【2】「延喜式神名帳」と「但馬名草神社」について
2004/11/08版
お断り:資料不足及び未確認事項もあり、現在は暫定版です。

1.延喜式神名帳の概要

「國史大辭典」、国史大辞典編集委員会編、 第1巻 - 第15巻下、吉川弘文館 , 1979.3-1997.4によると
 延喜5年(905)醍醐天皇の命により、藤原時平を長とする12名の編集委員で、編纂を開始したが、編纂作業は長期に渡り、完成奏上は延長5年(927)で、施行は康保4年(967)とされる。
全50巻。神祇式が巻1〜巻10で、巻9・10が神名帳といわれる。
近世に入ってから、主として国学者の間で、・・個別研究が行われ、祝詞式(巻8)や神名帳(巻9・10)は・・高い地位を占めた。
なかんずく神名帳は、それだけを抜き出した写本も数多く作成され、中世以降、唯一神道の興隆とともに、巻9・10は「延喜式神名帳」と呼ばれ、・・・そこに記載された神社は式内社と 云われるようになった。
延喜式の古写本としては、金剛寺本<大治2年1127・4巻>、九条家本<平安末か鎌倉初頭・27巻>、一条家本<平安末か鎌倉初頭・5巻>、三条西家本<鎌倉・1巻>、一条家別巻<鎌倉・50巻> などがあり、
神名帳だけの古写本としては、中院家本(武田本)、卜部兼永本(2種)、卜部兼右本などがある。
校訂本には、慶安本(慶安元年・中原職忠→林羅山)、明暦本(明暦3年・慶安本復刻)、享保本(享保8年)、雲州本(文政11年。塙保己一→藍川慎)がある。
活字本として、国史体系本(明治33年)、新註皇学叢書本(昭和2年)、日本古典全集本(昭和2-4年)、皇典講究所版(昭和4-7年)、新訂増補国史大系本(昭和12年)などがある。

2.延喜式写本および延喜式神名帳写本

整理すると、以下のようになると思います。
 前提:「延喜式」完成上奏上は延長5年(927)で原本は伝わらない。神名帳は巻9と10で、巻10に但馬国の掲載がある。
  ○印は「延喜式」写本、●印は「神名帳注釈」の類・・・但し著名なもののみを掲載。
金剛寺本 大治2年(1127) 巻9、12、14、16のみ現存、天野山蔵
九条家本 平安末か鎌倉初頭 巻9、10を含む27巻現存、東京国立博物館蔵
影印本(大正11年から昭和8年稲荷大社刊行)
一条家本 平安末か鎌倉初頭 巻1〜5のみ知られる、(原本は空襲で焼失)
影写版現存
三条西家本 鎌倉期の写本と推定 巻50のみ現存、個人蔵
中院家本(武田本) 建長3年(1251)・中院通雅 巻10の大部残存(原本焼失か)、
神宮皇学館影印本版出版
吉田家本 鎌倉期の写本か。
文明13年(1481)・卜部兼倶修理
巻9、10のみの巻子本・天理図書館蔵
延喜式神名帳頭註 文亀3年(1503) 卜部兼倶
卜部(吉田)兼永本 大永3年(1523) 巻8のみ残存、国学院大学図書館蔵
卜部(吉田)兼永本 天文元年・2年(1532・33) 巻9、10のみの冊子本、所在不明
神宮皇学館の撮影写真帳(神宮文庫蔵)
天正16年(1588)の写本は天理図書館蔵
神名帳考証 寛文年中(1661-73) 度会(出口)延経
内閣文庫文庫本 慶長写本と云われる。 巻13、18、19、24.41、50を欠く45冊
梵瞬本 慶長写本と云われる。 巻9、10、13、24を欠く46冊、天理図書館蔵
尾張本 . 巻13のみ
塙本 江戸期初期 50巻、東京大学資料編纂所蔵
土御門本 江戸期初期 50巻、国立歴史民俗博物館蔵
井上本 江戸期初期 巻13欠、無窮会図書館神習文庫蔵
貞享本 江戸初期 50冊+1冊、宮内庁書陵部蔵
藤波家本 書写年代不明、安永10年校合 巻10欠、宮内庁書陵部蔵
九条家冊子本 近世初頭 34巻、個人蔵
正保本(和装刊行本) 正保4年(1647) 巻13欠のまま刊行
慶安本(和装刊行本) 慶安元年(1648) 50巻
明暦本(和装刊行本) 明暦3年(1657) 慶安本復刻
享保本(和装刊行本) 享保8年(1723) 明暦版を埋木改版、50巻
神名帳考証 文化10年(1813) 伴信友
雲州本(和装刊行本) 文政11年(1828) 校訂:松江藩主松平斉貴
但馬圀式社考 成立年不詳 著者不詳
神祇志料 明治4年 栗田寛、17巻
特迸神名牒 明治9年脱稿,大正14年刊 栗田寛が編纂に関わったとされる。
国史体系本 明治33年(洋装刊行本) 享保本底本
新註皇学叢書本 昭和2年(洋装刊行本) 享保本底本
日本古典全集本 昭和2-4年(洋装刊行本) 享保本底本
皇典講究所版 昭和4-7年(洋装刊行本) 享保本底本
新訂増補国史大系本 昭和12年(洋装刊行本) 享保本底本
神道大系本 平成3年(洋装刊行本) 享保本底本

