ごしてきた。開放経済、つまりごく普通の資本主義経済が始まって、1992年には民間銀行も設立された。そして政府の規制を受けない投資会社も設立された。
それまで国民は「現金はタンスにしまうもの」と考えていた。そのタンスの中にあった現金の多くは投資会社へ向かった。銀行の金利が年利19%程度のとき、投資会社の方は月利8%、高い時には3カ月で100%といった、とほうもない高金利だった。
資本主義以前の社会、世界経済から切り離された社会、地産地消の国だったアルバニア、そこでねずみ講投資会社が倒産し、暴動がおき、政権が倒れ、無政府状態になり、6000人規模の多国籍軍により治安が維持される、という事態が発生した。
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<ねずみ講の破綻とその後の経済>
ここで扱うのはエンベル・ホジャ在任中の鎖国時代ではあるが、その鎖国が原因で大きな社会問題をおこしたねずみ講のことも扱っておくことにしよう。
それは社会主義体制で、市場経済のなんたるかを知らず、いきなり市場経済に移行したために起こった悲劇であった。親の保護のもとに生活していた子どもが、いきなり一人で大人の社会に放り出されたようなものだった。成長通を怖がっていつまでも子どものままでいたのが、いきなり大人の世界に飛び込んだようなものだった。鎖国の後遺症として、ねずみ講を考えてみようと思う。
* * *
1997年1月半ば、ねずみ講式による投資期間の空中分解が明るみに出た。アルバニアにおけるねずみ講 (pyramid schemes) とは、投資会社を通じたインフォーマルな貯蓄と解釈できる。周知の通り、ねずみ講式では、新しい参加者が途絶えると、その拡大は不可能となる。
人口340万人程度の同国の場合、約50万人がこのねずみ講を手がけていたという。首都・ティラナ (Tiranë) では早い時期に新規の参加者を募るにはもう限界に達していた。
預金総額は10億ドルに及んだ。10億ドルという額はアルバニアのGDPの約40%の相当する。月給100ドルほどの一般人にはての届く額であるはずがない。外国に居住するアルバニア人出稼ぎ労働者は50万人にのぼる。
恐らく彼らによる海外送金がねずみ講に流れ込んだのであろう。加えて、不動産や家畜を売却して購入した者もいた。オランダのかつてのチューリップ投資と同様である。市民は生産活動に従事せずとも、利息、すなわち現金収入を得ることができた。
市民は挙ってねずみ講に手を出した。アルバニア社会は、狂乱状態に陥った。そしれ、問題を複雑にした要因で、これは飽くまでも推測の域は出ないけれども、イタリアのマフィアがアルバニアのそれと結託して、麻薬取引などで得た金を流入させていたのではないだろうか。
非合法な金をマネーロンダリングするためにこのねずみ講が利用されていたのではなかろうか。アルバニア南部における反政府暴動が長引いた理由もここにあると推察される。ねずみ講の破綻が、イタリア・マフィアの資金を圧迫したからだ。
しかしながら、財・サービスの供給を伴わないねずみ講の生命は短い。新規参入者が枯渇した段階で、5つの投資会社が倒産した。ラプーシュ・ジャフェーリ (Rrapush Xhaferri) やスーダ社 (Sudë) などである。ねずみ講はやはり見果てぬ夢に過ぎなかった。
アルバニア当局は、漸く規制・摘発に乗り出した。投資会社の幹部が逮捕され、法人の資産(約3億ドル)は当局が凍結した。ここにおいて、ねずみ講は名実ともに破局を迎えた。市民の貯蓄を返済することは最早不能となった。
その反動は当局の予想を遙かに越えていた。与党・民主党が分裂の危機に瀕した。貯蓄の返済を迫って、一部のアルバニア市民は暴力に訴えた。その暴動はルシュニャ (Lushnjë) で火ぶたが切られた。それは瞬く間に全国へと広がっていった。
野党の社会党(旧労働党)が市民を扇動した。この介入が混乱を泥沼化させた。アルバニア社会は、民主化後最大の危機に瀕し、大混乱の様相を呈した。最大手の投資機関が本拠地を置いていた港町・ヴェローラ (Vlorë) では死者が出た。
また、内閣総辞職を求めて、学生たちがハンガーストライキに打って出た。ヴェローラ市民はアルバニアでも最も感情的だと言われる。パトス (Patos) では、国営石油会社・アルブペトロール (Albpetrol) の本社が放火された。政府は軍隊も出動して、これに対処した。だが、混乱は鎮静しなかった。
確かに、投資会社は民間企業である。ところが、そのコマーシャル(CM)が国営テレビで放映されていたために、政府公認の会社だと一般市民は誤解した。社会秩序の回復を第一義的に考える当局は、市民に貯蓄を返却する旨の生命を発表した。
実際、1997年2月5日から返済が開始された。けれども、2億6,000万ドルとも推定される財政赤字の現状に鑑みると、全額を返済するのは到底無理であろう。IMF(国債通貨基金)が政府に融資する容易があると言明したが、実際に全額が返済されてしまうと、折角鎮静化していたインフレ(1996年の消費者物価上昇率は対前年比で11.5%)が再燃するだろう。
『日本経済新聞』の為定明雄記者は、1997年1月21日付の同紙で、今回の暴動について、セルビア共和国のデモに勇気づけられた反政府デモだとし、ユーゴスラビアから飛び火したものだと断言した。つまり、アルバニアで勃発した暴動は、セルビア共和国やブルガリアにあけるデモと同じ性質のものだ、と為定氏は分析しているのである。
この見方はあまりにも単純に過ぎると判断せざるを得ない。
第1に、今回の暴動は、飽く迄もアルバニア国内の問題である。市場経済が未成熟な同国内では、未だ投資のリスクという意味合いが理解されていない。市民の行動は政府に対する逆恨みである。
第2に、暴動を起こせば、アルバニア政府が貯蓄を返済すると市民が思い込んだ点である。
ここに社会党が介入して、反政府デモを扇動した。極めて政治的な事件である。
第3に、アルバニア政府がねずみ講というマネーゲームを黙認していた事実である。政府は経済力強化の一環として捉えていた。市民もまた、財・サービスの販売よりもむしろ、コミッションの受取りのみに関心があった。
