(11)閉鎖地域からの優れたレポート
中国革命の現地体験報告
<アルバニアにはなかった優れたレポート> 鎖国時代のアルバニア報道に関しては、中日新聞ヨーロッパ総局、クレア・ドイルの『シグリミの監視』やハリー・ハムの『アルバニアの反逆』があるが、他にはまともな報告はない。 日本人の報告は一面しか見ていない。中国の文革時代に提灯記事を書いていた特派員と同じ姿勢だと感じた。同じように閉鎖的であった中国、抗日戦線時代と文革時代に現地で中国人と一緒に汗を流し取材し、報道した優れたレポートがある。 毛沢東時代の中国、文革時代の中国を批判することは容易い、けれどもその時代に現地で取材し、報道した優れたレポートがあったことも忘れてはならない。そうした思いから中国報道の一部をここで紹介することにした。
 はじめは抗日時代、延安時代の中国共産党のレポート。エドガー・スノー、アグネス・スメドレー、ニム・ウェールズの著作。当時共産党支配地域は国民党によって封鎖されていて、その実情は中国国内でさえ知られていなかった。著者は身の危険をも感じながら取材し、それを発表した。
 次は中国での医療活動にあたったノーマン・ベチューンとJ・S・ホーンを扱った著作。どちらもそれに序文を寄せている人も無視できないので紹介することにした。
 最後はプロレタリア文化大革命時代に中国に留学した若い日本人のレポート。
 これらの著作は当事国、中国の人が書いたものではないが、著者は決して傍観者ではなかった。それだけに読む者の心を揺さぶる。アルバニアに関してはこのような優れたレポートはない。日本人の書いたものも、傍観者が表面をちょっと触ってみた程度の突っ込みの浅いものでしかなかった。 短い引用ではあるけれど、これらが優れたレポートであることは感じて頂けると思いここに引用することにした。
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<赤軍の成長──『中国の赤い星』エドガー・スノー> 毛沢東の説明はようやく「個人の歴史」の範疇をこえ出し、大運動の流れの中に見分けのつかぬほど姿を没しはじめた。この運動の中で、かれは依然として主要な役割を演じていたとはいえ、一個の人物としてのかれをもはや明瞭に見分けることはできなくなった。 今では「私」ではなくて「われわれ」である。もはや毛沢東ではなく赤軍である。もはや単純な生活の経験についての主観的な印象ではなくて、歴史の資料としての集団の人類の運命の変化に関した傍観者による客観的な記録である。
 かれの歴史が終わりに近づいてくると、私にとってはかれ自身について質問することがますます必要になってきた。かれは当時何をしていたか、かれはどんな地位をその時担当していたのだろうか。あれこれの事態にたいするかれの態度はいかなるものであったか。そして私の質問は、生い立ちのこの最後の章に書かれているような事柄について、かれに語らせることになった。
「徐々に赤軍の大衆との協力に改善が行われ、軍紀は強化され、そして組織上の新しい技術が発展しました。いたる所で農民は自発的に革命を援助しはじめました。すでに井崗山のころから赤軍は3つの単純な軍紀規則をその戦士たちに課していました。 それは次の3つです。命令には敏速に服従すること、および地主からはいかなるものも没収しないこと、および地主から没収したすべての財産はただちに直接政府に引渡しその処分をまかせること。 1928年の会議ののち、農民の支持をうけいれるために力強い努力がなされ、上にあげた3つにさらに8つの規則がつけ加えられました。それは次のようなものでした。
  1、人家を離れる時には、すべての戸をもとどおりにすること(注1)
  2,自分の寝た藁莚は巻いてかえすこと
  3,人民にたいして礼儀を厚くし、丁寧にし、できるだけかれらを助けること
  4,借りたものはすべて返却すること
  5,こわしたものはすべて弁償すること
  6,農民とのすべての取引にあたって誠実であること
  7,買ったものにはすべて代金を払うこと
  8,衛生を重んじ、とくに便所を建てる場合には人家から十分の距離を離すこと
 「最後の二つの規則は林彪がつけ加えたものです。この8つの項目はますます成果をあげて実行され、今日でも赤軍兵士の規範であり、かれらはこれを暗記したり復唱したりしています(注2)。 このほかに赤軍に3つの義務が主要な目的として教えられています。第1は、死を賭して敵と闘うこと、2,大衆を武装させること、3,闘争を援助するために醵金すること。
  注1 この規則はその表面にあらわれるほど合点のいかないものではない。中国の家屋の木製の戸は容易に引き離すことができ、しばしば夜にはとりはずされ、木片を横ににて即座の寝床に使われるのである。
 注2 毎日赤軍の軍歌としても歌われている。 (『中国の赤い星』から)
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<周恩来──『目覚めへの旅』エドガー・スノー> 家屋のたち並ぶ路地へくると、襟に赤線が入った色あせた灰色、または青の制服をまとった連中が数名あらわれた。
「よくいらっしゃいました」と1人が中国語で話しかけた。「お茶でも召し上がりませんか」各自の自己紹介で、彼らはみな将校であることが分かった。 <<茶>>とはただの白湯で貧乏な紅軍は<<白茶>>と呼んでいた。本物の茶は、この周辺ではめったにない贅沢品であった。間もなくやせ型の男があらわれた。 軍人らしくかかとを合わせ、赤星のついたあせた帽子に指をつけ敬礼し、濃いまゆげの下に輝く大きな黒い目で私をみつめた。中国人にしては珍しく、髭におおわれたその顔がほころび、白い歯がみえるほど親しみ深い笑みがひろがっていた。
 「ハロー、誰をお尋ねですか。私がここの司令官です」彼は英語で話した。「私は周恩来といいます」
 蒋介石が8万ドルの報酬を約束したのはこの男の首である。当時紅軍東部戦線の司令官であった周は、それから13年後に<<中華人民共和国>>の初代首相となった。彼の司令部に案内されたが、半分洞窟の小さな一室で、腰掛けが1,2脚と、金属性の書類函が床においてあった。 <<炉>>と称するベッドにも用い、またオンドルにもまる粘土で造った長方形の台の上には書類が散らばっていた。
 「貴方が中国に友好的な信頼のおけるジャーナリストで、本当のことを言ってもよい間違いのない人だという報告を受けとっています」と、彼はあまりうまくない英語で話した。「貴方の御覧になるそのままを書いて頂ければよい。私たちが求めるのはそれだけです。調査なさるにあらゆる援助を惜しみません」
 私と周は夜遅くまで話し、ほとんどの質問に対して彼は率直に答えた。片目の紅軍通信部主任李クオヌンと周の参謀長葉剣英が一時同席したが、李は後に北京政府外務部副長官となり、葉は国府の敗北が決定的となった戦闘の紅軍総司令となった男である。
 周恩来は当時紅軍支配下にあった地域の大ざっぱな地図をかき、彼らの軍事および政治計画について説明した。内戦を打ち切り、他の軍隊と<<統一戦線>>を結成して日本に抵抗するのが主要な目標であったのである。
 「では革命はやめてしまうのですか」と私はきいた。
 「いやそうではありません。革命をやめるのではなく、進めるのです。抗日戦争をすることによって革命勢力は政権につくことができるでしょう」では蒋介石はどうなるのか。「抗日戦争の初日が蒋介石失脚のはじまりを意味するでしょう」と彼は予言した。 (『目覚めへの旅』から)
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<西安事件──『中国の歌ごえ』アグネス・スメドレー> 1936年、私はまた病気になって、友だちと相談した結果、藍衣社の暴漢たちに襲われる心配のない唯一の場所をえらびだした。それは、青年元帥張学良に治められている西安であった。(中略)
 12月9日、北平(北京)で始まった抗日学生運動記念日に、何千という西安の学生生徒たちは、国歌を歌い、国民的統一を呼びかけるビラをくばりながら、西安の市街を行進した。彼らは蒋介石総統に、内戦を停止し、綏遠で日本軍と戦っている傳作儀将軍を援助するように請願する予定であった。 ところが警察は、総統から指令をうけた政府主席の命令でデモを攻撃し、その結果、満州軍の指揮官の息子の2少年がケガをした。西安の空気は険悪になった。(中略)
 私は12月11日のあの運命的な夜に西安でおこった事件の詳細を知りつくすことは、ついにできなかった。私が知りえたことは、その晩、夜通し、張学良元帥、楊虎城将軍、その幕僚高級将校たちが会議をしたことと、曉方になって、孫大尉という青年将校に指揮された部隊が、臨潼の寺を包囲したということである。 総統の護衛兵30名と、その指揮官であった蒋介石の甥とは殺された。総統は、寝間着をきたまま、山に逃れ、積み石のかげに隠れているところを、孫大尉に見つけられてしまった。 蒋介石は孫大尉に、「おれはおまえの最高指令だぞ!」と言った。孫大尉が後で話したところによると、彼はそのとき、ていねいに叩頭してから、こう答えた「そして、閣下はわれわれの捕虜でもあります!」
 総統は、岩で足をケガしていたので、孫大尉は彼を背なかにおぶって山を下り、西安にいる張学良元帥と楊虎城将軍にひきわたした。
 その晩、私は眠ることができずに、服をちゃんと着たまま、部屋のなかを歩きまわっていた。私が窓のところに寄って、暁方の最初の光を眺めているとき、、機関銃が連続してはげしく射ちだされる音と、小銃の炸裂音とがきこえてた。「ああ、このことなんだわ!」と私は考えた。「藍衣社がいよいよ暴動をおこしたんだわ!」 しかし、ホテルのなかを人が駆けていく足音がして、やがてしわがれた叫び声と、うわずった声がきこえてきたときには、私の心臓はほとんど鼓動するのをやめてしまった。小銃を射撃する音がどこか近くでしたと思うと、不吉な叫び声やドアを開けたてする音といっしょに、ガラスのわれる音が一段と音高く聞こえてきた。 もの音には、どれにも危険と死のひびきがこもっていた。女の金切り声、男の叫び声、自動車の走り出す爆音。
 誰かが銃床で、私の部屋のドアをたたいた。自分が殺されるのに手を貸してやるのはいやだったので、3発の弾丸がドアの板を割り、ガラスがものすごい音をたてて飛び散ったときに、私は部屋の隅っこに後ずさった。「日本人!」という叫び終えを耳にすると、私はおそろしさでドキドキしながら考えた。 私は、やっとこれだけの中国語を思い出して言った。「私、日本人ではありません。私、アメリカ人です!」 (『中国の歌ごえ』から)
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<起ちあがる中華ソビエト共和国──『中国紅軍は前進する』アグネス・スメドレー> ソビエト地区の村や町の通りを、大きな銅鑼をならしながら人々はふれ歩いた。
 「今晩、日が沈む時刻から、ポンパイ広場で大衆集会があるよ!全員集まれ!(くりかえし)」
 紅軍のラッパ手は、ソビエト地区を見渡せる丘の上に立って、もう全員が大衆集会の召集ラッパだと知っているメロディを吹きならした。
 いたるところの大衆集会には、多数の人々が集まり、男女の講演者が立ち上がってしゃべった。
 「兄弟同士諸君──俺たちは、第1回ソビエト大会を3度も延期しなければならなかった。白軍との戦闘が次ぎから次ぎと続いたて、戦わなければならなかったからだ。白色勢力はわれわれの大会開催の計画を知り、これが、中国の民衆を奴隷の状態にしばりつけている腐敗堕落した制度にたいする挑戦であることを知った。 あらゆるろころで中国人民を呼びさます進軍ラッパになることも知った。彼らは、わが国数百万の勤労大衆が進歩的な、自由な、文化的な生活に向かって進む新しい自由な制度をつくりだすことをみな気づかせるのを恐れているのだ」
 「いまや、国民党、帝国主義者の第三次侵略は、彼らの敗北のうちに終わりをつげた。われわれはあらゆるところで勝利した。白軍は何百という村を焼き払い、20万人以上の民衆を殺した。6千人の紅軍兵士がこの戦闘でたおれた。しかし、われわれは勝利を得たのだ。われわれは荒廃した土地を再建し、第1回ソビエト大会を召集している。 大会は11月7日、瑞金で開催され臨時の中華ソビエト政府を設立するだろう」
 「あらゆる民衆組織、労働組合でも、農民同盟でも、婦人、青年、反帝国主義の連盟であろうとも、また、紅軍や、紅軍内の兵士委員会などのすべての組織は、この大会をめざして準備をととのえるべきだ。諸君は代表を選出し、瑞金に派遣するよう準備しなければならない」
 「大会のための準備というのは、たくさんのことを意味している。われわれは戦闘で勝っただけでなく、内部の経済事情を再建し強化しなければならない。これから数週間のうちに、大会に提出する決議と法律の草案を研究し討議しなければならない。 土地草案、労働法、憲法、経済法、財政法、その他の草案はわれわれのあらゆる新聞や雑誌に印刷されることになっている。あらゆるソビエトや民衆組織ではこの法律の草案を はり出さなければならない。諸君はそれぞれの組織で集会をもち、これらを読み聞かせ、研究討議しなければならない。会議が開かれたとき、諸君の代表はあらゆるソビエト地区内の状態や問題について報告する用意をすべきだ。 決議や法律の内容を完全に理解し、それにたいする修正とか、追加とか自分たちの態度を発表できるように準備しなければならない」