なお、「延喜式神名帳」の他に「国内神名帳」と言われる「国司が祭祀する国別の神名帳」も国別に作成されたとされる。
現在では66ケ国中22ケ国分が存在する(復元されている)という。
また「勧請神名帳」(寺社神名帳)も多く伝えられる。これは国内神名帳を改竄したもので、観音堂・薬師堂・地蔵堂・不動堂あるいは村の氏神社などで春迎え行事(修正会、修ニ会など)で勧請ないし奉唱するために作成された神名帳をいう。南都7大寺などの著名なものもあり、現に奉唱に使われている場合もあるという。
(「国内神名帳の研究 論考編」三橋健、おうふう、平成11年、及び「国内神名帳の研究 資料編」三橋健、おうふう、平成11年)
上記及び諸本によると、「但馬国内神名帳」また関係する「勧請神名帳」は全く伝えられていないようです。
従って、但馬国についての古代の神社の存在証明は「延喜式神名帳」に頼るしかないと思われます。

3.「延喜式神名帳」もしくは「延喜式神名帳」研究に見る「名草神社」

「延喜式」巻9及び10が「神名帳」と言われ、3132座、2861社の明細が列挙されている。
ただし国別郡別の配列で社名と大小座の区部だけの記載であり、祭神・由緒(勿論郡以下の郷などの鎮座地)などは一切記載がない。

「延喜式神名帳」に見る名草神社

1)現存最古の写本とされる「金剛寺本」は巻10が伝わらず、
従って但馬国養父郡に名草神社の記載があるかどうかは確認できません。

2)「九条家本」(平安末もしくは鎌倉初頭と推定)

以下、「延喜式神名帳の研究」西牟田崇生、国書刊行会、1996.8
より、但馬国の部分を転載します。(→画像クリックで拡大表示

なお神社などの頭部の数字は巻10の通し行数で、上中下は各行の上段中断下段を表す。

残念ながら、但馬国養父郡の496、497など数行が欠落しています。
(おそらく破損、虫食いと思われます。あるいは転載した図書では「カナ」の表示がある神社だけの
掲載に限定しているため、名草神社には「カナ」が振られていないため、掲載されていないことも考えられます。
いずれにしろ、私は原本は勿論、影印本も見てはいませんので、判断できません。)

そのため、私の調査レベルでは、九条本での名草神社の名は確認出来ません。

3)「国史大系本」明治33年、黒板勝美, 國史大系編修會編

享保本を底本とする。
但馬国:131座、養父郡30座の27座目として
名草(ナクサノ)神社
   ※特に編者の頭注などはありません。

4)「日本古典全集本」昭和2-4年:覆刻日本古典全集, 日本古典全集刊行会 昭和2-4年刊の複製より

享保本を底本とする。
但馬国:131座、養父郡30座の27座目として
名草(ナクサノ)神社
   ※特に編者の頭注などはありません。

 名草神社については、以上の1行の記載があります。

5)「三光大日本国中鎮座神霊(3132座)天神地祇八百万神遥拝所」石清水公文所

「延喜式神名帳の研究」西牟田崇生、国書刊行会、1996.8 より転載

これは一軸で3132座を一覧できる形式の珍しいもののようです。

左図がその全体です。(→画像クリックで拡大表示

大きさは、120.6×58.1cmの大きさで、版木5枚を使用。
また「式外社」である石清水八幡宮の発行というのも面白いものとされる。
宮廷の大きな信仰を集めながら、「式外社」である理由は、八幡宮は神社というより、護国寺という寺院であるとの認識であったようです。

