【4-1】但馬帝釈寺(日光院)に於ける神仏分離
2004/12/04版

【4-1】 妙見山帝釈寺(日光院)に於ける神仏分離
【4-2】 その1:神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過
【4-3】 その2:神仏分離・廃仏毀釈の思想背景
【4-4】 「但馬名草神社」を巡る「俗説」批判
【4-5】 国家神道への道

1)幕末に於ける妙見信仰の実態

「八鹿町ふるさとシリーズ13 八鹿町の歴史探訪」八鹿町教育委員会、2000
に「資料2 妙見宮御鳥居建立日誌講帳」(解説:谷本進)という資料の紹介がある。。
 

『「八鹿町史 下巻」によると、明治7年4月に青銅製の大鳥居を京都の商人に売却、
43荷余り、重量は688貫目(2580kg)あったという。
さて、この講帳には日付がないが、但馬国講元も氏名などから幕末頃のものであろうと思われる。』

←左図:鳥居概要(画像クリックで拡大表示)

『(大鳥居建立の)願主は京都大文字屋元三郎、京都平野屋利助、京都但馬屋喜兵衛、
京都虎屋佐兵衛、世話方惣代は近州福田平七、大坂境屋弥助、大坂播磨屋平八、
大坂吉田屋伊兵衛で、但馬一円の多数の世話人(惣代)の名前の記載がある。
但馬妙見の信仰圏が広範囲であり、また広く影響があったことが推測される。
願主の表白文は「夫但馬国妙見大菩薩と申奉るは日本三妙見の随一にて、
辱も人皇王神天皇の御宇此山に顕現し玉ふとかや(後略)」とあり、幕末頃には日本三妙見の随一の妙見大菩薩として信仰されていたようです。 』

日志講惣世話方中名前附(画像クリックで拡大表示)→

さらに続いて、以下の記載がある。
『日本三妙見縁起に曰く、抑妙見菩薩又は北辰尊星と申奉るなり、天地開闢て後に一物現ず、其中に一点の神御坐す、神道には是を国常立尊と申奉る。此一点の御神すなはち天の御中にして北辰尊星と号す。(後略)』

以上から、推察できることは
1.幕末においても、妙見社の信仰は妙見大菩薩としての信仰である。
2.その信仰は近畿一円に広い基盤をもっていた。
3.幕末頃すでに後期国学の影響が色濃く見られる。北辰尊星という号を仲立ちにして、日本書記・国常立尊あるいは
古事記・天の御中と妙見菩薩を付会する俗説が既に説かれる。
おそらく、後期国学に影響された神道の俗説がこの地方にも相当流布していたものと推定される。
4.名草神社など全く「その存在すら」意識はされていない。

妙見山帝釈寺妙見社の実態は妙見大菩薩としての信仰で、名草神社とは何の関係もなかったというのが、少なくとも中世・近世を通じての実態であったことは、【1】「名草神社」の創建(出自)について【2】「延喜式神名帳」と「名草神社」について
【3】但馬妙見三重塔・寛文の移転(移建) などで考察し たところである。
即ち、延喜式神名帳に記載のあった名草神社は中世・近世を通じて、全くその名を見ず、名草神社は全く廃滅していたのだろうと推測される。しかし江戸末期には後期国学の流行と復古神道の復古趣味などで、帝釈寺 妙見社が名草神社に付会されて たものと思われる。

2)妙見山帝釈寺の神仏分離の経緯

明治維新初頭の神仏分離とは何はあるいはその経過はどのようなものであったかについては、
【4-2】その1: 神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過【4-3】その2: 神仏分離・廃仏毀釈の思想背景 などを参照願う。

 明治維新という政治革命は、「尊王攘夷」を理念として成就する。
その理念の裏づけとなった思想は、水戸学や後期国学や復古神道であった。
水戸学や後期国学や復古神道の理想とした「復古」は、慶応4年の「祭政一致」の「王政復古」として実現する。
さらに、おそろしいことに、彼等の復古主義は、「神祇官の再興」として実現する。

 慶応4年〜明治2、3年にかけての、再興神祇官の実権は後期国学者や復古神道家が掌握していた実態がある。
彼等は性急に神仏判然令(彼等の思想からいえば当然神社復興即ち廃仏となる)を布告し、各地で神仏分離あるいは廃仏を強行することになる。

