十六菩薩堂 明徳池南の山中にある。地元、藤森の人は、付近一帯を「仏教」と呼んでいる。 青松葉事件 十六菩薩堂を理解するには、青松葉事件に対する知識が不可欠なので、最初に2つの新聞記事を紹介する。 尾張藩のタブー「青松葉事件」 / 隠れ供養の地蔵あった / 斬首の佐幕派、氏名7人まで一致 中部読売新聞 1984年4月6日(金曜日) 幕末の尾張藩で起きた「青松葉事件」の犠牲者たちを祭った地蔵が、このほど、名古屋市名東区猪高町藤森字香流の土屋和夫さん方にあるお堂から発見された。 十七体の地蔵の九体の背中に人名を書いた紙がはってあり、そのうち判読できる七人の氏名が、「青松葉事件」の犠牲者の名前と一致したことから、この事件の犠牲者を供養する地蔵と分かった。 発見者の郷土史研究家、水谷盛光さん(71)(名古屋市北区大蔵町)は 「青松葉事件は、名古屋で長い間タブーになっており、犠牲者ゆかりの人が、ひそかにお祭りしたのではないか」と話している。 名東で見つかる 「青松葉事件」とは、慶応四年(1868)一月二十日から二十五日にかけて、佐幕派の渡辺新左衛門ら尾張藩士十四人がクーデターを起こそうとしたという罪で、”朝命”の名の下に、斬首された事件。 発見した水谷さんには「尾張徳川家明治維新内紛秘史考説」「名古屋城青松葉騒動」などの著書もあり、クーデター説を否定。 岩倉具視ら勤皇派が、尾張藩を利用するために仕掛けた事件と見て、渡辺新左衝門らはその犠牲になったという説をとっている。 地蔵は高さ43センチ、幅14センチ、奥行き14センチで、同型。 常滑焼の陶製で、「常滑 素三造」の銘と落款が入っている。 その背中に和紙がはってあり、完全に読めるものが二体、部分的に読めるものが五体あった。 完全に読めるものは「石川内蔵允(くらのじょう)」と「家田愨(とく)四郎」。 石川は、クーデターの首謀者の一人とされた人物で、家田は犠牲者の一人、冢(つか)田愨四郎の書き違いと思われる。 さらに、同じく首謀者とされた榊原勘解由の”由”の字の部分が欠けた「榊原勘解 」、沢井小左衛門の”小”の字が欠けた「沢井左衛門」があり、林紋三郎と思われる「紋三郎」、渡辺新左衛門と思われる「新左衛門」などと読み取れるものの全部が、青松葉事件の犠牲者名。 だれが、いつ作ったかは不明。 土屋さんの母親じょうさん(71)によれば、土屋さん一家がこの土地に越してきた昭和二十年には地蔵は道路に並んでいたが、その後、邸内にお堂を建てて納めたという。 また、製作者と思われる”素三”は、常滑焼の名人と言われた二代目素三(本名・亀岡梅三郎、1889〜1956年)と推理される。 沢井小左衛門の三代目に当たる沢井すみれさん(56)(犬山市羽黒新田)は、 「事件そのものが闇(やみ)から闇に葬られ、私も戦前にはつらい思いをしてきました。 どなたがやって下さったかは知りませんが、本当にありがたいと思いました。 早くお参りしたいと思います」と話していた。 東と西 二またの悲劇 (この国のみそ) 中日新聞 2006年2月17日(金曜日) さて問題。東と西、ナゴヤは、どっち? 西・・・電話のNTTが「西」日本で、東西で異なる電気の周波数も「西」の60ヘルツ。 東・・・初戦が東西対決になるよう出場校を分ける夏の甲子園では「東」グループ。 ナゴヤが占めるニッポンの「真ん中」は、東西から引っ張られ、引き裂かれる「裂け目」でもあるが、歴史上の「裂け目」は、もっと過酷で、非情だ。 例えば鎌倉時代の尾張、美濃の武士たち。地理的に京に近く、平安時代から朝廷に仕えてきたが、東国に初の武士政権が生まれると、その支配下にも入る。 