(6)シグリミと呼ばれる秘密警察
市民監視とライバル追放
<西欧人の報道姿勢> 先週は日本人の見たアルバニアだった。今週は西欧人がどのように見たか?どのように報道したか?それを紹介しよう。日本人は「地産地消の国アルバニア」に自分たちが失った、古き良きのもが残っていると報道し、それに感動した人たちがいた。 今週は全く違った見方からの報道を紹介することにした。
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<シグリミの監視> アルバニアの人々との会話には、いつも目に見えない”障害”がある。
 「毎日の暮らしはいかがですか」と聞く。答えは「満足です」。「政府についてのご意見は?」「政府は国民にとって何が最善かよく知っています」。いつも同じだ。
 東欧各国で民主化への激しい動きがあった。アルバニアの人々も一連の事件は知っているはずだ。だから別の反応があってもよいはずだが、それが感じられない。
 人々は真実を語ることを恐れている。アルバニアでは、3人に1人が秘密警察「シグリミ」といわれる。うっかり話せない雰囲気が国内全体に満ち満ちている。
 この1月初めにあったというデモについて知りたかった。首都ティラナ。午後3時ごろ、1人の男子学生に会った。話を聞きたいというと「夜ならいい」という。
 「いま、ここで聞きたい」と食い下がると、「君は監視されている」と学生。
 その直後、自転車に乗った茶色の上着の男がじっとこちらを見ているのに気づいた。この男の姿を、日暮れまでに4,5回見た。学生の話は本当らしかった。
 午後9時ごろ、約束通り学生と会うことができた。
 「喫茶店か酒場に行こう」というと、「公衆の面前良くない」と学生。彼の意見に従って小さな公園のベンチに座った。
 学生は言う。
 「ホテルで話すのは1番いけない。ホテルは秘密警察だらけだ。すべての部屋の灰皿やタオル掛けに盗聴マイクが仕掛けられている」「あなたは帽子を取ってくれ。アルバニアの女性は帽子をかぶらない。 君は目立ちすぎ、外国人とすぐわかる」「カメラは隠せ。メモは取るな」
 肝心のデモの話より、学生の神経質な対応の方が興味深かった。デモもティラナとシコダルで実際に行われたのだという。学生はこう話した。
 「アルバニアは貧しい。服もシャンプーもせっけんもない。だからデモは当然、経済要求になった。政治的なものではなかった。デモを実現するために、仲間から仲間へそっと手紙を回し、電話をかけ合った。 ごく小規模のデモだった。その夜、参加者のうち15人が逮捕された。政府はこの事実を一切、明らかにしていない」
 でも 規模は500人ないし1000人だったという。
 2人で30分も話していると、公園に60歳がらみの男が現れた。学生は「秘密警察だ。話はおしまいだ」。すっかり落ちつきを失って「顔を伏せろ」とも。
 男は近寄ってきて、腰をかがめ、靴ひもを直した。
 会話の継続はもう危険だった。
 学生は立ち上がり、私もそうした。
 この国では、年寄りに対しては注意しなければならないという。年寄りは働けなくなると、秘密警察への通報によってエキストラ・マネーを稼ぐからだ。
 ホテルに戻ると、すぐに灰皿と浴室のタオル掛けの裏を懸命に点検した。何も見つからなかった。(ヨーロッパ総局、クレア・ドイル、写真も) (『文献・新聞記事からみるアルバニア』中日新聞1990年4月18日 から)
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<監視されるジャーナリスト> ちょうど旅券をめくりかけていた役人の手がとまる。大きなベレーをかむった頭があがり、2つの眼が信じられないというようにわたしを見つめる。
 「あなたはチラナに行くですって?」
 「ええ、そうなんですよ」──とスチュアデスがわりこんでくる──「このかたは明日のチラナ行きを申し込んであります」
 皮肉な微笑まじりのスチュアデスの証明も通じない。検査官は大急ぎでベレーを額の上に押し上げ、熱心にわたしの旅券をめくりだす。まもなく彼は、シキプタール人民共和国の珍しい鷲の紋章のスタンプを見つける。それでも彼は満足しない。
  *アルバニア人は自国を「シキプニー」、住民を「シキプタール」また「シキペタール」(岩登りの人)と称している。
 「でもあなたは西ドイツから来られたのでしょう?」
 語調には疑いのひびきがある。わたしがそうだと答えると、やっとこの役人には事件が落着する。彼はわたしの旅券をパチンと閉じ、頭をふりながらわたしに返す。わたしがハンガリアの通過査証を持っているかどうかは、彼にはもう関心がないように見える。
 ブタペスト空港の小さな出来事は、意味がある。ずっとまえから、西方諸国の国民はアルバニアの入国査証を手に入れることは、まったく不可能といわないにしても、難しいことであった。 ことに西側のジャーナリストの訪問は閉めだしであった。第2次世界戦争いらい、ドイツ連邦共和国の記者はだれ1人として、アルバニアに足をふみ入れる許可をもらった者はいない。自由世界の新聞通信員が、最後にアルバニア訪問を許されてから5年になる。 モスクワの勢力範囲のもっとも孤立した衛星国からのかれらの報道は、そのころまさにセンセーションであった。それいらいアルバニアはまさしく隔絶していまった。アドリア海に臨むこの荒々しい山国に何が起こっていたか、政治的な事件がどのように進行したかは、思惑にまかすほかはなかった。 その思惑は一部はアルバニアの隣国の底意のある報道やうわさ話から組たてたものである。共産主義的人民民主主義の鎖のうちもっとも小さなこの国の一環は、ヨーロッパのチベットになった。
 それだけに、1961年8月に、わたしと3人のドイツ人の同僚に、アルバニア入国だけでなく、ほとんど4週間に近い滞在の許可がチラナの役所から伝えられたのは途方もないことなのであった。 西側の外交官たちは、この意外な決定は間違いで、間もなく取り消されるだろうと思ったものである。同僚たちは、彼らのねたましい気持ちを隠そうとしなかった。東のブロックのジャーナリストたちは、チラナの役所の下したこの思いがけない、そしてこれまでの一切の伝統に反する決定にあっけにとられ、政治的陰謀だろうとの邪推が彼らの心にきざした。 彼らの多くの者は、皮肉で陰気な予言にこと寄せて、心ひそかにいだいている懸念をもらした。
 「無事に帰れるように気をつけたまえよ」とポーランドの同僚がわたしに忠告した。「アルバニアにはパンはあまりないが、そのかわり沢山のスターリンが、そしてもっと沢山の処刑隊がいる」(中略)
エンヴェルはすべての人のために すべての人はエンヴェルのために 全体主義国家ではどこでもそうであるように、最有力者のスケールと性格は、決定的な役割を演ずる。それはアルバニアにとくにあてはまる。東ヨーロッパのどの国家とも違って、アルバニア共産党は20年このかた唯一の人間によって鋳こまれてきた。 「エンヴェル・ホッジャは党であり、党はエンヴェル・ホッジャである」という公式が、いたるところで確証されている。
 いたるところにエンヴェル・ホッジャがいる。アルバニアの村でも町でも、だれ一人彼の偏在をまぬかれることはできない。都市の公園には、しゅろの梢やユーカリ樹の葉がくれに、メッキした彼の胸像が顔を出している。 広場で、また官省の建物の内外で、石膏やブロンズの彼が、臣下の営みを監視している。どんなに珍しいところにも、素朴に描かれた彼の肖像が見られる。すべての旅館とホテル、すべての学校と官省に独裁者の肖像をかけるのは、すべての全体主義国の慣例にかなっている。 しかし、海水浴場のテント張りのビール屋の傍らに、フットボール・グランドの隅のポールに、あるいは地方博物館の考古コレクションの中にある装飾としてのエンヴェルは、悪趣味が許しうる度を超えている。アジテーターは、彼らの英雄の像を張り付けようと、居住地区の壁面にあいているところがないかと眼を光らしているように見える。 コルホーズの畜舎の壁や、町のけっして豊富に飾りつけているとは言えない商店のショーウィンドーのガラスにいたるまで容赦はしない。命ぜられたあらゆる機会に、シュプレヒコールは彼の名をうたっている。(中略)
 アルバニアの共産主義的統制の模範はとなりのユーゴスラヴィアであった。チラナはベルグラードの衛星になった。チラナとモスクワの連絡は、ユーゴスラヴィアの首都を経由して行われた。ユーゴスラヴィアの同志の背面擁護によって、エンヴェル・ホッジャは自国民に対して苛酷な態度をとった。 ボリシェヴキ化を受け入れようとしないアルバニア人は、威嚇と経済的圧迫で効き目がないときには殺された。エンヴェル・ホッジャは、より頑固な反対者は「人民の敵」として特別裁判にかけた。 ソ連邦のスターリン時代に、あのように典型的であった「省略刑事訴訟法」、つまり被告の陳述なしの判決を可能にあいた、いかなる控訴をも許さないやり方が、アルバニアによって引きつがれた。
 チラナにおける共産主義支配の初期の例をいくつかあげよう。クーケス地方の共産主義反対者のグループ、つぎにクルーヤ地区のグループ、マーティ地方の反乱者は、1944年末に処刑され、1954年1月に、8名のチラナ旧アルバニア高級警察官、2月にクーチョーヴァの多数の「サボタージュ者」が処刑された。 4月に、60名の元高官、高級警察官、議員が判決を言い渡されたが、その内17名は死刑であった。くる月も、くる年も恐怖一色のうちに過ぎた。(中略)
 アルバニアの党首がどのようにこの芸当をやってのけたかは、まさにマキャヴェッリ的権力政治の模範的例である。1948年10月の内閣改造にあたり、かれはゾゼを工業相に任じた。内相として多年活動してきたことによりゾゼは、秘密警察の強力な機構をにぎっているので、これを無事にあやしておくために、ホッジャはゾゼの親友ケレンチを内相に任命した。 こうしてホッジャは、ほとんど目立たせないで、もっとも重要で危険な権力用具をゾゼからもぎ取ることに成功した。1カ月のちに、党首はゾゼに一撃を加えた。彼はゾゼの全官職を免じ、ゾゼの親友の内相を罷免した。ゾゼの支持者と推測される残りの者は、国家と党における枢要な地位を免ぜられた。 1週の後、すなわち1948年11月のはじめ、チラナにおけるアルバニア共産党第1回大会で、ゾゼは弾劾された。もし「ユーゴスラヴィア・トロッキズムの反アルバニア的・反マルクス主義的」分子がアルバニア指導部の腕のなかに身を投じなかったならば、戦後期にこっと多くのことができたであろう。 これらの「分子」は、まず第1にチトーによって騙されているのであるが、アルバニアの党内には彼から指示を受けているようなもののサークルもあるであろう。これらの裏切り者の先頭になったのはゾゼである、というのである。 党大会開催の翌日、ゾゼは逮捕された。1949年の5月に、彼は軍法会議にかけられた。審議中に、「有力なデモンストレーション」が死刑を要求した。すでに6月11日に軍法会議判士長は死刑判決を下した。
 判決は即日執行された。
 ことはこの「粛正」だけにとどまらなかった。一連の著名なアルバニア共産主義指導者が、同じ刑吏に引き渡された。すべての人が「アルバニアをソ連邦から引き離し、国をベルグラードの影響下に置こう」と企てたと非難された。(中略)
 いうまでもないが、粛清は党の指導的エリートに限られたわけではない。エンヴェル・ホッジャは、1952年3月のアルバニア共産主義者の第2回党大会で、このことを明言した。ユーゴスラヴィアを社会主義陣営から排除したコミンフォルム決議以来、アルバニア党から5996名の党員および党員候補が除名された。 ホッジャは、いまや「幹部の統一」が回復され、これによって党史上の重要な一時期が終わりを告げたことを、大会に声明した。(中略)