第4に、与党・民主党が依然として国全体を掌握していない。特に、地方や高齢者層では民主党支持者が相対的に少ない。ベリシャ大統領一人のカリスマ性に民主党は今でも依存している。故に、ベリシャ氏は専横的だと批判されることが多い。
アルバニアにおける混乱をバルカン半島全体の潮流の中に位置付ける見方は、日本の読者にはわかり易いかもしれないけれど、この見方ではアルバニア社会の深層を解明することはできない。確かに、旧ユーゴスラビアが崩壊する過程において、アルバニアから武器や麻薬が密輸されていたのは事実だし、このカネがねずみ講を生み出す動機となったのもまた事実である。
しかし、暴動が発生し、長期化したのはアルバニア民族の民族性に原因がある。1996年5月の総選挙の際といい、また、今回の一連の事件といい、アルバニア人の非常に両極端な気質を如実に示すものである。民族性を無視した見解では、ことの真相を見抜くことは不可能である。
実は、今回のねずみ講事件が表沙汰になる前に、IMFと世界銀行とがアルバニア当局に対してねずみ講の危険性について警告を発していた。せめて利率の引き下げだけでも実施するように勧告していた。1996年10月のことである。
これに対し、投資会社の社長が反論し、ねずみ講の裾野を世界に広げれば破綻しない、などと公言していた。この時、ティラナでは一時パニックになった経緯があった。IMFや世銀のスタッフは、ねずみ講がアルバニア市民にとっての唯一の多額な現金収入であることに理解を示しながらも、その危険性について投資会社に説得を試みたのである。しかし、投資機関側はこの警鐘を聞き流した。それから数ヶ月後、ねずみ講は現実に崩壊した。
アルバニア市民のなすべきことは、安易でリスクの高いマネーゲームではなく、地道な物作り、生産活動なのだ。バブルが弾けた現在、マネーゲームは脱却し、生産活動に傾倒しなければならない。一方、当局は、フォーマルな金融市場を育成することに総力を結集すべきである。
アルバニアでも漸く民間銀行が設立されるようになってきた。併せて、国営銀行の民営化についても議論が深まりつつある。
民間銀行について言えば、ティラナ銀行 (Tirana Bank) がユニバーサル銀行として登場した。ヴェヴェ (VeVe) ビジネスセンターの前にオフィスを構え、資本金200万ドルで出発した。資本についてはギリシャから出資されている。主要株主は、ギリシャの投資会社・ユニコ (Unico) やギリシャの銀行・ピレアウス・ファイナンス・バンク (Pireaus Finance Bank) などが名前を連ねている。
頭取にはバイロン・ピツィリディス (Byron Pitskidis) 氏が就任した。同行は、クレジットカード業務も取り扱うユニバーサル銀行で、在ギリシャのアルバニア人出稼ぎ労働者からの送金をターゲット・マーケット(標的市場)としている。資本金を倍増する計画があり、その際には、ジロカスタル (Gkirokastër) 、ドゥラス (Durrës) 、ヴェローラ、コルツァ (Korcë) に支店を開設する予定だという。
もう一つ、ギリシャの銀行の支店がティラナに開設された。それはアルファ・クレジット銀行 (Alra Credit Bank) と呼ばれる。資本金200万ドルで、ユニバーサル銀行としての業務を行っている。併せて、マレーシア資本による銀行も創設されることになっている。
アルバニアの経済課題は、まずは金融市場と生産活動とを有機的に結合させることなのである。そうでないと、生産者は投資活動を円滑に遂行することができない。勢い、インフォーマルな金融市場へと生産者は走ってしまう。カネとモノの流れる道筋を整備しておくことが、アルバニア当局に課せられる責務である。
(『新生アルバニアの混乱と再生[第2版] 』から)
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<アルバニアが経験した「経済の成長痛」>
鎖国時代のアルバニアは地産地消の国であった。そのアルバニアが鎖国をやめて開国したとき経験したのが「ねずみ講」による混乱であった。マネーゲームに慣れていなくて、投資・投機といった資金運用に関して無知識であったアルバニア人、政府役人まですっかり暗示にかかってしまった。
以前にTANAKAは
グローバリゼーションによって社会は進化する▲で
アルバニアのねずみ講事件は、アルバニアが世界経済の仲間入りするという大人の経済になる過程での、「成長通」だと書いた。ここでもう一度その文章を転記することにしよう。
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資本主義社会の経験不足
どこかの県の教育委員会が「高校生のアルバイト大いに結構」との方針を打ち出した、との報道があった。教育委員会も分かってきた。
セブンやファミマなどのコンビニやケンタやマクドなどのファースト・フードでバイトをすると、働くこと、「お客様は神様です」の意味が分かってくる。商売は利益を出さなければならない。趣味や社会的意義があって商売しているのではない。
大人でさえ、消費者主導の経済に不満で、消費者教育が必要だ、と主張する人もいる。神様に説教しようという大胆な主張だ。高校生のうちからバイトで資本主義の内側を知っておくといい。アルバニアの例は、幼児の頃から大人の社会を知らずに保護されていて、バイト経験もなく、年をとってからいきなり大人の資本主義社会に放り出されたようなことだった。
預金・金利・投資などの意味も分からずに、いきなり資本主義経済になってしまい、かわいそうだった。もっとも日本のような資本主義経済で生活していても、「地域通貨にインフレはない」「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」
という、資本主義社会以前の、幼児社会の経済感覚を持ったかわいそうな大人もいるようだ。マン・チャイルドと言うか、アダルト・チルドレンと表現すべきか?