☆明治2年6月まで:神仏分離令の伝達と「不徹底」

但馬国養父郡妙見山帝釈寺での事実経過は以下の資料で知ることができる。

「兵庫県史 資料編 幕末維新ニ」兵庫県史編集専門委員会編、1974-1998(以下「兵庫県史 資料編」)
の「養父郡妙見山の神仏分離と別当寺帝釈寺の処置」の項に、官の資料が残される。

伝達方県日記【明治2年2月28日】
『一、但馬国養父郡妙見山年行司社人惣代先達而出願致し候ニ付、今般御伺申上候配札之儀ハ、京都江御伺之上御聞届済ニ相成候得共、妙見山神体点検不相済内ハ神仏不判然、配札之仕法も難相立、近日中出役神体点検之上可及沙汰旨申渡、帰村申付候事 、』
伝達方県日記【明治2年3月27日】
『一、来ル4月朔日、妙見山ニ於て読大般若経致来候ニ付、定例之通取得度、然ル処右転読等相見合候様も、仰渡当惑致候間、成丈ケ隠密ニ相勤度旨役僧を以申出、書面差出、篤と理解申聞、過日相達し之通、4月1日之法会ハ見合候様相達候事 、』
伝達方県日記【明治2年4月17日】
『一、但馬国妙見山社人共申立候ハ、先般祈祷並配札守札等配札昨年より不致、社人共外ニ稼難出来難渋罷在候間、是迄通配札、本体北辰妙見神に相違無之段願、右ハ配札之儀ハ、未タ神仏引分ケ不相決候得ハ今暫相待可申旨申渡候事 、』
伝達方県日記【明治2年6月4日】
『一、但馬国養父郡妙見山年行司水原沢之助・社人惣代上坂久吾より、当18日定例の祭式ニ而諸国ヨリ参詣も是有、神仏混淆僧侶神祭ニ立交候テハ御趣意ニも如何敷、依之出願方今京師江伺中、未タ何分之御沙汰無之処、此度之書面之趣差掛候次第ニ付、猶又早速京師ヘ及催促候間、返答次第早々相達し可申、先夫迄ハ帰邨致居候様申聞置候事 、』

 以上の「配札など昨年より致さず」「大般若経転読相見合わせ」などから、慶応4年の「神仏判然」令は帝釈寺にも伝達され、「多少の処置」がなされ、その結果、帝釈寺諸行事にも差し障りが出てきたものと推測され る。
明治2年6月頃迄の段階では、配札あるいは行事などに支障があり、困惑した様子が伺える。
その困惑は、未だに「神仏不判然」「神仏引分相決まらず」の状況に起因するものと思われる。
しかし、この段階では、帝釈寺が寺院であり、信仰対象は仏像であり、一方では分離すべき神社・祭神などの実体が無かったため、どのような分離の形態あるいはどの程度まで処置するのかは容易に決することが不可能だったのであろうと推測される。

 ところで、なぜ帝釈寺が神仏分離の対象となったかという理由の一つは、妙見大菩薩の信仰形態には神仏習合色があり、また帝釈寺本堂本殿を妙見宮と号し、本殿前に鳥居があったことなどで、神祇官や地方官庁 (国学者や復古神道家)が「神仏不判然」と見做し、「分離対象」と判断したのであろうと思われる。
 もう一つは、後期国学や復古神道の立場からすれば、延喜式神名帳に記載のある「名草神社」をどこかに「比定」する必要があった訳であるが、しかし「名草神社」など という社は「養父郡」中に全くその存在を見ないのが実態であった。
 しかしそれでは、名草神社は「退転」とすれば良いかといえば、そういう訳にもいかず、その候補として、目を付けられたのが妙見山帝釈寺であったということと推測される。

 要するに、神祇官(国学者や復古神道家)にすれば、佛教(寺院)に比べて神道(神社)の勢力は劣勢であり、その勢力逆転のためには強引な手法であっても、神仏習合的な寺院を神社に「改宗」する必要があったということだろうと思われる。
 あるいは彼等の大義名分は「唐心」を取除き「記紀の古代」の姿に復古するということではあっても、彼等の真の狙いは佛教を廃し神道を浸透させ、神道によって人民を教化するというものであったのであろうから、その目的のためには、神仏習合的な寺院は強引でも神社とすることを強行する思考体質であったのであろう。
 神社境内にある仏堂・仏塔・仏像・仏具・経典などの分離(棄却)、別当とされる寺院の分離(廃寺・還俗・帰農)、寺院境内にある鎮守とされる神々の分離などは、「神仏分離」という立場からは、比較的 「簡単」に「分離」することは可能であるが、
神仏の判然としない権現や、明らかに仏体である弁財天、妙見菩薩なども、その政治目的や彼等の廃仏目的の完遂のために、対象とされていったのであろう。