シグリミはいたるところに スクータリでは保安機関は、特殊な措置を取らざるをえないと考えていた。ある日曜日の午前に、ただ1つ残っているアルバニア・カトリック教会堂のミサを見たいと思った。朝食のずっと前から、ホテルのホールに多勢の「私服」が顔を出した。 教会堂への途中、いやな目つきをするどく眼を働かせている一隊の人びとがわたしのあとについて来た。スクータリの保安官庁は党機関紙の『ゼリ・イ・ポプリット』から、よくその教訓を学びとった。「教権主義・ファシスト」西ドイツ国民と、アルバニアのカトリック僧侶との出会いから生ずる、すべての帰結を阻止しなければならなかったのである。
 わたしが南アルバニアのサランドを訪れたときも、「所轄」シグリミ官吏を発見することができた。私はサランドから、アルバニアの最南端でコルフ島に向かい合っている古典時代ギリシャのブスリント(ブートリント)に小舟で旅行することにした。この旅行ではコルフ海峡を通過しなければならないが、この海峡はある地点で、わずか4キロメートルの幅しかない。 航海中の保安措置は、まず第1にアルバニア人の同行者に対したもので、外国人に対してではなかった。ここでは、勤労シキプタール人の楽園に背を向ける好機があったわけである。 しかしこの場合でも、義務的な秘密警察員がモーター・ボートに潜んでいた。アルバニア人にとってはブースリントの旧蹟を訪問することは特別許可がなければできなかったのであるから、ボートにはごく僅かな乗客しかいなかった。旅行中わたしは、いったいだれが監視者かとよく考えてみた。そこには船長、運転士、組立工、サランド市アルブ・トゥーリスト・ホテルの支配人、そのほかにボーイもいた。 ちょっと見たところでは、だれ1人シグリミ所属の印象を与えるものはなかった。こんどは、いかな素人探偵の眼力もだめかと思われた。ところが偶然わたしを助けてくれた。乗組員の1人が水中に何かを発見し、総員が手すりに身をかがめた。それと同時に一陣の風がボートをかすめ、上着のすそをまくり上げた。おどろいたことに、ボートの右の尻ポケットにコルト拳銃入りのケースを見つけた。モーター・ボート上の最有力者はだれだろうという問いは、これで答えられた。
 アルバニアの巨大な監視機関は、当然のことながら、外国人「保護」だけのために作られているのではない。それはアルバニア人にも当てはまる。
 ある学生がわたしに告げた「われわれの大学にはシグリミがいっぱいです。一語一語に気をつけなければなりません。かれらは講堂に座っており、休憩時間に廊下で話をしているどのグループにでも近づきます」
 あるアルバニアの知識人が、声を潜め手を当ててわたしに打ち明けた。「ここではだれも他人を信用しません。あまりいろんなことが起こりましたから」
 恐怖が人びとの顔に書き込まれている。社会的秩序の階段を少しばかりよじ上った人びとはとくにそうである。深淵への転落の危険を冒すものは一人もいない。全体主義もモロック神にこれまでいかに多くの犠牲が捧げられたかは、誰も正確にはわからない。 国連事務局のある報告によると、1945年と1956年の間に、アルバニアでは8万人の政治的反対者が逮捕されたという。1万6千人が監獄または強制収容所で殺された。わずかな数の人口と、権力者にとって真に危険をおよぼし得るものの範囲が限られていることからみれば、これは驚くべき高い数である。1956年以後国内に生じたことについては、だれも正確なことを報知できない。
 *  モロックはセム教の神で、莫大な数の子どもを人身御供に要求する。
 ** アルバニアの人口は約140万であるから、人口の5.5パーセント以上が10年間に逮捕され1.1パーセントが殺された計算になる。
 「やっと最近になって逮捕が減りました」と、わたしの話し相手が保証した。かれはチラナの中央委員会の内部の事件を一瞥したに違いないのである。
 しかしこの暗示は、テロルの度合いと範囲についてあまり多くのことを語っていない。これまでアルバニアで起こったことは、シキプタール人をおどしてつけた。しかしシキプタール人の不安は現制度の保安である。逮捕はいつでも任意に再開することができる。それについては疑いがない。1960年はじめに、アルバニアの指導部は法令を発布した。 これによると、単なる行政処分でいかなるアルバニア市民をも拘禁し、追放することができる。いまなおこの小国に14の強制収容所があり、そこには政治犯が拘禁されている。あるときわたしは、囚人の一隊をすぐ身近かに観察することができた。東アルバニアのコリッツァからオフリド湖のポグラデツへの途上で、焦げるような真昼の灼熱のもとで、彼らは道路建設の重労働に従事していた。 いつでも発射できるように自動ピストルを持った兵士が、作業所を取り巻いていた。われわれの自動車が近づくと、囚人たちは仕事をやめた。彼らはごろごろになった服をつけて痛ましい姿に見えた。彼らがわれわれを見つめた視線は悲しげであり、また絶望的であった。 (『アルバニアの反逆』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『文献・新聞記事からみるアルバニア』 中日新聞1990年4月18日     大倉晴男 勁草出版サービスセンター 1992.10.15
『アルバニアの反逆』                ハリー・ハム 石堂清倫訳 新興出版社        1966. 6. 1
( 2006年1月9日 TANAKA1942b )
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(7)社会主義国の異端児アルバニア
外部からの干渉に対する鎖国
<平和共存か解放闘争か> 長い歴史の中で絶えず他民族からの圧力と支配を受けてきたアルバニア、エンベル・ホジャは他国との外交関係の窓口を狭め鎖国に近い状態を保っていた。 そうしたアルバニアに対する外国からの干渉は、小国アルバニアにとっては耐えがたいものであったと想像できる。そうした干渉について、社会主義陣営からの干渉と、自由主義陣営からの干渉について扱うことにした。 とくにアルバニアに対するゲリラ作戦は日本では話題になっていない。すべて失敗に終わっているのだが、小国アルバニアの治安当局にとっては強い圧力と映ったに違いない。
 初めは、アルバニア労働党の歴史から、そしてイタリア共産党トリアッチのアルバニア批判、そしてアルバニアに対するゲリラ作戦を取り上げる。
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<人民民主権力の防衛と強化> アルバニアに樹立された人民の国家権力と、国家における共産党の単独指導とは、メイリオ;済、社会、文化の領域での人民の反帝民主革命を最後まで遂行するのに必要な政治的諸条件をつくりだした。 このことは、革命が中断することなく発展して、ただちに社会主義革命に移行し、社会主義的性格の経済的社会的変革を実現することを可能にした。
 ただこの道をたどることによってのみ、民族解放戦争で勝ち取った勝利を守り、戦争が残した破壊と過去から引き継がれた後進性を取り除き、労働者が搾取と困窮から永遠に解放され、わが国の経済と文化の急速な発展のための条件を作りだすことができた。
 人民革命のいっそうの発展のために党が直面した諸任務は、第2次世界大戦につづく内外の情勢によって決定された。
 アルバニアが外国侵略者を追い出したとき、第2次世界大戦はまだ進行中であった。1945年5月9日ヒトラー・ドイツが、ついで1945年9月2日軍国主義日本が無条件降伏したのち、第2次世界大戦はようやく終了した。 (T注 1945年9月2日、東京湾に停泊した米国戦艦「ミズーリ号」上で、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが「降伏文書」に署名を行い、これによって日本の降伏が法的に確定した)
 世界には重大な変化が生じていた。ソ連は、他のいかなる国と比べてもいっそう大きな人的物的損失をこうむったにもかかわらず、戦争が終わったときには政治的軍事的により強固になっていた。ソ連の権威と国際的威信とは、著しく高まった。
 資本主義体制はその根底からゆすぶられ、弱められた。第2次世界大戦の勃発とともに始まった資本主義の全般的危機の第2段階は、なおいっそう拡大した。この危機の主要な現われは、ヨーロッパとアジアで帝国主義戦線に新しい突破口を開いた一連の革命の勝利であった。
 こうした革命の結果、ヨーロッパとアジアの一連の国ぐにで、新しい人民民主主義体制が樹立された。あらたに設立された民主政府は、社会主義的発展の道に乗り出すために基礎となった一連の政治的、経済的、社会的変革を実現した。中国における人民革命はあらたな衝撃となった。
 資本主義体制からこれらの国ぐにが離れたことは、第2次世界大戦の1つのきわめて重要な結果であった。これは、世界の力関係を社会主義に有利に根本的に変化させ、戦後の国際情勢を決定する根本的な特徴となった。
 反ファッショ人民戦争の解放的戦争性格、この戦争におけるソ連の決定的役割、および一連の国ぐにの資本主義体制からの離脱は、民族解放と反植民地主義の運動に強烈な衝撃を与えた。植民地、従属国に対する帝国主義列強の支配はぐらつき始めた。帝国主義の植民地制度の崩壊過程は全般的なものとなった。一連の新しい独立国家がアジアとアフリカに生まれた。
 残った植民地や従属国においても、帝国主義のくびきを解き放とうとする解放運動が烈しくなった。
 植民地制度の資本主義の全般的危機の第2段階のもう1つの重要な現われであった。したがって、植民地、被抑圧人民の民族解放運動の重要性は、世界社会主義革命の直接予備軍として、著しく高まった。
 世界における社会的政治的勢力の新しい配置が、革命運動の新しい段階を切り開き、世界的規模で社会主義が勝利するための一層有利な条件をつくり出した。
 戦争の終了とともに、主要な資本主義国間の力関係もまた変化した。経済的政治的発展の不均等はさらに深まり、資本主義世界体制における力の均衡をくつがえした。
 戦争のあとドイツ、日本、イタリアは一時世界市場から排除された。これらの国ぐにの経済はひどく破壊され解体された。フランスは、もはや、帝国主義強国として以前の役割を演ずることができなかった。植民地各国人民に解放戦争によって打撃を受けてイギリス帝国は解体し始め、イギリス帝国主義の力は衰えた。
 ただ、アメリカ合衆国だけが一層強大となって戦争から脱け出した。アメリカは経済的軍事的力量を著しく強め、資本主義世界の大中心となった。(中略)
フルシチョフはレーニン主義の教えを歪曲した
フルシチョフは戦争と平和に関するレーニン主義の教えを歪曲した。彼は「2つの体制の間の平和共存」をソ連およびすべての社会主義国家の外交政策の総路線にまで持ち上げた。社会主義と共産党の外交政策の基本原則はプロレタリア国際主義であって平和共存ではないとレーニンは教えたのである。それは、「ありとあらゆる帝国主義者に反対する、先進諸国の革命家および、すべての被抑圧民族との同盟」である。
 (注)V.I.レーニン「ロシア革命の対外政策」、レーニン全集第25巻、82ページ。
