了玄院



 中田山了玄院     高柳町1402にある。   曹洞宗。


 了玄院  移転年月が刻まれた門柱

中田山了玄院は、文明二年(1470)、藤森城主小関三五郎(こせきさんごろう)と上社城主加藤勘三郎が開基となり、大永寺三世明嶽良哲大和尚により創建された。※古老によると、「おぜき」ではなく「こせき」が正しいそうだ。

文化十一年(1814)、九世物外玄枝和尚遷化(せんげ)後は、一時中絶した。

天保十一年(1841)、名古屋坂上(さかうえちょう/現・東区徳川二丁目)後藤善兵衛の手により再起、温州和尚を迎え、諸堂の改築がなされた。


  小関三五郎と加藤勘三郎の位牌(本堂)    小関三五郎と加藤勘三郎の墓石

了玄院開創当時の開基藤森城主小関三五郎は、文明六年(1474)五月八日卒去。法名(ほうみょう)玄庵道了禅定門。

上社城主加藤勘三郎は、文明六年一月四日卒去。法名天庭誠井禅定門。


     後藤善兵衛とその妻の位牌(本堂)      開基・後藤善兵衛の墓石

中絶後の法地開基後藤善兵衛は、文政九年(1826)二月十六日死去、法名了玄院心應徹源居士。

法地とは、曹洞宗における大本山・格地・法地・准法地の4つの寺格のうちの一つで、別格地でない普通の寺院のこと。

その妻は、嘉永六年(1853)三月二十二日死去、法名玄光院心岳妙観大姉。

『猪高村誌』に、「位牌には、藤屋善兵衛と記されている。藤屋とは後藤家の家号(屋号)であろう」とある。

了玄院跡地に建つマンション  旧了玄院参道

(本尊)十一面観音菩薩 了玄院は、昭和51年(1976)まで、地下鉄「本郷駅」北方にあった。右上写真のように、今も当時の参道が残っている。

この頃の了玄院は、上社に58軒の檀家を持っていた。

了玄院は、藤森村と上社村にまたがる寺として発足し、両村の中間の場所に寺が置かれた。

寺の山号の「中田山」は、藤森村と上社村の中間の田んぼという意味である。

堂宇再建の話が出て、昭和51年、現在の墓地東側(500坪)に移動、落慶法要した。

了玄院の本尊は、十一面観音菩薩。苦しんでいる人をすぐに見つけるための11の顔が頭の上にある。

(前立)延命子安地蔵秘仏は、延命子安地蔵(延命を誓願し、妊婦の安産を守護する地蔵)。

字洞前(ほらまえ)にあった地蔵堂に古くから祀られてきたもので、明治になって了玄院に移された。

弘化4年(1847)の村絵図には「地蔵堂」が描かれているが、明治中期の村絵図では消えている。

二体の木像で、高さは30センチ程。安産に霊験があるといわれ、遠方からも参詣人があり、乳の出のよくない婦人達の参拝も多いという。

左写真は「お前立ち」のレプリカで、「本物」は後ろの厨子の中にあり、24年に一度のご開帳となる。前回は、平成17年だった。

堀部住職によると、「24年に一度というのは、毎月24日が、お地蔵さんの縁日だから」とのこと。





    区画整理時に建立された石碑      うにら・わにら・おにら神

 了玄院墓地の石碑全文

藤森城主小関三五郎、上社城主賀藤勘三郎両氏は、共に長久手合戦無名の戦士追弔(ついちょう)の志をもって、中田山了玄院を建立せり。
時は流れ世は移り、山川草木昔日の影を残さず、ただ地下に眠る無縁の霊のみ手向けの香を待って幾星霜、いまだ覚める時を知らず。
ここに藤森南部土地区画整理に当たり、往古の両氏が志を世人に告げんと碑を建立す。
尚うにら、わにら、おにら、三神は両氏が藤森地方の守護神として讃仰(さんぎょう/鑽仰)せし神なり。

 石碑裏

 昭和四十四年八月八日吉日建之   当世七世(前住職)大仙五雄(鈴木五雄和尚)代   
                            ※ ( )内は、執筆者による


   新しい行者堂 (境内墓地)     役行者木像


 行者堂と役行者像

修験道が盛んだった旧猪高村。今も役行者像は4体が現存しており、そのうちの1体である(他に、猪子石・西一社・上社)。唯一の木造で、着色されている。

上写真の行者堂は新しく造られたものだが、かつては字洞前にあった。字洞前は、現在の本郷一丁目付近、「中屋敷」「本郷島」の集落があり、村の中心地だった。

この本郷一丁目の交差点から、神明社に向かう東の道の右手(南側)最初にあったのが地蔵堂、次に行者堂・秋葉社(常夜灯も)・天王社の順に並んでいた。

交差点から東に歩いて最初にある筋道を北に向かうと、坂道を上がった右側(東側)辺りが藤森城址になる。

『猪高村誌』に、

「大峯山行者を奉祀し、昔から農民が夏の作物が日照り続きにあった際、雨乞いの祈願をしたもので、三日間とか一週間とか連続に願をかけ、毎晩御堂前に字民が集り祈願をこめた。
そして満願迄に雨が降った場合は大変なよろこび様で翌日一日は部落民一同農事を休んでお祝いした」とある。




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