明治2年7月〜11月9日までも、依然として「神仏不判然」の状態であったようであるが、
明治2年9月より、以下のように、神仏分離が具体化していったものと思われる。(「兵庫県史 資料編」)

久美浜県簿書抜粋【明治2年9月11日社人ヘ相渡】
『当県所轄但州養父郡妙見山者社人共儀ハ、・・・・御一新以来神仏混淆不相成御趣意を奉し、・・・判然御引分之御所置を御待有之処、・・・・添書を以御官ヘ差出候間、願人共より委曲御聞取之上速ニ何分之御指示可被下候也、
                                                       久美浜県
     神祇官    』

久美浜県簿書抜粋
『(前略)
一、帝釈寺退院ニ付而ハ、高野山ヘ達し方之儀猶留守官ヘ伺之上所置可致間、此如左様御承引有之度候事
(後略)
右通申進候也、
      (明治2年)10月25日        京師出張処
     本県御諸会中                     』
『(前略)
一、帝釈寺退院之儀、本寺ヘ官より御達方有之度旨、留守官ヘ相談候処、別紙書面ニ而ハ略疎ニ相聞ヘ候得共、寺号ハ県ニ於而御取換ニ相成候間可然候、万一其儀ニ而御不都合有之ハ々、県と直ニ高野山へ御掛ニ相成而差支無之趣令達候、此如御承知可然御取計可有之候、則伺書弐通及返却候、
      (明治2年)11月4日          京師諸
    本県御諸会中』

久美浜県では、おそらく帝釈寺が寺院であるため、その「処置」について、中央の神祇官の方針には従うも、独自での方針は出せず(出さず)、京都などの神祇官の指示を仰いでいた 模様である。

☆明治2年11月9日以降:帝釈寺「第一次処置」

明治2年11月9日東京神祇官からの返書を帝釈寺(妙見社)に伝達。(「兵庫県史 資料編」)
処置内容は「仏像は取除き、神体に入替、帝釈寺は本山ヘ引取となし、神職は人撰の上、新に申し伝える」との内容であった。
仏像は取除き、神体(白幣か?)に入換、帝釈寺は本山引取(住職は退山、実質は廃寺?)、神職は新任するとの内容で、
おおよその「理屈」は以下の様と思われる。
 帝釈寺は神社(妙見社)に強制変換するのが基本方針である。
妙見大菩薩は仏体であることを認める。しかし仏体である故に、取除く必要がある。神社に仏体は不必要である。
神社であるから、神体に取替をする。(しかしその神体とは一体どのような由緒のものであろうか、おそらく怪しげなものであろう。)
神社境内・建物などは帝釈寺そのものを転用する。(そうしなければ、神社の実態が全くない。)
従って、帝釈寺は実質廃寺とする。住職は退山、新たに神職を選任する。

おそらく、寺院を神社と言い包める、社殿も祭神も全く実態の無い神社を「創作」するわけであるから、以上のような乱暴な「理屈」にしかならないと思われる。
要するに、初めに「結論ありき」で、「理屈は後でどのようにでもこじつける」というのが神仏分離の一般的スタイルである。

以下、「兵庫県史 資料編」より

伝達方県日記【明治2年11月7日】
『一、但馬国養父郡妙見山帝釈寺代高野山本光院帝釈寺妙見ハ、唯仏宗相伝之仏体ニ紛無之候間、是迄通ニ祭法被 仰付度様願出候間、当時帝釈寺進退之儀ニ付而は窺中ニ付、御沙汰次第可申達被申渡候事 、』
伝達方県日記【明治2年11月9日】
『一、但馬国養父郡妙見山帝釈寺社人井上謙次郎外壱人ヘ、先般妙見社改号之儀願出東京神祇官へ添翰致遣置候処、今般東京ヨリ帰り、仏体之儀ハ取除、白幣ニ致度儀願出候間聞届、追テ御沙汰有之様申達帰村申付候事
一、今般妙見山帝釈寺所置仏体取除之儀申付候処、代僧之事ニ付、一応住持ニ申聞度候間、暫時猶予之儀願候ニ付、当月20日迄猶予申付、右日限通之請書為差出置候事 、』