なお図中の○数字は著者が入れたものです。

次の図は、上の版画の但馬国の部分です。(→画像クリックで拡大表示
朝来郡→養父郡と続き、養父郡の終り部分に「名草神社」があります。

以上、近世の刊行本には名草神社の記載が確認はできます。
現存の古写本では、欠巻や部分破損?などで確認は出来ませんが、名草神社だけを近世の写本で「捏造」する理由などは
まず無いと思われますので、「延喜式神名帳」にその名の記載はあったのは確実と思われます。

「延喜式神名帳」研究(考証)に見る名草神社

「神名帳の注釈の類」は、多少なりとも、祭神や由緒の考証結果が記載される。
明治維新前後から、鎮座地にも触れるようになる傾向にあると思われます。

1)「延喜式神名帳頭註」卜部兼倶、文亀3年(1503)

この神名帳の考証はもっとも早い段階での、考証と言われる。
「頭註」とは上段にある書入れを意味するが、卜部兼倶が卜部家に相伝する神名帳の「頭註」を摘録したものであろうと云われる。
しかし、残念ながら、但馬国養父郡では、以下の註だけが見られ、名草神社は註の対象にはなっていません

養父郡
 水谷。 名神祭所不載之。
 屋岡。 諏訪同。

(要するに、名草神社について窺い知ることは出来ません。)

2)「神名帳考証」寛文年中(1661-73)、度会(出口)延経:「日本庶民生活史料集成 26巻」三一書房、1968より

延喜式巻第9
 但馬国:131座、養父郡30座
」の27座目として
 「○名草(ナクサノ)神社
  大名草彦命 旧事紀云、建斗米命子建田背命、母中名草姫、但馬国造等祖、

名草神社の祭神が示されれています。但し、いかなる根拠で祭神が以上のように考証されたのかは全く分かりません。
いずれにしろ、
名草神社の祭神が明示されたのは、この度会延経の「神名帳考証」寛文年中(1661-73)あたりが初出と思われます。

ここで需要なことは、名草神社の祭神についての典拠は「旧事紀」(先代旧事本紀)であり、この典拠については大きな疑念を含みます。
この点については、後述4.結論の2)で補足します。

3)「神名帳考証」伴信友、文化10年(1813):
            「神祇大系 延喜式神名帳註釈」岩本徳一校注、神道大系編纂会, 1986.3・・・伴信友自筆稿底本

この考証では、多くの地誌類が参照されているようですが、但馬国については、地誌ではなく、
「衣川長秋」なる人物からの「聞き取り」により考証したとされる。

但馬国:131座、養父郡30座」の27座目として
  「名草(ナクサ)神社
   旧事紀云、建斗米命子建田背命、母中名草姫、但馬国造等祖、○姓氏録云、大名草彦命、

    ※特に伴信友の頭注などはありません。

典拠として「姓氏録」が追加される。
この考証は伴信友の情熱を傾けた大著とされるが、名草神社については、所詮上記のこと以上には考証できなかったようです。
もっとも3000に近い神社を当時の情報環境で「考証」するなど、大変なことであり、伴信友を貶すつもりは毛頭ありません。

衣川長秋(明和3年(1766)−文政6年(1823):
 長秋は、伊勢の人で、本居宣長について国学を修めた。国学振興のため、国本道男(八頭郡河原町佐貫・都波只知上神社社家)に請われて鳥取に来り、藩主斉邦の命により国学を講じた。また歌道をも伝授した。
著作として、「田蓑の日記」(文政5年、鳥取藩内の紀行文)、「やつれみのの日記」(文政6年)、遺稿歌集「百人一首峰梯」(文化12年刊)などがある。
要するに国学者で当時の文化人で、山陰道の地誌に明るかったと思われます。

4)「但馬圀式社考」:
      「神祇全書 第5輯」佐伯有義 ほか編、神宮奉斎会, 1906-1908 所収

「神祇全書 第5輯」の凡例には「但馬圀式社考」は著者不詳、本輯は朝来・養父・出石3郡のみで、気多・城崎・美含・二方・七美5郡を欠く。元々3郡のみなのかあるいは他の5郡を欠損したのかは不明とする。
また当書の由来は
「本書は国幣中社出石神社々務所に委嘱し、同社社務所詰島村賛氏の謄写して贈られしものなり」とする。