成長痛を怖れ、大人になるのをいやがり、駄々をこねる
現代のラダイト運動(Luddite movement)はその主役が、社会の進化によって被害を受ける弱者ではなく、余裕のある傍観者である、という点で1810年代の運動とは違っている。現代のネッド・ラッド(Ned Ludd)(ネッド将軍ともいう)も架空の人物で、だから誰もが社会批判はするが、自分は非難されないように、言質を取られないように気を使っている。
駄々をこねる評論家・エコノミストがいても経済のグローバル化は進む。@日本の文化=コメが広くアジアで受け入れられ、「ビッグ3の下請けになる」と怖れられた資本の自由化を乗り越え、日本経済は成長した。
Aドルが金の束縛から開放され、世界の成長通貨が供給されるようになった。Bアジア諸国は変動相場制に移行しさらに大きく成長する道が開けた。C国債償還の停止(モラトリアム)を経験しながら、大国ロシアは総身に知恵が回りかね。D社会主義から市場経済にソフト・ランディングした国もあれば、ミロシェビッツのような指導者を選んでしまった国もあった。
E天安門事件後、南巡講話で息を吹き返した白黒猫、人民元切り上げの圧力が感じられるこの頃、それでも日本のすぐそばに巨大な消費市場が生まれそうだ。期待しよう。Fアダム・スミスのような理論家は出なかったが、三貨制度のもと、一分銀は管理通貨制度、金と銀は変動相場制を操っていた江戸幕府の進んだ通貨制度。G空想社会主義のような「地産地消」を実験したアルバニア。
「グローバル化」という言葉を使い、外国にも開かれた経済体制に移行するのを怖れ、「狭い社会に閉じ隠りたい」と駄々をこねる評論家・エコノミストが危機感を煽るが、経済は確実に進化する。今回取り上げたケース、いろんな形のショックがあったが、前に進もうとしているのは間違いない。
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<主な参考文献・引用文献>
『新生アルバニアの混乱と再生』[第2版] 中津孝司 創成社 2004. 2. 1
( 2005年12月5日 TANAKA1942b )
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(2)鎖国による地産地消
日本の農業政策は地産地消と食料輸出
農水省が「地産地消推進検討会」を立ち上げたとのことを知り、地産地消について考えているうちに、「アルバニアこそ地産地消の国だった」と思いついた。
そこで、今回の「地産地消の国アルバニア」を始めるのだが、地産地消については以前に、「コメ自由化への試案」▲のところで<「身土不二」や「地産地消」について なるべく多くの人に味わってもらいたい>と題して書いた。地産地消とは何か?ということでその一部を引用しよう。
身土不二(しんどふじ)という言葉がある。どういう意味かというと、山下惣一著「農の時代がやってきた」(家の光協会 1999年4月)から引用しよう。
「周知のように(でもないか?)、「身土不二」は、「身土」、人間の身体と土は「不二」、二つじゃない。つまり一体だという意味。中国の古い医書に出てくる言葉だそうで、わが国では明治30年代(1897-1906)に福井県出身の軍医・石塚左玄らが起こした「食養道運動」のスローガンとして使われ、彼らは「自分の住む土地の四里(約16キロメートル)四方でとれた旬のものを正しく」食べることを理想として提唱した。
まだ流通が未発達の明治時代になぜそのような運動が起こったのか?たぶん多くの人たちはやむおえず「身土不二」の食生活をしていたはずだ。そう疑問を抱いたのでその筋の専門家に調べてもらたら、文明開化の影響で当時の上流階級の食生活が急速に洋風化し、それに伴って従来にはなかった病気がふえたという背景があった、ということまではわかったが、それ以上のことはわからなかった。
「身土不二」という題名の本も読んでみたが、解説書ではなく、その原理に照らして近代栄養学を批判した内容だった。これはこれで面白かったが、当然、逆の主張もあるわけで、「このボーダレス時代に馬鹿なことを言うな。地球を一つと考えれば「身土不二」じゃないか」というわけだ。
では「地産地消」とは?「なるべく地元で取れた農産物を食べましょう」ということになろう。
この二つの言葉、ある人たちから大変支持されているようだ。「コメ自由化反対」「遺伝子組み替え食品反対」「無農薬・低農薬食品を普及させよう」「農業は自然環境保全に役立つ」「株式会社の農地取得反対」こうした主張をする人たちが「身土不二」「地産地消」を言うようだ。
「コメ自由化への試案」のシリーズでこのように書いていた。こうしたことから「地産地消」についての匂い、センスを感じて頂きましょう、ということで今回はアルバニアの鎖国との関係でこの「地産地消」を扱うことにした。
<地産地消とは、つまり鎖国のこと>
アルバニアは鎖国をしていた。ということは食料は自国でとれたものだけを食べていた。外国からの輸入品はなかった。
農水省の地産地消推進検討会によると、地産地消は、もともと、地域で生産されたものをその地域で消費することを意味する言葉である。
ということになる。
その農水省が「地産地消推進検討会」を立ち上げて、地産地消を推進することになった。そこで、農水省のホームページから「地産地消推進検討会」に関する事項を引用してみよう。
地産地消推進行動計画について
1 行動計画の考え方
地産地消の全国展開を図るためには、国、地方公共団体、農業者・農業団体、食品業者、消費者団体等が、相互に協力しながら適切な役割分担の下に主体的に取り組むことが必要である。
このためには、省内関係各課が取り組むべき施策をとりまとめた地産地消推進行動計画(以下「行動計画」という)を策定し、それに基づき、適格な工程管理を行うことが必要である。
本行動計画は、地産地消省内連絡会として、平成17年度における地産地消推進に向けた主要な活動内容とその行程を定めたものであり、省内関係各課の地産地消推進に向けた活動の共通認識となるものである。
平成17年8月に発表された「地産地消推進検討会」から
1 消費者の農産物に対する安全安心志向の高まりや生産者の販売の多様化の取組が進中で、消費者と生産者を結び付ける「地産地消」への期待が高まっている。
本年3月に閣議決定された「食料・農業・農村基本計画」(以下「新たな基本計画」)においても、地産地消は食料自給率の向上に向け重点的に取り組むべき事項としてその全国展開等を積極的に推進することとされている。
このため、地産地消に取り組む農業者などの有識者による「地産地消推進検討会」を開催し、地産地消の現状と課題について議論するとともbに、今後の推進方向について検討を行った。以下は、その検討内容が速やかに」今後の施策に反映されるよう、中間的にとりまとめたものである。
(1)地産地消の位置付け
地産地消は、もともと、地域で生産されたものをその地域で消費することを意味する言葉である。新たな基本計画では、単に地域で生産するという側面も加え、「地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物・食品を購入する機会を提供するとともに、地域の農業と関連産業の活性化を図る」と位置付けている。