久美浜県簿書抜粋
『当県所轄 但州養父郡妙見社神仏引分並帝釈寺処分ニ付、先達而来府県掛弁官ヘ及御伺置候処、別紙御掛紙留守判官より致相渡候ニ付、今般仏像取除神鏡に入替、帝釈寺ハ別紙之通相達候、神職之儀ハ但州朝来郡竹田町諏訪明神より■本近江ヘ当今兼勤申付置候間、此段及御儀候也、
                             久美浜県
     神祇官御中                        』
『 [帝釈寺ヘ達之写]
  妙見社之儀ハ、仏像取除神体ニ入替、帝釈寺ハ本山ヘ為引取、神職ハ人撰之上新ニ可申付旨御沙汰ニ相成候間、
  此段相達候也、

『妙見社領当巳年収納米ハ、帝釈寺処置今日迄遷延ニ及候儀ニ付、三分ノニ当巳年帝釈寺ヘ遣し置候、此段及御届候也、
       11月(明治2年)               久美浜県
     神祇官 御中
(右神祇官宛之分、東京官ヘ相達候事)』

『                                 帝釈寺
帝釈寺御処置此節
御沙汰ニ相成候儀ニ付、当巳年御朱印地収納三分ノニハ帝釈寺へ被■候也、』

『其県御管内但州養父郡妙見山帝釈寺妙見尊之儀、先般御取調之上神体ニ入換候様御沙汰相成候由、右来由縁記之儀ニ付、少々聞込之筋も有之候間、始末明細御書取至急御差越可有之候、且又元坊人之者共七人此度社人ニ御取立、苗字帯刀被差許候次第ニ対し、右之者共由緒家系等委敷致■も知度候也、
  但本文神体入換之期限頃日ニ相迫リ候由ニ候得共、事情明確迄ハ御猶予可有之候也、
     11月15日(明治2年)                 弾正台
       久美浜県                           』

以上のように、公文書では、淡白に通達した一片の通知文があるのみである。
無味乾燥ではあるが、無慚な内容であろう。
しかし、一片の通知文であるがゆえに、ここでは神祇官側の帝釈寺「処置」の根拠を知ることは出来ない。
さらには、帝釈寺関係者の「無念」などは一層知ることは出来ない。

しかし、日本各地で、この時期、どのような論理で、どのような蛮行が行われたか、のある程度の記録は残される。
例えば、幸いにしてというべきか不幸にしてと云うべきか、近江の竹生島宝厳寺の神仏分離の様子は
『「竹生島要覧」河邨吉三、明治33年、「明治維新神仏分離資料」所収』として残される。
   
→→☆近江竹生島宝厳寺☆ の神仏分離の項を参照 。
宝厳寺では明治2年に大津県より呼出しを受け、明治4年にその「処置」が下されることになる訳であるが、
ここでは、その神仏分離の「無茶苦茶」な「実態」が、記録されています。
その中には、「朝敵同様」「白を黒と云われても背くことは出来ず」「坂本山王社と同様の焼払」などの、強弁・強要・恫喝などが
記録される。
「処置」する側の横暴・出鱈目、「処置」される側の驚き・無念さ・理不尽に対抗する論理などが、伝えられる。

なぜ竹生島かといえば、但馬帝釈寺と竹生島宝厳寺の信仰の形態、分離の経緯が次のように良く似ているからである。
・どちらも、帝釈寺(日光院1院のみ)、宝厳寺(まだ一山多院制を残す)という密教系寺院である。
・信仰の中心として、帝釈寺は妙見菩薩、宝厳寺は弁財天を祀り、その信仰には神仏習合的要素がある。
・後期国学の興隆・付会により、帝釈寺は延喜式神名帳の名草神社、宝厳寺は同じく都久夫須麻神社に付会される。
・ところが、名草神社も都久夫須麻神社も少なくとも近世にはその実態は全くなかった。
 (都久夫須麻神社の実態は宝厳寺弁財天では無くて、おそらく小島権現であろうとの考証 がある。)
・妙見菩薩・弁財天の仏体取除・神体入換の処置が下される。得体の知れない神体に入替る。
・「創作神社」の実体が無いため、帝釈寺本殿を名草神社本殿に、宝厳寺本堂を都久夫須麻神社本殿に簒奪する。
 (帝釈寺は仏像・仏器以外の全部、宝厳寺は本堂のみの簒奪という違いはある。)