「神祇全書 第5輯」から転載。
 →画像クリックで拡大表示します。
ページ左の上段の最終行から下段に名草神社記事があります。

 

以下に名草神社の項の全文を掲載します。

名草神社
  考証云、大名草彦命 旧事紀云、建斗米命子建田背命、母中名草姫、但馬国造等祖、
  旧事紀云、饒速日命五世孫建斗米命、本国造智名曽之女名草姫為妻、生六男一女、其一名草彦神也、
  又云、名草彦神者、神皇産霊命之五世孫天道根之後、
  一書云、養父名草鎮座、今不詳其地、或云、妙見大権現、小左庄火畑坐、
  太田文云、八幡亀別宮領十二丁六反云々、

ここで、初めて具体的な鎮座地の言及があります。
残念ながら「但馬圀式社考」は著作者不詳で、出所も若干怪しく、また成立時期も不詳ですが、
明治維新前後のものと思われます。
その根拠は、この「考証」が以前の考証内容を引継ぎ、鎮座地の比定を意図したものと思われるからです。
(しかし名草神社については、結局は出来なかったようです。)
以上の意味で幕末から明治初頭の雰囲気をよく表していると思われます。

さて、この記事の内容ですが、その当時の「名草神社」の実体をよく表していると思います。

まず、「考証云」(神名帳考証か)及び「旧事紀云」として、従来説(近世の公式見解)をそのまま引継ぎをしています。
従来説(公式見解)は無視する訳にはいかないということと思われます。
それはそれとして、後半に新しく、以下のような記事が追加されています。
「一書」とはおそらく「内緒の話ですが」「公言は憚られますが」という意味合いと思われますが、
要するに、正直に云えば、「養父郡名草に鎮座」(と解される。)とされるが、
「今、其の鎮座地が詳らかでは無い」ということを云っています。
 当然のことであろう。
名草神社は中世以降その名を知らず、中世以降廃絶し、所在不明であったと解すのが自然と思われます。
続けて、
「或云」とはこれも「内緒の話ですが」などの意味合いで、妙見大権現が小左庄火畑坐(小佐・日畑)に鎮座する・・・
とあり、この文面だけでは、名草神社=火畑の妙見大権現とは断定はしていませんが、
言外には妙見大権現を名草神社に「付会」(こじ付け)しているものと思われます。
あるいは、名草神社など影も形も無かったので、さすがに良心が咎めたのか、あからさまに名草神社は妙見社などとは
断定はせず、「同じものですよ」と仄めかす程度にしたのか、あるいは「付会」するから、読者は察しべしという形に
したものと思われます。

なお、この書の「養父名草鎮座」とは他の神社での用例から「養父郡名草」という固有の地名に鎮座と思われます。
だとすると、養父郡に「名草」という地名(大字、字、村、郷、通称など)があったのか否かを考証する必要があろうかと
思われます。
私は養父郡に「名草」という地名(大字、字、村、郷、通称など)があったのか否かは分かりません。
しかし調べた範囲では「名草」という地名は発見できませんでした。

いずれにしろ、中世以降、ましてや明治維新前後もしくは近世末期には、
名草神社の鎮座地など全く不明であったのが実態であったと思われます。
名草神社は、延喜式神名帳編纂の頃は祭祀されていたが、中世以降全く廃絶したと解すのが自然であろうと思われます。

5)「神祇志料」17巻、栗田寛、明治4年、
     (「神祇志料」栗田寛著、栗田勤校訂、皇朝秘笈刊行会, 1927 所収)

上記から、養父郡の部分を転載。
→画僧クリックで拡大表示
名草神社は後段にあります。

上記から、名草神社の項を掲載します。

○養父郡三十座
 名草(ナクサノ)神社、今日畑村妙見山にあり。寛文注進但馬諸社帳、豊岡県考案記、神社道志流倍

祭神、由緒などの記載もせず、いきなり、日畑村妙見山にあり と断定する。
根拠として下に続けて3書を列記する。
いずれも不詳ですが、「寛文注進但馬諸社帳」とは文言から判断すると「寛文」頃の成立と思われますが、
そうだとすると、寛文年中頃にも、名草神社を妙見社に付会する見解があったとも思われます。
「豊岡県考案記」は表題にある豊岡県から類推すれば、明治維新の神仏分離で付会した捏造を追認したものだけのものと思われ、論外であろう。
「神社道志流倍」は年代も全く推測できませんが、要するに「神祇志料」の同類と思うのは見当違いであろうか?。