 フルシチョフは社会主義国と国際共産主義運動・労働運動に対して「平和共存か、歴史上かつてないほど破壊的な戦争か、であって、第3の道はない」といった選択を押しつけた。こうして、いかなる条件のもとでも、帝国主義との平和共存をおこなうために、ソ連指導部は世界的規模で階級闘争を投げ捨て、帝国主義のくびきに反対する各国人民の革命的な民族解放闘争を放棄し、社会主義国と国際共産主義運動、労働運動の側から各国人民に与えられるべき全面的援助をさし控えるという考えを広めた。 ソ連指導部は、各国人民の平和の問題の解決を世界の2つの大国、すなわち、ソ連とアメリカとの有効関係の樹立に従わせようとした。フルシチョフは「経済・文化の分野でも各国人民の平和と安全を擁護する闘争の分野でも、アメリカと有効し強力したい」、「われわれの目標はソ米関係の改善を達成することにある」と述べた。
 このように、一方で彼は、アメリカ帝国主義、すなわち、平和と自由にとって最大かつ西京の敵が略奪と侵略のたくらみをあきらめてしまったとか、社会主義国およびその他の独立国は永久に帝国主義の侵略を受けることはないといった誤った考えを広めた。しかし、このためには社会主義と資本主義の間の永久的共存を認める必要があった。なぜならば社会主義は「2つの社会体制──資本主義体制と社会主義体制の間の平和競争」を通じて世界的規模で勝利するからだというのである。 他方、フルシチョフ一味は、さまざまな国におけるアメリカの経済的軍事的優位は何らの影響も受けることはないということ、これらの国々は2つの大国による世界の分割と支配を受け入れるべきであり、巨大な経済力、軍事力、あらゆる宣伝手段や国連のような国際機構までも使って密接な強力をすすめることによって2つの羅異国が「平和を保障する」ことを受け入れるべきだ(!)ということをアメリカ帝国主義者にわからせた。 (『アルバニア労働党史第2冊分』から)
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<トリアッチ報告のアルバニア批判> スターリンの問題は、重大で深刻な問題であり、非人間的行為についての個々の告発をこえて労働・共産主義運動の基本的諸問題にかかわる問題であり、この問題について論及を避けることはできない。 それゆえ、われわれは、部分的には中国の同志たちにも支持されてアルバニアの共産主義者たちがやっていることは、誤りであり、堕落である、と考える。ソヴェトの同志たちの告発にアルバニアの同志たちが対置しているのは、言葉だけの、いかなる批判的意味もない、単なる皮相な高言にすぎない。こうしたものは、ためらうことなく撃退しなければならない。スターリンが党と国家を指導していたときにソヴェト連邦の労働者階級と諸民族が実現することに成功したことの偉大さを、否定することが、ばかげたことであるのと同様に、いかなる者もスターリンの果たした功績を否定していない。 だが、彼の個人的行動は、ある時期から、障害となり情勢全体の否定的要素となったのではなかったのか?これが、理論的究明についてもまた到達すべき結論の1つである。
 たとえば、社会主義経済の諸問題にあてられた彼の最後の著作を今日読み返してみるならば、そこには、前進するためには打破しねければならなかった保守主義の表現が見出される。こうしたことが、党の頂点において彼が意見を述べうる唯一の者となり、ついですべての者がこの意見に順応しなければならなくなったとき、いかに有害なものとならざるを得なかったかを、考えてみたまえ、これは重大な危険であって、こうした危険には注意することが必要であり、つねにこうした危険を避けることが必要である。 マルクス主義に依拠しており大衆のあいだで広範行動を先導しねければならない政党は、単頭花的組織となりおおせることはできない。このような政党は、その隊伍のなかでも、またさらにその指導諸機関のなかでも、討論、さまざまな個性の指導者の養成、たえざる意見の交換、を促進しなければならず、いかなる意見の相違に対しても決裂や処罰をもって臨んではならない。 こうしたことは、今日、われわれがこれほど成長しているときには、われわれの直面する情勢がこれほど複雑となっているときには、新しい諸問題がたえず発生しており政治的創意工夫がたえず必要となっているときには、そてだけますます必要である。 統一と団結は、活動・行動においては完全でなければならない。だが、統一と団結を作りだし維持することを可能とするのは、公然たる率直な討論だけである。
 アルバニア労働党の最近の大会で、とりわけわれわれを憤慨させ嫌悪させたものは、こうした方法が完全に無視されたということであり、党の会議が党内民主主義のあらゆる規範の軽視をともなって終始ただ1人の人間功績の性懲りもない称揚に還元されたということである。 これは、共産党の組織と発展が従うべきマルクス主義・レーニン主義の規範ではない。そうした諸条件のもとでは、最早、いかなる理論的探究も不可能であり、したがって、いかなる技術的進歩も不可能である。新しいことあるいは異なったことを言う者はだれでも、異端者と考えられる。しかも、このことはさらに、結局はすでに言われたことをくり返すことしか許容され尊重されないことになる、ということを意味する。こうして神を讃える狂信者の一派に還元されれば、いったいどうして労働者・知識人。青年のあいだから新しい諸勢力をマルクス主義の側に獲得することができようか? アルバニアの党のように権力についている党がこうした変形を受ければ、この党が権力の諸問題さえ純粋に物質力として考えるようになるのは、不可能である。これは重大な政治的誤りである。だがスターリン自身の陥った誤りの1つが、まさにこのことであったのだ。 (『スターリン主義とアルバニア問題』から)
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<アルバニアへのゲリラ降下作戦> この頃になると、アルバニアはギリシャの共産主義ゲリラ民主軍への支援を引き揚げていたので、<<ヴァリュアブル>>の目的の1つは達成されていた。しかし、1950年6月25日、北朝鮮が予告もなく南の隣国へ侵入し、アメリカ合衆国がその紛争に巻き込まれていった。当然ながら、この最近の共産主義の自由世界への侵入の背景にもモスクワの手が見え、<<ヴァリュアブル>>をさらにあおり、人員を戦場に送り込むようOPCに圧力を与えていた。
 1950年10月、歩兵中隊4000のアルバニア人16名から成るOPCの最初のゾグ派と共和国派の混成グループが、ハイデルベルグ均衡の訓練学校でゲリラ訓練を受けることになった。 SISの訓練を受けたアルバニア人とは異なり、彼らはアルバニアにパラシュート降下することになっていたが、ごく基本的な地上訓練しか受けず、上陸の基本を教えられただけだった。 訓練機関は1カ月もなく、11月の第2週にはアテネに飛び、OPCのアジトに収容されたあと、アルバニア北部に降下した。しかし、この定説なときに、16名中8名が任務の続行を拒否し、残りのメンバーと、最後の最後で決まった志願者、以前はフランス外国人傭兵部隊に所属していたアリアズ・トプタニとが、11月10日の夜、戦時中RAFで軍務に服していたポーランド人乗組員の操縦する無標識のDCー3で飛び立った。
 アデム・グユラ率いる5名編成のグループが、マルテネシュ平原の降下地域(DZ)に、そして、もう1つのグループがルメの北東部に位置するクケス均衡に降下することになっていた。しかし、視界不良で航空機が最初のDZを見つけられそうもなかったので、フライトは中止された。 9日後に作戦任務は再開されたが、今後もDZが見つけられそうもなかった。しかも、そのときは最初のグループがそのまま降下した。グユラと3名のメンバー、サリ・ダリウ、セリ・ダチ、クセタン・ダチはみな、ティラナの北東40キロに位置するブルキーゼの近くの守に着陸した。イリアズ・トプタニが行方不明になった。地元民にかくまってもらおうとしたが、裏切られて捕らえられたとの噂が後に広まった。グループの装備の入った容器も、跡形もなくなった。
 その間、航空機はクケス方面に向かって北東に飛行していた。しかし、またしても、パイロットがデジュ地帯にあるDZを見つけられず、ふたつ目のグループも当てずっぽうで降下した。装備の容器もすぐ後で投下されたが、徒歩で6時間ほど離れたザリシュトの村に落ちた。
 アデム・グユラと3名のメンバーは、現在地もはっきりしなかったので、着陸した付近の守で夜を明かした。翌日もその場に留まっていると、午後になって、アルバニア治安隊に囲まれた。二手に分かれて隠れ場所を出て、必死で逃れようとしたが、クセタン・ダチが射殺され、セリム・ダチも捕らえられた。しかし、グユラとダリウは、ダリウが足を負傷したもののなんとか脱出した。追っ手を振り払ってから、2人はグユラの村に向かったが、ダリウの怪我もあり、また、夜に移動して昼はじっとしていなければならなかったので、なかなか進まなかった。 一方、2人は好意的な村人から、アルバニア軍が2人の到着を予測しており、降下の2日前に同地に入っていたことを聞いた。アルバニア軍は彼らがパラシュート降下するだけでなく、アデム・グユラがグループの1員であることも知っていたのだった。上陸してすぐ捕らえられなかったのは、降下する際に正確性を欠いていたからに過ぎなかったのだ。
 南のエルバサンにたどり着き、そこで2週間ほどかくまって貰ってから、グユラとダリウはアルバニアを脱出しようと、ユーゴスラヴィアに向けて出発した。東へと向かい、国境にたどり着くと、ガイドの手を借りてユーゴスラヴィアへ入り、数ヶ月の間収監された。グユラが逃亡したことを知ると、アルバニア治安部隊は報復として彼の親族をすべて収監し、その後2人を銃殺した。
 第2のグループも正確な降下ができなかったために、捕らわれずに済んだ。しかし、ザリシュトの真ん中に落ちた装備の容器が警察の警戒を強める結果となり、まもなくその一帯が警察隊で溢れた。しかし、4名のゲリラは逮捕を免れ、5日の間身を隠した後、ルメの国境地帯、そして、メンバーの1人ハリル・ネルグチの生まれ故郷の村を目指して東へ向かった。 天候が崩れて豪雪となり、4週間ほどすると、彼らは計画を変更し、1950年12月中ごろにユーゴスラヴィアに入り、ブリズレンの町へと進んだ。そこで、多くのアルバニア人志願者を勧誘して帰国し、任務を完了した。一方のOPCは、いずれのグループからも連絡がなかったので、ポーランド人乗務員をDC−3で何度か両地域の上空に飛ばして無線連絡を試みたが、いずれも失敗に終わった。
 1961年はじめ、OPCはまたも大失態を演じた。1月、OPCは43名のゲリラをアルバニア北部に投下した。しかし、すでにアルバニアの治安部隊に阻まれ、29名が殺され、残りは捕らえられた。こんな失敗を犯しても、2月にはさらに別のグループが投下され、予定されていた作戦域にたどり着き、反共レジスタンスの組織にもある程度の成功を収めた。しかし、それも長くは続かず、5月はじめには、そのグループのメンバー数人が捕まり、生き残った者はユーゴスラヴィアへと逃れたものの、逮捕され、収監された。 (『謀略と紛争の世紀』から)
*               *                *
<「鎖国」という生き残り戦略> 隣国イタリアのムッソリーニに支配され、ゲリラ作戦を援助してくれたチトーのユーゴスラビアと袂を分かち、スターリンのソ連を手本としていたら、フルシチョフは戦うことを止め「平和共存」を主張する。 文化大革命の中国こそ真の理解者と思っていたら「改革解放」を言い出す。「自由主義陣営」とは名ばかりで、何度失敗してもゲリラを送り込んでくる。アルバニアの鎖国とはこうした状況での、「生き残り戦略」であった。