 大会準備がすすむと、中国各地のソビエト地区は、熱狂の波におそわれた。壁新聞やソビエトのあらゆる新聞や雑誌は、大会にニュースやそこで上程される問題でうまった。1週1週とたつにつれて、民衆は集会に集まり研究会を開いた。何千万という男女、青年が討議し、論争し、勉学した。
 大会は、中国人民の生活のなかで、これまで起こったことの最大の出来事になるはずだった。それは、何十万という人々が生命をなげうった、何年間にもわたるおそろしい争いの最後の到達点であった。人々のなすべきことは、1927年以来百万の男女が支配階級に殺されたという事実を学ぶことであった。 国民党や帝国主義支配下の諸都市において、知識分子や労働者の虐殺はおそるべきものがあり、村で農民を殺すことは日常茶飯事だったのだ。さらに何万という人々が、国民党や帝国主義者に捕らえられた。
 第1回ソビエト大会は、ソビエト建設に命を捧げた人々の礎のうえに立ち、中華ソビエト共和国は彼らをしのぶ記念碑となるだろう。 (『中国紅軍は前進する』から)
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<彭徳懐司令──『人民中国の夜明け』ニム・ウェールズ> 中国の何百万の人たちのあいだにおける革命の発生は、今日、世界でもっとも興味ぶかい現象の1つであり、中国の共産主義者たちによってこのカメレオンのような革命に形式と方向があたえられて以来、それは最大の国際的な、社会および政治上の重要性を持つ闘争となった。 この歴史的な瞬間に中国にいたということは、人間解放の最強部隊の1つの前進運動にふれたということである。私は中国に1931年に着いた。ちょうど中華ソビエト共和国が樹立される数週間前であった。この対抗政権がつくられるやいなや、はげしい内戦の火蓋が切られ、それは1936年12月12日の西安事件にいたるまで終わることがなかった戦いであった。
 階級闘争の全期間を通じて、もっとも幻想的な物語がこの中華ソビエトについて語られた。驚嘆すべきソビエト運動の性格について正確な情報を持たないものが、中国を理解できないことは明らかであるが、しかも1936年に、私の夫エドガー・スノーがついに9年間の新封鎖を破るまでは、外部の観察者は包囲されたソビエト領土に入り込むことができなかったのである。 私自身も、かれがそこにいるあいだソビエト地区に入ることを望んで、1936年9月にこの新世界への私の最初の探検遠征を試みた。しかし、この遠征は失敗した。それというもの、新しい掃共作戦が開始され、まもなく西北地方の国民党軍の反乱においてその頂点に達する緊迫した情勢が、急速にクライマックスに近づいていたからである。 西安事件のあいだじゅう、西北は封鎖されていたが、西安の門がふたたび旅行者のために開かれるとただちに、私は第2回目の試みをおこなった。私は、反乱東北軍が、包囲された都市から撤退した直後の1937年4月21日に北京をたち、ジャーナリストがソビエト地区に入り込むのを阻止するように命じられていた西安警察の目を盗んで、4月30日に彭徳懐の赤軍司令部に到着した。 私は、歴史資料を集めたり、毎日のように傑出した共産党指導者たちのだれかと話し合ったりして、4カ月を赤い根拠地、延安ですごした。 洪水や戦争に足どめされて、私は10月中旬まで北京のわが家に帰らなかったので、全遠征はおよそ半年にわたったのであった。
 それは私にとっては発見の旅であった。──世界でもっとも古い、そしてもっとも変化のなかった文明の心臓に新しい世界を創造しつつある、あたらしい心とあたらしい人民の。(中略)
 私を雲陽にある彭徳懐総司令部につれていった車は、ダッジの新型大型乗用車で、プロレタリアの前線にこんな豪華な車があるのを見て驚異を感じた。
 「あなたがたは、こんなブルジョア車をどこで手に入れたのですか?」迎えにきた1人の赤軍政治局員に私はきいた。
 「張学良が他の2台といっしょに彭徳懐にくれたのですよ」という答えだった。「われわれには、いま、トラックが約20台ほどあります」
 「私は車ごと来ましたよ」と赤星帽をかぶった運転手が歯をむいて笑いながら言った。「私は張学良の運転手の1人でした。そして女房もいっしょに来ました。双十二(西安事件)のあとで、東北人がたくさん、赤軍に加入して来ましたよ」(中略)
 やがて少女は私を大きな祠堂に連れて行ったが、そこには前線宣伝部主任の陸定一が、私と話しをしようと待っていた。かれはたいそう上手に英語を話し、赤軍に来てくれたことを心から歓迎してくれた。かれはすでに西安における私の事件を知っていた──共産党のラジオ通信はじつに驚くべきものがあった。 かれは宣伝部長として、「新聞関係」の責任者で、夫のスノウが赤軍にいたとき、あちこち案内をしてくれた人であった。かれは夫スノウの著書がいつ発刊されるかを知りたがって、出版されたらぜひ1冊寄贈するよう約束してくれといった。(中略)
 午後になって、有名な彭徳懐司令が正式に私を訪問してくれた。かれは握手しながらからかうように私をながめ、無駄話で時間を費やさなかった。いっさいの歓迎の言葉は部下にまかせ、そのやりとりが終わるのを待って、自分の話を始めようとしていた。 かれのこの無愛想な態度にもかかわらず、あるいはそのためにかえって、この赤軍中の戦闘的な湖南人のナンバー・ワンを、私は共産主義者のなかでももっとも興味ある魅力ある人物だと思った。
 夕食をともにしたあとで、彭徳懐はきたるべき抗日戦争の戦術と戦略について語った。彭司令はそのときすでに、きたるべき戦争の詳細にわたる計画を胸中に描いていたのだった。
 彭徳懐の地位は、ソビエト区の会議では、毛沢東および朱徳につぐものであった。毛は後方にあって指令する神秘的な「天才」と認められている一方、長老格の朱徳はすでに伝説中の人物となっている今日では、彭徳懐は軍隊生活に最も接近していて、常に野戦司令として前線に活躍し、あるいは第1方面軍を指揮したり、あるいは赤軍総司令朱徳を代理したりしていた。 彭は元国民党軍隊の司令であったが、1928年7月に反乱を起こして、湖南の平江を占領し、部下もろとも赤軍に加入したのである。1930年に湖南の首府、長沙を攻略して以来、かれの名は一躍有名になった。 (『人民中国の夜明け』から)
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<新中国はベチューン博士を決して忘却しない──『ノーマン・ベチューンの偉大なる生涯』宋慶齢の序> 私たちの世界は、過去の世界に比べれば、非常に複雑になっています。高度に発達したコミュニケーションのために、地球や人間社会のどんなところに起きた事件も、相互に密接に関連しています。孤立した災害というものはありえません。全体の進歩に役立たないような進歩もありえません。
 この状況は人間の精神にも反映しています。人間精神の内容もまた、その広がりにおいて、複雑さにおいて、世界的なものになりました。自己の人民と国家の福祉を求める人にとって、自己の立場を向こう三軒両隣りとの関係だけで考えるのは充分ではありません。さまざまな世界的潮流が私たち一人ひとりを取りまいていますので、私たちが自分たちの未来になんらかの影響を与えるとすれば、それはこの潮流に乗り入り、それに貢献することによってなされるのです。 今日、人間精神の前におかれている最高の任務は、退化と死の力を理解し、それに反抗し、すべての人間のより充実した生活のために、現世界が私たちに提供している可能性、過去の世界では提供されたことのない、この可能性を強化し現実化することです。
 いかなる時代においても、英雄とはそれぞれの時代がすべての人に投げかけている課題を、並なみならぬ献身、決意、勇気、熟練をもってなし遂げる人のことです。今日、これらの課題は世界的なものになっています。ですから近代の英雄は──彼が自国で活動しようと、外国で活動しようと──歴史的回顧をまたずとも、すでに現時点において世界的英雄なのです。
 ノーマン・ベチューンはこのような英雄でした。彼は3つの国々で生活し、活動し、闘いました。故国カナダで、ナチズムとファシズムの暗黒政治に対する、最初の壮大な人民の抵抗に加わって闘うためにすべての国から先見の明をもつ人が集まったスペインで、彼はまた中国では、日本の軍事ファシストがすでに征服したものとしてはかない夢を託した地域で、ゲリラ軍が民族的自由と民主主義の新基地を確保し建設するのを助け、やがて全中国を解放することになる強力な人民軍を私たちが鍛錬するのに力を借しました。 より広い意味において、かれは民族および人民の抑圧に対して闘うすべての人びとに所属しています。
 ノーマン・ベチューンは医師であり、その職業によって、その範囲内で、また自分のもっとも得意とする武器を用いて闘いました。彼はかれの科学の分野における専門家であり、先駆者でした──自分の武器を常に鋭く磨きあげていたのです。反ファシズムと反帝国主義闘争の前衛のために、彼はその偉大な技能を、意識的に、断固として捧げたのです。 彼にとってファシズムは、人類に対するこのうえもない害悪を宿す病気であり、何千万人の人間の心身を破壊する疫病であり、また人間の価値を否定することによって人間の健康、活力、生長を扱うようにまで生長したもろもろの科学を否定しさるものでした。
 ノーマン・ベチューンが日本軍の砲火のもとで中国学生に教えた技術の価値は、その使用目的によって決定されています。ドイツと日本はともに技術の高度に発達した国ですが、人類進歩の敵によって指導されたために、その科学と技能はただ人類に不幸をもたらしただけでした。 人民のための闘士は最高度の技術的熟練を習得する義務をもっています。なぜならかれらの手中においてのみ、技術は真に人類に役立つからです。
 ノーマン・ベチューン博士は戦場に血液銀行をもたらした最初の医者でした。彼の輸血作業は、スペイン共和国のために闘う何百人もの生命を救いました。 中国で彼は「医師諸君!負傷兵のもとへ!彼らの来診を待ってはならない」というスローガンを打ちだし、それを実行しました。スペインとは全面的に異なり、そかもそこよりも遙かに後れた環境の中で、彼はゲリラ医療隊を組織し、何万人かの裁量の、もっとも勇敢なものたちの生命をそれによって救ったのでした。 彼の計画と実践は医学上の造詣と経験にもとづくばかりではなく、軍事、政治の研究と人民戦争の前線で得た経験に支えられていました。スペインおよび中国でのノーマン・ベチューンは、戦場における医学の前衛でした。
 彼はこの闘争の条件、戦略、技術および地勢を完全に掌握していました。家庭およびその将来のために、他の自由人と肩をならべて戦う自由人としての医療従事者から何を期待できるかを彼は知っていました。 医師、看護人、看護助手──彼が訓練したこれらの人たちは、自分たちを単なる技術的な補助人員としてではなく、戦闘部門にいる人たちと同様に、責任と重要性をもつ任務を帯びた、第一線の兵士と見なすことを学びました。
 その課題を深く理解したうえで、どんな医師にも処理できないような条件のもとで、ベチューン博士はこれらの仕事を完遂したのでした。いっしょに働く人たちや、その言葉についてはほとんど予備知識をもたずに、またその燃えるような確信と鉄の意志を別にすれば、結核で痛めつけられた身体には力が残っていなかったのに、彼は中国でももっとも未開な地域にある山中の村落で、これらの仕事をなし遂げたのでした。
 世界に対する広い理解は彼の力の源泉でもあり、また同じ位に心を痛めつけるような環境をものともせずに活動したダミアン神父とかラブラドールの医師グレンフェルなどの医学上の英雄の仕事に比べて、ベチューン博士の仕事はそれら以上に普遍的な意義があったのです。
 ベチューン博士を殺したのは何でしょうか?ベチューン博士はファシズムと反動に反対する闘争に、その情熱、技能、力量を傾けつくし、そのなかで倒れたのです。かれが活動していた地方は日本軍によって封鎖されていただけではありません。 それは前々から人民戦争を闘うよりはむしろ勝利を危うくしたほうがよいと心掛けていた蒋介石反動政府によっても封鎖されていました。ベチューンが味方した兵士たちは武器弾薬のみならず、負傷兵を治療する医薬品においてすら全くお話にならない欠乏をしのんでいました。負傷兵は現代的な薬剤を欠いていたために、感染によって死んでいきました。
 ベチューンは敗血病で死亡しました。これは、ゴム手袋なしで手術をしたり、治療用のスルファ剤がなかった結果でした。
 ベチューン博士が創設した国際和平病院は現在新しい状況のものに活動しています。中国はもはや自由なのです。しかし、ベチューンの死後、かれが指令した後継者、スペインで彼と共に働いたことのあるキッシュ博士は蒋介石の封鎖のために、その職務につくことができませんでした。 インド医療隊のコトニス博士がベチューン博士の病院のうちの1つの管理を引受けて、その任務に精力的に遂行しましたが、やがてその職に殉じました。またもや彼に施すべき薬品が手許になかったからです。
 ベチューン博士とコトニス博士は、もし封鎖がなかったならば、今日まで生き残り、全世界の自由な人民のために闘っているであろう多くの犠牲者たちの中の2人です。
 これまでにこの現代の英雄の生涯を知ることのできた人たちよりも、はるかに多くの人びとに、ノーマン・ベチューン博士の生涯を紹介することは私にとってこのうえない喜びです。 博士は自由のための闘争におけるすべての人民の利害の連帯を見事に象徴しているのです。彼の生と死と遺産は、私にとってとりわけ近しいものでした。民族解放の人民戦争において、彼が成し遂げた偉大な業績のためばかりでなく、私が議長を勤めている中国福祉連盟での私自身の活動のためにもそうなのです。 連盟はベチューン和平病院および彼の業績と記憶とを引き継いでいるベチューン医学学校組織網の維持と確保を方針としています。