栗田寛(天保6年<1835>〜明治32年<1899>):
常陸水戸に生まれ、安政5年彰考館に出仕(史書の編纂にあたる)し、明治6年上京、大教院編輯課に出仕、ついで教部省考証掛となり、「特選神名牒」の編纂に従事。
のち、水戸に戻り、「大日本史志料」の編纂を続けた。「大日本史」編纂事業の掉尾をかざったとされる。

6)「特迸神名牒」栗田寛が編纂に関わったとされる。(明治9年脱稿,大正14年刊)

「名草神社の沿革」名草神社宮司井上憲一、昭和31年 → 左記については 「名草神社」の創建(出自)について を参照。
 (「但馬妙見・観光八鹿と其の附近」昭和31年刊 所収)に以下の記述があります。<P.33>

特撰神名牒 名草神社 祭神 名草彦命」とあり、続けて以下の文章があります。
以下の文章はおそらく「特撰神名牒」からの転載と思われます。
(「特撰神名牒」の原文を見てはいませんので、間違いかも分かりませんが、まず「特撰神名牒」からの転載と思われます。)
曰く
今按新撰姓氏録名草彦命は紀直の祖なるを此地に祭る事疑わしきが如くなれど舊事紀火明神五世孫建斗米命の妻は紀伊圀造智名曽中名草姫とあれば其由緒によりて祭れるものと聞えたり。
 所在 今按本社妙見山にありて妙見社と云を以て名草神社にあらずとの疑もあれど妙見山古名草山と稱し、寛文註進但馬諸社帳また但馬式社考にも火畑村名草神社と記して外に類社もあらざれば妙見社の本社は火畑村なるべし、されど今名草山の稱現存するによりて石原村(石原村は日畑村を割て置きし村なりと云う)と定めて記せり、猶よく考うべし。

前段の祭神については、要するに「適当に」「付会」したものという以外に云いようがなく、論外であろう。
後段の「所在」については、妙見山は名草神社にあらずとの疑もあるとの前提付きで、妙見山は古には名草山と称しあるいは今名草山の称が現存する故(一体どちらなのか良く分からないが)に、また妙見宮以外に類社もない故に、日光院 妙見社が名草神社であろうと云う。
しかしながら、
「猶よく考えて見れば」、帝釈寺妙現宮本尊妙見大菩薩は様々に述べられている諸神ましてや旧事紀で云う諸神と一体何の関係があるのであろうか。何もない。
妙見山を今もあるいは古は名草山と云うのかあるいは云ったのかは寡聞にして知らないが、妙見宮以外に類社もないということはどういう意味なのか。
妙見宮と名草神社とはその祭祀する本尊と祭神(実際は何が祭神なのかは凡人の私には全く理解できませんが)とが全く無関係であるのは勿論、妙見社と名草神社を関係づける伝承も古文書類もなく、さらには、少なくとも中世以降の名草神社の存在を裏づけるものは皆無であ るのが実態です。
であるならば、名草神社は少なくとも中世以降は廃絶したと考えるのが自然であることは、 縷々証明してきたところです。
 「類社もない」と云う意味は、名草神社は完全に廃絶し、茫としてその存在が忘れ去られていたという意味であろう。
はからずも、「 特撰神名牒」は本音を語っていると評価すべきであろう。
なお念のため申し添えますが、寛文註進但馬諸社帳は調査するも不明、また但馬式社考は古文書ではなくて、「特撰神名牒」と同じ穴の狢というべき同類の「考証」であることは論ずるまでもありません。