産地からの距離は、輸送コストや鮮度の面、また、地場農産物としてアピールする商品力や、子どもが農業や農産物に親近感を感じる教育力、さらには地域内の物質循環といった観点から見て、近ければ近いほど有利である。さらには地域内の物理的距離の短さにもなり、対面コミュニケーション効果もあって、消費者の「地場農産物」への愛着心や安心感が深まる。
それが地場農産物の消費を拡大し、ひいては地元の農業を応援することになる。高齢者を含めて地元農業者の営農意欲を高めさせ、農地の荒廃や捨て作りを防ぐ。
結局、地場農業を活性化させ、日本型食生活や食文化が守られ、食料自給率を高めることになる。しかし、距離に関係なく、コミュニケーションを伴う農産物の行き来を地産地消ととらえることも可能である。
また、地産地消は、地域で自発的に盛り上がりをみせてきた活動で、教育や文化の面も含んだ多様な側面をゆうしており、固定的、画一的なものではなく、柔軟性・多様性をもった地域の相違工夫をいかしたものとなることが必要である。
地産地消の主な取組としては、直販店や量販店での地場農産物の販売、学校給食、福祉施設、観光施設、外食・中食、加工関係での地場農産物の利用などが挙げられる
(2)地産地消の展開の経緯
地産地消は、近くでとれたものを食べる事を基本とした考え方である。かつては農村地域では在来品種や伝統野菜の生産を行うなど伝統的に地域でとれたものを地域で嘱することが当然であり、戦後も高度成長期以前は身近なものを嘱することが一般的であった。
ところがその後、高度成長期になって広域大量流通システムが成立した。これは、
@ 全国の交通網の発達、通信手段の整備とともに、保冷・予冷技術により、農産物の品質保持が可能となったこと
A 大量流通を可能とするための農産物の規格が整備されたこと
B 季節によって産地を変えることにより、周年的に同じ作目を供給するといったシステムが整備されてきたこと
によるものである。
この広域大量流通により、例えば首都圏に供給するだいこんの産地についてみると、関東一円から外延的に拡大していき、現在は、東北や北海道からの入荷が季節によっては、9割を占めるといった状況となっている。
また、高度成長期に日本の食生活が洋風化し、高度化する中にあって、広域大量流通は、
@ 多様な食材を周年的にいつでも安定的に入手できること
A 品質の一定した物を安価に入手できること
といったメリットをもたらし、食生活の向上に寄与していた。
しかしながら、広域大量流通は消費地や消費者といった消費する場と、食品を生産する場との間の距離を拡大することになり、次ぎのような結果をもたらすことになった。
@ どこで、どのようにして生産されたものか分からない。
A 旬とか地域の食文化が失われてしまい、全国的に画一的な食文化になった
B 生産の現場では生産性の向上の追求が中心になっていた
こうした中で1970年代には有機農産物の流通を推進する取組がしょうじた、1990年代以降原産地を明らかにするニーズの高まりの中で、順次原産地表示制度が整備されてきた。
また、2001年(平成13年)に我が国初のBSEが発生したことを契機に安全安心に対する要求が高まり、トレーサビリティシステムの整備が進められてきている。
さらに、消費者からは食と農との距離を縮めたい、生産者と顔の見える関係をつくりたいという要求が高まってきている。
これは
@ 誰が生産したものなのかを知りたい
A どこで、どのような方法で生産されたのかを知りたい
B 生産者との興隆を深めたい
とうったことを求めているものと考えられる。
こうした動きは世界的な潮流にもなっており、イタリアのスローフードをはじめ、アメリカのCSA (Community Supported Agriculture) や、韓国の身土不二などの運動が見られる。
我が国においても、地産地消は、新鮮で安心な農産物を得られる等のメリットにより、各地でその取組が草の根的に盛り上がっている。
しかしながら、1億2千万人を超える国民に食料を安定供給する必要があるとの観点に立てば、その、すべてを地場産の農産物により供給することは困難である。したがって、地産地消の活動は地場の消費者・実需者ニーズに応えるものとして、地場の生産技術条件や市場条件に見合った可能な方法で経験を積み重ねながら段階的に広げていくことが重要と考えられる。
その場合、地産地消の概念は、必ずしも狭い地域に限定する必要はない。できるだけ近くのものを優先するのが原則であるが、周年販売や品目・品質上の品揃えを考えると、産地の地域的な範囲は柔軟な拡がりをもって考えた方がよい。最終的には我が国の全域すなわち国産農産物の全体までも射程に置くことの出来る概念だと考えられる。
したがって、国産品を優先的に消費することを通じて、食料自給率の向上にもつながっていく考えである。このような視点に立って、行政においては、強いニーズがある地産地消を広げていくため、特に、取組が円滑に進められるようにするため、支援を行うべきである。
(3)地産地消のメリット・デメリット
地産地消により、消費者、生産者双方に以下のようなメリットが生じると考えられる。
まず、消費者については、
@ 身近な場所から新鮮な農産物を得ることができる。
A 消費者自らが生産状況等を確認でき、安心感が得られる。
B 食と農について近親感を得るとともに、生産と消費の関わりや伝統的な食文化について、理解を深める絶好の機会となる。
C 流通経費等の節減により安価に購入できる
また、生産者については、
@ 消費者との顔が見える関係により地域の消費者ニーズを的確にとらえた効率的な生産を行うことができる
A 流通経費の節減により生産者の手取りの増加が図られ、収益性の向上が期待できる
B 生産者が直接販売することにより、少量な産品、加工・調理品も、さらに場合によっては不揃い品や規格外品も販売可能となる。
C 対面販売により消費者の反応や尿かが直接届き、生産者が品質改善や顧客サービスに前向きになる
D 高齢者が生きがい、女性がやりがいを実感できるし、地域の連帯感が強まる
E 耕作放棄地や捨て作りを防止でき、地域特産物や伝統的調理法を警鐘する等、農地や技術を保全、継承する
一方、地産地消については、その性質上、以下のような問題点や限界もあると考えられる。
@ 地産地消は必ずしも大量流通に適したシステムとなっていないので、コストアップ要因になりうる。特に、出荷・販売活動は、そのほとんどが労働力の追加と考えておかなければならない。それは生きがいとなる側面と負担となる側面がある。また、青果物の大型共選場を持っている地域では、その有効な活用方法の再検討も課題になる。
A 「地産地消ならどんな地場産品でも売れる」といった安易な考え方に陥る危険がある。地場のどのような消費層に、いつ、どのような品質の農産物をいくらで販売するか、販売促進の方法は、売れ残り品はどのように処分(販売)するか、どのような大勢と方法で品質管理を行うか、誰がどのような方法で搬入・搬出をおこなうか、包装、接客、クレーム処理の方法等、「地産地消ビジネス」が持続するための販売、財務、接客等に十分な経営管理能力が求められる。