 新中国はベチューン博士を決して忘却しないでしょう。彼は私たちが自由になるのを助けた人びとのなかの1人でした。かれの業績と記憶は永久に私たちとともにあります。 (『医師ノーマン・ベチューンの偉大なる生涯』から宋慶齢の序)
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<原著者の日本語版への序文──『はだしの医者とともに』J・S・ホーン> 中華人民共和国において、私が人びととともに働き、ともに暮らした15年間の一部を略述した本書が日本語に翻訳されることは、喜びにたえない。日本人民と中国人民とは、民族的にも血縁関係にある。両国人民とも、人類の芸術科学の宝庫を豊富にする役割を果たした。勤勉で有能な両国人民は、幾世紀もの間、隣人同士の平和的な関係にあり、文化的歴史的伝統を互いに交流させてきた。
 ところが20世紀前半に、日本の支配者たちは中国に対して、恐るべき侵略戦争を開始し、言語に絶する苦しみを中国人民に与えた。今日でも、この残虐な侵略行為は、幾十万の中国人民の肉体および精神に傷跡をとどめている。
 しかし、禍は転じて福となりうるものである。
 侵略者を撃退する闘争を行うなかから、中国人民は生まれ変わったのであった。彼らは力を増し、団結はゆるぎないものとなった。労農人民の支持を得、人民に依拠した、中国共産党とその指導下にある人民解放軍は、天才的指導者、毛沢東の領導のもとに、中国に勝利をもたらした。
 中国人民のたたかいの目標は、ひとり侵略者の放遂のみにとどまらず、中国国内の寄生的搾取階級の根絶にもおよび、新たな社会主義共和国設立から22年を経るうちに、中国人民は、毛主席の言葉どおり、まさしく自立したのであった。多大なエネルギーと能力を駆使し、中国人民は、旧社会の苦悩、貧困、後進性を克服し、社会主義体制をうち立てた。このはずみのついた進歩を恒常的なものとする措置は、とりわけ、文化大革命の間につぎつぎとうち固められた。
 この道は平らな道ではなかった。
 中国の内外の敵は、陰に陽に、あらゆる方策を講じ、中国人民の団結をくつがえし、中国を屈服させようと試みた。
 彼らの画策は無に帰した。 
 弱体で、不統一で、病人の中国が、世界中の侵略国家から、競ってついばまれた時代は、永久に去ったのである。
 今日中国は、活気にあふれた強力な国家となり、経済力も増し、世界情勢におよぼす影響力も上昇の一途をたどっている。
 しかし、中国の政治家がくり返し強調しているように、また、解放後の中国の歴史とそれを主導している思想からも明らかなように、他の国々を支配したり、圧迫したりする超大国にはならないであろう。
 近い国も遠い国も、大国も小国も、どのような国も中国を恐れる必要はない。中国は、過去に中国を無視していた国々も含め、あらゆる国と友好関係を結ぼうとしている。 あらゆる階層の中国人民との接触を通じて、私が感を深くしたのは、中国人民は、どの国の人民にも尊敬の念を抱いており、一般人民とその政府との間に明確な一線を画しているということであった。
 しかし、中国が友好を求めているとはいえ、自国の内政問題に干渉したり、威嚇政策をふりかざしてくる国を許すことはないであろう。このような国々は、やがてこういった行き方の不毛性と危険性とを感知するであろう。
 私が医師であるため、医療の領域での体験に本書の大部分が費やされている。しかし、中国の全体像をその中に反映させる努力も忘れなかったつもりである。 したがって、医療関係者のみならず一般に人びとにも読んで頂けると思う。医療はあらゆる人にとって関心事である。人はみな健康でありたいと願っており、医学的な忠告をまったく必要としない人はいない。 そのうえ、中国の医療労働者の一般の労農人民との連帯は、他のどの国の医療労働者と比べても、はるかに緊密である。炭鉱労働者と医師との間の、財政的社会的格差は小さく、それも解消されつつある。
 本書に価値がるとすれば、それらはすべて、私が目にし参加する幸運に浴した諸々の進歩が、人びとをふるい立たせずにはおかないことによるものである。また、本書の多くの欠陥は、どれも私自身に責任がある。
 本書が、現代の中国社会を読者が理解するための一助となり、日本人民の中国人民に対する友誼を促進することになれば、これに勝る喜びはない。 また、正常な外交関係、互恵、相互の尊敬に基づいた日中間の友好政策実現に努力することが、日本の国益にかなっていると先進的な日本人民に何らかの力となることを、熱烈に期待している。
   1972年1月                 ロンドンにて  ジョシュア・S・ホーン
(『はだしの医者とともに』から「原著者の日本語版への序文」)
<感動的なこの1冊──『はだしの医者とともに』エドガー・スノーの序文> ジョシュア・ホーン医師は中国において15年間を外科医、教師、そしてまた農村医療労働者としてすごし、その間の回想を、きわめて内容ゆたかで感動的な1冊の著書にまとめた。
 ゆたかな奉仕精神の持ち主である著者は、内外両面における一大革命のよって生まれ変わった中国人民に捧げる思慮ある賛辞とは対照的に、自分自身を見つめる目はいつも謙虚さと率直さとに貫かれていることが、この著作を通じてうかがえる。
 彼自身、貧乏な少年時代を送り、イギリスにおいて苦学して医学を修めた。学生時代は成績優秀で、卒業と同時にケンブリッジの講師となった。教授としての地位が約束されていたにもかかわらず、彼は医療活動を通じて貧しい人びとの解放になんらか役立つことを望み、その地位を捨てたのである。 彼は政治的な確信をもつヒューマニストであり、職業的な行為を通じて活動できる場を求めていた。イギリス陸軍の軍医であった第2次大戦終了後、バーミンガム病院の優秀な外傷専門外科医となった。ついで1954年、彼は中国に働く場を求めて、家族と共にイギリスを離れ、古い歴史を持ち、それゆえにこそ革命後の驚くべき変革をとげつつある社会に住みついたのである。(中略)
 ホーン医師は疑いもなく毛沢東思想の威力を信ずるものであるが、彼は毛沢東思想によって奇跡が起こったなどという主張をしているわけではない。彼の著作は、批判の書ではないが、彼は仕事上での種々の困難な条件、周囲の物質的貧困について、率直に述べている。
 「しかし私の経験によれば、ほとんどの中国人は、自分たちを貧しいとは思っていない。……中国人民は私が出合ったいかなる国の人びとよりも、豊かな文化生活を営んでおり、より理路整然とした思想をもっており、有意義な余暇をすごし、自分たちがなにを目指しているか、そしてそれを実現するにはなにをなすべきかをより明確に理解している。 それゆえに、彼らはゆたかであり、貧しくはない。」と記している。明らかに、ホーン医師は中国に行って物質的なものを得たわけではないが、彼自身はっきりと感じているように、中国における彼の経験の成果は「ゆたかであり、けっして貧しくはなかった。」のである。
(『はだしの医者とともに』からエドガー・スノーの序文)
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<百年来の自然災害──『青春の北京』西園寺一晃> 1958年の大躍進と人民公社化運動の興奮した気分が漂っている59年、中国は百年来といわれる大自然災害に見舞われた。
 その年、北京では雨らしい雨はほとんど降らず、すべての水分が一度に吸い取られてしまったような大旱魃に襲われた。北京以外でも全国的に、あるいは旱魃、あるいは水害、あるいは虫害、あるいは寒波、雹(ひょう)害というような被害を受けた。大自然はその戦力を総動員して弱冠10歳の新生中国と誕生したばかりの人民公社に襲いかかった。
 ふだんは満々と水をたたえている北京郊外の十三陵ダムはそのゴツゴツした水底を人目にさらした。人民公社の灌漑用地はほとんど干上がり、乾ききった畑面は無数の亀裂を生じた。必死に大地にしがみつく農作物は生気を失い、濃緑から黄緑に、そして黄土色に変色し、ついにはひからびて死んでいった。
 当時、各新聞は詳細に各地の状況を報道し、全国人民が一致団結し、この困難と闘うよう呼びかけた。新聞報道で知るだけでも、災害の規模はあまりにも大きかった。被害地区はほとんど中国全土といってよかったし、大災害を受けた耕地は3分の2とも4分の3とも言われた。 また、災害の長期性という点でも稀にみるもので、半年が1年になり、2年になり、そしてまた年が明けても天候は一向に中国人民に味方しなかった。さらに災害の多様性から見ても前述のように旱魃、水害から、虫害、雹害にいたるまで、あらゆるものが重なり、それが連続的に襲ってきた。
 町にも、校内にも重苦しい空気が流れだした。たしかに<危機>と言ってよかった。6億人民(当時はそう言っていた)の住む大国、それもまだ農業国の域を脱していない中国にとって、長期にわたり農業作物の3分の2以上が破滅的な打撃を受けるということは正に危機だった。
 ぼくは自然の怖ろしさをこれほど目のあたりに見たことはない。ふだんでも塵の多い所だが、この時はカラカラに乾いた砂塵が特にひどかった。道も、家の屋根もやけに黄色かった。森さえ黄色く見えた。ぼくは黄色い町を見ながら無気味な重圧を感じた。何かとてつもない大きな禍いが迫ってくるような焦りと苛立たしさにさいなまれた。
 困難は実生活の中にも容赦なく入りこんできた。食糧事情の悪化、綿製品の欠乏が目立った。いつもは山積みされた白菜、大根、ネギ、そのほかぼくなど見たこともないような珍しい野菜で埋まってしまう野菜市場は、入荷不足から段々小さくなっていったし、牛や豚の肉塊が山のように積まれてあって、 いつでも好きな所を青龍刀のような大包丁でバサッ、バサッと切ってくれる肉屋さんも、3日のうち1日は店を閉めるようになった。魚屋も、他の食料品店も同じだった。この模様と反比例するように、食品店前に並ぶ人たちの列は長くなった。
プロ文革と抗災闘争 抗災闘争は文字通り6億人民が心をあわせて行った。少しでも食料事情をよくさせようと、木の葉を原料に人造肉を造る試みもされた。原料の木の葉を採りにゆく、長い竹ザオを持った学生たちの列がよく見受けられた。雑草の中でも食用になるものは野菜と混ぜて食べた。 たしかに食べるものは以前よりずっと粗末になった。しかし人びとの心は決して貧しくなかった。
 これは後に聞いた話だが、このような苦しい最中でも、敵の不意討的な侵略や不慮の事態に備えて、数年分の食料は貯蔵庫に積まれてあったと言う。このことは多くの労働者・農民は知っていたと言う。 そして自ら守っていたと言うのだ。ぼくは唖然としてしまった。このことを証明するかのように大災害が過ぎ去った後、時どき非常に古い米が配給された。これはきっと困難の時期、じっと我慢して貯蔵庫に眠っていたにちがいない。もっとも苦しかった時中国人民は巌に宣言していた。
「われわれはいつでも侵略してきた敵を迎え撃つ用意ができている」
 ぼくはこの時中国の真の底力を知った。この時以来ぼくには中国人民の「言ったことはかならず実行する」という心が実感として理解出来た。
 しかし、これも後で知ったことだが、プロレタリア文化大革命の中で暴かれた数々の事実もあったのだ。それは修正主義に冒され、革命を忘れ、人民大衆から離れてしまった一部の指導幹部たちが困難に耐えられなくなり、勝手に食糧貯蔵庫を開け、自分と自分の仲間の分をこっそり持ち出していたのだ。 党と政府の中枢部にさえそのような者がいたという。証拠も挙がった、証人も出た。白状した人民公社の幹部もいた。6億人民が一致団結して、苦しい抗災闘争をしているというのに、大衆は自ら配給量を減らし、木の葉まで食べて頑張っているというのに、自分たちは<権力>を利用し、不正を行い、人民大衆の困難を横目で見ながら山海の珍味を食べていたとは。 職権を悪用しての汚職が中国でも存在していたのだ。ぼくは今更ながら権力というものの測り知れない巨大な力を感じた。文化大革命の中で権力をめぐって革命造反派と修正主義実権派が死闘をくりかえしたのは当然のことなのだ。 もし文化大革命が起こらず、党と政府と軍のすべての権力を修正主義者が握ってしまったとしたらどうなっていただろうか。きっと中国もソ連と同じ道をたどったであろう。そうなればベトナム人民支援のデモに対する騎馬警官による弾圧も、失業も、投機分子、闇ドル買い、売春婦の氾濫もモスクワだけでなく北京でも当然起こっただろう。 チェコ事件のアジア版もおそらく中国によって引き起こされただろう。考えるだけでも怖ろしいことが当然起こるのだ。そしてその要素は人民大衆の根強い連帯とかけ離れたところに少しずつ生まれつつあったのだ。 これらを考える時その毒草を徹底的につみ取った文化大革命の意味がよくわかる。
 抗災闘争の模様はぼくにとってあまりにも刺激的であり、衝撃と驚異の連続だった。ぼくなどはとてもおこがましくて中国の人たちと共に抗災闘争を行ったなどと言えない。 ただオロオロしながら近くでそれを見ていたにすぎない。しかしその光景はブルジョワ社会からやって来たひ弱で無知なぼくに社会主義中国を赤裸々な形で見つめさせるに充分であった。 そしてぼくがその中で感じたことは自分には到底出来ない、今のままの自分では中国の人たちと同じようには絶対出来ない、それが出来るには、本当に中国の人と一緒にやるためには今の自分を変えるしかないということだった。 そして学友たちの姿を見ながら自分を変えねばならない、少しずつでも学友たちに近づかなければならないと痛感したのだった。 (『青春の北京』から)