 超大国ソ同盟が健在だった2大陣営対立時代に、社会主義陣営内では上記のような非難・論争が行われていた。今読み返してみれば実に意味ない、空虚な論争をしていたものだと思う。しかし当時は一国の影響力のある政党の党首でさえ、このような論争をしていたのだった。
 日本ではこうした空虚な論争に対する総括はされていない。しかしそうした曖昧さが日本の良いところなのかも知れない。過去の誤りはしつこく追求することはせず、水に流す。大東亜戦争などという誤りはさっさと忘れ、経済を成長させ豊かな社会を築いていく。そして高度成長のテンポが速すぎたなら、超低成長を続ける。 エコノミストの中には「失われた10年」などと表現する人もいるが、そんなことは気にしない。たっぷり休んで、「そろそろまた経済を成長させるか」と日本人は動き出したようだ。そうした日本人の気持ちが素直に政治に反映されるのが、日本的な民主制度の良いところのようだ。 そして、それでもアルバニアの例がありながらも「地産地消」に憧れる人がいるのも日本的な現象と言えるのだろう。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『アルバニア労働党史第2冊分』                日本アルバニア友好協会訳 東方書店      1974.12.10
『スターリン主義とアルバニア問題』                「国際評論」編集部編 合同出版社     1962. 4.20
『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』 ピーター・ハークレロード 熊谷千寿訳 原書房       2004. 4. 5
( 2006年1月16日 TANAKA1942b )
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(8)地産地消での経済成長は可能なのか
自力更生は農業中心が有利
<アルバニアから消滅したホッジャ像> 地産地消を貫き通したアルバニア、ではその経済はどうだったのだろうか?アルバニアの国民がどのように考えていたのか? その答えの1つが<アルバニアから消滅したホッジャ像>だ。以下『新生アルバニアの混乱と再生[第2版]』から引用しよう。
 1991年2月、首都・ティラナのスカンデルベグ広場のホッジャ像が市民の手によって倒壊され、ホッジャの生誕地・ジロカスタル (Gjirokastër) をはじめ全土のホッジャ像がアルバニアから消滅した。同年3月には、イタリアへの市民の大量脱出という事件が起こった。 現在の政治、経済、文化にかかわる公的な職務の主要ポストには、この民主化運動の際にベリシャ氏に貢献した人物が数多く就任している。地方から中央に抜擢された人物もいる。また、各地方で重要な地位にまで登り詰めた人物もいる。 (『新生アルバニアの混乱と再生』から)
*               *                *
<自給自足を貫くための経済の歪み> アルバニアの所有権構造は、ほぼすべて国家所有であった。1960年代半ばまでに、産業の所有形態は消滅し、1976年憲法の中で生産手段の国家所要が銘記された。 更に、私有財産も禁止されている。家畜までもが集団化されてしまった。その結果、肉の供給が大幅に低下した。アリア政権は、1985年〜87年期にブリガード地やブリガード家畜を通じた改革を打ち出したけれども、いずれも失敗に終わった。
 そこで、アリア政権は、1990年7月、私有地と家畜の私有化を農民に許可する決定を下した。これが、旧所有権構造を倒壊させる引き金となる。
 第2の構造的問題は、アルバニアの自給自足体制にある。自給自足体制には生産の多様化が要求される。国際分業とか比較優位の原則は無視される。然も、アルバニアの場合、この課題を低い技術水準の下で達成を目指さねばならなかった。 旧ソ連邦や中国からの技術は老朽化し、かつ鎖国状態だったからである。
 故に、非効率的な生産体制が余儀なくされた。生産性や価格やコストについては、全く考慮されなかった。また、重工業優先主義が採用されたために、冶金、エンジニアリング、化学といった製造業が全国に広がっていった。 しかし、これらは小国・アルバニアには不必要な分野だった。輸入抑制に起因する弊害である。つぃまり、輸出に寄与した電力と鉱物(クローム、銅、ニッケル、ボーキサイトなど)の生産を除くと、こうした政策は、経済効率よりもむしろ自給自足とイデオロギーとによって鼓舞されたものであった。 輸出部門が獲得した外貨は、非効率な産業部門に移転されてしまったのである。
 従って、食品産業や軽工業は軽視された。同時に、物的純生産の33%に匹敵し、かつ労働力の約50%を吸収していたにもかからわず、典型的な労働集約的型産業である農業にもあまり注意は払われなかった。 鎖国政策が、生産コストを度外視して、食糧の自給自足を強要したのだけれども、遂にそれを実現できなかったのである。1991年以降、アルバニアが外国からの食糧援助に過度に依存しなければならないのは、これが原因となっている。
 最後の構造問題として、工業部門のミクロレベルのそれに触れておこう。既述の通り、アルバニアでは生産の集中化と集権化とが推進されてきた。これが企業管理に重大な誤りを生み出した。独占的企業行動が国内市場を支配した。また、コンビナートや大規模プラントでは過剰人員を抱え込むこととなった。
 価格は固定化され、賃金もコントロールされた。競争については、理論面でも実践の上でも非難された。品質や生産品の多様化に対するインセンティブや動機付けは否定され、それらは協同や計画化といったキャッチ・フレーズに取って代わられた。柔軟性を備え、効率的な小規模企業は、社会主義的組織化の原理に反すると判断された。この必要性を訴える者には、修正主義者とのレッテルが貼られた。

物的純生産の構造  (単位:%)
  \ 年 1938 1950 1960 1970 1980 1983 1988 1989
工    業 3.8 7.0 18.6 28.2 43.6 43.3 46.4 44.6
農    業 93.1 73.2 37.6 34.2 32.7 34.1 31.4 32.7
建    設 0.8 3.1 6.5 7.1 6.7 7.8 6.5 6.4
生産サービス 2.3 16.7 37.3 30.5 17.0 14.8 15.7 16.3
合    計 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0
(出所)『アルバニア統計年鑑』(各年)から作成

工業総生産における重工業と軽工業の比率 (1950〜1990)  (単位:%)
 年 重 工 業 軽 工 業
1950 51.9 48.1
1960 48.9 51.1
1970 57.0 43.0
1980 64.0 36.0
1985 63.8 36.2
1986 64.8 35.2
1987 63.9 36.1
1988 63.9 36.1
1989 63.0 37.0
1990 60.2 39.8
(出所)『アルバニア統計年鑑』1991年版、146〜147ページ
マクロ経済の不均衡 1970年代末まで、アルバニア経済は、一応成長し、発展してきた。純粋な意味での資本家が存在せず、いわゆる近代化を経験しなかった同国に、命令型計画経済を移植することは容易であった。 そのメカニズムが、封建的な様相を呈するアルバニアでは機能し、かつ効力を発したのである。また、旧ソ連や中国からの援助も貢献していた。ところが、実質的な鎖国状態に突入した1980年代に入って、アルバニアの経済発展は停止し、停滞してしまう。ここではこの原因を解明することにしよう。
 重工業部門の輸入代替戦略は、供給優先政策の結果生まれたものであった。これは総需要に歪みを生じさせ、それを制約する原因となった。だが、需要は市場ではなく、固定化された計画目標によって決定された。時間が経過すると、歳入の動員メカニズムが時代遅れで、非効率的であることが露呈してしまった。 そして、歳入サイドに危機が到来した。利潤の移転が減り、企業への補助金が増大した。これが全般的は不均衡を誘発したのである。一方、歳出は歳入よりも加速して増え、中央計画では最早個人のニーズに応答できなくなってしまった。不足の経済の慢性化である。
 勿論、鎖国政策が食糧不足を生み出し、生活水準の低下を招いたことは指摘するまでもない。イデオロギー論争に端を発する旧ソ連と中国との断絶が、アルバニアを閉鎖社会へと追いやった。ただ、これは、実はホッジャという1人の粗銅者に対する個人崇拝を延命化するための結果であったことを力説しておきたい。
 加えて、1976年憲法(第28条)による外国からの借款の禁止が、同国にとって致命傷となった。更に、コメコン(セフ=経済相互援助会議)の崩壊もまた、アルバニア経済を苦しめることとなる。同国の輸出市場の大半がコメコンだったからである。 コメコン加盟諸国が西欧との取引を重視するようになると、アルバニアは外貨獲得を失ってしまい、輸入のニーズを満たせなくなったのである。貿易赤字が累積し、1991年のそれはGDP(国内総生産)の19.2%に達した。また、同年のデッド・サービス・レシオ(対輸出)は38%に」まで跳ね上がった。形状収支は1990年で9,500万ドル、1991年で11億7,000ドルの赤字を記録した。
 こうしたマクロ経済の不均衡は、政府による経済政策の失敗によるところが大きい。
 まず、財政政策から健勝しよう。財政政策は、国営部門や協同組合部門から資源を動員するために活用された。その資源は、計画経済における投資や賃金支払い、社会保障、それに企業や価格の補助金を拠出する目的で消化された。まら、この政府予算を通じた再分配の最終湖霧氷は、量的な計画を達成することであった。
 財政赤字は、外国(特に、旧ソ連邦や中国)からの援助で補填された。従って1979年以降、鎖国状態になってからは、財政赤字が累積するようになった。財政赤字を調整する方法が消滅した一方で、予算の上での投資額は膨らんでいった。
 ホッジャの死去後、1986ー87年期には引締め政策が試みられたけれども、1988ー89年期には断念されることになる。対企業補助金が積み増ししたからである。財政赤字は中央銀行の政府預金によって埋め合わされたが、それも年々減少していった。不均衡は拡大するばかりだった。
 他方通過政策は受動的で、貨幣資源を管理するためのみに適用された。金利政策は重要な役割を果たさず、然も金利は長期間不変だった。但し、1986年からは外貨預金に対する金利は、若干引き上げられた。為替相場政策は、計算目的の範囲でしか利用されなかった。当然、金融資源も個人の金融資産も存在しなかった。
 アルバニア国立銀行は、中央銀行と商業銀行の両方の機能を兼ね備えていた。1970年には、国立農業銀行が創設され、農業部門の融資業務を担当した。アルバニア商業銀行が業務を開始するのは、1991年1月になってからである。併せて、同年末にはアルバニア貯蓄銀行が切り離されて、現在の貯蓄銀行ネットワークを包括するようになった。