なお、組織的な地産地消が一般的であるが、その場合、どこまでが個人の裁量と責任かを明確にしておく必要がある。
B そもそも、厳密に地場の農産物のみによってすべての品揃えを賄おうとするのは困難であるから、地産地消が農産物流通の大宗を担うといったことにはならないであろう。
これらの問題点や限界に留意しながら、いかに地産地消の輪を広げていくかが重要である。
この場合、地産地消を地場農産物や地元の範囲のみを対象とする狭い意味で捉えるのではなく、国産品を優先的に使用するといった広い意味で捉えることによって、「広域大量流通」対「直売所」といった対立的な概念としてではなぃ、消費者のニーズに適合するような新しいシステムを工夫していくといった発展的な概念として位置付けていくことが可能となるものと考えられる。
<農水省は農林水産物等輸出促進も政策のうち>
地産地消を促進する農水省にはもう1つの顔がある。それは日本の農水産物を世界に輸出しようとの姿勢だ。農水省の中の大臣官房国際部貿易関税課に輸出促進室があり、メールマガジンも発行している。
「地産地消」をスローガンに、地域で生産されたものをその地域で消費することを推進している農水省が、高品質で安全・安心な日本産品を世界に輸出しようと呼びかけている。
対策の1つに、「輸出阻害要因の是正」として「FTA交渉などで高関税率等の障害の撤廃をリクエスト」という項目がある。日本がコメの輸入に対して高い関税をかけていることなどはこの対象となるのかな?
農水省は、日本国内では「地域で生産されたものをその地域で消費しましょう」と呼びかけて、海外では「地域で生産されたものだけでなく、いいものなら外国から買ってでも消費しましょう。日本では皆さんに喜んでもらえる農産物を沢山生産しています」と呼びかけている。
「地産地消がいいのか、悪いのか?」などの愚問は発しないこと。農水省が言いたいのは「地域で生産されたものでも、そうでないものでも、日本の農産物は良い物なのだから、日本の人も外国の人も日本の農産物を消費しましょう」と言っているのだから。
つまり日本の農水省は、生産農家を守ることを省務としているのであって、これに関しては、その通り生産農家を守る標語を掲げている。
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<憲法で借款の禁止>
アルバニアは社会主義の建設を、主として自力で行うことを宣言し、憲法で「外国の経済・金融の会社その他の施設および資本主義者と修正主義者の資本主義の独占企業・国家と合同で作られたこれらのものに対して免許等特権を与えまたはこれ等のものを創設すること、ならびにこれらのものから信用の供与を受けること、はアルバニア人民社会主義共和国においてはこれを禁止する」(第28条)と規定されている。
国家計画委員会の統計局は、輸出入量、外貨準備高等のデータを1964年以降発表していない。私たちの質問に対しても明らかにしなかったが、「輸出入のバランスはほぼとれており、累積赤字はない」というのがその答えだった。この借款の禁止が、アルバニアを世界でも珍しい自給自足の国にしている。
貿易は完全に国家の独占事業で、外国貿易省の管理の下で、産品ごとに金属鉱石輸出公団、金属鉱石輸入公団、工業製品輸出公団、工業製品輸入公団、農産物輸出公団、農産物輸入公団によって行なわれている。ユーゴスラビア、ギリシャ、イタリア等の近隣諸国、ポーランド、チェコスロバキア等の東欧諸国、それに西ドイツ、フランス等が貿易の主要相手国で、総額は4億ドル程度と推定される。
この借款禁止は、他の東ヨーロッパ諸国と際立った対照をなしている。1960年代の半ばから70年代にかけて、冷戦の緩和とともに、他の東ヨーロッパ諸国は経済の発展を西側からの技術と資本の導入で行おうとした。しかし、運悪く73年のオイルショックに端を発した西側の不景気で、もくろんでいた西側への輸出がまったく伸びず、多額の負債だけが残ってしまったのだった。
(『現代の鎖国アルバニア』から)
アルバニア人民社会主義共和国憲法 抄
第1条 アルバニアは人民社会主義共和国である
第2条 アルバニア人民社会主義共和国は、すべての労働者の利益を表明し防衛するプロレタリアートの独裁の国である。アルバニア人民社会主義共和国は、アルバニア労働党を中心とする人民の結束に基盤を置き、労働者階級と労働者階級の指導の下にある協同小作農との結びつきをその基礎とする。
第3条 アルバニア労働党は労働者階級の先導者であって国家と社会の唯一の指導的政治力である。アルバニアは人民社会主義共和国においては支配的イデオロギーはマルクス・レーニン主義である。社会主義体制のすべてはその主義はその主義に基づいてこれを開発する。
第27条 外国貿易は国家の独占事業である。国内通商は主として国家が行い、国家はこの分野のあらゆる活動をその管理下に置く。企業の製品の販売価格および農業と畜産の製品の国家買上げ価格は国家が定める。
第28条 外国の経済・金融の会社その他の施設および資本主義と修正主義の資本主義の独占企業・国家と合同で作られたこれらのものに対して免許等特権を与えまたこれ等のものを創設すること、ならびにこれらのものから信用の供与を受けることは、アルバニア人民社会主義共和国においてはこれを禁止する。
第37条 国家は一切の宗教を認めず、人民の間における科学的現実主義世界観を鼓吹するために無神論運動を支持する。
第39条 市民の権利と義務は、個人と社会主義社会の利益の調和とし、全体の利益を優先して考慮することにより、これを定める。市民の権利はその利口から分離することができないものであって、また社会主義体制に反対してこれを行使することはできない。市民の権利をさらに拡大・深化することは国に社会主義発展と密接に関連する。
第55条 ファシスト、反民主的、宗教的、反社会主義的な性格の一切の組織の創立はこれを禁止する。
ファシスト、反民主的、宗教的、戦争商人的、反社会主義的な活動と宣伝運動および国民および人種の憎悪の扇動はこれを禁止する。
第62条 社会主義祖国の防衛はすべての市民の最高の義務であり最大の名誉である。祖国に対する裏切り行為は最も重大な犯罪である。
第63条 軍務と社会主義祖国の防衛のための不断の訓練はすべての市民の義務である。
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<主な参考文献・引用文献>
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』 NHK取材班 日本放送出版協会 1987. 5.20
( 2005年12月12日 TANAKA1942b )
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(3)高自給率は良いことか?