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<バレエと文革と青春──『ぼくの北京留学』林道紀> 1965年(昭和40年)11月1日、ぼくは北京芭蕾(バレエ)舞踏学校に入学するために北京に到着した。いらい3年11カ月12日。1969年9月12日に北京をはなれて帰国の途についた。 いま思いかえしてみると、「なんだ、4年そこそこだったのか」と、もう一度、数えなおしてみる。それほど”ながい”年月だったのである。なにしろ、ぼくにとって、北京は生まれてはじめての土地であり、見るものきくもの学ぶもの、すべてが異質のものだった。(中略)
 ぼくがバレエを習ったのは、12歳からである。両親は、ゆくゆくはモスクワのボリショイ劇場付属バレエ学校に留学させるつもりでいた。ぼくもそのつもりでロシア語を勉強していたのだが、それが突然、北京芭蕾(バレエ)舞踏学校へ行くことになったのは、次の理由からである。
 その1つは、たびたびソ連に行ったことのある祖父がこういったのである。
「こんな子どもをモスクワへやったら非行少年になることまちがいない」
 この意見に父が同意した。もう1つは、政治問題である。フルシチョフいらいのソ連の政治から、祖父も父もソ連の芸術をみる目が変わってきた。
「ありゃ修正主義なんてものじゃないよ。ソ連のバレエは、もともとツァールの宮廷から生まれたものを、いくらか手直ししているにすぎないのだ。修正主義以前だよ」
 そういって「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」などに、あいかわらずしがみついているソ連のバレエを手ひどく批判していたし、ソ連の人びととのつきあいも、だんだん冷たくなってきていた。(中略)
 父は1960年、東京・世田谷に「チャイコフスキー記念・東京バレエ学校」というのを設立し、経営していた。一時は生徒数250人を数え、女優の栗原小巻さんも第1回目の卒業生である。 先生には、ボリショイから来たワルラーモフ氏、メッセル女史などがいた。また父の制作により、アイヌ民話を主題にした日本のグランド・バレエ「まりも」を在校生で上演し、文部大臣賞なども受賞した。
 ぼくがバレエを習うようになったのは、ソ連の教師が「生徒には女性は多いのだが、男の子どもがいなくてはこまる。息子さんに習わせたらどうだ」
 という、ごく単純なことからだった。最初はイヤでイヤで、逃げだしてばかりいた。やっと腰を入れて習うつもりになったのは、2年ほどたってからである。(中略)
学校にも文革の波が
{6月13日 文化大革命} 
 パパ、ママへ。
 学校はたいへんなことになった。レッスンは先週からストップ。文化大革命の学習会と「大字報」書きで、授業はまったくできなくなってしまった。 スゴイ階級闘争がはじまったんだ。労働者や農民や兵士が立ち上がって、「防衛共産党毛主席」の大闘争が日に日にたかまってきた、と新聞やラジオが伝えている。
 学校のなかでも闘争が行われている。生徒による学校当局と教師への批判もはじまって、そのことを書いた「大字報」が張りだされる。先生と生徒の集会がつづいている。 その集会でどんなことが討論されているのか教えてくてない。きいても、だれも話してくれない。ぼくと馬継安の2人は、外国人だから中国の問題には関係ない、と集会には参加させてもらえないんだ。 それどころか先週なかばからは、学校じゅうに張られた大字報も見てはいけないというのだ。
 仕方がないから、ぼくと馬継安の2人きりでレッスンをつづけている。馬継安が、腰が痛いから休むというときは、ぼくは1人でやっている。
 きょうは日曜日、1人きりのレッスンもおわり、宿舎に帰って馬継安と勉強したり、陶然亭公園のプールへ行ったりした。まるっきり仲間はずれにされてしまった。いくら外国人だって、事情くらいよく教えてこれたっていいと思う。
 北京バレエ団でも、闘争が激しくなったので松山バレエ団の人たちは宿舎から別のところに移された、といってました。困っているんじゃないかしら。ことばもわからないだろうし、北京のこともよく知らないだろう。会いにいってみようかと思っています。
 今夜は、上海バレエ学校の「白毛女」の北京での楽日(最後の日)なんで、これから馬継安と2人ででかけます。再見。
芸術活動は階級闘争
{1月10日 芸術家の進路} 
 ぼくは、いつものように、からだづくりと語文、読書。ピアノのかわりにアコーディオンを弾いて音楽の勉強をしている。
 学校の空気は非常に緊張している。資産階級反動路線にたいする批判──劉少奇、ケ小平らの反革命路線との闘争の一応の総括のための学習が、熱心につづいている。これは、去年からつづいていて、ぼくもずっと参加していいる。
 学習の内容はね、去年の11月28日の大集会での周恩来首相、陳伯達・江青両同志の文学・芸術界に関する演説の研究と討論だ。この学習への参加は、留学2年目のぼくにとって画期的なことになりそうだ。というのは、ぼく自身の1年間の頭脳の整理でもあるからだ。
 ぼくがいままでハッキリと理解できなかったいろんな問題に、3人の演説は明快に回答を与えてくれているのがうれしい。
 学校内の闘争が激しくなって、ぼくたち外国人2人が途方にくれていたとき工作隊がやってきた。そのおかげで闘争はおさまり、そのうえ、ぼくたちは特別な待遇をうけて、すっかりいい気持ちになって勉強していると、こんどは突然、党命令で工作隊が引き揚げた。 闘争は以前よりも激しくなった。そのあたりの事情など、きいてみるとナルホドと思ったけれども、やっぱりなにか胸につかえるものがあった。ほんとうに工作隊が反動路線につながっていたのかなあって。
 江青女史は次のようにいっているんだね。
 「プロレタリア文化大革命では、工作隊を派遣するという形態は誤りであり、わけても工作隊の工作内容は誤っていました。彼らは闘争の矛先を資本主義の道を歩む党内の一握りの実権派および反動的な学術権威者に向けようとせず、革命的な学生に向けたのです。
  闘争の矛先をどこに向けるか──このことは、原則的な是非の問題です。これはマルクス・レーニン主義、毛沢東思想の原則的な問題です。われわれの毛沢東は、すでに今年(1966年)の6月、大急ぎで工作組を派遣する必要はないといわれました。しかし、ある同志は、毛主席の指示を仰がずに、大急ぎで工作組を派遣しました。 しかし、指摘しなければならないこととして、問題は工作組という形態にあるのではなくて、その方針・政策にあるということです」
 そうか、そうだったのか、と理解できるよね。また、江青女史は、芸術活動は階級闘争でもある、といっているんだよ。
 「われわれの文学・芸術が社会主義の経済的土台に適応できないなら、それは、どうしても社会主義の経済的土台を破壊することになるだろう」
 こういわれると、京劇やバレエや交響曲の改革がどんなに大切かわかる。「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」などが、ソ連の資本主義への逆もどりにどんなにい大きな働きをしているかがわかる。中国に来る前のぼくは、そんなことはなにも知らなかった。ただ夢中でとんだりはねたりしていた。いわば芸術至上主義だよね。それがいかに反動的、反革命的かがわかったよ。
 周恩来首相もこういっている。
 「毛主席の文学・芸術の方向は、とりもなおさず全世界の革命的文学・芸術の方向です。
 文学・芸術界は、いままで長期にわたって、一握りの反革命修正主義分子の支配のもとで毛主席の文学・芸術思想と革命路線に抵抗し、修正主義の毒素をまきちらし、資本主義復活の世論をつくりあげる彼らの主要な陣地になってきました。
 わたしたちは、かならずプロレタリア文化大革命のなかで、断固として、この文学・芸術界に根を張る反党、反社会主義、反毛沢東思想の一握りのブルジョア階級の右翼分子を1人残らずあばきだし、彼らを打ち倒し、鼻つまみものにし、たたきつぶさなければなりません」
 中国の文学・芸術界が、これから進もうとしている方向がよくわかるよね、パパ。 (『ぼくの北京留学』から)
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<30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない> ウィンストン・チャーチルの言い方を借りれば、「こうしたレポートを30歳前に読んで、社会主義者でないものはハートがない」と言える。
 毛沢東は聖人ではないし、多くの誤りを犯した。何度か行われた「整風運動」は権力闘争で敵対者を追い落とすことであったし、「百花繚乱、百家争鳴」は批判すべき者が最初から定めてあったし、「大躍進運動」は失敗であったし、「文革」も大きな混乱を招きその後の経済発展の足を引っ張るものだった。 そうした試行錯誤の中国革命であったが、その中で精いっぱいハートを燃やし続けた人びとが多くいた、そしてそうした人びとのレポートは読む人に感動を与える。 アルバニアにはそうしたレポートがない。エンベル・ホジャ以外の人が取り上げられていない。1人の独裁者しか登場しない。まるで「地上の楽園」北朝鮮のようだ。だから鎖国が徹底して行われたのだろう。地産地消を徹底するにはアルバニアや北朝鮮を見習うのがよさそうだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『中国の赤い星』                    エドガー・スノー 宇佐美誠次郎訳 筑摩書房   1964. 9.20
『目覚めへの旅』                      エドガー・スノー 松岡洋子訳 紀伊国屋書店 1964. 9.20
『中国の歌ごえ』                    アグネス・スメドレー 高杉一郎訳 みすず書房  1957. 3.10
『中国紅軍は前進する』                  アグネス・スメドレー 中理子訳 東邦出版社  1971.12.15
『人民中国の夜明け』                    ニム・ウェールズ 浅野雄三訳 新興出版   1971. 9.25
『医師ノーマン・ベチューンの偉大なる生涯』テッド・アラン/シドニー・ゴードン 浅野雄三訳 東邦出版社  1971.12.15
『はだしの医者とともに』イギリス人医師のみた中国医療の15年 J・S・ホーン 香坂隆夫訳 東方書店   1972. 2.20
『青春の北京』北京留学の十年                         西園寺一晃 中公文庫   1973.10.10
『ぼくの北京留学』バレエと文革と青春                       林道紀 講談社    1972. 5.24
( 2006年2月20日 TANAKA1942b )
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(12)拝金主義も生まれなかった社会
反資本主義のユートピア羨望
<ねずみ講に免疫性のなかったアルバニア> 1991年アルバニアはねずみ講で揺れていた。国民の多くが引っかかった、ということはねずみ講の仕組みも、危険性も意識していなかったということだ。 社会主義経済体制で金融のことは分からなかった、そして国民だけでなく政府役人もねずみ講のリスクを理解していなかった。
 こうしたアルバニア経済に対して2つの違った評価がある。1つは「拝金主義に汚染されていない、平等な社会だ」というプラスの評価。もう1つは「結局全ての人が平等に貧しくなる社会だ」というマイナスの評価。
 経済が成長して国民が豊になるには、ときには経済の「成長痛」とも言うべき経験をすることもある。アルバニアのねずみ講事件はそうした「成長痛」だったと考えるのがいい。それに関しては以前に <資本主義社会の経験不足>▲ と題して次のように書いた。
<資本主義社会の経験不足>
どこかの県の教育委員会が「高校生のアルバイト大いに結構」との方針を打ち出した、との報道があった。教育委員会も分かってきた。 セブンやファミマなどのコンビニやケンタやマクドなどのファースト・フードでバイトをすると、働くこと、「お客様は神様です」の意味が分かってくる。商売は利益を出さなければならない。趣味や社会的意義があって商売しているのではない。 大人でさえ、消費者主導の経済に不満で、消費者教育が必要だ、と主張する人もいる。神様に説教しようという大胆な主張だ。高校生のうちからバイトで資本主義の内側を知っておくといい。アルバニアの例は、幼児の頃から大人の社会を知らずに保護されていて、バイト経験もなく、年をとってからいきなり大人の資本主義社会に放り出されたようなことだった。 預金・金利・投資などの意味も分からずに、いきなり資本主義経済になってしまい、かわいそうだった。もっとも日本のような資本主義経済で生活していても、「地域通貨にインフレはない」「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」 という、資本主義社会以前の、幼児社会の経済感覚を持ったかわいそうな大人もいるようだ。マン・チャイルドと言うか、アダルト・チルドレンと表現すべきか?