 極端な集権化を背景に、長年中央銀行が通貨介入を実施してきたが、財政赤字が累積し、成長率が低下し、経常収支が悪化するようになってから、通貨分野におけるマクロ経済戦略の必要性が鮮明となった。1980年〜1988年期では、GDPの年間平均名目成長率である1.1%と比較して、広義の通貨供給量は年平均で5%も伸びた。 また、それは、1988年には7.8%、1989年14.8%、1990年21%の伸びに拡大した。これが、将来のハイパー・インフレと通貨危機の元凶となる。
 通貨の化kだいを招いた最大の原因は、国営企業のソフトな予算制約にある。企業債務に対する制約はなく、金利の上限は僅か2%だったのである。それ故に、1990年の対工業企業短期融資は、対前年比で28.4%も増えた。しかし、この融資は投資に振り向けられず、過剰人員への賃金支払いに化けた。これがインフレ圧力となり、対外借り入れに依存する体質を温存化した。
 政府による所得政策は、賃金管理と厚生、教育、文化といった社会的便益の計画化に基づいていた。だが、その中心的な役割は賃金決定システムにあった。賃金システムは集権的で、厳密に管理されていた。賃金はほぼ同額で至急された。賃金が差別化されるのは、1980年以降のことである。 最低賃金は最低生活コストを基礎として設定された。1980年代の平均月給は450レク (lek) 程度だと推定されている。但し、農業部門ではそれ以下だった。1990年のそれは442テクである。
 市民革命に直面して初めて、アルバニア政府は従来の賃金政策を見直すようになる。ところが、それはインフレを無視したものだった。政府が、単にゼネストを回避する手段として、賃金を上昇させたに過ぎないのであった。 (『新生アルバニアの混乱と再生』から)
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<中国の農業を中心とした自力更生> 日米欧などの経済先進国に追いつこうとした発展途上国がとった政策に2種類がある。1つはシンガポール、香港、台湾、韓国などと、アセアン諸国のとった自由貿易体制。もう1つは中国、北朝鮮などの自力更生政策。結果的には自由貿易体制が成功するのだが、中国の自力更生は農業中心に進めてきた。 革命の段階から都市労働者による革命ではなく、農村部からの革命だったせいもあるが、中国は農業を重く見た。自由貿易ではなく、鎖国政策を取るなら食糧の自給を確保しないと政権が安定しない。 アルバニアは工業を発展させようとした。それには投下資本が多量に必要になる。しかし、資本の自由化がなされなければ、外資は入って来ない。十分な資本を投下しなければ重工業は発展しない。それならば中国のように農業を中心に人民公社を作り、狭い地域での自給自足から出発すべきであった。 いずれ農業中心の自給自足の経済は発展できなくなるにしても、自力更生をスローガンにするならば中国の人民公社を、あるいはソ連のソフォーズ、コルフォーズを見習うべきであった。そのように考えて中国の事情について書かれたものを引用することにした。
 中国の報道に関しては信頼出来ないことも多い。大躍進時代の統計などは地方政府が、中央の方針に気に入られるように適当に操作した数字を報告していたらしい。中国に関してはこのような曖昧な点もあるが、それでも人民公社は農業中心の自給自足経済を目指したことには間違いないだろうと思って引用することにした。
 中国の人民公社といえば、「農業は大塞に学べ、工業は大慶に学べ」とか言われ、大塞や大慶がよく知られているが、一番初めのモデルとなったのは「「新郷県七里営人民公社」であった。 大慶に関しては華国鋒主席が次ぎのように言っている。
 かならず毛主席の革命路線と、党中央の指示を断固として遂行し、かならず階級闘争をカナメとし、党の基本路線を堅持し、「4人組」の反革命的路線を徹底的にあばき、批判し、かならず 「工業は大慶に学ぶ」 という毛主席の教えに従って大慶型の企業を普及し、修正主義を防ぎ、政治的自覚の高い、 業務にも精通した「鉄人」のような労働者の隊伍を育て、わが国の工業発展をいちだんと速め、わが国の社会主義革命と建設のすばらしい情勢をさらに発展させるために奮闘努力する決意を固めた。(「北京週報」から)
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七里営 もっとも早くできた人民公社 1958年8月6日、中国人民の偉大な指導者毛主席は湖南省の七里営人民公社を視察した。
 人民公社の入口にかかっている「新郷県七里営人民公社」の門標に目をとめ、「人民公社という名はよい」と毛主席はいった。毛主席は人民公社の製粉所、ボール・ベアリング工場、綿の試験田を視察した。 どこにいっても、毛主席は男女の公社員と親しく話をした。
 それから間もない8月29日に、中国共産党中央委員会は農村に人民公社をつくる問題についての決議を発表した。12月、中国共産党第八期中央委員会第六回総会は、人民公社についての若干の問題に関する決議を採択し、 「1つの新しい社会組織が、のぼる朝日のように、アジア東部のひろびろとした地平線上にあらわれた」と指摘した。
食糧の増産について政府はどのような措置をこうじたか 1962年、中国人民は、3年連続のきびしい自然災害と、信義にそむくソ連修正主義が協定を一方的に破棄し、専門家を引き上げたために生じた困難をのりこえて、生産の回復と発展につとめていた。 そのとき、毛主席は「農業を基礎とし、工業を導き手とする」という国民経済発展の総方針を提起した。この総方針によって中国では農業の発展を第1位におくことが保証されたのであった。 また、農業生産の面で「食糧をカナメとして、全面的な発展をはかる」方針を実行に移し、比例をたもちつつ計画的に生産をすすめた。
 そうしたのはなぜか、主な理由はつぎのとおりである。食糧は人民生活の必需品であるばかりか、いかなる事業もそれなしには、経営できない。まして、わが国の社会主義工業建設の資金は工農業による内部蓄積にたよっており、 農産物・副業生産品の販売も自国の農業にたより、工業製品の販売も国内市場にたよっている。したがって、農業の発展によってのみ工業の発展がうながされる。そのほか、自然災害や外国侵略者の不意の襲撃にそなえるためにも、われわれはある程度の食糧の貯えを必要とするからである。
 そのため、政府の各部門は人力、物力、財力、技術など各方面にわたって農業の支援につとめている。
 なかでも工業の農業支援は、主として機械の区応急による農業の装備、化学肥料、農薬などの提供である。解放前の中国には農業機械工業がなかったが、いまではほとんどの省・市・自治区にトラクター工場、小型動力機械工場などがある。 プロレタリア文化大革命いらい、各地方は鋼鉄、化学肥料、炭鉱、セメント、水力発電所など小型の工場・鉱山の経営にのりだした。これは農業支援に大きな役割をはたしている。たとえば、1971年度における地方の小型化学肥料工場の生産量は、全国化学肥料総生産量の半数以上をしめる。
 財政面では、政府は課税軽減の政策をとり、増産した分の食糧には農業税を免じ、自然災害にみまわれた人民公社や生産大隊には免税措置をとっている。そのため、農業収入にたいする農業税のしめる割合は1953年度は12%だったのが1970年度は6%というふうに年々減少している。
 そのほか、政府はまいとし多くの資金を農地水利建設に投じ、国立の銀行も低利の農業貸付金を大量に貸し付けている。
 建国いらい、政府はたびたび農産物・副業生産品の買付価格を引き上げる一方、農業に使用される生産資料の販売価格を引き下げてきた。 また、都市と農村における主な生活の必需品の価格は変動することなく安定を保っている。こうした農業援助を目的とする価格政策により、文化大革命いらい大衆が得た利益だけでも百十億元にもぼるが、なかでももっとも大きな利益を得たのは農民である。
 以上のような措置がこうじられ、全国の農村で大塞に学ぶ運動が繰り広げられたため、わが国における食糧の収穫は1962年いらい連続10年間豊作をおさめた。 (『人民中国』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『新生アルバニアの混乱と再生』[第2版]                   中津孝司 創成社       2004. 2. 1
『北京週報』 1976年12月28日号                        北京週報社     1976.12.28 
『人民中国』 1973年12月号                           人民中国雑誌社   1973.12
( 2006年1月23日 TANAKA1942b )
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(9)自給自足というアンチユートピア
『1984年』を中心に考える
<地産地消というアンチユートピア> 日本では「地産地消」はユートピアのように思われている。「地元で作られる食物を食べていれば、食品の安全性にに関しては何も心配ない」と考える人がいる。 「そうではあるが実際はだれが作ったか分からない食物を食べざるを得ない」と不安がり、「地産地消はなかなか達成されることはないが、一種の理想=ユートピアである」と考える人もいる。 しかし、ここでは「地産地消」はユートピアではなくて、アンチユートピアであると話を進めていくことになる。
 現在の反「地産地消」は誰かが指導してなったのではない。人々が市場で取引をしていくうちに自然にそうなったシステムだ。だからこれを変えるためには強制的な権力が必要になる。日本ではこうした強制的な政治体制=独裁政治に対するアレルギーな少ないが、 西欧では個人の自由を侵す政治体制に対しての危険視を強く持っている。プロレタリア独裁のソ連が誕生したとき、その独裁制に対して怖れを表現したのがジョージ・オーウェルの『1984年』であった。同じように「平等」を目指した社会に対して警告を発したのがオルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界(BRAVE NEW WORLD)』であった。
 アダム・スミスは『国富論』の中でこのように言っている。
 われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身の利益にたいするかれらの関心による。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、かれらの自愛心(セルフ・ラブ)にたいしてであり、われわれがかれらに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてである。
 もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。 だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合も、見えざる手に導かれて、自分では意図しなかった一目的を促進することになる。
 これはアダム・スミスの表現であるが、これは自然な成り行きで、ハイエクの言う「自生的秩序」もこのような考えだ。それに反して、個人の欲望を抑えるような「設計主義的」な政策を実施するには何らかの強制力が必要になる。あるいはマインド・コントロールが必要になる。 宗教団体は自然にマインド・コントロールを行い、洗脳された者だけが宗教団体に入会するから問題はないが、一般社会では、一般市民を洗脳することはできない。そこで独裁政権は権力や秘密警察を多用することになる。時には憎しみの対象を設定し国内の不満をそちらへ向けさせたりもする。現代でも、時には「日本帝国主義」や「米帝」や「靖国神社」が憎しみの対象になることもある。そうして構成員の不満をそちらに向けることによって組織の団結を図ろうとする。
