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TEL. 0952−31−0858

〒849-0922 佐賀県佐賀市高木瀬東3−9−12

歴史HISTORY

〜豪族・高木氏〜

正法寺は、肥前、最古の豪族である高木氏の菩提寺です。
今から700年程前、現在大和町春日の高城護国禅寺と共に、
佐賀の同宗寺院を二分する勢力を持っていたと言われています。

創建
1299年
開山
深海明弘禅師
開基
妙明尼

豪族・肥前高木氏の菩提寺として、護国を任された正法寺。

1299年、深海明弘和尚を開山とし、豪族高木氏の子孫である、妙明尼を開基として創建された。以来、豪族高木氏の菩提寺として、歴史を重ねてきた。

高木氏とは、藤原累代の豪族であり、藤原道隆公の末裔である。その藤原宗貞が、平家追討のため佐賀の高木の地に降り、そこで場所の名を取り「高木」と名乗るようになったという。

正法寺文書

始めに「肥前国正法護国禅寺」と記されている。

そして、高木氏は、守り神として高木八幡宮を創建し、武威を四方に拡大し、当時、高木地方に加え川上の於保地方までの、上佐賀一帯を領地としたのである。
高木氏

当時は南北朝の戦乱の時代で、高木氏は太宰少貳氏の指揮下のもと、国難に当たり、多くの戦功を残した。その中で、菩提寺である正法寺は、護国寺として南北朝廷と多くの文書のやりとりを行っていた(左写真)。その文書は、三十二通もの数が見つかっており、当時の寺格を知るための、更に南北朝の時代を紐解くための史料として価値が高く、県重要文化財に指定されている。正法寺文書


高木一族の残した人物

明治天皇肖像画
(高木背水作)

高木一族は、その優秀な血筋で、明治以降も様々な名だたる人物を世に残してきた。

高木豹三郎・・佐賀の乱、西南の役に参戦した。
高木背水・・豹三郎の息子で、明治天皇の肖像画を描いた洋画家である。佐賀市の徴古館に史料が残されている。(彼の姉は、広津柳浪と結婚し、松川裁判で有名な広津和郎はその子である)
高木秀臣・・明治の初期に、東京控訴院検事総長を務めた。
高木八尺 ・・東京法学博士であり、アメリカ政治学の権威で、文化勲章受賞者である。神田乃武の実子であり、高木家の養子である。


高木鑑房の壮絶な最期

剛勇萬人の勇士として知られた高木鑑房であったが、龍造寺隆信の手下に惜しくも討ち取られることとなる。そのときの光景は、目を疑うような驚くべきものであったとの伝説がある。

『――― 鑑房は身を落ち着けていた前田家定の館で、従者に足を洗わせていた。

しかしこの時、家定はすでに龍造寺家に寝返っており、刻々と高木鑑房の暗殺を狙っていたのだった。

そして、「今こそ」と家定は、後ろから忍び寄り、足を洗っていて無防備だった鑑房の首を素早く打ち落とした・・

しかしその瞬間、なんとその首を失くした死骸は、むっくりと立ち上がり、刀を引き抜くと、従者を切り落とし、さらに敵はどこか!と言わんばかりに館の広間へと切り込んでいったという。

驚くべき光景に場は凍りつくが、前田の家来数十人が槍や長刀を四方から刺し抜いて、どうにか押し伏せたのだった――――』

この話は、鑑房のその勇士たるを示す伝説として、『北肥戦誌』に残されている。
高木鑑房


バナースペース

臨済宗東福寺派 高木山 正法寺

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