<成長痛を怖れ、大人になるのをいやがり、駄々をこねる>
現代のラダイト運動(Luddite movement)はその主役が、社会の進化によって被害を受ける弱者ではなく、余裕のある傍観者である、という点で1810年代の運動とは違っている。現代のネッド・ラッド(Ned Ludd)(ネッド将軍ともいう)も架空の人物で、だから誰もが社会批判はするが、自分は非難されないように、言質を取られないように気を使っている。
 駄々をこねる評論家・エコノミストがいても経済のグローバル化は進む。@日本の文化=コメが広くアジアで受け入れられ、「ビッグ3の下請けになる」と怖れられた資本の自由化を乗り越え、日本経済は成長した。 Aドルが金の束縛から開放され、世界の成長通貨が供給されるようになった。Bアジア諸国は変動相場制に移行しさらに大きく成長する道が開けた。C国債償還の停止(モラトリアム)を経験しながら、大国ロシアは総身に知恵が回りかね。D社会主義から市場経済にソフト・ランディングした国もあれば、ミロシェビッツのような指導者を選んでしまった国もあった。 E天安門事件後、南巡講話で息を吹き返した白黒猫、人民元切り上げの圧力が感じられるこの頃、それでも日本のすぐそばに巨大な消費市場が生まれそうだ。期待しよう。Fアダム・スミスのような理論家は出なかったが、三貨制度のもと、一分銀は管理通貨制度、金と銀は変動相場制を操っていた江戸幕府の進んだ通貨制度。G空想社会主義のような「地産地消」を実験したアルバニア。
 「グローバル化」という言葉を使い、外国にも開かれた経済体制に移行するのを怖れ、「狭い社会に閉じ隠りたい」と駄々をこねる評論家・エコノミストが危機感を煽るが、経済は確実に進化する。今回取り上げたケース、いろんな形のショックがあったが、前に進もうとしているのは間違いない。
<社会主義国の銀行制度> 地産地消の国アルバニアでは拝金主義はなかった。投資信託はないし、株取引もないし、いわんやデイトレーダーなんて想像もつかなかったろう。ではどのような金融システムだったのだろうか?地産地消の国アルバニアの金融制度に関しては資料がない。そこで東ヨーロッパの金融制度の関する資料から想像するしかない。ということで、東欧社会主義国の金融制度に関する文献から一部引用することにしよう。
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<財政金融のしくみ> 東欧諸国に経済は、社会主義を理念とした計画経済体制の国々である。 しかしながら、同じ理念を持つユーゴスラビアのごとく、西側の経済制度を大幅に混入した国とは様相を異にしている。もっとも、ユーゴスラビアを除く東欧諸国でも経済改革後、経済効果を高めるため金融機能の活用をはかり、また部分的に市場機能を導入した国々もあった。 しかし、経済改革前における東欧諸国の財政金融をめぐる経済の仕組みが、経済改革後も基本となっており、それがどのような仕組みになっているかについて見てみよう。
 東欧諸国の経済は、国民経済計画により運営され、現在各国とも5ヶ年の国民経済計画(従来は国によりそれよりも短い短期の計画もあった)が建てられており、その実施にあたっては計画に関し立法措置がとられている。この5ヶ年計画は、また、その間年次ごとの計画も建てられ、5ヶ年計画の目標を達成するための調整が行われる。 しかし、年次計画の調整によって5ヶ年計画の目標が改められねばならないことは余り生じないが、それが生じることは西側における景気変動による経済調整に相応するものであることが考えられないこともない。経済計画の立案にあたるのが中央の計画機関であり、 その実施にあたっては、中央の計画当局は、計画にもられた生産高目標をその生産にたずさわる国営企業に下達する。国営企業に下達される、かかる諸目標は、国営企業にとって行政的な拘束性のあるものである。
 したがって、東欧諸国の経済は物量計画中心に運営されているが、その計画達成を裏付けるために資金計画が建てられている。資金計画は、国家予算、信用計画および現金計画より成っており、国家予算と信用計画の所管は大蔵省であり、一方、現金計画の所管は銀行制度の中核である中央銀行、すなわち国立銀行である。 経済改革前においては、東欧諸国の国民経済に必要な設備はほとんど国家予算資金から無償で交付されていたので、資金計画の中心は国家予算であり、信用計画については諸銀行から取りまとめた国立銀行により提出される資料、情報に基づいて大蔵省において策定されていた。
 また、東欧諸国の経済は、社会主義化経済部門と非社会主義化経済部門に分かれ、社会主義化部門は国営企業、共同組合から成り、一方、非社会主義化経済部門は個人や個人企業から構成されている。非社会主義化部門は個人部門ともわれ、国民経済における役割はきわめて小さいのに対し、国民経済活動の大宋は社会主義化部門で占められており、しかも社会主義化経済部門における主役は国営企業である。
 国家予算の主要な収入源は、国営企業からの利潤納付と国営企業が生産物を販売する際に取引段階で賦課される取引税とである。一方、個人部門から納入される個人所得税等の国家予算収入に占めるウェイトはきわめて小さい。これらを財源に国民経済の発展に必要なプロジェクトに対し国家予算から無償で資金交付が行われていた。
 次に、国営企業、銀行および国家予算のあいだにおける資金的な流れを要約して示してみよう。すなわち国営企業を新設する場合、まず国家予算から新設企業に必要な設備資金および企業操業に必要な運転資金が、投資銀行を通じて無償で交付される。この場合、投資銀行は財政資金を企業に流す資金の整理機関に過ぎず、西側の意味する銀行とは異なる。また、企業が生産活動を行うようになって、一時的に、ないしは季節的に手許資金に不足をきたす場合には、企業は取引先の国立銀行から融資を仰ぐこととなる。 東欧の国立銀行は、前述のごとく中央銀行であるが、同時に企業と取引する商業銀行的な業務も兼ねており、上記の国立銀行の企業に対する融資は、国家予算からの資金交付と違って、金利が付され、企業は返済を要する。 ただし、経済改革前においては、金利は低利で、かつ固定的であって、経済改革後、金利が活用されるようになったのとは事情を異にしている。かくして、企業は生産活動を行ない、生産された製品を販売して取引税を納め、決算後生じた利潤から一定の内部留保を行ったのち、残余の利潤を政府に納入するといった仕組みになっている。
 国営企業等を擁する社会主義化経済部門における相互間の取引決済は、企業等が開設する国立銀行支店の決済口座を通じ振替指図書によって行なわれる。したがって、企業等は、現金について必要最小限を手許に置くだけで事足りるようになっている。
 以上にみられるように、東欧諸国においては、各国共通して国立銀行が国際的な相互決済、清算機関であり、企業間信用が禁止されているため国立銀行が社会主義化経済部門における唯一の短期信用供与機関であるほか、国立銀行が中央銀行として発券業務を行なうとともに、商業銀行的業務等をも行なうマンモス銀行であることが顕著な特徴である。
 一方、個人部門は、ごく小規模な清算企業のほかポーランドのような東欧の中でも特に多い個人農業も含むが、その部門の主役は個人である労働者たちなのである。労働者は働いている国営企業から賃金として現金を受け取り、これで生活に必要な消費財を購入する一方、個人部門専業の金融機関である国家貯蓄銀行に預金する。 貯蓄銀行の預金には定期的な預金もあり、また、普通預金もあり預金については金利が付される。個人はどこの貯蓄銀行でも預金でき、非居住者も預金が可能である。また、個人に支払う公共料金について、貯蓄銀行の預金口座から定期的に引き落とすこともできる。こうした制度が東欧の国々において早くから発達したのは、次の理由によるものである。 すなわち前述のとおり、社会主義化経済部門における決済がほとんど振替え決済で行われていることのほか、政府としては、国民経済に対する投融資資金の充実化を図る見地、国民の流動的な資金をできるだけ吸い上げる必要があり、このため貯蓄銀行における個人の振替支払方式により預金の増強に努めようとしたことなどによるものである。
 また、現金取引は、消費財を国営の販売店、コルホーズ農民等から現金で購入する個人中心に行われている。したがって、個人部門が資金計画の中の現金計画に特に密接な関係がある。かかる現金計画に基づくマネー・サプライは、指標としての重要性が西側先進諸国ほど高くない。 ちなみに、東欧諸国においては、国民総生産の概念がなく、また、国民所得の内容が西側と同一でないが、国民所得に占める通貨発行高の割合を見てみると、東欧の国の場合、西側先進国に比してかなり低率であった。
 以上にみられるごとく、東欧諸国における銀行制度はきわめて簡素化されており、社会主義化経済部門に対応する国立銀行および融資銀行(国によって農業銀行が設けられているところもある)、一方、個人部門に対応する国家貯蓄銀行(総じて戦前の郵便貯蓄制度を母体に設立されている)から成っている。 (『東欧諸国の銀行制度と金融管理』から)
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<未公開株のうま味は誰も知らなかった> エンベル・ホジャの死後、鎖国をやめ普通の国家になろうとしたアルバニアで、政府は国営企業の民営化に備えて、1995年に国民に民営化バウチャーを配布した。これは将来民営化された場合、その株を買う権利のバウチャーなので、未公開株を国民に配布したようなものだった。 そして1996年には証券取引所を開設し、さらに証券市場への投資促進をねらって英国系の投資信託会社にライセンスを与えた。
 しかし、民営化バウチャーで国営企業の株式を購入したアルバニア人はほとんどいなかった。大多数の国民は、将来性のない国営企業の株式に投資するなど論外であるとして、路上のブローカーたちに額面価格の1割程度の値段で売りとばしてしまった。もしアルバニアが日本の近くの国で、日本人が自由に入国でき、情報も豊富であったなら、 多くの日本人がバウチャーを買い求めていただろう。投資・投機などについてアルバニア国民は無知であった。そして1997年にはねずみ講が破綻したのであった。
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<NHK特集の地産地消> アルバニアをどのように見るか?NHKの放送に対して多くの反響があり、アルバニアに憧れるかのような意見があったという。その意見を再録してみよう。<地産地消の国に憧れる視聴者>
 1986年12月8日夜8時50分、NHK特集『アルバニア・鎖国の社会主義国』の放送が終了した途端、NHK特報部のあちこちの電話がいっせいに鳴り響いた。視聴者からの電話である。
 「日本もアルバニアを見習って、もっと独自性をもつべきだ」(若い学生風の男性)、「自給自足で生きられるなんて、まさに20世紀も桃源郷のようで羨ましい」(主婦)、たとえ貧しくても、あのように明るい家庭が日本にもあったはずだ。昔を思い出して懐かしかった」(63歳の男性・自営業)、オートメーションだの合理化だの便利さばかりを追求するより、額に汗して働く人たちを見て感動した」「情報化の中でしか生きられない日本から見ると、あんなに何も知らなくて暮らしているヨーロッパ人がいたなんて驚いた。日本は知らなくていいことまで知らされすぎる」等々、視聴者からの感想はいずれもアルバニアの1シーン1シーンの中に日本の昔や現在の姿をおきかえて比較した、1つの日本批判である。
 これらの意見は、多分に日本人のノスタルジアをかきたてた興味であったり、行きすぎた日本の合理性に反発したものであろうが、それにしてもアルバニアという国には、日本やアメリカ、ヨーロッパが鎖国という特殊な条件下であればこそであり、外国の情報も何も知らされていないからこその、ある意味での純真無垢さをもっているからである。 (『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』から)
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<日本人が好むユートピアの世界> アルバニアのような、すべての国民が平等に貧しくなる社会に対して「格差の少ない社会」「拝見主義者のいない社会」「ITバブルとは縁のない社会」「自給自足・地産地消の社会」と言って憧れる人も多くいるようだ。NHK特集『アルバニア・鎖国の社会主義国』はそのような人を満足させる番組であったし、制作者もそのような考え方・イデオロギーの人だったようだ。NHKは民放のようにスポンサーのご機嫌取りは必要ない。 もし、外部から注文が入れば「政治家が圧力をかけた」と叫べばいいので、制作者は思いっきり自己主張ができる。NHK特集『アルバニア・鎖国の社会主義国』はそうした番組であった。
 そのようなイデオロギー、地産地消の徹底した考え方は、その原型が「ユートピア」にあると思う。そこで「ユートピア」から一部引用し、その感覚・センスを感じて頂きましょう。
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今日われわれが、軽蔑するわずかの人間に押しつける農業は万人共通の職業 ひとつの仕事は、すべての人に男女の別なく、ひとりの例外もなく課せられており、それは農業です。 農業についてはすべてのひとが子どものころから教えこまれ、一部には学校での理論教育を通じ、一部には都会周辺の農村地帯に連れ出されて遊びがてらに教えこまれます。(遊びがてら)といっても傍観しながらではなく、体力錬成の機会として実習しながら教えこまれます。 農業{いま申したように、これはみなに共通(の職業)です}のほかに、だれもがなにか1つのものを自分の職能として覚えます。 それは普通、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、錠前職、または大工職です。ほかには、言及するのにするほど多数の人が従事している職業はありません。 (製服職もありません)というのも、衣服は、性別や、既婚未婚の別がわかるようになっているほか、全島を通じ、あらゆる年齢層にわたり同じ形をしているからです。 見た目に不快でなく、体の動きが楽なようにできており、寒さ暑さどちらにも適しています。各家庭がこの衣服を自分たちで作ります。ところで、さっきあげた職業のうちどれか1つは、男だけでなく女でも習います。 女は弱者として軽い仕事をします。たいてい羊毛や亜麻織りです。男にはほかの、もっと骨の折れる仕事が回されます。一般には、だれでも父親の職業を習わせます。というのは多くのひとは自然の性向で父親の職業につきたがるからです。 しかしほかの職業に心をひかれるものがあれば、そのひとは自分の好む職業にたずさわっている世帯に養子として転入させられます。そのさい彼の実父だけでなく役人たちも当人が重厚で名望ある実父長のところに移籍されるよう配慮します。 もしだれかが1つの職業を修得したあとで、さらに別の職業を習いたければ、それも同様なやりかたで許されます。両方の職業を身につけたいならば、市が1つの職業のほうを他の職業より必要とするというような事情がないかぎり、当人はどちらでも好きな仕事をします。
