★大和當麻寺
○當麻寺伽藍配置は、通常では平地に営まれる南面伽藍配置を無理に、北向き斜面の尾根を取り込みその尾根斜面に塔を建立した配置であり、「何故だろう」と考えさせられる。
尾根の中段の南大門は廃絶しているが、東西両塔、南面する金堂(鎌倉期・重文・桁行5間梁間4間)と講堂(鎌倉期・重文・桁行7間梁間4間)は健在である。それと直行する形で
東を正面とする後世に造営された(地形から当然であるが)仁王門・曼荼羅堂(本堂・国宝・平安期・現在の外観は桁行7間梁間6間・一重寄棟造)等の幾多の伽藍を残す。さらに主要伽藍の隙間に密教と浄土宗の塔頭が割りこんで建立される。 現在は真言宗の中之坊・松室院・不動院・西南院・竹之坊、浄土宗の奥院・護念院・念仏院・来迎院・紫雲院・極楽院・千仏院・宗胤院がある。
その他、當麻曼荼羅など多くの寺宝を有する。 2021/01/某日
○「葛城古寺探訪ー二上・葛城・金剛山麓の古代寺院ー」葛城市歴史博物館、2016 より 東西両塔が残る。
西塔基壇は凝灰岩で化粧する。塔の規模は高さ25.21m、一辺は5.23m、心礎は一辺2mを越える巨石を用い、中央に径60cm、深さ16cmほどの穴を穿つ。
東塔基壇は後世におこなわれた解体修理の影響で、詳細は不明である。建築様式は西塔より古いものとされる。
高さは24.39m、一辺5.32m。 本堂の前身堂の存在が知られ、7間・4間の切妻造の建物と云われる。
そして、金堂・講堂・本堂前身堂・東西両塔が建立され伽藍が完成したのは平安初頭と云う。 當麻寺の創建瓦:
只塚廃寺の瓦と同笵と云われ、両者の間に強い関係があったことが推定される。 伽藍配置について:
當麻寺は地形的制約の中、双塔式の薬師寺式伽藍配置を採る。しかし、中門や南大門は明らかでなく、特に現状の地形を考えると、計画だけで建立されなかったことも考えられる。
では、現在のように当初から東を正面としていたのであろうか。確かに東向きの本堂が現在の地に建立されたのは伽藍完成の前ではあるが、その頃の寺院の中心はあくまで金堂が、南を正面としていたのは間違いないだろう。このことは1999年の発掘調査で、金堂南面には現在と異なり、平坦な参道が念仏院の門近くまで設置されていたことが確認され、南が正面であったことを示唆する。
當麻寺境内図 ○2017/01/11追加: ○大和名所圖會;巻3 寛政3年(1791)刊 より: 大和當麻寺伽藍:2020/06/30画像入替
○2008/06/02追加:
和州當麻寺絵図面:當麻寺西南院蔵、作成時期不明、部分図
○2010/02/21追加:
和州當麻寺伽藍之繪圖面:浄土方蔵版
和州當麻寺伽藍之繪圖面:真言方蔵版
奈良県立図書情報館に以下の解説がある。(要旨)
當麻寺前身は、万法藏院禅林寺と号し、聖徳太子の弟麻呂子親王が二上山の西に草創し、親王の孫にあたる当麻真人国見が現在地に移したと云う。
当麻曼荼羅縁起・当麻寺縁起では、創建は天武天皇9年に着工し、同13年に完成すとする。
鎌倉期には『元亨釈書』や『古今著聞集』を通して当麻曼荼羅の説話が広く流布し、曼荼羅堂を中心に浄土の霊場として信仰を集める。
近世は高野山真言宗・浄土宗兼帶となる。
現在、奥の院に文政元年(1818)の銘の入った名号石があるが、図中にもこの名号石が見られるので文政以降の作成であろう。 2020/06/30追加
○「西国33所名所圖繪」 大和當麻寺伽藍
當麻寺は古代建立の東西両塔が現存する唯一の寺院である。古代の金堂・講堂の伽藍は存在するが、後世の當麻曼荼羅(本堂)中心の信仰形態に変化している。塔頭は浄土宗・真言宗が入り乱れている。 2001/06/24撮影: 當麻寺東西両塔09
2023/01/09追加: ○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年より
両塔ともに建造の年次を示す文献上の所見はないが、その様式によれば、東塔は奈良期初葉、西塔はその末葉乃至弘仁初葉の造立と説かれる。
今に見る景観は、東塔は明治35・36年の、西塔は明治45~大正3年の修理に於いて整えられたもので、それ以前は東塔は傾き、各重に支柱を入れて倒壊を免れ、西塔は三重を大破していたと云ふ。
なお、西塔は東塔とはあまりに造立年代の隔たりがあるので、現西塔は創建のものではなく、再建とする論客もある。
2020/05/07撮影:
塔頭では浄土宗奥之院から両塔が遠望でき、真言宗西南院からも両塔が遠望でき、かつ西南院では西塔西面に接近が可能である。
なお浄土宗護念院からは西塔の北東面に接近できる、真言宗中之坊からは東塔が遠望可能である。