※「式内社調査報告 第1巻」の「序並びに解題」によると、「特選神名牒」は以下のように評価されている。
 「特選神名牒」は明治初年、教部省(教部省は明治5年設置のため、明治初年とは明治初頭の意であろう)において編纂され、大正14年内務省によって刊行される。
この書は明治政府が府県に令して提出せしめた書上げに基いて、当代の学者栗田寛、小杉温邨、小中村清矩、井上頼圀、物集高見、田中頼庸等が取捨選択を加えたものである。従ってその書上げには、当時の政府の廃仏毀釈・神仏分離の方針に迎合して行われた虚偽の介在することが予測され、悉くは信ずることのできないものである。
 廃仏毀釈風の色彩の濃厚なものは「特選神名牒」である。同書には、境内に三重の宝塔があっても、拝殿に護摩壇があっても、そんなものは一切なかったように記されている。「特選神名牒」の監修であった栗太寛は大の佛教嫌いであって、その著「神祇志料」では、神名帳が常陸大洗神社を「大洗磯前薬師菩薩神社」としたことを慨して、「かかる穢らしきこと」といっている。このように自己の感情の命ずるままに、有るものを無いと主張し、無いものを有るとするのは、学者の態度ではないと思う。 」
・・・・・以上は未だに「皇学」を奉じる大家と思われる人物の批判であり、よほど栗田なるものは「偏向」していたのであろうと思われる。

4.結  論

多少資料不足の感はありますが、私は単に民間会社に勤務するものであり、短時間で資料を入手・分析できる立場ではないということで、お許し頂くことにして、現在入手できた資料の範囲での結論です。

1)「名草神社」は「延喜式人名帳」に記載があったか否かについて

現在伝えられている古い写本では欠巻、破損などがあり、残念ながら確認は出来ないようです。
「式内社調査報告 第19巻 但馬国、因幡国 伯耆国」の「名草神社の項」では
「社名:延喜式吉田本に「ナクサ」と訓んでいる。」との記載があり、
これが真とすれば、「吉田本」とは、鎌倉期の写本とされる「吉田家本」か、あるいは、天文元年・2年(1532・33)の卜部(吉田)兼永本・写本のことと思われ、おそらくどちらか(両方とも)の写本には、「名草神社」の記載があるものと思われます。
それ以降の写本にも名草神社の社名はあるようです。
特にそれらの写本で名草神社の名を捏造する理由とかは無いと思われ、だとすると、
まず間違いなく「延喜式神名帳」には名草神社の記載はあったものと思われます。

しかし、ここで重要なことは、延喜式神名帳に記載があることで証明できることは、
延喜式の編纂の頃には但馬養父郡に名草神社が祭祀されていたということだけです。
延喜式神名帳には、祭神とか具体的な鎮座地の記載があるわけではなく、ましてや、当たり前の話ですが、
中世・近世を通じて存在し続けたことを証明するものでは無いということです。

常識的に考えて、古代の構造物・建築物はそれを構築あるいは造作した権力が没落すると、例えば信仰対象として次の権力者に保護されるとか、庶民の信仰対象とかにならない限り、経済的基盤を失い、崩壊し急速に消滅していくのが世の常と判断すべきであろう。
あの巨大な構築物である天皇陵 にして、朝廷は存続し続けたのにも関わらず、すでに平安期には天皇陵の取り違えが起っていたようですし、
「古代の[天皇陵]は中世にはほとんど全て忘れ去られ、祀りも絶えました。墓が墓でなくなれば、そこは元の山野に戻ります。やがて開墾され、畑地や放牧地になり、また、しばしば城郭にも転用されました。」の状態であったようです。
 「天皇陵を発掘せよ」石部正志・藤田友治・古田武彦、三一書房、1993 より

畿内に集中する天皇陵にしてこの状態で、延喜式神名帳の記載神社が明治維新まで全て無事に存続する前提に立つような思考は一体どうしたことだろうか。

古代寺院についても同様です、
飛鳥・白鳳・奈良期の創建とされる寺院址は、礎石・基壇などを残すあるいは瓦類の出土を見るなどで知られているものは約750箇所以上といわれています。 つまり分かってしるだけでも、それだけあるということです。
逆に、古代の寺院が今日まで法灯を伝えているのははっきりとは分かりませんが(寺伝の通りかどうかは証明できない寺院も多い)おそらく稀なケースであろうと思われます。

遺跡・遺物を残す寺院址は、寺名はおろか寺院があったとの伝承すらないケースがほとんどで、それゆえ、それらの遺跡は存在する現在の地名を採って「○○廃寺」と呼ばれています。
地方の古代勢力が建てたと思われる多くの古代寺院は、その古代勢力の没落とともに、その多くが簡単に腐朽・廃絶していったと思われます。