怠け者はこの社会から追放される 部族長の主な、あるいはほとんど唯一の任務は、怠けて座りこんでいる者が一人もいないように、皆が自分の職業に勤勉にたずさわるように、しかも荷役の動物のように朝早くから夜おそくまで絶えず働き続けて疲労しきったりすることはないようにと注意、監督することです。 そのような労働は奴隷的酷使よりなお悪いからです。しかし、それが、ユートピア人以外のほとんどすべての労働者の生活状態なのです。彼ら(ユートピア人)は夜も含めて1日を24時間に等分し、そのうち6時間だけを仕事にあてます。そのうち3時間は午前中、引き続いて昼食をとりに出かけ、あとの午後2時間休憩し、そのあと3時間をまた労働にあて、夕食の時間になるところできりあげます。 彼らは1日の最初の時間を正午から数えますから、8時頃に床につくわけです。睡眠は8時間とります。
衣服費削減法 衣服についても、彼らがほんのわずかの労力しか費やしていなしことに注目してください。まず、かれらは、仕事をしているあいだはなめし皮か毛皮の質素な服を着ており、これは7年間もちこたえます。外出するときにはその上に外套をひっかけ、それで下の粗末な服をかくします。 この外套は島じゅうどこでも同じ一色、つまり生地本来の自然色で作られています。ですから、ほかのところに比べると、あそこでは毛織物がきわめてわずかで足り、その値段もたいへん安いのです。 しかし亜麻地のほうがもっと労力をかけずに作れるので毛織物よりよく用いられます。彼らが注意するのは、亜麻の場合には白いということ、毛の場合には清潔であるということだけで、織り糸の質が上等かどうかということなどは勘定に入りません。 それゆえ、ほかのところでは一人のために種々の色の毛織の服が4,5着と、同数の絹の下着があっても十分でなく、そしてもっとやかましい人には10着あってもまだ足りることはないのですが、おそこでは誰でも大体2年間に1着の服があれば満足しています。 事実、それ以上欲しがる理由はありませんし、たとえそれ以上もらっても、普通以上に防寒の役にたつわけでもなく、衣服のおかげでもっとエレガントに見えるなどということもまったくありません。 (『ユートピア』から)
現代に生きているユートピア思想 トマス・モアの『ユートピア』は1516年に出版されている。ほぼ500年も前に書かれたものだ。そんなに古いものではあるが、日本ではその思想・価値観は根強く人の心の中に定着しているようだ。地産地消の国・アルバニアに憧れるのはトマス・モアの『ユートピア』を理想の社会と考えているからだ。 ここの引用したのはほんの一部でしかないが、それでも現代に通じる価値観が書かれている。そのユートピアを目指したかのように見えたのが地産地消の国・アルバニアであった。もっとも実態はエンベル・ホジャの独裁国であることを見えないように、理由をつけて地産地消を徹底させていたわけではあるが……。
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<主な参考文献・引用文献>
『東欧諸国の銀行制度と金融管理』 アジア経済調査研究双書237     田中壽雄 アジア経済研究所 1976.10.18
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』                NHK取材班 日本放送出版協会 1987. 5.20
『ユートピア』                     トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫     1978.11.10
( 2006年3月6日 TANAKA1942b )
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(13) 地産地消から普通の国家へ
民主制度・市場経済への試行錯誤
<エンベル・ホジャ以後のアルバニア> 「地産地消の国アルバニア」が変わりつつある。民主制度・市場経済というごく普通の国のシステムに移行し始めている。 そうした変化を、経済を中心に見てみよう。
<資本主義国アルバニア> アルバニアはこのとき、冷戦時代に「東側」に属した多くの国々と同様、市場経済への急速な移行の途上にあった。 その上アルバニアが独特なのは、10年前アルバニア労働党一党独裁体制が崩壊したそのときまで、いわゆる鎖国政策を敷いていたという事情である。
 第1次大戦、第2次大戦と、数々他国から侵入を受けたアルバニアでは、エンベル・ホジャなどの共産主義者がパルチザン闘争を展開、1944年エンベル・ホジャは、アルバニア全土を解放、翌年1月アルバニア人民社会主義共和国樹立を宣告した。
 ホジャは首相辞任後も労働党第一書記として85年の死去まで、頑固で朴直な社会主義独裁路線を強化、ユーゴスラビア、ソ連、中国をつぎつぎに修正主義と批判し、国交を絶っていった。
 76年人民議会で可決制定された憲法には、つぎのようにある。
 第28条 外国の経済・金融の会社その他の施設および資本主義者と修正主義者の資本主義の独占企業・国家と合同で作られたこれらのものに対して免許特権を与え、またこれらのものを創設すること、ならびにこれらのものから信用の供与をうけることは、アルバニア人民社会主義共和国においてはこれを禁止する。
 こうしたアルバニアの、世界でもまれな鎖国自給自足経済は、1990年末から91年にかけて、音を立ててくずれた。東欧革命の余波を浴び、人民が全土でホジャ像を倒した。アルバニアは社会主義体制を放棄、市場経済の導入に踏みきった。
 しかし、長い間市場経済を敵視してきた歴史的経験がある。また、折しも90年代半ばの国際経済は、ヘッジファンド全盛、ホットマネー飛び交う時代だった(ねずみ講式投資破綻事件の97年は、タイのバーツ危機と同年の出来事である)。 いわば資本主義にうぶだったアルバニアが学んだ市場経済とは、このような時代のものだったのである。
 いま、アルバニアの首都ティラナの中心にあるスカンデルベウ広場には、闇の両替屋が100人近くたむろしていて、街よく人に声をかけている。 私たちが彼らを撮影しようとすると、ある両替屋は、カメラに自慢げに両替行為を撮影させ、こういった。
「これが資本主義ってんだろ」
 資本主義アルバニアは、いまだ混迷の中ににある。
 かつてスカンデルベウ広場の中央に屹立していたホジャ像は、いまは台座部分のぐにゃりと屈曲した鉄骨が残るばかりである。広場周辺にあったレーニン像もスターリン像ももうない。唯一あるのは、15世紀オスマン帝国を25年間撃退したアルバニア人の民族的英雄スカンデルベウの騎馬像だけである。
 アルバニアはいま、民族の強い絆をよりどころに難局打開をめざしている。広場の風景はそういう事実を象徴していた。そしてこういう民族意識への収斂は、コソボ問題を考えるとき、非常に重要な要因でもあった。
 コソボ紛争というと、旧ユーゴスラビア国境内の力学ばかりに目がいきがちだが、コソボのアルバニア系住民の背後にいるアルバニア共和国のアルバニア人380万人は、対立するセルビア人にとって相当な脅威であった。
 そればかりではなく、双方に住むアルバニア人の統一をめざす大アルバニア主義の高揚は、アルバニア全体のパワーバランスを大きく変更する激変のきっかけとなる。民族統一を念願とするアルバニア人の心情は、それだけで他面ヨーロッパの火薬なのだ。 (『環地中海』から)
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<自家用車の増えた首都ティラナ> 夕刻、ティラナに到着して、自家用車が目立つのに驚いた。労働党が孤立政策をとっていた時代、市民は自家用車の所有を禁じられていた。2年前、ティラナに来た時は、年代物の中国製バスが黒煙を吐き出して走っているだけで、乗用車といえば、役所の公用車ぐらいだった。 そのバスも、かつて中ソ対立の時代、中国側に接近していたこの国に援助されたものらしい。その後、中国とも袂を分かってしまったため、パーツの供給が途絶え、窓ガラスなどほとんどなくなっていた。
 それが、どうだろう。ベンツ、フィアットなど、いずれも中古車ではあるが、西欧製の車があふれているではないか。なかには、ナンバープレートのない車も。ナンバーの発行を待ち切れないドライバーがいるらしい。
 夜8時にグジミ君と通訳の教師スパルタクスさんがロビーに姿を見せた。ティラナには最近、個人経営のレストランやカフェが出現したというので、そんなレストランに1つに案内してもらった。2年前には、まともに営業しているレストランなぞ1軒もなかった。
 ホテルから徒歩数分のレストラン「ルゴバ」。セルビアのコソボ州にある地名からとった名前らしい。店内にはビニールのシートを被せた4人掛けのテーブルが7卓ほど並んでいた。あまり高級とは言えないが、カウンターの奥に並んだ洋酒棚には西側のあらゆる種類の酒が並んでいた。
 私とグジミ君は食前酒にラキアとドイツの缶ビールを、古代ローマの剣奴の英雄の名に似合わず、下戸のスパルタクスさんはコーラを注文した。食事は赤ワインに各自牛肉、ブタ肉、ソーセージのミックス・グリルと野菜サラダをとった。まずまずの味だ。これで3人分合わせ1000レク、ざっと2000円である。もっとも、教師の月給2100レクに比べれば、べらぼうに高いことになる。 (『バルカン危機の構図』から)
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<新生アルバニアの誕生> 第2次大戦後のアルバニアは、エンヴェル・ホッジャの表面的なスターリン崇拝に支配されていた。彼は1985年に死去した。旧ソ連においてゴルバチョフ政権が誕生した約1カ月後のことである。
 全世界はアルバニアの変化を期待したけれども、やはりアルバニアは、正確にはホッジャの後任のラミズ・アリア (Ramiz Alia) もまた変化よりも継続を重視した。ゴルバチョフ (Gorbachev) のペレストロイカ (perestroika) をブルジョワ修正主義だと非難し、グラースノスチ (glasnost') をブルジョワ・イデオロギーの導入だと中傷した。
 ところが、国際環境の激変がアルバニアに変化の必要性を突きつけた。特に、ルーマニアのクーデター (1989年12月) は強烈だった。労働党は経済、政治、社会における微調整に着手せざるを得なかった。1990年からは、アリア自身が改革派に転身して、政治と経済の改革に取り組んだ。
 市民レベルでは、弾圧に怯えながらも、草の根運動が展開された。一部の市民は海外脱出を試みた。あその際にも当局は軍隊を使用しなかった(できなかった)。 度重なるデモンストレーションに直面して、当局はとうとう非共産党系政党を合法化した。そこから野党・民主党が出現した。1990年12月12日のことである。その時の中心人物が、現大統領のサリ・ベリシャ (Saki Berisha) であり、グラムズ・パシュコ (Gramoz Pashko) である。但し、意見の対立からベリシャ氏はパシュコ氏を追い出してしまった。 ベリシャ氏は元々、非妥協的な人物である。1991年1月5日には、党機関紙『リリンディヤ・デモクラティケ (Rilindja Demokratike)』を創刊した。
 1991年2月、首都・ティラナのスカンデルベグ広場のホッジャ像が市民の手によって倒壊され、ホッジャの生誕地・ジロカスタル (Gjirokastër) をはじめ全土のホッジャ像がアルバニアから消滅した。同年3月には、イタリアへの市民の大量脱出という事件が起こった。現在の政治、経済、文化にかかわる公的な職務の主要ポストにあ、この民主化運動の際にベリシャ氏に貢献した人物が数多く就任している。地方から中央に抜擢された人物もいる。また、各地方で重要な地位にまで登りつめた人物もいる。
 さて、1991年3月31日には予定通り複数政党制による総選挙が実施された。そして、連立政権が樹立された。しかしながら、政治は首尾良く運営されなかった。同年12月には民主党が連立政権から離脱した。民主党は再選挙の実施を求めた。
 1992年3月には再度、総選挙が行われ、今度は民主党が圧勝した。加えて、大統領職については、アリア氏からベリシャ氏にバトンタッチすることを人民議会が決議した。ただ、統一地方選挙では、都市部では民主党が勝ったものの、農村部では社会党(旧労働党)が優勢だった。また、グラモズ・パシュコ氏は、民主党の専制的性質を批判したため、民主党を除名された。民主党は優秀な経済ブレーンを失った。パシュコ氏は、内外の学術論文集を通じて、民主党による経済政策をことごとく批判してきている。
 1996年秋の統一地方選挙においては、民主党が優勢だったけれども、これは幻の経済的繁栄、生活水準の向上に支えられた結果だった。つまり、ねずみ講式投資が破綻すると同時に、現金収入が途絶え、実物経済の重要性を遅ればせながら悟るようになる。
 民主党政権は、NATO (北大西洋条約機構) に接近し、全方向外交を展開していく。ただ、NATO の平和のためのパートナーシップに参加したことを受けて、大アルバニアの誕生はほぼ実現不可能となった。 NATOが国境の変更を望まないからである。併せて、西側からの援助を獲得することに動いた。アルバニア経済は以前よりも良くなったのは確かだけれども、それは海外援助、外国直接投資、海外送金(移転収入)に過度に依存していた。これからは実物経済の向上に課題の焦点が移っていく。 (『新生アルバニアの混乱と再生[第2版]』から)
