趣味の経済学
コメ自由化への試案  Files
アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill     30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します    趣味の経済学    趣味の経済学

コメ自由化への試案 Files  もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ
 ▼http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/agri-file.html▼
 1  もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ 安定供給のためには、自給率を下げること ( 2001年5月14日 )
 2  関税率の工夫とノブレス・オブリージュ 特定の国からの輸入に頼らない制度 ( 2001年5月21日 )
 3  問題への取組姿勢 積極的な自由化への対策 ( 2001年6月11日 )
 4  農水省事務方の苦悩 その悲痛なメッセージを代弁する ( 2001年7月2日 )
 5  自給自足の神話 それは文明発祥と同時に神話になった ( 2001年7月9日 )
 6  現代に生かそう大坂堂島の米帳合い取引 需給調整と価格安定のために ( 2001年8月6日 )
 7  農家はプットを生かそう 江戸時代の大阪堂島の商人に負けるな ( 2001年8月13日 )
 8  キャベツ帳合取引所はいかがでしょうか? これならば将軍吉宗も納得だろう ( 2001年8月20日 )
 9  帳合取引所はカジノなのか? 待たれる市民投機家の参加 ( 2001年8月27日 )
10  指数取引が価格を安定させる さらなる取引商品の開発を ( 2001年9月17日 )
11  備蓄米はコールをロングしておこう 合理的な備蓄米制度と安定供給 ( 2001年9月24日 )
12  交換の正義が守られないとどうなるか? 今も生きてる、江戸商人の知恵 ( 2001年10月1日 )
13  文明開化で「自給自足」が神話になった 前半のレジュメ ( 2001年10月29日 )
 ▼http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/agri-file-2.html▼
14  農協はどうなるのか? 歴史的使命を終えた購買部門 ( 2001年11月5日 )
15  農協購買部門、各方面からの見方 農家は農協をとことん利用してみよう ( 2001年11月12日 )
16  農協、その事業内容の確認 「お客様は神様」の時代についていけるか? ( 2001年11月19日 )
17  3段階の系統組織 組織ダイエットはなるか? ( 2001年11月26日 )
18  コメ産直を考える 産業として伸びるキッカケとなるか? ( 2001年12月3日 )
19  信用事業は、頼母子講から金融自由化の荒波へ 住専での経験は生かせるか? ( 2002年1月14日 )
20  農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になるのか? 事業部門毎に株式会社として独立 ( 2002年1月21日 )
21  農地売買自由化 農民を土地に縛り付ける封建制 ( 2002年2月4日 )
22  「身土不二」や「地産地消」について なるべく多くの人に味わってもらいたい (2002年6月10日)
23  スローフードというグルメ 食品産業のトレンド卵となるか? ( 2003年4月28日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FXは相対取引です 客の損した分が業者の売り上げになるので金儲けの手段にならない
コメ自由化への試案 Index

14 農協はどうなるのか?
購買事業の歴史的使命は終わった
<メーカーとの交渉力が使命だった> 1947年(昭和22年)農業共同組合法が公布された。その後の経緯は別項に譲るとして、ここでは購買事業について考えてみる。先ず当時の状況を筆者なりに推測してみよう。
 購買事業の存在意義は、大量購入による仕入れ価格の削減にあったと思う。戦後間もない頃、世の中は物不足。生産者と消費者では生産者主導の取引だった。そこで個々の農家とメーカーとの力関係で言えば、メーカーの言いなりだった。そこで農協が登場した。メーカーと対等に価格交渉できると期待された。
 その後の変化をどう捉えるか?筆者はこう考えた。 (1)生産者主導の経済から、消費者主導の経済へ変わった。 (2)物不足の時代から、物余りの時代になった。 (3)農協の経営体質が問題になり、利益を追求しなければならなくなった。
<(1)生産者主導の経済から、消費者主導の経済へ変わった> 別の言い方をすると「お客様は神様です」が徹底した経済社会になった。それには消費者運動の果たした功績が大きいと思う。1970年代になるまで、乳脂肪分が何%であってもアイスクリームと呼び、果汁0%でもジュースと称していた。これに対して消費者型の異議申し立てが起きた。メーカー側は驚いたに違いない。それまでそうしたことに対する消費者の異議申し立て等なかったのだから。小さいことのようだが生産者の目を消費者に向けさす効果があったと思う。家庭電化製品のメーカー責任によるリコールが始まったのもこの頃だった。一方消費者運動の名を借りてメーカーを恐喝したと、欠陥車問題の弁護士がホンダに訴えられたのもこの頃だった。アメリカの消費者運動家、ラルフネーダーに刺激されながらも、日本独自の試行錯誤を重ねながら消費者主導の経済体制を築き上げていった。こうした関係者の努力は高く評価したい。
 こうした消費者主導に変わっていったのは食品製造や家庭電化製品が中心だった。消費者にとっての身近な商品、そして大企業中心だった。これには大企業=独占企業、消費者対大企業の対決、といった図式が消費者側の頭にあったかも知れない。当時は70年安保が終わったと言っても、今では考えられないほど社会主義に対する国民の憧れが強かった。そのような時代に、大企業を攻撃しようとする気持ちと消費者の権利を主張しようとする気持ちが合わさり消費者運動が進められたのだと思う。
 日本でまだ消費者運動が理解されていない時代、訳の分からない「消費者運動」を名乗る団体から矢文が来て、当時の担当者はとまどったに違いない。初めの内煙たがられていた運動も次第に理解される様になり、企業は消費者対策に力を入れ始めた。消費者運動の矢面に立たされたのが大企業中心であったため、皮肉なことに大企業から消費者対策に力を入れ始めた。「お客様は神様だ」は大企業から徹底していった。そうして未だに農業ではこの考えは定着していない。何しろ消費者に向かって生産者がお説教するのだから。農業が日本の文化の中心で、環境保護に効果があり、ダム効果は3兆円相当で、日本の工業が不振になり食料輸入ができなくなるとどんなに危険なのか、そのために自給率を上げなければならないのだから、高い食糧でも国産を買うべきだ、と。このような説教を家電メーカーや自動車メーカーがやったらどうなるだろう。とてもそのようなことは想像もできない。
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<(2)物不足の時代から、物余りの時代になった> この変化によって消費者のニーズが多様化した。商品を提供する側は絶えず消費者のニーズを知らなくてはならない。さらにそれに伴って幅広く、奥深い商品知識が必要になる。一般の企業ではこれを怠るとライバル企業にシェアを取られ、社員はボーナスが少なくなる。そのインセンティブがあるので消費者の要望に応えられるのだ。農協ではどうだろうか?
 物不足の時代には必要最小限の商品をそろえれば良かった。それで消費者・農家は喜んで・感謝して買ってくれた。その記憶が消えてない現代、消費者・農家が感謝して農協から物を買ってくれると錯覚している。物余りの時代、農協以外の販売業者は必死で消費者の機嫌を取ろうとする。ここでの取引は消費者が感謝するのではなく、「買ってくれて、有り難う」なのだ。当然消費者はそちらへ向かうようになる。「消費者・お客様は神様です」の方へ足が向くことになる。
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<(3)農協の経営体質が問題になり、利益を追求しなければならなくなった> 購買部門が利益を出すということは、(1)仕入れを安くする、(2)売値を高くする、(3)販売経費を節減する、のどれかだ。
 (1)農協の仕入れは安いのか?しっかりした資料がないようだ。ある資料によると農協のマージン率は小売商に比べかなり少なくなっている。そしてそれを引用した著者は実際は同じくらいだろう、と書いている。2000年11月に農水省が「農協改革の方向」というタイトルの文書を発表した。これによると「農業者等からの直接の発注を受ける受注センターを全国に一カ所設け、広域に配慮した配送拠点から供給する体制を確保し、輸送・在庫コストを最小にしていくこと」とある。それに対するコストとリスクは誰が負担するのか?結局は農協と農家が負担することになる。 コスト対ベネフィットと考えてどうなのか?コストもだがベネフィットの元になる資料、つまり現在の仕入れコストが一般企業に比べてどの位高いのか?この受注センターによりどの品目が、どの程度流通コストが低減できるのか?そうした数字、元になる数字がない。戦後の物がない混乱期ならともかく、現代では仕入れ価格に大きな差はないとみるべきだろう。 そうすると(2)の売価を高くすることに期待が集まる。
 (2)つまり「農家に高く買ってもらおう」と言うことになる。ここにおいて「農家のための購買部門」が「農協のための購買部門」に変身する。この販売価格に関してはもう一つ問題がある。農水省の文書から引用しよう。「農業者のタイプにより購入の仕方が異なるので、購入形態や購入量に応じた価格設定等のルールを定め、・・・実質的に公平な事業運営を行うこと」
 つまり「いっぱい買ってくれる人には安く売りましょう」という当たり前のことだ。この当たり前のことが改革の方向だと言うのなら、今まではどうなのか?大口購入者の犠牲において小口購入者が得をしている。別の言い方をすれば「みんなで弱者である、小口購入者を助けている」「大口購入者と小口購入者が共存している」「農協は助け合いの精神が十分に生かされた組織で、市場原理・競争原理に基づく社会はそのひずみを全て弱者に押しつけることになる」
 (3)販売経費を節減する、ということは農協も一般企業並に今流行の「リストラ」をやろうと言うことだ。ここにおいて農協がやっと一般企業並の時代感覚を取り入れることになる。 そしてこのことが「農協内に競争原理を持ち込み、助け合いの精神を失わせる」「農協と一般企業との区別がなくなる」と、組織内で旧勢力から反対されることになる。
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<販売部門が利益を出すと言うことは・・・> 販売部門が利益を出すということは、安く仕入れて、高く売ることにつきる。戦後の混乱期には「農協」という大きな組織であるが故に安く仕入れことができた。社会が変化し、経済が変化し農協であることの特典はなくなった。農家は農協から購入する価格面でのメリットがなくなった。農協が生き残るためにはマージン率を上げなければならなくなった。つまり「農家に高く売る」と言うことだ。この機に及んで「農協の購買部門」はどうあるべきなのか?
 「購買事業の歴史的使命は終わった」では具体的にはどうしたらいいのか?農水省の「文書」はアマチュアエコノミスト以下の作文として葬ることにしよう。今週はここで止め、農協の問題は回を重ねながら具体的な改革案を提言していきます。ご期待ください。
( 2001年11月5日 TANAKA1942b )
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15 農協購買部門、各方面からの見方
農家は農協をとことん利用してみよう
 農協は各方面からどのように見られているのだろうか?まず政府農水省から。国の方針は法律を目ればいい。そこで平成11年に制定された「食料・農業・農村基本法」を見てみよう。この法律の目的は
第一条
 この法律は、食料、農業及び農村に関する施策について、基本理念及びその実現を図るのに基本となる事項を定め、並びに国及び地方公共団体の責務等を明らかにすることにより、食料、農業及び農村に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図ることを目的とする。」

とある。以下2条から5条までを「基本理念」としているので、ここに掲載しよう。

(食料の安定供給の確保)
第二条
 食料は、人間の生命の維持に欠くことができないものであり、かつ、健康で充実した生活の基礎として重要なものであることにかんがみ、将来にわたって、良質な食料が合理的な価格で安定的に供給されなければならない。
2 国民に対する食料の安定的な供給については、世界の食料の需給及び貿易が不安定な要素を有していることにかんがみ、国内の農業生産の増大を図ることを基本とし、これと輸入及び備蓄とを適切に組み合わせて行われなければならない。
3 食料の供給は、農業の生産性の向上を促進しつつ、農業と食品産業の健全な発展を総合的に図ることを通じ、高度化し、かつ、多様化する国民の需要に即して行われなければならない。
4 国民が最低限度必要とする食料は、凶作、輸入の途絶等の不測の要因により国内における需給が相当の期間著しくひっ迫し、又はひっ迫するおそれがある場合においても、国民生活の安定及び国民経済の円滑な運営に著しい支障を生じないよう、供給の確保が図られなければならない。
(多面的機能の発揮)
第三条
 国土の保全、水源のかん養、自然環境の保全、良好な景観の形成、文化の伝承等農村で農業生産活動が行われることにより生ずる食料その他の農産物の供給の機能以外の多面にわたる機能(以下「多面的機能」という。)については、国民生活及び国民経済の安定に果たす役割にかんがみ、将来にわたって、適切かつ十分に発揮されなければならない。
(農業の持続的な発展)
第四条
 農業については、その有する食料その他の農産物の供給の機能及び多面的機能の重要性にかんがみ、必要な農地、農業用水その他の農業資源及び農業の担い手が確保され、地域の特性に応じてこれらが効率的に組み合わされた望ましい農業構造が確立されるとともに、農業の自然循環機能(農業生産活動が自然界における生物を介在する物質の循環に依存し、かつ、これを促進する機能をいう。以下同じ。)が維持増進されることにより、その持続的な発展が図られなければならない。
(農村の振興)
 農村については、農業者を含めた地域住民の生活の場で農業が営まれていることにより、農業の持続的な発展の基盤たる役割を果たしていることにかんがみ、農業の有する食料その他の農産物の供給の機能及び多面的機能が適切かつ十分に発揮されるよう、農業の生産条件の整備及び生活環境の整備その他の福祉の向上により、その振興が図られなければならない。

 農協に関しては次のようにある。

(農業者等の努力)
第九条
 農業者及び農業に関する団体は、農業及びこれに関連する活動を行うに当たっては、基本理念の実現に主体的に取り組むよう努めるものとする。
(団体の再編整備)
第三十八条
 国は、基本理念の実現に資することができるよう、食料、農業及び農村に関する団体の効率的な再編整備につき必要な施策を講ずるものとする。
この法律を基にその政策の具体化のための計画があるので、そこから農協に関係のありそうな部分を抜き出してみよう。
食料・農業・農村基本計画 平成12年3月
4 団体の再編整備に関する施策
 基本法の基本理念の実現に資することができるよう、食料、農業及び農村に関する団体の効率的な再編整備につき必要な施策を講ずる。  なお、これらの団体に関連する食料、農業及び農村に関する諸制度の在り方の見直しを行う場合には、これらの団体の体制についても、その見直しを行う。
ア 農業協同組合系統組織
 農業協同組合系統組織が、自主的に、食料の安定供給、農業の持続的な発展、農村の振興という基本法の基本理念を的確かつ効率的に実現できるような体制を整備するのに必要な施策を推進する。
イ 農業委員会系統組織
 農業委員会系統組織が、優良農地の確保及びその有効利用、担い手の育成及び確保等の役割を効率的かつ十分に果たすことができるよう、組織体制の適正化や組織の効率的な再編整備に必要な施策を推進する。 
ウ 農業共済団体
 農業共済団体が、農業の担い手の育成や農業経営の安定に果たす役割を強めつつ、農業災害補償制度の円滑な普及・定着に向けた取組を効率的に展開できるような体制を整備するのに必要な施策を推進する。
<それほどまでに国の干渉が必要なのか?> これほどまでに国家が口を出さないと。農業はやっていけないのだろうか?日本国内では一方で「規制緩和を求む」との声があり、一方で国の保護に入ろうとする。「人間幼稚化」ではなく「産業幼稚化」なのだろうか?
