藤森村






藤森神明社  了玄院   十六菩薩堂   奥山半僧坊    藤が丘駅界隈





 藤森村絵図(史跡の会活字化)


 藤森村絵図

この村絵図は、弘化4年(1847)に描かれたもの。

江戸時代後期、尾張藩は領内の各村に、その村の絵図面を提出させた。しかし、基準とすべき地図はなく、村方が村絵図を作成することは困難な仕事であったので、絵心のある人が活用されたりした。

了玄院は、昭和51年(1976)まで、この位置(村絵図最下部/現在の地下鉄「本郷駅」北)にあった。

絵図中央の「富士山」は、小高い山を富士山に見立てて信仰したもの。社は富士浅間社(明治30年まで、女人禁制だった)で、現在は「明が丘公園」になっている。「古城址」は、「藤森城址」。


 字名

香流・藤ノ木・中段・森・高柳・石ヶ根・洞前・杁ノ池(いりのいけ)・色田(いろた/井戸田のことで、わき水を利用した水田)・小池刈(こいけがり)・作田(さくた)・大久田(おおくた/湿地を示す)


 沿革

藤森地区は名東区東北端に位置し、旧藤森村は大きく「本郷(南側)」と「新田(北側)」の2部落に分かれていた。

更に、本郷は江戸時代、北から「本郷島(氏神神明社周辺)」「中屋敷(本郷小学校西/地蔵堂があったので地蔵島という呼び名もあった)」「中田島(旧了玄院東)」から成り立っていた。

本郷島(明冶以後、「東島」「西島」の東西に別れる)と中屋敷が藤森村の中心部である。

「中田という名の島」が藤森村最南端というのは、江戸時代以前、藤森村と上社村の村境がはっきりせず、両村の「中間点」に旧了玄院が置かれたからと思われる。

その中田島であるが、明治20年(1887)頃、すべての住民が北海道へ移住した為に消滅してしまった。

因みに、北海道八雲町は、明冶11年、尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)が北海道開拓のため、総員82名を移住させたことから本格的に開拓が進められた。

藤森村北部新田は、江戸後期には「段ノ上」と「新田」の二つの島に分かれていたが、新田島は後に「西段」「中段」「東段」の三つの島に分かれた。「段」とは、「村の北部を流れる香流川に臨む段丘」の意味である。

藤森では歴史上の大きな事件は起きていないが、明徳公園内(明徳池南)には「十六菩薩堂」という幕末の青松葉事件に関連した貴重な史跡がある。

本郷小学校開校10周年記念誌『ほんごう』によると、大正の中頃までは米・麦・サツマイモの単作を主とし、ほとんどの家では生活が苦しいので養蚕に励んだ。

また、太平洋戦争が始まる前まで生産され続けた葉煙草は、印場(尾張旭市)にあった専売局(明治の終わり頃、専売事業として国営化された)まで大八車で運び、厳しい検査を受け、代金を受け取って帰る頃には夕方になっていた。

大正11年(1922)には、玉川電気株式会社によりて電灯が点くようになった。それまでは、新しいガラス製のランプを使う家もあったが、ほとんどの家は昔ながらの行灯(あんどん)を使っていた。

昭和19年12月13日、B29の爆撃があり、第3波7機の直撃を受け、焼夷弾のため本郷部落24世帯43棟が焼失した。

折しも大曽根の三菱発動機工場付近では、空襲に備え類焼を防ぐ為に家を取り壊しており、こうした家の材木を安く譲ってもらって、部落全体の力で焼失家屋を再建した。

戦後は名古屋市内に職を得て通勤する者もでてきたが、農家では特に野菜作りに力が注がれるようになった。

『猪高村誌』によると、往古の戸数・人数は以下の通りである。

 慶長6年(1601 )頃    54戸  315人  馬9頭
 安政5年(1858)頃    100戸  453人  馬3頭
 大正6年(1917)     118戸  597人

この様な寒村の藤森村が大発展を遂げるのは、昭和41年から始まった区画整理後のことである。

特に昭和44年に地下鉄東山線が「藤が丘駅」まで延伸してからというもの、見渡す限りの田畑と溜池しかなかった村が「名古屋有数の繁華街・藤が丘」として、誰も想像できなかった様な爆発的発展を遂げることになった。


 学区

藤が丘小学校(名東区藤が丘54番地)
 昭和48年4月開校。猪高小学校の分校(昭和46年設立)が独立。
 (字)小池刈・作田・大久田

本郷小学校(名東区本郷一丁目237番地)
 昭和53年4月開校。猪高小学校の分校(昭和52年設立)が独立。
 (字)香流の南半分・石ヶ根・洞前・杁ノ池・色田

豊が丘小学校(
名東区豊が丘1501番地)
 昭和55年4月1日新設開校。藤が丘学区から分離独立。
 (字)香流の北半分・藤ノ木・中段・森・高柳  





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