1221年、朝廷と幕府が戦う承久の乱が勃発すると、多くが朝廷側に付いて敗北、命を散らせた。 さらに象徴的なのは、幕末の尾張藩の悲劇だ。 尾張徳川家は御三家筆頭だが、公家との姻戚(いんせき)関係もあり、天皇の信任も厚い。 十四代当主の慶勝は、まさに東の幕府、西の朝廷の間で引き裂かれていた。 「幕府と朝廷の平和的合体」がビジョンだったとは言え、その行動だけを見れば見事なジグザグである。 第一次の長州征伐では、嫌々ながら幕府軍の総督に。 だが、長州藩と交渉して無血降伏させ、幕府の怒りを買う。 大政奉還後には薩摩や長州とともに新政府(慶応政府)の発足にかかわり、副総理格の「議定」に就任。 ところが、最後の将軍・徳川慶喜の役職排除を知るや、今度はその復権に動く。 最終的には、旧幕府軍vs新政府軍の戊辰戦争で態度表明を迫られ、新政府軍への忠誠を誓う。 そこで起きるのが、世に言う「青松葉事件」だ。 1868年1月、慶勝は「旧幕府軍と組んで朝廷に反逆を企てた」として、藩士計十四人を打ち首にしたのである。 事件後の箝口令(かんこうれい)は厳しく、事件名の由来も不明なほど。 だが、後年の研究では「冤罪(えんざい)」の見方が大勢だ。 同事件研究の第一人者、水谷盛光は著作の中で、尾張藩が「新政府に忠誠を披瀝(ひれき)」するために仕立て上げた「大バクチ」だったと総括している。 そうまでしたのに、旧尾張藩の人材は明治政府では薩長勢力に排除される。 しかも、東京市中には、当時の名産に掛けて、幕府への”裏切り”を皮肉る、こんな落首も現れる。 「尾張大根はふたまたにで木(き)、万(よろず)おどろ木(き)」。 名古屋市名東区の明徳池近くに十七体の菩薩像がある。 造られたのは昭和初期というから、さほど古くはない。 「子どものころから、木曽三川の堤防工事で亡くなった薩摩藩士の慰霊だと聞かされてきました」と、近くに住む土屋クミ(72)。 だが、1984年、水谷は、菩薩像の背中に青松葉事件で斬首(ざんしゅ)された藩士らの名が書かれているのをみつけるのである。 新旧二つの権力に、尾張藩が引き裂かれる中で葬られた十四の命。 それが故に、事件後、半世紀以上を経ていてもなお、表立って弔うのがはばかられたのか。 カムフラージュのために三体多くされたとされる菩薩像が、「裂け目」の闇の深さを物語っている。 (敬称略) 十六菩薩堂 明治42年、杉山辰子氏(現在も十六菩薩堂内に遺影が飾られている)によって、仏教感化救済会(仏教精神をもって、みなし児の養育やハンセン病患者を救おうというもの)が創設された。 杉山辰子氏は、「親のない子どもたちの世話をすると、法華経がわかる」と口癖のように言い、ハンセン病患者と一緒に風呂に入ったと伝わる。 昭和の初め頃、同会によって、明徳池南の山上に、「大仏像なき大仏殿」が建立された。 昭和8年、大阪の仏師、岩田有康・岩田博両氏の手によって、高さ5尺(約1.5メートル)の大仏座像が安置された(同年4月8日、大仏開眼供養)。 大仏下部には、昭和7年に逝去した杉山辰子氏の遺骨が納められたという。 その後も、この大仏殿から麓にかけて、修行道場と同会関係者の家が5〜6軒、相次いで建てられ、藤森・猪子石周辺の地に「福祉目的の仏教」を広める為の同会の重要拠点となった。 お釈迦さまの誕生日の4月8日には、毎年甘酒がふるまわれ、出店がでる程だった。 藤森・猪子石での呼称は、「仏教修養会」略して「仏教会」であったので、今でも地元・藤森では、十六菩薩堂一帯を「仏教」と呼んでいる。 仏教感化救済会は、昭和22年、第3代の会長となった鈴木修一郎氏が、日蓮宗僧侶として出家・得度。