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<全中のHPから> 組合員が作った新鮮で安心な農作物をJAを通して販売する「販売事業」、そして農業生産に必要な資材や生活に必要な物資を通して購入する「購買事業」を行っています。この事業をあわせて「経済事業」と呼んでいます。
《購買事業》
飼料の購入の際に、地域農業の担い手である大規模専業農家等に対し、供給数量や配送コストに見合った弾力的な価格設定を行う等のきめ細かな対応をしていくことが求められています。
 変化しつつある多様な食料需要に対応した農業を構築していくためには、きめ細かな消費者ニーズの把握が不可欠です。
 販売金額の伸びが大きい単位農協(1つの農協)については、以下に示す例のように、消費地や消費者に自ら積極的にアプローチする取組の実施率が高くなっています。
◆消費地へ出向いての実地調査
◆消費地でのアンテナ・ショップ等の設置
◆消費者との定期交流 等
 1JA(=農協)当たりの事業部門別の損益を見ると、従来より、信用・共済部門においてはプラス、購買・販売部門ではマイナスという状況が続いています。
 生産資材事業は、肥料農薬事業、資材・農機・施設住宅事業に大別されます。
 肥料農薬事業は、文字通り肥料と農薬の流通を担っています。なかでも化成肥料をはじめとする主要肥料の取扱量は国内流通の70%を占めています。化成肥料の原料のほとんどは国内で産出しないため、海外からの仕入れ機能強化にも取り組んでいます。また、「アラジン」をはじめとする高品質で安価なJAグループ独自の肥料・農薬の開発・供給も重要な業務のひとつです。
 資材事業では、育苗・栽培に必要な被覆資材や出荷のための包装資材を取り扱っています。低コスト段ボール資材の開発や環境に配慮した資材の普及に努めています。
 農機事業では、生産に欠くことのできない農機を取り扱っています。低コスト農機(HELP)の型式設定や取扱拡大を推進するとともに、広域部品センター設置など、広域的な事業展開をすすめています。
 施設住宅事業では、大型カントリーエレベーターや、選果包装施設など農家の省力化・低コスト化、さらには高齢化・情報化に対応できる施設の建設を推進しています。このほか、アパート経営支援等、土地活用のコンサルティングを行い、生産者の生活を支援しています。
<参考> 購買事業で農協のシェアは次のとおり、肥料92.3%、農薬70.0%、石油類64.0%、飼料39.8%
 農協と小売商のマージン率比較があるのでその一部を掲載しよう。品目 農協マージン率 (小売商マージン率)
 飼料4.8 (20.6) 肥料12.2 (20.6) 農業機械11.2 (28.7) 石油類18.3 (25.4) 自動車7.3 (29.1) 建築資材4.9 (26.0)
 米12.9 (22.3) 生鮮食品19.7 (32.9) 一般食品16.8 (24.6) 衣料品15.3 (37.6) 耐久消費財11.5 (34.4) 日曜保険雑貨洋品13.8 (31.9) 家庭燃料45.2 (46.8)
 以上の加重平均15.2 (27.3) 購買品全品目の平均14.3 (35.9)
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<誰でも、どこでも、購入量に関係なく価格は同じなのか?> 飼料の購入の際に、地域農業の担い手である大規模専業農家等に対し、供給数量や配送コストに見合った弾力的な価格設定を行う等のきめ細かな対応をしていくことが求められています。
 全中のHPから上記の文を拾い出した。これによると「多量に購入してくれるお客様には、優遇価格を適用しましょう」とのごく当たり前の商売になる。しかし本当に当たり前なのか?農家が単独でメーカーや商社と価格交渉しても力が弱い、そこで農協が纏めて多量に購入することによってメーカー・商社と価格交渉というのが農協購買部門の趣旨のはずだ。従って「多量に購入する農家も、少量購入の農家も同じ価格」のはずで、そしてそれは内部で確認されていた。農協の精神とは「力の弱い農家が集まれば強くなる。強い農家も、弱い農家も力を結集しましょう」つまり強い農家から弱い農家への所得移転を農協がやっているわけだ。それが普通の商売に改めよう、というのがこの文の趣旨になる。つまり「農協という名の社会主義的生産共同体、旧ソ連のソフォーズ、コルフォーズや人民公社から資本主義社会の株式会社にしましょう」と言うことだ。これで農協も、一般の業者と争って、農家=お客様=神様のご機嫌を取ることになる。農家にとっては歓迎すべきことだ。せいぜい我が儘を言ってどの業者が一番農家の希望を聞くか、見極めてみよう。
<運命共同体ではなく、便利なお店と考えよう> 農家が豊かで安定した収入を得るためには「農協は、運命共同体などではなく、便利な近所のお店」と考えるのがいい。もしほかにもっと便利なお店ができればそちらも利用すればいい。と言ってもどちらか一つに決める必要はない。そこでサービス競争が始まる。農協にとっては今までに経験したことのない競争になるだろう。そこで負けて競争から撤退する農協も出るかも知れない、あるいは十分な戦略を練ってたくましく生き延びて行く農協も出るだろう。そうして農協が「人民公社」から資本主義社会のサービス業に変身する。その変身ができなければ、いずれ単なる農家の親睦団体になるだろう。それを決めるのは神様=お客様=農家だ。
( 2001年11月12日 TANAKA1942b )
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16 農協、その事業内容の確認
「お客様は神様」の時代についていけるか?
 「コメ自由化への試案」を考えるとき「農協をどうするか?」は避けて通れない大きな問題だ。購買事業を取り上げたが、もう一度「農協とはなにか?」の原点にかえって、その事業内容を再確認してみよう。
信用事業 JAバンクだ。銀行や信用金庫・信用組合などと同じと思えばいい。預金残高約36兆円。問題点は状況の変化にどう対応するか?ということだ。 (1)金融ビッグバンで競争が激しくなる。これに勝ち残れるか? (2)低金利時代資金運用をどうするか? (3)農家の資金需要が伸びない。どこに貸し出すか?
 農家が農作機械などを積極的に購入していた時代は農家に資金需要があった。しかし農業がこれから拡大する産業とは考えられない、とすると農業での資金需要は伸びないだろう。電化製品や乗用車の普及もこれからは伸びないだろう。ではJAバンクはどこに貸し出すのだろうか?かつて住専に集中的に貸し込み大きな失敗をした。あれは「リスクを分散する」という基本姿勢を怠っていたからだ。この体質は今でも変わらないかも知れない。食糧の安定供給のために「供給地と流通ルートを多くし、リスクを分散させる」という姿勢を理解してないかも知れない。リスクを分散させるのではなく、「統制経済、社会主義経済のように一カ所で集中管理するのがいい」と考えているのかも知れない。 新たな融資先を開発しなければならない。かと言ってデリバティブは理解できないだろう。と言うより理解したがらないだろう。「あれはアメリカのグローバル戦略の一環で、金融も農産物もアメリカの多国籍企業の支配下に置こうとする戦略だ」と拒否するのだろう。
 低金利なのでコール市場での運用も期待できない。都市銀行など資金の取り手が農協・信託銀行などの出し手に期待しなくなっている。
 金融商品の多様化により農協でもリスクの高い商品を扱えるようになった。その「リスク」という概念を農家=お客=神様に理解させられるだろうか?いやそれよりも農協職員自身が十分理解できるのだろうか?多くのリスクを抱えたこの市場経済が社会主義経済・政府による管理保護経済と違うことを。それでありながら農協はこの「信用事業」と「共済事業」によって他の事業を支えている。現在これが農協の屋台骨になっているのだ。
共済事業 1950(昭和25)年、全国共済農業協同組合連合会(全共連)が設立された。この事業は、まず組合員と農協(JA)とが契約を結び、組合はこれを県共済連に再共済する。そして県共済はJA全共連に再々共済をして、共済責任を保証する仕組みになっている。
 信用事業と並ぶ農協の屋台骨。信用事業と同じように資金の運用方法が今後の問題だろう。この業界での金融ビッグバンの影響はどうだろうか?信用事業に比べればあまり悲観的ではない。共済と言う保険商品の販売は、自動販売機やセルフ・サービス販売ではない。フェイス・トゥー・フェイス販売、縁故、人脈販売が中心だから農協での販売は安泰だろう。ただそれだから「農協は共済などを押し売りする。断ると日常の扱いで不利になるので断れない」との不満が出るかも知れない。それが農協離れに結び付かなければいいのだが・・・
 それでも農協職員の多くが、信用事業と共済事業を手がけるようになるといい。そうすれば「リスク管理とはどういうことか?」を考え理解するようになるだろうからだ。
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販売事業 農協組合員が生産した農産物を協同販売して、組合員個々で対応するより有利な価格を実現しようとするのが農協の販売事業。また生産物を一定期間貯蔵・保管したり加工するのも販売事業の一部だ。問題は (1)無条件委託方式は今のままでいいのか? (2)コメの流通が自由化され、集荷業者としての特権がなくなり、扱い量が減ること。
 「リスクを分散させる」と言うことは流通部門にも当てはまる。農産物を農協を通して消費者のもとに届ける。その流通ルートは農協だけでなない。各地方の卸売市場も積極的に農家へ働き掛けている。ネット上でも野菜の流通ルートを作ろうとの動きがあり、何かのきっかけにこれが大きく発展する可能性がある。また産地直売はこれからも少しづつではあるが市場を大きくするに違いない。それは日本国民が豊かになって食品に対する価値観が変わって来ているからだ。未だに食糧を飢餓から救う物、「食べ物がなければ死んでしまう」との捉え方をする人がいるが、日本人の多くは飢餓も栄養失調もあまり意識の中にはない。むしろグルメとして捉えることが多くなっている。「飽食の時代」との表現で贅沢を批判する人も、日本にいる限り飢餓の心配はない。むしろ飢餓の心配がないから「飢餓」「人口爆発による食糧危機」を論じられるのかもしれない。(この話を進めていくと「縄暖簾の経済学」になりそうなのでここで話題を変えます)
 いずれ農協以外の集荷業者が参入し、農家に対して農協ではできない各種サービスを始めるだろう。そしてその集荷業者にとって農家はお客様=神様だ。神様にはどのように礼を尽くし、どのような我が儘に答えてくれるか?農家の皆さんは楽しみにしていていいだろう。
 流通の中心には取引所がなるだろう。江戸時代大阪堂島の商人の知恵が生かされるに違いない。すでに活動している「東京穀物商品取引所」も各地の中央卸売市場も、刺激を受けさらに活動を広げるだろう。
 「=6=現代に行かそう大阪堂島の米帳合い取引」で次のように書いた。
 東京にでき、大阪にでき、その他の地方にコメ取引所ができる。それぞれ銘柄とか取引条件などで、特徴を出す。それぞれが競い合って、そのうちに勝ち組・負け組がでて提携・合併されるかもしれない。考えてみれば日本のコメ需要量からしてそれほど大きな市場にはならないだろう。では株式会社としてのコメ取引所が発展するにはどうしたらいいのか?それはコメに限らず商品を取りそろえることだ。クレジットデリバティブや天候デリバティブなども扱うことになるだろうし、不動産や債権を利用し、証券化した資産担保証券も扱うことになる。そしてコメで言えば、日本の備蓄米もオプション取引で扱われることになる。そうなってこそ現代版米帳合取引所の存在意義が認められることになるのだからだ。
 この文を書いてから天候デリバティブについてはNHKテレビで紹介されていたし、資産担保証券は東証で売買されるようになった。さらに面白いのは2001年11月18日、朝日新聞に「のどあめ販売に新デリバティブ 湿度53%超えたら、補償金払います」との記事があった。「天候デリバティブ」に「湿度デリバティブ」という新顔が登場したわけだ。
 さてこのデリバティブの世界、農協職員の皆さん、この早い動きについていけますか? 「ハイテク金融商品」「多国籍企業のグローバル戦略」「アメリカのスタンダードをグローバル・スタンダードと押しつけている」等という問題ではなく、江戸時代の大阪堂島の商人や、江戸を初めとする全国の株仲間の知恵、言い換えれば日本人が昔から持っていた、「経済に対するセンスと知恵」これが生かされたと考えるべきだろう。むしろ多くの社会主義幻想者の批判がある中でも、このように市場経済に対する優れたセンスと知恵を守り育ててきた先人を誇りにしたいと思う。
購買事業 肥料・農薬・飼料・農業機械など組合員の営農活動に必要な品目の供給を行うのが生産(資材)購買であり、食品・日曜雑貨洋品・耐久消費財など組合員の生活に必要な品目の供給を内容とする生活(資材)購買だ。組合員が個々に交渉するより、組合として大量購入を前提として価格交渉をした方が有利だろうとの趣旨だ。しかしこれは供給側の態度の変化により、共同購入のメリットがなくなりつつある。
 「価格破壊」「流通革命」「消費者のニーズの多様化」等に対応できるのだろうか?「組合員=農家=お客様=神様」と言う意識はあるのだろうか?神様=農家=組合員はJAコープに限らず気に入ったお店で買い物をすればいい。それによって農協離れが起こると心配するなら、その時農協は慌てて対策を考えるだろう。どうしたら神様に気に入られるか?を。そして農協改革が起こるか、あるいは破綻の道を歩み始めるか?