2022/08/20撮影:
当麻寺東西両塔7 当麻寺東西両塔8 当麻寺東西両塔9 当麻寺東西両塔10
★大和當麻寺東塔
2007/01/14追加:
○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 より
塔婆の建立時期を示す文献上の記録はないが、西塔(国宝)が天平末期乃至弘仁の様式で、東塔が天平初期の様式(建立)と云われる。両塔とも尾根の中段に位置し、金堂・講堂の位置も当初の位置のままであり、平地に造立された寺院とは若干趣は異なるが、思想的には南都諸大寺の伽藍配置を採る。一辺5.30m、高さ23.24m。
明治35〜36年に修理、修理前は塔は傾き、各重に支柱を入れ、僅かに倒壊を免れる状態であったという。
特徴的なことが3点ある。第1は初重中央間柱間が脇間より極めて広いこと、第2点は二重・三重の平面が2間(初重は3間)になっていること、相輪(宝輪)が八輪であること。また円柱はエンタシスが見られるのも特徴であろう。 ※二重が2間であるのは現存塔婆ではこの塔だけである。
基壇なし。
初重全3間17尺5寸、中央間7尺、両脇間5尺2寸5分
二重全2間11尺8分、各間5尺5寸8分
三重全2間9尺、各間4尺5、相輪長22尺4寸3分、全高76尺7寸 ○2007/03/03「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」:
建築様式から奈良末期の建立と考えられる。
當麻寺東塔修理前全景 同 修理前立面図 同 修理前断面図
明治修理前は北方に傾斜し、軒廻り・組物は垂れ下がり、各重支柱を入れて倒壊を防ぐ状態であった。
當麻寺東塔立面図
○2008/08/23追加:「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
當麻寺東塔311 當麻寺東塔立面図312 當麻寺東塔立面図313 ○2017/01/11追加:
絵葉書:s_minaga蔵:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
写真に写る塔婆写真は明治36年の修理後に姿であり、絵葉書の年代観と矛盾しない。 大和當麻寺東塔絵葉書
○2001/06/24撮影:
當麻寺東塔01:本堂から望む 當麻寺東塔02 當麻寺東塔03:西塔から望む
當麻寺東塔04 當麻寺東塔05 當麻寺東塔06 當麻寺東塔07
○2002/10/14撮影:
當麻寺東塔1 當麻寺東塔2 當麻寺東塔3 當麻寺東塔4 當麻寺東塔5
當麻寺東塔6 當麻寺東塔8 當麻寺東塔9
2020/05/07撮影: 二重・三重が平面方2間である。九輪は八輪となる。水煙は異形であるが、創建当時のものかどうかは不明。
2022/08/20撮影: 常に強調されていることであるが、二重目、三重目の柱間が2間である。 そして、今般初重内部が公開される。
東塔安置仏:金剛界大日如来(2躯)を安置。
★大和當麻寺西塔
2007/01/14追加:
○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 より 塔婆の建立時期を示す文献上の記録はないが、西塔(国宝)は天平末期乃至弘仁の様式で、東塔は天平初期の様式(建立)と云われる。 一辺5.17m、高さ24.81m。
明治45〜大正3年に修理、修理前は三重を大破していたと云う。
柱には微弱なエンタシスが見られると云う。
伏鉢にある補修銘により「・・・・建保7年(1219)、慶長17年(1612)、正保3年(1646)、明和3年(1766)」の修理履歴が分かる。
基壇一辺33尺1寸6分、高さ3尺1寸
初重全3間17尺7分、中央間6尺6寸3分、両脇間5尺2寸2分
二重全3間13尺8寸8分、中央間4尺6寸8分、両脇間4尺6寸
初重全3間11尺7寸4分、中央間3尺9寸4分、両脇間3尺9寸
相輪長26尺2分、全高81尺8寸7分 ○2001/06/24撮影: 當麻寺西塔01:東塔下から望む 當麻寺西塔02 當麻寺西塔03 當麻寺西塔04
當麻寺西塔05 當麻寺西塔06:本堂から望む 當麻寺西塔07 當麻寺西塔08
○2002/10/14撮影:
當麻寺西塔1 當麻寺西塔2 當麻寺西塔3 當麻寺西塔4 當麻寺西塔5
○2014/09/02追加:パンフレット「祈りの回廊」2013年秋冬版、巡る奈良実行委員会 より
大和當麻寺西塔6
○2007/03/03「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」:
當麻寺西塔修理前全景 同 修理前立・断面図
各重何れも支柱を立て、縁勾欄も全て欠失した荒廃した状態であった。
基壇は壇上積み、北側に石階を設け、壇上は切石敷設とする。礎石は自然石を平滑にした程度のもので、心礎も同様であるが、2mほどの巨石を用いる。中心に径70.7×16cmの円穴を彫るが、柱穴にあわせた蓋石を入れていて、円穴の底の状態は不明。
當麻寺西塔立面図
2020/05/05追加: 「国宝当麻寺西塔保存修理工事現場公開」が2020/02/29(土)に実施される。 情報収集を怠り、残念ながら未見。
これ以前にも現場公開は何度か実施されたようで、これも情報収集不足で、全く見学に訪れず、生きている間におそらく心礎など実見する機会はもう無いと思われ、残念なことと後悔をしているが、どうしようもない。 ○国宝当麻寺西塔修理現場公開パンフレット(pdf
4128KB) が公開されているので、写真を転載する。
前回解体修理後西塔:明治44年頃 前回解体修理後西塔:大正4年頃
今回解体修理後西塔:2020年 今回解体修理後西塔:2020年1月
○公開見どころの解説(pdf
4724KB) が公開されているので転載する。 *心柱 大正修理で2丁継から3丁次に変更され、心礎の西寄りに立っていた。
初重から確認できるのは平安期の欅材で、最上部は中世の杉材である。 足元は不整八角形に整形し、全体は西に湾曲している。
心柱の頂部には舎利容器が納入されている。
西塔心柱模式図 西塔心柱写真
*心礎
心礎は直系約2mの石英閃緑岩で、葛城市太田附近のものと推定される。
心礎中央には心柱の据付穴(枘孔)があったが、舎利孔はなく、現在は凝灰岩製の2個の蓋石で埋められる。
當麻寺西塔心礎:心礎写真は下にも掲載(當麻寺西塔心柱と心礎)
*西塔再建説
足立康は心柱と心礎の形状が一致しないことから、現在の西塔は再建であるという説を唱える。(「當麻寺西塔に関する疑い」昭和8年)
*平成12年度防災施設工事に伴う調査
発掘調査で西塔基壇周囲よろ創建時の軒丸瓦が出土する。また測量により金堂・講堂の伽藍中軸線に平行して曼荼羅堂(本土王)とと西塔は同じ軸線に載ることが判明している。(足立説が補強される。)
*舎利容器及びその埋納については下の「西塔舎利容器」の項を参照。 *水煙
忍冬唐草文と未敷(みふ)唐草文を組み合わせた意匠で飛鳥期に類例がある。 蛍光X線分析により表面に金が残っていることが分かる。
西塔水煙
2021/09/24追加: 當麻寺西塔水煙はスペード形水煙であるが、類例は法隆寺五重塔にある。 ※法隆寺五重塔は大和法隆寺を参照、法隆寺五重塔相輪3などの水煙写真あり。
※出土例では河内九頭神廃寺からの出土例がある。
*出土瓦
平成12年発掘調査と同じ當麻寺創建時の複弁蓮華文軒丸瓦が出土する。つまり白鳳期(飛鳥後期)に西塔が存在したことが推定される。
*建立年代
従来、西塔の建立年代は、三手先組物の様式が當麻寺東塔(奈良期)と醍醐寺五重塔(平安中期)の間に位置するなどの理由から、平安前期とされてきた。
組物の様式を再検討した結果、初重は平安前期、二・三重は平安後期と推定される。
*軒丸瓦
@Aは西塔に使用されていた最古の瓦で平安後期と推定される。 軒丸瓦Bは梵字文で基壇及び基壇周囲から一定数出土する。
またA・Bは當麻寺の前身ともいわれる只塚廃寺(葛城市)からも出土し、対になるものと考えられる。
塔及び周辺出土瓦
2020/05/07撮影:
西塔は竣工しているが、當麻寺境内(本堂)からは、塔への参道が閉鎖され、近づくことが不能であった。
事前に問い合わせをするも、なぜ参道が閉鎖されているその理由は判然とせず、また落慶法要を行う予定もないとのことであった。
落慶法要を執行しないのは、當麻寺には當麻寺伽藍を管理営繕運用する本坊(當麻寺の実体)がなく、高野山真言宗塔頭中之坊・西南院と浄土宗塔頭奥之院・護念院の4院が輪番で當麻寺住職を勤める管理形態であるためと思われる。なお本堂(曼荼羅堂)は真言・浄土の兼帯で管理、金堂・講堂・塔などは真言宗で管理という。おそらく、西塔の修理工事が竣工しても、自坊の経営で精一杯で當麻寺として落慶法要を営む指導力を発揮する意思はないということであろうか。(推測・邪推)
西塔は2020年修理竣工直後の姿である。
2022/08/20撮影: 今般初重内部が公開される。
西塔安置仏:胎蔵界大日如来、阿弥陀如来(2躯)、八幡大菩薩を安置。 ※しかし、なぜ、八幡神が安置されるのかは分からない。
以下西塔内部
当麻寺西塔内部168 当麻寺西塔内部169 当麻寺西塔内部170 当麻寺西塔内部171