マスコミはどのように報道したか
<日本の食料自給率>
鎖国時代のアルバニアは食料自給率100%だった。では現在の日本の自給率はどの程度なのだろうか?農水省のHPから引用しよう。
平成13年度
米=95%(主食用は100%) 小麦=11% 豆類=5% 野菜=82% 果実=44% 鶏卵=96% 牛乳・乳製品=68% 肉類=53% 砂糖類=32% 魚介類=49%
食料自給率とは、食べ物がどれくらい国産品でまかなわれているかを示す値のことであり、この自給率には、品目ごとの自給の度合いを示す「品目別自給率」、牛とか豚などの飼料用も含めた穀物の自給の度合いを示す「穀物自給率」、カロリー(熱量)をもとに自給の度合いを示す「供給熱量自給率」とがある。
上に書いたものは「品目別自給率」で、通常、「食料自給率40%」と言われるのは、「供給熱量自給率」だ。
上記の他に食料・資源などの自給率を調べてみた。統計年度などに差があるので、正確な比較は難しいが、おおよそのことは理解できるだろう。
まぐろ=46% えび=6% しいたけ=56% 穀物(食用+飼料用)=28% トウモロコシ= 0%、グレーンソルガム= 0%。石油= 0%、ウラン= 0%、天然ガス= 3% エネルギー自給率は原子力を含んで約20%、原子力を含まないで4%。
日本でもしも食料自給率100%を目指すとしたらどうなるか?農水省のHP食料自給率の低下と食料安全保障の重要性▲と題されたところに、「国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要」
「このような私たちの食生活は、国内農地面積(476万ha(平成14年度))とその約2.5倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。このため、農産物の輸入が行われなくなってしまうような場合には、大幅な食料の不足がひき起こされることとなります」
という文章があった。こうした自給率の数字、農水省の文章を見ると、@小麦、大豆、トウモロコシ、について自給自足は絶望的になる。
Aに関しては、どのように理解していいのか迷う。農水省の方針「自給率アップ」ならば、自給率 100%にするためには、(A)国内農地面積を3.5倍にする。(B)生産性を3.5倍に、つまり単位あたりの収穫を3.5倍にすることなのだ。(C)では消費量を3.5分の1にすればいいのか?毎日3回食事をする人が1日1食にすればいい、とでも言いたいのだろうか?
ということになってしまう。
食料安保の観点から言えば、「食料安保のためにはリスクを分散させること。つまり供給地を多くすること。コメならば日本、アメリカ、中国、タイ、オーストラリアを供給地とすればリスクが分散できる」となる。生産力強化の観点からいえば「自由な競争を促進する。過保護政策はアルバニアのねずみ講事件のように弱い体質を作ることになる」というのがTANAKAの考えだ。
野口悠紀雄が「自給率の低さは豊かさと安全の証」▲と書いているが、これはかなり大胆な表現で、アマチュアならともかくエコノミストは心で思っていても、なかなか口に出し難いだろう。言う人間が農業者でないと「土の匂いのしない者の意見は聞かない」という農業関係者の体質からまともにその意見を検討しようとはしない。
もっとも、それが農業界独特の倫理観かと思ったが、経済学者業界もそうらしい。日銀の人間がいくら言っても「ベースマネーの増減により、マネーサプライが増減する」という経済学の神話を疑おうとしない。
経済学者業界では「経済学者業界の匂いのしない日銀関係者の意見は聞かない」との風潮があるようだ。
「食料自給率向上」とのかけ声を聞くと、新井白石・徳川吉宗・松平定信・水野忠邦の政策を思い浮かべる。
理性的に考えれば「自給率の低さは豊かさと安全の証」となるのだが、この問題は信念・信仰の問題であり、経済の問題としてもセンスの違いになってしまう。
<リスク分散と自由競争>
コメ輸入の自由化に伴う不安は「@もしもの時に外国に頼っていると不安だ。外国が売ってくれないかもしれない。A高齢化で農業がさらに衰退する」だろう。これに対してTANAKAの対策は次のようなものだ。コメは関税化し、初年度500%、次年度400%、次の年度300%、その次ぎの年度200%、さらにその次の年度100%とする。
さて、それからが工夫のしどころだ。100%の次ぎの年度はその前の年の輸入量によって国によって変わる。例えば前年のコメ輸入量が、全輸入量の50%の国に対しては50%の関税を、20%の国には20%の関税をかける。つまり日本に対してコメを多く輸出する国に対しては高い関税をかける、今まであまり日本に輸出してない国に対しては低い関税をかける。
こうすることによって、日本からみると供給地が多くなり、特定の国に依存する危険性が少なくなり、リスクが分散されることになる。
「高齢化で農業がさらに衰退する」との不安に対しては、規制を緩和して産業としての農業に、参入の自由と土地保有の自由を保障することだ。現在の日本の農業は産業ではなくて公共事業になっている。
農業で儲けることが難しい。若い人が将来の生活を考えると収入が不安で参入したがらない。自由な競争を促進することによって産業として伸びていくであろう。いつまでも保護を続けていると、アルバニアで資本主義に慣れていなくて、ねずみ講に引っかかったように、結局いつまで経っても一人前になれない。
成長通を怖れて保護を続けるとこのようになってしまう。
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<マスコミは地産地消の国をどのように見たか>