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営農指導 農協事業の中で一番重要な事業かも知れない。そのポイントは「個々の農家に対する、作目別技術及び経営の指導・相談」となるだろう。これに対する営農指導員は、一農協あたり 5.3人、一営農指導員のカバーする正会員は平均 296人。農協職員に占める営農指導員の割合は 6.2%とけっして多くはない。「農協は営農指導をおろそかにしている」との批判が出るのも無理からぬことかも知れない。
 営農指導は受益者負担になっていない。おおまかに年間一組合員いくら、という形で徴収した原資(賦課金)や事業からの利益で賄っている。つまり赤字事業なのでこのままで営農指導を充実させるのは難しい。思い切った発想の転換=例えば組合員から「一時間いくら」といった対価を取る方式などを検討すべきだろう。とは言えこれは難しい。農協の精神は「受益者負担」ではないだろう。「助け合いの精神」ならば強者も弱者も平等に受益者として負担するということは受け入れられないはずだ。
 ここに業者が参入したらどうなるか?十分料金に見合ったサービスを提供するだろう。数社が参入しサービス競争が始まる。ここでも農家は業者にとってのお客様=神様だ。
厚生事業 1947(昭和22)年、農協が発足するとともに、厚生農業協同組合連合会(JA厚生連)が発足して病院経営に取り組むことになった。医療・保険事業は主に都道府県の連合会によって行われ、単位組合がこれを利用する仕組みになっている。
 JA厚生連に限らず保険事業は厳しいはずだ。もしそうでないと言うなら状況を性格に理解していないか、何かを隠しているかだ。 (1)低金利時代にあって資金運用が厳しい。つまり集まった保険料から運用益が出せない。 (2)高年齢化に伴い医療費が大きく伸びている。これらに対する対策はどうなのか?大手企業の健保や国民健保でも有効な方針が定まらない。農協で独自の将来像は描けないだろう。
観光・リゾート事業 観光事業としては、1967(昭和42)年に社団法人全国農協観光協会を設立、1990(平成2)年、株式会社全国農協観光に事業を引き継ぐ。これは旅行代理店。リゾート事業としては都市住民の農村・農業とのふれあいを目的とした「農村型リゾート整備」を進めている。
 1980年代のバブルが膨らんでいる時代ならともかく、大型テーマパークでさえ経営危機にある今日、どのようなリゾート計画を進めると言うのだろうか?旅行代理店は米国多発テロの影響で売り上げが減っている。社会的意義はともかくとして、経営はやっていけるのか?不良債権にならなければいいが。
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教育・広報事業 「事業」という表現をしたが、利益を生むものではなく「活動」という言葉が適しているかもしれないがここでは「事業」という言葉を使う。ところで「教育」とはどのような「教育」をするのだろうか?資本主義社会日本の中で、株式会社に囲まれた中で、「いかにして非資本主義社会を守って行くか?」の教育になるのだろうか?1844(弘化元)年、イギリスのロッジデールの組合の精神を現代に生かそうと教育するのだろうか?ロバート・オウエンなどに受け継がれて行く、マルクスの表現を借りれば「空想社会主義」をこの日本で実践しようとするのだろうか?そしてその教育となると、「1825年に始まり4年後に失敗した、ニューハーモニーにおける空想社会主義運動」を教育するのだろうか?もし本当に中央の幹部がそのように考えているならば、社会主義の本家「日本共産党」はどのように評価するだろう?民主社会主義を目指す「民主社会党」はどうか?そしてコメ議員の多くいる資本主義政党「自由民主党」は?もしもこの教育が徹底し農協組合員がロッジデールの空想社会主義を支持したら、日本の社会体制はどうなるのだろう?
農政事業農協法で「中央会は、組合に関する事項について、行政庁に建議することができる」とある。これにより政府に働きかける事業。コメ族議員に圧力をかける事業。今まではかなり成果があった。これからはこうしたレントシーキングの効果は期待できなくなる。それよりも消費者=お客様=神様のご機嫌を取る事業にシフトした方がいいだろう。
 ところで農協の農政事業では「危機管理」を研究しているのだろうか?日本政府が「外圧に負けた」との口実でコメ自由化を認めたらどうしたらいいのか?1995年12月のウルグアイ・ラウンドでは全くコメ輸入に対する「危機管理」はできていなかった。「そうなったらイヤだ」と思いながらも、「そうなることを予想して」研究しなければならない。「言霊」の国の研究者には辛いことだ。
 もう一つ、コメ族議員は「日本の農業を憂える余り、コメ族議員なのだ」とは思わないほうがいい。「農村票が欲しいから」なのだから。そしてそれは当然のことで、非難すべきことではない。こうしたクールな見方で、さて「農協を守る」のか、「農家を守る」のか、いずれ決断すべき時がくるに違いない。
青年部・婦人部 農協青年部は農村青年の独立した自主組織であって、農協の内部組織でも、御用組織でもない。という建前ながら農協の助成金に依頼している。そして若い人達は農協の古い体質に批判的だ。さらに農業人口の大幅な減少による部員数の減少、兼業化の波などの問題がある。
 農協婦人部は青年部に比べて元気がいい。ただし余り元気がいいので農協の古い体質衆からやっかみが入らなければいいが。むしろ農協から独立した方がこれからも大きく伸びるのではないだろうか。
農村文化の継承 農協関係の書物を読んでも余り書いてはないが、このあたりが一番農協のウリなのだろうと思う。将来農協がじり貧になり、影響力を失ったとしても、「農家の親睦団体」としては残るし、「農村文化の継承者」としての地位は保つだろうと思う。
 日本にはキリスト教、ユダヤ教、イスラムなどの一神教は根付かなかった。八百万の神々の国だ。その国で戦前ほど神社やお寺が地域社会での影響力を失っている。そうなると農村部では農協の出番だ。伝統文化・精神文化を扱うサービス業としての農協の存在を見直してもいい。問題はコストをどうやって手当するか?だ。農協の他事業から組み入れるか?しかしそれほど余裕もないし。受益者負担にするか?あるいは神社・仏閣のように寄付に頼るか?このあたりが試案のしどころになるのだろう。
( 2001年11月19日 TANAKA1942b )
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17 3段階の系統組織
組織ダイエットはなるか?
<農協の組織> 農協はどのような組織になっているのか?それを確認しよう。
正組合員と准組合員 農協の組合員には、共益権と自益権をもつ正組合員と、自益権はもつが議決や選挙への参加など直接的な共益権をもたない准組合員がいる。 正組合員になれるのは、10アール以上の土地の耕作を行っているか、1年に90日以上農業に従事している農民であること。
 准組合員になれるのは当該農協の地区内の地域住民であること。つまり一般のサラリーマンも准組合員になれる。
総合農協と専門農協  総合農協は特定の農業分野を対象としていなくて、信用事業と信用事業以外の事業を併せて行う農協。そして総合農協以外の農協を専門農協と言う。つまり総合農協は営農・購買・信用・共済などの事業を行い、専門農協は果樹園芸・畜産・酪農・養鶏。養蚕など特定の農産物の分野において、その生産指導・販売・資材の供給などを行う。
出資組合と非出資組合 組合員が加入する時に出資金がいるかどうか?出資義務のあるのが出資組合、組合員に出資させないのが非出資組合と言う。非出資組合は信用事業や共済事業は行えない。 財産的基盤が不十分で貯金者等の保護に欠ける恐れがある、との利用からだ。組合員の立場から考えると、特定の農産物生産には専門農協にきめの細かいサービスを期待できるが、信用・共済などのサービスがないので、専門農協の組合員でありながら総合農協の組合員になっているケースもある。 一方総合農協はそのサービス品目が多いだけに、それぞれが専門業者に負けないサービスを提供しなければならない、という苦労がある。例えば信用事業ならば民間の銀行・信用金庫・信用組合や郵貯と競合する事になり、共済事業も民間の保険会社と競合する。当然販売事業も購買事業もだ。
 総合農協は信用・共済・販売・購買など利潤を出す事業の他、教育・営農など収益を生まない事業も行っている。そしてこれらを充実させるには、それなりの経費がかかり、農協経営の足を引っ張ることにもなる。
 1993年(平成5)年 3月末の農協の数は総合農協3073、専門農協3921の計6994となっている。ちなみに1950年(昭和25)年 3月末の農協数は総合農協13,314、専門農協19,787の計33,101。
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<事業別の上部組織> 農協組織は単位農協(専門農協・総合農協)、都道府県連合会、全国連合会という3段階の系統組織になっている。単位農協は全国各地に、地域別に設立される。総合農協はそれぞれカバーする地区が決まっていてテリトリーが重複することはない。 都道府県連合会は単位農協が組合員の意志により設立する。これは業種別の組織で,信連・共済連・経済連・厚生連および中央会がある。さらに都道府県単位の連合会の上部組織として全国組織があり、これは全国信連協会・農林中金・全共連・全農・全厚連・全中である。
 正式名称は次のとおり。信連=県信用農業協同組合連合会、共済連=県共済農業協同組合連合会、経済連=県経済農業協同組合連合会、厚生連=県厚生農業協同組合連合会、中央会=県農業協同組合中央会。 農林中金=農林中央金庫、全共連=全国共済農業協同組合連合会、全農=全国農業組合連合会、全厚連=全国厚生農業協同組合連合会、全中=全国農業協同組合中央会。
中央会は司令塔 都道府県連合会、全国連合会は業種別の組織になっているが、中央会だけは性格が少し違う。中央会は農協の健全な発展をはかることを目的とした指導機関だ。 通常の経済活動は行わず、農協の総合的な指導を行う。行政庁への建議(農政活動)(レントシーキング、つまり官庁や政党・政治家への陳情・圧力)や単位農協・連合会の監査なども行う。
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<農協合併と組織2段階への進捗状況> 空想社会主義の共同体組織から資本主義社会の利益追求組織に変わらなければならない農協、3段階組織から2段階組織にと組織ダイエットをしようとしている。それは単位農協と全国連合会が直接結びつく。または単位農協と地域連合会で事業を完成させる。の方法により組織を変える。
 1991(3) 年10月にに開催された第19会全国農協大会で「農協の事業・組織の改革」が決議された。その内容は (1)単位農協の合併を促進し、大規模農協を確立する。 (2)こうした大規模農協が直接に全国連の事業を利用する事業2段階を実現する。 (3)府県段階の連合会と全国連合会を統合する。 (4)以上の方策を実践する具体策を策定する。
<農協合併と関連統計> 農林水産省「農協系統組織の現状と課題」平成12年5月 から数字を拾い出してみよう。
農業人口 昭和55年 専業農家=62万戸 兼業農家=404万戸 総農家数=466万戸 農家人口=2,137万人 
      平成10年 専業農家=43万戸 兼業農家=209万戸 総農家数=330万戸 農家人口=1,131万人 
組合員数 正組合員数 昭和55年=564万人 平成10年=534万人 
     准組合員数 昭和55年=224万人 平成10年=378万人
     正准合計  昭和55年=789万人 平成10年=913万人 
農協数 昭和35年=12,050 昭和45年=6,049 昭和50年=4,803 平成元年=3,791 平成10年=1,833 平成11年=1,580 平成12年=1,411
総合農協の統合平成13年3月31日現在、目標の529農協に対して1,411農協と達成率66%。(13年10月=1,153農協)
1県1JA奈良県が平成11年4月11日、県1JAとすることにより、農協合併と組織2段階を達成している。共済連は平成12年4月1日、全共連と統合。
信用事業農林中金との統合の方針を27信連が決定。
共済事業平成12年4月1日、47の県共済連と全国組織の共済連が一斉統合した。
経済事業=販売・購買事業平成13年3月31日、25の県経済連と全農が統合し、計31の県経済連が全農と統合した。
( 2001年11月26日 TANAKA1942b )
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18 コメ産直を考える
産業として伸びるキッカケとなるか?