当麻寺西塔内部172 当麻寺西塔内部173 当麻寺西塔内部174
相輪
当麻寺西塔相輪 当麻寺西塔相輪
◆西塔舎利容器
2015/03/15追加: ○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年より 明治の修理において心柱頂上に凹部があり、そこから舎利容器・古銭・建保7年及び明和3年の修理記録等が発見された。 舎利容器は外を金銅壷とし、この中に金壷を入れ子とした銀壷と水晶五輪塔、水晶玉、古銭があった。 古銭は和銅開珍ほか各種20枚があった。
當麻寺舎利容器実測図(天沼博士測図)
○「古建築追懐」八戸成蟲楼<ヤットイナゴロウ/天沼俊一のPN>(「史迹と美術 84号」昭和12年 所収) より
當麻寺西塔の修理に際し、明治45年6月27日西塔心柱頂上から文書がでた。
1)西塔修理結縁衆・・・建保7年(1219)
2)奉納 仏舎利三粒 赤地錦袋三 水精五輪宝塔一基・・・・建保7年(1219)
3)西塔修理略記・・・明和4年(1767)
4)西塔修復附五百年餘ノ記録并佛舎利を拝見シテ 当山千手院實鏡 ・・・
5)法華経28品目録写経。
以上1)2)5)を一包、3)4)を一包となし、古銭(十二種)を一包として鍍金の壷に納めてあった。
舎利容器の様子は以下の通りである。
心柱頂上に穴を造り、最大の壷を明和4年の墨書あるきれで包みてその中に入れ、明和の墨書のある蓋で覆ってあった。蓋の墨書は3行に「宇右衛門/明和四丁亥年/四月晦日納之」とあった。
西塔心柱から出た舎利容器
2018/11/20追加: ○西塔舎利容器・舎利再取り出し (西塔は白鳳期の創建で、現在の塔は平安初期の再建か)
2018/11/14當麻寺・奈良県教委・奈良国立博物館発表。 各種メディアの報道を総合すると次のようである。
大和當麻寺西塔(国宝)から白鳳期のものと推定される金・銀・銅の舎利容器1組が発見される。
西塔は2016年6月から修理を開始し、2017年7月相輪を調査、心柱の頂部から、径約12cm、高さ約14cmの銅製の筒が発見される。
筒の中から、、外側から金銅製(高さ約9cm、直径約10cm)、銀製(高さ約3cm、直径約3cm)、金製(高さ約1・2cm、直径約1・4cm)の順に舎利容器が入れ子状で確認される。金製容器にはガラス製とみられる舎利も納められていた。
※これは新発見ということではなく、下で述べるように、明治45〜大正3年の修理で発見された舎利容器を元に戻したものを再び取り出したということである。
金・銀・銅の舎利容器がセットで残されていたケースは、近江崇福寺跡出土舎利容器(国宝)と摂津三島廃寺の舎利容器(重文)、大和法隆寺五重塔舎利容器に限られる。これらの舎利容器は、いずれも7世紀後半の白鳳期の作とみられる。
関根俊一奈良大学教授(日本美術史)は、今回の舎利容器には7世紀後半〜8世紀ごろの製作技法の特徴がみられ、三重の入れ子構造と合わせて白鳳期の舎利容器とみられると分析。「現在の西塔は再建されたもので、もともとは当麻寺が創建された飛鳥期(白鳳期)に建てられていたのではないか」という。
西塔の舎利容器は、明治45〜大正3年の修理で発見された記録がある。
※過去の記録についての概要は、上述の黒田f義「大和の古塔」昭和18年 に紹介され、また同じく上述の「古建築追懐」八戸成蟲楼<ヤットイナゴロウ/天沼俊一のPN>(「史迹と美術 84号」昭和12年 所収)にも紹介されているとおりである。 2018/11/14報道写真:
當麻寺西塔舎利容器1 當麻寺西塔舎利容器2 當麻寺西塔舎利容器3 當麻寺西塔舎利容器4
※現在知られている塔婆埋納舎利容器の一覧 → 舎利容器一覧
※近江崇福寺跡出土舎利容器(国宝) → 近江崇福寺跡
※摂津三島廃寺の舎利容器(重文) → 攝津太田廃寺(攝津三島廃寺)
※大和法隆寺五重塔舎利容器 → 大和法隆寺五重塔心礎
2020/03/13追加: ○平成30年「當麻寺西塔納置舎利容器について」報道発表資料、當麻寺・奈良県教委・奈良博 より
※平成30年「當麻寺西塔納置舎利容器について」報道発表資料は http://www.pref.nara.jp/secure/204966/taima.pdf よりDL可能、
本項は本ページより要約・転載、画像を流用する。 ◇當麻寺の沿革
當麻寺は聖徳太子弟・麻呂子親王を本願とし、天武天皇代(673-686)に河内山田郷にあった万法蔵院から現地に移したと伝えられる。
現地に移建した年代については、「建久御巡礼記」(1191)では“白鳳九年辛巳”(天武天皇10年/681)、「当麻寺縁起」(1237)では“朱鳥六年辛卯”