古代神社は古代寺院とは違い、古代勢力の没落後も、その全てが存続し続けたであろうなどの合理的な理由を思いつくことが出来ません。
古代神社は天皇陵とは違い、その全てが忘れ去られることは無かったであろうなどの合理的な理由も思いつくことは出来ません。
その上、名草神社については、中世以降明治維新まで、存在を証明する古文書などの存在は一切知られていません。
このことは何を意味するのか。
このことは、名草神社は中世以降存在しなかった、つまり「名草神社は中世より以前に、廃滅したのであろう」と考えるのが自然と思われます。

2)「名草神社」と「延喜式神名帳」注釈(研究)との関係について

入手できた資料の範囲では、中世・近世の「延喜式神名帳」の注釈(研究)は、文献上の考証が主眼であったと思われます。
(神社の現存確認とか鎮座地などの現地での確認を行うといった実地での実証では無かったと思われます。)
前述の「「延喜式神名帳」研究(考証)に見る名草神社」の項で示したように、文献上の考証で、名草神社の祭神が考証されていますが、ご覧のように、その根拠は「旧事紀」あるいは「姓氏録」であったようです。

私は「旧事紀」「姓氏録」の原文を手にしたことがありませんので、名草神社に祭神が結びつけられて記載されているのか、祭神のみの記載があり、それを注釈者が付会したのかは分かりません。
しかし、「旧事紀」「姓氏録」の漏れ聞く断片からは、おそらく後者であろうと推測してまず間違いは無いと思われます。
もし名草神社と祭神とを結びつける記事がないとすると、
延喜式神名帳の「名草神社」の「名草」から、単純に「大名草彦命」を「連想」し「付会」しただけのことではとも思われます。
もしくはその逆で、「旧事紀」「姓氏録」の「大名草彦命」から、これまた単純に延喜式神名帳の「名草神社」を連想し、「付会」しただけのことではとも思われます。

ところで、ここでいう「旧事紀」とは「先代旧事本紀」を指す思われますが、そうだとすれば、また厄介な問があります。

 「日本の偽書」藤原明、文春文庫、平成16年 では以下のように述べられています。
「旧事紀は聖徳太子勅撰とされ、承平6年(936)日本紀講の席で矢田部公望によって突如持ち出された代物である。
その後、本書は[日本書記]の原典ともいうべき地位を獲得した。
例えば、伊勢神道の度会氏においては、史書としてだけではなく神書として扱われ、また吉田神道の卜部兼倶は記紀と合わせて三部の神書と云い、その後も吉田神道では重用された。
しかし江戸期になると、水戸光圀に疑われたのを始まりに、考証学の発展により、江戸中期にはほぼ偽書として退けられた。
しかしながら、撰者や時代を偽わったという意味では偽書であっても、内容の「ある部分」は「旧事」を伝える真実があるなどの理屈で、その後も幕末・明治前後まで一部の神道家には擁護され続けられてきた影響力の大きい偽書であった。
ところで、この偽書の造作時期ですが、それは平安初期でおそらく偽作者は世に問うた矢田部公望本人の可能性が高い。」と。

 以上のようにこの偽書が度会氏を始め中世の神道家に重用されたのが事実でるとすれば、上記「「延喜式神名帳」研究(考証)に見る名草神社」での渡会氏らの注釈(研究)で、「旧事紀」にその根拠を求めるのは当然の帰結であったとも思われれます。
なお
「別冊歴史読本 古史古伝と偽書の謎」所収の「先代旧事本紀の成立」斉藤英喜、新人物往来社、2004
においても、偽書「旧事紀」についての解説があります。

以上、名草神社は中世以降、実証研究でその存在が証明されたことは無いということと思います。
確かに、中世には祭神の考証がなされましたが、 その考証は神社の鎮座地やましてやその当時の様子などを考証したものでは無く、中世に名草神社が存在した証明にはまったくならないと思われます。
(名草神社の名称が記載された、<例えば日光院文書、「寛文御造営日記などのような>信頼のある古文書などがあれば、話は別です。)
また、祭神の根拠の一つは「偽書」である「旧事紀」である訳ですが、それより以前の問題して、
その「旧事紀」に「名草神社の祭神は大名草彦以下諸神・云々」の記載があれば、それはそれとして「一応は」立派な祭神の根拠になりますが、おそらくそんなものは無いと思われ、
では、無いとすると、種々様々な諸神から、いかなる根拠で、名草神社にその諸神を結びつけたのか、全く窺い知ることが出来ず、その意味で、これらの考証は「適当」「恣意的」と疑われても仕方のない考証と思われます。