 今週は予定していた原稿がどうしても纏まらないので、急遽思いつきで「コメ産直を考える」と題して書いてみた。産直に関しては「住専処理に税金投入は当然」を書いた時から気に懸かっていたので、従来になかったこの流通ルートが普及するとどのような影響があるか、考えてみた。
生産者と消費者のコミュニケーションが密になる 多くの消費者の声が生産者に届き、生産者は消費者ニーズに敏感になる。特に今このルートを利用する消費者は生産者に好意的な人が多い。トラブルも少なく、いい関係のコミュニケーションが深まるし、生産者の苦労も消費者に伝わる。「お客様は神様です」の考えが広まり、生産者に商売人意識・経営者意識が芽生える。  
 旧食管法時代、生産されたコメは農協が一括集荷し、政府食糧庁が買い上げ、許可を受けた米屋だけが消費者に販売する、という一本のルートしかなかった。特別栽培米という制度はあったが、規制が厳しく扱う量は少なかった。新食糧法により原則「生産の自由・販売の自由」となり、これにより新たに「コメ産直」というルートが生まれた。
 出荷側は生産農家であったり、民間の集荷業者であったり、農協であったり、民間のコメクラブであったり、「生産者直販」だったり「生産地直販」であったりする。さらにインターネットの普及により、宣伝・申込み・契約がネットでできるようになり普及への道が開けた。 今はネットを通じての思考錯誤の時代と言えよう。このルートが全消費量の何%になるか、データがないので分からないが、これから伸びるであろうことは十分予想される。
既存の制度に刺激を与える このルートでの扱い量が増えると、集荷業者としての「農協」の扱い量が減る。農協のドル箱が小さくなり、農協に危機感が高まり、農協改革を進めざるを得なくなる。今まで規制に守られていた農協が、市場経済での普通の業者に変身する圧力になる。「産直」で成功した農協が先頭に立つかも知れない。
知恵が生かされる 消費者に気に入られる「勝ち組」と、そうでない「負け組」が出る。 どうしたら消費者の心を捉えることができるのか?HPの宣伝方法か?価格か?ブランドか?支払方法か?知恵の絞り所だ。若い人のアイディアが生かされ、他産業からの転入者・助っ人が活躍するだろう。
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市場が広がる 沖縄の消費者が北海道の農家に注文を出すこともあるだろうし、新潟の消費者が秋田こまちを発注するかも知れない。 さらにベンチャー精神旺盛の人は、海外邦人に売り込むかも知れない。配達方法・関税・検疫・為替などクリアすべき問題は多い。多くの失敗を繰り返しながらも挑戦する人は出てくるだろう。
 これは「身土不二」「地産地消」とは反対の動きで、とてもいいことだ。
 あの考えは消費者に多くの信者を作ることができても、生産者には邪魔な信仰だ。これから広く全国に消費者ファンを作ろうとする「芽」を摘むことになる。小さな地場産業に押しとどめようとする力になり、さらには保護貿易主義に向かう恐れもある。
 それよりも、紀州から危険を冒して江戸にミカンを輸送して大儲けをした、元禄時代の豪商「紀伊国屋文左右衛門」の行動力こそ、サプライサイドは手本にすべきであろう。(もっともこの話は俗説で、本当にミカン船を手配したのかどうか分かってはいないのだが・・・それでも「くだらない」の語源となった「下り物」は立派な「裁定取引」の典型と言える)
先物取引所設立への道につながる 今は新米の販売時期だが春になると、秋の新米の予約が始まる。半年先の取引の予約を契約する。これはもう立派な先物取引だ。取引所でのそれとは違い、相対取引ではあるが、これにより生産者も消費者も、先物取引のメリットを理解するようになる。未だに「先物取引」と言うと、デリバティブ、ヘッジファンドなどという聞き慣れないカタカナ語と共に、嫌悪感を持つ人もいるようで、「多国籍企業=食糧メジャーに日本の食糧が牛耳られる」との感覚で捉える人もいるかも知れないが、先物取引・オプションが生産者にとっても消費者にとってもメリットのある制度だ、ということが徐々にでもあるが理解されるようになり、「コメ帳合い取引所」の設立へ足がかりになる。
 ところで産直の取引価格だが、これは相対取引なので双方が納得すれば幾らでもいいのだが、それでも双方が納得するための参考価格があるといい。その役割を果たすのが帳合い取引所の価格だ。「手を掛けたコメなので取引所の価格よりも少し高い」とか「流通経路が短いので取引所の価格より安くできる」、など価格への信頼感のためにも、帳合い取引所ができるといい。江戸時代の大阪堂島米帳合い取引所は現代人にとっても必要な制度なのだ。世界に先駆けてこうした制度を作り出した先人に感謝しよう。
コメ作りが産業として自立への道を歩み始める ここに書いたことが順調に進めば、コメ作りが自立した産業としての道を歩み始める。やや楽観的な見方だが、間違っても反対の方向へ進むことはない。米作り農家も、集荷業者も、配達業者も、農協職員も、消費者も、誰も「農業改革」を意識しているわけではないし、自分がどれほど「食糧の安定供給」に貢献しているかも考えたことはない。ただ自分自身の利益拡大を図っているのであるが、多くの場合と同様に見えざる手に導かれて、今まで考えてもみなかった「米作りを産業として育てる」という大きな目標を促進することになるだろう。
順調に普及するのか? ある産業が大きく伸びる時期にはいろいろなトラブルが生じることがある。コメの産直もこれから取引件数が増えるに従い、消費者の思い違い、生産者の不手際からのトラブルも起こるかも知れない。しかし戦後物のない時代から、高度成長期を経てグルメの時代・飽食の時代となり、消費者は賢くなって来た。そして生産者側にも悪徳業者の入り込む隙も少ない。誠実でなければコメ作りはやっていけないのだから、不心得者が紛れ込む余地は少ない。産業として伸びていく過程で、このことは他の産業と違って、気を使う必要がなく安心だ。今後のインターネットを利用した、生産者直販・生産地直販の成長に注目していこう。
 コメ産直リンク集
 今回のリストは検索エンジンから拾い出した。生産者直販と生産地直販の業者も含まれる。農協に関しては殆どの農協が直販しているようだし、リストは簡単に検索できるし、数が多く、時間が足りなかったので今回は省いた。どのHPも良くできていて、インターネット初心者のTANAKA1942bには真似できないものばかりだ。それぞれの方が、他のHPを参考にしながらさらに消費者の心をつかむHPを作り、生産者直販が大きく伸びることを期待しています。
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ライスロッジ大潟・黒瀬農舎 秋田県大潟村の「あきたこまち」。5Kgの真空パックで「無農薬米」と「減農薬米」の2種類がある。
新潟産健康米 新潟県。現実に即したピロール農法でコストと手間をかけたコシヒカリ。
土佐のお米 高知県。窪川産の「におい米」と須崎産の「コシヒカリ」。
土の会 オーガム農法による米作り。宮城県・山形県・新潟県・岐阜県の農家が参加。コシヒカリ・ひとめぼれ・キヌヒカリなど。
みのりやへようこそ 新潟県の集荷・出荷業者。極上魚沼産米から激安コシヒカリブレンドまで各種。
米舗 善久寺屋 新潟県三条市の山崎米店が魚沼産コシヒカリなど各種取りそろえ。
魚沼産コシヒカリ自家製 新潟県魚沼軍塩沢町の農家が魚沼産塩沢米コシヒカリを玄米と白米で販売。
魚沼産コシヒカリ脱酸素パックの黒板屋米店 新潟県見附市のお米屋さんが新潟産コシヒカリを脱酸素パックで届けます。
極上コシヒカリ農家直送 新潟県魚沼各地の農家が丹誠込めて作った自慢のコシヒカリを直接販売するショッピングサイト。
お米市場 愛知県名古屋市に本社がある江国米穀(株)のオンライン・ショッピング。
京都田棚米こしひかり 京都市の長石米穀店が京都棚田米こしひかり、キヌヒカリを扱っている。
美味い米見つけた 福岡県の高崎製作所が有機肥料・低農薬でゆめつくし、ひのひかりを扱っている。
田近農園へようこそ 富山県。有機肥料を使った疎植栽培のコシヒカリを扱っている。
膝子農友会直販部 埼玉県さいたま市の生産者直販。コシヒカリ、キヌヒカリ、アキニシキ。野菜も扱っている。
あぜみち お米・ミルキークイーンの産直 群馬県板倉町の農家がミルキークイーンを産直。
朝日池総合農場 新潟県の(有)朝日池総合農場がコシヒカリ、ひとめぼれを直販。カモによる除草も行っている。
茶谷ファーム おいしい米 滋賀県近江八幡市、琵琶湖の水で育ったコシヒカリ、夢つくし、どんとこいを直販。
堆肥米コシヒカリ 三重県津市のヤマギシズム豊里顕地農事組合法人がコシヒカリを販売。
前原農園 福井県大野市の前原農園が無農薬有機栽培米ミルキークイーンを扱っている。
津軽米屋 青森県の農家が完全無農薬、無科学肥料栽培(アイガモ米)などの津軽ロマンを直販。
広島東城ふるさと宅急便 大阪府摂津市に本社がある広島東城愛農食品(株)がコシヒカリを扱っている。
浦南農園 奈良県吉野町の浦南農園が低農薬ツキノヒカリを直販。
伊達蒲の米蔵 宮城県の「伊達藩の米蔵」がひとめぼれ、ささにしきを扱っている。
(有)りいすぴあ・いぐち 和歌山市の(有)らいすぴあ・いぐちがこしひかり、ひとめぼれ、しなのこがねを扱っている。
(株)百万粒 新潟県西浦原郡の(株)百萬粒が新潟産コシヒカリを中心に各種取り揃え。
ミルキークイーン 栃木県下都賀郡大平町の兼業農家の集団がミルキークイーンを直販。年間定期購入特別価格もあり。
ササニシキ専門 宮城県登米郡南方町の農業生産法人(有)PFTサービスが有機栽培のササニシキを直販。
こめ屋がんたら 福島県楢葉町の、自分で作って自分で販売する米屋が、ならは純米の他コシヒカリ、ひとめぼれも扱っている。
ニシタ米穀 兵庫県加古川市のニシタ米穀(株)が各種取り扱い。年間契約もあり。
SUPER NAKAGAWA 大阪府枚方市のスーパーストアナカガワが福島県の自然乾燥米こしひかりを扱っている。
ごはんバンザイ 大阪市の無洗米専門店の米工房淡路屋がミルキークイーン他各種取り扱い。
アグリステーションかなん 宮城県のアグリステーションかなんがひとめぼれ、ささにしき、まなむすめ、ミルキークイーンを扱っている。
有機生活 東京都千代田区に本社のある(株)イー・有機生活が会員制のクラブで無農薬米・減農薬米など各種取り扱い。
きすき健康農業をすすめる会 島根県大原町の「きすき健康農業をすすめる会」がおろろ米を直販。
Welcome to Alison's shop 福島県相馬郡の農家が有機肥料によるコシヒカリを直販。
賀茂有機米生産組合 日本だけではなくアメリカへも直販している。
( 2001年12月3日 TANAKA1942b )
補足 2003年1月8日朝日新聞朝刊の社説に「日本のお米を世界へ」と題して、新潟県の賀茂有機米生産組合▲が米国へコシヒカリを輸出したニュースが載っていた。社説は次のように結んでいる。「やる気のある生産者を応援する。少なくとも意欲をそぐようなことはしない。それが政治や行政の仕事である」。
 「さらにベンチャー精神旺盛の人は、海外邦人に売り込むかも知れない。配達方法・関税・検疫・為替などクリアすべき問題は多い。多くの失敗を繰り返しながらも挑戦する人は出てくるだろう」と書いたTANAKA1942bの想像以上に「なるべく多くの人に味わってもらいたい」という意欲的な生産者は「身土不二」「地産地消」の発想を超えて活動しています。頼もしいことです。
訂正・変更などありましたらお知らせください  E-mail : new_speak@ymail.ne.jp   
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T注文章は24年前のまま。続いている産直とそうでないのと分かるように色を変えた。 「農協は単なる農家の親睦団体になる」とか「土の匂いのしない者の意見は聞かない」など熱烈な支持者から反対者まで多くの意見があった。今は皆フィルターバブルに籠って沈黙しているので意見が出ない。今年はコメの価格が話題になった。皆さんはどのように対処したか教えて下さい。
 Email:  new_speak@ymail.ne.jp 
今はFX問題を扱っています。こちらをどうぞ。
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/fx-27.html#投資家の選んだベストアンサー
分からなかったら法律の専門家=弁護士に助けてもらって下さい。
( 2025年07月01日 TANAKA1942b )

19 信用事業は、頼母子講から金融自由化の荒波へ
住専での経験は生かせるか?