(持統天皇5年/691)とし、一定しない。 ◇当麻寺西塔の沿革 高さは基壇下から礎石まで1.1m、礎石上から宝珠頂部まで
24.1mである。
建立年代は三手先組物の形式から平安前期と推定され、平成12年に実施された防災設備工事に伴う発掘調査の結果、西塔の整地層から9世紀後半代の土器が検出されていることもこれを支持している。
ただし、當麻寺創建期(7世紀後半)の瓦も西塔の整地層から出土しており、心柱と心礎の形状の不一致から現西塔が創建のままではなく再建されたものとする足立康の説(「当麻寺西塔に関する疑い」1933)は否定されるものではない。
當麻寺西塔心柱と心礎
修理履歴は伏鉢銘により、建保7年(1219)、慶長18年(1613)、正保3年(1646)、明和3年(1766)、大正3年(1914)が知られる。
今般、平成28年(1916)から32年(2020)末までの予定で修理工事が実施されている。
◇舎利容器の発見状況
修理工事の一環で平成29年7月10日に宝珠・竜車・水煙および頂部の檫管を解体した。すると心柱の頂部が現れ、その上端に木製の蓋が嵌め込まれているのを確認した。
當麻寺西塔舎利容安置場所
明治44年から大正3年にかけて天沼俊一を監督技師として西塔が修理されているが、その際に心柱頂部から舎利容器が発見されたこととそれを再度納入したことが「考古学雑誌」第3巻第1号および「史跡と美術」84号(注:上に掲載)に記されている。
同日木蓋を取外し、中を確認する。 すると木蓋の大きさとほぼ同じ大きさの円孔が心柱上端から 17 センチの深さまで掘り込まれ、その中に直径
12.2 cm、高さ 14.2 cmの「銅筒」が納められていた。
當麻寺西塔銅筒納入状況
これを取り出し、納入物を慎重に取り出した。納入物の保存状態は大正修理時に撮影された写真から当時の状態を留めているとみられた。
大正修理舎利容器古写真:西南院蔵
◇舎利容器および納入物の納入状況
舎利容器および納入物の納入状況は別添資料(舎利金銅製容器内容明細)のとおりで、銅筒の中に金銅製容器、銀製容器、金製容器が入れ子式に納められていた。
舎利金銅製容器 舎利金銅製容器納入状況 舎利金銅製容器内容明細
これら3つの舎利容器は納入物から考えて、先述の雑誌に天沼が記した通り舎利容器とみられ、特に銀製容器の形状は加守古墓より発見された金銅製骨蔵器(重文)と形状がよく似ており、8世紀初頭まで遡るものと見受けられた。舎利容器が仮に飛鳥時代後期あるいは奈良時代前期のものであったとすると現在の西塔の建立年代と齟齬が生じ、足立康が指摘した再建説が現実味を帯びてくる。心礎の形状や発掘調査の出土遺物からもその可能性は指摘されているは上述の通りである。
◆当麻寺西塔納置舎利容器について 当麻寺西塔の心柱最上部より金、銀、銅の三重容器等が発見される。
1)金製舎利容器【図1】 一合
金製 鍛造 総高 1.2 身高1.08 同最大径1.38 同口径0.66cm 重 4.57g(身 3.84g 蓋 0.73g)
この容器に舎利を納入していたものと思われる。
なお、本容器ともっとも形状や大きさが近似する舎利容器に、近江崇福寺塔心礎納置品の舎利容器(国宝)のうちの、金蓋碧瑠璃壺(滋賀・近江神宮所蔵)【図2】がある。
金製舎利容器・対比
2)銀製舎利容器【図3】 一合 銀製 鍛造 総高 3.1 身高 2.49 同径 2.97 同口径 1.65cm 重
24.67g(身 19.72g 蓋 4.95g) 本品と形状の近似する作品に、大和加守出土の金銅骨蔵器(重文、東京国立博物館所蔵)【図4】がある。
この骨蔵器は加守廃寺の背後の急傾斜地より昭和20年に発見されたもので、奈良後期(8世紀後半)を降らない時期の作と推定される。
銀製舎利容器・対比
3) 金銅製舎利容器【図5】 一合 銅製 鋳造 鍍金 総高 9.06(蓋が完全に閉まらない状態) 身高 4.67 同径 10.14cm 重 701.21g(身 348.67g 蓋 352.54g)
本品と近似する形の有蓋壺は複数あるが、その一つに紀伊伊都郡一里山古墳出土の三彩釉骨蔵器【図6】がある。
金銅製舎利容器・対比
複製の製作について 当初、西塔心柱から発見された舎利容器等の納入品は、修理完了に合わせて心柱に再安置される予定であった。
しかし、金製舎利容器、銀製舎利容器、金銅製舎利容器は、飛鳥後期(白鳳期)にさかのぼる可能性がある美術史上稀有な文化財の側面もあり、再安置せず、広く公開することを奈良国立博物館より當麻寺に提案をする。
