大  和  法  起  寺  三  重  塔  ・  心  礎

大和法起寺三重塔・大和法起寺心礎

大和法起寺三重塔

○現存三重塔
天武13年(685)発願・慶雲3年(706)露盤を上げる。
 (「聖徳太子伝私記」<嘉禎4年(1238)>には法起寺塔露盤銘の記録があると云い、その銘による。・・・銘文は下に掲載)
この三重塔は当寺創建時の塔とされる。
一辺6.41m、高さ23,90m。(34.3m)、基壇一辺11.7m。
法輪寺(法淋寺)塔婆は昭和19年焼失し、現存する飛鳥期唯一の三重塔となる。
明治の根本修理は明治30年2月より明治31年9月まで実施される。
昭和48・49年に解体修理。
 ※当三重塔の各重は各々、法隆寺五重塔の初重・三重・五重の平面規模と同じと云う。
また中世の改造で、三重の柱間が3間に変更されていたが、昭和48・49年の解体修理で、部材に残る痕跡を根拠に、創建当時の3間に復原する。二重・三重の高欄も解体修理時に復原される。 →古写真を参照。

2008/08/31撮影:
大和法起寺三重塔11
  同        12
  同        13
  同        14:左図拡大図
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
  同        20
  同        21

2002/07/14撮影:
法起寺三重塔1     同      2    同      3    同       4 
 同        5    同      6    同      7    同       8

2001/02/22撮影:
法起寺三重塔01     同     02     同    03     同    04
  同     05     同     06     同    07


○帖子本「聖徳太子伝私記」<嘉禎4年(1238)>引用の法起寺塔露盤銘文
  上宮太子聖徳ハ壬午年ノニ月廿二日臨崩之時於ニ山代兄王勅シ御願ノ旨ヲ此ノ山本ノ宮ノ殿宇
  即チ慮ロラナリ專為ス作サント寺ト及大倭國ノ田十二町近江國ノ田卅川町ナリ至于ニ
  戊戌年福亮僧正聖徳ノ御分ニ敬テ造テ弥勒ノ像一躯ヲ構立ス金堂ヲ至于
  乙酉ノ年ニ恵施僧正將ニ竟ンカ御願ヲ構立堂塔ヲ丙午年ノ三月ニ露盤営作ル

  聖徳太子は壬午年<推古30年・622>12月22日に崩ずるとき、山代兄王に山本宮※を寺とするよう遺言した。
  戊戌年<舒明10年・638>に福亮僧正が弥勒像をつくり金堂を建て、乙酉年<天武15年・685>に恵施僧正が堂塔を建て、
  丙午年<慶雲3年・706>に露盤を作った。
   ※山本宮は「岡本宮」の誤写(丘は四+山の字)とする有望な説がある。

2006/10/7追加:
○「壬申検査記録写真」より:明治5年撮影:四つ切写真
 大和法起寺三重塔:九輪は6輪のみと思われる。(明治の修理で9輪とされる。)
  20114/08/27追加
   法起寺三重塔部分図:上記四つ切写真の部分図
   大和法起寺三重塔2:ステレオ写真
2010/02/01追加;
○壬申検査ステレオ写真(重文):「東京都江戸東京博物館資料目録 ガラス原板1」2006 より
 明治5年法起寺三重塔:8月28日撮影

2007/08/23追加:
○「日本著名建築写真帖」斎藤兵次郎編、東京:信友堂、明治41年 より
 法起寺三重塔312:明治修理直前
○「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 法起寺三重塔311:明治修理直後

2013/05/30追加:
○「国宝法起寺三重塔修理工事報告書」奈良県文化財保存事務所編、奈良県教委、昭和50年 より
 明治修理前写真:明治30年
 明治修理後写真:明治31年      明治修理後遠景:明治31年

2007/03/03「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」昭和59年 より:
「別当記」露盤銘写では「法起寺は聖徳太子が山背大兄王の遺言し、宮を寺の改めたものであり、塔は慶雲3年(706)露盤(相輪)造った。」(この露盤は現存しない、「別当記」では永保元年<1081>露盤を降ろし、書き写したとする。)
延宝5年(1677)大修理・三重目解体・柱間2間を3間に改める。
 明治修理前全景:初重の廻縁は無く、各重四方に支柱が立ち、中央間には桟唐戸を吊り、三重目には繰形を入れた木鼻を持つ頭貫を用いるなどの奇観を呈する。
安永6年(1777)、天明4年(1784)、寛政13年(1801)小修理、安政元年(1854)地震・修理。
 昭和修理後三重塔立面図