3)神仏分離前後の「名草神社」と「延喜式神名帳」との付会(こじ付け)

明治維新前後には、突然何の証明も無く、名草神社は妙見社に付会(こじ付け)される。
「但馬圀神社考」では断定は避けて、仄めかすような記述ですが、「神祇志料」では断定をしている。
「特撰神名牒」では、疑念を抱きつつも、「但馬圀神社考」などに準拠する形を装い、強引に妙見社に付会をしている。
なぜ強引に付会しなければならなかったのか。
 延喜式神名帳に記載されていた事ははぼ確実と思われる名草神社は、江戸末期の祭政一致を目指す国学者や神道家によって、その探索(存在確認とその地の比定)が行われたが、おそらく中世以降廃絶し、その故地の伝承すら失っていたため、比定することは困難であった。
寛文註進但馬諸社帳また但馬式社考にも火畑村名草神社と記して外に類社もあらざれば妙見社の本社は火畑村なるべし」「特迸神名牒」、という訳で、
石原山で信仰を集めていた、妙見社しか名草神社の「適当な」比定地がなく、妙見社に付会した。
おおよそは、以上のような構図と推測されます。

妙見社に名草神社に関する伝承があったか。
確かな資料に名草神社の鎮座地に関する明示とか、伝承があったか。
 否であろう。
名草神社の祭神は何なのか。
 不明であろう。(「思いつき程度」の「適当」な「付会」としか思えない。)
一歩譲って、祭神が大名草彦命としても、妙見社において名草彦命が祭神とされていたのか。
妙見社本尊妙見大菩薩と例えば大名草彦命とは如何なる関係があるのか。
 一切が否であろう。
そもそも、名草神社は中世までには、すでに廃絶していたと解すのが自然であることは前述の通りです。

ではなぜ「名草神社」は「妙見社」などの付会が行われたのであろうか。
確証はないが、その間の事情はおよそ以下のように推測されます。

江戸中期後期から国学や唯一神道が隆盛し、それらは「尊王」を標榜し、その思想が
明治維新直後の「祭政一致の天皇親政」「律令の御世への復古」へと流れて行くという時代背景があります。
 この「尊王」「祭政一致」「王政復古」の流れの過程で、国学者や神道家、例えば松下見林、蒲生君平、谷義臣らの「勤皇家」による、正気とは思えない「山陵」の探索が行われた。
天皇の実在とか不実在とかには関係なく、「天皇家の尊厳」のためには、何が何でも「山陵」を探し出し、「修陵」しなければならなかった。
 例えば
神武天皇の「陵」とは一体何だろう。
神武天皇の実在・非実在は別にして、彼等にとっては実在説に立つ訳ですから、その尊敬して止まない、最も重要な初代天皇陵が幕末には所在不明であったこと自体が信じられないことですが、ともかく、神武天皇の「山陵」は「探し出され」、山陵としての「威容」が整えられた。
しかし、その探索・制定根拠の杜撰さ・適当さは多くの学者が指摘するとおりです。

 同じことが、延喜式の記載神社についても、行われたと推測される。
「律令国家」つまり「祭政一致」の「王政復古」としての形を整える為、何が何でも(存在しているという前提で)とにかく、
「延喜式内社」は、どこかに比定しなければならなかった。
その具体的施策として、慶応4年に神仏判然令が布達され、神祇官(及びその取巻き)が神仏分離を主導した。
成立当初の明治の復古王政にとっては、まさにその誕生理念に関わる重大問題であった。
それゆえ、どのような手段であってもどのようなこじ付けであっても、神仏の分離は強行された。
かくして、日本の各地で多くの文化と文化財の破壊が行われた。
かくして、日光院妙見社では、上記の「神祇志料」17巻、栗田寛、明治4年、に見られるように
延喜式神名帳に記載されていたであろうと推定される以外には、歴史上にその名を見ない名草神社を突然出現させた。
名草神社の復古とは以上の幕末の国学者もしくは神道家の付会(こじ付け)以外のないものでもないと思われます。

勿論、神武天皇陵探索という国家の根底に関わる問題と失礼ながら一地方の一神社の探索とは同一ではないとの批判があるかもわかりませんが、実は根は同じで、
名草神社の比定=復古にも、同じ精神(国学・唯一神道・尊王・祭政一致・王政復古・・・)があったものと思われます。