その際、舎利は西塔に再安置する必要があるため複製品を作製し、それに舎利を納入して心柱に納めることも提案する。 この提案は當麻寺より承諾を得る。
結果、複製品が製作されることとなるが、複製品は2セット作製され、1セットは西塔安置用とし、もう1セットは奈良国立博物館において原品とともに保管されるということに決する。
★當麻寺現況 2001/06/24撮影: 當麻寺本堂 當麻寺金堂 當麻寺講堂 2020/05/07撮影:
當麻寺仁王門1 當麻寺仁王門2 仁王像その1 仁王像その2
當麻寺鐘楼1 當麻寺鐘楼2 當麻寺梵鐘:国宝、白鳳期の作とされ、日本最古の鐘という。
當麻寺薬師門
薬師堂:重文、文安4年(1447)の建立、方3間堂で内部は丸柱を立て方1間の内陣を造る。
當麻寺薬師堂1 當麻寺薬師堂2 當麻寺薬師堂3 當麻寺薬師堂4 當麻寺薬師堂5
當麻寺娑婆堂:本堂(曼荼羅堂)が来世、娑婆堂は現世を表す。聖衆来迎練供養会式の終点である。 金堂:重文
鎌倉期の再建(治承4年/1181の南都焼討で焼失したと推定)。入母屋造屋根本瓦葺。桁行5間、梁間4間。組物は二手先、中備は間斗束を用いる。
當麻寺金堂11 當麻寺金堂12 當麻寺金堂13 當麻寺金堂14 當麻寺金堂15
當麻寺金堂16 當麻寺金堂17 當麻寺金堂18 當麻寺金堂19 當麻寺金堂20
當麻寺金堂21 當麻寺金堂22 當麻寺金堂23 當麻寺金堂24 當麻寺金堂25 當麻寺金堂26
金堂前石燈籠:白鳳の作で日本最古の石灯籠という。
金堂東鐘楼
講堂:重文
乾元2年(1303)の墨書があり、鎌倉末期の再建と推定される。桁行7間、梁間4間。寄棟造屋根本瓦葺。組物は平三斗、中備は間斗束用う。
當麻寺講堂11 當麻寺講堂12 當麻寺講堂13 當麻寺講堂14 當麻寺講堂15
當麻寺講堂16 當麻寺講堂17 當麻寺講堂18 當麻寺講堂19
本堂(曼荼羅堂):国宝
桁行7間、梁間6間。寄棟造屋根本瓦葺。梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とする。内陣須弥壇上に厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する。背面北側の桁行3間分には閼伽棚が付属する。棟木に永暦2年(1161)の墨書があり、平安末期の建立である。前身堂は奈良期まで遡り、平安初期に改造され、さらに平安末期に改造されたのが現在の堂である。
當麻寺本堂11 當麻寺本堂12 當麻寺本堂13 當麻寺本堂14 當麻寺本堂15
當麻寺本堂16 當麻寺本堂17 當麻寺本堂18 當麻寺本堂19 當麻寺本堂20
當麻寺本堂21 當麻寺本堂22 當麻寺本堂23
本堂背後鐘楼 當麻寺糸繰堂
北門(黒門)、弘法大師堂などは未見 2022/08/20撮影: 当麻寺本堂を望む 当麻寺本堂24 当麻寺本堂25 当麻寺本堂26
当麻寺金堂・講堂
当麻寺鐘楼:本鐘楼には国宝・日本最古とされる梵鐘を吊る。作風から梵鐘は白鳳期680年代に鋳造されたとされる。在銘では文武天皇2年(698)の在銘がある妙心寺鐘が最古である。
当麻寺本堂裏鐘楼1 当麻寺本堂裏鐘楼2:本鐘楼は本堂裏手にある。
当麻寺黒門(北門)
当麻寺薬師堂6
弘法大師堂は高野山から迎えた弘法大師像を祀る。 この弘法大師堂のある区画はかなり広く、堂周囲には鐘楼・納骨堂・金剛夜叉堂などが建ち、さらに當麻寺歴代別当・中之坊法印・西南院住職などの供養塔がある。弘法大師堂は正保2年(1646)建立、2008年解体修理工事竣工。
当麻寺弘法大師1 当麻寺弘法大師2 弘法大師堂1 弘法大師堂2
弘法大師鐘楼1 弘法大師鐘楼2 金剛夜叉堂 金剛夜叉立像 納骨堂 お八百(お屋代)の方の墓 現地案内板にでは 戒名 慈護院殿志覚順恕大姉
紀州徳川家8代藩主徳川重倫の側室、重倫のの間に2男4女をもうける。文化2年(1805)没。 とある。
しかし、なぜこの墓が西塔の傍らにあるのかは不明、また徳川重倫側室お八百(お屋代)の方というのも良く分からない。 因みに、徳川重倫(しげのり)は和歌山藩の第8代藩主。
三田村鳶魚の「徳川の家督相続争い」では、明和8年(1771)に重倫がその年出生した長男の弥之助の生母を斬殺したという話が掲載されている。
しかし、「南紀徳川史 第2巻」によると弥之助の生母の慈譲院(伊藤四郎右衛門の娘)は文化2年まで生存しており、弥之助の前に懿姫(一条輝良室)、弥之助出産後に方姫(徳川治紀室)、備姫(前田斉敬婚約者)を出産しており、「徳川の家督相続争い」でのこの話は史実に反している。ちなみに弥之助はその年のうちに夭折した。
お八百の方の墓1 お八百の方の墓2 中将姫の墓塔 現地案内板では