但馬に於ける神仏分離の様子については、直接に帝釈寺に言及したものではないが、
「八鹿町史 下巻」の「神仏分離と妙見宮」の項に以下の記述がある。

「慶応4年の神仏分離の達によって、八鹿町域の神社も神官による総点検を受けることになった。
明治3年3月21日九鹿村には養父神社神主水谷左衛門が4社を点検、熊野三社大権現は熊野大明神へ、八大荒神は八重垣大明神へ、三宝荒神は火結大明神へ、大日如来は大日(おおひ)大明神へ改号させた。
明治3年5月6日大日(おおひ)大明神へは改めて中瀬村神主喜多村重富が久美浜県の命で検分、大日大明神の神体に「元禄4年・・仏師山城国御寿村村上丹波守作」の銘を発見、仏体である故に、この像は6月3日に久美浜県庁へ送られ、同月9日県は大日大明神を日吉大明神と改称させ、神体を送ってきた。大日如来の送付では村惣代が八鹿村まで付き添い、立会衆は村境まで見送ったという。神体受取では村役人は正装で出迎えたという。」(大意)

熊野権現を改号し、荒神をも改号し、果ては大日如来を大日(おおひ)大明神とするなど、かなり強引な神仏分離がこの地でも行われた様子がうかがえる。特に大日如来を強引に廃したことで分かるように、道理などなく無理を通すというのが神仏分離の実態で あろう。
尤も、久美浜県は、荒神は淫祠として廃す、大日如来は破壊するなどの処置を採らず、この意味では、津和野藩などに代表される急進派では無くて、「形どうりの処置」であった ものと思われる。

☆帝釈寺「第一次処置」決定の後

帝釈寺退山について、本山高野山への承認手続きが踏まれていた模様である。

伝達方県日記【明治2年11月18日】
『一、但州養父郡妙見山社人儀東京ヨリ之返書差上、仏器取払之儀、11月20日迄延引被、仰付居候処、石原村成就院より仏器取払之義ニ付出頭云々之義聞及、速ニ取払被、仰付候様出願ニ付、篤ト今日之次第御申聞置候事、
一、但州養父郡妙見山帝釈寺代本光院外惣代三ケ寺より、妙見山改号並退山之儀ハ、本山高野山へ一応申聞度候ニ付、50日之御猶予願出候間、格別之訳を以聞届候也、 』
伝達方県日記【明治2年11月29日】
『一、但州妙見山社人大森梅之助外七人之者、同神社神殿之仏具御取除改号之上、配札相成候様被、仰付度歎願候処、社人とも由緒書委細相認差出候様御達之事、』
伝達方県日記【明治2年12月22日】
『妙見山帝釈寺代本光院御所置当11月20日より50日之間猶予御聞済之処、本山之使僧罷帰不申由ニテ又々来春迄御猶予被下度出願ニ付、知事様ヲ経ル、』
伝達方県日記【明治2年12月24日】
『一、但州妙見山帝釈寺出願同寺本尊は仏体之由ニ而御取除之義御免被下度出願候事
一、高野山集講中より之添書持参代僧着参之事、参事様へ上ケ候事、
伝達方県日記【明治2年12月26日】
一、高野山釈迦子院役僧南宝院より昨日御理解之趣本山集講中並釈迦子院へ被露仕候上、御請可申由出願之事、』

☆明治5〜6年:国家祭祀の体系への名草神社組入れ

その後の帝釈寺神仏分離の経緯は「但馬史 5」宿南保、神戸新聞総合出版センター、復刻版1994
に以下の記述がある。

「明治4年正月:太政官、寺社領「上地」(知行権返上)の布告。
明治5年6月:豊岡県は上の布告に基づき、少属大脇文を派遣、妙見社の境内地を確定、寺所有山林500町歩余を没収。
明治6年2月:豊岡県は妙見宮を名草神社と改称させる。
この時山上では、帝釈寺日光院と名草神社は「互立」(並び立つ)していたとされる。
当時の住職は北垣弘応(帝釈寺47世)、神主は北垣伊佐美であった。<姓が同じであるゆえに神主は住職の血縁者と推定される。>」(大意)
なお同文が「八鹿町史 下巻」にも記載される。
加えて
明治5年3月13日:石原村大火。90余軒中77軒を焼失。石原村は日光院檀家が多く日光院の基盤であった。(「八鹿町史 下巻」)という不幸も重なる。