泰山院日進と号し、開山上人となり、昭和25年、「大乗山法音寺」と寺号を公称した。 昭和28年に、日本福祉大学を開学した法音寺は、昭和区駒方町にある。 写真(最上部右)のコンクリート製の大仏があった大仏殿の大きさは、間口がおよそ9メートル、奥行き8メートル、高さ7〜8メートル(高さは、昭和9年生まれの土屋クミさんの子どもの頃の記憶による)である。 写真(最上部左)の十六菩薩堂を取り囲むコンクリート部分が、大仏殿の床部分であり、大仏殿の大きさをそのまま(柱の位置までも)現在に伝えている。 十六菩薩堂は、大仏の台座の真上に建てられている。 上の大仏写真の蓮の下の台座(コンクリート製で4段あった)、その最下部の台座は今も残っているので、十六菩薩堂の下を覗くと見ることができる。 大仏殿が建てられた昭和の初め頃、大仏殿が出来たが故にであろうが、大仏殿に至る小道とは別の道無き道(現竹やぶ)に、16体(2体は、カムフラージュ)の陶製の菩薩像が、何者かの手によって野仏として置かれた。 それを見つけた教祖の杉山氏と、信者の藤森村民が、「野仏ではかわいそう」と大仏殿近くに小堂を建て、16体の菩薩像を祀った。 これは推測であるが、屋根ができたので何者かによって予備用として作られていた1体が増やされ、17体となり、同時に菩薩像の背面に名前を書いた紙が貼られた。 「16体の菩薩像は、16の祠の中にあった」とする説もある。 雨ざらしの野仏では、背面に名前を書いた紙を貼ることができないので、どうしても祠が必要であるからだ。 だが、土屋クミさんは「有るか無いかの裏道にそんなスペースはなかった」という。 仏像は、高さ43センチ・幅14センチ・奥行15センチの大きさなので、これより一回り大きければよく、不可能という話ではないが、16もの祠がその後どうなったのかという記録がない。 1984年の中部読売新聞には、 「土屋さん一家がこの土地に越してきた昭和二十年には、地蔵は道路に並んでいた。その後、邸内にお堂を建てて納めたという」とあるが、 土屋クミさんによると、「新聞記者の聞き違い。すでに、お堂はあった」という。 誰が祀ったのか、今もって不明である。 菩薩像制作者は、常滑焼の名人・二代目素三(もとぞう/1889〜1956)と推測されているが、謎の人物は、その素三に菩薩像を注文するにあたって、その意図を告げていない。 なぜなら、菩薩像そのものに、十四士の名前が彫られていないからだ。 そして、陶製なので壊れることを見越して、1体余分に注文している。 大仏については、『猪高村物語』に、 「名古屋の法音寺に属する日蓮宗の人たちによって造られたコンクリート製の大仏がありました。 ところが太平洋戦争中に近くに高射砲陣地ができ、その障害になるという理由で、大仏は取り壊されました。 大仏の頭部だけを地中に埋めて、そのあとに近くにあった小堂を移築したのです」とあるが、 所有者の土屋クミさんによると、 「当時、小学生だったので定かでないが、大仏は偶像礼拝を嫌う進駐軍に撤去を命じられて、頭部を埋めて(写真左の木の下/大仏殿跡に向かって左手前)、あとは壊したと聞いた。 高射砲陣地は、今の藤森西町にあり、すぐ近くとは言えない。 そもそも高射砲陣地は、(矢田大幸町の)三菱(発動機工場)から目をそらす為に、松の木で作ったニセモノだった。 昭和20年から住んでいるが、ここにあった大仏殿が取り壊されたのは、昭和23年の福井地震のあとのこと。 大仏殿の屋根の軒端(のきば)の鐘が、カリンカリンと音を立てて揺れたことを覚えている」という。 