 現代の日本人の感覚からすると敏感すぎるかも知れないが、ある時代、こうした独裁政権に対する敏感な危機感が高まった時期があった。そうした時代の作品である『1984年』と『すばらしい新世界』との一部をここに紹介し、個人の欲望を抑えようとする、あるいは平等を徹底させようとする社会、エンベル・ホジャが目指した社会への警告を感じて頂きましょう。
*               *                *
<1984年> 4月のある晴れた寒い日で、時計は13時を打っていた。ウィンストン・スミスはいやな風を避けようと顎を胸もとに埋めながら、足早に勝利マンションのガラス・ドアから滑り込んで行ったが、さほど素早い動作でもなかったので、一陣の砂ぼこりが共に舞い込むのを防げなかった。
 廊下にはキャベツ料理とすり切れた古マットの臭気が漂っていた。突き当たりの壁には、屋内の展示用としては大きすぎる色刷りのポスターが画鋲で止めてあった。巨大な顔を描いただけで幅は1メートル以上もあった、45,6歳といった顔立ちである。豊かに黒い口髭をたくわえ、いかついうちにも目鼻の整った造りだ。 ウィンストンは階段を目指して歩いて行った。エレベーターに乗ろうと思っても無駄だった。いちばん調子のよい時でさえたまにしか動かなかったし、まして目下のところ、昼間は送電が停止されていたからである。この措置は憎悪週間を準備する節約運動の一環であった。ウィンストンの部屋は7階にあった。 39歳で、そかも右足首の上部に静脈癌性腫瘍ができている彼は、ゆっくりと階段をのぼりながら、途中で何回もひと休みをした。各階の踊り場では、エレベーターに向かい合う窓から大きな顔のポスターがにらみつけていた。見る者の動きに従って視線も動くような感じを与える例の絵柄だ。 「偉大な兄弟があなたを見守っている」絵の真下には、そんな説明がついていた。(偉大な兄弟=ビッグ・ブラザー=Big Brother)(中略)
 つぎの瞬間、油の切れた巨大な機械がきしむような身の毛もよだつような摩擦音が、ホール中央の大きなテレスクリーンから爆発的に飛び出した。歯が浮き、首筋のうしろ毛が逆立つような騒音であった。”憎悪”が始まったのである。
 いつものように人民の敵エマヌエル・ゴールドスタインの顔が画面にあらわれた。あちらこちらの席からしっしっという非難の声が起こった。小柄な薄茶色の髪をした女は恐怖と憎悪の入り交った悲鳴をあげた。 ゴールドスタインは裏切者、背教者であり、かつてその昔(どのくらい昔だか、だれも正確に覚えていなかったが)、彼は党の指導的な人物のひとりであり、それも偉大な兄弟とほとんど同等の地位にあった。 それから反革命活動に参加し、死刑の宣告を受けたが、不思議にも脱出して姿を消したのだった。”2分間憎悪”のプログラムはその日に余って違っていたが、ゴールドスタインが主要人物として登場しない番組は1つもなかった。彼は第1級の反逆者であり、党の純潔をけがした最初の人物であった。 それ以後、党に対して起こったあらゆる犯罪行為、あらゆる反逆行為、サボタージュ、異端、偏向などすべて彼の教えから直接とび出したものであった。彼はまだどこかに生き延びていて陰謀をたくらんでいるのだ。おそらく海の彼方のどこかで、資金を提供してくれる外国人の保護を受けているのであろう。 あるいは──時たま流れる噂によれば、オセアニア国内の隠れ家にさえ潜伏しているかも知れなかった。(中略)
 ”憎悪”はクライマックスに達した。ゴールドスタインの声はいよいよ羊の鳴き声よ変わり、その顔も瞬間的だが羊の顔に変じた。すると羊の顔はユーラシア軍兵士の1つにとけ込み、怖ろしい巨人となって軽機関銃を掃射しながら前進し、いまにも画面から飛び出して来そうに思われたので、前列に坐っていた人たちの中には実際に尻込みする者まで出てきた。 ところがその刹那、1人残らず深い安堵の溜息をついたことに、敵の姿が”偉大な兄弟”の黒い髪と黒い口髭の顔にとけ込んで行ったのである。いかにも力と神秘的な落着きに満ちあふれた顔は、ほとんどスクリーン一杯に広がっていった。”偉大な兄弟”が何を言ったのか誰にも聞き取れなかった。激励の言葉をひと言はふた言述べたに過ぎなかったが、砲火の最中に発せられるような言葉であって、めいめいには聞き取りにくいけれど、声が発せられたというだけで自信を回復させるものであった。 やがて”偉大な兄弟”の顔は再び消え失せ、かわって党の3スローガンが肉太の大文字で躍り出してきた。
  戦争は平和である
     自由は屈従である
      無知は力である。
(中略)
 テレスクリーンからの声が跡切れた。トランペットの澄んだ美しい音がよどんだ空気の中に漂っていった。しわがれ声が続いた。
 「皆さん!臨時ニュースを申し上げます。ただ今マラバル(インドの南西地方)前線から至急報が入電しました。わが軍は南インドで赫々たる勝利を納めたのであります。われわれがここにお伝えする作戦行動によって、戦争終結は目前に迫ったとお知らせする権限を与えられました。この至急報によりますと……」
 その後から悪いニュースが続くぞとウィンストンは思った。やはりユーラシア軍に殲滅的な打撃を与え、途方もない数の戦死者と捕虜が出たという血なまぐさい報道に続いて、来週からはチョコレートの配給が30グラムから20グラムに削減されるだろうという発表があった。(中略)
<『1984年』最後の部分から> 鋭いトランペットの吹奏が大気をつん裂いたのだ。戦況ニュースだった!勝利だ!トランペットの吹奏がニュースの選好すると、それは常に勝利を意味した。いわば電気のようなショックが店内に広がっていった。給仕たちさえ足を止めて耳をそば立てたのだった。
 トランペットの吹奏は物凄い騒音を爆発させた。すでに上ずった声がテレスクリーンからがやがや伝わっていたが、その声は聞こえ出す間もなくテレスクリーン外で涌き起こった大歓声のために掻き消されそうになった。 戦況ニュースは魔法のように街中を駆け巡って行った。テレスクリーンからやっと聞き取れたことからすると、彼は自分の予想した通りに戦況が進展したことを知った。巨大な輸送船団が秘密裏に編成されて、敵の背後から奇襲を掛けたのである。 白い矢印が敵の後方を猛然と横切ったのだった。勝利を告げる言葉が騒音の間から跡切れがちに伝わって来た。「大規模な作戦行動──完全な相互調整によって──敵を大敗させ──捕虜は50万──敵は全面的に士気阻喪──アフリカ全土の支配は──戦争終結の見通しを可能ならしめるに到った── 勝利──人類史上最大の勝利だ──勝利、勝利、勝利!」
 テーブルの下でウィンストンの脚はせわしなく動いていた。椅子の中では身動きもしなかったが、頭の中では懸命に駆け出し、街頭の群集に混って喉が破れるほど絶叫していたのである。 世界を股に掛ける巨人だ!アジア人の大群が寄せては空しく砕け散る巨岩だ!十分前──そうだ、ほんの十分前、前線からの報道が勝利を伝えるか敗北を伝えるかと思いあぐねていた時、自分の心がどんなにどっちつかずの状態にあったかを思い出してみた。 ああ、壊滅したのはユーラシア軍ばかりではなかったのだ!愛情省に連行されて以来、自分の心はがらりと変わったが、しかしこの一瞬間に到るまでは、決定的で不可欠な完治状態の変化はついぞ起こっていなかったのだ。
 テレスクリーンからの声は依然として捕虜や勝利品、殺戮に関する詳報を伝えていたが、テレスクリーン外の騒ぎはすでに幾らか収まっていた。 給仕たちはめいめいの仕事に戻りかけていた。その1人がジンの瓶を持って近付いて来た。楽しそうな夢想にふけっていたウィンストンは、ジンがグラスに満たされて行くのを見向きもしなかった。 彼は頭の中で駆け出してもいなければ、歓呼の声も上げてはいなかった。彼は愛情省に戻っていて、何もかも許された挙句に、その魂は雪のように白くなっていた。彼は公開裁判の被告席に立ち、一切を自供し、見境もなく他人を告発していた。 彼は白タイル張りの廊下を歩いていた。陽差の中を歩いているような気分であり、自分の後ろには1人の武装看守が従っていた。長い間、待ち詫びていた弾丸が、自分の頭蓋骨を貫いて行くところであった。
 彼は巨大な顔をじいっと見上げた。40年間かかって、あの黒い口髭の下に隠された微笑の意味がやっと分かったのだ。ああ、何というみじめで、不必要な誤解であったことか!ああ、愛情豊かな心に背いた、何という頑固、身勝手な離反であったことか!ジンの匂う涙が2滴、鼻筋の両側を伝わって行った。 しかしこれで良かったのだ。何もかもこれで良かったのだ。苦闘は終わりを告げたのである。彼はやっと自分に対して勝利を納めたのだった。彼は”偉大な兄弟”を愛していた。 (『1984年』終わりの部分から)
*               *                *
<すばらしい新世界> わずか34階のずんぐりした灰色のびる。正面玄関の上には、「中央ロンドン人工孵化・条件反射育成所」なる名称。また盾形の中には、世界国家の「共有・均等・安定」という標語。
 1階の巨大な部屋が北を向いていた。ガラス戸の外はすっかり夏だというのに、いや、部屋そのものが熱帯的な暑さだというのに、何か寒々としていて、荒涼たる光線が窓からさし込み、だれか実験衣を着けた人の姿、鳥肌立って蒼ざめた学者先生の姿でも見えそうなものとしきりと探し求めてみても、そこらあたりに見あたるのはただ実験室用のグラスやニッケルやわびしく光る陶磁器類ばかり。 すべてが冬めいたわびしさを競っている。勤務員の上っ張りも真白で、手には蒼ざめた屍いろのゴム手袋を着けていた。光線はまづで凍てついたようで、幽霊さながらに死相をおびていた。ただ顕微鏡の黄色な円筒を反映して、そこだけ光線は何かゆたかな生き生きとした輝きをおびており、作業台のはるか彼方まで、顕微鏡の磨かれた筒に沿ってまるでバターのように生き生きした縞を列ねていた。
 扉をひらきながら所長がいった。「これが受精室です」
  300人の受精係員が、ちょうど「人工孵化・条件反射育成所」所長が部屋に入ってきたときは、みなその器具の上にかがみ込んで、ほとんど息を殺したような沈黙におちいっていた。すっかり夢中になって、われを忘れて、ただひとり唸ったり口笛を吹いたりしていた。 新たにやってきた一団の見習生たち、まだ若々しい紅顔のひよっ子たちは、そわそわと、ちょっとおずおずした様子で所長のあとにつづいた。みなめいめいにノートをたずさえていて、所長先生が何か仰せられるたびに、必死になってそれを走り書きした。 まさに最高権威からのじきじきの御伝授である。これこそまことに得がたい特権だった。中央ロンドンの人工孵化・条件反射育成所所長は、新しい見習生たちにはいつもみずから引率して各部門を案内するのを常としていた。 「ただ単に諸君に全般的な理解をあたえるためなのだよ」と所長はいつも見習生たちに説明するのだった。というのは、彼らは、いやしくもその仕事を賢明に遂行してゆこうとすれば、もちろん何らかの全般的理解はもたなければならぬのだから──ただし、もし社会の善良にして幸福な一員であろうとするならば、全般的理解はできるだけ最小限に止めておくことだ。 それは、だれしも知っているように、専門的知識は徳と幸福を増進するが、全般的知識は知的見地からいって必要やむお得ざる災害なのだから。社会の背骨(バック・ボーン)をなすのは哲人ではなくして、糸鋸師や郵便切手収集家なのである。