當麻寺の北側共同墓地内にあり、石造十三重塔花崗岩製、高さは285cmである。。
初重の四方仏は、軸部に縁をとった中に舟形を作って、そこに厚肉に彫り出し、屋根は軒反り強く、鎌倉時代末期の様式である。 とある。
横に建つ石造三重塔は、平安後期の作で、高さは156cmである。なお、中将姫の墓は、ならまちの徳融寺の境内にもある。
中将姫墓塔 中将姫十三重石塔 三重石塔(被葬者不明)
墓塔入口地蔵堂 地蔵菩薩坐像
〇當麻寺寺中
現在寺中は高野山真言宗5(中之坊、西南院、松室院、不動院、竹之坊)、浄土宗8(念仏院、護念院、来迎院、極楽院、奥院、千仏院、宗胤院、紫雲院)が残る。
當麻寺の代表住職・寺務所については、奥院・護念院・西南院・中之坊の4院の1年ごとの輪番である。當麻寺本堂(曼荼羅堂)は真言宗と浄土宗の兼帯、金堂、講堂、塔などは真言宗が管理するという。西塔の別當は西南院という。
上に掲載の奈良県立図書情報館蔵の江戸後期と推定される和州當麻寺伽藍之繪圖面:浄土方蔵版、 和州當麻寺伽藍之繪圖面:真言方蔵版 によれば、江戸後期の當麻寺塔頭は次のようであった。
仁王門南側に西室院、東南院、北側に文殊院があり、 中之坊(現存)東側に明王院、聖衆院、松室院(現存)、浄雲庵がある。
中之坊北には護念院(現存)、中之坊と護念院間の通路の南には念仏院(現存)とその途中に■■院がある。
念仏院の西にさらに一段あり、そこに弥陀堂が描かれるが現存するかどうかは未確認。
現在の千佛院、宗胤院の北側に、千佛院(現存)、来迎院、引接院、知■院、紫庵がある。
現在の竹ノ坊(役行者)には役行者の他に庫裡・客殿・書院と思われる堂宇があり、その東には願正院があり、
不動院(現存)附近には、不動院(現存)、千手院、新坊、北室院(護摩堂)、地蔵堂があり、その北の弘法大師附近には求聞持堂、御供所の存在が確認できる。
さらに曼荼羅堂北側には宝蔵、経蔵、五社明神五社、鐘楼、法華堂が並ぶ。
奥院は鐘楼門が正面で、現在の参詣道は全く存在せず。しかし伽藍は現在では当時より多少規模を拡大するも、当時の伽藍を引き継ぐ。
現在の西南院の西には、宗胤院(現在この地は来迎院となり、宗胤院は千仏院の東にその名がある)、極楽院(現存)が並び、極楽院と奥院鐘楼門との間を南に入ると長壽院、福智院がある。さらに奥院鐘楼門下南には福衆院がある。
◎写真:撮影日無表示の写真は2020/05/07撮影 松室院:高野山真言宗、現在は中之坊の中に松室院客殿としてある。 文化財オンラインのページでは當麻寺松室院客殿という登録有形文化財に指定され、宗教法人松室院の所有のようである。従って、松室院は中之坊と一体化しているが、坊としては存続していると思われる。
松室院は昭和初期中之坊客殿として改築される。現在は写経道場とも呼ばれ、格天井にはめ込まれた天井画(150枚)で知られる。
中之坊客殿として改築される契機は、中之坊書院が昭和初期国宝に指定されたことであり、その保存の都合上、塔頭松室院が客殿として改築されることとなったという。 但し、松室院が当初からこの場所にあったか、別の場所から移建された客殿となったのかは不明である。
松室院書院も画像はなし。 中之坊:高野山真言宗。かつては中院と称し古代からの子院という。 書院は重文、江戸初期の建物という。
東には、松室院坊舎が改築され、松室院客殿(写佛道場)として存在する。
その他、本堂(剃髪堂か)、庫裏、茶室、霊宝館などがある。 中之坊と東塔 中之坊山門 中之坊霊宝殿 中之坊本堂1 中之坊本堂2
中之坊書院:重文 中之坊稲荷明神
中之坊金銅宝塔1 中之坊金銅宝塔2:文安2年(1445)銘、本尊は木造愛染明王像
中之坊摩利支天像:室町中期と推移、珍しく猪に跨る。
2022/08/20撮影:当麻寺中之坊 当麻寺中之坊
紫雲院:浄土宗
昭和37年の境内図にはないので、それ以降の建立であろう。
本堂庫裡と思われる一宇があるが、現在は無住と思われ、境内は墓地と化す。 紫雲院山門 紫雲院本堂
宗胤院:浄土宗 宗胤院外観1 宗胤院外観2
2022/08/20撮影:当麻寺宗胤院 当麻寺宗胤院
千仏院:浄土宗 千仏院俯瞰 千仏院外観 千仏院門内
竹之坊:高野山真言宗
本堂には本尊役行者の扁額を掲げる。現在竹之坊は本堂一宇なのか、北側に庫裡などが現存するのかどうかは不明。 竹之坊本堂1 竹之坊本堂2 2022/08/20撮影: 竹之坊は現状この堂宇(役行者堂)一宇のみであるが、この堂宇の北に更地があり、古図によれば、この更地に坊舎があったと思われる。
当麻寺竹之坊
不動院:高野山真言宗 不動院外観1 不動院外観2