大仏の大きさは、約1.5メートルなので、「高射砲の障害」になることはあり得ない。 法音寺のHPをみると、昭和18年、宗教団体法違反容疑により宗教活動を禁止されているので、その時に大仏を取り壊した(大仏殿の取り壊しは、その5年後になる)可能性が高い。 この大仏殿の中の大仏の台座の真上に、近くにあった小堂を移築した。 移築といっても、一部は流用したが、瓦を替えたり、畳を敷いたりして、立て直しに近い。 堂内には、現在も17体(中央のカラフルな大仏像は、後に信者から寄付されたもので、17体に数えない)の陶製の菩薩像が祀られている。 昭和59年(1984)、青松葉事件研究の第一人者・水谷盛光氏(元名古屋市中区区長)によって、菩薩像の9体の背中に人名を書いた紙が貼ってあるのが発見され、判読できる7体が青松葉事件処刑者名と一致して一躍有名になった。 現在の17体の菩薩像には、2度目の裏張り(処刑された十四士のみならず、事件後に自害した「榊原蓬庵」「榊原はん」の銘札もある)がしてあるが、これも誰がやったのか不明である 土屋さんではない。水谷盛光氏は、「榊原勘解由の遺族」と推測している。 今でこそ、十六菩薩堂には鍵が掛けられているが、それまでは誰でも自由に入ることができた。 渡辺 新左衛門 榊原 勘解由 石川 内蔵允 冢田 愨四郎 安井 長十郎 寺尾 竹四郎 馬場 市右衛門 武野 新左衛門 成瀬 加兵衛 横井 孫右衛門 沢井 小左衛門 横井 右近 松原 新七 林 紋三郎 青松葉事件因縁之霊 榊原 蓬庵 榊原 はん 水谷盛光氏は「郷土文化 第42巻 第3号」で、 「驚いたことに、最右の第一躯に[青松葉事件因緑(ママ)之霊]、右から第十六躯に[命日 明治元年一月二十六日 榊原蓬庵]、第十七躯に[命日 明治元年一月廿六日 榊原はん]との銘札が張られている。 蓬庵が自害したのは、[正月二十日]のはずである。 勘解由の妻・はんは、夫の[初七日]に長男・次男とともに白装束に身をかためて自害した。 ・・・蓬庵・はんの銘札を、そのままにしておくことは、後世、歴史を誤らせることになる」と書いている。 当日に「榊原勘解由斬首」を知らされなかった父蓬庵(90余歳)の自害は、翌21日頃と思われる。 十六菩薩像を最初に祀った「謎の人物」は誰か? 『特別史蹟 名古屋城』に、水谷盛光氏の興味深い推論が紹介されている。 「明治六年(1873)、『青松葉事件』で処刑された沢井小左衛門邸跡に芝居小屋『新守座』が開設された。 時移って昭和二年(1927)四月、新守座で栗島狭衣(さごろも)の自作自演『幕末哀史青松葉事件』劇が上演された。 藩政のころ、沢井邸と道を隔てて西隣りに松原新七の討手・宮崎靡邸があった。 宮崎家はかつて家禄百五十石のうち、藤森村で六十三石一斗九合を給知していた。 無実を聞かされていた靡の遺族が、『青松葉事件』劇に刺戟されて、十四名の供養を発願したのではなかろうか」と。 発願(ほつがん)した人物は、藤森の地と無縁とは考えにくいので、藤森に給地があった宮崎家の「極秘の罪滅ぼし」というのは、可能性が高いと思われる。 十六菩薩堂には、現在も月初めに法音寺から和尚さんが来て、十六菩薩(処刑された青松葉事件関係者)の供養が続けられている。 渡辺新左衛門の墓石(平和公園/守綱寺) 平和公園守綱寺墓域に渡辺新左衛門の墓石がある。 「岳丈」は、渡辺新左衛門の法名(ほうみょう/死後の名)。 墓石には「明治元年」と刻まれているが、事件は慶応4年正月に起きた。 この年の9月8日、「慶応」から「明治」に元号が変わった。 トップページにもどる 藤森村にもどる ページトップへ |