 「明日ともなれば」と所長はやさしさの中にもちょっとおどしつけるような調子をこめて、見習生たちに微笑みかけながらつけ加えた、「諸君は真剣な仕事にとりかかってもらわねばならぬ。諸君には概論などをもてあそんでいる暇はないのだ。ただしそれまでのところは……」
 それまでのあいだ、これは1つの特権なのだ。若者たちは気ちがいのように書き込んだ。
 背が高く、ちょっとやせてはいるが姿勢正しい所長は、部屋の中へと進んだ。彼なあごは長く、しゃべっていないときは、その厚くて派手なカーヴを描いた唇が、大きなやや出張った歯をやっとかくしていた。年よりなのか、それとも若いのか。30か、50か、それとも55か。 どうも言いあてにくかった。しかしとにかくそんなことは問題とならなかった。まさにフォード(ヘンリー・フォード、1863-1947。米国の自動車王)紀元632年、この安定の時代には、人はそんなことをたずねようなどどいう気にならないのだ。
西欧駐在総統の言葉 ムスタファ・モンド閣下!敬礼する見習生たちの眼の玉がとび出さんばかりだった。ムスタファ・モンド!西欧駐在総統!世界の10人の総統の1人。10人の1人……しかも総統は所長とならんでベンチに腰を下ろした。ではしばらくここにいらっしゃるつもりなのだ。そうだ。ここにもいらっしゃる、そしてほんとうに自分たちに向かってお話になる…… 最高権威者かたじきじきに、ほかならぬフォード様のお口から直々に。
 2人の褐色の小えび色をした子供たちが茂みから現れて、しばらく大きなびっくりしたような眼で彼らを見つめ、やがて葉蔭での遊戯へともどっていた。
 「諸君はみなおぼえているだろう」と総統はその強い深みのある声で言った。「あの美しもまた霊感に充ちた、わがフォード様のお言葉、『歴史とはデタラメなり』をおそらく忘れはすまい。歴史とはデタラメなり」総統はゆっくりとくり返した。
終わりの部分 「これを殺すのだ、殺すのだ、殺すのだ……」と野蛮人(サヴエジ)は叫びつづけた。
 するとだれかが「ジャカジャカ ドンドン」と歌い出し、たちまちにしてみなその繰り返し(リフレイン)に和して、歌いながら踊り出していた。ジャカジャカ、ドンドン、ぐるぐる、ぐるぐる廻りながら、八分の六拍子でお互いにたたき合った。ジャカジャカ、ドンドン……
 最後のヘリコプターが飛び去ったのは真夜中すぎだった。ソーマのせいで正気を失って、長時間の狂おしい官能の感溺に疲れ果てて、野蛮人(サヴェジ)はヒースの中に寝込んでいた。 目がさめたときはすでに太陽が高く昇っていた。彼はちょっと横になったままで、光に向かってふくろうのように何が何だか分からぬままに目ばたきしたが、やがて突然思い出したのだ──何もかも一切を。
「おお、神様、神様!」彼は手でその眼をおおった。
 その夜ホッグズ・バッグの峯を横切ってぶんぶんおし寄せたヘリコプターの群は、10キロの黒雲となってつづいた。昨夜の拍子をそろえてのどんちゃん騒ぎがあらゆる新聞に載ったからだ。
「野蛮人(サヴェジ)!」と、最初の到着者が機体から下りて叫んだ。
「ミスター・サヴェジ!」 
 何の答えもなかった。灯台の扉は少しばかり開いていた。みな扉をおし開けて、よろい戸を下ろしたうす暗がりの中へと入っていった。部屋の向こう側のアーチ形廊下を通して階上へ通ずる階段の裾が見えた。ちょうどアーチの頂きの下に2本の足がぶら下がっていた。
「ミスター・サヴェジ!」 
 ゆっくり、とてもゆっくり、のろのろした羅針盤の2本の指針のように、その足は右に廻転した。北、北東、東、南東、南、南南西。そこで停止して、また数秒後にはやはり同じようにゆっくりと左の方に向かって逆にまわり出した。南南西、南、東……… (『すばらしい新世界』終わりの部分から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『世界SF全集』『1984年』      ジョージオーウェル 新庄哲夫訳 早川書房 1968.10.20
( 2006年1月30日 TANAKA1942b )
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(10)『1984年』に続く管理社会への警鐘
『われら』『1985年』など
<政治経済体制に対する鋭い感性を> 『1984年』や『すばらしい新世界』は政治宣伝書=プロパガンダではなく、文学書だ。作者は政治家とは違った感覚を持っている。その感覚が大切なのだ。個人の自由を大切に考え、それが侵されようとすると鋭く警告を発する。 そうした鋭い感覚を失うと、それにつけ込んで独裁者が権力取得の機会を窺う。独裁者は自分が独裁者であるとは言わない。誰もが反対できないスローガンを掲げて、「白馬の騎士」であるかのように登場する。
 『1984年』が書かれたのは1949年、冷戦のまっただ中だった。この年、1949年10月1日に毛沢東が天安門前広場で中華人民共和国の成立を宣言している。資本主義国家の中で社会主義国家を理想の国家として「地上の楽園」のように考える人もいた。 そうした時代にジョージ・オーウェルは『1984年』を書き、多くの反響を呼んだ。そして『1984年』に続く作品が書かれた。それは『1984年』が与えた衝撃の大きさを物語ることだった。ここではそうした作品、そして『1984年』と同じような発想から書かれた作品を紹介することにしよう。 いつもと同じ、作品のごく一部です。これで作品の本質がどのようなものか、などは判断できません。これを機会に作品を読んでください。そして作者の感覚・センスを感じ取ってください。「そうしたことのきっかけにでもなれば」と思い、ここに引用します。
*               *                *
<われら>  覚え書 1  要約──ある布告。最も賢明なる線。ポエム。
 今日の国策新聞にのっている記事を、一語一語そのまま書き写しておく。
 「120日後に宇宙船<<インテグラル>>の建設が完成する予定である。最初の<<インテグラル>>が宇宙空間へ高高と飛翔する偉大なる歴史的時間はせまっている。今を去る1,000年前、諸君らの英雄的な祖先は全地球を制服して単一国家の権力下においた。 さらにより光栄ある偉業が諸君の眼前にある。ガラスと電気の、火を吐く<<インテグラ>>によって、宇宙の無限の方程式がすべて積分(インテグレート)されるのである。 他の惑星に澄んでいる未知の生物は、おそらくまだ自由という野蛮な状態にとどまっていようが、諸君は理性の恵み深いくびきに彼らを従わせねばならない。数学的に正確な幸福をわれらがもたらすことを彼らが理解できぬとしたら、われらの義務は彼らを強制的に幸福にすることである。 しかしながら、武力に訴える前に、われらは言葉の威力をためしてみよう。
 恩人の名において、単一国家の全員数成員(ナンバー)に布告する──
 自ら能力ありと自負するものは、すべて、単一国家の美と偉大さに関する論文、ポエム、宣言(マニフェスト)、頌詩(オード)、その他の作品を作成せねばならぬ。
 これは<<インテグラル>>が運搬する最初の積荷となる。
 単一国家万歳!員数成員万歳!恩人万歳!
 これを書いていると頬がほてってくるのを感ずる。そうだ全世界の壮大な方程式を積分(インテグレート)するのだ、野蛮な曲線を伸ばし、真っ直ぐにす、切線・漸近線・直線に近づけるのだ。なぜなら、単一国家の線は直線だからである。偉大で神聖な、正確で賢明な直線は、最も賢明なる線なのである……。
 私はDー503号、<<インテグラル>>の製作担当者であるが、単一国家の一介の数学者にすぎない。数学になれた私のペンは、半譜音(アソナンス)や脚韻の音楽は作れない。私はただ自分に見えること、考えることを書きとめよう。 (まさにわれらなのだ。だからこの<<われら>>というのが私の覚え書の表題になるだろう)。しかしこれはわれらの生活、つまり単一国の数学的に完全なる生活の導関数なのであり、そうだとすれば、私の意志とはかかわりなく、これがおのずから一篇のポエムとなるのではなかろうか?そうなるだろうと、私は信じる、私は知っている。
 このように書いてくると、頬がほてってくるのを感ずる。これはたぶん、新しく宿った──ごく小さな、眼にも見えない──人間の鼓動を自分の内に初めて聞きとった女性に似ているのだろう。これは私であり、それと同時に私ではない。私はこれを長い月日にわたって、自分の体液、自分の血で養い育て、そののち、苦痛と共にわが身から引き離し、単一国の足下に捧げねばならない。
 だが、私は用意ができている、すべての人と同じように(あるいはほとんどすべての人と同じように)私は用意ができている。 (『われら』初めの部分から)
*               *                *
<質疑応答>
 20世紀の悪夢はいつ始まったのですか?
 1945年、多くの人にはそれが終わったと見えたときに始まりました。
 どのようにして始まったのですか?
 あまり長いあいだ続きすぎた戦争をすみやかに終わらせる緊急の必要から開発された原爆が初めて使われたことによってです。ファシズムと国家と自由世界(その多くは全体主義国だったので、全部が全部、自由だったわけではありません)との衝突が終わったために、今世紀における根本的対決を実行する舞台が出来上がりました。 共産国は資本主義国と真っ向から対峙し、両陣営とも核兵器を無制限に有していました。
 その結果どうなったのです。
 その結果、1つの戦争を終結させるために使われたものが今度はまた別の戦争を始めるために使われたのです。
 1950年代の大核戦争の結果はどうなったのですか。
 西欧諸国、南北アメリカ、ソヴィエト帝国の工業中心地に原爆が投下されました。その破壊力はすさまじかったので、世界の支配エリートたちは、毛区戦争が組織社会を破壊することによって自分たちの権力維持能力をも破壊するということに気づいたのです。
 その結果、どうなったのです。
 合意の上で核時代に終止符を打ったのです。それ以後、戦争は第2次大戦中に開発された通常兵器で行われることになり、戦争は依然として行われ、しかも世界的規模で行われるのだということが当然視されました。
 大核戦争が終結したときの各国の配置状況はどんなでしたか。
 大戦の終結時には世界は3つの強国ユニットもしくは3大超国家(スーパーステイツ)に分かれていました。旧来の意味での国家(ネイション)はもはや存在していなかったのです。 オセアニアというのがアメリカ合衆国とラテン・アメリカと元英国連邦を含む帝国につけられた名前でして、その権力の中心は、確実ではありませんが、たぶん北アメリカだったでしょう。但し、このオセアニア超国家の各領土を統合するイデオロギーを開発したのは英国の知識人で、そのイデオロギーは英国社会主義(イングリッシュ・ソシアリズム)または「イングソニック」という名で知られていました。 旧来の地名はあまり意味をもたぬようになり、地名から小さな国家忠誠心や伝統文化が連想されるのは、新しい正統思想に有害だとみなされました。
 たとえば英国はどうなったのですか。
 英国は「滑走路1号」と呼び名を改められました。別に軽蔑した意味ではなく、無色透明な呼び名としてそう名づけられたのです。
 他の2つの超国家は?