念仏院:浄土宗
當麻寺金堂の南側にある、古代寺院の伽藍配置であれば、當麻寺の南大門付近に位置するものと思われる。
長い間無住と思われ、山門、玄関庫裡、本堂などがあるが、全て荒廃する。放置すれば、近い将来腐朽倒壊するものと思われる。さらに境内は墓地と化し無残である。
念仏院石階 念仏院山門 念仏院本堂1 念仏院本堂2 念仏院庫裡
護念院:浄土宗。當麻寺練供養会式の菩薩面や装束の一切を管理している。庭園は牡丹と躑躅が多く、北庭の枯山水、西庭の池泉鑑賞式庭園、南庭の双塔園の3つがある。
護念院外観 護念院本堂・西塔 護念院本堂・東塔
護念院山門 護念院客殿・庫裡 護念院本堂 護念院庫裡
2020/07/15追加: 護念院客殿北縁に手水石がある。 この手水石は加守廃寺金堂礎石と伝える、しかしこの手水石が持つ二段式円孔は心礎であるとも思われる。
→ 大和加守廃寺
西南院:高野山真言宗
白鳳12年(683)の創建という。西塔の別當という。 本堂、庫裏などを有する。 西南院外観 西南院山門 西南院庫裡・書院・西塔 西南院書院・庭園 西南院脳天仏
池泉投射塔22:西南院庭園池泉に西塔が写る・・・西塔の項に掲載写真。
2022/08/20撮影:当麻寺西南院
来迎院:浄土宗
昭和37年の境内図にはないので、それ以降の建立であろう。 来迎院外観
極楽院:浄土宗 極楽院外観
奥院:浄土宗
応安3年(1370)知恩院12世誓阿普観が知恩院本尊であった法然上人像(重文・円光大姉像)を遷し、本尊として創建したものである。
御影堂(重文、本堂、慶長9年/1604建立)、阿弥陀堂、庫裏、大方丈(重文、慶長17年)、
鐘楼門(重文、正保4年/1647建立)などを有す。 奥院鐘楼門1 奥院鐘楼門2 奥院鐘楼門3 奥院鐘楼門4 奥院鐘楼門5:西塔
奥院鐘楼門5 奥院鐘楼門7 奥院景観1 奥院景観2
奥院御影堂1 奥院御影堂2 奥院御影堂3 奥院阿弥陀堂
奥院玄関 奥院庫裡 奥院玄関・庫裡 方丈・玄関・庫裡
奥院方丈1 奥院方丈2 奥院方丈3 奥院方丈4
2022/08/20撮影:
奥之院鐘楼門 奥之院鐘楼門 奥之院鐘楼門
奥之院御影堂 奥之院御影堂・方丈 奥之院阿弥陀堂
奥之院方丈・玄関 奥之院玄関 奥之院方丈 奥之院方丈 奥之院方丈
〇創建縁起:
Wikipediaでは次のように云う(大意) 當麻寺の創建については古代の資料がなく、良く分かっていないとされる。
草創縁起の最も古いものは、鎌倉初期の「建久御巡礼記」(興福寺実叡の記録)である。
この記録によれば、この寺は「禅林寺」と号し、麻呂古王(用明天皇の第3皇子・聖徳太子の異母弟)が弥勒仏を本尊として草創したという。
天武天皇9年(680)当麻真人国見(麻呂古王の孫)が「遷造」(遷し造る)という。また、当麻の地は役行者ゆかりの地と伝える。
建長5年(1253)「大和国當麻寺縁起」によれば、麻呂子王による草創は推古天皇20年(612)で、救世観音を本尊とする万宝(法)蔵院として河内国に創建されたものであるという。その後、天武天皇2年(673)に役行者から寺地(現・當麻寺がある当地)の寄進を受け、天武天皇14年(685)に造営を開始、同16年(687)に寺名を當麻寺として落慶するという。
「上宮太子拾遺記」<嘉禎3年(1237)>所引の「当麻寺縁起」は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年(692)に現在地に移築されたとする。 なお、前身寺院の所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある。<弘長2年(1262)の「和州當麻寺極楽曼荼羅縁起」など)河内国山田郷の所在地については、交野郡山田(現枚方市)とする説と、大阪府南河内郡太子町山田とする説がある。
----- 當麻寺から東北東におよそ5町程のところに只塚廃寺がある。
只塚廃寺は昭和60年の調査で瓦の出土を見、さらに平成7年の調査で礎石などが発掘され、塚は古墳ではなく堂の基壇と断定される。
平成12年の西塔附近の防災工事に伴う発掘と平成30年に至る西塔修理工事に伴う西塔基壇周辺の発掘で、當麻寺創建期の複弁蓮華文軒丸瓦が出土する。これらの瓦の一部は、當麻寺の前身寺院との指摘がある只塚廃寺からも出土している。さらに、只塚廃寺基壇の建物規模は當麻寺金堂と同一との指摘もある。
→大和只塚廃寺
2023/01/09作成:2021/09/24更新:ホームページ、日本の塔婆
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