奥山半僧坊大権現



 奥山半僧坊    地下鉄「藤が丘」駅近くにある。

金刀比羅神社と奥山半僧坊大権現本山の奥山半僧坊(おくやまはんそうぼう)は浜松市北区引佐(いなさ)町奥山にある。

半僧坊大権現は、臨済宗方広寺(ほうこうじ)の鎮守。

1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ/開山)は、当地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ/開基)の招きにより、奥山家の治めていた所領に方広寺を開いた。

伝えによると、無文元選禅師が中国から船で帰国の折、台風に遭遇した。

そこに袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、「私は禅師が正法を伝えられるために、無事に故国にお送りします」と叫び、人々を励まして、無事に嵐の海を渡って博多の港に導き、ここで姿を消した。

禅師が、この方広寺を開いたとき、再びその一異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出た。

お前は半分、僧に似ているから、これからは半僧坊と名乗れ」と、弟子になることを許された。

禅師に仕えながら修行に励んでいたが、禅師亡き後に、「私はこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消した。

以来、方広寺を護る鎮守/権現様として祀られている。    ※ この項、方広寺のHPを参考にした。



 半僧坊新福寺 (昭和区広路町松風園68)       本尊は阿弥陀如来。

明治18年(1885)、奥山半僧坊方広寺の別院が、名古屋市中区大津町(栄3丁目)に建立され、明治43年に、閑静な八事の地に移された。

境内に宮本武蔵の碑、武蔵が名古屋に来た事を証明する「新免政名之碑」があることで知られる。
 
かつての半僧坊新福寺には、多くの修行僧がいた。

彼らは、藤森の地にも布教行脚(あんぎゃ)に来たことであろう。

こうして、藤森の地に半僧坊新福寺に対する信仰が生まれた。

ところが、半僧坊新福寺に確認したところ、「40年間住職をしているが、藤森にそういうものがあることは知らなかった」という。

したがって現在では、藤森半僧坊と半僧坊新福寺はつながりがないということになる。

さて、「秋葉三尺坊」の名前の由来は、「後に天狗になったとされる人物が、越後の長岡蔵王権現の十二坊の第一である三尺坊に籠もって修行したから」という説が一般的である。

しかし異説ではあるが、「奥山半僧坊と防火の神・秋葉三尺坊とは、同一人物だ」という人もいる。

つまり身の丈3尺(90センチ)の三尺坊(天狗)に対し、半僧坊とは6尺の「半」分の三尺坊(天狗)であると。

藤森では、「奥山半僧坊」の由来は伝承されていない(正確に言うと、由来を知る人に出会えていない)。

ここにある祠は、秋葉神社の祠とよく似ている。

推論ではあるが、いつしか秋葉神社のような「防火の神様」として、現在まで行事(藤森「東段」の人々によって、お盆の頃に例祭がある)のみが続けられているのではなかろうか。



 金刀比羅神社と弘法像と常夜灯

   弘法像    常夜灯

奥山半僧坊大権現の左側は、金刀比羅神社である。

江戸時代になると、天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者が全国を巡って金毘羅信仰を普及させたので、その影響であろう。

偶然だと思うが、
金刀毘羅権現の眷属(けんぞく)も天狗である。

金刀比羅神社左には弘法像が祀られ、階段手前右には、「村中安全/明治三十九年一月」と彫られた常夜灯がある。

10坪程の狭い敷地に、寄せ集められた感がある。




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