2007/02/07追加:
○「大和の古塔」昭和18年 より:
この塔の初重平面は法隆寺塔初重と、2重平面は法隆寺3重と、3重平面は法隆寺塔5重と同一という。但し、3重は3間であり、法隆寺塔の2間と一致しない。これは蓋し後世の改造であろうという見解もある。 (※現在は3重目は2間であり、昭和の修理で元に戻される。)
基壇一辺38尺5寸、高さ2尺5寸、
初重全3間21尺1寸6分8厘、中央間8尺8寸2分、両脇間6尺1寸7分4厘、
二重全3間15尺8寸7分6厘、中央間7尺5分6厘、両脇間4尺4寸1分、
三重全3間10尺5寸8分4厘、中央間4尺4寸1分、両脇間3尺8分7厘、
相輪長24尺、全高78尺8寸9分
 法起寺三重塔修理前実測図:明治修理前

○「飛鳥時代寺院址の研究」昭和19年 より:
 大和法起寺三重塔1:解体修理前写真(昭和19年直前か)

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2012/07/07追加:
「東京芸術大学芸術資料館蔵品目録 図案・デザイン 建築」第一法規出版、1991 より
 法起寺三重塔模型:京芸術大学蔵、木造着色、一辺70.8cm高さ140.2cm、スケール1/20、明治41年購入。
※勾欄・相輪などの形状から明治修理後の姿の模型である。明治41年購入ということを信ずれば、時期だけでの判断ではあるが、明治修理模型かも知れない。


大和法起寺三重塔心礎

○「佛教考古學論攷 四 佛塔編」より:
 大和法起寺塔心礎  大和法起寺塔心礎実測図
心礎は1.55×1.5mで、三段孔式という。径65×14cmの穴を彫り、蓋受孔及び円錐形の舎利孔を持つ。
穴の周囲には八角形の高さ0.6cmの柱座を造り出す。心柱も八角形。

2007/01/10追加:
○「日本の木造塔跡」:
心礎は1.55×1.5mで、三段の孔を持つ。円穴は径65×13,8cmで、2段の蓋受孔があり、径28/27×1,8cmを測る。
舎利孔は円錐形で口径17/16×17.7cm(底径は8cm)。
円孔の周囲に八角形の柱座を造り出す。(一辺33/30cm、対辺間76/73cm、高さ0.6cm)
心柱は八角形。心礎以外の礎石は自然石を平滑にしたもの。法隆寺塔心礎とは違い、地下式ではない。
なお、今は舎利容器も石蓋も失われているという。
 2011/05/29追加:
  大和法起寺塔初重下     大和法起寺心礎2

○「飛鳥時代寺院址の研究」昭和19年 より:
 大和法起寺塔平面略図

2013/05/30追加:
○「国宝法起寺三重塔修理工事報告書」奈良県文化財保存事務所編、奈良県教委、昭和50年 より
 法起寺三重塔礎石平面図     法起寺三重塔心礎実測図

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2011/08/16追加修正:
法起寺心礎模造品

三重塔西の池西端(西門を入ってすぐ)には法起寺心礎模造品が置かれる(展示される)。
この「展示品」について、寺院側では「本物の心礎」<模造品ではない>との説明をなす向きもある。

しかしながら、この「展示品」が<本物>なのか<模造品>なのかの確たる情報がないので、斑鳩町の文化財担当部署に照会を行う。
その結果、生駒郡斑鳩町法隆寺西「斑鳩文化財センター」から以下の回答を得る。
 <法起寺三重塔西の池端に置かれている「心礎」は、近年の「模造品」である。>
よって、西の池西端に置かれている「心礎」は模造品である。

2008/08/31撮影:
大和法起寺心礎1
  同       2:左図拡大図
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7

この池端に展示の心礎について、以前に、この心礎模造品を<本物>として掲載していた。
しかし、東京都世田谷区在住の方から、本物であるのは不自然との疑問が呈され、かつ法起寺の修理報告書にも心礎を取り出したなどの記載がないとの指摘を受ける。
今般、現地の文化財担当部署から「近年の模造品」との回答を得たので、上の通りの追加修正を行うものである。


2006年以前作成:2014/08/27更新:ホームページ日本の塔婆