 以上によると、名草神社への改称は明治6年2月に「正式」になされたものと思われる。
※管見では、明治6年以前の公文書には一切「名草神社」の名称は無く、明治9年以降の公文書に初めて「名草神社」 の固有名詞が出現する。
以上の事実が示すとおり、現「名草神社」は公式には明治6年に新たに創建された「国策神社」と云うべきであろう。

 この間、中央では、慶応4年に神祇科・神祇官再興がなされ、復興神道家が一時的に「祭政一致」の古典的宗教政策が打ち出される。
しかしこれも一瞬のことで、復古神道家(平田派国学)はすぐに中央から排除され、明治初年〜2年は津和野派が実権を握る。
しかし一瞬のこととはいえ、宗教政策の中枢を復古神道家・国学者が掌握したことの意味は大きく、彼等が矢継ぎ早に出した「神仏判然令」により明治初頭の神仏分離(即ち廃仏) が強行されることとなる。
 さらに悪いことに、この津和野派は古典原則的な平田派とは違い現実派でもあり、教学の面ではいち早く、皇室中心の国家祭祀の方向を打ち出す。即ち天照を中心とした祭祀の体系の先鞭をつけることになり、この天照・皇祖・天皇中心主義は維新政府の宗教政策の根幹をなすものとな る。
勿論、彼等も典型的な国学者・神道家であり、佛教を廃し、神道を人民統合の中心に据えようと画策したことには変わりはなかったのではあるが。
その後、政治力学の関係で、明治4〜5年にかけて、薩摩派が主導を握るが、このことは、平田派神学はもとより津和野派(大国派)神学・即ち復古主義は完全に排除されたことを意味する。

さらに、太政官内部の対立を経て、明治8年を境に、それ以降、宗教政策は宣教と祭祀との分離に進み、国家は祭祀のみを行うという国家神道とも云うべき、宗教政策・人民統合政策が採られることになる。
そしてその祭祀とは「皇室中心」「伊勢中心」「天照中心」としたもので、それは超宗教とされ、神社だけではなくて、佛教その他にも信教の自由を与えた形ではあったが、実際は国民に「天照」「伊勢」「現人神」を強制するもの となる。
それは戦前は勿論、戦後数十年を経た今日でも、深い影響を持っている宗教政策であった。

尾張の事例と名草神社の国家祭祀体系への組入れ

「尾張本 国帳神社座地考」という写本が「鶴舞図書館」に所蔵されているという。(「国内神名帳の研究 資料編」三橋健)
体裁は絹糸袋綴、半葉に10行、墨付全59丁。
これは尾張国の国帳社の祭神・神位・鎮座地について田中尚房・小田切忠近・山田千畴が、従来の研究書・地誌類をほぼ網羅し、それを参照しながら、再三衆議を重ね、尾張国98社(後に54社が追加されたようです。)の祭神・鎮座地などを決定したものと言われ、真摯に考証されたものとされる。
また、これは明治4年2月、太政官へ奉立され、さらに尾張国各村へ通達され、美濃国各村にも通達されたものとされる。(「扉」及び「奥書」)

この尾張の例は何を意味するかということであるが、明治3年10月25日の太政官が「大小神社取調書」作成が府藩県に令達されたということがある。府藩県はその達に対し、「取調帳」を作成し、太政官に報告したということに対応するものと思われる。
  参考:明治3年「尾張本國帳神社座地考」

但馬国についても、(寡聞にしてその資料の存在を知らないが)同じような「神社取調書」が作成され、太政官に報告されたものと推測される。*
もし、但馬国「神社取調書」が作成されたとすると、当然「延喜式神名帳の名草神社」についても「取調」がなされ、太政官への報告がなされたものと推測される。「取調」は有識者(当時であれば国学者・神官などであり、僧侶は問題外であったであろう)が担当し、おそらくは【2】「延喜式神名帳」と「名草神社」について で述べたような資料の類(注)あるいはこのページで紹介した「妙見宮御鳥居建立日誌講帳」のような俗説(注)を反映し、当然「延喜式神名帳の名草神社」は帝釈寺妙見大菩薩という「考証(実は付会)」になったことは、容易に推測できる。