<農協金融は頼母子講の現代版か?> 頼母子講とは無尽とも呼ばれ、日本で古くからあった庶民の相互扶助的な金融制度。古くは鎌倉時代から宗教団体で利用された、と言われているが、庶民の家族生活が現代のようになったのは、江戸時代からなので、本格的な普及は江戸時代から、と考えるのがいいだろう。つまり現代のように、父親・母親・子供が一家族として独立して生活するのは江戸時代からなので、そう考えるのがいいだろう。
 この仕組みは、一定の口数を定め、一定の期間毎に一定の出資(掛け金)をさせ、1口毎に抽選または入札により所定の金額を順次加入者に渡す方式でお金を融資するもの。明治維新後も、新しい銀行制度ができたが庶民の間では、この無尽や質屋が多く利用された。1915年無尽業法が制定され、免許制となった。1940年に221社あったが1942年「金融事業整備令」が出て、1945(昭和20)年には57社になった。その後いくたびかの法改正を経て、1951(昭和26)年には相互銀行となり、1989(平成元)年に第2地方銀行となっている。
 宗教関係から発生したように、宗教とか地域とかの共通点を持つ者のためであった。当然農村部で、農家のための無尽もあったと思われる。無尽が相互銀行にに成長した要因は、相互銀行固有業務である相互掛け金の増加によるものではなく、普通銀行が行う、預金と融資であった。相互銀行が地方銀行に変わる時点では、総資金に占める相互掛金の割合は約 2.5%と、ほとんど無視できるほどに減少した。

閉鎖的な少数民族に見られる、食料無尽 江戸時代がそうであったように、アジアの閉鎖的な少数民族の社会ではコメが貨幣としての地位を占めている。こうした社会ではコメを出資(掛け金=掛けコメ)し、1年ごとに所定のコメ収穫量を特定の参加者に渡す制度がある。これは融資と言うより、富くじのような性格と、食料備蓄係りとの性格もあるようだ。
閉鎖的な社会だからこそ、存続できた アジアの閉鎖的な社会も政治経済の安定に伴い観光地として注目され始めた所もある。取材や物好きな観光客が外部から情報・物品・貨幣を持ち込む。気のいい観光客の来訪は富くじにあたったようなものだ。外部社会から持ち込まれる貨幣、内部のそれまで閉鎖的であった社会では使い物にならない。それが穀物不作の時に役立つ。もう頼母子講・無尽は必要ない。普段使わないでためて置いた貨幣で外部から食料を買ってくればいい。昔からの民族的な習慣は観光資源として残される。これが人気を呼びさらに観光客が訪れる。こうして観光資源は残されて、閉鎖的な少数民族の社会が国民経済に組み込まれていく。

食糧備蓄が現物から貨幣になり、頼母子講が普通銀行になる 生産性が低く、自給自足程度しか生産できなかった時代から、食料を生産しない人たちがいても、その人達を養うことができるほどになると、その食料が商品価値を持ち、商品経済が発展する。その過程で、食料が商品として貨幣の単位で計られることに抵抗感を持つ人たちがいた。その感覚は「金を貸して金利を取るのは良くない」とのトマス・アクイナスの時代の感覚と同じだろう。しかし倫理学者・哲学者の意向とは別により豊かな生活を目指す人々は、貨幣単位で物の価値を評価しようとする。
 こうした傾向を底流に、社会は貨幣経済に向かい、頼母子講は普通銀行に変わっていく。JAバンクもこの傾向に逆らうことはできない。頼母子講のような相互会社が株式会社になり、無尽会社が相互銀行になり、普通銀行になる。この傾向に沿うように変わるとすれば、「農家のための、農家の銀行」から「農村部に本社のある普通銀行」に変わるだろう。農協が規制をはずされ、住専に貸し込むことができるようになったのはその現れだ。そしてあまりのも住専一途に貸し込んだがために、住専処理が遅れ、ルールに沿わないスキームを採らざるを得ないことになってしまったのだった。
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<住専問題から学んだのか?> 1996年3月、住専処理法案が可決成立した。この法案には多くの人が反対した。もしこの法案が成立しなかったら、系統信用事業に大きな影響が出たに違いない。多くの国民の反対にあって、この法案が成立しなければ系統信用事業からの融資5.5兆円が戻らないことになるはずだった。住専7社が破綻したのに伴う負担の分担は次の通り。住専処理に伴う損失 6.41兆円=母体行負担 債権全額放棄 3.5兆円+一般行負担 債権放棄 1.7兆円+農林系金融機関からの贈与 0.53兆円+政府からの支出 0.68兆円
 この処理方式で、系統金融は貸し込んだ5.5兆円全額が戻り、その代わり5,830億円を贈与する事になった。母体行や一般銀行に比べ優遇されている。これは破綻処理のルール違反だ。この点から見れば確かにおかしな処理案であった。しかしあの時点でルール通りの処理をしたら、TANAKA1942bが毎日新聞社刊の「週刊エコノミスト」に書いたように、
「住専処理に税金投入は当然」いくつかの単位農協で取り付け騒ぎが起き、それが全国へ波及し、農協職員は総出でその処理にあたり、購買部門・購買部門・共済部門・営農部門などすべての部門の職員が、取り付け騒ぎの対策処理にあたることになり、農協はその働きを一時停止することになったろう。それは日本の農業が一時的にでも機能停止状態になることだった。どちらを取るべきだったのか?答えは当然政府処理案であった。しかし、政府は「系統金融が危ない」とは言えなかった。それを言えば、それで不安が起きる。「=11=備蓄米はコールをロングしておこう」で書いたように電車の中での女子高校生のたわいない冗談から、信用金庫の取り付け騒ぎが起こることさえある、まして政府が「この法案が通らなければ農協が危ない」などと言えば間違いなく、いくつかの農協で取り付け騒ぎが起き、破綻する農協・信連が出たであろう。つまり、あの住専処理法案は系統金融を破綻させないためのものだった。
 なぜ系統金融だけが危険だったのだろうか。それはリスクを分散させなかったからだ。農家・農業のための金融機関で、融資先には制限があった。それが規制が緩和されて、総力を住専に集中させてしまった。まるで今まで親の監視下のあった子供が自由になって、自分をコントロールする事ができなくて羽目を外したようなものだ。個人のレベルの問題なら「成長の過程でそういうこともあるだろう」ですまされるが、金融機関となるとそうも言っていられない。 それは過去のこととして、その教訓を生かしているのだろうか?リスクを分散する、この基本を生かしているのだろうか?系統が「コメ自由化反対」を主張し、日本のコメの供給地を日本だけにしようと主張したり、流通に関しても自主流通米価格形成センターに頼るのは、リスクを分散させずに集中させることになる。経済システムも、コントロール・タワーのない市場経済ではなく、政府が民間部門の面倒を見る、社会主義を希望しているのではないだろうか。だとすれば「本当は住専問題から学んでいない」と言える。
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<単位農協は無尽会社になるのか?> 全中は変わりつつある。その目指す方向は時代に沿ったものだ、と言える。しかし組合員はそれを歓迎しているのだろうか。喜んでいない人も多いだろう。身近な金融機関だったのが現代的なクールは金融機関に変わりつつあるのだから。では全国組織は別にして、単位農協は無尽会社的な金融会社にすべきなのだろうか?狭い地域を営業範囲とし、組合員中心に預金を集め、組合員に融資する、とする金融会社にするか?そこでは融資審査に環境破壊はないか?経済上の不平等は生じないか?なども考慮されるだろう。庶民の・農民の・農村の・持続可能な経済成長のための金融機関となろうとする。単位農協だけでもそれを目指すべきなのか?それが可能なのか?答えはNO。無尽会社が相互銀行を経て第2地方銀行になった過程を振り返れば分かる。閉鎖的な少数民族社会で食料安保が食料無尽から貨幣の備蓄へ変わる過程を見れば分かる。日本では江戸時代の旅学者=海保青陵に聞けば答えてくれる。
 日本の農家・農業・農協を取り巻く環境は農協ができた頃とは大きく変わっている。日本の農村は情報・資金・人材・物流と言った面で孤立してはいられない。閉鎖的な社会を保つことはできない。無尽会社的な金融機関は、金融自由化の時代に営業を続けることはできない。 かつて産業革命初期のような荒々しい資本主義社会であれば理想とした「ロッジデールの精神」も、企業が「お客様は神様です」と変わった現代、もう理想ではなくなっている。一部の社会主義に憧れる人の心の中でしか生き続けることはできない。単位農協も、全国組織の全中の目指す改革に取り組まなくてはいずれ破綻するだろう。
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<各県単位の農協相互銀行を経て第3地方銀行へ> 系統金融はこれからどうなるのか?1つの未来像を描いて見よう。
(1)1県1農協 奈良県では1県1農協が実現した。各県がこれに向かう。
(2)株式会社農業相互銀行の設立 1県1農協が実現したところから、県信連と合併し例えば「神奈川農業相互銀行」のような相互銀行を設立する。
(3)普通銀行への転換 相互銀行が出揃った時点で一斉に株式会社組織の普通銀行へ転換する。これで第3地方銀行群ができる。この金融機関は「営業区域の規制」とか「取引会社は資本金3,000万円以下」などの規制はしないこと。 そしてこうした規制は全ての金融機関から撤廃する。こうして「都市銀行」「地方銀行」「第2地方銀行」 「第3地方銀行」「信金」「信組」「信託銀行」「労金」が同一市場で競い合うことになる。その競い合いとは、預金者獲得であり、融資先獲得だ。両側にいる神様たちの心と懐を捉える競い合いになる。
(4)先に豊かになれる銀行から、ドンドン豊かになる そして、そうでない金融機関を吸収合併していく。市場のメカニズムを生かした「構造改革」だ。規制を多くすると伸びる金融機関の足を引っ張ることになる。伸びる活力を持った金融機関が思いっきり伸びることによって、そうでないところの雇用を引き受けることができる。 勝ち組を作ることにより、構造改革の「痛み」を和らげることができる。成長のためにはガムシャラに突っ走るランナーが必要だ。世界経済でも「先に豊かになれる国から豊かになる」しかない。 「平等」を強調するなら「全ての国が平等に貧しくなる世界経済」しか計画できない。先に豊かになる金融機関があるから、他がそれを目指す。先に高い給料を出す業界があるから、それを目指して組合が闘争計画を立てる。理由を付けて高い給料を引き下げれば、闘争目標ができず、結局賃金闘争のエネルギーを失う。
(5)金融自由化の大波を乗り切るのはどの金融機関か? 低成長が続くならリテール・バンク市場は飽和状態だろう。世界市場での競い合いに挑戦するなら、預金獲得と融資拡大だけでは限界がある。金融派生商品やM&A手数料稼ぎなどに手を広げる必要がある。今は大手から零細までリテールと言っているようだ。いずれ金融再編成が大きなニュースになる時が来る。 その時に解説者がいろいろ理由を付けるだろうが、必ず「神様」の力が働くに違いない。農協が・農家が・そしてその支援者達が「どれだけ神様の機嫌をとるか?」がポイントになると思う。どのように神様の機嫌を取ろうとするか?TANAKA1942bはそれを注目していこうと思う。
( 2002年1月14日 TANAKA1942b )
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20 農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になるのか?