 ユーラシアとイースタシアでした。ユーラシアは、ヨーロッパ大陸の全土をソ連に吸収することによって京成され、イースタシアは、中国、日本、東南アジア本土と、それから、満州、蒙古、チベットの1部分とを併合したものでした。 満州と蒙古とチベットは、ユーラシアの領土と国境を接していたので、戦争の進展の具合によってイースタシアにつくかユーラシアの側につくか、忠誠の対象が常に浮動していました。
 戦争は?
 超国家どうしの戦争は1959年に始まり、以後ずっと続いています。
 通常兵器を使っての戦争ですね。
 そのとおりです。制限された兵器と職業軍人からなる部隊が行なう戦争で、以前の近代戦の水準から見ると、軍隊はわりあい小規模です。交戦国がお互いに相手を打ち負かすことはできません。 それができたら、戦争は終わりになってしまうからです。戦争は終わってはならぬものなのです。
 どうして終わってはならぬのですか。
 戦争は平和だからです。というのはつまり、古い時代には平和が1つの生活様式であったように新しい時代には戦争が1つの生活様式になっているという意味です。生活様式でもあり、政治哲学の1面でもあるというわけです。
 ですが、何のための戦争なのなのなのですか。
 何のための戦争ではないかということをまずお話ししましょう。戦わなくてはならない具体的な理由は何もないのです。イデオロギー上の不一致も」ありません。オセアニアもユーラシアもイースタシアも共に、1党独裁制と個人の自由に対する完全な抑圧とを共通の原則と認めているのです。戦争は、相反する世界観ないしは領土拡張とは何の関係もないのです。
 でも、何のための戦争なのですか。
 戦争遂行のおもて向きの理由は、モロッコのタンジール市とコンゴのプラザヴィル市とオーストラリアのダーウィン市と香港の4地点を角(かど)とする大ざっぱに言って4辺形を成す地域を領有するということです。 この地域には、安く入手できる苦力(クーリー)の労働力が無尽蔵にあり、何億人もの男女住民が重労働と低賃金に慣れているのです。この豊富な人的資源の争奪戦は赤道直下のアフリカと中東とインド南部とマレイ諸島内で行われ、紛争地域の外へ飛び火することはあまりありません、それからまた、北極地帯でも多少の戦闘が行われています。そこには貴重な鉱物資源が埋蔵されていると信じられているからです。
 それはおもて向きの理由なのでしょ。本当の目的は何なのです。
 工業機械が生産する製品を使いつくし、工業の生産活動を続けさせると同時に、生活水準を低くおさせるためです。たっぷり食って肉体的に満足している市民、消費する物資の種類が豊富で、しかもそれを買うお金のある市民は、少数独裁政権にとっては好ましくない国民なのです。 たっぷり肉を食べている人は、政治理論という干からびた骨には見向きもしないのですから、物質的に恵まれていない人たちのほうがたやすく支配政党に対する熱狂的な献身を行うものなのです。その上さらに、忠誠心と、かつて愛国心と呼びならわされていたものとは、敵が門前に迫っていると思われるときに最もよく維持されるのです。
 その敵というのは何なのですか。
 よい質問です。先程わたしは恒久戦争と申しましたが、それは、厳密に言えば、常に同じ戦争ではありません。オセアニアは時にはユーラシアと同盟してイースタシアと戦うかと思えば、時にはイースタシアと組んでユーラシアと戦うのです。時には、同盟を結んだイースタシアとユーラシアの双方を相手に戦うこともあります。 この3者間の同盟関係または敵対関係は目まぐるしい速さで変わり、そのために、それに対応する迅速な政策の変更・調整が必要になります。ですが、公式にはこの戦争は常に同じものであると示しておくことが肝要でして、従って、いついかなるときでも敵は同じ相手でなくてはならぬのです。 或特定の時点における敵は永遠の敵であり、過去と未来を通じての敵でなくてはならぬのです。
 まさか──そんなことは不可能でしょうが。
 不可能?支配政党が集団記憶を完全に支配管理していて、記憶を書き変える──と言うより修正する──ことによって、過去を現在に合わせることが簡単にできるのですよ。現在において真実であることはこれまでも真実だったということになるのです。 真実とは現実ということです。その現実は今です、現在なのです。永遠の敵が必要である理由はほかにもまだ1つあるのですが、その点を考えるのは、もっとあとになってからのほうがよいでしょう。
 もっとあとと言うと?
 「イングソニック」の本当の目的がちゃんとお分かりになってから、という意味です。 (アントニイ・バージェス『1985年』初めの部分から)
*               *                *
<ビッグ・ブラザーの死去にかんする医師団の公式報告書> 1985年1月3日、ロンドン──ビッグ・ブラザーの健康状態回復のために召集された国家特別医師団は下記のとおり報告する。 前年の12月2日に、特定の内蔵のある種の機能障害に関する一時的不快がビッグ・ブラザーを襲った。国家特別医師団は、患者の症状改善のために右腕と左脚を一時的に切り離させた。同時に左肝臓を一時的に遮断するための処置がなされた。
 ビッグ・ブラザーの症状はその後安定し、タイムズの社説を読ませて聞くまでになった。だがふたたび悪化したため、社会的職務担当者を加えて総勢250人を数えるにいたった特別医師団は、われらの愛する指導者の左脚も一時的に切断することを決めた。
 この手術およびその後の輸血の効果は明らかに認められ、われらの指導者は若い日の闘争の歌を聞きながらやがて睡りにおちた。
 壊疸を起こした左腕を切断したのち、ビッグ・ブラザーはラジオを通じて3分間訓辞を行い、ユーラシアの野蛮な海賊的戦闘機に対してオセアニア空軍が折しもおさめた勝利を祝う戦勝祝賀行事を、ビッグ・ブラザーの一時的不快をはばかることなく挙行するようオセアニア国民に求めた。 右腕の一時的遮断によって症状は改善された。12月5日には状態に変化はみられなかった。12月6日危篤状態、12月7日危篤状態のまま変化なし、12月8日危篤状態変化なし、12月9日、医師団の全員一致の決定により患者の左腕が切断された。
 12月10日0時32分いっとき不快を訴えたのちビッグ・ブラザーは世を去った。
 この時オセアニア史上1960年以降はじめて採決が行われたことは周知のとおりである。この記録にしたがえば、ビッグ・ブラザーには左手が1本余分にあったことになってしまうが、あるいは実際に2本左手があったのだろうか?── 史学者註(4行目に右腕と左脚を一時的に切り離させた」とあり、さらに数行後に「左脚も一時的に切断……」と記されているのも、あきらかにおかしい。これは公文書の誤読であろうか、それとも史学者の転記ミスであろうか。──訳者付記) (ジェルジ・ダロス『1985年』初めの部分から)
*               *                *
<イヴァーン・デニーソヴィッチの一日> 午前5時、いつものように、起床の鐘が鳴った──本部の建物のそばにつるしてあるレールを、ハンマーでたたくのだ。その断続的なひびきは、指2本の厚さに水の張ったガラス越しに、弱々しく伝わったが、じきに静かになった。寒かったし、看守にしても、いやでも手を振り回していたくはなかったのだ。
 そのひびきはやんだが、窓の向こうは、シューホフ(イヴァーン・デニーソヴィッチ・シューホフ)が用便桶の方へたっていった真夜中と同じく、いぜん闇また闇だった。だが、3つの黄色い常夜燈が、窓に光りを投げていた。2つは立入禁止地帯、1つはラーゲル構内だ。
 どうしたのか、バラックの鍵をあけにもやって来なかったし、当番たちが用便桶を棒でかついで、運び出す音も聞こえなかった。
 シューホフはこれまで寝すごしたことはなく、いつも起床の鐘とともに起きた──作業に出る前の点呼までに、公のものでない自分の時間が、1時間半ばかりあったからだ、ラーゲルの生活を知っている者なら、いつも内職かせぎができるのだ。 古い裏地で指なし手袋の覆いをだれかに縫ってやるとか、金持ちの班員が靴の山のまわりで選り分けるために足ぶみなどしないように、直接そのベッドへ乾いたフェルト長靴を持っていってやるとか、あるいは、とかく用事のある差入保管所へひと走りして、そこで掃除をするとか、何かを持ち運んでやるとか、あるいは、食堂へ出かけて、テーブルから皿を集め、それを山とかかえて食器洗い場へ持ってゆくのも── 食い物にありつけるのだが、これは志願者が多くて、どうにもならない。ただかんじんなことは──皿に残っているものがあると、こらえきれずに、皿をなめるようになるということだ。ところが、シューホフは自分の最初の班長クジューミンの言葉を、強く心にとどめていた。 古参の海千山千のラーゲル男で、1943年ごろすでに12年間もぶちこまれていたのだが、戦線から送りこまれてきた自分の斑の補充の者たちに、いつだったか、草木1つはえてない森の中の空き地で、焚火にあたりながら、こう話してくれたものだ。
 「なあ、みんな、ここじゃ弱肉強食なんだ。だが、人間はここでも生きているんだ。ラーゲルでくたばるやつはといえば、皿をなめるやつとか、医務室を当てにするやつとか、保安部員のところに仲間を密告しにいくやつなんだ」
 保安部員のことについては、もちろん、班長は口ぎたなくののしった。一方、その密告する連中といえば、自分を大切にするんだが、それはもっぱら、他人に皿を流させて──身の安全をはかっているのだ。
 いつもシューホフは、起床の鐘とともに起きたのだが、きょうは起きなかった。きのうからずっと気分が悪かった。寒気ともつかず、からだの痛みともつかなかった。夜中も暖まらなかった。夢うつつの中で、すっかり病気になったかとも、いくらかよくなったかとも思われたりした。どうにも、朝になるのがいやだった。
 だが、朝はちゃんとやってきた。 (『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』初めの部分から)
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<主な参考文献・引用文献>
『われら』                             ザミャーチン 川端香男里訳 岩波文庫 1992. 1.16
『1985年』                       アントニイ・バージェス 中村保男訳 サンリオ 1979. 8. 5
『1985年』 続ジョージ・オーウェル「1984年」      ジェルジ・ダロス 野村美紀子訳 拓殖書房 1984.10.20
『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』          アー・ソルジェニーツィン 稲田定雄訳 角川文庫 1966.12.20 
( 2006年2月6日 TANAKA1942b )
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