藤森神明社



 藤森神明社   字洞前(名東区本郷1丁目22)にある。

 神明社参道 蕃塀(ばんべい)と神明社拝殿

創建は不詳。元は、現神社より西方20間(36メートル)ばかりの低地にあったが、洪水の難を逃れる為、現在の地に移されたと伝わる。

もう少し正確に記述すると、区画整理前、旧社殿は現在地より少し東側にあったと思われる。

高速道路計画(昭和43年、東名は岡崎IC−小牧IC間が開通し、小牧ICで名神と接続)に引っかかり、明治維新百年を記念して少し西に動いて再建されたと思われるので、本殿から見ると30メートル位の低地からの移動かもしれない。つまり、移動というより高所に引き上げただけなのだ。

ただ、明治中期の村絵図を見ると境内はかなり広く、境内地の東側が一部削られただけの可能性もある。


社頭の由緒由緒  ※句読点及び( )内は、執筆者による。

祭神  天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)

     豊受大御神
(とようけのおおみかみ)

 棟札(むねふだ)に、貞和三年(西暦一三四七年)天照坐大御神(あまてらしますおおみかみ)社一宇再建、建徳二年(1371)猿投大明神社、弘和元年(1381)白山宮修理、他富士浅間社・山神社・天道社再建修復、享保九年(1724)、神明/白山 宮葺替等記したる数あり。

 尾張志に、神明/白山 相殿社と呼び、国常立尊・菊理媛命を祀ると。府志に、白山社創建は永享元年(1429)とし、社明相殿(あいどの/同じ社殿に二柱以上の神を合祀すること)の由は見えず、故に後年相殿にしたるならんと説く。
社説に、上古今の社地より、二十間ばかり西方の低地にありしを、後此所に移しし由いへりと、和爾良のことも付記。

 近代までは、相殿の神々も本殿を離れた地に社を建て、各社名のもとに信仰されしは諸記にあり。

 現在は神明社と称え、祭神と他の神々を相殿神として合祀する。戦後英霊社を再建して末社となす。合わせて斉(ひと)しく尊崇を厚くする。

相殿神  国常立尊(くにのとこたちのみこと/天地開闢[かいびゃく]とともに最初に現れた神)

      菊理媛之命(くくりひめのみこと/伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持った。「くくり」は「括り」の意)

      木花開耶姫之命(このはなのさくやびめのみこと/大山祇神[おおやまつみのかみ]の娘])

      小碓之命(おうすのみこと/日本武尊のこと)

      大山祇神(おおやまつみのかみ/山をつかさどる神)

      迦具土之命(かぐつちのみこと/火をつかさどる神)

末 社   戦没英霊之命 

       昭和五十七年十月建之



 「明治維新百年記念・神明社改築」記念碑

神明社改築記念碑        記 念 碑
明治維新百年祈念事業として氏子崇敬者相計り 
新規に社殿敷地を定め神明社造営計画を進め社殿様式は総て御祭神に依り
神明風として社殿 社務所 水屋 参道 林苑計画を施行し建物はすべて
耐久性の構造を主体に一部木造を配し新時代の神社建築の粋を集め計画施行し尚社号標 灯籠等は特(篤)志家の寄贈による

(裏面) 起工 昭和四十四年二月十四日    

      完工 昭和四十五年四月十五日








「和尓良以神旧墟」碑 「和尓良以(わにらい)神舊墟(きゅうきょ)」碑

写真左の石碑は、藤森神明社境内西にある。

『尾張志』に、

〈社説に、上古は今の社地より二十間ばかり西の方なる低地にありしを、後此所にうつしし由いえり。
其の年月は知られずとぞ。
さて其の舊址に古松枯れ朽ちてたてり。
其の處を オ子ラ 又ワ子ラ 或いはウニラ 又ワニラなどといい〉

とあるように、現神社の西方36メートル程の所に「和尓良以神社」と呼ばれる神社があり、その跡地に立てられていた石碑(左の写真)は、年代は不明だが現在地に移設された。

 以下、全く根拠のない推測を述べる。

 上古延喜式内社の「和尓良以神社(和爾良神社)」があったが、いつしか廃れ、その跡地に「和尓良以神舊墟」碑と、「天照坐大御神社」が建てられた。

1347年(あくまで仮説)、低地から現在地に氏神として「天照坐大御神社」は移設再建され、後に神明社と呼ばれるようになった。

年代は不明だが江戸時代頃だろうか、「和尓良以神舊墟」碑も神明社の境内に祀られた。明治中期の村絵図に「オネラ様」と描かれている。

 なお、『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう/927年成立)』 に記載されている「尾張国山田郡和爾良神社」とされる候補神社は7社もあるが特定されてはいない。

そのうちの一つがこの「和尓良以神社」で、他の6社を列挙すると、猪子石西原の和爾良(かにら)神社(創建年からみてこれはあり得ない)・長久手市の景行(けいこう)天皇社、残りの4社はいずれも春目井市にある和爾良(かにら)神社・朝宮(あさみや)神社・両社宮(りょうしゃぐう)神社・天神社である。

いきさつは不明だか、了玄院墓地にある「おにら神」「わにら神」「うにら神」の石碑は、本来神明社の境内に「和尓良以神旧墟」碑と並んで設置されるべきものと考えた方が理解しやすい。

だが、小関三五郎・加藤勘三郎の守護神でもあるので、両氏を開基として祀る了玄院に設置したのであろう。









忠旌碑

 「忠旌(ちゅうせい」碑

写真右の石塔は、藤森神明社境内西にある。

「明治三十七八年征露記念」とかすかに読める。

「忠魂碑」か「戦勝記念碑」。

※「旌」は、「あらわす/あきらかにする/表彰する」の意。

※日露戦争は、「明治37〜38年」。




常夜灯






 常夜灯2基

写真左の常夜灯は、藤森神明社境内西にある。

「常燈/秋葉山/文政四(1821)巳八月吉日/村中安全」

「常夜燈/天保六(1835)未八月吉日/村中安全」














 本郷公園・日時計(「藤森南部土地区画整理組合完工記念」碑)

 本郷公園は、神明社の西隣にある。

 モニュメントの日時計  藤森南部土地区画整理組合完工記念碑

 名古屋市藤森南部土地区画整理組合完工記念

   設     立     昭和41年5月19日

   換地処分の日    昭和49年7月29日

   組 合 解 散     昭和50年3月31日

   施 行 面 積    1002718.90u

 山や谷や畑が多くの人の力と英知で新しいまちにかわりました。

 豊かな自然の中で新しいまちづくりの夢を刻みましょう。




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