各事業部門毎に株式会社として独立
<購買部門> 飼料・肥料・農耕具の販売会社を設立する。それら全てを扱う株式会社組織の商社でもいいし、単品を扱う販売代理店でもいい。メーカーの資本が入ってもいいし、組合員が資本を出し合ってもいい。営利を目的とした株式会社であることが肝要だ。農協職員は本人の希望があればこちらへ転籍できる。基本的な給料は変わらないが、営利企業になると能率給部分が多くなる。 会社の基本姿勢は利益を出すこと。これは農協の「組織の生き残り作戦」ではなく、「農協職員の生き残り作戦」だ。組合員は好きなところから購入すればいい。農協を「運命共同体」としてではなく「利用できれば便利な組織」と考えるようになってきている。そうすると農協の利用率が下がり始める。 無理に農協を利用させようとすると、どこかでひずみが出る。
<販売部門> こちらも集荷業者を株式会社として立ち上げる。コメ・野菜・穀物・くだもの・加工品など、それら全てを扱う株式会社組織の商社でもいいし、単品を扱う集荷業者でもいい。 この分野には地域の青果市場が活発な営業活動を展開するだろう。またネットを使った仲介業者も動き出すだろう。農家は最も有利な条件の業者を選べばいい。業者の競争が農家にとっての有利な条件を満たし始める。購買部門と同じように個々では生産者=農家=お客様=神様になる。大いに我が儘を言うといい。
<営農指導> ここでは「受益者負担の原則」を貫き通すことにしよう。「営農指導会社」を設立する。 あるいは個人で「営農コンサルタント業」を始めるのもいい。お金を取る以上いい加減な指導ではやっていけない。農家にとって満足のいく指導が行われるはずだ。
<共済部門> この部門は既に全国組織と県単位の2段階になっている。しばらくはこのままでいい。そのうちにどうなるか?各県の共済販売会社が民間の保険会社の商品を扱い始め、全共連が開発した保険商品を系統以外の民間会社も販売するようになる。 こうして商品開発の競争と、その商品の販売競争が始まる。ここでも農家はお客様=神様になる。
<信用部門> 前回書いたように各県単位の普通銀行になる。これを全国組織の単一銀行とすると、生産性の低い県が全体の足を引っ張ることになる。結局護送船団方式になる。各県単位が独立して営業し、先に豊かになれる県から、ドンドン豊かになるのがいい。 農協職員は専門知識を身につけることによって、業界再編正になっても再就職に不安はない。ただし準備怠りなかった人の話、不勉強な人には厳しいかも知れない。
<グリーンツーリズム> 旅行代理店は独立してこの分野での顧客獲得競争に参加すればいい。
<地域文化の伝承> 農協から経済活動を除くと、そこには地域文化の伝承という役割、農家の親睦団体としての役割が浮き上がってくる。経済活動をする農協と、この部門が同一組織になっていると、「地域文化の伝承」としての活動が経済部門の余剰利益の大きさに影響される。 農協の経済活動から大きな利益が出なければ、地域文化の伝承もおろそかになる。 そこで「地域文化の伝承」という活動は農協の経済活動とは切り離す。それ自体独立した活動とする。そしてこれは経済活動ではないので、有限会社や株式会社ではない組織とする。それは任意組織・NGO・宗教法人などが考えられる。 地域の神社が中心になって、季節折々の行事を司る。青年部・婦人部・シルバー部の活動の拠点とする。あるいは適当な神社がなければ「豊作祈願神社」を作るのもいい。
 日本人には「八百万の神々」は受け入れやすい。自治体の組織とすると、住民全ての意向を反映させなければならない。事柄によってまとまりにくい場合がある。宗教法人とすることによって、受益者負担の原則が生きてくる。 それは活動の費用はどうするか?に生きてくる。自治体の組織にすると、大きな声で主張する人・役所や政治家に顔の利く人・外部の支援組織をバックに発言する人などの意見が採用される。宗教組織にすると沢山寄進した人の意見が採用されることになる。これは自然なことだろう。
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<農家は農協に何を期待するか> 普通のサービス業と同じことを期待すればいい。飼料・肥料・農耕具など安く手に入るならそれでいい。好きなところから購入すればいい。農産物の出荷も同じ。サービス・支払い条件のいい集荷業者を通せばいい。農業政策に対する意見は直接担当部署に言えばいい。 農協の組織が分割されることにより、各部門の必要性が改めて見直される。さらに民間業者が参入する事により、農協職員の意識に「組合員=お客様=神様」と「同業他社との競争意識」が生まれる。そうしてそれが「農協改革」出発点になる。各分野で民間業者と競合しても、「農家の親睦組織」としての農協は残るだろう。農協職員も「農家のため」という建前と、「農協の利潤拡大」という本音を使い分けるよりも、民間業者の社員として「会社の売り上げ向上」という本音だけで働く方が気持ちが楽になるに違いない。 農村社会での経済活動は株式会社=民間会社に任せて、農協は「農家の親睦団他」として、「地域文化の継承組織」に徹するのがいいだろう。
「農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になるのか?」 は決して農業再生に悲観して言うのではない。むしろそうすることによって、農業が産業として発展し、農家が豊かにな道へつながるに違いないからだ。もう江戸時代からの古い制度は脱ぎ捨てましょう。
( 2002年1月21日 TANAKA1942b )
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21 農地売買自由化
農民を土地に縛り付ける封建制
<江戸時代の農地政策> 豊臣秀吉江戸時代の土地制度・身分制度の基になったのは、豊臣秀吉が1591(天正19)年に出した「身分統制令」と考えていいだろう。 1591(天正19)年8月21日に出されたこの法令は、全3ヶ条からなっていて、第1条では、奉公人・侍・中間・小者・あらし子など武家および武家奉公人が、百姓・町人になることを禁じ、第2条では農村にいる百姓が田畑を捨てて商人になることを禁じている。第3条は侍・小者をはじめとする奉公人が、その主人の許可なしに他の主人に仕えることを禁じたもので、主人の奉公人に対する支配の絶対性を保障したものだ。
 ちなみに主人の許可がなければ他に仕えられない、その例はこの法令が出てからずっと後に、平賀源内(1728-1779)(享保13-安永8)が高松藩を出ても他の藩には仕えられず、結局浪人のまま終わってしまった例がある。
松平定信1788(天明8)年に老中松平定信は「出稼ぎ奉公制限令」を出す。これは「農民は勝手に農村を離れるな」「町へ出て行こうなどとは考えずに、しっかり農業をやれ」との考えだ。
担保江戸時代の融資には大きく分けて3つのパターンがあった。(1)担保なしの大名貸し。(2)担保を取っての町人貸し。(3)農地を担保に農民貸し。このうち(3)農地を担保に農民貸し、は農地の売買が不自由なので担保価値が低く、多く借りられない。 もう一つ、返済不能になり土地の所有権が頻繁に移転する事を幕府は嫌った。このため農地を担保に借りるのに、いろいろ面倒な制限を加えた。これも農民を土地に縛り付けることになった。
天保の改革水野忠邦の天保の改革、その目玉の一つが「人返し令」だ。江戸に出稼ぎに来ている農民を帰農させる政策。新たに農村から江戸への移住を禁止し、農民を農村部に縛り付けようとした。現代でもこうした感覚の持ち主はいるようだ。 「農民は農業に従事すべきで、都会の大企業が若い人を集団就職などで農村部から連れ出したのはけしからん」との感想を持つ人もいるようだ。これは農村部に農業を含め魅力的な産業がなかったからで、責任は若い人の就職先を作れなかった農村部の実力者にある。
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<その土地を最も有効に活用する自信のあるものが、最も高い価格を付けるだろう> 農地の売買を自由にしてみよう。誰が高い価格を付けて買うだろうか?個人?法人?自治体?不動産屋?工場?こういうことは言えるだろう。「私はこの土地を一番有効に利用する自信がある。だから一番高い価格を付ける」と。 そして「なぜなら私がこの土地から、一番収益をあげることができる」と言う。もしも自治体なら「あの自治体が一番税金の無駄遣いをする自信があるのだろう」となる。それでも、「その土地が有効に使われる」という点では希望がもてる。
 株式会社が農地を所有することに反対があるようだ。例えば「株式会社は事業が行き詰まると、農地を荒れ果てたままに放っておくだろう」との主張。しかしそれは違う。 利潤を追求する企業は農地を荒れ果てたまま放って置くようなムダはしない。使い道が見あたらなければ、すぐに売りに出す。土地を有効に活用する自信があっても、うまく行かなければ、次に自信のあるものがその土地を買う。 トップがだめなら、その次、その次と試行錯誤が繰り返される。こうして土地利用が計られる。農地にとってはこれが一番幸せだろう。
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<農家は土地を売って職業選択の自由が広がる> 農地売買が自由になると、土地を売って他の職業に転職できる。農業よりも他の職業が適していると思ったら、先祖伝来の農地を売って転職してもいい。その土地を買って農業を続けようとする人には、農地売買自由化は朗報だ。
 農地が多目的に転売されると、土地評価額が上がる。土地を売って転職する人に有利になる。農家が豊かになる条件の一つになる。
 土地の評価額が上がると、担保価値が上がる。農業に対する投資がしやすくなる。農地の一部でハウス栽培を試してみたい。 それには設備投資が必要だ。今の土地を担保に今までより多く借りられるようになれば、新規投資の可能性が広がる。転職せず、農業で豊かになろうとする人にも有利だ。
<投資をせずにリターンを求めるな> 農地売買を制限することは、外部からの投資を制限することになる。投資をしないで事業を始めたり、拡大しようと考えるのは間違っている。お金がなくて事業を始めようなどとは考えられないのだが、農地売買を制限して農村部を豊かにしようとするのは空想社会主義のようだ。 ユートピア小説では「各人は食料・日用品を必要に応じて与えられる」ことになっている。しかしそれを生産する費用、生産に携わる人件費などは無視される。資源と資金が無限にあるかのようだ。
 農村部で産業活動を活発にするには、外部からの資金・人材が必要になる。農地を売って資金を確保し、その資金を基に人材を確保する。そうして農村部で新規産業を興す。或いは外部から企業を誘致する。 それには外部からの人材を暖かく受け入れる環境が必要になる。食料を作っている、というプライドが時には思い上がり、と感じられると、外部の人材は定着しない。日本の食糧自給率は約40%、残りの60%は農家以外の輸出産業が稼ぎ出すドルに頼っているのだ。日本の農家は必要な食料の半分も生産していない。
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<農地委員会はその地域から金持ちが出ることを許可する機関か?> 農地売買が農家が豊かになる条件の一つなら、農地売買を審査する農地委員会とはなんだろう?自分達の地区から、農地を売って豊かになろうとする農家に対して「自分だけ豊かになるのは許さない」とか「豊かになってもいい」と許可する機関なのだろうか? かつて江戸時代は農民を支配する幕府がその権限を持っていた。今は同じ地区の人たちがその権限を持っている。江戸時代はお上が権限をもって支配していたのが、現代では同じ地区の人たちが権限を持っている、ということは、時には豊かになろうとする人の足を引っ張ることになる。 農家に有利なのは農地売買の自由化だ。しかし自由化を主張するのは都市部の主張で、農村部から自由化の主張は聞こえてこない。抜け駆け的に豊かになるのは許さない、と皆で足を引っ張り合っているかのようだ。
<嫉妬心に正義の仮面を被らすな> 「他人の不幸は、我が身の幸せ」ではなく「他人の幸せは、我が身の幸せ」となると、農地委員会が農地の転売を不許可にすることはない。同じ地区内で「先に豊かになれる者から、豊かになる」の方針なら、農地が高く売れる方策を考えるべきだ。それには買い手を制限しないこと。買った後の土地利用に対する規制を少なくすることだ。今まで農地委員会の委員だった人は農地が売れるよう積極的に働くといい。不動産業を経営したり、広告宣伝業もいいだろう。今まで農家が豊かになるのを阻害していたのだから。
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<農地を広げても食糧自給は達成できない> 自給率=コメ95%、小麦 9%、大豆 3%、トウモロコシ 0%、グレーンソルガム 0%。石油 0%、ウラン 0%、天然ガス 3%、砂糖 8%、塩15%。これが現実だ。ごく一部の「尊農攘夷」論者の主張する、自給率向上を目指すとするとどうなるか? 農水省のHPによると「食料を自給するためには、国内500万haに加え、海外に1,200万haの農地が必要。このような私たちの食生活は、国内農地面積(491万ha(平成10年))とその約2.4倍に相当する1,200万haの海外の農地面積により支えられています。」 となる。
(1)食糧自給率の低さを嘆くか?(2)その土地が養うことのできる3.4倍の人口を養う生産性の高い産業を持っていることを誇るべきか? (1)を支持するならば、日本人は江戸末期の人口に減らし、江戸末期の生活水準にしなければならない。或いは日本列島だけでは養い切れないので、海外に日本の領土を求めなければならない。 (2)を主張するということは、これからも産業の構造改革を進め、生産性の高い産業に資源・人材・資金が特化されるような体制を維持することだ。そのためには生産性の低い分野から高い分野へ、資源の移転が進む。そして低い分野は海外へ移転することにもなる。 いわゆる「産業の空洞化」が起こる。日本の将来像としてどちらを選択するか?迷う余地はない。考えれば(2)を選択すべきであることは明らかだ。(1)はまともに取り上げるべき主張ではない。