資本主義の最先端をいく国のマスコミが、こうした地産地消の国アルバニアをどのように見て、どのように報道していたのか?幾つかの報道を紹介しよう。特に「地産地消の国」と捉えているものはないが、自給自足の経済体制をどのように評価し、報道していたか、関係ありそうな記事を選んでみた。
* * *
NHK『現代の鎖国アルバニア』<石油不足の対処はマイカー禁止で>
アルバニアの自給自足の経済を支えているのが、クロム鉱、ニッケル、銅、ボーキサイト、それに石油、石炭等の豊富な鉱物資源だ。なかでも戦略物資といわれるクロム鉱石は南アフリカに次ぐ産出量を誇り、アルバニア1の輸出品になっている。
日本はアルバニアと毎年、総額1000万ドル程度の貿易をしているが、その額はここ2,3年、減少を続けている。アルバニアから何かを買う、カウンター・パーチャスをすることになる。しかし、日本の商社筋の話によると、日本が一番欲しいクロム鉱が最近、このカウンター・パーチャスの対象からはずされ、日本にとって輸入品目が非常に偏ってしまったためだということだ。
クロム鉱の世界一の産出国である南アフリカの人種対立による社会不安で、アルバニアが強気に出たのが、こうした政策の変化につながったものと見られている。
石油の存在は、アルバニアの自給自足を支える要だ。その埋蔵量及び年間の産出量は明らかにされていないが、非公式には、年間最大300万バレルの産油能力があるとされている。油田地帯の1つに、まずチラナの南100キロ、フィエールの近郊にあるバルシュがある。ここは戦後の1950年代に開発が始まったもので、すぐ近くに78年から創業を始めたアルバニア最大の精油所がある。
このほか、第2次大戦中、イタリア軍が開発したクチョーバ油田、50年代に開発されたエルバサン近郊のチェリク油田がある。石油は完全に自給自足で、油田の開発には日本の掘削技術も導入しているということだった。
しかし、いくら人口が少ない(現在=1976年、およそ300万)といっても、通常の国なら、この程度の石油量で国内消費をまかなえるわけがない。ちなみに、日本の石油消費量はおよそ12億バレル、アルバニアの400倍以上だ。日本の人口はアルバニアの40倍だから、日本人1人当たりアルバニア人の10倍以上の石油を消費していることになる。
この石油の消費を押さえる最大の役割を果たしているのが、マイカー、個人車の禁止政策だ。バイクは所有が可能だが、そのバイクを含めて、国内で車両をまったく製造していないし、もちろん販売もしていない。乗用車はすべて公用のものである。外国人の車も、外交官を除いて個人のものは原則としてない。従って、アルバニア人にとって乗用車は縁のないものであり、交通手段は自分の所有するものとしては、最高級がバイク、次いで自転車ということになる。
自転車はすでに1970年代から自主生産を開始しており、チラナだけでなく全国で見かけたが、値段は800レク(約2万円)前後ということだった。これは一般の労働者の1カ月余りの給料に相当する。私たちから見れば、かなり割高という感を免れない。田舎では、今も馬が一般的な交通手段として用いられている。
(T注 TANAKAの家が、1951年新宿区内で引っ越しをしたとき、荷物を運んだのは馬車だった)
1985年4月11日、チラナ放送は「午前2時15分、敬愛すべき我が党の指導者、エンベル・ホジャ同志が死去した」と伝え、厳かに鎮魂曲を流し始めた。この日から葬儀の行われた15日まで、アルバニアは文字通り全国民が喪に服した。
(『現代の鎖国アルバニア』から)
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『エコノミスト』<小さな国の大きな智恵>
プロレタリア独裁の理論学習を全国的に展開している中国の東北、華北、華中の各地を3週間ほど歩いたあと、北京で中国民航機に乗り換え、東欧で独自の路線を歩いているアルバニアを対外文化連絡委員会の招きをうけて去る8月、2週間ほど視察した。(中略)
中国の技術援助・資金援助による紡績工場、発電所視察の話があって、中国の援助についてアルバニア人の話が書かれている。
アルバニアの人たちは「中国の援助は兄弟のような国際主義のものである。われわれは西欧の資本主義国や修正主義国からの援助や借款は拒否したが、中国からの支援は、これらの国ぐにからの援助とは本質的に違うものである」といっている。
中国は、「相手の国の主権を厳格に尊重し、いかなる付帯条件も絶対に要求しない、無利子か低利子の借款を与え、相手国が自力更生の方針に基づいて自立経済を発展させることができるように援助し、関係者が技術を十分に習得できるように保証する」と8原則でうたっているが、それを誠実にアルバニアで実行している。
したがってそれはアルバニアの自力更生の方針や精神となんら矛盾しないのである。どんな工場へ行っても説明にあたる責任者は必ず「この工場は中国の私心のない援助によってできあがったものです」とはっきり言う。そしてなかにはソ連の技術者はアルバニア人労働者の10倍の賃金を要求しましたが、中国の技術者はそんなことは絶対にしていません」という人もいた。
(『エコノミスト』アルバニア訪問記─小さな国の大きな智恵 から)(T注 当時のソ連と中国の人件費を比べてみると理由が分かるだろう)
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『朝日ジャーナル』<小さな国の大きな実験>
それにしても、アルバニアの発展ぶりは、私の予想をはるかにこえていた。主要道路は完全舗装され、そのうえを自転車やラバ、2頭引き馬車、かなり旧式のトラックが走り、あるいはねそべった牛や羊群がその見事な道路を占領している。