<自給自足の行き詰まり> 自給自足経済の確立を追求してきたアルバニアは、国際分業や比較優位の法則を完全に無視していた。つまり、多様な財の生産を極めて低い技術水準で達成しなければならなかったのである。 然も、既述の通り、大規模国営企業による独占の下で重工業が重視されていた。ここでは不必要な財まで大量に生産された。投資と供給に依存する経済構造だったのである。勢い、農業は軽視された。先程も触れたように、18991年以降暫くの間、外国からの食料援助に依存しなければならない状況に陥ったのはその証拠である。 農業を含めて、アルバニアで経済活動が活性化しなかったのは、個人に対する経済的なモチベーション(動機付け)やインセンティブ(経済的刺激)が一切無かったからである。あるのは、経済活動を促進せよ、とのキャッチ・フレーズばかりであった。
 併せて、アルバニアでは、中小企業が皆無であった。需要の側面を無視したが故に、中小企業は不必要であると判断された。従って、個人や中小企業を対象とした金融システムは育成されなかった。 国営大企業が赤字を計上した場合、国庫から補助金の形で補填された。金融システムは全然機能していなかった。
 要するに、アルバニアでは需要やニーズが完全に無視されていたのである。存在したのは供給のみであった。典型的な不足の経済体制である。これらがあらゆる不均衡を生み出した。国際経済との関係も稀薄であたために、国内の不均衡を是正する手段にも事欠いていた。アルバニア経済は縮小する一方であった。
 アルバニアの民主党政権は、こうした初期条件下で経済変革に着手せねばならなかったのである。このような閉鎖経済路線を貫徹した国家は、世界でも非常に珍しい。北朝鮮でさえ国際社会から援助を受け入れてきているし、対外貿易も継続されている。
 ただ、アルバニアも北朝鮮と同様に一種の分断国家である。コソボにアルバニア系住民が居住するからだ。分断国家を外部から攻撃の対象とすることは、戦略上極めて難しい。北朝鮮が韓国と異なる民族の国であれば、アメリカが既に攻撃の対象としていることだろう。 イラクのフセイン政権やアフガニスタンのタリバン政権と同じ運命を辿っているはずである。
 アルバニアもアメリカによる攻撃の対象とはならなかった。アルバニアは内部崩壊したのである。この点ではルーマニアと酷似している。だが、その初期条件はルーマニアよりも厳しいものであった。初期条件の側面だけを取り上げれば、現在の北朝鮮と同様であると判断できよう。
 ともあれ、アルバニアの経済変革は無からの出発であった。であるが故に、ドラスティックな展開を遂げた。そこから様々な歪みが生じた。その歪みが大きいが故に、挫折するのも早かった。この過程を経て、アルバニアは漸く真の変革に着手できるに至っていると考えられる。
 アルバニア人特有の民族性も考慮する必要がある。既に述べたように、アルバニアは被侵略、独裁政権、全体主義、鎖国を繰り返す歴史を積み上げてきた。それは内外の勢力との対決と抵抗の連続でもあった。 これにアルバニア人は主として武力によって対応してきた。それ故に、アルバニア人は民主的に問題を処理、解決する能力を身につけることができなかったのである。結果、非常に極端な行動へと走ってしまう傾向がある。 加えて、抑圧から解放された勢いで、自由主義や市場経済を単なる無法行為だと勝手に決め付けてしまった。彼らには民主的な法の支配、法治国家が求められる。
 併せて、アルバニアで変革に着手された直後、バルカン半島全体が紛争地域と化してしまった。その主な原因は旧ユーゴスラビアの分裂にある。そこからボスニア内戦やコソボ紛争が勃発した。こうした外部環境が、アルバニアの経済変革に対する足枷となった側面を否定することはできない。 それが武器の密輸を主軸とする地下経済の温床に繁がったからである。アルバニア社会が安定軌道に乗ったのは、ここ数年のことである。コソボ紛争が終結したことと無関係では決してない。バルカン半島の安定とアルバニアの経済発展には、正の相関関係がる。 (『新生アルバニアの混乱と再生[第2版]』から)
<再出発の方向> 2000年7月には、世界貿易機関(WTO)への加盟が認められた。2001年のマケドニアにおける民族紛争では、同国のアルバニア系住民がアルバニア本国との統合による大アルバニアの樹立を主張したが、アルバニア当局はこれを明確に否定した。 現在の国境線を尊重する方針を貫いている。国際社会との協調姿勢を鮮明にした証左だと診断できよう。因みに、本国のアルバニア人は、表面的にはともかく、本音の部分ではコソボやマケドニアのアルバニア系住民のことを蔑視している。大アルバニアの創設は断じて有り得ない。
 さて、2001年においても6.5%の実質成長を遂げることができた。本格的に経済が回復したと言える。02年の経済成長率は6.0%であった。01年のインフレ率は2.8%と、インフレも抑制できるようになった。失業率は18%と高いけれども、最悪期を脱出している。農業のみならず、建設業や観光業を含むサービス産業が経済成長に貢献できるに至っている。現在でも建設ラッシュが続いている。 (『新生アルバニアの混乱と再生[第2版]』から)
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<アルバニアは地産地消をやめ、日本は地産地消を進める> エンベル・ホジャの独裁政治を正当化するために、鎖国政策・地産地消をとってきたアルバニアが普通の国になろうとしている。ねずみ講やコソヴォ紛争など厳しい成長通を味わったアルバニア、試行錯誤を重ねながらも民主制度・市場経済体制へと成長しつつある。
 一方、経済大国日本では役所が音頭取りをして、地産地消・自給率向上・閉鎖経済を進めようとしている。しかし「笛吹けども踊らず」。生産者が日本市場に海外からの参入を防ぐためにやっきになってトレーサビリティーなどの言葉を使ってレントシーキングよろしく役所に働きかけているが、実績は上がらない。 日本は豊になり、生活を脅かすような問題がなくなって、時間と社会に対して目を向けることができるようになって、市民運動が盛んになった。こうして、生産者と社会に対して発言したい人が共同で「地産地消」を主張するようになった。豊になった日本経済は「自生的秩序」が働いて、こうした運動があってもさらに豊になるように成長していく。 そして、役所に働きかけて地産地消を進めよう、との動きとは反対の動きが出始めている。 それは、地産地消のような閉鎖的な経済ではなくて、日本人が日本を飛び出して農産物を作ろう、との動きになっている。 その考えの趣旨は次ぎのようなものだ。
 「南米ウルグアイでのコメ生産には大きな可能性がある。風土・経営条件の整ったウルグアイで"Made by Japanese"による良質日本米生産に取り組めば、欧米やアジアの短・中粒種市場を席巻することも不可能ではない。日本の農業もトヨタやホンダと同様に世界ブランドになれるのだ」
 日本の農業が元気になるためには、農業に従事して豊かな生活ができるようになることが大切だ。農業が儲かるとなれば、若い人が参入してくる。 「農業は儲かりそうだ、それなら将来結婚しても妻子に不自由はさせなくて済む。オレも農業をやってみようか」と若い参入者が増える。競争者・若いライバルが増えても心配はない。商店街に例えれば、隣の店、ライバル店が儲かり始めたということは、商店街に人並みが戻って来たことなので、これからは工夫次第で儲けられる。つまり現在の農家にとってもプラスになる。 そして、「脱・敗北主義の日本農業」とか日本農業を守る「攻め」の戦略的思考 といったセンスこそこれからの日本農業に必要になるだろう。
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<主な参考文献・引用文献>
『環地中海』                     NHK「地中海」プロジェクト 日本放送出版協会 2001. 6.30
『バルカン危機の構図』                      今井克・三浦元博 恒文社      1993.10.25
『新生アルバニアの混乱と再生』[第2版]                  中津孝司 創成社      2004. 2. 1
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』                 NHK取材班 日本放送出版協会 1987. 5.20
( 2006年3月20日 TANAKA1942b )
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(14) 自由貿易こそが国民を豊にする
アダム・スミスは生きている
<自給自足の神話> 「地産地消」「自給率向上」といったスローガンは「核兵器廃絶」「世界人類が平和でありますように」「憲法9条を守れ」などと同じように、誰もが反対しにくくて、それでいてそのスローガンが達成されることはない。 従って、いつまでの同じスローガンを叫んでいられる。そこで、もしもそのスローガンが達成されたらどうなるか、ということが考えられたことはないが、それを想像してみると面白い。 そうした達成されることが無いようなスローガンが、もしも達成されたらどうなるか?自給自足に関しては 自供自足の神話▲ と題して、 「東京都民はコメを自給すべきだ」という公約で都知事が当選したらどうなるだろうか?を書いた。東京都民がコメを自給し始めると、現在の経済システムが根本から崩れてくる。核兵器が一時的にでも世界からなくなると、核抑止力がなくなり、現在核兵器を持っていない国の中から核開発を行う国が続発する。
 各国が自由貿易を尊重し、比較優位の原則に基づいて経済を発展させることによって、各国の国民が豊になる、ということは経済学の常識ではあるが、それに反対する人は多い。利権に絡んで、既得権を守るために反対する業界人や、農業団体の支持を受けているエコノミストの中にも、「自由貿易反対」「比較優位理論は農業には適さない」といった主張もある。
 そうした人たちは、その主張が多数派になることはない、と確信しているから主張するのであって、もしも、その主張が達成されそうだとなったら、困ってしまうだろう。東京都民がコメを自給し始めたらどうなるか?核兵器が一時的にでもなくなったらどうなるか?憲法9条が実現され自衛隊がなくなったらどうなるか? そうした主張の説得力の弱さについては 軍事不介入の政治経済学▲ と題して書いた。また、多くの反対意見が出るところが民主制度の健全性を示す指標だ、ということに関しては 民主制度の限界▲ と題して書いた。
 そうして「地産地消」「自給率向上」といったスローガンが達成されたらどうなるか?「地産地消の国アルバニア」がどうなったのか? 比較生産説といえばリカードとなるのだが、そうした誤った主張に対する「分業」「自由貿易」「市場尊重」の考え方はアダム・スミスから始まる。 そこで「地産地消の国アルバニア」の最後はアダム・スミスからの引用で締めることにしよう。
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<アダム・スミス 『国富論』> アダム・スミスは、1759年に『道徳情操論』を、1776年に『国富論』を出版している。 ここでは、「ピン作りの分業」「われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身の利益にたいするかれらの関心による」そして「公平無私なる見物人」について書いている部分を引用した。 民主制度・市場経済を理解、信頼するにはこれらのアダム・スミスの文章を理解することが肝要だと思い引用することにした。
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分業には作業の分割と職業の分化があり、それらは労働の生産力を増進させる最大の原因である。 労働の生産力における最大の改善と、どの方向にであれ労働をふりむけたりする場合の熟練、技能、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる。
 社会全般の仕事に対する分業の高価を比較的容易に理解するには、どれか、特定の製造業(マニュファクチャー)をとって、そこで分業がどんなふうに行われているかを考察してみるのがよいだろう。世間では、分業がいちばん進んでいるのは、いくつかの、まったくとるにたりない小さな製造業だということになっている。 これはおそらく、こういった製造業のほうが、もっと重要度の高い他の製造業に比べて、実際に分業の度合いが進んでいるかたではなく、これらのとるにたりない小さい製造業は、ごく少数の人々のわずかな欲求を満たすためにものであって、従業員の総数もとうぜん少なく、さまざまな部門の仕事に従事している人々を同一の作業場に集めているので、見る者の一望のもとにおくことが可能だからであろう。 これに反して、大規模の製造業は、大多数の人々の巨大な欲望を満たすためにある。そこでは、さまざまな部門の仕事にどれも多数の従業員が働いているので、これらの人々を同一の作業場に集めることは不可能である。 単一の部門で働いている従業員は見えても、その部門以外の人々をも同時に見ることは滅多にないというわけである。 それゆえ、この種の製造業では、それよりも小規模な製造業に比べて、たとえ作業は実際上はるかに多数の部分い分割されていても、その分割は、それほど目立つことがないので、したがってまた、観察されることもずっと少なかったのである。