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<農村部の通貨流通量が増える> 農地を買う資金はどこから来るか?農村部内での移動だけではない。都市部の資金が投入されることも多くなる。これを「農地が大企業に支配される」と非難する人がいる。誰が支配しようがその土地を有効に利用しようとすることに違いはない。 それと注目すべきは、「農村部の通貨流通量が増える」ということだ。通貨流通量が増えるとどうなるか?それは江戸時代に、荻原重秀や田沼意次と仲間の経済官僚たちが が行った金融政策を振り返れば明らかだ。西洋の「経済学」は必要ない。江戸時代、日本の「経世済民」で明らかになる。 日本には江戸時代からそれだけの知恵が蓄えられている。その知恵を誇りに思い、その知恵を活用したい。「農家が豊かになるために」「農村部の経済活動が活発になるために」そのために「農村部の通貨流通量を増やすこと」は効果があるだろう。そして農村部が豊かになると、都市部の土地価格が下がり、都市生活者の生活が楽になる。 このため都市部の資金が農村部に投入されるのは、農家にとってだけではなく、都市部の人にも望まれることだ。このあたりの経済の仕組みが分からないと、江戸時代荻原重秀や田沼意次と仲間の経済官僚たちが行った金融政策を否定し、新井白石や松平定信が取った政策を支持するような誤った選択をすることになる。 それは「全ての人が平等に貧しくなる」政策だ。本人も気付かない嫉妬心が周りの人たちの足を引っ張り、結果的に自分も貧しくなる。その仕組みを理解することが必要になる。
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<江戸時代の土地政策から脱却しよう> 江戸時代幕府は身分制度を厳しくし、土地に縛り付けようとした。現代では自分から土地に縛り付けようとする。江戸時代それでも農業を産業として捉えようとした考えがあった。現代では「安全性のため」「環境を守るため」「身土不二、地産地消」などと言い、農家が豊かになる方策を考えようとしない。 地産地消は消費者側から考えれば、それなりの支持は得られようが、生産者に取っては邪魔なスローガンなはずだ。「消費者に喜ばれる野菜をいっぱい生産して全国へ売ろう」としても、「地産地消、私たちは地元産の野菜を食べます。」と言われたら、全国展開もできない。 江戸時代幕府が農民を支配した、その方法を現代の農民自身が選択する、そうした農業政策は変えるべきだ。その第1にすべきこと、それが農地売買の自由化なのだ。
 こうした問題を考えるとき、よく言われるのが「意識革命」だ。本気で言っているのだろうか?別の言い方をすれば、「多くの人たちをマインドコントロールしよう」との主張なのだ。 新興宗教ではない。人がどのような意識を持つか、どのような宗教を信じるか?それは自由だ。改革すべきは制度。それを支える法律。農地売買に関する規制を緩やかにすれば、農村部は変わる。農家が豊かになるための選択肢が増える。若い人がここで夢を実現させようとする。豊かになろうとする、意欲・活力が満ちてくる。
( 2002年2月4日 TANAKA1942b )
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22 「身土不二」や「地産地消」について
なるべく多くの人に味わってもらいたい
 身土不二(しんどふじ)という言葉がある。どういう意味かというと、山下惣一著「農の時代がやってきた」(家の光協会 1999年4月)から引用しよう。 「周知のように(でもないか?)、「身土不二」は、「身土」、人間の身体と土は「不二」、二つじゃない。つまり一体だという意味。中国の古い医書に出てくる言葉だそうで、わが国では明治30年代(1897-1906)に福井県出身の軍医・石塚左玄らが起こした「食養道運動」のスローガンとして使われ、彼らは「自分の住む土地の四里(約16キロメートル)四方でとれた旬のものを正しく」食べることを理想として提唱した。
 まだ流通が未発達の明治時代になぜそのような運動が起こったのか?たぶん多くの人たちはやむおえず「身土不二」の食生活をしていたはずだ。そう疑問を抱いたのでその筋の専門家に調べてもらたら、文明開化の影響で当時の上流階級の食生活が急速に洋風化し、それに伴って従来にはなかった病気がふえたという背景があった、ということまではわかったが、それ以上のことはわからなかった。
 「身土不二」という題名の本も読んでみたが、解説書ではなく、その原理に照らして近代栄養学を批判した内容だった。これはこれで面白かったが、当然、逆の主張もあるわけで、「このボーダレス時代に馬鹿なことを言うな。地球を一つと考えれば「身土不二」じゃないか」というわけだ。

 では「地産地消」とは?「なるべく地元で取れた農産物を食べましょう」ということになろう。 この二つの言葉、ある人たちから大変支持されているようだ。「コメ自由化反対」「遺伝子組み替え食品反対」「無農薬・低農薬食品を普及させよう」「農業は自然環境保全に役立つ」「株式会社の農地取得反対」こうした主張をする人たちが「身土不二」「地産地消」を言うようだ。
生産者と消費者の立場の違い この二つの言葉ある種の消費者から支持されているようだ。消費者の立場からは、「近くで取れた新鮮な野菜」「地元の風土にあったもの」こうしたものを食べたい、または「食べるべきだ」との考えも出てくるだろう。ところで生産者の立場はどうだろう。 「生産者の地元の消費者に支持されたい」し、しかし同時に「もっと、もっと広く、日本中の消費者に私の畑で取れた野菜を食べてもらいたい」「遠く離れた地方の人達にも、必ず喜んでもらえる自信がある」このような考えの人たち、いっぱいいると思う。こうした意欲的な生産者と「身土不二」「地産地消」との関係はどうなるだろう。
ネット活用の産直 インター・ネットの普及に伴い農産物の産地直売が生まれた。クロネコヤマトの宅急便の普及も産地直売を助けている。この「産地直売」と「身土不二」「地産地消」の関係はどうだろう。どうも反対の考えのようだ。
 前回「産地直売」をテーマに「身土不二」「地産地消」について書いたので、一部引用しよう。
=18=コメ産直を考える 産業として伸びるキッカケとなるか? ( 2001年12月3日 ) 沖縄の消費者が北海道の農家に注文を出すこともあるだろうし、新潟の消費者が秋田こまちを発注するかも知れない。さらにベンチャー精神旺盛の人は、海外邦人に売り込むかも知れない。 配達方法・関税・検疫・為替などクリアすべき問題は多い。多くの失敗を繰り返しながらも挑戦する人は出てくるだろう。
 これは「身土不二」「地産地消」とは反対の動きで、とてもいいことだ。
 あの考えは消費者に多くの信者を作ることができても、生産者には邪魔な信仰だ。これから広く全国に消費者ファンを作ろうとする「芽」を摘むことになる。小さな地場産業に押しとどめようとする力になり、さらには保護貿易主義に向かう恐れもある。
 それよりも、紀州から危険を冒して江戸にミカンを輸送して大儲けをした、元禄時代の豪商「紀伊国屋文左右衛門」の行動力こそ、サプライサイドは手本にすべきであろう。 (もっともこの話は俗説で、本当にミカン船を手配したのかどうか分かってはいないのだが・・・それでも「くだらない」の語源となった「下り物」は立派な「裁定取引」の典型と言える)
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<一村一品運動> 大分県で進められている「一村一品運動」、県のHPから その趣旨を抜き出してみよう。
1. 運動の提唱 一村一品運動は、地域を活性化する一つの道として、地域の顔となる、地域の誇りとなるものを掘り起こし、あるいはつくりだして、それを全国、世界に通用するものに育てていこうと昭和54年に平松知事が提唱しました・・・ 以下大分県のHPを参照のこと。「地域活性化」「農業発展」にとって期待できる政策、と言えよう。
農業の活性化という面から考えれば、こちらの方が趣旨にあっている。村が「地元産の農産物を食べましょう」ではなくて「地元産の農産物を全国に広めましょう」の運動こそ必要だ。 都会のターミナル駅やデパートなどで開催される「〇〇県物産展」も「地産地消」とは違う。消費者運動が「地産地消」を言うのはいいとして、生産者側に立つ人が提唱するのはちょっと違うような気がする。
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<自由化派VS自給派の論争> 冒頭に山下惣一氏の著作から引用したので、もう一つ引用しよう。「それでも農は命綱」(家の光協会 1994年10月)から、コメ自由化問題についての部分だ。
なぜ、自らの食を放棄するのか 自由化派VS自給派の論争 
霞ヶ関のいわゆる”官僚”と呼ばれる人と飲んでいて、ちょっとした口論になった。 「山下さんねえ。農村で食えないというのは、住んでいる人の数が多すぎるということなんですよ」といい出したからである。
「だって考えてごらんなさい。田畑の面積は限られている。つまり、生産力に限界があるんですよ。だから住んでいる人の数が多いと分け前が少なくなる。したがって、農村では生活できないんですよ」
「ですから」と相手は、口を挟む隙を与えず続けた。「農村の人たちは半分、都会へ出ていらっしゃい。これから都市周辺の農地をどんどん転用して住宅建設を進めますから、そこへ移っていらっしゃい。そうすると、農村に残った人たちも生きていけるんです」
 はじめは冗談かと思って聞いていた。しかし、どうも本気でいっているらしいとわかって、”こいつは馬鹿か”と考えた。
「何をいうんですか」と私は当然、反論した。「村の人間は半分、都会に出てこいというけれど、若い者ばかり出ていっていまって年寄りだけが残されているのが農村の現実じゃないですか。残った者のパイは大きくなりませんよ」
「あのね、われわれ国の仕事というのは、国民をまんべんなく豊かにすることであって、なにも住みにくい農村に人を住まわせることじゃないんですよ。住みにくいところに無理に住まなくてもいいんです」
 のれんに腕押しという感じである。どうやら私などは、頼まれもしないのに条件の悪い農業と農村にしがみついて、愚痴や怨み事ばかりいっている不平分子に映るらしい。
 話題は、農業問題からコメの自由化に移った。
「結構じゃないですか」と相手は高らかにいい放った。「日本のコメ市場が自由になれば、日本向けのおいしいコメづくりのオリンピックが始まりますよ」
「そんなことしたら」と私はいった。「10年後には、日本の食糧自給率はカロリーベースで3割を切りますよ。穀物だけだと1割台まで落ちる。本当に農業のない国になりますよ」
 相手は落ち着き払って、こういった。
「食糧自給率が3割を切ってはいけないという根拠は、何ですか?」
「えっ!」私は絶句した。長い間たってから、何だろう、と考えた。別の言い方をすれば、なぜ、日本に農業が必要か、ということになる。本当に必要なのだろうか?なぜ必要なのだろう。・・・
これに関しては=4=農水省事務方の苦悩 その悲痛なメッセージを代弁する ( 2001年7月2日 )で書いているので、そちらをお読みください。 一言付け加えるなら、「ある日突然「自給率向上」の建前が、「輸入自由化」の本音に変わる時があるに違いない」と。
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<生産者の顔の見える農産物> 消費者にとって「身土不二」「地産地消」は”生産者の顔の見える農産物”という点でアピールするのだろう。とくに最近は雪印に端を発した「不正表示」などにより、消費者の生産者に対する不信感が高まっているので、「生産者がどういう人か分かる」ということは安心されるかもしれない。 ただし、「地元産の農産物を育てましょう」が「他府県の産物は遠慮しましょう」にならないように。「日本人には日本人が作った、日本産がいいんだ」が「だから、中国産や朝鮮人の作った物はやめよう」にはならないこと。
生産者にとって「生産者の顔の見える農産物」とはどういう意味があるだろうか?生産者にとっても、消費者と直接コミュニケーションがとれれば、商品の良さをアピールする事が出来る。ということはアピール出来ない生産者は不利になる。 つまり商品の善し悪しだけでなく、そのアピールの仕方で売り上げが変わるだろう、ということだ。ということは「農業も普通の産業に近づいてくる」とも言える。
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<儲かる農業を考えましょう> 「身土不二」も「地産地消」も消費者側からの主張。では「一村一品」はどうか。生産者側からの発想のようだが、それでも
「4.これからの一村一品運動 」「ムラの生命を都市の暮らしへ」をスローガンに、「自然との共生」、「都市と農村の共生」、「アジアとの共生」の新しい視点に立って、世代や国境を超えた運動として展開しています」 その趣旨の後には、こうした文章が続く。「共存」等という大義名分なしに、単純に「農業を育てよう」でいいのではないだろうか?それとも大義名分がないと、支持されないのだろうか? 「農業政策の基本は、いかにして農業を儲かる産業に育てるか?だ」と言い切るべきだと思うのだが、そうした意見は聞こえてこない。特に農業関係者からの主張は「農業は聖職で、儲かってはならない」とでも言いたいようだ。
( 2002年6月10日 TANAKA1942b )
補足 ▲2003年1月8日朝日新聞朝刊の社説に「日本のお米を世界へ」と題して、新潟県の賀茂有機米生産組合▲が米国へコシヒカリを輸出したニュースが載っていた。社説は次のように結んでいる。 「やる気のある生産者を応援する。少なくとも意欲をそぐようなことはしない。それが政治や行政の仕事である」。
 「さらにベンチャー精神旺盛の人は、海外邦人に売り込むかも知れない。配達方法・関税・検疫・為替などクリアすべき問題は多い。多くの失敗を繰り返しながらも挑戦する人は出てくるだろう」と書いたTANAKA1942bの想像以上に「なるべく多くの人に味わってもらいたい」という意欲的な生産者は「身土不二」「地産地消」の発想を超えて活動しています。頼もしいことです。
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23 スローフードというグルメ
食品産業のトレンド卵となるか?