注:「但馬圀式社考」のような帝釈寺妙見菩薩を名草神社に付会する類を云う、但しこの「式内考」の年代は不詳で、この「式内考」が先なのか、「取調書」(あったとして)が先なのかは不明で ある。「神祇志料」 との後先も不明である。
「妙見宮御鳥居建立日誌講帳」に見られるように、幕末頃にも、後期国学の影響は相当あったものと思われる。
 *「名草神社の沿革」宮司・井上憲一 の副題は「神社調書に拠る諸記録」とあり、この文中には「神社調書」からと明記した引用もあり、はっきりはしないが、あるいは、この著でいう「神社調書」が太政官の命により作成された「神社取調書」の可能性もあると思われ る。
もし、そうだとすると、但馬でも官の達により、神社取調書が作成され、明治6年2月の名草神社への改称の根拠として「悪用」されたことは考えられる。

この「神社取調書」などが、明治4年5月14日の布告 (その内容は「神社の世襲の禁止」と「官・国幣社、府藩県社、郷社、産土社を制定する」というものである。)要するに「祭祀すべき神々及び神社の体系化」へと繋がっていくものと思われ る。
この件に関する資料は、全く入手していないので、断定は避けるが、「明治6年2月:豊岡県は妙見社を名草神社と改称させる。」ということに大筋では繋がっているのではないかと推測 可能であろう。
さらに以上の推測通りとすれば、明治6年頃「名草神社」も「国家の制定する神社体系」の一つに取り込まれる処置を受けたと云えると思わる。
事実、名草神社は「明治6年10月村社に列し」(「名草神社の沿革」その他)、「大正12年12月県社に昇格」(「名草神社の沿革」その他)した と誇らしげに云うので、明治6年に「天皇およびその祖霊」を祭祀する「国家の祭祀」の体系に組み込まれたと見て間違いはないであろう。

☆明治9〜10年:帝釈寺「第二次処置」

帝釈寺についての神仏分離は明治2年11月の「第一次処置」で一応の「決着」をみたものと思われる。
 (さらに、明治5年の「上地」で帝釈寺は決定的打撃を受けることとなる。)
しかし、その後も、山上では、帝釈寺日光院と名草神社は「互立」(並び立つ)していたふしがある。
がしかし、その帝釈寺に、さらに、以下の処置がなされる。

「名草神社の沿革」に明治9年の次の兵庫県通達の記載がある。

      名草神社
石原村鎮座妙見社之儀先官参事田中光儀失錯ニテ曩ニ名草神社帝釈寺互立処分ニ及ビ置候処客年10月25日教部省達之旨有之候ニ付今般更ニ伺ノ上断然帝釈寺号相廃候條仏像仏器之外動不動産悉皆可受取此段相達候事
   明治9年7月8日                  兵庫県権令三吉周亮代理
                                豊岡県権参事 大野右仲 印  

この通達は
1.「名草神社」の名が、おそらく「延喜式神名帳」以来、明治9年にして、初めて文献上に、出現すると云う意味がある。
  「名草神社」の名は「延喜式神名帳」に記載されて以来、絶えてその名を見ず、明治6年に豊岡県によって復活する。
  但し、復活といっても、神社由緒でいう「復古」などではなくて、強引に「付会」され、政策的に帝釈寺を簒奪することによって
  成立したただけのものであることは、今まで述べてきたとおりである。
  即ち、現「名草神社」とは、「縁起式神名帳」にその名のある「名草神社」とは無関係であり、明治維新の国策によって、
  新たに創建された「国策神社」であることを証明するものである。
2.「曩ニ(先の)名草神社と帝釈寺との互立処分」は「先官の失錯」として、再度(「第二次」)の処分が通達される。
  客年(昨年)の10月25日教部省達とは現段階では不詳であるが、
  帝釈寺廃寺と仏像仏器を除き動不動産を悉く受け取るように命令される。
  ついに、帝釈寺は山上をも追い出され、廃寺の処分を受け、ここに、名実ともに、名草神社に簒奪収奪されたこととなる。

なぜ、明治9年の段階で、帝釈寺に対し、改めて再度の「処置」が行われたのであろうか。

この間の事情は不詳であるが、
一般的な傾向として、中央と比べて地方の方が、また急進地域よりはそうでない地域の方が、神仏分離の実行は遅かったと思われる。
また、神仏を判然と区別するのが困難な寺院の場合は、神仏分離の処置の貫徹まで時間がかかかった傾向にある。これは、勿論当然なことで、どのように考えても、「言いがかり」の 理屈で、神仏分離あるいは廃寺を申し付けるわけであるから、抵抗は大きかったものと思われる。
後者の例は大和金峯山寺、三河秋葉寺などのその典型を見ることができる。
  →→神仏分離の諸相」のページを参照 。