 そこで、ここに一例として、とるにたりない小さな製造業ではあるけれど、その分業がしばしば世人の注目を集めたピン作りの仕事をとってみよう。 この仕事(分業にとってそれは1つの独立の職業となった。)のための教育を受けておらず、またそこで使用される機械類(その発明を引き起こしたのも、同じくこの分業であろう)の使用法にも通じていない職人は、精いっぱい働いても、おそらく1日に1本のピンを作ることもできなかろうし、 20本を作ることなど、まずありえないであろう。ところが、現在、この仕事が行われている仕方をみると、作業全体が1つの特殊な職業であるばかりでなく、多くの部門に分割されていて、その大部分も同じように特殊な職業なのである。 ある者は針金を引き伸ばし、次の者はそれをまっすぐにし、3人目がこれを切り、4人目がそれをとがらせ、5人目は頭部をつけるためにその先端を磨く、頭部を作るにも、2つか3つの別々の作業が必要で、それを取り付けるのも特別の仕事であるし、ピンを白く光らせるのも、また別の仕事である。 ピンを紙に包むのさえ、それだけで1つの職業なのである。このようにして、ピン作りという重要な仕事は、約18の別々の作業に分割されていて、ある仕事場では、そうした作業がすべて別々の人手によって行われる。 もっとも、他の仕事場ではそれらの2つか3つを、同一人が行うこともある。私はこの種の小さい仕事場を見たことがあるが、そこではわずか10人が仕事に従事しているだけで、したがって、そのうち幾人かは、2つか3つの別の作業を兼ねていた。 彼らはたいへん貧しくて、必要な機械類も不十分にしか用意されていなかった。それでも精出して働けば、1日に約12ポンドのピンを全員で作ることができた。1ポンドのピンといえば、中型のもので4千本以上になる。 してみると、これらの10人は、1日に4万8千本以上のピンを自分たちで製造でくたわけである。つまり各人は、4万8千本のピンの10分の1を作るとして、1人あたり1日4800本のピンを作るものとみてさしつかえない。 だが、もしかれら全員がそれぞれ別々に働き、まただれも、この特別の仕事のための訓練を受けていなかったならば、かれらは1人あたり1日に20本のピンどころか、1本のピンさえも作ることはできなかったであろう。 言い換えると彼らは、さまざまな作業の適切な分割と結合によって現在達成できる量の240分の1はおろか、その4800分の1さえも、まず作り得なかったであろう。 (『国富論』第1章「分業について」から)
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分業は、人間の本性にのみ見出される交換という性向から生じる  文明社会では、人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに、全生涯をつうじてわずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。 ほかのたいていの動物はどれも、ひとたび成熟すると、完全に独立してしまい、他の生き物の助けを必要としなくなる。ところが人間は、仲間の助けをほとんどいつも必要としている。だが、その助けを仲間の博愛心にのみ期待してみてもむだである。 むしろそれよりも、もしかれが、自分に有利となるように仲間の自愛心を刺激することができる。そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが、仲間自身の利益にもなるのだということを、仲間に示すことができるなら、そのほうがずっと目的を達しやすい。 他人にある種の取引を申し出る者はだれでも右のように提案するのである。私の欲しいものを下さい。そうすればあなたの望むこれをあげましょう。というのが、すべてのこういう申し出の意味なのであり、こういうふうにしてわれわれが自分たちの必要としている他人の好意の大部分をたがいに受け取り合うのである。
 われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身の利益にたいするかれらの関心による。 われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、かれらの自愛心(セルフ・ラブ)にたいしてであり、われわれがかれらに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてである。
 同朋市民の博愛心に主としてたよろうとするのは、乞食をおいてほかにない。乞食ですら、それにすっかりたよることはしない。なるほど、好意ある二とたちの慈善によって、この乞食が生きてゆくのに必要なもののすべてが用意されるかもしれない。 だが、たとえこうしたやり方で、かれの必要とする生活必需品のすべてが結果ととのえられるとしても、かれの望みどおりに必需品がととのえられるわけでもないし、またそうできるものでもない。 かれがそのつど必要とするものの大部分は、他の人たちの場合と同じく、合意により、交易により、購買によって、充足されるのである。かれは、ある人がくれる貨幣で食事を買う。かれは、別の人が恵んでくれを古着を、もっとよく自分にあう古着と交換したり、一夜の宿や食事と交換したり、または必要におうじて衣食住のどれかを買うことのできる貨幣と交換したりするのである。 (『国富論』「第2章 分業をひきおこす原理について」から)
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自己是認と自己否認の原理について われわれが自分自身の行為を自然に是認したり否認したりする場合に採用する原理は、われわれが他の人々の行為に関して同様の判断を働かせる場合に用いる原理と同一であるように思われる。 われわれが他人の行為を是認したり否認したりするのは、われわれがその人の事情を充分熟知した場合に、その人の行為を支配した情操や動機に対して完全に同情できると感ずるか、あるいはできないと感ずるかによって決定する。 これと同様の方法でもって、われわれが自分自身の行為を是認したり、否認したりするのは、われわれが自分の立場を他人立場に置き換えて、他人の眼をもって他人に立場から自分の行為を眺めるとき、われわれが自分の行為を支配した情操や動機に全面的に移入し、同情できるか、どうかということによって決定せられる。 われわれはいわば自分自身の自然の立場から離れて、自分自身の情操や動機をわれわれとは相当の距離をへだてて眺めようと努力するのでなければ、決して自分自身の情操や動機を観察することもできず、また自分自身の情操や動機に関していかなる判断をも下し得ない。 しかるに、そうするためにはわれわれは他人の眼を籍りてそれらの情操や動機を眺めようと努力するか、あるいは他の人がそれらの情操や動機を眺めるのと同様にそれらのものを眺めるように努力する以外には方法はない。
 したがって、われわれはそれらの情操や動機に関していかなる判断を下すことができようとも、その判断は常に暗々裡に他人の判断が現在どうであるか、あるいはある種の条件の下ではそれはどういうふうであっただろうか、あるいはそれはどういうふうでなければならぬとわれわれに想像せられるか、ということとある程度関係がなければならない。 われわれはすべての 公平無私なる見物人 がわれわれ自身の行為を検討するに違いないと想像せられるような方法でもって、自分自身の行為を検討すべく努力しなければならない。 もしも、自分自身を 公平無私なる見物人 の立場においてのみ、われわれがわれわれ自身の行為を支配したあらゆる上巻や動機に徹底的に移入するならば、われわれはこの想像上の公平なる裁判官の是認に同情することによって、自分自身の行為を是認する。 もしもそうでなければ、われわれはこの 公平無私なる裁判官 の否認に移入して、自分の行為を断罪する。 (『道徳情操論』第3部第1章「自己是認と自己否認の原理について」から)
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<主な参考文献・引用文献>  「地産地消の国アルバニア」シリーズで参考にしたり、引用した文献です。
『新生アルバニアの混乱と再生』[第2版]                        中津孝司 創成社   2004. 2. 1
『新生アルバニアの混乱と再生』                            中津孝司 創成社   1997.11.20
『アルバニア現代史』                                 中津孝司 晃洋書房  1991.11.20
『NHK特集 現代の鎖国アルバニア』                    NHK取材班 日本放送出版協会 1987. 5.20
『エコノミスト アルバニア訪問記』 小さな国の大きな智恵               新井宝雄 毎日新聞社 1975. 9.16
『朝日ジャーナル 東欧紀行ー小さな国の大きな実験』                  菊地昌典 朝日新聞社 1975. 9.19
『中日新聞 変化の胎動 鎖国アルバニア』                    クレア・ドイル 中日新聞社 1990. 4.20
『文献・新聞記事からみるアルバニア』                  大倉晴男 勁草出版サービスセンター 1992.10.15
『双頭のワシの国アルバニア』                             秋岡家栄 三省堂   1977. 8.25
『宇沢弘文著作集第T巻 社会的共通資本と社会的費用 自動車の社会的費用』       宇沢弘文 岩波書店  1994. 5.10
『マン・マシン・システムの社会』                           高木純一 三省堂   1970.11.15
『バルカンの余映 東西南北の接点 ユーゴ・アルバニアの実相』             天羽民雄 恒文社   1988. 8.20
『アルバニア小頃』                                  鈴木正行 新風社   1997. 2.18
『朝日ジャーナル 東欧紀行ー小さな国の大きな実験』                  菊地昌典 朝日新聞社 1975. 9.19
『大宅壮一全集22巻』                                大宅壮一 蒼洋社   1981. 2.25
『アルバニアの反逆』                         ハリー・ハム 石堂清倫訳 新興出版社 1966. 6. 1
『アルバニア労働党史第2冊分』                    日本アルバニア友好協会訳 東方書店  1974.12.10
『スターリン主義とアルバニア問題』                    「国際評論」編集部編 合同出版社 1962. 4.20
『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』     ピーター・ハークレロード 熊谷千寿訳 原書房   2004. 4. 5
『北京週報』 1976年12月28日号                        北京週報社      1976.12.28
『人民中国』 1973年12月号                           人民中国雑誌社    1973.12
『世界SF全集』『1984年』                ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳 早川書房  1968.10.20
『われら』                             ザミャーチン 川端香男里訳 岩波文庫  1992. 1.16
『1985年』                       アントニイ・バージェス 中村保男訳 サンリオ  1979. 8. 5
『1985年』続ジョージ・オーウェル「1984年」       ジェルジ・ダロス 野村美紀子訳 拓殖書房  1984.10.20
『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』          アー・ソルジェニーツィン 稲田定雄訳 角川文庫  1966.12.20
『中国の赤い星』                       エドガー・スノー 宇佐美誠次郎訳 筑摩書房  1964. 9.20
『目覚めへの旅』                         エドガー・スノー 松岡洋子訳 紀伊国屋書店1964. 9.20
『中国の歌ごえ』                       アグネス・スメドレー 高杉一郎訳 みすず書房 1957. 3.10
『中国紅軍は前進する』                     アグネス・スメドレー 中理子訳 東邦出版社 1971.12.15
『人民中国の夜明け』                       ニム・ウェールズ 浅野雄三訳 新興出版  1971. 9.25
『医師ノーマン・ベチューンの偉大なる生涯』   テッド・アラン/シドニー・ゴードン 浅野雄三訳 東邦出版社 1971.12.15
『はだしの医者とともに』イギリス人医師のみた中国医療の15年    J・S・ホーン 香坂隆夫訳 東方書店  1972. 2.20
『青春の北京』北京留学の十年                            西園寺一晃 中公文庫  1973.10.10
『ぼくの北京留学』バレエと文革と青春                          林道紀 講談社   1972. 5.24
『東欧諸国の銀行制度と金融管理』アジア経済調査研究双書237          田中壽雄 アジア経済研究所 1976.10.18
『ユートピア』                            トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫  1978.11.10
『環地中海』                        NHK「地中海」プロジェクト 日本放送出版協会 2001. 6.30
『バルカン危機の構図』                            今井克・三浦元博 恒文社   1993.10.25
『迷信の見えざる手』アダム・スミスは生きている                    竹内靖雄 講談社   1993. 9.30
『国富論』                            アダム・スミス 大河内一男訳 中央公論社 1978. 4.10
『道徳情操論』                           アダム・スミス 米林富男訳 未来社   1969.10.30
( 2006年3月27日 TANAKA1942b )
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