道の両側のポプラ並木の地表から1メートルぐらいが薬剤で白く塗られ、それが夜間の標識の役割をはたしている点も、中国そっくりである。腰高の自転車やラバ、トラックの間をすり抜けて、わがイタリア、フィアット製の高級観光バスが奇妙な警笛をならして疾駆していく。道ばたの子どもたちが、手を振りながらバスを追いかけてくる。
服装は質素だが、皆元気一杯である。手を振るだけではない。ゲンコツをつきだして笑顔で歓迎してくれる。チェコ国境にすみ、多くのチェコ人亡命者を見なれているオーストリア人の婦人は「ゲンコツだと、出て行け!といわれているような気がするわ」と言いながら満更でもない表情である。畑には、ヒマワリ、トウガラシ、綿、タバコ、トマト、トウモロコシなどが見渡すかぎり植えられ、水田も少なくない。灌漑設備もかなり完備しており、むだなく水が利用されるように配慮されている。
アルバニアの鉄道は、第2次大戦前、支配者であるツォグ王朝とイタリア外国資本の収奪を目的につくられたためか、単線で、しかもアドリア海中部沿岸の平野部だけ、外国とはまったく接続していない。見事な舗装道路は、この粗末な単線鉄道網によりそうようにはりめぐらされているわけだ。
(『朝日ジャーナル』東欧紀行ー小さな国の大きな実験 から)
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『中日新聞』<誇り たとえ貧しくても>
欧州で最も生活水準が低いといわれるアルバニア、個人所有の乗用車はない。せいぜい自転車だ。カメラを持ってい人もほとんどいない。主食類などの基本的な食料はあるが、肉が食卓に出るのは多分、週に1,2度だ。
人々はテレビを通じてイタリアやギリシャの豊かな生活を知っている。しかし、特に西側の消費物資をうらやむ風ではない。
「戦争が終わった時、われわれはなにもなかった。それに比べればいまはずいぶん良くなった。われわれは自分たちの力でそういうものを手に入れる努力をしている」
アルバニアの人びとは西側の国との何比較ではなく、自国の40年前と現在を比べたがる。住宅、医療、農業、工業などは飛躍的に向上しているというのだ。
住宅は田園地帯の場合、1家族が1軒の家に住んでいるようだった。しかし、都市では狭いアパートに大家族が入っているのが普通だ。
首都ティラナで研究所勤めの知識人のアパートを訪ねた。そこには本人の家族3人と兄の家族4人、それに母親が住んでいた。この家で最も素晴らしい部屋と思われる居間に通された。
壁と床はくすんだ茶色。壁には安物の絵が2,3枚。隅に旧式のミシンが1台。電球のかさはプラスティック製。これというものは特にない。
台所はガス台1つと陶製の流し、洗濯機や冷蔵庫は見当たらない。トイレは倉庫と兼用で暖房用のまきが積み重ねてあった。家は狭く、家賃は少なかったが、すべては清潔できちんと整頓されていた。
街で見かける商品は少ない。電池、電気製品、靴、服装品、衣類、せっけん、化粧品など売っているのはまれで、口紅をつけた女性にはなかなかお目にかかれない。
たまに見かける商品は極めて値段が高く、質の悪いセーターが日本円で5200円する。ここでは月給が平均約2万円である。
少ない収入は子供たちにしわ寄せがいく。この国の人の服装はじみでくすんだ灰色か茶系統だが、子供の服は着古した大人の服を再利用してつくられている。
それにしても朝早くから夜遅くまで、街の通りでぶらぶらしているたくさんの男たちは何なのだろう。あちこちで見た。男たちは若者も年寄りも世代を選ばず集まって、ただおしゃべり、たばこを吸い、酒を飲み、トランプ遊びをしている。アルバニアには失業者はいないはずだが……。
「すべてのアルバニア人は働く権利がある」という。「未来の成功を」「1990年計画の実現を」と党スローガンはいうが、妻の稼ぎか、国からの福祉金に頼って暮らしている男たちは多そうだ。
人々の楽しみはテレビ。朝、そして夕方の散歩やお菓子のケーキぐらい。サッカー人気は高い。書店の本の半分以上はマルクス、スターリン、それにアルバニアの”偉大な指導者”ホッジャ前第一書記の関係だ。映画、演劇の大半は政治宣伝である。
国は小さく、貧しい。しかし、アルバニアが独立を守ってきた誇りは高い。祖国が占領されたつらい思い出を持っている人にとっては、娯楽や消費財への少ないことなどは独立保持への小さな代償でしかないようだ。(ヨーロッパ総局、クレア・ドイル、写真も)
(『中日新聞』1990.4.20 から)
* * *
『文献・新聞記事からみるアルバニア』<開国後の食料暴動>
1991年12月7日の時点でアルバニア政府は「穀物の備蓄は6日分だけとなった」と明らかにした。同国の食料不足は深刻化しており、12月11日には食料暴動による放火で38人が死亡した。1992年2月25日ティラナの南東約80ぃろにあるポグラデツで食料暴動が発生し2人が死亡。
2月27日にはティラナの南方60キロのルシュニアで群集が食料倉庫を襲撃1人が死亡、警官15人が重軽傷を負う事件が発生した。また、ルシュニアの社会党地区本部が放火され、警官隊との衝突で20人が負傷した。食料暴動は拡大の一途をたどっているように見える。
これに対してアフメテイ首相は警察と軍の動員を指示し暴徒の鎮圧に乗り出した。1991年の総選挙によって共産主義体制が崩壊したアルバニアは「自由」を手にしたが、その代償として政治的・社会的・経済的混乱の中にたたき込まれたのである。このような状況が続けば保守派(スターリン主義者)が秩序の回復を掲げて巻き返しに出てくることも考えられる。
「自由」という名のカオスか。「秩序」の名のもののスターリン型体制への回帰か。アルバニア情勢は総崩壊の危機を孕みながらますます混迷の度を加速している。
(『文献・新聞記事からみるアルバニア』 から)