<イタリアから始まったトレンド> ファーストフードに対するスローフード、その内容は次の3点に絞られるだろう。 1つは、消えつつある郷土料理や質の高い食品を守ること。2つめは、質の高い素材を提供してくれる小生産者を守っていくこと。3つめは、子供たちを含めた消費者全体に、味の教育を進めていくこと。
 ところでこれは主催者側の意見。これとは違って「農業は先進国型産業である」との立場から見ると変わってくる。このところ市民運動を取り上げてみた。身土不二、地産地消、地域通貨、フェアトレード、そこで今回はスローフードをアマチュアエコノミストの目で見ることにした。
<豊かになるとエンゲル係数が高くなる?> 「所得が高くなると、家計の消費支出に占める食費の割合が低くなる」ドイツの社会統計学者エンゲル(Christian Lorenz Ernest Engel 1821-1896)が発見した法則によるとこうなる。この場合の食費とは人が生きていくうえでの、必要最少限の食費ということだが、豊かな社会ではそうではない「食費」が支出される。 一般に「グルメ」と呼ばれている。世の中が平和で安定し、生活に余裕が出てくると「グルメ」支出が大きくなる。江戸時代になってから一日3食の習慣が定着し、江戸では外食産業が栄えた。それは元禄、天明、文化・文政時代に多く、江戸の3大改革──享保・寛政・天保時代はデフレ不況時代で食生活も変化が停滞した。江戸町人が好んで食べたのが、すし、そば、てんぷら、うなぎ、つくだに、どじょう、まんじゅう、とうふなど。 そば、てんぷら、うなぎは江戸の3大ファーストフードであったようだ。最近は「江戸ブーム」とかで、こうした江戸時代町人の衣食に関する書物も多く出版されて、江戸時代に興味をもつアマチュア歴史家にはいい時代になっている。 
<ニーズがあって生産があるのか、生産があってニーズが作り出されるのか> 消費者主導の社会で、生産者は消費者のニーズに応えようとする。生産者が消費者のニーズを無視したり、消費者に説教しようとしたら消費者は去って行く。農産物生産者が「農業の多面的機能」を持ち出し、消費者をマインド・コントロールしようとすれば、消費者は逃げて行く。どの業界でも消費者は神様だ。神様のわがままに「困ったことだ」と陰で愚痴をこぼしながらも消費者の機嫌を取ろうとする。このように考えると、消費者ニーズがあって生産がある、と考えられる。ところが豊かな社会では生産者が消費者ニーズを作り出す。広告・宣伝会社がその具体的実行者になる。分かりきったことだけど、それを経済学者はちょっと難しく表現する。
 依存効果──近代的な宣伝と販売術は、生産と欲望をいっそう直接的に結びつけている。宣伝と販売術の目的は欲望をつくり出すこと、そなわちそれまで存在しなかった欲望を生じさせることであるから、自立的に決定された欲望という観念とは全然相容れない。これをおこなうのは、直接または間接に財貨の生産者である。消費財の生産費とその生産に対する需要を喚起するための費用との間に関係があることは、経験的にみて明らかである。新しい消費財を売り出すときには、それに対する関心を起こさせるために適当な宣伝をしなければならない。生産を拡張する前には、宣伝費を増大させておかねばならぬ。近代企業の戦術においては、ある製品の製造費よりもその需要をつくり出すための費用の方が重要である。このようなことはすべて言い古されたことであって、どんな三流大学の経営学部のいちばん成績の悪い学生にとっても初歩的な知識である。 欲望をつくり出すための費用はおそるべき金額にのぼる。1974年における宣伝費は約250億ドルに達した。もっとも、前に述べたように、宣伝費のすべてが欲望をつくり出すためのものだとは言えない。それはともかく、それまでの数年間、宣伝費は毎年約十億ドル増えていたのだ。このように無視しえないほど大きい支出は、消費需要の理論と統合すべきものである。
 しかしそのような統合を認めると、欲望が生産に依存することも認めなければならない。生産者は財貨の生産と欲望の増出という二重の機能をもつことになる。消費者どうしの見栄張り競争というような受動的な過程ばかりでなく、宣伝とそれに関連した積極的な活動によって、生産は生産によって充足されるべき欲望をつくり出す、ということを容認することになる。
 実業家や一般の読者は、わかりきったようなことを私が強調するので、とまどいされるであろう。たしかにわかりきったことだ。しかしこれは不思議なほど経済学者が反対してきたことなのである。経済学者は、素人とちがって、これらの関係の中に既存の観念をそこなうものがあることを感じていた。その結果かれらは、あらゆる経済現象のうちでもいちばん厄介なこの近代的な欲望造出という現象から目をそむけていたのである。 (「ゆたかな社会」第4版 ガルブレイス著 鈴木哲太郎訳 岩波書店 1990.3.9 から)
<ムダ遣いが資本主義を発展させる> 「デフレ不況」と言われる日本、しかしデフレとは貨幣価値が上がること。安物ばかりが売れるわけではない。テレビの経済番組でこんなことを言っていた。「ある証券会社の調査によると、フランス有名ブランド、日本での売上が1970年の売上に比べて昨年はその10倍の売上だった。そして全世界の売上の40%は日本の売上であった」と。 グルメはふだんの食事よりも高いから「グルメ」になる。豊かな社会では「ムダ遣いの楽しみ」を味わう。ふだんはファーストフードで節約して、時々スローフードで贅沢する。このパターンを普及させることによって、利益率の高い食品産業・外食産業が発展して行く。
 経済学教科書に「貯蓄のパラドックス」というのがある。「不景気だから」と言って国民が節約して、ものを買わずに貯蓄をすると、結局総需要が減って不景気が加速される、というものだ。「合成の誤謬」などとも言う。どこかヘソまがりがいて「貯蓄のパラドックスは間違っている」と主張していないか、と思っているのだが、納得させるほどの主張にはお目にかからない。やっと見つけた「経済学改造講座 正当派への有罪宣言 」(第5章 貯蓄のパラドックスの嘘 M.スコーセン著 原田和明・野田麻里子訳 日本経済新聞社刊)も説得力に欠ける。 やはり「貯蓄のパラドックス」は否定できない法則なのだろう。そうすると「消費は美徳」となる。
 そうしてもっと積極的に消費を評価すると「恋愛と贅沢と資本主義」(Liebe,Luxus und Kapitalismus)との関係で経済を考えたり、ゆたかな社会(The Affluent Society)の有閑階級(Leisure class)の服装は非実用的なものになり、その消費は「顕示的消費」(conspicuous consumption)となると考える方が、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus)という捉え方よりも資本主義の本質が見えてくる。
<農家はトレンドを捉えるか?> 食糧不足の時代から飽食の時代へ変わり、サプライサイド主導の時代からディマンドサイド主導の時代になった。消費者が神様になり生産者は神様の顔色を窺うようになった。そんな時代になって素直に時代の変化について行こうとする人と、頑固に変わらない人と、二極化が進む。狭い社会に閉じこもり「身土不二」「地産地消」「農業の多面的機能」「自給自足」こうしたスローガンを掲げ、変化を拒絶する人がいる。一方で消費者は、行列のできるラーメン、食の哲人、ファーストフード、コンビニおむすび、ベルギーワッフルなどを求め歩く。
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<山下惣一的ブラックユーモア> 「コメ自由化反対」の先頭に立つ山下惣一氏、その著書「農業わけ知り辞典」に鋭いブラックユーモアがあったので一部引用しよう。
一村一品 一村一品、正しくは「一損一貧」という。ひとつ作るたびにひとつ損して一段と貧しくなる意。農村の危機を背景に繰り返し登場しては消滅していく官製農村活性化運動のコピー。近年「一村百品」「一人百芸」「一村十景」など亜流が登場しているが、いずれもわびしき線香花火。ただ、農民の目をふさぎ、社会矛盾や世の病根から目をそらさせる効果は若干あり、その面で評価する向きもある。
特別国家公務員 特別国家公務員とは、自称稲作専業農家のこと。彼らの集合名詞。「食管法」に守られて、作物を作る苦労がなく、収入は安定し、毎年同じ仕事を繰り返していれば生きられるという意。ために、きわめて従順、発想貧困、自立心が弱く、気迫に欠ける。
言行不一致 唇をまっ赤に塗った女性が「無農薬野菜を食べたい」と叫んでいた。
      JRのローカル線廃止の抗議大集会に集まった人たちは、みんなマイカーで来ていた。
      農家のご婦人たちの田植えのおやつは、パンと缶コーヒーである。
      国産ミカンジュースの販売拡大会議は、コーヒーを飲みながらえんえんと続けられた。
消費者ニーズ @農業関係者が責任逃れのためにもっとも安易に多用する詭弁。お調子者が追従する決まり文句。A消費者の名を借りた市場・流通業界ニーズの別名。
過保護農政論 農業は過剰に保護されているとする一部の人たちの論。それだけ過剰に保護されている農業からどんどん人が離れ、後継ぎが育たず、嫁も来ないのはなぜか?という農業現場の率直な疑問に対して、納得させるだけの説明がないのが特徴。
有機農業 「勇気農業」から出発して、いま「非勇気農業」または「憂杞農業」に堕した農法のひとつ。
農水省 しばしば農民の敵役となる。通産省が国家戦略産業としての自動車業界の利益を代表しているのに対し、当該省庁においては、その負荷を負い、農業を安楽死に導く墓堀人の役割を果たしている。
農業改良普及所 農業の経営者(農水省)の命(めい)を受けて小作人(農民)の指導にあたる現場監督庁のこと。ここで禄を食む者のことを「農業改良普及員」という。自らのことを「役人」と称し、「指導」「関係」を連発して、簡単な話をわかりにくくする傾向がある。
農民作家 現代農民の兼業・副業の一形態。農業収入だけでは生計が維持できないため、逆に食えないことを逆手にとって日銭を稼ごうとする現代の賎業。家の恥、村の恥を天下にさらすことを特徴とし、そのため家庭内でも村のなかでも孤立している場合が多い。業界は高齢化が進み、後継者難に陥っている。が、後継者は容易に出てこない。
自立経営農家 自立経営農家とは、存在しにくいもののたとえ。生産物の価格決定権を持たない条件のもとでも、やり方によっては農業も産業たりうるという非現実的な虚妄に駆り立てられている意欲的な農民が陥りやすい罠。他人(とくに官製)の理論で武装するのを特徴とする。そのため外に対しては虚勢、見栄を張り、内にあっては無理を重ねて健康を害し、人生をまっとうできない者が多い。
生活者「消費者」よりは少し物事を深く、根源的に考える人たちが使用している「消費者」の類語。最大の欠陥は、「生活者」を「住民・市民・国民・大衆・民衆」に置き換えてもいささかの支障もないというところにある。つまり、何も主張していないのと同じこと。
消費者 字義どおりの解釈では「消して費やす者」となる。百姓ことばで「穀つぶし」「役立たず」の意。したがって、穀つぶしの集合名詞。衆愚の別称となる。
農協 本来的には保守政党の「愛人」の意。「脳狂」を語源とする。
農業経済学 「農業不経済学」の略。ためにする学問。農業のためにはいささかも役に立たず、それ以外についてもおよそ役に立たないことを立つものと錯覚して行う行為。
農業補助金 大人が子供に与えるお駄賃の派生語。転じて農政当局が自らの政策遂行を目的として農民にかがせる鼻ぐすりのことをいう。
専門家 正しくは「専問家」=もっぱら問い続けるだけの人。農業の「専門家」とは口先百姓の意。
 (山下惣一著「農業わけ知り辞典」創森社 1995.10.15 から) 
 こうしたブラックユーモアが農業経営者に受け入れられるならば、日本のお百姓さんまだまだヘコタレテいない。それだけの気持ちの余裕があるなら、時代の変化を敏感に捉えて、スローフードもひとつのきっかけとして、神様(消費者)の心を捕まえるに違いない。そのように期待しています。