おそらく、この時期は、天照を頂点とする神々と伊勢神宮を頂点とする神社のヒエラルキーの確立の時期であり、帝釈寺と神社が「平立」するような事態は、不徹底とされたものと思われ る。
当然「平立」の状態は余りにも国家の威厳を損なうものであったのであろう。
それゆえ、この時期、再度「帝釈寺」廃寺・帝釈寺の収奪の処置がとられたものと思われる。

この間の様子は、
「明治9年7月13日元楯縫神社祠掌であった井上賢次郎(雪江)を名草神社祠掌に任」ずる。
「帝釈寺は名実ともに山上から追い出されることになった。」
「やむなく帝釈寺日光院は寛永年間まであった故地・石原に下り、その地に残っていた帝釈寺坊舎の成就院と合流することにした。」
「石原に下ったのは9月5日であった。この日、九鹿村から奥の小佐谷中は各1戸から1人づつ出役し、午前5時に山上に集合し、妙見七尊体はじめ仏像・仏具・石地蔵・経典などと担ぎ、午前10時には担ぎ終り、大護摩が焚かれた。午後には説教があり、多くの信者が聞き入った」(「但馬史 5」)とされる。

『      但馬国第四大区第一小区石原村
                   名 草 神 社
予テ人民情願之趣モ有之候ニ付帝釈寺号再称聞届成就院ニ合併成就院号ヲ廃候動不動産引渡之儀ハ追而掛官員派出実際看督候間其手順可教置此旨相達候事
   明治10年5月2日                 兵庫県権令森岡昌純代理
                                兵庫県少書記 吉岡本貞 印  』

『      但馬国第四大区第一小区石原村
                   名 草 神 社
「本年5月2日付ヲ以テ元帝釋寺號再稱聞届成就院ヘ合併成就院號ヲ廢候云々相達置候處右ハ帝釋寺ヲ成就院ヘ合併シ同院相立候誤リニ候條其他最前之通可相心得事」
   明治10年7月26日                 兵庫県権令 森岡昌純代 印  』

明治10年には、
上の達(多少理解不能な言い回しがあるが)で見られるように、帝釈寺号再称、成就院への合併などが裁可される。

「第47世弘応上人明治維新の神仏判然、廃仏毀釈の難に際会した。政府は時流に応じて不法にも妙見尊を敢て名草彦命と称し、日光院をそのまま、名草神社たらしめんとした。依って当山はその判然別なるを抗弁せしめた為、明治5年上地処分を命ぜられて妙見山寺有山林全部を官没し、同9年7月8日付教部省の布達により遂に已む無く本尊妙見大菩薩の尊体を初めとし、仏像、経巻、法器、鐘及び楼、蔵書等を護持し、建造物一切を山上に残し名草神社に引渡し終って明治10年5月2日付を以て塔中山麓石原の成就院に合流した。」
「建造物:
1.妙見尊本殿、2.妙見拝殿、3.持仏堂及び庫裏、4.薬師堂本堂(一山総本堂なりし時代は7間四面・現在は享保4年規模を4/1にちtの再建)、5.鐘楼(山上より持ち帰るもの)、6.宝蔵、7.土蔵、8.地蔵堂、9.稲荷堂、など。
寺仏:
妙見大菩薩、薬師如来、十二神将、日天・月天菩薩、弥勒菩薩、虚空蔵菩薩、雨宝童子、訶梨帝母、弁財天、聖観音、不動明王、毘沙門天、阿弥陀如来、弘法大師、地蔵菩薩」(但馬妙見、日光院の概畧」日光院51世森田祐親)

以上、
明治2年:帝釈寺「神仏分離」の処置がなされる。(「第一次処置」)
明治6年:妙見社は名草神社と改称が命令される。(名草神社の国家祭祀への組入れ)
明治9年:土地・建物全てを「神社」に引渡の処置がなされる。帝釈寺は山上を追われる。(「第ニ次処置」)

かくして、妙見山帝釈寺(日光院)は、最終的には国家により、「名草神社」として、簒奪され、現在に至る。

かくして
今現存する妙見三重塔(重文)、「名草神社」本殿・拝殿などは、すべて妙見山帝釈寺であって、「名草神社」などと称される「筋合い」などは一切無いのである。

 

【4-1】 妙見山帝釈寺(日光院)に於ける神仏分離
【4-2】 その1:神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過
【4-3】 その2:神仏分離・廃仏毀釈の思想背景
【4-4】 「但馬名草神社」を巡る「俗説」批判
【4-5】 国家神道への道